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お菓子 仕事 俳句

確定申告、橋本多佳子の句集

昨日は雨が降った。昼も夜も降ったらしい。昼間、外に出たら道路が濡れていた。傘をさしている人もいたからほんの少し前まで降っていたのかもしれない。

雨は大船渡の火災を少し鎮めたらしい。もっと早く降ってくれればと思わざるを得ない。土の中にはまだ熱源があるとのこと。完全に鎮まりますように。すぐに大きく細やかな支援が入りますように。私もできることを探そう。

確定申告、ああそういえば、と後回しにしているものを次々思い出す。よくわからなくて後回しにしていたものだから友達に教えてもらいながらする。毎年、こうして、いろんな人と愚痴を言い合いながらする作業だ。開業仲間が多いのは心強い。こういうのはいろんなものの持ち寄りと分け合い。期日には間に合うだろう。色々納得いかないが。お金をもらわずにすごく労力かけているものには何もくれなくてお金をもらった分からは取られていく。なんなんだろう。仕事ってお金にならない部分がかなりあるけどね。

以前も書いたがコロナ禍、オンラインで話していた句友が教えてくれた橋本多佳子の句集をちょこちょこ読んでいる。馬車の時代を経験しているんだな、と思う。私はその音も揺れも映画やドラマの中でしか知らない。

仏蘭西租界

春曉の路面かつかつと馬車ゆかす
 
春曉の街燈ちかく車上に過ぎ
 
幌の馬車春曉の街の角に獲し

春曉の外套黑き夫と車上
 
春曉のひかり背がまろき馭者とゆけり
 
春曉の靄に燐寸の火をもやす

これらは多佳子が夫と上海、杭州へ旅したときのものだ。昭和10年5月、これが夫との最後の旅となったという。

毎日10,000歩以上歩いていた日々は終わったが週平均だとなんだかんだそのくらいになる。意識して歩いているわけでもいろんなところに移動しているわけでもないのに不思議だ。鳥たちは実物でも写真でも実によく歩く。飛べるのに。飛ぶ方が労力いるのかな。

今日は頒布のみのお菓子屋さんを営む友人のフロランタン。北杜市での生活も長くなってきた。

「バタークッキーの上に、キャラメルアーモンドが乗ったクッキーです。リッチなバター感の歯応え良いクッキーが、香ばしいキャラメルアーモンドをまろやかに包み込みます。」

と紹介されている。この紹介プリントもいつも嬉しい。そしてこのフロランタン、とっても美味しい。花豆のケーキも最高だったがこっちはまた別の感動がある。そしてプレゼントにつけてくれた丸子紅茶のこの自然な甘みはすごい。ほんわか。今日はよく晴れそう。外も光に覆われ始めた。週末、良い1日になりますように。

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俳句

朝の会話、斎藤志歩さんの俳句

曇り空。房総のお土産「旅するプリン」のいちごミルクの色は鮮やか。パッケージのイラストもかわいい。

昨日、朝、カーテンを開けたらベランダや向こうの家の屋根にうっすら雪が積もっていた。夜のうちに雨へ変わったのに思ったより白かった。滑らないようにあまりゴツくない雪対応のブーツを履いて玄関を出たら道路は普通の雨上がりの道路だった。久しぶりに履いたせいか親指のところが痛かったのでいつものスニーカーに変えた。寒かったけど手袋をしなくてもひどく悴むこともなかった。大きなポケットに突っ込んでいたからかもしれないけど。

そういえば先日、電車で向かいの角に立っていた小さな女の子のところになん駅か過ぎてから乗ってきた多分高学年の女の子が歩み寄った。小さな女の子は嬉しそうにすぐそばで手を振った。この二人のおしゃべりがとてものんびりでかわいらしかった。雪を見たことがない小さな子にスキー場で降るんだよと教える大きな子。スキー場も行ったことがない、と少し黙る小さな子。どんなブーツを履くのという質問も素敵だった。またしばらく間があって、大きな女の子が優しい声でいつもの男の子はと聞くとまたまたしばらく間があってあの子は雨の日は遅いのと小さな子がいい二人で少し笑いあった。通勤の電車でこんなかわいらしく穏やかな会話を耳にできるとは。

言葉の良さでいえば昨日の朝日新聞「(あるきだす言葉たち)」の「烏貝」という斉藤志歩さんの連作もとても素敵だった。私は穏やかで静かな句が好きなので斎藤志歩さんの俳句はどれも大好き。言葉の引き出しが多いのは間違いなのにそれをたくさん使っている感じが全くしない。第一句集『水と茶』(左右社)はタイトルもいいが良い句集だった。岸本尚毅さんの帯も本当にそうだなというものだった。

夕東風へ黒板消しを打ち合はす 斎藤志歩 ー『水と茶』より

黒板消しを打ち合わす文化は1992年生まれの斎藤さんにもあった。今もあるだろうけど減っていくだろう。夕東風はもう少し寒い時期の春風か。夕方の空はどんな色の日だったのだろう。黒板消しの出す色付きの煙が溶けていく空は。斎藤さんはすごく寒い日にすごく寒がっていてもあったかい空気を出せそうな人で、一度お会いしたことがあるが、雰囲気も俳句と同じだった。新聞に載ってくれて嬉しい。みんなに読んでもらえる。

鳥たちが何か言っている。きみたち、今日ちょっと遅いよね。私もか。良い一日になりますように。

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精神分析

雪が降った。

昨晩の帰り道は怖かった。アスファルトがうっすらと白くなりはじめてからは早かった。横を通り過ぎる車も雪に慣れていないせいか私が滑らなくても向こうから寄ってきそうで、緑道を歩いたりした。沈丁花はまだ雪に埋もれてなくて赤が鮮やかだったけど香りはあまりしなかった気がする。雨の日はむしろ香り立つのに。

確定申告が終わらない。本当に少しずつしかやっていなかったからだけど。あと少し、あと少し、が続いている。税金嫌だなあ。がんばって働いても、働かせてもらってる、みたいな立場。働かせてもらってる、という側面はあれど、政府のそれは私のそれとはだいぶ違うと思う。

本物っぽい鳥のぬいぐるみをパイプ椅子型の小さなスマホ置きに座らせたらふんぞりかえった人間みたいになった。一時期、大人になってもぬいぐるみと会話をしている身近な人をやや白い目で見ていたが、今は私も普通に会話する。新井素子さんは「ぬい」とよんで4000個のぬいぐるみをかわいがっているが、夫の手嶋さんもいつのまにか会話ができるようになったという。今や人間よりコミュニケーションしやすい存在、というか以前からそうだったのだろう。移行対象としてではなくそういう存在として。

早く出なければ。毎回少しの雪でも外出を控えろと言われる理由がわからなくはない。東京は本当に雪に弱い。気をつけていきましょう。

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Netflix 言葉

折々のことば、アカデミー賞

昨日は少し雪が降った。ものすごい厚着をしていたので寒さは少ししか感じなくてすんだ。今日も夜は雪の予報。たくさん着こんでいこう。

鷲田清一の朝日新聞「折々のことば」を読んだ。『宮田珠己の楽しい建築鑑賞』からの引用。「スルーしていた風景」と出会うことは難しいが、これまでスルーしていたことに気づいたときは見えたときで、それはそれまでとは別の見方ができるようになったということだから少し嬉しい。

第97回アカデミー賞の授賞式があった。「ザ・レディ・イン・オーケストラ NYフィルを変えた風」が短編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。この映画は、ニューヨーク・フィル初の女性コントラバス奏者オリン・オブライエンの軌跡を追ったものだ。Netflixでみて気に入っていた作品だ。オリンが入団したのは1966年、レナード・バーンスタインが常任指揮者だったとき、というのもなんだかしみじみする。オリン・オブライエンは2021年に引退。指導や演奏活動は続けているらしい。彼女がたったひとりの身内である姪に、友人に、教え子に話す言葉はどれも力強く印象的。この映画で、映画になる要素をたくさん持っている人であることを知ったが、それをこんなコンパクトな映画に仕上げたのがすごい。

長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされていた伊藤詩織さんの映画はそれに関するニュースしか見ていないし、論点が多すぎて、というか論点を増やすようなことが次々に起きて何かをいうことは難しくなっていると思う。個人の権利や尊厳はどんな職業であっても守られてほしいし、女性同士は特に守りあっていくために慎重にならねばならないことがたくさんある。衝動か、必要なスピードか、というのは当事者でも区別がつきにくいように思う。

気持ちが暗くなるようなニュースばかりだが、今朝は山梨の友人の花豆のケーキと静岡の丸子紅茶をいただいた。今日もそれぞれの土地で暮らす人たちの小さな日常が守られますように。

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精神分析

記憶

鳥たち元気。今日は久しぶりの雨。花粉は落ち着くかな。

先日、久しぶりに旧古河庭園へ行った。旧古河邸(大谷美術館)も行った。昔、家庭教師や学童保育の巡回相談をしていた地域だ。長く通ったが、その後経過した時間の方が長くなった。思い出すのはあの昔ながらの道の路面の店とか、そこをまっすぐいくと薬局があってとかだが、それらの記憶もやはりかなり色々なものが省略されていた。記憶力の低下を感じてからこれまでは覚えていなくても何も気にしなかったものまで覚えておきたくなっている気がする。その場に行けば思い出すことだってたくさんあるのだから放っておけばいいものを。とはいえ忘れたくないという気持ちまで忘れるということもありうるのでいろんな不安を矛盾の多いやり方でどうにさしようとする愚かさもまた悪くないのだろう。古河庭園には家庭教師先の子との苦い思いでもあるが、それが水辺で起きたことは覚えているがそれが起きそうな水辺を見つけることができなかった。

それにしても最近電池切れが早い。気候に対応できていないのかもしれない。今日は月曜日。がんばろう。

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俳句 精神分析、本

俳句、サラ・コフマン

お天気がイマイチ。昨日は光がいっぱいだった。

NHK俳句は堀田季何さん。「けりをつける」の「けり」って切れ字の「けり」だったのか!句友の名が!すごいなあ。でも私も先日、句会で出した二句両方に特選と佳作をいただいたので、最近の地道な習慣にご褒美をいただいた気分。引き続きがんばろう。

昨日は止まると寝てしまいそうだ、とちょっとカフェに寄って作業を始めたらそこで眠ってしまった。サラ・コフマンのフロイト読解が参考になっているので読んでいるのだけど文章が難解。私の読解力の問題もあるだろうけど、この文章はイマイチではないだろうか。難しい。サラ・コフマンはフロイトの読解方法をフロイトに適用する。フロイトの自己分析に厚みが出る。そしてコフマンは夢と遊び(芸術)を大切にしていると思う。たださすが哲学者。しつこい。エピグラフは

「好ましき事はすべて、三つでやってくる」。ジャン・パウル

あ、読んでいたのは『人はなぜ笑うのか? フロイトと機知』(人文書院)です。ひたすら「三」にこだわっている。精神分析は二を抜け出すための三だけど三を分解していくことも大事。そのためにはこのこだわりも大事か。

今日はどんな一日になるかな。いいことありますように。

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精神分析

三寒四温、サラ・コフマン

2月はあっというまに過ぎた。空はうっすらピンク。身体のメンテナンスは難しい。三寒四温は何十年も経験してきたのに。とりあえず白湯を飲んだ。

本を読んでいるとなんだこれはと少しゾッとすることがある。俳句でも時折そういう句に出くわす。たった17音で、というか、小説でも短編でそういうものが多いから短文の効果かもしれない。

年齢のせいか、元からか、色々なことをすぐに忘れてしまう。そして相変わらず探し物に時間がかかる。いつもそれでかなりの時間をロスしている気がするが、ぼーっとしている時間を少しそれに充てたと考えることもできる。

サラ・コフマンを読んでいた。フランスの哲学者でデリダと同じグループにいた人、という以前に、ユダヤ人として迫害を受けた人だ。父親は子どもたちを複数の家に匿わせ、自身はアウシュビッツで死んだ。『オルドネル通り、ラバ通り』はサラ・コフマンの自伝的作品である。私が読んでいたのは彼女のフロイト研究の一冊『芸術の幼年期―フロイト美学の一解釈』である。訳者の解説で明らかにされるフランス語の原題における多義性も興味深い。サラ・コフマンはニーチェ生誕150年の日に自ら命を絶ったという。これは「偶然ではない」とする意見もあるようだが偶然とは、ということから考えさせられもする。

そにしてもあくびばかり。今日もがんばろう。

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精神分析

母ー子ども研究や乳幼児観察。

ぼんやりした朝の空。今日はどんなお天気になるのだろう。花粉のせいか目が痒いしくしゃみが出る。まだ薬を飲むほどではないけど、今はいい薬が色々あると聞いている。

今朝はいつもより時間があるが色々とやることがある。メールの返信も溜めてしまった、というか、Gmailの調子がおかしくて受け取れていないメールが何通かあり困った。何かしらおかしなことは起きる方が普通なので別にいいんだけど、と思うことはできるけれど相手あることは片方だけがそう思っていても、というのもある。難しい。

先日、国際精神分析学会(IPA)の Health CommitteeがやっているOff the Couchを聞いていた。Ilene Lefcourtは1982年に0歳から3歳の子供と親のためのセンターを作り、長期に渡りグループを指導したりしてきた人らしい。NYで開業しているとのこと。精神分析家とは書いていないけど精神分析的なアプローチを用いて研究をしているのだと思う。

今回のテーマはChildhood Memories: their impact on mothers and their 0–3-year-old children

母親の記憶が早期の子供にどのような影響を与えるか、という割とベーシックな話に思えたが、母親にここまで焦点を当てる研究というのはそんなに多くないかもしれないと思い直したりした。数多くの母子の関わりを抱えていける組織を作ること自体がすごいことだ。日本でもタヴィストック・クリニックで訓練を積んできた先生方がその訓練の重要な一部である乳幼児観察という方法を取り入れ、小グループがいくつかある。私も脇谷順子先生のグループの最初のメンバーだった。私にとって乳幼児観察はとても貴重な体験だった。生まれたばかりの赤ちゃんを毎週一回、ご自宅で観察させてもらう、ということは両親、兄弟姉妹、祖父母との関わりも含まれているわけで、環境の重要性はもちろん、環境というものの複雑さを学んだ。私もそこにいて視線を送っているだけで環境の一部なわけで、人の視線や小さな動きの大きさも知った。それらは安易に子供にとってどうこう、とか言える類のものではない、ということを強く思えたのが一番いいことだったと思う。外側の人間と母というのはまるで異なるものなので、そこに対する敬意は当たり前に大事。乳幼児観察は観察者の内面の動きが重視されるがIlene Lefcourtの研究が対象にしている母親の語りはまずは非常に個別的なものとして聞き取られる必要がある。母親を「〜親」と名付けるだけでない仕方を臨床家は展開していく必要があるので勉強になった。

