共有財産としてみると、土居は「甘え」の非対称性をそうやってぼやかしながら、多様な関係(神との関係まで!)に枠組みを与えたのだろう。それに対して、その関係に含まれる方向性や非対称性を詳しく考えようとしたのが北山修である、と思う。北山は色々な本で「甘え」について書いているが、今回は日本精神分析協会が発行しているThe Journal of The Japan Psychoanalytic Society vol. 6.から引用する。この巻は、Special issue on “Amae”という特集が組まれており、北山はここにTakeo Doi “wrestled” with Freudian psychoanalysisという論考を寄稿している。
土居が、非対称的な関係に由来する「甘え」を、必ずしも上下関係に限定されない構造として捉え直せる、と考えていたのに対し、北山は、「甘え」から上下関係を明示的に取り出し、上から下、下から上という方向性が組み合わさる構造を「愛の階層性(hierarchy of love)」と呼んだ。北山は、そこで、幼児が母親に向かって手を伸ばす姿についても、単に抱っこしてもらいたいという受動的な願望だけでなく、想像力や遊びによって自ら母親のところへ到達しようとする能動性を読み取る。 さらに、幼いキリストが母マリアを慰める図像を挙げ、子どもが母親に能動的な愛を与える可能性も示している。
一方、WAPは1947年、イーゴリ・カルーゾ(Igor Caruso)によってウィーン深層心理学研究会(Wiener Arbeitskreis für Tiefenpsychologie)として設立された。こちらは戦後に新たに成立した組織である。しかし、創設者カルーゾ自身にもナチス時代の歴史が関わっている。WAPの公式サイトは、彼が1942年にナチスの児童「安楽死」政策に関係した施設で勤務していた事実を記し、その関与についての歴史研究を紹介している。
1946年までに、かつてのウィーン精神分析協会(WPV)の会員および候補生のうち、帰還したのはロンドンからのWalter Hollitscher、ブダペストからの Otto Fleischmann、フランスからの Robert Hans Jokl のわずか3名だった。最後のJoklはウィーンで再び生活の基盤を築くことができず、1947年にアメリカ合衆国へ移住した。また、帰還を予定していたJosef Karl Friedjungは、1944年3月、ハイファで亡くなった。
1946年4月、WPVはAugust Aichhorn (president)アウグスト・アイヒホルンを会長、Alfred von Winterstein (vice-president)を副会長として、正式に再開された。両者ともナチ党(NSDAP)に所属したことはなかった。協会の再開は国際精神分析学会(IPA)によって承認された。亡命したWPVの会員たちは、遠く離れた地から(from afar)祝辞を送った。
Walter Hollitscherは、1911年5月16日、ウィーンの上流階級の家庭に生まれ、プロテスタントとして洗礼を受けた。両親の別居後、父親とともにプラハへ移った。すでに中等学校在学中から共産主義運動に参加していた。1929年にウィーンへ移り、オーストリア共産党(Kommunistische Partei Österreichs:KPÖ)の党員となった。
確固たる共産主義者であったHollitscherは、ロンドンのオーストリア・センター(Austrian Centre London)の活動にも積極的に参加した。この組織は1939年に自助組織として設立され、その後、亡命中のユダヤ人や、その他の政治的迫害を受けたオーストリア人を支援する、政治的・社会的活動に取り組む組織へと発展した。
Hollitscherはすでに共産主義運動に深く関わっていた。その人物がフロイトを「私にとって唯一の偉大な権威He was my only great authority」と呼んでいる。後に精神分析を厳しく批判することになる人物が、1939年にはフロイトに非常に深い敬意を抱いていたことがわかる。もちろん、これらは両立する。1939年9月は、ドイツ軍によるポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった月であり、Hollitscher自身もすでに亡命生活を送っていた。そのような状況で書かれた、since he ceased to be among the living, the world has changed a lot for me.という一文には、フロイトという人物の喪失だけでなく、かつて自分が属していたウィーンの精神分析に対する喪失の情も含まれていたのかもしれない。この手紙からだけではわからないが。
精神分析のパイオニアであるにもかかわらず、その貢献が十分に語られてこなかった女性たちに関する本として、Early Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance(Klara Naszkowska編、2024年、Routledge)のことを何度も取り上げたくなるのも、同じ動機からだろう。
Geissmann, C., & Geissmann, P. (1998). Sophie Morgenstern: The application of child psychoanalysis in France. In A History of Child Psychoanalysis(Chapter 8, pp. 124–131). Routledge.(訳すとしたらこうか。ガイスマン,C.・ガイスマン,P.(1998)「ソフィー・モルゲンシュテルン――フランスにおける子どもの精神分析の適用」『子どもの精神分析の歴史』第8章,pp. 124–131,Routledge.)
