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精神分析

メッセージとか

朝の空じゃないみたいな色。夕方みたい。梅雨に入ってもまだくもりが多い。傘は持ち歩いているけど。関東は今日はにわか雨が降るかもだって。

誰かと親密になることを対人関係の目的にする必要はないと思うけど、回避しつづける関係はそれはそれでいいけど、親密になるならお互いを思いあえる関係の方がいいだろう。傷つけあうことを快楽とする場合もあるが、それも単純なものではない。自分が人にどういう態度をとっているかは怒りの表現でわかることが多い。怒りは結構自覚しにくく衝動的に表出されやすいものなのでそれが関係を一気に変えることはすごくありうる。多くの人が経験済みだろう。出せば伝わるものではないのがメッセージであり、子供と大人のコニュニケーションともなればなおさらだ。フランスの精神分析家ラプランシュは以下のようなことを言っている。今ラプランシュが手元にないのでAnat Tzur Mahalelの Routledge, History of PsychoanalysisシリーズのReading Freud’s Patients: Memoir, Narrative and the Analysandから孫引きしたのを訳してみる。

“メッセージという概念には、すでに存在し、主体に先立って存在する意味が主体に提示されるという考えが含まれている。しかし主体はその意味の主人ではなく、それに身を委ねることによってのみ、その意味の主人となりうるのである。

また、謎という概念によって、決定論には断絶が生じる。なぜなら、謎めいたメッセージの送り手は、自らが意味していることの大部分を知らないからであり、また子どもは、自分に伝えられたものを構成し理論化するための不十分で未熟な手段しか持たないからである。

したがって、一方にある親の無意識やその言説と、他方にある子どもがそれらをどのように受け取り処理するかとのあいだには、直線的な因果関係は存在しないのである。”

(Laplanche, 1999, p.160)

以上のことは本当に大事なので心に留めておきたい。

6月もやることが多いのにもうすぐ半分が過ぎてしまう。今日もがんばろう。

代々木公園
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精神分析

ジビエとか。

今日は関東は涼しいみたい。湿度高いけど涼しい風も時折吹く。昨日は朝は結構厚着をしていたけど昼間と夜はそんなに気温差もなく、上着も着ないで帰ってこられた。

先日、友人夫妻にジビエ料理のお店に連れていってもらった。

鹿肉のデミグラスソースがさっぱりしていて美味で、友人が頼んでいた猪のお肉もとてもきれいだった。自分たちでとって解体してこうやって料理する。いろいろお話も伺ったがプロセスを実際に経験している人たちの言葉は気持ちよかった。

連翹や大きな鹿がいつの間に 岸本尚毅

私たちを送ってくれた帰り道、猪に遭遇した、と写真を送ってくれた。私の生活は猪や鹿が身近ではないけど、少し足を伸ばせばそういう生活がある。宇都宮にも熊が出たが、身近でないと思っていても生活圏のバウンダリーがはっきりしているわけではないのだからこれまでもありえない話ではなかったのだろう。誰も危険にさらされてほしくはないが。

こう書きながら熊が出てくるインパクトの強い文学作品があったなあ、と思っているのだけどなんであったか。最近のではなくて。宮沢賢治か?でも外国文学だった気もする。そのうち思い出したらまた読んでみたい。全く覚えていないだろうけどまたインパクトは受けるのだと思う。

今朝はルイボスティーとか皮のまま食べられる葡萄とか。ルイボスティーって本当にいろんな種類がある。すごく好きというわけではないけどなんとなくいつも置いてあってなんとなく飲んでいる。大人になってから知ったお茶だと思うけど大人になってからがもうすごく長いのでいつのことだったか忘れたな。

6月は全然休みがない。どうせ雨だから屋内がちょうどいい、と思うことにしよう。もう10日か。いろいろ間に合うのだろうか。がんばろう。

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対象の使用とか。

梅雨だ。とてもそれらしい雨。

形なきものの影濃き梅雨の家 宇多喜代子 『雨の日』

もうしばらくしたらきっと

化粧して梅雨に慣れたる体かな 岸本尚毅 『第二句集 舜』

どの季節も日常を淡々と。

花にいきなり触れる人、花をいきなり手折る人をみるとびっくりしてしまう。たまたま目にはいっただけなのに、自分のものにしても見ようともしないだろうに、その場の衝動をおさめるために対象を使用する。それは精神分析家のウィニコットがいう意味での「対象の使用」ではない。使用の前には常に想像/創造が必要。ためらいのなさとはいきなり近づいて触れることではない。雨の季節、傘についた雨粒の行方をおもう。

人は形を変え、相手を変え、驚くほど同じことをやっていたりする。精神分析ではそれは反復と呼んできた。分析家のほうには別に見えるものを同じとみなすための枠組みがあるが、本人がそれとあれとこれが同じ、と気づくには時間もエネルギーもいる。同じといわれればそんな気もして、ついなんでもかんでも同じ構造で説明したくなるというような奇妙なことも起きる。いわれたら囚われる、いわれるまで気にならない。囚われは精神分析でなくても重きを置かれる状態だろう。森田療法とか特に。

あさごはんを食べすぎておなかいっぱい。仕事までにしゃきっとできるかな。今日もがんばりましょう。

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週末

関東も梅雨入り。シトシトシトシト雨が降っている。関係ないが口の中が痛い。どこかの粘膜がやられてしまったのだろう。

昨日は同じ路線で乗り換えつつ一時間くらい電車に乗ってでかけたがずっと立ったまま本を読んでいた。途中、座ろうと思えば座れたがストレスの少ないほうを選んだ。

久しぶりに没頭気味の読書をしたが、それでもほとんどの本は読みかけのまま積まれたりする。若いときの日曜日は1日数冊読んだりしていた。読書はその時々の自分と時間の関係を示している。大人になっていろんな機能が落ちているせいなのかなにやら別の要因かわからないが、小説の読み方が随分変わった気がする。ぼんやりした状態でなくてもなんどもなんども同じ文章を追うことが増えた。内容よりも音からなにかを得ているような。それだけでなくなんとなく正確に文字を追いたいという気持ちも強くなった気がする。いろんな作家の文章を知ったせいもあるし、身体感覚が変化したせいもあるのだと思う。

久しぶりに砂浜を歩いた。海に近い庭園の土はすでに海の砂まじりで明治の頃は松林の向こうに海が見えたそうです、というお話からその景色もたやすく想像できた。海が近い土地は独特の空気がある。私は海なし県育ちで海をどこかとても怖く感じてきたのでそこにいけばいつも、普段なにも感じていない身体部位を刺激されたような気持になる。大正12年(1923年)、関東大震災で海底や地盤が隆起し景色が変わったときいた。

海が似合う大きな犬とも仲良くなった。犬らしい警戒心を残しつつも次第に耳を垂らしそばでくつろいで時折鼻をぐっとくっつけてくる様子がとてもかわいくて嬉しかった。動物とはじめましてをするときは保育園で0歳児クラスにはいるときと似たような気持になる。繊細でやわらかきものたちと距離をはかるのは少し緊張する。その緊張で相手も緊張してしまわないようにと自分をコントロールするような気持にもなるが、基本、自分のコントロールというのは難しいものなので経験を生かしていくという方向になる。

いろんな土地に行っていろんな人と出会ってきたことで身体も感覚も変わってきたのだろう。読書体験自体が無数の自分を空想させる機会にもなるのでそれにもずいぶん楽しませてきてもらったのだと思う。良い週末だった。今週も頑張ろう。

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実感とか

まだまだ朝と日中と夜の気温差が大きい。梅雨前は毎年こんな感じか。今朝も長袖。

今朝は桑名のおみやげ「焼きはまぐりサブレ」をいただいた。サブレはなんでもおいしいしいろんな形のサブレがあって楽しい。「その手は桑名の焼き蛤」という表現を最初にきいたのは親からだと思う。私とのコミュニケーションではなくて、なにかの出来事とかニュースとか映画とかそういうものに関してだろう。私はそう応答させるようなふるまいをした覚えがないから。覚えがないだけでしたのかもしれないが。なんにしてもどこできいたとしても小さいときの私にはハテナだっただろう。食べ物系の表現でこりゃ面白いなと思ったのは「目黒のさんま」だ。これは落語だから当然面白いわけで大人側も単に意味を説明するというよりは演じる感じで教えることになる。たぶんそれが面白かったのだろう。

俳人の西村和子さんが季語を実感してほしいといっていたが本当にそうだな。最近だったら新緑、若葉、薔薇、つばめ、紫陽花に季節を実感したか。もう少ししたら「梅雨に入る」になるか。

実感というの精神分析臨床においても最も大事な感覚だと思う。AIにはもっとも難しいものではないだろうか。直感もそうかな。

この前、居酒屋の店主が自分は飽き性だから同じ酒を置いておくのがいやで毎回変えているといっていた。日本酒の種類が多い店だったのでこの量を毎回変えていくってすごいことではといったら直感でいい酒が手に入るとのこと。たしかにおいしかった。長年、酒と肴・魚と付き合い続けた結果、獲得された能力としての直感でこうして私たちにいい時間をくれる仕事。温暖化も外交も彼らの仕事を追い詰めつつあると思う。店は私くらいの年代の人が多く満席だった。変わらずありつづけてほしい。守られてほしい。

来週末は日本精神分析協会の学術大会。福岡支部の人たちとも会えるし、昔からの友人たちも申し込んでくれたというし楽しみだな。精神分析学会にはいかないけどこっちには毎年きてくれるというのは協会がまだそういう個人的なつながりを生かせるくらい小さいということだけど大きくなっても(ならないかもしれないけど)学術面ではずっと対話可能空間であってほしい。

東京はくもり。お昼過ぎには雨マークも。季節を感じ、季語を実感し、うわすべりしない言葉で対話できる日曜日になりますように。

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『大濛』をみたり。

今朝も涼しい。ネットで調べてごはんを時短で炊いた。途中、気になって蓋を開けたりしたから少し硬い。

昨日は寒いくらいだった。厚手のパーカーを着て歩いてたら少し暑くなったけど。帰り道はパーカーのジッパーを首までしっかり上げて早足で歩いた。風が強いとすぐに体温を奪われてしまう。陽射しが少しでもあると一気に気温が変わることにも驚くけど。昨日、新宿中央公園を横切ったときに思った。新宿中央公園がイベント中だけどその手前の都庁のバリアフリールートが今工事中。別のルートもあるのかな。屋根がある通路や地下道があるのは助かるけどそれでも都庁へ通勤する車椅子の人が大変そうなのを時折見かける。朝は人が多いから誰かしらが声かけをしているのも見るけど通勤だけでとても体力を奪われそう。居場所づくりはよく問題になるけどそこへ至る物理的な道づくりも課題だねえ。

Netflixで台湾映画、大濛(だいもう/A Foggy Tale)を観た。言葉と絡めた台湾の歴史を知らねばと思わされる映画だった。あまりよく知らずとも想像される歴史だけでも、そこを生きた人たちを思うだけでも胸に迫るものがあり、映像も配役もすばらしかったが、この重たさはメッセージとして受け取り解読する必要があるのだと思う。台湾の人が解説したブログが良いらしいのでそれをまずは自動翻訳で読んでみようと思う。自動翻訳で読んで誤った歴史認識をしてしまったらどうしようとも思うがいろんな本を合わせて読めば標準的なことは知れると思うのでこのあまりに知らない状況をまずはどうにかしようと思う。

1週間が恐ろしく早くすぎるが夏休みの予定をお伝えしはじめたりしている。2年後のIPA大会に演題を応募したいが、それは間に合わなそう。すっかり締切を忘れていた。バラバラと仕事を引き受けてしまったのでそちらをまずはやらねばならない。

今夜は寝不足を解消したいがとりあえず今日もがんばりましょう。東京はくもり。気温はこれから少しあがるのかもだけどあったかめの服装にしてしまった。用心用心。各地でいろんなお祭りやイベントが増えている。もうすぐ梅雨入りだけど元気出していこう。

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6月5日朝

鳥たちの声がまだ少し遠い。月がまだ高い場所にある。寝る前にみた月もたいして変わらない位置にあった。寝不足ということ。夏の夜明けは西側のマンションが珊瑚色に染まるのがきれい。時折足元に涼しい風がスーッと抜ける。時折寒いくらい。

片付けも大分進んだ。紙類の処分が悩ましいが地道にやろう。

古文が好きで高校生の頃はよく読んでいた。おとなになってからは人の本経由。河合隼雄の『物語を生きる 今は昔、昔は今』(小学館)とか。殺人がない平安時代の文学では攻撃性がどう描かれたか、とか心理療法にも示唆的なことが多く書かれている。河合隼雄だから主にそれが書かれているのだが古典のブックガイドとしてもいい。私も人間の様々な心模様はほぼ本から学んだ気がする。現実の人間より掘り下げが深いし。色々書き始めると長くなるから今はがまん。

今日も一日頑張りましょう。

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天安門事件の日

夜明け前の空がとてもきれいなピンクだった。台風は東京をあっけなく過ぎたが電車はすいていた。他の地域はどうなのだろう。私の仕事も自然災害は経済状況に響くので辛い気持ちになる。

