昨日はAndré Green Revisited Representation and the Work of the Negative Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine(2019)のChapter 4. Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky: Green’s Theory of Representation Revisitedを読んだ。フランス精神分析における心身症に関する論文。アンドレ・グリーンの用語自体には慣れてきているが毎度咀嚼には時間が必要で、ほぼ寝ているような時間もあったが、グリーンのスーパーヴァイジーの事例だったので「ああ、こういうことかもしれないな」とつながりは発見できた。精神分析の事例というのは患者と治療者とそれをめぐる人たちのものなので(物語ではない。物語という人もいるが)症状の理解は当然必要だが、それぞれがなにをみているかをとらえようとするこちらも事象をミクロに分解しつつ、ガラッと視点を変えてそれらにまとまりを見出すことが必要になる。意識的にできるのは前者だけなので後者は自分が精神分析によってそういう体験をすることが必要だが。私は訓練を通じて精神分析の文献の読み方は大分変わったと感じる。わからなさに耐える力もものすごくついたというかそれがデフォルトになっているので「わかる」方向に進もうとする場ではひとりだけ時間が止まっているようなときもある。ガラッと視点が変わる作用を生じさせるのは精神分析でいえば「解釈」。またはそういうものを「解釈」というというのか。自分がガラッと崩れるような解釈を体験することはそう簡単ではない。精神分析の場合、誰かのひとことで人生が変わる、みたいな体験とはまた別で、長く積み重ねるプロセスの先にふたりの間(間というのはあまりしっくりきていないけど)で形をえるものなうえに、それを言葉にするかはまた別の問題、しかもガラッと崩れたり、視点が生じたりするのは患者だけではない。先にそれが生じているのはすでにその経験をしている治療者のほうだといっていい。そのずれがないと自分と自分でないものを区別するプロセスも生じないかもしれない。そういえば昨日の論文にprojective reduplicationという用語がでてきてよくわからなかったが、投影によって自己の表象が二重化すること、つまり自他の区別を曖昧にするメカニズムが心身症にはあるのではないかというマルティらの仮説として理解した。これ自体は主要な概念ではないからこだわることもないのだけど、自分と自分でないものの区別がいかに困難かは日々臨床で感じているのでそこに関わる状態は気になってしまう。心身症の場合は、同一化になんらかの困難があって過剰適応したり、その分、内的な体験を語ることが難しく、身体にまつわる語りに終始したりということはある。パリ心身症学派のPierre Marty、Michel de M’Uzan、Michel Fainらに対してグリーンがいいたかったことはあまりよくわからなかったし、事例もこれは心身症といえるのかなというものではあったが、非表象領域の表象化プロセスの論文であることを考えれば心に区分ができていくプロセスがずっとそこにあったであろう「もの」や「こと」に定位置を与える描写は、この人の身体もようやく地理的な混乱(メルツァー)を抜け出しつつあるのだろうなと思わされた。
暗い時間から挟間美帆。夜明けは何時だ。日付が変わってからe-Taxで確定申告を完了。何が何やらだったがどうにかなった。目が冴えてしまったので明日の勉強会用にコフート『自己の分析THE ANALYSIS OF THE SELF』でも読むかと思ったけど途端にぼんやりしてしまった。そんなもんだ。コフート久しぶりだな。最初の職場にいた頃に今はもうない慶應心理臨床セミナーにではじめ、丸田俊彦先生の講義を何度か聞いた。丸田先生は小柄なお年寄りだったが身のこなしがとても軽快でスマートだった。情緒豊かでラッパーのような語りはカッコよくアメリカに長くいた人なんだなあという感じがした。お、今、私のiphoneからはYayennings. こういうリズムとはちょっと違ったかな、丸田先生は。小此木先生が企画していた慶應心理臨床セミナーはこの先生はこの流派なんだー、というイメージを持ちやすい構成になっていた。本当のところはどうなんだろう。英国で訓練を受けてきた先生方はクライン派の講義をされていることが多いし、クライン派の分析家の分析を受けてこられた先生もおられるけど、英国対象関係論というもっと広い括りの中で、その香りや空気を纏ってきた先生方という感じがする。コフートに始まる自己心理学は私の中では丸田先生がはじめで、オリジナリティの強い岡野先生もふんわりそこにいて、その後富樫先生の双子転移、そこから「関係論」という括りのセミナーで吾妻先生もその中心の一人というイメージかな。「自己愛」という訳語は本当にどうにかしたいところだが、コフーシャンたちはなおさらそこにチャレンジしたくなったりしないのかな。私は日本で訓練してきたからどの学派でもないのだけどナルシシズムは理論としても実践としても常に基本的な課題。
