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精神分析

俯瞰、洋梨、グループ

きれいな空。遠くでカラスが鳴いている。鳥たちは街を俯瞰できるからいいな。中井久夫はいってもいない街の鳥瞰図を知識から書けたと聞いたことがある。患者さんでもたまにこれができる人がいる。これまで会ってきたたくさんの子どもたちの中にもいた。すごく素敵な能力だと思う。書けることがそのまま考えることに繋がるわけではないけれど立体的な思考がなければ書けないわけだから。平面に線もひけない状態を知る私はその状態に共感するわけだけれど。

上野原の「びりゅう館」で買ってきてくれた塩山の洋梨を食べた。常温で食べ頃を数日待っていた。昨晩、お、そろそろ、と思って冷蔵庫に入れて、今朝むいた。つるんと手から逃げられたりしながら。甘くて美味しかった。洋梨は独特の甘さがありますね。

開業して7年経つけどフロイトを読むReading Freud(そのままだけどキノドスの真似)とか事例検討グループを続けてきたのはよかった。心理職の世界は30代になってもまだ自分のことを若手、未熟、と言い続けている場合が多いけど私はそういう話がでるたびにそれでは困るのでは、と言っている。他の職種のみなさんとの仕事ではそういうことはないので臨床の難しさがそう言わせているのだろうとは思うけどあえていう必要もないと思う。なんかそういう言葉が親しみやすさ的なものと繋がっているようで、学問とは、といつもなる。臨床も学問も孤独だし、そこでもがくうちにできる相手が職業上はいい関係になりうるかもしれず、学術的な議論以外の繋がりばかり作っても、と私は思うので、ひたすら難しいフロイトを読み続けるとか初回面接を細かく検討するとかしつづけてきてよかった、となおさら思う。実際、メンバーの皆さんは学問としての精神分析や臨床を楽しめるようになっているし、資格によって何者かであるかを規定しようとする思考とは異なる世界でどんどん力をつけていってほしいと思う。外側からなにか言っていても飛び込まない限りは自分とは無関係だし、時間はどんどん経っていくし、飛び込んでみたら自分たちの想像とは全く異なることが起きているということがわかってあれはなんだったんだろうとなるだろう。今の自分が今どうしたいのかを考え続けることが私はとても大事だと思う。

それにしても頭が痛い。外側も痛い。ぶつけた覚えがないというのも怖い。病気も怖いけど、ぶつけたことを忘れているのでは、と思ってしまうのも怖い。自分の記憶の曖昧さはいつも信用できないけど信用できる部分を活かして今日もがんばりましょう。いいお天気になりますように。

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イベント 精神分析 趣味

ルイーズ・ブルジョワ展、共有

きれいな空。まだ濃い。熱い紅茶が美味しい。

六本木の森美術館でやっている「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」へ行った。もっとゆっくりみたかったがエネルギーも足りなかった。かなり疲れたがとてもよかった。27年ぶりの日本での展覧会ということだが、私はこの人の名前は知っていた。彼女が精神分析に長く通っていたので精神分析の文脈で。ジュリエット・ミッチェルが結構最近も取り上げてきた気がする。そしてメルツァーとの共著で有名なメグ・ハリス・ウィリアムズも彼女について書いている。ジュリエット・ミッチェルはフェミニストだとは思うけど、精神分析的にはラカン派でもなさそうだし、いまいち位置付けがよくわからない。メグ・ハリス・ウィリアムズはメルツァーと共著を書くくらいだからクライン的に作品を解釈するわけだけど、私は今回実際に作品をみて乳房とペニスの結合はこうやって表現できるのか、とすごくびっくりした。布と糸を使うのも彼女の人生にはずっとあったものなのだろうけど意識と無意識をそれらで表されるとものすごく新鮮でちょっと考えてみたいことが増えた。

昨日はネット上でもみんな谷川俊太郎の話をしていた。本当にたくさんの投影をうけている詩人なんだなぁ、と少しおかしかった。普段の人間関係で共有というと片方しかそれを喜んでいない場合もあるがあそこまで歴史も長く懐の深い音の世界だと誰もが密かに好きでいられる部分をもてるのもいい。おおざっぱな判断と解釈はみんながいっていることを自分の発見として自分だけが満足となる場合が多いけど特別なときだけではない感覚は共有できなくても全然いいが表面的ではないのでじんわり共有できる場合も多い。谷川俊太郎の詩のように押し付けがましくなくいきたい。あれこれ大変だが今日もがんばろう。

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精神分析

谷川俊太郎さん

谷川俊太郎さん、亡くなったか。いつまでも生きていると思ってしまっていたが。私が生まれてはじめて詩人として知った詩人はあの人だろう。そういう人は多いと思う。水木しげると妖怪がセットなように谷川俊太郎と詩は絶対的なまとまりだった。この場合の詩はジャンルとしての詩ではなくて谷川俊太郎のそれであってもうそれだけでひとジャンル確立されていた。昨年、友人のラジオで谷川俊太郎の「みみをすます」で遊ばせてもらった。私の開業の始まりのウェブサイトにも載せた。いくつかの展覧会も毎回最高に面白かった。言葉にはここまでの力があるのかと思った。彼はここ数年の日本をどう感じていたのだろう。自由な生き方に見えるがどの時代においても自由を獲得する努力を怠らなかった結果なのだろう。見習いたい。彼の詩を読めば文字は音そのものでどこにでも連れていってくれる乗り物になる。実際にお会いしたことはないけれど私の人生のこんなに長い時間、私の心にいてくれてありがとう、と思う。

今日も河口湖チーズケーキファクトリーの抹茶ケーキとあっつい紅茶。今朝はあまり寒くない。寒いといっていたようなのだけどあれれ。寒いはずが寒くないのは私としては大歓迎だけど。昨日は寒かった。かなり厚着をしていた。毎年着込む以外の調整をしていない。そうだ、オペラシティの雑貨屋さんに行ったら白湯専用のマグカップが売っていた。お湯を入れるとすぐに白湯と呼ばれるくらいまでに冷ました上に保温してくれるようなことが書いてあった。ペットボトルで白湯があるくらい貴重なものになったね、白湯。その店はクリスマス用の雑貨も売っていたけどまだ端っこに置かれていてメインになるのはこれかららしい。売り場移動中、みたいなことが書いてあった。オペラシティの地下一階、外の広場のイルミネーションの設営も始まって点灯の確認作業をしていた。ベーシックな色合いがかわいい。今年はどんなクリスマスツリーになるのだろう。雪国はもうとても寒そう。当たり前に雪が降っている。厳しい季節を無事に過ごしてほしい。富士山の冠雪はどうなったのだろう。この前、新幹線の中から見たときは白くなかったのだけど。今日もいろんな景色の中で自然に過ごせますように。どうぞよいいちにちを。

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イベント 写真 散歩

出不精ながら

今朝は河口湖チーズケーキガーデンの特売抹茶ケーキ。チーズは入っていないから余った抹茶で作ったりしてお安かったのかしら。安かったんだって。ポロポロするけどそのポロポロもちまちま食べたくなる美味しさ。いい香りだし。河口湖の紅葉の名所「もみじ回廊」もそろそろかな。東京もだいぶ色づいてきましたね。立冬を過ぎたとはいえようやく秋になったのでアクティヴになりたいけどなんか暑かったり寒かったりで今日はお出かけ日和だみたいな気分にならないというか、元々出不精なだけだけど、色々行きたいな、と思うばかり。でもこれは行っておかねば、というものでオフィスから行きやすいところには立て続けに行きました。もっと寒くなったらいよいよどこにも行きたくなくなるから。

上原沙也加さんの台湾を舞台にした写真展は馬喰横山駅から数分。近いのに迷ったから汗かいたけどオフィスのある初台からは一本。

細井美裕さんの初個展「STAIN」は神宮前2丁目。神宮前にはオフィスから西参道を歩いて明治神宮へ入り、明治神宮を抜ければ着くのだけど神宮前2丁目は駅からちょっと遠い。千駄ヶ谷駅から行くのとたいして変わらない気がする。あの辺は好きな通りなんだけど私の中では目的なく歩いていると出るような場所で全然通りを覚えられず毎回迷い、今回もギャラリーのすぐそばを何度も通り過ぎて汗だくになった。なんでこの季節に汗かかなあかんのか、と思いつつ。

そして瀬尾夏美さんたちNOOKの事務所「Studio 04」でやっている「現代・江東ごみ百鬼夜行」。江東区西大島の大きな団地の一階。西大島も初台から一本。

どれも行ってよかった。世田谷文学館とかはもっと行きやすいのだけどちょっと変わったところにいきたい欲望も働いてしまう、でも行きやすいところ、と思ってしまうし。絶対行きたい展示があと二つあるけどこれらは遠くはないが面倒・・・。来年「美」について語る機会をもらったので美しいもの、こと、にはたくさん出会いたい、というか体験から考えたいが。

新宿中央公園が毎日きれいだからいいか。今日は雨なのかな。でも晴れてきたかな。いいこともあるといいですね。

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精神分析 言葉

NHK短歌、ムーミン、精神分析

NHK短歌を見た。大森静佳さんのムーミンの歌、すごく良かった。ゲストは大好きな祖父江慎さん。ムーミンはいろんなことを教えてくれるしこうして今にも受け継がれている。すごいことだ。今、我が家にはムーミン谷のお土産が色々ある。埼玉のだけど。

空が水色。テレビ見てるとあっという間ね。

精神分析のことなんだけど、週4日も同じ人のところへ通っていると相当量アウトプットしつづけることになるわけで、あれは特異な体験だったな、と思う。沈黙も対話によって生じる沈黙と自分のなかで記号化できないなにかを感じ取っている間の沈黙では異なるし、こうやって一人でアウトプットしているのとカウチで分析家の隣でアウトプットし続けるのって全然違う。

今も昔もだろうけど精神分析を受けているといえば即、知りもしない人の家の台所事情やライフプラン、夫婦関係や家庭状況にまで言及してくる人もいますがそれはそれ。推測も憶測も自由。でも財産も生活も共有しているわけでもない人がプライベートな部分に踏み込むことがあるとしたらそれには守りが必要でしょう。自分の判断だ、自分の選択だ、と言ったところでそれは実に揺らぎやすいものなので誰かに何か言われるとすぐに揺らいでしまうのが私たちですがそういう揺らぎも大切にすべきだしされるべきでそういう作業を始めた人を邪魔しないでほしいなと思う。学術的な議論としてするならともかく。精神分析は侵入する、されるがたやすく生じやすい設定だけど、それは関係が近いからだけでなく、人の心は脅かされやすいから。そして脅かされると攻撃に転じやすいから。だから精神分析家の方は訓練を必要とする。特定の他人に自分を晒しつづけるという訓練を。それは同時に誰が相手であっても晒すものではない自分(境界)を作るプロセスでもある。他人とどう関わるかは自分の自由である、ということを各々の倫理において確立するプロセスと言えばいいのでしょうか。被分析者の方も精神分析家になるための訓練が目的ではないとはいえ体験としては同じ。狩野力八郎先生が患者さんの方が家族よりも自分のことをわかっていると思うとおっしゃっていましたがこれも単純に受け取るべき言葉ではないでしょう。私も「ある面では本当にそう思う」と思っていますが。ラカンが精神分析を受けた人は精神分析家であるといったのにも非常に納得していますがこれも単純な話ではないでしょう。精神分析家は偉い人でも優れた人でも性格のいい人でも全くなく(そういう人もいるでしょうけど精神分析がそうしたわけではないと思う)非常にマイナーな職業にも関わらず資格として考えるとなんとなく持っている人、待っていない人みたいな分類のもとに思考が展開してしまう場合もありますね。子供がいる人いない人みたいなものでしょうか。だったら子供がいない人にももっと寛容であってほしいな、同時に子供がいる人にももっと手厚いサポートをしてほしいな、とかも思いますがそうはならない思考が展開されるというか停止するというか、とにかく決めつけが入りやすい類の問題なのでしょう、何者かであるというだけで。外側から何かをいうことのたやすいこと!学問に対して自分倫理を持ち込むことに危機感はないのかと思うことはしばしばですが、自分は自分で誰かとは全く異なる生活と運命であるはずなので自分の考えや欲望に注意を向けることがとても大切でしょう。精神分析家としてはそのための時間と空間を提供しているつもりですが人と人との関係は操作できるものではないので一緒に作業できるようになるまでは安全や安心とは遠いのかもしれず、そういう現実と出会いながら対話を続けていくことが必要なのでしょうね。継続的な関わりの中で自分自身が実感を掴んでいくこと。その実感も一瞬にして幻に変わる場合もあるけれど、それにも素直に出会っていくこと、歳をとればとるほどそれまでの経験で様々なことを語りがちですし、若ければ若いで少ない経験で語りがちですが、事実として語り継ぐ責任はそれぞれにあると同時に、自分の体験の不確かさを他人の言葉でたやすく補完せずに持ちこたえていきたいものです。ムーミン谷の優しさを思い出しながら今日もがんばろう。

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読書 音楽

『大使とその妻』、中村達、柳樂光隆の仕事など。

湯沸かしポットがくつくつふつふつ音を立てている。カチッとなった。お湯が沸いた。夜中に千葉県東方沖震源の地震があったのか。東日本大震災のとき、千葉も大変だったとTDLの近くに住んでいる友人が言っていた。詳しく聞いたのだけど詳細を忘れてしまった。細かく知るとそれぞれに本当にさまざまなことを超えてきていることに驚く。水村美苗『大使とその妻』の主人公も相手の話を聞くことで感じ続け驚き続け心揺らし続けている人物だ。主人公が知る事実は私たちも知っておいた方がいい事実であり、でもそれは知的水準にとどめておいてはならない類のものだ。そして物語の中で主人公が生きる状況は私たちがほんの少し前まで生きていた現実だ。私たちはたやすく忘れていくけれども。そしてこの本に関して具体的な紹介をしたくないと思うのは私たちの人生はキーワードで括れないということをこの本自体が示しているから。たとえば「東日本大震災」という言葉を使ったとたん、何かのストーリーが思い浮かべてしまうような心性を誰もが持っていると思うが私たちの想像力は相手の人生を知るほど豊かではないということに主人公も何度も突き当たる。それは当たり前だからこそ何度も愕然とし心がずっと揺れる。私たちはすぐに知ったかぶりをして心揺らさないようにするけれど。別の本で短い書評を頼まれているのでそれを読まないとだがまた別の本ばかり読んでいる。その本もすでに話題の一冊だが何か書きたいと思うことがどんどん浮かんでくる本だといいな。私は読まずに書ける方では全然ないから。『大使とその妻』は優しい世界をくれた。またこういう本に出会いたい。人を信じられるようになるような本に。

