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精神分析

梅、アイデンティティ

薄いピンクに光が満ちてくる。きれい。春の太陽。

少し前にみにいった梅園をもう一度見に行ったら満開を過ぎていた。少しだれた華やかとでもいうのか。お手入れしなくても美人は美人というのか。きれいとキョロキョロ歩いてたら知らない人に「富士山はみた?」とニコニコ話しかけられた。「いまからです」というと笑っていた。美しいものは平和と繋がってる。夕焼けに浮かぶ遠くの富士山もとてもきれいだった。

昨日はフランス精神分析の祖、ラカンの初期、エクリの最初の方に載っている鏡像段階の論文に関連してコレット・ソレールの年次セミナー2014-2015“Vers l’identité”の英訳を読んでいた。ソレールはジャック・ラカンに直接師事し、ラカン派精神分析をリードしてきた重鎮。動画で彼女の姿も語りも見ることができる。『情動と精神分析』“Les affects lacaniens”の全訳の書評を書いたときに著者Colette Solerのもっと基本的なものをと思って読み始めた。書名は“Towards Identity in the Psychoanalytic Encounter
A Lacanian Perspective”

訳者による序文の一部。

“Translation of any kind is rooted in optimism,
(中略) Sustained by this optimism, week after week for almost three years, the members of the Cartel met to engage with the text and to … make it speak English!”

精神分析の文脈におけるidentity とidentificationの区別から始まるこの本、自由自在に講義するソレールの声が聞こえてくるよう。ソレールはラカンと強く同一化しながら彼の理論を救いつつ他者との同一化をそれまでの精神分析とは全く異なる形で論じ、プチラカンを作らなかったラカンの教えのせいかそこから逃れる方向にもいっている。ラカンの鏡像段階は出発点となる重要論文。数年前にエクリを読む会に出たときはこれが取り上げられてなくて、でもその時に英訳を買っていたので自分で読んだ。これはアーネスト・ジョーンズが会長だった1936年、ドイツのマリエンバードで行われた大会で発表されたのが最初で、エクリに収められているのは1949年のもの。

ソレールのセミナーでも当然取り上げられるわけだけどアイデンティティは前期だけで論じられているわけではないからやっぱりラカンに戻るのがいいんだろうなと思う。

やることだらけなのに毎日バタバタだけど少しずつだね。どうぞ良い日曜日をお過ごしください。

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精神分析

マラブー、オグデンを読んだり。

すっきりした夜明け。今日は手首が痛い。高市首相のパフォーマンスがきつい。ひどいニュースが多い。川崎の事件は本当にひどかった。

昨日はポンプタイプを使っているハンドクリーム「アトリックス」が濡れた手に馴染ませてそのままサッと流して使うとしっとりすると聞いた。そうなのか。全然知らず普通に使っていた。今日は手を拭く前に塗ってみよう。昨年から肌の状態が一気に変わったのでこの冬はいつもよりがんばってハンドクリームを塗っている。そのせいかキレて痛いということが少ない。当たり前なのだろうけどケアが大事。

先日から『泥棒! -アナキズムと哲学-』 カトリーヌ・マラブー 著 伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子 訳(青土社)を読み始めた。そんなことしている場合ではないが、アガンベンのことも書いてあるし、今の作業に役立つかもだし、哲学はいつだってヒントをいっぱいくれるから趣味として。通勤時間に少しずつ読んでいるので全然進まないが面白い。第2章のアナーキーとアナキズムの違いもそうだったのかと。アナーキーは原理(アルケー)の不在、で、アナキズムは・・・なんだったか、見直さないとわからないが、マラブーは可塑的な力として論じる。支配に対する態度の一つとでもいえばいいのか?最初にしっかり取り上げられるのはアリストテレスの『政治学』。ここだけですごく勉強になる、というか思ったよりずっと読みやすくて短時間でも没頭できてしまう。で、まだ私はその章にいる。「統治されざるもの」は「統治しえないものではない、という言葉が心に残る、というか、ここを出発点にしているのか?まあとりあえずちょこちょこ読み進めよう。当然、フロイトの引用もあるので。

昨日は原稿を書く時間はなかったがオグデンの「自閉ー隣接ポジション」の論文が入っているThe Primitive Edge of Experience by Thomas Ogden(1989)の 3.The Autistic-Contiguous Positionを再読した。これも部分的に訳してあるが訳の整理をしていなかったのでさらに部分的にしか見つからずだったがオグデンの英語は読みやすいし、用語自体は英語で押さえておいた方が他の論文を読むときにも楽、というか私が修正しているのは英語論文なので、このまま引用すればいいから英語で読んでしまった方がいい。精神分析におけるautisticという概念を心の体験様式の基盤に据えて思考することが必要な時代だと思うし、精神分析が初期に自閉症を捉える際にした失敗は繰り返してはいけない。別のものを同じ言葉で捉える、つまりすぐに似たような言葉で置き換えずとどまり続ける試みこそオグデンの大きな貢献だと思うので、というか私はオグデンのそういうところに力をもらっているので引用しながら自分の考えを提示できたらいいなと思う。

ということで今日もいいことありますように。まだ空にピンクが残ってる。元気に過ごしましょう。

西新宿
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フィギュア、みかん、原稿

今朝の夜明けも雲が多いかな。きれいな青。フィギュアスケート女子シングルフリー、みんな衣装が素敵。中井亜美の衣装は音楽に合わせてフェリーニ『道』のジェルソミーナだった。悲しく切ない愛しいジェルソミーナ。中井亜美のジェルソミーナはとてもかわいらしかったね。

今朝はリフェンリのケークマロン。東急世田谷線線松原駅のそば。京王線下高井戸駅からも歩ける。世田谷線は2019年に50周年を迎えたらしい。街歩きマップもあるし、お散歩に人気の路線。路面電車とか歩く道と高低差のない駅や電車はいい。気持ちが穏やかになる。満員じゃなければだけど。都電荒川線のあらかわ遊園に行きたいな。こじんまりしたところはこじんまりさ自体が楽しい。

二月はいろんな種類のみかんを食べている。今日はデコポン。かわいい形だねえ。農家さんもいろんな工夫を凝らしてその土地だけのものを作っていく。色々食べたいな。

原稿が書けなくて少し提出期限を延ばしていただいた。そもそも書き方をわかっていないという気がする。でもすごく勉強になっている。いいものにできたらいいな。時間がほしい。

坂本花織銀メダルか。この若さで引退かあ。この若さでいいものを次世代にたくさん残した人ですよね。すごい。私はあのスピードとパワーが大好き。みんなすごい。

今日もいいことありますように。

初台から新宿パークタワーと都庁方面
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精神分析

大変なことだ。

夜明けが早くなった。今日の東京の空はとてもきれい。

昨晩のオリンピックも色々でしたね。それぞれ本当に強い思いを経験するんだろうなあ。大変なことだ。しかも映像で何度も同じシーンを体験させられる。大変なことだ。精神分析をしていると人間がいかに他人からの言葉を素直に取り入れることができないかが本当によくわかる。もちろん私も精神分析を受けることで受けなかったら絶対に気づけなかったであろうレベルで体験した。最後の方はどんな気づきも面白かったし、防衛的にならずにいられたけど最初は辛かった。これはどんな人でもそうだ、ということは経験している人にはほぼ伝わるだろう。頭でちょっと気づいていてもそれを他者と体験することは全く別。そうやって別の何かと出会っていくことに時間とお金をかけられる人はそんなに多くないけど私は結果的には良かったな。とかなり時間をかけないとその意義は掴みにくいかもしれない。というより、自分が気づいていなかった自分と出会う衝撃を体験すればするほどその意義には気づくのだけどその作業から逃げたい気持ちもものすごく強く体験させられる。防衛とはそういうものだし、精神分析が外傷的に作用するとよく言われるのもそれと関係している。何度も何度もこれまでの自分を体験させられ、そのたびに強く揺さぶられる。それは耐え難い不快さを伴う。精神分析の作業がなされるまで、あるいはなすことが困難な場合は身体の症状が出たり、日常生活でのうまくいかなさが増すこともよくある。いいことなんてひとつもないではないか、と思いながら、苦しむ場合も多い。それ事態に対する予測はかなり初期で共有されるのも特徴的だろう。人はこうなるものだ、という理解はわりと普遍的なものだと思う。でもその強度はものすごいのでどれもプロセスとして生じると知りつつも辛い。精神分析家の方もその場で起きていることを意識的には理解しつつも自分をコントロールできないことを感じながらなんとかそこに留まり続けなければならない。その人が生きてきたやり方に触れるわけだから何が起きるかを身をもって体験していないとかなり難しいだろう。体験していないからやれてしまっているような二人になる、ということも頻繁に起きるからまた難しいし、精神分析を受ければ絶対体験するものでもない。その前にやめてしまう場合も多いし、予測される体験を避けるために何度も何度も同じことを繰り返し、何も変わらないし、変えたいとも思わないとなる場合だってある。なんて書いたところで精神分析状況で生じるものすごい複雑で矛盾だらけの出来事、あるいはそれらをまるっきり単純なもので覆う動きは身体全体で感じていくものだから伝わるような表現は難しい。オリンピック選手がまず自分でこの場に立って同じ経験をしてから言ってほしい、というのはよくわかる。が、自分の言葉の外側で何かを言うってほぼ不可能。それを超えていくなら境界を曖昧にするリスクを背負うことになるし、そのためには・・・という循環が延々続く。大変なことだ。でもみんなそれぞれがんばろう。どうぞ良い一日をお過ごしください。

新宿中央公園。ピント合わせが難しい形態。
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身体、言葉

曇ってるのかな。夜明け前の空はぼんやり。今朝もオリンピックをつけながら作業。中井亜美すごい。オリンピックとは思えない軽やかさ。やっぱり上にメダリストがたくさんいる強いチームにいるっていうのは力になるのかな。安心かも。グループとしていろんな意味で強いって下の世代には大事。私は連日、現役かどうかにかかわらずオリンピック選手たちの言葉に感銘を受けている。とても正直な印象を受ける。怖さを感じるかと聞かれればあっさり「怖さしかない」とか。そりゃそうだよな、とストンと落ちることをものすごい現場からいわれると明るい気持ちになる。防衛的になればなるほど言葉は実感や現実から離れていく。身体をかけて戦う人たちに防衛している暇などないか。言葉ばかりの世界にいるからそこになにか隠された情緒があるような気がして他人に悪意を向けたくなるのかもしれないな。言葉はどんどん事実をややこしく変えていく。身体を上手に使えるようになりたい。私は嫌なことは筋トレ前に一気にすませたりする。それとは違うか。でも、きつい、無理、死ぬとかいいながらチャレンジしているうちに頭がからっぽになる。疲れてなにも考えられなくなるけど集中しないとバランスも保てない。身体に集中する時間って本当に大事。メンテナンスのための地味で地道な筋トレだけどちょっとしたアスリート(?)みたいなメニューをこなせるようになっている。最初はどこの骨や筋肉を動かしているかも自覚できないままひたすらきつかったけど今はだいぶわかる。ヤンキー座りもだいぶできるようになってきた。ヤンキー座りができるということは足首柔らかいということ。私はかたいんだよねえ。転びやすいしけがをしやすいのはキョロキョロ落ち着きなく動くからというのもあるけど。だから身体全体のことを学びつつここを鍛えるとこっちの可動域も広がるわけね、なるほどねー、と学べるのはいいこと。擬音語をいっぱい使いながらやっている。この前はピストルスクワットなる片足スクワットにむけて手すり付きで片足スクワットをした。久々に結構な筋肉痛になった。

さあ、今日がいい日になりますように。

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オリンピック、明治神宮

また早朝からオリンピックを見てしまっている。スキージャンプ男子スーパー団体、雪で中断。たしかにすごい雪だった。それでも観客のみなさんは盛り上がっていた。寒いだろうに熱いのだな。そしてフィギュアスケートペアフリー。りくりゅう完璧。結果どうなるかな。みんな衣装素敵。デザインする人も楽しいだろうねえ、これは。フィギュア男子のマリニンの衣装もすごかった。あれが似合う人がいるんだからすごいことだ。私はフィギュア団体のマリニンの後半の演技に度肝を抜かれた。失敗したあとにあれだけ迫力ある演技ができるのか、と思った。おー、りくりゅう、金メダルか。最高の演技でとれるのは本当に嬉しいね。ドイツのペアは衣装も雰囲気もとても素敵だった。

先日もらった日本野鳥の会の「別冊ユリカモメ 生物多様性特集」で「月例明治神宮探鳥会で会える生き物たち」を読んでいた。毎日のように歩いていた日々ではなくなったが、歩いていた頃に知ってればなあ。とはいえ私のオフィスは明治神宮の西参道にあるのだからお散歩にいけばよいのだ。なんとなく用事ついでに新宿中央公園を通って新宿に出てしまうのだが。明治神宮の森はオフィスの窓からきれいに見えるので季節の移り変わりがよくわかる。冊子にも書いてあったけど落ち葉の季節が2回あるね、明治神宮。初冬と春。ナラ枯れのせいでクヌギやコナラの大木が倒れて日当たりが変わって地面の環境も変わり、木々や虫たちの状況も変わっているとのこと。池が干上がるとか、本当に少しずつ見える形で心配なことが増えてきているよね、きっと。青森に旅したときに地元の人たちから聞いた「はじめてクーラーを買った」とかとれる魚が変わってしまったとか生活の変化を直接に聞いたときも本当に恐ろしくなってしまった。

今日は雨は降っているのかな。昨晩は結構降っていた。久しぶりに強めの雨の音を聞いた。今年はすっごく寒い日は少ないけどまだ冬みたいな日もあるから身体大事にして過ごしましょう。

メジロがちっちゃく鳴きながら梅をツンツンしていた。
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散歩したり。

朝の空のピンクはきれい。昨日の昼間は暖かった。今日は昨日ほどではないのかな。

あまり高低差のない埼玉の山をふたつ登ったというか散歩した。埼玉はほんと平野。関東平野。お隣の群馬はあんなに山に囲まれてるのに。東武東上線と八高線を乗り継いでその町にひとつしかないという駅を降りてしばらくは舗装路を歩いた。工場が多くてほとんど人がいないせいか鳥たちが賑やかでカワラヒワと思しき鳥の尾がきれいだった。ようやく土の道に出たと思ったら延々竹藪、ではないな、ある程度整備された竹の道を延々歩き、一つ目の到達点の峠へ。武将たちの思いが今の人をも熱くするらしくそこまで誰にも会わなかったのにそこだけ歴史を語る私くらいの年齢の人たちで盛り上がっていた。私たちは再び雑木林へ。街中では紫の小さなホトケノザや梅が咲いていたが、ほとんど花と出会わず。小さな山の公園の見晴台に着いたら大きな声で話す老婦人たちが煙草の煙をはいていてびっくりした。「火気厳禁」の表示の目の前で紙たばこかあ。慌てて隠してたけどこうやって山火事って起きるのかもなあと思ったりした。中学生じゃないんだからさ、とちょっと呆れた。公園には犬を連れた老夫婦や双眼鏡をぶら下げたカップルやなんとなくこっちきてみたみたいな若者とかいたが老年期の方が多かった印象。みなさん杖つきながらよく歩く。山登りというほどの高低差はなくても普通の散歩よりはずっと山道に近いのに。そのあといくつかの施設でのんびりして結局3万歩以上歩いた。帰りの電車はほぼ寝てしまい、帰ったらちょうどやっていた大河ドラマで途中からのくせに号泣した。昨晩締切の俳句をウトウトしながら作って送信したがあまり記憶がない。結社誌がオンラインでの投句になったのはありがたい。紙に清書する元気は残ってなかったからもしそうだったら今回は投句できなかったに違いない。そして今朝、メールをチェックしてひとつ用事を忘れていたことに気づいた。あー。

色々頭がこんがらがっているがやらねばならぬことばかり。がんばろう。よい一日にしましょう。

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オリンピックとか学術大会とか。

雲は少なそうなのに夜明けらしい空はみられなかった。

昨晩、色々終えて「長い一日だった・・・」と思ったけど時刻的にはいつも帰る時間と同じだった。内容がいつもと違うだけで感覚が全然違う。保育園の巡回から帰る電車が本数ないのに少し遅れておりギリギリでオンラインのミーティングにでて、読書会を終えテレビに戻るとアルペン男子大回転をやっていた。冬季オリンピックでブラジルが金メダル。選手は海外でトレーニングを積んでいるのだろうけど国というのはやはり大事なのだね。自分を規定するものは全て大事だよね。逃れようのないものとして、という意味ではなくて思考の体勢を作っていくうえで。外側から押し付けられるものであれ、自分で掴み取るものであれ。そこで自分は、そこからさらに自分は、と悩む。精神分析の文献は大体海外のを読んでいるけれど両親の国籍とかユダヤ系ドイツ人のようなルーツの記載や移民という単語はよくでてくる。やはりそれらは文脈として非常に重要となる。オリンピックに出るほどの選手の言葉もまた、私が一生経験しないような状況から生みだされたもので胸打たれることが多い。その国の人として出ることの重み。少ない練習場所で一緒にトレーニングしてきたいろんな国のいろんな人、それぞれの背景。違いに思いをよせることでしか生じないリスペクト。同じ言語を話す人同士でもこんなに通じないのに、という体験は誰にでもあるだろう。そういう違いを国名でまるめてなかったことにしないように、私はこうしたい、私はこう思う、私の言葉でいえばこう、といえる関係を育てていく必要がある。つまり自分の欲望と出会っていくこと。たやすく形にならないものたちとまずは出会う場を。精神分析はそういう場を提供できるはずだが現代はそんな能動性を患者のニードに認めるのは難しいのかもしれないし、そういう分析家になりたいと訓練に入る人も少ないかもしれない。コスパ・タイパの時代。

そういえば、そんな精神分析のことを守秘義務をもつ臨床家のみなさんにお伝えする場として、日本精神分析協会第44回学術大会が開催される。会期は2026年6月13日(土)午後〜6月14日(日)。場所は東京都新宿区、JR線、東京メトロ南北線・有楽町線、都営新宿線「市ヶ谷駅」そば、TKP市ヶ谷カンファレンスセンター。協会のウェブサイトをぜひチェックしていただけたら嬉しい。私は今年もパネルと演題をだし、司会も務めさせていただく。豊かな議論のためにがんばって準備するのでどうぞよろしくお願いいたします。

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土曜朝

東の空の細い月がきれい。

スノーボード・男子ハーフパイプ、フィギュアスケート・男子シングルフリーと見ている。戸塚優斗、素人にもわかるものすごいランだった。

あ!俳句作るの忘れてた。いや、覚えていたのだけど明日締切という意識が薄かった。結社誌用とオンライン用。15句できる気がしない・・・。が作るしかない。論文の修正が全く進まず困っているうえに今日は移動も含めて夜中までバタバタ。俳句は移動時間にやろう。

フィギュア最終グループは登場から華やかだな。日本はまもなく夜明け。イタリアは何時なんだろう。

論文の修正が進まないのは自閉スペクトラムの特性に関わる記述がうまくいかないから。ASDではなくてASの。精神分析はパーソナリティの精神病部分と非精神病部分という分類とは別に、メルツァー、タスティン、ビック、シドニー・クライン、アルヴァレズ、オグデンたちが人の心に自閉という軸を取り入れてきた。私はウィニコットを議論の基盤においているけど、ウィニコットの事例を自閉という観点から見直す作業が足りていないせいでうまく書けないのだろうと思う。わかっちゃいるが・・・。うーん。とにかくこちらもあと締切が近い。がんばらねば。

空が明るくなってきた。うすーく水色とピンクが広がってる。今日は昨日より暖かくなるのかな。とても花粉を感じる・・・。河津桜がかわいく咲き始めていた。今日も無事に過ごせますように。

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橋本多佳子の俳句とか。

今朝も雲が多い。スノーボード女子ハーフパイプ決勝もすごかった。解説の人がいちいち日本を強調しないのがいい。すごい人たちが普通に讃えられる世の中でありますように。

昨日、橋本多佳子全句集(角川ソフィア文庫)をパラパラしたら「淡路島」という題を見つけた。

一夜の島月下の石蕗の花聚まる

海より雨激しくよせる石蕗の花

など6句。秋に行ったのね、きっと。淡路島はコロナ禍で出かけられなくなる前に最後に旅したところ。この前、長いお付き合いの美容師さんから淡路島に行った話を聞いた。同じときに私は渦潮の向こう側、徳島の鳴門にいた。渦潮は淡路島からの「うずしおクルーズ」の方がおすすめだな。船だから当日にならないと予定立たないかもだけど。

