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精神分析

寺家ふるさと村、Reading Freud

空が明るくなってきた。今日は曇りなのかな。ピンクがかってくるのではなくグレーが薄くなるしかたで朝になっていく。天気予報は東京は午前中は晴れ、午後は雨が降ったり雷が鳴ったりするみたい。今朝もエアコンはつけておらず扇風機で外からの弱い風を循環させている。明日は一気に気温が下がるらしい、といっても28度とかだけど。日本はどうなってしまうのだろう。

先日、横浜市の寺家ふるさと村へ行った。田園都市線青葉台駅、小田急線柿生駅からバスで行ける。横浜はみどり税だっけ、独自の税金をとって横浜みどりアップ計画を実施している。寺家ふるさと村四季の家もその「ウェルカムセンター」のひとつとして機能しているらしい。東京在住在勤の私も緑に関する税金をとられていると思うのだけど何税だっけ。こんなのとるならきちんと緑守ってよ、と怒った覚えがあるのに税金の名前を忘れてしまった。いかん。寺家ふるさと村の寺家は「じけ」と読む。バス停を降りるとすっかり実った稲が広がっている田んぼと藁で束ねられた刈り取られた稲が並べられた谷戸田が広がっていた。とてもきれい。その日もまだ暑かったけど素敵な里山の秋景色。春に田植えして夏には青青と育った稲たちもきれいだっただろう。それにしても子どもの頃はすぐそばにあった田園風景にいちいち感動するようになってしまった。GWに金沢から和倉温泉まで七尾線に乗ったときも空と雲がそのまま映り込む水田が続いていて何枚も写真を撮った。

横浜市のみどり税にも文句はでているだろうけど、この寺家ふるさと村は結構賑わっていて四季の家のレストランも混んでいた。お蕎麦と鰻のお店みたい。外のベンチでお弁当を食べている人もいた。四季の家では蕎麦打ちとかイベントも色々開かれているらしい。私たちはそこでお手洗いに寄ってから里山散策スタート。田んぼの脇の道をいくと熊野神社の階段が見えた。田んぼの向こうの人影に目をやると親戚の集まりらしき人たち。お墓参りかしら。家族っぽい集まりには友達や他人とは違う距離感が作り出す形、みたいなものがある気がする。熊野神社への階段は少し急でいかにも里山の神社という佇まいだった。脇道を降りて再び田園風景を歩く。いろんなカカシが田んぼを守っていた。少しいくと釣り堀の池に。誰も言葉を交わさず、ほぼ等間隔で動きのない池にただ静かに釣り糸を垂らしていた。釣り堀はいい。市ヶ谷のとか何度か行ったことがある。そこから森へ続く坂へ。通勤の距離で行けるハイキングコースは理想的。道もほどよく整備されていた。いろんな虫や植物がいてまだ青い柿もまだ緑の栗もまだ黄緑のどんぐりも待ち望んだ秋を地味に彩っていた。この前までどこにいってもたくさんいた蜂は少し減ってきたように思えた。スズメバチ注意の看板は一年中かかっているだろうし、スプレーは作業場のそばに置いてあったけど。途中の池はあまりきれいではなかったけど近くの木々でハンモックでくつろいでいる人たちもいて気持ちよさそうだった。森を抜けると再び田んぼ。小さな子どもたちが稲刈り体験かカカシ作りか田んぼの中で楽しそうな声をあげてるのをみられた。ミャクミャクのカカシもいたが、多くのカカシは名無しだろう。子どもたちに聞けば「あれが〇〇ちゃんの」と指差して教えてくれることはあるだろうし、近くによれば名札が付いていたりする場合もあるとは思うが。帰りはあまり本数の出ないバス停からちょうどよくバスに乗れた。ナスの畑とぶどう畑の間にあるバス停にはすでに二人並んでいてそれぞれ文庫本を読んでいた。何を読んでいるのかなあ、と思ったがわからず。結構厚い本だった。

そういえば、Reading Freudで精神分析の創始者であるフロイトがその早期に展開した神経学的な仮説「心理学草案」(『フロイト全集1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』岩波書店)読んでいるが、メンバーのなかで、これがまるで「物語」かのように共有されはじめた瞬間があった。

「心理学草案」(1895)は

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。

というものであらすじがあるようなものでも要約できるようなものでもないにも関わらず。フロイトは精神分析を知らずとも多くの人が知っている名前だし、少し知識のある人ならフロイトとフリースの関係でこれが書かれたことも知っている。フリースを知らなくてもフロイトは常にそれなりに濃い関係で読み手なり聞き手なりを持っていたから自ずとその言説はコミュニケーションの結果として読まれ、そこに共通の物語が生じやすいのかもしれない。

今日はもう木曜日か。1週間早い。良いことありますように。

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イベント 精神分析

回帰

今日の東京の日の出は5時25分。毎日1分ずつ遅くなる。金曜日から急に涼しくなるらしい。明日は雷の予報も出ているのね。昨晩の新宿の空は大きな雲が層になっていて明るく感じた。東京だから?星かと思って眺めていた小さくて白いものはいつのまにか雲に隠れた。飛行機だったらしい。オフィスのそばでいつもみる飛行機は都庁やオペラシティに突っ込むのではないか、というくらい低空飛行だからあれはなんだったんだろう。UFO?と思うのはいろんなところでUFOの話を聞きすぎているからか。能登地震があった翌年の5月は石川県羽咋市の宇宙科学博物館、コスモアイル羽咋にも行った。宇宙人がたくさんいて展示も本格的ですごく楽しかった。最近だと千葉県銚子市の地球の丸く見える丘展望館でもUFOの映像をみた。経営困難による廃線の危機を「ぬれ煎餅」などで乗り切ってきた銚子電鉄の犬吠駅が最寄り。途中のひまわり畑が圧巻だった。以前は、展望館でUFO召喚イベントとかもしていたらしい。銚子電鉄に乗ること自体が目的の人もいるし、観光だと犬吠駅で降りる人がほとんどかも。駅前の回転寿司屋さんも犬吠埼灯台もとてもいい。そういえばこの前、京王線新宿駅の売店で銚子電鉄のぬれ煎餅を見かけてびっくりした。「まずい棒」もあったのかな。銚子電鉄と京王は何繋がりなのだろう。銚子電鉄が京王線の車両を使っているとか?私の実家の方のローカル線はたしか井の頭線の車両だったからそういうのもありうるかも。鉄道はそれ自体、旅の醍醐味。昔の面影も届ける大切な手段。盛り上がってほしい。

不注意で色々予定を入れまちがったり、アプリを使ったあれこれができないのは、最近の携帯が私には小さすぎるからではないかと思い至った。Duolingoだってパソコンでできればいいのに。。。と思っていたらパソコンでもできるというではないか。私が知らないだけだった。いざやってみたらやりづらいのは携帯が小さすぎるせいではなく、どちらにもメリットデメリットあるという普通のことに気付かされただけだった。でも携帯とPCではやれることが違う気がするので両方使ってみようと思った。これも少し前に書いた習慣を崩すことの一環になるかも、と少しワクワク。この話をしたら「ボケ防止ですね」と言われた。まあそうなんですけどね。

ボケ防止で思い出したのだけど、最近思うのは、私は死ぬまで本を売ることをしないだろうなということ。もちろん売るための本なんて書けないというのもあるけれど、本を書いている人たちは目的がはっきりしている人が多いなと気づいて、私は特に自分の中にそういうものを見出せないから、こういう毎日のパーソナルで他愛もない発見をメモ的に記しておくのがあっているんだな。もちろん国内外での発表は続けたいし、協会のジャーナルには投稿していくだろうけど。それにしてもこういうのだってすぐ忘れてまた少ししたらそういえばDuolingoってパソコンでもできるんだって、とか戻りかねない。自分だけのことならそれでいいわけで、というか、相手あることだって何度でも聞き直していいわけよね、人は。何度も同じ話するのだって人なんだから。精神分析なんてほんと何度も何度も同じ話をしたりする。けど、それも全く同じということは全くないのだな、とか考えているのがフフフという楽しみだったりする。自分のことってよくわからないから、何度も同じ道で迷っちゃったりはしないかもしれないけど、またここに出ちゃったよ、みたいなことはあるわけだし。回帰するともいう。

フロイトは「代替形成や症状は抑圧されたものの回帰の指標」であるとして欲動との関係で抑圧を精密に捉えようとした。メタサイコロジー論のひとつ「抑圧」論文でフロイトは三つの神経症、つまり不安ヒステリー(動物恐怖症など)、転換ヒステリー、強迫神経症を取り上げて抑圧のメカニズムを記述する。1915年の三論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」「無意識」は、フロイトの症例とともにセットで読んだほうがいいと思うけど、私たちがReading Freudで読んでいる「心理学草案」が前提とした神経学的な仮説に基づいた思弁ではない方法、つまり臨床観察に基づく基礎づけをフロイトが試みたものたち。とても面白い。もちろん「痛み」とか「草案」からすでに印象的な取り上げ方をされているテーマは引き継がれている。

そういえばこれもどうでもいい話なんだけど、私はAmazonのオーディブルって無料期間に少し聞いたことしかなくて携帯の読み上げ機能でキンドル本を聞くことがある。これがかなりストレス、と同時に面白かったりもする。メタサイコロジー論は多分そんなに間違えて読まれないと思うけど、読まねば、みたいな目的があるときはそういう間違いはストレスでしかないかもしれない。ちょっとした息抜きとして聞いているときは読み上げの間違いは逆に面白みになったりもする。よくある読み上げの間違いは耳が自動変換するようになっているのでいちいち引っかからないけど、自然に思い浮かばない区切りや変換がされるときは、手を止めて文章を確認して「えー」となったり本当に知らない単語だったりする。英語の読み上げもフランス語が混ざっていたりすると急に声が変わったりして覚醒水準は上がるけど聞くだけではわからない場合が多いので、英語は地道に自動翻訳に助けてもらいながら書いたり読んだりしないといけない。自動翻訳もまだ辞書機能とかの使い方がよくわかっていないな、そういえば。そのポテンシャルを全然いかせていない気もするのだけどすごく助かってはいる。AI翻訳はみんな駆使しているみたいで私も教えてもらったのだけど使いこなせない。こんなでもどうにかなる世の中であってほしいな。パソコンだって普及していなかった時代に生まれているので素朴に自分の身の丈でやっていきたいよ。アナログ思考も大事でしょう。

この前、時計屋さんへ行ったときも思った。そこはこだわりの店主さんだからちょっと緊張するのだけど大事な時計を預かったのでみてもらいにいった。ついでに自分の時計も電池が切れてしまったので変えてもらった。そっちは1時間くらいでできるというので指定の時間を少しすぎたくらいに受け取りにいった。小さなビニール袋に小さなクッション付きで入れてくれていた。お礼を言いながら受け取ると携帯電話と近づけないように、と早口で言われた。一緒にいた人も少し驚く素早い指摘に「すいません!」と携帯をしまって時計をはめた。こういう切迫感は緊張するけどプロの仕事だもんね、と思う。私が文明の利器を使いこなせないという話とは全然違うけど。ところで、さっきから「携帯」と書いているけど書き言葉にするといつも違和感がある。iphoneとか書かないと通じなかったりして、とか。でも大抵は文脈で通じるよね、多分。

昨日、なんでだか忘れたけど倉橋由美子と三島由紀夫のことを考えていた。倉橋由美子が書くかっこいい登場人物に会いたかったのかも。いや、先日、神奈川近代文学館へ行ったからか。常設展には今回もいい感じの三島由紀夫がいた。お目当ては開催中の企画展「中島敦の手紙展――おとうちゃんからの贈り物」。行きたかったのだ。『山月記』は教科書で読んだのが最初だったか?覚えていないけど漢文の授業で読んだ気がしてしまっている。途中からはどんどん読めるけど最初が難しいんだよね。かっこいい文体で大好きだった。今回の展示は、パラオ滞在中に息子とやりとりした手紙が中心。次男は当時まだ小さくてお返事は書いていないけど長男の手紙が子供なりのしっかりさで次男の様子も伝えてくれている。中島敦の子供たちはあまりに早くに亡くなった父親の思い出とどう生きたのだろう、戦争の時代を。

昨日の朝ドラ「あんぱん」は戦争が終わったあとの父の顔も知らぬ子どもや孫世代が登場した。この重たさと悲しみに触れれば戦争が終わることがないんだと知る。だからこそすぐに終わらせねばならないのに。一日一日が平和を願う気持ちで過ごせたらいいのに。せめて今日、せめて明日、って少しずつ先延ばししながらずっと平和を願って、本当に平和が訪れますように。

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精神分析 精神分析、本

残暑、オグデン“Coming to Life〜など。

曇り。なんだかまだ蒸し暑い。よく動いてるし体温調節もできてると思うのだけど今年は汗に皮膚が反応しやすくて結構辛い。なんで自分の皮膚から出るものでやられないといかんのだ。しっかりして、と思うがいい子に薬を塗る。めんどくさいねえ。

週末、オンライン投句の締切に向けて、角川の秋の歳時記を電車でパラパラ見ていた。季語「残暑」の例句がいかにもじっとりしてて笑ってしまった。みなさん、さすが。

昨日は勉強をサボったが、そういえば、とオグデンのComing to Life in the Consulting Room : Toward a New Analytic Sensibilityの4章 Destruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’を参照しようとメモを探したが、ない!これって2016年にInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたものだから、絶対どこかにメモしているはずなんだよー、と思ったがない。またか、と自分のこういうダメさに慣れているのもどうかと思えばないものはないのでもう一度読み始めたらやっぱりすごく難しい。これ、前も苦労したけどすごく面白かったのは覚えていたのでなんとか読んでいた。

オグデンのこの論文は、ウィニコットの「対象の使用と同一化を通して関係すること」の精読。Whar alive Means 6章 Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysisでウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデンのことを前に書いた。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

似たようなことはすでにこのDestruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’の論文の冒頭にも書いている。こんな感じで。

「この論文ではあまりに多くのことがほのめかされるにとどまっているので、読者はそれを読むだけでなく、書くことにも参与しなければならない。本稿で私が展開するアイデアは、ウィニコットの論文に対する私自身の読むことと書くこと——私がそれをどう理解するか、そしてより重要には、それを用いて私が何を作り出すか——を示すものである。」

とか、その先でも

「それは、母親が「現実であるがゆえに破壊されつつあり、破壊されつつあるがゆえに現実になりつつある」瞬間に、対象が実際に生き残ることが決定的に重要であるという考えである。私は今なお、この言葉を読むと頭がくらくらする。この一対の考えを何とか理解しようとして、多くの時間を費やしてきた。対象が「現実であるがゆえに破壊されつつある」とはどういう意味なのか?ここで人は、ウィニコットの論文を「書く」ほかない。なぜなら、彼は決定的に重要な考えを、説明されることなく、ただほのめかされるだけの極めて捉えがたい形に残しているからである。」

ぶれないオグデン。この論文が面白いのは、オグデンがウィニコットを読む仕方が、理解が、変わってきたこと、その場所を明確にしていること。最初から丁寧に読んでいくことで明らかになっていくウィニコットの言いたいことに豊かな思考とともについていくオグデンは楽しそうだし、それを読む私も楽しい。読むことの楽しみだな。またすぐ忘れてしまわないように今度はメモの保存を工夫せねば。これまでも工夫してきたつもりなのになあ。どうすればいいんだろう。

まあ、今日は火曜日。これは要確認。今週もがんばろう。

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テレビ 散歩

アンパンマン、環境

今日は曇りかな。休日なので朝に朝ドラを見る。朝ドラ「あんぱん」気に入っている。主人公のぶの子どもたちへの眼差しがずっとあたたかいのが好き。私もまだ自分が子どもみたいな時から赤ちゃんから大学生、誰かの「子ども」までいろんな人たちに関わってきたし、今も関わっているけどその眼差しにはかなり変遷があるな。いろんな申し訳なさが襲ってくる。でも本当にたくさんの子どもたちと会ってきたことで随分成長させてもらった気がする。いろんなことを今も世代を超えて教えてもらっている。アンパンマンは、私は子どもの頃はあまりみていなかったけど、大学生のときに小さな子に「かいて」と言われ、全く絵心のない私の下手なアンパンマンで泣かせてしまったことがいつも思い出される。申し訳なかった。今ならあれよりはマシなものを書けるが子どもたちは「ちがう」と首を横にふることも多いので、子どもたちの指導のもと修正していく。「こう?」「こうかな」「これでどうだろ」とか言っている間にいちいち「ごめんごめん」「ごめんね」が入るのもしかたない。とりあえずアンパンマンの色に塗ってしまえば、とか思うこともあるが色塗りはたいてい子どもが自分からはじめるのでしたことがない。「ここ黒くして」と輪郭をかくことを頼まれることはあるけど。あの輪郭や枠組みを求められるときのじんわりした気持ちもたくさん経験してきた。中井久夫の風景構成法という描画も私はよく使うのだけど、あれは最初に治療者が枠を書く。そういうのと繋がっているのだ、きっと。こぼれ落ちないように、大切ななにかが。形にすることで生まれてくるように、見えていなかったなにかが。

昨日、なんとなく眺めていたテレビでどこかに海の平均気温が2度上昇して生えたての若草を食べる渡鳥に影響が出ていると言っていた。胸が痛む。私たちは環境にある程度守られてきて、自然は人間よりずっと厳しいときもあるけど基本的にはものすごく優しい。その自然が変わってしまったら私たちというよりこの先の人間までずっとあまりよくない影響を受けることになる。旅にいい、山に登り、海辺を歩く、観光客としてそこを訪れ話を聞いていると農業、林業、漁業の今を垣間見ることがある。たいてい厳しい話だ。知らないことがたくさんあるけど知ろうとしていきたいと思う。だから今日も歩く。

良い一日でありますように。

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俳句 散歩 精神分析

祭り、花壇、フロイト

昨晩は少し暑くて起きたがエアコンをつけたらすぐに寒くなって消した。すごく暑かった数日前よりエアコンの効きが良くなっている気がする。この夏、エアコンも酷使されっぱなしで寿命が縮んだのではないか。よくがんばってくれたおかげで私は生き延びたが家電は高いから引き続きがんばってほしい。

