昨日はフランス精神分析の祖、ラカンの初期、エクリの最初の方に載っている鏡像段階の論文に関連してコレット・ソレールの年次セミナー2014-2015“Vers l’identité”の英訳を読んでいた。ソレールはジャック・ラカンに直接師事し、ラカン派精神分析をリードしてきた重鎮。動画で彼女の姿も語りも見ることができる。『情動と精神分析』“Les affects lacaniens”の全訳の書評を書いたときに著者Colette Solerのもっと基本的なものをと思って読み始めた。書名は“Towards Identity in the Psychoanalytic Encounter A Lacanian Perspective”
訳者による序文の一部。
“Translation of any kind is rooted in optimism, (中略) Sustained by this optimism, week after week for almost three years, the members of the Cartel met to engage with the text and to … make it speak English!”
昨日は原稿を書く時間はなかったがオグデンの「自閉ー隣接ポジション」の論文が入っているThe Primitive Edge of Experience by Thomas Ogden(1989)の 3.The Autistic-Contiguous Positionを再読した。これも部分的に訳してあるが訳の整理をしていなかったのでさらに部分的にしか見つからずだったがオグデンの英語は読みやすいし、用語自体は英語で押さえておいた方が他の論文を読むときにも楽、というか私が修正しているのは英語論文なので、このまま引用すればいいから英語で読んでしまった方がいい。精神分析におけるautisticという概念を心の体験様式の基盤に据えて思考することが必要な時代だと思うし、精神分析が初期に自閉症を捉える際にした失敗は繰り返してはいけない。別のものを同じ言葉で捉える、つまりすぐに似たような言葉で置き換えずとどまり続ける試みこそオグデンの大きな貢献だと思うので、というか私はオグデンのそういうところに力をもらっているので引用しながら自分の考えを提示できたらいいなと思う。
昨日はブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeを担当した。ただ訳して読み上げただけだが。主にクライン派の重鎮たちの間でトレーニングを積みながら、その知見の多くを翻訳し、ブラジルに広め、IPAにおいても貢献度の高いバロスだが、日本ではあまり知られておらず翻訳もないと思う。今回の論文は症例の「わかりやすさ」と理論化の仕方にしっくりこないみたいな感じだった。でもそれもバロスのスタイル、とべつの論文を読んで思った。
全米批評家協会賞のファイナリストに、多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』の英訳版 “Exophony: Voyages Outside the Mother Tongue” by Yoko Tawada (tr. by Lisa Hofmann-Kuroda) が批評部門と翻訳部門でノミネートされたとのこと。日本で出版されたのは10年以上前。「エクソフォニー」とは「母語の外に出た状態一般」のことだそうだ。この本は翻訳という行為そのものだから納得だなあ。松尾芭蕉『奥の細道』のドイツ語訳の話とかも面白いよ。
クラウスは詩句を取り上げるけど、精神分析の自由連想、夢解釈における言葉の使用はまさにこれだ。先日読んでいたブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeに出ていた症例を思い出す。言葉を使うことで心の世界が大きく動くように発語は常に喚起的だ。分析家はときにそれを初語のような驚きとともに受け取るし、何より本人が自分の言葉の使用に驚くプロセスが必ず起きる。やっぱり面白い。
「スターン、サボツキー、シェア、バウアーが明らかにしているのは、乳児の生において、体験や知覚が心的表象や記憶として符号化されない、あるいは符号化不可能な時期は、存在しないかもしれない、という点である」とまとめる。そしてReturning now to Hedges’s work, とさらっと戻る。どこからの球も軽やかに受け止め、鮮やかに打ち返せるのは博識なのはもちろん、私くらいの人でもいろんなところでその「私信」を目にするという印象を持つほどの対話の幅広さではないだろうか。