今日は中国で1989年に起きた民主化運動「天安門事件」から37年。今年は遺族の人たちの墓参りまで禁じられたという。言論統制の徹底が引き起こすことを思えば日本もこのままではいけないという危機感を持つ人のほうが多いのではないかと思うがそうでもなさそうなのが怖い。台湾での追悼集会に少しだけホッとする。

天安門事件以降、冷戦終結、1992年以降、経済の高度成長期に入った中国の学問的なあり方もずいぶん変わったときく。外とつながりはじめること、言論を封じ込める圧力に抗うには啓蒙だけでは無理だろう。内で語れないことを外が語るということもやめてはいけないし逃れ続けるならそういう弾圧に対してであって自分の嫌な部分からではない。実際、哲学の分野ではデリダとハーバーマスの訪中と交流による影響はとても大きかったという。

うーん、色々考えてしまうな。今日も色々あるかもしれないけどみんなでがんばりましょう。

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台風

雨がすごい。空気が重たく感じるくらい湿気もすごい。テスト期間中の学校もあると思うが休校になるのかな。授業はオンラインに切り替わったところもあるみたい。みんな無事が基本。気をつけて過ごしましょう。

学術大会の原稿をなんとか送ったので次の書評の仕事に取り掛からねばだけど隙間時間に一気に書いて疲れ切った頭ではどうにもならず、ダラダラと岡田温司の『アガンベンの思想圏』をめくっていた。アガンベンの「瀆聖」というのがとても興味深い。内と外をたくみにごっちゃにしていく思考はよくわからない宗教的なものにのっとられがちな今こそ必要ではないか。今はその後に切断できる準備ばかりする社会になってる気がして怖い。緻密に緻密に人間らしさを取り戻していきたい。

原稿を書きながら俺はいつも同じことばかり言っていると思ったが自分が探求したい方向性がそうなのだろう。やりたいだけ繰り返しながら少しずつ別の軌道へ、というのはむしろ精神分析的。

今日はのんびりしてしまったので時間がなくなってしまった。被害のでている地域のみなさんもどうかご安全に。

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循環

風が涼しい。台風が近づいてる。

最初、というか、もうずっとだけど家族というものが維持されている不思議について考えなければいけない時代なんだなあと思う。その単位が基本と思わないように、思わせないように、など。

週末に完成させられなかった原稿、平日の隙間時間にやるのは本当にきついがしかたない。まあ、なんと大きなものを残してくれたものか、土居健郎。私に実践が伴っていなかったら対話などできなかったかもしれない。精神分析を受けて、自分も患者を持って、指導する側にもなってという循環ができてやっと思考が可能になる感じ。でもそれを形にするのはまた別の話。とても時間がかかる作業。今は長い訓練で得たもの形にしている側面が大きい。これはこれでやらねばと思っていることではあるけど。

とにかくいただいた猶予を大事にせねば。良い一日になりますように。

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知床の自然とか。

昨晩の月がとてもきれいで何度もカーテンの向こうをのぞいてしまった。沖縄本島地方及び周辺離島と宮古島地方に暴風警報だって。大変なことだ。どうぞお気をつけて。関東はくるとしたら水曜日かな。今日はひどく暑くなるらしい。

昨晩、作業しながらNHKスペシャルをなんとなく流していたら、温暖化などでエゾジカがこの10年で急増し、ヒグマを脅かしているとのこと。ヒグマの食糧となる草を先に食べ尽くしてしまうらしい。そしてヒグマもエゾジカも食べないハンゴンソウばかりが茂ってしまう。うーん。自然の循環、恐ろしい。もちろん人間にもすでに影響が出ている。結局最後までなんとなく見てしまったのだが知床のあまりにも美しい自然の中で起きている現実にとても悲しくなってしまった。知床のネイチャーツアー、あれは原生林トレッキングだったか、すごくよかったけどもう行けなくなってしまうのかな。当時も車から野生動物たちを見たがクマの注意はそんなにされた覚えがない。むしろ人間の足跡が立入禁止のロープの外まであることに驚いた。ほぼ崖のような場所で。危ない場所が人間が踏み入れたことでもっと危なくなっていく。私の胃腸の弱さも自然とうまくやってこなかった証拠かもな。病気の知識はあっても自然の知識がないのはダメな気がする。色々知っていこう。

今日はものすごく寝不足だが作業は結局終わらず。昨日は症例を使ったグループディスカッションもあったけど普段と違う気持ちになれて発見が多いな。無理なく正直に言葉にすることはどの場面でも大事。言葉にすることで別の無理が生じたりは当然あるけど自分の中のなにを大切にしたいかだね。

AIのニュースが本当に増えたねえ。人間ひとりひとり限界ある自分のことも大事にしよう。

新しい一週間もがんばりましょう。

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5月31日(日)

朝はまだ涼しい。今日も晴れるみたいだけどまた風が強いのかな。昨日は物干し竿が風で落ちた。洗濯バサミをストッパーにしていたけど劣化していた。台風がきているんだなあ。奄美大島は大丈夫だろうか。奄美でスコールを体験したことがあるがあんなにすごい雨が降る地域で台風はどんな猛威を振るうのだろう。被害が出ませんように。

毎日着々と働いているが進んでいない仕事もたくさん。なのに大掛かりな模様替えに手をつけてしまったりする。こういう習性って治らないよね、というか治す気がないのかもしれない。またやってる、と思いつつやってるし。でも梅雨前の大掃除になってよかった。あとどうしても身体が動くうちに、と思ってしまう、最近。それなりの筋力を維持していると思うけど何も考えずに思った通りの動きができることはかなり減ってきていると思う。元々注意力はないけどぶつかったことないところにぶつかったり。ううう、とひとりうずくまりながら滑稽さも感じるけど。人の身体は不思議だ。

Netflixでちょこちょこ「ホームランド」を見ているけど主人公のキャリー、恋しすぎではないか。一人の相手に。才能も何もかも過剰なのが人間味に凝縮されていて面白いしなんか愛おしいけど。

今朝は昨日パン屋さんでおすすめされたパンを食べた。「トーストかまして」という表現をはじめてきいた。ここのパン屋さん、とっても素敵なお庭を受け継いだのにほぼ放置でとても残念なのだけど味は美味しいので時々いく。あーお庭がー、と思いながら。我が家の花壇も春菊が逞しく伸びたくさんかわいい花をつけ終えたので刈り取るか。刈らないで抜いたほうがいいのかな。調べましょう。

紫陽花が満開になりつつありますね。薔薇はだいぶ枯れてきた。緑道の花壇にもボランティアさんが新しい花を植えてくれていた。いつも小さく挨拶を交わして写真を撮らせてもらってる。すると散歩中のおじいさんに大きな声で挨拶をされたりする。だいぶお年だと思うのだけどいつもお元気。私もあのくらいまで元気に歩けているといいなあ。

五月が終わる。良い日曜日になりますように。

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運動会とか。

早速暑い。鳥たちももうどこかへいってしまった。家事をバタバタしてたらもうこんな時間。というかもう週末。今週末は運動会も多いとのこと。熱中症が心配ね。

私はだいたいのスポーツはできたので特に体育が嫌とか運動会憂鬱とかなかった気がする。でも決め事とか練習とか細かい部分をみれば憂鬱だったりウンザリだったりしてた気もする。大人になってNPOで子どもたちと運動会的なこともしてきたがみんな楽しいといいなくらいで燃えるみたいな経験をしたことはない思う。そういう記憶ももうすでに遠いからなんともいえないけど今の時代、こういう科目とつながりのある行事って必要なのかな。練習にやたら時間をさくならそれなりにみんなの負担がよきものに変化するであろうという期待がほしいところ。先生たちや保護者にとってもそう。長く続いてきたものに対しては当たり前に負担を受け入れている場合も多いと思うけど結構大変なことだなと思う状況は多い。運動会に限らず。

なにはともあれみんな無事に楽しい土曜日になりますように。

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『傲慢と善良』、『ほんのこども』など

声の大きな鳥がいる。あの鳥かなあ、と寝ぼけた頭に思い浮かべたのはカラフルな大きな鳥。あの声がして振り向くとその色にいつもびっくりするから多分そう。今朝も朝は曇り空だけどすでに熱を感じる。

先日、Netflixで映画『傲慢と善良』を見た。辻村深月原作。よくわかるという感じは経験の有無に関わらず誰もが馴染みがなくはない関係性を描いているからだが、倉悠貴の演技もよかった。でもやっぱり文字の力は大きい。映画を見た人には原作もお勧めしたい。分厚い本になるわけだ、というそれぞれの心模様が繊細に描かれているから。自分の意志なんてなんて曖昧。でも求めうるもの。

最近、ますます老眼が進んで読書の量もスピードもすごく落ちているが、それでも本を手に取ってしまう癖というのはそう簡単に変わるものでもない。あー、疲れたなあ、と思ってなんとなく手に取ったは町屋良平の『ほんのこども』。最初に読んだときは圧倒されたが大変面白く読んだ一冊。いつも通り内容は細かくは覚えていない。冒頭からの反転具合とスピードがすごかったのは覚えている。少しパラパラしてみたらやっぱりすごい。どういう頭の動かし方をするとこういう文章が書けるのだろう。動かし方というよりそういうふうに動く頭があるということなのだろうけどすごいよなあ。ジャンプ力がすごい。私はここ数日、土居健郎の「甘え」について考える時間が多いので、この本の不穏さを「甘え」が持つ不穏さと重ねてしまったな。まあ「甘え」はこうやってなんでも重ねていける強度というか自由度が高い言葉なんだなという認識をあらたにしてしまったからだが。土居のいう「甘え」がナルシシスティクな方向で働く場合、それは他者を消す動きになるので侵襲的で暴力的ともいえる。「甘え」がネガティブなものとされる場合はそういうものがかぎつけられた場合だと思う。自分を許容してくれる「はず」というのは相手の善意任せすぎるのでそれがただの圧力として作用することもある。一方、それは他者なしでは存在できない自分という存在(主体という言葉はややこしいの使いたくない)との鉢合わせの回避でもあるので自分に対する侵襲性や暴力性を反転させてるだけとも言える、なんてね、かなりのスピードで書くとこういうことを書いてしまうわけで、私みたいな素人はジャンプができない。町屋良平は実際どのくらいのスピードでどのくらい助走したりしなかったりして書いているのだろう。いい本だったなあ。最近のはまだ読んでいないから読みたい。

今日は群馬県前橋市のSWEET SHOP YOSHIDAの「はちみつマドレーヌ」。前橋駅か高崎駅のお土産屋さんで買ったのだけどここのはイラストがとてもかわいい。猿田彦珈琲をもらったのでそれといただいた。

今日も元気に過ごしたいですね。頑張ろう。

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「甘え」とか

朝から蒸し暑い。月曜日まで暑いそう。熱中症に本当に気をつけないと。あっという間に具合悪くなるから怖いものね。

平日になるとなにがなにやらという感じであっという間に時間が過ぎていく。レシピばかり見ている時間は相変わらず長いが美味しく身体に良いものは大事。

土居健郎の「甘え」について一定の理解に達した気がするが、結局どこにでも書いてあるところに戻ってきた感じ。これがこの概念の凄さなんだろうなと思ったが私は一体何を発表すればいいのか、といえばやはり実践から何かいうしかないということになる。土居の「甘え」概念が曖昧なのは土居が実践で自分の概念に追いついていなかったからではないか、という仮説を私は持っている。そこがフロイトのメタサイコロジー概念とは異なるところではないか。でも日常語を用いた概念は日常で使うことでしか育たないと意識して使用していくことが専門界には求められるのだと思う、というようなことをいうことになるかな。

