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イベント 読書

江戸。べらぼう、浮世絵、九鬼周造など。

キッチンに立ったら少し昨日の匂いがこもっていた。小さな窓と大きな窓の両方を開けた。大きな窓からは風を感じた。今朝はあまり気温が高くないみたい。iphoneの天気予報を見たら15時以降、傘と雷マーク。ひどくならないといいけど。

昨晩の月もきれいだった。オフィスからも帰り道もずっときれいだった。今年の蝉が少しずつ鳴き始めた。毎年一気に鳴き始めるイメージだったけど違ったか。6月に行った入笠山ではヒグラシが鳴いていた。

昨日は森鴎外の忌日だったらしい。鴎外は島根県津和野町生まれだが、私は旧宅にも記念館にも行った覚えがない。一番行ってそうなのに。津和野はとっても素敵なところで宿も卓球ができて楽しかったり、隠れキリシタンの悲しい歴史がわかる印象的な場所もあったりよく覚えているはずの街なのに何故だろう。安野光雅美術館はお正月で閉館していて西周旧居は工事をしていたことは覚えているが。まあいいか。文京区の森鴎外記念館に行って偲ぼう。

今NHKでやっている大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の影響で江戸時代への興味が高まっている。まずは平賀源内にやられたいうのもあるが、蔦重を魅了し魅了される役者陣にも毎回笑わされ泣かされている。府中市美術館「春の江戸絵画まつり 司馬江漢と亜欧堂田善 かっこいい油絵」でも源内は活躍していた。江戸文化で私が身近といえるのは浮世絵師くらいだが彼らの背景を知るとますます色々な角度から知りたくなる。浮世絵はあらゆる角度からじっくりみるのが楽しい。蔦重が見出した喜多川歌麿、東洲斎写楽や北斎たちの展覧会も各地で開催されている様子。先日、ミロ展に行く目的で上野に行き、上野の森美術館で「五大浮世絵師展」をやっていたことに気付いたが時すでに遅し。今からなら慶應義塾ミュージアム・コモンズの「夢みる!歌麿、謎めく?写楽ー江戸のセンセーション」が8月6日(水)まで。あとは7月15日(火)から静岡市東海道広重美術館で「流行の仕掛人~蔦屋重三郎と版元の仕事~」が始まる。由比駅が最寄りの美術館なのか。街道歩きをしている人にはお馴染みなのかしら、桜えびの由比宿。9月15日(月)までだから夏休みがてら行ってもいいかも。桜えびの季節ではないけど。静岡は新幹線を使えば東京からちょうど1時間。駅周りから商店街もビルも充実。歩いて行けそうな距離に緑が広がっているのもバランスがいい。

北斎は、長く仕事させてもらっている墨田区のすみだ北斎美術館があるからなんとなく安心、というかいつでも会えるような気がしているが、今特にみたいのは春画。これぞ江戸の町人文化という感じがする。2023年のドキュメンタリー映画「春の画 SUNGA」もNetflixでみた。橋本麻里、朝吹真理子がでていて嬉しいし、横尾忠則、会田誠のコメントもよかった。江戸に惹かれるのは会田誠の作品から得てきたものが大きかったからかもしれない。遊びと迫力。生と性。いつも会場で制作をしているイメージだがたまたま私が行ったときが公開制作中だったのかもしれない。鹿児島県霧島アートの森での展覧会に行ったのは2014年か。もっと前な気がする。会田誠は春画を外圧と関係ない江戸庶民の伸びやかな遊び心、スケベ心として評価している様子だった。性と生を反射的に拒絶することなく、日常の営みとして、一級の技術をもった絵師たちが描いたことも日本のエロティックアートの特殊性である、というようなこともこの映画でいわれていたと思う。本当にそうだ。才能と技術を惜しみなく使って描かれた春画の驚くべき細やかさと大胆な構図。どんだけ真剣に性行為と向き合ってんだ。にしてもこの時代の春画は明るくていい。開国に向けて心がざわめき出す以前、人の心にもこれらで笑い合える余裕があった。そういえば今日、浅草はほおずき市か。江戸時代のほおずき市もさぞかし粋だっただろう。子どもの頃、その可愛さに打ち抜かれたほおずき。浅草寺、ほおずき市、とくれば雷も悪くないってことか。浮世絵で雷といえば色々あるが、歌川国貞の「夕立景」は生き生きしていて面白い。

「要するに、「いき」な色とはいわば華やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に生きている。個人的または社会的体験に基づいた冷やかな知見が可能性としての「いき」を支配している。」

江戸文化といえば九鬼周造『「いき」の構造』(岩波書店)ということで引用してみた。九鬼の色彩論もまた魅力的。先日のフォーラムでゲーテとパウル・クレーの色彩論には少し言及したがやっぱり私は日本のことをもっと知らないといけないな。せっかく九鬼みたいな人が日本にいたのだから。というか九鬼は東京、西洋、京都という移動を経ているからあれが書けたというのもある。この前『べらぼう』で西行の

願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃

が使われたシーンはとても素敵だった。九鬼は南禅寺のそばに住んでいてこの桜の下も散歩していたらしい。というかこの桜はどこにあるのだ?私も行ってみたい。

ちなみに九鬼周造は青空文庫でも読めるが『偶然性の問題』(1935年)は入っていないと思う。青空文庫で読むなら短いのがおすすめ。「小唄のレコード」とか。林芙美子が九鬼の家にきた時の話。いいなあ、みんな繋がってる。いいなあ、は私は林芙美子が好きだから。みんな大変な時代を生きていたけどイキだった。昨今の政治家たちに全く見当たらぬこの心性と土居健郎の「甘え」についてぼんやり考えていたのが昨日。今日も生き生き過ごしたい。

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映像 精神分析 読書

ブルーナー自伝、NHKスペシャル。

昨日の月はくっきり明るかった。夜、何もつけないと寝苦しいけど、帰り道は暑くない。夜は外の方が気温が低いってことか。

ウィニコットの1954年の論文「精神分析設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面」を館先生が『ウィニコットの臨床』の中で丁寧に読解しているよ、ということを昨日書いたと思うけどこの論文は『小児医学から精神分析へ ウィニコット臨床論文集』の第19章に入っている。監訳は北山修先生、この章の翻訳は岡野憲一郎先生。そういえば、北山先生からバサック先生との共著を送っていただいた。感謝。

そうそう、それでウィニコットを読み直そうとしたら別の本が目に入ってしまい、またそっちをパラパラしてしまった。一度読んだことがある本はパラパラで行きたいとこに辿り着けるが中身はぼんやりしか覚えていないのできちんと読むにはすぐ時間切れ。

心を探して:ブルーナー自伝』(田中一彦訳、みすず書房、1993年)。Jerome Seymour Brunerは1915年生まれ、2016年没。101歳ということだね。原著はIn Search of Mind: Essays in Autobiography. (1983)。ということは70歳になる前に書かれた自伝ということ。このあと30年間も生きるなんて思わなかったのかもしれない。私が大学生の頃によく読んだ心理学者ばかり出てくる自伝。みなさん、交流があったのだねえ。

この時代の多くの心理学者はそうかもしれないけどブルーナーも精神分析というかフロイトを常に目の端に入れてる。精神分析はまだ歴史が浅いとはいえ、今でも参照されるのはフロイト、クライン、ウィニコット、ラカンだよね、外側からだと。とはいえ、ブルーナーは精神分析の体験があるので「分析では、いや私の分析では」と「私の」に傍点をふって強調するくらい中に入ったことのある人。フロイトをよく読んでいるなあ、と思う記述もあるし、フロイトのことは精神分析より好きみたい。

ブルーナーの最初の分析家はエドワード・ビブリング(Edward Bibring、1894-1959)。エリクソンのスーパーヴァイザーだったりした分析家だ。ウィーン、ロンドンとフロイトと行動を共にして1941年からBoston Psychoanalytic Society and Instituteで訓練分析家を務めている。ブルーナーは1953年の秋、コモンウェルス基金の研究奨励金で精神分析を受け始めた。彼らは同じユダヤ人として親しみのある関係だったようだが、ブルーナーは「私は、分析が「行われた」とは思わない。」と書いている。

ビブリングは長くパーキンソン病を患っており、亡くなってしまったため、ブルーナーは二人目の分析家を必要とした。彼の分析体験に関する記述を少し引用する。

「それは、精神分析が私の流儀ではないということだったのか。すべてそのせいということはありえなかった。というのも数年後、私が心底援助を求めていたとき、つまりごくあたりまえの関係がこわれて私の微慢で強情なプライドに耐えがたい苦痛を残した離婚の直後、私は数か月間「本気の」分析を、ある別の人(ビブリングはその後、彼の病気の合併症で亡くなっていた)から受け、苦痛の軽減と洞察という点で大きな恩恵にあずかったのだから。あの最初の失敗には、何かもっと深層のものがあったのだと思う。」

「しかし、この結果をもたらしたのは精神分析自体だったろうか。そこには何か別の、もっとやむにやまれぬものがあったかもしれない。ビブリングの病気は、私の父の病気と死の再現になる危険を、あまりにも孕んでいた。」

など、ブルーナーは自分の精神分析体験を振り返り「私のように知的に事を処理する人間の場合、充分ではないのかもしれない」と書いている。この場合の「知的」は「頭ではわかるんだけど」に留まってしまう、ということかもしれない。ちなみにボストン精神分析家研究所でのセミナーは分析家の友達ができたこと以外は大層手応えのないものだったようである。

深夜にNHKスペシャル「K2 未踏のライン 平出和也と中島健郎の軌跡」を見始めたがいたたまれなくなって最後まで見られなかった。また後日見るつもりだけど辛い。平出和也さんは田中陽希の「グレートトラバース」で知っていた。この番組は句友の番組でもあるので身近な人たちの悲しみを思えば思うほど見ていて辛かった。私は山育ちで登山でもスキーでも親しんできたが、山は本当に怖いということもどこかで植え付けられている。そういう恐れを超えてワクワクに従い、磨き上げた技でさらなる高みにチャレンジしたお二人には尊敬以外ない。お二人が滑落死されてからもう一年。改めてご冥福をお祈りしたい。

今日は水曜日。失敗は最低限にとどめてがんばりたい。

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Netflix 映像 映画 精神分析、本

Netflix『リディア・ポエットの法律』、館直彦『ウィニコットの臨床』

今朝も風がない。そういえば昨日は急に大粒の雨のが降ったり、何事もなかったかのように晴れたり変なお天気だった。日本の気候は変わってしまったのだろう、など話した。同じ日本でもすでに様々ということもいろんな土地に行くと知ることではあるけれど。奄美大島で出会ったスコールを思い出した。地元の人も呆れたように空を見ていた。

コロナ禍にNetflixに入会しなんでもかんでもみていたことも思い出になりつつある。本当はこの時期に起きたことをもっと詳細に語り合った方がいいと思うが・・・。私はコロナ禍でもそれほど変わらない生活を送れていたが、配信で映像を見るのが当たり前になったのはその頃からだ。といってもNetflix以外に手を広げることもなく(間違って入ってしまったAmazonプライムをもったいないから少し使ったことはある。あの誘導システムやめてほしい。)ちょっとした時間に断続的にみているものも多い。映画は断続的にみても面白度が下がるのでドラマシリーズを見ることが多い。あとアニメ。最近だと『リディア・ポエットの法律』という実話ベースの作品が面白かった。1885年生まれのイタリア人初の女性弁護士がモデル。『虎に翼」みたいでしょ。舞台はトリノ。ひどい話だが、リディアは女であるという理由で弁護士資格を剥奪される。冒頭からなんなんこいつらと怒りが湧くが、諦めないリディアが兄の助手として活躍しつつ自分の権利も取り戻していくような話なのだと思う。シーズン2まであるとのことだがまだ1の途中。兄の助手としてというあたりはエノーラ・ホームズっぽい。実話では弁護士資格を取り戻したのはなんと60歳を過ぎてからとのこと。ひどい。よく諦めずに戦ってくれた。

それにしても映像技術の進歩の速さよ。エジソン、リュミエール兄弟、情景からストーリー、トーキーからカラー、特殊効果、CG、SFXっていうのかな、あとVFX、ゴジラとかの特撮というのは特殊効果を使った撮影、という意味でいいのかな。私みたいな高校時代の写真部、つまり静止画像で満足している人でもこれらはすでに自然に触れていた技術だった。私はVHS時代の子どもだった。

ちなみに『映画が恋したフロイト』の著者、岡田温司先生は1954年生まれ。学生のときにリアルタイムでみたものをDVDで見直してきた世代。今なら配信でご覧になっていると思う。なんにしてもデジタル技術の発達に遅れることなく論考を発表しつづける情熱がすごい。

先週末の精神分析的心理療法フォーラムのシンポジウムでは舘直彦先生ともご一緒させていただいた。数年前に精神分析学会の教育研修セミナーで討論を務めたときにはじめてお会いして以来。今回、会場で「はじめまして」のご挨拶をする先生方ばかりとご一緒だったので少しでも知っているお顔があって安心した。もっともウィニコットの仕事をわかりやすく咀嚼してご著書を出されてきた館先生のお仕事は以前から身近だった。

シンポジウムでお会いしたときに2023年に出版されたきれいな水色の本『ウィニコットの臨床 症例との対話から生まれる「あること」の精神分析』をいただいた。2013年に出版された赤い本『ウィニコットを学ぶ 対話することと創造すること』とセットで持っておきたい一冊である。私は水色の本もすでに読んでいたけど著者の先生からいただける本は特別なのでありがたく頂戴した。

私がこの本で一番いいと思っているのは「第6章 Winnicottの治療論」。取り上げられている論文が「精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1954)」なのがいい。詳しくはまた今度。今日もがんばりましょう。

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散歩 精神分析、本

築地、岡田温司『映画が恋したフロイト』

朝は目が見えにくい。なんでだろう。夜の間、リラックスしすぎてピント合わせる緊張感を取り戻すのに時間がかかるとか。わからん。不便だ。朝が一番捗るのに。

まだあまり暑くない。エアコンもまだつけなくて平気。冷たい麦茶で喉を潤す。

昨日は仕事が午前中だけだったので用事がてら築地市場へ寄ってみた。すごく久しぶり。今は築地は場外市場しかなく場内市場の跡地は大掛かりな再開発が計画されている。どうしたいんだ、東京。浜離宮の生態系に影響したりしないのだろうか。築地は場内の魚がし横丁に数回行ったことがあるがそれも場内市場が豊洲に移るずっと前のこと。場外は2度目かも。前は連れていってもらったのでいいものを食べたが今回は普通に歩いて抜けただけ。小道を覗くといろんな店がぎっしり。こんな感じだったっけ。外国の人がいっぱい。ほとんどの店が英語の案内を出していた。日曜は卸売市場が休みだからいろんな店がまとまって入っているビルは閉まっていた。ここなら一人でも気楽に入れそうだから今度きてみたい。オフィスからなら京王新線→大江戸線利用。生ものを出している店はこの気温で大変だろうなあと思ったけどずっと前からやってきたことだから大丈夫かどうかは感覚で判断できるのだろう。買って帰る人もそういうとこ気をつけるの上手なんだろうなあ。私も保冷バッグとか一応使ってるけどできるだけ無難にと思うからこの時期は生ものはほとんど買わない。築地場外市場の場合、そこで食べるのを楽しみにしている人が多いのだろうし。昨日は日差しが強かったが日傘をさすのも憚られる混雑が遠くからでもわかった。散策してみようと小道を覗いてみたけど人混みに気圧されてあっさり表通り(?)に退散。スッキリした東銀座の方へ向かってしまったが、せっかくきたのにこれではいかん、と戻り、小道探索。歌人の大森静佳さんが朝日新聞デジタルに寄せていた大阪・関西万博をめぐる短歌とエッセーを思い出し、私も気持ちだけはあんなふうに観光地と触れたいと思い直し戻るとさっきとは別の景色に見えた。この前、知らない土地を急ぎ足で歩いているときも帰りはきっとこの景色は違うふうに見えるからランドマークを覚えておかないと迷うかも、と一本道なのに心配したのを思い出す。