中村達氏の『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)がサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞した。柏書房のwebマガジン「かしわもち」で連載している『君たちの記念碑はどこにある?』とともに大きなインパクトをくれた一冊である。今年はカリブ〜アフリカ性を考えさせられる本や音楽とメインに出会ってきた。もはや東洋と西洋の二分法で世界を捉えるのは困難だろう。音楽は柳樂光隆のインタビューで黒人のジャズミュージシャンたちの考えやジャズ自体の歴史を知ることで色々触発された。最近でたジョン・バティステのインタビューも非常に良かったし、ジョン・バティステの新しいアルバム『Beethoven Blues』は私もとても気に入っている。前作、前前作と全く異なる方向からだったのでびっくりしたがこういう驚きをくれるという期待を本当に裏切らない。こういうところに彼が黒人であることと向き合い続けることを含む思考の強さを感じる。私は私が知ろうとしてこなかった世界について語る言葉をまだ全然持たないけれど紹介してくれる人たちを含め彼らの仕事を尊敬する。今日もがんばろう。

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精神分析、本

足指、マゾヒズムの本

まだ暗い。朝焼けはまだ始まらない。洗濯物を干した。ハーブティを淹れた。柿も剥いた。この週も週一筋トレ以外身体をほぼ動かしていないのでふくらはぎのストレッチでもしようかなと思ったら自重でも痛くてすぐにやめた。自重だから痛いのか?足裏が浮きやすいので100円ショップの足指開きパッドを久しぶりにしたらこれもまた痛い。ヨガやっていたときは足指マッサージとかグーパーとか色々して温めてから始めるからだいぶ開くようになってきたのにまた戻ってしまった。パッドを入れる段階でイテテとなる。でも以前は5本指ソックスも痛くてすぐ脱いでしまっていたことを考えるとすごく戻ったわけでもないのかな。こういうのは地道に身体に慣れてもらうしかないのだろうねえ。ちなみに小指が薬指にくっついてしまうのって寝指というそうだ。私は身体が硬いのも問題なのだけどいろんなスポーツ選手のメンテナンスをしているトレーナーさんによるとぐにゃぐにゃで困っているバレリーナさんとかもいるらしい。小学校のとき、友達のバレエの発表会を見にいって私には絶対無理なことをたくさんしていたのにもびっくりだったけどメイクにもっとびっくりした。楽屋で見たから近すぎてなおさらだったのだろう。普段と全く変わってしまう。今だったらバレエ自体をもっと楽しんだりできるのに子供の頃はまだ体験が少ないからというか私の注意力が変だからかメインに注目すべき場所と違うところばかり注意が行ってしまっていた気がする。あの子はもうやめちゃったかな。別の友達は大人になってバレエを始めて「あみちゃんも絶対できるよ」と言ってくれたけどその後の自分を見るに懸垂はできるようになるかもしれないけどバレエはやっぱり無理だったと思うよ。あなたと行った渋谷のチャコットはなくなってしまったよ。私は通りを挟んだ無印良品側のバス停からチャコットが壊されていくプロセスを週2回はみながらその友達に心の中で報告していた。今はもうそのバス停は使わないけど跡地はどうなったのかしら。

空が少し薄くなってきた。でもまだ暗い。雨が降ってるのかな。

今朝はMasochism: Current Psychoanalytic Perspectivesに入っているオットー・カンバーグの論文を読んでいた。昔購読会で読んだけどすっかり忘れている。1993年出版、目次はこれ。いろんな立場の人が書いている。

1. Introduction – Robert A Glick and Donald I. Meyers
2. The Concept of Character: A Historical Review – Robert S. Liebert
3. Sadomasochistic Excitement: Character Disorder and Perversion – Stanley J. Coen
4. Clinical Dimensions of Masochism – Otto F. Kernberg
5. Those Wrecked by Success – Roy Schafer
6. The Analytic Concepts of Masochism: A Reevaluation – Stuart S. Asch
7. The Narcissistic-Masochistic Character – Arnold M. Cooper
8. Masochism and the Repetition Compulsion – John E. Gedo
9. On Masochism: A Theoretical and Clinical Approach – Herbert A. Rosenfeld
10. A Consideration of Treatment Techniques in Relation to the Functions of Masochism – Helen Meyers
11. The Precursors of Masochism: Protomasochism – Eleanor Galenson
12. Adolescent Masochism – Charles A. Sarnolff

翻訳されなかったけど一つの概念について異なる理論的基盤から書かれている本って勉強になる。マゾヒズム(反転するものとしてのサディズム含む)についてもフロイトに遡って考えないとなあ。学会ではナルシシズムに関する発表をしたけどつなげて考えるべき問題ではると思う。夢の報告ではサドマゾ的なものは多く見られるけど日常生活でも治療場面でも扱いづらい問題。もちろん人はその部分だけで生きているということは全くないけど細やかなものを飲み込んでいくあり方ではあると思う。病理となるものは大体そうなのかもしれないけれど。

さてさて11月ももう半分過ぎてしまった。次の課題に取り組まねば。今日も無事に過ごしましょう。

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散歩 精神分析

すずなり、無意識

先日、名古屋の知らない駅で降りて横断歩道を渡り終えたら後ろからおばあさんが呟いた。「すずなり」という言葉だけが聞きとれた。なんだろう、とキョロキョロ横を向いたり上を向いたりしていたら結構高いところに柿がすずなり!小さな丸いオレンジがたくさん。鈴なり、まさに。昨晩、いつもの遊歩道に小さな柿が落ちていた。こんなところに柿あったっけ、とまたキョロキョロ。あった。この狭い道だとその高さは見ないな、見えないな、という場所に柿がすずなり。あのおばあさんのことを思い出した。私に話しかけてくれたのかなあ。少し距離があったから柿を見つけてそのすずなりぶりにびっくりしてなんとなく後ろの方にいるおばあさんに会釈をしただけだった。教えてくださってありがとうございます。自分では見つけられない景色、毎日歩いてたってそうなんだからましてや知らない街でなんて。声を大事にしたい。

エレンベルガーの『無意識の発見』を少し読み直した。無意識を発見したと言われる第一人者のフロイトだが、それを発見させたのはブロイアーと一緒に治療した「アンナ・O」と言われた患者だ。後にアンナ・Oはベルタ・パッペンハイムという社会事業の先駆者であるとわかるのだが、エレンベルガーはこの治療の成果に関する嘘を指摘している。実は、患者もフロイトもこの治療は失敗だったと言っていた。ブロイアーはこれでフロイトと離れるわけだが、フロイトがブロイアーの非難をするのは『ヒステリー研究』の20年後だ。精神分析の設定はこの頃まだ使用されていない。ブロイアーは開業医であり、診察と入院によって彼女を治療していた。つまり無意識はカウチの上で発見されたのではない。もちろん無意識という言葉自体はずっと以前からあったわけで、しかし現代はそれはほとんど重要視されないわけで、それでも精神分析はそれについて考え続けているわけで・・・。うーん、いろんな気持ちになるが自分の立場を明確にしないことには前提の修正もできない。ふわふわと周りで何かいうことは簡単だが患者がいて自分がいてという状況が現実にあるのだから歴史の見直しと思考は続く。

今日もがんばろう。

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俳句 散歩 趣味

霜田あゆ美さんの個展。

朝焼け。昨日は夕暮れもきれいだった。オフィスにいると西の空は見えないのだけど高層マンションの窓に映る。紅葉もしてきた。きれいに色づいた大きな木から鳥たちがたくさん出てきて驚いたり、野良猫が急に横切ったり、いろんなところでいろんなことやものを目にしている。はずなのに俳句が作れない。

俳句日めくりカレンダーに載っていた秋の鳥の俳句。

鶺鴒や廊下の窓を拭く係 加藤かな文

海光に浮力のありて鳥渡る 今瀬剛一

うーん。なぜこういう言葉を思いつくのか。言われてみれば知らない言葉では全然ないのに俳句として成り立つ言葉選びができるのがすごい。先日名古屋で場所を変えぬ川鵜を3羽みた。その対岸や川中で白鷺がアクティブなのと対照的だった。どちらも季語としては夏だから今使うなら「冬の川鵜」とかにする必要があるのだろう。「月」は秋以外は「春」「夏」「冬」をつける。月といえば秋ってことで。私はどの季節も「鳥ー」「月ー」と毎日呟いているけど季節は全体として感じることが大切ね。

先日、句友のイラストレーター、霜田あゆ美さんの個展に行った。今年もあゆ美さんのカレンダーを入手できた。昨年はあゆ美さんが作るのが間に合わなかったとのことでたまたま出会えたあゆ美さんの師匠の安西水丸さんのカレンダーを飾っていた。毎回、とても素敵な作品ばかりで全部ほしい!と思うけどそれでは我が家やオフィスがギャラリーになってしまう。それ以前に買えない(労力を思えば安すぎる値段ではあると思う)。しかし、私のオフィスには一点だけあゆ美さんの作品があるのだ!なんとなんと。前回か前々回の個展ですっごく気に入って買わせてもらった。毎日見られる場所にお迎えできるなんてなんと幸せ。今回、これが素敵、これが好きと話していたらあみさんは変なのが好きと言われた。そうなのよ。あゆ美さんのイラストはとってもあたたかくてちょっと変なのが多いのよ。そこが大好き。今回は布を使った作品もあってそれもとってもよかった。生地であんな色が出せるのかあ、と思った。技術的には出せるのだろうけどあゆ美さんの使う色の組み合わせがすごいんだよね。とってもときめいた。表参道のそのギャラリーに行くのははじめてではなくて迷わずにいけたのだけど作品をみていい気持ちになっていたら帰りは迷ってしまった。あの辺は何もない方に出てしまったら逆へ行けば大抵どうにかなる、とわかってるけどこの方法は全然学びにはならない。なので私は毎回迷っている。行きは一生懸命地図とか見るけど帰りはいろんな素敵な作品で頭も心も満たされちゃってるからねえ。個展は今日まで。小さなギャラリーだけど見応え十分。幸せだったなあ。お時間あればぜひ。

さてさて今日もいきましょうかね。色々どうにかなりますように。

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お菓子 精神分析 音楽

紅茶、人それぞれ

朝焼けがきれい。鳥たちが賑やか。熱いハーブティーと友人の紅茶のパウンドケーキ。戦後消滅しかかった国産紅茶(丸子紅茶)を復活させた村松二六さんの淹れてくださったミルクティーから着想を得たとのこと。静岡県に丸子という地名があるのですね。「まりこ」と読むのか!ちびまる子ちゃんも静岡だしね、とか思っていたのに。東海道の宿場町のひとつですって。宿場町は楽しいですよね。行ってみたいな。丸子紅茶も買ってきたい。お茶って葉っぱとしては緑茶、紅茶、烏龍茶、みな同じ。最初に知った時は驚きました。静岡の親戚のお茶畑でお茶摘みをしたことがあるけどものすごく大変で地道な作業。お茶のおかげでほっこりできる毎日。ありがたいことです。何事も丁寧な作業は大切。私は毎回原稿も俳句も当日過ぎてよくない。日々繰り返す作業に変えていかないと。今日締め切りの俳句もまだ作ってない・・・。複数のことを同時にするのが苦手だということは十分わかっているのだけど苦手すぎて自分の理解を超えている。あっという間に注意が逸れたり忘れてしまう自分に驚く。学会の発表原稿も時間を間違えていて結局当日の朝に書くことになったし。友達には「いつものことだよね」と笑って応援してもらえたが。私もいい加減直さないといけないがこうやって受け入れてくれる存在がいるとその場その場で助けられる。ありがたいことです。duolingoのフランス語は38日間続いている。今も一回やったから39日間。こうやって思い出したときにやるようにしてるからなんとかなってる。5分もかからないからNHKの講座より注意が逸れない。人の話をじっくり聞くのはできるのに対面でない講座は聞けない。人にはそれぞれいろんな特徴があるものですね。あとは心身の状態で感じ方や行動は変わってきてしまうから無理せず行くのがやっぱり一番いいかな。精神分析とか受けると結構「無理かも」と思う瞬間は増える。最初は週4日通うのに疲れるけど身体の疲れはリズムができればなんとかなる。学校に毎日通っていたことを考えれば。私は通っていなかったけどなんとかなった。身体化はすると思う。どうしても自分ではどうにかできないものが出てきてしまうから。知的な作業では全く追いつかないスピードでこころって動くから。だから「もう無理」という瞬間が何度も訪れる。だから密で硬い構造が必要。生身では守れないけど構造で守れるとして構造に対する吟味は常に必要。単に頻度とかそういう話ではない。こういうことは延々考え続けている。今日の隙間時間は俳句のことだけ考えねば。

さて今朝はクリスマス・ジャズのプレイリストを流していた。Norah JonesのChristmas Callingはとてもいい。東京はいいお天気。どうぞよい1日を。

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お菓子 精神分析

とりあえず

少し遅くなってしまった。鳥たち元気、というかとりあえず鳴いている。でもやっぱり大きな声で鳴けているというのは元気ってことでしょうか。人間だと概ねそうで、かなり早めに出してあげないと死んでしまうかもという状態で生まれた赤ちゃんが大きな泣き声をあげたときにみんな「ああ、泣いた」とまずは健康な機能の存在を思って安心したりする。

週末は名古屋にいた。大学の医学研究室ってはじめて入ったかも。そこでこじんまりと精神分析と訓練について話させていただいた。みなさんのいろんな思いも聞けてよかった。ひとつひとつ具体的に考えようとしても知らない世界のことはかなり想像しにくい。これからのライフプランを具体的に考えたところですぐに思った通りにいかない事態が生じるのと同じ。それはどっっかでそういうものとわかっていたはずのことかもしれないけれど。何かを知るには良くも悪くもモデルが必要だし、まあとりあえず、ってやってみることも大事かもね。

今朝はチーズケーキの残りとハーブティ。週末はお菓子もたくさんもらって元々ある我が家のお菓子と合わさってすごく豊富。ぬいぐるみとならお菓子屋さん開ける。年末の蓄えができた感じだから安心して11月を満喫しないとね(なんのこっちゃ)。今週もがんばれたらいいね。起きたり寝たり食べたりとりあえず必要なことを。

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お菓子

白湯、お菓子

鳥の声が聞こえない。テレビをつけた。柳家わさびが落語やってる。とても久しぶりにみる、といっても流してるだけでこうしている。時折聞こえる笑いが心地いい。そして今朝も白湯。少しまだ熱い。俳句を作らねば。締切が近い。白湯は季語ではないと思うけどいいかも。ようやく温かい飲み物がおいしい季節がきたし。何と合わせたら類想にならないかな。

白湯一椀しみじみと冬来たり 草間時彦

草間時彦は食べ物の句が有名な俳人。1920年(明治30年)に東京生まれ、鎌倉育ち。この前鎌倉に行ったけどあまり句碑に出会わなかった。句碑って意外とどこにでもあるし長谷寺とかにはあるから私が歩いた場所になかっただけか、私が見逃しただけかもね。