あいからず寄り道して花々を愛ながら歩いている。こういう小さな喜びが続けられる政治であってほしいと毎日思う。今日もがんばりましょう。

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空海とか。

陽射しがなくはないけどまだ曇っている。早速肌がやられてるからこのくらいがいいな。

昨日、協会の仕事の前にちょっとカフェによって土居健郎選集を開いた。土居の甘えに対する執着はすごい。わざと執着と書いてみたがこれは執着でもこだわりでもないな。ふとひとつ向こうの席を見たら「空海」のデカい文字がみえた。空海の言語論を読んだばかりだったのでなんだか嬉しくなった。あの分厚いのは安藤礼二の空海だ。読んでいないが姿形だけは知っている。人間だって大体そうだろう。いいなあ、と思ったが私はしばらく精神分析以外の本であの分厚さの本を読む余裕はない。夏休みになったら読めるかも。もうずいぶん前になるが年末年始を高野山の宿坊で迎えたことがある。単に宿坊にとまっただけだったが早朝の朝勤行に無料で参加できた。足がとても冷たくて辛かったけど厳かなルーティンは興味深く、キョロキョロしたいのを我慢して参加した。宿坊のおもてなしのひとつひとつがとても丁寧でありがたかった。お食事もとても豪華だったがダラダラ食べるものでもないから2度ほど声かけされた。就寝時間も早く、食事が終わると二人のお坊さんがささっと素早く綺麗にお布団の準備をしてくれた。おおっ、と少し可笑しかった。きちっとした生活を一泊二日だけでもしたのはよきことだった。今は老化のために動きが遅くなったMacが原因不明でフリーズしたのも高野山だった。お正月の銀座のアップルストアでみてもらったが原因不明、時間が解決。結局寒すぎたのではないかということだったが真相やいかに。お互い歳をとったね。今度は雪ではない季節にいってみたい。高野山くらいの観光地だと雪でも歩ける道は確保されてるけどやっぱり自由度は下がるし、足腰が健康なうちにもう少し色々歩きたい。でも雪の高野山はそれはそれで静かで厳かで修行気分にはとてもよかった気もするな。空海の話はどこへ。カフェで『空海』を見かけて今流行ってるのかなと思ったけど、空海ってずっと流行ってるといえば流行ってると思う。最澄よりずっとイメージがいいのは多分「日本の歴史」の漫画のせい。空海は中国語も早くから喋れたというしサンスクリット語もあっという間にマスターしたという。母語は日本語だが当時はまだ今のような日本語のシステムは確立されていない。そのような多様な言語環境で考え、書かれたテキストが『声字実相義』だ。今も空海について書いたり読んだりする人がたくさんいるのも言語という根本的なものに対する関心が失われていないからだろう。SNSなどではその力は相当弱まっていると感じるが。そして仏教。あらかじめ無を想定しつつその実相を顕にすること。言葉というものを考えざるを得ないのは宗教が先なのか?勉強しないとよくわからないが。そういえば先日、空海も修行したという広島は宮島の大聖院の霊火堂が全焼した。山火事、神社仏閣の火災が続いているが、燃え盛る日の前に呆然と立ち尽くす人を思いつつ、実景を言葉にしていくことが必要なのだろうと思う。

ソニー・ロリンズが死んだ。高校時代、隠れて聴いたのがマイルス・デイビスで、ほぼ同時にソニー・ロリンズを知った。思い出をかけばキリがない。幸せな人生であったことを願う。

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量とか質とか。

鳥たちが賑やか。今朝はまだ陽射しがそんなに強くない。遅くまで作業していたが寝てもすぐに起きてしまった。老化で睡眠の質が落ちてるように思うので最近はとにかくまともな睡眠時間を増やすために夜遅い食事の量を減らし、とっとと寝るようにしていたが、やりはじめた作業は途中で止めるとまた最初からやり直すことになりがち。続けていくことでしかいけない場所もあるのだ。とかいいながらたいして進んだわけでもないが難しいことを考える頭にはなっていると思う。そういう頭になっているときは難しい本も手にとってしまうもので(理解しているわけではない)中島隆博先生による空海の言語論にまた感動してしまった。というか毎月、Reading Freudで相当頭の中が再構築されたり、フランス精神分析のセミナーでわからなさに浸りながらじっと考え続けたりしているおかげで難しさには慣れている。耳障りのいい言葉ばかり取り入れて居心地のいい世界ができるかといえば全然そんなことはない。むしろ逆だろう。心が痩せるのは簡単。

知らない街に行くとその街の歴史を思う。大規模な団地と大きな公園、街の成り立ちに戦争が関わっていることは多い。広大な農地が荒れ果てるのは戦争のせいだけではないがどちらも人のせいだったりはする。少子化の今、団地に住んでいる世代は高齢者が増えているかもしれない。ただでさえ孤独な時代に物理的にも孤独であることの負担を思うと胸が痛い。それでも東京は人が多い。実家にいる頃、道で人に会わないというのは普通のことだったし、今でも旅先に行けばそんなことはよくある。山だってそうだ。人と人との関わり自体は量より質が重要になる。数で質自体が変容する場合はもちろんあるが。

頭が休まっていないのだろう。まとまりのないことならいくらでも書けそうだが疲れをとるために上質エッセイでも読むか。言葉に傷つき、言葉に助けられる日々。今日がいい一日でありますように。

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バラを見たり考えたり。

夜明けがとても早くなった。朝ご飯もどんどん早くなっている気がする。

週末はたくさんのバラと紫陽花を見た。普段通り歩いているだけでもたくさんのお花に出会える恵まれた環境だけど知らない街のローズガーデンに行った。やっぱり特別だった。それほど広くない空間をゴージャスに彩る薔薇たちとたくさんの人たち。コスプレしたり、小さいぬいぐるみと一緒に写真撮ったりみんな楽しそうだった。あとローズソフトクリームがとてもきれいだった。食べてないけど、すれ違った人のをみてうわあと思った。たくさん写真を撮って遠くに出かけられない人にも共有して喜んでもらえた。

昨日の午前中はようやくまとまった時間で土居健郎を読みながら考えることができた。精神分析は時間もお金も無限ではないということをはっきり意識させられる設定だし、大体の人は死んでしまう前に別れるから。できたら死ではない形でそれぞれの人生で経験したいのが甘えだなと思った。実際に出会っていく以外の方法はないかもしれないけど。

すべきことを忘れていたことに思い出した。やらねば。今週もがんばろー。

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フロイト「欲動と欲動の運命」を読んだり。

早朝から家事をしてNetflixで「教えて?イヌのココロ」を少し見てしまった。かわいい。よくぞ上手に進化を遂げてくれたと思うが、人間がいなかったら別の進化もありえたってことだよね。

昨晩のReading Freudはフロイトのメタサイコロジーの「欲動と欲動の運命」を読み終わった。愛と憎しみの反転を描写する最後の記述が見事。こんなふうに論理展開できたらとても楽しいだろうなと思う。この論文は概念とはなにか、なぜ必要かを考えるうえでも非常に重要だが、フロイトの臨床経験の中で矛盾を孕み、綻びを見せ始めた欲動概念を改めて位置付けようとする仕方はとても面白い。

訳語問題についてもいくつかの論文を読んだがどれも一理あり。IPAのジャーナルで新しいものだとイギリスで訓練を積んでエレサレムで実践をしているレイチェル・ブラスのこれ↓

Blass, R. B. (2024). What’s in a word? A brief reflection on why the understanding of Freud is not changed by replacing the word “instinct” with “drive” and the importance of reading in context. The International Journal of Psychoanalysis, 105(5), 757–765.

イスラエルの精神分析家たちの生活も気になるが、レイチェル・ブラスは古典的な説得力がある分析家というイメージ。この論文に関してはどうかなあ。わかるし、フロイトを読むときにその文脈から本質を捉えるのは絶対的に大事だけど訳語問題に関する議論としては論点をずらしているのではと思った。自分がどの言葉でそれを読むかってすごく大事だから。

それにしても今朝は寒い。暖房をつけてもいいくらいだけどとりあえず厚着している。一日中寒いのかしら。どんな気温でもおなかはすくんだな。でもまだ朝早すぎる。とりあえず白湯飲んで二度寝するか。でもこの積まれた本たちをどうにかせねば。取り組むまでの長さを短縮するにはまずエネルギーチャージか。風邪ひかないように過ごしましょう。良い日曜日を。

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Scarfoneを読んだり。

今日も涼しい、というか寒い。季節があっという間に逆戻り。そしてきっとまたすぐに夏に逆戻り。激しい。厳しい。どちらにしても老いつつある身体を冷やさず無理せず。

今年度はDominique Scarfoneの論文を少しずつ読んでいる。2021年4月にIPAのポッドキャストTalks On Psychoanalysisにも登場していた。このポッドキャストはテキストのリンクが載っているのでそれを読みながら聞くことができて助かる。論文The time before usの短縮版とのこと。副題はThe Unpast W. S. Merwin、Walter Benjamin、Virginia Woolfを召喚しての精神分析的時間論。先日読んだダナの論文と重なり合う。短縮版は最初にノーベル賞作家のフォークナーの有名な文章が引用されている。

The past i never dead.It’s not even past.

フォークナーを読むとハックルベリー・フィンを思い出す。子供の頃の愛読書だった。フォークナーはそんなにたくさん読んでいるわけではないが『ポータブル・フォークナー』のおかげで色々読めるようになった。ドライで怖くて悲しい場面の連続だけど心に重たく響く作品はいい。文学作品が引用されている論文はワクワクするな。

今日も一日長い。がんばろう。とにかく暖かくね(風邪ひきたくない)。

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金曜日

今朝は窓を開けると寒いけど暖房が必要なわけでもないし、家事をしている分にはTシャツで寒くない。昨晩は寒かった。朝は涼しいなと思ったけど薄着で大丈夫だった。昼間外にでたら寒くてびっくり。上着はリュックにもオフィスにも常備しているので夜もそれを羽織って帰った。今日はもう少し厚手の上着を着て暖かくしていこう。風邪ひきたくないけど週末はすごく暑かったのに今これってなると調整が難しい。食べ物だってやっぱり夏はピクルスと思ったばかりなのにやっぱり温かいものが食べたいよーとお豆腐グラタンを作ったり。食欲は気温が低い日のほうが増すね。今朝はお味噌汁とか烏龍茶とかで暖まった。

事故や事件のニュースを見るのが辛いけど、高橋ユキさんの記事とかは追っている。高橋さんがやりとりして公開してくれている無期懲役囚の永田陸人受刑者からの手紙は闇バイトが頭をよぎらない人にも読まれるべきだと思う。「お金のためなら」と人の命が軽んじられる、今やそれが日本社会の中心的な思考なのかもしれないが普通に抗っていく世界に身をおいていきたい。

それにしても雨の音が弱まったり強まったり大変。色々書きたいことはあるがせねばならないことの方が多い。今日は全国的にこんなお天気なのかしら。足元、気をつけて出かけましょう。

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精神分析

北村紗衣『英語の路地裏』、土居の“失敗”?

少し涼しい。陽射しはない。雨が少し降っている。昨晩は雨は降らなかった。薄着のままで大丈夫だったし。気温はずっとこんな感じがいいな。

英語の勉強もしないとなあと思ったがイヤホンを出すのが面倒で、帰りの電車は北村紗衣『英語の路地裏』を読んでいた。やっぱり本が楽。この本は著者が作った入試問題の章が誰にとっても楽しめる部分だと思う。私はシェイクスピアのところが好きだな。著者の専門だしね。『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』(白水社)もとても面白かった。若い頃、ケンブリッジのカレッジの庭で学生たちが無料のシェイクスピア劇を演じていてすごく素敵だった。英語がわからなくてもシェイクスピアならなんとなくわかってしまうのは単に有名だからというだけでなく台詞回しのおかげだと思う。英語はもっとわかるようになりたいし、わからないといけないけどね、必要だから。

夜ははちみつピクルスを作ったが別のことをはじめてしまいまたふきこぼしてしまった。『あかね噺』もみながらだったし。はちみつをいれる前でよかった。お酢を入れすぎたのでちょっと酸っぱいだけど夏っぽい。この夏はいろんなピクルス作りたいな。

細々と土居健郎をまとめているがまとまった時間がほしい。まとまった時間に遊びに出かけた私が悪いがたまの休みは休むべきでしょう。これまでもすごいなと思ってきたが、自分が精神分析家になって海外の分析家たちを身近に感じながら実践をするようになってから読むとなんかこれまでとは違うすごさを感じる。ものすごくオープンだし正直だし丁寧。誰かが土居先生は失敗事例ばかり書いていると言っていた気がするが「甘え」理論も訓練分析の失敗から生まれているからねと思ったりした。失敗とはいわないか。挫折というのもなんか違うか。精神分析の実践でいえば失敗は環境側にあるだろうし、治療者としての土居先生が書くなら失敗例が多くなるのはそれはそうなのだろう。それを一般的な意味で失敗と呼ぶかどうかはともかく。