昨晩は通りかかった神社のお祭りにもいった。といっても通り過ぎただけだけど商店街のスピーカーから流れる祭囃子、町内ならではの案内、提灯にしかない明るさ、自転車で走りながら子どもたちが大きな声で交わす「またあしたね!」。突然、雨が降り出して自転車置き場に避難。雨雲レーダーと巨人〜阪神戦の結果を確認している間に止んだ。よく歩いた。

年よりが四五人酔へり秋祭 前田普羅

暑すぎて放置していた我が家の小さな花壇と玄関も少しきれいにした。剪定の時期ではないが、時間があるときにやっておかねばと剪定鋏でジャキジャキとパキパキの中間くらいの力で根元で陽もあたらず黒くなっていた千両の枝とすっかり大きくなった山椒の木の枝を切った。土も少し耕したら知らない大きな根っこを発見。君は誰、とびっくりしたけどまだ確認できていない。なんの根っこだろう。それにしても、剪定用の鋏、もう少し鋏部分が大きいのを買えばよかった。山椒の枝は少し太くなるとすごく硬いしトゲトゲしているから切りにくい。安全で使いやすくはあるから枝が逞しくなる前に適切な季節に切ればいいのだろうけど。昨日は風も気持ちよく少し涼しくなったとはいえ大きなゴミ袋に葉っぱや枝を片付け終わる頃にはやっぱり汗だくでクタクタ。肩もバキバキになった。今日の筋肉痛を恐れていたけど今はまだ大丈夫みたい。遅れてくるかもしれないけど。

昨日からオグデンが引用しているフロイトの文章が見つからなくてなんでだろうと思っていたらオグデンの本の誤植だと思う、多分。Freud, S. (1911b). The history of the psychoanalytical movement. SE, 14とあるけどThe History of the Psychoanalytic Movementは1914年だと思います。私もたやすく引っぱられてしまった。論文名見ればわかるじゃんね。まだまだな。オグデンが引用するフロイトも私は好きで、今読んでいる論文はオグデンの主張も好き。こういうの読みながら自分でも「ああ、そうか、あそこでフロイトがこう書いていたのはここに繋がっているかもしれないんだ」という発見があるくらいにはフロイトを読み続けてきてよかったなあとしみじみ思う。すごく時間がかかるしエネルギーも使うけど精神分析が関わる人の心ってそういうものだからな。

今日もあれやこれやがんばろう。今日のNHK俳句は岸本尚毅先生。一番好き。良い日曜日になりますように。

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俳句 精神分析 精神分析、本 言葉

梨、子規、サンガマ

夜はクーラーがいらなくなった。喉の心配が少し減って嬉しい。ちょっと調子悪いとマスクをする癖がついているけど気をつけるべきことなんて少ないほうがいいに決まっている。今朝はまだ少し雨が降っているみたい。見えないくらいの雨が。

梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 正岡子規

梨を食べている。豊水。おいしい。子規って1867-1902(慶応3年-明治35年)で35年しか生きていないのに(「のに」ってこともないけど)お菓子とか果物とかの俳句が多いイメージ。楽しい。

牡丹餅の昼夜を分つ彼岸哉 正岡子規

うちも昔、おはぎのやりとりしていた気がする。毎年、あんこ・きなこ・黒ゴマの三色で作って持ってきてくれた人もいた。父の仕事の関係の人だったような気がするけど私の中では「おはぎの人」となっていた。

職業の分らぬ家や枇杷の花 正岡子規

という句も好き。枇杷が好きだからというのもあるがこれも私だったら「あの枇杷の家」「あの枇杷の家の人」とか言っていたと思う。面白い句だと思う。

毎日のように分析家のところへ通っていた頃、通り道に枇杷の木が一本だけあった。私は毎日、毎季節、身がなるまでも身がなってからも眺め続け写真もたくさん撮った。最初の数年はその大きな道に枇杷の木があることに気づいていなかった。

精神分析を受けるとこれまで気づかなかった景色に気づくことが増える。現実の景色のお話。心の景色も連動はしているに違いないが。私の患者さんたちもそうだ。そしてこんなに毎日のように通っていたのに、と自分で驚く。こういう驚きがとても多いのが精神分析だと思う。自分でもびっくり、という体験はいろんな情緒を引き起こすけど、それまでの年月はそれにお互いが持ち堪えられる準備期間でもあるのでなんとか二人でとどまる、味わう。

子規は病床にありながら一日一日を豊かに生きた。俳句は単に生活の切り取りではない。わずかな文字数が見せてくれる景色に潜む意外性に心躍る。

昨日、なんとなく出口顯『声と文字の人類学(NHKブックスNo.1284)』をパラパラしていた。

この本に、南米ペルーの先住民ピーロが植民地制度アシエンダのSIL教育のもと読み書きを身につけたという話がある。そこで引用されるのがSILの指導なし識字能力を身につけたサンガマの説明である。

「私は紙を読む方法を知っている。それが私に話しかけてくるのだ。彼女が私に話しかけてくる。紙には身体がある。私はいつも彼女を見る。私はいつもこの(文字が書いてある)紙を見る。彼女には赤い唇があり、それで語りかけてくるのだ。彼女は赤く彩色された口がある身体をしている。彼女には赤い口がある。」

サンガマは「書かれた文字(writing)を音声言語の表象とは考えていない」のである。

「西洋の人間にとって文字は発話を符号化(encode)したものであり、符号の解読コードを知る者は誰でもメッセージを読むことができる。声を物質化したものが文字であるという西洋の考え方にサンガマも同意したであろう。しかしサンガマが聞いていた声は、文字とは「別の声」であり、声を発する紙は「文字」の外見とは異なる身体を持つ。紙はメッセージを担う生身の女として現れサンガマに話しかける。彼が聞いているのは女の声である。サンガマにとって読み方を知っている者とは、コード解読の術をマスターした者というより、印刷されたページが女に見える「眼」を持ち、女が言うことを聞き分けられる「耳」を持つ者なのである。読むこととは女の話すことを聴くことなのである。」

俳句もオグデンがウィニコットを原著で読めというのも同じだな、と思った。俳句もその人の文字で書かれていると見えてくるものが変わる。ウィニコットも。その潜在性=創造性であり、読み手にもそれは求められるものなのかもしれない。

いい俳句作りたいな。言葉を豊かにしないと。とりあえず今日もがんばりましょう。

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精神分析

お手伝いとか精神分析とか。

風が気持ちいい。昨日は弱雨が降ったり一時的に寒いくらいだったり陽射しで暑くなったり強雨になったり空も大忙しだった。私もハードだった。書き物が全く進まない。でも身体を使いながら感じることも多く、この年齢になってわかることの多さ、この年齢までとりあえず生きてこられた幸運さなどを思うと同時に「お手伝い」を健やかになせる自分でありたいと思った。動けない人の代わりに動いている過程で出会うその人に関する評価とか出来事とかもあたたかく胸に留めたい。「ケア」とかとは違う「お手伝い」のなにか。それを大事にしたい。

精神分析を始めると親を知ろうとする動きが増える。自分を知ろうとすることは環境を知ろうとすることでもあるのだろう。頻回の設定でカウチに横になると自分でも「え、なんで?」「ずっと忘れてた」という記憶が次々と出てきたりする(それを言葉にできるかはまた別の話)。それは直ちにじぶんごととして語れるおものではない。ボラスの言葉でいえば乳児だった私たちは自分は最早期から人間的な過程の内部にいることを知っているし、それを変形性状況と認識するからこそ、変わりたい(最初は(相手を)変えたいだったりする)という欲望を持って分析の場を訪れるともいえる。だからかどうか、親と関われる状態なら色々聞いてみたくなるし、もう話せなくても次々に思い出される記憶と対話が始まったりもする。設定の力は大きいし、言葉の拘束力も可能性も大きい。

現代の精神分析は心の中の自己表象や対象を欲動、情動、記憶などが連動した力動的過程(退行を含む進化か)と見做している。私がオグデンやボラスを読むのは内的あるいは内在化された対象関係と外的あるいは外在化された対象関係の動きの詳細に関心があるが、欲動理論をそれと分けて考えるのも違うと思うのでフロイトの構造論を再検討しつつ主体が対象と、あるいは対象になしていることを論じるアンドレ・グリーンの存在も重要となる。フロイトは素朴な対人関係の記述はするが心的構造の記述に対象関係の文脈を持ち込むことはほとんどなかった。しかし『喪とメランコリー』の有名な一説に示されるように、動機づけ原理となる欲動に対する対象の影響力を無視していたわけでもない。しかし、内的な対象と対象関係を欲動論に付け加えたのはフェレンツィ以降だろうし、現実の対象との同一化に注意を向けることを強力に打ち出したのは小児科医でもあったウィニコットである。では、精神分析を特徴づけてきたエディプスコンプレックスはこれらのどこに位置づけられるか。私はエディプスコンプレックスという概念は今も今後も有効だと考えているが、それを発達的な観点でどこに位置づけるかは、環境の位置付けと同様、難しいものがあるなと感じる。精神分析は言葉と言葉のやりとりだが、この言葉が機能している水準というのを私は最も重視するし、それは情動が喚起される瞬間を正確に読み取っていくことと関係している。

こういうことを書いている間に先日思い浮かんだアイデアを思い出せないかなあと思っているのだが全然蘇ってこない。私ももう一度カウチに戻れば浮かんでくるだろうか。そんなことはないな。そういう水準で言葉は使われなくなっていた。今思うとカウチでのアウトプットはまさに記憶なく欲望なくとなっていった。これは分析家側の体験とも一致してると思う。分析状況は夢見の場でもあるが、その場合の夢とはなにかについても考えが変わった、というよりビオンがすごく読みやすくなる程度には体験を積み重ねられた。最初の数年間のあれはなんだったんだろう。偽りの自己との戦いだったか。過ごす必要のあった時間には違いないがきつかったな。しかし患者になることで知ることの多さたるや。もちろん知るべき、とは全然思わない。大抵の場合、それをしたい人がすればいいことばかり。「お手伝い」も大抵の場合はそう。が、しかし、となってくるとまた難しいことがたくさん。ケアとかなんとかいう言葉を使うことが増えそう。

オグデンの引用をしようかと思ったけど時間がなくなった。今日も少し雨が降るらしい。良い一日になりますように。

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言葉

空がきれいなピンクと水色。南側の大きな窓を開けたら涼しい風が流れこんできた。気持ちいい。鳥たちはまだそんなに鳴いていない。昨日も少し欠けて猫の目みたいになってきた満月が輝いていてきれいだった。それにしても見るたびに位置が全然違うように見えるのは絶対私の勘違いなのだろうけど変化が早く感じる。そういえばボラスの本にconstellationが出てきてここは「星座」って訳したいな、と思ったところがあった。

Being a Character:Psychoanalysis and self Experienceのintroduction

we do this many times each day, sort of thinking ourself out, by evoking constellations of inner experience.のとことか。

言葉は大切にしたい。

時折、SNSを開くとびっくりするような言葉遣いに出会うことがある。日常生活で知らない相手から言われたら暴力でしかないような言葉はSNSでも同じように暴力だと思うし、身内から言われたって暴力だと思うのだけど、つまり暴力的な言葉はどこで言ったとしても暴力的だと思うのだけど、向こうが「そんなつもりはなかった」といえばそう感じたほうに問題があるみたいになるのかもしれない。明らかにサイズも力も優っている相手が近距離で大きな声を出しているだけでも十分圧を感じるけど、そういう場合、優位なほうが調整をするものだろう。子供に対する大人がそうであるべきように。大人の場合、どうしようもない場合はこちらからきちんと離れることが調整となる場合も多いけど、それさえ叶わない場合もある。相手が個人であろうとなんでであろうと直感的に気に入らない、信頼できない、と感じたものに対して距離を取るのではなく、ある程度一般的な意見をもとに「ふーん、自分はそうは思わないけどね」で済ますでもなく、自分が納得できるような説明を求める、それがないと攻撃する、みたいな態度がとても多い場なのはなぜか。とても怖い。電車で知らない人に近距離で覗き込まれて何か言われたときと同じくらい怖い。合わなかったから、信頼できなかったら関わらない、という選択を行使してほしい。させてほしい。攻撃はそこに終始する限り何も生まない。とにかくよく知らない相手のあり方を印象で否定するものではない、というのは基本ではないのか。

今日はとても慌ただしい一日になる予定だけどお天気も気持ちいいし、私も気持ちだけゆったり過ごせるようにしよ。良い一日になりますように。

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実、ボラス、ワーズワース

日の出がゆったりしはじめた。朝のピンクは季節によって全然違う。昨晩は帰り道、月はあいからずピカピカで草むらからは虫の声が静かに絶え間なく響いていた。夏の蝉とは大違い。秋はざわめきよりもメロディー。地球の熱がちょうどよく下がりますように。今朝の私はゴージャスにシャインマスカットで熱を下げよう。秋の果物が送られてきて幸福。秋は果実の季節。小さな柿が道路にたくさん落ちてくるようになった。少しオレンジになっているものもあれば果実ならではの浅い緑のものも。みんな渋いのかな。つい食べることばかり考えてしまう。この前、縦に薄い線が入っているかわいい木の実を眺めながら柿だーとか言っていたけど、柿ってあんな線入ってないよね、と今、落ちた柿のことを思い浮かべながら思った。なんだろう、あの実は。よく通る道の大きな木で、たしかに柿の木だったと思うのだけど。

何をやっても曖昧だし、すぐに忘れてしまうのでここがメモ置き場となっているわけだけど、適当ながらも翻訳の断片を載せているので興味のある方には参考くらいにはなるだろうと思う。へー、そんなこと書いてあるんだ、自分も訳しちゃおう、と下訳くらいのものが集まっていけば翻訳されてないから触れられないという状況を防げる。今は自動翻訳があるわけだからどの言語でも下訳の下訳くらいは簡単にできる。

ということで今朝もChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)の3番目の著書、Being a Character: Psychoanalysis and Self Experienceからウィニコットが引用されている部分を書いておこう。引用というか参照か。ボラスはその多くをウィニコットから引き出している。題名は「キャラクターであること 精神分析と自己経験」くらいでしょうか。

>>私たちは各自、世界を照らし出すこうした対象の無数の只中に生きている。それらは幻覚ではない(確かに存在する)。しかしその本質は、ラカンのいう「現実界」に内在するものではない。その意味は、ウィニコットが「中間領域」あるいは「第三の領域」と呼んだ場所——主体が物と出会い、対象によって存在が変形するまさにその瞬間に意味が付与される場所——に宿る。中間領域の対象とは、主体の心的状態と物の性質とのあいだの妥協形成である。

ボラスとオグデンは相互に引用したり参照したりしていないようなのだけど、いっていることはとても似ている(のか?)。対象をどう位置づけるかという観点は同じだと思う。

後に続く文章も世界中の文化に詳しいボラスならではの広がりで興味深い。ちなみにボラスは俳句にも詳しいので、翻訳されているどれかの本の日本語版への序文では芭蕉を引き合いに出している。その俳句をというより、詩集が本屋から消えることについてだった気がする。あとで見てみよう。さて、続き。

>>オーストラリアの荒野では、アボリジニの「ウォークアバウト(※通過儀礼のひとつ)」は「ドリーミングthe dreaming」と呼ばれる。神々が世界を夢見る以前、そこは何の変哲もない平原だった。だが今や風景は物質化した形而上学であり、一本の木も岩も丘も、夢見られたものの一部である。この世界を彷徨いながら、アボリジニは地物理的対象に出会い、それらに触発されて自らの神学・文化・共同体、そしてもちろん自己を想像し、それらを媒介にして自分自身を思考する。Cowan の言うところのこれはイマジナル知覚imaginal perceptionである。

このあと引用されるのはワーズワースとシェイマス・ヒーニー。素敵。大学の学部時代は詩人の先生の講義も受けられてとても楽しかった。ワーズワースは猪熊葉子先生の授業でやったのかも。いいねえ。ワーズワースの詩を思いながら草原を散歩したいね。でも今は熊が怖くて気軽に自然の中へ行けない・・・。もちろん彼らとてそんな気楽ではなかったかもしれないが。

今日はどんなことがあるかな。別の場所に忘れた日傘を取りに行かねば・・・。。なくしたのでないだけマシか。今日もがんばりましょう。

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パウンドケーキ、ボラス“Being a Character”

朝はだいぶ涼しくなってきた。まだ時折アブラゼミの声が聞こえる。鳥たちも元気。この前、近所でオナガが大きな声を出していた。山とは鳥の鳴き声もずいぶん違って聞こえる。

大きなトラックが通り過ぎた。この道を通るのは早朝から長距離を移動するトラックではないと思う。昨日の昼間も秋だなんて嘘だみたいに暑かった。日中の同じような時間にいろんな配送会社の人が汗だくで大きな荷物を走るようにして運んでいるのをみながら大変だね、ありがたいね、と話すことがいつもより多かった気がする、この夏。

季節ごとに届くパウンドケーキ、秋はハーブとスパイスのパウンドケーキと丸子紅茶のパウンドケーキ。この丸子紅茶はとっても美味しくてケーキにしても香りがとてもいい。

また余裕のない平日となり、日曜日に考えていたことがどこかへ行ってしまった。日曜の間にやっておけばよかった。

引用しないと決めたChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)をちょこちょこ読んではいる。文学として魅力的でなんとなく読んでしまう。

例えばBeing a Character: Psychoanalysis and Self ExperienceのIntroductionの冒頭をなんとなく訳すと

>私たちは皆、ある特定の香りが、まるで子ども時代の遠い村から呼びかけてくるかのように感じられる、あの胸を打つ瞬間を知っている。過去へ手を伸ばし、遠い昔の自己体験のエッセンスに触れられるかのように。人生のとても特別な時期に流行した音楽を耳にしても、呼び起こされるのは単なる記憶というより、イメージや感情、身体の鋭敏さに満ちた内的で心的な星座である。たとえ「この匂い、子どもの頃、うちの庭にあった花の匂いだ!」と誰かに言葉で説明しようとしても、内的体験の質感を伝えきることはできない。

みたいな。プルーストやシェイクスピアが偉大なのはもちろん、それを自由に取り込んで精神分析理論と重ね合わせて書く仕方が魅力的。おお、マドレーヌ、とパウンドケーキを食べながらでも喚起される香り。