秋鯖や上司罵るために酔ふ 草間時彦

週末はこういう人も多かったかもしれない。酒のつまみはなんでもいいけど言葉だけじゃもちろんダメ。私が最近食べた珍しいつまみは「あん肝の奈良漬け」。ほぼ奈良漬けなんだけどきちんとあん肝。こういう取り合わせって日常ではそうと知らずやっていたりすると思うけどお店で出そうと思った人ってどんな気持ちだったのかな。でもこうやって消費者の「あん肝の奈良漬け?なんじゃ?」という興味をそそるわけだから素晴らしい。珍しくて美味しい食べ物にたくさん出会いたいな。昨日は山形の方にはじめてみるお菓子をいただいてすごく嬉しかった。「梅チョコスティック」。なんとなんと。山形の名産品「のし梅」を使っているそう。おしゃれな箱。ブランデーとかウイスキーに合うとのこと。私はブランデーもウイスキーもほとんど飲んだことがないけどやってみたい気はする。土地が変われば食べ物も変わる。旅先でお土産を探すとその土地の名産がいかに多くのものにアレンジされているかわかる。干物とかほぼそのまんまみたいなお土産も豪華でいいしこんなものまでお菓子にしてしまうのかみたいなお土産もいい。今日はどんなものと出会えるかなあ。

四国、沖縄が雨で大変とのこと。断水や停電も。そういうときどうしたらいいのだろう。どうか被害が広がりませんように。

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早起き

いつもより早く起きてしまった。まだ世の中は暗い。世の中といったら朝昼関係なく暗い、と一瞬思ったが暗いばかりでもないかと思い直す。お湯が沸こうとしている音がする。最近はもっぱら白湯。昨日は自販機の水もお茶も売り切れていて何年振りかに缶コーヒーを買った。意外に美味しく、温かい飲み物というものを欲していたことがわかった。コーヒー自体、あまり飲む方ではなかったが3年くらい前によく飲むようになり、多分カフェインのせいで調子がさらに悪くなりあまり飲まないようにしたら少し改善した、気がする。カフェインの悪影響を色々知ったというのもそんな「気」に影響しているのだろう。まだ起きる必要がないのにぱっちりしているのがなんだか勿体無くて足癖悪く布団を適当に巻き付けたりしながら寝ようと試みたが眠れないのでこうしているが、多分こうしているといつのまにか寝ている。頭を少し使うとすぐに眠くなる。こういう時間に読むべき論文がたくさんあるのに。注意力のなさにも日々自分で驚く。友達が教えてくれたアプリでフランス語の勉強を始めたがアプリが何か言い終わる前に次をタップしてしまう。ああ!と思っても前には戻れない、そのアプリ。結局間違いとなるがそういう間違いにもきちんと立ち止まらないので学ばない。脳科学の発達は素晴らしいけど私個人にどう生かしたらいいのだ。こういうの治るのかな。というか治す必要ないよね、と思うから困ることはあれどモンダイはないのだ。困るのは問題ではないのか、といえば問題かもしれないが困りごとのない人生なんてないだろう。おおむねいつも通り動ければよしとしている。そのアプリでいえばそういう私のために、というわけではないが間違ったところを何度も何度も形を変えて繰り返し提示されるのでいいかげん覚える、という仕組み。時間が経てば忘れるのだろうが、というか実際私は以前通っていたとは思えないほどフランス語を忘れているわけだがうろ覚えのものがあるだけでもちょっと嬉しくなるからモチベーションは高いほうだと思う。この前、私がアプリの登場人物の口調も真似していたら「それも真似しないとなの?」と素朴に聞かれた。もちろんそんなことはない。でもつい真似してしまう。シャドーイングとかもこのノリでやればいいのかもしれない(何度も挫折している)。昨日はあまりお花に会えなかった。日々キョロキョロしてお花探しをしているのだが。でも紅葉には少し会えた。かわいい実も見かけた。木にかかっていた札を見て覚えておこうと思って何回も繰り返したのに忘れている。やっぱり。あ、モッコクだ。鳥たちもたくさん鳴いていてあの実を食べにきているのかな、と思ったけど鳴き声ばかりで姿があまり見えなかった。鳥って目を凝らすとすごい数の鳥が木に留まっているのに全然見えなかったりするから面白い。鳴き声のする方から数羽が飛び立ってそちらの方へ目を向けると「え?こんなにいたの!」となる。この前、それでカメラを向けたら一斉に鳥たちが飛び立ってその部分だけ空が黒くなって私は鳴き声と羽音にびくんとなって写真もとれなかった。そんなのも一瞬の出来事ですぐに何事もなかったかのように静かになり私は残った数羽をカメラに収めた。奄美大島でリュウキュウアカショウビンに会えたときは嬉しかったなあ。とってもきれいだった。上野の国立科学博物館の特別展は「鳥」。もう始まったのかな。絶対行きたい。同じく上野でやっている田中一村も鳥を愛した画家で鳥の絵は特に良かったな。また見たい。頭使わない文章だといつまでも書けるけど今こんなことをしている場合ではないのだ。あーあ。せっかく起きたのだからやろう。今朝もジュリアン・ラージを流してるけどあのライブは素晴らしかったな。貴重な体験を何度も思い出せるような一日でありますように。

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お菓子 散歩

鎌倉

雲が多い。天気予報は晴れだけどこれからどこかへ消えていくのかな、雲。鳥たちはまだそばにこない。もう飛び去ったあとかもしれない。遠くでカラスがしきりに鳴いている。洗濯機が水を回している。

先日、鎌倉へ行った。藤沢まで通っていた時期もあり身近ではあるが相変わらずどこへ行っても記憶が曖昧だ。北鎌倉と鎌倉の違いもよくわかっていなかった。鎌倉駅へ降り立つとずいぶん変わった印象を受けた。前にこの辺で、など思い出話をしながら大混雑の鶴岡八幡宮前の信号を渡り一条恵観山荘へ向かった。道なりにまっすぐまっすぐ歩く。「岐れ路」は右へ。左手に杉本寺が見えたので立ち寄る。お寺にまっすぐ向かう階段は登れず迂回。苔がすごいせいかな、と思ったらそこは「苔の階段」という名前がつけられていた。石畳の苔が抹茶チョコレートみたいで写真をとった。受付の高齢の女性はまるで眠っているような姿勢のままゆっくり手を動かしていたがこちらがお金を渡したことを忘れてしまいみんなで少し焦った。すぐに転がっている新しい千円札を「あったあった」と見つけたが。降りてきたときには受付にはもう誰もいなかった。またまっすぐ歩く。すぐに報国寺へ。私が以前きたと思っていた場所とはずいぶん違う場所だった。美しい竹林は健在。受付は行列。枯山水をのぞむ宅間谷という谷戸に出ると気持ちのいい風が一気に通り抜けていって驚いた。どうしてあそこだけ、谷間だとこんなに変わるものなのかとびっくりした。石庭を眺めるベンチがあるせいもあるがたくさんの人がそこでくつろいでいた。日中は半袖でいられるくらい暑い日だった。一条恵観山荘にははじめていった。少し足を伸ばせば着く場所なのにどうしてこれまで行っていなかったのだろう。江戸時代の初期の建物でお花が美しい素敵な建物。後陽成天皇の第九皇子であり、摂政・関白を二度務めた一条恵観によって営まれたと書いてあった。皇族の茶屋とのこと。野趣あふれる庭をあえて作れる優雅さ。とても素敵だった。来た道を戻る頃には行列ができていたパン屋さんはもう落ち着いており、外のベンチでのんびりカフェしている人たちがみえた。やっぱり鎌倉はいいな。仕事にくる感じで来られる距離なのも恵まれている。

今朝は「やまなし上野原 あんどうなつ」。菓子処植松さんの人気商品。すぐに売り切れてしまうそう。熱いお茶といただきましょう。空の雲が薄くなりつつある。今日も無事に過ごしましょう。

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お菓子

十勝、柳月のお菓子

とても早くに起きてしまった。夜がそのまま続いているみたい。まあ、続いているのだけど。まだ鳥たちは起きていない。朝焼けも始まらない。

北海道帯広市に本社がある「柳月」の「三方六の小割」をいただいた。嬉しい。イレギュラーなコンサルの仕事。いつも帰りに何かを持たせてくれる。三方六は柳月の看板商品。広瀬すず主演の朝ドラ「なつぞら」を見ていた人も見ていなかった人も「柳月」のことは知っているのではないか。お菓子をみれば「ああ、これ見たことあるかも」となるのではないか。「柳月」のある町は「なつぞら」に名前を変えたくらい朝ドラとコラボしていたらしい。「三方六」はバウムクーヘンなのだけど形が少し変わっていて一本だとちょっと長くて今の時代には合わないので小割にしたらしい。個包装なのでお土産にしやすい。まあるいバームクーヘンもまるでもらったら嬉しいは嬉しいけどやっぱり小分けの方がありがたいかな。十勝はコロナ前に最後に旅した場所だ。帯広には六花亭の本社もある。どちらも観光地として楽しめる工夫がされていてたくさんの人が訪れていた。二度目に柳月の前を通ったときは車がずーっと長い列を作っていてなんだなんだといってみたらお買い得商品を求めて並ぶ列だった。生産の都合でお買い得商品へとなるお菓子の種類も個数も当日までわからないという。どのくらいお買い得なのか。そんなに買って賞味期限は大丈夫なのか。三方六を一本サイズで買うのだって躊躇するのに。でもいいなあと思ったけどすでに家用のお土産も買っていたので我慢した。十勝でも本当によく遊んだ。中札内村は散歩しながらアートを楽しめるし、吉田美和の故郷、池田には「いけだワイン城」もある。駅からワイン城にいくまでにはドリカムの衣装が展示されている”DCTgarden IKEDA”がある。ここもとても素敵だった。ちょうど「勝毎花火大会」の日で宿泊先の近くのデパート藤丸の屋上から楽しんだ。その藤丸も閉店した。行けてよかったな。長いこと旅していろんなデパートの閉店のお知らせを聞いてきた。生活はどう変わるのだろう。そこの土地はどうするのだろう。なにがなくなっても人はなんとかやっていくものだろうけど寂しいは寂しいと思う。

鳥が鳴き始めた。朝焼けも始まった。お互い良い一日でありますように。

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読書 音楽

楳図かずおもクインシー・ジョーンズも。

楳図かずおが死んだ。1936年(昭和11年)生まれ。もう亡くなってもおかしくない年齢なのだろうけど死んでいてもいなくても死んでなさそうな人が本当に死んでしまった。私はボーダー柄に対してだけでなく「あ、楳図かずお」と思うことがなにかとあった。近所に建った家に対してもそう思った。どこにそういうものを感じるのか。得体の知れぬ恐怖を感じるわけでもないのに。一度見かけたこともあるような気がする。吉祥寺のご家庭にメンタルフレンドのような役割で通っていた頃に。あの頃の私は本当になにもわかっておらず今思うとゾッとするようなこともたくさんしていた気がする。楳図かずおなら楽しく怖い漫画にしそうだけどこちらは生身だから笑えない。運よく気づけたからいいけれど。楳図かずおは触れてはいけないと普通なら最初から直感的に近寄らない世界に入り込み自由に動き回れた人だったのだろう。漫画は本当に怖かった。今なら少しはエンタメとして楽しめるのだろうか。大人になって部分的に見る分にはとっても面白いのだけど。ずっと広く読まれてほしい。怖いよー。でも多分しばらくしたら「あれ?もう死んだんだっけ」とかなりそう。クインシー・ジョーンズに対しても同じこと思うかも。死んでるってどこかで絶対わかっているくせに。クインシー・ジョーンズに衝撃を受けたのは中学のLL教室の授業でWe Are The WorldのMVを見たとき。その後はもっぱらジャズの世界で追っていた。もっと知っているかと思ったら改めて業績をみてその多さにびっくり。何にも知らなかったじゃん。でもありがとう。音楽や漫画はネット上の情報よりずっと広く受け継がれていく世界だ。読み続け聴き続けていきたい。

最近、鳥たちの移動が多い気がする。渡り鳥もいるのかも知れないがこの時間にこんな場所にこんなたくさんたまっていることあったっけ、という感じで私の見える範囲の移動を感じる。それも今まで気づいていなかっただけかもしれないが。

最近、ものすごく忙しいわけでもないのにあっという間に時間が過ぎてしまう。どうしてだろう。イレギュラーな予定もあっという間に近づいてきて頭が混乱。なんとかするしかないのでなんとかするというかそれ以前に予定を忘れないことが大事。今日もちょっとイレギュラー。紅葉もそろそろかな。いつもと違う場所でいつもと違う景色と出会えたらいいな。良い一日になりますように。

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言葉 読書

青木玉の本、受け身の言葉

朝が来た。毎日来ているが今日も来た。窓を開けているかのように鳥の声が近い。鳥たちもえらいね、毎日規則正しくて。幸田文みたい。幸田文のこと考えながら「そういえば青木玉の本ってどこに置いたんだっけ」とぼんやり思っていたらすぐ見えるところにあった。表紙を見て「ああ」となった。これまでその装幀を美しいと思いつつあまり意識していなかった。『小石川の家』も『帰りたかった家』も幸田露伴が愛用したカバー入り用箋が重ねて描かれていた。装幀は安野光雅。さすがだ。青木玉もこの装幀は「夢のような御褒美」と書いている。余白に魚が描かれた便箋には当然まだ何も書かれていない。それ自体の余白に彼女のみてきた景色が透けて映る。しかしそれは露伴の目でもあり、文の目でもある。一人の子供の、一人の孫の生活史として非常に面白い本になっているのは玉の文才だがやはりこういうのも遺伝するものなのか。玉の娘の青木奈緒も才能豊かな作家だ。才能の遺伝もあるかもしれないがこの家族ならではの言葉が生き生きと書かれるのは玉自身の言葉が子供の頃から大切にされてきたからだろう。これらの本を読むと露伴も文も困った祖父であり母であるが娘であり孫である玉がそれを自由に書きつけているところがもう面白い。基本的に陽気で優しい家族だったんだろうな、と思わせる。私はその人の言葉がどんなであってもその人の言葉として非常に興味深いと思って人の話を聞いている。そこで感じるうんざりも驚きも相互作用だと思うからとても大切。そうだなあ、彼らの言葉には常に対話がある。外とも内とも。となると対話がない状態というのは、ということを考えるのが臨床家の仕事だが私たちは大抵まだ聞こえない言葉として言葉を受け取っている気がする。そういう対話が今として。

