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精神分析

雨の朝

木曜日。小雨。小さい傘で平気そう。

今週もあっという間に過ぎていく。幸せなことだとは思う、が、とあれこれ考える。そのなかで、隙間時間という言葉は私の仕事には正しくないなと思った。セッションと次のセッションの間の10分も隙間というよりつなぎだ。関連してプロセスという言葉ももっと限定的に精神分析的プロセスとして使わないとなと思った。たとえばスキマ時間にいれるアルバイトもだいぶ当たり前になっているようだけどどんな労働形態をなんのために選ぶかは目の前よりはもう少し先を見据えたうえで、現在の行動可能性を正確にアセスメントして選択しないと安易に搾取されたりイデオロギーの歯車になったりするのではないのかな。そこでの契約ってなんだろう。課せられる責任ってなんだろう。

精神分析には「抵抗」という概念があって、それは自分の心の作業で、自分の部分対部分の話でもある。分析家との間に生じることは心の中の歴史ですでに生じたことでもある、と一応考えるのが精神分析における転移の考え方だろう。抵抗は異物に対する受け入れがたさでもあるが、自分の歴史認識を改めなくてはいけないという予感に呼応する身振りかもしれない。だったらみない、とりあえず今がよければ、と思考停止するあり方もできるが、かかわりはどうするか。それは自由とよべるのか。

いろんなことを考える。だって毎日ニュースにうんざり。それでも目を閉じず、耳をふさがず、できるだろうか。ひとりではなく。がんばろう。

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スペインの精神分析家のポッドキャストをきいたり。

涼しい。鳩が同じリズムでないて、とまって、を繰り返している。

2026年5月4日に配信されたIPA Podcast Talks On Psychoanalysisを聞いた。このポッドキャストは補足用のテキストがあってご本人がそれを読み上げてくれるのがいい。声が持つ情報って多い。

この回はスペインのマドリードで開業しているマドリード精神分析協会(APM)の訓練分析家、Dr.アリエル・リベルマン(Ariel Liberman)のお話。題はPsychic change and enactment:some reflections。

リベルマンはAPMでさまざまな要職を歴任。複数の論文を執筆しているほか、2冊の著書、“An Introduction to the Work of D.W. Winnicott”(2011)および “Conversations on Psychoanalysis with Stephen A. Mitchell”(2022)を出版とのこと。

この論文はWinnicott (1954)とWilly Baranger(1979)と、なんとBill Evans(大好き)の引用から始まっていてOgdenの引用も多いというだけでもいい。フリーで読めるし聴けるからぜひ。

後半のビル・エヴァンスの引用に戻るところから少し訳しておく。

“「クラシック音楽において、ミスはミスである。しかしジャズにおいて、ミスは、その後に続くもの(事後的/a posteriori)によって正当化され得るし、実際に正当化されなければならない」

ビル・エヴァンスは、私が伝えようとしたことの精神を要約しています。つまり、「技術的ミス」がいかに文脈と理解に依存し、それが単なるclosureではなくopeningになりうるかということです。スコア(楽譜)への参照がほぼ絶対的でありミスが絶対的なものであるクラシックの世界とは対照的に、ジャズのメタファーを借りれば、演奏されているハーモニーとその変容の可能性を絶えず理解し続けることが、一見ミスとされるものの中に潜在的な意味を回復させ、あるいはエヴァンスが言うように強制し、それを許容するのです。ミスが音楽テーマの継続の中でreharmonizeされ、回復され、前例のない可能性を切り拓く——つまり音楽表現の糧となるならば、それはもはやミスとして固定されることはありません。”

論文と関係ないがフロイトの著作が全集として最初に訳されたのがスペインだそう。翻訳者はスペインのドイツ文学研究者のLuis López-Ballesteros。フロイトからの手紙はFreud, S. (1923) Letter to Señtor Luis Lopez-Ballesteros Y De Torres. The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud 19:289/RSE 19, Page 295

フロイトはこのルイス・ロペス=バジェステロス・イ・デ・トーレス氏への手紙で、『ドン・キホーテ』を原文で読みたいという願いから、独学で美しいカスティーリャ語(スペイン語)を学んだと書いている。フロイトの文学に対する情熱もすごい。

そしてルイス・ロペス=バジェステロスが「医師でも精神科医でもないにもかかわらず、これほど複雑で、ときには難解ですらある主題について、これほど完全かつ正確な理解」をしたことに驚きを見せている。

精神分析はのちにスペイン、そしてアルゼンチンをはじめとするラテンアメリカ世界へ深く根を下ろしていったわけだけど、ルイス・ロペス=バジェステロスによる翻訳はその出発点となったのだろう。

まだ鳩が同じ距離で同じリズムでないている。よい一日になりますように。

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言葉以前。

深夜、窓を開けていたら近所から大きな話し声や笑い声が聞こえた。夜に窓をあける季節。風はあまり入ってこなかったけど閉める気にもならなかった。扇風機の音を近くにききながらコピペしたままの文章を眺めている間に深夜はもっと深夜になっていた。

現代の精神分析は主体を前提とできない症例が多い。カウチから言葉ではなく、身体を、声を聴く仕事。そもそもフロイトはそれをやってきたわけだが、フロイトが大きな役割を与えた自我がこんな形で空洞化した審級になると誰が想像しただろうか。

先日、アントニオ・R・ダマシオのDescartes’Errorをなんとなくめくっていた。この本はのちに新版『デカルトの誤り』としてちくまから文庫版がでているが、私が読んでいたのは『生存する脳』(講談社)のほう。

「私が考えている真に身体に統合された心は、そのもっとも洗練された作用レベル、すなわち精神(soul)と魂(spirit)からなるレベルを放棄していない。私の考えでは、精神と魂も、その気高さにもかかわらず、一個の有機体の複雑かつユニークな状態ということになる。
たぶん、日常われわれが人間としてできるもっとも重要なことは、われわれ自身が複雑で、脆弱で、有限で、ユニークであることを思い起こすことだろう。」

ソマティック・マーカー仮説で有名なダマシオだが、ダマシオが心を身体に戻すことを考えたように、ように、ではないが、精神分析は身体をよりsoul & spiritから記述していく必要がある時代だと思う。ただ話されているだけの言葉に安易に意味を与えず、その言葉の出どころを精神と魂と身体のハイブリッドで考える。その現れは言葉というより声であり、トーンであり、リズムだったりするだろう。精神分析で参照するとしたらやはりオグデンか。

今日はくもっている。日差しもあるがまだ強くはない。なんとか地道にがんばろう。

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散歩とかグループとか。

今朝はまだそこまで暑くないかな、と思ったけど熱い紅茶を飲んだら一気に暑い。昨日は曇っていたのに日射しを感じた。でもいろんなお花の写真がきれいにとれる空色ではあった。八重のクチナシもアガパンサスもアンティーク化したいろんな種類の紫陽花も薄暗い空に映えた。薄い花びらが雨に透ける姿も強い日差しに輝く様子も好きだが昨日くらいがしっとりしてて好きかな。年に数回行く街というか通りを歩くついでにはじめてのカフェにいった。ちょっと高いけどごまのパンがチーズとあっていてすごくおいしかった。一時期、いろんなパン屋さんをめぐったけど次から次に新しいお店ができているのね、こうやってカフェつきで。昔ながらのパン屋さんのたべやすくて素朴な味も好き。いまどきの工夫が多いパンも好き。コーヒーは特別好きなわけじゃないけどカフェは好き。オフィスのある初台にも小さな珈琲屋さんがいくつかあるのだけどオフィスと反対側でなかなか行く機会がない。この前、はじめて寄ってみたお店はこじんまりだけど噂どおりとてもおいしかった。私が知っている時代のコーヒーの値段という感じでお手頃だったのも嬉しかった。今は輸入とか少し大変かしら、コーヒー業界も。地道に働く私たちはこうして小さな交換をしながら生き延びているのだからそういうささやかな仕事を脅かさないでね、と思う。

夕方からのクリニカルグループもすごく面白かった。自分がやっていることを細やかに追うことはひとりではとても無理で、情緒を抱え、思考を止めないための他者が必要、というか思考停止になる厳しい状況を共有できる人がそうなっているけどどうしてだろうね、と一緒に考えてくれることはとても助かる。自分とは異なる考えにたくさん触れながら、影響を受けつつも、実際の場に立つのは自分なのでその責任を普通に引き受けていくこと。これは分析家になる訓練として精神分析をうけるなかで育まれるものではあるけど、精神分析が分析家と被分析者のペアにひきおこす情緒はたやすく「抱える」ことはできないので精神分析をいろんな人と体験していくことを続けていく以外にない。

医療現場において心理療法を提供する場合、生物学的、心理学的マネージメントを引き受けてくれる管理医は別の医師に引き受けてもらう必要があるが、それだって心理療法においてからめとられる自分ではたしかなマネージメントができなくなる局面があるからかもしれないからである。いわゆるA-Tスプリットのことだが、最近はどのくらい話題にされているのだろう。臨床はチーム意識が本当に大切。この場合、あくまで心理療法がクライアント、あるいは患者にとって必要な場合、というのが前提で、オーダーがでたらアセスメント済みとみなして即導入というのは倫理的ではないだろう。現実的に考えて、求めてもないものを押し付けることはすべきでないだろうし、心理療法以外にできること、すべきことを模索することを優先すべき事態はたくさんある。相手はこれを求めているけど、今の状況でそこに触れることはかえって状態を悪化させるかもしれないし、現実的に安全な設定をお互いに準備できてない、みたいな状況では心理療法ははじめられない。それぞれがそれぞれの役割を十分に認識し、協力しあっていくこと。そのプロセスでは意見の食い違いもたくさん生じる。話し合いは負担だろう。それでもそれも仕事、とうかそれが仕事。集団力動を読むことはその組織内の話だけではない。いろんな人と、いろんなグループと協力を模索するときにはいつも必要なこと。がんばっていこう。

6月ももう後半。今日はオンライン句会の選句〆切。いろんな形で季節に移り変わりを大切にしよう。

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羽抜鶏とか。

くもり。時々少し雨が降っているらしい。キッチンの小さな窓の網戸に少し水滴がついていた。風が強いときの水滴みたいだったけど窓を開けても風はふきこんでこない。なので扇風機をつけた。エアコンを入れるほどまだ暑くはない。

NHK俳句で「羽抜鶏」という季語について話し合われていた。なんとなくイメージはできるのだが実景としての羽抜鶏が思い浮かばない。小学校にあった鳥小屋、近所の美容院のにわとりたち、いまにいたるまで本当にいろんなところでみているはずなのに全然思い浮かばない。最近、オフィスのまわりを歩いているとカラスの羽をよくみかけるなとは思っていた。初台駅に向かうまでの道にたむろする鳩たちの羽も抜けるのだろうか。羽抜鶏は晩夏の季語らしい。気づけるといいな。

今朝は予定が変わったからお散歩にでもいこうかしら。なにかアイデアが降りてこないかなあ。インプットも足りないなと思うけど、時間がないなかでなにか降りてくるのを期待する場合、専門的な本は読まないほうがいい、私の場合。付け焼刃の知識では漠然と考えていることをふくらますこともできないし、お散歩しながらなにかを待つほうがいい。実践の積み重ねからぽわっと形になるものをうまくつかめたらいいな。

今日は「いいな」ばかりの日だな。まあ小さい希望をもって良い日曜日にしませう。

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6月20日土曜日

まだ雨は降っていないのかな。昨日より気温は低いとはいえすでに蒸し暑い。

今週はいつも以上にあっという間に終わった。先週末、学術大会でいろんな人と話したのが去年の学会くらい遠い。新潟の学会ついでにいった弥彦神社そばの弥彦ブリューイングもがんばっているらしい。Instagramでチェックしている。あそこは東京農業大学の弥彦桜5号酵母を使っていたりしてなじみ深いのだ。農大とか農大がある経堂とかは地ビールがすごいのだよ。素敵な呑み屋も多いし。農大は色々楽しいことやっていて出身の方のお話とかきくのすごく楽しい。弥彦でもきいた。あの日も雨が強くて寒くてでも紅葉がきれいでもりだくさんだったな。依頼されたお仕事をやっただけで自分の演題はださなかったけどおいしいものたくさん食べてよく遊んだ。新潟もいいところだよねえ。今年も学会のほうは演題はだしていないけど仕事はあるから福岡でおいしいもの食べたい。自分の発表は協会とIPA関係のほうしか余裕がないな。来年のIPA大会にもだせたらいいけどかなり難しいかも。今月末〆切は厳しいなあ。

昨日は隙間時間に海外の文献を紹介する原稿をバーッと書いた。読んだことがあるからといって引用しようとか思って読んでいなかったからちょこちょことしかメモもとっていなかったし、字数がそれほど多くないとはいえ結構難しかった。こういうお仕事をたくさんしている人はそれに対する準備も上手なんだろうなあ。私の頭は全然そうなっていない。でもラプランシュやリクールがまとまっていた箇所があって勉強になったのはよかったし楽しかった。土居健郎が読んだリクールを私もきちんと読みたいし。いろんな本読みたいし、いろんな料理したいけどいつになることやら以前に、安心して暮らせる政治が営まれていれば心にも時間にも余裕ができると思うんだけどね。現状、いつも怒っていなければならないじゃないか。もう。