もちろん、彼女の名が完全に忘れ去られていたというわけではない。私がフランスの精神分析について調べるときにもっとも参照するパリ精神分析協会(Société Psychanalytique de Paris, SPP)のサイトにはこんな風に登場する。
Eugénie Sokolnicka, d’origine polonaise, proche de Jung, analysée par Freud puis par Ferenczi, vint s’installer en France en 1921 et fut la première à pratiquer la psychanalyse. Elle analysa René Laforgue, Edouard Pichon et Sophie Morgenstern.
ソコルニツカはモルゲンシュタインはEarly Women Psychoanalystsの同じ章で「ポーランド系ユダヤ人の女性の先駆者」として登場する。著者は、精神分析家の自殺(psychosuiciders)について調べているときに二人のことを知ったという。二人とも若くして、しかもパリで自殺している。
One of the best-known pioneers is Hermine Hug-Hellmuth (1871–1924). Before Anna Freud and Melanie Klein, she sought to understand children’s mental lives from a psychoanalytic perspective through their play, dreams, and everyday behavior. Sabina Spielrein (1885–1942) also published research on children’s psychological development as early as 1913.
This brings to mind Early Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance (Routledge, 2024), edited by Klara Naszkowska, which I introduced here previously. The volume brings together the lives and contributions of pioneering women psychoanalysts whose work has often been overlooked or insufficiently recognized in conventional histories of psychoanalysis.
Although Hug-Hellmuth is not included in this volume, it features Spielrein, as well as Beata “Tola” Rank (1886–1961), who was involved in psychoanalysis and education in Vienna during the 1920s and later made significant contributions to the development of child psychoanalysis in the United States. It also includes Margarete Hilferding (1871–1942), who became the first woman admitted to the Vienna Psychoanalytic Society in 1910 and engaged with questions of motherhood and women’s rights. Meanwhile, in France, Sophie Morgenstern (1875–1940) developed an approach to child psychoanalysis that drew on children’s drawings and other forms of symbolic expression.
モルゲンシュテルンは1940年6月、ナチス・ドイツによるパリ占領の時期に自殺した。これについては、昨日も参照したEarly Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance (Routledge, 2024)に詳しく書いてある。Part Four: Beyond the Holocaust 11. Eugenia Sokolnicka and Sophie Morgenstern: The Intertwining of Life, Work, and Death という題をみるだけで気持ちが沈む。
モルゲンシュテルン自身も、かつて自分の分析家だったソコルニツカを自殺によって失った。精神分析の歴史とは、分析家たちが互いの人生に深く関わり、ときにはその死を経験しながら続いてきた歴史でもある。ここの章題も The Intertwining of Life, Work, and Death.。まさに。
1930年代、アンナ・フロイトは父フロイトの精神分析を自我心理学へと発展させた。その代表的な著作が『自我と防衛機制 The Ego and the Mechanisms of Defence』(1936)である。彼女はフロイトの自我の構造論的モデルと不安・防衛論に準拠しながら、防衛機制を体系化し、理論的な整合性を与えた(ここでのモデルは小此木啓吾の分類に準拠してみた)。
フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生――アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』(原著 L’Enfant et la vie familiale sous l’Ancien Régime)は1960年刊行で、アンナたちより遅いが、歴史のなかで〈子ども〉がどのような存在として扱われてきたかという視点は、現代の精神分析がとりいれるべき視点でもあるだろう。