橋本多佳子は中村汀女・星野立子・三橋鷹女と並ぶ“四T”といわれる俳人のひとり。この句集と橋本多佳子については前にも書いた気がする。最近、私が大好きなイラストレーターの霜田あゆ美さんが装画と挿絵を描いている宮崎智之編『精選日本随筆選集 歓喜』が出た。このアンソロジーにも橋本多佳子が登場。短編「椎の実」が取り上げられている。

「淡路島」と題された俳句の手前にちょうどこの短編で書かれた一句があった。

椎の実の見えざれど竿うてば落つ

自分は淋しがりといわれる。言われてみればそうかも、と書いていくうちにやっぱり全然そうではないかも、となる話である。人はひとりでも空虚や孤独ばかり体験するわけではない。歩けば出会うものたちへの気づきに満たされていく様子が明るく書かれたこの作品は確かに「歓喜」という題にふさわしいのかもしれない。小さな歓喜。小さな椎の実がもたらすものと似たような。

今日は早くも金曜日。びっくりだびっくりだ。いい一日になるといいね。東京の空はまだ曇ってるけどこれから晴れるみたい。がんばろう。

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鳥吟行

よく寝た。曇が多いが少し明るくなってきた。

昨日は雨の中、リュックの上からもらったレインコートを羽織り、借りたNikonの双眼鏡をぶらさげ、野鳥観察へ行った。自分で推し活用双眼鏡(と書いてあった)を持って行ったがプロ仕様のを使わせてもらえて嬉しかった。100円ショップのレインコートもとても助かった。装備って大事。おかげで大好きな鳥さんたちを快適に観察できて楽しかった。一応、吟行で訪れたのだけど、春の季語になるような鳥さんたちには全然会えず。気温も低かったし、花は椿くらいだったので春の季語でなくてもOKということだったけどみなさんしっかり早春の探鳥吟行を俳句にしていた。同じ結社のみなさんともとても久しぶりにお会いできて、みなさん相変わらず面白くて俳句も素晴らしかった。枯れ木のてっぺんに気高く佇むミサゴ(鶚、季語だと冬)とかとてもきれいな模様のアカゲラ(秋)とかちっちゃくてまんまるいカイツブリ(鳰、冬)とかみんなに教えてもらいながらいろんな鳥を見られた。カイツブリは春になると背中に赤ちゃんヒナを乗せて泳ぐ姿がとってもかわいいんだって。もう春なのに、とぼやきつつ、いかにもヒナが乗りそうな平たい背中を愛おしく思った。

昨晩、メモしておいたことを書こうかなと思ったけど時間がないよ。今日は月曜日ではなくて木曜日。昨日、今週も大河ドラマやってないのか、と思ったら水曜日だった。みんなも気をつけて。間違えないか。良い一日になりますように。

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ピクトグラムとか。

空に青が増してきた。フィギュアスケート男子シングルショートプログラムを見ていた。みんなすごいな。衣装も楽しい。

先日グループで読んだバロスの私訳と私見をもうひとつのブログに載せた。いろんな論文を読んで、これはいまいち、とか色々あるがIPAのジャーナルに掲載される水準の論文はかなりハイレベルと考えてよいと思う。自分で読んだときにいまいちと感じても読んでおいて良かったと思うことの方が多い。なにより編集委員が優秀。彼らの査読を経て掲載されているのだからそりゃそうだなのである。昨日の帰り道、言葉の変容についてあるアイデアが浮かんだ。バロスの論文も思い出した。バロスは言葉とイメージの距離が近いのではないかと考えた。というより、言葉をそのまま言葉として捉えすぎではないか。言葉にもいろんなレイヤーがあって音だけ聞けば言葉として受け取ることもできるが、全く意味を成していないものもあるし、相手からの言葉なのにその部分は剥ぎ取って自分の気づきとして語られる言葉もある。しかも何度も、新しい気づき、として。そんなとき、いかにその言葉を受け入れ難いかということを感じる。オラニエはピクトグラムを精神病の患者との仕事から生み出した。どんな病態の人と出会っているかで同じ言葉でも意味づけは変わる。オラニエがいうピクトグラムとバロスのいうピクトグラムは異なるだろう。オラニエからしたらバロスのいうピクトグラムは言葉であってピクトグラムではないのではないだろうか。それは物語へ向かう言葉であって、わからないものをわからないままにしておける言葉ではない。神経症かパーソナリティ障害の描写であればそれも可能だろう。

今日は鳥を見にいくんだ。受験生たちの結果も気になる。世の中には競争が多いが結局は自分とどうやってやっていくか。相手とはどうやっていくかというより素直に関わっていけたらいいのかな。いろんな気持ちに正直でいられるような環境を自ら壊すことなく、大切に、自分を蔑ろにする環境にはNOといいがんばっていきましょう。

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お菓子、王様

今朝の夜明けは雲が多かったが月は明るかった。今日は10度超えるみたい。ここ数日寒かったものね。

徳島で買ってきたお菓子たちが最後になった。最後は穴吹駅前の日之出本店さんで買った「和三盆のふわっとチーズケーキ」。年末年始ももう遠い。春じゃ春じゃ。

カステラみたいな形をしたチーズケーキ。美味しい。徳島県美馬市穴吹町は「うだつの街並み」で有名。最寄駅は穴吹駅。徳島駅から阿波池田までバスで行ってから電車に乗った。地元のタクシー運転手さんに「潜水橋」(渡れて嬉しかった!)のこととか色々教えてもらいながら四国三郎と言われる吉野川を渡り「うだつの街並み」へ。年末でどこも空いていない通りをのんびり歩いたあと、打って変わって活気にあふれていたスーパーへ。そこの休憩スペースでも日持ちしない地元のお菓子をいただいた。それも美味しかった!帰りは穴吹駅まで吉野川沿いを歩いた。洪水が多かったらしいのでそれを防ぐためか竹林がずっと続く道だった。これは竹?竹に似ている何か?と私が知っている竹とは少し違ったけど竹細工が有名とあったからやっぱり竹らしい。徳島は吉野川に助けられたり困らされたりしてきたのね。私が行ったときは水の美しい穏やかな川に見えた。そして駅前の日乃出本店へ。かわいいお菓子がいっぱいでテンションがあがった。お土産のいくつかもここで買った。徳島は2度目だったけど眉山と阿波おどり会館で阿波おどりを教えてもらったことと阿波尾鶏が美味しかった居酒屋のことしか覚えていなかった。今回は県内に絞って色々回れてようやく徳島の地理が少しわかった。どこに行っても水が本当にきれいで穏やかながらダイナミックな地形も身近に体験できて街の人も気さくで素敵なところだった。

毎日、いろんな人と会っていると穏やかな時間もたくさんあるけど辛かったり重苦しかったり耐えがたかったりする時間もたくさんある。臨床は知的なものに還元できない形にならないものであふれている。それらを形にするだけでなく、そこに居続け、抱えていくのが仕事の基本だと思っている。スーパーヴィジョンや事例検討会でも誰にでも当てはまるような用語を使うのではなく、その人が出会ってきた場面や経験の個別性を大切に立体的に描写できるように協力したいと思っている。そんな毎日の臨床体験のなかで時折思う。人は、百獣の王でも海賊王でもなんでもよいから、小さなうちに一度はこの世界を征服してみた方がいいのではないかと。今の政治家たちを見ているとなおさら。彼らはそれを体験してこなかったのではないかと。

ベッドで飛び跳ねながら雄叫びをあげ、ジャングルジムのてっぺんで王は自分だと叫び、小さな手で大きな旗みたいにタオルを振り回し・・・。どうにでもできる!なんにでもなれる!と吠えるように宣言しよう。すごいね、かっこいいね、強いなあ、さすがだ、と大人をひれ伏させ、口々に褒めてもらいながら世界の頂点に立った方がいい。どうしたって叶わないはずの世界できちんとそういう体験をして大人になった方がいい。

子供の頃は本当に唐揚げになれるって思ってたんだよ、と笑う大人に近づいてきた子がいた。唐揚げさえあれば世界が輝いていた頃、自分が唐揚げになってしまいたかった。でもそれは多分海賊王になるより難しいと徐々に知った。そして今は笑い話だ。全てにはなれないが何かにはなれる。こっちがダメならあっちもある。支配や征服なんて今はもうどうでもいい。あの頃はまだ僕の世界には数えられるほどの人しかいなかったんだ。みんなを見渡すことができて、みんなの注意をひくことができた。でも今は世界には見えない部分がたくさんあること、行けない場所がたくさんあること、知らない人がたくさんいることを知ってる。だからひとりじゃ難しい、いろんなことが広がっていかない。だから誰か、と人を求める。そしたらまた支配欲がむくむくと、という場合もある。人間は簡単じゃない。でもできるだけ、せめて論理的になろう。言われたことをそのまま聞き、書かれたものをそのまま読み、見えるものをそのまま見よう。それが難しいからこうなっているんだろうけどね。ああ。難しい。小さな子供たちが小さなうちに王様の体験をできますように。

外は光がいっぱい。みんなの気持ちも晴れますように。

西新宿
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月曜日

夜明け前の空、まだ高いところで半分くらいの月が輝いていた。ミラノ・コルティナ冬季五輪、フィギュアスケート団体、スノーボード女子ビッグエアを見たり、選挙結果を少し見たり。タイも総選挙だったのか。アメリカのフィギュア選手、アンバー・グレンのインタビューを読んだ。苦しい。がんばってほしいが、がんばるべきはグレンではなくて、グレンたちを苦しめる人たちだろう。なんであの若さで、いろんなものを背負わなくてはならないのか。そんななかでパフォーマンスをするグレンはどう考えても素晴らしいが。応援している。

空が遠くまでピンクがかってきれいだった。向かいのいろんな形の屋根にまだ残る雪もピンクに染まった。ほどなく陽がのぼり、そこにくっきりした影を作った。雨も降らず水分不足だった東京は少しは潤ったのだろうか。それにしても眠い。当たり前だが。

昨日はブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeを担当した。ただ訳して読み上げただけだが。主にクライン派の重鎮たちの間でトレーニングを積みながら、その知見の多くを翻訳し、ブラジルに広め、IPAにおいても貢献度の高いバロスだが、日本ではあまり知られておらず翻訳もないと思う。今回の論文は症例の「わかりやすさ」と理論化の仕方にしっくりこないみたいな感じだった。でもそれもバロスのスタイル、とべつの論文を読んで思った。

それにしても眠い。今日もがんばりましょう。

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日曜日

雪少し積もってる。まだ空は曇ってるみたい。まだたまにパラパラ。レースのカーテンも開けておこう。

羽根木公園の梅まつりも河津桜まつりも始まった。雪の中の春はきれいでしょうね。踊り子号乗りたいな。

スノボビッグエアすごかった。鍵山優馬の演技もすごかった。なんであんなステップできてしまうのだろう。ジャンプなんて凄すぎてポカンとしてしまう。スキーには馴染みがあるけど子供の頃は知らなかった競技ばかり。アイスホッケーとかやってみたかったな。今はもうあの小さいパックが見えない。

昨晩は『葬送のフリーレン』を見た。フェルンとシュタルクのデートの回。人の気持ちがわかるってどういうことだろう、と考えた。

さあ、選挙だ選挙だ。足元気をつけて出かけましょう。

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オリンピック、言葉

ミラノ・コルティナオリンピック2026、冬季オリンピック100年なのね。アメリカも日本も酷すぎるし、本当にうんざりしてくるけど、戦争の拒絶を訴えるメッセージがあらゆる人の心に染み渡りますように。

開会式のいろんな身振り、手振り面白かった。言葉だけでは足りないからたくさんジェスチャーがあるとのこと。すごい。昨晩のフィギュア団体、これで引退となる坂本花織の演技に感動した。リクリュウもすごくかっこよかった。アイスダンスの吉田唄菜、森田真沙也組はでリプレイではじめてみたけどハツラツとしてて楽しかった。すごい体力、すごい体幹、と地道な筋トレ人としてはそこにまず感動してしまう。毎回、そういえば今オリンピックなんだ、くらいの興味の向け方だが選手たちにとっては本当に本当に特別な場所なのだろう。誰にとってもいろんないいことが起きますように。

昨日も慌ただしかった。事務仕事に思いのほか時間を取られてしまった。隙間時間に『ブリジャートン家』シーズン4を少し見てしまった。シンデレラストーリーそのものなのがなんか面白かった。仮面舞踏会が本当にゴージャス。お菓子がもう少し見たかったな。まだ主演の女優さんがマスクをとったところにたどり着いていないけど会話のテンポも楽しいし、かっこよさそうなシンデレラ。音楽も相変わらずいい。私はこういうのもなんでも安心して楽しみたいんだよ。平和を。ひたすら平和しか願わない。

全米批評家協会賞のファイナリストに、多和田葉子『エクソフォニー  母語の外へ出る旅』の英訳版 “Exophony: Voyages Outside the Mother Tongue” by Yoko Tawada (tr. by Lisa Hofmann-Kuroda) が批評部門と翻訳部門でノミネートされたとのこと。日本で出版されたのは10年以上前。「エクソフォニー」とは「母語の外に出た状態一般」のことだそうだ。この本は翻訳という行為そのものだから納得だなあ。松尾芭蕉『奥の細道』のドイツ語訳の話とかも面白いよ。

ながら書きしてるとバラバラしたことしか書けないな。今日もがんばろう。東京も雪が降るのかな。すぐに電車止まってしまうから心配。雪じゃなくてもしょっちゅう止まってるけど。選挙結果に先走って絶望しそうだがまずは投票。

今、日本の多くの人は「平和」という言葉を嫌っているのかもしれない。多和田葉子はいう。

「好き嫌いをするのは言葉を習う上で大切なことだと思う。嫌いな言葉は使わない方がいい。学校給食ではないのだから、「好き嫌いしないで全部食べましょう」をモットーにしていては言語感覚が鈍ってしまう。一つの単語が嫌いな場合は、自分でもすぐには説明できなくても必ず何らかの理由があり、その理由は、個人の記憶や美学と結びついている。だから、思いきりわがままな好き嫌いをしながら、なぜ嫌いなのかを人に言葉で伝える努力をしたい。」

ーー多和田葉子『エクソフォニー  母語の外へ出る旅』

嫌い?だとしたらどうして?という対話を続けていくのも平和あってこそだ。どうぞ良い一日を。

道端の春
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シーズン4、クラウス

昨晩の月はそれを覆う雲よりずっと明るく輝いていた。夜明けの空がうっすらピンクがかってきた。きれい。今日の東京は昼間とても暖かいらしい。夜は風が強いみたい。

Netflix『ブリジャートン家』シーズン4が始まっていた。見ねば。今回はアジア系のオーストラリア人のハ・イェリンが主役とのこと。面白そう。

昨日はようやく原稿の修正に取り組めた。1時間くらいしかできなかったけどよかった。最近読んでいたものが元のものと繋がってきた感触があると「このまま地道に取り組んでいけば大丈夫かも」とちょっと安心する。古田徹也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)のカール・クラウスの章は大変勉強になった。

「他の何かの代理・媒体として働く側面のみに言葉の価値を置くならば、たとえば恣意的な文法規則の変更や言葉の置き換えといった「浄化」「融合」などによって、言葉がかたちを成しうる可能性を潰して平板なものにし、そもそも代理・媒体としての役割すら果たせないものに変容させてしまいかねない。そうクラウスは指摘するのである。」

クラウスは詩句を取り上げるけど、精神分析の自由連想、夢解釈における言葉の使用はまさにこれだ。先日読んでいたブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeに出ていた症例を思い出す。言葉を使うことで心の世界が大きく動くように発語は常に喚起的だ。分析家はときにそれを初語のような驚きとともに受け取るし、何より本人が自分の言葉の使用に驚くプロセスが必ず起きる。やっぱり面白い。

今日も作業を少し取り組まねば。まだ空がうっすらピンク。雪国のみなさんが安全に1日を過ごせますように。

いただいた!鳥かわいい♡
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精神分析

グロットスタインとか隙間時間にやったこととか。

今朝も空がきれい。昨晩、オフィスを出て月を探すと月自体は見えなかったが居場所はすぐにわかった。雲越しでも十分明るかった。今日も晴れみたい。あまりに雨が降っていないけど大丈夫だろうか。雪も雨も人間が対処できるくらいちょうどよく降ってくれないものだろうか。

今回の選挙はそれを強行すること自体が人の命を危うくし、ぎりぎりのところで踏ん張っている人たちをさらに追い詰めるものであることは大体の人が共有していると思う。でも、だから、とはならないのも人だろう。だからこそ、今こそ、とわざわざ自分たちの生活を脅かす人たちに投票する人はこれまで通りそうなのだろう。そうする理由なんていくらでもつけられる。期待なんていつまでだって持てる。その間に自分が脅かされさえしなければ。いや、脅かされても脅かしているのはその人たちじゃない、と自分に嘘をつけるなら。幻滅しないためなら人はいくらでも力を尽くす。精神分析は幻滅のプロセスに入ってはじめて動きが出るといっていいと思う。もちろんそれまでの長い長いプロセスあってこそだ。人は今の、今までの自分を手放すなんてできない。その仕方だってわからない。だから相手を求める。でも触れられれば抵抗する。頭ではごく当たり前のこととわかるのに、いざ自分にそれを言われると激しく動揺する。自分は間違っていない、と何も言われていないのに言い募ったりしてしまう。思わずしてしまう動揺に委ね、考えるなんてできない。人はどこまでも今のままでいることに安住しようとする。たとえそれがどんな環境でも。自分と相手の重なる部分を増やしながら、助け合いながらやっていくのが一番安全なはずなのに。いかに自分が人を受け入れていないか、いかに自分が自分を正しいと思っているか、そういう疑いにどこか怯えながら表面だけ取り繕うことにエネルギーを割き続ける。それがどんなに不毛だったか、そしてそれがどんなに必要だったかを実感するのは意外と外側の事情でどうにもならない事態が生じるときだったりする。精神分析プロセスにおいては本当に不思議なことにセッションの動きとそれは重なる。本当は不思議ではないけど、全て相互作用だから。何が起きても何も感じない人はいるわけだから、今、現にこうして。

昨日は、私の中でいつも気の利いたこというおしゃれおもしろ紳士みたいな位置付けになっていたJ.S.グロットスタインを知るべくいくつかの文献をざっと見た。アメリカの精神分析家ローレンス・ヘッジズ(Lawrene E Hedges)のWorking the Organizing Experience: Transforming Psychotic, Schizoid, and Autistic States.の序文もそのひとつ。まあ、鮮やかな・・・。グロットスタインはそこで組織化(organizing)という用語をヘッジズ(1983)に由来し、彼自身によって精緻化されたもの(Hedges, 1992)として、その概念をとりまく主要な理論を的確に軽やかに紹介していく。ヨーク(Yorke, 1986)、ストロロウおよびアトウッド(Stolorow & Atwood, 1992)における早期の組織化体験、ビオン(1962, 1963)の「乳児的破局(infantile catastrophe)」、ウィニコット(1952)の「存在し続けることの失敗(failure to go on being)」、マーラー(1952, 1958, 1968, 1972)の「消滅不安(annihilation anxiety)、タスティン(1966, 1972, 1980, 1981, 1984, 1986, 1987, 1988, 1989, 1990)そしてグロットスタイン自身(Grotstein, 1990, 1991)の「ブラックホール不安(‘black hole’ anxiety)」、パーソナリティの「早熟な閉鎖(precocious closure)」、それと対応するバリント(1968)の「基底欠損(basic fault)など。

そして乳児の能力に関してメラニー・クライン、スターン(1985)、サボツキー(Subbotsky, 1993)、シェア(Share, 1994)、バウアー(Bower, 1974 および私信)の乳児研究を紹介し、

「スターン、サボツキー、シェア、バウアーが明らかにしているのは、乳児の生において、体験や知覚が心的表象や記憶として符号化されない、あるいは符号化不可能な時期は、存在しないかもしれない、という点である」とまとめる。そしてReturning now to Hedges’s work, とさらっと戻る。どこからの球も軽やかに受け止め、鮮やかに打ち返せるのは博識なのはもちろん、私くらいの人でもいろんなところでその「私信」を目にするという印象を持つほどの対話の幅広さではないだろうか。

さらに昨日は隙間時間に岡本源太さんのnoteで公開されている講義を聞き、岡田温司『増補 アガンベン読解』を開きつつ、引用されている箇所を味わった。短いから隙間時間にちょうどいい。そして言語が形をなすことについて考えるために古田徹也『言葉の魂の哲学』も同時にパラパラした。九鬼周造の「いき」の議論と土居の「甘え」の議論を言葉の使用という側面から考えることも同時にした。隙間時間にやることはどんどん忘れていくのでこうやってメモっておかないと。あー。哲学の勉強をもっとしたいが時間が全然ない。今考えていることに絶対豊かさをもたらしてくれるのに。