ちなみにボラスがここで書いているのは、単なる対象としてというより過程として重要性を持つボラスが変形性対象(transfomational object)と呼ぶもののこと。この部分は国際精神分析学会(IPA)が無料で提供しているIREDという事典の日本語版でもすでに訳されている。そこから引用する。

>>Bollas(1987)は、母親が「全体的な対象として幼児にとって人間化される」前は、「母親は変形の領域あるいは源として機能している」と主張した。したがって、「母親は、他者としてまだ十分に同定可能ではないが、変形の過程として経験される。そして、この早期の存在の特徴は、大人としての生活の中で、 対象が変形のシニフィアンとしての機能のために求められる時、対象希求の特定の形式において生き続けている。」(1987)

Bollas の「対象の統合性」については、Bollas(1992, p4)は次のように書いている。これもIntroductionの一部。

>>かなり驚きなのであるが、対象関係論では、個人の投影のコンテ イナーとして見なされている対象のもつ際立った構造にほとんど思考が向けられていない。確かに対象は私たちを持ちこたえてくれる。しかし、十分皮肉なことに、まさに対象が私たちの投影を保持してくれるからこそ、一つ一つの対象の構造的特徴がさらにより重要になってくるのである。と言うのも、再経験の際に、 自身の自然な統合性に従って私たちを処理してくれるコンテイナーに、私たちは、 私たち自身をも預けるのだから。(引用ここまで)

そうそう。対象と環境の関係について表現する際にはここを押さえておきたい。精神分析の事典となるとここしか引用しないけど、このあとのボラスの表現に私はむしろひかれる。次は私の直訳だから間違っているかもだけどメモとして書いておく。ボラスが続けて書くのはこんな感じ。

>たとえば、思春期初期に野球の技に由来する喜びの感情をシューベルトのハ長調交響曲に投影し、同じ週にガールフレンドへのエロティックな反応をサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に投影したとしよう。大人になってこれらの対象に出会えば、そこに蓄積された自己体験が喚起されるだろう。

良き。とか言っていないでやることやりましょう。どうぞ良い一日を。

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テレビ 散歩

山、野球

明るい。夜の間、静かに進んだ皆既月食とは全然趣が違う。時折、うとうとしながらベッドからずっと見ていた。月が暗くなると星が明るく見えた。月食が始まる前の月はすごく明るかった。今日は暑そう。昨日も暑かったのかもしれないけど早朝から奥多摩の山に行ったので一番暑い時間は「水が冷たい!」「風が涼しい!」とか言って過ごせた。山頂は蜂と蠅がすごくて富士山だけ眺めて早々に降りてきた。石破首相、辞任表明のニュースになんだかうんざりしたが身体を動かし水や岩や木々と触れ、空を眺め、たくさん汗をかき、温泉で汗を流すことで少し落ち着いた。日本はどうなっていくのか。自然はどうなっていくのか。これまでいろんな場所で会って、話をしてきた人たちのことをたくさん思い出した。温泉で一点を見つめたまま動かない母親と一生懸命話し続ける子供の姿も心に残った。みんながもっと気楽に暮らせるような社会に、とは政治家は考えていなそう。負担ばかり増える。

夜はプロ野球を見ていた。私の周りは阪神ファンが多いので優勝を喜んだ。私が知っている選手たちはもう監督とかで現役の選手たちはあまり知らない。阪神の岩崎は好きなので昨日も素敵で泣いた。選手たちは活躍しても活躍しなくても色々言われて大変だなと思うが、私は好きな選手が活躍できず辛辣な評価をされていてもそういうことを言わず応援しつづけるタイプ。意地悪な言葉を言ってもしかたない。岩崎くらいベテランになるとそういうのも消化済みという感じでコメントも慣れた感じだが。

精神分析家のみんなと何かやろうと考えるのは楽しい。自分の考えもそこから広げていけたらよいが。今週もがんばりましょ。

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精神分析 精神分析、本 読書

機能重視、write&read

東の空がきれいなピンク。昨日も昼間は暑かったけど確実に秋を感じたあとだと気持ちは爽やかでいられる。ある程度根拠のある明るい見通しを持てるだけで生活は大きく変わると思う。

この夏は登山用品が活躍した。あれだけ暑いとやや危険を感じるから機能性重視となり、私の場合、陽射しと汗から皮膚を守ることで皮膚科に行く回数を減らせるので、どうせハイキングもするし、ということでグッズを増やした。今年、購入してよかったな、と思ったのはモンベルのWIC.フィットロングスリーブTシャツ。モンベルは店舗が多いから行きやすいというのもあるけど機能的なものが多いと思う。この前、海辺を長く歩いたときにもダメージを受けずにいられた。一つあるだけで色々楽ちん、みたいなのがいい。結局同じものばかり使っちゃうし。

昨日はせっかくやる気を出したわりに作業は全然進まなかった。メモや書いたものの管理も下手すぎるんだと思う。同じ論文も何度も読んでは忘れてるし、読んだときのインパクトをもっときちんとした形にしておかないと、と何十年思えば実行に移せるのだろう。ツイート程度の量ならいくらでもかけるし、それを積み重ねておけばいいか、と思ったこともあるけど、扱う素材は羅列的に記述できるものではないので、膨らみを持たせながら思考を巡らすにはある程度の量できちんと書かないといけないんだな。わかっちゃいるが。

サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの本を読んでいることは何度も書いているが、今のところ一番新しいWhat Alive Meansの6章に入っているOgden, T. H. (2023) Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysis 104:7-22は2年前に読んでいた。オグデンのクリエイティブ・リーディングシリーズの14作目、ウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデン。この論文の面白いところはここだし、実際、Psycheは脳ではないし、Somaはbodyではないとか分けておくべきものを分けておいたり、内と外の間を安易に分けないという作業が必要な論文なので、write Winnicottは大事。オグデンがこれについて書いているのはこんな感じ。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

よい。これについていくとウィニコットの理解も深まるという仕組み。ただ、ウィニコットを前もってしっかり読んでおくことも必須なので、writeの前にreadかよという感じになるかもしれないけど同時にやるのが大事。というのを私は頭ではわかってるけどこれが私の課題。読むのは好き。書くのがだめ。でも周りの人と会話しているとアイデアは色々浮かぶからまずはそこを書き留めるところからかな。いくつになってもベイビーステップ。とにかくオグデンがcreative readingする論文は大変重要な論文たち。途中までのは一冊の本にまとまっていると思う。

とりあえず良い日曜日を。

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俳句 精神分析 精神分析、本

秋、俳句、書き物

秋の朝だ。光が柔らかい。春のウキウキとは違う静かな喜びを感じる。嬉しい。

昨晩、久しぶりに中国茶の器を使った。白湯を飲んだなのにとても美味しく感じた。白くて小さな器。昨日は涼しかったからペットボトルでグビグビ水分補給をする必要もなかった。かわいい茶器を自然に手に取り冷めたお湯を注ぎ腰を下ろして一息。身体が季節に合わせた道具を勝手に手に取ったぞ、とそれも嬉しかった。

秋の訪れとともにさらに嬉しいニュースがあった。初対面でファンになった句友が念願の大きな賞をとった。俳句に対する情熱を知っているからとても嬉しかった。彼女ならこれらの瞬間もきっと素敵な俳句にする。私は俳句は全然だめだけどこういう瞬間を素敵だなと発見できる自分でいられただけで満足、とか言っていたら怒られそう。いや、私の師匠は怒らない。全然ダメでも俳句にすることを勧めるだろう。賞をとった彼女の俳句は誰でも知っているのに知らなかった日常を読む。絶対彼女みたいな俳句は作れないのに俳句、私にも作れそう、楽しそう、と思わせてくれるこれからの俳句界に必要な人。すでにいくつかの賞を取っているが、これからますます多くの人に知られていく。俳句界はいいな。楽しくなっていきそう。

私もがんばらなくちゃ、とひとつ書き物の目標を作った。できるのか。でもエントリーしちゃったから書く。子どもの遊びについても年内に書かなくては。年内なら大丈夫かな、と思ったけどこの過ごし方では無理な気がする。そろそろ暑さのせいにもできないから気持ちよさを感じつつしっかりしましょう。はい。

アメリカの精神分析家のクリストファー・ボラスのことを書いていたが、今引用するには理解が足りないのでウィニコットとアンドレ・グリーンに戻った。これはボラスを理解するのにも役立つのは間違いないとはいえ、精神分析の主要概念から振り返るような議論が多いから難しいは難しい。主体とは、とか。イギリスとフランスの違いが濃く出る言葉。フランス語よりは英語のほうができるのでとりあえず英国精神分析の伝統に乗るけど。ラカン派の勉強もまだまだ足りないし。まあ、足りずとも使える程度までは足らせましょ。

空がきれいで本当にうれししい。何度も言ってしまう。昨晩の月もとってもきれいだった。良い一日になりますように。

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ドラマ、Mac、HOKUSAI、ボラス

夜中、雨の音で目が覚めた。今も結構降っている。ひどくならないといいがほかの地域はどうなんだろう。

今朝は野木亜紀子脚本の「連続ドラマW フェンス」をみていた。昨年映画「ラストマイル」をみて、それを楽しめるように関連ドラマ「アンナチュラル」「MIU404」もみた。どれもおもしろかったけど「ラストマイル」はそういう準備もして、かつ映画館で見たから面白かったという感じかも。昨年だったら友達に勧められてみた篠﨑絵里子脚本(子鹿ゆずる原作、大槻閑人(漫画・作画)「アンメット ある脳外科医の日記」の方がよかったかな。テレビドラマだと女性の脚本家が活躍しているようにみえる。

それにしても私のMacBook AirOSはもうだめかもしれない。Apple Storeに行くと「ヴィンテージ!」と「今はここにこんなのないんですよ」とか嬉しそうに教えてもらえるが高値で引き取ってもらえるわけではなく故障したらしたで「もう部品がないかも」と言われ続けながらなんとか生き延びている。OSはMonterey12.7.6からアップデートできないので入れられないアプリも増えてきた。どうしよう。でもこうやって動くうちは使い続けることは決まっている。

映画『HOKUSAI』監督は橋本一、脚本、橋本一、河原れん、葛飾北斎の青年期を柳楽優弥、老年期を田中泯が演じ、この切替の仕方は大胆ながら自然。大河ドラマ「べらぼう」のおかげで私の中の江戸文化年表の基準となった蔦屋重三郎も登場。阿部寛が静かな迫力(背の高さだけでもインパクトある)があって素敵だった。それにしても田中泯の動きがとにかく素晴らしい。表情も含め、全部が躍動している。鬼滅を見ながらも思ったが筋肉を全部動かせたらいいのに。筋トレしていると驚くが、自分でコントロールしながら使っている筋肉のわずかなこと。それでも少しずつ使い方うまくなっていると思うけど。肩こりとかは全然なくなって美容師さんにも驚かれた。今日は台風のせいだと思うけど身体が変。頭痛には耳くるくるマッサージをした。耳も大事ね。身体はみんな連動して補い合っているはず。そういう部分のひとつひとつに注意を向けられたら器官言語みたいに多義性が上手に伝われる言葉を紡げるのかもしれない。

昨日、クリストファー・ボラスが読めない、ということを書いたが、ボラスの精神分析以外の仕事に目を向けると、あ、なんか読めるかも、という感じになり、少し読み進めた。ボラスのいう
The Evocative Object はウィニコットの移行対象の変形だと思うが、より動的で情動に関わるものらしく、ウィニコットの使うingをくっきりと浮かび上がらせる対象のように思う。ボラスとグリーン、ボラスとオグデンをつなぐのもこういった対象の機能なんだろうな、と思うとなんかわかる気がする、という感じになった。ボラスもオグデンもアメリカにしっかり根ざしているのに英国精神分析に馴染んでいるというところに独特の香りを感じるのかもしれない。英国精神分析は豊かだよね。

ということで今日は台風に気をつけつつ過ごしましょう。

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鬼滅とかボラスとか。

南側の大きな窓を全開にしても風が入ってこない。気温がまだそんなに高くないからいいけど。昨晩は半月がもっと膨らんできれいだったのにベランダからは見えなかった。なぜ半月基準か、といえばその日に月と星の話をしたから。8月の月の暦は1日:上弦 9日:満月 16日:下弦 23日:新月 31日:上弦だった。キッチンの窓からはすごく気持ちのいい風。ありがたい。

深夜、早朝と『鬼滅の刃』を見続け、ようやく追いついた。でも今のところ無限列車編までが一番よかったかな。ここまで見たら『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』も見ないとか、と調べたらまだ混んでるのね。すごい人気だ。“英語字幕版上映”もそろそろ始まるとのこと。

勉強がなかなか進まないから読み慣れてきたオグデンばかり読んでいたけどナルシシズムに関する文献はちょこちょこ読んでいる。ウィニコットとアンドレ・グリーン関連でクリストファー・ボラスもチェックしてるが読みにくい。邦訳はすでに何冊か出ているのだけど私が確認したかったThe Mystery Of Thingsの邦訳『精神分析という経験 事物のミステリー』Dead mother,dead childとWording and telling sexualityが割愛されている。ガーン。

Three Characters: Narcissist, Borderline, Manic Depressive: by Christopher Bollas, Bicester, Oxon, Phoenix Publishing House, 2021もチェックした。

iphoneのメモが煩雑でボラスが書いていること以上に自分の言いたいことがわからないが、キャラクターは「性格」で訳していいのか、とかなんでボーダーラインと躁鬱と「ナルシスト」なの(ナルシシズムじゃなくて)、とか、これって「性格」の類型なの、とかナルシストのところで神話から入るのは大賛成なんだけどエコーの解釈ってこうなの、とか思っていたらしい。


ボラスの思考を詳細に追いたいならStreams of Consciousness: Notebooks 1974–1990とStreams of Consciousness: Notebooks 1991–2024が出たけど、ビオンの自伝と理論を合わせて読むようには読めない気がする。精神分析の文献でさえ追いにくいのだから楽しめなさそう。ビオンの自伝なんて辛くてそういう意味では楽しくはないけど読書体験としてはとても豊かだったが。私に文学的要素が乏しいからボラスを読めないのかなあ。関心領域はものすごく被っていると思うのだけどな。

台風はどうなったか。被害が出ませんように。

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オグデン(2025)の論文を読んだ。

空がまだグレー。昨日のちょうどお昼頃、外に出たら熱中症になったかと思った。夜は気持ちいい風が吹いていたけど日中の日差しは危なかった。休日とかで外にいる時間が長い場合は登山用の夏用長袖Tシャツを着ていたからなんとかなったけど、普通に半袖着てたら皮膚が大変。日光と汗にやられやすいから薬常備。

サンフランシスコの精神分析家、トーマス・オグデンの最新刊を読みながら、ひとつ前のも読んだり、今年のIPAジャーナルに掲載されたOgden TH. Inventing psychonalysis with each patient. Int J Psychoanal. 2025 Jun;106(3):473-488.も読んだりした。これ前にも読んだ気がすると思ったけど読んでもすぐ忘れてしまうし、考えるために読んでいるからまあいいかとなっている。ジャーナルは電子版で読めるから移動時間に自動翻訳でサクサク読めてありがたい。公開されているアブストラクトの冒頭はこちら。

The author posits that for an analytic treatment to be alive and effective, the analyst must invent psychoanalysis with each patient. In responding to the question, “What does it mean to invent psychoanalysis with each patient?” the analyst must first ask himself, “What does it mean to become a psychoanalyst?” and “What is it that defines psychoanalysis.” Further, “What is distinctive about the practice of psychoanalysis?”

直訳だと

著者は、分析的治療が生き生きと効果的であるためには、分析家は患者ごとに精神分析を新たに発明しなければならないと主張する。「患者ごとに精神分析を発明するとはどういう意味か」という問いに答えるにあたり、分析家はまず自らに問わねばならない——「精神分析家になるとはどういうことか」「精神分析を定義づけるものは何か」と。さらに「精神分析実践において特異なものは何か」と。

そして「著者は、各患者と共に、その二人ならではの精神分析の形をどのように発明しているかについて、臨床例を提示する。」

ということで、オグデンがこれまでも書いてきた分析的な枠組みを変更した場面を先人たちの考えを引用しながらひとりの精神分析家としてたくさん描写しつつ、これらの問いに戻る経験豊かな精神分析家ならではの論文でとても実践的。精神分析には精神分析ならではの出来事がたくさんあるし、その精神分析家と患者のペアならではの判断というのもたくさんある。

Ogden, T. H.2016. Reclaiming Unlived Life: Experiences in Psychoanalysis. (New Library of Psychoanalysis). London:  Routledge. 邦訳は『生を取り戻す 生きえない生をめぐる精神分析体験』(上田勝久訳)。

Ogden, T. H.2024. “Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time.” International Journal of Psychoanalysis 105:  279–291.

Ogden, T H.2024. “Ontological Psychoanalysis in Clinical Practice.” Psychoanalytic Quarterly 93:  13–32.