ジャック・ラカンのセミネール、第4巻『対象関係』(Le séminaire Livre IV: La relation d’objet)の最終回(第24回、1957年7月3日)の講義「ハンス・フェティッシュから鏡の中のレオナルドへ」(De Hans-le-fétiche à Léonard-en-miroir)の資料もあった。ハンス論文におけるフェティシズムなど(雑)を論じた論文だが、書いてあるメモがひどい。珍しく読める字で書いてあるが、このときの講師は本当にこんな話をしたのだろうか、ということが書いてある。本自体は持っているからこういうのは捨ててしまおう。
子どもの頃、はじめての一人部屋は、西日しか差し込まない、厚いカーテンのひかれた部屋だった。そこにはたくさんの本やレコード、そしてアップライトピアノがあった。小さな頃から長年習ったピアノはまったくうまくならなかったが、お菓子の歌が大好きだった。それはたぶん、湯山昭のピアノ曲集『お菓子の世界』だった。お稽古はいつも練習不足で退屈。終わった後はぐでぐでしながらウルトラマンをみていた気がする。その薄暗い狭い部屋で、子どもたちで『ちびくろサンボ』のトラになって、ぐるぐる回ってバターになったりもした。劇とか音楽とか読書とか、まだ分類も知らないそれらは、私たちにとっては全部 PLAY だった。 ぐるぐるぐるぐるゲラゲラゲラゲラ。私たちはいつのまにかバターになる。ときには喧嘩になったりもする。何が原因だったのか、そもそも原因なんかあったのか、今はもう覚えてもいないけれど、わりと激しめの喧嘩をして、親に泣きついて両成敗になったり。
言葉の使用について考えるときには、そもそも、というところに再び帰る必要が生じる。精神分析において、それを試みるなら、ウィルフレッド・ルプレヒト・ビオンによる理論が欠かせないんだろう。私が参照するのは、『精神分析の方法 II 〈セブン・サーヴァンツ〉』(福本修訳, 平井正三訳、法政大学出版局、2002)である。ビオンはそれの「第12章 変形された容器と内容」においてこう述べる。
20世紀初頭、精神医学者のオイゲン・ブロイラーがこれを命名した。これは欧米では日常語としてつかわれるようになり、訳語も「両価性」というより「アンビバレンス」と言ったほうが通りがよい、と土居はいう。「甘え」はAMAEとそのままの訳語になったが、AMAEとして外国でどのくらい使われているのだろうか。 土居自身が書いた Doi, T. (1962). Amae: A Key Concept for Understanding Japanese Personality Structure. Psychologia, 5(1), 1–7.やDoi, T. (1992). On the Concept of Amae. Infant Mental Health Journal, 13(1), 7–11. は専門家のあいだで参照されることはあるだろうけど。
Winnubst, Shannon. “Race: The Ontological Crisis of the ‘Human.’”In Philosophy for Girls: An Invitation to the Life of Thought, edited by Melissa M. Shew and Kimberly K. Garchar, 181–192. New York: Oxford University Press, 2020.
吾妻がまず検討するのは、私がしょっちゅう触れているアンドレ・グリーンの時間性に関するモデルである。グリーンは、フロイトの局所モデルと構造モデルに応じて、二種類の無時間性について提示したという。局所モデルでは、異なる時点に由来する表象が無意識において時間的に整理されないという静的な混淆。構造論では、イド由来の反復強迫によって表象化が妨げられ続ける「時間の殺害(the murder of time)」(Green,2007)という動的な無時間化。
章の後半では、吾妻自身の専門である関係学派における自己の多重性・非直線性にも触れられる。ここで吾妻が援用するのは、非直線的で多重な自己状態(multiple self-states)を論じる関係学派の精神分析家、ブロンバーグ(Bromberg, P. M.)である。そして、ブロンバーグが参照するレーワルドの言葉を引用する。
昨日、紹介した27人の精神分析家が信条を語る一冊、Psychoanalytic Credos Personal and Professional Journeys of Psychoanalysts(2022)の編者、Jill Salbergは、昨年、国際精神分析学会(IPA)のジャーナルに終結時のエナクトメントに関する論文を載せた。
Salberg, J. (2025) Crises and Enactments while Ending Treatment. International Journal of Psychoanalysis 106:661-679
先日から何度も名前をあげているクリストファー・ボラスも寄稿しているJill Salberg編『Psychoanalytic Credos』(Routledge, 2022)という本がある。副題はPersonal and Professional Journeys of Psychoanalysts。出版社のサイトで各チャプターのアブストラクトを読むことができる。そのなかに、ボラスの“What is Theory?”という章がある。
なお、マニー・ゲントの最初の「Credo」論文とは、Ghent, E. (1989). Credo: The dialectics of one-person and two-person psychologies. Contemporary Psychoanalysis, 25(2), 169–211.のことである。
Casement, P. (2026). Hidden Infantile Trauma in Adult Anxiety—Where Spock Was Wrong. Attachment: New Directions in Psychotherapy and Relational Psychoanalysis, 20:1-4.