いろんな国の人。いろんな食べ物。いろんな言葉。市場は休みでもここは活気があった。築地本願寺にもはじめて行った。荻窪の荻外荘を設計した伊東忠太(1867-1954)の設計。荻外荘は入澤達吉の別邸だったが、今では近衞文麿が自決した書斎が有名だろう。場所の違いがあるとはいえ、同じ人が築地本願寺の図案も書いているとは。築地場外市場とはまるで真逆のどーんと広い外観にも驚いたがそのエキゾチックな雰囲気にもあんぐりした。いろんなところに動物がいるのには和んだ。内部も天井が高くすごく広い。法要をライブ配信するセットも整っていて寺の世界も色々だな、と思った。寺婚のパンフレットもあった。別の建物にはカフェやショップもあって昨日はたくさんの人が並んでいた。おいしそうだった。小さなショップには数珠とか築地本願寺と書かれたお菓子とかが売っていた。大きな寺にはこういうのあるものなのね。そこを通り抜けるとすぐ地下鉄日比谷線築地駅。納骨堂も駅直結なのか、とびっくりした。こういうのって東京メトロと浄土真宗が話し合ってそうするものなのかな。正門の近くには大きな鉢に蓮が伸びていて一輪だけ咲いていた。連日見られたねえ、と思いながら写真を撮ろうとしたけど一輪しか咲いていないからじっくり写真を撮っている人がいて私は適当にシャッターを切った。

岡田温司先生からいただいた『映画が恋したフロイト』(人文書院)を読み始めた。フロイトがハリウッドからのオファーを断った話は有名だけどこの本もそこから始まっている。これまでの映画の本は映画タイトルの索引(膨大でびっくりする)があったと思うのだけどこの本にそれはない。内容はいつも通りすごく読みやすくて面白い。映画に詳しくなくても、精神分析に詳しくなくてもエンタメとして読めると思う。岡田先生はものすごく多作だが、この本でも最近話題になったばかりの本や映画も引用されていて移り変わりの早い時代に過去を繋ぎ止めておく力がすごい。精神分析家としても人文学の専門家がこういう仕事をしてくださることは本当にありがたいし、写真好きとしても映像の歴史と精神分析が重ねられているだけで楽しい。特に第1章は週末の精神分析的心理療法フォーラムでの私たちのシンポジウムでお話しされたことと重なっているのでご参加された方にはぜひ読んでほしい。映画でもこういうことが言えるのか、って楽しめると思う。チャップリンの作品をめぐるフロイト先生の態度もコンパクトに書かれているのにすごく面白い。精神分析理論は単独だと難しく感じるかもしれないけれどフロイトが日常生活における失敗から色々言っているように生活と密着したものだし、夢と映像って極めて関係が近い。今、オンラインで動くフロイトをみられるのも映像技術があってこそ。なんでもかんでも映像になる現代にこのワクワクを取り戻すのは難しいかもしれないけれどこういう本を読むことによってそれは可能。少し遡れば感じることのできるワクワクをみなさんもぜひ。

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精神分析

植物園、シンポジウム

あまりうまく眠れなかったが起きるたびにスッキリしているうちにいつもの早朝になったので起きた。

昨日は関西に日帰りで行ってきた。帰りの新幹線からも月がきれいだった。行きの富士山を楽しみにしていたのにまた寝てしまった。京都駅で下車。何年ぶりだろう。そんなに久しぶりでもないが全然慣れることもない。学会でいつも使う国際会館と京都府立植物園がこんなに近いとは思っていなかった。これからは学会が京都であるたびに寄ろう。朝10時からの園内ガイドに参加したかったな。知らなかった。でも竹林エリアにあるというアカダマキヌガサタケを見つけることはできた。ひとりでキョロキョロしていたら職員さん(多分。植物園のTシャツ着てたし。)たちの「あった、あそこ。今年はどうこう」という声が聞こえた。常連さんが今年のアカダマキヌガサタケは少ないだかもう終わりだか言っていた、という話をしていた。植物園には常連さんが多いからな。私の友達は植物園ではないけど植物いっぱいで有名な公園の常連で職員ではないのにものすごく草花に詳しい別の常連さんと親しくなっていた。植物のようにつながっていってる。アカダマキヌガサタケ、一人じゃ絶対に見つけられなかったな。レースのスカートみたいのをはいたキノコ。

森を歩いていたら紫陽花の小道の向こうにハス池が見えた。近づくと白やピンクの蓮がいっぱい。感激。すごくきれいだった。

シンポジウムはとても楽しかった。私は討論だったけど時間が足りなかったので用意した原稿をもとに半分の時間でほぼアドリで喋った。よって自分でも何を言っているかよくわからなくなった。が、まあいいのだ。こういうのは一生懸命勉強して一生懸命言葉にしてみる人たちの集まりを見ることも大事だから。わかるわからないではなく見てるだけで触発された人たちもいたみたいよ。そういう話で盛り上がっているそばにいたから心の中で頷いていた。たしかに私も精神分析の勉強をはじめて数年間の盛り上がりはそういう感じだった。知的興奮と自分はこれからどうするのかなとなるきっかけを得るような。私はながーい時間をかけて精神分析家になったけどながーい時間をかけて精神分析を受け始めたり、大学生になったり、何かを諦めたり、何かを失ったり、時間がながーくあれば色々ある。そういうことが我が身に生じないとその実感はあまりないかもしれないけれど。なんでも大まじめに楽しめたらいいですね。と私が言っても説得力に欠けるかもしれないけど私は学問に関しては大真面目だと思うな。がんばろ。

それにしても知らない土地にいくと色々ハプニングがあるものですね。駅員さんに聞いて何度も確認して乗ったはずの電車のアナウンスに「あれ?」と思っって隣の人に「これは各駅停車ですよね」と聞いたら、最初聞き返されてもう一度言ったら「大丈夫ですよー」とすごくやわらかい感じで言われた。電車のドアがしまった。すぐに今の会話を反芻した。違和感。大丈夫じゃなさそう。「ああそうか。こっちでは多分各駅停車って言わないんだ。普段使わないから快速電車って言ったと受け取ったんだ、きっと」と思った。案の定、その電車は私が降りるはずの駅を超えていった。多分「普通列車」っていうんだよね、こっち。「か」と言ったら「快速」とかなのではないか。わからないけど電車は遅れていたし「普通」ってかいてあるのに乗ったつもりだったのにな。会場にも少し早めに向かったつもりだったけど、私にはもっと時間が必要だった。バスがあると言われていたのでそれを使おうと時効表を見たら土日は1時間に2本。これでは間に合わない・・・とか色々あった。「つもり」って本当にあてにならない。注意力も想像力も足りなかった。しかし、私には体力がある、ということでなんとか乗り切った。植物園満喫して烏丸御池で大急ぎで展示見てとかしてたからな。本当は東京でみそびれた美術展に行こうかと思ったけど混んでるだろうしなあ、どうしようかなあ、そうだ、植物園!と思いついてからはウキウキだった。浮かれ過ぎたか。汗だくで真面目な会に出ることになってしまったが眠くもならず先生方のお話はとっても面白く聞いた。帰り道も余裕持ちたかったけど深夜になると翌日がきついし、それでも少し余裕を持って決めた時間のずだったが、帰りも会場から駅までの時間を計算していなかったのでご挨拶もそこそこに出てくることになってしまった。電車の遅延も乗り越えて間に合って本当に安心したけど。帰りの電車はウトウトしてばかりの行きとは全然違って仕事がはかどった。よく動いてよく学んだ。オンラインで聞いてくれていた友人たちからメッセージももらい励みになった。読むはずだった原稿も送った。岡田温司先生の最新のご著書と館先生の水色の本もいただいてとても嬉しかった。PCや持っていく必要なかった。リュックには出すのを忘れていたというかここにいたのか、という本が入っていてすでに重かったがルンルンで帰った。筋力も戻していきたいからガッツリ背負って坂道もぐんぐん歩いた。夜は涼しかったしね。

今日も一仕事。がんばりましょう。

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Netflix イベント 写真 散歩

写真とか街とか。

雨止んでる。昨晩、オフィスを出たら結構降っていてびっくり。慌てて折りたたみ傘を出した。今日のお天気はどうなのかしら。さっき窓を開けたらもう暑かった。

先日、「被曝80年企画展 ヒロシマ1945」をみに東京都写真美術館にいった。受付の横のチラシ置き場に「おとなり美術館散歩」というマップがあった。おなじみ太田垣晴子さんのイラスト。かわいい。手に取ってみると東京都写真美術館と東京都庭園美術館までのMAPが見どころつきで書かれていた。1.8km、徒歩約30分とのこと。この二つの美術館を同日に行ったことがなかったし、目黒区と港区でお隣というか、そういえば庭園美術館は目黒駅から行くもんね。わざわざ白金台に出ない。写真美術館がある恵比寿駅でも目黒寄りだしたしかに近い。そうか。私は恵比寿ー渋谷間は結構歩いているし東京は狭いですね。

この前、久しぶりに渋谷駅から桜丘町、代官山を通って恵比寿までいった。Shibuya Sakura Stageがすっかりオープンしていた。朝早かったから通り抜ける人しかみなかったけど私が慣れ親しんだ景色はなくなった。少しずつ変わっていくのを見ていたけど一年ぶりくらい。駅からの歩道橋もサクラステージに続いていた。渋谷駅前の再開発であおい書店が閉店したのが2018年。その前はJTBだったか。ながーく親しんだ街だから変な感じ。しょっちゅういっていた定食屋もなくなった。一方、少し駅から離れればなにも変わっていないな、とも感じる。街を全部変えるなんてやりたくても無理だもんね。破壊はいくらでもできたとしても、と思ったのはNetflixでみた『ヒトラーとナチス』を思い出したから。ガザだってあれだけの殺戮が行われているのにガザはある。ありつづけてほしい。死なないでほしい。というか殺すなよ。東京都写真美術館でみた「被曝80年企画展 ヒロシマ1945」にも言葉を失った。感情も失いそうになった。静かに、きちんと怒りが伝わってくる展示だった。広島や長崎に行けなくても東京が近い人はいってみたらどうだろう。同時にやっている「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」もすごくいい。絵画と写真はそう簡単に分けられるものではないということがよくわかる。モランディのアトリエの写真はちょっとびっくりした。モランディの絵そのものだ、と。あと光とか雪とか自然が作る在不在にも。楽しみにしていた展示だったので駆け足だったけど行ってよかった。あとミロ展も大急ぎで行ってきた。これももっとゆっくりみたかったけど行けただけよかった。晩年の作品をみたかったので初期の作品はかなりざっとしか見ていないが黒の使い方が最初から印象的。スペイン内戦の頃の俳句的な表現もあり非常に興味深かった。芸術家は何があっても作り続けていた。ミロ展はまたやってくれるように思う。今回は巡回展はないみたい。そういえば「ルイジ・ギッリ」の写真にはトリエステの景色もあり、ショップには須賀敦子の対談集が売っていた。「トリエステの坂道」は本当に素敵な文章で綴られた短編。須賀敦子って一時すごく読まれていたと思う。特にトリエステは。水村美苗とか米原万里とか母国語以外を自由に使える人の日本語は別格の美しさがある気がする。うまくいえないけれど。今日の移動本は須賀敦子にしよう。求めていた景色に急に出会えるような気がする。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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読書

地震、エッカーマン『ゲーテとの対話』

起きたらすぐそばでカラスの大きな声がした。その声に起こされたのかもしれない。外はまだ少し爽やかっぽいけど空気の入れ替えだけしてまた窓を閉めた。バタバタ家事をしていたら期待通り紅茶がちょうどいい温度になっていた。

鹿児島県トカラ列島近海の地震、大丈夫なのだろうか。十島村・悪石島というところ。写真を見るととてもきれい。そうだろうなあ。希望者は離島して避難されたらしい。ものすごい数の地震が起きているらしいが昨晩は眠れたのだろうか。実際の被害も不安も広まらないように具体的な対応が早急に入りますように。

昨日、水木しげるの「姑娘」のことを書いた。水木しげるが戦地に持っていった愛読者がエッカーマンの『ゲーテとの対話』。ほぼ暗記していたという話もゲーテに対するエッカーマンみたいと思う。私がゲーテという名前をはじめてみたのはこの本かもしれない。実家で書名に惹かれたのが最初。一番古い翻訳だったのかも。きちんと読んだのはずっと後。高校生になって自分で『若きウェルテルの悩み』とか買うようになっても(こういう行動が若い)この書名はなんとなくいつも浮かんでいた。ウェルテルは高橋義孝訳。フロイトに最初に出会ったのも高橋義孝訳。よくみていた名前だからこれは覚えている。

今週末、関西で行われる精神分析的心理療法フォーラムで登壇するシンポジウム(?)のお題が「精神分析とアートの交わり」で古い本を色々漁ったからゲーテのこともこうして書いているわけだけど、高橋義孝訳のフロイトの芸術論は一冊にまとまっていてKindleで読めるのも便利。

ゲーテという名前は『ゲーテとの対話』以前に耳からは聞いているのだけど「シラーの骸骨」という言葉の方が強烈に残っている。今思えばゲーテがシラーの骸骨を前にして書いた(絵も描いたのかな)という「シラーの骸骨に寄す」のことを話していたのだろうけどゲーテという名前が私にはあまり残らなかったらしい。聞き流していただけの言葉が断片的に強烈な印象を放つのはさすがゲーテということになるのかもしれない。

『ゲーテとの対話』も普通に考えれば作者はゲーテではないのに著者であるエッカーマンという名前が記憶に残っていなかった。この本は本当にいい。大好き。水木しげるが戦地にまで持っていくのがよくわかる。

エッカーマンはやたらといろんな人に助けてもらえる人というか、その認識をきちんともちつつ、かつ内省的で、多分実直で前向きないい人だったんだと思う。いい人、というのもどうかと思うがこの本を読んでいると「貴方様がこうして残してくれたゲーテの言葉、私にもグッときます、ありがとうございます。」という気持ちになるからね。

エッカーマンは詩作をがんばるなかで帯を書いてもらう文化はまだなかったか、なんだったか推薦文か何かをお願いするためにゲーテに連絡をとった彼はゲーテに大層気に入られてしまう。というかゲーテってこういうとこある、と思ってしまったりもするけど。エッカーマンもゲーテのこと以外考えられないという様子で細やかに観察しつつゲーテの言葉に胸打たれつつ自分の気持ちにも目を向けつつ綴られるこの対話本、本当に面白いし読みやすいしゲーテの名言だらけ。これはゲーテ70代、エッカーマン30代の対話だけど、ゲーテの『イタリア紀行』で30代のゲーテの言葉を知るとエッカーマンが人としてのゲーテに惚れこむのもよくわかる。世の中にはいろんな紀行文があるけどこの本の文章は特別に面白い。

エッカーマンが拾ってくれたゲーテの名言を引用しようかと思ったけどやることがあるんだった。機会を見つけてぜひお読みになって。言葉も内容もいい本って楽しいから。

良い一日をお過ごしください。

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花火大会、姑娘、戦後80年

灰色の空。パウル・クレーが気をつけろと言った灰色。はじまりの色。窓を開けた。今日は少し風がある。鳥の声も穏やか。エアコンはまだつけなくて大丈夫そう。冷たい麦茶が美味しい。

最近、コンビニで花火を見かけることが増えた。夏だ。祭りだ。花火大会だ。オフィスからはヤクルトスワローズの本拠地である神宮球場であがる花火が見られる。5回裏の終わりに。いつもちょうど観られないけど。そういえばこの前「花火だ」と思ったのだけどスワローズのは夏休み期間だけだと思う。なんだったのだろう。外苑の花火大会はお盆のときかも。能登はどうかな。七尾市、加賀市、和倉温泉の花火大会は中止みたい。昨年、羽咋に泊まった夜にちょうど「復興花火in千里浜海岸」をやっていたのだけど不覚にも眠ってしまって見に行けなかった。昼間、炎天下の千里浜海岸を自転車でたくさん走って疲れていたらしい。はじめての試みだからホテルが指定する場所から見えるかわからないのだけど、とチェックインしたときに言われたけどとてもきれいに見えたと朝になってから聞いた。今年はやらないのかな。暑い夏も元気に乗り越えてほしい。「日本三大火祭り」のひとつ、能登島向田の伊夜比咩神社の火祭りは7月26日に無事に開催されるらしい。たくさんの人で盛り上がりますように。能登島はのとじま水族館がある島。GWに行ったときはちょうど避難していた全ての魚たちが戻ってきたところだった。地震から水族館再開までの様子とかをパネルで見たけど本当に大変な作業をみんなでされてきたんだなと涙が出た。