まあ、できることを地道にやろう。積み重ねは信頼できる。もう週も後半。焦るががんばろう。いい1日になるといいですね。

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精神分析

立春

立春。日の出は6時39分。まだ暗い。暦の上では今日から春。「立春大吉」も季語。どこかにお札貼ってあるかしら。

立春や月の兎は耳立てゝ 星野椿

月も毎日きれい。オフィスを出たときは少し欠けた月がとても明るかった。帰宅する頃には雲に隠れていたけどそこだけ明るくてすぐにわかった。へたっぴかくれんぼ。ちっちゃい子のかくれんぼって本当にかわいくて見つけてないふりをするのもとても楽しい。ハイハイができるようになった赤ちゃんだと本人隠れてるつもりがあるのかないのかわからないけどあっという間にとっても上手に隠れてしまう。カーテンの向こうとかに。そういうときはこっちもちょっと必死。見つけるとニコニコしたり泣いちゃったりするけどどちらにしてもこちらは安堵。

昨日はビオン経由でフェッロとチビタレーゼのThe Analytic Field and its Transformations By Giuseppe Civitarese, Antonino Ferro Copyright 2015を読んでいた。若いときにラッカーを読んでいたらバランジャーを読むといいよと妙木先生に勧められてはまった。が、フェッロにはあまり興味が持てずなんとなくフィールド理論を読まなくなった。最近、私より若い世代がフィールド理論の翻訳をしてくれているので興味を向ける人が増えているのかもしれない。私が読んでいたのはGiuseppe Civitarese, Antonino Ferroが二人で書いてきたものの論文集のような一冊。読みながらなんとなくフィールド理論に乗れなかった理由がわかった。ビオンを自分でたくさん読むようになったからだと思う。勉強しつづけるってこういう発見があるからいい。この本のChapter 8 A Beam of Intense Darkness: a discussion of the book by James Grotsteinは貴重。日本でグロットスタインがどれだけ読まれているのかわからないけど私が読むような本には大体登場する。「私信」という形の引用が多い気がするのは気のせいなのかな。フェッロとチヴィタレーゼはこの「ビオンおよびBFTモデルを理解するうえで不可欠」ということでグロットスタインの主要論文を書評する形式をとっている。が、グロットスタインの主要な論文を自分で読むのもいいと思う。私がフロイト、ウィニコットはもちろん、グリーンとオグデンが私がなにかを論じるときの基盤なのだけど、グロットスタインは彼らにもよく引用されている。でも邦訳がない(と思う)。なんでだろう。たくさん書いているし、ビオンを臨床と接続させるにはとてもいいと思うのだけど。ビオンだけに取り組んでもなかなか実感湧かないと思うし。pepによると一番引用されている論文として上位に来るのはGrotstein, J. S. (2004) The seventh servant: The implications of a truth drive in Bion’s theory of ‘O’. International Journal of Psychoanalysis 85:1081-1101。これそんなにややこしくはないけど長い。ここで著者が提案するのは題名にあるとおり「真理欲動」。truthの議論は難しい。「真理欲動は無意識的意識unconscious consciousnessと協働して機能すると仮定されるんだって。精神分析に関心のない人はもうこの辺でなんのこっちゃだと思うけど、こういうことを細かく考えるのが好きで、そうしながら精神分析に使う言語が作られていくと考える私にとっては面白いんだな。学び合い。

今日も長い。春を感じつつがんばろう。

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節分

夜明けの空がとてもきれい。昨晩は月もとても明るくて四方八方に光の筋を尖らせていた。日曜日は郊外からの車窓に大きな月を発見。冬の月は低い位置にあってもそんなにおどろおどろしくないのね。

さて、2月4日は立春。ということは節分は今日。冬と春の分かれ目。節目だから節分。意識していたわけではないが週末に豆を買った。店構えが魅力的でお煎餅やさんと思って入ったら豆菓子屋さんでこの時期らしくさくら豆が推しとのことで買った。ほかのも試食させてもらった。豆はどれもおいしいよね、という感想になってしまう私は季節のおすすめに従うのが吉。ピンクのお豆、珍しいし。いろんな美味しそうな豆たちが並んだ数段の棚の一番上には阪神タイガースグッズがたくさんあった。大ファンなのかと思いきや、最初は隅っこに少し置いていただけなのにお客さんの持ち込みも多数とのこと。「隅っこに少し置いていただけなのに」と何度か繰り返しておられたのがおかしくていっぱい笑ってしまった。ニコニコの店主さんが、流通している国産の落花生は1割程度と教えてくれた。なんでも輸入なんだね、日本は。落花生といえば千葉が有名だけど実は神奈川発、など色々教えてくれた。この商店も多分不況の煽りを受けているだろう。長年地道にやってきた商店が安心して暮らせる日々に向けてすべきことは、言葉を誠実に使う政治家を選択すること。SNSなど使わずとも伝わる言葉と地に足のついた政策を実行したことがある人を選択すること。排除や差別の構造を理解せず、意気揚々と晒すこと、煽ることをするような人を選ばないこと。今だったら青森の大雪がそうだが、人の生き死にが関わる状況で選挙という方法が選択されたことをおかしいと言い続けること。緊急に訴えたいことがある人たちの声を無視して成り立つ政治にいいことなんてない。袴田ひで子さんの「せめて人間を守るような法律を」という訴えも辛い。人生のほとんどを理不尽との戦いに費やさねばならなかった人たちの声に強くインパクトを受ける心を私たちは保持できているだろうか。

昨日は第68回グラミー賞授賞式だった。ネットに流れてくる様子をちょこちょこチェックしていた。ICE OUTのバッジをつけてのスピーチに拍手する人たち。自分が持つ力を良い方向へ使える人たちに感動する、というか、ありえないことが現実に起きていることに戦慄する。

昨日は一句の俳句を作るのにやたら時間をかけてしまった。寒月で作りたかったのだけどできなかった。ささやかな時間が脅かされないことだけが願い。というかそんな当たり前のこと願わなくても守ってほしい。人の心はそんなに強くない。どんどん容易い方に流れる。何も考えず、反射的にそれっぽいことをいう人たちが踏みとどまるにはどうしたらいいのか。自分の欲望を他人に預けてなかったことにするだけでなく、いつのまにかそれが自分の満足かのように振る舞ってしまうのも人間だ。どうか自分を大切に、と思うが、それが常に闘いになってしまう現状が辛いけどがんばろう。福がいっぱい訪れますように。

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2月月曜日

今日は濃い朝焼けがみられた。俳句を作らねば。と書いたところでなんと先月の句会の選評をしていなかったことに気づき、慌てて書いた。自分でリマインドメッセージだしたのに。すっかりやった気分でいた。みなさんの正月の句を読んだだけで満足してしまっていたらしい。いつもギリギリとはいえ、最近、こういうことなかったのになあ。やっぱり一月は色々調子狂っていたのだろう。

今日は隙間時間に吾妻先生がでていたウェビナーをみるつもり。日本の精神分析家の話をどうして英語できかねばならないのか疑問だが。しかも土居の「甘え」についても話すらしいのに。土居は日本語でということにこだわったのに。日々の臨床を英語でやっている人はともかく(吾妻先生は英語でもやっておられると思うが)臨床で日本語を使っているのに、ということには常にひっかかっていきたい。単に英語にするの苦手、とかいう理由ではなくて。そんな理不尽を感じつつ、私は今日は自分の英語論文も見直さねばならない。英語を日本語にして、また英語にしてだけならともかく、私が使った日本語はこれだったのか?いや、こっちか、とやっているうちに論旨を忘れたりさ。大変なことだ。でも機械翻訳のおかげで世界は本当に広がった。昨日はこういうのもみてしまった。

Winnicott and Freud – Polish Psychoanalytic Society – November 20, 2021 Prof. Dr. Leopoldo Fulgencio (University of São Paulo) Prof. Dr. Martine Girard (France, Toulouse)

2021年11月20日にポーランド精神分析協会が開いた「ウィニコットとフロイト」という会。

Leopoldo Fulgencio 教授(サンパウロ大学)
Martine Girard 教授(フランス・トゥールーズ)の対話。

これは英語の字幕でみられる。普段はポルトガル語とフランス語を使うお二人なのかな。この動画、うちの洗濯機が鳴らす音楽と似たような音がしたり犬が吠えてたりして最初はそっちに気をとられてしまった。テーマはとっても魅力的。とにかくこちらが自分のためにどういう変換を加えるにしてもその人の母語を大切にすることは絶対大事。同じ日本語を使っているはずがまったく通じないことも増えている今、言葉ってなんだっけ、という疑問はつねにつきまとうけど。選挙の話ですけどね。嫌なニュースばかり、って思わない人が多いからこういう結果なのかな。いやだいやだ。「普通」や「常識」がどんどん崩れていく。臨床の現場も変わっていくのだろう。相手を「救いたい」という動機で心理士になる人は相変わらず多いと思うが、自分を救いたいならともかく相手をとなる場合、それはなにをすることでなにを意味することなのか、そういう会話を続けていくことで大切なものと出会っていけるか、普遍的ななにかを見出していくことはできるのか、大変疑問だ。

昨日はたくさんのロウバイをみて、いい香りにニコニコした。帰りに寄った中華料理屋さんでそのあたりの桜の見どころも教えてもらった。もう夕方だったのにその日はじめてのお客さんだといわれ、観光地に向かう駅なのにその駅回りが使われない状況を感じる話しぶりにきゅーっとなった。たくさんおしゃべりしていたら常連さん家族がきてほっこりした。お互いのこと何でも知っている感じがよかった。「今日は飲んで平気なの?」「髪型変えたのね」など。全然脂っこくないさわやか中華でおいしかった。長く続いてほしい。人を大事に、自分を大事に、今日もがんばろう。

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駒テラス西参道、『サハマンション』、バロスのピクトグラフィック論文

寒そうな朝空。色々薄色。昨日のお昼、寒かったけどいいお天気だったのでオフィスの周りを散歩した。小田急線参宮橋駅に続く一本道(明治神宮の参道、西参道)には日本将棋連盟がやっている「駒テラス西参道」がある。この道は整備されて夜も明るめになった。昨年までカフェもあったのになくなってしまったのが残念。一度しか利用したことないけどこじんまりしててのんびりできた。イベントも色々しているみたいだけどもう少し盛り上がってもよさそうなものだけどという雰囲気。昨日はみんなでテレビの対局をみていたようだった。そういうの楽しそう。数年前、高知の高知城にいったときは、お城に続く公園で何組もの人たちが小さな机を並べて将棋やってて、これ毎日やってるんだろうな、という様子ですごくいい感じだった。私もデイケアや小児科のグループで将棋を教わること多かったし、将棋は意外と浸透しているんだろうなあと思うのだけど。渋谷区のまちづくりの一環でもあるのだし、いい場所にあるのだからもうちょっとなにか、と思ってしまう空間ではある。私が知らないだけでもりあがっているときも多いのかもしれないけど。子どもたちがたくさんいるときは楽しそう。そばにボールとか使える公園もあるし、子供たちにとってのほうが敷居が低いのかもしれない。

昨日『サハマンション』チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳のこと書いたけど、あれは筑摩書房だから出版社のウェブサイトをポストしたのだけどトップページがポストされちゃったからやり直した。ついでにトップページからも色々みてみた。こういう時間久しぶり。老眼になってから手あたり次第読むことが減った。すぐ疲れてしまう。まずどーんと入ってきた大きめの文字は茨木のり子生誕100年、没後20年。そうなのか。茨木のり子のことも韓国文学つながりで前に書いた。詩を読みたいねえ。そして次に目についたのがAマッソ加納の連載「何言うてんねん」(webちくま)。最新のを読んでみた。面白かった。芸人さんに詳しくないから名前は知ってるけど、くらいな感じなんだけど、絶対面白いだろうな、と思って読んだらやっぱりおもろかった。すごいよねえ。しゃべるように書けるんだよね、きっと。そうだ、昨日『サハマンション』を思い出したのは今の日本の政治状況に絶望しか感じず、サハマンションみたいに絶望が渦巻きそうな場所ではぐくまれる希望がほしかったからかも。新しい登場人物がでてくるたびにガーン、ガーンと心が撃ち抜かれそうな気分になるのに後半にいくにつれ希望が積みあがっていく感じ、なんだあれは。忘れてしまっている部分も多いけど、これ映画にしたらかっこいいだろうな、と思った。ごく普通の罪悪感が維持されている世界は優しい。そう考えると今の日本の政治家たちの心なさはすごい。自分の利益の追求以外なにもみないから平気でうそもつくしなかったことにする。選挙に希望を見出せる国にしよう、みんなで。

1月は本当にあっとまに終わってしまった。本当にまずいのでとりあえずひとつひとつ確実に終わらせようと(最初からそうすべきだったと知ってる)とりくんではほうっておき、を繰り返していた2000年のエリアス・マレ・バロス(Elias Mallet Barros)のInternational Journal of Psychoanalysis ,81(6):1087-1099、Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life by Elias Mallet Barros(情動とピクトグラフィック・イメージ― 心的生活における意味の構成 ―)を全部訳して勉強会のみなさんに共有した。そんなに難しい英語ではないとはえ内容も難解なのでなんとなく時間がかかった。その間に関係ない論文を色々読んでいたのもよくなかった。長い目でみればいいのかもしれないがすぐに忘れてしまうのでやるべきことをきちんと形に残すこと。2月はそれに集中したい。ああ。

とはいえ、今日は日曜日。きちんと休むぞ。1月は睡眠時間の確保にもがんばった。ただ眠い時に寝てただけど。だからこうなったわけだけど。ぐちぐち。メリハリ大事。良い日曜日をお過ごしください。

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本とかLechevalier論文とか。

いいお天気。最近の月は昼間にはうっすら東に、帰る頃には一番高いところに。毎日どこかなあと見ているのに意外な場所にいると感じるのはなぜか。見ているようで見ていないもんなんて山ほどあるか。人は見たいものしか見ないし聞きたいものしか聞かない、という話はしょっちゅうしているし、精神分析は自分のそういう部分に出会う営みだからいやーな気分になることもたくさん。でもそういう自分をどうにかするにはどうしても通る道だからつらいよね。

昨日は仕事以外なにかしただろうか。政治のニュースに苛立ったり、アメリカで起きていることを恐れたり心配するのは毎日のことだけど。Kindleにはいっていて既に読んだことのある本を数冊数ページダラダラ読んだか。台湾文学『亡霊の池』とか。韓国の作家の本もそうだけど、家と土地の描写の仕方がすごいなといつも思う。何もない景色、というか登場人物がいる場面がそうである場合はそれが目の前になんともいえない情緒を引き起こす書き方で置かれる。韓国は特に住宅事情によって格差がはっきりわかるから登場人物の言葉の端々に滲むリアルにドーンとなることも多い。一方、そうだなあ、たとえばチョ・ナムジュの『サハマンション』(筑摩書房)はそういうものを全て剥ぎ取ったかのような空間で雑多なものの動きだけが展開するような感じで、なのに、というか、それだけに、というか生々しさがすごい。翻訳の力もあるのか、日本語で読んでいるのにものすごく外国の文学という感じがする。知らない世界がきちんと生々しくそこにある。SF的翻訳文学ではない感じ。すごいことだ。

昨晩はTVerでサンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃんも見て、すごいすごいとたくさん言っててたくさん笑った。博士ちゃんたちは本当にすごい。芦田愛菜もすごい。学ぶ力って聞く力で話す力なんだなというのも実感する。

あとSNSにポストしたけどこっちにもメモしておこう。ケイト・バロウズ編集の『自閉症スペクトラムの臨床』は子どもと大人両方の自閉的側面が事例とともに広く記述されている本でとてもよくて、昨日は序章にしか出てこないBianca Lechevalierの論文を少しチェックした。邦訳だとレケバリエと訳されているけどルシュヴァリエじゃないかなと思った。この人の講演とか音声がないので確認できないのだけどフランスの神経学者としてマーク・ソームズと一緒に書いたものもあるらしいのでたくさん出ているソームズの動画をチェックすればLechevalierの名前も出てくるかもしれない。名前はできるだけそれに近い日本語にしたいと十川幸司先生が言っていた。大事だと思う。この本で参照されている。論文は二本あって、一つは2003 The 7th Annual International Frances Tustin Memorial Prize “Autistic Enclaves in the Dynamics of Adult Psychoanalysis by Bianca Lechevalier-Haim, M.D. of Caen, France。受賞論文もここから読める。最後にクラリッセ・ニコイツキー. Clarisse Nicoïdskiの詩が引用されていてそれがとても硬質で繊細な痛みと混乱を表現していて自閉的な世界の描写は厚みよりもこの感じになってしまうな、と辛かった。

東京は今日はずっと晴れみたい。最近出会った詩たちが描く冷たさに凍えそうだったけどただ春を待つだけではなく冬は冬として、という気もする。良い1日になりますように。

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精神分析

アルフレッド・ロレンツァー論文を読んだり。

寝不足。年末にもらった新潟味ののれん本舗のおせんべいが美味で遅い夜ごはんのあとに食べてしまったが、今朝は意外と胃腸にきていない、かも。あとからくるのかな。怖い。

私はやっぱり黄金揚げが好き。はちみつとお醤油はまさに黄金の組み合わせ。歌舞伎揚げも昔から大好き。あれはざらめとお醤油かな。小さい頃はいつもうちにおせんべいがあった気がするけど、今、自分で買うことはほとんどない。旅先でならあるけど。昔、祖父母の家からその辺に住む人しか使わない細い道を行った先に小さな商店があってそこで祖母がお煎餅を買っていた。ぽたぽた焼きのおいしさを知ったのはそこでだったか。あれは亀田製菓。やはり新潟。米どころの煎餅はおいしいね。そんななか詰め合わせをいただいたので色々試せて楽しい。自分で買わないのは食べ過ぎてしまう心配があるからかも。あまいの食べるとしょっぱいのが食べたくなるし逆もそうなんだから、あまいのとしょっぱいのがマリアージュしてしまっていたら食べちゃうでしょう。困りますね、おいしいというのは。

この前、ドイツ精神分析協会(DPV)の精神分析家、Bohleber,W.が紹介するアルフレッド・ロレンツァーの論文について少し書いた。そこで紹介されていた論文はLorenzer, A. (2016) Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy. International Journal of Psychoanalysis 97:1399-1414。私の設定でもPEPで読めた。最初に検索したつもりだったのに。自分がなにを考えてその論文にたどり着いたかは私にとって大事なのだけどすぐに忘れてしまうから最初の目的とずれた方向で勉強してしまっていたりする。今回もそれで検索ワードを間違ったのかもしれない。それはそれでいい面もあるけどやるべきことがあるときは本当に時間がなくなるのでいけない。自分のこういうところに不便さを感じる。さて、ロレンツァーのこの論文は英訳が2016年。訳者はPhilip Slotkinという人。元の論文はZeitschrift für Psychoanalyse und ihre Anwendungen, 37:97-115 (1983).ロレンツァーは2002年に亡くなっている。原著はボルバーの論文から私が読み取ったものとはずいぶん違った。巻き込まれることについての記述なんだという印象は変わらないが、症例の提示はないにもかかわらず著者の臨床態度がなんとなく伝わってくるような論文で、理論化に説得力があって、隙間時間を全部使って読んでしまった。著者は最初に語表象と物表象をどう扱うかを示して「物表象とは、(いまだ言語に基づかない)相互作用の記憶痕跡――すなわち、経験された行為の沈殿物であり、未来の行為のモデルである」という。そして「治療者が患者の「遊び」に参加することを基礎として、患者によって提供されるすべての素材を、夢解釈に類似したアプローチによって扱う場面的理解(scenic understanding)は、無意識への王道(royal road)なのである。」という。そして「この方法と対象の「言語ベース」の性質は、精神分析の根本的特性であると同時に、根本的問題でもある。というのも、精神分析における認識対象が無意識であるという事実は、次のような奇妙なパラドクスを生み出すからである。すなわち、精神分析は、言語の外部にあるものを、言語に基づく手段によって探究しようとする、言い換えれば、理解しえないものを理解しようとするのである。」と精神分析が逃れようのない問題を確認しつつ、主にフロイトの著作を引用しながらそのメタサイコロジーを部分的に更新していく。

