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十一月。

11月。空がきれい。アラームがなくても夜明け前に起きてしまう年齢になって早何年?低血圧で朝が辛くていつもぐったりしていた時代が嘘のよう。あの頃、日本の社会はどんな感じだったかしら。まだ海外にも気楽に夢を持てていた時代。さて、洗濯物を干した。生活大事。でも連休は半分仕事。世知辛い。

昨日はハロウィン。あまり外にいなかったせいか仮装した人は見なかったけど渋谷方面のバスは15時台で終わりという張り紙は見た。今年の渋谷はどうだったのかな。私は仮装ってあまりやったことない。文化祭くらいかも。あれは仮装とは言わないのか。衣装?ハロウィンで雨だから雨っぽい仮装とかなるとカエルとか河童とか雨粒とか?普通、雨に合わせないか。河童の仮装したって傘さすだろうしね。昔、ドリッピーって英語教材があったのだけどあれは「家出のドリッピー」が正式なのね。シドニー・シェルダン作。すごく豪華な声優陣だった。河童といえば遠野だけど数年前に2度目の遠野に行ったとき、自転車でいろんなところ散策したら熊が出たという町内放送(?)が流れてすごく怖かった。町の名前もわからないからどこに出たのかわからないし、出てもおかしくない場所が多いし、とりあえず急いで自転車借りた観光案内所みたいなところに大急ぎで戻った。当時は電動自転車も当たり前ではなかったからママチャリでこわいこわいいいながら。今はもっと頻繁にああいう放送が流れているのだろうか。心配だ。農水省が効果的な対策をとってくれるといいですね。本当に怖い。いろんな要因の積み重ねで長い時間かけて今の状況があることを思えばそんなにすぐに解決はしないのかもしれないけど。でも何もやらなかったら被害が広がるばかりで多分もっと手出しできなくなる。カウンセリングでも「様子を見て」という言葉があまりいい印象を与えないのは無力なまま時間が過ぎていくことは耐え難いから。でも実際様子を見ないことには、というのもある。ウィニコットが子供にとって母親の不在が外傷となるには時間的要因が関係していると書いているけど、これも単に時間だけの話ではないとは思う。

書き物の準備のために読んでいたこれらは大変面白かったのでメモ。

Botella, César & Botella, Sára. The Work of Psychic Figurability: Mental States without Representation. London & New York: Routledge with the Institute of Psychoanalysis, London/The New Library of Psychoanalysis, 2004. 心の形象化機能について。

Ogden.What Alive Means5 Giving back what the patient brings On Winnicott’s “Mirror-role of mother and family in child development”これについては何度か書いた。『遊ぶことと現実』第9章「子どもの発達における母親と家族の鏡ー役割」のcreative reading

あとAndre Green at the Squiggle Foundation (The Winnicott Studies Monograph Series)”On Thirdness”。グリーンのロンドンでの講演。イギリス対象関係論とフランス精神分析の差異の話も面白い。

お、鳥が鳴き始めた。私も早く出るか。風邪ひかないように過ごしましょう。

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ワンピ、英語

かぼちゃ色のワンピースをまえうしろ逆に着ていた。鏡がある世界でよかった。朝から人参とピーマンをたくさん千切りして疲れた。カラフルな朝。空は白に近いグレー?雨予報か。嫌だな。ショート丈の長靴で行こうかな。

今日がリミットの投稿論文。やる気が出るのを待っていたけどやる気は出ず、でも隙間時間を使って後半まできた。でもさすがにここからだと間に合わないかも。日本語で書いたものを英語にすると自分が言いたいことが変わってしまってそれをなおすと全体がなんかおかしくなって、と慣れていないと本当に大変。でも前にお世話になっている先生に自分の日本語を自動翻訳で英語にしてみるとどんな日本語が通じるかわかると教えてもらったので、日本語で何か書くときもそれは意識している。大抵時間がなくてバーって書いてしまってるから英語にしたらひどい文章かも。悲しい。

もうこんな時間。今日はここまで。良い一日を。

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ばたばた

薄い色の空がいつのまにか光でいっぱい。このWordpressのサイトのセキュリティの警告みたいのを対処の仕方がわからなくて放置してしまっていたのだけどchatGPTに聞きながらできた。すごい。やってみれば簡単だったのだけど説明のサイトをみても用語がわからないからそこまで遡って「それってなに」と聞けるのはいいね。私の周りは使いこなしているらしいけど私はいまいちその存在を忘れてしまう。ああ、それにしても朝から時間とられた。明日までにやらねばならないことがある、というときにこういうことを始めてしまうのが人間というもの。はあ。コーン茶で一息。

小さいとき、実家のすぐそばはトウモロコシ畑で自分の背よりずっと高いふさふさのなかを犬と一緒にくぐりぬけて遊んだ。トウモロコシが交易ルートのひろがりとともにその遺伝子を世界中に広げたのはずっと昔。やっぱりコロンブスが絡む。そしてもちろんダーウィンもトウモロコシの適応能力(?)について天才ならではの議論を展開している。近所のトウモロコシ畑がアメリカの広い大地にたくさんあると知ったのは社会の時間。地図帳か資料集みたいのか、後ろのほうにのっている穀物などの国別生産量のグラフをみるのが好きだった。親戚の子がペンで触れるとその国名の音声が国家とともに流れる本が大好きで一緒にいろんな国をポチポチした。コロンブスやダーウィンだったら熊の行動の変化をどう描写するのだろう。トレーナーさんともお互い山好きなので熊の話をよくするが、アラスカの生活を流しているYouTubeを教えてもらった。みてみたら家を建てるところからでびっくり。その土地で暮らすということは、と考えさせられた。とにかく遡ることは大事だ。トウモロコシだってアメリカで暮らすには、とトウモロコシが考えたわけではないけど、人間がトウモロコシの能力に驚かされながら積み上げてきた知見にもとづいて栽培されてきたわけだし。