昨日はEPF(European Psychoanalytic Federation)によるETEP(End of Training Evaluation Project)に関する論文のことを書いた。EPFは「欧州精神分析連盟」でいいのかな。IPA(国際精神分析学会)の加盟団体である43の欧州の精神分析学会で構成。1966年発足、1969年IPA承認、現在、33カ国に居住し活動する8,000人以上の精神分析家および研修中の精神分析家が在籍、27の言語が話されている、とのこと。2015年末以降、ブリュッセルのRue Gérardに独自のHouseを構え、EPF加盟団体の全会員および候補生に開放。ブリュッセルかあ。いいなあ、というより、そういう専用の場所があっていいなあ。日本の協会は今まで小寺がそういう場所を担っていたけど、日本精神分析協会独自の場所はないもんなあ。日本の精神分析家の多くは自分のプライベートオフィスをもっているけれど、みんなで集まれるようなスペースはない。
先日、SNSでthe podcast Talks on Psychoanalysis. “Transience and the prohibition of “Don’t Look” by Osamu Kitayama を紹介した。北山修の「見るなの禁止」もそうだが、そろそろ学術大会に向けて「甘え」理論を復習せねば。あああ。いろいろ辛いが(花粉もね)がんばろう。
昨日はHinze, E. (2015) What Do We Learn in Psychoanalytic Training?. International Journal of Psychoanalysis 96:755-771を読んでいた。2021年にでたDear Candidate: Analysts from around the World Offer Personal Reflections on Psychoanalytic Training, Education, and the Professionにも一章書いているドイツの精神分析家によるETEP(End of Training Evaluation Project) の議論のまとめ。分析家になる途上の候補生(candidate)が訓練の過程で学び、あるいは内在化しておくべき基本的要素の一群が提示されている。
ちなみにDear Candidateはいろんな国のシニアの精神分析家が候補生にむけてメッセージを送る一冊。2021年に出版されてすぐに読んだが(全部ではないが)当時候補生だった私にはあたたかい本だった。どの国でも似たような大変なことが起きているんだな、と思える本だった。日本でアジアンパシフィックカンファレンスが行われたのはいつだったか。この本にはそこでほかの国の候補生たちからきいた「噂」みたいなものも書かれていた。そして様々な問題や困難を経験してきた著者たちのほとんどがいうのはオープンであれということ。おおざっぱにいえば。別の理論、別の言葉、訓練中に出会うすべてのものに対して。IPA “Talks on Psychoanalysis Podcast”では編者のFred Buschがこの本について話しているので興味ある方はチェックしてみて。この本に様々なかたちでかかれている精神分析家になるための訓練で必要なこと、大切なことはIPAの地域の一部門などでこうやって研究され、その成果のひとつがHinzeの論文。これはEPF(European Psychoanalytic Federation)によるもの。
昨日はフランス精神分析の祖、ラカンの初期、エクリの最初の方に載っている鏡像段階の論文に関連してコレット・ソレールの年次セミナー2014-2015“Vers l’identité”の英訳を読んでいた。ソレールはジャック・ラカンに直接師事し、ラカン派精神分析をリードしてきた重鎮。動画で彼女の姿も語りも見ることができる。『情動と精神分析』“Les affects lacaniens”の全訳の書評を書いたときに著者Colette Solerのもっと基本的なものをと思って読み始めた。書名は“Towards Identity in the Psychoanalytic Encounter A Lacanian Perspective”
訳者による序文の一部。
“Translation of any kind is rooted in optimism, (中略) Sustained by this optimism, week after week for almost three years, the members of the Cartel met to engage with the text and to … make it speak English!”