今日は土曜日。良い一日になりますように。雨の降る時間は足元きをつけてまいりましょう。

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Early Women Psychoanalystsのことなど。

今日は6月19日、金曜日。いいお天気どころか真夏日になるって。それきくだけで辛くなってくるわ。今日は桜桃忌か、と禅林寺での光景を思い出したり、もう阿波踊りの話題か、と年末年始に行ったばかりの徳島に思いをはせたりしているうちに朝の時間はどんどんなくなっていく。

先日、Early Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance(Klara Naszkowska編、2024、Routledge)のことを少し書いた。精神分析のパイオニアであるにもかかわらずその貢献が語られてこなかった女性たちに関する本である。海外文献紹介の依頼をうけているのでこの本だったらすぐに書けたかもとあとから思った。それはともかく、精神分析家にいくら女性が増えていようと女性の地位が向上したわけではないのは日々のニュースから明らかなので、自分が生きる道を切り開いてきてくれた先人たちのことを知り、語り継ぐことは大事だと思う。

特に第4部のBeyond the Holocaustが印象深いと書いたが、そこには若くして自殺したふたりの女性精神分析家が登場する。ひとりはワルシャワの裕福で愛国的な家庭に生まれたポーランド系ユダヤ人のEugenia Sokolnicka。彼女の母は女性による愛国運動の著名な活動家であり、逮捕をされたこともあるが、ポーランド独立後には国葬に準ずる盛大な葬儀をもって追悼された人だという(Geissmann & Geissmann, 1998)。一方、ソコルニツカは当時のロシア帝国支配下のポーランドにおける女性への制限のため、大学への進学を許されなかった。

しかし、ソコルニツカは Sigmund Freud や Sándor Ferencziの分析を受け、lay analystとして活躍の場を広げていく。彼女に関する彼らのやりとりも興味深いというかなんなんだ、という感じはするが、フランスの精神分析に貢献したソコルニツカの名が Marie Bonaparteの登場によって、フロイトと同僚たちとの往復書簡から徐々に姿を消していったという記述は切ない。これだけみても女性分析家としての立場の弱さを感じるが、マリー・ボナパルトの登場は象徴的な例であり、男性中心社会における女の使用、権力構造のありようはどこでもなにも変わっていないのだろう。それに加えてヨーロッパの社会政治的状況、具体的にはユダヤ人に迫りくるヒトラーの脅威、様々な歴史的文脈があるにせよなんにせよ、彼女は1934年5月19日、58歳でソコルニツカはガス中毒によって自ら命を絶った。

ソコルニツカの死に際して、彼女の元被分析者であり生涯の友人であった小児科医・精神分析家の Édouard Pichon は、フランスへのフロイト理論の導入と精神分析家養成におけるソコルニツカの功績を公に認め「彼女は医学の学位を持ってはいなかったが、未来の精神分析家を養成できる唯一の人物であった。」と述べている。

ソコルニツカとこの後の章に書かれるSophie Morgensternに関して重要なことは、彼女たちに関する記述が単なる精神分析史ではなく、言語の歴史として読めるところである。これは私が紹介しようとしているアナト・ツール=マハレルの議論と重なっていくのだが、ソコルニツカもモルゲンシュテルンも母語はポーランド語であり、ドイツ語で分析を受け、フランス語圏で活動するという3つの言語空間を生きた精神分析家である。しかも彼女たちは患者とはポーランド語で話しながら、論文はドイツ語やフランス語で書いている。このようなことをどう受け取るかは読者によって異なるかもしれないが、と私の意見を書きたいがもう時間がないので今日はここまで。またいずれ。

良い一日になりますように。

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感触

昨晩、静かに降り始めた雨の音が強くなっていた。今はまた少し静か。昨日の昼間は陽射しがあった。少ししか浴びていないはずなのに肌が赤黒くなった。痒いような痛いような。薬を投与&塗布。アントニオ・R・ダマシオは皮膚を単なるタッチセンサーではなく身体最大の内蔵だとした。火傷で人が死ぬのも皮膚が不可欠な内臓だからだという。皮膚が原初的なインターフェイスであることはそれこそ感覚的に理解できる気がする。内と外が繊細につながる場所は自己も心も表れやすい。アトピー性皮膚炎の子どもの親がなぜか育て方を叱られたり、指しゃぶりが睡眠への導入となったり、感覚過敏によって同じ素材しか着られなかったり、人は繊細な部分にも容赦ない。

月曜日に大きめの地震があった。オフィスは高層階なので気持ち悪い感じで揺れた。防災用の多機能ラジオやミニランタンを充電したり懐中電灯の電池を確認したりした。防災グッズの準備に終わりはないが、いざとなったときにささっと使えるかな。シミュレーションはしているが不器用すぎるし不注意すぎるので不安ではある。

つくおきにも終わりがない。つくおかなくても帰ってきて10分とかでできるものはあるしInstagramでレシピを見続ける時間も減らないが洗い物も少なくしておきたいし、なんとなくつくおきは楽だ、ということで最近は好きな料理家のお弁当本を参考にしてメインを作っている。印度カリー子とか飯島奈美とか。一時はお昼もお弁当にしていたけど最近はあまりしない。電子レンジをおけばやる気になるかもだけど食べる時間も定まってないしまあいいかとなる。でも食材いじってる時間は楽しいよね。最近なんでも高くて困るけど。

毎日精神分析をしているといろんな体験を表す概念の奥深さを感じる。この前、週一回の精神分析的心理療法の事例を素材に「甘え」について発表したが、精神分析の場合、それはもっと別の形で現れるように思い、私はまだそれと出会えていない気がする、と話した。「甘え」と言葉にした途端消えるそれは私にとって消失点で立ち現れる感触だが、精神分析の感触でいうと、それはもっといつのまにか豊かな草原に立つような感覚と共に現れそうなジブリ的静けさをイメージする。なんだそりゃという感じだと思うが隔たりがなくなることでできる空間ということ。それでもなんじゃそりゃか。少しずつ言葉にしていこう。

それでは今日も気をつけて出かけましょう。良い一日になりますように。

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Beyond

今日もいいお天気。まだ暑くもないし、ずっとこのくらいならいいのに。


昨日私は精神分析家になる(becoming)の文脈で考えていると書いたが、精神分析家によってそのプロセスは全く異なる。それはごく当たり前のことなので語られなかった言葉、忘れ去られつつある言葉に対する感受性は意識して磨いていくしかない。単に歴史は大切というのではなく、歴史に残らなかった歴史も大切である。


2年ほど前にここでも書いたがKlara Naszkowska編集のEarly Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevanceはその観点からみてもいい本だと思う。


各章はBeyond Wife, Lover, Muse、Beyond Psychoanalyst、Beyond the Homeland、Beyond the Holocaustと「Beyond〜」のどれかに収められており、それぞれの章の著者は、精神分析家だけではなく、歴史家、ジェンダー研究者、文学研究者、ユダヤ研究者もいる。


出版社のウェブサイトの概要をみるとそれぞれは以下のように説明されている。

本書の第1部では、Sabina Spielrein、Lou Andreas-Salomé、Beata Rank といった比較的よく知られた分析家たちを取り上げる。彼女たちはしばしば誰かの妻、恋人、あるいはミューズとして記憶されてきた人物である。
第2部では、Margarethe Hilferding、Tatiana Rosenthal、Erzsébet Farkas など、明確な政治的立場をとった女性分析家たちに光を当てる。
第3部では、Ludwika Karpińska-Woyczyńska、Nic Waal、Barbara Low、Vilma Kovács といった、あまり知られていない分析家たちの伝記を、初期フロイト運動における彼女たちの重要性という文脈から論じる。
そして最終部では、Eugenia Sokolnicka、Sophie Morgenstern、Alberta Szalita、Olga Wermer の人生を、移住と亡命、トラウマ、喪失、そして記憶というテーマとの関連において検討する。(引用の訳はここまで)

この本は、特定の観点からしか語られてこなかった、あるいは語ることさえされなくなった女性たちを、既存の物語を超え、アイデンティティを超え、その枠組みの向こう側から読み直すものといえるだろう。なかでも第4部のBeyond the Holocaustの各章は印象深い。これらの章は女性分析家の語られなかった側面を語るだけでなく、精神分析を記憶、亡命、思考の歴史として読み直す視点を提供してくれる。彼女たちの体験とそれを語ろうとする言葉たちは胸に迫るものがあり、思考を促さあれる。Taking CureとかけたThinking Cureというタイトルも彼女たちの歴史の延長上で私も精神分析家になったことを思うとより集団的な態度として有効であるように感じた。


だからなにというわけではないが、土居健郎の「甘え」が人の心を表す概念として有効であることがもはや共有されていないらしい、という事実(多分)に私はそこそこ危機感を抱いているということだろう、こういう本のことを書きたくなったりするということは。

毎日眠いががんばろー。

代々木
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「甘え」とか。

東京はいいお天気。梅雨の晴間。この時期の花々は水も太陽も供給されているせいか朝日に輝く姿もみずみずしい。早朝から夜ごはんの準備をして朝ごはんを食べた。生活習慣は時間感覚を整える。ある程度の見通しがもてることは安心感につながる。
5月はソウルで精神分析の伝達、継承について、先日は市ヶ谷で「甘え」について発表したが、発表は少し過去の思考プロセスの断片となる。外からみると異なるテーマに見えてもひとりで考えられることなんてたいしたことないので、いつもいいたいことは大体同じなわけで、それらは日々考え続けられている事柄でもある。
今年の日本精神分析協会のジャーナルでも対象の不在を知覚するプロセスにおける精神分析カップルの心の揺れやそこから立ち現れる気づきについて書いた。「甘え」もそうだが、精神分析が相互作用を重視することは現代では普通のことだ。私はそれを分析家になる(becoming)という文脈で考え続けているから継承の話になるし、治療者が先に甘えにまつわる情緒を体験することの重視になる。土居はもちろん甘えの相互性を強調したし、子供も大人も甘えると述べた。そして甘えを転移と同様のものとして位置づけたが、私たちが甘えや転移という言葉を使うとき、そこに治療者側、母子関係モデルでいえば、母親側をどこまで患者と対等に位置づけて思考できているだろうか。訓練を受けることの重要性はまさにここにあるわけで土居でいえば治療者が「甘え」を自覚することにむけて自分のこころが他者との間でいかにいろんなふり幅で、いかに繊細に動くかに怯えたり、防衛したり、一時的に病的になったりする体験をするなかで自分を知る長き苦闘だろう。

私が土居健郎の「甘え」について考えるとき、同時にアンドレ・グリーンのネガティブ、そしてウィニコットの鏡役割についても考えている。たとえばContemporary Psychoanalytic Practice(2025, French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts series)のThe enigma of guilt and the mystery of shameの以下の部分は「甘え」の説明になりうる。訳はいつも通り間違いがあるかもしれないので参照する場合は必ず原著を。

>>ここに残される問題は、「欲動満足の欠如だけが攻撃性の引き金となる唯一の要因なのか」という点である。この疑問に答えるためには、まず欲動満足を構成する要素を同定する必要がある。母子関係の中で、破壊的側面が存在しているように見える場合、そこでは欠如による苦痛が攻撃性へと変形する背後に、持続的な融合、あるいは分離の欠如non-separationの徴候がうかがえることがある。子どもはこの状況から逃れようとして、母親を執拗に引き留め、ほとんど絶え間なく母親を自分のそばに置いておこうとし、母親に安らぎの時間を与えず、心配させる。まるで、母子関係だけでは得られない何かを、必死に求めているかのように。しかし、このような葛藤の反復は悪循環を延長させ、サディスティック=マゾヒスティックな関係を強化するにすぎない。私の見解では、ここで起きているのは、子どもが、自らの欲望の関係性を母親が理解していない(母親自身の葛藤のために盲目になっている)ように感じるがゆえに、その関係の中の欲望の性質を認めてもらうために行う必死の試みである。したがって、この要求に満足に応じるための前提条件は、主体がこう感じられることである。自分の欲求は欲望の表現として理解されている、そしてその欲望は、他者のうちに、自分自身を映す、自分と相補的な欲望する姿勢を見いだしたときにのみ表現可能である。
私の考えでは、攻撃性は対象を攻撃しようとする意志そのものではなく、むしろ他者からの応答の拒否への反応である。すなわち、主体が期待していた自らの欲望を映し返す応答がそこに見いだせないときに現れるのである。これこそ、ウィニコットがきわめて深く理解した点である。(引用ここまで)

土居は甘えを相手に自分の気持ち、欲求を察してほしい、理解してほしいという受動的、依存的な面を強調した。
一方、ここでのグリーンは、子どもは、自分の欲望の関係性を母親が理解していないように感じるがゆえに、その欲望の性質を認めてもらうために必死の試みを行うとう文脈で述べている。グリーンはウィニコットを引き合いにだすが、土居がウィニコットを引き合いに出すとしたらウィニコットの鏡役割ではなく、攻撃性の理解のしかたに自分の理論との類似性を見出したのではないだろうか。土居は切実さを情緒的に描写したが、それを即痛みとして、つまりわかりやすい攻撃性の文脈におくことはしなかったようにみえる。北山修のいう儚さもそうだが、日本の精神分析はどこかずっと見続けられる夢として親密さを捉えているのではいか。