人間同士の絆みたいな言葉もいいが、なんで人間がつながる必要があったかとかを視覚とか聴覚とか感覚モダリティの発生から考えるとか、精神分析やってるとそういうこと考える。特定の時間、ほぼ聴覚に刺激を集約させてそこでなにが処理されたり積み残されたり言葉になったり記憶を作ったりしているのか、それは目にはみえないけどイメージはできなくはない。知覚や記憶に関する知見の積み重ねだっていまや膨大だろう。バタバタしながらバタバタとしたことを書いているけど。どうぞ良い一日を。

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表情とか言葉とか。

朝の空。昨日の気温はよかった!夜は少し寒かったけど大きく息を吐いて、吐き切ったら自然に吸う、というトレーニングでやっていることを適当に使ったら駅に着く頃には暖かくなっていた。今日のお天気はどうなるのかな。光はすっきりときれいだけど。

朝ドラばけばけ、楽しい。本当にひどい時代だな、と思うのはどの時代に対してもだが、そこで生き生きと生活している人たちをみると安心する。私は笑顔が一番、みたいなことはよく笑う人に対してしか思わないけど(笑顔で!とか要求するもんでもない)、表情がくるくる変わるのは素敵なことだと思う(淡々と表情変えないのも好きだけど)。おトキちゃんが「すいません」と言ってばかりだと悲しいけど表情の豊かさを叱られて育つ子を思い浮かべると気持ちが全て顔に出ているおトキちゃんによかったね、と思ってしまう。すごく過酷ですごく辛いことはあるに違いないけど、それを表現できる方法があるって、そういうものを育てていくって大切だと思う。

なので相手が子供でも大人でも治療者が患者の言葉がどういう風に使われているかに注意を払うことはとても大事。言葉は現実をそのまま表してはくれないけど、私たちは辞書の役割を果たしているわけではないというか、そういうことは辞書のほうが確かな仕事をしてくれるので、私たちは言語が現実をどう切り取って、その認識がその人独自の体験の中でどのようになされてきたかに注意を向ける。認識って常に事後的なもの、そして言葉はその中で独自の機能を備え、語彙も意味づけされていくいく、という認識。ややこしや?特に精神分析では言葉が切断や去勢の作用をもつことを重要視するし、言葉が距離を生むんだという認識は共有していると思う。その質をどう考えるかだね。ややこしや?

♪毎日難儀なことばかり♪とハンバートハンバートが朝ドラ主題歌で歌っている。本当そう。でも今日も歩こう。生活しよう。♪落ち込まないで諦めないで♪

いいお天気になりますように。良い一日を。

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怖かったりのんきだったり。

朝焼けはまだ。東の空も暗い。早朝の家事を終えて少しぼんやりしていたら少し冷えてきた。暖房をつけた。旅に出ると早朝は散歩に出かける。西は日の出が遅いことを実感する。季節によって太陽がのぼったり沈んだりする方角が変わるから一概にはいえないけれど、佐賀に行ったときだったか、早朝まっくらななか散歩にでてしばらく歩いて宿に戻るまでずっと暗くてびっくりしたことがある。それにしてもこれだけ熊に襲われる事件が相次ぐと早朝気楽に外に出ることも難しくなるだろう。低山ハイキングも毎回びくびくしているが用心するなら行くなということになりそうで怖い。青森で温暖化怖い、となって、山に行っては林業の衰退によって放置される森林を目の当たりにし、東京にいたって本当にどうしたらいいんだ、ってなるのに熊とそばに住んでいる人たちに対してなにができるのだろう。お金のない国になりつつある日本(ということは格差が広がりつつある社会ということ)で弱っている人、困っている人たちが優先されるということは起こりうるのか。いまだかつて起きたことはあるのか、といえば部分的には起きているだろう。東京都の子育て支援は手厚い、という場合にその手厚さがなにを示すかは検討が必要なように。手厚い部分は残しつつ、それが広く長く生活に良い影響を与えていくにはどういうシステムが必要なんだろう。まずは排他的ではない政治家を選ぶところからだろうか。毎日、ニュースをみれば憂鬱になるし、かといって無邪気に知らなったともいえない。見たくないものが増える社会でも発見されるのを待っているなにかを探し出していかないとだが。うーん。

いろいろ考えるとあれ食べたどこ行った空がきれい仕事大変とかいっていることものんきすぎるのか、とか思えてくるが、そんなはずはない。自分の生活を自分なりに営むことをやめてはいけない。