石川といえば山中温泉に泊まり街中を散歩していたとき「姑娘」という中華料理屋が目に入った。なんと読むのだろう、と思いながら通り過ぎた。翌日金沢の茶屋街に行くとギャラリーのようなお茶屋さんで箸置きや器に「姑娘」がいた。アヤベシオリという作家さんの作品だった。どれもとてもかわいくて連れて帰ろうか迷った。お店の人とおしゃべりしながら「姑娘」の意味を聞いたがわからないと言われた。その後に出会ったのが水木しげるの「姑娘」。強烈だった。戦争が人生を想像もしなかった方に連れていくということは頭では知っている。いろんな人がいろんな資料を残してくれたから。しかし、こういう方向もあるのか、というか水木しげるが知っているリアルはすごい。ちなみに読み方はクーニャン。若い女性という意味らしい。同じ本に収録されている作品も太平洋戦争のもの。戦艦や駆逐艦の絵も凄まじく細やか。悲惨なことが次々に起こるなか人間の書き方は軽やかでユーモアさえ感じさせるがそれだけではもちろんなく多面的。人間の愚かさって本当に説明しがたいということがなおさらなんともいえない気持ちにさせる。戦後80年、恵比寿の東京都写真美術館で開催中の「被曝80年企画展 ヒロシマ1945」にも行ってきたが、あの惨状にカメラを向けずにはいられなかった人たちの記録が特に心に残った。

7月1日締切の原稿のために出していた本たちを本棚に戻して、なんとなく積み重ねていた洋服を整理した。心配していたとおり梅雨に気温が下がるということがなくずっと暑かったので薄手の長袖ニットとか全然着なかった。しまってしまおう。そういえば関東の梅雨明けはまだ?引き続き熱中症に気をつけて過ごしましょう。

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水曜日

暗い。窓を開けた。生ぬるい風がすこーしだけ吹いていた。昨晩こもった空気を逃して窓を閉めた。エアコンは除湿から冷房へ。サイドのファンの掃除を、みたいな表示が出た。冷たい麦茶が美味しい。さくらんぼも相変わらず甘酸っぱい。

「昨日」といったら「おとといね」と言われてもう二日経ったのか、とびっくりした。言われてみれば記憶がないわけではないが体感が違う。予定に少し変更があったせいかもしれない。気分や体調の変化が大きい場合は「もう」という感じはあまり感じないかもしれない。美術館で特定の絵に惹かれて何分も立ち尽くすときは「もう」となる。それができる程度に気分と体調が落ち着いているという前提があるのかもしれない。

シンポジウムの討論原稿を作ったが、隙間時間に書き溜めていたものはほぼ使わず、結局一気に書いた。6月初めの協会の学術大会のときも一気に原稿作ったけど、今回は専門の精神分析とほぼ素人のアートとの掛け合わせ。書いていていつもと違う感じがした。シンポジストのみなさんからいただいたのは原稿ではなくスライドだったので文脈が読める場合とそうでない場合があるから捉え損ねしているだろうなあ、ああ、ごめんなさい、という思いとわからないから自由に書かせてもらっちゃいますね、という開き直りの両方で書いた。特にお金が出るわけでもないから自分の勉強を兼ねて、という気持ち。もちろん興味があるから引き受けたわけなので浅い知識も少しは深まった。でもこれはいつものことだけど勉強って始めると終わりがないし、すごい人たちは考えてることもすごいし勉強量もすごいので表面的な理解は修正されるばかりで、楽しいけど大変だった。でもアートの見方は少しだけ変わる気がする。毎回急ぎ足で見なくてはいけないことが多いから体調とかに関わらず何分も佇むことは難しいけど、今回はこうだったけど今度はこうしたいな、とか不足に気づける気がする。近いところで行きたいのは上野の東京都美術館のミロ展。上野はちょっと遠いから隙間時間には行けない。計画を立てよう。むしろゆっくりできるときに行ってあんみつとか食べたい。お散歩もしたい。でも暑いな、と結局なるけど。

さて今度は年末までに書くものがある。これは本の一章なのでもう少しがんばれたらいいなと思う。

今日は水曜日。言葉の世界は難しいけど今日もがんば里ましょう。

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散歩 精神分析

火曜日

7月。いいお天気。さっき窓を開けたら夜のひんやりがまだ残っている感じがした。そういえば最近、帰り道の三日月がとてもきれい。

山形のさくらんぼをいただいた。甘酸っぱいとはまさにこのこと。私が公園で眺めていたさくらんぼたちは鳥たちに美味しく食べられたのかな。梅の実はいつまでもなっているのにさくらの実はなくなるのが早かった。新宿中央公園の梅の木は剪定されてさっぱりしていた。

フロイトやゲーテのイタリアへの情熱とか思うと私はそういうのないな、と思っていた。どうしても!みたいな強い気持ちがあるって行動に結びつくからいいな、とは思うけど、まあいいか、となる。しかもこの暑い時期なんてできたら何もしたくない。週末は関西に行くけど。暑いだろうなあ。泊まりでいって万博とか行けたらよかったけど時間もないし、暑いし、とやはりなる。彼らは基本的に体力があるね、色々読んでいると。私もない方ではないけど温存したい。今は温存という言葉さえ不適切な気がする。なんてこんな涼しい部屋で言っているのもどうかと思いますよね。原稿書かねば。

今日も無事に過ごしましょう。

参考文献:

岡田温司著『フロイトのイタリア―旅・芸術・精神分析』(2008、平凡社)

ゲーテ著『イタリア紀行』(上・下)鈴木芳子訳 (2021,光文社古典新訳文庫)

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散歩

自然

暑い。エアコンをつけていてもなんとなく暑い。ぼんやりしてしまう。昨晩のうちに色々家事をしておいてよかった。

昨日は自然と戯れた。今年はあやめをあまり見ていなかったけどとても素敵な湿原でワイルドなあやめをたくさん見られた。絵画に描かれるあやめもこういう姿がモデルになっていたりするのだろうけど、ワイルドなものをワイルドなままに描くって本当に難しいこと、というか自然があるから絵画にそれは求められていないのかもしれない。注意を宙吊りにしたまま、かつ枠内で形にすること。あとは受け手の力だなあ。自然はそこにいて何も考えず身体を投げ出していればいいから、というか特に見ろとも感じろとも考えろとも言われていないし、まあ、絵画も言われていないのだけど作り手側がすでにそれをしているからこっちの注意も固定しがちだし、石に躓くとか風が読めないとかそういう突発的なことも起きないわけだからあとは想像力でとなる。目を瞑ってもたくさんのことを感じる自然を心の中に持ち込んでみる目を養いたい。

この前、小さな居酒屋に連れていってもらってそこで面白かったことを書きたいけど、朝のうちに作業しないとだ。今週もがんばりましょう。

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散歩 精神分析

日曜日

まだそんなに暑くない。昨日の夕方、少し外に出たらすごい風だった。オペラシティのあまり人が通らない通路に咲く花にカメラを向けたが花より風を写す感じになった。実のなる木は強風をものともせずどっしり。たくさんなっていたけどなんの実だろう。

Reading Freudで読んでいる『心理学草案』、ようやく夢の話に入ってきた。ニューロンの量とか動きの話にも慣れてはきたが、イメージが難しいので具体例が出てくるとありがたい。それにしてもあの緻密な思考は尋常ではない。当時、ヒステリーの患者たちから受けていたインパクトをどうにか科学的な言葉にしようとしたのだろう。時折出てくる図もとてもシンプルなものだがあれこれ言いながら見ていてると少しわかったような気にもなるから不思議だ。粘るべし。いずれ破棄される理論と分かっていても部分がその後重要な全体を成すことを知っているのだから。

はてさて、今週に限っていつも以上にPCに向かう時間がない。移動時間でうまい具合にいい感じのアイデアが浮かんでくれないだろうか。なんて考えている時点でダメな気がするが希望は大事。というかそれを願うしかない。

なにはともあれ6月最後の日曜日。二つあるカレンダーの一つはもうめくってしまった。7月のカレンダーは鹿さんがいる。いい一日になりますように。

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イベント 精神分析

暑い朝

早朝から日差しが強いなあ。この部屋は冬の晴れた日は暖房要らずだけど夏は恐ろしく暑くなるから普段よりもう一枚日よけを増やさないといけない。と今年もキッチンの小さな窓に布をかけたのに帰ってきたら落ちていた。養生テープじゃだめだっけ。いつもそうしていたと思うのだけど。この家に住んでそれなりに長いのに毎夏困っているとはなにごと。口に入るもの、肌に触れるものは全て冷蔵庫という原則とこの布などで日差しを防ぐ以外の対策を持っていない。もっと暑くて設備の整っていない国もたくさんあるわけだから私は環境に甘えすぎだよなあ、と毎年反省している気がする。とりあえずきゅうりで水分をとった。

開いたままのパソコンのキーをポンッと押すと作業中の画面が出てきた。開いて何もしないまま寝たという痕跡があった。確かに何かをした記憶がない。何か思い浮かんだ記憶はあるがそんなのはすでに記憶の彼方で本当に思い浮かんだのかすら怪しい。

Reading Freudの準備はちょこちょこしているが他の作業が進まない。今みんなで読んでいる『心理学草案』は人文書院の「フロイト著作集」では「科学的心理学草稿」。人文版はいまやKindleで読める。この論稿は精神分析の本より哲学の本で引用されている印象。私が出会うのは大体哲学の本。哲学は歴史を大切にするから起源には常に意識的なのかも?

あとちょこちょこやろうと思って全然進んでいないのは精神分析とアートについての議論。あれやこれやおしゃべりするにはものすごく楽しい領域だからそのノリで進めたいけど時間が足りない。

この前行ったパウル・クレーの展覧会はわりとシンプルな構成で同時代の画家たちとの関係もわかりやすかった。でももうちょっとあれもこれもみたかったな、という物足りなさはあった。クレーは解剖学にも詳しかったらしく、いかにも腑分け、私たちだったら部分対象、という言葉が浮かぶ絵からはいくつかのことを連想した。バラバラとただ置くこと、それと向き合うことは大事だと思う。無理にまとめず。

暑い季節は美術館とかなるべく屋内で過ごしたいものです。行くまでが辛いけど。あー、疲れやすい季節だけどがんばりましょうね。それぞれどうぞお大事に。

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散歩 読書

「原〜」とか。

窓を開けた。早朝のバイクの音。新聞配達の音とは限らない。一軒一軒止まるあの音とは違うし。あまり風がない気がする。昨日は降ったり止んだり変なお天気だった。夜、オフィスを出ると降っていなくて「よかった」と思ったのも束の間、すぐに傘をさすことになった。風が強かったのは昨日だったか一昨日だったかもっと前だったか。

毎朝、花や木の定点観察をしているつもりだが、昨日の状態を覚えていないから大雑把な観察しかできてない。それでも季節が着実に進むのを感じるし、何年も気づいていなかった場所に咲く花に気づいたりもする。

ゲーテは愛するシチリアのパレルモでこんなことを書いた。
かくもいろいろな、みずみずしい、新たなものとなった形姿をまのあたりにすると、「この一群のなかに《Urpflanze (原植物)》を発見できないだろうか?」といういつもの酔狂な考えが、またもや念頭に浮かんだ。そういうものがあるはずだ!もし も植物がみな一つの原型にならって形成されてゆくのでないとしたら、あれやこれやの形をとっているものが、どうして同じ植物だと分かるのだろう。

一七八七年四月十七日、火曜日、『イタリア紀行』の一節である。ゲーテがいう<原植物>は地層の断面も含むようなもので、植物だけでなく、動物にも<原動物>という原型を想定した。全ては(言い過ぎかも)そこからの変容であると。この『イタリア紀行』はフロイトのイタリア旅行を支えた書物だが、ゲーテはほとんど遁走のような形でイタリアに向かった。フロイトはこういう冒険はしない。きちんとしているし、怖がりなところもあるから。ゲーテのこの本は翻訳によって印象が異なると思うけど新しい方の訳はわりとテンションの高いゲーテを想像する。

原型の発見は魅力的だが、なぜ人は「原型」が好きなのだろう。「原〜」を想定しないとはじまらないということはあるだろうが別に想定しなくてもいいのではないか、と思うこともある。でもそれは時間的にという場合か。私が植物で季節以外のものを感じ取っていないせいかもしれない。発見する眼を私も持ちたいな。とりあえず熱中症に気をつけて無事に過ごすことから始めましょう。どうぞ良い一日を。

 

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お菓子 趣味

新府焼米、「あんぱん」

霧雨。一品作っておこうと冷蔵庫を探る。作りながら窓をあける。今日はまだそこまで暑くない。でも食中毒が怖い時期だからすぐに冷やせるようにいつのまにか大量になった凍らせた保冷剤で包み込むようにする。

今朝は山梨県韮崎のお土産、萩原製菓さんの新府焼米という和菓子。武田勝頼が築いた新府城が焼けたときに軍用米も焼けてしまい、のちにそれを拾って食べたというお話から。米はいつの時代も大事。食べ物は大事。

昨日の朝ドラ「あんぱん」もよかった。戦争が描かれることは本当に大事。大切な人たちと離れ離れになるのが当たり前かのような日々、父親の面影を探すのぶにとって次郎さんはそれだけではない魅力をもっていた。写真撮っておいてよかったね、ピンボケでも。戦争を怖がるのではなく、不安が現実になるのを恐れ、子どもたちに教えるという大義名分のもと、考えることを避けてきたのぶに無理に直面化することなく、立ち止まることを教えてくれた大切な人。嵩とは近すぎたゆえに意地を張り、戦争が始まってなお頑なになったのぶはその言葉を受け入れることができなかったし、嵩も次郎さんのようにはなれなかった。でも戦地を体験し、千尋くんや幼馴染を失った嵩は今回は先延ばしにせず、のぶに会いにいく。思えばこの二人はいつもお互いの危機のときにじっとそばにいた。のぶは元気がないときは人の話をじっと聞ける。嵩のペースでしっかり紡がれる言葉はひろし先生とお父さんから受け継がれたもの。幼い頃、父との関わりを絵に残してくれた嵩がのぶの心に蘇った時間だったと思う。よかった、戦争が終わって。よかった、また会えて。テレビを消して現実にまた戦争が近づいているような不安を感じるけれどやっぱり戦争はあってはいけない。

今週末は時間が取れないので平日のちょこちょこした時間に原稿を書かないとなのだけどまいった。臨床のことであればそんなに切替いらないのだけど。まあしかたない。やれる範囲でやりましょう。

今日はこれから暑くなるみたい。雨は止むのかな。体調に気をつけて過ごしましょうね。

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言葉 読書

谷川俊太郎詩集とか

カーテンをめくって窓を開けたら風に飛ばされたサンダルが見えた。飛ばされなかった方は乾いてて、飛ばされた方は雨に濡れている。また避難させておくのを忘れていた。

窓を閉めてちょうどよく身体にフィットする形になったクッション背にソファにドンと座った。昨日すごく痛かった青竹踏に足を載せる。以前、どこだったか足ツボの道があって痛くて歩けなかったことをこれをするたびに思い出す。

谷川俊太郎の『恋愛詩ベスト96 私の胸は小さすぎる』をパラパラした。『自選 谷川俊太郎詩集』は学術大会のときに友人にあげた。やっぱりシャープだな。「恋愛詩」といえど甘美さはなく、そんなときに書かれる詩はなおさら孤独なものだろう、という前提がある気がする。実際そうだという実感は、ある。

しまった、うとうとしてしまった。ソファに座ったがのまずかったな。

昨日、別の有名な詩人の詩を読んでいたことを思い出したけど誰のだったか。森鴎外とか有名な人たちが訳してる・・。どうして忘れてしまうのか。昨日も危うくイレギュラーな予定をすっ飛ばしそうになった。リマインドが来たからよかったけど。淡々と同じリズムで日常を過ごす余裕はいつ生まれるのか。