昨日はビオン経由でフェッロとチビタレーゼのThe Analytic Field and its Transformations By Giuseppe Civitarese, Antonino Ferro Copyright 2015を読んでいた。若いときにラッカーを読んでいたらバランジャーを読むといいよと妙木先生に勧められてはまった。が、フェッロにはあまり興味が持てずなんとなくフィールド理論を読まなくなった。最近、私より若い世代がフィールド理論の翻訳をしてくれているので興味を向ける人が増えているのかもしれない。私が読んでいたのはGiuseppe Civitarese, Antonino Ferroが二人で書いてきたものの論文集のような一冊。読みながらなんとなくフィールド理論に乗れなかった理由がわかった。ビオンを自分でたくさん読むようになったからだと思う。勉強しつづけるってこういう発見があるからいい。この本のChapter 8 A Beam of Intense Darkness: a discussion of the book by James Grotsteinは貴重。日本でグロットスタインがどれだけ読まれているのかわからないけど私が読むような本には大体登場する。「私信」という形の引用が多い気がするのは気のせいなのかな。フェッロとチヴィタレーゼはこの「ビオンおよびBFTモデルを理解するうえで不可欠」ということでグロットスタインの主要論文を書評する形式をとっている。が、グロットスタインの主要な論文を自分で読むのもいいと思う。私がフロイト、ウィニコットはもちろん、グリーンとオグデンが私がなにかを論じるときの基盤なのだけど、グロットスタインは彼らにもよく引用されている。でも邦訳がない(と思う)。なんでだろう。たくさん書いているし、ビオンを臨床と接続させるにはとてもいいと思うのだけど。ビオンだけに取り組んでもなかなか実感湧かないと思うし。pepによると一番引用されている論文として上位に来るのはGrotstein, J. S. (2004) The seventh servant: The implications of a truth drive in Bion’s theory of ‘O’. International Journal of Psychoanalysis 85:1081-1101。これそんなにややこしくはないけど長い。ここで著者が提案するのは題名にあるとおり「真理欲動」。truthの議論は難しい。「真理欲動は無意識的意識unconscious consciousnessと協働して機能すると仮定されるんだって。精神分析に関心のない人はもうこの辺でなんのこっちゃだと思うけど、こういうことを細かく考えるのが好きで、そうしながら精神分析に使う言語が作られていくと考える私にとっては面白いんだな。学び合い。
Winnicott and Freud – Polish Psychoanalytic Society – November 20, 2021 Prof. Dr. Leopoldo Fulgencio (University of São Paulo) Prof. Dr. Martine Girard (France, Toulouse)
1月は本当にあっとまに終わってしまった。本当にまずいのでとりあえずひとつひとつ確実に終わらせようと(最初からそうすべきだったと知ってる)とりくんではほうっておき、を繰り返していた2000年のエリアス・マレ・バロス(Elias Mallet Barros)のInternational Journal of Psychoanalysis ,81(6):1087-1099、Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life by Elias Mallet Barros(情動とピクトグラフィック・イメージ― 心的生活における意味の構成 ―)を全部訳して勉強会のみなさんに共有した。そんなに難しい英語ではないとはえ内容も難解なのでなんとなく時間がかかった。その間に関係ない論文を色々読んでいたのもよくなかった。長い目でみればいいのかもしれないがすぐに忘れてしまうのでやるべきことをきちんと形に残すこと。2月はそれに集中したい。ああ。
あとSNSにポストしたけどこっちにもメモしておこう。ケイト・バロウズ編集の『自閉症スペクトラムの臨床』は子どもと大人両方の自閉的側面が事例とともに広く記述されている本でとてもよくて、昨日は序章にしか出てこないBianca Lechevalierの論文を少しチェックした。邦訳だとレケバリエと訳されているけどルシュヴァリエじゃないかなと思った。この人の講演とか音声がないので確認できないのだけどフランスの神経学者としてマーク・ソームズと一緒に書いたものもあるらしいのでたくさん出ているソームズの動画をチェックすればLechevalierの名前も出てくるかもしれない。名前はできるだけそれに近い日本語にしたいと十川幸司先生が言っていた。大事だと思う。この本で参照されている。論文は二本あって、一つは2003 The 7th Annual International Frances Tustin Memorial Prize “Autistic Enclaves in the Dynamics of Adult Psychoanalysis by Bianca Lechevalier-Haim, M.D. of Caen, France。受賞論文もここから読める。最後にクラリッセ・ニコイツキー. Clarisse Nicoïdskiの詩が引用されていてそれがとても硬質で繊細な痛みと混乱を表現していて自閉的な世界の描写は厚みよりもこの感じになってしまうな、と辛かった。