今朝は札幌市のほんまさんの「寒月」というどら焼きをいただいた。友達が成城石井で買ってきてくれた。熱いままのお湯でいれてしまった新茶と一緒に。いつも誰かと会うたびにお菓子交換みたいなことをしている。そういうことやめたくない。コロナ禍みたいな制限も嫌だし、用心のしかたもわからないまま制限されるのもするのもつらい。旅行もやめない。人間界を長い目でみれば移動は必要。暴力的ではない行為で経済的にも豊かな国になるにはまず暴力的、排他的な思考をやめること、と思うが、自分のことだけ考えてもそういう気持ちが蠢かないといえば全然うそになるので理性を働かせるためにも人と会っていきたいと思う。すぐに悪意にとられる世界にまきこまれたくない。言葉じゃなくても伝わる良い部分を大事にすることかな。言葉にするからどんどん大変になっていくのかな。うーん。とりあえず今日もなんとかやろう。

先日みたM&OPlaysプロデュース、岩松了作・演出『私を探さないで』の舞台のことを書くつもりだったのにひとことも演劇に触れない文章を書いてしまった。岩松作品と河合優実は絶対相性がいいと思ってとって、誰が出演するかもよくわかっていなかったがシャープな勝地涼と気怠いキョンキョンがすごくよかった。ああ、だめなまま、足りないまま、時折、思い出したくもない昔に心揺さぶられたりしながら生きていきたい、とこういう舞台をみると思う。難解といわれる岩松作品だが、私はそこは全然気になっておらず、いわれてみれば毎回確かにそうなのだろうと思うが、なんでもかんでもわかろうとするから難しいのかもよ、と思ったりする。ビオンを難しい、わからない、と言い続けることとも似ているかもな。

どうぞ良い一日を。

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予報、グループ、逆転移

朝焼けがきれい。久しぶりに見られた。先週は晴れ予報がいつのまにか雨予報に変わりお布団干したのにという方もいたらしい。辛いよねえ。私は怖いからお布団は自分がいるときしか干さない。もちろん失敗済みだから。予報ってこれだけ毎日積み重ねられていることなのに難しいのね。昨日のお昼も関東で地震もあった。午前中の初回面接グループを終えて、みなさん送り出してすぐ。ドンってきたからびっくりした。お花をいけた細いガラスの花瓶は動じていなかったけど長く伸びた観葉植物がゆらゆらしていた。地震も予測が難しい。熊だってなんだってそう。わからないことの方がずっとずっと多いのに人の心を決めつける人が多いのはなぜかしら。これだけの数いたら単にひとりひとり違うというよりみんな変わっていく。日々違う、相手によっても体調によっても状況によっても。

昨日の初回面接グループもとても勉強になった。事例で具体的に初回面接を検討したあと、30分間、今日事例から学んだことを話し合うのだけど、今回話題になったのは中立性。初回なのになぜそれが保たれないときがあるかという話はしょっちゅうしているのだけど、今回は私がMichel Neyrautの逆転移の概念を紹介したりした。ミシェル・ネイローでいいのかな、読み方。どこかで誰かがYouTubeとかで引用しているだろうからその発音を後で確認しよう。Société psychanalytique de Paris(SPP)の会員らしい。ネイローは「逆転移が転移に先行する」として、分析家が社会的・性的・思想的あらゆる属性を超越した絶対的他者ではありえない、といった。そしてそれでもそうであるふりをしなければならない、と。前者は当たり前といえば当たり前。後者は単なる役割としてという意味ではないだろう。ネイローは『Le transfert』(1974)以来一貫して「精神分析的思考pensée psychanalytiqueそのものが抵抗である」と言っているらしい。と同時に「要求としての逆転移(contre-transfert comme demande)」ということも。応答ではないということだろう。


多分この辺について詳しく書いてあるのがNeyraut, M. (1988) Les destins du transfert: problèmes méthodologiques. Revue française de psychanalyse 52:815-828だと目星をつけているのだが。Le transfert : étude psychanalytiqueもに読みたい。 

週末、何も書き物が進まなかった。もうだめだー。仕方ない。おとりあえず良い1日にしよう。

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ジェラート、一次過程

空がしっとり。雲もない。今日はどんな雨なのかな。花壇に植えたお花や野菜が発芽しはじめた。かわいい、と呑気に眺めていないで間引きしなくては。毎日なんらかのお花の写真を撮っているけど自分で育てる過程も写真に収めながら育てよう。それにしても植物のことも調べ出すとキリがなくどんどん時間が経ってしまう。

昨日、北海道の中標津町、ジェラートシレトコのジェラートをもらった。遅い夕飯を食べたら動けなくなってしまったのでひとつ食べてしまった。エネルギーが残っていると色々やるべきことをできるけど残っていないと食べる気力しかない。美味しかった!箱に入っていた商品の紹介の紙をなんとなく眺めていたら「食べる前にほんの10分間お部屋の中に置いておいて」と書いてあって危なかったーと思った。私はこういうのはどれどれと食べながら読むことが多いので、硬いままいただくところだった。でも昨日の私に10分は長く、ヒーターのそばに置いて最速で柔らかくしてネリネリして食べた。中標津かあ。知床と根室は行ったことがあるけど中標津はないかも。通ったかもしれないけど覚えていない。酪農が盛んということでジェラート。きれいな景色なんだろうなあ。行ってみたい。美味しかった。ジェラートはアイスより罪悪感少ないけど、そのあと変な格好で寝てしまったのは失敗。疲れてるといつもしないことをしていつもと違うスペース作り出してそこで寝てしまったりする。なにやってるんだろう、と眠い頭で思ったりもしながら。すぐそこのベッドに行けばいいだけなのに。ジェラートをとりにいく気力があったのならそれくらいすればよいのにね。まあ、夢見る状態に近づくと人は変なことしてしまうものだね。一次過程に向かう状態。