とりあえず今日も無事に過ごしましょう。

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未分類

メンテナンスとか。

暗い。今日は曇りなのかな。まだ梅雨だったか、とカーテンを開けたら薄いピンクと水色が混じり合っててすごくきれいだった。

久しぶりに筋トレしたら筋力が落ちていた。余裕がなかったからパワーダウンは当たり前だけど残念。つけるときは超地道、落ちるときは一気。それでもないよりはあったほうがいいし、基礎を見直すことで柔軟性より力技みたいになっていた部分を知れるからどっちにしてもメンテナンス大事。

自分の余裕を削ることで無理して受け身を維持していた案件。年寄りらしく一定の理解は示すが、やはり自分が無理をすることは避けたい。色々わりに合わないなと思うけどなんでも勉強と思うことにしよう、ということがこれからもっと増えるのかもしれない。つらいなあ。でも大丈夫。私には本がある。足も手も五感も使える。愚痴もいえる。分析は連日だから何か起きたらすぐに話せる。でも毎日のように会っているとそれはそれでというか、思い浮かべばエピソードとしては語るけど、それでぐちぐちいうことはしなくなるかも。もっとメタで考える。自分の受け取り方をたよりに。たとえばこんな感じ、と例を書こうと思ったけど時間がないからやめとこう。

今日は火曜日。がんばろう。

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Netflix

Netflix『ラリー・フリント』をみたり。

北側の窓がオレンジ色になった。でもすぐにグレーに溶けた。なんでだろう。この時期の日の出。どうなっているんだろう。今はうっすら水色に雲。始発前なのに空だけはもう一日を始めている。人間の場合、これからようやく眠るという人もいるのだろう。

起きたとき固まって動かなかった左手に強い痺れがきて元に戻った。痺れがくるうちはいい、と思うのは前に神経の麻痺で全く動かなくなったことがあるから。その状態への適応は早かったが不便だったことに変わりはない。なので動く身体であってほしい。

久しぶりに朝にコーヒーを淹れた。麦茶もまた作っておいた。筋トレも久しぶりにできそう。

昨日、時間ができたのでNetflixで『ラリー・フリント』を見た。ポルノ雑誌の出版、編集を手がけるラリー・フリントの活躍(?)と表現の自由をめぐる激しい法廷闘争を描いた映画。実話ベース。監督は『カッコーの巣の上で』のミロス・フォアマン監督。戦争とSEXを映像と共に比較する演説シーンは強力だった。そして何より主人公の妻を演じたコートニー・ラブが強烈で悲しかった。カート・コバーンのことも思い出しちゃうし切なかったな。主演のウディ・ハレルソンの器用さはもとより弁護士役のエドワード・ノートンも本当によかった。後半の法廷での語りもこの人の実直さあってこその名演説だった、というわけではないのか。実話ベースだから。実際にこんなに忍耐強く頭の回る弁護士がいたのだね。頭が回り、柔軟だから忍耐強くいられるのかもしれない。

なんて書いている場合ではない、と今ふと気づいた。どうしてこんなに焦ったり困ったりしているのにこんな呑気な時間が訪れてしまうのだろう。昨日、初回面接を検討するグループでも世代を超えて協力しあうような話し合いができたし、なんか楽しい気持ちになっていたせいかもね。今日からまた1週間、がんばりましょう。

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散歩 読書

セルフレジ、本の本

蒸し暑くない。遅くまで除湿運転していたせいかな。今日も風がないみたい、と思ったけど南側の大きな窓を開けたら外で涼しい風が動いていた。

昨日は保育士さんたちとケースカンファレンスだった。すごく長く続いている関係の園だけど保育士さんたちは知らない人がすごく増えた。それでも昔から知っている先生たちのおかげでなんか馴染みの人みたいになっているのがいつも面白い。あまりに大変だな、と思うことが多いけど無理せずやっていってほしい。

セルフレジ難しくて嫌い、と思いつつも最近はセルフレジばかり。そんなある日の馬喰町。NewDaysのキャッシュレス店舗というものを発見。交通系電子マネーをタッチして入店する仕組み。ちょうど入ろうとしていたカップルの大きい人の方が何度やっても開かないのをみてチャレンジする勇気がしぼんだが、もうひとりの人がやってみたらあっさりピッていって自動ドアがあいた。少し時間があったので地下道をトコトコトコトコ、馬喰町と浅草橋、この二つの駅はここでつながっていたのね、と戻ってきて再びさっきのNewDays。今度はドアの前に誰もいない無人キャッシュレス店舗へドキドキしながら近づく。ピッ。あっさり入れた。しかも涼しさ独り占め。その日は電車の中が寒すぎることもなくありがたかったけどひんやりしているところもやはりありがたい。セルフレジって盗難とかにはどう対応するのかな。いつも行くスーパーはセルフレジじゃないから気に入っていたのにセルフレジになってしまった。疲れてぼんやりしてスーパーに寄って、レジ袋を真ん中にかけてピッてしないで全商品を入れて帰ろうとしてしまったことがある。自分で気づいてもう一度カゴに出してピッてして袋に入れてをやり直しなんと二度手間、と悲しくなった。まあそれでもありがたいのはレジがそこそこの台数あるから急かされないということ。レジ袋を開けるのにいくら手間取っても私のペースでできる、とはいえ、間違って支払わないで持って帰ってきちゃったということは起こりそうな気がする。だいたいスーパーに行くときってバタバタか疲れ切ってるかの時間だからありうる。ほんと今日は危ないな、というときは有人レジに並べばいいか。なんか優先席に座るような感覚だけど、優先席だって座ってはいけないわけじゃないんだしね。そういえば、この前東京駅のNewDaysでセルフレジがすごい列で店員さんが「有人レジあいています!」って一生懸命声張り上げてくれてたのでそっちにいったら誰もいなくてこれはなんなんだ、となった。

この前、読んでいると書いた坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』、すごくよかった。図書館、釣堀、製本、活版、そして懐かしい本たちから立ち上げる世界とそれぞれが抱える思い、すれ違うようですれ違わない、くっつくようでくっつかない、表とか裏とか合わせ鏡。みんな違う色と太さの糸で何かを繋ぎ合わせながら生きている。そんなことを思う本だった。スクールカウンセラーもこうやって普通に登場するようになったんだねえ。私がスクールカウンセラーをやっていた頃はお部屋もなくて図書室の隣の倉庫みたいなお部屋を借りたことがあった。資料好きの私には薄暗いその部屋は幸せ空間で、お隣の図書室の司書さんと仲良くなり、私のところへくる子供たちともいろんな本を読んだ。子供の頃から本や図書室は大切な居場所だった。本が糸で閉じられていること、紙質というものがあることにも確かに驚いていた昔々。この本には大切な相手をなくした人もでてくる。まだ一緒にいた頃の思い出も今はもういない相手と紡ぐ日々も暖かい関わりの中で大切にされますように、やっぱりそういう世界がいいよ、と思った。

須賀敦子さんのことも思い出したから今日の通勤読書は『コルシア書店の仲間たち』にしよう。美しい日本語。美しい日本語を可能にするためにはまずは選挙か。『トリエステの坂道』もまた読もう、とか言っていないで原稿を作らねばなのか。困った。頑張ろう。せめて熱中症に気をつけよう。

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精神分析、本 読書

岡田温司『フロイトのイタリア』、エドアルド・ウェイス

蒸し暑くない。カーテンを開けた。窓も開けた。風はない。かりんとう饅頭をトースターで温めた。カリカリ。冷たい麦茶と。昨晩はひどく喉が乾いた。

岡田温司『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』は、フロイトがイタリアに強く憧れつつもなかなか近づけず少しずつしか距離を縮められない様子が生き生きと描かれている。フロイトが自らの強迫的なところをどうにもできずに困っている様子も面白い。すごくいい本。フロイトにこんな風に愛を向けている人をみると私は嬉しくなってしまう。

イタリアの精神分析家といえばBolognini(イタリア人として初めてIPA会長になった人), Bonaminio, Chianese, Civitarese, Ferroなどがウィニコットやビオンの仕事を受け継ぐ分析家として有名だけど、フロイトと直接関係していたり、その国の初期の精神分析を担った人というのはどの国でも大事。

イタリアの場合、精神分析の始まりはフロイトの分析を受けウィーン精神分析協会の会員になったEdoardo Weiss(1889-1970)と初代イタリア精神分析協会会長のMarco Levi- Bianchiniに位置付けていいと思う。この二人も日本の精神分析の祖である矢部八重吉と丸井清泰のようにフロイトの著作の翻訳権をめぐって一悶着起こしている。導入期は誰が彼を伝達するのか、という問題はありふれているのかもしれないが、イタリアの場合、フロイトに忠実だったウェイスが果たした役割の方が大きそうだ。

イタリアの精神分析の歴史や主な分析家の知見などはReading Italian Psychoanalysis Edited By Franco Borgogno, Alberto Luchetti, Luisa Marino Coe(2016)に詳しいのはわかっていてるのだけど高価なので、私は出版社ウェブサイトの情報からpepやIREDなどで深掘りしている。イタリア精神分析協会のウェブサイトも自動翻訳を使いつつ参照しているが、重たいのか表示が遅く上手に使えない。

岡田温司先生は『フロイトのイタリア』の最終章「イタリアのフロイト」でフロイトがイタリアへ踏み出す一歩となった町、トリエステのユダヤ人たちを取り上げている。そこには先述したイタリアで最初の精神分析家エドアルド・ウェイス(Edoardo Weiss)も登場する。ウェイスもまたユダヤ人だった。ポール・ローゼン(Paul Roazen)がウェイスの伝記を書いているのでウェイスのことを知りたい方はそちらをチェックしてほしいが、ウェイスとイタリアの精神分析受容に関しては岡田先生のこの章をチェックしてほしい。

私はイタリアに限らず、芸術や文化のことはすごく断片的にしか知らないが、この章を読んでこの時期のトリエステの精神分析サークルの豊かさにウキウキした。私でも知っている人がたくさん。トリエステってよく聞くよなぁ、と思っていたのだけど須賀敦子で身近だったのか、とこの本で気づいた。

須賀敦子が翻訳したり引用したりしたイタリアの詩人、ウンベルト・サバも1920年代にウェイスの分析を受けていたそうだ。へー。須賀敦子が訳したサバの詩集も読みたい。

先日、坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』を読んでいる(すごくいい)と書いたが、そのときに思い出していた『コルシア書店の仲間たち』も須賀敦子。本つながりで響き合っていたわけではなく、トリエステと須賀敦子が響き合っていたのか。

さて、エドアルド・ウェイスはイタリア精神分析の祖ではあるが、イタリアにずっとはいられなかった。1931年、ファシスト党への入党を拒否してローマへ、1938年、人種法布告。翌年1939年、ウェイスは家族と共にシカゴに渡り、そこで死んだ。アメリカではポール・フェダーンの論文の編集など自我心理学の領域で重要な役割を果たしている。ちなみ日本でhttps://www.koubundou.co.jp/book/b156627.html、でいいのかな。

ウェイス編集のフェダーンの本はこちら。

FedernP. (1952). Ego psychology and the psychoses. (EWeiss ed.) New York: Basic Books. German edition, 1956Italian edition1976

IREDには「Edoardo Weiss (1925)と Marjorie Brierley (1944)により「投影同一化」という用語は以前より使用されていたが、その概念を定式したこと、そして 対象への侵入する万能的な空想に対応させたのは、Melanie Klein の貢献とされている。」ともあった。

とにかくもかくにもイタリア精神分析はその後も豊かな発展を遂げています、ムッシューじゃなくてシニョーレ?もう戦争はいやだ。精神分析は戦争のおかげで発展してきたわけじゃない。戦争のせいで多くの患者も分析家も死んだ。生きてこそなのに。いろんな国の攻撃が今すぐ止みますように。

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哲学 精神分析

とうもろこしを茹でたり。

カーテンは開けない。エアコンって素晴らしい。喉にこなければもっと素晴らしいかも。洗濯をしてとうもろこしを茹でる。キウイも食べる。この1週間も身体の学びが多かった。何を知ったというよりどんなに調べてもわからないものはわからないとか、それでも予防というのは大事だとか、適切な対応というのはこういうものなんだなとか、日々の学びを特に身体を通じて学んだということ。

この前『ベルクソン思想の現在』をKindleで読んでいたのだけど第3章「創造的進化」藤田尚志×米田翼(司会:平井靖史)のところがやっぱりいい。分析哲学でいう「傾向性」(disposition)の勉強、私もしたい。米田翼さんの解説を読むと、これはウィニコットが考えるポテンシャビリティと近いように思う。ヴェターという人は「潜在性potentiality」としてそれを「個体がもつ「〜できる」という能力を端的に示す性質、いわば個体に局在的な可能性」定義しているという。私は植物が持つこういう傾向をASDの特徴の一つとして発表したことがあるのでそれを深めたいなと思ったのだよ。

とうもろこし茹で上がった。鮮やかな黄色。杉戸の「すきすきすぎーと」美味しい。クリームチーズ。

今日もいいことありますように。

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お菓子 イベント 精神分析 読書

森鴎外、フロイト、坂本葵の本

少し蒸し暑い。窓を開けた。風がない。除湿運転をはじめる。このエアコン、手をかざすとメニューが表示されるリモコンなんだけど電池がすぐなくなるので不便。昔ながらの方はリモコンの電池も全然なくならないし、機能は少ないかもしれないけど全部見えている分、使いこなせている気がする。まあ、壊れたから新しいのにするしかなかったんだけど。これも私もあと20年くらいもってほしいな。

今朝は埼玉県杉戸町の銘菓「日光古街道」緑茶味と冷たい麦茶とキウイ。キウイ、すごく美味しくなってる。嬉しい。

先日、森鴎外の記念館に行った。千駄木の坂の途中にある。ぎっくり腰みたいな脚から腰にかけての痛みが強くてちょこちょこすり足しながら歩いていたら同じような歩き方のご老人とすれ違った。ぎっくり腰のときも軽いうちは少しでも動かしておかないとどんどん固まっていく感じがあるから痛いのを克服した気分になるためにもちょうど沿線にいたので寄ってみた。常設展は大体知ってるけど何度見ても面白い。正岡子規や高浜虚子はお手紙にもきちんと俳句を書いている。特別展は「本を捧ぐ―鴎外と献呈本」。鴎外に贈られた本32冊と鴎外が贈った本10冊とそれにまつわるエピソード。呉秀三からの本もあった。こういうのはそれぞれの字体とか紙の使い方を見るのも楽しい。

7月のフォーラムのための討論は原稿を全部いただいてから書きたいけど待っている時間がないから個別の反応みたいな感じになってしまうと思う。一応「死の欲動」を巡ったものになるのかなあ。わからないな。

さて、それよりずっと以前、私のReading Freudで読んでいる「心理学草案」(=「科学的心理学草稿」)のこと。改めて読むとなんだか曖昧に使っていた「力動的」「局所論的」「経済論的」とは、ということがみえてくる。

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。»p5(388)

「心理学草案」におけるフロイトのこの狙いは達成されなかったけどフロイトはずっと科学的であろうとしたり、生物学を捨てることもしなかった。欲動という概念はこういうことを考えるときに生きてくる。神経症だって身体と情緒の間をいくものだろう。「心理学草案」を読むことでフロイトがしようとしてきたことを俯瞰で捉えることができるかもよ、ということで今月もがんばりましょう。

フロイトは『フロイト全集6』の「性理論三篇」(1905)でWisstrieb、つまり知識と探求への欲動を示した、というメモを見つけたけどこれも欲動のことを考えていたときのかな。Wisstrieb、アブラハムを経由してクラインがそれを受け継いだが、クライン派の乳児は性的な空想に苦しんではおらず、攻撃性と共に知りたがっている印象がある。そこには母の去勢、母の死、というテーマがある。だからあとが大変というか、ウィニコットで有名なgood-enough motherはクライン派の中では乳房の修復欲動によってようやくその輪郭を現す、というイメージを私は持っている。最早期の格闘とモーニングワークともいえるか。辛い。というか、私はなんでこんなことを書いているのか。もっと目的を持った作業をしないと原稿が書けない。

そして通勤本は坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』。これも本の話。こういうのはいいよねえ、という場合の「こういうの」を言語化できないけどする必要もない。言語化、可視化にはなんとなく逆らっていきたいかもしれない。特に理由はないが。