とかこういうことをあれこれ毎日考えているわけである。今月末〆切の仕事もできていないのに同じく今月末〆切の演題募集に応募したいと欲張っている。どうせだめだろうとワンチャンあるかものはざまにいつもいるな。まあ、その時々の状況でどうにかしましょう。


今日は火曜日。良い一日になりますように。

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学術大会とか2

サッカーワールドカップ、ちょっとゴミ捨てに行ったら引き分けになっていた。外は雨が少し降っていた。

昨日も朝から夕方まで日本精神分析協会学術大会だった。市ヶ谷は昔、精神科クリニックの受付アルバイトで通っていた。昔すぎるが変わらない景色もある。釣り堀とか。一日がんばるためにと理由づけをして朝からケーキを食べてしまった。このカフェは私が通っていた頃はなかった気がする。午前のプログラムを聞き、すでに疲れきった頭で富士そばへ。知り合いが店内にいてなんとなくお話をしながらそばを待った。同じメニューを頼んでいたが彼は温かい蕎麦だった。私はすぐに食べられるように冷たい蕎麦にした。発表中に眠くなってしまうと困るのでさっさと食べたらそのあたりを早足で散策。お堀沿いを歩いていたらカワウがいた。また信号を渡って会場にはまだ戻らず急な坂道へ。登って降りてきた。この坂も昔セミナーで通っていた坂。腹ごなしにもちょうどよい傾斜。それでも全然歩数少ないまま会場へ。

今回は事例検討のグループとパネルで司会をしたが司会は負担が少なそうでそうでもない。一般演題で「甘え」について発表したが発表も原稿読めばいいだけといえば簡単そうだがそうでもない。そんなことは知っていたがいつもと違う頭と心を使った。事例とテーマにコミットしたコメントをいただけたりしたのは嬉しかった。せっかくオープンにしているのだからなおさら精神分析の外に開かれた、かつ精神分析概念としても重要な言葉を使いたい。「甘え」はうってつけなわけだけど、日常語としては使われていてももはや精神分析療法を説明する主要概念としては捉えられていないという感じがした。それならなおさら取り上げていかないとなあと思った。私は日々臨床の生活なので、臨床素材から議論していく形式は自分の中でぶれることはない。「AMAE」を取り巻く現代の環境や言葉の使用を思えば、外国に向けた論文を書いた方がいいのかもしれないな。日常語、つまり生きた言葉を日本の精神分析は大切にした方がいいと思うから。私は対象の不在を知覚することの困難と意義を絡めて「甘え」という言葉が使用されるときのことを考えている。

昔からの友達が今年もきてくれた。いろんな人とたくさんお喋りもした。精神分析的な理解は精神分析の訓練をしていなくても共有できる部分は多いというか、公的な相談室で外部からのスーパーヴァイザーとして精神分析家を呼んだりしていたのは私が若い頃からあったわけで、精神分析と呼ばなくても自然に力動的な理解をして臨床をしている心理職は多い。私の世代は気楽になんでも取り入れてきた世代だからなおさら症例や考え方はしっかり共有してもらえるうえに別の視点ももらえて楽しい。理論的な部分は難しいと言いつつも応援だからと毎回きてくれるのも嬉しい。若い頃から本当に助けられてきたつながり。仕事でもとてもたくさん話し合ったし、対話が普通にあった時代だから打てば響く。それが当たり前だと思ってきたけど今は本当に貴重に思う。携帯とインターネットは世界を変えたね。生身で、その場で、というのはむしろ自然じゃなくなってきているのかな。人間は、というか日本人は、というか、とどんどん対象を小さくしているが、本当にどうなっていくのだろう。

色々考えれば憂鬱だが考えなかったら面白いこともできなそう。新しい1週間、またがんばりましょう。

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学術大会とか。

今朝は少し蒸し暑い。ごはんを食べたらもっと暑い。代謝。今日も一日屋内。

日本精神分析協会の総会、報告会、学術大会1日目終了。大変疲れたが勉強になったのはもちろんのこと、楽しいことも嬉しいこともたくさんあった。学術大会にいらしてくださったみなさま、本当にありがとうございました。お久しぶりの方々ともいろんなお話しができた。実際に会って近況を報告しあえるだけでもみんながんばってるんだな、と元気をもらえる。会員以外の臨床家にもオープンにしてから3回目の大会。参加者の皆さんの自由度が増している印象。議論が活発。有意義。学術的な議論ができる場として楽しみにしてもらえる大会にしていけたらいいな。

それにしても眠い。どうしたものやら。朝からレシートの整理とかのんびりしていたが今日発表がふたつある。全然自分の中がそんな雰囲気になっていない。いつもいかない駅でお菓子を見つけるのが楽しくて昨日もいろんなお菓子を配ったり食べたりした。世の中には本当にいろんな商品があるものだねえ。

なんかどうでもいいことを書き続けているうちに時間になってしまいそうだからもういこうかな。みんないい一日になりますように。

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6月13日(土)

いいお天気。だけど大気の状態は不安定です、とのこと。

昨日はサンダルで帰ってきたから足が痛い。朝は東京も雷雨になるのかしら、と心配していたのにもっとも雨に弱いおしゃれスニーカーを履いて出てしまった。運よく昼間の雷雨は免れたが夜も雨かもということだったので置きサンダルで会議のある場所へ移動。結局降られず。それはそれでラッキーだったが夜遅い中大混雑の駅構内を歩くのは辛かった。週末の東京の混雑、怖い。東京暮らしの方が実家暮らしよりずっと長くなってきたのに昼も夜もほとんど人に会わない通りの方に身体が馴染んでいるらしい。最近は実家に帰る電車も隣の人と隙間なく触れ合うように座らざるを得なくなったが昔はそういうことはなかった。ずっと変わらないなんてことはどこでもありえないのだろう。守ろうとしない限りは。

今日は日本精神分析協会の総会と学術大会。ずっと屋内。暑そうだからいいけど身体動かさないとなんか澱むよねえ、気分が。昨日からすでにいろいろ始まっておりすでにいろいろな話をした。今日も明日もいろんな人といろんな水準の話をすることになる。まるで余裕のないときこそいつも以上に普通に音楽を聴いたり小説を読んだりしたいが友達に本をあげることでよしとしよう。

どうでもいいことだが、昨晩、電球を交換して新しいのを店舗受け取りで注文した。新宿はどこの出口を出ても家電量販店が近いのでとても便利。そこそこ大きいものでも自分で持てるものは大体店舗受け取りにしてしまう。西口のヨドバシであればオフィスのある西参道(渋谷行)を通る路線のバス停が近いので重たいものも大体運べる。力持ちでよかったというのもある。そういえばしばらく忙しくてトレーナーさんのところに行けない。自重トレやらねば。毎日誰に訊かれたわけでもないのに言い訳をしてサボるのをやめましょうね。はい。ダイエット目的だと筋トレだけではそれほど効果ないかもしれないが、怪我予防にはとてもいいと思う。いろんなところに自分の足腰で行けたらいいな。

良い一日になりますように。

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6月12日(金)朝

いいお天気。でも予報では雷雨になるかもと。東京もかしら。昨日はお昼に外に出たときが一番涼しく感じた。朝は長袖Tシャツにシャツを羽織っていたけどお昼はシャツを脱いでいた。夜は用心して置き上着も羽織ってでた。それを脱ぐほど暖かくもなかったが着なくても大丈夫だったかなくらいの気温だった。

昨日は朝早く着いたのであまり歩かない道をぐるっとまわってからオフィスへ行った。坂道で小学生の兄と妹が手を繋いで追い抜いていった。歩き慣れている子たちは早いな、と思って見送ったら妹が急かす兄を嫌がって泣き声で何かを言い繋いでいた手を離した。お兄ちゃん、荷物を持ってあげてるんだ、と今度は私が通り過ぎようとすると兄は苛立ってその荷物を妹に軽くぶつけ、少し先を行った。信号が変わってしまう前に妹が渡れるかどうかを気にしながら立ち止まったり振り返ったりする兄とマイペースに不貞腐れつつゆっくり歩く妹に、信号変わっちゃうよ、と私がハラハラした。信号が点滅しはじめると妹は少し早足で無事に兄のあとを渡りきった様子だった。この短時間ですでに泣き顔は消えていた。きっと毎日のことなのだろう。歩き慣れた道だから生じる二人の出来事だとしたらそんなに危なくもないのだろう。お互いのペースに合わせることは難しくても付かず離れず一緒にいる。きょうだいの距離感も色々ではあるが。

先日、この八百屋に行くとテンションが上がる、と思っている八百屋にいけた。セロリが安く立派だったので買ってきて黒酢と醤油と生姜でマリネにした。時期的にはもう最後かしら。セロリって結構衝撃的な味だったと思うのだけど出会いはいつだったか。生で食べて「?」となってスープでのんで「♡」ってなっていつのまにかどんなふうに食べても「(^o^)」ってなったんだっけ。えらくまかないがおいしかったバイト先の喫茶店ではセロリ使ってなかったと思うしなあ。友達とよくいってたカフェで知ったのかも。

食べ物との出会いで一番覚えているのはナスだな。周りにナス嫌いはいたらしく、あとから嫌いな食べ物をどう拒否していたかという話をしたことがある。自分の好き嫌いはあまり意識したことはない。牛乳を飲むと気持ち悪くなってしまうのは知っていたのでほしい子にあげていた。

Netflixで見ていた「ホームランド」の最終回にカマシ・ワシントンが出ててびっくりした。面白く見てきたがこの最後でかなり印象深いドラマになった。バンドにはリッキー・ワシントンも。あー、感動した。

もうこんな時間か。計画的に過ごさねば。いい一日にしましょう。

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精神分析

メッセージとか

朝の空じゃないみたいな色。夕方みたい。梅雨に入ってもまだくもりが多い。傘は持ち歩いているけど。関東は今日はにわか雨が降るかもだって。

誰かと親密になることを対人関係の目的にする必要はないと思うけど、回避しつづける関係はそれはそれでいいけど、親密になるならお互いを思いあえる関係の方がいいだろう。傷つけあうことを快楽とする場合もあるが、それも単純なものではない。自分が人にどういう態度をとっているかは怒りの表現でわかることが多い。怒りは結構自覚しにくく衝動的に表出されやすいものなのでそれが関係を一気に変えることはすごくありうる。多くの人が経験済みだろう。出せば伝わるものではないのがメッセージであり、子供と大人のコニュニケーションともなればなおさらだ。フランスの精神分析家ラプランシュは以下のようなことを言っている。今ラプランシュが手元にないのでAnat Tzur Mahalelの Routledge, History of PsychoanalysisシリーズのReading Freud’s Patients: Memoir, Narrative and the Analysandから孫引きしたのを訳してみる。

“メッセージという概念には、すでに存在し、主体に先立って存在する意味が主体に提示されるという考えが含まれている。しかし主体はその意味の主人ではなく、それに身を委ねることによってのみ、その意味の主人となりうるのである。

また、謎という概念によって、決定論には断絶が生じる。なぜなら、謎めいたメッセージの送り手は、自らが意味していることの大部分を知らないからであり、また子どもは、自分に伝えられたものを構成し理論化するための不十分で未熟な手段しか持たないからである。

したがって、一方にある親の無意識やその言説と、他方にある子どもがそれらをどのように受け取り処理するかとのあいだには、直線的な因果関係は存在しないのである。”

(Laplanche, 1999, p.160)

以上のことは本当に大事なので心に留めておきたい。

6月もやることが多いのにもうすぐ半分が過ぎてしまう。今日もがんばろう。

代々木公園
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精神分析

ジビエとか。

今日は関東は涼しいみたい。湿度高いけど涼しい風も時折吹く。昨日は朝は結構厚着をしていたけど昼間と夜はそんなに気温差もなく、上着も着ないで帰ってこられた。

先日、友人夫妻にジビエ料理のお店に連れていってもらった。

鹿肉のデミグラスソースがさっぱりしていて美味で、友人が頼んでいた猪のお肉もとてもきれいだった。自分たちでとって解体してこうやって料理する。いろいろお話も伺ったがプロセスを実際に経験している人たちの言葉は気持ちよかった。

連翹や大きな鹿がいつの間に 岸本尚毅

私たちを送ってくれた帰り道、猪に遭遇した、と写真を送ってくれた。私の生活は猪や鹿が身近ではないけど、少し足を伸ばせばそういう生活がある。宇都宮にも熊が出たが、身近でないと思っていても生活圏のバウンダリーがはっきりしているわけではないのだからこれまでもありえない話ではなかったのだろう。誰も危険にさらされてほしくはないが。

こう書きながら熊が出てくるインパクトの強い文学作品があったなあ、と思っているのだけどなんであったか。最近のではなくて。宮沢賢治か?でも外国文学だった気もする。そのうち思い出したらまた読んでみたい。全く覚えていないだろうけどまたインパクトは受けるのだと思う。

今朝はルイボスティーとか皮のまま食べられる葡萄とか。ルイボスティーって本当にいろんな種類がある。すごく好きというわけではないけどなんとなくいつも置いてあってなんとなく飲んでいる。大人になってから知ったお茶だと思うけど大人になってからがもうすごく長いのでいつのことだったか忘れたな。