を読んでおくとオグデンが伝えたいことをさらに別の形で感じ取れるかもしれない。

オグデンは2024年の論文で
The idea of the unconscious itself is beginning to be viewed as an idea as opposed to a “fact”. Freud (1915)considered “incontrovertible” (167) the existence of the unconscious, an aspect of mind “behind” or “beneath” the conscious mind. To my thinking, the unconscious is an idea, a brilliant idea, an idea immensely helpful in organizing my ideas when working with patients. But it is just an idea (Ogden 2024)

と打ち出した。それも維持。

私がこだわっているAlivenessもまたそれによって捉えられる性質のものではない、とオグデンは言う。よってUnlivedの訳も自分の実践から実感を持ったものにしたいが私は『セカンド・チャンス』スティーブン・グリーンブラット&アダム・フィリップス著で訳者の河合祥一郎があとがきで書いている意味で訳したい。

「生きていない人生」と訳したが、原語unlived lifeは「生きなかった人生」の意味も含む。過去を振り返る視点で言うなら「生きなかった人生」になるし、現状や未来に目を向けて、今の人生とは別の人生を夢想するのであれば「(まだ)生きていない人生」という意味になる。

こういうインプットが9月半ばまでにアウトプットに繋がっていけば9月末締切のものに間に合うかもしれないけど難しそうだなあ。こだわりを捨てればいいのだろうけど。臨床歴は長くても精神分析の実践はまだ乏しいから書けないんだよなあ、ということはわかっている。実感が足りない。オグデンみたいに精神分析家が長生きして、実践を伴ったことを書き続けてくれることは本当に大事。長生き大事。健康に気をつけて過ごしましょう。

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花火、禾乃登、フロイト草稿

風が気持ちいい。洗濯物が揺れすぎているのが心配だがすぐに取りこむから大丈夫。今日もこれから暑くなるみたい。風も朝の光も確実に秋なのに。夏休み中は東京ヤクルトスワローズ神宮花火ナイターといってヤクルトの試合の5回裏終了時には300発の花火が上がっていた。初台のオフィスは新宿にも原宿にも近く、神宮球場はそのちょっと先。毎年、夏の毎日に花火が窓から見えるなんて特別。大体仕事中なので音を聞くだけだけど。それも8月31日で終わった。今日9月2日から6日頃まで七十二候「禾乃登(こくものすなわちみのる)」。処暑の末候。たしかに暑さも峠を越した感じはあるからやっぱり暦は気候変動にまだ対応できてる。これからも五感と言葉が離れすぎることのありませんように。

昨日、9月1日はイレギュラーな予定の時間がわからなくなって確認したり、8月末までの締切にきづき慌てて書いて送るなどした。焦った。私個人の夏休みはとっくに終わっていたがいつも学校の夏休みモードに気分も身体も合わせてしまう。子どもの話もたくさん聞くからかも。それはそれで楽しいことだが時間ができるとこの暑いのに精力的に遊んでしまい、翌日の疲れを気にするという繰り返し。実際、疲れはそんなに感じないが割と大きなもの忘れをしている時点で疲れているかもしれない。あるいはこれまでもそうだったジャンという話か。どっちにしてもあーあだよ。

時が経つ早さには困るけどオフィスのカレンダーをめくってまた楽しい気分になった。霜田あゆ美さんのイラストのカレンダーは毎年、毎月楽しい。

昨晩、Reading Freudの準備としてフロイト『心理学草案』のことを考えていて
松山あゆみ「メランコリーと初期リビード経済論 : フロイト草稿G「メランコリー」のリビード論的意義」(2010)を読んだ。

フロイトの草案は全集に載っている『心理学草案』だけではない。この論文では題名の通り、草稿Gを精読することで、リビドー経済論の観点からフロイトのメランコリー論の起源をそこに見出している。こんなものを送りつけられたフリースがどのくらいフロイトの頭の中にあることを理解したのかは不明だが、フロイトにとってはとにかく相手がいることがまずは重要だっただろうし、フリースがいてくれたおかげで精神分析の種がたくさんまかれた。初期にまかれた種を乱暴に交雑することなく、起源として大切にすること。乳児期を大切にするのと同じこと。それは単に過去に原因を求めている、とはわけが違う。歴史を大切にするということ。9月からまたReading Freudがんばろう。

身体大切に過ごしましょう。良い一日になりますように。

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お菓子、海、夢。

ベランダに出たら風を感じた。涼しくないけど気持ちいい。ちょうどいいキウイと長野県茅野駅そばのきれいな通りにあるかわいい洋菓子屋さんアニバーサリーチロルの「セロリーのパイ包み」を友だちがくれた神戸の紅茶と一緒に。「茅野特産のセロリーを当店にて砂糖で煮て、白あんとドッキングし、パイ生地で包みました」というお菓子。あんがほんのり緑。いろんな地域発のお菓子があって楽しい。

いろんな地域でいろんなお話を聞いていると驚くことばかり。特に海が身近な人たちのお話には。週末も海辺で驚いてばかりいた。

今日もすごく暑いのか。昨日もすごい暑さだったが海の近くにいたせいか時折とても涼しい風が吹いてきた。山でも風の通り道みたいなところがあって暑いとずっとそこにとどまっていたくなるが海辺は日陰がないから日傘必須。時折、急な風で裏返っていたけど。海の家も賑わっていた。今年は通常より長く営業しているのかしら。海水の温度が上がっていつもの魚が全然取れないという話も聞いた。「今朝もそこからたっくさんの船が出ていったのに帰ってきたら」など漁港で具体的に言われると漁の様子もまざまざと見えてきてほんと温暖化怖い、という気持ちになる。青森に行ったときも最近の魚や原発のことなどその場で聞いたからすごく心にきた。本当に本当にまずいんだ、考えなくては、行動しなければ、と思うから勉強もするし、いろんな地域の人の話を聞くことがますます大切に思える。昨日は90歳の方のお話も聞いた。この街のことはもう自分しか知らない、と語り部の役割を引き受けてくださっているようだった。ハキハキと詳細ながら簡潔にわかりやすく説明してくださってずっと聞いていたかったけど切り替えもしっかりしていて日々の営みの強さを感じた。

そういえば昨晩、村田沙耶香が選ぶ本、みたいな感じで「その本、私も大好き!」と思ったが全部夢だった。夢の中ではその本のことをはっきりと思い出していたのになんの本だったかもわからない。好きな本はたくさんあるけど多くのことは忘れられていく、私の場合だけど。言われれば「そうだったそうだった」となるときもあるけど「そうだったっけ」となることも多い。それでもいろんな本を読んでいろんな土地へ行っていろんな人と会うことは楽しい。精神分析のように日々を積み重ねていく仕事もだから好きなんだと思う。歴史を紡ぐ、人を繋ぐ、文化を大切にする。破壊より創造を。外からの変化ではなく自分で感じられる変化を。

今日も無事に過ごしましょう。

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Netflix 散歩

アニメとか。

早朝というのに窓を開けたらムッとした空気が停滞していた。風がほしい。二日前の秋風が。

昨日もとても暑かったが「夏のおすすめ」というメニューを見て食べ物はもう夏ではないな、と違和感を感じた。相変わらずとうもろこしには惹かれるし、ゴーヤも食べたくなるけれど。

夏休みの間にいろんな人と話していろんなおすすめをされた。そのひとつが「鬼滅の刃」。Netflixでまたみはじめてしまった、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』手前で止まっていたのに。見始めるとやっぱり止まらず泣きながら見た。炭治郎がいい子すぎるとか思っていたけど炭治郎がこういう人であることが重要であることがよくわかった。炭治郎はナルシストではないから水面に映った自分が他者としてきちんと機能した。あの場面もよかった。これ、連載はもう終わっているはず。すごい。

この前、プラネタリウムで「ゆるキャン」という番組を知った。山梨県身延町が聖地とのこと。身延かあ。この前書いた不登校の子たちと長い休みを過ごしていた廃校があっちの方だったから身延は身近だった。身延山も文句を言う子どもたちと一緒に登った。そんなに大変じゃなかったと思うのだけど今だと私も文句言いながら登るのかな。また行ってみたい。

また眠くなってきた。何か書いているとすぐに眠くなる。今日で8月も終わり。良い1日にしましょ。といっても昨日と同じ暑さだときついな。気をつけて過ごすべし。

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オグデン、習慣を崩す

カーテンも開けず自分が訳したオグデンの文章について考えていた。自分の訳だから怪しいが、オグデンが引用するウィニコットも大矢訳で確認しながら訳していると、この訳はこの方がいいのではないかなあ、と私のくせに思ったりする。これがウィニコットやフロイトでなければひっかからない(そこまで読みこんでいないからひっかかれない)けどこだわって読み続けているものに関してはこうなる。でもこういう作業こそオグデンがいうクリエイティブリーディングなので面白い、が最近の隙間時間は演題に出したい原稿が全く書けないことからの逃避としてその作業に占められている。やった気分になりたいだけ、という感じがして良くない。

こういう逃避癖も治らないが、元々の注意力のなさとか落ち着きのなさに加え、おそらく加齢のせいで、あれどこだっけ、それなんだっけ、これいつのだっけ、やったと思ってたのに、などが増えてきた。なので、というわけでもないが、休み中に会った友人が最近お財布を持たなくなったといっていたのをヒントに習慣を少しずつ変える、というか、ほぼ意識しないで扱えるようになっていたものに対して少しずつ「あれ?」となるポイントを作ることで覚醒する瞬間を増やすということを始めた。最初は私もいつものお財布をもたない、ということをしてみた。案の定、色々困った。でもこの作戦は私にあっているかもしれない、と思った。最低限必要なものを吟味するにもいい機会。自分で自分を騙すみたいな戦略が意味のわからない人もいると思うが、そういうのに引っかかってしまう人もいるのだ。注意と記憶の問題は簡単ではないのだよ。

そうだ、オグデンに戻るけど、私がこだわっているWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”にオグデンが以下のように書いている。


「友情friendshipを私は、部分的には幼少期の遊び経験の観点から考える。孫娘たちとの経験では、彼女たちは私をカーペットに巻くこと(誕生の模倣?)に興味を示し、役割(母親、父親、息子、娘、教師)を割り当てて、私たちに、互いに話し合う親や、教師と話す親や、赤ん坊を世話する親を演じさせる。これは昇華された性的感情の観点から構想されるかもしれないが、それは私が孫娘たちと遊んでいるときに感じることではなく、またウィニコットが自我ー関係性として念頭に置いているものでもない。自我ー関係性ego-relatednessは、「イド関係」
 “id-relationships” すなわち「生のかたちであれ昇華されたものであれ」愛の関係とは区別されるべきである。」

となる。これ最後の「生」を「なま」とルビを振って読ませるのが日本語訳なんだけど、これは昇華との対比だからそのままの、とか未加工のとかじゃダメだったのかなあ、と思ったりする。

と、私がここで注意を向けたのはそこではなくて、オグデンが孫娘と遊んでいる!というところ。オグデンは息子との共著はあるけどあまりパーソナルなこと書かないから珍しいなと思った。でも私が見落としているだけかもしれない。

もうこんな時間。今年はあまりスイカを食べなかったな、と思って秋の果物からスイカに戻ってみたけどいまいちだった。来年はきちんと一番美味しい時期にいただきましょう。

どうぞ良い週末をお過ごしください。

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暦、オグデン、ウィニコット

今朝は冷房をつけず窓を開けたまま。少し蒸し暑いけど風を感じると気持ちいい。ようやく!と思うけどまた暑くなるらしい。でもこうやって季節は先に進んでいく。8月28日から9月1日くらいまで第四十一候「天地始粛 (てんちはじめてさむし)」 。日本の気候も変わった、と心配しているが、七十二候はしっくりきてることにいつも驚いてしまう。

驚いてしまうといえば最近まとめたオグデンのWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”でオグデンが


「ウィニコットが自らの思想を表現するために、フロイトの構造モデル――イド、自我、超自我――の用語を採用するたびに、私はいつも驚かされる。ウィニコット独自の思考は、身体的衝動(イド)、道徳的判断と理想化(超自我)、そして対立する内的要求と外的現実のあいだでバランスを取り統合しようとする努力(自我)から成る“委員会”というメタファーに、新たな次元を加えている。」

と書いている。直訳だとわかりにくいかもしれないけど、私もウィニコットの


「個人的に、私は自我-関連性(ego-relatedness)という言葉を用いるのが好きである。この言葉は、自我生活とでも呼ぶべきものに繰り返し起こる紛糾事態であるイドー関係(id-relationship)という言葉と、かなり明確な対照をなすので好都合なのである。」

にはなんでーと思う。オグデンはウィニコットがこの言葉によって新しい次元を持ちこんだみたいなことを書いたあとに


「ウィニコットの貢献におけるこうした側面を踏まえると、なぜ彼が「自我関連性」と「イド関係性」という用語を用いたのか疑問に思うかもしれない。この問いに対する答えは持ち合わせていないが、ウィニコットにとって重要なのは、「フロイト派」ではない。「真の」精神分析家ではないと非難されることを避けることが重要だったのだろう。メラニー・クラインはフロイト派ではないと非難され、代わりに「クライン派」(この用語は大論争(Controversial Discussions)の期間中にアンナ・フロイトによって造語されたと言われている)と呼ばれていた。 クラインは自らの全く異なる死の欲動概念を指すために、フロイトの用語「死の欲動」を用いることで「フロイト派」としての資格を維持しようとしたのかもしれない。ウィニコットも独自の「自己」と「欲望」という用語を使わず「自我」と「イド」という用語を使用している点で、同様のことをしているのかもしれないが、これはあくまで私の推測に過ぎない。」

と書いている。正確な訳は原著をチェックしていただきたいがまあこんなようなことを書いている。

私はこれに対してもなんでーと思う。クラインもウィニコットもフロイトへの忖度はあっただろうけど、ウィニコットの場合、精神分析用語から離れずに自分の言いたいことを言うにはどうしたらいいかということをすごく考えていたからじゃないのかな。ウィニコットは精神分析理論に環境の重要性を持ち込むという大仕事をしながら、何が精神分析であるかをいつも明確にしようとしている。新しいものを持ち込むときに古い理論を雑に踏み荒らしたり用語を適当に使わないということにウィニコットはいつも意識的だったと思う、私がウィニコットを読んできた限りは。

にしてもego-relatednessとid-relationshipという用語は奇妙だなあと思う。どちらもひとりでいるけどお互いそこにいる、というcapacity to be aloneはego-relatednessと関連している。まあ、この論文は短いからオグデンが読み込むみたいにいくらでも深掘りできるというのはある。ウィニコットの場合、発見はいつもこちらに委ねられている。がんばろ。

もう8月も終わる。こんなことをしていては演題を提出できない。でも書けないんだなあ。がんばろ、と自分を励ましつつやってみよう。

なんだか暑くなってきた。良い一日になりますように。

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俳句 映画

虫、コロナ、映画

昨晩は窓を開けると涼しい風が入ってきた。今朝はどうかなと思って窓を開けた。しばらくするとすっと昨日と同じ風が入ってきた。そして虫の声。

堀本裕樹・桃山鈴子『六四五七五 虫の絵と俳句』(毎日新聞出版)を買わねば。俳句をやっているとなんでも観察するようになるが虫は特に興味深い。鳥取県立博物館企画展「とことん!昆虫展」にも行ったが大賑わい。実に楽しかった。ゴキブリを「かわいいですよね」という会話をするとは思わなかった。8月のオンライン句会のお題に「蟷螂」があって、展覧会でも蟷螂はすごく魅力的だった。でもいい俳句はできなかった。興味関心の向け方が違うのか、語彙が少ないのか、言葉にするって難しい。そのまま描写すればいいってわかってるんだけど。

昨日、あまり行かないスーパーに行ったらパプリカが高くてびっくり。がーん、となって献立変更。いつもすごく簡単なものしか作らないからどうにでもなるとはいえ楽しく思い浮かべていたものを食べられないのはちょっと残念ね。

今またコロナが流行っててニンバスはカミソリの刃を飲み込んだような痛みとか言われててすごく嫌。怖い。薬だって飲めないのでは、そんなだったら。栄養も点滴で摂るとかになったら辛い。周りでコロナに罹った人はいるけど、まだそういう痛みを経験した人の話は聞いていない。自分もいつなるかわからないから、この暑いのに人混みではマスクもしているし、熱中症と同じくらい気をつけてはいるけど、どう気をつけていてもなる、という学びをコロナ禍でした気がする。もちろん予防したほうがしないよりはいいわけだけど。

この前、辻村深月原作の『この夏の星を見る』の映画をみた。コロナ禍の2020年の中高生たちを描いた物語。主演の桜田ひよりは私が原作で持ったイメージとはだいぶ違ったけど素直で力強い主人公を作り上げてた。あと『国宝』で話題の黒川想也や『虎に翼』チームのみなさんとか出演。工藤遥もよかった。役者さんもすごいけど脚本を作る人もすごい。映画だから原作とはちょこちょこ違うわけだけど映像だからできることってこういう映画だと特に感じる。本だと順番に描かれることが同時に一気に描けるし。

まだオンラインで繋がるという手段がなかった学生の頃、大学生ボランティアとして廃校になった小学校で長期休みを不登校の子どもたちと暮らしていた。子どもたちといってもこちらも若かったから年齢の近い子もたくさんいた。町内の運動会とかもそこでしていたから、中心スタッフだった私はいつのまにか地域の皆さんと仲良くなって赤ちゃんのときからのおつきあいの子もできた。私はもともと山育ちだけどウリボーを見たのもそこがはじめてだったし(すっごくかわいい)、いちじくとかの木の実とか山草も自給自足でトリカブトの怖さもそこで実感した。動物も色々いて、音楽室だったところでバンドをやったりすごく大変なこともあったけど大体いつも楽しく面白かった。

昨日、ふと、当時はたしか中学生だった子を車で送っていった夜のことを思い出してうるっときた。まだ携帯とか当たり前ではない時代、常勤のスタッフだけが大きな携帯を持っていた。ある理由で、その子が電話をかけなければならなくなった。公衆電話を探すこともできたがまだ時間がかかりそうだった。携帯電話を使うか聞くと使うという。驚いた。狭い車内でその子が電話をするのを私たちは黙って、ただ静かにしていた。一緒に暮らすように過ごしていたその子が勇気を振り絞った時間だった。あの緊張感、あの後の安堵、何も言わず少し遠回りして東京タワーがきれいに見える道を選んだスタッフの思いやり、興奮気味のその子の歓声。居場所を失った子どもたちやひきこもりと言われる人たちとただただ一緒に過ごす。若い頃はそういうことばかりしていた。私も居場所を求めていたのかもしれない。コロナ禍でそういう場所はどう機能したのだろう。あるいはどういう危機に晒されたのだろう。辻村深月の本や今回の映画のように少しずつ振り返りはされるだろう。するべきだろう。

今朝はまだ太陽の気配がない。少しだけ涼しそう。もうそろそろ35度を下回る日々になってほしい。これでは身体が持たない。暑熱順化はできていると思うが。引き続き熱中症にも気をつけて過ごしましょう。良い一日になりますように。

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精神分析 精神分析、本

アンガーマネージメント、時間

暑い。梨が少し蜜がですぎた感じになっていたけど美味しく食べられた。よかった。

昨日、なぜか忘れたけど怒りについて考えていた。今は会社でアンガーマネージメントの研修とか当たり前になっているけど、一定の人に効果があると思う。なんでも一定の人には効果があるとはいえ、「まず落ち着け」みたいに自分に語りかけている人はそれなりにいるわけでそれを認知、思考、感情、行動などの側面から見直したり、自分の状態や対処行動の記録をとったり、相手にブワッと怒りを向ける前に自分に注意を向けてそれがなんであるかを知ったうえで、怒るべきことには怒れるように、そうでない怒りはある程度収められるようにコミュニケーションスキルを考えていくことはかなり有効だ。そのためには時間が必要なので「まず落ち着け」と数秒は耐えることが必要になる。

一緒に住んでいる相手とか物理的な距離を取りにくい相手だと「またか」という失望が加わるし、色々なんとも難しいが、お互い全く違う時間が流れているとか全く常識が違う、ということは当たり前といえば当たり前で、そういうのは時間経過で折り合いがつくものでもないので、あまり理由つけすぎない程度に「まあしかたないか。相手は相手、自分は自分のすべきこと、やりたいことをやろう」と思えたら楽だろう。相手のことを思うことは大事だが、自分を見失うと怒りは相手に向かいやすくなる。まず自分を取り戻す数秒を、という感じか。

時間というのはとても大事だが、人は直線的な時間のみに生きているのではないというのはベルクソンを読めば深められる。読まなくても前に書いた平井靖史さんの本や動画でベルクソンを学べる。

オグデンも“What Alive Means: Psychoanalytic Explorations”の8. Discovering a Personal Life: On Winnicott’s “The Capacity to Be Alone”でそこに触れている。この論文については前も書いたがウィニコットの“The Capacity to Be Alone”はオグデンの”creative readings”シリーズの15番目である。

From the perspective of synchronic time, one would not have to say that the internal environment comes to play the role once played by the external object mother. In- stead, one could conceive of the individual’s past experience of the mother as external object as an impression left on the infant that becomes part of who the infant is (not as an internal object). The concepts of an internal and an external world need not be invoked; instead, one is thinking about past and present experience in relation to who the infant is and is becoming.