Reading Freudで『心理学草案』を精読している。これはわかるとかわからないとかいうものではなく、単にヒステリーの真的過程を解明するためのものでもなく、フロイトの自己分析のプロセスで書かれたものであり、概念になる以前の原初的な言葉が生じるまでのニューロンの運動を体験してみよう、という論文だな、など話しながら読んでいる。つまりフロイトも一次過程の心に浸されつつなんとか言葉と思考でそんな自分を宙吊りにしながら書くみたいなことをしていたのではないかと。『夢解釈』だってそういう位置を取れないと書けないと思う。そしてそれはかなり病的な状態になる、ということでもあると同時に、精神分析過程ではどうしようもなく生じてしまうので、設定がそれを助長すると同時に、設定がそれを抱えていくということをする。フロイトの自己分析には限界はあれど、こういうのを読むとひとりでふたりの役割を十分にやっている気がする。そしてそれはそのまま精神分析家の役割ってただ他者として存在することではないわけで、とか色々照らし返されるものがある。フロイトがヒステリー患者から受けた衝撃をその心的過程をなんとか形にするという使命に変えたのは、自分の一次過程に十分に浸されたからなのだと思う。そこをを生き延びるにはこういう困難な知的作業を同時にする必要があったのではないか。昨晩は、第三部、正常なニューロンの過程について書かれたところをみんなで読んだが、不快、注意、表象、指標、欲望、思考など私たちでも知っている概念を言葉の意味を固定化する以前の動かせる状態で読んでいかないと私たちが知っている範囲(めっちゃ狭い)でしかこれらを捉えられなくなる。それだとフロイトを読むことはできないので、かなり夢見に近い状態で読んでいかないとかもね、など話した。面白かった。その前の事例検討も非常に面白かった。いろんな実践から学びつつ古典も読んでいく。今日もそんな1日になる。疲れ知らずなら余力で書き物もできるだろうけどどうなることやら。昨晩の自分の状態を思い返すに無理そうな気がするがなんとかしましょう。

鳥たちが鳴きながら素早く通り過ぎていった。雨、あまり降りませんように。

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話す、離す、引き伸ばす

今日も空が薄い。また雨かな。今降っていないみたいだけど。昨日はこれから晴れてくるのかなと明るくなりつつある空を見ながら用事を済ませて出てきたときには雨が降っていた。iphoneで天気予報を確認したら予報から晴れマークが消えて雨マークになっていた。銀行に振り込みに先に行けばよかった、と思ったが、東京は歩いて銀行に行けるからいいよなあ、と思ったり、でも実家にいるときはどんな近くても車だったな。

根室で震度5弱。寒い地域の夜中の地震。続いて起きることがありませんように。自然災害に対してはこう祈るしかないが、人に対しては祈るしかないような事態はできるだけ起きない方がいい。熊のことだってそう。政治なんてもっとそうなはず。でも一番論理的であることが難しいのも一番祈りが届かないのも私たち人間なのかもしれない。論破とかいったところで物言わせなくしてるだけでしょう。それは論理的であることとは違うと思う。

人が人を裁く、ということについてももっと考えていかないと危ないと思う。絶対に声を上げなくてはいけないことはたしかにある。その場合、できるだけ声を上げる人を孤立させてはいけないわけだけど、絶対に声を上げなくてはいけないことほど言葉にしにくいことだったりするから難しい。その人がその人の言葉で語れるようにまずできることは時間と場所の確保だろうとは思うけど。SNSでまるでそれがすべて正しいかのような情報がたくさん流れてくるが、それは個別に向けたものではないのでどんな著名人がいったことだとしても自分のことだと思ってはいけない。そういう情報を心の栄養にできている場合はいいが、心に圧力がかかっているときは情報を情報として自分から引き離すことが難しくなっていることが多いからインプットでどうにかしようとするとかえって混乱することもある。カウンセリングで患者さんたちはいろんな本や検索したことの話をしてくれるけど、自分がなんでその本を手に取ったか、どうしてそれを検索したか、とかの話にその人のニーズが現れているように思うので、守られた場所でそれについてはなされることの意義は計り知れない。その場合も理由が大事なわけではなくてあれこれ話すこと自体で自分の中の「そうしたい自分」みたいなのを離れたところから見てみるとちょっと違う景色が見えるかもね、くらいだけど。欲望のお話。「話す」は「離す」であると北山修はじめ、心に関わる人はよくいうが、そのためには実際の時間と場所を準備することも大事だし、まずは遅延という時間を取り戻すことが大事だと思う。誰かに責任を問うということは自分が誰かを裁く権利とどう関わるかということでもあるので、とにかく時間の効果に意識的でありたい。誤りだろうが断片だろうがものすごいスピードで発信され、拡散される時代に正義などなさそうなものだが、自分は間違っていない、という信念のもとそういうことは平然となされ、それを受ける側がどうなろうと当然の報いくらいに思われたりする恐ろしい時代。できるだけ時間を引き延ばし、ゆっくり話される言葉を私は大事にしたい。衝動性の背景にもそれは流れていると思える場合に。