ボルバーのIntroduction to Hermann Argelander’s paper ‘The scenic function of the ego and its role in symptom and character formation’、ヘルマン・アルゲランダー論文「自我の場面的機能と、それが症状および性格形成に果たす役割」(Argelander, 1970)への序論、と訳せばいいのかな。

ボルバーはそこでロレンツァーと同世代人のヘルマン・アルゲランダーの紹介をしているが、ロレンツァー自身が、自分とアルゲランダーの考え方の相違にも触れていた。ついでだからフランクフルト学派との関わりも感じさせる文章と一緒にざっと訳すとこんな感じ。

「「物象化的(reifying)」な見方の支配は、過去50年間にわたって、「ヨーロッパ諸科学の危機」(フッサール、1936年)の中核として、またわれわれの日常的盲目性の主要なトポスとして、次第に明らかにされてきた。思考が一般に物象化へと「頽落(fallenness)」していることを考えれば、精神分析的理解の場面的性格の認識が、その完全な開花に至るまでに時間を要したとしても、驚くには当たらない。というのも、それが完全に明示され、精神分析の状況的基盤を反駁の余地なく浮き彫りにしたのは、「転移と逆転移」の相互作用がもつ決定的意義が全面的に理解されるに至ってからだったからである。
この理由からしても、「場面的理解」モデルが、互いにかなり隔たった二つの研究領域において、同時に成立したということは、同様に驚くべきことではない。すなわち、アルゲランダーの臨床分析と、私自身による精神分析的方法の科学・理論・メタ理論に関する探究とである。
もっとも、両者の概念は完全に一致しているわけではない。しかし、この差異は本論の目的にとっては本質的なものではない(最終的には、付加の問題にすぎない)。とはいえ、ここで簡単に触れておくことにしよう。アルゲランダーは、場面的理解を「自我の機能」として捉えている。すなわち、場面的経験を構成するのは自我である、という立場である。これに対して私は、精神分析的知の主体の決定はイドの場面的構造を前提としている。イドは、場面的な関係公式(自然と社会的実践の諸形式との総合として)から生じるものと理解される。」

と。なるほど。ドイツ精神分析における自我心理学との関わりとそこからの転回を追うのも面白そう。たぶん誰かすでに書いてくれていると思うからいずれ探そう。

ついでだからアルゲランダーのこともメモしておく。ボルバーによると「ヘルマン・アルゲランダーは1920年生まれで、医学修業後、内科学の専門医となった。その後、ベルリン精神分析研究所において精神分析の訓練を受け、1950年代に資格を取得した。1959年には、ハイデルベルク大学心身医学講座においてAlexander Mitscherlichとともに勤務、1960年には、ミッチャーリッヒが新たに設立したフランクフルトのSigmund Freud Instituteへと移った。」

と。ここでアルゲランダーとロレンツァーは出会ったのかな。アルゲランダーは2004年逝去。今度のIPA COWAPのレクチャーでDPVの人たちの名前があったけど英語だからなあ。私はひたすら文字になったものを読んでばかり。色々聞けたらいいのにね。

冬の果物
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精神分析

ロレンツァーの場面的理解とか。

今朝もうっすらピンクがかっている時間がない。夜明けは随分早くなったと感じる。

昨日はドイツ精神分析学会(DPV)の精神分析家Bohleber, W.の2016年の論文、Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’.を読んだと書いた。アルフレッド・ロレンツァー論文「精神分析的治療における言語、生活実践、場面的理解」の紹介でいいのかな。ここに書いてあることをざっと書いておく。正確な翻訳ではないので原典をご参照あれ。これはロレンツァーの1983年の論考の再録と展開のよう。1922年生まれのロレンツァーはエルンスト・クレッチマーのもとで精神科医として訓練を受けた。無意識の「場面的理解(szenisches Verstehen)」を中心に据えた、新たな精神分析メタ理論を構築した。シュトゥットガルト精神療法研究所およびハイデルベルク大学アレクサンダー・ミッチャーリッヒの心身医学クリニックで精神分析訓練を修了し、その後、ミッチャーリッヒが所長を務めていたフランクフルトのジークムント・フロイト研究所で勤務した。これはBohleberが2013年のIPAジャーナルで紹介している同じくDPVのヘルマン・アルゲランダー(1920ー2004)の経歴とほぼ同じ。ロレンツァーはドイツ精神分析学会(DPV)の訓練分析家であり、1971年にブレーメン大学社会心理学教授、1974年にはフランクフルト大学社会学部に移り、社会化理論の講座を担当した。1991年、病を理由に研究・臨床活動を退き、2002年に死去。

1960年代のフランクフルトでは、マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノによる批判理論を基盤に、社会科学の方法論、科学的客観性、意味の解釈学的理解をめぐる、極めて刺激的で実り多い議論文化が形成されていた。精神分析も理論としてこの議論に含まれていた。
社会科学者と精神分析家の対話は、精神分析理論に豊かな進展をもたらし、その一つがロレンツァーによる新しい精神分析メタ理論構想であった。彼はドイツ精神分析を代表する理論家の一人であり、精神分析的知の形成過程を精密に理解し、精神分析を社会理論の文脈に位置づけることに力を注いだ。

彼の関心は当初から、精神分析的理解の固有性に向けられていた。彼の提唱した「場面的理解」は、論理的理解や心理学的理解の限界を超え、精神分析的認識の対象が本質的に場面性(scenic character)をもつことを明らかにした。
フランクフルトのフロイト研究所で同時代を生きたヘルマン・アルゲランダーは、臨床経験から独自に心的過程の場面性に到達し、ロレンツァーの概念を採用したが、彼はこの機能を自我に帰属させた点で、イドに場面的構造を認めたロレンツァーとは異なっている。

ロレンツァーは1965〜70年にかけて、外傷性神経症、強制収容所生存者のトラウマ、戦争外傷についても独自の研究を行っていたが、その後、主たる関心を精神分析的知の対象・方法・科学的地位へと移した。
1960年代には、ユルゲン・ハーバーマスによる「精神分析=内省の科学」という立場と格闘するが、ロレンツァーはそれとは異なり、精神分析のプラクシス(分析家が実際に何をしているか)を議論の出発点とした。彼は精神分析がそれをどのように理解しているかよりも「分析家が何をしているか」を基盤にメタ理論を構築した。彼の基本命題は、精神分析とは言語の変容に関わる営みであり、それは表象representativesの象徴化/脱象徴化の過程という象徴理論の文脈で理解される、というものである。このメタ理論は次第に異なる象徴形成の平面に位置する相互作用形式」という概念へと展開されていく。ロレンツァーにとって精神分析は、自然科学と解釈学の中間に位置する独自の科学であり、後年彼はそれを「身体の解釈学hermeneutics of the body」と呼んだ。フロイトは精神分析を自然科学の領域に属するものと見なしていたが、彼自身は――暗黙のうちにではあるが、決定的な仕方で――自然科学と文化諸科学とのあいだの境界を廃し、新たな科学のパラダイムを打ち立てた。ロレンツァーにとって、「フロイトへの回帰(Back to Freud)」というスローガンは、自我心理学者たちとは異なり、メタ心理学的立場および欲動理論への回帰を意味する。精神分析の生理学的基盤を保持しつつも、彼はフロイトのいうところの「素朴な生物学主義」とは対照的に、欲動の心身的構造を社会的過程の産物として構想することに関心を向けている。この目的のために、彼は相互作用形式(form of interaction)という基礎概念を展開する。

という感じ。このあと、三層モデルとか二層のプロセスとかを用いてロレンツァーが解釈学とは異なる場面を理解する学問として精神分析を捉えたみたいなことが書いてある感じ。より巻き込まれる感じが強いってことだと思う。そして多分水平、垂直の二層は環境と関係で言い換えできるかもと思うけど言語以前の形象を記述するのって本当に難しい。ないけどあるんだ、ということをひたするいう感じ。兎にも角にも戦後のドイツ精神分析はフランクフルト学派第一世代との関連で理論化が進んできた感じなのかな。私はハーバーマスしか読んでいないからまとまったものを読まないとだな。あ、場面的理解って私が英訳から訳してしまったのはszenisches Verstehenなんだけど訳者もそのニュアンスを伝える英語がないからとりあえずこうした、みたいなことがどこかに書いてあった気がする。単なる場面ではなくて舞台とか上演とかに関わる単語だって書いてあったかな。忘れてしまった。Bohleberはローレンツァーとアルゲランダーの紹介をしつつ、ドイツの精神分析家としてトラウマの研究を続けている。アルゲランダーの紹介もローレンツァーの紹介と同じ感じの書き方で読みやすかった。今、メモを探す余裕がないので論文名がわからないけど2013年のIPAジャーナル。1960年代以降、ドイツの精神分析が自我心理学と離れていく様子をガダマーの「真理と方法」の影響などから書いていってたと思う。私はガダマーのこれも読んだことがないけど「遊び」について言っているところは別の論文で読んだことがあってウィニコットと似たようなこと言ってるなと思った。記述が似ているだけで違うのだろうけどね、全然。細かく検討しないとみんな似てる、みんな同じ、と言いがち。危険。ただ「わからない」「知らない」「経験したことない」と言えばいいものをちっちゃい同じ探しで括ってく。危険。

衆議院議員選挙のお知らせもきたけどほんと嫌だ。期日前投票も始まった。杉並区長の岸本聡子がこの時期にこういうことをされるとどれだけ困るかをきちんと書いていたがそんな声も届くはずもなし。今がどんな時期か、とか考える力もその気もないから今こうなっているのだし。声の聞けない政治家なんて本当にいらない。口角の上がり下がりとかどうでもいいがそれで読めてしまう内容しか言葉にできないなんてもっとダメだと思う。自分のためだったら誰の時間やお金を使っても構わない、という愚かな権力者イメージそのままの人をリーダーの位置に置いてしまったことで多くの人が迷惑を被っているわけだが、それに賛同する人たちが多いのも事実。誰かに秩序づけてもらわないとたやすく不安になるのが人間で、だから神は必要だったし、今も神的なものが求められることは多い。だからか?それにしても神っていうのも同じ人間の形でイメージできてしまうのが微妙に巧妙だと思う。私たちって同じ人間だと思うと自分がモノ扱いされてもなんか理由があるような気がしてそんなものなのかなって思っちゃったりする。なにかに強く違和感をもつって本当に難しくて、相手がなんらかの点において自分より弱い立場だと認識した場合にしかその違和感を表明できない場合も多いと思う。なんで自分がこんな目にあうわけとか、なんかおかしくない?と思うことはあってもそれを「革命」の動機にするにはそうしない理由がいくらでもでてくるのではないだろうか。もちろんそんなのは個人の自由だけど、と放っておくこともできるわけだけど、そういうことは考えておいたほうがいいのでは、と今の政治状況にあると特に思う。わからないけどさ、精神分析を受ける人は自分のそういう考えられなさをどうにかしたいと思っている人が多い気がする。そのせいで実際に辛い状況であることを自覚するプロセスで精神分析を求めることが多いのではないかな。というか、こちらがそういう状況だと理解するからこそ提案するというのもあるか。まあ、このへんは相互作用なので、まったく個別の出会いと導入のしかたになるだろうけど。理解するとか考えるというのもそれってそういうことじゃなくてということはそれぞれよくあると思う。「もうちょっと考えてから行動しなよ」というより「早い、早い」といっがほうがとりあえず効き目があったりするのと同じで考えろとか勉強しろとかそういう言葉ってすごく曖昧。私がいった考えるはそういうことじゃないとか言い出す不毛さってあるでしょ。言ってもわからないとわかってるくせにわからせようとしてる自分のことも嫌になるしね。嫌になっても止められないし。

なんかダラダラ書いているとキリがないけど仕事の時間。今日は早くも木曜日。東京はいいお天気。梅がきれい。がんばりましょう。

ろうばい
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just for a while,ドイツの精神分析家の論文

今日は晴れてる。バタバタして夜明けを覗くのを忘れた。もう1月が終わりそう。先週、やるべきことはほとんど今週に持ち越された。

持ち越されるといえばNetflixで『ザ・ホエール』を見たのだけど「語り手は自らの暗い物語を先送りする」というセリフが何度かでてきた。私がやるべきことを持ち越すのとはだいぶ意味が違って、英語だともっと違う。

because I knew that the author was just trying to save us from his own sad story, just for a while.

メルヴィルの『白鯨』との関連は別にしてもいいセリフだよね。just for a whileがいい。

こういうことをしているから色々持ち越すわけだけど昨日は調べなくてはいけないことを少し調べることはした。

非表象領域での出来事をどう記述するかという課題がずっとあるわけで(私のというより現代精神分析のかもしれない)、ウィニコット(イギリス)のネガティブ、ビオン(イギリス)の原初思考、アンドレ・グリーンを通じてのボテラ夫妻(フランス)の形象可能性、オラニエ(フランス)のピクトグラム、今回はバロス(ブラジル)の情動的ピクトグラムと読んでいきつつあれこれ考えていた。それでも書き物に用いた臨床素材について記述するにはまだなにか足りないと思っているところに今回出会ったのがドイツの精神分析家、Bohleber, W. (2016) Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’. International Journal of Psychoanalysis 97:1393-1398。2020年9月のIPA Off the Couch、Episode 66: Otherness, Anti-Semitism and Psychoanalysis with Dr. Werner Bohleberで声を聴くこともできる。2007年のSigourney Award Winnerでそこでの紹介を訳すとこんな感じ。

「Werner Bohleber博士は、その多大な知的エネルギーの多くを、特定の主題群に注いできた。それらは、個人レベルおよび社会的次元の双方におけるトラウマ、テロリズム、右翼過激主義、反ユダヤ主義、そしてドイツ国民社会主義(ナチズム)の時代という特異な歴史がもたらした帰結である。ドイツの精神分析家として、ボルバー博士は、ナチスの犯罪をめぐるドイツ社会の沈黙、恥、罪責という過去の問題に正面から取り組み、その関心を追究するにあたって、きわめて高い誠実さと勇気を示してきた。彼は、ホロコースト、暴力、過激主義、排外主義についての精神分析的理解に関して、重要な著書および論文を数多く著している。また、子どもの福祉に深い関心を寄せ、思春期、アイデンティティ、第二次世界大戦が子どもの発達に及ぼした世代間的影響についても研究を行ってきた。」

IPAの精神分析家になって、世界中の精神分析家と精神分析を取り巻く環境が身近になって、そこには常に戦争が関わってきたし、現在もそうであることを実感するようになった。IPAの中にも当然分断があり、議論も対話の場はあるがそこでの困難もきく。日本には日本の課題もあるが、世界に目を向ければもう少し別の対話が可能というか必要ではないか、と思いつつ、自分が属する場所は大事なのでそこにいる。組織に入り、国際的な学会にでることで世界の精神分析家が背負ってきたものの重みは増した。本の読み方も変わった。創始者フロイトがユダヤ人であることはもちろん、ナチズムによって亡命を余儀なくされた多くの分析家の移動によって精神分析は多様になったが、移動しなかった、もしくは戻ってきたら、あるいは母国にいながら沈黙を守る必要があった精神分析家たちもいる。ドイツの分析家たちがまさにそうかもしれない、など考えながら読んでいたら同じBohleber W. (2013)が間主観性について The Concept of Intersubjectivity in Psychoanalysis: Taking Critical Stockという論文も書いており、これはまだ途中だが、大変よくまとまっているので参照していきたい。

論文の中身について触れる時間がなくなってしまった。とりあえず今日は水曜日。健やかに過ごせたらいいですね。がんばりましょう。

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火曜朝

今日も寒そうな空。曇ってる。最近、同じ屋根や電線にいろんな種類の鳥たちがとまってて春だなあと思っていたのに今日は冬だな。

この前、SNSでゲームウォッチの画像が流れてきてとても懐かしかった。あれ、ゲーム&ウォッチなのね。言われてみればそのまんまなんだけど、私はウォッチの機能をほぼ無視していた気がする。スマホで時間確認するみたいな感じで使ったことない。ひたすらゲームを疲れるまでやる、みたいな。うちにはポパイとミッキーのがあった。小6のときかな、東京からの転校生がたしかファミコンを持っていて、やっぱり東京の子はすごいな、という感じでその子の家に集まったりした気がするけど(すべてうろ覚え)私がゲームにはまることはなかった。同じ画面に集中しているのが難しいのだと思う。

コリアンダーを買わねばと思って毎日忘れている。一度に使うのが小さじ1とかだからもうなくなりそうなのにまだでる、という状態。印度カリー子レシピを知ってからターメリック、クミンパウダー、コリアンダー小さじ1ずつのレシピをよく作るようになった。いつも賞味期限を切らしていたスパイスたちを期限内に買い足す生活になるなんて。カリー子さんはタクコ(1:1:1)と覚えて、と書いていた。大体すごく簡単にできるレシピばかりで気に入っているのだけどこの前「理想のカレーまん」レシピを載せててこれはちょっとめんどうだなと思いながら見ていたのだけどすっごく美味しそうだった。コンビニで買うとしたら肉まんだけど寒い日の空腹を熱さをホフホフする幸せで満たしているだけで味にそんなに満足するわけではないから自分で作るのもありだよねえ。カリー子さん、肉ぎっしりを皮で包むのすごく上手。私はこういうの下手だから結局具の少ないまんになってしまうかな。でもやってみるか。

今朝はなんとなくAndré GreenのClinical Thought/POUR INTRODUIRE LA PENSEE CLINIQUEの試し読みを読んでいた。これ英訳がないのに、なぜ英語の題が併記なのだろう。実は英語訳あるのかな。この前ここにも少し訳を載せた
Green, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71. と似たような内容がこの本には載っていそう。「臨床的思考」という用語でその他の思考との違いを明確にしていく感じかな。前提として精神分析の特異性が語られている様子。たとえばこんなところから。

「精神分析家が、分析中の人々を「病者」と呼ぶことは稀である。彼らはそれらの人々を患者、あるいはさらに一般的には被分析者と呼び、自らの実践を過度に医学化することを避けている。精神分析家は、医師が病者を「治療する」のと同じ仕方で、被分析者を「治療」するのではない。この場合、病者は医師の処方を厳格に守り、その指示に従うことを求められる。精神分析においては、この関係が逆転することが知られている。分析はまず、言葉を与えられる被分析者の手に委ねられている。」

などなど。フランスの精神分析家は哲学にも通じているし、それは一体なんなのか、ということを常に批判的に考えている感じがする。理論の歴史に対する敬意があるからこそ自分がやっていることに対しても批判的に内省する。精神分析はそういう姿勢にしっくり沿うものだからまあそうだなという感じはするけど。

今日はゆっくりめのスタートだからのんびりしてしまった。外は晴れてきた。今日は火曜日。いいことありますように。

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月曜日

すっかり朝になってしまった。夜とも朝ともいえない時間から冷凍スープ玉の動画とか手品動画とかをぼんやりみたり、うとうとしてとても意味ありそうな夢をみたり。その夢の中で全然落ち着きなく相手をびっくりさせてしまったり。どうして私は視覚刺激にひっぱられやすいのだろう。すぐ動いてそばの人をびっくりさせてしまう。仕事中は大丈夫になったけど。

札幌とNYから雪景色が届いた。札幌は雪景色とかいってられないくらい大変そう。うーん。私は絶対雪国で暮らせないと思うのだが、実際知っている人たちが暮らしているのをみると暮らせないとかいっている場合でもないし、そういうことになったら暮らす以外ないのだから、ないのだからなに、というわけでもないけど知っておくのは大事よね。大学時代の先輩もこの時期、一階部分は埋まると言っていたしな。NYは学校はもちろんいろんなことが中止とのこと。子どもたちが少しの起伏でソリを楽しんでいる様子も送られてきたが、ソリは常備品なのだろうか。あ、でもうちだって全然使わないのに雪かき用の大きいシャベル買ってあってあるからな。アメリカは今本当に危機的な状況だと思うけど子供たちの楽しそうな声をきくと少し安心する。

昨日は事例検討会もミーティングもあり私なりに頭を使って疲れた。先日MacのPagesで訳したアンドレ・グリーンのGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71.をWordファイルにしてOneDriveに保存してからWindowsパソコンで開こうとしたら見当たらず。ほかのファイルも破損しているから開けないとかいう表示がでた。私はこんなに長くMacでOneDriveを使ってきて、なんどか同じ事態になっているのになんとかなってきてしまったことでなにもしてこなかったのだな、とMacとのさよならが近づいてきている今になって反省してちょっと調べたらすぐ対処方法がでてきた。対処方法以前の私のわかってなさの問題という気もしたがとりあえずよかった。このMacがまだ新しかったころにOfficeをインストールしたのだけど相性が悪かったのかフリーズしてばかりでapplestoreでもそういわれるばかりだったのでpagesばかり使ってきてしまったのだ。学会発表とか原稿でWordファイルを求められるときはオフィスにあるWindowsのパソコンに送って手直して出していた。すると文字数が結構変わってしまったりして、常に時間も文字数もぎりぎりで書いているので大慌てということもよくあった。にもかかわらず、と話ですね。Macとはお別れしがたいたけどそういうめんどくさいことがないようにWindowsのパソコンを買ったし、作業はそちらに統一していかないと。