憲法が改正されませんように。憲法がたやすく変えられない歴史を持っていることが忘れられませんように。毎日各地で声を上げてくれている人たちに連帯する。

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精神分析

蕎麦屋

今日もいいお天気、かと思いきや夜は雨とのこと。

この前、蕎麦屋に行った。冷たいお蕎麦を楽しみにいったのに親子丼を頼んでしまった。冷やしたぬきがはじまってたからそれにしようと思ったのにねえ。食べながら俳句を作ろうと思い狭い店内をそっとながらじっくり観察。「はい、今お伺いしますね、すいません」と親切そうで働き者の店員さんが途切れない客にお茶やら水やら蕎麦やらカレーやらを運んでいた。高いところにテレビがあってワイドショーをやっていた。テレビを見ようとすると隣の人がこちらを向いてしまうので、違うの、私はテレビを見てるの、と思いながら見るのをやめた。テレビでは花火の特集をしていた。今は、というか今も、というかいろんな花火があるのね。昔、大きな花火大会用の花火を作っていた人の話を聞いたことがある。なんだかすごい世界だったことだけは覚えている。蕎麦屋の椅子は小さくて背もたれが低くてみんなが大きく見えた。目線の先の棚には赤い板と赤茶っぽい重箱と少し変わった形の竹っぽいセイロみたいなものがたくさん積んであった。それらはいろんな人に運ばれていくお皿とはどれも違っていたし、私の親子丼も丸い陶器のお茶碗に入ってきたからもう使っていない道具たちなのかもしれない。赤い板は出前の名残かな。あれをバイクに重ねてそれらの器を乗っけて出前していたのかな。今はもう出前はしていないようだった。ビールが入っている透明な冷蔵庫の上には大きな招き猫一匹と小さな招き猫匹がにっこりしていた。二人がけの小さな机の向こうのやはり背もたれの低い椅子には新聞があった。私よりあとからきた高齢の方が慣れた様子でそこから新聞をとっていった。4人がけテーブルで悠々と新聞を広げて読んでいた。良い昼だ。すると私の隣の人も新聞に気づいたらしく立ち上がってとっていった。特にそこが新聞置き場なわけもないのだろうけどなんとなくそこに置かれている日だったのだろう。隣の人はいつものそばが季節ものだったらしく「冷やし中華に切り替わっちゃった」と言われ「おビール」と冷やし中華を頼んでいた。「おビール」という言い方懐かしいな、昼間からビール、良い昼だな、と羨ましく思いながらたくあんを噛んだ。冷やし中華のお皿は和風だった。お蕎麦屋さんのカレーも美味しいけど、お蕎麦屋さんの冷やし中華ってなにかそば要素はあったっけ。でもいいな。食べてみたい。最初に新聞を持っていた人はそばとミニカレーのセットを頼んでいた。どのくらいミニなんだろうと登場を待っていたら思ったより普通サイズだった。その人は新聞をたたんで少し離れたところにおいて蕎麦をすすりはじめた。すると私の隣の人もさっき私よりに雑においた新聞をちょっと自分の方に寄せていた。良き。お金を払う場所はまだ透明な衝立があってもしかしたらコロナで出前やめてしまったのかな、とふと思ったりした。店員さんはみんな丁寧で、常連さんも多いみたいだった。私が行った時間はお昼には少し遅めだったので店員さんがお客さん家族に挨拶しにきたりしていた。三人家族だったけど子供が小さな頃から知っているらしい。

とあれこれ観察はしたが俳句を作るのを忘れていた。だめだ、こりゃ。

今日は忘れ物しないようにしないと。いい1日になりますように。

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精神分析

暑い、母の汗、本

早朝から暑い。太陽が近いような気がしてしまうが暑さと太陽との距離は関係ない。距離が関係あるしてくるのは実際にもっと近い場合。

母の汗の匂いをいい匂いとくっついてる子どもがいた。母は暑いからくっつかないでといいつつ母の汗ばんだ額を小さな手でいじりながら離れないでいるその子を腕に抱えていた。男の汗のにおいほど母の汗が語られないのは母はあまりじっとしていられないからか 汗びっしょりの子供の身体を拭き、着替えさせ、こういう仕事は別に母の仕事ではないがなんでだろう。母の匂い自体は語られない話ではない。

詩が読みたいな、と思って本棚を探りながら林芙美子の「母娘」という話を思い出した。あれに出てくる同棲相手は詩人の野村吉哉だ。ひどい男だったらしいがどんなだったのだろう。

『歌・句・諺のはなし』柳田國男/折口信夫/高浜虚子 著(中公文庫)もとても面白い。

きたない落ち葉をさまざまにいろとりどりに変容させていく虚子の楽しそうな筆致は特に。

今日もせめて熱中症には気をつけよう。みんな元気で過ごせますように。

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精神分析

あかり、ハイキング

昨晩、遠くに知らないおうちの灯りが見えるなあ、同じ日曜日でもいろんな生活があるんだろうなあ、と思ってカーテンを閉めにいったらおうちの灯りだと思っていたものはその辺りのアパートの廊下の電灯だった。共有スペースの灯りというのはニュートラルな感じがしていいね、と思ったけどその灯りの下で色々している人もいるか。最近は携帯のあかりだけで済んでしまったりもするけれど。バックライトのことだけど。周囲を照らすのではなく文字を浮かび上がらせるもの。暗闇の中であえてみなくてもいいものもたくさんあるだろうし、暗闇に慣れてきて見えてくるものもあるから灯りとのお付き合いは人それぞれですね。

今朝も早速眩しい。東京29度だって。昨日も熱中症に気をつけながら軽くハイキングしたけど思ったより暑くなかった。山の中にあるお寺7つの七福神を巡ろうとしたのだけど途中で道をなくし4つしかいけず。携帯の地図にはあるのに実際の道がなかった。その分、別のところにはいけたけど。山ではお花はあまりみなかったけどハルゼミが鳴いていてびっくりした。春蝉の季語はやっぱり春なのね。私はこうして夏に聞いたけどきっともっと早くから鳴いていたのでしょうし。低山でも山道を10キロ以上歩くとさすがに足がだるい。トレラン用の靴を軽いハイキング用に持っているのだけどそれがまだ足に合わない。使いながら合わせていきたいけど足痛くなるのは嫌ね。ケアしながら合わせていきたい。

ニュースを見るのは毎日辛いけど流れてきてないニュースの方が多いのだろうからプロセスを想像できないと仕組みがわからないままになる。本来、仕組みなど知らなくても安心して暮らせる生活を組み立てるのが政治家の役目だと思うが、今はもうなんか想像力なんて働かせたらゲームに勝てないからこのまま突き進むみたいな感じで、人の命なんてどうでもいい感じだもんね。辛いし怖い。

福山の山林火災も怖い。消防の仕事も大変だ。人への直接的な被害はないのは良かったが間接的な影響は大きいだろう。早く落ち着くとよいが。

今日は月曜日。良い1週間にできたらいいな。

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精神分析

移動とか読書会とか。

とっても明るい朝。このオレンジは朝だけのもの。とりたちも元気そう。

昨日は移動が多かった。暑かったけどそんなに汗はかかなかった。汗って歩いている間より止まった時にどっとでる感じがするけど電車がちょうどよく涼しいなかゆったり座れた。快適で乗り過ごしそうになったけど。どの道でも色づき始めた紫陽花をみられた。

夜は分析家同士の読書会だった。何度読んでも内容を覚えられないのも困るけど、興味をひかれて一生懸命調べた相手のことを忘れてしまうのも困る。昨日、忘れていたのはHaydée Faimbergというパリでプライベートプラクティスをしているパリ分析協会の訓練分析家。SNSをメモ機能として使っているので検索してみたら昨年3月に彼女の論文をアンドレ・グリーンとトーマス・オグデンの論文と一緒に良きものとしてポストしていた。結局全部ウィニコット関連。ナルシシズムにおけるtemporality、symbolization、subjectivationの文脈で差異の認識の発生と伝達について考えていたらしい。Macにも部分的に翻訳したものが入っていた。ここまでやってどうして忘れるのか、といえば使用していないからだろう。書き物や発表で引用すれば忘れる頻度はかなり下がるはず。すごく雑ながら訳したのはFaimberg, H. (2014) The Paternal Function in Winnicott: The Psychoanalytical Frame. International Journal of Psychoanalysis 95:629-640とメモしておかないとまた忘れる。このブログもほぼ備忘録。忘れる力はこんなにいらないのにな。たぶん、なにかで引用しようと思って訳したのだろうけど結局使わなかったからこんな我が家の放っておかれ花壇みたいな雑さで保存されていたのね。我が家の花壇の春菊は次々にかわいい花を咲かせるのはいいけど茎がたくましすぎてほかの植物を圧迫しつつある。どうにかせねば。

そういえば先日瀬尾夏美さんの連載がはじまった柏書房のウェブマガジン「かしわもち」で渡邉悟史さんの連載『植物暴力論』もはじまった。とっても面白いのでチェックしてみてください。きちんと紹介する時間が今はない。とうか、当たり前だけど私の紹介文より本文のほうが断然面白いから。なんかこういうとき要約しなければという気になるのはどこからきた習慣なんだろう。今はこうやってリンクを簡単に共有できるとはいえ要約文化って必要だしなくなってはいないと思うんだよね。

そうだ、さっきの象徴化、主体化を時間論から考えることはAIと精神分析の違いについて考えることでもあって、AIの即時性と精神分析の遅延、事後性はまず大きい。あとは frictionless、repetitive、adaptiveの観点か。とかね、忘れないで考え続けられたらいいのにね。

とりあえず日曜日。よい一日を。

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地震、サッカー、土居

いいお天気。明日はもっと暑くなるんだって。危険。昨晩の地震はオフィスにいても大きく感じた。オフィスの入っているビルは気持ち悪い揺れ方をする。揺れの強かった宮城はしばらく注意が必要とのこと。大震災からずっと気が抜けない人もいるのではないか。震災のこともそれぞれが語っていくことが大事なのだろう。

サッカーW杯日本代表が発表になった。そんなにきちんと追ってきていないがJリーグ設立が1991年ときくともうそんなかと驚く。先輩の車でベルマーレ平塚の練習を見に行ったりしたのが懐かしい。今は湘南ベルマーレか。鹿島アントラーズの移転問題はどうなっていくのかなあ。古くからのファンにとっては残念なニュースだろう。

昨日も隙間時間は土居健郎を読んだ。土居は「精神療法のための諸注意(1967)」というフロイトの技法論のひとつ「精神分析を実践する医師への勧め(1911)」のような論文を書いている。東大精神科の精神療法演習の経験から書いたという。土居はそこででこれらは初歩的な常識のようではあるが「自分の中に潜む甘えを自覚した治療者だけがこのような心得を身につけることができる」と書いている。逆に言えば「甘え」の自覚がいかに困難かということだろう。実際常識的なことなのに人から指摘されると思わず反発したくなったり「そんなの知ってた」みたいな態度をとって素直に受け入れることができない場合、それは自覚されない「甘え」の行動化といえるだろう。いえるだろうか?わからない。

今日の夜は読書会。まだ何も準備できていないが一度は読んだことがあるものなので思い出せたらいいな。思い出せたことないのだけど。

熱中症に注意しないといけない季節になりましたね。身体大事にしていきましょう。良い1日を。

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酢、瀬尾夏美新連載、土居健郎

好きなライターさんが紹介していたトマトサラダを作りたくてまずはトマトをつける玉ねぎドレッシングを作って冷やした。こういうときのために良いお酢を買ったのだ!なのにお酢をいれわすれたことに後から気づいた。びっくり、だけど最近こういうこと多い気がする、いや、前からかもしれない。前からと思った方が最近多くなった、というより安心できる。この年齢、衰えと不調を実感することばかりだからな。いいお酢はみんな混ぜ合わせたあとになってしまったけどいれた。あーあ。トマトを混ぜ合わせる前でよかった。またすぐきちんとした工程で作ろう。工程もなにも一番大事なお酢を必ずいれる、ということだけだけど。しかも、あーあと思いながらお酢を棚にしまったらもう一本お酢があるのに気づいた。買ってあった。なくなったと思って買ってきたのに。あーあ。ピクルスでも常備するか。夏だしね。

胃腸の調子を少しでも整えるため少しだけ甘いものを我慢しているが順調に食べてはいる。昨日は水戸土産、亀印製菓の生菓子「めろんけーき」とか。懐かしい香りがした。昔、スイミングの帰りに迎えを待ちながら食べてたメロンの形の容器にはいったアイスとか本物のメロンとの味の違いは特に気にしないですむのがメロンのお菓子ですね。スイカはちょっと気になる。スイカ&メロンバーとかになるともうなにも気にしないかな。

小さなオンライン句会の投句も完了。やはりあまりパッとしないが実景だのみ。経験と環境に助けられる娯楽(時に苦行)。それには感謝しかないが、もっと真面目に取り組まないとね、好きなんだから。

柏書房のwebマガジン「かしわもち」で瀬尾夏美さんの連載『旅をして、西大島で書いている』が始まった。私も西大島の巨大団地の一階にある瀬尾さんたちの仕事場に行ったことがあるが、あの場所にあんな明るい風通しのいい場所があるなんてびっくりした。場所づくりも上手な瀬尾さんの本も写真集も好きで持っている。この連載もいつもいい本を出す柏書房からいずれ本になるのでしょうね。毎日ひどいニュースばかりだけど、それを追うと同時に過去からの声に耳を傾けるために出向くこと、それは読書という営みでもできること。瀬尾さんの文章からいろんな街の景色、いろんな人の声を想像していきたいと思う。

土居健郎の本をようやくまとめながら読み始めた。1950年代前半、土居はサンフランシスコのインスティチュートで精神分析家になるための訓練分析をはじめ、中断した。にもかかわらず日本の精神分析家となった。1950年代後半に土居は「甘え」を着想しその普遍性を精神医学の分野に問いかけはじめる。それは最初から外に向けられたものだった。私は土居に直接教えを受けた世代ではない。いや、私と同年代でも土居先生の教えを受けていた人たちはいるので世代のせいではないか。私は土居のフロイト読解に大変な魅力を感じているので、これからも読み続けると思うが「甘え」理論は本当に厄介だ。オープンなだけに厄介だ。でも対話しないといけない。中井久夫は土居はそれを望んでいただろう、自分も応じようとがんばったがいたらなかった、というようなことをどこかに書いていた。

瀬尾夏美さんたちの活動もそうだけど、過去からの声と対話すること、それができなくなるかもしれない危機感を感じつつ。

今は曇っているけど晴れ間も出るらしい。がんばろう。

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空、ドレッシング、俳句

風もなく半袖でちょうどいい朝。空に水色も見えるけどまだ厚めの雲が多い。夜の気温も落ち着きつつある気がする。まだ一枚薄手のパーカーとかを羽織ってるけど。昨晩の帰り道は雨がぱらついていたが傘をさしている人の方が少なかった。夜中、窓を閉めようと空を見たらなんだか明るい気がして外に出てみた。月が出ているのかと思ったけど雲と暗闇しか見えなかった。なんだか明るかったけど。もうすぐ新月。月が出たとしてもその時間にはまだだっただろう。

ドレッシングがなくなったのでオリーブオイルとお醤油で作った。あと夏だからちょっとこだわろうと思って買った優しい味の黒酢も開けた。蜂蜜もなくなったばかりだからお砂糖を少し加えたけど何かちょっと足りない。友達からもらった奄美大島の炒りごまの香りがあるからいいか。大葉とかもいいかも。あとはサラダの具材を変えるか?