先日、生かされている、選ばれている、生きさせられている、など、れる、られるという受け身の言葉に敏感な自分に気づいた。我らおしなべて受動態といえばそれはそうかもしれないが「自分がある」、よって「自分がする・した」という想定をしないと自分の辛さってどうにもならないと思う。選ばれたからなに、生かされてるからなに、生きさせられてるとしたらなに、そう考えてなにか変わるならいいけどそういう表現をしたくなるのってなに、と思う。一方、確実に相手に責任を求めたい場合は受け身の言葉も確実に使うべきだとも思う。と読んだことのないSF作家さんのインタビューを見て思った。SFの水準でようやくそうとしかいえない受け身というのは確かにある。こっちの能動性が発揮できない状態だから。子どもというのはその点、結構苦しい立場にいるわけだが青木玉は無事に大人になってその辺を明るく表現している。遺伝と環境、そういう分類も簡単でいいがそれらもそれってなに、というより「だからなに」という感じかもしれない。いろんなことに「だからなに」と思いながら「だからなに」的な文章を書き連ねている自分は書かされているわけでもないのになにをやっているのか。自分に書かされている、とかなると物は言いようということになる。まあ、今日もあれこれがんばれたらがんばろう。

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散歩 読書

幸田文展など。

鳥が鋭い声で鳴いている。朝焼けがまだ残っている。今日は晴れるのかもしれない。朝焼けが曇り色になることなく空全体に光が行き渡りつつある。そういえばこの前、空の色々な色をどう表現したらいいかと書いたが、実はいろんな色の表現があった。確かに聞かされれば文学作品の中にそれらは出てきていた。普段づかいの言葉にしていないとすぐに遠いものになる。

週末はあまり寒くなかったので仕事を追えサクサクっと出かけた。まずは本八幡。オフィスから一本。都営新宿線の終点。JRも通っている。本八幡は江戸川区の精神科病院に勤めていたときや市川のNPOで色々やっていた頃に何度か行った。久しぶりに降りた。本八幡駅から市川コルトンプラザと往復するシャトルバスへ。コルトンプラザもNPOの何かの行事で車で連れていってもらったことしかなかったので新鮮だった。自分で行くとどこかどこだか全くわからず苦手なGoogleマップを怖々使いながら目的地へ。西新井の看護学校にはじめて行ったときに早めに行って入ったショッピングモールで迷ってしまい早く行った意味が全くなかったことを思い出す。目的地はコルトンプラザお隣の市川市文学ミュージアム。幸田文展を見に行った。母も幸田文や青木玉を敬愛しており私にも買ってくれた。私は倉橋由美子、米原万里、幸田文、水村美苗、森茉莉とかが好き。なんだかんだ女ばかりだな。夏目漱石とかも研究対象にしたいくらい好きだったけど病跡学は私には向いていないと今は思う。フロイトみたいにヒステリーや強迫神経症や恐怖症を明らかにしたい、という強い意志と目的があればいいけど。それに今の時代はあまりいい受け取り手が育たなそう。多様な受け手はいるのだろうけど精神病理学。話し合える相手が多いって大事。精神分析は少ないながらいるからよかった。さてさて幸田文。はっきりしている女たちの文章ははっきりしているそういう態度が作られるまでの紆余曲折を見せてくれる。骨太になるにはいろんな経験を通りぬけ、いろんな人と関わってこそ。幸田露伴は早くに妻を亡くし後妻、児玉八代をとったけど不仲だった。文はまだ5歳、弟もまだ小さかった。露伴は家事の一切を知っていたらしく幸田文は露伴から家事から何から何まで教わったと書いた。この部分、露伴の美意識が面白いのだけど忘れてしまった。私は今読み直すなら文が60代、70代になってからの作品か。私は日本全国を旅するようになってから旅と自然災害がセットになっていて、それほどまでに日本には災害が多いということなのだが『木』『崩れ』は今の私にはとても響くものがある。そこが被災地と呼ばれていなくても山に登れば痛々しい痕跡を目にすることもしばしばだ。公害に苦しみ続ける街もある。この冬は屋久杉に会いに行こうと思ったがまた今度にした。夏はまた能登へ行く。今度は被害の多かった地域へ。もう何かの被害が重なることがありませんように、と願う。ただでさえ日々を重ねる心は感じやすくなっていたりもするだろう。幸田文が自然の摂理に仕方なしと思いつつ人間に期待し力むしかない自分になんともいえない、とまで書いて思ったが文はなんともいえないなんて言わずに木や崩れ、そしてそこで生活する人々に会いに行き書き続けた。感じ続けるために知り続けるために。これぞ関わりという気がする。私は今回幸田文の展示を見ながら被災地にこうやって関わる必要があると感じた。というよりこうやって関わればいいのか、という学びを得た。旅先にしていた土地に水害や地震があったとき、私たちはそこに観光客として出向いていいものか躊躇する。ある程度の時間が経てば観光地でもある被災地は観光客に来てほしいと願う。でも観光地は観光だけで成り立っているわけではない。ただでさえ見知らぬ土地のようになってしまった場所でよそ者の顔なんて見たくもないだろうなどと想像する。家の中の人と目があって昼間なのにカーテンがひかれた場面を思い出す。それでも私たちは自然の状態を知る必要があるのだろう。能登にもまもなく冬が来る。もう一年が経つ。関わり方を考えていこうと思う。

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俳句

NHK俳句とか。

窓を開けた。朝焼けがきれいだった。鳥が鋭く鳴いた。寒くない。朝の準備をしてほうれん草の胡麻和えを作り置き。ほうれん草って美味しいけど水を絞るのが難しくないですか?胡麻がいい匂い。最近は野菜もとても高いので少し遠い八百屋さんで買い置きする。直売所もそのくらいの距離にあるといいのだけどちょっと回り道すぎる。うーん。

NHK俳句は堀田季何さんの回。名句を改悪したものから考えるの面白い。やっぱり名句ってすごいな、と思う。私の最初から悪い句も名句にしていただきたいな。今月は結社誌の締切か。今日は一仕事したら吟行しようかな。恐れていた通り急に寒くなってしまったから涼しくなったら行こうと思っていた場所に全然行けてない。というか私はどちらかというとこもって本読んだり音楽聴いたりしていたい。外に出ても公園でぼーっとしながらそういうことしたい。めんどくさがりなのね。

今日のNHK俳句はオノマトペ「独創的である」「説得力がある」の2点が大事とのこと。そうだなあ。こうやってPCを打つのはカタカタだとありきたりでしょう。のんびり打つと?と・と・とって感じ。乾いた変化のない音は難しいのかしら。ほうれん草を茹でる音はぽこぽこだと普通。どんなだったかなあ。ひたひた、しとしともありきたりだしねえ。うーん。難しい。あー、友人の句が取り上げられている!こういうの嬉しいだよね。ちっちゃい痛み、ちっちゃい欠落感かあ。季何さんの鑑賞もいいけど友人の俳句素晴らしい。いつも着眼点が全然違う。私はそういう才能はないからとりあえずもっと良く観察しよう。何年も言い続けて毎回参加することに意義がある、という言い訳で終えているけどまあ続けましょう。やめたい!と強く思う立場でも状況でもないし何かを見て何かの言葉にするというのは日常だからそのまんまやりましょ。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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お菓子

今朝はそれほど寒くない。チョコが溶けない季節。この長すぎた夏の間はチロルチョコを集めただけでそんなに食べなかった。サンマルクのチョコクロはようやくハロウィンを終えてホワイトチョコだって。温かい飲み物がおいしい季節になってきた。私は今朝も白湯をちびちび。

大変なことでもそうじゃないことでも面白いもんだなと思うことが多い。皮肉だなという意味で使うこともある。それにしても毎日慌ただしくてまとまってものを考えられない。書評もエッセイもどきもよく提出したなと思うけど過ぎてしまうと何も残っていない気がする。そんなことは全然ない、ということはそのときがくればわかるって、しかも結構すぐくるって知ってるのだけど日々流されるように過ごしている感覚にもなるから面白いもんだ。

ゼリー飲料をこれ以上薄っぺらくできないくらいまで長い時間吸っている人がいた。終わりを設定するの難しいよね、ああいう形状の飲み物?食べ物?って。いつまでも吸うことはできちゃうから。赤ちゃんのときから一番慣れてる動作かといえばそうでもないんだよね。吸う力がどうしても弱いとか吸うのがどうしてもうまくできないとか色々ある。それで困る場合とそうでもない場合があるのも面白い。あ、保育園の子供達のこと考えていたら巡回先の幼稚園に返信していないことに気づいた。今しよう。東京は雨っぽいけど無事に過ごしましょう。

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精神分析、本

中村哲さんの本とかメールとか。

南側の窓を滑らせて開けた。キッチンの窓も開けた。部屋の空気が一気に澄んだ感じになる。グチュッとしちゃうかもともらったキウイはグチュッとした部分はあったけど甘くて美味しかった。白湯。と少し前にもらった河口湖土産の富士山型のクッキー。チョコが練り込んである。今日は抹茶とホワイトチョコ。小さい富士山。美味しくてかわいい。毎晩家では作業をする余裕がないので隙間時間に色々するのだけどそれはそれで余裕がなくミスばかりの原稿を送ってしまった。英語だったから自動翻訳で確認しながらコピペ繰り返している間に文章が抜けたりしていることに後から気づいた。まあ仕方ない。締め切りまでに書いただけよしとしよう。訂正する機会はあるだろう、というかいただこう。隙間時間にちょっと読書してしまうのもこういうミスを増やしているのかも。読書は楽しいからなあ。時々パラパラとできるようにそばに置いている中村哲『思索と行動 「ペシャワール会報」現地活動報告集成 [下]20022019』を昨日もパラパラしていたらすごく泣いてしまった。実情が淡々と書かれる中に染み込んでいる中村さんの考えが真剣で温かくて泣いてしまう。こんなふうに絶望以前に淡々と日々の労働をこなすことが優先な人たちの「ふつうの」思いやりに学ぶ。中村さんのスケッチが好きだ。ここは干上がったような茶色い土地ではないの?という場所が緑いっぱいの場所になっている。中村さんたちと地元の人たちが地道に地道に達成した偉業だ。アフガニスタンは戦争では滅びないだろう、でも渇水で滅びるだろう、という言葉がずしんときた。ちょうどお世話になっている先生からメールが来た。意外で嬉しい共有だった。それを読みながら中村さんのこの言葉を思い出したので引用した。精神分析の世界を引っ張ってきてくれた先生方は色々ありながらもこうやって場所を維持してくれた。それだけでも本当に恵まれている私はその恵みを誰かの環境のために生かしていかなければならない。時折忘れてしまう感謝を胸に今日もがんばろう。

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精神分析、本

夢、バトラー

昨晩の夢をもう忘れてしまった。夢を話し始める患者さんは昨日?今日?昨晩?今朝?と言い換える方が多い。昨晩から今朝にかけて、だとニュースっぽいしね。夢を話す仕方って興味深い。精神分析は映画『マトリックス』にでてくるコードを読むみたいなところあるから内容はほぼ記号なんだけど行為する身体を司っているのも脳なわけで夢ってどういう表象なのかと考えると止まらなくなるからフロイトが『夢解釈』書きたくなるのもわかるよね。

カーテンを開けるのが遅くなって朝焼けを逃した。今日はきれいだったろうなぁ。まだ空が赤みがかっている。気温はカーディガンにジャケット羽織ればちょうどいいかな。あとこの時期用のマフラー。冷え性だから首温めるの大事。

なんか突然ジュディス・バトラーを斜め読みしたのだけどすごく勉強になる。前の斜め読みしかしていない本を再び斜め読みして少しずつ理解を深めている感じなんだけどバトラーは言語の人なんだねえ。言語ではどうにもならない最たるものがSEXだと思うのだけど、ラカンでいえば象徴界における現実界を扱っている感じ。バトラーは政治への影響も及ぼせるほどの思想家(っていうのかな)だからこれが必要ギリギリの言葉という感じもする。何が勉強になるって精神分析をこういうふうに引用すると政治的に届く言説になるんだ、という引用の仕方。私は臨床中心で生きてるからそういう思考と乖離しやすい。身体をどう記述するかという問題でもあるからいずれ精読しよう。とりあえず今日締切の原稿書こう。休息はしっかりとりつつがんばりましょ。

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読書

寒くなった

急に寒くなりましたね。困ります。こうなるのではないか、と思っていたけどやっぱり嫌です。近所の散歩道の金木犀は小さな金平糖のようなお花をすっかり散らして地面を染めていたオレンジもすっかり消えてもうすっかり他の木々に紛れなんの香りも放ちません。あと少ししたらそこが金木犀だったことも忘れてしまうのでしょう。来年も「金木犀は?まだ?今年遅くない?」というのでしょうか。少しずつ少しずつ花咲くのが遅くなりいつのまにか冬の季語とかになっていたりするのかもしれません。でも季語はわりと正確に季節を表していて昨日「ああ、金木犀が終わると冬が来るんだな、きちんと」と思ったのでした。あと1週間で立冬。きっとその頃、ちょうど「ああ、冬だあ」と思う風や空と出会うのです。毎年そうですから。

昨晩、また少し水村美苗の『大使とその妻』を読んでいました。私がさっき書いたような季節の変化がとても細やかに描かれています。小説は現実よりもずっとスピードが速く、季節もどんどん変わっていきますがこのお話は軽井沢の家からの定点観測という感じで主人公が毎日どんな道でどんな景色を見ているのかいつのまにか浮かび上がってくるような繊細な筆致が素晴らしいです。主人公の心の静けさやその静かな心が泡立つような瞬間の捉え方も水村美苗らしくて素敵です。少しずつしか読めてないけどそのスピードで十分な本だと思うので今日も夜、少し読みたいと思います。海外の言葉に塗れながら日本語についてずっとずっと考えてきた著者は主人公そのもの、ではないのでしょうけど思考と言葉の紡ぎ方は多分こんな感じでこのあとの展開と同時にそれを描写する日本語も楽しみです。

外は雨らしく時折大きな雨粒が落ちてきたような大きな音がします。落ちてくる間に重なり合って大粒になったりするのでしょうか。それとも落ちた場所の素材が立てる音でしょうか。しばらくしたら晴れると聞きました。しばらくがどのくらいかを聞くのを忘れてしまったけどどちらにしても傘は必要そう。どこかに忘れてきてしまわないように折り畳みがよいでしょうか。そういえば先日いつもお世話になっている方に「あなたが上着を忘れる季節」と言われました。脱ぎ着が多い季節は管理が難しいけれど季節の出来事として捉えてくださるならありがたいことです。確かに患者さんでも「またこの季節がきてしまいました」と調子の悪さや良さを伝えてくださる方も多く「でも昨年は」と少しずつ馴染んでくるその季節の自分の良き変化を感じたり「やっと寒くなった」と久しぶりの体調の良さを喜んだり。ご自身の身体の調子に耳を傾けることはとても大切。それを大雑把位に「いつものこと」とするよりは「金木犀がすっかり散るといつも」とか言ってみたいものです。今日も温度調節できる服装が良さそう。私は足と首を冷やさないように気をつけたいと思います。どうぞみなさんもお身体お気をつけてお過ごしください。

