PEPとかIJPから新しいジャーナルが出ると紹介メールが来るのだけどいつも目通したらゴミ箱にいれてしまう。でも先日Baranger(2025)の文字が目に止まり「あれ?」となった。バランジェ夫妻(Madeleine 1920–2017 &Willy Baranger1922-1994)はどちらも亡くなっている。紹介されていた雑誌はJ. Revista de Psicoanal. v103 (2025)。マドリード精神分析協会(APM:Madrid Psychoanalytic Association )発行の雑誌。テーマは¿Cómo se concibe el psicoanálisis en la actualidad?(現代において精神分析はいかに構想されているか。)。この雑誌のCLÁSICOS(古典)のセクションでバランジェとカンバーグが取り上げられていた。Barangerは経済論モデルの再定義、Kernbergは技法の現代的分岐ということらしい。ちなみにタイトルは
Polémicas actuales acerca del enfoque económico
Willy Baranger
Convergencias y divergencias en técnica psicoanalítica contemporánea
今回はBonaminio, V. (2017) Clinical Winnicott: Traveling a Revolutionary Road. Psychoanalytic Quarterly 86:609-626をチェック。これは発表とはあまり関係ないけどウィニコット関係はとりあえず読む。著者Vincenzo Bonaminioはイタリア精神分析協会の訓練分析家。ローマで個人開業。イタリアのD.W. Winnicott Instituteとthe Winnicott Centreのディレクターもお勤めとのこと。先述した論文が入っているのは前からチェックしていた“Playing at Work: Clinical Essays in a Contemporary Winnicottian Perspective on Technique”(Routledge, 2022)。この本はNew Library of Psychoanalysisシリーズの一冊。New Books Networkで著者のインタビューをきける。全部は聞き取れないけど英語とイタリア語が交じり合うとても楽しいインタビューだった。患者のことを書くということについても最近言われていることとは異なる視点で語っているし、臨床のリアリティにあふれていてこの著者のことはイタリアの精神分析家のなかで一番好きかも。フェッロとかチビタレーゼもいいし、読むべきと思うけど、私が実践で得る感覚を言葉にしてくれているのはこっちかな。クリストファー・ボラスも楽しそうに序文を書いているし、これはイタリアの精神分析であるという感じが本文にもあふれていて、昔憧れたイタリアへの熱がまた少しぶり返した。20代の頃、ツアーに申し込んだら戦争がらみだったかツアーが催行されなかった。昨年、日本精神分析的心理療法フォーラムでアートと精神分析の交わりに関する分科会で討論を務めさせてもらったこともイタリア熱再燃のきっかけになったと思う。とはいえ、しばらくは国際学会以外は国内の被災地中心の旅になると思うけど。いずれいけるように筋トレ続けよう。美術館いっぱいまわりたいしいろんな小道を歩きたいから。
今日は何をする日だったか。仕事以外になにがあったか。家事はもろもろすませてある。東京都写真美術館でユージン・スミスの展覧会が始まるね。あ、もう始まってるか。わりと最近も同じ場所でみたきがするけど2017年11月か。生誕100年の展覧会だったか。そのときのチラシはすぐそばに貼ってある。藤山直樹先生の名著『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』の表紙も私がみているこのチラシと同じ写真。The walk to paradise garden。精神分析は全然パラダイスに向かっていない気がするけど雰囲気はああいう感じ。
昨日は国際精神分析学会(IPA)のTalks on Psychoanalysis podcastでMilagros Cid SanzのBroken Mirrors. The transitional function of the narcissistic double.という論文に関する話をきいた。英語だからよくわからないけど論文がついているのでそちらをみながら。
来週金曜は春分の日。まだ寒いけど春の花々は次々咲き鳥たちはそこに集う。写真を撮りたいけど手袋を外したくなかったり、一度撮り始めるとその場から離れられなくなったり色々なのがこの季節。こっちにもなにか咲いてるかなあ、とちょっと寄り道したりするとクリニックやカフェがあったりする。毎日歩いている街でも知らないことのほうがずっと多いよね。初台駅は甲州街道沿いで、さすが街道は高低差もなく歩きやすい。参宮橋方面は坂がたくさん。岸田劉生の「切り通しの坂」も唱歌「春の小川」のモデルになった場所もそっち方面。「河骨川」という。そして昨年閉店してしまった駒テラス西参道に別のカフェがオープンしていた。Brewman Tokyo 駒テラス西参道店。なにやら高級なコーヒーもいっぱい。前ののんびりした感じとはちょっと違うおしゃれな感じ。行ってみたい。