先日、マイナンバーカードの更新が必要で手続きして取りに行ったけど同じ書類内で「個人番号カード」と「マイナンバーカード」の両方が自由に使われているのだけど、これわかりにくい人いないのかな。同じでしょ、同じだよね?と思ってしまった。早くも生活の当たり前みたいになったマイナンバーカードだけど私は全然慣れていない。手続きも私より明らかに高齢と思われる方が担当してくれたけど流れ作業というか、言われるがままにやってれば交付はされるのだけどこんなに考えないで進められる作業で個人情報が管理されているんんだな、と思い、途中、自分のほうのスピードを落としてみた。結果はマイナンバーの交付がされるというだけで何も変わらないのだけど、担当の方もきちんと名乗ってはじめてくれたわけだし、私は私の個人情報を大事にしたいのでお願いしますという気持ちをこめた、というのは後付けだが、このスピードは良くない気がする、というときは自分の方を緩めるというのは悪くないと思う。時間引き伸ばし作戦。相手をイライラさせたり次の人を待たせたりというのもあると思うけど、ロサンゼルスのスーパーでは後ろに列ができてもレジの人はおしゃべりをしていたし(それがいいと思っているわけではなく)、実家のほうの郵便局では顔見れば今日何しにきたかをわかってもらえたし(わかってもらうことが大事なわけではなく)、遅延させることで思考のスペースを取り戻すって感じか。

こんなことを書いていないで書くべきものを書かなくてはいけない。こちらは締切までに書けそうにないが遅延したら次の機会は一年後。出せなかったら出せなかったで仕方ないけどあと6日。粘れるかなあ。今週末は休みがないからまとまった時間も取れないがまとまった時間があると遊びに行きたくなってしまうから活かすこともできない。とりあえずそれぞれがんばりましょう。雨、少し降ってる、東京。このくらいで強くなりませんように。

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地震、政治、焼きまんじゅう

双葉町と浪江町で震度3。朝のバタバタで気づかなかった。2011年、東日本大震災で被災地へいかなかったら福島の町はこんな身近ではなかった。余震が続くなかの被災地訪問だったが、被災したみなさんの揺れに対する反応にとても切なくなった。うまく眠れないという悩みを抱えて受診する人が多いようにリラックスすることはただでさえ難しい。震災は震度が一番大きかった時間で終わるわけではなくむしろそこから始まる。それはその後のものすごい長い時間に影響してくる。能登のように地震で生き残り、大雨で亡くなった人もいる。亡くなられた方はもちろん、さっきまでいた人を目の前から、腕の中から失う体験は、これからの時間だけでなく、今ここの時間、それぞれが生きてきた時間にも遡って影響を与える。影響の中身は様々に違いないが、地震がトリガーとなって前景化する記憶はそれがなかったら出会わなかったものかもしれない。トラウマやPTSDという言葉を使う以前にそれぞれの体験を現場からのものとして忘れずにいたい。被災地の地名を見るたび、聞くたびに私に駆け巡る景色も言葉をなくすものだった。一緒に支援に入れてくださったみなさんの健康も祈る。

今朝の東京も寒い。カーテンを開けなくても薄いグレーの空とわかる。一応開けて確認したけどやっぱり思ったとおりの空色だった。

高市内閣に対する若い世代の支持率が高いそうだが、身近な若者たちの様子からもそれは感じる。わかりやすく自分とは関係ないと思わせてくれるからかもしれない。震災もそうだが、私たちの多くは当事者になる以前に当事者意識を持つことはしない。どうにかしてくれる「感じ」というのにお任せして、何かやってくれる「イメージ」で自分の不安を防衛する。それが一般的だろう。だから曖昧な「感じ」や「イメージ」が本来何であるかを探る行為(勉強)が必要だし、政治は自分たちを代表しているだけで、自分が気に入らないものや人を排除してくれる機関ではない。人は自分の理解を思い込みと思いたくないし、何か大きなものがそれに賛同してくれる「気がする」という感触を得られればなおさらそれを変えようとしない。すぐには変わらない困難に対しては時間をすすめるのを早めることは逆効果だが、大胆に何かを打ち出すやり方の方が魅力的に見えるということもあるのだろう。異なる他者と生きざるを得ない人間の知恵は、他者との間においても自分だけの時間を確保できる心から生じると思うが、「自分だけ」が他者の排除と結びついていたらそれはかえって囚われている状態で自分をなくしている状態だろう。ナルシシズムがあたかも自分の思い通りの世界を構築しているようでその内実が空虚であるように。

今朝なh、群馬の名物焼きまんじゅうの味をマフィンとして焼き上げたMOO-FACTORYの「焼きまんじゅうマフィン」。

”マフィン生地には群馬県中之条町の「こうじや徳茂醸造鋪」より仕入れた、麹から作った甘酒を仕込むこだわり。味付けには前橋市朝日町の焼きまんじゅう老舗「たなかや」の秘伝の味噌ダレが使われています。 ”