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散歩 音楽

お菓子、音楽、お昼

曇色。水色ともグレーともいいがたい。空以外だったらなにがこんな色をしているかな。柿を剥いた。大きい柿。スーパーの柿はもう種なしばかりだからつるんとしてる。種子があると動物の顔みたいでかわいいのにね。のにね、といってもない方がいいけど。ほんのちょっとだけ渋いところがあったけどほぼ甘くて美味しかった。今日は高倉屋珈琲でポイントが溜まったらもらえるクッキーをもらったのでそれも。「おいしいよー」と言われてコーヒーと一緒にもらったのだけどほんとおいしい。私の好きなサクサク具合。ポロポロするからお皿が必要なやつ。あ、また高倉屋って書いてる。正しくは高倉町珈琲店。失礼いたしました。私の行動範囲にもあるといいのに。

KNEECAPを聴き始めたらすぐに止まってしまった。何度も止まってしまう。Spotifyがおかしくなったのかな、と試しにサマラ・ジョイにしてみたら普通に聴ける。それはそれでおかしいな。またKNEECAPに戻る。今度は聴ける。うむ。全然違う感じの音楽にすれば何かが変わる、というわけではなかった。当たり前だ。当たり前?仕組みがよくわからない。もう止まらないでほしいな。パソコンの問題だったらもっと嫌だけど。KNEECAPのラップはアイルランド語がわからないけど、というか英語でも部分的にしかわからないけど、ずっと聴ける。色々して戻ってきたら終わっていた。どうして途中で突然席を立ってしまうのだろう。目的なく書くからか。音楽はLiam Gallagher John Squireになってる。これは今日の天気と逆をいく軽やかさ。またKNEECAPに戻る。今日はこっちの方がいいな。時々ずっとラップ聴いていたい感じになるんだよね。エミネムの『8 Mile』の頃、ちょうど身内がLAにいてUniversal Studios Hollywoodに行った。でっかいポスターがドーンと貼ってあった。私はエミネム大好きだったのでずっと眺めていた。でっかいからずっと眺められていた。映画に詳しくないけどすっごい楽しかったな。日本のも行ってみたい気もするけど混んでそうな場所は避けがちな近年。オフィスのお隣の新宿さえ西しか行かないし。西口は高層ビルと新宿中央公園が主だけど外でごはん食べられるスペースがたくさんなのは素敵。この時期は雨でなければ昼頃はお外にたくさんの人。ずっとオフィスにいるのも息が詰まるよね、多分。私もいろんな職場に勤めてきたけどお昼まで一緒にいる必要なくね?と思うことは何度もあった。なんでこんな狭いところでみんなで食べる必要があるのじゃ、家族とだってこの距離で食べないよ、という場所もあったし。慣習みたいになってる職場ってあるのよね。でも義務でもないしその時間はお給料出ない(雇われている間は全部時給生活だった)のになぜ、ということで私は色々街を探索しながらいいお天気の日は公園のベンチで食べてた。一緒が楽しい職場もあったけど。怒る人がいないときはみんなプチ料理したり。それぞれ自分が楽な形を日々模索する方が面倒な場合もあるか。確かに私もたいしておいしいと思っていないお店に惰性でいくことも多いものね。それはそれでそのお店のいいところってことになるし。

水村美苗の『大使とその妻』を少しずつ読んでる。どうしても「大使館」と打ってしまうな。今も間違えた。すごくよくてずっと読んでいたいのだけど時間がない。でもこのペースでいいのだ、これは。静かにゆっくり進む。今日も気持ち的には余裕をもっていけたらいいね。お風邪など召されませんように。

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お菓子 仕事

飯能のお菓子、グループ

少しの朝焼けがあっというまに曇り色になった。窓の外に広がる街はまだ静か。暑い紅茶を入れた。TWGのENGLISH BREAKFAST TEA。コットンを使ったティーバッグがとってもおしゃれ。お味も美味しい。自分でも買えるのかな。チェックしてみよう、とこの前も思って忘れている。お菓子は埼玉県飯能市洋菓子屋さん「夢彩菓 すずき」の極上バームクーヘン。今日はクリームチーズ味。昔、私も行ったことがあるけど飯能銀座通り商店街の入口の老舗。飯能は日帰りで遊びにいくにはちょうどいい。と書きながら思い浮かぶ景色が秩父と混ざっている。両方西武線の観光地。西武線の特急が好き。

昨日も作業が進まなかった。初回面接を検討する少人数のグループはとってもよかった。ある程度経験のある人がまだそんなに経験のない人に自分の通ってきた道を思い出しながら、しかもまだまだ遠い道のりを教えるのではなくて一緒にいい感じにしていこうという感じで丁寧に言葉を使っているのがとてもよかった。偉そうに言えば成長を感じた。私はもう指導的な立場になってからも長いけど自分の場合は老いを感じる。まあ成熟とでも言っておこう。この仕事は極めてロボット的なところがあること、理論ではなくて患者の言葉に対して極めて論理的であること、直観は才能っぽいところあるけど地道に基礎を辿る臨床をしていれば起きることにそんなに差異はないということ、なども話せた。

今日はどんな一日になるのかなあ。雨降ってる。ひどくならないといいけど。気温はこのくらいなら着込むほどでもなくていいかな。気をつけて出かけましょう。

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精神分析、本 音楽

秋空、ジョン・バティステ、書評

曇。空が薄くて高い。のっぺりした感じはない。どこまで行ってもなににも触れることのできない空間がずっと広がっている。大地からはいろんなものが空に向けて伸びているけどほんのほんの一部。すごーく下のほう。人がいる大地に爆弾を落とす飛行機の高さも大したことない。人間のやることなんて大したことないのにどうして人を殺せるのだろう。個人として見ていないからだよね。その人の属性が自分にとって異質だと許せないんだよね。しかもほとんど思いこみで。いろんな鳥の声。雀とカラス以外にも椋鳥とかヒヨドリとかいるのだろうけど声で区別ができない。ジョン・バティステ(Jon Batiste)がグリーンディ(Green Day)のHolidayに合わせてピアノを弾いている映像がインスタで最初に出てきた。すごい。はじめて聞く曲にこんなふうに即興で。彼の声はほんと独特でそれだけで物凄いインパクトある。昔と声の出し方もかなり変わっていると思う。偉大な宗教家のイメージ。繊細なカリスマという気もする。映画『アメリカン・シンフォニー』を見たからかな。

昨日はやっと書評を送ることができた。ラカン派の勉強は大変だった。私はラカン派が批判の対象としがちなIPAの分析家だけど仲良く議論していきたいもんだわ。IPAの分析家が制度に依存してガチで精神分析考えていない感じがいやなんだろうね。そんなことないよー、と言えるようにがんばらないと。感想文のような書評になってしまったけどラカン派をほとんど読んでいない人たちに一緒に読もうという気持ちでは書いたよ。分析協会のほうでも書くものがあるのだけどそっちはこれから。締切間近だからすぐ頭切り替えないとだけど無理でした。ということで敬愛する水村美苗の『大使とその妻』を読んでいた。最初から小さい驚きがたくさんで細やかな描写にいちいち心打たれている。大事に読みたい。やることやりつつ。はあ。がんばりましょ。NHK俳句も見るかな。どうぞ良い日曜日を。

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精神分析、本

考察、電話、デミアン

曇。今朝は色々順番が違う気がする。何かが困るわけではないけど寝不足で少し調子狂ってるかも?何をしていたわけではないのに。

今年、学会発表するのだけど私史上最速で書いた自分の抄録の考察の少なさに笑ってしまった。私はわりといつも考察短めだと思うのだけどそれにしても、と。自分的にはずーっと考え続けて何度も同じところに戻ってきてそういうものを書くからさらっとしてしまうけど次回からもうちょっと書きましょう、と思った。あと時間をかけて書きましょう。丁寧に。俳句も。

なんかよくわからない出来事が多いというか人にはいろんな思惑があるのだな、というのはわかるがわかりにくいそういうものに関わっている余裕はないのでぼんやりしたことには関わらないようにしている。必要だったら留守電いれるでしょう、みたいな気分。最近は電話使わないね、本当に。家の電話で長電話して叱られる体験ってもうないのだろうね。映画や小説には残るだろうけど。平和、だったのかも。束の間のコミュニケーションの時代。戦火が飛び交ってる渦中の人が携帯電話でそれを映し助けを求める。そういう切迫感はすぐに届いてすぐによいことがなされるといい。

家の電話で長電話してた頃にヘッセの『デミアン』も読んだ。衝撃的に面白かった。戦争も精神分析も経たシンクレールもといヘッセ、いや、デミアンはシンクレールにいう。

「おそらく非常に大きな戦争になるだろう。しかしそれも始まりに過ぎないのだよ。新しいものが始まる。新しいものは、古いものに執着する人間にとっては恐ろしくなるだろう。」

今思えば精神分析的な思考を私は文学作品からものすごく取り入れていたのだろう。

「なんじがあるところの一切、なんじが意志するところの一切、なんじがしなければならぬことの一切はは、自分自身から出発する。」
「おのれにかえれ」「自然にかえれ」

さあ、今日もまずは自分。がんばろー。

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精神分析、本

金木犀、金平糖、「現実界」

雨。音が強まったり弱まったり。降ったり止んだりみたい?寒くはない。昨日もノースリーブに薄いカーディガンだった。それでも途中暑くてでもこの時期に袖なしも変?と思って脱ぐのではなくて腕まくりしてた。難しいわ。もう十月も後半というのに。急に寒くなるとかしないでほしいな。オフィスに上着が溜まっていく。朝寒くても夜は全然、みたいな日が続くと着て帰るのを忘れてしまう。今日はどれか着て帰ってこよう。金木犀は一気に香らなくなった。一気に香るものはそういうものなのかしら。オレンジの小さなお花がまだいっぱいついている時から香りはなくなってた。今はその色に地面を染めてる。この雨できっとぺったりになってる。誰かが金平糖みたいなお花と書いていて本当にそうだなあと思った。多分何度もそのたとえって聞いたことがあるのだけど金平糖というのがいいのよね。食べ物としては苦手、というかパクパク食べるものでもないのだろうけど旅先とかでつい見入ってしまうお菓子でもある。お茶をしている身内には金平糖とか色々かわいい干菓子がセットで入っているのをお土産にすることが多い。金平糖の形、あの突起がついているだけではきっとダメなんだよね。私は苦手なあの砂糖っぽい透明さがあるからあんなかわいいんだよね。とってもきれいでかわいくていただいても嬉しいのだけど食べる気にならなくてずっと冷蔵庫に入っていることとかある。私もお茶を点てていただけばいいのよね。身内だから習うという手もあるけど時間を割く優先順位を考えると上位にはこないなあ。筋トレは上位にくるからトレーナーさんについてもらってるけど。座ってるの苦手だし、やったことあるけどあまりに不器用で手順も全然覚えられなくてダメダメ生徒になるのが目に見えてるしね。やっぱり点てていただくのがいいわね。金平糖がちょっとだけ入っている干菓子セットをお持ちしてお願いいたしましょう。はっ!私はラカンの現実界について書く気満々でいたのにこんなことをつらつら書いてしまった。やっぱりフロイトの『心理学草案』がもとになるんだよ、ということで来年、私のリーディング・フロイトではそれにトライ。私も勉強中だから値段も下げる。精神分析は「意識」の外で働く「無意識」についてずっと記述し続けてきた。ラカンはそれを精読したどり直すことで再定義していく。そこから「現実界」が編み出されていく。フロイトはエネルギー量の制御のために「自我」の機能を語ったけどこれだってラカンにとっては「意識」ではない。フロイトははっきりそうは書いていないと思うけどその辺もチェックしないとね。ラカンは無意識概念を再定義する中でフロイトの「原抑圧」の概念を使う。無意識の中にさらに無意識を読み込むわけだ。この辺はメタサイコロジー論を熟読しながら辿った方がいい部分。十川先生の訳が文庫で出たのは本当によいことだった。すぐに戻れる場所という感じ。私は精神分析を精神分析家としても患者としても体験してきたわけだけど現実界って感覚的にはすごくよくわかる気がするんだよね。そこにあるものだよね、ないんだけどあるんだよね、あるいはかつてあったんだよね、という感覚で捉えている。そこに精神分析が歴史を大切にする理由もあるわけで(痕跡でもあるから)精神分析は子供の頃のこと根掘り葉掘り聞いてそこに原因を見出す、みたいな話ではないのですね。意識を扱っているわけではないから。だから夢や夢と同じものとして捉えられる分析状況が大事になる。それをどう作り出すかそこで何をしていくかとかもそこから始まる問いになる。などなど色々確認しながら進みましょう。今日もがんばろう。

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俳句 精神分析

蚊とか。

秋の朝の空の雲の美しさ。知らない人の足音のひとりひとりの違いの判別。単に「の」をたくさん使いたい気分。今日も薄着で大丈夫そう。薄着でいられるのはいいけどまだまだ毎日刺されてる、蚊に。長いスカートの日も足首を刺される。なんなんだ。もっと楽に刺せる人おるでしょう。でも蚊にとっては大きなスペースなのかもね、長いスカートと足首の間。しっかし小さいのに威力あるわ。

秋の蚊のよろ〳〵と来て人を刺す 正岡子規

秋の蚊は季語。秋の深まりととも弱々しくなるというけどもたもたくるわりに逃げるのも遅いから結局居座るみたいになってこっちが刺される。むー。

前にここで(あ、なんか急にフォントが変わった。どう反映されるかわからないからこのままにしておこう)フロイトとラカンの「愛」について書いた。最近ラカンをたくさん読むようになって十川幸司&立木康介がいうようにラカンは本当に愛の分析家だった。愛といっても日常で使う愛ではなくて。

そうだ、原稿書かなきゃ。なんでいちいち忘れるんだ?締切間近なのに。意味わからん。がんばろう。気持ちいいお天気になるといいね。昨日は変なお天気だった。どうぞ良い一日を。