鳥たちは今日も元気そう。がんばろう。

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精神分析

わからなさを維持。

朝焼け。大船渡の火事を思い起こす。震災を乗り越えてきた地域ではないだろうか。早く鎮火しますように。

昨日は二・二六事件の日だった。89年が経った。少し前に高橋是清邸のその部屋に立った。その時の印象が強く資料をいくらか読んだが、一体何が起きたのか、という戸惑いが随所に見られた。何かの信念に突き動かされて動いてもあれはなんだったのだろうと愕然とする場面がある。人の人生は短いはずなのに、と思う。

高橋ユキさんのnewsletterに書かれる事件の記録にも人間ってと思わざるを得ない。人間の暴力性を根源的なものとして、それをどうにかしようという機能が人間には備わっているのではなかったか。その場の快楽が目の前の相手をモノ化する場面は大なり小なり経験しているが、その極端な例がいつも書かれていて辛い。が、人はわからない、ということを維持しつづける助けになる。すぐにわかったような気になる、というのも暴力と近いだろうから。

今朝は、鶴巻温泉で買ってきてくれたというデコポンと「桜の小径」というお菓子を緑茶と一緒にいただいた。穏やかで暖かい毎日を望みながら動ける人になりたい。

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精神分析

動作法

日の出がだいぶ早くなった。今朝は月が見えない。

丸山千秋先生、昨年六月に亡くなられていたのか。知らなかった。まだ東日本大震災よりもずっと前、成瀬悟策先生の動作法の研修会にでているときに丸山先生に直接動作法を実施していただいたことがある。震災前だと思うのは、丸山先生と同じくその研修会の講師をされていた冨永良喜先生のお名前をその後よく聞くようになったのが震災後だったから。冨永先生の『動作とイメージによるストレスマネジメント教育 基礎編: 子どもの生きる力と教師の自信回復のために』はSCの講演にも友達との勉強会にもよく使わせていただいた。あの研修会では変わらず「エライ」先生のセクハラ発言に辟易する場面もあったが丸山先生や冨永先生のお話や実践に感銘を受けた。丸山先生の身体に触れる際の自然な気遣いが心に残っていたので気持ちが冷え込むこともなかった。成瀬先生に厳しく何か言われても穏やかに微笑んでいらしたのも印象的。穏やか、というか苦笑かも。74歳でご逝去とのこと。当時の先生は今の私くらいの年齢だったのだろう。当時の私は精神分析的心理療法と動作法の両方を熱心に勉強しはじめた頃で、同じく成瀬先生の指導を受けた最上貴子先生に個人的に指導を受けようと思っていたが日程が精神分析的心理療法のスーパーヴィジョンと重なってしまい受けられなかったのだ、たしか。何者になるか、というのはこうしたちょっとした偶然によって方向づけられる、という体験を何度もしてきたが、この出来事は心に残っている。私はクリニックで自律訓練法を実施するのが好きで、身体に関わる心理療法はしっかり学びたいと思っていた。その後も色々と驚かされる体験を現場でしてきてその興味を失うことはなかったが精神分析の訓練が始まればそれに没頭する以外なかった。訓練とはそういうものだ。とかいってそんなふうに思えたのは訓練中盤からだけど。私にとっては誰かを理想化して入った世界ではなかったし、いろんなことに興味があったからどうなっていくのかなあ、自分、と思っていたけど結果的に「委ねる」ということを覚えたのは精神分析のおかげであり、その結果として精神分析家になったのだからとりあえずこういう道だったのだろう。それも「いまのところ」かもしれないけど、ここに至るまで本当にたくさんの先生にお世話になったのは間違いない。そのプロセスでいろんな横のつながりもできた。私たちの世代は頭で考えるより実際のフットワークが軽かったのかもしれないな、と指導者として若い人たちの愚痴を聞いていると思う。でも今には今のがんばりかたがあるし、ネットワークづくりのツールは当時よりずっと多い。私は私が与えられてきたもの、培ってきたもので学び続けられたらと思うが、みんなも自分で作ればいいんじゃないの、とあまり彼らが求めてなさそうな言葉を返したりしている。誰かのお膳立てに乗っかっているだけだと不満も溜まりやすいと思う。自分でやると自分が責任を取らなければならないのでやるべきことは適度に誰かを頼り、協力していくことになる。身体のメンテナンスも必要になる。私が休んでばかりでは困るから。動作法は身体のメンテナンスにとてもいいと思ったなあ。今はどんな広がりを見せているのだろう。またお話を聞きたいし、実践をしたい。筋トレにも活かせると思うし。

今日もがんばろう。

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精神分析

それぞれ。

東の空にほそーい月がきれい。昨日は梅をたくさん見た。場所に限らず白い梅の方がずっと多いように思う。ピンクの梅はとても印象が強いからちょうどいいけど。この週末はこの冬一番寒かったように思う。「ように思う」ことばかりでどれもこれも変わりゆく印象の、しかも私の短い長期記憶の濃いところでいうと、というお話。この寒さを乗り切れば暖かくなる、と思うと我慢できるけど、これから長い冬が始まる、とかだったら辛いなあ。雪国の人はどんな気持ちで過ごしているのだろう。きれいな写真を送ってきてくれるから普通に生活の中で身につけた方法で淡々と日常として過ごしているのだろうけど。私はスキーとか旅でしか雪国を体験したことないし、スキーで吹雪とか体験してるけどなんだかんだ無事だったし、雪かきとかしても一年に2、3回で、この冬なんてまだ一回もしていないし、どうしても「大変だろうなあ」と思ってしまう。でも雪国の暮らしが長くなってきた友達は東京で近所で暮らしていたときと同じ感じだし、それぞれの大変さがあるよね、ということなのかもしれない。美しいもの、といったら断然雪国の景色の方が思い浮かぶけど。壮大さあっての小さきモノという対比もある。

生活といえば、先日外でお酒を楽しむイベントがあって、お料理も地元のお店が出していたのだけど、隣のベンチにいたカップルが慣れた感じですごかった。寒い中、みんな身体揺らしながら列に並んでお料理を待っていたのだけど、彼らは、カップの豚汁とパックのごはんを机に出し、さらに煮卵、乾物系つまみなどなど準備万端。水やお湯も完備。豚汁に煮卵を入れて食べていたのも新鮮。梅酒もパックで持っていてペットボトルの水に注いで水割りにしていた。コップ要らず。でも今回のイベントではワイングラスがレンタル式で100円かかった。彼らはそれを知ると、一個ので2回買いにいけばいいよね、とそこにはきちんと時間をかけていた。でも一人の方はほとんど梅酒しか飲んでいなかった気がする。外でのイベントで持ち込み禁止とかではないからこういうのもありなんだな、と学んだ。地元の人たちなんだろうな、と思った。私たちははじめての街だから地元が出しているお店のお料理が食べたいし待つ気にもなるけどお酒だけ目当てだったらこういう楽しみ方もあり。色々なお酒を試飲できる会場もあって、会場によって人の捌き方が全然違って、片方は寒い中震えながら並んで、もう片方は列の作り方が違ってスムーズだった。自分がこういうイベントを開催することはないだろうけど勉強になる。効率を求めるなら色々工夫はあるけど、それがされていなくてもそれにはそれの良さが生まれるけどね。長い列で寒さに震えている間に振る舞われた「社長の酒」とか美味しかったし。イライラしている人ももちろんいたけど、その人をあとから別の場所で見かけたときはごきげんだったし、気分を切り替えられるって大切。まあ、切り替えられてなくてもそれはそれで「あのときさー」という思い出話にもなるか。

今週も頑張りましょう。

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精神分析

里山ハイキングへ行ったり。

よく晴れている。昨日は東武東上線沿いに遊びにいった。風が強くてネックウォーマーを耳まで引き上げてしのいだ。2時間くらいで戻ってこられる低山と城址にハイキング。きれいな池から始まる登山口までも駅から30分くらい歩くのだけど梅はまだ咲きはじめ。地域によって違うねえ。そんなに遠いわけでもないのに。白サギがかっこよく佇んでいたり、烏瓜がまだいい色のまま絡んでいたり、里山の景色は足を止める場所がいっぱい。

以前住んでいた上板橋に準急が止まるようになっていた。というより、当時各駅停車しか止まらなかった、という自分の情報が正確かどうかもわからないし、おそらく「準急」というものはなかった、と思う。みんなで森林公園に遊びに行ったりしたなあ。今回はもっと先へ。山は電車代だけで遊べるとはいえ旅費はかかるね。降りたあとの美味しいものにもね。最近、少しだけ有酸素のトレーニングも取り入れている成果がどのくらい出たかはわからないが寒さが疲れに一番きたかも。電車の広告で久しぶりにキッコロとモリゾーを見た。「愛・地球博」のキャラクター。キッコロとモリゾーのメモ帳とか使い切っていないから今もその辺にある。かわいいからなんとなくそばに置いている。「愛・地球博」は楽しかった。もう20年になるけどあの子たちはまだご活躍なのね。

そうだ、翻訳のチェックしないとだ。その前に机のをきれいにせんと。頑張りましょ。

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精神分析

Reading Freud最終回。

早起き。おはようございます。今朝も月がきれいです、

昨日は、2024年度のReading Freudの最終回でした。今年度は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』(岩崎学術出版社)を精読しました。2019年からはじめたこの回ですが、メンバーを変えての2度目の鼠男と狼男。今はこう呼ばれた二人の患者さんがどこの誰でどのようなその後だったかも大体明らかになっています。フロイト自身もそうですがフロイトの患者ともなると色々大変ですね。来年度は初期に遡って『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』 (岩波書店)から「心理学草案」を精読します。これまでもフロイトを読んできた人たちと丁寧に学んでいきたいと思っています。メンバーがみんな女性なので、主に男性の集団から生まれた精神分析の言説に対する違和感には素直でいられるかと思いますし、それを内容の難しさのせいにしないようにアシストしていけたらと思うので私もがんばって勉強します。

今日もコレット・ソレールの本を読みながら、ラカンの患者でもありずっとラカンのそばにいたソレールがラカンとの同一化の外に出るのは大変な困難だろう、と思いました。何度通り過ぎてもまだその内側にいる、という体験は誰にでもあると思いますが、本来、精神分析はそこではないどこかへいつのまにか出るはずの治療です。でもそれには自分の分析家との本当に密な関わりのほかに、多くの人との関わりが必要です。ソレールはラカン理論からラカンの「真意」とか精神分析の「本質」を取り出したいのかもしれないけれど、私みたいに、本でのラカンしか知らない女の分析家たちが、ソレール自身の言葉を読み繋いでいけば、ラカンとは離れた場所で、ソレール独自の思考を受け取ることができそうに思うので引き続き読んでいこうと思います。私は女性が精神分析家を志すことは、精神分析における同一化に抗うプロセスを作り出す役割を担うことであると思っているので、地道にやっていこうと思います。

どこまで行けるかよりどこへ出られるか、それを楽しみに今日も過ごすつもりです。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

作業

今日はあまり色がないまま空が水色になりつつある。でも東京の予報は晴れみたい。風がないといいなあ。

あまり行かない図書館で少し作業をした。机が広いと作業が進む。私は本やら何やらをすぐに広げてしまうからスペースがあったほうがいいのだなあ。この前、カフェの小さい机で作業してたらイヤホンを片方落とし、拾おうとしたらケースを落とし、もう片方も落とし、いつもだったら起き上がるときに机の裏に頭をゴツンッてやって机の上のカップも落とすから、ゆっくりゆっくり拾い上げた。次々変な動きを繰り出してしまったがイヤホンさえ無事ならいいのだ、この場合。不器用だったり落ち着きがなかったりすると色々大変。療育を学んでおいて本当によかった。自分に役立てるって素晴らしい。

作業といえば、確定申告で色々チェックしてたら電気代が意外なことに四月が高かった。三月ってそんなに使ったっけ。自分の印象では一番使っているのは一月二月なんだけどな。五月六月はとても安い。エアコンをほとんど使わないものね。東京電力は領収書を紙で送ってこなくなったから(送ってもらう場合は有料)きちんと意識できなくなった。水道代は2ヶ月ごとに紙でくるから比較もしやすくて季節もそういうところから感じ直したりするのだけどね。税金の督促状とかになると季節を感じている余裕はなく小さく積み重ねてきた生活に絶望感を持ち込まれてすごく嫌な気分になるけど。税金の督促だけは差し押さえまでの期間がものすごい早いし、ほぼ脅しだよな、と感じた。こういうところだけ、と思わせないような政治をしてくれてるならともかく。

今日も地道に、みんなにとっていい未来を考えつつ過ごそう。自分のことをまともに考えることが一番近道だと思っているけどまともってどんな感じ、というのはそれぞれ。良い一日になりますように。

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精神分析、本

コレット・ソレールの本など。

毎日、起きるとカーテンの向こうに月を探す。月の位置で大体の時間がわかる。昨晩、少し本読もうかな、と机の前に座ったけど読もうとしている本がラカン派の本だったせいか、ページを開いただけでボケーっと腑抜けていた。このままウトウトするのは目に見えていたので温めておいたお布団に潜りこんであっという間に寝た。遅い夕食が消化されていない感じが気持ち悪かったけど変な格好で寝てしまうより安全だった。