とのこと。ウェブサイトはこちら。焼きまんじゅうといえば「たなかや」というイメージはたしかにあるが「たなかやよりこっち」という店をおすすめしてくる前橋市民もいてローカルフードならではのこだわりを感じられて面白い。ほかほかを味噌だれの香りで味わうとても素朴な焼きまんじゅうだが、こうやって形を変えて受け継がれていく強さをもっていたんだな。郷土の力。

それにしても寒い。やらねばならないことばかりなのに本当にどうしたものか。とりあえず取り組もう。良い一日でありますように。

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「想起」、相手あってこそ

夜明け前の空の青。静か。

精神分析における言葉と時間の関係を考えるにはベルクソンが必須だと思って平井靖史さんの本を中心に色々勉強しているわけだが、精神分析だけでも相当の勉強が必要なので時間が全く足りない。引用できるほど理解できるとは思っていないのであくまで精神分析が展開してきた時間概念を精緻化、あるいは展開するために読む。平井さんの本は難解ではあるが、本当に丁寧に書かれているので何度も読んでいるとだいぶわかった気がしてくる。

たとえば、フロイトの「想起」について考えるときに、平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(青土社)を読んでいると、ベルクソンの『物質と記憶』を引用して書かれている部分に興味を惹かれたりする。なかでも考えさせられた部分を脚注だけど引用すると

「通常は、「夢見る」こと自体が、生を司る欲求や意志の緩みに起因するわけだが、想起の場合は、逆説的なことに「夢見ることを欲求する(vouloir rêver)」(MM87[115])ことが必要だとされる」

とか。なんとなくわかった気分になるでしょう。こんなふうにわかった気は直感を得るためであればわりと大事だけど間違った理解は学問のためによくないのでフロイトやウィニコットの引用はできるけど、ベルクソンの引用には怖気付く。なんにしてもその直感を使うなら精神分析理論の方をかなり正確に理解しておく必要があるな、と思いながら取り組んできた。私はもともと実践志向だが、理論なき実践はないと。はいえ、私の頭では実践なしで理論の理解はできなかった。フロイトの著書に早くから出会ってはいたが、どちらかというそれまで慣れ親しんできた文学的な興味で読んでいたし、いざ、こういう実践の中に身を置くとすごく特殊なことをものすごいスピードで思考しながら書いていたんだなと思う。その思いつきの様子が大体書簡にも書かれているのも面白い。相手あってこそ。

相手あってこそ、という気付き、誰にも頼らずひとりでやってきたつもりが全然そうではなかった、という気づきは大事だが、誰にも頼れない環境がある子供がいるのもまた事実で、というか、本当に事実なんだよ、ということを知ってほしいと思うことがよくある。頼りたくても、というより、頼らなくては生きていけない中をぎりぎりで生き残ってきた子供たちがいる。それでも生きられたのだからいいじゃん、と軽々しい言葉を投げかけられながら生きてきた子もいる。もちろん養育者を守る福祉制度(親への支援、保育士の待遇、研修)の不足など社会施策の問題もあるし、子供単体でも母子ユニットでも父母子の三角形でもそれだけで生きられるはずもない。なのに、という現実を考え込んでしまうことは多い。多分、普通に困っている人が優先される政治はこれからもずっと遠い。「普通」が変わっていくから。すでに変わっているから。とにかく無事で、と願うより、安心して送り出し当たり前のようにまた会える毎日がいい。どうぞ良い一日を。

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ピアノ、音、冬

第19回ショパン国際ピアノコンクールで桑原志織さんが4位に入賞した。素晴らしい演奏だった。コンクール直後のインタビューも知的で落ち着いていてとても素敵だった。ピアノが弾けるだけでもすごいのにズゴイひとの音は全然違う、と言っていた子がいた。本当にそう思う。小さい頃からいいものに触れられたらいいね。

一方、プロの音楽家を目指している子と一緒にその子がコンクールで賞をとったときの演奏を見返していたとき、途中でその子がにわかに落ち着かなくなり「このあと!うわっ、聞かないで!はずかしい!」とか言いだした。私にはどの音がその子にとっての失敗だったのか全くわからなかった。プロになる子はやっぱりすごいのじゃな、と思った。

桑原さんはコンクールを通過点としつつやれることはすべてやれたとおっしゃっていたがこの子みたいな瞬間もあったのだろう。プロの耳の細やかさを私は一生体験できないけど耳と同じくらい繊細な指との協応から奏でられるその演奏に心振るわすことはできる。魔法だな。音楽って素敵だ。YouTubeで無料で聴けるなんてさらに。良き時代かも、そこは。

今日は雨。雨の音はみんな子供の頃から聞き分けてきたと思う。雨自体の音ではないだろうけど。風、屋根、土、アスファルト、傘、いろんな素材を介して聞こえてくる雨。詩人や俳人も音楽家と同じように良き耳を持つ人たちだと思う。

「氷点下になると、川の流れは白い氷の下に閉じ込められる。凍る瞬間も揺れ動いたため、川面の模様や同心円状に広がった波紋が透けて見えるところもある。表面は厚い氷に覆われていても、川底では変わらず水が流れ、魚が泳いでいるはずだ。どれだけ硬いのか確かめたくて、私は足元の石ころを拾い、氷の上に投げてみる。石は鈍い音をさせて跳ね、そばに落ちる。歩いてもよさそうなのに、なかなか足を踏み出せない。」