オグデンがいっているのは、ウィニコットは直線的(diachronic)に外的対象である母親が内的環境の役割を果たすようなる、というような書き方をしているが、共時的(synchronic)に母とともにあった経験のimpressionsが、乳児の存在を構成していると考えた方がいいのではないか、ということらしい。その方がウィニコットの “actually to be alone” に含まれる逆説を活かせるのではないかと。

うーん。わかる。すごくわかる。対象と環境の関係は本当にどう書いていけばいいのだろうねえ。6月の協会の大会でもそこに焦点化したものを発表したけどオグデンは引用しなかったな。いまいちついていけていなかったからウィニコットのことばかりになった。creative reading続けたい。

今日もあっつい。気をつけて過ごしましょう。

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精神分析 精神分析、本

声明、バトラー、寄付など。

空がグレーだけど曇っているわけでもない。東の空がここからは見えないだけ。すでに暑くて大きな窓を開けてすぐに閉めた。

昨日はガザに関する声明を出している心理職などのウェブサイトを見ていた。今日もイスラエル軍はガザへの攻撃をやめない。国連からの非難にも聞く耳を持たないだろう。

声明はAPA、Division 48 of the American Psychological Association、The International Pediatric Association (IPA) など。各国の心理職団体も。APAの声明は参照している文献が多い。日本の本だったら何を参照するだろう。私は日本の関わりも示す早尾貴紀さんの本とかかな。

私は精神分析家なので精神分析実践を行う理論家たちの論文や著作からさらさら引用できたらいいのだが、哲学者の文章の方がそれをしやすい。素人の強みによるつまみ食いが発揮されているのだろうと思う。昨日も精神分析のことを考えていたのにいつのまにジュディス・バトラーが言っていたことばかり思い浮かべていた。もちろんバトラーはフロイト読解から彼女の概念を導いてもいるので離れてはいないのだが分析状況で話される言葉(考えにいたらないものも含め)の複雑さとのギャップはこちらが埋める必要がある。

バトラーの『非暴力の力』などに書かれている「哀悼可能性」あるいは不可能性、「理解可能intelligible」あるいは不可能、非現実化derealization、そしてそこから締め出される現実、などバトラーが開こうとする可能性はそれが不可能とみなされる、つまり人間としてみなされていない人たちの可能性を示すものである。

まさにガザの子どもたちでは、と思う。精神分析はモーニングワークができる心のスペースの生成に貢献するものなので、すべての喪失は喪に値するという倫理は共有されているはずだと思う。また実践によって、モーニングワークを主体に語る権利と沈黙する権利を保障することも。

自分のしていること、考えていることからできる運動を考えていきたい。

先日、富永京子さんがSNSで、ガザの子どもの写真を見て、いてもたってもいられなくなったから寄付をしたと書いていた。とても共感する。個人にできることはわずかだが寄付という手段は手続きが少ないのでやりやすい。

私も安東量子さんたちのNPO法人福島ダイアログとか瀬尾夏美さんたちの能登半島の地震と豪雨の記録と表現のプラットフォーム「noto records」など少額ながら継続的にいくつか寄付している団体がある。国境なき医師団とかも継続的な寄付とその都度任意で行う寄付と方法も分けられる。

今日も各地で続く目を覆いたくなる状況にせめて目を開いておくこと。少しずつできることを。

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散歩 映画

眠気とか散歩とか。

キウイとデラウェア。どっちも別々の甘さ。果物はいい。でも食べるとすぐに眠気が襲ってくる。今もぼやぼや。

眠いときって余計なことをしたくなるみたいで、この前、夜はそのままベッドで寝ればいいのにストレッチポールに寝てゴロゴロしてたらウトウトして、ゴロンって落ちて「やっぱりなあ」となった。こういうのってほぼ絶対こうなるってわかってるのにどうしてやってしまうのだろう。これ、腰やられる危険もあるからやっちゃいけないってわかってるんだけどね。

昨日は夕方から散歩をした。池袋に行ったのでそこから早稲田あたりまでほぼ都電沿いを。バス停で知らない人とおしゃべりもした。都電荒川線もさくらトラムって名前になってから長いよね。路線の半分くらい、早稲田から王子駅くらいまでの地域は学童クラブの仕事で通ってもいたからそこそこ詳しいと思うけど荒川区になると全然わからない。だから昔行った場所がいつまでも更新されずに心に残っている。今はどうなっているのだろう。

この前見た日本の映画が私は全然知らない若い俳優がたくさんでていたのだけど、どんどん見分けがつかなくなってきているので関係性を掴むのに時間がかかった。子供の頃はアカレンジャーとか色で分かれてたり、今思うとわかりやすさに溢れた世界だったと思うけど子供の頃の方がそういうのなくても見分ける能力あったと思うんだよね。子供って意外なところで記憶してるから。今は繰り返し学習が一番効果がある脳になっている気がする。繰り返し学習苦手なのに。

兎にも角にも今日は月曜日。また1週間頑張りましょう。

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お菓子 精神分析 精神分析、本

因幡の白うさぎフィナンシェ、Dana論文、オグデン

毎日、空が明るくなる前に起きてしまう。そこからすぐなにかやりたいわけでもないのでカーテンの向こうに強い陽射しを感じるまでは寝ていよう、とぼんやりしていた。ウトウトしてすごく眠ったと思ったがそんなに時間は経っていなかった。そんなのを繰り返しているうちにNHK俳句の時間になったのでテレビをつけた。桃も剥いた。桃もとてもちょうどよく熟していて皮は引っ張るとつるんと向けてどろっとせずにきれいな形に切れた。果物の水分って贅沢。美味しかった。食べたらまた眠くなった。コーヒーをいれよう。寿製菓の「白ウサギフィナンシェ」をお茶菓子にしよう。有名な「因幡の白うさぎ」の洋菓子バージョン。「古事記」の神話「因幡の白兎」は有名だけど、この夏、その神様が祀られている白兎神社に行ったの。鳥取駅からバスで行けるのだけどそのバスだとその後の行程を考えたとき、白兎神社にいられる時間が短くなってしまうからちょうど出るところだった山陰本線で無人駅の末恒駅で降りて30分くらい歩いていった。おかげで結構時間が取れたし、面白い神社だった!地元の人って様子の方がひとり、またひとりと兎いっぱいの小さな神社に参拝に訪れていて、私がみたのはみなさん割と年配の男性ばかりだったのも興味深かった。

さてさて勉強のメモをしておこう。

昨晩は、Dana Birksted-Breen ”The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”に収めれている6 PHALLUS, PENIS AND MENTAL SPACEを読んだ。少し前に準備したのですっかり忘れていたがみんなと話しているうちにDanaはこういうことを言いたいのだろうと考えていたことが口から出た。思い出せなくても話しているうちに出てきてそうそうそうだったとなることは多い。この人の論文は膨大な理論的裏付けがあるので、それらの歴史的変遷をこちらが踏まえている必要がある。勉強勉強。

が、今の頭の中はオグデンとそれにヒントをもらいつつ深めるウィニコット。特にウィニコットのgoing on beingについて。これは胎児の状態といえるが、ウィニコットは生まれてまもなくの状態もその延長と考えているのだろう。ウィニコットはこの特別な時期における母親と胎児の体験を彼らの時間感覚で書いているのだと思う。

オグデンThomas H. Ogdenは、サンフランシスコで開業している精神分析家。今のところ、彼の一番新しい著書、What Alive Meansもだいぶ読み進めた。次回、アプライしたい演題に向けて再読したのは7 Transformations at the dawn of verbal language。オグデンがこの章の後半で引用するヘレン・ケラーのThe Story of My Life(1903)はヘレンがサリヴァン先生との間で、前言語的な記号の世界から言語的に象徴化された世界に開かれるプロセスを描いている。言葉によってヘレンの時間がそれまでとは異なる感覚で大きく動き出す瞬間ともいえるだろう。書いてあるのはこんな感じ。

With the acquisition of verbally symbolic language, there developed a new way of experiencing, a new way of coming into being, and a new way of being alive. Emotions that she had not previously been able to feel-repentance and sorrow and love-Helen became able to experience. It is not that these feelings were latent and were waiting to be unearthed. This is emphatically not the case.

These feelings were created for the first time when Keller entered the world of experience verbally symbolized. “Everything had a name, and each name gave birth to a new thought… every object which I touched seemed to quiver with life.” Names are not simply designations for feelings and things, they are ideas about feelings and people and things. Language gives rise to a qualitatively different realm of experience, a realm in which one is both subject and object, one is able to think of oneself thinking, one is alive to levels of meaning, range of emotion, complexity of feeling, and forms of experiencing not previously attainable.

「言語的な象徴言語(verbally symbolic language)を獲得することで、まったく新しい経験の仕方、新しい存在の仕方、そして新しい生のあり方が生まれた。ヘレンは、それまで感じることができなかった感情――悔恨、悲しみ、愛――をはじめて経験できるようになったのである。だが、これらの感情がもともと心の奥に潜んでいて、掘り起こされるのを待っていたわけではない。断じてそうではない。これらの感情は、ケラーが言語によって象徴化された経験の世界に足を踏み入れたとき、初めて創造されたのである。「すべての物には名前があり、それぞれの名前が新しい思考を生み出した……私が触れたすべての物が、生命の震えを帯びているように見えた」。名前は、単に感情や物のラベルではない。それは感情や人や物についての思考そのものである。言語は、質的に異なる経験の領域を生み出す。その領域では、人は主体であり対象であり、自分自身を考えることができる存在であり、意味のレベル、感情の幅、感情の複雑さ、そしてこれまで到達できなかった経験の形態を生きることができる。」

直訳だけど。

この記述の前にオグデンの分析的第三者の記述があって、病理的な分析的第三者Pathological forms of the analytic third (“the subjugating third” (Ogden, 1996))が出てくるのだけどここは保留。the analytic thirdってこういう形態変化するものではなくてもっとニュートラルな概念として登場したのではなかったっけ、と思ったから。あとで確認。

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コミュニケーション 俳句 精神分析

キウイ、医者、俳句

キウイを食べた。きれいなしっかりしたキウイをもらったのだけどまだ少し硬いかな、と我慢していた。果物ってそっと触れてみて食べ頃を判断するところがいい。たまにスーパーでいくつも押しすぎだぞという人を見かける。たくさんあるからひとつ試してみようかな、と半分に切ってみたらスッと切れた。にっこり。ちょうどいい。先がギザギザのスプーンを用意していたけど普通の丸いスプーンでもいけそう。さて。うん。きれいに果肉をすくえる。ジューシー。

先日、いつも行っている医療機関に健診で行った。不具合を言おうとしたら「それは今日は違うから」と言われた。おっ、と思って引っ込めたら私がまだ話してもいない不具合に対して対処方法を教えてくれた。「なになにするといいらしいよ」とか「なになにする人はそうなりやすいみたい」とか。かえって手間が掛かっているのでは、と思ったがニコニコ聞いた。ノーエヴィデンスでも害がなければ取り入れる価値は十分。仕事の合間に時間を作っていくのは大変。検査だけなら検査機関に委託してくれてもいいのに、と思ったりする。一方、看護師さんたちの観察力と対応力が素晴らしい。補いあっているのだろう。

別の医者は町内会の話題とかで診察が長引くのを聞いたりもする(聞こえてしまう)。娘世代の私には一切余計なことをいわない。でもすごく耳の傾け方がうまい。特に伝えることがなくてもなにかしら言葉にした方がいいのかと思うほど。その先生はそろそろ引退。長い間お世話になった。

私が知っている高齢の町医者の先生たちが「先生の声を聞くだけで」「先生のお姿を拝見するだけで」と言われているのを何度も聞いてきた。受付に今日は先生はいるのかという確認の電話がかかってくるのも何度も見てきた。受付の方も慣れていて確認だけの場合、もし受診する場合、などいくつかのパターンの答え方をしていて興味深い。

私が勤めていた小さな単科精神科病院の院長先生もそうだった。いつも数人の患者さんは早朝からドアの前にいて、待合室はいつもいろんな人で溢れていた。院長がニコニコと廊下に現れると空気が明るくなった。地元密着の医療機関では特に、単に、毎日そこにいるだけではなく、そこにいけばその人がいる、という安心感が大事なんだと思う。今はSNSをそういう場所にしている人もいるだろうし、SNSでそうできなくなった人もいるかもしれない。

すごく忙しかったけどすごく好きだった職場。半日でも働かせてもらいたいけど物理的にも難しいし、すでに病棟は閉じたという。本当にたくさんの出会いとつながりがあった。

精神分析や心理療法で誰にでも何も考えずに「また何かあったら」ということは私はない。気楽な存在として相手を肯定しあえるようになると実際にいるかどうかはあまり重要ではなくなる。分離やモーニングワークの条件のひとつ。そのプロセスは全然気楽でない場合が多い。

生活の場であれば、悪いのは私じゃないじゃん、と気づいて気楽にさよならしたり、実際に別れなくてもいつでも別れられるという選択肢を持てるようになる場合もある。一人で背負う必要なんて全くない。

さてさて今日は土曜日。昨日は俳句を作らなかった。オンライン句会の結果が出たけど今回もダメだなあ。締切間近に慌てて作るのがいけない。でもみんなの句を読むのは楽しい。お題に「蟷螂」があったんだけど、昆虫展に行ったり実物を観察してると全然知らなかったということがたくさんあって俳句にするにはすごくいいと思う。今回もいろんな俳句が出てきて面白かった。ここ数日、夜は虫の声が響く。昼はまだ蝉たちが元気。しかし秋だ。おいしくのんびり過ごせたらいいな。

どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

梨とかビオンとか。

この前、果物をたくさんもらった。美味しそうな梨もたくさん入っていてとても嬉しかったが、そのひとつのヘタのところに蜜が溜まりはじめた。二十世紀梨を買ったときに30分くらい前に冷蔵庫に入れて、冷やしすぎないほうが美味しいから、と言われたのを思い出し、一日キッチンに置いておいたらどうやら高温多湿にやられたらしい。猛暑でこういう症状が出る梨が増えているとのこと。難しいな。気候変動、怖い。

精神分析は精神分析で、精神分析家は精神分析家で、個別性は精神分析の内側で発揮されているものだからなあ、とか考えながら本を読んでいた。

たとえば日本の精神分析家に松木邦裕先生がいるけど松木先生といえばビオンみたいな印象が今の人たちにはあるかもしれないけど(少し前は松木先生といえばクラインみたいな印象があった人も多いと思うけど)『パーソナル精神分析事典』(2021、金剛出版)とか読んでいると先生はただ精神分析と生きてきたんだなって思わされる。ビオンだって福本先生が監訳したり訳したりしているビオン全集の自伝とか二人目の妻、フランチェスカによる回顧録とか読むと特定の分析家どうこうではなくて精神分析にワイルドに自分の人生賭けてる感じがして変なお行儀の良さとか変な皮肉っぽさみたいなものがないのがすごくいいし、精神分析ってそういう自由をくれるよね、と思う。ビオンがクラインの分析を受けていたから、とかそういう話はまた全然別の話だと思う。精神分析は「そういうのどうでもよくね?」みたいな領域を増やしていく効果はあると思う。もちろんそうあるにはままならない環境というのもあってビオンはカリフォルニアに行っちゃったし、それでも自分が探しているものがあるんだよ、と朝ドラあんぱんみたいなことを思ったりもする。

誰がどうしたどうされたとか、誰は誰々のどうでとかこうでとかを明確にするのはそれを超えていくためで、いつまでも同じところに留まるためではない。精神分析は自分が変化する必要性、必然性を感じられれば役立つと思うけど誰かを変えたい場合は役立たない。自分の場合も「変わらねば」とかではなくて。

こんなことを思ったのはオグデンを読んで、ビオンを読むと、オグデンの違和感を感じてしまい、なんでかな、と探ることがややきついからなんだけど。ビオンは言われるほどわけわからないことは言っていない。抽象度が高いから難しいだけで。オグデンの最新作はこれまでみたいな事例の説得力がない感じがして、同時に読んでいるビオンに対するオグデンの読解もいまいちピンとこない。なんでなんだろう。難しい。