この前、ドイツ精神分析協会(DPV)の精神分析家、Bohleber,W.が紹介するアルフレッド・ロレンツァーの論文について少し書いた。そこで紹介されていた論文はLorenzer, A. (2016) Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy. International Journal of Psychoanalysis 97:1399-1414。私の設定でもPEPで読めた。最初に検索したつもりだったのに。自分がなにを考えてその論文にたどり着いたかは私にとって大事なのだけどすぐに忘れてしまうから最初の目的とずれた方向で勉強してしまっていたりする。今回もそれで検索ワードを間違ったのかもしれない。それはそれでいい面もあるけどやるべきことがあるときは本当に時間がなくなるのでいけない。自分のこういうところに不便さを感じる。さて、ロレンツァーのこの論文は英訳が2016年。訳者はPhilip Slotkinという人。元の論文はZeitschrift für Psychoanalyse und ihre Anwendungen, 37:97-115 (1983).ロレンツァーは2002年に亡くなっている。原著はボルバーの論文から私が読み取ったものとはずいぶん違った。巻き込まれることについての記述なんだという印象は変わらないが、症例の提示はないにもかかわらず著者の臨床態度がなんとなく伝わってくるような論文で、理論化に説得力があって、隙間時間を全部使って読んでしまった。著者は最初に語表象と物表象をどう扱うかを示して「物表象とは、(いまだ言語に基づかない)相互作用の記憶痕跡――すなわち、経験された行為の沈殿物であり、未来の行為のモデルである」という。そして「治療者が患者の「遊び」に参加することを基礎として、患者によって提供されるすべての素材を、夢解釈に類似したアプローチによって扱う場面的理解(scenic understanding)は、無意識への王道(royal road)なのである。」という。そして「この方法と対象の「言語ベース」の性質は、精神分析の根本的特性であると同時に、根本的問題でもある。というのも、精神分析における認識対象が無意識であるという事実は、次のような奇妙なパラドクスを生み出すからである。すなわち、精神分析は、言語の外部にあるものを、言語に基づく手段によって探究しようとする、言い換えれば、理解しえないものを理解しようとするのである。」と精神分析が逃れようのない問題を確認しつつ、主にフロイトの著作を引用しながらそのメタサイコロジーを部分的に更新していく。
ボルバーのIntroduction to Hermann Argelander’s paper ‘The scenic function of the ego and its role in symptom and character formation’、ヘルマン・アルゲランダー論文「自我の場面的機能と、それが症状および性格形成に果たす役割」(Argelander, 1970)への序論、と訳せばいいのかな。
昨日はドイツ精神分析学会(DPV)の精神分析家Bohleber, W.の2016年の論文、Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’.を読んだと書いた。アルフレッド・ロレンツァー論文「精神分析的治療における言語、生活実践、場面的理解」の紹介でいいのかな。ここに書いてあることをざっと書いておく。正確な翻訳ではないので原典をご参照あれ。これはロレンツァーの1983年の論考の再録と展開のよう。1922年生まれのロレンツァーはエルンスト・クレッチマーのもとで精神科医として訓練を受けた。無意識の「場面的理解(szenisches Verstehen)」を中心に据えた、新たな精神分析メタ理論を構築した。シュトゥットガルト精神療法研究所およびハイデルベルク大学アレクサンダー・ミッチャーリッヒの心身医学クリニックで精神分析訓練を修了し、その後、ミッチャーリッヒが所長を務めていたフランクフルトのジークムント・フロイト研究所で勤務した。これはBohleberが2013年のIPAジャーナルで紹介している同じくDPVのヘルマン・アルゲランダー(1920ー2004)の経歴とほぼ同じ。ロレンツァーはドイツ精神分析学会(DPV)の訓練分析家であり、1971年にブレーメン大学社会心理学教授、1974年にはフランクフルト大学社会学部に移り、社会化理論の講座を担当した。1991年、病を理由に研究・臨床活動を退き、2002年に死去。