ハン・ジョンウォン『詩と散策』 시와 산책(橋本智保訳)の「寒い季節の始まりを信じてみよう」の一節だ。まだ冬ではないが冬を感じると読みたくなるエッセイ。たくさんの詩人の詩が引用されている。

こうやって能動的に音を発生させて拾うことも私たちはよくやっていると思う。最初は自分の動きに呼応して偶然聞こえてきた音を拾う。次は意識して立ててみたのを拾う。そして「ならこれは?」と少し力を弱めたり強めたり位置を変えたり。一つの音との出会いが次を広げていく。自由連想みたい。精神分析の言葉もこうやって聞かれていく。単に内容ではない。

昨日は寒くてすでに平均以上の厚着をしているのに置きっぱなしの上着をさらにかぶっていた。カーディガンにもなる膝掛けみたいなやつ。きれいに四角に畳めるのにきちんと洋服にもなるのすごい。寒くてなにもしたくない病がすでに始まっているが、ひたひたと近づいてくる冬の支度を楽しくできるように工夫できたらいいな。とりあえず今日を温かく過ごしましょう。

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できることできないこと。

沖縄から伊豆諸島はまた大雨か。熱帯低気圧。八丈島は今夜も激しく降るらしい。まだ断水が続いているところもあると聞くけど島の産業への打撃も深刻だろう。募金くらいしかできないけど、状況は追える範囲で追っている。

台風24号は、南シナ海を1時間に25キロの速さで西に進んでいるとのこと。日本にはこないみたい。フンシェンというらしい。

昨日、台風22号で大きな影響を受けた八丈島の方の発信を見たのだけど台風に慣れていて対策のための知恵が豊富なことにも驚くけど、被害は甚大で、支援が必要なことに変わりはない。19日のニュースで、陸上自衛隊が自衛隊としてははじめて、一般施設と自衛隊装備の組み合わせによる入浴(加水)支援活動を始めたとあった。これまでそういうことはしていなかったんだね。東日本大震災のとき、福島県郡山市で避難所として使用されたビッグパレットふくしまに通っていたけど、そのときは裏の広いスペースに自衛隊が独自で入浴スペースを作っていて、中のピリピリした空気から逃れる場所にもなっていたように思う。私たちは「遊びの出前」と称して、調理ができるトラックと一緒に子供たちの遊び場をつくって一緒に過ごしていたのだけど、怒号もきこえたし、あの独特の空気は今もすぐに思い出せる。入浴というのは安全であることが大前提だから、温泉施設でなくても、その後の復旧のことも考えれば元々あるものを利用できるならしたほうがよさそうなものだけど、支援のスピードが変わってしまうのかな。それぞれの工夫を共有するって意外と難しいものなのかもしれない。避難所でのプライベートなスペースの確保などについても部分的には素晴らしい取り組みが紹介されるようになったけど、いざ災害が起きたときにそれらが当たり前のように展開されるほど認知されてはいないだろうし、毎回、大きな災害が起きるたびに、外国はこんなに進んでいるのに、とか、前回の災害から何も学んでいないのか、という声が出るのは本当に考えなければいけないこと。私も誰もが被害者になりうるという実感はあるけど、やっぱり支援が必要な「そのとき」に対して受け身であるとは思う。支援者としての体験を活かせるかと聞かれればその自信もない。ただ「わがまま」を代わりに言える状態は作っていけたらいいなと思っている。カウンセリングや精神分析はそういう場としても機能しているけれど、これまでNPOで繋がってきた人たちの繋がりも再び強くなっているので生かしていけたらいいなと思う。

社会学者で社会運動研究者の富永京子さんは『みんなの「わがまま」入門』(2019、左右社)でこう書いている。

”「わがまま」を言うべき立場の人はなかなか言い出せない、だから代わりに言ってあげることは大事だし、もしかすると代わりに言うことがじつは自分自身の言いたい「わがまま」と結びつくことがある。”

この本は誰にでも通じる言葉でとてもわかりやすく書かれているのでおすすめ。

今朝も寒い。パーカーを羽織った。昨晩も寒かった。深夜に暖房をつけてしまった。冷蔵庫の中は週末のつくおきで充実、のはずがなんだか減りが早い。食べすぎているのか?冬眠もしないのに?熊などの冬ごもりは疑似冬眠というそうだ。時々覚醒して排泄や摂食などを行うから(by広辞苑)。それはともかく、隙間時間にせっせと作るより、もう毎日鍋でいい、みたいな気分になったりもする。寒がりがめんどくさがりを助長するが、こだわりは特にないのでそれでよし。温かいものは大抵美味しい。でもインスタで流れてくるハロウィンおかずとかはちょっとやりたいな。ちょっとの手間で済むのならかわいく楽しくやりたい。

熊といえば、『ともぐい』(新潮社)で直木賞を受賞した河﨑秋子さんのソロキャンプ密着記を読んだが、彼女自身が酪農に従事したこともあり、ソロキャンプにはまっている現場の人だと知ってびっくりした。羆文学という言葉がいつからあるのかわからないが今年はどうしてもそういうものを手に取ってしまう。怖いのだ、要するに。軽い登山でも毎回怖い怖いと思っているが、東北ではこれまで熊と会わなかった街中にも出没しているし、もうどうしたらいいかわからない。でも河﨑さんの話を読んでいるとまだできることはあるんだな、という気はする。最近、誰と会っても熊の話題が出るような気がするし、人間にできることってなんだろう。