昨日はAndré Green Revisited Representation and the Work of the Negative Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine(2019)のChapter 4. Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky: Green’s Theory of Representation Revisitedを読んだ。フランス精神分析における心身症に関する論文。アンドレ・グリーンの用語自体には慣れてきているが毎度咀嚼には時間が必要で、ほぼ寝ているような時間もあったが、グリーンのスーパーヴァイジーの事例だったので「ああ、こういうことかもしれないな」とつながりは発見できた。精神分析の事例というのは患者と治療者とそれをめぐる人たちのものなので(物語ではない。物語という人もいるが)症状の理解は当然必要だが、それぞれがなにをみているかをとらえようとするこちらも事象をミクロに分解しつつ、ガラッと視点を変えてそれらにまとまりを見出すことが必要になる。意識的にできるのは前者だけなので後者は自分が精神分析によってそういう体験をすることが必要だが。私は訓練を通じて精神分析の文献の読み方は大分変わったと感じる。わからなさに耐える力もものすごくついたというかそれがデフォルトになっているので「わかる」方向に進もうとする場ではひとりだけ時間が止まっているようなときもある。ガラッと視点が変わる作用を生じさせるのは精神分析でいえば「解釈」。またはそういうものを「解釈」というというのか。自分がガラッと崩れるような解釈を体験することはそう簡単ではない。精神分析の場合、誰かのひとことで人生が変わる、みたいな体験とはまた別で、長く積み重ねるプロセスの先にふたりの間(間というのはあまりしっくりきていないけど)で形をえるものなうえに、それを言葉にするかはまた別の問題、しかもガラッと崩れたり、視点が生じたりするのは患者だけではない。先にそれが生じているのはすでにその経験をしている治療者のほうだといっていい。そのずれがないと自分と自分でないものを区別するプロセスも生じないかもしれない。そういえば昨日の論文にprojective reduplicationという用語がでてきてよくわからなかったが、投影によって自己の表象が二重化すること、つまり自他の区別を曖昧にするメカニズムが心身症にはあるのではないかというマルティらの仮説として理解した。これ自体は主要な概念ではないからこだわることもないのだけど、自分と自分でないものの区別がいかに困難かは日々臨床で感じているのでそこに関わる状態は気になってしまう。心身症の場合は、同一化になんらかの困難があって過剰適応したり、その分、内的な体験を語ることが難しく、身体にまつわる語りに終始したりということはある。パリ心身症学派のPierre Marty、Michel de M’Uzan、Michel Fainらに対してグリーンがいいたかったことはあまりよくわからなかったし、事例もこれは心身症といえるのかなというものではあったが、非表象領域の表象化プロセスの論文であることを考えれば心に区分ができていくプロセスがずっとそこにあったであろう「もの」や「こと」に定位置を与える描写は、この人の身体もようやく地理的な混乱(メルツァー)を抜け出しつつあるのだろうなと思わされた。
暗い時間から挟間美帆。夜明けは何時だ。日付が変わってからe-Taxで確定申告を完了。何が何やらだったがどうにかなった。目が冴えてしまったので明日の勉強会用にコフート『自己の分析THE ANALYSIS OF THE SELF』でも読むかと思ったけど途端にぼんやりしてしまった。そんなもんだ。コフート久しぶりだな。最初の職場にいた頃に今はもうない慶應心理臨床セミナーにではじめ、丸田俊彦先生の講義を何度か聞いた。丸田先生は小柄なお年寄りだったが身のこなしがとても軽快でスマートだった。情緒豊かでラッパーのような語りはカッコよくアメリカに長くいた人なんだなあという感じがした。お、今、私のiphoneからはYayennings. こういうリズムとはちょっと違ったかな、丸田先生は。小此木先生が企画していた慶應心理臨床セミナーはこの先生はこの流派なんだー、というイメージを持ちやすい構成になっていた。本当のところはどうなんだろう。英国で訓練を受けてきた先生方はクライン派の講義をされていることが多いし、クライン派の分析家の分析を受けてこられた先生もおられるけど、英国対象関係論というもっと広い括りの中で、その香りや空気を纏ってきた先生方という感じがする。コフートに始まる自己心理学は私の中では丸田先生がはじめで、オリジナリティの強い岡野先生もふんわりそこにいて、その後富樫先生の双子転移、そこから「関係論」という括りのセミナーで吾妻先生もその中心の一人というイメージかな。「自己愛」という訳語は本当にどうにかしたいところだが、コフーシャンたちはなおさらそこにチャレンジしたくなったりしないのかな。私は日本で訓練してきたからどの学派でもないのだけどナルシシズムは理論としても実践としても常に基本的な課題。