昼間もラカン派分析家のコレット・ソレール(Colette Soler)の 『What Lacan Said About Women: A Psychoanalytic Study 』を読んでいたらぐったりした。フランス語でなく英訳だけど。ある程度ラカン派の言葉に慣れてきたとはいえ、これ賞をとってるんだよね、これラカンに馴染みがないと結構読むの大変だよね、と難儀した。部分的、あるいは表面的には理解できるけど。ソレールはフロイトを独自の仕方で超えていくラカンを女性の側から掘り下げている。pas-toute、La femme n’existe pas.で表現される女性(ファルス享楽ではないJouissance Autreとともに)として女性に例外的な位置を与えたラカンの考えを我々はどこまで押し進めることができているだろうか、というのがソレールの問い。精神分析家の言説を変えるにはフランス精神分析、特にラカン派の勉強が欠かせないことはわかった、という段階の私には困難が多いが勉強しましょう。そうしましょう。

今朝はかわいいイチゴかな。ベリー系の焼き菓子とお茶。ほっこりしました。BGMは挟間美帆のLive LIfe This Day.挟間美帆の仕事も素晴らしい。どうぞ良い一日を。

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精神分析

色々

半月。東の空の薄いオレンジがきれい。昨日はデコポンを半分食べた。

すべきことが色々ある。細かいノルマはようやくto doリストで管理することを覚えた。手帳には色々書きすぎて管理不能になっているが大きな手帳にするのは嫌なのでタスクは即時こなす、という方法で対処したいがそれが難しいから今があるので別の対策をしよう。スマホを使いこなせないのは損かも。ヴィンテージと言われる私のMacも動いてくれてはいるがたまに心配な空白画面のまま止まったりする。Windowsのほうが仕事向きだからオフィスのはWindowsだけどこれももう長くなってきた。パソコン高いしどれがいいかわからないからこのままがんばってほしいなあ。

確定申告が見通したってきたなと思うと漏れがみつかって時間をとられる、というのをくりかえしている。支出も収入もシンプルなはずなのにこういう作業苦手。でも今年はスムーズなほう。やっぱり訓練終えてから余裕ができてる気がする。単に移動移動でバタバタするのが減ったというのもあるし、不思議な体験をたくさんした。ワークスルーは事後的にいろんな形で生じるらしい。長い時間かけたもんなぁ。

今日もいいことありますように。そういえば北海道の友達が送ってくれた雪の中の白鷺の写真がとてもきれいだった。雪国での暮らしが長い人は緊迫感と余裕を上手に乗りこなしておられる。すごい。

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俳句

句友

起きたらカーテンの向こうに月が見えた。久しぶりにきれいな夜明けも。

昨年、句友を二人喪った。プライベートは何も知らない。お一人は少し年上でお一人は結構年下なのでは、と推測している。俳句と選評だけを通じたつながりだった。私はお二人の句が好きだった。そういう人は多かった。DMでのやりとりは亡くなる当日か前日まであった。それぞれが所属する結社誌に彼らへの追悼文が書かれた。私は会ったこともない彼らの俳句を読んでは泣いた。自分でも不思議なくらい悲しくなった。わたしたちが、というより、少なくとも私は、なによりも言葉によって人を愛したり憎んだりしているのかもしれない。あの絵文字を送りあってから3ヶ月が経つのか、と結社誌の巻頭を飾るその人の俳句をまた読んだ。そうそう、こういう俳句を私たちとのオンライン句会でも書く人だった、とまた泣いた。私が一日一句を突然始め、習慣化できているのも彼らのおかげなのだろう。

アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』に言語活動の表象(シンボル)として象形(フィギュラチフ)芸術と書字(エクリチュール)に関する記述があるのだが、と書いていたらピンポンが。こんな早朝に。色々あるもんだ。

とりあえず無事に過ごしましょう。

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精神分析

風、音楽、本


風の音がすごい。昨日は昼間、とっても暖かくて、厚手のだけどパーカーだけで出かけられた。でも今日からまた寒いって聞いていた。ということは夜は冷えるぞ、と朝はいつもの厚手ダウンも着ていた。こんなに風は強くなかった気がするけど予想通り夜は寒かった。ネックウォーマーに顔を引っ込めて歩いた。亀のイメージ。新宿中央公園の亀たちに最近全然会えていない。冬眠させてるのかな、と思いながら通り過ぎてるけど。昔、家庭教師先の亀が干上がって死んでしまったと聞いて、そんな過酷なことがあるのか、と思ったけど冬も過酷だよね、きっと。

朝、Spotifyでおすすめされたものを再生したらエズラ・コレクティブのBody Language feat sashakeable。最高だな。昨晩、ぼんやりしきった頭でアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』を読んでいたのが伝わったのかな。この本、面白いんだよ。読みやすいし。

先日のブレストを経てこれも読んだ。自動翻訳でざっと読んだからすでに忘れてしまったがディディエ・アンジューへのインタビュー集、“A Skin for Thought: Interviews with Gilbert Tarrab on Psychology and Psychoanalysis: By Didier Anzieu. London: Karnac Books. 1990. ”の書評。

読みたかったアンジューの論文が見つからなかったから検索にかかったこちらをなんとなく読んだ。

Kennedy, R. (1991) A Skin for Thought: Interviews with Gilbert Tarrab on Psychology and Psychoanalysis: By Didier Anzieu. London: Karnac Books. 1990. International Journal of Psychoanalysis 72:747-747

興味深そうな本だけど買うほどではないかな、これを読むかぎり、とは思う。が、ロジャー・ケネディーが引用しているアンジューのエピソードのひとつは心に残った。これをもって、だから「皮膚ー自我」という考えを中心に据えたのか、というのは安易からもしれないが関係ないはずもない。

I was not allowed to risk myself in the outside air without being smothered under several layers of clothing: sweater, overcoat, beret and scarf. The envelopes of care, concern, and warmth with which my parents surrounded me, one upon another, did not part from me even when I left home. I carried their load on my back. My vitality was hidden at the heart of an onion, under several outer coverings (p. 3).

Roger Kennedy は英国精神分析協会の訓練分析家でConsultant Child Psychiatrist, Chair of The Child and Family Practice in Bloomsbury, a private multi-disciplinary clinicとのこと。英国精神分析に詳しい先生方にどんな分析家かお聞きしたい。

Kennedy, R. (2007). The many voices of psychoanalysis. Routledge/Taylor & Francis Group.

これは読んでみたい気もするがその前に色々読む必要がある。まずは最優先の仕事から始めましょう。どうぞ良い一日を。

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精神分析

新宿御苑、ブレスト

日の出が早くなった。鳥たちも元気。

先日、オフィスからトコトコ、新宿駅を超えて、新宿御苑へ寄った。入園料が500円になってからはあまり行っていなかった。入園料200円からの驚きの値上げについてブツブツ話しながら入るとあっという間にそんなこと忘れた。見事な木々。私はそれなりに自然に馴染んだ暮らしをしていると思うが、木ってこんな色だったっけ、こんな肌してたっけ、と驚きがいっぱい。ものすごい生命力と一本一本の個性を感じた。もちろん新宿御苑の場合、見映えよく整備されているというのもあるが植物が大切にされている感じはした。日本庭園の方から回ったけど大きな薩摩寒桜が遠くからみても鮮やかなピンクを放っていて大きなカメラを持った人もたくさんいた。かわいいメジロも素早く飛び交っていてかわいい。池にもいろんな鳥がいてびっくり。こんな身近にいつも見ない鳥がいるんだ。色々見事だった。18歳の頃から新宿駅を拠点としているが、その日は新宿駅周りの変遷も懐かしく追えた。人との思い出も多い。なんとか無事に年を重ねてこられてよかった。

昨日は朝早くから少人数でブレストをしたら疲れた。それぞれがそれぞれの患者さんと継続的に育んでいる関係の中で「突然」と感じられることは実はそんなに「突然」ではないのでは、とそのプロセスをおうとやはりそこには着実な積み重ねとその中での様々なズレがあることがわかったのもよかった。普段、ひとりで探求していることを共有できる場があるのはいい。理論的な基盤をもって論理的にそこでの話し合いに厚みを持たせていくことは個別のスーパーヴィジョンではできないし、理論的な基盤を共有していないとこのスピードではできない。私たちの脳はものすごい量の情報を瞬時に処理しているわけだからものすごいスピードをもってものすごいじっくり考えるということを続けていく必要があるのだろう。今回は私が場のマネージをしたけどいれものがあったら入る、というあり方ではなくいれものづくりからできる人と一緒に色々やっていけたらと思う。もうひとつのブログにオグデンの論文のことも載せたし、美味しいものもいただいたし、ある程度満足の日曜日だった。今日もいい一日にしませう。

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精神分析

俳句、保育園、マップ

昨日の朝、もうあの朝焼けは見られない、とか嘆いていたが、ネット上にはきれいな朝焼けの写真がたくさん流れていた。私が見逃していただけらしい。

毎日一句以上俳句を作る習慣、作ったら縦書きアプリに移している。それが2月8日で止まっていた。1週間、なんて早いんだ。そして今日の締切に間に合うように出そうと思っていた任意の選評はできあがらず。取り上げる句は決まっていたのに結社誌が手元にないので確認ができない。すっかり忘れていた。

20代の頃からNPOで一緒に活動してきた人が保育園を立ち上げてからもう何年になるのだろう。無認可の小さな小さなおうちのような保育園がすっかり大きくなって職員も知らない人が増えた。私は当時から顧問臨床心理士みたいな形で関わってきたがコロナ禍ではオンライン、それ以降は年間の回数を減らしてもらいながら関わりを続けている。幸運なのは私の後任に私よりずっと保育現場のことをよく知っている人が入ってくれたこと。やっぱり毎日のように0歳から5歳の子供たちに関わっている人の方がいいと思う。これからもそういう人で繋げてこの領域の心理士の成果が広く知られたらいいな。保育士の仕事の大変さを保育を利用しない人たちにも知ってほしいから。本人たちがいくら声をあげても届かないなら客観的にそれを記述したり報告したり権利を主張する手伝いをする必要がある。私は二回りくらい外側からそれをお手伝いする感じならできるだろう。

今日もなんやかやで休みがないがみんなでやる作業を楽しもう。お散歩は行ける。昨日もらった手書きのトコトコマップは島崎藤村ゆかりの場所をめぐるもの。市川市の文学者関連マップも充実しているんだよね、と思いながら見ていた。こういうの作るのって楽しいよね。

良い1日になりますように。

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精神分析

言葉、求人

今日もぼんやりなオレンジ。冬の朝はもう終わったんだ。

久しぶりにドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』をめくった。娘の誕生の場面から始まる言葉の旅。多言語話者の父親をもつドミニク・チェン自身だが、彼がここで紡ぐ言葉は単なる話し言葉ではない。ロマンチックな本だなと思った印象があるがいい本だった。また少しずつ読むか。

隙間時間にする作業が遅々として進まず。しかし求人の手伝いは一気に進んだ。これまで関わってきた領域が幅広いのでこの時期はいろんな求人のお願いがくる。雇われる側には納得できる額の報酬が出るいい職場と出会ってほしいし、雇う側には普通に仕事ができる人と出会ってほしい。

さてさて。今日は年数回のお仕事の日。忘れないように行かねば。どうぞ良い一日を。

(ここは日々のよしなしごとを書き連ねる場なので精神分析にご興味ある方は私のオフィスのウェブサイトをごらんください。)

(精神分析理論のことなどに触れた記事は別のブログ「精神分析という遊び」に少しずつコピペしたりしています。)

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精神分析

俳句二句。日本精神分析協会学術大会プログラム発表。

東の空がオレンジ色にならない。東京の天気予報は晴れみたいだけど。昨日、俳句を作り忘れたことに気づいてさっき慌てて作った。昨日はとても風が強かったことを思い出して「春嵐」で一句。そして身内とスキー教室の話をしたけどスキーは冬の季語なので「牡丹雪」で一句。これで少し昨日を取り戻した気分。TVerでプレバトの俳句のコーナーだけ見て色々勉強になったのに実作を伴っていなかった。いけない。実作が一番大事。

帰宅したら高校時代の友人からまた引っ越しのハガキが届いていた。転勤がある仕事は大変だ。また岡山か。慣れた土地なのはきっと安心だろう。そうだといいなと思う。

今年6月の最初の週末に行われる日本精神分析協会の学術大会のプログラムが発表になった。広報の仕方について思うところがあるけど何回か言っていることなのでまあいいか、とも思う。でもそれではよくないと思うのでまた言おう。手続き上のことは情緒を乗っける前に事務的にやらないと。今回は私は仲間内でパネルを立てた。私が候補生になったのはコロナ以前だったので福岡支部(関西や広島の方も大体福岡支部)のみんなとも実際に会って色々話し合うことができていた。コロナ禍、コロナ以降もオンラインの勉強会などで繋がり続けた。そういうなかでサクッと集まったメンバーで興味を共有できた話題で企画した。そういう相手がいることを本当に幸運に思う。

もう週末。てんやわんやだががんばろう。

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お菓子 精神分析

月、ポッドキャスト、お菓子

昨晩も月がきれいだった。一昨日も満月みたいだったけど昨日が満月だったらしい。2月の満月をアメリカでの先住民はSnow Moonと呼んだとのこと。日本では春の月は朧月とか言ったりするけどまだ冬の月に近い輝き方かも。昨日は強い風をマスクで避けながら少し春を感じた。

いろんな発表の準備をしなくてはならないけど隙間時間に読みものをしているだけでは「これで行こう」という糸口が全然掴めない。いつもそうこうしているうちに〆切間際になって追い詰められてようやく思いつくという感じだけどそのパターンを変えていきたい。マイケル・パーソンズ、G.コーホンなど独立学派の分析家のpodcastを聴いたりしたがいまいち発想が広がらない。パーソンズが取り上げていたミケランジェロ・アントニオーニ監督の『Lo Sguardo di Michelangelo( The Gaze of Michelangelo)』は見てみたい。

パーソンズの取り上げ方はこんな感じ。

 The title of the film is: Lo Sguardo di Michelangelo — ‘The Gaze of Michelangelo’. This is splendidly ambiguous. Which Michelangelo? Buonarrotti or Antonioni? Who is gazing at whom? Patient and analyst, in their different ways, ask themselves the same question. Both, of course. The two Michelangelos are gazing at each other.