ということでアンドレ・グリーンの論文はみつかって、もう一度きちんと読もうかなと思ったけど文字を追うだけで内容が全然入ってこなかった、昨日は。昨日の朝は元気でやるべきことをやろうとパソコンの前にいたけど初期からの女性の精神分析家のこととか子供と大人両方を話題にしている精神分析家の動画とか本のアブストラクトとか関連の用語調べたりしてしまってあっというまに時間切れになってしまった。自分の興味にそっている場合ではないから、それを広げたり深めたりしていくためにもこの平日の隙間時間にできることをさぼらずにやらねばならない。梅もみにいかねばならない。どんどん景色が変わってしまうからね。雪の地域の人たちもどうぞお気をつけて。心あたたまる景色と出会えたら写真とって送ろう。

また新しい一週間、がんばりましょう。

裏の細い道にかわいい絵が描いてあった。工事用の柵なんだろうけど。
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Reading Freudでアンドレ・グリーンを読むなど。

昨晩は「つかれたー」と何度もひとりごちてしまった。今週もあっという間に過ぎた。今朝は夜明けを眺めていたら眠くなってしまい二度寝してNHK俳句を見逃した。最近、全然見ていない。俳句を遠くにしないようにしないと。好きは好きだからね。

昨晩は今年最初のReading Freudだった。今年度はフロイトの『心理学草案(プロジェクト)』(1895)を岩波訳で精読した。読み終えてから関連文献を読んでいるが、最初に精読したときはほぼわからなかったのにそれについて書かれたものを読みながら草案に戻るとなんかわかったような気分になるから不思議だ。内容を理解する、というより「あ、だからあそこでこう書いていたのか」とか「これってあそこに書いてあったことか」と文章が秩序だって立体的になってくる。するとフロイトが多くの読者を想定し、実際に多くの人に読まれた本に書かれていることの源泉を発見した嬉しさを体験できる。フロイトの発見を再発見する楽しみがある作業。

昨日、使用したのはANDRÉ GREEN “Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)の英訳版。NEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊で “The Fabric of Affect in the Psychoanalytic Discourse” 。これも英訳はAlan Sheridan。情動の観点からフロイトの著作を簡潔に紐解く手捌きは鮮やかで、今回は『草稿G』(1895) 『心理学草案』(1895)について書かれている箇所を読んだ。『草稿G』については前にもここで書いたがメランコリーについて書かれたもので『喪とメランコリー』を読む際は参照してもいいと思う。『心理学草案』についてアンドレ・グリーンはこう書いている。

「(・・・)理論的諸問題に取り組もうとする並外れて大きな努力を示すものであり、しかもフロイトがその後二十年以上にわたって、少しずつ展開・活用していくことになる仮説の大部分が、最初にして一挙に噴出するかたちで姿を現している最初の試みでもある。すなわち、量と質との関係、自由エネルギーと拘束されたエネルギーとの区別、経済論的仮説、満足体験と苦痛体験に関する最初のモデル、自我の最初の素描とその対象との関係、象徴化の役割、一次過程の定義、そして思考の理論――言語および意識との関係において、情動の攪乱的な役割が姿を現すその理論――である。この著作のきわめて大きな利点は、メタサイコロジーのこれらすべての基礎概念を、明確に連関づけて提示している点にある。もちろんそれは、随所に遊びの要素を含む、緩やかな連関ではある。しかしそれでもなお、きわめて重要な連関であることに疑いはない。」

と。まさにそうなのだけどあっさりまとめてくれちゃうもんだわね、とがんばって読んだ私たちは思ったりもする。グリーンのこの本は「情動」という側面から切り取っているという点では偏りはあるが、フロイトを読む際の補助線になる。アンドレ・グリーン=難解、なだけではなく英国対象関係論とフランス精神分析の架け橋になっているくらいだから、フロイトと私たちをこうして繋ぐことだってしてくれるのだ。昨年はグリーンをたくさん読んでたくさん訳してきたがこういう文献との出会いもあって報われている気がする。

さらに、なにのために読もうとしたのか忘れたが昨日はなんとなくGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understandingも読んだ。そしたら私がここでたまにぼやいているようなことがきちんと精神分析の危機として書かれていた。書くならこのくらいの熱量で書かないといけないのね、と思いながら読んだ。

ロベルト・カラッソ『Ka』(1998)の引用からかっこよく始まるこの論文、冒頭だけでも雰囲気は伝わると思うので私が機械翻訳を用いつつ訳したものを載せておく。

「将来、歴史家たちが現在の精神分析の時代を振り返るとき、彼らはこの時期が精神分析的理解の危機を経験していたと結論づけるかもしれない。私たちは、自分たちの学問分野の発展を、他者が擁護する諸理論との関係の中に自らを位置づけることで追っているつもりでいる。しかし実際には、私たちがそれを行えるのは、きわめて近似的で個人的な翻訳を通してにすぎない。とりわけ、それらの著者が自分たちと同じ思想的家系に属していない場合、私たちは、彼らと何とか結びつきを作ろうとする試みとして、そのような翻訳を行っているのである。そして私たちは、しばしば自分たちにとって異質なものの前で、礼儀正しさと敬意を入り混ぜた態度で、一般的な意見交換に参加する。最良の場合でさえ、彼らが推論を構築する基盤の妥当性について、私たちは懐疑的である。というのも、根本的には、私たちはもはや共通の理解の原理を共有していないからである。

フロイトは、ある種のバランスシートを作成するように、精神分析の仮説が公理として見なされるべきなのか、それとも研究の成果として見なされるべきなのかを判断するのは困難であると認めることで、この問題に間接的に言及している(Freud, 1938)。その結果、私たちは一方では交換における過度の緩さと、他方では問いかけをほとんど許さない強硬な姿勢とのあいだで引き裂かれることになる。しかしながら、この状況には利点もあった。それは、最も厳密なものであっても、いかなる科学的方法も、明確に限定された公理や基本概念の集合に基づいてはいない、ということを私たちに認識させた点である。フロイトはすでに1915年にこのことを指摘していた。ここで生じる問いは、私たちの発見がもつ価値に関するものである。

私たちは、共通の臨床実践という領域においてさえ、合意に達することができるという幻想を抱くことはできない。しかも、この境界自体も決定的な助けにはならない。というのも、精神分析の始まり以来、臨床領域はあまりにも大きく変化してきたため、今日ではその統一性を見出したり、その限界について合意したりすることが、かつてよりもはるかに困難になっているからである。さらに、この多様化の進展は、ビオンの用語でいう定義的仮説と、それに関連する理論的・臨床的原因病理論的概念の発展を促してきたが、それらはしばしば互いに乖離している。

この問題を考える上で最も適切なのは、構造と歴史との連関を形成しようとする思考である。ここでいう構造とは、精神を構成する様式と呼びうるものが、安定―不安定の勾配を中心として、収斂・補完、もしくは対立といったかたちで秩序づけられていることを意味する。葛藤の圧力は、それらの内部調整を硬直と解体のあいだで揺り動かす。

一方、歴史とは、時間性の展開、より正確には精神分析が示してきた絡み合った複数の時間性(Green, 2000)を意味する。構造と歴史との関係は、精神分析だけが独占しているわけではないが、この領域では他分野以上に複雑であることが明らかである。」

と続いていく。フヒー。古典を読む意義は伝わる人には伝わっていると思うけど、実践と理論を乖離させないように丁寧に織り込んでいく作業をさまざまな形でしていかないといけない。大変なことだ。がんばれたらいいなー。今日は事例検討会。多分これまでで一番ぎゅっとした話しあいができている会でもう何年も続いている。先日書いた子供の心理療法に関する一章もそこで受けたインパクトのおかげで一気に書けた。そういう相手がいるって本当に大事。若い人たちもいろんな年代、いろんな経験の方と患者のことを自己流ではないやり方で検討できて、検討会が終わる頃にはその人の人生が歴史性を持って立ち上がるような感覚を持てるような場を作っていってほしい。色々文句もぼやきもあるだろうけど、政治と同じで、そこを変えていくのは自分でもある。がんばれたらいいね。

いいお天気!良い日曜日になりますように。

新宿中央公園の梅とパークタワー
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オグデンの「自閉」など。

世界のニュースに気持ちが追いつかない。夜明けは今日もきれい。

昨日の朝、論文の手直しを少しした。いくつかの点でもう少し根拠をしっかり提示する必要がある。そのためには素材の方も別の箇所を使用した方がよさそう。結局、全体的な手入れが必要。夜はそういう作業する時間はないので毎朝、少しずつやっていくしかない。関連してオグデンの自閉ー隣接ポジション(autistic-contiguous position)論文を読み直したけど、その後の展開があまりされていないのもさもありなんという気がした。今手元にないのでこの部分が、と正確に引用できないけど、この概念が展開するにはタスティン、メルツァーといった自閉症に関する代表的な論客の言わんとしたことを理解するのはもちろんだし、彼らの使う「自閉」が自閉症だけを指しているわけではなく、誰にでもある心の機制であるという理解が必要である。それ以前に自閉症を含むさまざまな病理のインテンシブな精神分析的治療を体験しておくことは不可欠なわけだ。精神分析の概念はインテンシブな治療である精神分析体験で必然的に生じる患者と分析家の強い情動体験をもとに展開してきている。それが生じない事態を考える場合もそれまでの二人が積み重ねてきたい時間の中で明らかになってきた「生じなさ」に対する強い自覚が起点となる。それは相手に、あるいは二人の関係性にオグデンがいう意味での自閉的な要素を見出すことでもある。今は専門家でない人が「アスペ」とか「自己愛性パーソナリティ」とかカジュアルに使うようになったがそこに含まれる相手を見下した態度は知らないこと、わからなさへの耐性の低さを示しているのだろう。オグデンたちがいう自閉という言葉は決してそういう水準のものではないが、専門家であってもこの言葉で喚起されるイメージの偏りは大きいので、使用しにくい言葉だなとは思う。夢やイメージ以前の感覚的印象の散らばりによって混乱が生じたときに心がとる態勢を臨床素材の描写と共に記述していく難しさったらない。カモフラージュのためではなく、空間以前の表面でなされる反応としての模倣が対象との間でどのように形を変えていくかを記述する語彙を育てられたらと思う。精神分析は自分の中の圧倒的な語彙不足、言葉の誤った使用への気づきに打ちのめされ、それまでの自分の体験に対する見方がガラッと変わる。人は誰でも自分のことを棚に上げて他人のことを色々いっているものなので、ナルシシズムは傷ついても、人より自分という場所からまた始められるのは大事なのでは、と思うが、その苦しみも半端ないので、現代社会に生きる人の特徴を踏まえた上で理論と技法の更新が必要なんだな。常に大仕事という気がする。

今日も寒そう。風邪ひかないように過ごしましょう。

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次世代とかお菓子とか。

夜明け。うっすらとしたオレンジがとてもきれい。もうこんな時間なのに広い広い空はゆったり太陽を迎えていく。生き物たちはこの夜明けで季節が進んでいくのを感じとる。次の世代のための準備もする。人間も生き物のはず、なのにね。世代間伝達という言葉が悪い意味でしか使われないわけだ。下の世代が連鎖を断ち切ろうと無理しなくてもいいように上の世代が必要なことを下に引き継ぎながら自由にさせる工夫をしないと。もちろん分離に伴う不安や恐怖でしがみつきだって起きるだろう、お互いに。ひどいことだって言ったり起きたり言われたり色々するだろう。それだって大人の方がすでに場数踏んでるはず。今や当事者より理解できる心の状態のはず。動物たちの子育てに学ぶことは多い。彼らは時間を自分よりずっと大きなものに委ねてるからやることやります、という感じ。人間はなんなんだ。モモの時間どろぼうかよ。自分のことより次の世代のことを考えることは結局自分のためであるという実感をどこかで持つには自分も大きなものに抱えられているという感覚が必要。時間も空間も必要。自分より大きな存在、子供にとってみたらそれは大人。大人が仕事しろよ、と思うことは多い。エディプスの神話だって、大人たち何してくれちゃってんだよ、という話でもあり、臨床場面でも「仕事するのは私たち大人です」となることは多い。大人の中の赤ちゃんの子心はもちろん大事。それが大事にされてこそ、大人の仕事はできる。でもその心で現実を動かせるなんて思っちゃいけないし、そんな体験してはいけないしさせてもいけない。

それにしても今週は寒いね。乾燥もますますひどい。そして花粉。オフィスの床はフローリング。何か敷いてもよかったけどきれいにしやすいからそのままにしている。花粉は見えないけど毎日クイックルしてるから少しはマシかな。ハンドクリームとリップクリームもすぐ使える場所に。届く距離にないと本当に使わない。辛い思いするのは自分なのに。そんなだからかユースキンのhanaハンドクリームをもらった。これはいいね。ベタベタしないからすぐ作業できる。オレンジのぬるっとしたのにも助けられているけどどこか触ってしまうまでの時間を耐えるのが難しい。なのでありがたい。いただきものならきちんと使うはず。今のところこまめに使っているので小さい切り傷とかもできず良い感じ。

徳島で買ってきた我が家用お菓子も随分少なくなってきた。今はどこへいっても個包装でひとつひとつ帰るお菓子が増えているからいろんな銘菓を試すことができる。お正月明けに集まった各方面からのお菓子たちも加わって1月はとても豊かだった。いただいたものだと福田屋さんの「熊本和栗庵 謹製 栗好き」がすごく美味しかった。熊本は和栗の産地でもあるのね。

今日は我が家用土産で買ってきた徳島で一番有名かもしれない「金長まんじゅう」。包みをみれば「あー、見たことある」となる人も多い気がする。天保年間『阿波狸合戦』の金長狸をモチーフにした徳島を代表する銘菓。皮はチョコレートで狸色。徳島県小松島に伝わる民話。この民話、単なる恩返し話とは違って途中から「えー」となってしまったのだけど、やっぱり戦いなんて自分の中だけですればいいのでは、助けを得ながら、と思った。本当に戦ったら他人が傷ついたり死んだりする。しかも「あなたのため」とか言いながら。ダメでしょう、そんなの。主君のため、とか言って裏切りまくって権力者になっていく戦国時代ではないのだから。裏切ってるつもりはなかった、そこには協力もあった、とかそりゃそうだろう、みたいな話はまた別のお話。大河ドラマとかは楽しいですよ、それはもちろん。だからそういう話ではない。あー、難しい。

今日もがんばりましょ。

都庁からパークタワーとオペラシティ

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木曜朝

きれいな空。今週はいよいよ寒いけど冬の光をいろんなところで感じる。そういえば道路を敷き詰めていた金色の銀杏の葉がすっかりきれいにされたあともまだまだという様子で輝いていた大きな銀杏の木がすっかり葉っぱを落としていた。いつのまに?自力で落ちたのかしら。いや、落ちるときは力がなくなって落ちるのだろうけど、もういい加減冬支度しなさい、とお掃除ついでに落とされたのかしら。毎日見ていたのにそういう瞬間には出会えないものなのね。北海道はすっかり雪景色なんだよなあ。昨日の朝、あちらで開業している仲間から写真が届いた。公共交通機関が動くかどうか見極めながら早め早めに移動しなくてはいけないから大変そう。SNSで流れてきた羅臼に至っては猛吹雪の写真が流れてきた。住んでいる人にとってはいろんなことがいつものことなんだろうけど色々知ったら「え、そういうときはどうされているんですか」とお聞きしたくなることがたくさんでてくると思う。皆様、どうぞお気をつけて。

毎晩、もう寝ないと、と思っているのにすごく遅くなってしまう。少し前は遅い夕食を食べたらぐったり何もできず眠ってしまっていたのに。今も起きているだけでなにもしていないのだから寝ればいいってわかっちゃいるが。気温の変化とか乾燥とかいろんな環境の変化が身体に影響を与えているのだろうねえ。季節を感じるのはいいが、花粉を感じたりするのは辛いものだ。花粉症は春の季語。

袖口に菊の花粉や我が花粉 池田澄子

いつ使えなくなってもおかしくないと思いながら使い続けてきたMacBookAirがいよいよ動作が遅い。サイトがなかなか開かない。スクロールしても動かない。パソコンも歳をとると反応が鈍くなるのか。昔はこうやってよく待ちぼうけしたなあ。ダイアルアップ接続ってやつ。ダイアルアップ接続ってISDNとは違う?ADSLで「早っ!」ってなって光回線なんてつい最近な気分。今っていろんなことが早い、早すぎる。私が大学生の頃は書き物はワープロだったし、ポケベルやPHSは身内でしか使っていなかった気がする。フロッピーも大きかった。数年前まで高尾に「高尾の湯 ふろッぴィ」というローカルな温泉があった。これはどちらかというと「けろけろけろっぴ」と同じ方向性を持ったネーミングだと思う。いつも以上にどうでもいいことを書いている気がするがどうでもよくもない。「ワープロってなに?」「フロッピーってキャラクター?」とか言われる時代なんだろうから、今は。懐かしむ以前になんかキチンと記録しておいた方がよくないか、となる。公的な記録だって平然となかったことにされる時代でもあるが。

そうだ、なんでこんなこと思ったかって国内でも海外でも買い集めてきたポストカードやレターセットを誰にどう使うか問題について考えていたからだ。封筒があるものは中に紅茶とかコーヒーとかを入れて送るのもいいな、思っている。今、個包装の可愛いのがいっぱい出てるから。ポストカードは突然送るのも変な時代なのかしら。文通文化もなくなったみたいだし。高校生の頃は毎日会う友達と毎日手紙のやりとりをしていた。ルーズリーフとかでだけど。当時からカード類はちょこちょこ買っていたのだからそれでやりとりすればよかったのかもしれない。いろんなことがこんなに早く変わって、使わなくなるものがこんなふうにでてくるなんて知らなかった。せめて人のこころみたいなものはあるとかないとか言っていないで普通に守られていきますように。

いい一日になるといいですね。

白い梅も咲き始めた。
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水曜朝

今日もはっきりしない空。起きたら筋肉痛、と思ったがバタバタしているうちに治った。筋力維持のための筋トレは続けている。負荷をかけたスクワットをきれいにできるようになりつつある。低山であればそこそこのスピードで負担なく登れるくらいの筋力は維持している。せめてソウルにいくまでは維持したい。混んでる時期に混んでる場所に行くのは時間がもったいないからとにかく街歩きをしたい。ハングルが読めないから今から紹介されてたアプリに行きたい場所をいれてその辺の駅と通りの名前くらいはなんとなく頭に入れておくつもり。ソウルも素敵な本屋さんが増えてるみたい。有名な図書館もあるし。でも外国だと読めないから長居しないですみそう。そうでもないか。シドニーの本屋さんは雑貨もたくさんでお土産もそこで買うために通った。ああいう子どもも大人も集う大きな本屋さん、東京は少なくなった。私はもっぱら初台の本屋に行くわけだがオペラシティのなかにあるくまざわ書店にいくと地元のおじいちゃんおばあちゃんたちと店員さんの面白いやりとりをよく聞ける。ああいうローカル感はいいところだ。

そういえば東京オペラシティ アートギャラリーでは今日から企画展「アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち」が始まる。あそこは2階の収蔵品展寺田コレクションもいい。寺田小太郎(1927-2018)さんのおかげでいい作品がたっくさん見られる。私が行くときはだいたいいつもほぼひとりじめ。企画展のほうも平日はそんなに混んでいないことが多いからだいたいゆったり見られる。

この前、SOMPO美術館でみた松本竣介(1912‐1948)は相変わらずとてもよかった。若い頃に地元群馬は桐生市にある大川美術館でみて以来ファン。桐生の人ではなかったのね。どういう歴史を持った人か知らなかった。いや、なんどか展覧会にいっているから知っていたのだろうけどすぐに忘れて桐生の人ってことにしていたのだろう。しかし、若い頃に出会えたのはよかった。峻介は36歳で亡くなっている。こちらの出会いは大川栄二のおかげ。こういうコレクターの存在は大きい。お金を正しく使ってくれている感じがする。今の政治家は芸術的な素養がないのだろう、と思ってしまう。審美眼以前になにかを見る力というか。