暑いなあ。熱中症に本当に気をつけましょうね。

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精神分析

夏本番、支え

カーテンも窓も開けたくない。別の部屋に行きたくない。除湿運転でちょうどよくひんやりしたここにいたい。と何度もベッドに戻りたくなる。いよいよ夏本番。一応まだ梅雨なんだろうけど昨日もとても暑かった。

が、昨日はポッカリあいた時間を使って弾丸プチトリップを敢行。身体が動くうちにやっておきたい、そして夏休み前だけどリフレッシュ必要ということで東京と距離をとった。1時間あればかなり別の環境に行ける。

知らない人の隣に座ってなんとなくその人が反応した方向をみたらびっくりするような景色があったり、自分の目より人の目を借りた方が世界は広く感じる。この前、久しぶりに若い頃からの付き合いの先輩たちと話をしていてその先輩たちにもその職場の人にもいろんなことを分け合ってもらったなと思った。当時の俺らの仕事のやり方はどうなんだ、という部分はあるが、当時本当に大変だったことや人に対して今は別の見方ができるのも彼らのおかげ。

そういう彼らが学術大会で「すごく久しぶりに精神分析の人の話を聞いたけど昔より身近になってる気がした」といってくれた。私みたいのがいるくらいだから以前の高学歴、高知能男性(という言い方をしている人は結構いた)ばかりの集団ではないし、なにより実践が一定の水準でなされていることが臨床家である彼らにいい印象を与えたらしい。以前はすごく賢い人たちが失敗する事例を出すのが精神分析という印象だったという話も聞いた。多分理論と結びつけた説明が届かない場合に精神分析では必然的に生じる「失敗」が何か自分たちの臨床感覚と全然違うという感じをもたらしたのだろうと思う。私たちがもっといろんな言葉を使っていかなければならないのだろう。

日本では精神分析という言葉は「的」をつければかなり広い意味になるが精神分析を実践している人は協会の人や海外で精神分析のトレーニングを受けてきた人だけだと思う。別の友人たちにも「そういえば実践なき議論を続けてきたから実践している人の話は大事だよね」と言ってもらえたのも嬉しかった。精神分析は高いが、そこまでの投資を自分に対して必要と感じた人は自分から希望する場合もあるし、こちらからの提案でその存在に委ねてみようと決心したりする。精神分析の知見はそれこそ日常生活で生かせるものだし、今も実際に生き残っている実践であることを広めて行けたらいいなと思う。なのでこうしていろんな会話で労ったり励ましたりしてくれる友人たちの存在がとてもありがたい。今日もそういうみんなの支えを還元すべく色々がんばろう。

熱中症にお気をつけてお過ごしください。水分水分。休息休息。

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麦茶、紫陽花、クレー

今朝も風がない。どの向きの窓を開けても風が入ってこない。冷たい麦茶を飲む。今年も麦茶を作り始めた。少し前にそろそろかなと思って作ってみたらそれほど消費しなかったからやめてたけどここまで暑くなると需要も増えるだろう。昨日、ごくごく飲んだつもりのペットボトルの水が半分しか減っていなくて自分でびっくりしているのだけど。水分を取るのが下手なせいでいつもどこか不調なのかも。

近所の紫陽花がまだまだきれい。新宿中央公園の大きな紫陽花はだいぶ茶色くなってさらにマダラになってきた、と思ったのだけどあの茶色って別の葉っぱが落ちているのではないかな。紫陽花って立ち枯れることはあるけど葉っぱ自体がポロポロ枯れて落ちることはないだろうから。葉っぱじゃなくて花、あ、花でもないか。装飾花の方。ガクのこと。近所にしても公園にしても私が日々出会う紫陽花は木の下で直射日光にさらされている時間は少ないから茶色に錆びちゃうみたいにはならないけど、ここ数年の尋常じゃない暑さで株の体力も衰えるのではないかしら。自分の体力がどんどん衰えていくから投影しているだけかもしれないけれど。

今度、精神分析がらみでパウル・クレーの話をするので『クレーの日記』をどこに置いたっけと探していた。あの黒い表紙の。と思ったらあれって息子のフェリックスが編集したものだからということでできるだけ元のままの新版が出てた。知らなかった。クレーとカンディンスキーは多分親が好きだったのだろう。実家にあった大きめのカード(というのかわからないけど)を持ってきていて開業したときにオフィスに飾っていた。でも端っこがよれちゃったので今はクリアーファイルに入れている。谷川俊太郎の『クレーの絵本』『クレーの天使』も持っている。クレーはフロイトの20年後くらいに生まれて同じくらいに死んだ人。スイスで生まれたドイツ人でスイス国籍は死んでから認められたんだっけ。忘れてしまった。大抵のことは忘れられていく・・・。

しかし朝から蒸し暑い。バナナを凍らせているからスムージーでも作るか。混ぜるだけだし。熱中症に気をつけて過ごしましょう。

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精神分析 読書

「ほどく」

蒸し暑い。喉が乾いて何度も起きてしまった。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して手元に置いたらひんやりして少し眠れた。冷房、除湿の使い方も人それぞれでこの時期そんな話も多くなり興味深い。今は鳥たちが元気。

河出書房新社のWebサイトでカミラ・グルドーヴァ『人形のアルファベット』(上田麻由子訳) 冒頭作の「ほどく」が無料公開されていたので読んだ。季節感ゼロの文章がドライさとほのかな不気味さを漂わせている。こういうとき「ほどく」のはやっぱり女だよな、と思う。ほどくものがたくさんあるから。衣装を脱ぐのとは別次元の「ほどく」。世の中には近しい人と臨床の場でしか語り合えないことがたくさんあってそういうことはSNSにはほぼ書かれていない。書くはずがない。どうなるかわかっているから。わかったようなこと書いてただの意地悪じゃん、人のプライベートに踏み込んでるだけじゃん、なんでいつも自分は正しい立場なわけ、と思うことがたくさんあるので私の頭の中では「関わらない技術」という本が書かれている。もちろん学術的な議論以外では外に出さない。ナルシシズムを肥大させているのは本人とは限らない、というより本人ではない。痛みなくほどくことができるならどんどんほどいていけたらいいのかもしれない、とかも大きなお世話なのだろう。ほどくたびにどこか痛んでいるという想定は痛みを体験できる身体あってこそ、というより、など今日もぐるぐる。

いいことありますように。

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俳句 精神分析

NHK俳句、精神分析とアート

NHK俳句は第26回NHK全国俳句大会のことをやっていた。時間めいいっぱい使っていた。作者のコメントや俳人たちのコメントになんだか泣けてしまう。普通のことにじんわりくるのが俳句の良さだよねえ。とかいって今夜締め切りの俳句が一句もできていない。仕事の行き帰りを吟行とすべし。

明け方まですごい風だったが今は静か。あれはなんだったんだろう。

7月に精神分析的心理療法フォーラムというところで精神分析とアートについて話す機会をいただいた、というより私は討論なので先生方のお話を伺って何かいう役割。大学時代から学際領域が好きで児童文化学科という子供の文学、文化、発達心理学、発達臨床全部を学べるぴったりの場所にいたし、今も他領域に手を伸ばしながら精神分析を考えるというか、精神分析ってそもそもいろんな学問あってこそだと思うからこういうイベントに呼んでもらえたのは嬉しい。私にとっては確実に勉強になるだろうけど何か有意義なフィードバックができるかどうか心配。原稿をいただいてからの時間もあまりないけどできることをやろう。

基本は臨床のことしか考えていないから別のところで頭を使うときの語彙の少なさに自分でびっくりしてしまう。臨床の言葉は語彙というのとはまた違って相手との間で紡がれる。お互い「え、なんで今この言葉使ったんだろう」と狼狽えるような瞬間もたくさん生まれる。そういうところは精神分析ならではなのかもしれないけど、取り決めのある安定した場所だからこそ生じるということであれば多くの心理療法に当てはまるだろうからそういう言葉の生まれる場所を大事にしていく学問であったらいいなと思う。

どうかいい俳句が生まれますように。良い日曜日でありますように。

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舞台

本谷有希子ポッドキャストなど

明るくなるのが本当に早い。さっきまで大丈夫だったのにちょっとひんやり。肩だけ羽織る。すぐに温まる。

本谷有希子のポッドキャストを聴いた。声もいいし明るくハキハキしてて面白かった。本谷の舞台を最初に見たのはいつだろう。『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』から見ているかもしれない。すっごく面白かった。吉本菜穂子さんが出るようになってからも何作か見たかな。吉本さん大好きだったけど今は何に出ているのだろう。私が舞台をみる時間がなくなってしまったから最近の演劇情報が全然わからない。また舞台が見たい。

睡眠をきちんととろうといっぱい寝ているが何度も起きてしまうので結局疲れる。短時間でもきちんと寝る方が私にはいい。身体の調子も日々変わるしとりあえずルーティンをこなせているかどうかが目安。と書いていると今度は眠気がくる。少しうとうと。調子が悪いときは自分の身体がどうなっているのか細かく知りたいくなるが、そういう気力があればのお話。体力は多分残っているのだけどどっかだるかったり痛かったりすると本当にやる気失くすでしょう。こんな小さな臓器の痛みに私全体がこんなに奪われている、みたいな不思議を探求する気力なんて出てくるはずもなく。痛いところが具体的になくても同じ。気持ちが何かにとらわれてどうしようもないときに身体の動きまでいつもと変わったり動き方のリズムやスピードが変わったりする。いつも通りでいられることがどれだけ幸運かと思う。わたしたちはコントロールできない心身を自分だと思っている。不思議だ。

今日も動かねばな。がんばろう。

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読書

金曜日

曇っている。なんとなくドイツのニュースを見ていた。ドイツは保護者同伴なら14歳からお酒が飲めるらしいがその法律を変える方向らしい、とか。そうだ、ドイツに関連した小説を読もうと思っていたのになんの本だか忘れてしまった。

パソコンで動画が普通のスピードで再生されなくなってしまった。そんなにみるわけではないからいいけどzoomとか大丈夫なのだろうか。

いろんな変化に慣れてきたかと思いきや改めて対応に追われることも多く結局毎回一からみたいになっている。でも考え方が明らかに異なる人に対する対応は少し定まったきたかな。と思ってもいざ対応するとなったら一からだろうけど。

たとえばニーズを勝手にあることにして権威によって病理化しているのをみたりするとうわあとなる。立場の弱い人をそっと支えるという考え方がない。依存と搾取に関して対話ができる人とできない人がでいるので坂口ふみさんを読んでほしい。媒介は常に必要。

ルーティンだけはこなせるようにがんばりましょう。

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精神分析

坂口ふみ著『<個>の誕生 キリスト教教理をつくった人びと』

すっきり晴れている。が、梅雨。このまま1日とはいかなそう?朝はこういう文字もとてもみにくい。さっきよりはマシだけど。老眼鏡をかけてもピントが合うのにすっかり時間がかかるようになってしまった。遠くの方は相変わらずよく見えるのに。

昨日は途中で放っておいてしまった坂口ふみ著『<個>の誕生 キリスト教教理をつくった人びと』(岩波現代文庫)を持ち歩いていた。序章「カテゴリー」はジェンダーによる差別と役割意識を問題とする人全員に読んでほしい。

坂口ふみさんは、私の指導教官だった柏木恵子先生と同世代で、もしかしたら同じ時期に東大にいたのではないか。柏木先生からお聞きしていた話と重なるのでなおさら胸が痛む。柏木先生のご自宅に伺ったとき、海外にいくと気に入ったカップを1客買ってくるのが習慣、というようなことをおっしゃり、そのコレクションを見せてくださった。食器棚もとても素敵だった。ペアではないのが先生らしいと思った。

先週末の日本精神分析協会の学術大会で私は「カテゴライズ」という言葉を多く使った。自分の書いたものには一回しか出てこないのにパネルの議論の際に何度か使った。概念や理論とはなにかという議論でもあり、とても大事なことが話題になったのがよかったと思った。坂口ふみさんの本はキリスト教のインパクトが身近ではない私たちに哲学を通じてそれを伝えてくれる。

2026年10月に日本学術会議を特殊法人に移行させるための学術会議法人化法が成立した。名だたる学者たちの反対を押し切っての成立という時点で学問の声を聞く耳を持つ気のない政府のもとでわたしたちは生活を営んでいる。現行法の「平和的復興、人類社会の福祉に貢献する」という前文や「独立して職務を行う」という文言は消えたという。坂口ふみさんにこの本を書かせた友人アンナさんの死という出来事。アンナさんのような方をさらに失望させるような出来事が日々起きている。その場で生き残ってしまった、あるいは生き残ろうとしている人たちがギリギリ無力感に苛まれるのを防いでいる理由がこういう戦いだとしたらそれはやはり学問と密接に関連したこころの危機であることに変わりない。本書にある「隣人」の意味での「隣人になる」ことを志していきたいと思う。

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精神分析

フロイト「ミケランジェロのモーセ像」

薄暗い。薄着だと寒いけど普通に着てしまうと暑い。湿度の管理が難しいのかな。東京も梅雨入り。沖縄の梅雨はもう明けたらしい。心身ともに低め安定でいきたい、というか低めでもいいから安定していてほしい。

昨日は、久しぶりにフロイトの『ミケランジェロのモーセ像』を読んだ。岩波の『フロイト全集13』に入っている。そんなに長い論文ではない。フロイトが詩や彫刻には感銘を受けるのに音楽はつまらないと感じるというところから始まり、フロイトが強くミケランジェロのモーセ像にひかれ、その謎解きに取り組んでいく様子は面白い。芸術家ではなく作品を解釈するフロイトはやや自信がなかったようで、この論文は最初オットー・ランクらが編集を務める「イマーゴ」に匿名で発表された。その方法がこの論文に対する注目度にどう影響したかはわからないが、その後、フロイト先生の論文として主に精神分析の外側から様々な議論がなされてきたのだからよかったというかさすがというか。この論文はフロイトのあれやこれやが辿りやすくて読みやすい。幅広い資料の引用と丁寧な謎解き。どんな時間の使い方してるんだろう、ってフロイトの時間の使い方はだいたい世に出ているわけだけど情報処理のスピードが尋常じゃないと思う。モーセ像見にいってみたいな。

あとジョルジュ・ヴァザーリの『芸術家列伝」を読んでいたのだけど、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロもすごいが、ヴァザーリ何者、という感じがすごくしている。彼自身は自分のことを歴史家でも文筆家でもないと述べていたらしい。画家であると。それはそうに違いないのだろうけど、同じ画家としてレオナルドとかミケランジェロのことを書くのってすごく大変そう。ヴァザーリはレオナルドの推しだったんだな、と読みはじめてすぐに思うが、割かれているページは友人であるミケランジェロの方がずっと多い。現代にいる私からはちょっと変わったテンションの本に思えるのだけど長い間、イタリアルネサンス美術に関する最重要資料だったわけだから資料として読む目を養わないといけない。

25年前にツアーで行こうとしたら人数が足りず行けなかったイタリア。行きたいなと思いながらどんどん月日は過ぎた。オリーブオイルもそんなに使わなくなった。今の世界じゃ芸術作品だっていつ壊されてしまうかわからないから早く行った方がいいんだろうな。モーセと同じポーズをとってフロイトの考えたことを考えたい。写真だとわからないから。

雨雨雨の毎日になるのかな。のんびりいきましょう。

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精神分析

RACHEL’S『MUSIC FOR EGON SCHIELE』、ウィニコット「鏡ー役割」、エゴン・シーレ、ルイス・ブニュエル

薄暗いままの部屋で起きた。窓を開けたらまだ雨。昨晩は傘をさしたけどささなくてもそんなに濡れないような雨だった。

今朝はRACHEL’Sの『MUSIC FOR EGON SCHIELE』を聴いている。画家エゴン・シーレ(Egon Schiele)を描いた舞台(1995)のための作品。リリースは1996年、先月30周年記念盤が発売。ピアノとヴィオラとチェロの編成。雨の日にぴったり。