15日締切の俳句を10句作った。自分で読んでもなんだかインパクトのない句ばかりだが実景で揃えているので、その力に頼りたい。少し前まで投句用紙は郵送せねばならなかったがオンラインでの投句が可能になった。なのでもう少し眺める。郵便法の改正のせいだったか、土曜日の配達がなくなり、普通郵便だととても時間がかかるようになった。どちらにしても私の場合、いつも速達でないと間に合わず、郵便料金も改訂されたのですごくお金がかかってしまっていた。オンラインでの投句が可能になって助かった。

最初からオンラインでやっている小さな句会のほうの投句締切も15日。そちらも作らねば。毎回、使っても使わなくてもいいのだがメンバーから題を募集している。私はできるだけそこに出てくるお題を使いたい。今回は「水貝」というのが出ていた。アワビの刺身。私は刺身は食べたことないかも。だから作れないか。すごい贅沢そうだよね。高いのかな、やっぱり。貝はそれほど好きというわけではないが、日本酒とは合う。俳句のために一度は食べてみたい。贅沢なものは旅先で食べたいな。

夏の季語「薔薇」でも作りたかったが全然パッとしない。これだけ毎日薔薇のそばに寄っていって香りを楽しみ写真を撮っているのに薔薇のこと全然わかってないかも。でも「野バラ」のことはちょっとわかるかも。今年はまだみていないと思うけど。シューベルトのというかゲーテの野バラも有名だから知っている。オペラとかみにいきたいな。せっかくオペラシティが近いのだし。私にとっては生活空間だからもっと遠くの劇場に出向いたほうが余韻には浸れそう。オペラシティで観たらすぐに仕事モードになりそうでもったいない気がする。

とGWが終わったばかりなのに休みのことばかり考えている。休みを楽しめるように仕事頑張らないとですね。自分のあり方を丁寧に考えられる余裕が持てるといいけど。突き進むのではなくて。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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ハングルとか

早朝から部屋がオレンジ。だけど今日は一時的にお天気大荒れと言っていたような。大丈夫ならそれはそれでありがたいけど。

久しぶりの筋トレで筋肉痛がひどい。2週間空いただけでこれ。そこそこ使っているはずと思ってもほとんど使えていないということですね。

昨日は俳句の締切を思い出し、作らねばと意気込みながらも『現代詩手帖』の特集「韓国現代詩への旅」を読んでしまった。目次にはカタカナの名前が並ぶ。カタカナは漢字の一部を取り出したものだ。彼らの名前はハングルで書かれるべきなのだろう。ソウルで過ごした3日間、Instaで教えてもらったアプリが活躍した。ついカタカナか漢字を目が拾ってしまい、カタカナが現地にほぼないのはわかるが漢字をみつけてもアプリとは違う漢字だったりした。最初は戸惑ったがすぐに同音異義語でいけるのか、韓国の漢字は、と思った。こちらでの生活の言葉はハングルなのだ。その成り立ちは斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』を読んで知っていた。普段すごく漢字に頼っているわけでもない私がこういうときだけ漢字頼みかよ、とちょっとおかしく、それからは読めはしないが、視覚的な記号として地図上や路線図のハングルと現地の表記のマッチングをはかった。電車内で何度も聞いていた言葉を調べたら「ドアが閉まります」とう意味だった。表記は출입문 닫습니다と学んだ。20歳の頃、ケンブリッジの寮で仲良くなった韓国の人たちにハングルは舌の形、発音するときの口の形だから難しくない、と教えてもらった。漢字から離れて誰もが使える文字を作り出し、生き残らせた国の人たちをすごいと思うし、その国の文字を使うということを単に大事というより楽しく思えたことがなんだか嬉しかった。

今日こそ俳句、と思うが隙間時間が少ない。いいかげんスピーディーに作った駄句ばかりを出すのもやめたい。時間をかければよいというものではないが、17音に対してもっと敬意を払わねば。

それでは今日も良い1日を。

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レシピ、筋トレ、Dominique Scarfone

今日の東京は少し曇ってるかな。東の空に強そうな陽射しはみえるけど。

この前、友達の家で出してもらったお蕎麦とそれに合わせたおかずがとってもおいしくてそれらを再現すべく昨晩はずっとレシピを見ていた。あとソウルの東大門タッカンマリ横丁で食べたタッカンマリのレシピも。美味しいものと出会うとレシピを見る時間が増えてしまってよくない。東大門駅を出てすぐ気になった丘は興仁之門公園という夜景スポットだということも知った。その夜はみんなでタッカンマリを美味しくいただいたあと、公園とは反対の東大門デザインプラザ(DDP)に行って予想より暗いことに驚き(ライトアップされてもイメージしていたより暗かった)そこ直結の駅から地下鉄でそれぞれ帰った。大きさと形状にはびっくりした。ああいうのが東京に建てられるとは思えない。DDPに行くまでの川を渡ったところに平和市場という楽しそうなマーケットもあったし、川縁にもたくさん人がいて夜も楽しめそうだった。今度はしっかり遊びで行きたいな。

久しぶりに筋トレをした。一通りのメニューはこなせたけど最後の方は足が上がらなくなる瞬間もあって自分でびっくりした。筋肉を使っていなかったわけではないので疲労だな。うまくコントロールしていきたい。筋力的には今くらいをキープしていけたら上出来だと思う。体調崩したりすれば一気に落ちてしまうけど自分の中に基準ができていればここくらいまでなら戻せるかなとかイメージしやすいし。筋トレの帰りに大きなカシワバアジサイが咲いてるのを見つけた。毎年きれいに咲くのは知ってたけど今年はここのが一番早く満開近く咲いたかも、私がみたなかでは。

最近、チェックしていたカナダの精神分析家、Dominique ScarfoneのFrom traces to signs: presenting and representing をセミナーで取り上げてもらえるみたいで嬉しい。ScarfoneがHoward B. Levine, Gail S. Reedと共に編者をつとめた“Unrepresented States and the Construction of Meaning”という本に入っている。ScarfoneはSociété psychanalytique de Montréalの訓練分析家。実践からはもう引退しているとのことで残念。ラプランシュによってフロイトに立ちかえり、その方法を再検討し、ラプランシュの考えもさらに展開させた本も書いている。『Laplanche』(2014)『The Unpast』(2015)『The Reality of the Message: Psychoanalysis in the Wake of Jean Laplanche』(2023)がその主な成果。主な関心は、心的機能における時間次元に関する概念的研究ということで私にとってはすごく読む必要がありそう、と思ってチェックしていた。

やることいっぱいだが少しずつ取り組もう。良い一日になりますように。

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事例検討会とかセミナーとか。

いいお天気。昨日は疲れたけど楽しかったな。内輪での事例検討会とアンドレ・グリーン関連の論文を読むセミナーとIPAが主催するクリニカルディスカッショングループの日本語グループ。一日中勉強だった。電車に急いで乗ったら逆方面だったり、急いで帰って次のグループまでの1時間を眠気と闘ったりは大変だった。寝たら絶対起きられない自信があった。

セミナーは『ウィニコットとラカンに学ぶ』(ルイス・A・カーシュナー編著 · 筒井 亮太訳)に入っているアンドレ・グリーンの「現代の精神分析の分岐」が前半、後半は同じくグリーンの「Illusions and Disillusions of Psychoanalytic Work」にFernando Urribarriが寄せたPostscript、Clinical passion,complex thinking,towards the psychoanalysis of the futureを読んだ。これらは精神分析の世界でグリーンがどういう場所でどういう理論を展開してきたかをおさらいするにはいいのだけどグリーンの学術論文を読むのと比べたら退屈だった。フロイトやグリーンは精読しながら彼らの思考を追うのが楽しい。わかるわからないの世界と離れている時間は楽しい。事例検討会普通のわかるわからないの世界にいたら感じられないことの方が多いのでグループでやるのは楽しい。

色々終えたあとはごはんを作りながら「あかね噺」5話、6話を見て気分転換。1話の落語シーンが演出過剰でうーんと思ったがそのあとは面白くみている。本物の落語に行きたいな。末廣亭もせっかく近いんだし。うん、そうしよう。

今日も帽子をかぶって出かけよう。良い1日になりますように。

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5月10日日曜日

光が強まったり弱まったり。昨晩も少しひんやりだった。今日は移動は多いけど一日中屋内だからどうしようかな。いつもほど夜遅くはならないから少し薄着でも大丈夫かも。電車の冷房対策は必要かもだな。

寝不足だけどスッキリ起きてしまったから早朝から家事したりしてPCの前に座るなり眠いな。一応、ノルマはこなしつつあるが、どんどんやっていかないと全く間に合わない感じもする。あ、また光が強くなった。部屋の中が一気にオレンジになるこの季節。もう少し気温が上がってきたら全てが溶け出すのでブラインドに遮光カーテンをつけなければならない。

今年も出るセミナーの資料がすでに自分で読んだことがあるものばかりだったのでよかった。でもいざ読み直したら何も覚えていない、というか読み直して、ああそうだった、このことを言いたいんだよ、と思い出した。実践から離れない精神分析家の文章は思考を促してくれるので何度も読むのがちょうどいいんだと思う。実践から受けるインパクトはものすごいので私もそれらを薄めないように言葉にしていかないとな。

それにしても眠い。まだ早朝だから二度寝しようかな。でも読みたいものもあるから起きてようかな。平日にはない余裕があって嬉しい。口内炎治るといいな。痛い。

いい1日になりますように。

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5月9日土曜日

土曜日。朝は風がなさそう。昨晩も少し寒かったけどセーター1枚で大丈夫だった。日中はそれだと暑かったけど毎日夜の寒さを警戒した服装をしている。

昨日はほとんど外に出なかったけどいつもと違う夕方の時間に少しでたら子供たちがいっぱい。学校が終わって公園で遊んでる時間だった。ちらほらおとうさんおかあさんが迎えに来たり自発的に帰る子もみえた。ひとりぶつくさ怒りながら不機嫌そうに歩いている子や歌うようになにかいいながら歩いている子もいた。大きめの広場で「やめてよー」という声が何度も聞こえて乱暴な言葉遣いの声も何度も聞こえた。なにが起きていたのか知らないけどやめてといわれたらやめなよ、と思いながら歩いた。

やっぱり平日はほぼなにもできない。こういう朝の時間に進めなければいけない。MacAirがもうだいぶ高齢で新しいソフトはインストールできないし動きものんびりになっているけど家でまだ愛用している。FMVは軽くて持ち運びにはいいのだけど充電がMacとは比較にならないくらいもたない。なのでモバイルバッテリーが必要になってくる。ソウルにはパソコン用のモバイルバッテリーをもっていなかったから発表直前に困った事態になりホテルの人に聞いたらながーい延長コードをもってきてくれて充電できた。Macのときはほとんど使わなかったけど買ってあったのはAnker PowerCore Ⅲ 45W。このモデルはもう古いのだろうな。2021年だって。それにしても重い。大体電源があるところで作業するからモバイルバッテリーはそんなに必要としないのだけど最近電源のあるカフェとかにふられっぱなしでやっぱりもっておこうかなあと思ったり思わなかったり。でも使わないともったいないから筋トレと思って持ち歩くか。ただでさえリュック重たいけど。なにか不具合が出たらやめればいいか。ひたすら家かオフィスで仕事すればいいのだけど一気にやるには外のほうが手中できるのだよね。どうしても別の仕事を見つけて取り組んでしまうから。

今日もいいことあるといいですね。どうぞよい一日をお過ごしください。

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5月8日(金)