こんなことつらつら書いている場合ではない、ということははっきりしていて土居健郎と森田正馬を楽しく読んでいる場合でもなかった、とわかったのだがもーむりーという気持ちにもなっている。が、しかし、私は富豪でもないし、基本給というものもないから自分に力をつけていく以外に稼ぐ方法はないからなあ。がんばらないと。こんなとき富豪や優秀な人たちをうらやましく思う気持ちにもなるが私にコレクターができるほどの眼や商才があるかといえばまったくないし、能力という点ではどの分野においても極めて普通。筋トレならこの年齢を考えればわりと優秀かも、程度なので地道に着実に。とかいって、それもまた難しいから急に変なことしだすわけだけどそれでも少しずつやるしかないものね、と自分で自分を励ましつつ、周りに助けられつつがんばりましょう。

みなさんもよい一日をお過ごしください。

時間によってはとてもすいてるオペラシティ
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土居健郎、森田療法など。

透明感のある夜明け。きれい。昨晩はインターネットバンキングの設定などに色々手間取りすごく寝不足。今はなんでもかんでもアプリ使えだし、勝手に紐づいていくし意味がわからない。個人情報って「教えてくれれば管理してあげる」(っていうかできていない事例いっぱいあるでしょ)ではなくて、誰にも言わないでいられる自由を保障されてこその情報じゃん。何年くらい前からだろう。情報は明け透けにして当たり前みたいな雰囲気が出てきたのって。前にもさ、と書き出したらキリがないほどおかしなことを経験しているけどまあよい。この寒いが爽やかな朝に愚痴ってられるか。こんなんじゃ逆に安全が守られているという感覚をもつ方が難しいってことさ。

土居健郎(1920年3月17日 – 2009年7月5日)の「甘え」について発表するので掘り下げていかねばならない。が、なんとなく楽しく読書してしまってそういう体勢に全くならない。土居健郎は平易な言葉で、語りかけるように書くのでつい学問を忘れる。語りかけるようにというのは、一方的ではないということで、土居自身の驚きなど息づかいを感じさせるということである。『土居健郎選集』全8巻の中には難しいものも易しいものも含まれるがどれも読みにくいということはない。その8巻のあとに出版されたのが『甘え・病い・信仰』(創文社)である。これは長崎純心大学キリスト教文化研究所における長崎純心レクチャーズ第3回、1999年10月25日~10月27日の三日間の連続講義を加筆、修正した一冊である。電子版があるので誰でも入手できるし、講義なので質疑応答があるのがいい。ビオンの本なんかだと質問した人はますますわからなさにのまれていくというようなやりとりが見られるが土居はひたすら正直である。相手の考えを問い、対話をする。そしてそこには特に答えはない。ないものはないという感じがいい。自分の考えがあるだけである。「甘え」概念が逆輸入されたわけだぜ、と私はここで思うわけである。わけである、とか書いたが今自分の考えを相当端折って無理やり結論づけたことに自分でも気づいているが、今は時間がない。発表までにはなんとかするつもり。SNSを備忘録代わりに使用しているので昨日ポストした土居健郎が森田療法と精神分析について考えている論文も読んでみてほしい。森田療法の専門家に土居は森田正馬(1874年〈明治7年〉1月18日 – 1938年4月12日)に対して熱い、みたいなことを言ったら、森田を一番読めた人かもしれない、と土居のことを言っていた。そうなのか。その人に森田を読むなら森田自身の著作から入ってしまった方がいいと言われたので土居がその論文で取り上げた一冊も読んでみた。全部ではないが、かなり興味深い実践が書いてあるのでぐんぐん読める。ちょっと今名前を忘れてしまった。神経質の本態みたいな名前の本。技法としても興味深いが森田の時代、森田は神経症をこう考えていたんだな、みたいな面白さにはまる。そしてそれは私たち精神分析家が神経症とアセスメントするときと対して変わらない視点だと思う。ただそれに対する対処は随分独特。と言っても精神分析側から独特と言ったところでどっちがだよ、どっちもかよ、という話ではる。土居は森田療法を説明したうえでそれを精神分析的に考えてみるということをこの論文でやっている。森田には丸井清泰との論争があるが、その後の世代には森田の弟子である高良武久とカレン・ホーナイと交流があったり、土居もその世代との交流があったり、森田療法と精神分析、森田療法と世界との対話を可能にする土壌は地道に耕されていたといえるのだろう。

土居の論文はいくつかの点で興味を引くが、土居が以下のように森田と禅の関係に注目したことは、土居とキリスト教、もしくは土居と精神分析との関係についても何か言わんとしているかのように思えた。

But what is really interesting about the possible connection between the two is the fact that, in spite of the obvious similarity between his thinking and Zen Buddhism, Morita disclaimed any special connection between the two.

にしても、今日もいろいろ大変だ。がんばっていきまっしょい。

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精神分析

身体、「個」として。

まだ真っ暗。この時間は少し明るくなってきていた気がしたのだけど。今日は曇りなのかな。

昨日はお昼過ぎまでNetflix三昧して、そのあとは色々家事したけど他になにもしていない気がする。うとうとしていたのかな。昨日の明け方だったか、起きたらまた手首より先が動きにくくなっていてやばい!となった。もう一方の手で慌ててマッサージしたり、自重で動かしたりしたら治った。横向きに寝て腕の神経を圧迫しがちなのがいけないらしい。前に橈骨神経麻痺と診断されて結構長い期間、右手(腕はOK)を使えなくなったことがあるから同じ感じになると慌ててしまう。その頃にはすでにiPadがあったから記録はできたし、食べることに関しては意欲が高いのでお箸はわりと早く左手で使えるようになった。何が不便だったかというと満員電車。荷物はリュックだからいいけど吊り革や棒(なんていうのかな)を咄嗟に右手でつかむことができない。右利きだから咄嗟に出るのが右手なんだよね。できるだけ体幹で立つぞ、と思っていたけど揺れますよというアナウンスが入って予告通りの揺れに対しても対応できなかった。まあ、これは手が動いているときも同じだけど。体幹は強くなっているはずだから今は少しは違うのかも。筋トレしてても胃腸炎とかでお腹空っぽになると一気に筋力も落ちるし、頭痛がひどいと聞くのも話すのも辛いし、身体って色々補うことはできるけど、できるだけ今ある身体機能は維持したい。少し体調悪いだけでいろんなことも無理しないといけなくなるの辛いものね。今日は両手が使えてよかった。

鳥羽和久『それがやさしさじゃ困る』から、学校の中で「学生たちはいったん個として見られない場になじんでしまうと、むしろ集団の中の一要素として溶け込んだほうが楽で気持ちよくなるという問題についてはあまり語られない」という部分が引用されていた。著者は塾の先生として集団の中でひとりひとりの子どもたちと関わっているからこの書き方になるのだと思う。臨床現場でひとりひとりと時間をかけて語り合っていても集団に溶け込んでいた方が楽という語りはよくある。しかしそれは常にそこに馴染めていない自分を強烈に感じ、それに気づかれないようにしながらであり、ここでは学校という場で「個として見られる」可能性を残しているわけだけど、学校では「必要なときに」という前置きが必要かもしれない。就学以前にその体験をしていない場合、個として見られないことを当たり前としながら、個として見られることを熱烈に求める、という非常にアンビバレントな状態になる。もちろん「適応」が求められる集団においての出方は様々で、「過剰適応」といわれたり「逸脱」とされたり「問題児」扱いされたり「甘えてる」といわれたり関わる人によって様々な表現がされているのだろう。過度に個別の関わりを提供したくなる大人だっているかもしれない。精神分析では「ああ、そういうことを本当は求めていたんだね」ということを理解するプロセスが相手が子供でも大人でも大切で、その理解のプロセスこそが個別のこころとして関わられる体験になる。しかし、さっきも書いたように個として見られることにすでにアンビバレントになっている心は個別の関わりを嫌うのも常なので、それは必要性という観点から言葉を紡いでいく必要がある。何にしても必要性は大事で、それはこちらが勝手に押し付けるものでもないし、本人にだってわからないことだからそこにまた別の難しさが発生する。まあ、終わりのない話だから考え続けるしかない。

今日は月曜日。なんとか頑張りましょ。

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挟間美帆&滝千春プロジェクトなど。

外はキラキラ。いいお天気。今日はお出かけ予定だったけどあまり体調良くないからキャンセル。久しぶりに仕事がない日だったのに残念だけどよく休みましょう、ということで今日は一日お掃除したり本読んだりするのでしょう。家にいると色々目につくからね。「葬送のフリーレン」も見ないと。

昨日は武蔵小金井の宮地楽器ホールというところにはじめていった。武蔵小金井は昨年、久しぶりに行ったけど北口しかウロウロしなかった。今回は南口にびっくり。きれい。駅前でなんでも揃う。中央線のこっちの方は駅前が本当いいよね。立川とか国立とかも本当便利。昨日は国立に長く住んでいた現在NY在住の作曲家、挾間美帆 と小金井出身のヴァイオリニスト滝千春のprojectMaNGROVEJapan Tour 2026の初日へ。弦楽四重奏にコントラバスに挟間美帆のピアノ。ちょうど間に合う時間だったから慌ててとって席は最後列だったけど両脇がいなくてゆったりできてよかった。そういえば挟間美帆はピアノを弾くんだね。元々はピアノで大学入ったんだものね。作曲したり指揮したりする姿ばかり見ていたから意外だった。ピアニストのピアノとは違う良さがあった。そして普段は挟間美帆しかフォローしていないがクラシック界の若手トップスターたちもすごかった。挟間美帆の解説もよかったし、確かにこういう曲を普段クラシックをやっている人たちが弾くってどんな感じなんだろうと思った。楽しそうだけど。クラシックとジャズ、音符と言語の壁を超えて(滝さんがプロコフィエフの音楽に感じたこと)こういうチャレンジがなされ、多くの人を集めている場所にいられてよかった。私よりずっと年上の白髪の女性たちが結構たくさん見にきていてお手洗いの列にいる間、今日のコンサートの充実感を語りつつ、「疲れたでしょうねえ」と演者のみなさんを思いやっていたのもなんかよかった。今日知った人たちの活動、今後もチェックしていこう。チラシとか見てるとリサイタルの仕方とか、その試みがいちいち興味深い。音の細かいことは私にはわからないけど積み上げられた技術をもとに新しいチャレンジがなされていくプロセスを追うのは楽しい。

そういえば少し前に電車で「この電車は銀座に行きますか」と聞かれたところからおしゃべりが始まり、自分はいまだにガラケーなんだとかなになににも反対しているとかで世の中の流れに抵抗しているという話を色々された。多分、内容的にはSNSだったらありがちな反応がよくある口調で書かれる類のことだと思うのだけど、実際の会話ってやっぱり全然違う要素を含んでるよね。「あら、そりゃまたどうして」みたいな聞き方を私はしていたわけだが世の中の流れに抵抗する様子を語る仕方がなんだかお茶目でニコニコしてしまった。そのあとその人は隣のご友人みたいな方に「良い方がたくさん」と囁いていて、はじめての東京(とおっしゃっていた)で嫌な思いをしなくてすむのは東京的にもとてもいいことだよ、と思いながらご挨拶してお別れした。私も旅先でいろんな人に助けてもらった思い出がある。遠野に行ったときは小さな居酒屋へ行ったら常連さんたちが一気に動いて席を開けてくれたのだがそのとき店主がいなくて、しばらくして戻ってきた店主が今日は食材的に厳しいということでみんなに残念がられながらさよならしたのだけどなんかそういう面白いことがあるとなんかいいところだな、とその土地への興味も広がるし良い旅にになる。まだデジカメ時代だった頃、宿にカメラを忘れて車で届けてくれるついでに駅まで送ってもらったり、傘を届けてもらったり忘れ物の多さに対しても随分助けてもらった。一度そういうことがあるとそれを思い出して忘れ物チェックができるという良い面もある。

それにしてもいいお天気。暖房いらず。みなさん、それぞれ良い一日を。

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「アンチ・アクション」など。

夜明けが早くなった。今朝はぼんやりした空。細い月が昇ってきているはずなのに。でも今日も晴れるらしい。嬉しい。

先日、東京国立近代美術館へ行った。京王新線初台駅は都営新宿線と繋がっているので神保町か九段下まで行って「徒歩15分」、と美術館のサイトには書いてあるけどそんなにかからない。私の場合、帰りは神保町でも九段下でも初台には一本で戻れると思っているせいか、九段下(のほうが新宿寄り)に出るつもりが神保町に出てしまったり、ついでに本屋さんに寄ってしまったりするから急いでいるときは美術館から一番近い地下鉄東西線の竹橋を利用する。竹橋もいつも京橋と間違って混乱するけど。京橋に行ってしまったらアーティゾン美術館に行けばいいか。竹橋は毎日新聞社の本社ビルのパレスサイド・ビルディング直結で、私はこのビルとレストラン街の風情が好き。

さて、東京国立近代美術館の展覧会は豊田市美術館から回ってきた「アンチ・アクションー彼女たち、それぞれの応答と挑戦」。東京のあとはGWにかけて兵庫県立美術館でも開催される。「アンチ・アクション」というのは中嶋泉著『アンチ・アクション─日本戦後絵画と女性画家』(2019)→『アンチ・アクション─日本戦後絵画と女性の画家』(2025年文庫化、増補改訂版、ちくま学芸文庫)の用語だそうだ。「アクション」という語が男性的な意味を持つことからそれに引っ張られて、などの話にも驚いたが、言われてみればアクティブが男性的でパッシブが女性的というイメージで使われてきた歴史はある。しかも日本の画家たちが西洋に「女性的」と見做されていた背景も手伝い、女性たちの作品が切り捨てられていくという、なんともありがちな女利用がされたらしい。日本の芸術が女性的であるならば、それを見下されたと受け取って女性的な部分を本当の女を使ってなかったことにするのではなく、別の言葉でしか表現できない何かに変形するのが芸術家の仕事ではないのでしょうか、と思うし、ここで展示された女性美術家たちの作品を思うとなんとも複雑な気分になった。カッコ付きで書かれた旧姓にもなんだか胸が締め付けられた。私も思わず「え、この人のパートナーってあの人なの!」と思ってしまい、切り捨てられつつも消されなかった理由についても考えてしまった。

 今、SOMPO美術館では開館50周年記念「モダンアートの街・新宿」が開催されているが、そこでも「アンチ・アクション」で展示された画家、芥川(間所)紗織、福島秀子、宮脇愛子の作品が見られる。芥川(間所)沙織と宮脇愛子は阿部展也(芳文)が下落合に拠点を置いた戦後期に師事したという文脈で登場し、福島秀子は阿部と一緒に仕事をした瀧口修造の「実験工房」の文脈で登場。文脈が変われば印象も変わる。

 SOMPO美術館の展示も好きな作家が多く、新宿、特に下落合はすごいな、と思いながらみた。どちらもゆったり見られて色々感じられてよかった。本当は上野に頻繁に行ったりできたらいいがすぐに行って帰ってできる範囲に美術館があるだけで贅沢だし、ひとついくだけで結構おなかいっぱいになってあとにもひくから。しかし、明るい「よかった!」ではないな。まあ、いろんな複雑なメッセージを複雑なまま受け取る観客でいよう。

今日は土曜日。いい1日になりますように。

SOMPO美術館
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ベーグルとか。

夜明けが始まった。月がいる空がすごくきれい。これは三日月とはいわない?三日月の鏡写し?

昨日は、オフィスのある初台にできたベーグル屋さんに行くという今年の目標を達成。今回は売り切れていなかった。ちょっと調べたらインタビューの記事などもあり、代々木八幡の大人気ベーグル店の店長をしておられた方とのこと。代々木八幡は初台から徒歩圏内だがイメージは全く違う、というか知名度からして違う。私のオフィスも西参道という明治神宮の参道に近く、表参道とはだいぶ知名度が違うが、新宿から徒歩圏内でもローカル感を維持できる初台はエライのではないか。とはいえ、そのインタビュー記事ではやはり初台のふどう通りをひなびた商店街と書かれていて、おお、それは間違ってはいないかもしれないし、代々木八幡で華やかに店を営んでいた方がなぜ、という疑問を掻き立てるには十分かもしれないし、今はそれほどネガティブな意味を伴わないとか色々あるのかもしれないが元地元で、その地に店みたいなものを構えた私としてはちょっと悲しかった。実際そうで、それを私は愛しているのだからいいのだが。いいなら書くなよ、と思うかもしれないが、手放しでいいと思えてないから書くんだよ、というやりとりが始まりそうな時代で怖い。いや、そんな空想で怖がってはいけない。でもそんなふどう通りの入り口近くにこんな小さなベーグル屋さんがあるのはとても素敵なこと。いい香りでずしん、もっちもち。穴のないベーグル。スコーンも美味しそうだったし、あんこビスケットもかわいかった。ベーグルは冷凍で2週間保存できるというのでお土産にもいいな、と思った。水木にやっていることが多いのかな。不定休だからご興味のある方はインスタグラムでチェックしてみてください。その側のタイ料理屋さんも美味しいし、地元ならではのごはん屋さんもちょこちょこあるので幡ヶ谷までお散歩しながら色々試してみるのも楽しい。そうだ、製麺所にもいく目標も立てたのだった。こういうすぐできそうな目標もいろんな小さな事情でできなかったりするものだから意識しておかないとですね、私の場合。

昨日、Elizabeth Ann DantoのFreud’s Free Clinics Psychoanalysis and Social Justice, 1918–1938を読んでいた。紹介文の最初はこんな感じ。

「今日、多くの人々は、ジークムント・フロイトを、精神分析的治療を知的・経済的に恵まれた人々のためにのみ提供したエリート主義者として捉えている。しかし、この新しい著作においてエリザベス・アン・ダントは、フロイトと初期精神分析運動について、きわめて異なる像を提示している。ダントは、これまで見過ごされてきた、フロイトおよび他の分析家たちによる強い社会的実践(ソーシャル・アクティヴィズム)と、貧困層・労働者階級を治療することへの献身の歴史を掘り起こす。」

大事な主題ですね。精神分析はほぼ政治、みたいな側面があるので、この本で取り上げられる多くの分析家、特にフロイト、ヴィルヘルム・ライヒ、エリック・エリクソン、カレン・ホーナイ、エーリッヒ・フロム、ヘレーネ・ドイチュの仕事はそういうところからも知っておく必要がある。この貧困の時代に、患者も精神分析家も貧することなく、心の豊かさを最優先にできるような安価の精神分析センターを作れたらいいのにね。その前に精神分析はまだ絶滅していないし、今の時代にもあるんだよ、ということをもっと一般の人に知っていただかないとだけど。こういうブログもちょっとした精神分析運動のつもり、だったはず。地域も大事に、人も大事に、自分も大事に。今日もがんばろう。

塩あんバター。
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町田とか鶴川とか。

夜明けの前にすでに月がきれい。朝の月も好き。今年の東京は朝は寒いけど10度を超える日が多い。12月の方が寒かった気がする。この時期にわりと着込まずに出かけられているなんて変な感じ。来週はいよいよ寒くなると聞いた。

町田薬師池公園でもらった「推し植物図鑑」の「冬(12月〜2月)」の推し植物はツバキとロウバイとウメとシモバシラ。うん?シモバシラ?アップで撮るとこんな感じなの!?と思ったら霜柱ではなくてシモバシラというシソ科シモバシラ属のお花だそう。びっくり。すでに蝋梅が咲いているのも見かけたし、梅も続々咲きはじめてるし、椿はずっと咲いている。シモバシラも探してみよう。花言葉は健気だって。

昨晩、塩麹を使って作り置きおかずを作った。ただ揉み込んだだけだけど。腸内環境の改善にもよくて美味しいなら使った方がいいもんね。私、発酵食品好きなんだけどなあ。お菓子のとりすぎがやっぱり負担なのかしら。夕食が遅すぎるのが一番いけない。でも疲れを癒すのもやっぱり食べものだしねえ。むずかし。