英訳:Laplanche J, Pontalis J-B (1973[1967]). The language of psychoanalysis,Nicholson-Smith D, translator. International Psycho-Analytical Library 94: 1-497. London: Hogarth and the Institute of Psychoanalysis.
それぞれの邦訳の解題も大変参考になるが、全体を見渡すには ドミニク・スカルフォンのScarfone, D. (2013) A Brief Introduction to the Work of Jean Laplanche. International Journal of Psychoanalysis 94:545-566がいい。
1995年 IPA第39回大会(サンフランシスコ)で発表。 1996年 Bollas, C. “Borderline Desire.” International Forum of Psychoanalysis, 5(1), 5–10 として初出。 1999年 Bollas, C. The Mystery of Things. London/New York: Routledge に再録。同書の Acknowledgements にも、“Borderline desire” was published in the International Forum of Psychoanalysis (1996) とある。 2004年 館直彦・横井公一監訳『精神分析という経験――事物のミステリー』岩崎学術出版社。「境界例の欲望」として邦訳。
1996年版には脚注としてグリーンの Le Travail du Négatif(1993)が参照されていて、本文末の References でも1番に André Green, Le travail du négatif, Paris: Les Éditions de Minuit, 1993 とある。
ところが『精神分析という経験』所収の「境界例の欲望」を確認すると、この脚注がない。いまのところ邦訳でしか確認していないので、原著の The Mystery of Things に再録された時点で削除されたのか、邦訳の段階で省かれたのかは要確認。
「2 通常であればそれ自体として対象を表象するはずの心の枠組み(frame of mind)が、その対象そのものになってしまうと考えるなら、アンドレ・グリーンが「ネガティヴ(the negative)」と呼ぶものが、境界例においていかにきわめて特有な仕方で作用しているかが見えてくる。境界例の人は、主としてネガティヴな情動を通して対象への愛着を維持するのである。 実際、本論で取り上げる問題の多くは、グリーンのきわめて重要な著作 Le Travail du Négatif と響き合っている。とりわけ、境界例人格にみられるネガティヴなものへの情熱(passion for the negative)についての彼の考察と深い親近性をもっている。
3 境界例における原初的対象は、この患者のなかに、知られてはいるが、まだ思考されてはいないもの(something known but not yet thought)として保持されているのだろう。私は以前の著作でこれを「未思考の知(the unthought known)」と呼んだ。そして境界例患者との関連については、「Loving Hate」という論文で検討した。」
どちらも二人の中心概念についてごく簡単に書いてあるだけにみえるけど、私が「あれ?」と興味をひかれたのは、ボラスが、ここで Le Travail du Négatif を挙げて、境界例の場合、negative affects を通じて attachment to the object を維持する、と書いているところ。
でも、グリーンにおけるthe negativeは、対象を保持する働きだけでなく、対象を消去し、脱対象化していく働きとも結びついていたと思う。だとすると、negative affectsを通じてattachment to the objectを維持する、というボラスの言い方を、グリーンのpassion for the negativeと深い親近性をもつとしてよいものだろうか、と思ったりする。まあ単にaffinitiesがあると言っているだけだから「書き換えた」というほどのことでもないし、たいして気にするところでもないのかもしれないけど、グリーンの対象化、脱対象化機能の問題は、私の興味あるところなので少しひっかかった。
ひとつはダナ・バークステッドーブリーンの‟The Work of Psychoanalysis: Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind” (2016.Routledge)これはグループで原著を読んでいる間に邦訳がでた。『精神分析の仕事-セクシュアリティ,時間,精神分析のこころ』ダナ・バークステッド-ブリーン 著/松木邦裕,富田悠生 監訳(2025、金剛出版)である。出版社が「解題」を公開している。目次はこんな感じ。