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散歩

秋、外ごはん

東京の日の出は5:55。まだまだ暗い。今日は曇のち雨みたい。朝焼け見られないかな。カラスが鳴いとる。みんな朝早いね。昨日の空はこれぞ秋空という感じでずっと眺めていられた。オフィスのそばの玉川上水旧水路のベンチも公園も人がいっぱい。ひとりで何か食べている人や三人でお弁当食べている人やはじめて会ったらしい犬にすっごく懐かれている人やその犬や「幸せねえ」と声をかけている飼い主さんやビニールシートから元気に立ち上がる子どもとか木陰でバイクを止めて何かしている人とか。犬にすごく懐かれていた方とお連れの方は民族衣装なのか全身オレンジで遠くからみたらオレンジの三角コーンとオレンジの金木犀が連なっていて素敵だった。はじめての相手にこんなにすりすりするものなのかぁ、かわいいなぁ、とグレーのモジャモジャの小さい犬に優しい視線と声かけをしているみなさんの会話を聞きつつ通り過ぎた。玉川上水もいつもいく新宿中央公園も西新宿のビル群も座るところが多くていい。外ごはんに最高の季節でしょう。今日は雨で無理かもしれないけど最近外ごはんしている人がとっても多くてなんか楽しい。気持ちいい空の下で色づきはじめた木々を眺め穏やかな雰囲気を感じながらのんびり食べられたら時間としては短くても心洗われる。私もこの前キッチンカーでアジアごはんを買って公園のベンチで食べた。少し離れたところでくつろいでいた人が雑草のお掃除をするからと移動をお願いされてて私もそのうち移動しないとかなと思い前もって近くのビルのベンチにできる場所へ移動。そこにも人がちらほら。ありんこが近くまできては何にもありつけずうろうろしていたおいしかったな、あのキッチンカー。8種類くらいから4種類選べるアジアンセットみたいなのにしたんだけどどれも美味しくて豪華だった。でも最近はキッチンカーも高いね。物価高いから仕方ないのだろうなあ。一人でやるのも大変だろうし。

昨日、隙間時間に書き物を少し進めたんだけど、ちょっと本を見返したらなんか全然違う理解が生じてしまって書き直すことになりそう。急に「ああ、こういうことが言いたかったのか」ってなることないですか。なんか急に別のまとまりが立ち上がってくる感じ。これが誤読じゃないとありがたいのだけど私の限界ってことでこれでいこう。もう新しい理解生じてこないでね。書き直す暇ないから。つらいよー。今日も長いぞ。がんばろう。どうぞよい一日を。

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精神分析

柿、懸濁など。

朝焼けが今日もきれいだった。今は随分秋の空。もう暑くなることはないかな。今の空もきれい。鱗雲だ。

柿が結構熟してて剥きにくかった。でも甘くて美味しかった。ちょっと小ぶりだったからずっしり大きな柿も食べたいな。そういえば私が通るような道には大きな柿はあまりなっていない気がする。柿の大きさって何によって決まるのかな。スーパーには大きなのも売ってるけど。もう少し注意深く柿の木観察をしてみたら意外と普通になってるかもね。

この前、「懸濁」って書いてある目薬をもらった。「懸濁」という言葉は普段は使わないねえと話した。薬剤師さんはしょっちゅう使うそう。「よく振り混ぜて点眼」とも書いてあった。今気づいた。注意書きは注意が向くきっかけがないと気づかないもんだね。自分で「よく振る!」とかマッキーの細い方で書く方が絶対忘れない。大体、今は老眼で小さい文字が見えないしね。まあ、口頭できちんと説明もしてもらって「懸濁」という文字のインパクトで覚えていられるけど。

この前、ラカン派ではないフランス精神分析の勉強会でウィニコットの父軽視について話したのだけど精神分析でいう父母って実際の父母をそのまま指しているわけでは全然ない、ということが精神分析を勉強している人の中でもわかっていない人が多いのではないか。逆に本当に実際の父母だと思って読んだらこんなの絶対変だよ。ラカンを読んだ方がそういうことは自然にわかるかもね。想像と象徴の絡み合いで説明できるから。そういえば昨日も隙間時間にラカン読んでてラカンはこの時期この言葉使わなくなってるんだ、そういえば、ということに気づいて書いている文章を修正したりしてたんだけど理論は個人内でも当然変わって行くもので同じ言葉が違う意味に使われるようになったりその言葉は絶対に使わないというこだわりがあったり、ラカンだったら造語も多かったりしてそこが面白味だからフロイト、ラカン、クライン、ウィニコット、ビオンは基本的なものとして時間かけて読んでいきたい。私はクラインとラカンが足りないな。クラインもかなり読み込んだ時期があるけど忘れてしまってるし。忘れたとしても訓練入る前にいっぱい読んでおいてよかった。今は時間がない。隙間時間に読むとつながりがつく前に時間切れになるから何度も同じところを読むことになってしまう。社会は教科書の最初しか詳しくなかったのを思い出す。周りで社会大好きっ子がいて朝、社会の教科書を読む余裕があった日は「今日はいい日」ってなるんだって。今ならわかるのだけど子供の頃は私は教科書でそんなこと思ったことなかったな。国語の教科書だけは渡されたらすぐ全部読んでたけど。あと道徳。道徳を学んだかどうかは相当疑問だけど読み物は好きだったな。社会の教科書もそのノリで読めたらよかったなあ。後悔、したところでねえ。今クイズとか出されても知らないことが多いけど今はとりあえず勉強はなんでも楽しいってなってる。いいことだ。今日もがんばろう。

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音楽

ヌバイア、週末

朝焼けがきれい。南側の大きな窓をそっと開けたら冷たい風。そっと閉めた。隙間くらいを残して。キッチンの窓を開けたらやっぱり冷たい風が足元にスーッと入ってきた。こちらは開けっぱなしにしてハーブティーを入れてお菓子を準備。時折鳥が鋭く鳴く。友達に渡しそびれたチョコがここに。でも今日も「箱根の坂」。河口湖のお土産も増えたけどそちらは来年まで持つ、といっても来年もすぐそこ。ああ、と少しどうしましょう、という気持ちになるけどこんなのもう何度目?という感じなのですぐに落ち着きを取り戻す。やることやりなさい、と自分に言い聞かせつつ。

今日はヌバイア・ガルシアの番組がbbciplayerであるらしい。ヌバイアのインスタで流れてきた。日本からは見られないけどウェブサイトだけみた。と思ったらYouTubeで見られた。番組の全部ではないかもしれないけれど。素敵だなあ。放っておいたら2020年のTiny Deskのヌバイアも自動再生。このアルバムもかっこよかった。ヌバイアの確かな意志は音からしっかり感じ取れる。話し方も好き。静かなリズムがずっと流れている感じ。これをやり出すとあっという間にこんな時間なわけですね。いかんいかん。

週末はいろんなことが詰まっていた。身内でも友人でも知らない人とでも個人でも集団でもいろんな風に会っていくと常に新鮮な気づきがある。別れたあと、振り返るようなメッセージを送りあいながら素敵なセリフの数々を反芻したり。誰々が何々って言ってたよ、の中身が喜びにつながる言葉ばかりだとしみじみ嬉しい。本当にそうだなあ、という言葉たち。「夕陽がきれいに見えるからカーテンを開けよう。」と閉め切ったカーテンを開ける瞬間をみんなで共有するとか。小さい子の不調にみんなが静かな注意を払って小さな声で時折何かいうとか。今日もあったかい瞬間がたくさんあるといいね。寒くなってきたから冷たい言葉はなおさら聴きたくないもんね。暑い時は大体の言葉を受け取る余裕が減っているという思うんだよね、相対的に。そんなことないか。適当なことを書いていないでもう行きましょう。どうぞ良い一日を。

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Netflix 俳句

10月20日

風がある。窓から顔を覗かせると少し寒い。部屋は暖かい。まだ何もつけなくても大丈夫。昨日はノースリーブに七分袖カーディガンを羽織っていた。10月後半でそんな服装なんて。今年は全然わからないなと思って重ね着するための夏服はまだ片付けていない。片付けてもすぐそこにあるけど。気温差があるからリュクに小さくたためる上着も持ち歩いてるけどこのくらいの薄い重ね着でずっと過ごせたらいいのに。一番楽なのは袖なしだけど日光で肌がボロボロしてしまう。どの時期も肌に色々あるわん。

今日はいつも以上にぼんやり。NHK俳句は「栗」。栗おいしいよねえ。でも外で食べるかお裾分けしてもらうか買うかばかりで自分で茹でないなあ、栗。今年の夏は枝豆も茹でなかったしなあ。青菜は茹でるけど今年は電子レンジ使ってる気がする。今はパスタも少量の水で茹でられるし。パスタもうちで作らなくなったなあ。まいにちのようにパスタ作っていた時期もあったのに。お水をたっぷり使ったあと捨ててしまう(きっと捨てずに有効活用している人もいる)お料理ってほかに何があるかな。冬って水いっぱい使うけど捨てないお料理ばっかり。おでんもお鍋も。やっぱり温まるには水分大事。

この前、テレビで『アリス・イン・ワンダーランド』を少し見た。赤の女王、とってもかわいくて笑ってしまう。白の女王はアン・ハサウェイ。何みても超魅力的。演技力だなあ。ティム・バートンの世界にピッタリだった。ミュージカルもやるんだよね。みたい。何かで見られるのかな。私はそういう情報を探すのが下手すぎる。精神分析の文献以外全然上手に調べられない。というか精神分析のはひたすら量にあたってるうちに出会っているだけだから何も上手じゃないか。

いいかげん終わらせねばな仕事が二つ。10月いっぱい。移動が長いからそこでがんばるか。ああ。難しいんだよなあ。道は見えてきた気はするけど。ま、がんばりましょ。風邪ひかないように服装気をつけて過ごしましょ。良い一日を。

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お菓子

今日は全然風がない?東の空の低い位置に雲がお釈迦様の寝っ転がり姿みたいな形をしている。涅槃仏雲、なんてないだろうねえ。こう考えると雲の名前ってうまくつけられている。動いて形を変えるものを名づけるのって楽しいけどそれなりの時間はその形でいてもらわないと固有名詞にはなりにくいものね。子供が空を見上げるたびに「きょうりゅう!」とかいう感じで瞬間瞬間を楽しみつつそれがゆったり姿を変えていくたびに名前を変えるのもいいけどね。今書いてて思ったけどあの子たち(保育園で見てきた子たち)、雲を恐竜っていうこと多かったような気がする。でもそれよりお空に飛行機を見つけるほうが早くて多かったかな。大人よりずっと早く飛行機の音に気づくから先生たちといつもびっくりした。「コーキ」「うん?なに?」「コーキ」目線の先を見ると音が聞こえはじめる。「あ、ヒコーキ」空を見上げたままうんうんうなづきすぐに空を指差す。「ヒコーキ!」とみんな口々にいう。東京の飛行機は最近低いところを飛ぶ。音も大きい。でも彼らは大喜び。遠ざかっていく飛行機が見えなくなるまでずっと見ている。そういえば飛行機雲というのも素敵な雲だね。子供の頃、不思議で不思議で消えてしまうまでずっと見ていた、いや大抵は消える前にうちについたり授業が始まったりしていた。でもふわぁって消えるときもあるよね。空がのっぺりしている。私の涅槃雲はどこへ?朝の東の空って特別な色と景色。南側の大きな窓のカーテンを開けて窓を開けてまず左方向を眺める。そして毎日小さく感動する。すぐに全体に溶けてしまうけど特別な時間。そういえばもうあと二ヶ月もしたら「初日の出」とか言い出すのかしら。年末年始は大体南の方で過ごすけどあまり初日の出に関心がないなあ。旅先では早朝から散歩しているから場所によっては会えるね。

今朝は朝なのにナイトタイムというハーブテイーをいれてしまった。昨日はお天気のせいか体調がガタガタだったからとりあえずカフェインを避けている。でもリラックスしすぎて仕事を忘れないようにしないとだわ。大丈夫、普通忘れない。お菓子は箱根のお土産、菓子処「ことほぎの木」の「箱根の坂 」。定番お土産。今日はいちご味。かわいくて美味しい。

飛行機の音!と思ったけどこれコロコロの音かも。この時間、キャリーバッグをコロコロさせていく近所の人がおられるの。普段使いみたい。私はお仕事に行きましょう。みんなも元気で。

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イベント

満月、白湯、李禹煥

窓を開けたら涼しい風が入ってきた。お布団は厚くしたけど服は夏のままでまだ大丈夫。朝はバタバタ動くからなおさら。今日の空はどんな感じになるのでしょう。昨晩は満月がピッカピカで信号待ちで空を見上げてたらいつのまにか隣の人は先に渡っていた。知り合いでもないのに追いかけるように渡った。帰り道はいつもみたことあるような人たちと信号待ちになるのだけど昨日は全然違った。いろんな人がいた。まだみんなシャツ一枚とかで薄着で金木犀が咲く頃はこんな服装だっけと思った。

最近は白湯がちょうどいい。とはいえ冷める前に飲んであちちっとなるのもいつものこと。私の美容師さんも同じことやるって言ってた。なんか待てないというか熱いの飲みたいんだよね、火傷するのに、と話した。

先日、千葉市美術館で思いがけず李禹煥の作品「刻みより」にあった。もうすごく前だけど高松の友達と直島の李禹煥美術館に行って大好きになった。あそこは安藤忠雄建築で作品とすごく合っていた。寄せ付けない感じとウェルカムな感じの両方を受け取った気がする。もっと別の言葉で友達には伝えたのだけど。李禹煥の作品にも似たような印象を持つ。「刻みより」は木の板の表面にたくさんの削り痕を残した作品なんだけど傷痕には見えない。むしろ森の樹の肌みたいな歴史と温もりを感じた。直島に行くフェリーにもまた乗りたいな。約束の場所とは違うフェリー乗り場で顔を覗き込まれて久し振りに会う顔に一瞬戸惑ってびっくり嬉しかった。友達は何度も直島に行っているのでいろんなところを案内してくれた。海も山も細い道も家も島の公共施設もバスも点在するアートも美術館も全部楽しかった。タオルを首に巻いて歩くことの楽ちんさも覚えた。今日はストール持ってこうかな。喉のいがいが一歩手前な気がする。まずい、と思ってすぐに気をつけると翌日は治ってるという繰り返し。ぜひこのままいきたい。白湯は白湯として熱いまま飲まないようにしよう。今日もいろんなお話をいろんな風に聞けますように。

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お菓子

「にらさき咲咲」とか。

空が暗い。雨は降っていない。鳥たちが今日は遠い。少し前と同じ遠さ。ここ数日、どうしてとても近い場所で鳴いていたのだろう。そういえば大学の森も動物園の森も鳥たちがたくさん鳴いていた。高いところで。きれいな声で。森の鳥は姿は見えない。都会の鳥はすぐそこに見える。

山梨県韮崎市本町の「洋菓子アルプス」の大村智博士ノーベル賞受賞記念クッキー「にらさき咲咲」をもらった。大村智博士は韮崎市生まれとのこと。新型コロナの時に「イベルメクチン」が話題になったけどあれを開発した人。私設美術館も持っていたのね。すごい。今は韮崎市に寄贈されたそう。「洋菓子アルプス」さんの前を通りかかったら「にらさき咲咲」の試食をどうぞってしてくれたんだって。そして急にノーベル賞とっちゃったから最初は(プリントではなく)シールだった、などのお話も聞かせてくれたそう。お土産も嬉しいけど土産話はどこのでも面白い。私も知らない街でお菓子屋さんを見つけるとそこで一番有名なお菓子を一個だけで悪いかなと思いつつ一個だったりひとパックだったり買ったりするのだけどそういう人は地元の人じゃないな、とわかるのね、多分。どっからきたの、と聞かれてお茶とか出してくれることもある。そういう場所で聞くお話はとっても興味深い。今までで一番面白かったのはどこかなあ。花巻で宮沢賢治ゆかりの場所を回ったときは結構いろんな人にお話を聞いたけどあそこはすごく観光地だし話したいことたくさんだ、きっと。すっごく入りにくく出にくいところもあったな。どこだったか・・・。たまになんかいい感じと思って入ったカフェでお店の人にまさかお客さんがくるなんてという感じで驚かれることがある。あれも面白い。大慌てで材料買いにいったりね。お手伝いしますよー、と元カフェ店員の私は思ったりもする。