そういえば町田薬師池公園って小田急線鶴川駅前のクリニックに勤めていた頃にいろんな患者さんたちのお話に出ていた。地元の方が多かったから私も地名だけは色々知っていて、薬師池公園に行ったときは「へーここかあ」と嬉しかった。そばにある「リス園」の話は聞いたことがない気がする。私は行ってしまったがな。ヒマワリの種を買ってあげればリスと触れ合えるのだけどたくさんのリスが動き回っているなかにいるのはなかなか怖かった。私はみるだけで十分だった。もぐもぐしているところとかかわいいけどやっぱり小動物なりの迫力がある。というような話も聞いたことない。みなさん、元気だろうか。別の精神科クリニックで一緒だった医師が開業することになってカウンセリングルームの立ち上げから長年一緒にやってきたけど、先生が引退されることになって私も一緒にやめた。本当にたくさんの患者さんとお会いして、受付の人たちとはいまだに連絡を取り合う。面接室は窓もないし狭くてコロナのときは換気に苦労したけど、みんな穏やかに現場でできることをやろうというふうに気持ちも仕事の仕方もシフトできた。心理職の仕事は設定も料金もやり方も立ち上げのときからお任せしてくれたので、当時あれこれ考えて実践してきたことが今の開業の仕事の基礎になっていると思う。もちろんたくさん言葉を重ねながらで、相談できる先生だったことがなにより大きかった。今は名前だけ残して全く違う感じになっていると思うけど、穏やかに仕事させていただいて本当に感謝。若い頃は色々大変だったけど、いつのまにか一緒に仕事する人たちに恵まれて小児発達クリニックでも単科精神科病院でも本当にいい体験を積み重ねることができた。お役に立てなかった患者さんもおられると思うし、まだまだ宿題だらけで申し訳ない気持ちもあるけど、いろんな瞬間にいろんな人の言葉や表情を思い出してずっと考え続けることを促してもらっているから地に足をつけて今日もみなさんの言葉を大切に聞けたらと思う。フロイトがいったsimply listenの難しさは実感しているけれど。

昨日、白水社のPR誌「白水社の本棚」が届いていたのでパラパラした。斎藤毅「詩、彷徨いと逸脱」がよかった。時間がないので何がよかったか書かないけど無料だから白水社のウェブサイトでチェックしてみてください。

今日もがんばりましょう。

これじゃよ。
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1月14日(水)朝

朝焼け。今朝もそれほど寒くないか。暖房はいるけれど。晴れが続くのは嬉しい。乾燥は辛いし山火事も心配だけど。

風が強いと落ち葉がカラカラ音を立てて転がってきてプラタナスが散る時期はその大きな葉の迫力に圧倒された。初台は甲州街道と並行してまっすぐ伸びる水道道路がプラタナスの通り。ピークを過ぎるとすぐに伐採されてその通りで仕事している人はありがたがっていた。一枚の葉の威力がすごいもんね。粉々になっても道が埋め尽くされちゃうし。今は小さいカラカラしか鳴らせなさそうなさらに水分が抜けた小さな枯葉がかろうじて枝にくっついている。メジロや雀はどこでも遊び場にしてて人間の子供みたい。かわいい。

昨晩、テレビ朝日の「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」のお正月に放送された分を見ながら遅い夕飯を食べた。なんと塩釜の市場で食べ歩き。とっても美味しそうだった!震災後、まだ仮設の建物で営業していた商店や酒屋へいった。塩釜神社の階段はきつかったけどとてもいい神社だった。多賀城跡だったか小高い場所から海の方を眺めていたとき、たまたまそばにいたご夫婦に話しかけられ震災の日の街の状況をお聞きした。当時、東京にお子さんがいた彼らは同じく東京で地震を体験した私たちに「大変だったでしょう」と労ってくれた。その優しい声にうなづくことができたのかできなかったのか覚えていない。大変だったけど街が海にのみこまれるとこも私は見ていないし街の景色がすっかり変わる体験も私はしていない。身近な人たちともすぐに会えた。それでも移動の電車から街を眺めながら涙が止まらなかった。

朝ドラ「ばけばけ」の主人公ふたりが結婚した。日本と西洋のやり方の違いが様々な意外な出来事を連れてきて興味深い。他人と密に暮らすなんてただでさえ大変なのに染みついた文化の違い、さらにその家のやり方も加わったらすり合わせしか方法はない。そして身分とか格とか。やっかいすぎる。先日の前橋市長選挙で小川晶前市長が再選した。群馬のひどい状況を維持したい県知事の行動のエスカレートぶりがひどく、再選して本当によかったと思うが、日本は今の時代もいつの時代も変わる気がない人たちであふれているのかもしれない。ただでさえ女たちを守る環境はよろしくないのに。

「ばけばけ」で主人公おトキちゃんを演じる高石あかりは『グラスハート』でもとても魅力的だった。同じく『グラスハート』でも『10DANCE』もかっこよかった町田啓太をみながらなにかに似ているなあ、と思っていたら『ロード・オブ・ザ・リング』のオーランド・ブルームだな。登場したときのインパクトとか地味さと華やかさを兼ね備えている感じとか。そういえばC・S・ルイスの「ナルニア国物語」の映画版『ナルニア』が、2026年11月にIMAXシアターで上映後、Netflixで独占配信とのこと。どのシリーズをやるのだろう。とても楽しみ。

5月にソウルにいくのでそろそろ色々準備しないといけないのだろうけどハングルをよめないのは結構大変だな、観光には。もちろん情報はたくさんあるけど。一応、精神分析のカンファレンスでいくのでthe Korean Psychoanalytic Center (KPC, formerly KIPSA)について調べたりした。韓国の精神分析環境も色々大変そうだが、34名の会員、 10人の訓練分析家、65名の候補生と日本の協会より勢いがある。良い影響をうけたい。会長のDr. Sun Ju Chungのインタビューを聞いたりもした。今度のthe 5th IPA Asia Pacific Conference in Seoul にも意欲的。それはそうか。良い影響を受けたい(二度目)。30年ぶりくらいのソウル、楽しみたい。

なんだか頭に浮かんでいたのとは全く違うことをつらつら書いているうちにこんな時間か。困った。今日もがんばろう。

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ウィニコット理論とか。

夜明けの赤がきれい。やっぱり空が変わってきた。どういうことだろう。水分量か。この前、アラスカに行った人の話を聞いた。アラスカの夜明けもまた全然違うらしい。私が紹介されたYoutubeで見たびっくりネイチャー生活が普通に、しかも全部ではなく、されていた。鮭の燻製がすごく美味しかったとかスノーモービルで3日連続オーロラみにいって初日にきれいに見られたとか一本のナイフを何通りにも使うとかどこもかしこも凍るから息を大きく吸うなとかよく聞く話も個別のエピソード絡みだとより面白い。

これはそろそろ、と思って買い替えたパソコン。本当にこれはそろそろなんだな、と今使いながら思う。重たいデータやサイトは開けなくなってきたし、いろんな新しいものには対応していないし、真っ暗画面になることも増えた。もうアンティークとはいえ使い勝手よかったな、MacBookAir。新しいパソコンと比べるとつい最近までこれを持ち歩いていたのが信じられないほど重たく感じるが、うちでもう少し活躍してほしい。無理はさせないから。

昨日は小寺記念精神分析研究財団の『ウィニコットの「治療相談」を読む』のセミナーに出た。10時から17時までだったが、時間の長さより内容の刺激で疲れた。私は普通よりはウィニコットマニアなのですごいマニアの妙木先生の話を聞くと興奮してしまうらしい。妙木先生のウィニコット理解と彼が一番興味を持っている部分は、子どもと大人、両方の治療を積み重ねてきた私にも実践と照らし合わせて納得するし、やっぱりそこだよね、と思いながら聞いていたし、理論と臨床を乖離させずに思考できるからこそ大雑把にできない論点がたくさんで大変刺激的。でも、私は欲動論をどうにかしないことにはウィニコット理論だって生かされないのではないのか、と思っているので、その辺の考え方は大きく違うしウィニコット研究としてそれを考えているわけでもない。私がもっと精神分析の事例を積み重ねたら欲動論に言及しないでも生き残れる精神分析を記述できるのだろうか。欲動論抜きの精神分析ってどんなもんだっけ、という感じがしてしまう。精神分析は母子関係を基盤とした対人関係論ではないはずで、それ以前に理論は経験レベルでなんとなくわかった気になる類のものではないし、それだったら精神分析でなくてもいいんじゃね?と思うことは少なくないので臨床家として探求は続けたい。

ウィニコットがいう環境は単なる他者ではなく自己も他者も生きる場所であって、そこにある現実である。精神分析実践を描写するときにそれを当たり前のものとして描写しないわけにはいかない。むしろ前景に出して強調すべき根拠をくれたのがウィニコットだ。ただ、記述の仕方を誤ると結果的に母の責任を強調することにつながる大雑把な母子関係大事理論になる。普通に読めばそんな単純なことは全く書いていないけど、まとめてしまうとそうなるのもわかる。でももう一回書くけど理論というのは経験レベルで簡単にわかるものではないというか、学問としての精神分析があるから私たちは精神分析家という専門家でいられるわけなので、フロイトに常に戻るのは当然のこととして、それぞれが理論と臨床を丁寧にチェックしていく必要があるのだ。学問として成立しているものから換骨奪胎した自分理論でそれらしい結果を出す場合は自分理論の専門家ではあるし、それはそれで役に立つ人もいるだろうが、それを学問とは言わないのと同じだろう。学問を残すためには専門家が必要なので、専門的であるためには地道にやるしかないのだ、とほとんど自分へのエールとして書いている。

というわけでややこしやなことを昨日もたくさん考えた。出生外傷も移行空間もfalse selfも本来互いに孤立してて別々の存在である自己と他者の「関係」が前提とされての用語。でも、たとえば子宮内で守られていた「孤立」が外界へ出されることで失われることに関して考えてみる。未熟児の場合、初期の世話は保証されるが(もちろん例外はある)、より大きく生まれた赤ちゃんの方が適応を自然に期待されているとしたら、本来の寄るべなさに対するケアは不足するかもしれない。実際に母親がしなくてはならないことや身体の状態はどちらにしても負担が多いだろうけど、発達障害のように最早期には見えにくい器質的な問題を抱えている場合だって「育てやすい」と言われるような状態によって不足が生じる可能性もあるだろう。何の不足か、といえばコミュニケーションを注意深く成立させようとする育てる側の観察力といっていいと思う。ウィニコットの鏡役割、ラカンの鏡像段階とも関連させて考える。セミナーで話を聞きながらなんとなく考えていたのだが、もしそういう誰にでも訪れる不足をfalse selfの起源とするならそれはコミュニカティブであることが前提とされた世界ではコレクトなセルフであり、子宮内で経験済みの孤立したセルフとしては偽りかもしれない。true selfが子宮内にいたときのように生き生きと孤立している状態であるとして、出生によってその場を失って寄るべくなった乳児は孤立の自由を奪われた状態であり、欲動の拘束を必要とする自己になったということもできるかもしれない。私はウィニコットのunintegration,going on being, isolation(not loneliness)などの用語を欲動という力の状態で記述した方が良いように思っているし、その方がウィニコットが原初の攻撃性と言わずに運動性(motility)という用語を使ったことの説明になるのではないか、と思っている。trueとfalseの用語は「本当の自分探し」とか「嘘ついてるような自分」とかの日常的な文脈で使うなら共有されやすいと思うし日常語を使うこと自体は精神分析において初期から重要とされていることではあるけれど、これらって「本当とかそんなもん誰が決めるの」とか「そういう嘘は本当に嘘っていうの」とかややこし議論のもとにもなるので不適切、とは言わないけど記述の仕方にはものすごく注意を払わないと学問的な貢献は難しいだろうと思う。先日、藤山先生の『精神分析の深みへ』にあった分析を営む二人の空間の狭まりについて触れたが、ウィニコットでいえばこれは移行空間の生成が困難な状態といえるだろうし、移行空間がなければ自己の生成プロセスが作動することは難しいのではないか。移行空間の生成を阻むものが戦争だったり、両親の病気だったり、それを愛情剥奪というならその場合の「愛情」って母親のものだけではない。まあ、そういうこととかああいうこととか色々考えていたわけだよ。そういう時間を持てたのはとてもよかった。今日からまたバタバタか。がんばろー。

徳島で買ってきたお菓子「マンマローザ」。かわいいし美味しい。
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成人の日か。

きれいな夜明け。寒いな。

今日、成人の日かあ、と言ってしまったけど私は式典も出たことがないし、20歳にそんなに重きを置く子でもなかった(置くべきところは置くべきだった)ので自分のことよりいろんな子供たちのことばかり思い出す。もう18かあ、とか、もう振袖の準備してるのかあ、とか。男子のことはこのタイミングではあまり思い出さない。思い出す男子としたら成人式のヤンキーたち。正しさとかっこよさの基準が独特の子たちはこの儀式で何を変えてくるだろう。20歳になったらお酒、なのだろうけど、お酒は怖いよねえ。この前、鎌倉に行ったあと横浜にいってスーパーで湘南ゴールドのミックスナッツをつまみに買ってしまったけど。私は若いときはすぐに気持ち悪くなってしまったけど今は飲み過ぎない程度なら飲める。でも水分でお腹いっぱいになってしまうとお腹痛くなってしまうし、食べ物の方が好きだから困る。ほどほどって何事も難しいのだ。アルコールは体内の水分は奪ってしまうしねえ。それにしても湘南ゴールドっていつからこんなメジャーなのかしら。湘南ゴールドって爽やかな黄色い文字で書かれたお菓子ももらったりするようになったし。実物も食べてみたいな。

昨日は足利土産でココ・ファームのワインをもらった。私はここを知的障害を持った人たちが働く場所として当事者のご家族から知った。今は日本ワインのひとつとしての方が有名かもしれない。ココ・ファームの前に社会福祉法人「こころみ学園」があるわけだけど。

北関東出身の私からすると(そうでなくてもそうかもしれないが)足利といえば足尾鉱毒事件の田中正造による天皇直訴事件だが、旧宅の資料なども見せてもらったが直訴状を書いたのは幸徳秋水だった。知らなかった。口頭の説明では当日に正造が36ヶ所修正したとのことだったが、あとから調べたら40カ所以上だって。訂正印だらけではないか。そんなに長い文書ではないのに。よく引き受けたな、というか幸徳秋水なら引き受けるか。1901年に直訴で、秋水はその10年後には処刑されてしまうわけで、ほんと怒涛の人生だが、その後の影響を思えば、思えば・・・。うーん。死んでいいことは絶対にないからな。

今日も勉強しておしゃべりして楽しく過ごしましょう。

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精神分析の「営み」「空間」「できごと」など。

今朝は杜の色相環の「いろいろナッツのクランチケーキ」と熱い珈琲。八ヶ岳に住む友人が営むケーキ屋さんが年に3回送ってくれる。八ヶ岳の冬景色、素敵でしょうね。生活を営むのはステキさと大変さと。今朝の東京は風の音がすごいです。

「営む」と意識的に使った、というよりこの言葉を書くたびに注意がそこに向くのは藤山直樹『精神分析という営み』(2003、岩崎学術出版社)を読んでからかも。先日読んだと書いた藤山直樹の最新刊『精神分析の深みへ』(2025、金剛出版)の序章はこの最初の単著における「営み」という言葉の使用を掘り下げ、精神分析を「営んでいる」とはどういうことかが書かれている。「営み」は英語にするとどうなのだろう。著者は最初の本をどう英訳しているのだろう。act, activities, make love to,vividly portray,undertakingなど文脈によって使い分けることができるこの単語だが日本語の「営み」が持つ広がりを私も好ましく感じる。

広がりといえば第五章は「パーソナルな回顧」として当時はまだ新しかった「空間」という言葉で頻回の精神分析と週一回のセラピーで起こること、起こりにくいことが検討されている。『精神分析という営み』で書かれた事例が週一回のサイコセラピーであるにも関わらず多くの人に転移の衝撃を想像させたのは、著者自身が精神分析家になったことで、その衝撃に日々身を浸していたからだろう。土居健郎がその文章をJuicyという形容詞で表したのも、著者が「実感」という言葉を頻繁に使っていたのもそういうことではないだろうか。精神分析家に「なる」以前と以降と移行の時間を過ごした著者が空間の広がりよりもそれがなくなってしまったかのような狭まりのなかで体験した夢見が描写された実践的な章で私は好きだ。

著者は「できごと」という言葉を使う分析家という印象も持たれていると思う。第一章では藤山が精神分析実践を「できごと」と呼ぶ理由が「関わり」「交流」と比較して書かれている。とはいえ、いまや「できごと」という言葉もやや使い古した感じがあるのかそれほど違いが強調されているわけではない。むしろそれらが生じる、生じないということはどういうことか、そのための精神分析家の基本的な技法が書かれていると思う。非対称性をあえてそう捉えるものとしているところは密かに新しいのではないかという気がした。私は精神分析における「非対称性」が密かに、というよりかなりあからさまに精神分析における侵襲性に対する批判を示す言葉として使われていることでこの言葉の使用が思考を制限するようなところがあると感じていたので新しく感じたのかもしれない。これらの言葉はどれもプロセスであり、もっとも集合的な言葉が「できごと」だろうし、「それがない、生じない」というネガティブな面も自然に含みこむ言葉ではあるだろう。藤山は「精神分析実践で起きている事実は間主体的事実であり、ふたりの当事者のどちらもその全体を捉えることは原理的にできない(p37)」という。こういう部分を含むにも「できごと」という言葉は使い勝手がいい気がする。

フロイトは『夢解釈』を20年以上かけて改訂しつづけたが、精神分析のこのongoing性は言葉の使用がそのまま実践である精神分析にとっては当然のことでもある。大切にしたい。

外はまだ風の音。気温は高いのだろう。さっきようやく少し寒さを感じて暖房をつけていないことに気づいた。今日も明日も勉強だ。この1週間、バタバタと過ぎてしまったので少し落ち着こう。おやすみの人もそうでない人も良い一日を。

オフィスと反対側の初台駅入口の椿
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精神分析

QOLとか。

今朝も空がとてもきれい。うっすらピンクの広がり方が少し変わってきた気がする。昨日17時頃、オフィスの窓から明治神宮の方を眺めたときもなんか空の色が変わってきたと感じた。

さっき「今朝」を「ケア」と打ち間違えたのだが、高市さん、バリアフリー化は公費でしょう、と彼女のポストを見て思った。そういうところこそ公費でしょう。この前ここに書いた三上晴子の展示に行ったときに感じたことも思い出した。私は知覚が世界を捉える仕方を体験的に広げていく展示が好きで、友人や仕事で会う人など様々な障害を持ちながら生活している人のことを思い出すことも多く、じっくり体験する。豊島や直島の体験型の展示もそうだった。それらの内容が障害者のためにといっていなくても知覚に関わるすべてのものは障害の有無関係なしに私たちの生活や関係に関わるものだし、私の生活だっていまや老眼鏡がないと文字も読めないわけで、自分と世界のズレや他者との知覚の交差が可視化され俯瞰できることはとても有意義。三上晴子の体験型の作品の一部を車椅子の人が体験できないことがどうというわけではない。できないことはできる人が体験して、その差異を埋めていく工夫をしていくことの方が無理やり直接的な体験を提供して安全面を犠牲にするよりいいのは当たり前というかそういう雑な比較をしているわけではない。多くの場所は障害のある人と同伴者一名は割引などの制度を使える。徳島県鳴門市の大塚国際美術館では館内でも車椅子の貸し出しがあって車椅子の方も数人見かけた。あそこは世界の名画が陶板の複製画で見られて触ることもできるので楽しんでいる小さい子もいた。多くの子は寒いのにお外で遊ぶほうを選んでいたが。高市首相には世界との関係を雑に扱う前に身近な人のQOLを高めることが政治の世界に多様な人材を引き入れることにつながることをみせてほしい。亡くなった人を弔うことも大事だが、スピードが必要なのは今せっかく生きているのにその苦労や不便さを知りもしないくせに色々言う人たちと生きていかねばならない人たちが安心して暮らせる施策だろう、なんてことは私が小さい頃から表面上では言われ続けてきたことだと思う。雑といえば、なにかの制限に関して、酒気帯びとかと車椅子利用とかを並べて書くのはどうなのか、と私は思う。安全面の保証ができないという運営側の事情としては同じなのだろうけれどユーザー側からはどうだろう。こういうことを短時間でざっと書いてしまうのも雑かもしれないが、ある程度指まかせにしないと色々考えて結局考えることもやめてしまう場合もあるから。

それにしても休み明けのこの1週間、必要な本をほとんど読めなかった。臨床でうけるインパクトをそう簡単に形ある世界に切り替えることはできないので明日明後日をそういう時間にしよう。いろんな人の話を聞き、体験を聞くことは、自分の聞き方を問われるし、「単に聞く」ことは聴覚だけの仕事ではない。複雑な知覚世界を希望を捨てない人たちと共有していけますように。良い1日になりますように。

新国立劇場「初台アートロフト」の企画舞台衣装展
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精神分析

初台、圏論、うだつ

夜明け。日の出はまだ少し先。きれい。昨晩は星はきれいだったけど月は見えなかった。とても大きくきれいにみえたのは一昨日だったか。日常が始まるとあっというまに時間が過ぎて一日一日と思っていても気づけばもう1月も8日。あ、9日か。なんてことだ。