Acknowledgements xv Introduction 1 Chapter 1 Setting the Scene 11 Chapter 2 Modalities of Thought and Sexual Identity 49 Chapter 3 The Feminine and Unconscious Representation of Femininity, a Duality at the Heart of Femininity 69 Chapter 4 Sexuality in the Consulting Room 83 Chapter 5 Bulimia and Anorexia Nervosa in the Transference 101(この章だけ邦訳されていない) Chapter 6 Phallus, Penis and Mental Space 126 Chapter 7 Time and the Après-Coup 139 Chapter 8 The Work of Interpretation 158 Chapter 9 Reverberation Time, Dreaming and the Capacity to Dream 173 Chapter 10 Taking Time, the Tempo of Psychoanalysis 192 Chapter 11 Bi-ocularity, the Functioning Mind of the Psychoanalyst 213 Chapter 12 Termination in Process 231 Bibliography
週末に読んだのは日本語訳だと第9章「時間をかけること、精神分析のテンポ」。原著だとChapter 10 Taking Time, the Tempo of Psychoanalysis。これについては昨日簡単に書いた。
翌日、アンドレ・グリーンの論文を少し予習しておこうとGreen, A. (1987) LA CAPACITÉ DE RÊVERIE ET LE MYTHE ÉTIOLOGIQUE. Revue française de psychanalyse 51:1299-1315をメンバーが訳してくれた邦訳を英訳と合わせて読んだ。英訳は”The Freudian Matrix of André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century”By Howard B. Levine(2023,Routledge)に収められているChapter4 The capacity for reverie and the etiological myth。この本については以前ほんの少し紹介した。
グリーンは、心的発達についてのいかなる著者の見方にも、その一般的な帰結として一つの「病因論的神話(etiological myth)」があり、それが「臨床的機能についての暗黙の理論モデル(implicit theoretical model of clinical functioning)」の根底にある、と提唱する。
ビオンが母親のもの思いを特権的な位置に置いたことを弁証法的に補完しようと、グリーンは、分析家の心的作業を拡張し豊かにするものとして、父親のもの思い(reverie of the father)について考察する。
予習すべきだったのは、英訳が‟Contemporary Psychoanalytic Practice”の第3章に入っているIssues of interpretation: Conjectures on construction。これも「構成」の話だったし、ダナの話とつながりが深かったからよかったけど、私の時間、私の記憶、どんなふうにいったりきたりしてしまっているのか。早くも加齢によるあれか。なんとかこのくらいでふみとどまってほしい。
Early Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance(Klara Naszkowska編、2024、Routledge)のことはすでに何度か書いた。雑誌の海外文献紹介で、本書をとりあげようと思ったが、あまり時間がなかったので別の本を紹介した。どちらにしても私は、そこにいたのに、語っていたはずなのに、なかったことにされている声、あるいはそうされることへの抵抗を大切に思っているので、紹介した本もフロイトの患者たちの回想録である。掲載されたらSNSでお知らせすると思う。
Early Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevanceについて、また少し書いておく。
第Ⅰ部Beyond Wife, Lover, Muse は、SpielreinをJungとの関係、Andreas-SaloméをNietzscheやRilkeとの関係、Beata RankをOtto Rankの妻という位置から解放する。第II部 Beyond Psychoanalyst は、分析家であることだけでなく、フェミニスト、マルクス主義者、社会活動家として読む。第III部 Beyond the Homeland は国民国家や精神分析の中心地から離れて移動を読む。そして第IV部 Beyond the Holocaust は、ホロコーストを忘れるのではなく、その人の人生をホロコーストだけによって語らない。This is not a Holocaust story.なのである。