ロレンツァーは1965〜70年にかけて、外傷性神経症、強制収容所生存者のトラウマ、戦争外傷についても独自の研究を行っていたが、その後、主たる関心を精神分析的知の対象・方法・科学的地位へと移した。 1960年代には、ユルゲン・ハーバーマスによる「精神分析=内省の科学」という立場と格闘するが、ロレンツァーはそれとは異なり、精神分析のプラクシス(分析家が実際に何をしているか)を議論の出発点とした。彼は精神分析がそれをどのように理解しているかよりも「分析家が何をしているか」を基盤にメタ理論を構築した。彼の基本命題は、精神分析とは言語の変容に関わる営みであり、それは表象representativesの象徴化/脱象徴化の過程という象徴理論の文脈で理解される、というものである。このメタ理論は次第に異なる象徴形成の平面に位置する相互作用形式」という概念へと展開されていく。ロレンツァーにとって精神分析は、自然科学と解釈学の中間に位置する独自の科学であり、後年彼はそれを「身体の解釈学hermeneutics of the body」と呼んだ。フロイトは精神分析を自然科学の領域に属するものと見なしていたが、彼自身は――暗黙のうちにではあるが、決定的な仕方で――自然科学と文化諸科学とのあいだの境界を廃し、新たな科学のパラダイムを打ち立てた。ロレンツァーにとって、「フロイトへの回帰(Back to Freud)」というスローガンは、自我心理学者たちとは異なり、メタ心理学的立場および欲動理論への回帰を意味する。精神分析の生理学的基盤を保持しつつも、彼はフロイトのいうところの「素朴な生物学主義」とは対照的に、欲動の心身的構造を社会的過程の産物として構想することに関心を向けている。この目的のために、彼は相互作用形式(form of interaction)という基礎概念を展開する。
非表象領域での出来事をどう記述するかという課題がずっとあるわけで(私のというより現代精神分析のかもしれない)、ウィニコット(イギリス)のネガティブ、ビオン(イギリス)の原初思考、アンドレ・グリーンを通じてのボテラ夫妻(フランス)の形象可能性、オラニエ(フランス)のピクトグラム、今回はバロス(ブラジル)の情動的ピクトグラムと読んでいきつつあれこれ考えていた。それでも書き物に用いた臨床素材について記述するにはまだなにか足りないと思っているところに今回出会ったのがドイツの精神分析家、Bohleber, W. (2016) Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’. International Journal of Psychoanalysis 97:1393-1398。2020年9月のIPA Off the Couch、Episode 66: Otherness, Anti-Semitism and Psychoanalysis with Dr. Werner Bohleberで声を聴くこともできる。2007年のSigourney Award Winnerでそこでの紹介を訳すとこんな感じ。
IPAの精神分析家になって、世界中の精神分析家と精神分析を取り巻く環境が身近になって、そこには常に戦争が関わってきたし、現在もそうであることを実感するようになった。IPAの中にも当然分断があり、議論も対話の場はあるがそこでの困難もきく。日本には日本の課題もあるが、世界に目を向ければもう少し別の対話が可能というか必要ではないか、と思いつつ、自分が属する場所は大事なのでそこにいる。組織に入り、国際的な学会にでることで世界の精神分析家が背負ってきたものの重みは増した。本の読み方も変わった。創始者フロイトがユダヤ人であることはもちろん、ナチズムによって亡命を余儀なくされた多くの分析家の移動によって精神分析は多様になったが、移動しなかった、もしくは戻ってきたら、あるいは母国にいながら沈黙を守る必要があった精神分析家たちもいる。ドイツの分析家たちがまさにそうかもしれない、など考えながら読んでいたら同じBohleber W. (2013)が間主観性について The Concept of Intersubjectivity in Psychoanalysis: Taking Critical Stockという論文も書いており、これはまだ途中だが、大変よくまとまっているので参照していきたい。
今朝はなんとなくAndré GreenのClinical Thought/POUR INTRODUIRE LA PENSEE CLINIQUEの試し読みを読んでいた。これ英訳がないのに、なぜ英語の題が併記なのだろう。実は英語訳あるのかな。この前ここにも少し訳を載せた Green, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71. と似たような内容がこの本には載っていそう。「臨床的思考」という用語でその他の思考との違いを明確にしていく感じかな。前提として精神分析の特異性が語られている様子。たとえばこんなところから。