6月は全然休みがない。どうせ雨だから屋内がちょうどいい、と思うことにしよう。もう10日か。いろいろ間に合うのだろうか。がんばろう。

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精神分析

対象の使用とか。

梅雨だ。とてもそれらしい雨。

形なきものの影濃き梅雨の家 宇多喜代子 『雨の日』

もうしばらくしたらきっと

化粧して梅雨に慣れたる体かな 岸本尚毅 『第二句集 舜』

どの季節も日常を淡々と。

花にいきなり触れる人、花をいきなり手折る人をみるとびっくりしてしまう。たまたま目にはいっただけなのに、自分のものにしても見ようともしないだろうに、その場の衝動をおさめるために対象を使用する。それは精神分析家のウィニコットがいう意味での「対象の使用」ではない。使用の前には常に想像/創造が必要。ためらいのなさとはいきなり近づいて触れることではない。雨の季節、傘についた雨粒の行方をおもう。

人は形を変え、相手を変え、驚くほど同じことをやっていたりする。精神分析ではそれは反復と呼んできた。分析家のほうには別に見えるものを同じとみなすための枠組みがあるが、本人がそれとあれとこれが同じ、と気づくには時間もエネルギーもいる。同じといわれればそんな気もして、ついなんでもかんでも同じ構造で説明したくなるというような奇妙なことも起きる。いわれたら囚われる、いわれるまで気にならない。囚われは精神分析でなくても重きを置かれる状態だろう。森田療法とか特に。

あさごはんを食べすぎておなかいっぱい。仕事までにしゃきっとできるかな。今日もがんばりましょう。

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精神分析

週末

関東も梅雨入り。シトシトシトシト雨が降っている。関係ないが口の中が痛い。どこかの粘膜がやられてしまったのだろう。

昨日は同じ路線で乗り換えつつ一時間くらい電車に乗ってでかけたがずっと立ったまま本を読んでいた。途中、座ろうと思えば座れたがストレスの少ないほうを選んだ。

久しぶりに没頭気味の読書をしたが、それでもほとんどの本は読みかけのまま積まれたりする。若いときの日曜日は1日数冊読んだりしていた。読書はその時々の自分と時間の関係を示している。大人になっていろんな機能が落ちているせいなのかなにやら別の要因かわからないが、小説の読み方が随分変わった気がする。ぼんやりした状態でなくてもなんどもなんども同じ文章を追うことが増えた。内容よりも音からなにかを得ているような。それだけでなくなんとなく正確に文字を追いたいという気持ちも強くなった気がする。いろんな作家の文章を知ったせいもあるし、身体感覚が変化したせいもあるのだと思う。

久しぶりに砂浜を歩いた。海に近い庭園の土はすでに海の砂まじりで明治の頃は松林の向こうに海が見えたそうです、というお話からその景色もたやすく想像できた。海が近い土地は独特の空気がある。私は海なし県育ちで海をどこかとても怖く感じてきたのでそこにいけばいつも、普段なにも感じていない身体部位を刺激されたような気持になる。大正12年(1923年)、関東大震災で海底や地盤が隆起し景色が変わったときいた。

海が似合う大きな犬とも仲良くなった。犬らしい警戒心を残しつつも次第に耳を垂らしそばでくつろいで時折鼻をぐっとくっつけてくる様子がとてもかわいくて嬉しかった。動物とはじめましてをするときは保育園で0歳児クラスにはいるときと似たような気持になる。繊細でやわらかきものたちと距離をはかるのは少し緊張する。その緊張で相手も緊張してしまわないようにと自分をコントロールするような気持にもなるが、基本、自分のコントロールというのは難しいものなので経験を生かしていくという方向になる。

いろんな土地に行っていろんな人と出会ってきたことで身体も感覚も変わってきたのだろう。読書体験自体が無数の自分を空想させる機会にもなるのでそれにもずいぶん楽しませてきてもらったのだと思う。良い週末だった。今週も頑張ろう。

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精神分析

実感とか

まだまだ朝と日中と夜の気温差が大きい。梅雨前は毎年こんな感じか。今朝も長袖。

今朝は桑名のおみやげ「焼きはまぐりサブレ」をいただいた。サブレはなんでもおいしいしいろんな形のサブレがあって楽しい。「その手は桑名の焼き蛤」という表現を最初にきいたのは親からだと思う。私とのコミュニケーションではなくて、なにかの出来事とかニュースとか映画とかそういうものに関してだろう。私はそう応答させるようなふるまいをした覚えがないから。覚えがないだけでしたのかもしれないが。なんにしてもどこできいたとしても小さいときの私にはハテナだっただろう。食べ物系の表現でこりゃ面白いなと思ったのは「目黒のさんま」だ。これは落語だから当然面白いわけで大人側も単に意味を説明するというよりは演じる感じで教えることになる。たぶんそれが面白かったのだろう。

俳人の西村和子さんが季語を実感してほしいといっていたが本当にそうだな。最近だったら新緑、若葉、薔薇、つばめ、紫陽花に季節を実感したか。もう少ししたら「梅雨に入る」になるか。

実感というの精神分析臨床においても最も大事な感覚だと思う。AIにはもっとも難しいものではないだろうか。直感もそうかな。

この前、居酒屋の店主が自分は飽き性だから同じ酒を置いておくのがいやで毎回変えているといっていた。日本酒の種類が多い店だったのでこの量を毎回変えていくってすごいことではといったら直感でいい酒が手に入るとのこと。たしかにおいしかった。長年、酒と肴・魚と付き合い続けた結果、獲得された能力としての直感でこうして私たちにいい時間をくれる仕事。温暖化も外交も彼らの仕事を追い詰めつつあると思う。店は私くらいの年代の人が多く満席だった。変わらずありつづけてほしい。守られてほしい。

来週末は日本精神分析協会の学術大会。福岡支部の人たちとも会えるし、昔からの友人たちも申し込んでくれたというし楽しみだな。精神分析学会にはいかないけどこっちには毎年きてくれるというのは協会がまだそういう個人的なつながりを生かせるくらい小さいということだけど大きくなっても(ならないかもしれないけど)学術面ではずっと対話可能空間であってほしい。

東京はくもり。お昼過ぎには雨マークも。季節を感じ、季語を実感し、うわすべりしない言葉で対話できる日曜日になりますように。

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精神分析

『大濛』をみたり。

今朝も涼しい。ネットで調べてごはんを時短で炊いた。途中、気になって蓋を開けたりしたから少し硬い。

昨日は寒いくらいだった。厚手のパーカーを着て歩いてたら少し暑くなったけど。帰り道はパーカーのジッパーを首までしっかり上げて早足で歩いた。風が強いとすぐに体温を奪われてしまう。陽射しが少しでもあると一気に気温が変わることにも驚くけど。昨日、新宿中央公園を横切ったときに思った。新宿中央公園がイベント中だけどその手前の都庁のバリアフリールートが今工事中。別のルートもあるのかな。屋根がある通路や地下道があるのは助かるけどそれでも都庁へ通勤する車椅子の人が大変そうなのを時折見かける。朝は人が多いから誰かしらが声かけをしているのも見るけど通勤だけでとても体力を奪われそう。居場所づくりはよく問題になるけどそこへ至る物理的な道づくりも課題だねえ。

Netflixで台湾映画、大濛(だいもう/A Foggy Tale)を観た。言葉と絡めた台湾の歴史を知らねばと思わされる映画だった。あまりよく知らずとも想像される歴史だけでも、そこを生きた人たちを思うだけでも胸に迫るものがあり、映像も配役もすばらしかったが、この重たさはメッセージとして受け取り解読する必要があるのだと思う。台湾の人が解説したブログが良いらしいのでそれをまずは自動翻訳で読んでみようと思う。自動翻訳で読んで誤った歴史認識をしてしまったらどうしようとも思うがいろんな本を合わせて読めば標準的なことは知れると思うのでこのあまりに知らない状況をまずはどうにかしようと思う。

1週間が恐ろしく早くすぎるが夏休みの予定をお伝えしはじめたりしている。2年後のIPA大会に演題を応募したいが、それは間に合わなそう。すっかり締切を忘れていた。バラバラと仕事を引き受けてしまったのでそちらをまずはやらねばならない。

今夜は寝不足を解消したいがとりあえず今日もがんばりましょう。東京はくもり。気温はこれから少しあがるのかもだけどあったかめの服装にしてしまった。用心用心。各地でいろんなお祭りやイベントが増えている。もうすぐ梅雨入りだけど元気出していこう。

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6月5日朝

鳥たちの声がまだ少し遠い。月がまだ高い場所にある。寝る前にみた月もたいして変わらない位置にあった。寝不足ということ。夏の夜明けは西側のマンションが珊瑚色に染まるのがきれい。時折足元に涼しい風がスーッと抜ける。時折寒いくらい。

片付けも大分進んだ。紙類の処分が悩ましいが地道にやろう。

古文が好きで高校生の頃はよく読んでいた。おとなになってからは人の本経由。河合隼雄の『物語を生きる 今は昔、昔は今』(小学館)とか。殺人がない平安時代の文学では攻撃性がどう描かれたか、とか心理療法にも示唆的なことが多く書かれている。河合隼雄だから主にそれが書かれているのだが古典のブックガイドとしてもいい。私も人間の様々な心模様はほぼ本から学んだ気がする。現実の人間より掘り下げが深いし。色々書き始めると長くなるから今はがまん。

今日も一日頑張りましょう。

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天安門事件の日

夜明け前の空がとてもきれいなピンクだった。台風は東京をあっけなく過ぎたが電車はすいていた。他の地域はどうなのだろう。私の仕事も自然災害は経済状況に響くので辛い気持ちになる。

今日は中国で1989年に起きた民主化運動「天安門事件」から37年。今年は遺族の人たちの墓参りまで禁じられたという。言論統制の徹底が引き起こすことを思えば日本もこのままではいけないという危機感を持つ人のほうが多いのではないかと思うがそうでもなさそうなのが怖い。台湾での追悼集会に少しだけホッとする。

天安門事件以降、冷戦終結、1992年以降、経済の高度成長期に入った中国の学問的なあり方もずいぶん変わったときく。外とつながりはじめること、言論を封じ込める圧力に抗うには啓蒙だけでは無理だろう。内で語れないことを外が語るということもやめてはいけないし逃れ続けるならそういう弾圧に対してであって自分の嫌な部分からではない。実際、哲学の分野ではデリダとハーバーマスの訪中と交流による影響はとても大きかったという。

うーん、色々考えてしまうな。今日も色々あるかもしれないけどみんなでがんばりましょう。

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台風

雨がすごい。空気が重たく感じるくらい湿気もすごい。テスト期間中の学校もあると思うが休校になるのかな。授業はオンラインに切り替わったところもあるみたい。みんな無事が基本。気をつけて過ごしましょう。

学術大会の原稿をなんとか送ったので次の書評の仕事に取り掛からねばだけど隙間時間に一気に書いて疲れ切った頭ではどうにもならず、ダラダラと岡田温司の『アガンベンの思想圏』をめくっていた。アガンベンの「瀆聖」というのがとても興味深い。内と外をたくみにごっちゃにしていく思考はよくわからない宗教的なものにのっとられがちな今こそ必要ではないか。今はその後に切断できる準備ばかりする社会になってる気がして怖い。緻密に緻密に人間らしさを取り戻していきたい。

原稿を書きながら俺はいつも同じことばかり言っていると思ったが自分が探求したい方向性がそうなのだろう。やりたいだけ繰り返しながら少しずつ別の軌道へ、というのはむしろ精神分析的。

今日はのんびりしてしまったので時間がなくなってしまった。被害のでている地域のみなさんもどうかご安全に。

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循環

風が涼しい。台風が近づいてる。

最初、というか、もうずっとだけど家族というものが維持されている不思議について考えなければいけない時代なんだなあと思う。その単位が基本と思わないように、思わせないように、など。

週末に完成させられなかった原稿、平日の隙間時間にやるのは本当にきついがしかたない。まあ、なんと大きなものを残してくれたものか、土居健郎。私に実践が伴っていなかったら対話などできなかったかもしれない。精神分析を受けて、自分も患者を持って、指導する側にもなってという循環ができてやっと思考が可能になる感じ。でもそれを形にするのはまた別の話。とても時間がかかる作業。今は長い訓練で得たもの形にしている側面が大きい。これはこれでやらねばと思っていることではあるけど。

とにかくいただいた猶予を大事にせねば。良い一日になりますように。

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知床の自然とか。

昨晩の月がとてもきれいで何度もカーテンの向こうをのぞいてしまった。沖縄本島地方及び周辺離島と宮古島地方に暴風警報だって。大変なことだ。どうぞお気をつけて。関東はくるとしたら水曜日かな。今日はひどく暑くなるらしい。

昨晩、作業しながらNHKスペシャルをなんとなく流していたら、温暖化などでエゾジカがこの10年で急増し、ヒグマを脅かしているとのこと。ヒグマの食糧となる草を先に食べ尽くしてしまうらしい。そしてヒグマもエゾジカも食べないハンゴンソウばかりが茂ってしまう。うーん。自然の循環、恐ろしい。もちろん人間にもすでに影響が出ている。結局最後までなんとなく見てしまったのだが知床のあまりにも美しい自然の中で起きている現実にとても悲しくなってしまった。知床のネイチャーツアー、あれは原生林トレッキングだったか、すごくよかったけどもう行けなくなってしまうのかな。当時も車から野生動物たちを見たがクマの注意はそんなにされた覚えがない。むしろ人間の足跡が立入禁止のロープの外まであることに驚いた。ほぼ崖のような場所で。危ない場所が人間が踏み入れたことでもっと危なくなっていく。私の胃腸の弱さも自然とうまくやってこなかった証拠かもな。病気の知識はあっても自然の知識がないのはダメな気がする。色々知っていこう。