この章はSpeaking in Tonguesと名付けられているがどういう意味だろう。文字通りには、ニックが複数の言語・文化圏を横断したことと関係しているのだろうか。ニックは、ベルリンで精神分析を学び、ドイツ語圏の分析家たちと関わりをもち、ノルウェーへ戻り、さらにロンドンへ渡ったそうだから。
しかし、英辞郎をみると、speak in tongues は「主にキリスト教に関連して使われる表現。宗教的高揚状態にある人などが異言語を話すこと、または「外国語のようにも聞こえるが明確な意味のない不可思議な音声」を発すること。」とある。したがってこの章題には、「複数の言語を話す」以上に、まさにニックのような、いくつもの声・言語を媒介する人という含みがあるのかもしれない。祈りの意味もあるだろう。
Nic Waal : Speaking in Tongues ニック・ウォール――「異言を語る」とすれば、エディス救出のために奔走した彼女の生涯と重ねることができるだろうか。
そして第4章のエピグラフは『不思議の国のアリス』 。毛虫にWho are you? 「誰ですか、あなたは」と問われるアリス。「あなたこそ、あなたが誰であるか、先におっしゃるべきだと思います」、とアリスがいうまでになされる「わかる」「わからない」の会話はおなじみだが、土居の文脈でいえばこれこそ治療者と患者の関係で生じることだろう。
しかもグリーンの論文を読みながらトーマス・オグデン(Thomas H. Ogden)も読んでしまったので、オグデンの書誌情報も気になり・・・。これのほうがAIは正確に拾えていたがThe Primitive Edge of Experience (1989) は未邦訳だよね。どうして「体験の兆すところ」ででてくるのだろう。どこかで訳されているのかな。ラカン派の人たちが精力的に試訳作っているみたいに。なんにしても邦訳がないものはそう書くか、せめて英語併記にしておいてほしい。AIが勘違いしてしまう。本末転倒感は否めないが。英語の出版物はResearchGateが一番チェックしやすいかな、私は。
最新の17本目は、Ogden, T. H. (2026). Playing as a Basic Form of Living: On Winnicott’s “Playing: A Theoretical Statement.” International Journal of Psychoanalysis, 107(3):332–351.
といってもこの5ページにものすごい読解を披露したのがヘーゲル学者のジャン・イポリット。今はBruce finkのÉcrits: The First Complete Edition in Englishとか、同じくフィンクのLacan to the Letter: Reading Écritsなどで読むことができる。邦訳はジャック・ラカン 『フロイトの技法論 (上)』 (ジャック=アラン・ミレール編、 笠原嘉、小出浩之 、鈴木國文、小川豊昭 、 小川周二 訳、岩波書店)とかブルース・フィンク『「エクリ」を読む――文字に添って』( 上尾真道、小倉拓也、渋谷亮訳、人文書院)など。私は『エクリ』の昔の翻訳で読んだ気がする。
アンドレ・グリーンAndré Green (1927–2012)のことはよくここにも、もうひとつのブログにも書いてきた。しかし、この一年で修正すべき点もみえてきた。自分の言葉とはいえ書き散らかしているので修正箇所を特定することはできないし、いまだ理解が十分でないところが多いので、ここに書いていることは正しい知識というよりは、すべて理解へのプロセスだと思って読んでいただきたい。勉強する時間がもっとほしいし、もっと賢ければいいのだけどないものねだりはまた今度、と自分に言い聞かせる。
土居はここで、Glad,Donald D.のOperational Values in Psychotherapyを援用し、精神分析を受けた場合、サリヴァン派の治療をうけた場合、ランク派の治療を受けた場合とそれぞれの治療の目的を示す。そしてこの著者が言っているのは要するに、それぞれの治療体系の中に含まれている価値が治療の状況の中で患者によって学ばれるといいます。
赤ちゃんとお母さんという組み合わせで治療者と患者を見立てるならば、というかそれが最近の常だが(ここでの土居は違うが)、お母さんにも先のことはよくわからないけど赤ちゃんの鏡になることで赤ちゃんになり、とまではいわないが、赤ちゃんに同一化しようとしながらその人は母親になっていく。そこにはウィニコットのいう存在し続けること(going on being)が双方にみえる気がする(もちろんウィニコットはそんなこといっていない)。同時に、非対称な方向性へ分離していく人の姿がみえなくもない。土居が例にあげた即興劇における患者が舞台にあげられ、治療者はいつのまにか舞台にいて、でもどちらもまだ観客であるように。