昨日は事例検討会もミーティングもあり私なりに頭を使って疲れた。先日MacのPagesで訳したアンドレ・グリーンのGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71.をWordファイルにしてOneDriveに保存してからWindowsパソコンで開こうとしたら見当たらず。ほかのファイルも破損しているから開けないとかいう表示がでた。私はこんなに長くMacでOneDriveを使ってきて、なんどか同じ事態になっているのになんとかなってきてしまったことでなにもしてこなかったのだな、とMacとのさよならが近づいてきている今になって反省してちょっと調べたらすぐ対処方法がでてきた。対処方法以前の私のわかってなさの問題という気もしたがとりあえずよかった。このMacがまだ新しかったころにOfficeをインストールしたのだけど相性が悪かったのかフリーズしてばかりでapplestoreでもそういわれるばかりだったのでpagesばかり使ってきてしまったのだ。学会発表とか原稿でWordファイルを求められるときはオフィスにあるWindowsのパソコンに送って手直して出していた。すると文字数が結構変わってしまったりして、常に時間も文字数もぎりぎりで書いているので大慌てということもよくあった。にもかかわらず、と話ですね。Macとはお別れしがたいたけどそういうめんどくさいことがないようにWindowsのパソコンを買ったし、作業はそちらに統一していかないと。
昨日、使用したのはANDRÉ GREEN “Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)の英訳版。NEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊で “The Fabric of Affect in the Psychoanalytic Discourse” 。これも英訳はAlan Sheridan。情動の観点からフロイトの著作を簡潔に紐解く手捌きは鮮やかで、今回は『草稿G』(1895) 『心理学草案』(1895)について書かれている箇所を読んだ。『草稿G』については前にもここで書いたがメランコリーについて書かれたもので『喪とメランコリー』を読む際は参照してもいいと思う。『心理学草案』についてアンドレ・グリーンはこう書いている。
さらに、なにのために読もうとしたのか忘れたが昨日はなんとなくGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understandingも読んだ。そしたら私がここでたまにぼやいているようなことがきちんと精神分析の危機として書かれていた。書くならこのくらいの熱量で書かないといけないのね、と思いながら読んだ。
But what is really interesting about the possible connection between the two is the fact that, in spite of the obvious similarity between his thinking and Zen Buddhism, Morita disclaimed any special connection between the two.
昨日は武蔵小金井の宮地楽器ホールというところにはじめていった。武蔵小金井は昨年、久しぶりに行ったけど北口しかウロウロしなかった。今回は南口にびっくり。きれい。駅前でなんでも揃う。中央線のこっちの方は駅前が本当いいよね。立川とか国立とかも本当便利。昨日は国立に長く住んでいた現在NY在住の作曲家、挾間美帆 と小金井出身のヴァイオリニスト滝千春のproject《MaNGROVE》Japan Tour 2026の初日へ。弦楽四重奏にコントラバスに挟間美帆のピアノ。ちょうど間に合う時間だったから慌ててとって席は最後列だったけど両脇がいなくてゆったりできてよかった。そういえば挟間美帆はピアノを弾くんだね。元々はピアノで大学入ったんだものね。作曲したり指揮したりする姿ばかり見ていたから意外だった。ピアニストのピアノとは違う良さがあった。そして普段は挟間美帆しかフォローしていないがクラシック界の若手トップスターたちもすごかった。挟間美帆の解説もよかったし、確かにこういう曲を普段クラシックをやっている人たちが弾くってどんな感じなんだろうと思った。楽しそうだけど。クラシックとジャズ、音符と言語の壁を超えて(滝さんがプロコフィエフの音楽に感じたこと)こういうチャレンジがなされ、多くの人を集めている場所にいられてよかった。私よりずっと年上の白髪の女性たちが結構たくさん見にきていてお手洗いの列にいる間、今日のコンサートの充実感を語りつつ、「疲れたでしょうねえ」と演者のみなさんを思いやっていたのもなんかよかった。今日知った人たちの活動、今後もチェックしていこう。チラシとか見てるとリサイタルの仕方とか、その試みがいちいち興味深い。音の細かいことは私にはわからないけど積み上げられた技術をもとに新しいチャレンジがなされていくプロセスを追うのは楽しい。
5月にソウルにいくのでそろそろ色々準備しないといけないのだろうけどハングルをよめないのは結構大変だな、観光には。もちろん情報はたくさんあるけど。一応、精神分析のカンファレンスでいくのでthe Korean Psychoanalytic Center (KPC, formerly KIPSA)について調べたりした。韓国の精神分析環境も色々大変そうだが、34名の会員、 10人の訓練分析家、65名の候補生と日本の協会より勢いがある。良い影響をうけたい。会長のDr. Sun Ju Chungのインタビューを聞いたりもした。今度のthe 5th IPA Asia Pacific Conference in Seoul にも意欲的。それはそうか。良い影響を受けたい(二度目)。30年ぶりくらいのソウル、楽しみたい。