 

今週末はタイプロ。メンバーが決まる。そもそも元々のメンバーのことをあまりよく知らないのできちんとみていたわけではないがみると泣いてしまう。SNS上は盛り上がるのだろう。

煎餅工房さがえ屋さんと老舗ショコラティエ「サロンドロワイヤル」さんのコラボ商品「おこめショコラ【ホワイト】」をもらった。サクサク甘く美味しかった。

今日も東京は晴れみたい。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

「普通に」、犬

朝焼け。少し薄いオレンジ。

紙のようなプラスチックのような袋に入ったチョコレート。黒と白の二つ。黒が普通のチョコで白がホワイトチョコレートだと思いこんでいた。少し前に黒い袋を切って開けて食べた。普通においしかった。今朝は白い袋を切った。白いチョコが見えるはずがまた黒。どうやら黒の中でもブラックとミルクとかで味が違ったらしい。こっちも普通においしかった。「普通に」と書いてしまうのは意外だったから。普通だったらあえていう必要なさそうなものなのに言葉の使用ってそういうもの。サクサクのクッキーにチョコをかけたお菓子は一番好きな組み合わせのひとつ。美味しかった。

祝日は大掛かりな片付けの手伝いに一日使った。よく働いてぐったりしたが合間でおいしいものも食べたしいい時間だった。筋トレ成果はこういうところに出る。寒いなかでの作業も少し動けば暖かくなる。重たいものの移動で頼りになる。疲れても犬と遊ぶ元気がある。

その柴犬はその家の子がまだ小さかった頃にきた子だからもう15歳くらいか。嘘みたいに落ち着きがなくずっと赤ちゃんみたいな犬だったけど今や耳も遠くなってボールを投げればすぐに咥えに走るものの追いついて口をちょっとつけたらもうOKという感じで何も咥えずトコトコトコと戻ってくる。たまにしか会ってこなかったのに作業中もずっとトコトコついてきて時折ちょっと首を傾けてじっと見つめてくる。飼い主には「邪魔しかしないんだから」と小言を言われていた。確かに足にまとわりつくように歩くから作業しづらいのはあったけどそれもかわいい。今はもうむやみに飛びかかってくることもないのはちょっと寂しいけどよく無事に年月を過ごしてくれた。まだその家の子が中学生のときだったか高校生のときだったか、犬の散歩がてらいろんな話をした。みんな少しずつ変わっていくけどきみがこの場所にいつづけてくれることでみんなの時間が重なるんだよ、ありがとね。私も我が家にいた犬を思い出す。その子はとてもクールでこんなトコトコついてこなかったけどお散歩の紐をみると狂喜乱舞していた。きみと入り込んだとうもろこし畑はもう大きな家が立ったよ。それだってもう何年も何年も前の話。あそこもあそこもあそこも今はこんな風になってるよ。ずっとそうやって変化を共にしていきたい相手がいることに感謝。

今日は少しだけ空が暗い気がする。良い1日になりますように。

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精神分析

梅園、日常言語哲学の本

青梅市の吉野梅郷、紅梅苑さんの「紅梅饅頭」をもらった。吉野梅郷の梅はまだあまり咲いていないそう。同じ東京でもそんなに違うものか。私はすでに少しの寄り道でたくさんの梅を楽しんでいるけど。吉野梅郷の梅まつりは今月15日からとのこと。行ってみたい。私は熱海梅園の梅祭りがとても好き。河津桜も一緒に楽しめるし、はじめていったとき、お天気もすごくよくてお花はもちろんきれいだった。でも一番記憶に残っているのはお好み焼き。食べやすくラップロールみたいになっていたのも新鮮だった。水戸の偕楽園の梅はどうだろう。バレンタインデーの時期に連続して偕楽園に行っていた数年があるがいつも3分咲きくらいだった。芝生に寝転がれるくらい気持ちいいお天気の日もあった気がする。バレンタインデーと偕楽園はなんの関係もないのだがなぜその頃に行っていたのだろう。水戸の高級納豆を買ってきたこともある気がする。いや、高くて買わなかったかもしれない。さてさて紅梅饅頭をいただこう。梅のかたちの柔らかなお饅頭。ちっちゃな梅がこんな立派なお菓子になりました。美味しい。お裾分けしてもらった中国のお土産のかわいい缶に入った金木犀の烏龍茶と。冬でも水分をきちんととりましょう、という話をトレーナーさんとした。烏龍茶はカフェインが入っているからあまりよくないのだろうけど食べ物と一緒のときは好きな飲み物をいただこう。

アヴナー・バズ『言葉が呼び求められるとき――日常言語哲学の復権』(飯野勝己訳、勁草書房、2022年)を読んでいた。『謝罪論』を出した古田徹也さんの選書リストで見つけた。オースティン、ウィトゲンシュタインらが展開した「日常言語哲学」ってこういう立場にあったのか。副題が「日常言語哲学の復権」なのはそういうことか、と全然知らなかったことがたくさん書かれている。古田徹也の本から入った私は普通にメジャーなものとしてそれを認識していたけど学問の歴史を知ると見えてくる景色が変わる。勉強は大事。

今日もすっきりとした空。テレビで見る雪国の様子に毎日驚いている。東京の暮らしとは全く異なる。雪崩のニュースもその後どうなっただろう。被害が大きくなりませんように。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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俳句 料理 精神分析

サバカレー、フランス語、忘れ物

朝です。ご近所のおうちたちがオレンジ色に照らされています。朝から印度カリー子さんの「3ステップで作る!ちょうどいいサバカレー」を作って少しいただきました。味見程度と思ったのにおいしくて食べてしまった。さばの水煮缶はカリー子さんが使っているのと同じものにしたけど塩加減は私は相当少なくていいかも。あ!今気づいたけどレモン汁を入れるのを忘れた。ガーン。まあ、すごく簡単だからまたすぐ作りましょう。ココナッツミルクも余っているしね。

最近フランス語の勉強をサボっていたことがバレてしまった。隠し立てしていたわけでもないけど指摘された。Duolingoを毎日やることでヨシとしてしまっていた。もちろんそれでは読めるようにも話せるようにもならないとわかっている。やらないよりは当然マシだと思う。うーん。YouTubeを使って勉強している人が多いことは知っているが私は本当に動画が苦手。映画とかは別。注意力散漫だから画面上の情報が多いYouTubeが苦手なんだと思う。なので帰りの電車で情報を集めポッドキャストで教材をチョイス。そんなことをしていたら一日一句作るという習慣が早くも崩れそうになった。気づいたら夜。というか昨日は結社誌のための10句を選んだことでやった気になっていた。

冴え返るとは取り落とすものの音 石田勝彦

いい句だ、と書くなり少し不安になる。写しまちがえていないだろうか。せっかくの句を私の書き間違えのせいで変なリズムの句にしてしまっていないだろうかなど。いつもそうだ。書いたあと、何度も確認してしまう。自分自身の句にもそのくらい気配りができるとよいのかもしれぬ、がとりあえず2句作っただけでよしとした。今日も実景から作ろう。

先日、一緒にエレベーターを降りた人が突然カバンをゴソゴソしはじめた。忘れ物を探す仕草はみな同じ。私は忘れたことに気づかずいろんな人にお世話になってきたが気づくときはそうなる。こうなるよねー、と思いながら待っていたら見つかった。よかった。

よく勉強した週末だった。それでも普段より余裕があるのは助かる。習慣作りも地道にがんばっていこう。今週も良いことありますように。

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精神分析、本

掃除、筋トレ、読書会

暗い。まだ朝とはいえない。昨晩の夕暮れも、月も、とてもきれいだった。梅がたくさん咲く公園に寄って写真を撮ったけれど私が実際にみた夕焼けの色よりずっと明るい写真になってしまった。写真よりきれいよ、と付け加えればいいだけ、といえば、だけ。だって大抵の人は思い出そうとすれば思い出せると思う、あのきれいな色、というかあのきれいさを。

早朝からTHERMOSのマグをきれいにした。THERMOSは何回かいただいたことがありキッチンの棚を掃除していたら放置していたマグがでてきた。大きめで気に入ってたやつ。新しいのがやってくるとこうやって放置されてしまうのだからかわいそう、というか私のマネージメントが悪い。ちょっと台となる椅子が必要だけど振り向けばすぐ開けられる棚なんだから活用すれば忘れないはず。工夫してみましょう。

さて、毎日のタスクは精神分析、俳句、料理。細々とでも真面目に探求する習慣ができた。筋トレは週1は必ずという習慣。週1でも筋力ってきちんとつくのね。まだひとりで懸垂できないけどキレイな姿勢を維持したまま近いことはできるようになった。懸垂ができることが大事なんじゃなくて肩甲骨を上手に鍛えると可動域が増して肩こりもなくなるから辛くないわけ。元々はぎっくり腰にビビってヨガをはじめ、それはとても効果的で、うまく転べるようになったから怪我も減ったのだけど歳とってくるともうちょっと具体的にしっかり各部位の筋肉を鍛えた方がメンテナンスになるな、と思って筋トレをはじめた。プロのトレーナーさんについてもらっているので無駄がない。最初の頃は私の身体どうなっちゃってんの、という感じでできない動きも多く、行くの面倒くさいなと思ったこともあったけど汗をかかない私が汗をかく人に変わってきた気がしたり、身体がヘロヘロになると余計なことを考えなくなったり、重いものを持つときも「あのトレーニングよりはマシ」と思えたり、基本となる部分が色々変化するのでそれはすごくモチベーションになる。ジムに通っていた時期もあるけどヨガ以外はぼんやりストレッチマットで本とかを読んでいてもったいなかった。筋トレの効果は精神分析効果と似ている。自分の可動域を広げる。そのためにはどこを使うのか、何をとりあえず棚上げするのか、など。私はやるからには真面目なので(以前の自分との比較においては)誉めてもらえるのも嬉しい。誉めてもらえる、というか自分で自分に「がんばれ」と言いながらダンベルこなすこともあるし、「さっきよりできた気がする」とちっこい感覚を自分で評価していることも多い。「自己肯定感」が高いというやつか。日常ではこの言葉を使いたくないのだけど筋トレ中の自分のことだけはこの言葉で描写したい。できなくてもめげない。ベイビーステップ上等。この歳になればできなさの方を多く体験してるのだからスマートにできる自分なんて期待していない。思いがけずできちゃったぜ、というときの嬉しさの方が楽しい。

楽しいといえば昨晩の読書会は楽しかった。そのうちもうひとつのブログの方に書くけど、予習しておいたはずなのにその場になったら一体何が書いてあったんだっけ、と全く思い出せずみんなとあれこれ言っていいながら読み直すような感じになってようやく「ああ、そうか、この著者はこういうことが言いたくてこの形式で書いているんだ」となった。みんな精神分析実践をしているから単に知的な理解に留まらないのはとてもいい。今日はまた別の勉強会が午前午後とあるけどがんばりましょ。どうぞ良い一日を。雪の地域のみなさんはどうぞお気をつけて。

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写真 精神分析、本

サバカレー準備、逃避読書

朝。ここ数日は本当に寒くてすぐにベッドに戻ってしまう。

昨日はサバカレーの準備をがんばった。印度カリー子さんが使っているサバ缶は成城石井にあった。ココナッツミルクを探すのに手間取ったがカレールーとかと同じ場所にあった。ココナッツオイルはいろんなオイルの棚にあるけどミルクはいろんなミルクの棚にはない。冷やさなくていいしね。お店の人に聞こうかな、と思ったけど今後も自分で探せるように自力で探した。ということでがんばったような気がしている。

読むべきものが英語だとつい日本語の本を読んでしまう癖がなおらない。逃避癖のひとつ。でも細々と学ぶ中で千葉雅也と國分功一郎の『言葉が消滅する前に』(幻冬舎新書)はクロード・アジェージュの『絶滅していく言語を救うために ことばの死とその再生』(白水社)へのオマージュか?とか思ったり、とっても敬愛する俳人岸本尚毅の『文豪と俳句』(集英社新書)で岸本尚毅の俳句を通じた文豪たちへの眼差しの優しさにじーんときたり、手元にある本たちの読みがアップデート(?)しているのはいいことだ。

図書館でも俳句か哲学の棚にいくことが多い。昔は精神分析の本もそのそばにたくさんあったのにね、と精神分析の書物の少なさを少し嘆きつつもその時間は至福。最近は持っておきたいけど高くて変えないなと思っていたリオタール『言説、形象(ディスクール、フィギュール)』(法政大学出版局、三浦直希訳、合田正人監修、2011)を読んでいた。ここでも取り上げられるフロイトの夢作業、だけではないのだけど哲学者が精神分析を利用する仕方には学ぶことが多い。臨床とはかけ離れるけど内容と形式、欲望と言葉の関係には注意を払い続けることが必要だと思うし。

それにしても今日は花粉をとても感じる。困った。雪国で暮らす友が写真を送ってくれたが大変なことだ・・・。きれい!と素直に思えない年齢になってきた。大変さをたくさん聞くし、冬にも北に旅してた頃に何度も泣きそうになった経験も重ねてきた。そこで生活をしている人たちがよく休める時間とか場所とか協力とか色々あればいいと思う。どうぞ良い一日を。

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お菓子 精神分析、本 趣味

パイ、カレー、読書

朝焼けはまだ。今日は「市ヶ尾パイ」。パイだけどしっかり。硬い。美味しい。

あ、色々していたら空が白くなってきた。日々、時間の使い方を模索しているができたら空に合わせて動きたい。日曜は雨だったが帰り道はやんでもやっとした空に月が浮かんでいた。ここ数日はその月が少しずつ大きくなっていくのを見た。習慣を変えるというよりも作るという感じ。一番はきちんと自炊する時間をとりたい。大体20分くらいで作れるものばかり作ってるけど目指すは印度カリー子さん。カリー子さんはすごい人ですごく運動もするからあれだけ食べられるというのもあるし多分胃腸も丈夫なんだと思う。私は毎日カレーが食べたいというわけではないがあのパワフルで優雅な食事スタイルは見習いたい。三浦哲哉さんの影響もあるが自炊は楽しい。美味しい。昔はあれだけ面倒だったのにね。不思議。まあ、スパイスは増やしたから1週間に1回は印度カリー子レシピから作りたい。サバカレーと無水チキンカレーのレシピは保存してある。