正月気分はすっかり抜けたが、トランプ政権のベネズエラ攻撃、ミネアポリスの事件に思考停止が続いている気もするし、日本の政権の無思考パフォーマンスに未来を握られている一国民としては思考しないといけないけど暗澹たる思いが先にきてしまうし、変な頭痛とかなり明確な不安にやられている気がする。

オフィスのある初台駅という新宿のお隣なのに京王新線という迷子になりやすい路線の駅周り情報を少し発信しようと初台駅直結の東京オペラシティのNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)でやっている展示のことをポストした。それが息抜きになったかも。オフィスのある初台を地元、実際元地元として大切にしたいし、ICCでやっている三上晴子の展示のことを思って圏論についても少し学べたし。

重力に弱い私は自分の行動がデータとして可視化されるのを目にするだけで酔ってしまうが身体を装置に馴染ませることとか、対象ではなく関係を取り出していく三上晴子の展示は精神分析における視覚、聴覚の使い方とか、障害のある人への身体的関わりを考えさせられる。そこで圏論を学ぼうと思ったわけ(うまく説明できない。よくわかってないから。)。圏論は数学界でもまだ新しいアイデアだと思うけど昨年、加藤文元『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』 (ブルーバックス B 2313)が話題になっていて面白そうと思っていたのだ。

私は高校はバイトに明け暮れていたし勉強の意義がわかったのが大学からだから基礎的な数学からよくわかっていないが、そうはいっても30年以上は楽しく勉強を続けてきているので勉強をすること自体にはいい加減慣れている。読書は小さい頃から慣れているので難しい本も粘れる。しかもこの本に関してはわかりやすい説明の動画もいくつかある。それでも時間がなければ理解できるものもできないよ、というのが今の不満。面白そうなのにファミレスのハンバーグのメニューしか思い出せない。あとミルクボーイの「もなか」ネタ。おなかが空いていると特に。うわっ、めっちゃおもしろい、と理解とともに没頭できる知性がほしいがそんなものはない。だからとりあえず時間をかけたい。祝日も一日セミナーをいれてしまったし、自分の領域で読まねばならないものもたくさんある。あーあ。今度思い出すときには「もなか」のネタの人誰だっけ、とか違う話になってそう。

今朝は徳島県美馬市脇町の川田光栄堂さんのラグビー饅頭。開けたらラグビーボールのデザインでかわいい。シナモンの香りがすでに美味しい。うだつの上がる街並みで有名なうだつのスーパーで買った。年末年始はどこもお休みで街並みは静かにお散歩しただけだったけど、小さな川を越えたところにあるこのキョーエイ脇町ミライズ店は地域交流センターというきれいな建物の一階で、年始を迎える地元の人たちですごく活気があった。地元お菓子コーナーも休憩所もあってそこでは川田光栄堂さんの「脇美人」というお赤飯を包んだお饅頭をペットボトルのお茶といただいた。これも美味しかった。JR穴吹駅からタクシーで約10分。吉野川に面して舟運にも利用されていたとのことだが、そのことは地元の人もあまり知らないけどね、みたいな話をタクシーの運転手さんがしていて「へー」と聞いていたのだけど見れば観光客の私にも「あー、ここは昔は舟を使ってたんだろうなあ」と思わせる壁や地形だったので、運転手さんは何か別のことを言いたかったのかもしれない。吉野川の穴吹と脇町を結び脇町潜水橋の方を通ってくれて渡れたのは嬉しかった。いわゆる沈下橋。四万十川で渡って以来ファン。橋って結構簡単に流されてしまうそうで、色々工夫が重ねられてきたそう。吉野川はとても豊かな川でこれが香川にも流れこめば溜池をいっぱい作らなくてもよかったのかもしれない。香川の地形も独特で割と高い山に囲まれた群馬県生まれにはびっくりな穏やかな地形だったな。

旅のことならいくらでもかけそうだけどもう行かなきゃ。もう行かなきゃ、というとレベッカのLONELY BUTTERFLYを続けて歌ってしまう。

今日は金曜日。がんばろー。

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精神分析

藤山直樹『精神分析の深みへ」を読んだり。

今朝の夜明けもとてもきれいだった。戦争中の国の空はいつも曇っているのだろうか。すごく悲しい。自分がちっぽけであること、特別な力など何もないことを実感できない人生では人を弔うことも次世代を生かすこともできない。なんか眩暈がする。

昨日は藤山直樹『精神分析の深みへ』をようやく買って読んだ。昨年11月の学会のときに買うのを忘れて、ブックファースト新宿にもなくて紀伊國屋で平積みされているのを買った。Amazonで買ってもよかったしKindleの方が安いけど藤山先生のこれまでの「精神分析〜」シリーズ3冊は本で持ってるから揃えたかった。精神分析の実際を知るには一冊目の『精神分析という営み』が圧倒的だけどその「営み」という言葉自体を吟味する仕方とか、自分で言ったこと書いたことに正直な感じが藤山先生の良さなのだと思う。日本の精神分析家は当たり前のようにフロイトに戻り、始める、を繰り返している(つまり回帰か)印象があって、日本語を使用しているという点にも感受性が豊かなのがいい。今や私もフロイトを読むことを日常としているわけで、それは先生方が自然に染み込ませてくれた姿勢なんだと思う。藤山先生は実際に会うとこんなスッキリと落ち着いた文章を書く人とは思えないけど、実際のやりとりでものすごくインパクトを受けたという人は大勢いるわけで、もともと舞台の人でもあるし、落語もやるしアリストテレスのいう「ストーリー」を構成する力に長けているのだと思う。即興かどうかで見せ方が変わるだけで。精神分析自体、基本は即興なわけだけど即興を可能にする基盤はものすごく基本的な作業(訓練)の積み重ねになる。こういう言葉は使っていないけどこの本は精神分析家「になる」ことについても言葉にこだわりながら細やかな吟味がなされている。現在の日本の精神分析をめぐる基本的なトピックを精神分析の本質的な議論を背景に押し付けがましくなく差し出すような、というか個人の思考プロセスが提示されているだけといえばだけだし、そこでいう「個人」に内在する多くの他者との対話に基づく思考であることに自覚的な著者が書く文章はこちらにも自然に入ってくる。「これが書いてない、あれが書いてない」と言いたくなるような状態でなければとても上質な読み物だと思う。びっくりしたのは俳人でもある藤山先生が精神分析のことを書いた俳句は2句だけだということ。あれだけ俳句の話をしているのに。この2句はフロイトという大きな存在と対峙する自分と、ちっぽけな自分が繰り返す仕事に潜む仄暗く匂い立つ花のような質感というセクシュアリティの学問である精神分析がもつ孤独と親密さを私は感じた。というか、この本は精神分析がセクシュアリティの学問であることを事例以外から読み取るには意識的な思考が必要で、俳句という17音の力はやっぱり大きいと思った。俳句、作ろう(という勧めは特にされていない)。

東京はいいお天気。良い1日になりますように。

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精神分析

生涯発達、土居健郎選集2

真っ暗。今朝も月は明るいかな、と少し外に出たら雨?みたい。天気予報は曇のち晴れ。ハテナがつくくらいの雨だから止むのでしょう、きっと。

年末年始はひたすら歩いていたので久々の筋トレもいつも通りこなせた。もっとこうしたらきれいなんだけどな、と自分でわかっていてもできない部分がいつもあるけどどこをどうすればいいかだいぶわかってきただけ成長。生涯発達というのは私が学部生(発達心理学科)のときに流行った言葉のような気がする。お世話になった鈴木忠先生がその後、エリクソンをビオンたちと交差させて本を書いていらした気がする。なんでも「気がする」ばかり。困った困った。

昨日は、土居健郎選集2をパラパラした。愛読書だったが、江口重幸による解説を読んでいなかった。読んだら私が土居について思うことは半分以上書かれていた。まあ、私が考えるようなことは大体他の人がすでに考えているのは自明のこと。問題にしなければならないのはそのプロセス。思考は常にプロセスとセットなので、私は私でなぜそう考えたかということを考えねばならない。ややこしや。

会えばたくさん喋ることがあるのにほぼ年賀状のやりとりしかない人がとても嬉しいことを書いてくれていた。小さな言葉が大きな力になる。そういう効果を私も発揮できたらいいが。

今日は水曜日。とりあえず風邪ひかないように水分補給と暖かさ維持。がんばれるとがんばろう。

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春、第九の里、詩学

今朝の夜明けは雲が多いなあ、と反対側の空を見上げると月がとても明るくてびっくり。おはよう。

昨日は仕事始めでなんでもないいつも通りな感じで仕事をしてきたがやはり何かが違う気がする。心身ともにまだ正月気分、というわけでもないけど、昼間、外に出たらとってもいいお天気で鳥たちが賑やかに飛び交っているのが聞こえてなんかもう春ではないか、と思った。そっちのほうを見上げるとあれだけたわわだった柿の木の実が数えるほどになっていた。新宿中央公園の木々もすっかり色が落ちて冬枯やという様子。

きしきしと帯を纏きをり枯るる中  橋本多佳子

こちらは冬景色ね、とダウンを脱ぎながら歩いていたらピンクの梅が!ここの梅は実がなるまでずっと楽しませてくれるのです。

探梅や鞄を持たぬ者同士  櫂未知子

探梅行かないとね。俳句も作らないとね。お正月はいい景色をたくさん見たのだから。

今朝は徳島県鳴門市の道の駅「第九の里」で買った「第九クーヘン」。鳴門市産のさつまいもと徳島県産のはちみつを使った焼き菓子。粉砂糖がきれい。

第一次世界大戦中、徳島県鳴門市大麻町桧につくられた板東俘虜収容所。その「バラッケ」(バラックのドイツ語)を一部移築、復元した物産館で買いました。年末、いろんなところで歌われたであろう「第九」を日本で初めて演奏したのがここにいたドイツ兵俘虜たち。楽器も最初は手作り、プロの音楽家が数人いたことで作られた即席楽団。最初の演奏は1918年6月1日。お隣のドイツ館には当時の収容所の生活、地元の人たちとの交流、それを支えた所長の松江豊寿のことなどを知れるきれいな展示室があります。「そもそもさ・・・」と複雑な気分にはなったけど。戦争はしてはいけない。なんでそれが当たり前にならないんだろう。ドイツ館の前は広場で松江豊寿とベートーヴェンの銅像もあった。最寄駅は坂東駅。小さな無人駅だけどこの日は徳島県一番の大社、阿波國一の宮大麻比古神社に向かう人たちでそこそこ混み合っていました。私が乗ったときは一両の汽車(ディーゼル車)でみんな座れるくらいの人数だったけど車窓から見えた車の列はどこまでも。大渋滞で、バスは前もって運休。「第九の里」からバスで空港に向かう予定だったのに気づくのが遅れた私たちは大慌てで坂東まで戻り徳島駅から空港に向かったのでした。なので「第九の里」の敷地内にある社会運動家の賀川豊彦の記念館は20分くらいしかいられず。いい資料館だったのに。オフィスと同じ京王線の上北沢駅にも松沢資料館があるので今度行ってみよう。賀川豊彦はアインシュタインやガンジー、ロマン・ロランとも会っていた。フロイトと同じじゃん、と思ったけどフロイトはガンジーには会っていないか。「第九の里」に行く前に初詣した大麻比古神社もよかった。参拝の列に少し並んだけど明治神宮とかと比べると普通に参拝できた。境内にはドイツ兵士が作ったドイツ橋も。技術大事。

今年の隙間時間、読始めはポール・リクール「時間と物語」(久米博訳)の訳者あとがき。難しいに違いないから分かりやすそうなところから。アリストテレスの『詩学』が始まりから出てくるのか、と急に身近になった。『詩学』はいくつか邦訳があるけど光文社古典新訳文庫の三浦洋訳は、本の半分が解説になっていてありがたいし読みやすい。「ミメーシス(模倣)」と「固有の快」の間に「ストーリー」があるのだと思うのだけど、難しいこと考えなくてもこの本は読んでるだけでなんか楽しい。難しい芸術論を読むより楽しい。なんでだろう。リクールも楽しく読めるといいな。

ということで今日は火曜日。がんばりましょう。

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Netflix お菓子 精神分析 精神分析、本

仕事始め、徳島、アンナ、グリーン

1月5日(月)。まだ真っ暗です。仕事はじめ。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年も精神分析の古典を大切に、一番新しいジャーナルをウィニコット、オグデン、グリーンの考えを軸に拾い読みしつつ、隙間時間は小説や哲学の本を楽しんでいくことになると思います。読書と運動はどんな短時間でもできるのがいいですね。睡眠もほんの少し寝る、ということができるけど寝入りも寝起きも自分でコントロールするのが少し難しいです。食べるのも欲を抑えるのが本当に大変。今朝のお菓子は所沢の「お菓子の工房エミール」さんの狭山ケーキ。抹茶色のレーズンがはいった小さな焼き菓子です。おいしそう。年末にもらったルピシアの「福づくし」から今日は抹茶黒豆玄米茶と一緒に。あ、両方、抹茶になっちゃった。おいしいに違いないからいいか。うん、おいしい。所沢は昔友達の家にいったことがあるけどそれから下りたことあったっけ、と何度か思ったことあるから多分あるんだと思う。東所沢は角川武蔵野ミュージアムにいくので降りたことがある。あそこ楽しい。今年もいろんな街を歩いたり、いろんなお菓子屋さんを知りたいな。お正月明けはいろんな土地のお菓子が集まるのも楽しみ。

年末年始は徳島県にいたのだけど徳島駅から歩いて10分ちょっとかな、眉山のロープウェー乗り場(阿波おどり会館内)のそばの寺町の一角にある「和田の屋」さんの「滝の焼餅」がとてもおいしかった。お部屋も素敵だった。赤ちゃんや小さい子を連れたご家族は大変そうで思春期の子と母の二人組はとても静かで子供はずっと本を読んでいた。なんの本かなあ、と思った。お母さんがおじいちゃんと話しはじめるとお母さんを小さな手でバンバン叩いて振り向かせようとしていた子は焼き餅はあまり好みではなかったみたいだけど「すぐにこられる場所じゃないんだよ」といわれていてむしろ私が「ほんとそうだな」と思った。大切に味わった。おいしかった!その子もあれこれお母さんの関心を向けつつ食べさせてもらったらおいしそうに全部食べていたからおいしさとは、と思った。保育園にいくと給食の時間は修羅場のときやところがあるのだけどやっぱり「美味しさとは」とよく思ったな、そういえば。今年もたくさん「おいしー!」ってニコニコしたり、ほっぺぽんぽんってできたらいいね。

さて、昨日はNetflixで「令嬢アンナの真実」をみた。大掛かりな詐欺を次々と成功させてきたアンナと女性ジャーナリストの関わりを軸に、娘と父、出産を控える母親の仕事と夫婦と職場、赤ちゃんの時間と若者の時間など永遠のテーマをうまく盛り込んだ実話ベースの話だった。本物のアンナは放映権をNetflixに売り込んだ金でまたもや豪遊していたそうだから人間のそういう部分って変わらない。すごく面白かったし、「ラブ上等」に対するいろんなコメントのことも思い出してちょっと考えてしまったな。

さてアンナをみつつぼんやり“Key Ideas for a Contemporary Psychoanalysis Misrecognition and Recognition of the Unconscious” By Andre Green がどんな本だったかをチェックしていた。2023年12月にも読んでいた時期があったらしいが全く覚えていない。今回は原書のフランス語版にむけて書かれたペレルバーグの書評Jozef-Perelberg, R. (2005) Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine d’André Green. Revue française de psychanalyse 69:1247-1261をみつけたのでそれも読みつつ目次を確かめつつ、今読むべきところを探ってみた。フロイトの「否定」論文は何度も読むべきものだけど、その「否定」では表せないだけでなく、精神分析実践ならではの心の動きを示すのがグリーンの「ネガティヴ」という概念だと思う。ネガティブはとらえどころがないからネガティブなのであってそれがwork(作業、仕事)できる心かどうかが精神分析プロセスを追うときの大切な指標になる。心とか主体とかあるんだかないんだかみたいなものを想定せざるをえないのはなんらかの動きを感じるということが起きたとき。ふと感じられる主体が現れるとき。時間が動くのとセット。それまで止まっていた時間が。「あれ?どうして今これ思い出したんだろう」「今ふと思い出しのだけど」と不思議そうに現れる気持ちは過去の出来事とつながっている。「あれなんで泣いているんだろう」とかも。過去は単なる時間ではないのだ。情動とくっついて時間として現れる、のでは?時間に関しては今年はベルクソンに加えてポール・リクールを読みましょう。積んであるからね。あとアガンベン。人は生きていること自体が行為になってしまうから色々難しい。さらに言葉も持ってるからややこしい。今年もそんなめんどくさい自分とつきあっていきまっしょい。

今年も、まずは今日、まずは朝起きるところから、と小さな時間を作ってがんばりましょか。どうぞよろしく。

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テレビ 精神分析 精神分析、本

1月4日(日)

早寝早起きができたお正月、素晴らしかった。毎日、軽い山道を含め2万歩前後は歩けたし、お菓子もたくさん集まって幸福。明日から仕事も筋トレもまたがんばれたらいいな。

一方、年末年始は夢で普段の仕事をしていることが多く、精神分析的な意味での夢作業はどうなってんだ、という感じがする、とともに普段の生活が夢見の余裕をなくしている気もする。この辺もどうにか改善しないといけないが、生活に合わせてできることをやっていくほかなさそう。

今朝は5時前に起きたがパソコンの前に座るもぼんやりしてあっとまに時間がたち、ようやくパソコンを開いてネットニュースをみて悲しくなり、ホットカーペットに座り込んだらまたすぐ時間がたち、あっというまに日の出。きれいな夜明けをみられて少し持ち直した。

どうにか目を覚まさなければと休みの間はほとんど飲んでいなかったコーヒーをいれた。お菓子はなににしようかなあ、と賞味期限とか色々確認していたらどれも適しているような気がして大いに迷った。時間があるって素晴らしい。結局、しばらく前にもらった埼玉県ではおなじみの十万石まんじゅうで有名な十万石ふくさやのはにわさぶれを食べた。細長い埴輪の形してるきちんと穏やかな顔してる。かわいい。おいしかった。長野県茅野市にも埴輪のかわいいお菓子があったなあ、と思ったけどあれは土偶か。埴輪と土偶って何が違うんだっけ、と思ったけど実際、埴輪をみたら土偶とは思わないし、逆もしかりだから違っているのはわかる。でもなにが違うのだろう。どっちかというと土偶は繁殖のイメージ、埴輪は死者の弔いのイメージだよね。どうなんだろ。あとで調べてみましょう。

私が長年愛用してきたMacBookAirが色々限界を示してきたのでしかたなくパソコンを買った。とても軽いのはとてもいいがマックのバッテリーはすごかったんだな、と思う。電源なんて持ち歩いてなかったもの。最初は慣れるのに時間がかかるかなと思ったけど意外と大丈夫だった。どうなってんだ、と困ることもあるけど一度解決すればなるほどそういうことかと学べるしなんでも使いながらですね。さっきも突然キーボード使えなくなって困ったばかりだけどMacで調べようと開いたとたんになおった。なんなんだ。

明日からまた朝ドラ「ばけばけ」がはじまる。お正月特番(?)のインタビューもみた。『小泉八雲のおもかげ ばけばけトミー・バストウが巡るアイルランドとニューオーリンズ』も興味深いことが色々あった。移動の多い人生だ。

次に読むアンドレ・グリーンの本をしつこく探していてLa Clinique du négatifはどうかなあと思ったけど英訳もなく、どの論文が入っているかもわからない。André Green Revisited
Representation and the Work of the Negative
Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine
Copyright 2019はグリーンを引用して何か書く場合に非常に参考になりそう。著者はRene Roussillon、Jean-Claude Rolland、Howard B. Levine and Anna Migliozzi、Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky、Fernando Urribarri、Claudio Laks Eizerik, Lucian Falcão and Zelig Liberman、Marie France Brunet、Talya S. Candi and Elias M. da Rocha Barros、Rosine Perelberg 、Francis Baudry。

ペレルバーグのRepetition, Transformations and Après-Coupだけでも読めないかなと思ったけどpepにはなかった。The Controversial Discussions and après-coup(2008)が参考になるかな。

こんなこといっていないで今日は昨日思い出した頼まれ仕事をせねば。表に出ない仕事ばかりで特にお金にもならないけど大事な仕事。役に立てたらいいな。

良い一日になりますように。