昨日は原稿を書く時間はなかったがオグデンの「自閉ー隣接ポジション」の論文が入っているThe Primitive Edge of Experience by Thomas Ogden(1989)の 3.The Autistic-Contiguous Positionを再読した。これも部分的に訳してあるが訳の整理をしていなかったのでさらに部分的にしか見つからずだったがオグデンの英語は読みやすいし、用語自体は英語で押さえておいた方が他の論文を読むときにも楽、というか私が修正しているのは英語論文なので、このまま引用すればいいから英語で読んでしまった方がいい。精神分析におけるautisticという概念を心の体験様式の基盤に据えて思考することが必要な時代だと思うし、精神分析が初期に自閉症を捉える際にした失敗は繰り返してはいけない。別のものを同じ言葉で捉える、つまりすぐに似たような言葉で置き換えずとどまり続ける試みこそオグデンの大きな貢献だと思うので、というか私はオグデンのそういうところに力をもらっているので引用しながら自分の考えを提示できたらいいなと思う。
昨日はブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeを担当した。ただ訳して読み上げただけだが。主にクライン派の重鎮たちの間でトレーニングを積みながら、その知見の多くを翻訳し、ブラジルに広め、IPAにおいても貢献度の高いバロスだが、日本ではあまり知られておらず翻訳もないと思う。今回の論文は症例の「わかりやすさ」と理論化の仕方にしっくりこないみたいな感じだった。でもそれもバロスのスタイル、とべつの論文を読んで思った。
全米批評家協会賞のファイナリストに、多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』の英訳版 “Exophony: Voyages Outside the Mother Tongue” by Yoko Tawada (tr. by Lisa Hofmann-Kuroda) が批評部門と翻訳部門でノミネートされたとのこと。日本で出版されたのは10年以上前。「エクソフォニー」とは「母語の外に出た状態一般」のことだそうだ。この本は翻訳という行為そのものだから納得だなあ。松尾芭蕉『奥の細道』のドイツ語訳の話とかも面白いよ。
クラウスは詩句を取り上げるけど、精神分析の自由連想、夢解釈における言葉の使用はまさにこれだ。先日読んでいたブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeに出ていた症例を思い出す。言葉を使うことで心の世界が大きく動くように発語は常に喚起的だ。分析家はときにそれを初語のような驚きとともに受け取るし、何より本人が自分の言葉の使用に驚くプロセスが必ず起きる。やっぱり面白い。
「スターン、サボツキー、シェア、バウアーが明らかにしているのは、乳児の生において、体験や知覚が心的表象や記憶として符号化されない、あるいは符号化不可能な時期は、存在しないかもしれない、という点である」とまとめる。そしてReturning now to Hedges’s work, とさらっと戻る。どこからの球も軽やかに受け止め、鮮やかに打ち返せるのは博識なのはもちろん、私くらいの人でもいろんなところでその「私信」を目にするという印象を持つほどの対話の幅広さではないだろうか。
昨日はビオン経由でフェッロとチビタレーゼのThe Analytic Field and its Transformations By Giuseppe Civitarese, Antonino Ferro Copyright 2015を読んでいた。若いときにラッカーを読んでいたらバランジャーを読むといいよと妙木先生に勧められてはまった。が、フェッロにはあまり興味が持てずなんとなくフィールド理論を読まなくなった。最近、私より若い世代がフィールド理論の翻訳をしてくれているので興味を向ける人が増えているのかもしれない。私が読んでいたのはGiuseppe Civitarese, Antonino Ferroが二人で書いてきたものの論文集のような一冊。読みながらなんとなくフィールド理論に乗れなかった理由がわかった。ビオンを自分でたくさん読むようになったからだと思う。勉強しつづけるってこういう発見があるからいい。この本のChapter 8 A Beam of Intense Darkness: a discussion of the book by James Grotsteinは貴重。日本でグロットスタインがどれだけ読まれているのかわからないけど私が読むような本には大体登場する。「私信」という形の引用が多い気がするのは気のせいなのかな。フェッロとチヴィタレーゼはこの「ビオンおよびBFTモデルを理解するうえで不可欠」ということでグロットスタインの主要論文を書評する形式をとっている。が、グロットスタインの主要な論文を自分で読むのもいいと思う。私がフロイト、ウィニコットはもちろん、グリーンとオグデンが私がなにかを論じるときの基盤なのだけど、グロットスタインは彼らにもよく引用されている。でも邦訳がない(と思う)。なんでだろう。たくさん書いているし、ビオンを臨床と接続させるにはとてもいいと思うのだけど。ビオンだけに取り組んでもなかなか実感湧かないと思うし。