先週末、日本精神分析協会学術大会でナルシシズムに関する論考を発表するのにウィニコットの「鏡ー役割」を少し取り上げた。『遊ぶことと現実』の第9章「子どもの発達における母親と家族の鏡ー役割」でウィニコットは、まずは「私が述べるのは視力のある幼児に関してだけである」と述べるところからはじめている。精神分析が外に開かれるためにも有用な理論ではないかと私は思っている。この章でウィニコットは「今日、顔と自己について議論するなら、どうしてもそこに彼が入ってきてしまう」として画家の方のフランシス・ベーコンを取り上げている。

一方、私が思い浮かべていたのはエゴン・シーレが描く顔であり母子であった。なのでRACHEL’Sを聴いているわけだ。

エゴン・シーレの絵は乾いているのにとても悲しい感じもするし、できるだけ奥行きを小さく閉じ込めるような絵もあるし、常に目線が合わない感じがする。地道に考えて来年のJPSジャーナルのエッセイにでも書けたらいいな。

昨日、ザ・ブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」を歌っていたらなんでと聞かれ、そこからの思い出話で真島昌利の「アンダルシアに憧れて」の話になり、アンダルシアの話になり、『アンダルシアの犬』(1929)の話になった。向こうはルイス・ブニュエルとダリによるこの短編を知らなかったが、冒頭のシーンを思うだけでキャーキャー以外のことを言えない私に説明などできるはずもなく、動画を検索していた。あの映画の断片的な映像が本当はどう映されているか、そのときのBGMはあったか、なかったか、など考える余裕もなかったし、考えようとするとキャーとなってしまい先に進めない。それが狙いだったのかな。だとしたらそこに留まらずに進む必要があるということなのかな。大変だ。

ルイス・ブニュエルが誕生したのは1900年2月22日のパリ。フロイトの『夢解釈』が出版された年。エゴン・シーレは1890年、オーストリア生まれ。スペイン風邪で亡くなったのは28歳。その短い生涯で残したもののインパクトの強さときたら。私は一時期ブリュエルのあれこれに触れていたけどもうすごく遠い感じ。勇気がなくなったのかも。エゴン・シーレには精神分析家として勇気を持って関われたらいいな。ウィニコットがイメージする眼差しに近づきたい。

静かな朝。どうぞよい一日を。

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精神分析

時代

しっかり寝た気がするが外の光の移り変わりを見ながらウトウトしてる間に見た夢に虫が出てきたのが嫌だった。ややコミカルであったが。と書きながらその前に見ていた夢を一瞬思い出したがどこかへ消えてしまった。今朝は少し涼しい。

それにしても朝は目が見えない。週末、いろんな友人と老眼の話をした。付き合いが長いとお互い目がよかったこととか元々悪かったこととか色々知っているし老いのあれこれを実感を持って語ることが増えるのか。若い頃には知らなかったな。いつもお世話になってきた先生に講演会で思い出話をしたといったら「そういう年齢に」と言われ、まさに私が言いたかったのはそこなので笑った。こんななのに思い出話するようになっちゃったよ、と少しおかしい。東畑さんとか私から見たら若い心理士たちのいっていることとかに触れたときに世代差を実感した。「先生の時代は」とか言われることも増えた。「はいすくーる落書」の話が通じた同世代は THE BLUE HEARTSのTRAIN-TRAINがそこから出てきたのを知っているかどうかだよな、みたいなことを言っていて面白かった。その頃の尾崎豊について同世代と少し下の世代の実感が異なるのも興味深かった。私は尾崎が死んだ日のニュースを寮で同じ歳の子たちと見たのでその日の異様な雰囲気を覚えている。泣いている子たちもいた。週末の講演のためのメモは私が影響を受けてきたというよりは通り抜けてきたテレビや本のことが多かったがそれらはほとんど使わなかった。薬物の観点からも時代の話はできる。歴史というのは面白いのだ、なんて実感もここ10年くらいの間に生まれた。老いると自分語りが増えるのは仕方ないことなんだな。そうそう、週末、学術大会ですごく久しぶりに揃った昔の職場の先輩たちと当時、嘱託でいらしていた元管理職の教職のみなさんがいかに体力があったかということも話した。私たちはまだその先生たちの年齢においつていないけど、すでにあんな元気はないことは確定している。

週末は平井靖史さんのベルクソン理解を早く読み直したいな、ということを何度か思った。時間のことをあれこれ考えたからだろう。今朝の夢のことも考えたい。が、6月いっぱいの締切も一つ思い出した。ぼんやりしているうちにすぐ月末になるだろうから忘れないようにしたい(当たり前だが)。

こういう時間に読もう。どうぞ良い1日をお過ごしください。

☆日本精神分析協会学術大会にご参加くださった皆様、どうもありがとうございました。来年まで元気に過ごしてまた精神分析のことをお話ししましょう。☆

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心づくり、出会い

窓を開けると鳥の声。昨日は暑かった。夜は気持ちよかった。もうこのまま暑い日が続くのかな。昨晩、洋服ダンスの薄いニット類を眺めながら、梅雨になると気温がさがるはずと思っていたけどそんなことないんだっけ、と少し心配になった。暑すぎるでしょう、ここ数年。ちょうどいい気温の日が少ないと着ない服が増える。

今朝は兵庫の友人にもらったMLESNA TEAの白桃アールグレイ。あと講演のときにもらったNOAKEのボンボンキャラメルのブーケから一本。美味しい。華やかなセット。

なんかいやだな、と強く思うことがあったときの気持ちのおさめ方は特にないけど見た目も味もいいものをいただく、というのはひとつ。相手への信頼度が減るのは残念なことだよね。でもまあ、みんないろんな考え方があって味方づくりに勤しんでいるのだろうからそういうやり方は対症療法に過ぎないじゃん、というよりそういう心性が結局反復作り出してんじゃん、と思ったとしても自分のやるべきことを邪魔されない心づくりを心がけよう。子どもが欲しいものが手に入ったときの喜びや好きなことをやっているときの集中力を取り戻そう。多分、かつて、私にもあった。

なんか鳥の鳴き方が激しい。鳴き声を調べようと苦手なyoutubeを開く。YouTubeからの鳥の声でさっき聞いた鳥の声が記憶の中でかき消され参照失敗。短期記憶どれだけ悪いのか。

この前、講演の内容を考えているときに、今って、求めても隠蔽されたりするのに求めてもいない情報は次々入ってきたり、「ブロック」とかいってタップ一回で対人関係を切れると思いこんでたりするから、いや、そういう人もいるから大変だな、と思った。

講演では、日本での日本人の出生数が70万人を割ったとニュースを取り上げ、いまだかつて一度もメジャーになったことがなく、これからも日本ではメジャーになることはないであろう精神分析が草の根的に雇用を広げていくためには、という話からはじめた。この場合、まず雇用されるということが大事になる。私みたいに個人で開業している人は委託されることが大事になる。協力したいのは地方であり、特に若い世代に雇用を作り出して、人とのつながりがもたらす明るい可能性を見出せるような心づくりに寄与できたらいい。なので期間限定の精神分析を無料で受けられる助成金を出してもらう。そうしてもらえるようなゆとりある自治体はあるだろうか。

第二次ベビーブームの年にうまれた209万人のなかのひとり、いわゆる団塊ジュニア世代の私が体験した小学校、中学校の文化についても話した。経済成長を背景とした進学率の急激な上昇、デジタルおもちゃの参入(私の場合、東京の転校生から)、時代のスピードは速くなった。私はそれに逆らうようにひたすら眠り、覚醒するために詩を書いていた。今朝も体調管理のためにゆっくりしようと思っている。私は急かされてもついていけないし、急ぐと転んで怪我をしてさらに視野が狭くなる。自然と戯れアナログおもちゃで遊ぶ時代の子供なのだ。ルービックキューブだって時間をかけてやればいいのだ。ということで二度寝する予定。

1915年生まれの詩人、石原吉郎のメモも紹介した。

詩を書きたいと思うとき、詩によって自分を救おうと思うとき。それは自分がなんらかの意味で壁につきあたっている時、自分自身を疎外しているとき、危機に脅かされているとき、不安を感じているとき、絶望を感じているときである。p245

バブル崩壊後の就職氷河期世代であることなど、やはり経済状況との関連が第三次ベビーブームが起きなかった原因としてあげられる。当時は対症療法的な子育て施策さえなく、今よりもさらに子供を産むべきという圧力が強い時代だった。子どもの未来に対する不安は親になる不安と重なっている。女の身体にはリミットがある、ということに対して医療の進歩で応えるのも女一人の人生を考えてみた場合、適切だろうか。夫婦別姓さえ受け入れないこの国で個人である自分を保ちつつ、誰かのパートナーになったり親になったりすることはたやすいか?

半分大人、半分子供の維持。そんな姿勢への変化も話した。学校は子供から大人へのベクトルを持つが、それに対する精一杯の反抗をある程度安全にできる場所だった。窓ガラスを割ったり爆竹鳴らしたり、校内をバイクで走ったりする破壊行為に持ち堪えてくれる場所だった、のか?校内暴力全盛期に小中学生だった私たちの体験は今の社会のどんな特徴となっているのだろうか。

とかいうことを色々考えながら話せたのはよかった。

異質なもの、外在性との出会い方、の話だ、どれもこれも。今日も大まかにいえばそういうことについて話す予定。

This transformation of unity into ‘three-ness’ coincides with the transformation of the mother-infant unit into mother, infant and observer of mother-and-infant as three distinct entities. 

これはオグデンの本の一節だけどどの本だかメモしておくのを忘れてしまった。

ウィニコットのこれもいい。

From now on the subject says: ‘Hullo object!’ ‘I destroyed you.’ ‘I love you.’ ‘You have value for me because of your survival of my destruction of you.’ ‘While I am loving you I am all the time destroying you in (unconscious) fantasy.’

–The Use of an Object and Relating Through Identications Donald W. Winnicott

「歴史は過去とは違う」by オグデン。これも基礎的な認識として大事。

History is a creation reflecting our conscious and unconscious memory of, our personal and collective rendering of, our distortions of, our interpretations of, the past. –Ogden, T.H. Matrix of the Mind

今日ものんびりがんばろう。どうぞ良い一日を。

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少しずつ

くもり?空の色が薄い。昨日もらったパンがおいしい、と思ったけど胃が痛い。無理せずいきたい。

講演の原稿は結局直前に書き上げたがやたら短くなってしまった。なので別で書いていた原稿も付け加えた。特にこれを言いたいというのがあるわけではないから思いつくままに書いたが、自分が第二次ベビーブーム世代の子供であり、校内暴力全盛期の時代に思春期を過ごしており、など時代背景を伴う話にできたことはよかったのではないかと思う。同世代も多いし。

そこで谷川俊太郎の「生長」という詩を二篇朗読した。同じ題名の詩は多分これだけではない。あれだけ長い期間、あれだけの数の詩を書いていれば当然だろう、としても同じ題名の詩ってどのくらいあるのだろう。

とにかくひとつ終えて安心。みんなといろんなお話ができたのも楽しかった。語らいの相手も場も広げていきたい。少しずつ少しずつ。

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ハンバーグ、紫陽花、朝ドラ

夏の日の出は面白い。オレンジになったりグレーになったり光の吸い込まれ方が春とは違う気がする。季節外れのリンゴは今日も季節外れらしい味がする。少し歯が痛い。多分歯軋りのせい。自分では気付いていないけど歯医者さんにいつも言われる。

昨日は久しぶりにハンバーグを食べた。昔、誰だったか身近な人がハンバーグを好きじゃないといっていてなんかわかる気がすると思ったことを思い出すけどどんな会話だったか覚えていない。私は好きでも嫌いでもないけどメニューにあると惹かれる。お肉自体がすごく美味しいハンバーグとソースが美味しいハンバーグがある。私はひき肉とか使うならキーマカレーとか作る。子供はカレーとかハンバーグが好きっていうけど私はハンバーグの思い出はそんなにない。カレーは好きだった。当時はいろんな国のカレーがなくて日本の素朴なカレーしかなかった。ハウスバーモントカレーが1963年。うちはなんのルーを使っていたのだろう。ハウス名作劇場は見ていた。

結局原稿が書けていない。今回も当日。朝のこの時間が一番まとまった時間だから今やればいいのだろうけどお菓子食べたりお茶飲んだりぼんやりする時間も好き。

新宿中央公園のアジサイロードへ行ったが晴れの日でも少しおとなしかった。亀のいる滝と西新宿の高層ビルが見渡せるベンチのそばにはゴージャスな青い紫陽花がたくさん。紫陽花に埋もれるようにしてベンチに寝そべっている人がいた。多分あの人雨の日にレインコート着てベンチに座っていた唯一の人だ。定位置ってあるよね、と思いながらそこの紫陽花は写真を撮らず静かに通り過ぎた。

朝ドラで若者たちがどんどん戦争にとられていく。国防婦人会の民江さんを演じる大人計画の池津祥子がうまい。のぶちゃんの引き裂かれそうだったりなんとか留まろうとする心を緩急つけて演じる今田美桜もいい。日本が勝つと信じてまっすぐな正義を貫きたいのぶちゃんと姉妹だけにみせる揺れて震える正直なのぶちゃん。蘭子ちゃんが豪ちゃんを失い「嫌なもんは嫌や」と言い続けたことはのぶちゃんが蘭子ちゃんを説得せるよりも説得力があったということ。のぶちゃんが変わったわけではなく選択に対して別の解釈がなされたことに戸惑いと共に迎合してしまった。正反対の言葉で本音を隠してしまうのぶちゃんのことをみんなわかっているのがいい。たかしにはなかなかだが・・・。「たかしも行くがかえ」というのぶちゃんの一言に胸が締め付けられる。嫌な時代。嫌な時代。繰り返されませんように。

空が安定した光に染まり始めた。明るい。今日も暑そうだ。諸々なんとかなりますように。

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学校

早朝から鳥は元気。よいことだ。マイナンバーカードの更新を教えてもらいながらやった。自撮りした写真の肌が疲れていたがこういう証明写真で更新できるのはいい。押し付けられたカードの更新に無駄なお金使いたくない。

週末、精神分析家候補生に向けて講演をする。精神分析家に認定された人はみんなやることになっている。候補生から会員になって一年。すでに色々なことがあった。今回は長い間私の臨床の一部であった教育分野である学校、それを普通と思えなかった私、不登校のケースから学ぶこと、訓練における個別教育についてバラバラと話せたらいいかなと考えている。私が生まれ育ってきた時代と今はだいぶ異なるが子供が大人になるまでの過程に学校はずっとある。一気に書かねば。

またゆずるための本を見ていた。学校臨床関係の本も多い。近藤邦夫先生の本は残しておこうかな。私はスクールカウンセラーと呼ばれる以前の「心の教室相談員」時代に学校に入った。最初の職場の教育相談室で会っていた子供たちの多くが行けていなかった「学校」という場所に外から仕事で入った。大人になってから知る教師の仕事は私にはとてもできそうもなかった。なりたいと思ったことがないのは幸運。なりたくてもなれなかった。近藤先生は大切なのはなにより授業だと書いていた。本当にそうだと思う。人と人の直接的なやりとりは大変になりがちだが授業を通せばまた違うコミュケーションも可能。先生たちが意欲を保てる環境ってどんなだろう。まずは問題や責任の所在を先生に集中させないところからかな。とか書いていないで自分の原稿を書かねば。ふー。とりあえずたねやの季節の和菓子、稚鮎でもいただく準備をしましょう。どうぞよい一日を。

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精神分析

雨の新宿中央公園、時間

季節外れのりんごはそんな美味しくはないけどちょうどいい味。さっぱりしている。今朝は少し暖かいからそう思うのかも。昨晩は寒かった。雨の新宿中央公園をのんびり歩いて濡れたせいもある。ふくらはぎくらいまでの長靴を履いていたけどスカートもふくらはぎくらいだったから裾が濡れた。公園では結構な雨の中レインコートを着て佇んでいる人をひとり見かけたけれど歩いて通り過ぎる人以外誰にも会わなかった。アジサイロードの紫陽花たちがようやく色づいてきた。誰もいないロードの写真を毎年撮っている構図で撮った。大きな水溜りがたくさんあったが仮囲いの向こうの工事済みの道にはなかった。きれいにならされているのだろう。予想通り「最初からこうでした」みたいな道になっているけれど私が毎年愛でていた梅「銀世界」もコブシももうない。どこに行ってしまったのだろう。どこかにいくならさよならをしたかった。あのコブシは伐採されたのだろうな。そういえば昨日は工事をしていなかった。火曜日がお休みなのだろうか。誰も映り込まない新宿中央公園でいろんな種類の紫陽花も蕾も花も増やしたタイサンボクも葉っぱの色と同じすぎて目立たない梅の実も少し濡れながら写真を撮った。鳥の声はいつもより静かで姿も見えなかった。梅雨にはいればこの静けさが増える。木々は毎日成長を続けるだろうけれど。そういえば昨日、下村湖人の『次郎物語』の一文を思い出した。小学生の時に繰り返し読んだ作品だ。あれは実は未完なんだけど私が好きなのは大きくなる前の次郎。