「私は、分析者が解釈を与えるために必要とされる作業をなしたと信じる権利があるのは、彼が二つの相ー「忍耐」と「安心」ーを経た場合に限る、と考える。」

とビオンが「変形された容器と内容(Container and Contained Transformed)」(1970).Attention and Interpretation: A Scientific Approach to Insight in Psycho-Analysis and Groups,2:106-124で書いている通り、こういう作業にも「忍耐」と「安心」必須。つまりネガティブケイパビリティ。

この論文の日本語訳は、『りぶらりあ選書 精神分析の方法 II〈セブン・サーヴァンツ〉』(法政大学出版局)の第4部 「注意と解釈」「第12章 変形された容器と内容」

あるいは2024年に翻訳された全16巻(著作15冊+索引)からなるThe Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.の第15巻、福本修先生による全訳『ウィルフレッド・ビオン未刊行著作集』の付録C、編者クリス・モーソンによる「破局的変化」と「変形された容器と内容」:比較研究。Appendix B: ‘Catastrophic Change’ and ‘Container and Contained Transformed’: a comparison, by Chris Mawson

この15巻の邦訳も薄いけど内容は濃い。フランチェスカによる付録A 私たちの人生の日々(フランチェスカ・ビオン)
Appendix A: The Days of Our Lives (1994), by Francesca Bionはビオンの人となりと仕事がすっきりと、しかしずっしりと書かれている。

メモになってしまった。

さっき、ベランダに出たら蒸し暑さを残した涼しさ、つまり秋を感じた。ぼんやりしていたら大きな羽音が頭を掠めていった。人生ではなく蝉生に思いを馳せるでもなく慌てて部屋に戻った。屋内の方が蒸し蒸しする。私は今日はやや憂鬱。仕事の合間に歯医者に行くから。嫌だ。怖い。毎回無心になることを心がけるがなかなか難しい。でも仕方ない。歯も大切にしないとね。

良い一日になりますように。

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テレビ 短詩 精神分析 言葉

ドラマ、言葉

いいお天気。昨晩は虫の声がきれいでやっぱり秋になったんだな、と思った。今朝は桃にしようかな。梨にしようかな。果物を送ってもらって嬉しい。

NHKドラマ10「舟を編む 〜私、辞書つくります〜」の最終回を見た。三浦しをんの原作をまだ読んでおらず、原作とは異なると聞いているがとってもよかった。みたあとは言葉に対する意識が変わる。すぐに忘れてしまいそうな言葉への素敵なこだわり。一方、感化されやすく不真面目な私はドラマで見聞きしたものを会話にすぐ取り込みたがる。「それも載せましょう、私の辞書に」など。

私の辞書のキャパは想起の量から見積もるにかなり小さい。想起の量から見積もられるときつい。知識があっても行動しなければ無意味、と言われるのと同じ感覚。いけない。もう頭がふざける方に向かっている。脳内でもっと上手にふざけられれば作家になっていたなんてこともあったかもしれない。村田沙耶香みたいに(『となりの脳世界』を思い浮かべている)。村田沙耶香は大真面目に面白いことを書いているのでふざけているわけではないだろう。それにしても、私の脳世界はなんとつまらないのだろう、と思うことしばしば。

そしていろんな人のお決まりの言葉を思い出す。「こんな私がこの仕事をやっていていいのか」と。なにそれ、どんな私ならやっていいわけ、と即座に言える私でもたまにはそうやって卑屈になる。しかし、選択したのは自分で、誰に強要されたわけでもないのでこの仕事をできるであろうと思った私がいたのだ、絶対。なんの根拠もなく。

これは「好き」とほぼ同義なので単なる万能感ではない。でもこの好きが厄介な場合もあって「好きなだけでやっていいのか」とか言い出してしまう場合もある。「だけ」と言いたくなる場合でも大抵それだけではないのにね。

言葉って厄介で大変だけどそれだから面白い、とかやっぱり厄介。でも厄介払いしない。面白いし好きだから、と戻ってこられる世界だから行動も大事だけど大事なのは言葉にするという行動かも。暮田真名さんの川柳なんかは言葉の意味をいい感じに剥ぎ取ってものとして提示してくれるからそれまでとは違う感じで言葉と関われて楽しい。来月9月には初エッセイ集『死んでいるのに、おしゃべりしている!』が信頼の柏書房さんからでるとのこと。タイトルがまさにまさに。私がウィニコットやオグデンの使うaliveを探求するのはそれが死とくっついているからなんだけど、こういうタイトルって軽やかにそういうことを言っているような気がする。こじゃんと楽しみやき(朝ドラの影響。高知の言葉楽しい。健ちゃんの「〜しんしゃい」も大好き)。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析 言葉

言葉。

早朝は少し涼しい。日中の暑さもそろそろ和らいでほしい。

「週刊新潮」の連載コラム「変見自在」は今のところ差別をはっきり認めたり謝罪したりしないまま終了するらしい。多くの作家が声を上げてくれたから知ることができた事件。時代が変わってもこうした振る舞いは止まらない。朝ドラ「あんぱん」では読者にウケる辛口記事を書く蘭子に八木さんが至極論理的なことを言い蘭子はきちんと心揺さぶられ、思考する方向へ動いたが、何を言われてもしてはいけないことをしたと思えない、というか、本来してはいけないがこういう場合はしてもいい、というルールを持っている人も一定数いる。小さい子が罪悪感いっぱいになりながら自分の正当性を主張するのともだいぶ違う。思ったとしてもいう必要のないことをあえて言葉にするのは悪意だ、ということもできるがそれも立ち位置を変えればむしろそう捉える方が悪意だ、みたいになる。それでも、なんとでも言えることに対して何かを言っていくことは大事だろう。

一方、言葉をそのまま受け取らず、何がどうなってその言葉が発せられているかにも注意を払いたい。精神分析は頻回の設定によるカウチでの自由連想という方法で「あれ、なんで今このこと思い出したんだろう」「なんで今この言葉を使ったのだろう」ということが生じてくる。そしてそれに対する抵抗がまた別の言葉をうみ、過去の出来事はそれまでとは違う形で想起されたりするようになる。もちろんそれは現在と未来にも響いてくる。今見えているものとは全く別の何かとの思いがけない出会いは最初は相当きついのが常だ。抑圧という機制は人間の心を守るために絶対に必要だった。言葉はそれを巧みにやってのけるがそこにもその人らしさが出るのでそこもアセスメントしている。みているのは言葉の内容ではなく言葉の使用の仕方と言ってもいい。精神分析は少なくとも2、3年は受けた方がいいと感覚的には思う。私は分析家になるために行けるとこまで行きたいという感じがあり相当長く受けたが、人生の生業を別の場所に置く場合はあまり長いのは現実的ではないだろう。

鳥がすぐそばで鳴いて去っていった。静かな朝。こんな暑くてもすっかり秋を感じる毎日。不思議なものだ。

良い一日になりますように。

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俳句 散歩 言葉

819、街、トレーニング

今日8月19日は俳句の日。ハイキングの日でもある?この前のNHK俳句のゲストが近藤良平さんで、もちろんお題は「踊」だった。8月はバスや電車から盆踊り大会の準備や最中の様子を目にした。あの提灯の灯りと賑わいが持つ熱もそこで交錯する思いも蘇る思い出もひんやりを味わいながらふと客観的になる瞬間も人混みを離れたときのちょっとした安堵も全部いい。いろんな人がいろんなことをしながらいろんな気持ちでそこにいる、いられる場として地域に残っていけばいいなと思う。

など思いつつ身近な人に盆踊りのことを聞いてみたらなんと子どもの頃、自分の地域にそういうのはなかったという。都会だからというより、町内会によるのか、ああいうのは。

その人がアルバイトをしていたコンビニはまだ同じ駅前で営業を続けている。内装は変わったというし、常連だった近所のケーキ屋さんもまだある。私も年に数回、その人の思い出話を懐かしみに利用する。

コンビニといえば村田沙耶香だが「となりの脳世界」に収録された「歌舞伎町の店員」というエッセイも秀逸だ。この店員は村田沙耶香さんご自身のこと。先日、歌舞伎町で働いていた身内の話をしたばかりだったからなおさらこのエッセイを思い出したのかもしれない。どの街にもいろんな仕事がある。

この前、朝10時くらいの公園でサンドイッチを食べた。ほとんど日陰のないその公園にはアスリートみたいな男性がひとりなにか食べていた。私はいつから咲いているのか、干上がってしまいそうな薔薇の横のベンチに腰掛けた。普段、サンドイッチはあまり食べないがこのパン屋さんのはおいしいと知っていた。トマトの酸味とモッツァレラのほんのりした甘さがぴったり。幸せと思う傍らで蚊を警戒。数日、気温が下がったせいか、今年はあまり出会わずにいた蚊が一気に身近になった。早速腕が痒い。UVパーカーで覆われた腕が。なぜ。そこへ背後に人の気配、と思って振り向いたら鳩。羽音はしなかったのに。若者はいつのまにかいなくなっていた。誰もいない日向ばかりの公園では鳩の着地音がこんなに響くのか、と驚いていたらバサ、バサッと今度は羽音。着地する鳩が増えていく。嫌な予感はしていたが私の足元に向かってくる鳩たち。こんな小さなサンドイッチ狙い?それともこの時間はみんなここに集まる時間なの?実際、オフィスのそばの道ではそういう時間がある。決まった時間に餌をくれちゃう人が来るのを彼らは知っている。怖くなって最後の一口を立ちながら食べてその場を離れた。薔薇は乾いても美しく、秋の薔薇なのか夏の薔薇の名残なのかわからぬまま愛でて去った。

仕事の合間の筋トレも再開。今も腰が痛いけど昼間は忘れていた。いつものメニューをそれなりに正確にこなせた。体幹はだいぶ強くなったので首を調整中。これが結構きついが筋トレ始めてから肩こりはないので姿勢の軸になるところはしっかり鍛えていきたい。それにしてもこの年でこんなきついトレーニングするようになるとはね、と思う。それは精神分析を受けていた時もずっと思っていたけど。この年でこんな小さい子みたいに心揺らしちゃってそれに付き合ってもらえるとはね、と。いろんな土地のいろんな人と話すにも昔からの友人と話すにも毎日の目の前の人と話すにも自分の心がいろんなふうに作動することを許容できる自分でいることは精神分析家としては必須だし、いろんなことが豊か。楽しいこと、面白いことは探求すればキツさは伴うけどそういうのもひっくるめての楽しさ、というのはそういうのが好きな人たちはみんな言ってる。最近、私が触れたところだと牧野富太郎とか。練馬区立牧野記念庭園に行ったからさ。

魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも  正木ゆう子

今日もがんばろう。

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Netflix テレビ 言葉

休暇果つ。

早起き。まだ窓を開けない。洗濯機ももう少ししてから。Duolingoでフランス語をやった。今セクション2・ユニット24「周りの環境を説明する」。季節とか釣りとかの単語が出てくる。こんな簡単なことも忘れているのだから忘却力ってすごい。忘れたいことには発揮されないくせに。

夏は知らない人や一年に1、2回しか会わない親戚と話す季節。一時帰国した人たちの話を聞くのも楽しい。日本人であることを常に意識させられる環境を普通として育っているんだな。それが本人にとってどんな体験かはわからないけどいくつになっても、たまにしか会えなくてもいろんな話ができるのは嬉しい。

週末、NHKスペシャル「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~」を見た。実話ベースのフィクション。朝ドラや大河でおなじみの俳優たちはほぼ同時に別の人生を演じたりもしているのだろう。大変なことだが彼らの影響力は大きいから必敗とわかっている戦争を始めるようなことが二度とないように魅力的に演じ続けてほしい。それにしても戦争ものの画面はとにかく男ばかり。銃後の声を描いたNHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争」を見ていたからなおさら女、子どもはお国のために消えてよし、という世界が戦争なんだよな、と思う。実際、ドラマでも救われていないことが言葉だけでわかるし。現実は死にそうになりながら生きていた女子供はたくさんいた。このドラマでは二階堂ふみの声が効果的に女の存在を示していたと思うけど。なんたることかのう。

休暇果つ。今週もがんばりましょう。

秋風のしづかにつよし蜂も来る 岸本尚毅

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散歩

腰が痛い。鹿に会った。

キッチンの小窓を開けた。風がない。大きな窓は開けない。カーテンもまだ開けない。腰が痛くて何もしたくない、と思いつつ無花果を朝から食べられるなんてなんて幸せ、と冷蔵庫を開けた。体調イマイチで登山をやめて駅周りの観光に切り替えたのに2万5千歩も歩いてしまったのが腰にまずかったか。蝉が結界を張っているような森が気になって向かってみたら遠くから見えた木の階段の前に小さな公園があった。たくさんの雀が木槿に潜りこんだり飛び出したりして賑やか。公園があるなら少し安心かな、と熊が出たら怖いな、という気持ちを落ち着けつつ歩くとすぐに人家に続くアスファルトへ出て森への行き方を見失った。そのうち出るかな、と鮮やかな花々やカーブミラーに映る見事な雲や美しい緑の田んぼを写真に撮りながら歩いていると前方にその森が現れた。と同時にそこには鹿がたくさん。私が驚いて立ちすくんだのがわかったのか、それなりの距離があるのに向こうもパッと顔をあげ一斉に背中を向けてあっという間に森に消えた。野生の鹿だ。奈良の鹿なら馴染みがあるし、山に行けば時々出会うことはある鹿だがあれだけの数の野生と出会うとは。一瞬の出来事だったがそこから自分もやや野生化したのか歩きに歩いていたら歩きすぎた。15時頃、駅に戻る途中に広告で気になっていたお茶のお店の前を通ったので寄ってみた。お昼を食べるにはおなかの調子が悪かったので(けど)途中の素敵な洋菓子屋さんで買った小さなクッキーを3枚しか食べていなかった。朝、駅の観光案内所でもらった地図を広げてみたがよくわからない。地元の人に「ぜひ行ってみて」と言われた場所に行きたかったが現在地がわからず距離が測れない。野生の感覚はいつのまにかゼロになっていた。しかたなくお店の人に「私が今いるのはどこでしょうか」と地図を見せながら聞いてみたら一緒に見てくれた。お店の人も最初は笑っていたが「えー、なんだこの地図。どこだ?」と言っていた。安心した。私は地図の読めない人ではないが、集中力がないのですぐに見るのをやめるか別の何かをみてしまう悪い癖がある。でも今回は地図が悪かった。なんとなく理解して美味しいお茶をいただいてまた歩き出すと朝みた景色にすぐ出会った。あれ?もうここまできていたのか、とようやく頭の中に地図が描けた。

それにしても腰が痛い。ぶらさがり健康器がほしい。実家にあったときは父親の、みたいな感じでほとんど使わなかったがぶらさがるだけの効果をわかっていなかった。自力で身体を伸ばすということがどれだけ難しいか。私の仕事は座りっぱなしで腰に悪い。痛み止めを打っても効き目がなかったぎっくり腰のひどい痛みを経験してから予防には励んできた。今回もこのくらいなら動けるのでまだいいがいつもと微妙に違う動きになるのでもっと悪くする危険は高まる。気をつけて動くことにしよう。座って作業するの辛いけど短時間ずつやるか・・・。良い1日にしていきましょう。

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Netflix テレビ 哲学 散歩 映像 映画 精神分析

戦争に関する番組をみたり。

早朝から歩いた。曇り空だけど蒸し暑い!

この数ヶ月、ずっと戦争に関するドキュメンタリーをちょこちょこみていた。ヒトラー、チャーチル関連の作品を見終えたあとは「NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争」のシリーズなどをみていた。昭和館とかにたくさん資料があるからまた行かなとな。デジタルアーカイブはこちら

昨晩は地上波で『火垂るの墓』をやっていたのでそれもみてしまった。何度見ても目を背けたくなるが、好きなシーンもたくさんある。後半の節子がひとりで遊んでいるシーンはもうどうしようもなく尊い。尊厳を守ろうとする子どもたちが守られることを当たり前としないのが大人の世界なのかもしれないが、それでも本当にこういう尊い子どもたちはこれからも生まれてくる。

NHKスペシャルもエゴ・ドキュメントという当時の日記や手記の引用や分析から太平洋戦争の知られざる側面に迫っていたが、『火垂るの墓』をみるとアニメーションの力はすごいなと思う。いろんなドキュメンタリーを見ているときはひたすら言葉をなくす感じというか、思考停止になる感覚ばかりで、何を見たり聞いたりしても何も感じなくなっているのは私ではないか、という不安に襲われたが(それこそが戦争という現実の怖いところなのだろうと思うが)アニメーションはというか『火垂るの墓』はひとりひとりの人間の重みがずっしり伝わってきて、それは思考を促すもので、想像力が勝手に刺激される感じがする。だから見るのはとても辛いのだけどまだ感じられる自分は何を感じ、何を考え、どう生きていくのかということを考えさせてもらえる。それは全然知的な理解ではなくて、単に情緒を伴った人間の自然な振る舞いなのだろうけど。自然さや本来さなんてすぐに失われて、実はそっちが本質だった、みたいな言い方に導くのが戦争なんだと思う。たとえそうだとしてもそれに抗うように人間はできているという信念を貫いていきたい。

それにしてもお盆の期間、東京は人が少なかった。いつもなら夕方にいったらほぼ何もないような安い八百屋さんにもしかして、と思って寄ってみたらいいものがまだ少し残っていて買えた。大好きな無花果まで安いのに残っていた。この前、スーパーで高くて諦めたばかりだったからテンションがあがった。ハチミツとかでドレッシング作って無花果のサラダにしてみたり楽しんだ。時間があるときにやっておきたいことはたくさんあるけどバタバタするのももったいないからのんびりできて幸せだった。八百屋さん的にはちょっと苛立つ状況なのかブツブツおっしゃっていたけれど。安く売るというのは全部さばくというのが条件だろうからなあ。私は買えてありがたかったけどヤキモキする時間帯ってあるのだろうなあ。

お天気はどうなるのかしら。みなさんの地域はどうでしょう。大雨の影響が大きかった地域のみなさんも元気でありますように。

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テレビ

8月15日

朝日でオレンジに染まった空はあっという間に薄い水色に落ち着いた。

今年は水分補給の下手さを実感する。加齢で身体に不調が出やすくなったせいでそう思うのもあるが、調子が悪いときは大抵水分をあまりとっていない。しかしこれも不調を感じてから気づくことなので熱中症とかそういうのは本当に危険なのだ。小さい子たちに時間を決めて一定量の水分を取らせることはとっても大切、ということをたくさんの子どもたちを見てきて実感しているので自分にもそれを適用すればいいのだが。子供にいうことは自分にも適用した方がいいんだよね。逆に、子供にだけ要求するのは不平不満が出てもしかたないので理不尽ではない理由が必要になるのでしょう。ああ。子供にもなれず、十分な大人にもなれず。