昨晩は週末に読むアンドレ・グリーンの論文に出ていた言語学に関する本を調べようとしていろんな本を引っ張り出したが私が探しているものは全然見当たらず。この領域はすごく幅広いのだなあ。面白い分野というか精神分析理論を細かく検討するために深めたいのだけど理解に時間がかかるから死ぬまでにどのくらい深まるのだろうか。まあ、こういう時間もちょっとずつ読もう。すぐ忘れるのにどうしてこんなに勉強するんだろうねえ、不思議だ。でもどっかで役に立つのだろう。がんばろう。

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お菓子 俳句 読書

フィナンシェ、伊達公子の番組、中村哲の本

神奈川県横浜市青葉区市ヶ尾のパティスリー グランウールのお菓子をもらった。まずは抹茶のフィナンシェからいただきます。あずきが入っているのね。わりとさっぱりしていていいかも。カフェインレスのコーヒーとね。最近のカフェインレスのコーヒー、紅茶はとてもおいしいのね。ありがたい。パティスリーグランウールのお土産には秋冬限定の「時間ショコラ~トキショコラ~」という素敵な名前のお菓子も入っていた。立春をすぎたとはいえいよいよ冬みたいな寒さだものね。俳句も春の季語で作ろうとするとあたたかみが増してしまいちょっと実感とそぐわないと思ったけど「春の霜」とか「春の」をつければ本当は春なんだけどね、という感じもでるかなと思ってそうした。立春前は「日脚伸ぶ」とか「日向ぼこ」とか冬だけど春が近いですよ、みたいな感じのお天気でしたね。

昨晩、Eテレで伊達公子の「最後の講義」という番組をやっていた。聴講していたのはみんな女性。ある方が今後子どもを持ちたいとかなった場合にキャリアが中断することについての質問をしていた。こういうとき、やっぱり質問する側は緊張してしまうし、不安が溢れてしまうし、涙ぐんでしまうんだよね。その不安が具体的でなくても、今直面していることではなくても、こういうときの情緒って口に出してはじめて感じるものでもあるんだよな、とこれまでお会いしてきたいろんな女性患者さんのことを思った。トップクラスの人の話を聞くってとても大事よね。トップクラスではなくても自分と同じような体験をしている人の話を聞くことはとても大事。それ以前に人の話から学べる姿勢を持っていることが大事だけど子どもでも大人でもまずはその部分が育ってきて、すると「テレビでこういうのやってて」とか「友達が何なにって言ってて」と自分のあり方を考えるときに人を参照することが増える。暖かい文脈で。まずは暖かさをいっぱい知って少しずつ人の話を聞ける自分を育てていくことが大事なんだなあといつも思う。この仕事しているから特にだと思う。

私は中村哲さんの言葉からたくさんのインパクトを受けてたくさんのことを学んでいる。澤地久枝が聞き手となった『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』も読みたい。澤地久枝もいい。『完本 昭和史のおんな』は上下合本がほしいけど書籍代がかかりすぎているのでセーブ。合本でなければどこかにあると思うし探すべし。洋書が高すぎるんだよねえ。はあ。高いからきちんと読むのでそういう意味ではセミナーとかにお金かけるよりずっとお得だとは思ってるけど。あ、そうだ。週末までにもっと読まねばならないものがあるのを忘れていた。それも英語だったかなあ。そのチェックからせねば。もっとかしこくなりたいけどしかたないね。今日も自分の持ち物で一生懸命やりましょう。ためいきまじりだけど。鳥が鋭く鳴いて去っていった。元気ならいいな。暖かくして過ごしましょう。

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散歩 読書

白州正子の番組とか

まだ早い。洗濯物を干した。

昨晩、白州正子の番組をやっていた。私は鶴川のクリニックに勤めていたから、というわけではないが武相荘にも行ったことがある。鶴川は本当によく歩いた街だった。駅の両側はすぐに山なので散歩していたらいつのまにか人の家の畑に入ってしまって呼び止められたこともあった。クリニックは駅前だったが武相荘は結構上の方だ。小田急線鶴川駅から徒歩でも行けるが行きはバスをお勧めする。入場料がすごく高いな、と思ったがせっかくなので行った。とてもいい家でさすが正子と次郎という感じだった。実家に白洲正子の本があったので文化人であることは知ってはいたが鶴川でご一緒するとは。次郎のことはドラマなどで見ていたがかっこいい人ということ以外いつもあまり残っておらず、私は正子にしか興味をもてなかった。正子は14歳で女性として初めて能の舞台に立ったことでも知られている。昨年、もっともインパクト受けた小説『大使とその妻』の「貴子」は白州正子を思い出させた。昨晩の番組のナビゲーターはなんと細川護煕。エピソードもさすが。最後の方しか見られなかったが面白かった。

昨日は週末の読書会に向けてダナ・バーステッドブリーンの本の一章を読んでいた20ページくらいかな。英語だとものすごく読むスピードが遅くなるので全然進まず。しかもその速度だと内容が入ってこず。困った。著者がこの章で何を言いたいのに辿り着くまでで時間切れ。困った。

乾燥がひどい。唇もかかとも。花粉もねえ。私の大好きな街、帯広の雪のニュースに驚いているし心配でもある。1日で100cmって。53年ぶりの積雪量(積雪深?)ということは以前にも経験した人はいるのだろうけどみなさんどうしているのだろう。被害がでませんように。雪崩とかも起きませんように。

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俳句 言葉

冬帽子、女が書く場

今日は朝焼けが見られる。すごく寒くなるというのは明日から?今日から?今年は筋トレで代謝が上がった、とか言っているけど私の厚着は尋常ではないので単に厚着のせいかもしれない、と昨日少し不安になった。昨日電車でそばに立っていた男性二人(無関係)が電車の揺れによろめいた。二人とも似たようなあまり見かけないよろめきかただったので思わずパチクリみてしまった。一瞬笑いそうになってしまったが失礼なので一句したためた。「ドリフかよコケる男の冬帽子」(季語=冬帽子)。ドリフももう通じないのかもなあ。

ボーヴォワールとか読んでて、というか女が読むこと、書くことについて興味と必要性を感じている私はふと心理学や精神分析の雑誌に有名ではない女の投稿欄がつくられたことはあったのだろうかと思った。新聞の投書欄とかは今もあるよね。昔の雑誌はそういう欄多かったと思う。以前、金剛出版から出ている『臨床心理学』に「女性の発達臨床心理学」という連載があってこれは書籍化もしたと思う。そういうテーマに特化した連載もいいけどもっと気軽に投稿できる場、というか、やっぱり現場を一時的に離れている人が気軽に、「日常という視点から」学問を語る場はあった方がいいのでは。フロイトだって日常生活から学んだわけだし。SNSはもう良くは機能しないと思うし、私は信頼できない媒体を育てるような課金とかもしたくないし、その場を使うこともできるだけ避けたいと思ってる。でも私はこうやってダラダラ書くのがほぼ趣味だし、特に誰に見てもらいたいというのがない人はこういう個人の場でいいと思うけど、多くの人はもっと知ってほしい気持ちを抱えているわけで、特に女性にはそういう場が少ない。育児しながら、障害や病気を抱えながら専門家として感じていること、学んでいることはたくさんあるはずで、それを短いエッセイやコラムやSNSとは異なる「つぶやき」コーナーに投稿してもらえたら心理学と日常生活はもっと多様に繋がれると思う。今は決まった人ばかりが書いているけど人はものすごく異なる体験をそれぞれがしているわけだからそこからの実感を専門的な視点で言葉にしてみるという場を作れたらいいなと思った。ストレスマネジメントとか、ブランクからの復帰の様子とか、女であることの大変さ、とを女だから体験したこととか共有してもらったら研究にも臨床にも別の視点を持つことができるかもしれないしさ、とな。これも虚子が「台所俳句」の雑詠欄をつくって女性たちを俳句の世界に引き入れたことは大きな業績だよなあ、と思ったから。和歌の世界には錚々たる女性メンバーが育ったのに俳句は男ばかりだったからねえ。今や女の方が多いわけだけど。とにかく今はまだまだ場を作ることの方が大切な時代であって女の場所はとにかく制限されているという自覚を援助職である専門家こそ強く持つべきではないかと私は思っているのだな。ウェブ記事よりまずは専門家向けの雑誌のコーナーとしてやった方がいいと思うんだなあ。慣れていないことをやるときはある程度小さい集団を対象としたほうがフィードバックも感じやすいし書いた側の安全感も守りやすいと思うから。私がオフィスでやっている勉強会は男性もいるけど女性の方が多いので彼女たちが主体的に言葉にできる場を作っていかないとなあと思うことも多い。自分で開拓するにはハードすぎると思うよ、現状。声の大きい言葉の達者な人たちでなくてもこの仕事は言葉で伝達されているものなのでその表現を拾う場が増えたらいいなと思う。モデルって大事だから。

今朝は雑炊を食べてぽっかぽか。暖かくして過ごしましょうね。

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イベント

立春、高橋是清

冬の朝の空。立春だけど。この時期が一番寒いのは毎年のこと。梅が咲く頃、桜が咲く頃に暖かい数日間があり、咲き始めると一気に寒くなる。まさに三寒四温。少しずつポカポカしてくるはず。カラスが泣きやんだ。早朝、ずっと鳴いててそのリズムに二度寝してしまった。でもうとうとしながらもカーカーってずっと聞こえていたから二度寝の質はイマイチ。それでも昨日は寝不足のなか出かけたせいかよく眠れた。

熱い紅茶とイチゴ。小さいアルフォートを一つつまんだ。起きるなり高橋是清のことを考えてしまった。昨晩もずっと考えていた。俳句にしようと思って。「江戸東京たてもの園」に高橋是清邸を復元したたてものがある。二・二六事件の現場となった寝室に立ちながら陰鬱な気分になった。彼はあの日、布団の上に座っていたという。話を聞こうじゃないか、と言ったとか言わないとか。しかし即死。青年将校たちに率いられた部隊には貧しい農家から出てきた人たちも多くいたという。高橋是清も幼い頃に養子に出されてからひどく苦労した人だった。私は唐津へ行った時に旧唐津銀行で高橋是清の教え子の辰野金吾のことを色々教えてもらい高橋是清のこともずっと心に残っていた。なので復元とはいえその家のその場所に立ってなんともいえない気持ちになり、それについて考え込んでしまった。今日はもう行かねば。

立春であることを支えに寒さを乗り切ろう。

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言葉

雪予報、専門用語

カーテンを開けたら雪ではなかった。昨晩、友達との帰り道、この気温だと雪にはならなそう、と話しながら友達がiphoneをみたら雪予報だった。これから急激に気温下がるのかもね、と言いながらさらにいろんなおしゃべりをして帰った。今日のお出かけのため私もiphoneをみたら予報は雨マークだった。どっちかな、と思いながら夜更かしをした。あまり気温が下がっている気配は感じなかった。そしてさっき。ベランダの手すりにうっすら雪が積もっていたりして、と思いながらカーテンを開けた。雨。この数時間でたしかに気温は下がっているようには感じた。この冬は筋トレの成果か、寒さで体調を崩すことが少なくとても嬉しかったが、今朝はちょっと本当に寒いかも。暖房をつけて電気ひざかけもかけた。お湯も沸かした。今日は朝焼けは始まらなそう。とても静かなので少し窓を開けたら雨の音が意外と大きくてすぐに閉めた。暖まった部屋がまた少し冷えた。

レッテル貼りを防ぐために専門用語を使わずに話すのが得意な人と苦手な人がいると思う。私は自分の特徴に近い症状については可能。精神分析でかなり細かく自分の特徴がわかったというのもあるし、似たような部分を持つ友達や長い付き合いの友達との間でこれまでの自分の変さを言語化してきているから。人はわからないことほど大雑把な言葉でくくる傾向があると思う。なので専門家ではない人が専門用語を使う気持ちはわからなくもない。専門家ならなおさら日常語で話す必要があるとも思う。具体的なエピソードとともに生じている感覚や動きを共有できる相手がいることは本当に心強い。ひとりひとり全く異なるものを誰かと比べてどう、ということはできないけど、この感じってこういうことでは、と具体的なエピソードから実感を捨てずに抽象度をあげていくと馴染みの理論に辿り着いたりもするがそうやって辿り着く理論と知識として取り入れる理論はまったく異なるだろう。

うう、寒くなってきた。せっかくの冬空だからとカーテンを開けたけどまだ閉めておこう。少し遮るものがあるだけでだいぶ変わると感じることができるのもきちんと寒い日があるからだ。強い刺激はつらいことも多いけど、そこからいずれ生じる気づきもあるからそういうのを待ちたい。とても眠くもなってきた。NHK俳句が始まるまでウトウトしよう。鬼はーそと、福はーうち。

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お菓子 イベント 俳句

豆、習慣

今朝は朝焼けの様子が少し違う。雲が多く空はまだら模様。昨日焚いたお香と朝ごはんの匂いが混ざっている。そんな変でもないけどちょっと変。今朝のデザートは苺。嬉しい。しかも美味しい。果物は当たり外れが少し心配だけどこれは美味しい。もう春なのね。今日は2月1日。立春は3日。ということは明日は節分。もうお豆食べてしまった。お正月が終わってすぐにスーパーには鬼の絵が書かれた豆菓子が並び始めた。私が買ったのは「でん六」の「マメにするのだ!アソート」。赤塚不二夫のキャラクターが書いてあったから。昨日食べたお豆はレレレのおじさん。レレレのレー。お掃除する人を見かけると「レレレのレー」が浮かぶことがあるけどなんか失礼な気がして楽しくなることを一瞬控える。掃除してるのおまえじゃないじゃろ、ってね。でも大好きキャラだわ。