pepによると一番引用されている論文として上位に来るのはGrotstein, J. S. (2004) The seventh servant: The implications of a truth drive in Bion’s theory of ‘O’. International Journal of Psychoanalysis 85:1081-1101。これそんなにややこしくはないけど長い。ここで著者が提案するのは題名にあるとおり「真理欲動」。truthの議論は難しい。「真理欲動は無意識的意識unconscious consciousnessと協働して機能すると仮定されるんだって。精神分析に関心のない人はもうこの辺でなんのこっちゃだと思うけど、こういうことを細かく考えるのが好きで、そうしながら精神分析に使う言語が作られていくと考える私にとっては面白いんだな。学び合い。
Winnicott and Freud – Polish Psychoanalytic Society – November 20, 2021 Prof. Dr. Leopoldo Fulgencio (University of São Paulo) Prof. Dr. Martine Girard (France, Toulouse)
1月は本当にあっとまに終わってしまった。本当にまずいのでとりあえずひとつひとつ確実に終わらせようと(最初からそうすべきだったと知ってる)とりくんではほうっておき、を繰り返していた2000年のエリアス・マレ・バロス(Elias Mallet Barros)のInternational Journal of Psychoanalysis ,81(6):1087-1099、Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life by Elias Mallet Barros(情動とピクトグラフィック・イメージ― 心的生活における意味の構成 ―)を全部訳して勉強会のみなさんに共有した。そんなに難しい英語ではないとはえ内容も難解なのでなんとなく時間がかかった。その間に関係ない論文を色々読んでいたのもよくなかった。長い目でみればいいのかもしれないがすぐに忘れてしまうのでやるべきことをきちんと形に残すこと。2月はそれに集中したい。ああ。
あとSNSにポストしたけどこっちにもメモしておこう。ケイト・バロウズ編集の『自閉症スペクトラムの臨床』は子どもと大人両方の自閉的側面が事例とともに広く記述されている本でとてもよくて、昨日は序章にしか出てこないBianca Lechevalierの論文を少しチェックした。邦訳だとレケバリエと訳されているけどルシュヴァリエじゃないかなと思った。この人の講演とか音声がないので確認できないのだけどフランスの神経学者としてマーク・ソームズと一緒に書いたものもあるらしいのでたくさん出ているソームズの動画をチェックすればLechevalierの名前も出てくるかもしれない。名前はできるだけそれに近い日本語にしたいと十川幸司先生が言っていた。大事だと思う。この本で参照されている。論文は二本あって、一つは2003 The 7th Annual International Frances Tustin Memorial Prize “Autistic Enclaves in the Dynamics of Adult Psychoanalysis by Bianca Lechevalier-Haim, M.D. of Caen, France。受賞論文もここから読める。最後にクラリッセ・ニコイツキー. Clarisse Nicoïdskiの詩が引用されていてそれがとても硬質で繊細な痛みと混乱を表現していて自閉的な世界の描写は厚みよりもこの感じになってしまうな、と辛かった。
この前、ドイツ精神分析協会(DPV)の精神分析家、Bohleber,W.が紹介するアルフレッド・ロレンツァーの論文について少し書いた。そこで紹介されていた論文はLorenzer, A. (2016) Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy. International Journal of Psychoanalysis 97:1399-1414。私の設定でもPEPで読めた。最初に検索したつもりだったのに。自分がなにを考えてその論文にたどり着いたかは私にとって大事なのだけどすぐに忘れてしまうから最初の目的とずれた方向で勉強してしまっていたりする。今回もそれで検索ワードを間違ったのかもしれない。それはそれでいい面もあるけどやるべきことがあるときは本当に時間がなくなるのでいけない。自分のこういうところに不便さを感じる。さて、ロレンツァーのこの論文は英訳が2016年。訳者はPhilip Slotkinという人。元の論文はZeitschrift für Psychoanalyse und ihre Anwendungen, 37:97-115 (1983).ロレンツァーは2002年に亡くなっている。原著はボルバーの論文から私が読み取ったものとはずいぶん違った。巻き込まれることについての記述なんだという印象は変わらないが、症例の提示はないにもかかわらず著者の臨床態度がなんとなく伝わってくるような論文で、理論化に説得力があって、隙間時間を全部使って読んでしまった。