今日はものすごく寝不足だが作業は結局終わらず。昨日は症例を使ったグループディスカッションもあったけど普段と違う気持ちになれて発見が多いな。無理なく正直に言葉にすることはどの場面でも大事。言葉にすることで別の無理が生じたりは当然あるけど自分の中のなにを大切にしたいかだね。

AIのニュースが本当に増えたねえ。人間ひとりひとり限界ある自分のことも大事にしよう。

新しい一週間もがんばりましょう。

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5月31日(日)

朝はまだ涼しい。今日も晴れるみたいだけどまた風が強いのかな。昨日は物干し竿が風で落ちた。洗濯バサミをストッパーにしていたけど劣化していた。台風がきているんだなあ。奄美大島は大丈夫だろうか。奄美でスコールを体験したことがあるがあんなにすごい雨が降る地域で台風はどんな猛威を振るうのだろう。被害が出ませんように。

毎日着々と働いているが進んでいない仕事もたくさん。なのに大掛かりな模様替えに手をつけてしまったりする。こういう習性って治らないよね、というか治す気がないのかもしれない。またやってる、と思いつつやってるし。でも梅雨前の大掃除になってよかった。あとどうしても身体が動くうちに、と思ってしまう、最近。それなりの筋力を維持していると思うけど何も考えずに思った通りの動きができることはかなり減ってきていると思う。元々注意力はないけどぶつかったことないところにぶつかったり。ううう、とひとりうずくまりながら滑稽さも感じるけど。人の身体は不思議だ。

Netflixでちょこちょこ「ホームランド」を見ているけど主人公のキャリー、恋しすぎではないか。一人の相手に。才能も何もかも過剰なのが人間味に凝縮されていて面白いしなんか愛おしいけど。

今朝は昨日パン屋さんでおすすめされたパンを食べた。「トーストかまして」という表現をはじめてきいた。ここのパン屋さん、とっても素敵なお庭を受け継いだのにほぼ放置でとても残念なのだけど味は美味しいので時々いく。あーお庭がー、と思いながら。我が家の花壇も春菊が逞しく伸びたくさんかわいい花をつけ終えたので刈り取るか。刈らないで抜いたほうがいいのかな。調べましょう。

紫陽花が満開になりつつありますね。薔薇はだいぶ枯れてきた。緑道の花壇にもボランティアさんが新しい花を植えてくれていた。いつも小さく挨拶を交わして写真を撮らせてもらってる。すると散歩中のおじいさんに大きな声で挨拶をされたりする。だいぶお年だと思うのだけどいつもお元気。私もあのくらいまで元気に歩けているといいなあ。

五月が終わる。良い日曜日になりますように。

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運動会とか。

早速暑い。鳥たちももうどこかへいってしまった。家事をバタバタしてたらもうこんな時間。というかもう週末。今週末は運動会も多いとのこと。熱中症が心配ね。

私はだいたいのスポーツはできたので特に体育が嫌とか運動会憂鬱とかなかった気がする。でも決め事とか練習とか細かい部分をみれば憂鬱だったりウンザリだったりしてた気もする。大人になってNPOで子どもたちと運動会的なこともしてきたがみんな楽しいといいなくらいで燃えるみたいな経験をしたことはない思う。そういう記憶ももうすでに遠いからなんともいえないけど今の時代、こういう科目とつながりのある行事って必要なのかな。練習にやたら時間をさくならそれなりにみんなの負担がよきものに変化するであろうという期待がほしいところ。先生たちや保護者にとってもそう。長く続いてきたものに対しては当たり前に負担を受け入れている場合も多いと思うけど結構大変なことだなと思う状況は多い。運動会に限らず。

なにはともあれみんな無事に楽しい土曜日になりますように。

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『傲慢と善良』、『ほんのこども』など

声の大きな鳥がいる。あの鳥かなあ、と寝ぼけた頭に思い浮かべたのはカラフルな大きな鳥。あの声がして振り向くとその色にいつもびっくりするから多分そう。今朝も朝は曇り空だけどすでに熱を感じる。

先日、Netflixで映画『傲慢と善良』を見た。辻村深月原作。よくわかるという感じは経験の有無に関わらず誰もが馴染みがなくはない関係性を描いているからだが、倉悠貴の演技もよかった。でもやっぱり文字の力は大きい。映画を見た人には原作もお勧めしたい。分厚い本になるわけだ、というそれぞれの心模様が繊細に描かれているから。自分の意志なんてなんて曖昧。でも求めうるもの。

最近、ますます老眼が進んで読書の量もスピードもすごく落ちているが、それでも本を手に取ってしまう癖というのはそう簡単に変わるものでもない。あー、疲れたなあ、と思ってなんとなく手に取ったは町屋良平の『ほんのこども』。最初に読んだときは圧倒されたが大変面白く読んだ一冊。いつも通り内容は細かくは覚えていない。冒頭からの反転具合とスピードがすごかったのは覚えている。少しパラパラしてみたらやっぱりすごい。どういう頭の動かし方をするとこういう文章が書けるのだろう。動かし方というよりそういうふうに動く頭があるということなのだろうけどすごいよなあ。ジャンプ力がすごい。私はここ数日、土居健郎の「甘え」について考える時間が多いので、この本の不穏さを「甘え」が持つ不穏さと重ねてしまったな。まあ「甘え」はこうやってなんでも重ねていける強度というか自由度が高い言葉なんだなという認識をあらたにしてしまったからだが。土居のいう「甘え」がナルシシスティクな方向で働く場合、それは他者を消す動きになるので侵襲的で暴力的ともいえる。「甘え」がネガティブなものとされる場合はそういうものがかぎつけられた場合だと思う。自分を許容してくれる「はず」というのは相手の善意任せすぎるのでそれがただの圧力として作用することもある。一方、それは他者なしでは存在できない自分という存在(主体という言葉はややこしいの使いたくない)との鉢合わせの回避でもあるので自分に対する侵襲性や暴力性を反転させてるだけとも言える、なんてね、かなりのスピードで書くとこういうことを書いてしまうわけで、私みたいな素人はジャンプができない。町屋良平は実際どのくらいのスピードでどのくらい助走したりしなかったりして書いているのだろう。いい本だったなあ。最近のはまだ読んでいないから読みたい。

今日は群馬県前橋市のSWEET SHOP YOSHIDAの「はちみつマドレーヌ」。前橋駅か高崎駅のお土産屋さんで買ったのだけどここのはイラストがとてもかわいい。猿田彦珈琲をもらったのでそれといただいた。

今日も元気に過ごしたいですね。頑張ろう。

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「甘え」とか

朝から蒸し暑い。月曜日まで暑いそう。熱中症に本当に気をつけないと。あっという間に具合悪くなるから怖いものね。

平日になるとなにがなにやらという感じであっという間に時間が過ぎていく。レシピばかり見ている時間は相変わらず長いが美味しく身体に良いものは大事。

土居健郎の「甘え」について一定の理解に達した気がするが、結局どこにでも書いてあるところに戻ってきた感じ。これがこの概念の凄さなんだろうなと思ったが私は一体何を発表すればいいのか、といえばやはり実践から何かいうしかないということになる。土居の「甘え」概念が曖昧なのは土居が実践で自分の概念に追いついていなかったからではないか、という仮説を私は持っている。そこがフロイトのメタサイコロジー概念とは異なるところではないか。でも日常語を用いた概念は日常で使うことでしか育たないと意識して使用していくことが専門界には求められるのだと思う、というようなことをいうことになるかな。

あいからず寄り道して花々を愛ながら歩いている。こういう小さな喜びが続けられる政治であってほしいと毎日思う。今日もがんばりましょう。

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空海とか。

陽射しがなくはないけどまだ曇っている。早速肌がやられてるからこのくらいがいいな。

昨日、協会の仕事の前にちょっとカフェによって土居健郎選集を開いた。土居の甘えに対する執着はすごい。わざと執着と書いてみたがこれは執着でもこだわりでもないな。ふとひとつ向こうの席を見たら「空海」のデカい文字がみえた。空海の言語論を読んだばかりだったのでなんだか嬉しくなった。あの分厚いのは安藤礼二の空海だ。読んでいないが姿形だけは知っている。人間だって大体そうだろう。いいなあ、と思ったが私はしばらく精神分析以外の本であの分厚さの本を読む余裕はない。夏休みになったら読めるかも。もうずいぶん前になるが年末年始を高野山の宿坊で迎えたことがある。単に宿坊にとまっただけだったが早朝の朝勤行に無料で参加できた。足がとても冷たくて辛かったけど厳かなルーティンは興味深く、キョロキョロしたいのを我慢して参加した。宿坊のおもてなしのひとつひとつがとても丁寧でありがたかった。お食事もとても豪華だったがダラダラ食べるものでもないから2度ほど声かけされた。就寝時間も早く、食事が終わると二人のお坊さんがささっと素早く綺麗にお布団の準備をしてくれた。おおっ、と少し可笑しかった。きちっとした生活を一泊二日だけでもしたのはよきことだった。今は老化のために動きが遅くなったMacが原因不明でフリーズしたのも高野山だった。お正月の銀座のアップルストアでみてもらったが原因不明、時間が解決。結局寒すぎたのではないかということだったが真相やいかに。お互い歳をとったね。今度は雪ではない季節にいってみたい。高野山くらいの観光地だと雪でも歩ける道は確保されてるけどやっぱり自由度は下がるし、足腰が健康なうちにもう少し色々歩きたい。でも雪の高野山はそれはそれで静かで厳かで修行気分にはとてもよかった気もするな。空海の話はどこへ。カフェで『空海』を見かけて今流行ってるのかなと思ったけど、空海ってずっと流行ってるといえば流行ってると思う。最澄よりずっとイメージがいいのは多分「日本の歴史」の漫画のせい。空海は中国語も早くから喋れたというしサンスクリット語もあっという間にマスターしたという。母語は日本語だが当時はまだ今のような日本語のシステムは確立されていない。そのような多様な言語環境で考え、書かれたテキストが『声字実相義』だ。今も空海について書いたり読んだりする人がたくさんいるのも言語という根本的なものに対する関心が失われていないからだろう。SNSなどではその力は相当弱まっていると感じるが。そして仏教。あらかじめ無を想定しつつその実相を顕にすること。言葉というものを考えざるを得ないのは宗教が先なのか?勉強しないとよくわからないが。そういえば先日、空海も修行したという広島は宮島の大聖院の霊火堂が全焼した。山火事、神社仏閣の火災が続いているが、燃え盛る日の前に呆然と立ち尽くす人を思いつつ、実景を言葉にしていくことが必要なのだろうと思う。

ソニー・ロリンズが死んだ。高校時代、隠れて聴いたのがマイルス・デイビスで、ほぼ同時にソニー・ロリンズを知った。思い出をかけばキリがない。幸せな人生であったことを願う。

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量とか質とか。

鳥たちが賑やか。今朝はまだ陽射しがそんなに強くない。遅くまで作業していたが寝てもすぐに起きてしまった。老化で睡眠の質が落ちてるように思うので最近はとにかくまともな睡眠時間を増やすために夜遅い食事の量を減らし、とっとと寝るようにしていたが、やりはじめた作業は途中で止めるとまた最初からやり直すことになりがち。続けていくことでしかいけない場所もあるのだ。とかいいながらたいして進んだわけでもないが難しいことを考える頭にはなっていると思う。そういう頭になっているときは難しい本も手にとってしまうもので(理解しているわけではない)中島隆博先生による空海の言語論にまた感動してしまった。というか毎月、Reading Freudで相当頭の中が再構築されたり、フランス精神分析のセミナーでわからなさに浸りながらじっと考え続けたりしているおかげで難しさには慣れている。耳障りのいい言葉ばかり取り入れて居心地のいい世界ができるかといえば全然そんなことはない。むしろ逆だろう。心が痩せるのは簡単。

知らない街に行くとその街の歴史を思う。大規模な団地と大きな公園、街の成り立ちに戦争が関わっていることは多い。広大な農地が荒れ果てるのは戦争のせいだけではないがどちらも人のせいだったりはする。少子化の今、団地に住んでいる世代は高齢者が増えているかもしれない。ただでさえ孤独な時代に物理的にも孤独であることの負担を思うと胸が痛い。それでも東京は人が多い。実家にいる頃、道で人に会わないというのは普通のことだったし、今でも旅先に行けばそんなことはよくある。山だってそうだ。人と人との関わり自体は量より質が重要になる。数で質自体が変容する場合はもちろんあるが。

頭が休まっていないのだろう。まとまりのないことならいくらでも書けそうだが疲れをとるために上質エッセイでも読むか。言葉に傷つき、言葉に助けられる日々。今日がいい一日でありますように。