1月16日から1日一句は作ってもう10日以上過ぎた。なんか習慣化してきた。私はこれは精神分析の効果だと思っていて、分析家になってから習慣化したことがいくつかある。いつも締切前日に速達で出すか、オンラインだったら締切時間ぎりぎりに出すかだった俳句が習慣化するとは。句会に出る習慣もつけたいけどこれは時間を確保するところからだから難しいので結社にこだわらず行けるものに行こうと思う。この前出た句会は平日昼間だったせいか年上の方が多く、私が俳句をする前にイメージしていた俳句の世界が広がっていた。全国的にも俳句はまだ高齢の方に馴染みのある文化かもしれないけど私が所属する結社は私より若い人たちもたくさん活躍しているし、というか書いていて思ったのは私もすでに若くないわけで私がいう若いは少なくとも20代ではない。俳句は短いのがとにかく魅力なので好きなんだけど読むには漢字が難しいのと語彙力が必要なので調べる習慣がついていないと大変。辞書をひく習慣がオンラインで辞書使うようになってからいまいちうまくいかないんだよね。というより複数のことを同時にすることができないから辞書引き始めるとずっと辞書読んだりしはじめてしまうわけで、オンラインだとそれもせず別の何かを調べ始めたりしてしまうからなんだな。とまずは自分の今の行動の癖を知るところから別の習慣作りははじまるはず。作る分には自分の持ち物でやればいいという面もあるけど私の場合はインプット足りない。語彙力って使えないと意味がないとまでは言わないけどあまり意味がないわけで言語化とお勉強ができるかどうかがあまり関係ないのと似ているところがあるわけです。私はお勉強も平均的なうえに言語化するときの語彙が乏しいわけで日常生活に支障はないけど俳句生活には支障がある。これは続けていきたい趣味だから多分積み重ねでなんとなく今よりはましにはなっていくとは思うけど作る習慣もまだ1ヶ月経っていないからどうなることやらだわね。忙しいとかいってないで今日も何か見たらパッとつくろ。

2月かあ。早いねえ。なんとかやっていきましょう。

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俳句

ガザ、日向ぼこ、荻外荘

夜明け。とてもきれいなオレンジを見られた。これは多分ヒヨドリの声。カラスの鳴き声だけは確実にわかるのにね。

鵯のこぼし去りぬる実のあかき 蕪村 「蕪村遺稿」

パレスチナ自治区ガザ地区、19日に発効されたイスラム組織ハマスとイスラエルの停戦合意に基づく人質と拘束者の交換が行われているとのこと。人質解放の場にガザの群衆が集まって事故が懸念されるとのことなんだけどみんなどんな気持ちで集まっているのだろう。これは「集まっている」というのだろうか。そもそもの居場所はあるのだろうか。ガザはもうすぐ31日になる時刻か。夜は眠れるのだろうか。

村上鬼城の俳句に

うとうとと 生死の外や 日向ぼこ 鬼城

がある。季語「日向ぼこ」には生死を読んだものが多い、と聞いて私もこの前そう思った、と思った。耳が悪く、貧困に苦しんだ鬼城にとっての「生死の外」は、「日向ぼこ」は、どんな心地のものだったのだろう。その人にしかわからない感覚が言葉に包まれることの大切さを思う。

荻窪の小児発達クリニックに勤めていた頃、お昼は外で過ごしていた。美味しいパン屋さんもお弁当屋さんも近くにあった。図書館の公園で食べてそのまま時間ぎりぎりまで本を読んだり太田黒公園まで足を伸ばして散策したりした。クリニックはのちに駅の反対側に移ったので荻窪は駅の両側ともわりと詳しい。クリニックを辞めたあとも保育園巡回の仕事で荻窪にはそれなりにきていた。しかしどんどん忙しくなりオフィス、保育園、自分の分析、またオフィスという生活でごはんを食べたりお散歩したりする余裕は無くなっていた。荻窪はその間に随分変わった。私がいつも買っていた美味しいパン屋さんは駅そばの人気店になった。先日、久しぶりに荻窪で降りた。気に入っていたカフェやごはんやさんはまだ元気そうに営業していたけど注意の張り紙が増えていた。どこも色々大変なのだろうか。今回は角川庭園が目的地だったがまずは大田黒公園をのんびり散策し、復元待ちだった荻外荘へも寄った。大田黒公園の梅にメジロがいて梅の花びらを落としながら頭をあっちこっち動かして蜜を吸っているのがかわいくてたくさん写真を撮ったが動きまくるから目がつりあがったり歪んだような写真ばかりになった。さて、荻外荘は近衛文麿が昭和12年から昭和20年12月に自死するまで過ごした邸宅である。昨年、近くを歩いたときはまだ工事中で公開が始まったら行こうと決めていた。昭和15年7月、東條英機らと「荻窪会談」を行った部屋の壁紙や調度品、近衛文麿が自決した部屋の「黙」という字、いろんなものが視覚に残りなんともいえない気分になった。近衛文麿は服毒自殺、東條英機は死刑、岸信介は釈放、と辿っていると暗澹たる気持ちになる。「黙」でよかったのか?

色々考える。それぞれの平和が普遍的なものでありますように。

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俳句 読書

朝ごはんとか俳句とか。

まだ暗い。カラスが大きな声で鳴いている。今日はスッキリ晴れるみたい。

朝ごはんが大好き、ということを何度か書いたことがある。堀井和子は『ぱっちり、朝ごはん』(河出文庫)に「1日3食、朝ごはんでもいい!」と書いている。「私も!」と一瞬手をあげそうになったが最近の私は朝ごはんにあまり力をいれていない。早朝に「つくおき」をするせいでそれをちょっとつまんでしまいむしろ夜ごはんっぽくなっている。あんなに大好きだった私の朝ごはんはどこへ行ってしまったのだろう。

「私は1日3食、朝ごはんを食べてもいいくらい朝ごはんが好きで、夜は明日の朝ごはんを楽しみにして寝る。」

と堀井和子はいう。わかる。私も同じことを言っていた。かつては。とはいえ、堀井和子の場合、パンは自分で焼いているし、記憶に残っているのは南仏だし、とっても素敵な感じで私の朝ごはんとはだいぶ違う。それでも私は朝ごはんを楽しみに寝ていた毎日を取り戻したい、というのも食卓に置きっぱなしにしていたこの本をパラパラしたから思っただけではあるけれど。

この前、橋本多佳子の句集で

雪しまきわが喪の髪はみだれたり 橋本多佳子

という句を見つけて「雪しまき、カックイイ!」と思って一句作ってみたがどうひっくり返してみてもぼやんとした句にしかならなかった。その後、岸本尚毅が朝日新聞に書いていた記事を読み写生についてちょびっと考え「雪しまき」なんて雪国で生活したこともない私には使えない季語なんだからカックイイとかで作ってはならぬ、と別の句にした。我ながら単純だが反省したらすぐに実行すべし。体験が言葉を強くすることは毎日体験中だもの。

週末は数年ぶりに一年一回の会が復活する予定。コロナの間に変わったこと変わってないことなんであれ再び共有できることの幸せを噛み締めたい。良い週末に向けてがんばろう。

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俳句 読書

冬らしさ、宇多喜代子『俳句と歩く』を少し読んだ。

今朝は少し空の様子が違う。冬らしいというのはこういう空のことかもしれない。天気予報は晴れみたい。昨日の西日もいかにも冬で新宿方面から西へ向かう人はみんな片手をあげて強い日差しを遮っていた。ものすごい発光。この前、とてもよく晴れた日、少し川沿いを散歩した。前から来る人のボタンとかランニング中の人の袖の一部とかみんなどこかしら光っていて冬だなと一句作った。しばらく歩くと小さな白い鳥が川縁をぴょこぴょこ歩いていた。多分ハクセキレイ。その歩みに合わせてその水浴びを観察した。尾羽をぴょこんと水につけては飛び上がるくせに川縁ぎりぎりのところを歩いててとてもかわいい。今日はあったかいから入っちゃおうかな、でもお水は冷たいからな、みたいな逡巡に見えた。これも句にした。でも途中から「尾羽ぴょこぴょこみぴょこぴょこ」→「尾羽ぴょこぴょこ日向ぼこ」とかなってしまった。音は気に入ってるけどパクリだしねえ。この前、ちょっと図書館に寄ったら宇多喜代子『俳句と歩く』(角川俳句ライブラリー)を見つけてパラパラした。鈴木しづ子を探し疲れ果て出会った老人の一瞬と宇多さんの一瞬の描き方にグッときた。戦争を知っている世代にしかわからない記憶の作動がある。そして養蚕の話。蚕を飼うことも桑の葉畑も私にとって当たり前の景色で、体験だった。でもそれもいつの間にか見えなくなった。宇多喜代子さんは昭和10年生まれ。私がこれからどんな長生きをしたとしてもあんな語り方はできないだろう。これからもし私も戦争を体験するとしても。とても薄っぺらい時代を生きてきたのかもしれない。だから先達の語りに惹かれるというのはある。読書の恵みは計り知れない。みんないい本と出会えますように。

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精神分析

アクアライン、俳句と精神分析?

空が白い。遠くの方はまだうっすらオレンジ。起きたら喉がパリパリ。熱いお茶を淹れた。今日も「保田どら」と一緒にいただこう。房総はアクアラインが開通した頃、よく行った。身内が房総の小さな町で社会学のフィールドワークをしていたからその思い出話と共に。神奈川県川崎市と千葉県木更津市を繋ぐなんて当時はすごいと思った。それほど土地勘があったわけではないがそれまではフェリーで行っていた場所だ。アクアラインは最初は料金が高すぎて海ほたるもガラガラだった。フェリーの料金はどうだったか忘れたがもうそのルートは廃止されているだろう。いずれにしてもバブルの頃に構想された計画はその後のまさかの不況を想定できたはずもなく(できたのかもしれないが)運用は大変だっただろう。近所でも道路予定地として放置されている土地がいくつも見られるがこれはいつ計画された道路のためのものなのだろう、といつも思う。この土地は私が通った馴染みの店が立っていた場所でもあるのに。立ち退かせるときだけ素早くその後は見通しなし、というのはどんな場合でもよくあるが人の住処をなんだと思ってんだ、という感じはある。本人たちが納得したとしてもそれまでの生活を変え、お客さんを含め関わりの深かった人たちと離れる体験はそんな簡単じゃないはずだ。もちろん「あのときは大変だったけどで結果的にはよかったんだよ」という声もあるだろうし、ぎりぎりまで実現可能性を検討してから動くのでは遅い、というのもわかる。しかし、一気に動く動力を蓄えるためにはそのよな熟考が必要であることもまた事実だろう。

10日ほど前から一日一句は俳句を作っている。二句、三句作る時もありだいぶたまってきた。しかし、これはただの言葉遊びでは、という駄句ばかりで句友たちの素敵な俳句との差が自分でも明らかにわかる。とはいえ継続は力なり。でもやっぱり私は精神分析くらいしか没頭できないのでは、と思い、俳句と精神分析で検索をしてみた。最初にヒットしたのはなんとラカン理論の俳句への適用。ラカン理論が利用しやすいのはわかるが・・・、と思いつつ読んでみた。著者はイアン・マーシャルさん。ペンシルバニア州立大学アルトゥーナ校の英文学と環境学の教授らしい。ソローの『森の生活ーウォールデン』から俳句を抽出している本も書いているらしい。面白そう。とりあえず最初にヒットした文章Jouissance among the Kire: A Lacanian Approach to HaikuをみたところABSTRACTはこんな感じ。

「本稿では、精神分析理論を俳句に適用し、俳句が言葉以前の世界との一体感への回帰の試みとしてどのように捉えられるかを探究する。これは、ジャック・ラカンが「想像界」と呼んだ状態への回帰の試みとして考察される。それは言語というメカニズムを通じて行われ、ラカンによれば、言語こそが我々を「象徴界」へと導き入れ、そこで我々は自己と世界との分離を認識し始める。さらに我々は「現実界」に生きており、そこでは自己の外にある対象は欠如の象徴として認識される。結局のところ、俳句は私たちを欠如と一体、分離と結合という可能性の狭間に置く。優れた俳句は、並置されたイメージを提示するために断片的な構文を用いながらも享楽の可能性を私たちに提供する。これは想像界への瞬間的な回帰であり、俳句の瞬間に関連付けられる世界との一体感への突破である。しかし同時に、優れた俳句は、俳句に詠まれるイメージのように、自己の外にあるものが欠如の象徴となり得ることも私たちに想起させるのである。」

ふむ。そうかもしれないが、ふむ。ソローと俳句の本が読みたい。

Marshall, Ian, “Walden by Haiku,” The Haiku Foundation Digital Library, accessed January 27, 2025, https://www.thehaikufoundation.org/omeka/items/show/3305.