鳥たちにぎやか。最近、鳥たちの動きが落ち着いている気がする。春の花が咲き始めた頃はそっと近づくだけですぐに気づかれて、花が満開になると蜜に夢中でこちらの動きには無関心になったけどせわしなかった。今はつばめの親は忙しそうだけどほかの鳥はわりと写真を撮りやすい落ち着きがある。オフィスのそばの鳩はアスファルトのうえでいろんな姿勢をしていてそれはそれで面白いのだけど自然いっぱいのなかにいると鳩が実に生き生きとしていて驚く。この前、明治神宮のほうを歩いていたら草むらでなにかがずっとガサガサいってるから待っていたら鳩が枝じゃなくて積み重なるはっぱの上に座ろうと奮闘していた。あんなのはじめてみた。みんなそれぞれいろいろやろうとしてるんだな。

イギリスのドラマシリーズUnchosenがNetflixシリーズ『選ばれざる者』として放映されている。初回から不穏で、そこからもじっとりといろんなことが起きて信じるって行為は怖いねと思った。主人公のロージーの誠実さはいい。サントラもいい。

昨日は昼間、ジャーナルの原稿の校正作業を一気にやった。またもや辛かった。英語だから無心にならないとできないのかと思ってたけど内容が結構濃い。今の私に書ける限界だったと思う。一気に書いて、査読を経て思い切って組み替えて、今回はじめてきちんとそれを読んだような気分。これはモーニングワークのしあげであったと思う。ラカン派もパスじゃない方法を見出せばいいのにね、とふと思った。分析家になって2年、こころをフルに使う体験ができたと思う。それはすさまじくいろんなものを残してくれたがそれは早くも薄くなってきている。分析家になるとはこの薄まっていく体験をどうワークしていくかということでモーニングワークの次の段階にあるのだと思う。

口内炎やらなにやらで疲れがあちこちに出てきている気がするが今週末も休みではないから無理せずがんばろう。お散歩はできそうなお天気。オフィスのそばの新宿中央公園の薔薇も咲いたし、アジサイがもう少し。楽しみましょ。

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GW終わり

夏の光だ。相変わらず辛いニュースばかり。

世界卓球は100周年、ルクセンブルクのニー・シャーリエンって62歳なのか。すごい。これだけ若い世代が出てくる世界で戦い続けられるってバランスがいいんだろうねえ。世界レベルの人はみんなそうなのかもしれないけどここまで身体を維持できているのが本当にすごい。でも身体って弱くてもどこか障害をもったとしても安心していられる環境こそが大事で、自分の身体に可能性を見出せる教育や会話が絶対に必要。ニー・シャーリエンは身体だけではない感じがすごくするから卓球以外でも活躍しているのだろうけど。なんであってもなにができなくても自信を持って生きていける環境が必要。

GW中は面白い会話をたくさん聞いた。特に小さな子と久しぶりに会ったのであろう祖父母の会話が面白かった。内容はほぼ覚えていないが、昨日は「じいじ、じいじ」と小さな子が祖父らしき人を引っ張ってきて、じいじ、全然追いつけるのに「〇〇は歩くのが早くなったな。すごいな」ときっといつもの褒め上手という様子で明るい声を出してて、その子が「なんとかちゃんは5歳じゃないんだって。うん?5歳?6歳?5歳より大人だよね」となりつつ、自分より色々できるらしい子の話をすると「そうらしいね」と同意しつつ、むしろそんなお話ができる孫をほめるというずらし褒めもよかった。この年齢の子どもは「我こそは!」と思いつつ自分より他の誰かに視線が向くことに敏感ですぐに不安になってしまうからみんなみんないいこ、特に目の前のあなたはとってもいいこ、と関わっていくのはとっても大事なんだよね。その子もまだ5歳みたいなんだけど「昔は風があったのにね」とか言いながら初夏の凧あげに苦戦していた。この子にとっては去年だって、先週だって「昔」かもしれないんだなと思った。10年前のことをまだ最近と思ってしまうこともがある私とは生きている密度が違う。彼らの成長は凄まじい。私はオフィスに行く前に寄り道して花の写真を撮っていたのだけど「じいじばか」と聞こえてきたときは「おおっ」と思った。でも全く動じず明るいまんまうまくその子が成功したかのように動くじいじはカッコよかったし、すぐに「じいじすごい」と切り替わるその子もかわいかった。こういう単純さで楽しいときを過ごしていくのも大事。いちいちこだわっていたら消耗するばかり、ってことはかなり多いから。

火水と結構、仕事がらみの作業をしていたけど、朝、飲み物のパッケージの文字を読みながら「○○製法ってどんな製法だよ」とかツッコミを入れている自分に気づいて休みってやっぱりどうでもいいことに注意を向ける余裕があるよね、と思った。私は見えるものは何かしら読む癖があって歯磨きとかもやたら長くなりがちなんだけど老眼になってからすぐ疲れてしまって本当に何も読まなくなった。歯磨きは相変わらず長いけど。でもこうして余裕があると老眼であっても前みたいになんでも読んでいるんだから目のせいじゃなかったということだね。ちなみに○○製法を調べてみたら実際にその会社が開発した製法だった。失礼しました。こういうふうに思ったことを覚えていて、しかも調べるということができるのも余裕のおかげ。

たまにこういう休みをとりつつ5月もがんばりましょう。

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戦禍の分析家たちの論文など。

薄い曇り空。お茶がなかなか冷めない。朝は向こうの通りを走る車の音を背景に早朝に開くドアや窓の音が響く。

昨日、18時の鐘の音をきいた。オフィスでは神宮球場の花火の音はきこえるが寺の鐘の音はきこえない。昨日5月5日は立夏、東京の日没は18時31分だった。鐘の音がきこえたとき、まだ空は明るかった。

この前、美術館の庭で蚊に刺されたところが痒い。長袖をきていたのに首と手の甲と掌をやられた。私は一度刺されるとなかなか治らずずっと痒いし、掌はほんとうにやめてほしい。ただでさえ散漫な注意がさらにそれやすくなる。すぐに気づいてペッて追い払ったのに手遅れだった。もう蚊の対策もしないといけない。

先日、イタリア精神分析協会Società Psicoanalitica Italiana (SPI)の精神分析家 Anna Maria Nicolòの思春期研究の本Developmental Ruptures: The Psychoanalysis of Breakdown and Defensive Solutionsの(2024)ことをメモ的に書いた。

『発達的断絶(Developmental Ruptures):崩壊と防衛的解決の精神分析』

2015年のInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたNicolò, A. M. (2015) Psychotic Functioning in Adolescence: The Perverse Solution to Survive. International Journal of Psychoanalysis 96:1335-1353「思春期における精神病的機能:生き延びるための倒錯的解決」もこの本に所収されているか、よりまとまった形で書いてあるのだろうと思う。

どの発達段階にあっても崩壊の危機は常にあるわけだが、先日、ソウルで行われたIPAのアジアパシフィックカンファレンスでいろんな国の人の話を聞きながら東洋と西洋では崩壊に対する感覚が異なるように思った。多くの分析家や患者の人生を変えたホロコーストの話題がでると特にそう思う。ここ数年、続いていた日本の精神分析協会内部の葛藤状況に思考の場を設ける役割をとってくれたエルリッヒ先生は1937年生まれのドイツ生まれのユダヤ人で幼いときに「水晶の夜」も体験し、ドイツを出てイスラエルで育った精神分析家である。戦争によって異なる立場になった様々な国の人同士に対話をもたらすグループを運営してきた臨床家であり、その成果は論文で読める。エルリッヒ先生は今はイスラエルとパレスチナの戦争によるIPA内部の葛藤にも取り組んでいる。海外の精神分析家たちと関わることは戦争が終わっていないことを実感する機会になる。

実感から入ると実際には会っていない精神分析家の論文の読み方も変わる気がする。私はエルリッヒ先生がその日、戦禍のイスラエルからいらしたことにインパクトを受けた。

イスラエルにはYolanda Gampelという訓練分析家もいて、ホロコーストを含む社会的、政治的暴力の影響に関する論文を書いている。

Gampel, Y. (2020) The pain of the social. International Journal of Psychoanalysis 101:1219-1235で著者はいう。

「イスラエルでは、私たちの生活が、気づかぬうちに単なるサバイバルになってしまったのだと思う。暴力的な死――現実の、あるいは潜在的な死――、世界の中にひとつの場を保ち続けようとする圧力、自らの存在を個人的な仕事の範囲に限定できない悲しみ、文脈から絶えずもたらされる悲嘆、これらすべてが私たちを摩耗させる。それは、私たちが自分の潜在力を発展させることを許さない。私たちが選び、望んでいるこの現実が、私たちを幽閉している。それは、最低限の自由さえ私たちに否認する。」

著者はbackground of the uncanny(不気味さの背景)という言葉をサンドラーのbackground of safetyを射程に使用する。これは社会的暴力や戦時のように患者と分析家が同じ外傷性状況に巻き込まれている場合、臨床の基底は「安全」から「不気味さ」にとってかわり、精神分析臨床においては転移ー逆転移に揺さぶられるframe(枠)をどう考えていくかが課題となる。

精神分析の枠についてはBleger J. (1967). Psychoanalysis of the psychoanalytic frame. International Journal of Psychoanalysis 48:511–519.が古典だと思うが、ペレルバーグがCOVID-19のときの体験を書いた以下の論文はこれらを参照しながら書かれたものである。

Perelberg, R. J. (2021)が The empty couch: Love and mourning in times of confinement. International Journal of Psychoanalysis 102:16-30

精神分析は分析家自身もトラウマの中にありながらそれを理解、記述していく学問であることをこうやって何度も思い出しながらやっていくんだなと思った。

GWも今日でおしまい。私は校正作業に費やすことになりそう。まとまった時間は貴重。東京はこれから気温があがったりするのだろうか。相変わらず調節難しいけど体調に気を付けて過ごしましょう。

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歩いたり頭使ったり。

立夏。朝日がさす位置が大分変った。もう結構前からだけど南側の窓からは夜明けを感じにくくなった。窓を開けるとまだひんやり。東の空からオレンジの光が広がっていた。身体が動きにくい感じがあるが早朝に起きてしまったので早めに移動するか。でもこうやってなにかしはじめると眠くなってくる。

昨日もたくさん歩いた。薔薇の季節。いろんな名前の薔薇があって面白かったしとってもきれいでいい香りだった。白い藤も満喫したし、こじんまりした美術館で係の人とおしゃべりもしたし楽しかった。私は花も美術もたくさん触れてきたわりに名前とか全く覚えられないけど触れるたびに元気になるのでやっぱり好きなんだと思う。

帰宅して校正原稿を修正して返信用封筒に入れた。忘れずに投函せねば。こっちは日本語だからいいけど、英語の原稿は自分で書いたくせに見直すのがつらいがGWあけるまでにやらねば。

休みの間にReading Freudの準備も少々。今年度はフロイトのメタサイコロジー論を読んでいる。十川幸司訳があって本当によかった。欲動概念についてはいまだに様々な議論があるので訳語に触れている論文をいくつかチェックした。

この前はノルウェーの精神分析家の論文について少し書いたと思う。今回はカナダ出身のMills, J. (2004). Clarifications on Trieb: Freud’s Theory of Motivation Reinstated. Psychoanalytic Psychology, 21(4), 673–677.人物についてはあまり調べていないが関係論の文脈で哲学的に精神分析概念を検討しているらしい。たしかに概念の整理はできた気がするが精神分析臨床になぜこの概念が必要かということを考えるには物足りなかった。著者がこの論文で討論の相手としているのはGeorge Frankという人だが欲動概念の検討ならまずはベーシックにこの人たちでは、という人ではないと思うのでどうしてだろうと思った。治療としての精神分析とは異なるようなので私が慣れていないだけかもしれない。論文を読むのは難しい。

もう5月も6日経ったのか。違う、5日だ。よかった。いや、よくない。やるべきことは多い。昨日、通りかかった古い小さな和菓子屋さんでおいしい柏餅を買って食べたときは5日のつもりで食べていた。こいのぼりもみたし。今日はどんな感じの一日になることやら。いいことありますように。

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ハイキング

今朝はとても風が強い。昨晩から警戒はしていたが。雨は大丈夫そうなのがありがたい。

昨日は三浦にハイキングに行った。坂をのぼりきったところにひろーいキャベツ畑が広がっていて思わず声をあげた。キャベツを運搬するのであろう台車が畑の中にポツンとおいてあるのが絵になった。ひっくり返しておいてあるのもあった。日曜でも休まず作業をしていらした。春キャベツなのかな。もう出荷されているものも多く、残されているキャベツがゴロゴロしていてちょっと不気味だった。このあたりのキャベツは潮風をうけておいしそう。三浦は大根も有名で、小さめの大根がコロコロしている畑も少しあったけどあれはもう使い手がないのかしら。歩いている途中に直売所があってそこのお野菜もおいしそうだったのけどまだ先があったから買わなかった。たっぷり歩きながら三崎口駅まで戻ったあと城ヶ島までバスででたがこれが大混雑。30分弱で着く予定が1時間半かかった。ずっと立っていたから少し疲れたけど三崎港の少し手前のバス停で運転手さんがここからまだかかるから歩いたほうが早いとアナウンスしてくれて一気にバスがすいた。バスに乗ったまま外を見ると三崎港の食事処はどこも行列。学生の頃にみんなできたときはこんなに混んでなかったに。あのときもくろば亭は少し待ったけど。城ヶ島も食事処は大行列。すでに2時を過ぎていたが海辺の店で名前をかいて時間つぶし。とっても小さな商店に入って一杯しながら待った。だいたい同時にきた外国出身の人たちとお店の老夫婦もまじえておしゃべりした。ひとりは東大の院生ということで以前住んでいたという別府の温泉の話とかして楽しかった。別府が素敵なところなのは知ってる。またいきたいな。名前を書いたお店に戻るとまもなく私たちの番でちょうどよかった。いい待ち時間だった。そこから城ヶ島を色々歩いて結局3万4千歩くらい歩いた。今日は風と仲良くできるかな。電車とまったりしているみたい。大変そうだけど無事に過ごしましょう。