さあ。今日も長い。頑張りましょう。

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お菓子 精神分析

朝焼けがとってもきれいだった。あっという間に薄くなってしまうけどそのあとに広がる水色もきれい。今日は少し雲があるかな。最近、鳥たちが近い場所で賑やか。生活の仕方を何か変えたのかしら。柿をスルスル剥いて食べた。小さな柿。鳥たちも木の実に合わせて活動しているのかも?

gmailの調子がずっと悪い。フォントが変になってしまうし、iphoneだと立ち上がらないこともある。フォントはgmailに限らずか。改行やコピペすると大文字になったりする。画面上ではわからないのだけど送信したあとの画面でわかったりする。困った。

ポムポムプリンとコラボしたチロルチョコを食べた。生姜紅茶と。冷蔵庫にはチロルチョコがいっぱい。一個で十分すぎる甘さ。

ラカンを読みながら言語と身体、欲動と情動について考えている。精神分析は言語が治療に役立つと信じているというか大体の治療法はそうなわけだけど言語の効果をどこまでも探求し続けているのが精神分析。ペラペラだけど上手なおしゃべりに癒してもらえる部分、というか人が受け入れやすいのはそういう形式のものなのでそれはそれで大事で、患者さんでもそういう本などをお守りにしながらそれではどうにもならない部分をどうにかしようとやってくる。どっちも必要。いろんなものが必要。こっちの人とは気づかなかったことがこっちの人となら気づくという感じで人はいろんな人の間でいろんな出来事を体験していく。もちろん周りに誰がいてもいつも同じ反応ばかりしている場合もある。人の心はたやすく侵入されたくない部分も持っている。一方、誰かにたやすく明け渡さない自分で大切な人を大切にしていくには誰かと密な体験を積むことが必要なので侵入が避けられることはないといっていい。キレイゴトをいうのは簡単。自分はいつも「正しい」側にいるというのが前提のような言葉って簡単。でもそれは相手と距離が確保されているからたやすいのであって密になってくるとそういう言葉は薄っぺらくなる。だからレトリックに走る。書き言葉だとちょうどよくても目の前の相手には嘘っぽく聞こえる。それを語り方で調整しようとする。私もそう。自分で話しながら嘘っぽいなあと思うときがある。そういう時は通じていないのが助かるけど。もし私に権威があったらどんな言葉も通じる言葉に変換されてしまうかもしれない。臨床続けている限り気づくことはできると思うけど。精神分析家の場合、理想化されるのなんてほんのひとときで頻繁に会って同じこと繰り返していればお互いにお互いに侵入的になることもあるしいろんなことが起きる。何度もやり直す。先のことはわからない。生活と同じ。なんなんだろうね、楽になっていく感じって。今日もあれこれ頑張りましょ。

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精神分析

千葉へ

突然千葉へ行った。数年前まで高校のスクールカウンセラーをしに千葉へ通っていたがそれ以来。あれからもう何年が過ぎたのだろう。千葉のそごうはまだ残っている。周りも栄えていて特別感がないのがかえっていいのかもしれない。先日、上野で田中一村の展覧館に行ったが千葉市美術館所蔵の絵も多く飾られていた。一村は奄美大島に向かう前に千葉に長く住んでいた。その時期の絵も素晴らしく、上野へ貸し出されていない作品を千葉市美術館で見ることができた。こちらの方は人も少なくゆっくり見ることができた。やはり一村の絵は時間をかけて見るのがいいような気がする。企画展「Nerhol 水平線を捲る」もとてもよかった。千葉市美術館コレクションとのコラボレーションもやっていて李禹煥、ダン・グラハム、菱川師宣、恩地孝四郎などまで見られて嬉しかった。モノレールで千葉市動物公園にもいった。園内案内マップがシンプルすぎて面白かった。ちょうどクラフトビールのイベントもやっていて賑わっていた。ここはレッサーパンダの風太くんで有名な動物園。あれは2005年のことだったのね。もう21歳で国内最高齢らしい。小屋の中で丸まっていた風太くん、動物園の生活でなかったらどんな感じの生活だったんだろうね。動物たちをなんとなくかわいそうに思いながらも見始めると離れることがなかなかできなかった。なんでこの動き、あ、飼育さんがきたのか、とか彼らの行動をずっと追ってしまう。細かい動きもとても興味深い。動物行動学とか本当に面白いだろうね。私もそっちを選んだ生活だったら今とは全く異なる生活だったのだろうね。いつもと違う環境に出向いたせいか昨晩は目が痒くて起きてしまった。花粉もあるのだろう。金木犀もようやく強く香り始めた。眼科にいくか迷うな。今日は火曜日。無事に過ごしましょう。

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精神分析

言葉とか。

早朝、鳥たちが面白いほど賑やかでずっと声を聞いていた。カーテンをそっと開けて覗いたら番いがみえた。何を伝えているのだろう。『葬送のフリーレン』で魔族が使う欺くための言葉というのがすごくよくて、というか、なるほどと思って、ひとつひとつの単語の重みとかその言葉が無意識に作用する力について考えていた。いつもそんな間にブログ書いてるんだけど今日は祝日と気づき二度寝した。二度寝する前に洗濯機かけておいたから干した。いいお天気。

私はかなり意識して使う言葉というのがあるけど「気持ち悪い」とか「シスターフッド」がそうかな。「気持ち悪い」は明確にネガティヴさを伝えるために意識して使うし「シスターフッド」は本当に貴重なものとして使う。とこれはフリーレンを見たからではなくSNSを見たから思ったことなんだけど、なんにしても人が使う特定の言葉だけに敏感に反応する世界になったもんだ。長い文章、長いやりとり、お互いの間に紡がれるものとしての言葉の力とはまったく別の力に脅かされたりそれによって争ったりするなんてしたくない。なんかそういうつまらない反応で使えなくなった言葉って結構ある気がする。もちろん使い続ければいいのだけどたやすく反応されることがわかっている言葉を使うのはめんどくさい。その点、「気持ち悪い」という言葉が持つ普遍的な嫌な感じはすごいね。できるだけ人に対しては使いたくないけどね。

隣に積まれている分厚い本たち、どうしましょ。私は読んでもすぐに忘れてしまうからなあ。昨日の課題テキストも既に読んだことがあるものだったのに勉強会があることから忘れていてお昼いつもよりいっぱい食べちゃって眠くて最後の方でようやく覚醒してKindleに似た文献あったかなあ、とチェックしたらその論文そのものが入っててもう既に読んだことあるやつじゃんと気づいてしかもめっちゃ線引いてあるじゃんと知ってやっぱ自分信用ならんわってなった。とりあえずフロイト『心理学草案』読み直さねばと思った。

どうぞ良い一日を。

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精神分析

同窓会

地震で起きた。被害はなくともこれまでの体験や感覚の違いが地震のあった今日を形作るのだろう。疲れが残りませんように。

昨日は大学の同窓会だった。昨年から再び繋がりはじめた同期と「変わらない」と言ってしまうことに笑う。老眼や更年期の話をしてしまうことに笑う。「こっちはもうそのターン終わった」など。長年生きていると色々あるね、と笑う。コロナが私たちに繋がらねばという切迫感を生んだのはある。無事でよかった。色々あっても無事でよかったと思う。最近、肉親を見送ることについて別の人とも話した。私よりずっと年上のその人の死を私は意識しているけれどその人は亡くした肉親の話をしていた。長生きしてくれたおかげで楽しく見送れたというような。時間があるというのは辛いこともあるけど時間のおかげで変えられる認識もある。私は精神分析において精神分析家が長生きするという誰にもどうにもできないことがもっとも重要だと思っている。常に死を考える。その中でなんとなく生かされている。大切な人たちをどう大切にできるかというのは瞬間瞬間の行為であとから相手が判断するもの。それが失敗だろうとなんだろうと相手に委ねることが大事なんだと思う。時間をかけて紡いでいかれるものを大切に。みんなといろんな話ができて本当によかった。小さな女子大がいつまで生き残れるかは深刻な問題だがあれだけ恵まれた環境が失われるとしたらそれこそ学問の敗北だと思う。児童文学、児童文化、発達心理学と錚々たる先生方から自由に、多様に学べた体験が今の私を生かしているという実感があるだけに静かに制限なく好きなことを学べる環境が守られることを願う。

ああ、昨日はいっぱいお菓子も持ち帰ってきた。その中からクッキーとラスクを紅茶と。美味しい。ホッとする。あとでお礼のLINEをしよう。今日もいいことありますように。

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おはよう。早起きをしても家事したりぼんやりしたりしているうちにどんどん時間が過ぎる。空がきれい。水色のバリエーションは多いね。昨晩、空に何もないと言いながら空を眺めてるうちに星をいくつか見つけた。冬の星座になっていくね。いつもの道のどっかの鏡状のところに月が映った気がして空を探したけどそこが狭い道で空が狭くしかみえないからではなく多分あの角度で映り込む月などないから月ではなかったんだ。どうしてすぐに視覚にとらわれるのかしら。大体どこで見たのかもあっという間に忘れてる。月は今どこかしら。というより地球は今どんな感じかしら。今日も晴れらしい。嬉しいな。

最近隙間時間は乱読ばかりでラカンとラカン派の本を読むのをサボっていたのだけど再び読み始めたら数ヶ月前よりだいぶ読みやすく感じた。ラカンを読むとキルケゴールを読みたくなる。ラカンと中世の思想はとても面白い対話になっていてもっと勉強したくなる。デリダとの論争はお互いどこを目指してるのかわからなくてあまり面白くないと私は思う。

今すごく羅列的にいろんなことを書こうとしてしまったけどそういうときはやめるにかぎる。私の場合。今日はいいことある予定。みんなにもいいことありますように。

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いいニュース

起きてすぐにカーテンを開けた。窓も開けた。東の空がきれい。この色はすぐになくなってしまう。

昨晩、オフィスを出て携帯を見たらノーベル文学賞にハン・ガンとあってびっくり!すっごく嬉しくなってハン・ガンの作品を日本に広めてくれた人たちにもすごく感謝したくなって涙が出そうになった。私は賞にあまり関心がないと思っていたけど自分でも不思議なくらい嬉しかった。韓国文学の歴史はあまりよく知らない。私が読むようになったのはここ3年くらい。このブログでも数冊感想を書いていると思う。韓国は日本とは異なる深刻な問題を色々抱えていることもそれらから学んだし学生時代、ケンブリッジの寮で仲良くなった同世代と少し上の韓国のみんなから教えてもらった韓国の風習は本の中にもあった。私は韓国文学独特のユーモアが好き。シニカルぎりぎりの内省的な一人語りも好き。会話のテンポも好き。すごく悲しいのに力強いのも好き。これを機に盛り上がり続けてほしい。

学会に向けて苦手な新幹線のチケット予約を完了。今回は司会の仕事はないけど別の役割と発表がある。それ以外はどこへいこうかな。俳人がよく使っている店や庭園には行きたいな、とは思っている。精神分析も学術的な議論が盛り上がればいいなと思う。

学びの多い毎日だが頭を抱えたくなる問題もある。抱えるほどではない。水漏れもシャワーホースの交換をしてもらって直った。一気にやってきた寒さにもなんとか対応。「先生には辛い季節になってきましたね」と言われた。寒がりすぎなのを大体の人は知っている。あったかいお茶がとても美味しい。近所の美味しい和菓子屋さんのお饅頭も美味しかった。今日も昨日みたいな素敵なニュースと出会えるといいな。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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すべきでないこと。

まだ夜を残したような雲もあるけどすでに朝日を含んだような雲もある。隙間を埋める水色がきれい。

知らない人の咳が聞こえる。急に寒くなって体調を崩している人も多いかもしれない。鳥たちは元気かな。

昨日は五ノ井さんがカウンセラーの資格をとったという声に対する心理士・師たちの助言?に驚いた。世界で認められるほどに闘い抜いた人がさらなる努力をして得たものに対して、その喜びに対してなにをいっているのかと目を疑った。私は知らないアカウントの人たちなので誰か身近な人がいいねしたからタイムラインにあらわれたのだろう。いやな気分だ。他人の人生に対して自分の価値観を押し付けることに自らが抵抗するすべをもとうともしない人たちに五ノ井さんは傷つけられ大切な時間を奪われたのではなかったか。人は反復する構造に傷つけられる。人としてすべきこと以前にすべきでないことがあると私は思う。

先日ソメイヨシノが咲いていたと書いたが同じことをいっている人をみかけた。やっぱりそうだよねえと思った。金木犀の香りがうっすらとしかしない今年、地球どうなってる?フロリダには巨大ハリケーンがきてるというし。注意を向けるならこっちだろう。被害が出ませんように。

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精神分析

冬景色へ。お菓子と紅茶。連鎖。

昨晩は寒かった。部屋の中も少しずつ冬景色になる。膝掛けとかが増えていくから。グラスよりマグカップになるし。出しておいたけどあまり使わなかったガラスのお皿もしまおう。昨年は枝豆によく使ったけど今年はほとんど茹でなかった。雨の音がずっとしている。能登を思う。何もできないのにただ思い浮かべて、映像をみて、何もしていないことを自分も政府と同じだなと思う。できることをどんどんしていこう。

朝は紅茶と文明堂のカステラ巻き、ハニー味。ハチミツ大好き。お料理にも使いたいけど買ったら買ったで使い切れる気がしなくて買っていない。固まってしまうと厄介だしこれまで幾度となく失敗している。それにしてもこのカステラと紅茶、どちらも美味しいがなんか合わない。別々だとたしかに美味しい。この紅茶が不思議な美味しさだからなんだろうなあ。これだけでメインという感じ。中国茶みたいな硬い茶葉というか中国のなんだけど中国語で書いてあることが自動翻訳でもよくわからなかった。「紅茶」と書いてあるからそうなのは間違いないのだけどこういう茶葉の紅茶もあるのだね。お店もどこのなんだろう。置きすぎちゃったと思っても出過ぎないし、とっても美味しい。また出会えるといいなあ。