年が明けた。愛されるものにも、愛されないものにも、時間だけは平等に流れてゆく。──下村湖人『次郎物語』

時間だけは平等に、そのはずだと思う。上野千鶴子が『アンチ・アンチエイジングの思想』(みすず書房)でボーヴォワール『老い』の「老いたゲーテ」のエピソードを紹介する前の一文がこれ。

老いれば誰もが衰える。──上野千鶴子『アンチ・アンチエイジングの思想 ボーヴォワール『老い』を読む』

まあそれはそうだ。絶対にそうだ。

人が足を止めようと止めまいと降りしきる雨の中に佇んだせいだろうか。時間は流れていく。

でも精神分析を営む私が強調したいのはそのような一方向的な不可逆的な時間ではない。ベルクソンがいった未完了相というアスペクトである。平井靖史『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』(青土社)に詳しく説明されている。

変容を伴う熟慮にとっては、時間は利得なのだ。──平井靖史『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』

この辺りに書かれていることは精神分析における時間の記述の助けになってくれる。そのうち引用しながら考えてみよう。

今日はこれから晴れるらしい?今はくもり。静かだな、と思うとカラスがなく。そんな朝。今日も一日。

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ヒヨドリ、引用、松木邦裕『パーソナル精神分析事典』

洗濯物を干しながら鳥が鋭く鳴くのを聞いた。ヒヨドリだ。ヒヨドリの赤いほっぺをきちんと見たいが下から眺めてばかりだからいつもシルエット。カラスも遠くで大きな声で鳴いている。昨日、ゴミ捨て場の花壇に大きなカラスがとまってキョロキョロしてた。私が真横を通っても何も気にしていなかった。そのキョロキョロに意味はあるのだろうか。カラスはペアで見ることが多いからもう一羽を探したけどいなかった。その日はソロだったのか。今週末に向けて準備しなくてはいけないものがあとひとつになった。ほかにもあるのかもしれないが覚えている範囲では。

溜まりに溜まった資料を片付けなくてはと手に取ったら読み始めてしまうといういつものことを始めてしまった。2005年9月の『現代思想』(青土社)「特集=女はどこにいるのか」の岡野八代「繕いのフェミニズムへ 」の後半。今度、私が発表しようとしていることと近い。私はジェシカ・ベンジャミンもカントも引用しないけど。カントはこんな感じで読めるのか、と学びつつ、この論稿での引用、参照のされ方って精神分析が批判されるときの言葉の使い方と似ているなと思った。二元論を超えることが二元論を際立たせることもあるから受け取り手とともに考え続けることが実現されないと結局対立みたいになりがち。こういう場合、必要なのは発信側がより頑張ることではなくて受け取る側がいろんな可能性に開かれていることだと思う。自分が欲しいものを受け取れなかったらつまらないとかわからないとか別のもの出せ、とか簡単に言わない受け取り手でいたい。自分の方でできることだってたくさんあるし。第三者からみたら二人は鏡に見えるけど、みたいなことはたくさんあるのだから視線の先をぼんやりみたり聞き流しながら捉えたりすることができたらいい。覚醒と夢想。ビオンはやはりすごい。

ビオンといえばこの前、精神分析家の松木邦裕先生の『パーソナル精神分析事典』をパラパラしたのだけどとても面白かった。それこそ松木先生のパーソナルな部分がちょこちょこ読めるのが面白い。こういう本読んでるんだ、とか。あとはビオンの箇所。松木先生のビオンに対する講義はたくさん聞いているので慣れていて読みやすいというのもあるけどこんな簡潔に書くまでにどれだけの咀嚼が、と尊敬の念が深まった。いいなあ。私もフロイトとウィニコットを少しずつでいいから深めたいな。少しずつとか言っているとああやってまとめることは全然できないから教えるなかで生かしていけばいいかな。

朝起きてすぐ家事をしていたら暑くなって半袖になったのに今寒い。ヒヨドリがまた近くで鳴いている。昨日は寄り道をする時間がなかったので今日はしたい。どうぞ良い一日を。

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精神分析

越谷ろまんず、日々

今朝は日光街道歩き土産の磯崎家本舗「越谷ろまんず」チョコレートクリーム味。パッケージがレトロでかわいい。ブッセ生地のお菓子は美味しい。越ヶ谷宿は日本橋から3番目の宿場。通ることはあるけど駅で降りたことはないかも。越谷レイクタウンはすごいという話は聞いたことがある。

映画や展覧会をことごとく逃している。旅先では余裕があるから美術館や博物館があれば必ず行くけど映画はあまり行かない。映画館のある街ってそんなに多くないから。昔、オリオン通りの映画館によく行ったが今は通りの名前が残るのみ。ほとんどシャッター商店街だが身内で通れば「あそこであれ見たよね」「隣の手芸用品店でフェルト買ったよね」など思い出で色づく。一時期は映画館のない街になったが今は駅の反対側のモールに映画館が入った。展覧会も映画も気づいたら終わってて、と柴崎友香が『あらゆることは今起こる』に書いていたがあの本に書いてあることは実感としてよくわかるものが多い。あんなふうに言語化してくれる作家がいてくれるのは日本のいいところだと思う。日本じゃなきゃ困らない、とも言えるけれど。

一体何をどう捉えてどう感じてどう考えればいいのか、と日々をこなしながら別の日々を過ごしているような毎日。分析を受けていた頃はその別の日々も息づいている感じがしたが、普段はB面というか表面には出てこない。そっちからの突然の働きかけに気づくようなこともあるけれど。展覧会や映画を見逃すのは残念でもあるのだけど単にそんなに行きたいと思っていないのかもしれない。別の刺激のせいでなくしたくないものがたくさんあるのかもしれない。自分のことはよくわからないけれど自分と同じような人にであったらわかるかもしれない。そして同じような人は多分絶対いる。少し違うのは当たり前でむしろ違ってくれないと困るからそれわかるくらいの部分で十分だけど。

今日は6月2日月曜日。一日ずつ少しずつ。

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精神分析

『精神分析発達論の統合』の本とか。

早朝、カーテンを開けるとシャンシャンと蝉のような声がした。蝉は早いだろう、とあんな声のとりか蛙だろうということにした。でも旅に出てネイチャーガイドさんとしか行けないような場所に行くと変わった声に驚く鳥に出会うこともあるのでああいう鳥も多分きっといなくはない。人だって色々いるんだし。

私が面倒を見ている人たちに譲る本を探している。今候補にあるのはタイソン夫妻の『精神分析的発達論の統合①②』(2005、2008,岩崎学術出版社)。今、岩崎のウェブサイト見たら「品切れ・重版未定」とのこと。どこかの本屋さんには残っていたりするかも?図書館ならあるかも?監訳の馬場禮子先生も皆川邦直先生も亡くなられたけどこの本自体は古典でもないと思うし、精神分析理論の中でも発達論を統合して説明しているこの本は保育や学校現場に関わる臨床心理士の仕事には特に役立つと思うので、ということで譲ろうと思っている。「用語集」は2巻目にしかないのと第7部のジェンダーの発達についてはかなり偏りがあると思うので、それはそれで知っておいてもいいと思う。

そして来週末に久しぶりに会う友人に渡す本も準備した。前に会った時にあげると言っていたのを思い出してよかった。

忘れたいことも忘れたくないこともごちゃ混ぜにしてなんだかんだ覚えておきたいなと思う。どうぞよい日曜日を。

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精神分析

学問、薔薇

早朝のバイクの音。もう一軒ごとに止まるあの音ではない。古紙を出してトイレットペーパーと交換する仕組みはまだあるのだろうけどあまりみなくなった。私も新聞はデジタルだ。

たまに「精神分析方面からは嫌われるけど」とか聞くけど、昔の人がいう分にはそう思わなかったけど、最近だと多分そういう人は精神分析を受けたこともきちんと学んだこともない。そう言いたい、あるいはそういう表現が好き、そういう感じがする。「認知行動療法の人は怒るだろうけど」とかいうのもそう。あとやたら若い世代が学問を変える、みたいなことを言っている人もそういう表現が好き、という感じがする。内側にいる人はそんな冷やかしみたいなこと言わない、というかそんなこと言ってないで学問の中身に入ろうよ、自分の好きなことにコミットしようよ、と思う。私が読んできた書物は領域を超えて真摯に論じられたものが多かったからそういう中で「精神分析の人は」みたいなことを書かれてもなんとも思わなかった。学問を守るってそんな難しいことではなさそうなのに今はそれがすごく難しい。アメリカでも日本でも。

一時、私の周りでは「モチベーション」という言葉がよく使われていたがモチベーションはあるかないかではなくて、どんなモチベーションがあるかで話される事柄だと思う。その点「ニーズ」という言葉はあるなしが使われても具体的な場合が多い。

こう書いてみればこういう話は昔からあるんだろうなと思う。進むより戻る。進むなら少しずつ。

今朝は藤井聡太名人のインタビューをデジタル版の新聞で読んだ。見習いたいことばかり。

今日はまた雨が降るみたい。薔薇の季節が終わりそう。終わりかけの薔薇もアンティークって感じで好き。素敵な写真が撮れたらいい。

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読書

思い出

岸政彦『はじめての沖縄』(よりみちパン!セ、新曜社)のカバーには3枚の写真があって三匹の猫がいる。面には2匹、袖に一匹、裏は住宅街の小道の写真。そこにも猫がいるのかもしれない。

2024−2025の年末年始、モノレールのゆいレールができてからはじめて沖縄に行った。空港直結のモノレールはとても便利。奥武山公園駅で下車し、とりあえずホテルに荷物を預け、駅までの小道に入ると低い屋根の上に猫がいた。シーサーも多いが猫も多い。

ある日、岸さんは調査のためにバスで移動する。

二月の、寒い曇りの空の日だった。いくら亜熱帯とはいえ、冬はやっぱり寒い。ー『はじめての沖縄』p150

そうなのだ。一日の気温差がすごい。私も脱いだり着込んだりした。岸さんは「いちおうガイドブックでは繁華街あるいは商店街ということになっている、近くの通り」に行く途中、一匹の痩せた野良猫を見つけ写真を撮る。それがカバーの写真というわけではないらしい。そして

(この日から毎日キャットフードを持ち歩くようになった)。ー『はじめての沖縄』p151

「いちおうガイドブックでは」というくだりも旅好きの感覚として馴染み深いし、この括弧付きもいいが、さすが猫好きさん、と思った。そしてふと思い出した。

私もいつも給食でコッペパンが出る日は放置されている犬にあげてた。今思うとあんな狭い場所に閉じ込めてひどいなと思うけど、当時はかわいいしか思っていなくて毎日寄って声をかけてちょっと遊んで(そんなスペースないからひっかけてくる前足と戯れたり)帰っていた。親が車で迎えにくるときの待ち合わせ場所もその小道の角で、大きくなってから母に「コッペパンあげてたわよね」と言われてびっくりした。私はこっそりのつもりだったが見てたのか。多分、あの犬はごはんももらってなかったんだと当時の私は知っていたのだと思う。そうじゃなきゃむやみに食べ物をあげたりしない。母も止めただろう。今はかわいそうにと思うがやっぱり当時はかわいいとしか思っていなかった気がする。かわいそう→だからコッペパン、というのは成長してからの思考回路でもっと直感的な行為だっただろう。捨て猫を拾うときだってある種の直感に突き動かされての行動だったし、いちいち理由など考えずにやっていることはとても多かったと思う。ある日、その家の表通り側に大きなゲージが出ていて中にはつかまり立ちができるくらいの小さな子がいて私と同じ学校帰りの生徒はかわいいかわいいと大騒ぎだった。私はすごく嫌な気持ちになったが、その日はその脇の狭いスペースにいるいつもの犬に会わずに表通りをそのまま帰った気がする。多分すごく怒ってた。

岸政彦さんの言葉は不思議で、書き言葉にも喋り言葉にもこういうことをたくさん思い出させる力がある。そしてこの150、151ページをめくった次のページの写真もいい。この本はページをめくっていると突然写真が登場する。特に見開きの写真はインパクトがある。目も耳も使うために足も使う。そして出会う。昔の感情とかデジャブとか一緒に歩きたかった道とか。沖縄はすでに梅雨入り。東京も今日は雨。結構降っている音がする。どうぞ足元お気をつけて。

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俳句 言葉 読書

一 一 一

題秋江独釣図 王士禎

一蓑一笠一扁舟

一丈糸綸一寸鉤

一曲高歌一樽酒

一人独釣一江秋


王土禎「秋の川でひとり釣りをする図に題す」という一字詩。小津夜景さんの『カモメの日の読書』(東京四季出版)で知った。真夏に向かうこの時期に秋の川もなかろうにと思うが、今日は季節よりこのミニマムさを味わいたい。世界がもっとミニマムでシンプルだったらといつも願う。そうしたら人はもっと生きやすいのではないだろうか。素朴な遊びを楽しめるのではないだろうか。このブログも1000日連続して書いているらしい。いつでもなんでもあっさり手放してきたわけではないということ。小学校低学年の頃は日記を書いていた。私はとっくに手放したと思っていたが母の本棚にそれを見つけてちょっと読んだよ、と中学生になった身内に言われた。内容に言及する仕方の配慮に私たちがそれぞれに触れられたくない部分、守られるべき場所を持つことを思い出す。私は内容を全く覚えていないが、毎日の出来事を書いては先生に見せて先生がコメントをくれていたらしい。1年生の時にそんなことをしていたのは覚えているが、2年生になってもしていたんだな。その痕跡というか実物がまだあるんだな。ずっとそんなコミュニケーションの相手がいて私はきっと助けられてきたのだろう。ミニマムにシンプルに表層だけで流されるように生きていた時期もあったのだろう。線だけで遊べるウィニコットの誰からも理解されないような部分は深層より表層にあって、線というものは文字のように字義通りにはならない。夏の花の花びらや実をじっと眺めるのはその深淵が覗くことではないだろう。ただそこに置かれているものと一緒にそこに立ち尽くすこと。そんな毎日の今日も一日。一、一、一とひいていくように。

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読書

金原ひと『YABUNONAKA―ヤブノナカー』(文藝春秋)を読んでいる。

4時台で空はグレー。本当に日の出が早くなった。夏至は6月21日、嘘みたい。季節の巡りが早すぎる。

早すぎるといえば、最近、電車で金原ひとみ『YABUNONAKA―ヤブノナカー』(文藝春秋)を読んでいた。芥川龍之介の『藪の中』の現代版といえるかわからないがモチーフは同じだろう。8人分の視点で語られるストーリーはどれもテンポ良くどんどん読めてしまう。読めてしまうのだが長い。え、まだ続くんだ、という語りを聞かされる。うわあ、という不快感を感じるやりとりがリアルでSNS社会の我々ってそれぞれにこんな感じなのだろう。村田沙耶香が世界の本質を明るく示すホラーなら金原ひとみは生活のリアルをざっくり切り取って示すホラー。あら、どっちもホラーって書いちゃった。ジャンルとしては全然ホラーじゃないのに。駅に着き、読みかけの本を閉じると犬に手を食いちぎられるイメージが浮かんだ。芥川の『藪の中』を読んだのは中学生の時だと思う。繰り返すイメージが出来あがったのはその後、舞台で見てから。怖かった。

ああ、また眠くなってきた。二度寝しても十分間に合う。が、家事をとりあえずこなそう。本の続きを読みたいが締切が近いものを本当にやらねば。作家はすごいな、どんどん書けて。これからもどんどん書いてほしい。小説は楽しい。