光が溢れてきた。カーテンを開けて過ごしましょうかね。どうぞ良い一日を。

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お菓子 俳句

保田小学校と秋桜子

夜明けの空。配色も月の配置も完璧でとてもきれい。

『桜の園』大千穐楽か。ケラリーノ・サンドロヴィッチが2020年版、幻の『桜の園』の稽古場最終日の写真をSNSに載せてくれてる。すごく楽しみにしていた舞台。まさかコロナという感染症によって全公演中止になるとは思わなかった。ケラさんによるチェーホフ四大戯曲。全部見られた人が本当に羨ましい。

千葉県安房郡鋸南町保田の道の駅は「保田小学校」というそうだ。そこのお土産をもらった。この道の駅、給食メニューが食べられたり、教室のような宿泊施設もあって楽しそう。日帰り入浴もできる。金次郎もいる。びっくりしたのは校歌の歌詞が水原秋桜子だったこと。私は昨日、日々を吟行とするためにということを考えていて小川軽舟の『俳句入門』(角川俳句ライブラリー)の第11章「「吟行」をどう生かすか」」をパラパラ読み、そこで紹介されていた秋桜子の第一句集『葛飾』をほしいな、と思ったばかりだった。なので秋桜子がなぜ保田?と驚いてしまった。さっき調べたら「町報きょなん」のバックナンバーを読めるサイトがヒットし、そこに秋桜子と保田のつながりが書いてあった。

保田小学校校歌について

伊丹信太郎と秋桜子について

なるほど。小学校は平成26年3月に閉校したそう。こうして道の駅として地域の交流の場になったのはとってもいいこと。ここは元小学校らしく子供の遊び場もきちんとあるらしい。一時期、全国の「道の駅」に出かけようと思って色々行っていた時期があったのだけど最近は行った場所にあったら行く、という感じでこだわらなくなっていた。でも地域交流の拠点としてその町の歴史を受け継ぐ大事な場所だから今度からもっときちんとまわろう。いつもその地域のお野菜やお菓子やお惣菜やお酒ばかり見てしまうから。今回のお土産は「保田どら 保田小びわつつみ」。水色のランドセルの形をしたお菓子。千葉県産びわあんをかわいく包んだ小さいお菓子。かわいくておいしかった。

今週も色々いいことあるといいですね。良い一日を。

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精神分析

日曜日

明るい。体調管理のため寝られるだけ寝ようと思ったがすごくよく寝たと思ってもあまり時間が経っておらず電気ひざかけをもちこんで再び寝てみたらこれまた気持ちいいけどしばらくしたら暑くて起きるということを繰り返し、まあゆっくりできたのでよしとしよう。今朝はいつもより1時間遅いとはいえ一日中オンライン研修。オンライン辛い。晴れてるから陽の光いっぱいの中にいられるだけでもありがたいけど。性暴力、性犯罪に関してだから必須ではあるからがんばろう。臨床家は被害と加害の両方に関わるし、そこを焦点化した臨床の話を聞けるのも貴重だものね。集中してきく機会。夜はミーティングもある。がんばろう。

睡眠と運動は普通に大事で運動は定期的に取り組めているけど睡眠がどうもいけない。20歳の頃からの友人と電話をしていた。もうこの歳になれば本当に色々なことがあるわけで相手のこともお互いのことみたいな部分もあり、どんな重たいことであっても相談も一方的ではなく共有となる。「とりあえず寝よう。お互いきちんと寝て、また話そう」と電話を切った。「それがどんな僅かでもやれることをやりながらまた会おう」というのも同じ感じ。

私たちはひとりではできないことだらけなのに、誰かに話してもしかたないというのも、すぐには何も生じない、という意味では事実かもしれないけど、誰かに対して言葉にするというのは必ず次へつながる何かをうんではいる。言葉の隠喩性とはそういうものなので、相手がAIであっても言語化は大切だと思う。精神分析は言葉の隠喩性に特別な注意を向けているので、ただただ言葉にしてみるという患者の体験を共有する場を設定している。だからフロイトがいったsimplly listenの訓練が必要でそれは日常生活では難しいことなので設定が大事。訓練と設定が必須であることは私はずっと言い続けているし、フロイトはじめ、大体の分析家はそう言い続けているわけだけど、言いづける必要があるのはそれがそうだと思われていない、思っていても実践されていないからだろうね、という話を先日した。

今日もすべきこと、やりたいこと、力まずやりましょう。いいお天気なのは本当ありがたい。雪が降る地域は本当に大変だと思うけど良い日曜日になりますように。

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読書

土曜朝

あれ?月がいない。きれいな三日月を予想してカーテンを開けたのに。多分この窓から見えない空にいるのだろう。お天気が悪いわけじゃなさそうだから。

想像のつく夜桜を見に来たわ 池田澄子

という感じにはならず。

今年、2025年はジル・ドゥルーズ生誕100年、没後30年なのか。私がドゥルーズを読み始めたのは國分功一郎さんと千葉雅也さんの対談からだと思うから2013年かな。結構読んだなあ。何も覚えていないけど。昨年は福尾匠『非美学──ジル・ドゥルーズの言葉と物』も話題になった。私には相当読み慣れない書き方の本だったけど、著者の考えの相手となっているのが東浩紀、千葉雅也、平倉圭というまだ身近というか同時代の思想家なのは助けになった、というか著者にとっても参照すべき相手が身近にいるというのはすごく刺激的だったのではないか。なんかそういう書き方に感じた。

昨日は「おでん」という兼題で俳句を考えていたのだがオグデンを読んでしまった。英語で読んでいるので「これ本当にこんなこと言ってるのかな」と自分の読解力を疑いつつも「そうなんだよ、そこ気になるでしょ」とオグデンと対話したつもりになった。途中で何度も「おでん」のことを思い浮かべ「なぜ今私はオグデンを読んでいるのか」と考え「おでん」からずらしているわけか、と分析した。人間の行動はこういう言葉遊び的なものにかなり影響を受けていると思うのであながちおかしなことでもないだろう。おでんを食べながら読めれば実景で作れたかもしれないが今日が締切。ああ。自分の作った俳句に驚いてみたい。いつもあとから読むと「自分で作ったのにわけわからない・・・」となりがち。精進しませう。良い一日を。

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お菓子 音楽

ジョン・ゾーン、湘南ゴールド

明るい月が出ている。と早朝に書くのはなんかいい。この時間でもこんな明るい三日月が出ていることもあったっけ。あったに違いないけど。昨晩、SpotifyでおすすめされたJohn Zornのアルバム「Ou Phrontis」を聴き始めたらとてもよくてジュリアン・ラージが公開しているジョン・ゾーンとのコラボレーションのプレイリストも聞いたりした。いつの時代にもなんでもできる人というのはいるものだがジョン・ゾーンという才能は一体なんなのだろう。ジュリアン・ラージは誰に対しても素敵な言葉で表現する人だけどジョン・ゾーンに対する語りもいい。柳樂光隆さんによるインタビューで読んだ、有料部分になるけど。

今朝は湘南ゴールドのゼリーをいただいた。爽やかだった。wikipediaによると湘南ゴールドって「神奈川の「今村温州」と神奈川県西部で採れる「ゴールデンオレンジ(黄金柑)」の交配により作られた」そう。柑橘だと知ったのが最初だったからあれだけど最初に名前だけ聞いていたら湘南のサッカーチームかなとか思っていそう。ゴールドではないけど、最近晴れの日が多くてすれ違う人みんなどこかが光ってる。ボタンとか袖の一部とか。多分本人も気づいていないのだけど意外と光るのね、人間の装いって、と思った。夏の光では感じなかったのに。単に暑すぎてそんな余裕がないだけかもしれないけれど。

色々進まなくて昨日も帰ってから「がんばろう」と声にしてみたもののジョン・ゾーン聞きながら腑抜けていた。やっぱり夜はダメだな。朝がんばろう。次はなにをすればいいんだっけ、という確認から始めないとだけど。進捗がないのだからスタート地点変わっていないはずなのにそこがどこだかわからない。がーん。まあ、なんとか今日もはじめましょ。

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精神分析

湘南梨ゼリー、耳の仕事

今朝は茅ヶ崎の湘南梨ゼリー。湘南ゴールドのゼリーもあるけど梨にした。ちょっと季節を戻して。湘南梨というのもありますのね。寒川町の梨で2020年に「かながわブランド」に登録されたそう。甘い!シャクシャクした果実が入っていて美味しい。でも甘い!私はあまりゼリーの甘味が好きじゃないのだけどこの梨の味は美味しい。空はまだ暗い。下弦の月がうっすら見えていたのは昨日だったか、一昨日だったか。日々が過ぎるのが早い。

最近、あまり音楽を聴いていなかった。意識的に。イヤホンだと周りの音が聞こえなすぎて周囲への注意が低下する。それは危険だと思う出来事があったり見たりした。それだけでなくノイズキャンセリングというのはやはり不自然ではないか、という以前からの思いもあった。昨年11月にサウンド・アーティストの細井美裕さんの初個展「STAIN」に行ったことはここでも書いたと思う。過去を思い出させる場所の音の記録だけでなく、未来を考えさせられる場所で音をとるなどの活動を行い、空間や時間を変容させる可能性をもつ音に鑑賞者の注意を向けた作品たちに影響されたというのもある。おそらく必要なのは鑑賞者の平等に漂う注意だと感じた。つまり私には精神分析的に聴くとはどういうことかという問いと繋がっていた。カウチに横たわり背後に分析家がいる設定の精神分析と対面での心理療法は全く異なる。相手の表情や仕草を参照しがちな私たちはたとえそれが誤解であってもかなりの部分、それに対する自分の感覚や情緒に頼っているだろう。精神分析の場合、見えるのは自分の身体の一部と部屋の一部であり注意を漂わせている感覚は主に分析家の聴覚が担う。精神分析は言葉の隠喩性に依存した学問であり治療法であると言っていいと思うが、その言葉の質を細やかに捉える仕事をするのは分析家の耳である。その前提として、分析家は自分の声や言葉がもつ力を知っておかねばならない。訓練分析の目的はそれだけではないが可能性やキャパシティという言葉も含め「自分の力」という言葉で表すとして精神分析において最も強く実感するのは自分の力の限界である。有限性という言葉でもいいかもしれないが、精神分析においてそれは自分の力に対して最も強く意識されるべきではないだろうか。ということをずっと考えていたわけではないが大好きな音楽を聞かずただ自分の耳が捉えるものを聞いていた。フロイトがいったsimply listenである。すると俳句が作りやすくなった。思いがけない情報が耳を捉えるせいだろうか。俳句がうまくなったわけではない。作りやすくなっただけだが日々作るということを全く継続できなかった私にとっては大きな変化である。といいつつちょこちょことお風呂などで音楽を聴いているわけだが昨日気づいたのは今来日しているCatpackの新作は作品自体はとてもいいがiphoneの内蔵スピーカーでは全然音が良くないということ。一方、Cassie Kinoshiの新作gratitudeはiphone内蔵スピーカーでもまだいい感じで聴こえるということ。精神分析では患者によって、あるいはセッションによって患者の声の聞こえかたは全く異なるがこれはどうやって説明しよう。そんなの当たり前じゃん、というのでは学問ではないのである。声優が声をコントロールできるのは日々の努力と才能に違いないが、精神分析ではコントロールという概念は捨てた方がいいように思う。どこまでお互いに委ねられるかというと変な言い方だが協力体制によって自分たちの暴走を食い止めながらかつできるだけ自由に進もうとするプロセスなのでそこでも訓練された分析家の耳は必要なのである。解釈などの言葉の使用はそれに基づいてなされるものなのだろう。

今、目の前に開きっぱなしで二日間で1ページしか読んでいない俳句の雑誌に「俳句の選といふことは一つの創作であると思ふ」という虚子の言葉が紹介されているのが目に入ったが耳が痛い。目から入ったのに、とか言っている場合ではなく、何かを創造するというのは発見するということであり精神分析においてそれは耳でなされるものであり俳句においては五感全てでということになろう。ああ、無力。限界を知ること。そして限界の中で拡張できる何かを発見すること。そんな毎日を続けていけたら嬉しい。

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お菓子 俳句

くるみ信玄餅、『現代日本文学大系95 現代句集』(筑摩書房)

朝は特に目がよく見えないなあ。でも朝焼けはきれい。もっと上空からみたらとってもきれいだろう。冬、朝早くからオフィスで仕事をしていると世界中と言ったら大袈裟だけど新宿区、渋谷区、世田谷区を覆う朝焼けがものすごくきれい。明治神宮の森も都会の建物たちもオレンジ色に輝きながら染まる。毎日毎日都会にいるわけだから都会の現代的な俳句が作りたいなと思っているけどなかなか難しい。読んでてスッと入ってくるのは昔の句だし。

それはそうと今朝は北杜市のお土産、金精軒のくるみ信玄餅。これのことは前にも書いたかもしれないなあ。一箱に一つの個包装。風呂敷を結ぶような形になっている箱を開くとくるみを持ったリスさんが登場。くるみ一つを手に、一つはそばに置いてある。かわいい。箱の側面には金色で縁取った葉っぱ。袋をあけてのっぺりした楕円形のお餅をぬっとお皿に出す。美味しそう。うん。美味しい。熱い緑茶と頂いております。桔梗屋と同じタイプの信玄餅もあるけどこれはこれで黒蜜とかきな粉とか自分でかけなくていいから気楽ね。あの作業楽しいしあれで美味しくなるわけだけどきな粉を飛ばさずにあの袋の上できれいに食べる自信がないから下にさらに皿を重ねる。風情があっていいけどね。

この前、土井善晴さんのレシピでひじきの煮物を作ったんだけど生姜いっぱいのレシピですごく気に入った。生姜大好き。生姜が入っている飲み物も大好き。生姜紅茶とか常備。でも常備しちゃうとあまり飲まなかったりする。ペットボトルで生姜が入っている飲み物があるとすぐ買ってしまうのに。オフィスから近いオペラシティに成城石井が入っているからそういう飲み物が豊富で危険。さっきペットボトルで生涯が、って打ち間違えた。生涯をペットボトルに詰めてはいけないわ、と一瞬思ったけど投壜通信とか思えばそういう形の詰めかたもあるかもなと思ったりする。咳。きな粉でむせた。飛ばないようにお餅にくっついているタイプなのにさすがきな粉。

この前、『現代日本文学大系95 現代句集』(筑摩書房)をなんとなく開いて『鬼城句集』の序文の虚子にふーんとちょっと思うところあり、別のもパラパラしていて橋本多佳子の『紅絲』にの序文を読んだ。書いたのは山口誓子。実作者にとっての批評という観点から多佳子への信頼を示す誓子の文章が素晴らしい。そういえば私は『橋本多佳子全句集』を持っているではないか、とKindleをチェック。あった。コロナ禍で句友が勧めてくれた。つまみ食いするように読んでいたから序文をきちんと読んでいなかった。多佳子の句集の序文は全部山口誓子が書いているらしい。句集『信濃』には序文がない。『海燕』の序文もかっこいい。

「女流作家には二つの道がある。」

から始まる文章。性別は男と女しかいない、という言葉とはだいぶ違う現実味がある。最近、私が俳句を再び丁寧に始めようと思っているのは世界の言葉がどんどんおかしくなっているからかも。思考のない言葉は怖い。

さて、私が持っている私が持っている『現代日本文学大系95 現代句集』(筑摩書房)は昭和五十年六月十日発行の初版第三刷。2021年八月十四日に購入したらしい。当時の定価は2300円。私も古本でそのくらいの値段で買った。箱が壊れかけており、表紙にシミ、汚れがあるけど中はきれいでこれだけの句集が入ってこの値段はすごく安いと思う。どれだけの句集かというと以下。