著者は最初に語表象と物表象をどう扱うかを示して「物表象とは、(いまだ言語に基づかない)相互作用の記憶痕跡――すなわち、経験された行為の沈殿物であり、未来の行為のモデルである」という。そして「治療者が患者の「遊び」に参加することを基礎として、患者によって提供されるすべての素材を、夢解釈に類似したアプローチによって扱う場面的理解(scenic understanding)は、無意識への王道(royal road)なのである。」という。そして「この方法と対象の「言語ベース」の性質は、精神分析の根本的特性であると同時に、根本的問題でもある。というのも、精神分析における認識対象が無意識であるという事実は、次のような奇妙なパラドクスを生み出すからである。すなわち、精神分析は、言語の外部にあるものを、言語に基づく手段によって探究しようとする、言い換えれば、理解しえないものを理解しようとするのである。」と精神分析が逃れようのない問題を確認しつつ、主にフロイトの著作を引用しながらそのメタサイコロジーを部分的に更新していく。
ボルバーのIntroduction to Hermann Argelander’s paper ‘The scenic function of the ego and its role in symptom and character formation’、ヘルマン・アルゲランダー論文「自我の場面的機能と、それが症状および性格形成に果たす役割」(Argelander, 1970)への序論、と訳せばいいのかな。
昨日はドイツ精神分析学会(DPV)の精神分析家Bohleber, W.の2016年の論文、Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’.を読んだと書いた。アルフレッド・ロレンツァー論文「精神分析的治療における言語、生活実践、場面的理解」の紹介でいいのかな。ここに書いてあることをざっと書いておく。正確な翻訳ではないので原典をご参照あれ。これはロレンツァーの1983年の論考の再録と展開のよう。1922年生まれのロレンツァーはエルンスト・クレッチマーのもとで精神科医として訓練を受けた。無意識の「場面的理解(szenisches Verstehen)」を中心に据えた、新たな精神分析メタ理論を構築した。シュトゥットガルト精神療法研究所およびハイデルベルク大学アレクサンダー・ミッチャーリッヒの心身医学クリニックで精神分析訓練を修了し、その後、ミッチャーリッヒが所長を務めていたフランクフルトのジークムント・フロイト研究所で勤務した。これはBohleberが2013年のIPAジャーナルで紹介している同じくDPVのヘルマン・アルゲランダー(1920ー2004)の経歴とほぼ同じ。ロレンツァーはドイツ精神分析学会(DPV)の訓練分析家であり、1971年にブレーメン大学社会心理学教授、1974年にはフランクフルト大学社会学部に移り、社会化理論の講座を担当した。1991年、病を理由に研究・臨床活動を退き、2002年に死去。
ロレンツァーは1965〜70年にかけて、外傷性神経症、強制収容所生存者のトラウマ、戦争外傷についても独自の研究を行っていたが、その後、主たる関心を精神分析的知の対象・方法・科学的地位へと移した。 1960年代には、ユルゲン・ハーバーマスによる「精神分析=内省の科学」という立場と格闘するが、ロレンツァーはそれとは異なり、精神分析のプラクシス(分析家が実際に何をしているか)を議論の出発点とした。彼は精神分析がそれをどのように理解しているかよりも「分析家が何をしているか」を基盤にメタ理論を構築した。彼の基本命題は、精神分析とは言語の変容に関わる営みであり、それは表象representativesの象徴化/脱象徴化の過程という象徴理論の文脈で理解される、というものである。このメタ理論は次第に異なる象徴形成の平面に位置する相互作用形式」という概念へと展開されていく。ロレンツァーにとって精神分析は、自然科学と解釈学の中間に位置する独自の科学であり、後年彼はそれを「身体の解釈学hermeneutics of the body」と呼んだ。フロイトは精神分析を自然科学の領域に属するものと見なしていたが、彼自身は――暗黙のうちにではあるが、決定的な仕方で――自然科学と文化諸科学とのあいだの境界を廃し、新たな科学のパラダイムを打ち立てた。ロレンツァーにとって、「フロイトへの回帰(Back to Freud)」というスローガンは、自我心理学者たちとは異なり、メタ心理学的立場および欲動理論への回帰を意味する。精神分析の生理学的基盤を保持しつつも、彼はフロイトのいうところの「素朴な生物学主義」とは対照的に、欲動の心身的構造を社会的過程の産物として構想することに関心を向けている。この目的のために、彼は相互作用形式(form of interaction)という基礎概念を展開する。