良い一日になりますように。

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散歩

曇り。新宿中央公園。

カラスの声は大きい。今日も涼しい。曇り空だけど雨は降っていないみたい。そろそろ梅雨の準備をしなくちゃ、というかしたい。下駄箱の掃除をしたい、というかしなくちゃ。うーん。色々工夫したいスペースがあるけどずっと放っておいてるなあ。

散歩は順調にしている。といっても郵便局とか銀行とか行くついでに西新宿、初台、参宮橋あたりをぐるんとするくらいだけど。最近は花々や木々が楽しみだから薔薇がたくさん咲いている公園やいつもの新宿中央公園には結構行っている。

新宿中央公園のちびっこ広場にはいろんな国のいろんな子どもや親や人たちがいて面白い。この前は「やだ!」と鋭く大きな声を出しながら「ダン!」と足を踏み鳴らすのを繰り返している子どもがいた。というかこういう行動はよく見かける。「地団駄を踏む」というのはもう少しスピードがあるイメージだからちょっと違うかな。お父さんの顔をまっすぐ見上げなら「1ヤダ」につき「1ダン!」。そしてあの視線。断固とした意志。お父さんはいつものことという感じだったけど少し疲れた様子で赤ちゃんを前に抱えたまま「あと一回ね」と送り出していた。送り出されたその子もニッコニコというわけではなく怒った顔のままなんとも言えない声を発しながら滑り台の階段の方に走っていった。

はじめてこの公園にくる人たちもいる。「あんな大きいじゃぶじゃぶ池がある!」と赤ちゃんを胸に抱え、誰も入っていないベビーカーを押したお母さんたちが歓声のような声を上げた。7月になったらオープンしますね。またくる余裕がありますように。じゃぶじゃぶ池のそばには大きなタイサンボクが花開き始めた。大きな白い蕾たちも見えた。目線を戻せばシモツケも紫陽花もきれい。どんどん入れ替わる花たちがいつも楽しい。

砂場にはクジラがいる。どの時間にも静かに佇んでるそのクジラが私は好き。しょっちゅう写真に撮ってる。時間や季節や背景の色が違ってもクジラはひっそり。この前、楽しそうな笑い声が聞こえたので振り向いたら1歳くらいと3歳くらいの子供がちょこんと大きなクジラの背に乗っていた。ちっちゃい子の方が大興奮でお姉ちゃんのちょっとした仕草を真似ては笑い、お父さんお母さんを交互に見ては手をたたいて笑い、その笑いを向けられた方がそこまでおかしいのかという様子で困ったように笑ったりみんなで大笑いしたり実に楽しそうだった。

今日は曇り空の中、どこへ寄り道しましょう。新宿に行かねばならない用事があるが、ねばならないことはなんとなく面倒だ。別の寄り道をして紛らしながら行こう。どうぞ良い一日を。

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お菓子 イベント 散歩 精神分析

『横尾忠則 連画の河』展@世田谷美術館

光が入ってきた。新しくしたレースのカーテンが風に揺れている。今朝もくしゃみが止まらない。とりあえずあたたかいお茶と箱根のお土産「箱根の坂」抹茶味。定番。

『横尾忠則 連画の河』展に行った。場所は世田谷美術館。ようやく行けた。1936年生まれの横尾忠則の2023年、2024年の作品がメイン(だと思う)。「連画」は「連歌」とかけているわけだが大変面白い試み。篠山紀信が撮った一枚の写真から連日展開される自由連想世界。楽しかった。88歳、最後の大きい(?)展覧会になるだろうとのこと。

「大きい(?)」は世田谷美術館の大きさが「大きい?」だから?いろんな人に見てほしいなあ。横尾忠則が生きているうちに感想を書けるっていいことな気がする。ご本人はコロナの後遺症が大変らしい。早く回復して描き続けてほしい。連日描き続けることの意義は連日自由連想の世界にいる私にはとても大きいと思える。世田谷美術館で見られてよかった。無駄がないのにゆったりした構成でやっぱりそんなに大きい展覧館ではなかったのがまなおさらよかったのではないかな。企画展の「世田谷でインド」も大変興味深かった。横尾忠則は三島由紀夫を尊敬していることも知った。こんな有名な画家なのにどういう人だか全然知らないからNHKとかでやっている番組をチェックしようと思う。すごくインパクトが、というよりなんていうのかな、とにかく88年間生きて描き続けてきた人の大らかさとか正直さとかスケッチを含め当たり前のように筆を動かし続ける胆力とかなんか包容力がすごかった。今こうして書きながらあそこもう少しじっくり見ておけばよかった、とかいろんな絵が思い浮かんでいる。こうやって連日楽しめるのも素敵なこと。皆さんも機会があればぜひ。

すごく強い光が入ってきた。さっきの光とは全然違う。今日は晴れるのかな。昨日は予報に反して寒かった。部屋の中は蒸し暑くて温度調節難しい。くしゃみはいつのまにか止まった。どうぞ良い一日を。

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精神分析 精神分析、本

Reading Freudなど。

雨が少し降っている。昨晩は急に寒くなって今朝起きたときはくしゃみがたくさん出た。今は落ち着いた。最近、いろんなものに対するアレルギー反応みたいのが増えた気がする。アレルギーは色々蓄積なんだろうから(違う?)この歳までそんなに出なかったことがラッキーだったのかもしれない。

風邪をひいたり怪我をしたり何かしらの症状を出すとその状態をすごく観察するようになった。観察とは言わないか。たとえば喉が痛かったらどこのどのへんかどうなのか、それがどう変わっていくのかをすごく細かく感じようとするようになった。人の身体ってどうなってるの、という興味は小学校低学年の時はすごくて図鑑ばかり見ていたが今は病気の側から色々知りたいと思うようになっている。

昨晩、Reading Freudで『心理学草案』の第一部の続きを読んだ。ニューロンの興奮量の話はニューロンになりきりたかったがフロイトの時代のフロイトが使用している「ニューロン」というのは今とは違うからフロイトが描いた図の中に入り込もうとしても今どきのニューロンさんにしかなれない。どっちにしても自分は人としてしか登場できない。まあ、フロイトが描き出そうとしている世界も人のことであるんだけどフロイトの基盤にはヤツメウナギとかザリガニとかいるわけだし。ヤツメウナギは脊髄神経の研究、ウナギは生殖器、ザリガニが神経細胞の研究だったのだったかな。だからニューロンまで遡っちゃったのかな。科学的であるためにはそれじゃなくてもよかったんだろうけど、とりあえず私も動物とシームレスに人間を見たい。

最近、鹿の赤ちゃんが産まれたという画像が流れてきてじっくり見ているのだけど生まれたての赤ちゃんが脚ガクガクさせながら立ち上がって親に舐めてきれいにしてもらうときもバタンって倒れないで立ててたり、親にくっついて歩いているうちに別の鹿を親みたいにしていて本当の親が迎えにきたり色々しているのをじっと見てるとせめて動物の感覚を知りたいと思ったりするんだよね、など話した。母鹿の方は子供を匂いでわかるらしい。羊膜も胎盤も食べちゃってるわけだからなんかすごく子の識別能力高そう。子供の方は母のお腹にいたわりにまだぼんやりな感じ。ものすごいスピードで組織化されている部分とそうでない部分があるんだろうな。

『心理学草案』は第二部で人の形をとったエマが登場。楽しみ。今日は事例検討グループ。色々追いついていないががんばれたらいいなあ。どうぞ良い1日を。

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精神分析

鳥とか薔薇とか5月も終わりとか。

東京は曇り。鳥は鳴いておる。最近、新宿中央公園でオナガをよく見る。鳴き声が特徴的だからいるのがすぐわかる。声がした高い木の方を見上げると長い尾をしたシルエットが数匹。群れで動くのかな。一斉に飛び立って移動するのをよく見かける。私は複数のことは複数の人でしないと、というか一人で複数のことを同時にできない(まさに今のことなんだけど)のだけど、群れで動く鳥ってみんながみんな同じことしているわけではなくてエサ取ったり巣作ったり子育てしたり繁殖のための行動以外にも何か役割があるのかな。お聞きしてみたい。昨日はオナガとカラスが少しバトルっぽい音を立てていた。行動が似てるから縄張り争いが起きやすいとかあるのかな。鳥はついつい観察してしまうけど調べても学んでもなかなか記憶できないから疑問はいつまでも疑問のままね。

隙間時間に少しずつ勉強しながら発表の原稿を書こうとしているわけだけど5月はイレギュラーなことも多く月末の締め切りまであっという間になってしまった。今日もそんなに時間がない。どうしましょう。でもちょこちょこ勉強してると忘れていることばかりだから発見は再発見、という感じで面白いねえ。とか呑気なことを言っている場合でもないか。昨晩は症状というのはシニフィアン連鎖による無意識の形成物だからね、うんうん、だから?となっていた。自分の言いたいことは書き続けないと浮かんでこないのだけど理論と臨床の接続を考えていると理論の説明をするのとはまったく異なる壁が登場するので何度も何度も立ち止まって考えて書いては消しの繰り返し。いつもはそんなこんなで時間切れになって当日一気に書いて提出、となってしまう。俳句の投句と同じパターン。変えたい。が、今回も厳しい。いずれ還暦までには、としておこう。それだってすぐやってくる。

とにかく今日も始まった。土日お休みの人は東京は雨みたいでちょっと残念だよね。5月ももうすぐ終わりということは梅雨入りも近いということ。雨の植物園とかを思い浮かべてそれも悪くないなと思ったけどうちでのんびりもいいなあ。バラ園のバラもピークを過ぎた頃かな。今年も少しの寄り道でたくさんのバラを楽しんだ。いろんな名前がついててそれも面白い。私は今日も紫陽花観察をしながら仕事行こう。紫陽花って結構のんびり色づくのが好き。カタツムリと似合う。どうぞ良い1日を。

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散歩 精神分析、本

ビオンの論文とか辞典とか、シモツケとか。

ひんやり。昨日は半袖でいる時間が長かった。オフィスも蒸し暑くて除湿運転をつけたり消したりした。夜、外に出たら寒かった。道ゆく人は半袖の人が多かった。私は寒さ対策だけは怠らないのでしっかり上着を着込んでいた。冷房の時期でまたすぐに喉がやられそう。もうすぐ学術大会で色々喋る必要があるけど大丈夫かしら。健康になりたい。

昨晩、クリス・モーソン編の『W・R・ビオンの三論文』(岩崎学術出版社)を読んでいた。原著は“Three Papers of W.R. Bion” Edited by Chris Mawson, Routledge, 2018.。翻訳は福本修先生。各論文に編者であるクリス・モーソンの「編集後記」がついている。これが大変興味深い。クリス・モーソンは『W・R・ビオン全集』の編者でもある。福本先生の補遺も「あとがきに代えて」ということでついている。ビオンもだいぶ読み慣れたせいか、そんな新しいことが書いてあるとは思わなくなった。身近な先生のお話を繰り返し聞いている感じ。これは講演録で、原稿なしでビオンが話したものを書き起こしたもの。話すことと書くことの違いはすごくあると思う。講演や講義でのビオンはどっか苛立っているようでもあり、なんかイキイキしていていて好き。キーツのNegative capabilityがかなりしっかり取り上げられているからビオンのこれを引用する人は絶対読むといいよ。『注意と解釈』と一緒に。三論文の方はコンパクトな本ですぐに読めるし、なんて20年前は全然思わなかったと思う。意味がわからないままみんなでうちで読み合わせとかした。その後たくさん解説書も訳されたし、今は本当になんでも学びやすい状況でいい。一方、というわけでもないが、ラファエル・E, ロベス・コルボの『ビオン事典』(金剛出版)は使いづらい。事典なのに索引がない。これ原著からそうなのかなあ。翻訳されたものをあいうえお順で並べているわけだから英語つきの索引は欲しかったなあ。索引ないからパラパラめくっていたら「原始ー現実対象」Prote-real objectの項目に「生気あるものと生気ないものとの違い」p95を参照と書いてあった。これ一つの項目になっているんだ、と思ってパラパラ。142ページに登場。ビオンのAnimateを「生気あるもの」と訳しているのね。ウィニコットのAlivenessとはだいぶ違う。こうやって使用しながら自分で索引作っていくのがいいかもしれない。

毎日少し先の駅まで遠回りしてお花を眺めてる。紫陽花がどんどん色づいていく道とまだまだ緑一色の道と。新宿中央公園は紫陽花の道があるけどそこはまだまだな感じだったな。亀たちは元気だった。相変わらず工事中で「私が愛でていたあの木はどこ?」とやや夢遊病のように木を探す気持ちもなるが季節の移り変わりを花々で知れるのは素敵なことだと思う。シモツケの咲く前がとても可愛くてたくさん写真を撮った。仁丹みたいな状態の時が一番好き。

今日はどんな一日になるかな。良いことありますように。

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白鳥の赤ちゃんとか朝ドラあんぱんとか

今朝は曇っている。夜のうちは雨の音がしていたけど今は止んでいる。鳥たちは元気そう。最近、少しだけスズメとスズメみたいな鳥の区別がつくようになってきた。そりゃじっくりみればわかるのだろうけど飛んでる鳥はほぼシルエットなので形と大きさが似ているとみんな同じに見える。でも昨年『鳥展』でスズメ科の鳥の多さを知ったからまあほぼスズメという分類でも間違ってはいない気がする。昨日、大原美術館のSNSが、倉敷川で白鳥の赤ちゃんが誕生したことを書いていた。背中に乗ってる少しグレーの赤ちゃん。とってもかわいい。大原美術館側の倉敷川ってそれだけで観光地なのにさらに白鳥まで、そして白鳥の赤ちゃんまで。なんて素敵。倉敷もとっても素敵な街。また行きたい。備前焼のギャラリーでそこの器でモーニングやっているところがあったり、『蟲文庫』もあるし、何か小さなお店で倉敷の古い倉庫の写真とかも買ったのだけどそれはオフィスに飾ってある。またのんびり歩きたいなあ。あのときはお正月でホテルのロビーで餅つきとかもやっててお餅食べた気がする。コロナ以降、そういうイベントって一気になくなったけどコロナ明けてからお正月に佐賀の唐津に行ったとき、泊まったホテルが数年ぶりに餅つきをするというので支配人自ら餅と酒を振る舞っていた。子供たちも大喜びでみんなでこうしてワイワイできるって当たり前じゃないんだな、と大人たちはみんな思ってちょっと心豊かになっていたと思う。そんなこと関係ないかのようなひどい事件もいっぱい起きてるし、SNS上なんてほんとなんなんでしょうみたいなことがいっぱいだけど、他人は自分とは違う、ということが本当に曖昧になってると思う。自分の思い通りにいかない世界だからこそ世界は広いのに。ああ、朝から辛い気持ちになる。昨日の朝ドラあんぱんもとても辛かったけどのぶちゃんも蘭子ちゃんもすごくいい演技。豪ちゃんとあんなドキドキの思い出があったとは。のぶちゃんってこれまでの朝ドラヒロインとはちょっと違う。聡明さより鈍さ、ネガティブケイパビリティが高いといってもいい、子供の頃から変わらない立ち止まる力がある。のぶちゃんは走るのは早いけどいろんなことでぐちゃぐちゃになる仕方がゆっくり。蘭子ちゃんみたいに秘めたる思いで熱くなることも少ない。まっすぐに表現することを頑張らなくてもできてしまう。うじうじのたかしも手紙を声に出しながら書いちゃうのがいかにも。たかしの素直さはのぶちゃんとは違う素直さ。今田美桜がこれまで演じてきた男の子にとってのヒロインではない一人の人としての女の子の成長を丁寧に演じていてとてもいいなあと思って見ている。「花のち晴れ」の時だったか、ちょっといきがった女の子をやっていた今田美桜がすごくよかった。東リベのひなたちゃんもみおちゃなんだって最近知った。アニメでしか見てないからなあ。それはそうと朝ドラ、のぶちゃんも三姉妹もみんなみんな辛い時代に入ってきた。演じる役者さんたちも揺さぶられるだろうけどその演技にすごく期待してる。戦後80年、やなせたかしの「僕は戦争は大きらい」という言葉を軽やかにしっかり言い続けて「だから絶対いやだよ、やらないよ」と付け加えていきたい。今日が良い一日でありますように。