被災地支援はスムーズになされないけどネガティブな感情の連鎖はたやすくなされる。どうして他人に起きたことにたやすく便乗するのだろう。どうしてそれをいつのまにか自分のことのように語るのだろう。自分がやってしまったことに関しては「みんなこういうことされたら嫌だと思うんだけどご本人はどうですか」みたいな感じで自分はしていない方にたやすくまわったりするくせに。そんなことは本人が本当に感じていそうでそれを伝えたいのに伝えられなくてということが明らかだったらいえばいいだけでそういう状況でも関係でもない人がそういうことをしているとキレイゴトで罪悪感をスプリットするのもたやすいなと思う。自分の中のことは自分の中のものとして大事にするために精神分析はあるのでそれは他人のことは他人のこととして大事なのであって、都合のいいときだけ自分はあなたとともにあるみたいな態度を取ることを私はしたくない。そうやって不必要にネガティブな連鎖が生じていくことに警戒する。そうやって時間とエネルギーを割くべき事態から注意をそらしているだけではないかと思う。私は今日もたやすく「共感」しない方向でがんばろ。みんなも良い一日でありますように。

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精神分析

水漏れ、南アフリカのジャズ

昨晩、寝ようかな、と洗面所を使ったら足元に違和感。水漏れに気づいた。気づいてよかったのだがどうしたらよいものか、ととりあえず下の棚から洗剤などを取り除いた。いざ出してみると使っていないのも結構ある。もらった柔軟剤とか。私はあまり柔軟剤が得意ではないから使わないのだよな、など思いつつ作業。最近、シャワーヘッドがおかしいなと思って掃除をしたときにおかしなことになったのかなと思ったけど調べると水受けタンクというやつに結構水が溜まっていた。でも水がどこから漏れているのかわからない。水浸しになった部分はためておいた古いタオルできれいにした。もう一度水を出してみたら、あ、水受けタンクとやらからポタポタと水が落ちてくる。底に穴が開いているらしい。が、あんな量になるものか?わからないが水を使わなければ何も起きないことを確認して、水受けタンクの水を抜く。細いストローみたいなホースがくっついていたのでそれを洗面器に下向きにおいたら水がチョロチョロ出てきた。とりあえずタンクの中を空にした。これで水漏れは大丈夫らしいけど結構水浸しになったからタンクの穴のせいだけではないのかもしれない。いややわ。でもそれなりに早い対処ができたと思おう。あとはプロにお願いしよう。水が使えるだけ幸せなことだよな、とそっと思った。

被災地に手伝いに行きたいが今は難しい。被災地に音楽は流れているだろうか。個人的に聴く手段があれば好きな曲を聴けるかもしれない。侵入的に感じない音楽なら助けになるのだろうか。南アフリカのジャズピアニスト/作曲家/シンガーのタンディ・ントゥリ(Thandi Ntuli)の音楽を聴きながらこういう音楽ならと被災地に届くことを願ったりする。柳樂光隆さんのnoteでインタビューを読んだが南アフリカで生まれ育ち学び何者かになることの難しさと希望が丁寧に語られていた。歴史をいずれ愛せるようにと願うような優しく美しい音が多くの人に届けばいいと思う。嘘つきの言葉でさらなる絶望に突き落とされても自分を取り戻す作業を続けていける勇気をみんなが持てたらと思う。

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田中一村展へ行った。

『田中一村展』へ行った。場所は上野の東京都美術館。公園口から出れば近いのだが遠回りして散策しながら行った。公園内に入ると大きな木がたくさん。鳩がたくさんいた。その中にポツンと男性がいた。餌をあげてるのか、と思いながら歩いていると鳥たちが何羽もそこから飛び立ってきた。大きなパンみたいな餌を加えたカラスもいた。少し怖かったがこれだけ木があると彼らはすぐに居場所を見つけられるらしくまたすぐに静かになった。上野公園には新宿中央公園にもあるアメリカデイゴが咲いていた。この木って一気に花を咲かせないのかな。艶やかな大きな花を咲かせるから遠くからでも気づけるのだけど近づくとお花はどこ?ってなる。一方、ジュウガツザクラは葉っぱがなくなってて白い花が雪みたいにチラチラしていた。儚さはどこからでもみえた。儚さはあけすけにするものではないとはいえ勝手に儚さを見出したのは私か。一般的な印象でもあるが。そしてなんと春になると大勢の人が訪れるソメイヨシノの道でソメイヨシノが数輪咲いていた。狂い咲きか。やはり気候変動のせいなのだろうか。心配。いつ咲いてもかわいいけどなんでこれも数輪だったのかな。外界への反応が枝ごとに違うわけでもなかろうに。

『田中一村展』はすごいボリュームだった。1階から3階までたくさんの作品が並んでおり、私は一階ごとにベンチで休憩して少しウトウトした。3階の展示会場内のソファは混んでいてみんなで分け合っていた。すごく有名な絵は3階にあったのだけどみんな疲れるよね、とちょっと面白かった。田中一村の作品は昨年今年の年末年始、奄美大島へ行ったときに出会った。奄美パーク内にある田中一村記念美術館はとてもゆったりした作りで一村が描いた奄美の自然を実際に堪能してから巡れるので全然疲れなかった。大勢の人の列や背中を見ながら巡るのではなく自分のペースでただただ一村の作品と向き合える時間はとても素敵でその作品の繊細さと荒々しさの両方を感じながら彼の人生に思いを馳せることもできた。今回の東京での展覧会は大盛況だそうで、奄美の田中一村記念美術館の館長がラジオで「一村も喜んでくれていると思う」と生前あまり評価されず大きな展覧会を開くことはなかった一村の活躍を喜んでいた。

今日は誰からいただいたか忘れてしまったが中国茶みたいな包装の紅茶と「やわらか」という柔らかいクッキーみたいなお菓子をいただいた。この紅茶美味しい。温かい飲み物にほんわかする季節。昨日の上野公園はサルサのイベントが熱く繰り広げられていて気温の割に夏の雰囲気だったがそれも楽しかった。今日は月曜日。今週もがんばりましょう。

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日曜朝

窓を開けた。窓から首だけ出したらちょっと寒い。換気分だけ開けたままにして閉じた。エアコンと細長い換気扇の掃除をせねば。どうやってすればいいのだろう。取扱説明書を探さねば。みつかる見通しがたたないが型がわかればネットで見つけられるだろう。昨晩は髪も濡れたまま半袖で寝てしまった。寒がりなのに学ばない。一方で暖房もちょっとつけてしまった。遠赤外線パネルヒーター暖話室。なんかちょっとふざけた名前だったよなあ、と思い出そうとしていたのだが同じ会社の「夢暖房」しか思い出せずそれで検索したら「暖話室」の写真で出てきた。両方同じ会社。「夢暖房」は「床暖房」とかけてるのかな。「暖話室」と同じレベルでは難しいか。なんかないかな、とか考えているだけであっという間に時間は過ぎる。

蟄虫坏戸虹の欠片は入れてある 佐怒賀正美  

第四十七候「蟄虫坏戸 (むしかくれてとをふさぐ)」は自動変換されない。蟄虫戸は一文字ずついれれば出てくるけど杯みたいな時はなんて読むのかわからないから変換もできずまず蟄虫戸の三文字で検索。すると蟄虫坏戸が出てくる。そこから坏をコピーで取り出す。検索画面に貼る。すると最初に出てくるのは

AIによる概要

これ、いつからから最初に出てくるようになった。前はWikipediaのページが一番前にくることが多かったように思うのだけど。

「坏」には、次のような意味があります。

  • 壊す、壊れる、悪くする、悪くなる、ひどく~である
  • おか、盛り土
  • 物を盛る器の名

「坏」で「つき」と読む古代の飲食物を盛る器は、碗より浅く皿より深いのが特徴です。材質は土器や陶器、木製などがあり、脚の付いたものや蓋のあるものもあります。

とのこと。「つき」と読むのかと「つき」をうつと確かにあった。蟄虫坏戸の場合は「盛り土」の意味になるのかな。「坏孩子」だと「悪ガキ」って意味なんだって。漢字は面白い。

今日は福砂屋のカステラとほうじ茶。この前、もらった。小さなかわいい箱に入ってる。二つに切れてるのがいい。あっついほうじ茶おいしい。この季節がきたかあ。ミネラル補給のために作った麦茶が消費されない。なぜミネラルかって足がつりやすいから。マグネシウムとミネラルが良いと聞いたから。酸化マグネシウム

NHK俳句、今日は堀田季何さんの回。面白いなあ。具体的、読み手に連想が湧くように作るって本当に本当に難しい。

島すべて熊蝉領や朝より 小澤實

すごい。熊蝉の領地になってる島。季何さんの説明わかりやすいし面白い。いい句を季何さんが類想句に変えてあとから元々の句を見せるやり方いいね。全然違うー、とわかる。わかるー、のだが自分で作るとなると本当に難しいのよね。聞いてるだけなら自分でもできそうなのにね。まあなにができずともがんばりましょ。

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夢現

ブログを途中まで書いたつもりがパソコンの電源すらいれていいなかった。鳴らしっぱなしで寝てしまった携帯の音楽がブツっと切れたのでパソコンに戻るつもりがはじめてもいなかった。自分に驚愕。携帯いじる前に本を読んでいたのだけどそれが書く動作として脳に認識されていたらしい。なんという誤作動。昔、夢の中で学校に行ってしまいすでに本当に行ったつもりになっていたことがあった。あれも自分に驚愕した。そんな夢現で人生を送ってきてしまったとして、これまでもあれもこれも夢や思い込みだったとしたら・・・したら?どうってことない、今のところ。私はまだそれを実感できていないから無事。さっきのあれはまずかった、くらいの認識でいられる。本当はこういうことが幾重にも起きていて自分だけが気づいていないのかもしれない。

洗濯があと11分でできあがるというのでちょっとだけベッドへと思ったら朝まで眠ってしまった。朝といってもまだ真っ暗だけど。今日の日の出は5時40分。まだまだじゃ。少し放置してしまった洗濯物は無事に干された。ごめんよ。キミたちがいやーな絡まり合いとかじっとりした状態の世界からパリッと爽やかに空へ舞う絵本とか書いてあげたい。放置したのは私だけど。あ、少しうとうとしてしまった。よかった、パソコンついてるし、こうやって文章残ってる。まだ窓も開けていない。いや開けたまま眠ってしまったのだ、とまたうとうとしながら考える。のんびりしてる。でも少し疲れているのかもしれない。そうだ、〜行こう、の感じでベッドへ行こう。空が少し明るくなってきたけれど。

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伊香保、世田谷、徳冨蘆花

南側の大きな窓を開けた。向こうのほうに真っ白な大きな雲。朝日に照らされてきれい。今朝の東京の日の出は5時39分。私が起きたときにはまだ真っ暗で日の出が遅くなったと実感した。これまでは少しずつ感じていた変化が一気に次のステージにいくように感じることがあるが今日はそんな感じがした。「あ、冬の手前だ」みたいな。シャワーを浴びて色々窓を開けてコーヒーを淹れた。那須高原のお土産のプリンのリングケーキと伊香保のコーヒー。徳冨蘆花ゆかりの伊香保、千明仁泉亭のコーヒー。

「蘆の花は見所とてもなく」と清少納言は書きぬ。然も其見所なきを余は却って愛するなり。」(明治33年「自然と人生」)

盧花の蘆はあしのこと。学生時代、京王線の千歳烏山に住んでいて蘆花恒春園も近かった。千歳烏山の塾でバイトをしていたが大体の生徒は芦花公園を利用していた気がする。そのくらいこの二駅は近い。世田谷文学館は芦花公園駅が最寄りなので蘆花恒春園とセットで行くのがよし。

徳冨蘆花にとって

「伊香保は私共にとつて大切な生の策源地と何時の間にかなつて了ました。」(大正7年「新春」)

ということで明治31年にはじめていってから昭和2年、千明仁泉亭で亡くなるまで計10回訪れたそうだ。

徳富兄弟は仲が悪かったみたい。蘇峰は「徳富」のままで、蘆花は筆名「徳冨」なのもその現れ?あ、違うか?本名はどっち?まあ外からするとどっちでもいいのだが蘆花はちょっとこだわったらしい。二人とも別々にトルストイに会っているというのがすごいと私は思う。どうやったら会えるの?トルストイに会う、ってフロイトに会う、とかよりインパクトが大きく感じるのだけどなぜだろう。『夢解釈』より『アンナ・カレーニナ』の方がずっと幅広く読まれてるだろうし。蘆花がトルストイに会った時はもうキリスト教からは離れていたのかな。ちょっと変わった人だよねえ。芦花公園はオフィスのある初台と同じ京王線沿線だし時間があるときに久しぶりに行ってみようかな。紅葉もきれいな時期?まだこれからかな。どんぐりはいっぱい落ちてるけどね。

あ、また急に眠気がきた。昨晩はフロイトの読書会ついでに色々調べ物をはじめてしまい、その時も急に眠気がくるまで起きていた。今は寝てしまえないから動こう。なんで今朝は徳冨蘆花のことをこんなに書いたのか・・・。フロイト読書会の復習めいたことを書けばよかった。まあよい。なんでも心の向くままに。どうぞ良い一日を。

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鳩、靴

雨がパラパラ。虫の声ではなく鳩の声がきこえる。私はなぜか長い間、鳩は春に鳴くものだと思っていた。東京にいれば毎日たくさんの鳩をみるし、実家にいた頃も見なかったわけではないと思うのだけどあの声ののどかさが春のイメージに直結していたのだろう。きちんと通わなかった学校の窓からはずっと先まで空が見えた。窓際の席からずっと空をみていた。そうしてると目が良くなるんだって、といわれ当時は両目ともよくみえていたけど遠くを見ているといつもその声を思い出した。

インスタでスーツケースにきれいにたくさん詰め込むためのパッキング術?圧縮用品?の動画が何回も流れてくる。今年5月、数年ぶりにスーツケースを使う旅に出たがシドニー空港で待ち合わせていた友達のスーツケースはみんな大きくて私の小ささに驚かれた。私は国内でみんながコロコロするくらいの大きさだったけど忘れ物もなかったし特に特別なスキルや道具も使わなかった。普段の旅に出るのと同じ感覚だといつものリュックひとつで足りるのでこれでも私には大きいくらいだった。あ、でもホテルの部屋にスリッパとパジャマがなかったのでそれはもっていくべくだった。パーティグッズの店でコアラとか書いてあるサンダル買えたのもよかったけど。都会ってすごい。

Netflixでみた『ウィル&ハーパー』はウィルと親友のハーパーが結構長いロードトリップにでる話なんだけどハーパーがトランス女性として靴を何足もっていくべきか悩むシーンがある。思い返せば旅に靴を複数もっていく人は多いらしい。でも確かに旅の計画に山登りが含まれているときは基本的にトレッキングシューズを履きつつ気楽なスニーカーも持っていく時がある。旅の準備はいつもなにがプラスアルファで必要か迷うことが多いけど少しずつ知識とスキルをためていきましょう。

なんか肌寒い。昨晩はムシムシするなぁと思ったのに。喉もイガイガしやすいから気をつけましょ。どうぞ良い一日を。