非表象領域での出来事をどう記述するかという課題がずっとあるわけで(私のというより現代精神分析のかもしれない)、ウィニコット(イギリス)のネガティブ、ビオン(イギリス)の原初思考、アンドレ・グリーンを通じてのボテラ夫妻(フランス)の形象可能性、オラニエ(フランス)のピクトグラム、今回はバロス(ブラジル)の情動的ピクトグラムと読んでいきつつあれこれ考えていた。それでも書き物に用いた臨床素材について記述するにはまだなにか足りないと思っているところに今回出会ったのがドイツの精神分析家、Bohleber, W. (2016) Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’. International Journal of Psychoanalysis 97:1393-1398。2020年9月のIPA Off the Couch、Episode 66: Otherness, Anti-Semitism and Psychoanalysis with Dr. Werner Bohleberで声を聴くこともできる。2007年のSigourney Award Winnerでそこでの紹介を訳すとこんな感じ。
IPAの精神分析家になって、世界中の精神分析家と精神分析を取り巻く環境が身近になって、そこには常に戦争が関わってきたし、現在もそうであることを実感するようになった。IPAの中にも当然分断があり、議論も対話の場はあるがそこでの困難もきく。日本には日本の課題もあるが、世界に目を向ければもう少し別の対話が可能というか必要ではないか、と思いつつ、自分が属する場所は大事なのでそこにいる。組織に入り、国際的な学会にでることで世界の精神分析家が背負ってきたものの重みは増した。本の読み方も変わった。創始者フロイトがユダヤ人であることはもちろん、ナチズムによって亡命を余儀なくされた多くの分析家の移動によって精神分析は多様になったが、移動しなかった、もしくは戻ってきたら、あるいは母国にいながら沈黙を守る必要があった精神分析家たちもいる。ドイツの分析家たちがまさにそうかもしれない、など考えながら読んでいたら同じBohleber W. (2013)が間主観性について The Concept of Intersubjectivity in Psychoanalysis: Taking Critical Stockという論文も書いており、これはまだ途中だが、大変よくまとまっているので参照していきたい。
今朝はなんとなくAndré GreenのClinical Thought/POUR INTRODUIRE LA PENSEE CLINIQUEの試し読みを読んでいた。これ英訳がないのに、なぜ英語の題が併記なのだろう。実は英語訳あるのかな。この前ここにも少し訳を載せた Green, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71. と似たような内容がこの本には載っていそう。「臨床的思考」という用語でその他の思考との違いを明確にしていく感じかな。前提として精神分析の特異性が語られている様子。たとえばこんなところから。
昨日は事例検討会もミーティングもあり私なりに頭を使って疲れた。先日MacのPagesで訳したアンドレ・グリーンのGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71.をWordファイルにしてOneDriveに保存してからWindowsパソコンで開こうとしたら見当たらず。ほかのファイルも破損しているから開けないとかいう表示がでた。私はこんなに長くMacでOneDriveを使ってきて、なんどか同じ事態になっているのになんとかなってきてしまったことでなにもしてこなかったのだな、とMacとのさよならが近づいてきている今になって反省してちょっと調べたらすぐ対処方法がでてきた。対処方法以前の私のわかってなさの問題という気もしたがとりあえずよかった。このMacがまだ新しかったころにOfficeをインストールしたのだけど相性が悪かったのかフリーズしてばかりでapplestoreでもそういわれるばかりだったのでpagesばかり使ってきてしまったのだ。学会発表とか原稿でWordファイルを求められるときはオフィスにあるWindowsのパソコンに送って手直して出していた。すると文字数が結構変わってしまったりして、常に時間も文字数もぎりぎりで書いているので大慌てということもよくあった。にもかかわらず、と話ですね。Macとはお別れしがたいたけどそういうめんどくさいことがないようにWindowsのパソコンを買ったし、作業はそちらに統一していかないと。
昨日、使用したのはANDRÉ GREEN “Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)の英訳版。NEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊で “The Fabric of Affect in the Psychoanalytic Discourse” 。これも英訳はAlan Sheridan。情動の観点からフロイトの著作を簡潔に紐解く手捌きは鮮やかで、今回は『草稿G』(1895) 『心理学草案』(1895)について書かれている箇所を読んだ。『草稿G』については前にもここで書いたがメランコリーについて書かれたもので『喪とメランコリー』を読む際は参照してもいいと思う。『心理学草案』についてアンドレ・グリーンはこう書いている。
さらに、なにのために読もうとしたのか忘れたが昨日はなんとなくGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understandingも読んだ。そしたら私がここでたまにぼやいているようなことがきちんと精神分析の危機として書かれていた。書くならこのくらいの熱量で書かないといけないのね、と思いながら読んだ。