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探したり。

今朝もいいお天気。昨晩は雲もなく月がとてもきれいだった。外にでたのが一番日射しが強い時間でやっぱり手の甲まで覆ってないとかゆくなってしまうんだなと残念だった。今日は夏山用の長袖シャツを着よう。

ロンドンでやっている世界卓球を少しみたけどドキドキしてみてられない!といいつつ怖々見ていたらいつのまにか終わっていた。途中で探し物を始めてしまったから。まったくみつからず案の定わりとわかりやすい場所でようやくみつけた頃にはすっかりなにもする気がなくなっていた。せっかくいつもより時間があったのに、と思うけど時間があるからひたすら無為に過ごすこともできるのだから悪くはないのだと思う、というか、色々ひっくり返して探しているうちに校正の原稿が入っている封筒を見つけてしまった。ソウルに行く前に積んでおいたのだった、そういえば。危ない。休み中にやらねば。

ソウルでも結構歩いたとはいえすごく狭い範囲の移動しかしていない。それでもハングルや韓国の街の様子に強く動かされることが何度かあった。韓国人作家の色々な本を翻訳で読んできたのもあるし、茨木のり子や斎藤真理子などの影響でもある。翻訳という営みについて考えていたせいか文庫のほうの中井久夫『私の日本語雑記』にも手が伸びた。以前から愛読していたが別の言葉を話す相手とコミュニケーションをする体験が新鮮なうちに読んだらまたそれまでとは異なる印象を受けた。

土居健郎の「甘え」についてはあまり進捗なし。また読み直さないと自分がなにをいいたかったか忘れてしまう。興味をもったらすぐに発表できるくらいの文章にしておかないと何度も同じ手間をかけることになってしまう。そうだ、昨日は友人の論文PDFを検索するのにもすごく時間がかかった。私が保存していたつもりの場所や形式が違ったらしい。その最中に第14回大会 大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」の討論原稿をみつけて、これはすでに「精神分析的心理療法フォーラム 13巻 2025年12月」に掲載されているのだけど、もうちょっときちんと形にしてもいいかも、と思ってしまい、そっちを少し進めてしまった。遊こっちのほうが楽に書けそうだもんなあ。現実逃避。

まずはすべきことを可視化。実際に見えるように机の上に置いた。今日はここまで、とならないようにしよう。とりあえずいいお天気。いっぱい歩くことにしよう。

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ソウルから帰ってきたり、色々読んだり。

今朝はひんやり。北側の窓をあけたら昨晩の風はおさまっているようだった。少し厚着をしてバタバタ家事をしたりお茶をのんだりしていたら今度は少し暑い。いいお天気。

今朝は韓国で買ってきたお菓子をお茶と一緒にいただいた。25年ぶりのソウルで、今回は学会のためにいったからそんなに観光はできていないし、色々チェックしていたお土産も買いそびれてしまったが、なんといっても近く、女性たちが親切。ハングルが全然わからず、韓国語も全く聞き取れないにも関わらず、こちらがわかるように伝えてくれるのだからすごい。初日からなにかあっても助けてもらえるという感覚をもって行動できた。感謝。近いって素晴らしいな。前日遅くまで仕事して、翌日早朝に空港にいって2時間ちょっとでソウルに着いてお昼過ぎから散歩したり美術館行ったりする時間も元気もあったし、昼の飛行機で羽田に帰ってきたあとも銀行へ振込に行ったりあっというまに日常に戻ってこられた。

今朝はちょうど流れてきた韓国の詩人、小説家、批評家、翻訳家(ロシア語)のイ・ジャンウク×ペ・スアのインタビューを読んだ。「クオンの本のたね」のnoteで。

翻訳について彼が言うには

「例えば、アメリカの作家よりも韓国の作家のほうがレイモンド・カーヴァーを楽しめると思うんです。アメリカの作家は慣れ親しんだ言語と文法でカーヴァーを読み、韓国の作家は異なる言語と文化がもたらす新鮮さでもって読みます。」

そうだと思う。今回、ソウルで開かれた5th IPA ASIA PACIFIC CONFERENCEにいっていろんな発表をきいたり、自分も発表したりしたが、海外にいくと言語と文化について考えることが普段の何十倍にもなる。

イ・ジャンウクはこうも言っている。

「考えてみると私には小説家として不利な条件がたくさんあります。ソウルに住んで標準的な韓国語を使っていて、中年で、男性で、異性愛者のうえ教授まで務めていて……。」

マイノリティの要素に意識的な人である。

「大韓民国は首都圏に住む中年・男性・異性愛者・知識人が圧倒的に支配しているじゃないですか。まず格好悪いですよ(笑)。」

これは関係あるかどうかわからないが私をソウルで助けてくれたのはみんな女性だった。彼らはみんな自分から話しかけてきてくれた。それなりに距離のあるところからそうしてくれた人もいた。

ちょうどジェンダーに関わる論文を読んだところだった。

読んだのはBell, D. (2020) First do no harm. International Journal of Psychoanalysis 101:1031-1038

これはかなり強い感じで書かれている論文で、相談が急増している“rapid-onset gender dysphoria”を社会的文化的文脈を検討せず、人的資源も時間も思考も足りないなか、本来は複雑であるものをジェンダーというプリズムを通じてしかみないことで多くのことが扱われないまま残されるという問題も書かれている。そして思考の排除と社会的圧力の中で、複雑な心理的問題が身体的解決へと単純化されていることへの批判も明確。

ちょっと考えれば簡単ではないとわかることも考える時間がない、あるいはそういう時間をもたないことで解決可能な問題にしてしまう。それは大変に危険なことだ。特に人間の身体や心における解決は常に暫定的なものだろう。

とにかく難しいことは難しいままにしておく必要があるのだろう。すでに起きてから数時間たつが眠くなってきてしまった。動かねば。今日は土曜日。よい一日になりますように。

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5月

今年も5月がきた。梅雨に向かう時期は花の色も変わる。

どこにいてもいろんなことがあるな、と当たり前のことを思う。それらのほとんどは当事者同士以外では共有されることはなかったりするけれど時々信頼できる人と共有できるととても安心したりする。今日は大切なのは我慢と信頼と夢見る能力とか偉そうなことをいってしまったけどそれだって環境の支えあってこそ。自分が得られなかったものでも誰かに与えられるようになるためにはどうしたらいいものか。そういうことを考えながら行動しているうちに本当に自分は与えられなかったということを悲しめたり悔めたりする機会を得られるかもしれない。そういうことを話せる場所がだれにでもあったらいい、というかあるべきだと思う。公的な資源はそういうことに使われるべきではないか。

5月までの大仕事が終わった、といってもまったく準備不足だったがそれこそ周りの人の助けを得てなんとか終えることはできた。感謝。今度こそ学術大会の準備をしないといけない。協会の人たちと話して大きなヒントをもらったので忘れないうちに取り組まないといけない。すぐ忘れる、といわれてしまったし。その通りすぎるのでがんばらねば。

花が咲いたりしぼんだりいつのまにか実になっていたり、毎日の景色の移り変わりが早くていちいちびっくりする。毎年のように毎日のようにみている景色なのに細かくみなくても気づく変化なのだから細かくみたらそれこそ今までとは全く別のものにみえてきたりするのではないだろうか。そういえば昨日も同じようなことを書いたか。

今日はとりあえず無事に。つぎのつぎのつぎのつぎくらいにまあまあ元気に。いつも元気、みたいのって疲れる場合もあるでしょう。自分にとって、というのはとっても大事だから「一般的に」いいといわれるものには首傾げていくのもいいと思う。お互いのありようでどうしていけないかしら、ってね。

5月、美しい季節、のはず。昔からそうなはず。のっぺりした全部が同じ色にみえるような世界にしないように小さいことを積み重ねていけたらいいね。

良い一日になりますように。

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挟間美帆「Fremes」、リウム美術館、月

いつも以上に早く起きてしまったので二度寝したがまだ早い。老眼鏡はなかったがiphoneが手元にあったのでSpotifyで適当にかけたらNubiyan Twistだった。これだとさらに目が覚めてしまいそうだと思いながら聞いていたらいつのまにか寝ていた。そのあとは挾間美帆のデンマークラジオ・ビッグバンド (DRBB) とのニュー・アルバム「Frames」を聞きながらゴロゴロした。これもこれで眠気を誘うには華やかだがきちんと聴きたくなって起きた。

「私は、このバンドの歴史と、その音楽的遺産を尊重しつつ、同時に新しい音楽を創造することを目指しました。その結果生まれた作品は、明快さ、自信、そして国際的な視点に裏打ちされた作品群となりました」

と挟間美帆はいう。ウェブサイトに書いてあった。聴けばそれが実現されていることがわかる。挟間美帆の作る音楽をきくと古典もたくさんききたくなる。この音自体はすごく新しい感じがするのに。新しさって本来そういうものなんだろうけど。

そういえば先日、リウム美術館でTraditional Korean Artをみた。これは常設展で無料だが一応予約して行った。時期によっては人数制限があるらしい。私たちがいったときはとても空いていて大変モダンな空間で5世紀から19世紀までのいくつかのジャンルの伝統美術をみられた。陶磁器が特によくて、飾り方のセンスも斬新でびっくりした。三国時代にも王朝時代にも詳しくないが時代の変化はたしかに作品からも感じたし、こんな昔のものがこの保存状態で残っていたのかとかそういうことにもびっくりした。このスペースは最初にエレベーターで4階まで1階へ降りてくる順路でそのらせん階段にもびっくり。中世ヨーロッパの窓を思わせる穴からのぞくと丸くくりぬかれたようなスペースで身体を使ったパフォーマンスをしている人たちがみえた。彼らはずっと指だけでつながりながら低く小さい音を出し続け、ゆっくりゆっくり動き続けていた。身体ひとつがなりうるもの、身体がひとつずつでつながりうるからできる形が面白かった。美術館はただの箱ではないことがよくわかった。職員さんたちの服装もゆったりしていて空間になじんでいた。時間があれば有料の現代美術のほうもみたかったがまずはこれだけでかなり満足した。おもしろかったなあ。

昨晩、ぼんやりした月をみつけた。昔は月の様子で次の日のお天気がわかったと思うのだけど今は月の満ち欠けも追えない。気づいたら3、4日前の月のことを昨日の話としてしていたりする。

この前の虹は本当に大きくてこれぞ虹という感じだった。これまでいろんな場面でみあげてきた虹のことを思い出した。正しさとかそういうのではなくて基本の形を知っていることは大切だなとなんとなく思った。あ、本当はそういう形してたの?と気づくのって本当にいろんな間違いや誤解を超えてだったりするけど、違和感を感じるところから、それを誤魔化さないところからはじまるのかもね。なにが?認識が。あぁ、となんとなくため息がでてしまう。子どものときのことでもいまだに思い出すと恥ずかしいやらひどいやらな自分がたくさんだし、これから今日のことで頭を抱えたりするかもしれないわけでなかなか難儀なことばかりだけど人を信頼してやっていけたらいいよね、結局は。どうみられてるんだろう、どう思われてるんだろう、というのは最小限は必要かもしれないけどそれに気をとられてばかりになる必要はまったくないわけで、こっちに足りないところがあると思うなら助けてくれよ、と私は思う。今って指摘だけしてほうっておくより悪くてあえて見つけ出す必要のないことを匿名でああだこうだいって自分は正しいという認識からおりないというなんだかひどいことが起きているでしょう。いろんなことはいろんな事情が複雑に絡み合って起きているので関係のない人が口出ししない、ってわりと常識だったと思うのだけど。みんなで補うあうことは本当に大事で補ってもらうことを恥だとか怖いと思ってしまうような関係は長い目でみなくても本当によくない。みんなどこか同じ程度に欠けてるものでしょう、と無理に自分の気持ちをおさめることはないけど事情を知ればなにもいえない、とうことはかなりあるのでまずは他人より自分。それぞれみんな大変なはずだもの。基本形は正しさとか完璧さとは全然違う。