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バラを見たり考えたり。

夜明けがとても早くなった。朝ご飯もどんどん早くなっている気がする。

週末はたくさんのバラと紫陽花を見た。普段通り歩いているだけでもたくさんのお花に出会える恵まれた環境だけど知らない街のローズガーデンに行った。やっぱり特別だった。それほど広くない空間をゴージャスに彩る薔薇たちとたくさんの人たち。コスプレしたり、小さいぬいぐるみと一緒に写真撮ったりみんな楽しそうだった。あとローズソフトクリームがとてもきれいだった。食べてないけど、すれ違った人のをみてうわあと思った。たくさん写真を撮って遠くに出かけられない人にも共有して喜んでもらえた。

昨日の午前中はようやくまとまった時間で土居健郎を読みながら考えることができた。精神分析は時間もお金も無限ではないということをはっきり意識させられる設定だし、大体の人は死んでしまう前に別れるから。できたら死ではない形でそれぞれの人生で経験したいのが甘えだなと思った。実際に出会っていく以外の方法はないかもしれないけど。

すべきことを忘れていたことに思い出した。やらねば。今週もがんばろー。

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フロイト「欲動と欲動の運命」を読んだり。

早朝から家事をしてNetflixで「教えて?イヌのココロ」を少し見てしまった。かわいい。よくぞ上手に進化を遂げてくれたと思うが、人間がいなかったら別の進化もありえたってことだよね。

昨晩のReading Freudはフロイトのメタサイコロジーの「欲動と欲動の運命」を読み終わった。愛と憎しみの反転を描写する最後の記述が見事。こんなふうに論理展開できたらとても楽しいだろうなと思う。この論文は概念とはなにか、なぜ必要かを考えるうえでも非常に重要だが、フロイトの臨床経験の中で矛盾を孕み、綻びを見せ始めた欲動概念を改めて位置付けようとする仕方はとても面白い。

訳語問題についてもいくつかの論文を読んだがどれも一理あり。IPAのジャーナルで新しいものだとイギリスで訓練を積んでエレサレムで実践をしているレイチェル・ブラスのこれ↓

Blass, R. B. (2024). What’s in a word? A brief reflection on why the understanding of Freud is not changed by replacing the word “instinct” with “drive” and the importance of reading in context. The International Journal of Psychoanalysis, 105(5), 757–765.

イスラエルの精神分析家たちの生活も気になるが、レイチェル・ブラスは古典的な説得力がある分析家というイメージ。この論文に関してはどうかなあ。わかるし、フロイトを読むときにその文脈から本質を捉えるのは絶対的に大事だけど訳語問題に関する議論としては論点をずらしているのではと思った。自分がどの言葉でそれを読むかってすごく大事だから。

それにしても今朝は寒い。暖房をつけてもいいくらいだけどとりあえず厚着している。一日中寒いのかしら。どんな気温でもおなかはすくんだな。でもまだ朝早すぎる。とりあえず白湯飲んで二度寝するか。でもこの積まれた本たちをどうにかせねば。取り組むまでの長さを短縮するにはまずエネルギーチャージか。風邪ひかないように過ごしましょう。良い日曜日を。

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Scarfoneを読んだり。

今日も涼しい、というか寒い。季節があっという間に逆戻り。そしてきっとまたすぐに夏に逆戻り。激しい。厳しい。どちらにしても老いつつある身体を冷やさず無理せず。

今年度はDominique Scarfoneの論文を少しずつ読んでいる。2021年4月にIPAのポッドキャストTalks On Psychoanalysisにも登場していた。このポッドキャストはテキストのリンクが載っているのでそれを読みながら聞くことができて助かる。論文The time before usの短縮版とのこと。副題はThe Unpast W. S. Merwin、Walter Benjamin、Virginia Woolfを召喚しての精神分析的時間論。先日読んだダナの論文と重なり合う。短縮版は最初にノーベル賞作家のフォークナーの有名な文章が引用されている。

The past i never dead.It’s not even past.

フォークナーを読むとハックルベリー・フィンを思い出す。子供の頃の愛読書だった。フォークナーはそんなにたくさん読んでいるわけではないが『ポータブル・フォークナー』のおかげで色々読めるようになった。ドライで怖くて悲しい場面の連続だけど心に重たく響く作品はいい。文学作品が引用されている論文はワクワクするな。

今日も一日長い。がんばろう。とにかく暖かくね(風邪ひきたくない)。

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金曜日

今朝は窓を開けると寒いけど暖房が必要なわけでもないし、家事をしている分にはTシャツで寒くない。昨晩は寒かった。朝は涼しいなと思ったけど薄着で大丈夫だった。昼間外にでたら寒くてびっくり。上着はリュックにもオフィスにも常備しているので夜もそれを羽織って帰った。今日はもう少し厚手の上着を着て暖かくしていこう。風邪ひきたくないけど週末はすごく暑かったのに今これってなると調整が難しい。食べ物だってやっぱり夏はピクルスと思ったばかりなのにやっぱり温かいものが食べたいよーとお豆腐グラタンを作ったり。食欲は気温が低い日のほうが増すね。今朝はお味噌汁とか烏龍茶とかで暖まった。

事故や事件のニュースを見るのが辛いけど、高橋ユキさんの記事とかは追っている。高橋さんがやりとりして公開してくれている無期懲役囚の永田陸人受刑者からの手紙は闇バイトが頭をよぎらない人にも読まれるべきだと思う。「お金のためなら」と人の命が軽んじられる、今やそれが日本社会の中心的な思考なのかもしれないが普通に抗っていく世界に身をおいていきたい。

それにしても雨の音が弱まったり強まったり大変。色々書きたいことはあるがせねばならないことの方が多い。今日は全国的にこんなお天気なのかしら。足元、気をつけて出かけましょう。

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北村紗衣『英語の路地裏』、土居の“失敗”?

少し涼しい。陽射しはない。雨が少し降っている。昨晩は雨は降らなかった。薄着のままで大丈夫だったし。気温はずっとこんな感じがいいな。

英語の勉強もしないとなあと思ったがイヤホンを出すのが面倒で、帰りの電車は北村紗衣『英語の路地裏』を読んでいた。やっぱり本が楽。この本は著者が作った入試問題の章が誰にとっても楽しめる部分だと思う。私はシェイクスピアのところが好きだな。著者の専門だしね。『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』(白水社)もとても面白かった。若い頃、ケンブリッジのカレッジの庭で学生たちが無料のシェイクスピア劇を演じていてすごく素敵だった。英語がわからなくてもシェイクスピアならなんとなくわかってしまうのは単に有名だからというだけでなく台詞回しのおかげだと思う。英語はもっとわかるようになりたいし、わからないといけないけどね、必要だから。

夜ははちみつピクルスを作ったが別のことをはじめてしまいまたふきこぼしてしまった。『あかね噺』もみながらだったし。はちみつをいれる前でよかった。お酢を入れすぎたのでちょっと酸っぱいだけど夏っぽい。この夏はいろんなピクルス作りたいな。

細々と土居健郎をまとめているがまとまった時間がほしい。まとまった時間に遊びに出かけた私が悪いがたまの休みは休むべきでしょう。これまでもすごいなと思ってきたが、自分が精神分析家になって海外の分析家たちを身近に感じながら実践をするようになってから読むとなんかこれまでとは違うすごさを感じる。ものすごくオープンだし正直だし丁寧。誰かが土居先生は失敗事例ばかり書いていると言っていた気がするが「甘え」理論も訓練分析の失敗から生まれているからねと思ったりした。失敗とはいわないか。挫折というのもなんか違うか。精神分析の実践でいえば失敗は環境側にあるだろうし、治療者としての土居先生が書くなら失敗例が多くなるのはそれはそうなのだろう。それを一般的な意味で失敗と呼ぶかどうかはともかく。

憲法が改正されませんように。憲法がたやすく変えられない歴史を持っていることが忘れられませんように。毎日各地で声を上げてくれている人たちに連帯する。

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蕎麦屋

今日もいいお天気、かと思いきや夜は雨とのこと。

この前、蕎麦屋に行った。冷たいお蕎麦を楽しみにいったのに親子丼を頼んでしまった。冷やしたぬきがはじまってたからそれにしようと思ったのにねえ。食べながら俳句を作ろうと思い狭い店内をそっとながらじっくり観察。「はい、今お伺いしますね、すいません」と親切そうで働き者の店員さんが途切れない客にお茶やら水やら蕎麦やらカレーやらを運んでいた。高いところにテレビがあってワイドショーをやっていた。テレビを見ようとすると隣の人がこちらを向いてしまうので、違うの、私はテレビを見てるの、と思いながら見るのをやめた。テレビでは花火の特集をしていた。今は、というか今も、というかいろんな花火があるのね。昔、大きな花火大会用の花火を作っていた人の話を聞いたことがある。なんだかすごい世界だったことだけは覚えている。蕎麦屋の椅子は小さくて背もたれが低くてみんなが大きく見えた。目線の先の棚には赤い板と赤茶っぽい重箱と少し変わった形の竹っぽいセイロみたいなものがたくさん積んであった。それらはいろんな人に運ばれていくお皿とはどれも違っていたし、私の親子丼も丸い陶器のお茶碗に入ってきたからもう使っていない道具たちなのかもしれない。赤い板は出前の名残かな。あれをバイクに重ねてそれらの器を乗っけて出前していたのかな。今はもう出前はしていないようだった。ビールが入っている透明な冷蔵庫の上には大きな招き猫一匹と小さな招き猫匹がにっこりしていた。二人がけの小さな机の向こうのやはり背もたれの低い椅子には新聞があった。私よりあとからきた高齢の方が慣れた様子でそこから新聞をとっていった。4人がけテーブルで悠々と新聞を広げて読んでいた。良い昼だ。すると私の隣の人も新聞に気づいたらしく立ち上がってとっていった。特にそこが新聞置き場なわけもないのだろうけどなんとなくそこに置かれている日だったのだろう。隣の人はいつものそばが季節ものだったらしく「冷やし中華に切り替わっちゃった」と言われ「おビール」と冷やし中華を頼んでいた。「おビール」という言い方懐かしいな、昼間からビール、良い昼だな、と羨ましく思いながらたくあんを噛んだ。冷やし中華のお皿は和風だった。お蕎麦屋さんのカレーも美味しいけど、お蕎麦屋さんの冷やし中華ってなにかそば要素はあったっけ。でもいいな。食べてみたい。最初に新聞を持っていた人はそばとミニカレーのセットを頼んでいた。どのくらいミニなんだろうと登場を待っていたら思ったより普通サイズだった。その人は新聞をたたんで少し離れたところにおいて蕎麦をすすりはじめた。すると私の隣の人もさっき私よりに雑においた新聞をちょっと自分の方に寄せていた。良き。お金を払う場所はまだ透明な衝立があってもしかしたらコロナで出前やめてしまったのかな、とふと思ったりした。店員さんはみんな丁寧で、常連さんも多いみたいだった。私が行った時間はお昼には少し遅めだったので店員さんがお客さん家族に挨拶しにきたりしていた。三人家族だったけど子供が小さな頃から知っているらしい。

とあれこれ観察はしたが俳句を作るのを忘れていた。だめだ、こりゃ。

今日は忘れ物しないようにしないと。いい1日になりますように。

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暑い、母の汗、本

早朝から暑い。太陽が近いような気がしてしまうが暑さと太陽との距離は関係ない。距離が関係あるしてくるのは実際にもっと近い場合。

母の汗の匂いをいい匂いとくっついてる子どもがいた。母は暑いからくっつかないでといいつつ母の汗ばんだ額を小さな手でいじりながら離れないでいるその子を腕に抱えていた。男の汗のにおいほど母の汗が語られないのは母はあまりじっとしていられないからか 汗びっしょりの子供の身体を拭き、着替えさせ、こういう仕事は別に母の仕事ではないがなんでだろう。母の匂い自体は語られない話ではない。

詩が読みたいな、と思って本棚を探りながら林芙美子の「母娘」という話を思い出した。あれに出てくる同棲相手は詩人の野村吉哉だ。ひどい男だったらしいがどんなだったのだろう。

『歌・句・諺のはなし』柳田國男/折口信夫/高浜虚子 著(中公文庫)もとても面白い。

きたない落ち葉をさまざまにいろとりどりに変容させていく虚子の楽しそうな筆致は特に。

今日もせめて熱中症には気をつけよう。みんな元気で過ごせますように。

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あかり、ハイキング

昨晩、遠くに知らないおうちの灯りが見えるなあ、同じ日曜日でもいろんな生活があるんだろうなあ、と思ってカーテンを閉めにいったらおうちの灯りだと思っていたものはその辺りのアパートの廊下の電灯だった。共有スペースの灯りというのはニュートラルな感じがしていいね、と思ったけどその灯りの下で色々している人もいるか。最近は携帯のあかりだけで済んでしまったりもするけれど。バックライトのことだけど。周囲を照らすのではなく文字を浮かび上がらせるもの。暗闇の中であえてみなくてもいいものもたくさんあるだろうし、暗闇に慣れてきて見えてくるものもあるから灯りとのお付き合いは人それぞれですね。