この前、小淵沢に行ったとき、駅がすごくきれいになっていてびっくりした。町名も北杜市になり、駅舎も新しくなり、懐かしいと感じるはずの以前の駅をもう正確には思い出せない。まだスクールカウンセラーをしていた頃は同じ地域で働く人たちと箱庭とかいろんな研修会に一緒に行っていて、小淵沢へも神田橋合宿で一緒に行った。みんなで色々歩いたはずだがそれがどの辺だったのか全然わからない。線路沿いを少し歩いただけだったのかもしれない。最近はようやくいろんな土地の記憶がつながりつつあり、入笠山、諏訪湖周り、車山などこれまでに出かけた場所が意外とその辺だったこともわかる。朝露に靴があっという間に濡れてびっくりしたのも思い出す。

小さな頃からなんでも読み、とりとめもなく書きつづけてきた。先日、NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争1944 絶望の空の下で」をみながら、なんとなくそうしてきたことの意味をぼんやり考えていた。その番組では、サイパンで両親とともになんとか生きながらえていたのに目の前で父母を亡くした14歳の少女の日記、体調を崩してもヒロポンを渡されながら工場で働き、B29の爆撃で亡くなった女学生の日記、人間魚雷回天の特攻で亡くなった若者から父と妹へ宛てた手紙など、絶望的な状況で書かれた言葉たちが紹介されていた。それらは貴重な資料であると同時にそこには書かれていない思いを想像させるものだった。

被爆者の声を集め続けた元放送作家とある被爆者の交流を中心に描かれるNHK戦後80年ドラマ「八月の声を運ぶ男」では語られたことと語られていないこと、語りを聴くこと、残すことについて考えさせられた。原案は伊藤明彦『未来からの遺言ーある被爆者体験の伝記』(岩波現代文庫)。西日本新聞に伊藤明彦に関する記事がある。

今日は8月15日、終戦記念日、敗戦忌。今日も暑くなりそう。大切に過ごそう。

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Netflix 映画 読書

森崎和江『能登早春紀行』とかTOKYO MER〜走る緊急救命室〜 南海ミッション』とか。

キッチンの小窓を開けたまま寝てしまったと気づく。南側の大きな窓を開けると少し涼しい風を少しだけ感じた。明け方の地震は少し長かった気がした。体感だとなんでも「少し」という言い方になってしまうが。大きな地震がこないといい。能登の大雨の被害も心配。地震のあと、能登に旅をして少しずつ地名に馴染んできたのでニュースもグッと身近になった。それだけに心配だ。あののどかで美しい景色と共存する人たちにこれ以上の痛みをもたらさないでほしい。

地名に馴染むといえば森崎和江の『能登早春紀行』での能登の駅や景色の描写が素晴らしかった。のと鉄道能登線は2005年に廃線となった。能登の景色は森崎和江が見て聞いたものとは大きく変わってしまった。それでもこれを読めば失われずに残っているものの大きさにも気づける。その土地の人なら尚更だと思う。私たちは今度はいよいよ輪島と珠洲を旅する予定。みなさん、元気でがんばってほしい。

早朝の地震でiphoneの充電をしなくてはとコンセントにさしたらすぐに熱くなって怖くなって抜いた。パソコンとかもたまにそうなるけど冷房があるところで充電した方がいいのかな。今朝はまだ冷房つけていないのだけど。

先日、久しぶりに日本のドラマの劇場版を見にいった。若い人に誘われて『TOKYO MER〜走る緊急救命室〜 南海ミッション』を。これは映画で見て正解。わかりやすくできすぎといえばそれは映画だからそうなのだが、単なるみんながヒーロー的な話ではなく、離島医療が気づかせてくれる関係性の重要性を具体的に感じさせてくれたのはよかった。帰宅してNetflixで劇場版一作目も見た。こういうのは映画の迫力でみるのが大事というか、映画として作られているのだからテレビだといまいちだが、映画を観た直後だったのでその感覚を持ち込んで補えたのはよかった。それにしても俳優陣は若い人が多く、私が馴染んできた人たちは私と同じように歳をとったんだなあ、と当たり前のことも思った。

今朝は美味しいフルーツで水分をとって満足。良い1日になるといいですね。

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読書

富山のまちづくりの本とか。

窓を開けた。風はあまりないみたい。昨晩の魚の匂いに早く出ていってほしい。キッチンの小さな窓からは涼しい風が入ってきた。

昨晩、専門書ではない棚からなんとなく取って開いた『にぎわいの場 富山グランドプラザ:稼働率100%の公共空間のつくり方』山下裕子著(2013年/学芸出版社)。八戸ブックセンターでおすすめしてもらった一冊。 「本のまち八戸」を推進する彼らが自分たちと似たような試みを推すのは当然。私もまちづくりの話は大好き。だから八戸ブックセンターでもその形式が可能になったわけを色々訊いて教えてもらった。

富山に行ったのは何年前になるのだろう。GWに行ったが黒部峡谷のトロッコ電車が寒くて、当時はまだ旅慣れていなくて準備が足りていなかった。眩しすぎる雪山にびっくりして電車から降りて遊んだ。私たちは宇奈月から乗ったがその日は途中で電車が止まっていた気がする。次回は欅平駅まで行きたいね、とか今度は富山から長野に抜けてどうこう、とか話した気がする。どういうルートを考えていたのだろう。覚えていない。それにしてもあの雪の眩しさはすごかった、と書きながらほかの場所と記憶が混じり合っていないかと思っている。

富山市の中心市街地活性化は成功事例として全国に認知されているという。この本は、2015年の北陸新幹線開通以前に書かれており、まちづくりの進行の様子を詳細に知ることがで、非常に参考になる。なにの?と言われても私がまちづくりに携わることはないのでなんとも言えないが、人と人が繋がり、何かが形になっていくプロセスから学ぶことは多い。

先日、友達といろんな話をしたが、人との対話は本を読むのとは全く異なる世界で「学び」とかではない心の動きがその場を作っていく。まちづくりの現場ではここに書かれていないことの方がずっと多く起きているはずで対話の難しい局面だって山ほどあっただろう。地方都市のこうした成功は本当に素晴らしいが、そこでの困難に持ち堪える人たちがいたことがもっとも素晴らしい。そういう人たちがまちづくりのプロセスに参加することで増えていったという面もあろう。参加は大切。サルトルもそう言ってた。

今日はどんな一日になるかな。多くはお盆休み。東京は曇りらしい。暑さにまいった身体を休められるといいですね。

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俳句 言葉 読書

ニュース、眠る。

すごい風。熊本の雨はどうなのだろう。能登にも洪水警報が出ているという。どちらも地震や水害ですでに弱っている土地だ。被害に対してできるだけ早く援助が入れますように。

1985年8⽉12⽇、⽇航機123便が群⾺県上野村の御巣鷹⼭に墜落し520⼈の方が亡くなった。あれから40年になるのか。3人の娘を亡くした両親の記事を読んだ。あの日、私は群馬を離れて水道橋にいた。思考停止を体験した大きなニュースはこれまでにいくつかあるが、御巣鷹山での事故もそのひとつだった。

昨晩、8月15日必着の投句を清書していた。10句出すのだが作るのもギリギリ、清書までにまたぼんやりし、推敲不足なために清書の段階で自分の言葉に違和感を感じて止まったり、最後の一句でついに書き写し損ねた。6句目くらいから集中できなくなっていることに気づいてはいたが最後にやってしまった。そして今度は修正テープを探すのに手間取った。テープのりならなぜかいくらでもあるのに修正テープがいつもない。使用頻度の高いものこそ置き場を定めなくてはいけない、といつも同じような場所に戻しているつもりなのだけどなぜかいつも探すのに時間がかかる。そして修正テープ初期のものでは、というレトロな未開封ものを見つけた。封筒の宛名もきれいに書けなかったし、郵便料金が変わったせいで切手もたくさん貼らなければで見栄えが悪い。でもとりあえず間に合いそう。毎日俳句を作る習慣が崩れていたのがよくなかった。清書から封を閉じるまで一気にスムーズにできる人も多いだろうけど、私の場合、それは小さなステップの積み重ね。丁寧に、きれいに仕上げたいなら時間的にも精神的にも余裕が必要。

先日、バスで、大きな大会の選手たちと一緒になった。「◯◯も出れば」と言われた女子が「男子の大会だから」というと「男尊女卑」と男子はつぶやいた。バス停で待っているときからありがちな力関係を感じさせない喋りをする子たちだなと思っていた。私はバス停の柱に作られた細長い巣に素早く出たり入ったりする燕を写真におさめようと伸びたり縮んだり落ち着きなく動いていたのだが、彼らの会話は落ち着いていて、物理的にも心理的にも相手のスペースを脅かさない普通の譲りあいや気遣いがあった。男子選手は女子選手の実力に敬意をはらっているらしく、女子選手も静かな闘志を見せていてカッコよく、心の中でたくさん応援しながら先にバスを降りた。外は大雨で、祭りの予定だったその街は静かで、図書館も美術館も開館時間が予想より遅く、美術館併設のおしゃれだけど古びたカフェで時間をつぶした。若い世代は意外とこういう会話をしている、と私は知っている。子どもたちのため、とか言っている大人はあまり信用できないことも私は知っている、というか、子どもたちがそう言う大人にうんざりしていることを知っている。実際、私もそう言いたくなるときは自分に欺瞞を感じる。私に彼らのような振る舞いができているとは思えない。

この辺は福尾匠『非美学 ジル・ドゥルーズの言葉と物』の「第4章 言語 概念のプラグマティック」やジュディス・バトラーが参照する論者たちのパフォーマティヴィティに関する議論で深めることができそう。ジェンダーとセックスに対する考え方を更新する可能性は子どもたちにあるのだろう。

再び眠くなってきた。昨晩は夜も遅かったからこのままだとかなり寝不足になる。もう少し眠ろう。水木しげるも「睡眠は幸福のモト」と書いている。たしかに「眠れる」という事態は特別なことだ。眠ろう。そしてまた起きよう。

燕の尾しか撮れず。

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読書

水木しげるの言葉とか。

窓を開けたら渦巻くような風にあたった。変な風。雨はそんなに降っていないみたい。気温が低めなのはありがたい。

渦巻くと書いて水木しげるが戦時中、海の中に逃げ込んだときに竜巻のようなものが起きて仕方ないから銃を捨て、命からがら隊に戻ったら死なずに逃げたことを責められ、天皇から頂いた銃を捨てるとは、と殴られたという話が浮かぶ。

水木しげるが何度も生き残ったのは奇跡中の奇跡で、身体の強靭さはもとよりそのなかで命が大事という当たり前を当たり前に持ち続ける強さも関係していたのだろう。水木しげるが敬意を持って「土人」と呼ぶパプアニューギニアの人たちとの交流も驚くべきもので「7年後に戻る」という約束を20数年後に本当に果たし、当時親しくしていた人の仲人まで務めたという。水木しげるの描く戦争は想像を絶する理不尽な現実なのにあたたかさとユーモアが自然発生する世界でもある。妖怪の世界だってそうだ。見えないものを見える人が描く。みんなみんな生きているんだ、はやなせたかしだけど、そういう当たり前を当たり前に。

「奇妙な価値観みたいなものをもたずに、自分に興味ありそうなことをなんだってやってみればいいんだ」

水木しげるの言葉にたくさん励まされながら今日もがんばろう。

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Netflix

雨、夢、神社

雨の音?夢?ウトウトしている時間が長くてずっと夢の中にいるみたい。ずっと雨の音に包まれてるみたい。Netflix『グラスハート』は雨がとても美しく撮られていて映像自体に音楽を感じられたのがよかった。

変な夢ばかりみてひとりでうけていた。何が何だかわからない物体をとりあえずお灸ということにして無理だとわかっているのに活用しようと試行錯誤したり。かなりはっきりとそれがお灸ではないとわかっているのに。わからないものと出会ったときの仮説の立て方に無理があるのはいつものことなので夢でも結構ウケていた。

昨日はお寺と神社の両方にいって神社の方に神仏分離や廃仏毀釈のことをきいた。宗教的なものに対する人々の態度にはいくつかのタイプがあると思うがひどいこと考えるもんだよ、と思うがそれにあっさりのった人たちの心性やいかに。遺産が破壊される暴力的な映像をみることがあるがああいうのは外国だけの話ではない。「この辺の人たちはそんな出来事関係なくお詣りされていたと思いますけどね」という言葉に笑ってしまった。私なんて今まさにそんな感じだし。しかし、こういうことを知って考えておくことは自分の政治に対する態度を作ると思うので大事にしたい。

今日はどんな一日になるかな。体調に気をつけて過ごしましょう。

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会話、夢

大きな窓から見える空が綺麗。水色がいろんな風に変化する。秋になって、とはいえ、まだまだ暑くて、雨が降ったり止んだり空も忙しそう。

昨日は知らない人といろんなお話をした。知らない場所に行くといろんな人と会っていろんな人と距離が縮まるプロセスが面白い。会話の発生。

ぼんやり寝たり起きたりを繰り返していた。ひどい欺瞞に嫌な気持ちになることもあったからこういう夢もみるだろうなという気持ちにはなった。すかさず私の問題として照らし返してくるのが夢だから悲しくもあったけど登場人物が会いたい人ばかりだったのがきちんと願望充足もしてた。自由連想しておこう。

昨日は山育ちの私と海育ちのあなたという対比もあってそれも面白かったな。知らない環境を受け入れていくことで生じる豊かさを大切にしたい。

どうぞ良い一日を。

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精神分析

大雨のニュースとか。

今朝は鹿児島に大雨特別警報のニュース。能登の大雨も相当大変そうだったが大丈夫だろうか。私は昨晩もきれいな月をみた。地球はどうなっているのだろう。

生命の起源を宇宙に置くとしたら災害は単に人間のものではない。だとしても小さなひとりひとりの命がおびやかされないことも同時に考えなくては。異質なものとの出会いがこれまで大切にしていたものを変えてしまうとしても徐々に、という変化のありように注目したい。ウィニコットがgraduallyを強調したように。

オグデンがウィニコットのpotential spaceを検討する論文でこういっている。

This transformation of unity into ‘three-ness’ coincides with the transformation of the mother-infant unit into mother, infant and observer of mother-and-infant as three distinct entities.

ユニットが「三者性」へと変形することは、母子ユニットが、母、乳児、そして母—乳児を観察する第三者という三つの異なる存在へと変形していくことと符合している。

この変形プロセスをさらに細かく検討しているしかたがとても興味深いのでそれも確認しておきたい。

でも朝はとりあえず身体を使おう。目覚めてから難しいことは考える。

早く大雨警報が解除されますように。被害が広がりませんように。

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精神分析 読書

自分の言葉、森崎和枝『能登早春紀行』など

立秋。夜明けの空がきれい。

毎晩、月が膨らんでいく。明るさも毎日違う。にしても暑すぎではないだろうか。昨晩は帰り道でも涼しさを感じられなかった。朝から広島の映像、広島の語り、広島への祈りをずっと感じていたからかもしれない。最近『火垂るの墓』も『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』も見ていた。首相が「自分の言葉で」語ったことが多く取り上げられていた。

「自分の言葉で」。精神分析へのニーズをそこに見出す人は多い。それを欲しながらもいかに難しいかを実感している人は探究の苦痛に耐えうるかもしれない。私たちは他者なくしては生きられず、果たして「自分の言葉」なんて存在するのか、という気もするが、表現の自由と言うのは「自分の言葉」で話す限り有効でだと思うので存在するという希望を捨てない。他者との関わりのうちに育つ言葉をそう呼ぼう。相手を変えようとする言葉ではなく。

米田翼『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』、前よりも読める感じがする。平井靖史さんの著作のおかげだろう。

「創造とはまさに新規性nouveautéなのである。」

そうに違いない。この本は様々な一元論をとても丁寧に解説してくれている。補論のアレクサンダーの形而上学は狙い通り、ウィニコットを読むときのヒントになってくれそう。嬉しい。移行対象は時空から構成された素材、ととりあえず仮説を立てた。

『能登早春紀行』 森崎和江 著もすごくいい。震災後の夏に羽咋、小松、金沢、今年のGWに和倉温泉、七尾、金沢へ行った。来年は輪島へ行きたい。森崎和江の豊かな五感による観察が深い思考を通じて言葉にされているこの本、とても好き。能登がこうやって語られていること自体が今はとても貴重に思える。

現場へ。いつもそばに、ということはできなくてもいつも心を寄せておくことはできる。大雨の被害も広がりませんように。

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哲学 精神分析

ウィニコットとか米田翼『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』とか。

夜はいつまでもおなかいっぱい。遅い夕飯が胃腸に良くないことはわかっている。昼間なら胃腸の調子に気をつかえるが夜はもうだめ。つくおきもしない方がいいのかもしれないがしなかったらしなかったでお惣菜を買ってくるに違いない。いろんなことを上手にコントロールできたら私はこんな仕事についていない。だってもしそうできたら困る人はいなくなるだろうからこの仕事はいらないと思う。お勉強として消費する分にはいいかもしれないけど。臨床は相手がいないとできない。困りごとのない世界、自分で自分をコントロールできる世界なんてないからお金も時間もかかる仕事の世話になる。だったらそんなのなければいいのに、と思うかというと私は思わない。人間は時間もお金もかかってしまう厄介な生き物なんだ。だって可能性がいっぱいだから。人間だけでなはくて生命あるものはみな。だったら生命をどこまで拡張して考える?動物まで?宇宙まで?