昨日はEPF(European Psychoanalytic Federation)によるETEP(End of Training Evaluation Project)に関する論文のことを書いた。EPFは「欧州精神分析連盟」でいいのかな。IPA(国際精神分析学会)の加盟団体である43の欧州の精神分析学会で構成。1966年発足、1969年IPA承認、現在、33カ国に居住し活動する8,000人以上の精神分析家および研修中の精神分析家が在籍、27の言語が話されている、とのこと。2015年末以降、ブリュッセルのRue Gérardに独自のHouseを構え、EPF加盟団体の全会員および候補生に開放。ブリュッセルかあ。いいなあ、というより、そういう専用の場所があっていいなあ。日本の協会は今まで小寺がそういう場所を担っていたけど、日本精神分析協会独自の場所はないもんなあ。日本の精神分析家の多くは自分のプライベートオフィスをもっているけれど、みんなで集まれるようなスペースはない。
先日、SNSでthe podcast Talks on Psychoanalysis. “Transience and the prohibition of “Don’t Look” by Osamu Kitayama を紹介した。北山修の「見るなの禁止」もそうだが、そろそろ学術大会に向けて「甘え」理論を復習せねば。あああ。いろいろ辛いが(花粉もね)がんばろう。
昨日はHinze, E. (2015) What Do We Learn in Psychoanalytic Training?. International Journal of Psychoanalysis 96:755-771を読んでいた。2021年にでたDear Candidate: Analysts from around the World Offer Personal Reflections on Psychoanalytic Training, Education, and the Professionにも一章書いているドイツの精神分析家によるETEP(End of Training Evaluation Project) の議論のまとめ。分析家になる途上の候補生(candidate)が訓練の過程で学び、あるいは内在化しておくべき基本的要素の一群が提示されている。
ちなみにDear Candidateはいろんな国のシニアの精神分析家が候補生にむけてメッセージを送る一冊。2021年に出版されてすぐに読んだが(全部ではないが)当時候補生だった私にはあたたかい本だった。どの国でも似たような大変なことが起きているんだな、と思える本だった。日本でアジアンパシフィックカンファレンスが行われたのはいつだったか。この本にはそこでほかの国の候補生たちからきいた「噂」みたいなものも書かれていた。そして様々な問題や困難を経験してきた著者たちのほとんどがいうのはオープンであれということ。おおざっぱにいえば。別の理論、別の言葉、訓練中に出会うすべてのものに対して。IPA “Talks on Psychoanalysis Podcast”では編者のFred Buschがこの本について話しているので興味ある方はチェックしてみて。この本に様々なかたちでかかれている精神分析家になるための訓練で必要なこと、大切なことはIPAの地域の一部門などでこうやって研究され、その成果のひとつがHinzeの論文。これはEPF(European Psychoanalytic Federation)によるもの。
昨日はフランス精神分析の祖、ラカンの初期、エクリの最初の方に載っている鏡像段階の論文に関連してコレット・ソレールの年次セミナー2014-2015“Vers l’identité”の英訳を読んでいた。ソレールはジャック・ラカンに直接師事し、ラカン派精神分析をリードしてきた重鎮。動画で彼女の姿も語りも見ることができる。『情動と精神分析』“Les affects lacaniens”の全訳の書評を書いたときに著者Colette Solerのもっと基本的なものをと思って読み始めた。書名は“Towards Identity in the Psychoanalytic Encounter A Lacanian Perspective”
訳者による序文の一部。
“Translation of any kind is rooted in optimism, (中略) Sustained by this optimism, week after week for almost three years, the members of the Cartel met to engage with the text and to … make it speak English!”
昨日は原稿を書く時間はなかったがオグデンの「自閉ー隣接ポジション」の論文が入っているThe Primitive Edge of Experience by Thomas Ogden(1989)の 3.The Autistic-Contiguous Positionを再読した。これも部分的に訳してあるが訳の整理をしていなかったのでさらに部分的にしか見つからずだったがオグデンの英語は読みやすいし、用語自体は英語で押さえておいた方が他の論文を読むときにも楽、というか私が修正しているのは英語論文なので、このまま引用すればいいから英語で読んでしまった方がいい。精神分析におけるautisticという概念を心の体験様式の基盤に据えて思考することが必要な時代だと思うし、精神分析が初期に自閉症を捉える際にした失敗は繰り返してはいけない。別のものを同じ言葉で捉える、つまりすぐに似たような言葉で置き換えずとどまり続ける試みこそオグデンの大きな貢献だと思うので、というか私はオグデンのそういうところに力をもらっているので引用しながら自分の考えを提示できたらいいなと思う。