今朝も早速眩しい。東京29度だって。昨日も熱中症に気をつけながら軽くハイキングしたけど思ったより暑くなかった。山の中にあるお寺7つの七福神を巡ろうとしたのだけど途中で道をなくし4つしかいけず。携帯の地図にはあるのに実際の道がなかった。その分、別のところにはいけたけど。山ではお花はあまりみなかったけどハルゼミが鳴いていてびっくりした。春蝉の季語はやっぱり春なのね。私はこうして夏に聞いたけどきっともっと早くから鳴いていたのでしょうし。低山でも山道を10キロ以上歩くとさすがに足がだるい。トレラン用の靴を軽いハイキング用に持っているのだけどそれがまだ足に合わない。使いながら合わせていきたいけど足痛くなるのは嫌ね。ケアしながら合わせていきたい。

ニュースを見るのは毎日辛いけど流れてきてないニュースの方が多いのだろうからプロセスを想像できないと仕組みがわからないままになる。本来、仕組みなど知らなくても安心して暮らせる生活を組み立てるのが政治家の役目だと思うが、今はもうなんか想像力なんて働かせたらゲームに勝てないからこのまま突き進むみたいな感じで、人の命なんてどうでもいい感じだもんね。辛いし怖い。

福山の山林火災も怖い。消防の仕事も大変だ。人への直接的な被害はないのは良かったが間接的な影響は大きいだろう。早く落ち着くとよいが。

今日は月曜日。良い1週間にできたらいいな。

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移動とか読書会とか。

とっても明るい朝。このオレンジは朝だけのもの。とりたちも元気そう。

昨日は移動が多かった。暑かったけどそんなに汗はかかなかった。汗って歩いている間より止まった時にどっとでる感じがするけど電車がちょうどよく涼しいなかゆったり座れた。快適で乗り過ごしそうになったけど。どの道でも色づき始めた紫陽花をみられた。

夜は分析家同士の読書会だった。何度読んでも内容を覚えられないのも困るけど、興味をひかれて一生懸命調べた相手のことを忘れてしまうのも困る。昨日、忘れていたのはHaydée Faimbergというパリでプライベートプラクティスをしているパリ分析協会の訓練分析家。SNSをメモ機能として使っているので検索してみたら昨年3月に彼女の論文をアンドレ・グリーンとトーマス・オグデンの論文と一緒に良きものとしてポストしていた。結局全部ウィニコット関連。ナルシシズムにおけるtemporality、symbolization、subjectivationの文脈で差異の認識の発生と伝達について考えていたらしい。Macにも部分的に翻訳したものが入っていた。ここまでやってどうして忘れるのか、といえば使用していないからだろう。書き物や発表で引用すれば忘れる頻度はかなり下がるはず。すごく雑ながら訳したのはFaimberg, H. (2014) The Paternal Function in Winnicott: The Psychoanalytical Frame. International Journal of Psychoanalysis 95:629-640とメモしておかないとまた忘れる。このブログもほぼ備忘録。忘れる力はこんなにいらないのにな。たぶん、なにかで引用しようと思って訳したのだろうけど結局使わなかったからこんな我が家の放っておかれ花壇みたいな雑さで保存されていたのね。我が家の花壇の春菊は次々にかわいい花を咲かせるのはいいけど茎がたくましすぎてほかの植物を圧迫しつつある。どうにかせねば。

そういえば先日瀬尾夏美さんの連載がはじまった柏書房のウェブマガジン「かしわもち」で渡邉悟史さんの連載『植物暴力論』もはじまった。とっても面白いのでチェックしてみてください。きちんと紹介する時間が今はない。とうか、当たり前だけど私の紹介文より本文のほうが断然面白いから。なんかこういうとき要約しなければという気になるのはどこからきた習慣なんだろう。今はこうやってリンクを簡単に共有できるとはいえ要約文化って必要だしなくなってはいないと思うんだよね。

そうだ、さっきの象徴化、主体化を時間論から考えることはAIと精神分析の違いについて考えることでもあって、AIの即時性と精神分析の遅延、事後性はまず大きい。あとは frictionless、repetitive、adaptiveの観点か。とかね、忘れないで考え続けられたらいいのにね。

とりあえず日曜日。よい一日を。

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地震、サッカー、土居

いいお天気。明日はもっと暑くなるんだって。危険。昨晩の地震はオフィスにいても大きく感じた。オフィスの入っているビルは気持ち悪い揺れ方をする。揺れの強かった宮城はしばらく注意が必要とのこと。大震災からずっと気が抜けない人もいるのではないか。震災のこともそれぞれが語っていくことが大事なのだろう。

サッカーW杯日本代表が発表になった。そんなにきちんと追ってきていないがJリーグ設立が1991年ときくともうそんなかと驚く。先輩の車でベルマーレ平塚の練習を見に行ったりしたのが懐かしい。今は湘南ベルマーレか。鹿島アントラーズの移転問題はどうなっていくのかなあ。古くからのファンにとっては残念なニュースだろう。

昨日も隙間時間は土居健郎を読んだ。土居は「精神療法のための諸注意(1967)」というフロイトの技法論のひとつ「精神分析を実践する医師への勧め(1911)」のような論文を書いている。東大精神科の精神療法演習の経験から書いたという。土居はそこででこれらは初歩的な常識のようではあるが「自分の中に潜む甘えを自覚した治療者だけがこのような心得を身につけることができる」と書いている。逆に言えば「甘え」の自覚がいかに困難かということだろう。実際常識的なことなのに人から指摘されると思わず反発したくなったり「そんなの知ってた」みたいな態度をとって素直に受け入れることができない場合、それは自覚されない「甘え」の行動化といえるだろう。いえるだろうか?わからない。

今日の夜は読書会。まだ何も準備できていないが一度は読んだことがあるものなので思い出せたらいいな。思い出せたことないのだけど。

熱中症に注意しないといけない季節になりましたね。身体大事にしていきましょう。良い1日を。

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酢、瀬尾夏美新連載、土居健郎

好きなライターさんが紹介していたトマトサラダを作りたくてまずはトマトをつける玉ねぎドレッシングを作って冷やした。こういうときのために良いお酢を買ったのだ!なのにお酢をいれわすれたことに後から気づいた。びっくり、だけど最近こういうこと多い気がする、いや、前からかもしれない。前からと思った方が最近多くなった、というより安心できる。この年齢、衰えと不調を実感することばかりだからな。いいお酢はみんな混ぜ合わせたあとになってしまったけどいれた。あーあ。トマトを混ぜ合わせる前でよかった。またすぐきちんとした工程で作ろう。工程もなにも一番大事なお酢を必ずいれる、ということだけだけど。しかも、あーあと思いながらお酢を棚にしまったらもう一本お酢があるのに気づいた。買ってあった。なくなったと思って買ってきたのに。あーあ。ピクルスでも常備するか。夏だしね。

胃腸の調子を少しでも整えるため少しだけ甘いものを我慢しているが順調に食べてはいる。昨日は水戸土産、亀印製菓の生菓子「めろんけーき」とか。懐かしい香りがした。昔、スイミングの帰りに迎えを待ちながら食べてたメロンの形の容器にはいったアイスとか本物のメロンとの味の違いは特に気にしないですむのがメロンのお菓子ですね。スイカはちょっと気になる。スイカ&メロンバーとかになるともうなにも気にしないかな。

小さなオンライン句会の投句も完了。やはりあまりパッとしないが実景だのみ。経験と環境に助けられる娯楽(時に苦行)。それには感謝しかないが、もっと真面目に取り組まないとね、好きなんだから。

柏書房のwebマガジン「かしわもち」で瀬尾夏美さんの連載『旅をして、西大島で書いている』が始まった。私も西大島の巨大団地の一階にある瀬尾さんたちの仕事場に行ったことがあるが、あの場所にあんな明るい風通しのいい場所があるなんてびっくりした。場所づくりも上手な瀬尾さんの本も写真集も好きで持っている。この連載もいつもいい本を出す柏書房からいずれ本になるのでしょうね。毎日ひどいニュースばかりだけど、それを追うと同時に過去からの声に耳を傾けるために出向くこと、それは読書という営みでもできること。瀬尾さんの文章からいろんな街の景色、いろんな人の声を想像していきたいと思う。

土居健郎の本をようやくまとめながら読み始めた。1950年代前半、土居はサンフランシスコのインスティチュートで精神分析家になるための訓練分析をはじめ、中断した。にもかかわらず日本の精神分析家となった。1950年代後半に土居は「甘え」を着想しその普遍性を精神医学の分野に問いかけはじめる。それは最初から外に向けられたものだった。私は土居に直接教えを受けた世代ではない。いや、私と同年代でも土居先生の教えを受けていた人たちはいるので世代のせいではないか。私は土居のフロイト読解に大変な魅力を感じているので、これからも読み続けると思うが「甘え」理論は本当に厄介だ。オープンなだけに厄介だ。でも対話しないといけない。中井久夫は土居はそれを望んでいただろう、自分も応じようとがんばったがいたらなかった、というようなことをどこかに書いていた。

瀬尾夏美さんたちの活動もそうだけど、過去からの声と対話すること、それができなくなるかもしれない危機感を感じつつ。

今は曇っているけど晴れ間も出るらしい。がんばろう。

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空、ドレッシング、俳句

風もなく半袖でちょうどいい朝。空に水色も見えるけどまだ厚めの雲が多い。夜の気温も落ち着きつつある気がする。まだ一枚薄手のパーカーとかを羽織ってるけど。昨晩の帰り道は雨がぱらついていたが傘をさしている人の方が少なかった。夜中、窓を閉めようと空を見たらなんだか明るい気がして外に出てみた。月が出ているのかと思ったけど雲と暗闇しか見えなかった。なんだか明るかったけど。もうすぐ新月。月が出たとしてもその時間にはまだだっただろう。

ドレッシングがなくなったのでオリーブオイルとお醤油で作った。あと夏だからちょっとこだわろうと思って買った優しい味の黒酢も開けた。蜂蜜もなくなったばかりだからお砂糖を少し加えたけど何かちょっと足りない。友達からもらった奄美大島の炒りごまの香りがあるからいいか。大葉とかもいいかも。あとはサラダの具材を変えるか?

15日締切の俳句を10句作った。自分で読んでもなんだかインパクトのない句ばかりだが実景で揃えているので、その力に頼りたい。少し前まで投句用紙は郵送せねばならなかったがオンラインでの投句が可能になった。なのでもう少し眺める。郵便法の改正のせいだったか、土曜日の配達がなくなり、普通郵便だととても時間がかかるようになった。どちらにしても私の場合、いつも速達でないと間に合わず、郵便料金も改訂されたのですごくお金がかかってしまっていた。オンラインでの投句が可能になって助かった。

最初からオンラインでやっている小さな句会のほうの投句締切も15日。そちらも作らねば。毎回、使っても使わなくてもいいのだがメンバーから題を募集している。私はできるだけそこに出てくるお題を使いたい。今回は「水貝」というのが出ていた。アワビの刺身。私は刺身は食べたことないかも。だから作れないか。すごい贅沢そうだよね。高いのかな、やっぱり。貝はそれほど好きというわけではないが、日本酒とは合う。俳句のために一度は食べてみたい。贅沢なものは旅先で食べたいな。

夏の季語「薔薇」でも作りたかったが全然パッとしない。これだけ毎日薔薇のそばに寄っていって香りを楽しみ写真を撮っているのに薔薇のこと全然わかってないかも。でも「野バラ」のことはちょっとわかるかも。今年はまだみていないと思うけど。シューベルトのというかゲーテの野バラも有名だから知っている。オペラとかみにいきたいな。せっかくオペラシティが近いのだし。私にとっては生活空間だからもっと遠くの劇場に出向いたほうが余韻には浸れそう。オペラシティで観たらすぐに仕事モードになりそうでもったいない気がする。

とGWが終わったばかりなのに休みのことばかり考えている。休みを楽しめるように仕事頑張らないとですね。自分のあり方を丁寧に考えられる余裕が持てるといいけど。突き進むのではなくて。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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ハングルとか

早朝から部屋がオレンジ。だけど今日は一時的にお天気大荒れと言っていたような。大丈夫ならそれはそれでありがたいけど。

久しぶりの筋トレで筋肉痛がひどい。2週間空いただけでこれ。そこそこ使っているはずと思ってもほとんど使えていないということですね。

昨日は俳句の締切を思い出し、作らねばと意気込みながらも『現代詩手帖』の特集「韓国現代詩への旅」を読んでしまった。目次にはカタカナの名前が並ぶ。カタカナは漢字の一部を取り出したものだ。彼らの名前はハングルで書かれるべきなのだろう。ソウルで過ごした3日間、Instaで教えてもらったアプリが活躍した。ついカタカナか漢字を目が拾ってしまい、カタカナが現地にほぼないのはわかるが漢字をみつけてもアプリとは違う漢字だったりした。最初は戸惑ったがすぐに同音異義語でいけるのか、韓国の漢字は、と思った。こちらでの生活の言葉はハングルなのだ。その成り立ちは斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』を読んで知っていた。普段すごく漢字に頼っているわけでもない私がこういうときだけ漢字頼みかよ、とちょっとおかしく、それからは読めはしないが、視覚的な記号として地図上や路線図のハングルと現地の表記のマッチングをはかった。電車内で何度も聞いていた言葉を調べたら「ドアが閉まります」とう意味だった。表記は출입문 닫습니다と学んだ。20歳の頃、ケンブリッジの寮で仲良くなった韓国の人たちにハングルは舌の形、発音するときの口の形だから難しくない、と教えてもらった。漢字から離れて誰もが使える文字を作り出し、生き残らせた国の人たちをすごいと思うし、その国の文字を使うということを単に大事というより楽しく思えたことがなんだか嬉しかった。