月だって「今日は完璧な満月だぜ」とか絶対思わないわけで満ちたら欠けるし欠けたら満ちるしの繰り返しだし、人間だって老いていく身体を支える筋力をつけよう、とかアンチエイジングだって若さとか美しさとか言葉の意味づけを少しずつ変えながらやっていったほうがいいこともあるわけでしょう。え、本当はそういう意味だったの?ってことは結構あるわけで、なんでそんなことに囚われていたんだろう、って愕然とする体験は必要なことも多いけどそんな辛いことは最小限でいいと思うし、ましてや人に強制的に、迫害的にさせられることではないし、日々少しずつ認識を改めるゆるさをもつことで自分がまっすぐ立っているという状態がわかったりするんだと思う。少しずつ少しずつ。こわごわでもやってみたりやめてみたりいろんな自分を体験できる時間を自分にも相手にもあげられたらお互いにいいんじゃないかな。昔からいろんな先生がハンドルのあそびが大事といっていてそれはいちいち心に残ったし、その先生方の年を超えたであろう今はそれは実感になった。

世界中のニュースが痛ましいものばかりでなにもしていなくても気持ちが疲れる。そんななか毎日よく歩いているのも自分が無事に歩けていることを確かめたいだけなのかもしれない。不安なのかもしれない。それはそれで大事にしたい気持ちだけどなにも考えず呑気に過ごせる日々を保障してほしい。みんなでやっていくことのはずのことだけど中心となる人たちが大きな安心をみせてくれないとみんなは「みんな」になりにくい。

今日はどんな一日になることやら。一日で多様なことが起きるならそこそこ平和ってことかもしれない。みんなにいいことがありますように。

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「レンタル・ファミリー」をみたり。

昨日もいろんなお花を見た。ものすごく早起きしてでかけたわりに眠くもならず知らない道をたくさん歩いた。2万3千歩。そこまで歩いたように感じなかったけどいろんな景色に会えてよかった。カササギらしい鳥もみた。カチガラスともいうらしい。カチカチなくから。

この前「レンタル・ファミリー」をみた。ブレンダン・フレイザーが最初からとてもよかった。「ザ・ホエール」のブレンダン・フレイザーも大好き。今回はもっと感情の揺れ幅は少ないけど細やか。こういう人たちはこういう稼業につくだろうか、と思ったりしたがあやまり稼業などは昔からあるといえばあるが現代だとこういう切ない形もあるのだろうか。全体に派手ではないが深い葛藤がそれぞれの登場人物にあってとても面白かった。主人公の癒しとなる女性を安藤玉恵にしたのはなんだかちょっとずるい配役だなと思った。悲しいことがいっぱい怒るけど全体の穏やかなトーンはジーンときた。

今日もいろんな景色に会いたいな。鳥さんたちにも会いたいな。良い一日になりますように。

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昨日の夕方、虹がとてもきれいだった。あんなに大きくて虹色くっきりの虹をみたのは久しぶりかもしれない。

祖父江慎さんが亡くなったというニュースをきいた。大好きな人だった。早すぎる。

そうか、祖父江さんが亡くなったから虹が出たのかと言いたくなった。オフィスの窓からだんだん薄くなる虹を撮った。

なにがなにやらな毎日だがなんとか朝。世の中にはいろんな人がいるという当たり前の実感より1人の人間が大きな空虚を抱えるためになしているあまりに多くのことをどう記述すればいいのかと悩む日々。

毎日書くけど希望なんて探さなくてもみつかるものであってほしい。

虹、きれいだったな。今日がいい一日になりますように。

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月曜日

よく降っている。昨日はいいお天気だったのにね。

昨日はいいお天気だったのでお散歩をした。鯉のぼりの季節。

神社に行ったら昔の子供の遊びと書いた段ボールが小さな机に置いてあってお手玉やだるま落としやけん玉が無造作に入っていた。まずはそのそばにあった輪投げをやりあまりうまくいかず悔しい思いをし、お手玉はジャグリング的にちょっと上手に披露し、けん玉はわりとすぐ真ん中にいれてそばにいた人に「すごい!」と言われたので真ん中は横より簡単かもと言っておいた。実際そうだと思うのでみんな真ん中から挑戦した方がいいと思う。私は真ん中に入れるのは得意だけど横に乗せるのは難儀じゃ。

昨日の大河ドラマ見たけど落ち着いて考えなくてもひどい時代。辛すぎる展開。今だから戦国ヒーローとして推される彼らだが名もなきものたちにとってはなんでもいいから生活楽にしてくれよというのはいつの時代も変わらないのだろう。この「なんでもいいから」は戦争してもいいからってことじゃないけどね。誰かを殺すようなことはしない、という当たり前すぎることをまずは実行してくれよ、というところからだと厳しい。今またそんな時代なのかもしれないが。

山火事も地震も本当に怖いし心配だし気持ちが落ち着かない。絶望の中でいろんな理由つけて見出す希望じゃなくて普通に生活しているだけで芽生える希望に支えられていきたいしそのための土壌を作っていきたいものですね、みんなで。今週も無事に過ごせますように。

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Reading Freud初回だった。

いいお天気。昨晩は半分より少し膨らんだ月がきれいだった。寒かったけど。夜、もう少し暖かくなるといいなあ。昼間はこのくらいでいいからさ。

昨晩は2026年度Reading Freudの初回だった。今年度は十川幸司訳『メタサイコロジー論』を読む。すでに何度も読んだ論文たちだが、昨日、かなりじっくり精読したら「心理学草案」がシンプルに思えた。私はアンドレ・グリーンを支えに精神分析における欲動論の重要性を考えながら書いたり話したりするようになったが、昨日はその基盤となる論文、「欲動と欲動の運命」を丁寧に読んだ。欲動TriebはストレイチーによってInstinctと訳された。これらは語源は同じだがInstinctに対応するInstinktというドイツ語はあるので、フロイト自身これらを同じ意味で使っていたとはいえ、区別はやはり必要なのだろう。Revised Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, edited by Mark Solms, published jointly by the Institute of Psychoanalysis and publishers Bloomsburyではtriebはdriveに訳されている。

昨日は 導入としてフロイトを読むということ自体について書かれた『現代フロイト読本 1』の北山修論文「私有化された「フロイトを読む」」を最初に読んだ。この本は日本精神分析協会の分析家たちがフロイトの論文をひとつずつ選んで書いた論文集でそれぞれのフロイトの読み方を垣間見ることができる。北山修も訳語の問題に言及しており、私が常々どうにかして「エス」を日本語にできないものかと思っているという話もした。

今はフロイトを読むための手助けがたくさんある時代、昨日は欲動という力についてはなんとなく理解したが「心的」っなに、と振り出しに戻ったような感じもあった。北山修がいうようにあっちゃこっちゃ行ったり来たり(北山先生はもっと洗練された言葉で書いている)しながら読めばふと自分でその軌道の先にでることもあるだろう。楽しもう。

まずは日曜日を楽しもう。

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ドキュメント72時間を見たり。

少しひんやり。昨日も夜は寒かった。信号待ちで隣にいた人たちは私よりずっと薄着なのにずっとなんでもない感じで立っていた。

昨晩、テレビをつけたらNHKのドキュメント72時間をやっていた。今週は「気仙沼・酒屋の物語」。おかみが「私の手から夫が流されていって」と口調も変えずに言ったあたりから涙が止まらなかった。いろんなことを思い出してしまった。お酒に関しては依存症や身体の病気という文脈だけでなく、様々な個人的なエピソードを聞いてきたが、漁の安全と豊漁を願う酒という文脈もあるか、と酒というものについてその成り立ちからあれこれ考えてしまった。私の生活に海は全く身近ではないから、東日本大震災の被害はなおさら呆然とするものだった。彼らはずっと喪失を生きている。はじめて震災のこと話した、とこの前会った友人が言っていた。その人の実家は被災地でご家族のことは時折聞いていた。でも私はその人がそ自分がその日どうしていたかをはじめて話したことに衝撃を受けていた。たしかにはじめて聞いた。東京であの地震を地続きで感じながら家族の状況を把握し、慣れ親しんだ土地を想像し続けることは遠くで地震の話を聞いた、という体験とは全く異なる。ドキュメント72時間は単なる断片とは異なるものを見せてくれるから前から好きだが、15年たった今の語りをこうして何気なく伝えてくれたのもとてもよかった。

旅好きの友人に色々教えてもらってなにも進んでいない旅準備が少し進んだ。やることというより考えることが多すぎて歩みが止まっているが各種締切を恐々確認せねば。今日もなんとか過ごしましょう。寒暖差で体調崩さないようにしましょうね。

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ニュースとか。

岩手県の大槌町の山林火災、延焼のスピードがすごく速いらしい。心配で眠れないのではないか。大槌町は東日本大震災でも被害が大きかったところ。どうかどうか被害が広がりませんように。政府はどのくらいこうした災害に心を寄せて具体的な対応を考えているのだろう。本当に今の政府、信用ならない。

いろんな深刻なニュースを見て辛い気持ちになってチャンネル回してたらスウェーデンのヘラジカの大移動をやっていた。慎重な動き。人間はもっと慎重になるべきだし、慎重になれると思うのだけど。本来弱肉強食の世界じゃないんだから。言葉使えるんだから。

この前、お散歩していたらたこ焼きさんがあった。「へー」と思う味のたこ焼きのポスターが貼ってあったのだけどそれがなんだったのか全く思い出せない。ビールのおつまみによさそう、と思ったのだけは覚えているがまだ朝だった。最近見つけた魚屋さんに「タコがいっぱい」と書かれた練り物が売っていて「へー」と思ったら他にも「イカがいっぱい」とか「エビがいっぱい」とかあって迷いに迷ってしまった。すごく旬のものが食べたいと思っていたのでホタルイカをとりあえず買って「エビがいっぱい」も買った。私はやっぱりエビが好き。ソウルで海鮮が食べたいが余裕がなくなにもチェックできていない。友人が色々教えてくれるのが本当にありがたい。日本で韓国料理屋さんに行くと結局参鶏湯ばかり食べてしまう。タッカンマリというのを教えてもらってレシピを調べたらすごく美味しそう!だけど参鶏湯となにが違うのかな?と思って調べたらレシピがシンプル。参鶏湯はちょっと凝ってるもんね。タッカンマリなら作れそうだけど本場の調味料で食べたいよね。大学生のとき、ケンブリッジの語学学校に短期間通ったとき、寮で仲良くなった韓国人の子たちはみんな自分の家の味の調味料(?)を持っていた。学校の先生もいて、私からするとそんなに年齢差があるように見えなかったのだけどみんなはその人にとっても礼儀正しくて、年上の人に対する礼儀作法が染み付いているのもすごいと思ったし、数年後には徴兵にいくことが決まっている友達にぶつけた理不尽さもそのガールフレンドの奔放ぶりも懐かしいが、今彼らと会っても同じような気持ちを掻き立てられるのだろうと思う。ソウルの街角で実はすれ違っていたみたいなこともありそうななさそうなだが、すれ違っても絶対気づかない自信がある。あれからものすごく月日が経った。当時の瞬発力や言葉を超えたなにかで通じ合う自由さは今の私にはない。精神分析状況だと長い訓練のおかげでそれらは自ずと発揮されるというか、発揮されない場合、それを逆転移として思考することが可能だが、それ以外の場面では思い出そうとしても思い出せないことばかりだし、せめて見てもいないことを見たとかいわないようにしたいという心がけくらい。

とにかく毎日安心して過ごしたいね。ため息まじりだけど良い一日になりますように。

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イタリア精神分析とか。

曇り空。今日は気温が上がらなそうだから服装もちょうどいい感じにしていけばいいので楽。

昨日、イタリア精神分析協会Società Psicoanalitica Italiana (SPI)の精神分析家 Anna Maria Nicolòの思春期研究の本Developmental Ruptures: The Psychoanalysis of Breakdown and Defensive Solutionsについてもうひとつのブログで少し書いた。この本はネットで拾える範囲でしか読んでおらず、IPAジャーナルに載った著者の論文について書こうと思ったのだが、本のことだけで結構いっぱいになってしまった。アナ・マリア・ニコロはフロイトの多形倒錯をブレイクダウンを防ぐ一時的な防衛配置として見ているようなのでその路線は面白そう。クライン派からウィニコット的理解へと立場をうつしてきたらしいのだけど全体としては関係論的記述というかイタリアっぽい感じがする。

イタリアのPsicoanalisi e Socialeというサイトは社会に開かれた精神分析の実践を発信するプラットフォームという感じで興味深いのだけど、元はイタリア精神分析協会(SPI)の分析家やエンジニアや心理療法家たちが立ち上げたものらしい。今はODVというボランティア団体が運営していてメンバーも臨床家だけではなく、ジャーナリストや映像の専門家もいるみたい。今のトップページには浅野にいおの「ソラニン」の評ものっている。扱っているテーマの幅広さからイタリア精神分析の主流のフィールド理論が社会的実践を伴っている様子。日本にもこういう団体ができるくらいのムードがあればいいけどなかなか難しいね。こういう団体があれば災害が起きたときの募金とか支援活動もしやすくなると思うけど。

なんかやることの種類が多くてクラクラする。情報処理能力は確実に落ちているので別の何かに頼りたいが何があったっけ、自分に。とりあえず今日もそこそこ元気に過ごしましょう。

ワイルドに風に揺れてた