私はウィニコットは多くの赤ちゃんや妊婦さんと関わるなかで有機体の起源を考えていたと思う。母と子のユニットという考えがひとつの到達点になったのだろうけど、それは単に自己の起源を他者と未分化な場所に位置づけただけではなく、有機体の可能性を母胎という宇宙、あるいはマトリックスに見出したからだろうと思う。ウィニコットは常に「可能性」について考えていた人だったと思う。

そんなことを考えいてるときに何かヒントがほしくて開いたのがベルクソン・イヤーにベルクソン研究者の皆さんが魅力的な時間論を展開するなかで独自の生命論を展開していた米田翼さんの『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』。この本はベルクソン『創造的進化』はもちろん、古典の丁寧な読解の仕方も勉強になる。

著者はいう。

「たとえ絵空事であっても、ベルクソンの創造的進化論を徹底するのであれば、我々は「あらゆる法則は突然変化することがある」ということを肯定すべきである。」

本当にそうだと思う。

「ベルクソンは我々が住まう現実世界そのものに決して空虚ではない「可能性」や「偶然性」を植え付けているのだ。系外惑星における未知の生物たち、あるいは地球上で眠りに落ちていった植物や動物たち、彼ら・彼女らが歩んだ道のりは、ひょっとすると我々が歩いた道のりだったのかもしれない。この「ひょっとすると〜かもしれない」が「空虚ではない」と言える理由は、ただひとつしかない。それは、これらすべての生物たちは、起源においては我々と一致していたということである。ベルクソンの進化論が提示する世界観・存在論では、可能世界に住まう私と(行動の履歴まで)よく似た対応者(counterpart)よりも、この現実世界で私とはまったく別の道のりを歩んできたミツバチたちの方が、よほど私とよく似ているのだ。」

痺れる汎生命論。進化に対して「絶滅」という表現を使うよりずっと現実的。

「ありえなそうなことが、本当にありえないかどうかは、それが実際に生じるまで誰にもわからない。」

維持したいのはこの姿勢で、なぜなら、というところに生命の起源を探究する意味があるように私は思っている。

今朝も暑い。洗濯物を干しながら窓を開けたけどびっくりするくらい何も吹き込んでこなかった。今日も涼しい場所を探して過ごしましょう。良いことありますように。

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精神分析

事例検討会の意義

昨晩の月は色が濃く落ち着いていた。日中はとても暑かった。そんなに外に出ていないけどオフィスの空気からそんな感じがした。

今朝は風が強いのか?洗濯物が揺れる。でも涼しくない。

ある程度、臨床経験を積んできた中堅や指導の経験もある同世代と少人数でじっくり事例検討をする機会を作っている。中堅に対しては私はお金をもらって教える立場として、同世代とは対等に。どちらのグループでもなんでも正直に言葉にしている。向こうもそうしてくれていると思う。臨床は正解がある世界ではないけれど、それぞれに依って立つ理論がある世界ではある。個別のスーパーヴィジョンでは臨床の基本を伝えているので相手がどの理論に親和性があるのかあまり問題にならないというか精神分析はいろんなアプローチの基本になっている。とはいえ、いろんな人がいろんなアプローチを自分で選べばいいわけなので、日常語で、その人の臨床現場に即した表現を選ぶ。相手が医師の場合は、医師の世界ではどうなのかを確認しながら進める。私が主催しているグループは精神分析理論を参照して臨床をおこなっている人対象だからそこはまた用いる言葉が異なる。理論を使うなら自分がそれをどう使っているのかということに意識的である必要があるので「精神分析的に考えるならば」という前置きをしょっちゅうしている。みなさん、いろんなコミュニティで勉強を続けている人たちだけど私のところではそういうのを求めているのだろうと感じもするから。誰が事例を出すにしても聞いている方は自分が関わっている人たちのことを自然と思い浮かべながらその人たちとの関わりを振り返りながら聞いている。同世代の臨床家になると私が教えている中堅のみんなよりははるかに経験している事例が多いので、彼らと自分が積み重ねてきた体験を抽象化するときに「わからなさ」「触れられなさ」が実感を伴って強調されるのがいい。中堅のみんなもこれからそういうものにたくさん出会っていくだろうから言語化の仕方もすごく変わってくるだろうなと思う。いいものをたくさん提供したい。

今日も暑さに気をつけてがんばりましょう。

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お菓子 精神分析

お菓子、事例検討会

今朝の光は少し柔らかかった気がした。風も静か。8月7日は立秋。昨晩の月はまだ夏を感じたけれど。

今朝は宇都宮の老舗、高林堂さんの「かりまん」。かりんとう饅頭は美味しい。包みも使われているフォントもかわいい。かりまん特設サイトもあり。あと、今日は同じく栃木県は小山市の蛸屋さんの「大開運」。よい名前。いいことありそう。見た目も上品。“皮種には「栃木県産大麦」と「栃木県小山市産はとむぎ」を使用し、素材の上品な甘さを感じさせる一品に仕上げました”だって。お味も上品。蛸屋さんのお菓子もいくつかいただいたけどどれも美味しかった。どこの県にも仙台銘菓「萩の月」に似たお菓子があるけどここでいえば「みかもの月」がそれ。あれも美味しかったなあ。こんなお菓子ばかり食べてていいのか、と自分で心配になるけど蛸屋さんは工場併設の「おかしパーク」で食べ放題やってる!いいのか?豪華だし全部食べたいけど超危険。「みかもの月」詰め放題(時間制)とかもあるではないか。ガーン。

数年前、しまなみ海道を巡っていたとき、工場併設の小さなお菓子屋さんに寄ったら賞味期限が近くないのまで含んだお菓子の詰め合わせをどんと渡されてびっくり。本当に小さな販売スペースで工場で作業中の方が手を止めて出てきてくれるような場所だったと思うけど特にサービスをしているという感じでもなく当たり前のように渡されたのにも興奮した。なんか楽しいし嬉しいってなった。あれはどこだったか。大三島だったかな。また行きたいな。お菓子は食べ過ぎは危険だけど、いろんな場所のお菓子をいただけるのはやっぱり素敵。旅先ではお菓子屋さんを見つけるとその場で食べられるお菓子をちょっと買ったりしながら歩いたりする。旅先じゃなくてもしてるか。夏はどんなお菓子に出会えるかな。楽しみ。

昨日の初回面接の事例検討会と仲間内の密な事例検討会、どちらもとても勉強になった。やっぱり私は動物の進化について考えねばならない。個体の起源とは何か。環境とは何か。性と死が生きる場所である無意識はどこで生まれたのか。ウィニコットのいうほどよい母親が持つ要素が揃えばそれだけで人は安心できる居場所を得たと感じるのだろうかあるいはほどよい母親が持つ要素は「それだけ」ではなくもっと万能なのだろうか。あるいはウィニコットはそれ以外の何かを暗示したのだろうか。などなど。

今日は月曜日。今週もがんばりましょう。

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Netflix テレビ

暑い。ドラマ。

暑い。早朝の空の青の変化が美しかったのを思い出してしのぐ。昨夕から晩にかけて月がどんどん輝きを増していったのを思い出してしのぐ。暑い。やっぱり冷房をかけてしのぐ。三鷹の国立天文台でスタッフさんにいろんなことを教えてもらったり(なんでも教えてくれるからいっぱい喋ってしまった)、辻村美月の『この夏の星を見る』を読んだりしたから空に対する憧れが増している。映画も見たかったけど時間が合わず。土浦で20時とかならあったが。

土曜ドラマ『ひとりでしにたい』をみねば。最終回。前回の綾瀬はるかのセリフがすごくよかったし今回はその続きでしょう。楽しみ。あの自分の言っていることを自分でひっくり返しながら進む言い回しが論理的だし前向きだしすごくいい。内容がどんどん心に響いてくる。もちろんきちんと耳をもつナスダックあってこそだが。そして魯山人が綾瀬はるかと同じくらいとてもかわいい。

そしてNetflixドラマ『グラスハート』もすごく楽しんでいる。原作は若木未生。1993年刊行で今も続いているらしい?佐藤健が演出も主演もがんばってる。Netflixはスケジュールさえきちんと押さえればお金はふんだんに出してくれるらしいからよかったねえ、と若い世代を応援したい気持ちでいっぱい。みんなとってもかっこいい。あまりに漫画的で「きゃー、恥ずかしい」となる場面もあるけど、映像の美しさとこれまた現実離れした美しさをもつ俳優陣の良さでどうしてもみてしまう。山田孝之と菅田将暉の使い方は理想的。バンドもの大好き。

今日は午前も午後も事例検討会。いろんな人、いろんな文化と触れるのは人と話していくだけでもできる。それを負担に思う人ももちろんいるし好きにしていくのがいいのだろうけどね。

良い一日にしましょう。

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料理 精神分析

習慣とか廃村集落のこととか。

夜の間、冷房除湿みたいな設定にしていた。少し寒かった。リモコンが見つからず消すことができなかった。起きたらリモコンが身体に敷かれていた。

南側の大きな窓を開けた。少し風が入ってくる。この時間はまだ冷房が入らない。それにしても5時かその前には起きたくなくても起きてしまう。加齢。昨日のピーマンの肉詰めの匂いが消えていく。印度カリー子レシピ。タンドリー塩サバのレシピとヨーグルト以外は同じ。これも大変美味しかった。八百屋さんで大きくて安いピーマンを買ってあったので何を作ろうかなあと思いながらなんかしっくりこないな、と思っているところにレシピが流れてきて「これだ!」となった。カリー子さんのおかげで、ターメリック・クミン・コリアンダー・チリペッパーが順調に消費されていく。これまで買っても賞味期限切らしてしまったりしていたのに。習慣は変わる。漬け込んでおいて帰ってきたらそれを焼くだけ、みたいなレシピもお気に入りが増えてきたのでポリ袋もたくさん活用するようになった。混ぜるだけレシピも多いから使い捨て手袋も。道具って素晴らしい、と使うたびに思う。

今は札幌のビアガーデンが最高らしい。札幌出身の人がこの前実家に帰るついでに行ってきたと。いいなあ。特定のお店にしかおいていない「白い恋人」ももらってしまった。とってもかわいい。札幌おもしろ話を色々聞いてゲラゲラ笑った。地元にいるとわからないその街の魅力を一度出て戻ることで再発見するのは楽しい。

先日、東京都庁1階にある全国観光PRコーナーに寄った。オフィスから近いからたまにいく。7月下旬にやっていたのは「四国石鎚山麓・西条市フェア」。愛媛県西条市ってなんとなく聞いたことがあるくらいだったけど写真を見るとやはり瀬戸内は素晴らしいなと思う。お隣の今治市には旅したことがある。西条市は「うちぬき」と呼ばれる水が噴き出す被圧地下水の自噴地帯が広範囲にわたって形成されているとのこと。面白い。「石鎚山麓東之川」と書かれたいい紙を使ったパンフレットが目立っていてもらってきたのだけど、いい紙を使っていることが気になって調べてみたら廃村集落とのこと。最後の住民が村を出たのが平成24年。2012年?村へ通じる車道が崩落したとのこと。林業で栄えていたとても美しい村だったそう。確かに写真を見るととても魅力的な石積みの集落。保全せねば、と思うよね、これは。旧村民の方のお話が伺えるうちにツアーコンテンツとして開発していきたい思いがこのパンフレットを作らせたんだろうな、と思った。認知拡大しないことには保全もかなわないから。全国各地にそういう場所はあると思うから私が続けている小さな旅も少しは貢献したい。

フランス精神分析のことをメモしておくつもりが全然関係ないことを書いてしまった。フランス精神分析用のノートをめくっていたら昨年、書評を書いた(校正もこれからみたい)コレット・ソレール『情動と精神分析 ラカンが情動について語ったこと』(福村出版)のメモがあった。もうすっかり忘れてしまっているなあ。ラカンの勉強もたくさんしたからそっちは結構覚えている。アンドレ・グリーンを読む中でラカン理論も補強されるからだろうな。ソレールのこの本は論点多すぎだから。

おなかがすいた。夜遅く食べても朝はきちんとおなかがすく。胃腸には負担をかけるねえ。なるべく気をつけてるけど。

今日は8月2日土曜日。雨予報?今降っていないけど。よい1日にしませう。

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精神分析 精神分析、本 読書

河合隼雄とか精神分析とか。

8月。カレンダーをめくろう。外が白い。曇ってる。雨が降るのかな。昨日は朝は風を感じなかったけど昼間は感じた。ちょっと遠回りして久しぶりの図書館に行ったけど以前のウェルカムさは全くなく管理されている感じが居心地悪くいろんな本の背表紙だけ眺めて出た。

私は児童文学も専攻のひとつだったので図書館に行けばその棚もチェックするが、河合隼雄はそこにもいた。そもそも私が河合隼雄と出会ったのは実家の書棚にあった昔話とか子供に関する本を通じてだった。織田先生や河合俊雄先生たちに教えていただきにユング派のセミナーに出ていた頃も心理職としての河合先生が話題にあがることはあまりなかったし、実際、臨床心理士の集まりでもその場でフルートを披露された先生のことしか覚えていない。児童文化学科発達心理学専攻だった私にとって河合先生は臨床の先生というより子供のこころの先生だったらしい。精神分析を学び始めてからは精神分析は小此木先生、ユング派は河合先生という感じでその対話本などは読んでいたが、実践としてビビッドで、実際に教わりにいったのは精神分析だったら藤山先生たちの世代、ユング派だったら俊雄先生とかの世代だった。毎週木曜日、慶応心理臨床セミナーに私が通っていた頃はまだ小此木先生がいらしたので河合先生よりはずっと身近だが、精神分析かユング派かとか技法の違いでいったら、私はそのほかに家族療法も短期療法も動作法も学びに行っていたから、京大出身の仲間たちが語る河合隼雄の影響力はいまいちピンとこないし、小此木先生も特別感はない。長谷川啓三先生について名古屋に通おうとしていたし。一回だけいってすごく興味深かったけど続けたら精神分析にかけたのと同じくらいの費用がかかったかもしれない。何かのオタクになるとお金がかかる。

先生たちもそれぞれオタクだったと思う。精神分析を受ける人は少ないけどある程度オタク気質がある人たちなんだと思う。それに集中することで強いられる負担を負担と感じるしかたが独特だと思うし、精神分析はさらにメタというか、他者と共にいようとする、あるいはそこで痛みを感じる自分の心、というふうに対象が自分(=他者)になるし、自分の可動域は自分で思っているよりずっと広いか、複雑。なので痛みと不快さにまみれすごく苦しくて本当に辛くてもなんとか探求を続けられる面白さがある。私はあった。最後には「これが“遊ぶということ”か」とかなりの自由と面白さを実感できるようになったのと訓練ケースが訓練として認められたのが重なり(連動しているからだけど)分析家になる少し前に分析を終えた。今となれば何を選択しても同じ結果になったかもしれないけど、私が身をもって知っているのは精神分析だけなのでそれを生業にできてよかった。一途にオタクをやってきた。使えるものはなんでも使って、ということができる人はいいけど、私の場合は結局こんがらがって「やっぱり基礎からだな」と何度もスタート地点に戻ることになるから探求をやめないやり方が自分にあっていたんだと思う。それぞれ自分は何がしたいのか、ということに尽きるけどそれが本当にやりたいことなのかを模索するのも必要だったりするからややこしいね。

もらった温室みかんがちょうどよく甘酸っぱい。今日は金曜日。天気予報はやっぱり雨。がんばろー。

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お菓子 テレビ 精神分析、本

言葉とかお土産とか。

出かける前に少し洗濯物を外に干そう、と思って窓を開けた。風がない?風はどこ?暑いけどまだ風があるから助かるよね、という話をしたばかりなのに。今日は木曜日。そして明日は8月、と書きながら驚く。もう8月。

さてさて、昨今、加害と被害という用語で様々な出来事が語られるが、精神分析でいば、加害性はウィニコットのいう侵襲性だろう。そしてグッドイナフな母親には「なる」プロセスが含まれるとすれば、それがまだできない母子の最早期の関係は加害者と被害者だろうか。そんなはずはなく、被害と加害の関係はそんなに簡単ではないのでそれらの用語も簡単に用いるべきではもちろんない。強い言葉を使うなら『被害と加害のフェミニズム #MeToo以降を展望する』とかある程度勉強してから、という時代だろう、今は。言葉はどんなときでも人の自由を拘束するためではなく広げるために使えるようにしたい。言葉が拘束として働きやすいのは人の心がそういうふうに作動しやすいからなわけだけどそれを超えていくのも言葉だと考える仕事についているのできちんと勉強しよっ、と改めて思った。

これは「いいお母さん」とはなにか、みたいな話でもある。『精神病者の魂への道』の著者、シュビング夫人で知られるゲルトルート・シュヴィングは古澤平作のスーパーヴァイザーであるパウル・フェダーンの分析を受けていた。小此木啓吾が書いているが、彼女は精神分析によって「自分の中の救済的なコンプレックスを治療することで、自分自身の内部にあった激しいエディプス的な葛藤とかを洞察した」。その結果、「献身的に子どもをかわいがるお母さん」から「本当の意味での、距離のある、人格と人格としての母と子の愛情、真の母性愛というものに成長した」そうだ。小此木啓吾は阿闍世の話とそれをつなげている。こういう話をどのくらい複雑に考えられるかということが大事。どっちがいいとかそういう話ではない。少なくとも相手を「いい」か「悪い」かを決めるのは自分ではない。

福島県二本松市岳温泉のお土産がたくさん。「だけ」温泉って読むのね。ウェブサイトを訪ねたら最初に映し出されたのが包装紙みたいでかわいかった。楽しそう。安達太良山に登ったあとに日帰り湯する人も多そう。お土産は「玉川屋」さんの名物「くろがね焼」とか「あだたら 湯ふもと岳」とか。これはクッキーかな。原材料に黒糖、バター、パンプキン、アーモンド、シナモンとあるだけで絶対に美味しい、という予感がする。包装紙もわしっぽくてきれい。あと「桜坂」。これは果実餡とある。包み紙の上からだとふんわりした感じ。なんだろう。楽しみ。桜坂って名所があるのね。

「桜坂」というと福山雅治の「桜坂」を思い出す世代なんだけどあれは何年だろう。『未来日記V』のテーマソングだった。

♪君よずっと幸せに 風にそっと歌うよ ♫♪ 愛は今も 愛のままで♪

私の未来の時間は当時より具体的に短くなったけど今日もがんばろう。今日は木曜日。7月は今日まで。何度も確認が必要なのは加齢のせいではなく不注意のせい。色々あってもなんとかやろう。良い一日になりますように。