今日こそ俳句、と思うが隙間時間が少ない。いいかげんスピーディーに作った駄句ばかりを出すのもやめたい。時間をかければよいというものではないが、17音に対してもっと敬意を払わねば。

それでは今日も良い1日を。

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レシピ、筋トレ、Dominique Scarfone

今日の東京は少し曇ってるかな。東の空に強そうな陽射しはみえるけど。

この前、友達の家で出してもらったお蕎麦とそれに合わせたおかずがとってもおいしくてそれらを再現すべく昨晩はずっとレシピを見ていた。あとソウルの東大門タッカンマリ横丁で食べたタッカンマリのレシピも。美味しいものと出会うとレシピを見る時間が増えてしまってよくない。東大門駅を出てすぐ気になった丘は興仁之門公園という夜景スポットだということも知った。その夜はみんなでタッカンマリを美味しくいただいたあと、公園とは反対の東大門デザインプラザ(DDP)に行って予想より暗いことに驚き(ライトアップされてもイメージしていたより暗かった)そこ直結の駅から地下鉄でそれぞれ帰った。大きさと形状にはびっくりした。ああいうのが東京に建てられるとは思えない。DDPに行くまでの川を渡ったところに平和市場という楽しそうなマーケットもあったし、川縁にもたくさん人がいて夜も楽しめそうだった。今度はしっかり遊びで行きたいな。

久しぶりに筋トレをした。一通りのメニューはこなせたけど最後の方は足が上がらなくなる瞬間もあって自分でびっくりした。筋肉を使っていなかったわけではないので疲労だな。うまくコントロールしていきたい。筋力的には今くらいをキープしていけたら上出来だと思う。体調崩したりすれば一気に落ちてしまうけど自分の中に基準ができていればここくらいまでなら戻せるかなとかイメージしやすいし。筋トレの帰りに大きなカシワバアジサイが咲いてるのを見つけた。毎年きれいに咲くのは知ってたけど今年はここのが一番早く満開近く咲いたかも、私がみたなかでは。

最近、チェックしていたカナダの精神分析家、Dominique ScarfoneのFrom traces to signs: presenting and representing をセミナーで取り上げてもらえるみたいで嬉しい。ScarfoneがHoward B. Levine, Gail S. Reedと共に編者をつとめた“Unrepresented States and the Construction of Meaning”という本に入っている。ScarfoneはSociété psychanalytique de Montréalの訓練分析家。実践からはもう引退しているとのことで残念。ラプランシュによってフロイトに立ちかえり、その方法を再検討し、ラプランシュの考えもさらに展開させた本も書いている。『Laplanche』(2014)『The Unpast』(2015)『The Reality of the Message: Psychoanalysis in the Wake of Jean Laplanche』(2023)がその主な成果。主な関心は、心的機能における時間次元に関する概念的研究ということで私にとってはすごく読む必要がありそう、と思ってチェックしていた。

やることいっぱいだが少しずつ取り組もう。良い一日になりますように。

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事例検討会とかセミナーとか。

いいお天気。昨日は疲れたけど楽しかったな。内輪での事例検討会とアンドレ・グリーン関連の論文を読むセミナーとIPAが主催するクリニカルディスカッショングループの日本語グループ。一日中勉強だった。電車に急いで乗ったら逆方面だったり、急いで帰って次のグループまでの1時間を眠気と闘ったりは大変だった。寝たら絶対起きられない自信があった。

セミナーは『ウィニコットとラカンに学ぶ』(ルイス・A・カーシュナー編著 · 筒井 亮太訳)に入っているアンドレ・グリーンの「現代の精神分析の分岐」が前半、後半は同じくグリーンの「Illusions and Disillusions of Psychoanalytic Work」にFernando Urribarriが寄せたPostscript、Clinical passion,complex thinking,towards the psychoanalysis of the futureを読んだ。これらは精神分析の世界でグリーンがどういう場所でどういう理論を展開してきたかをおさらいするにはいいのだけどグリーンの学術論文を読むのと比べたら退屈だった。フロイトやグリーンは精読しながら彼らの思考を追うのが楽しい。わかるわからないの世界と離れている時間は楽しい。事例検討会普通のわかるわからないの世界にいたら感じられないことの方が多いのでグループでやるのは楽しい。

色々終えたあとはごはんを作りながら「あかね噺」5話、6話を見て気分転換。1話の落語シーンが演出過剰でうーんと思ったがそのあとは面白くみている。本物の落語に行きたいな。末廣亭もせっかく近いんだし。うん、そうしよう。

今日も帽子をかぶって出かけよう。良い1日になりますように。

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5月10日日曜日

光が強まったり弱まったり。昨晩も少しひんやりだった。今日は移動は多いけど一日中屋内だからどうしようかな。いつもほど夜遅くはならないから少し薄着でも大丈夫かも。電車の冷房対策は必要かもだな。

寝不足だけどスッキリ起きてしまったから早朝から家事したりしてPCの前に座るなり眠いな。一応、ノルマはこなしつつあるが、どんどんやっていかないと全く間に合わない感じもする。あ、また光が強くなった。部屋の中が一気にオレンジになるこの季節。もう少し気温が上がってきたら全てが溶け出すのでブラインドに遮光カーテンをつけなければならない。

今年も出るセミナーの資料がすでに自分で読んだことがあるものばかりだったのでよかった。でもいざ読み直したら何も覚えていない、というか読み直して、ああそうだった、このことを言いたいんだよ、と思い出した。実践から離れない精神分析家の文章は思考を促してくれるので何度も読むのがちょうどいいんだと思う。実践から受けるインパクトはものすごいので私もそれらを薄めないように言葉にしていかないとな。

それにしても眠い。まだ早朝だから二度寝しようかな。でも読みたいものもあるから起きてようかな。平日にはない余裕があって嬉しい。口内炎治るといいな。痛い。

いい1日になりますように。

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5月9日土曜日

土曜日。朝は風がなさそう。昨晩も少し寒かったけどセーター1枚で大丈夫だった。日中はそれだと暑かったけど毎日夜の寒さを警戒した服装をしている。

昨日はほとんど外に出なかったけどいつもと違う夕方の時間に少しでたら子供たちがいっぱい。学校が終わって公園で遊んでる時間だった。ちらほらおとうさんおかあさんが迎えに来たり自発的に帰る子もみえた。ひとりぶつくさ怒りながら不機嫌そうに歩いている子や歌うようになにかいいながら歩いている子もいた。大きめの広場で「やめてよー」という声が何度も聞こえて乱暴な言葉遣いの声も何度も聞こえた。なにが起きていたのか知らないけどやめてといわれたらやめなよ、と思いながら歩いた。

やっぱり平日はほぼなにもできない。こういう朝の時間に進めなければいけない。MacAirがもうだいぶ高齢で新しいソフトはインストールできないし動きものんびりになっているけど家でまだ愛用している。FMVは軽くて持ち運びにはいいのだけど充電がMacとは比較にならないくらいもたない。なのでモバイルバッテリーが必要になってくる。ソウルにはパソコン用のモバイルバッテリーをもっていなかったから発表直前に困った事態になりホテルの人に聞いたらながーい延長コードをもってきてくれて充電できた。Macのときはほとんど使わなかったけど買ってあったのはAnker PowerCore Ⅲ 45W。このモデルはもう古いのだろうな。2021年だって。それにしても重い。大体電源があるところで作業するからモバイルバッテリーはそんなに必要としないのだけど最近電源のあるカフェとかにふられっぱなしでやっぱりもっておこうかなあと思ったり思わなかったり。でも使わないともったいないから筋トレと思って持ち歩くか。ただでさえリュック重たいけど。なにか不具合が出たらやめればいいか。ひたすら家かオフィスで仕事すればいいのだけど一気にやるには外のほうが手中できるのだよね。どうしても別の仕事を見つけて取り組んでしまうから。

今日もいいことあるといいですね。どうぞよい一日をお過ごしください。

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5月8日(金)

鳥たちにぎやか。最近、鳥たちの動きが落ち着いている気がする。春の花が咲き始めた頃はそっと近づくだけですぐに気づかれて、花が満開になると蜜に夢中でこちらの動きには無関心になったけどせわしなかった。今はつばめの親は忙しそうだけどほかの鳥はわりと写真を撮りやすい落ち着きがある。オフィスのそばの鳩はアスファルトのうえでいろんな姿勢をしていてそれはそれで面白いのだけど自然いっぱいのなかにいると鳩が実に生き生きとしていて驚く。この前、明治神宮のほうを歩いていたら草むらでなにかがずっとガサガサいってるから待っていたら鳩が枝じゃなくて積み重なるはっぱの上に座ろうと奮闘していた。あんなのはじめてみた。みんなそれぞれいろいろやろうとしてるんだな。

イギリスのドラマシリーズUnchosenがNetflixシリーズ『選ばれざる者』として放映されている。初回から不穏で、そこからもじっとりといろんなことが起きて信じるって行為は怖いねと思った。主人公のロージーの誠実さはいい。サントラもいい。

昨日は昼間、ジャーナルの原稿の校正作業を一気にやった。またもや辛かった。英語だから無心にならないとできないのかと思ってたけど内容が結構濃い。今の私に書ける限界だったと思う。一気に書いて、査読を経て思い切って組み替えて、今回はじめてきちんとそれを読んだような気分。これはモーニングワークのしあげであったと思う。ラカン派もパスじゃない方法を見出せばいいのにね、とふと思った。分析家になって2年、こころをフルに使う体験ができたと思う。それはすさまじくいろんなものを残してくれたがそれは早くも薄くなってきている。分析家になるとはこの薄まっていく体験をどうワークしていくかということでモーニングワークの次の段階にあるのだと思う。

口内炎やらなにやらで疲れがあちこちに出てきている気がするが今週末も休みではないから無理せずがんばろう。お散歩はできそうなお天気。オフィスのそばの新宿中央公園の薔薇も咲いたし、アジサイがもう少し。楽しみましょ。

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GW終わり

夏の光だ。相変わらず辛いニュースばかり。

世界卓球は100周年、ルクセンブルクのニー・シャーリエンって62歳なのか。すごい。これだけ若い世代が出てくる世界で戦い続けられるってバランスがいいんだろうねえ。世界レベルの人はみんなそうなのかもしれないけどここまで身体を維持できているのが本当にすごい。でも身体って弱くてもどこか障害をもったとしても安心していられる環境こそが大事で、自分の身体に可能性を見出せる教育や会話が絶対に必要。ニー・シャーリエンは身体だけではない感じがすごくするから卓球以外でも活躍しているのだろうけど。なんであってもなにができなくても自信を持って生きていける環境が必要。

GW中は面白い会話をたくさん聞いた。特に小さな子と久しぶりに会ったのであろう祖父母の会話が面白かった。内容はほぼ覚えていないが、昨日は「じいじ、じいじ」と小さな子が祖父らしき人を引っ張ってきて、じいじ、全然追いつけるのに「〇〇は歩くのが早くなったな。すごいな」ときっといつもの褒め上手という様子で明るい声を出してて、その子が「なんとかちゃんは5歳じゃないんだって。うん?5歳?6歳?5歳より大人だよね」となりつつ、自分より色々できるらしい子の話をすると「そうらしいね」と同意しつつ、むしろそんなお話ができる孫をほめるというずらし褒めもよかった。この年齢の子どもは「我こそは!」と思いつつ自分より他の誰かに視線が向くことに敏感ですぐに不安になってしまうからみんなみんないいこ、特に目の前のあなたはとってもいいこ、と関わっていくのはとっても大事なんだよね。その子もまだ5歳みたいなんだけど「昔は風があったのにね」とか言いながら初夏の凧あげに苦戦していた。この子にとっては去年だって、先週だって「昔」かもしれないんだなと思った。10年前のことをまだ最近と思ってしまうこともがある私とは生きている密度が違う。彼らの成長は凄まじい。私はオフィスに行く前に寄り道して花の写真を撮っていたのだけど「じいじばか」と聞こえてきたときは「おおっ」と思った。でも全く動じず明るいまんまうまくその子が成功したかのように動くじいじはカッコよかったし、すぐに「じいじすごい」と切り替わるその子もかわいかった。こういう単純さで楽しいときを過ごしていくのも大事。いちいちこだわっていたら消耗するばかり、ってことはかなり多いから。

火水と結構、仕事がらみの作業をしていたけど、朝、飲み物のパッケージの文字を読みながら「○○製法ってどんな製法だよ」とかツッコミを入れている自分に気づいて休みってやっぱりどうでもいいことに注意を向ける余裕があるよね、と思った。私は見えるものは何かしら読む癖があって歯磨きとかもやたら長くなりがちなんだけど老眼になってからすぐ疲れてしまって本当に何も読まなくなった。歯磨きは相変わらず長いけど。でもこうして余裕があると老眼であっても前みたいになんでも読んでいるんだから目のせいじゃなかったということだね。ちなみに○○製法を調べてみたら実際にその会社が開発した製法だった。失礼しました。こういうふうに思ったことを覚えていて、しかも調べるということができるのも余裕のおかげ。

たまにこういう休みをとりつつ5月もがんばりましょう。