內藤鳴雪『鳴雪句集』村上鬼城『鬼城句集』尾崎放哉 『大空」前田普羅『普羅句集』阿波野靑畝『万両』富安風生『草の花』芝不器男『不器男句集』川端茅舍『川端茅含句集』松本たかし 『松本たかし句集」渡邊水巴『白日』中塚一碧樓『一碧楼一千句(抄)』原石鼎『花影』星野立子『立子句集』種田山頭火 『草木塔』三橋鷹女『魚の鰭』富澤赤黄男『天の狼』山口青邨『雪国』高野素十『初鴉』白田亞浪『定本亜浪句集』日野草城『旦暮』野見山朱鳥『曼珠沙華』橋本多佳子『紅絲』西東三鬼『今日』細見綾子『冬薔薇』篠原梵『雨』金子兜太『少年』澤木欣一 『塩田』飯田龍太『童眸』石原八束『空の渚』角川源義『秋燕』秋元不死男『万座』加倉井秋を『真名井』石川桂郎『竹取』森澄雄『花眼』野澤節子鳳『蝶』荻原井泉水『大江』

山本健吉の解説が付録でついている。これは山本健吉を読むといい、と言われた関係で買ったのだろうなあ。買っておいてよかった。今の値段だと高いから。

もうこんな時間。今日もがんばりましょう。

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精神分析 音楽

欵冬華、ステラ・コールのインタビューなど。


「七十二候は「欵冬華(ふきのはなさく)」を迎えました。欵冬(かんとう)は蕗(ふき)のことですので、蕗の薹(とう)が出始める頃、という意味です。蕗の薹は雪解けを待ちかねたように地上に顔を出す、春いちばんの使者。」(暦生活、読み物から)

だそうです。「暦生活」さんのウェブサイトに書いてありました。大寒の昨日は拍子抜けするほどポカポカでした。夜の雨も冷たくなかった。今朝も朝焼けがきれいです。春が近づいているのは嬉しいです。昨年は夏が長過ぎて秋を意識して感じないといけなかったからまだもう少し冬でいてもいいよ、と思ったこともないことを思ったりします。でもこうして写真とか見てしまうと蕗のとうの天ぷら食べたいなと思ったりするので早めにきてくれてもいいです、春。

柳樂光隆さんのnoteでz世代アーティストのインタビューを読んでいた。ステラ・コールのインタビュー。「TikTokやYouTubeもしくはInstagramなどでのショート動画で人気が出たアーティスト」たち。コロナ禍は発信の仕方を明らかに変えた。若い世代の表現の模索を思うと不憫な気持ちにもなるが彼らは、というよりむしろ彼ら若い世代はそんな閉塞的な状況でも思考を止めなかったといえる。しかもステラ・コールはオンラインの世界だけでなくものすごく地道に指導と現場を求め続け成功している。20代の感性と行動力に応える環境をつかめてよかった。ステラ・コールはずっと年上の私が聴いてきたジャズをミュージカルの文脈で聴いて育ってきたらしい。音楽はこうやって軽やかに世代を超え歴史をつなぐ。ステラ・コールを聴いたあとに今聴いているのはエイミー・マン。映画「17歳のカルテ」の原作「思春期病棟の少女たち」の舞台化のために作られたアルバム。この舞台もコロナで上演されなかったらしいがこのアルバムは素晴らしい。私は精神分析実践で「物語」を作ることを警戒するがものを語るプロセスには細やかな注意をはらいたいと思っている。音楽で音への注意が次の音を導いていくような感覚。それらの集積が結果的に物語となるならその物語は個別性に溢れていてきっと素敵だ。

今日もがんばろう。

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Netflix 俳句 短詩 言葉

『アンメット』、俳句文学館

大寒。とはいえ6時の時点で6度ある。東京の日の出は6時49分。少しずつ空が白っぽくなってきた。沖縄の日の出は7時18分。冬に西に旅に行くと早朝散歩はいつも真っ暗。その分暗くなるのは遅い。光のあり方は生活にかなり影響を与えているだろうからその土地の風土を知ることはとても大切。大学のとき、何かの授業で風土について色々と学んだ。和辻哲郎を読むばかりでなく、何の授業だったか。「風土」という言葉の印象ばかり強く肝心の中身を覚えていない。

『阿修羅のごとく』で満足したのに『アンメット-ある脳外科医の日記-』を見始めて1週間で見終わった。アンメットは満たされていない、という意味なのね。満たされるってなにかしら、とは思うけど若い頃よりは確実に満たされやすくなっている。そしておそらくこれは記憶容量と関連している、と思う。ドラマの影響で言っているのではなくて。いや、もしかしたらそうかもしれないけど。精神病院で働いていた頃、神経心理検査を色々実施した。ドラマで失語症や半側空間無視に対する新たな理解が加わった。症状の個別性の部分ではあるけど。ドラマでは高次脳機能障害のように器質的な病変が存在する症状がそれだけでは説明がつかない記憶のあり方とともに密な人間関係で描かれていて何度も泣いた。主人公二人の相槌の仕方が印象に残った。杉咲花の食べっぷりも素敵であんな小さい顔の小さな口でどうしてそんなに大きい一口が可能なのかとびっくり。

『阿修羅のごとく』で昭和を満喫したが、週末は俳句で明治、大正、昭和を感じた。新宿区百人町の俳句文学館で昨年11月から開催されている「俳人協会所蔵名品展 近現代俳句の歩み1」を鑑賞した。とても小さな展示室は17音の世界にぴったりだった。作品数としては多くないがおなかいっぱいになった。たった17音が刺激する世界はとても広いのでこれ以上あると疲れて丁寧に鑑賞できなかったと思う。文字のインパクトもすごかった。五大家俳句寄書の軸装や本人直筆の色紙や短冊で俳句をみた。五大家とは高浜虚子と4S(青畝、誓子、素十、秋櫻子のこと。

蚊いぶしの紬をさらふ追風哉 阿波野青畝

畑打や池田の鯉を手捕つたり 山口誓子

餅花の火燵布団に照りはえぬ 高浜虚子

芦刈のそこらさまよふ一人かな 高野素十

啄木鳥や落ち葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子

秋桜子の句は知っていた。4Sの句でもネット上では探せないものもあり、彼らの作品の膨大さを思った。

小鳥来て午後の紅茶のほしきころ 富安風生

麗しき春の七曜またはじまる 山口誓子

雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)石田波郷

などの句も文字と共に心に残った。

昨年5月、老衰で亡くなった鷹羽狩行を偲ぶコーナーもあった。

数といふ美しきもの手毬唄 鷹羽狩行

しずけさに加はる跳ねてゐし炭も 鷹羽狩行

にウキウキした。

紅梅や枝々は空奪ひあひ 鷹羽狩行

有名な一句。やはり迫力がすごい。近所の公園では梅が咲き始めた。この景色は私も実景として体験できる。俳句は実景が基本なのがいい。

さて、今日は大寒。冬苦手なのに冬を満喫したくてスーパーのお菓子の棚で「冬限定」と書いてあるお菓子を買い占めてきた。といっても3種類しか見つけられなかった。

大寒の天気つゞきの檜垣かな 富安風生

大寒と敵のごとく対ひたり 富安風生

富安風生の句も心に残るものが多いことに気づいた。好きなのかもしれない。どうぞ良い一日を。暖かくしてお過ごしください。

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読書

森茉莉のこととか。

きれいな冬の空。明日は大寒。

大寒の埃の如く人死ぬる 高浜虚子

突然始まった戦争から一年以上が過ぎた。本当に終わるのだろうか。何を終わりというのか、とか考え出したらキリがない。とりあえず殺戮は終わりにせねばならない。

昨日、祖母のことを書いた文学は多いが絶品なのは森茉莉だろう、という話をしていた。異母兄の於菟を哀れむ祖母のことを茉莉はこう書いた。

「彼女は私をも愛していたが、愛していながら、愛することが出来ない。」

森茉莉は晩年、下北沢のアパートを追い出され、経堂のアパートに移り、ひとりで死んだ。新聞には「孤独な死」と書かれた。「孤独死」とは響きが違う。なんでも一つの名詞にしたがる感覚が苦手。

鷗外長女茉莉まりばうばうと老い耄けし果ての孤獨死ともしくもあるか(高橋睦郎、ふらんす堂)

詩人、俳人の高橋睦郎は森茉莉の友人だった。30歳くらい離れていると思う。彼女が死んだ年齢に近づき、超え、知ることもあるのだろうか。

黒柳徹子はVoCEの連載で

「茉莉さんが亡くなったとき、私は外国にいたのですが、日本に帰ってから、「死後2日経って見つかった孤独な死だった」と聞きました。でも、私は「それもなんだか茉莉さんらしいなぁ」と思ったのでした。」

と書いている。群ようこは『贅沢貧乏のマリア』で手本としての森茉莉を書いている。面白い本だ。森茉莉を愛したのは鴎外や祖母だけではなかった。「おまりは上等」というのが口癖だったという鴎外の気持ちがは私にだってわかる。愛し方というのはそれぞれで愛を受ける仕方もそれぞれで森茉莉と祖母の関係もまたそのひとつ。

今日は昨晩読んでいた『鬼城句集』の序文のことを書こうと思っていたのに森茉莉のことをなんとなく書いてしまった。ちなみに鬼城とは群馬県高崎市出身の村上鬼城。昨年、鬼城の記念館に行ったことはnoteに書いた気がする。『鬼城句集』の序文は編者である大須賀乙字と高浜虚子である。また思い出したら書こう。どうぞよい一日を。

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精神分析、本

神経精神分析関連の論文や本

明るくなってきた。水色とグレーの間の色はなんていうのだろう。色を表す日本語はとてもたくさんあるからきっとぴったりの言葉があるのだろう。

先日、国際精神分析学会のジャーナルThe International Journal of Psychoanalysis: Vol 105, No 5 (2024)が届いたのでパラパラしていた。この号はMark Solmsによるフロイト全集スタンダードエディション改訂版the Revised Standard Edition of Sigmund Freudの特集で17本の論考が載っている。編集長はFrancis Grier、ゲスト編集長にMark Solms。

先日、フロイト読書会でドラ症例を読んだが参加者のみなさんは文章を読むということ自体がなかなか難しいらしくこの論文についての議論はできなかった。私みたいに精神分析家になるのでもなければフロイトを精読する必要はないと思うが精神分析的にものを考えることとフロイトを読むことが連動していない場合の精神分析的臨床とはなにか、ということをまた考えることになった。人の心は本以上に複雑なものだと思うが。ドラ症例はこのジャーナルの特集でもIfrah Biranという人が取り上げている。RSEの訳者であり神経精神分析という新しい学際領域を立ち上げたマーク・ソームズと関心を共有している様子でパンクセップの感情システムのPLAYを使ってドラ症例を検討するという試みは興味深い。Fragment of an analysis of a case of hysteria – Dora’s case and Freud’s storyという題名が示すのは、ドラ症例を教養小説と読んでみれば、それはフロイト自身の成長物語として読めるのではないかということである。すごく簡単にいえばフロイトはドラを使って自分の物語を書いている、ということである、というかきちんと読んでいないが、ざっと見る限りそんな感じがする。「ニュースピーク」をレンズとして用いているところも興味深く、引用されているDana AmirのPsychoanalysis on the Verge of Language:Clinical Cases on the Edgeは読みたいと思った。

私は神経精神分析に関してはこういう論文や入門書に触れる以外の余裕はないが、いろんな方向から精神分析が別の領域へ広がっていくのはいいことだと思う。

入門書としては

神経精神分析入門 -深層神経心理学への招待-』(カレン・カプラン=ソームズ&マーク・ソームズ著、岸本寛史訳、青土社、2022年)

『ニューロサイコアナリシスへの招待』(岸本寛史編著、誠信書房、2015年)

だろうか。

ソームズ自身がこの分野にどうやって関心を持ちどこを目指しているのかは『意識はどこから生まれてくるのか』(マーク・ソームズ 著、岸本寛史、佐渡忠洋 訳、青土社、2021年)が参考になる。この本はパンクセップに捧げられており、先に挙げた論文を読む上でも参考になる。『神経精神分析入門』は初期のフロイトを理解する場合に特にいいと思うが、ルリヤが中心的に取り上げられているところが気に入っている。大学時代、とても好きだった心理学者がルリヤとヴィゴツキーだった。ロシアの精神分析の発展は彼ら抜きには語れない、と思う。

自分がわかること、知っていることなんて世界のほんの僅かであるということに普通に耐えながら学び、議論できたら楽しい。今日もがんばろう。

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阪神・淡路大震災から30年

阪神・淡路大震災から30年、ちょうどこの時間に起きた地震、東京でテレビのない生活をしていた私が知るには少し時間がかかった。朝刊はもうすでに配達されていた。今だったらネットですぐに状況が映し出されただろう。神戸、大阪、京都の友達とは割とすぐに電話が通じた。何事もないことは全くない状況だろうにみんな無事だと知らせてくれた。日常、いかに些細なことをおおごとにしていることか。もっとも被害の大きかった地域の友人がなぜかうちだけライフラインが生きてて近所の人が集まっていると笑いながら言っていたのを思い出す。人はこんなときでも笑うんだと知った。朝刊、夕刊と1000人単位で増えていく死者、不明者の数に衝撃を受けた。目の前の人の無事さえ確認できない人にとってはその何千人のうちにその人が含まれていませんようにとどれだけ祈ったことだろう。朝ドラが神戸のことを描いているのでなんとなく見続けているがドラマ内では東日本大震災が起きた。主人公の友人が栄養士として支援に入りみた状況を報告するシーンがあったが私も体験したことだった。私たちはチームを組んで炊き出しができるトラックで行った。温かい食べ物は本当に喜んでもらえた。阪神・淡路大震災の時にも支援に行った体験のある友達がいたことは私にも心強かった。コロナ直前の年始は神戸にいた。海沿いのメモリアルパークの展示は古びてだいぶ見えにくくなっていた。潮風の影響もあるのだろうか。今年初めに改修されたらしい。よかった。神戸で学会があったとき、友人と神戸の街を歩きながらいまだ震災の跡が残っていることに驚いたが、あのときはかなりの年月が過ぎたと思ったがそれは現場にいない私の時間感覚でしかなかったのかもしれない。当事者の感覚を大切にするという当たり前のことをこの仕事をしていても忘れることは多い。断続的にでも思い出したときにすぐに消してしまわないようにとどまれたらと思う。