「営む」と意識的に使った、というよりこの言葉を書くたびに注意がそこに向くのは藤山直樹『精神分析という営み』(2003、岩崎学術出版社)を読んでからかも。先日読んだと書いた藤山直樹の最新刊『精神分析の深みへ』(2025、金剛出版)の序章はこの最初の単著における「営み」という言葉の使用を掘り下げ、精神分析を「営んでいる」とはどういうことかが書かれている。「営み」は英語にするとどうなのだろう。著者は最初の本をどう英訳しているのだろう。act, activities, make love to,vividly portray,undertakingなど文脈によって使い分けることができるこの単語だが日本語の「営み」が持つ広がりを私も好ましく感じる。
重力に弱い私は自分の行動がデータとして可視化されるのを目にするだけで酔ってしまうが身体を装置に馴染ませることとか、対象ではなく関係を取り出していく三上晴子の展示は精神分析における視覚、聴覚の使い方とか、障害のある人への身体的関わりを考えさせられる。そこで圏論を学ぼうと思ったわけ(うまく説明できない。よくわかってないから。)。圏論は数学界でもまだ新しいアイデアだと思うけど昨年、加藤文元『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』 (ブルーバックス B 2313)が話題になっていて面白そうと思っていたのだ。
さてアンナをみつつぼんやり“Key Ideas for a Contemporary Psychoanalysis Misrecognition and Recognition of the Unconscious” By Andre Green がどんな本だったかをチェックしていた。2023年12月にも読んでいた時期があったらしいが全く覚えていない。今回は原書のフランス語版にむけて書かれたペレルバーグの書評Jozef-Perelberg, R. (2005) Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine d’André Green. Revue française de psychanalyse 69:1247-1261をみつけたのでそれも読みつつ目次を確かめつつ、今読むべきところを探ってみた。フロイトの「否定」論文は何度も読むべきものだけど、その「否定」では表せないだけでなく、精神分析実践ならではの心の動きを示すのがグリーンの「ネガティヴ」という概念だと思う。ネガティブはとらえどころがないからネガティブなのであってそれがwork(作業、仕事)できる心かどうかが精神分析プロセスを追うときの大切な指標になる。心とか主体とかあるんだかないんだかみたいなものを想定せざるをえないのはなんらかの動きを感じるということが起きたとき。ふと感じられる主体が現れるとき。時間が動くのとセット。それまで止まっていた時間が。「あれ?どうして今これ思い出したんだろう」「今ふと思い出しのだけど」と不思議そうに現れる気持ちは過去の出来事とつながっている。「あれなんで泣いているんだろう」とかも。過去は単なる時間ではないのだ。情動とくっついて時間として現れる、のでは?時間に関しては今年はベルクソンに加えてポール・リクールを読みましょう。積んであるからね。あとアガンベン。人は生きていること自体が行為になってしまうから色々難しい。さらに言葉も持ってるからややこしい。今年もそんなめんどくさい自分とつきあっていきまっしょい。
次に読むアンドレ・グリーンの本をしつこく探していてLa Clinique du négatifはどうかなあと思ったけど英訳もなく、どの論文が入っているかもわからない。André Green Revisited Representation and the Work of the Negative Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine Copyright 2019はグリーンを引用して何か書く場合に非常に参考になりそう。著者はRene Roussillon、Jean-Claude Rolland、Howard B. Levine and Anna Migliozzi、Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky、Fernando Urribarri、Claudio Laks Eizerik, Lucian Falcão and Zelig Liberman、Marie France Brunet、Talya S. Candi and Elias M. da Rocha Barros、Rosine Perelberg 、Francis Baudry。
ペレルバーグのRepetition, Transformations and Après-Coupだけでも読めないかなと思ったけどpepにはなかった。The Controversial Discussions and après-coup(2008)が参考になるかな。