話は変わるが、この前、精神分析家のくせに催眠って、とジェラール・ミレールの嘘っぽさを書いたけど、それはジェラール・ミレールが本当にひどいことをしたからであって、催眠自体は今も効果を認められているし、私は大変かかりやすい。教育相談室に勤めていたときに外部から催眠療法、イメージ療法の先生をお呼びしたときに実践してもらったら簡単にかかってしまった。管理職の先生方は全くかかっていなかったのに。かかっている自分に笑いながらも逃れられない状態が可笑しかった。あれはなんだったんだろう。今もああなるのかな。なるのだろう。またやってみてほしい。

そもそもフロイト精神分析の最早期はパリの神経学者シャルコーであり、彼がウィーンに持ち帰ったのは催眠療法だった。ヒステリー研究を共にかいたブロイアー。彼らは催眠を医師の指示に従わせるものとしては使わなかった。催眠による想起自体に治療効果を見た(症例アンナ・O)。その後、フロイトが催眠を放棄したが、生涯気にしてもいた。なんてことをわざわざ書く必要もないのだが、昔、中学校での先生向け講習会やクリニックでやっていた自律訓練法の位置付けってどうなっているんだっけ、と思ったから。自律訓練法はドイツの神経学者シュルツによって体系化された。催眠の一種と言っていいだろう。私は当時動作法とか身体へのアプローチにも関心が強かったので、クリニックでたくさん経験できたことはよかった。そこでスクールカウンセラーをしていた学校で先生方にやってみたわけだが、なんと床が冷たすぎて、結局温かいお茶を飲みながらの座談会に変更になった。心理療法の前提に環境調整があることをわかっていてもこういうことは起きる。そしてこういう不備を共有し、そこに別の手当てを施すことができることも臨床をする心理士には必要だろう。これは技術ではなく、不備を指摘してもらえたり、それを素直に認められたり、それを笑い合えたり、それらを抱える別の状況作りだったりする。つまり、割と当たり前のことだ。スーパーヴィジョンをしていても、仲間内で話していても、鍵ってどうしてる、とか、カレンダーどんなの使ってる、とか、車椅子の置き場ある、とか、休みの連絡ってさ、とかそういうことは結構常に大事で、でもそこに正解があるわけではないからあえてトピックにするようなことでもなく、それぞれがいろんな状況を体験してきているのを共有することが意義深い。患者さんの話だってそういう細かいことから生じる出来事がほとんどだと思う。今朝鍵かけるの忘れて出てきちゃって、とか、まだカレンダーが8月のままだって気づいたんですよ、とか、子供の頃はまだ車椅子が小さかったから、とか、私、その日、すっかり休みだと思ってて、とか、いうことがあったら、その続きは一人一人全く異なるわけで、まあ、当たり前だが。体験していないことの方がずっと多いわけだから、思い浮かべられる状況なんて限られている。でもそのものさえ知っていれば言葉にしてもらうことで想像が広がっていく。そこにはもちろん誤解もあって、何ヶ月もたってから、あ、そういことか、と驚くこともある。そういう心の不確かさや言葉の曖昧さを実感させてくれるのが精神分析で、そういうのを忘れないでいられる密度の濃い設定はそれらが無意識と交流していずれ別の形を得るのを待っている設定でもあるので時間もかかるけど、触れ得ないものに触れるのではなくて、触れられないと知ることの豊かさは計り知れない。すぐに結論を急ぐ人には全く向いていない技法だけれど自分のペースでじっくり考えたいよ、という人には有効だと思う。そういうのも相手によって違う自分だから。どうして私はこの人の前だとこんなに待てないのだろう、とか、なんか今急に思い出した、ずっと忘れてた、というかそんなことあったのかってびっくりしてる、とかいろんな驚きと出会うのが精神分析だから、そういうのいいかもしれない、と思える人にはおすすめしたい。時間とお金という問題以外に、フロイトたちが発見した想起というものが持つ自らに対する侵襲性がお互いの関係を難しくすることは最初から致し方なく見込まれることではあるのだけど、言葉と身体の相互作用も丁寧に観察しつつ、分析家の方も患者さんの言葉が守られる場での鍛錬を欠かさずやっていくことが大事。

なんか何ができるだろうなあ、何ができているのだろうなあ、ということを考える朝になった。暖かくして過ごしましょう。

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精神分析 読書

お隣の国の文学、心を守る

昨日『文学カウンセリング入門』を読んでいると書いて、著者の参照URLをクリックした人は読んだと思うけど、著者のひとりチン・ウニョンの「私は古い街のようにあなたを愛し」という詩集も詩集としては異例の販売部数を記録したそうだがまだ日本語にはなっていない。しかしその詩集に収められている2014年4月に起きたセウォル号事件の遺族のために書かれた詩「あの日以降」は『文学カウンセリング入門』の訳者あとがきでその一部を読むことができる。それにしてもまだ10年か、この事件については「もう」ではなく「まだ」と感じるのはなぜか。この事件に対する韓国の文学者たちのアクションはそれを直接描く作品だけではなく、その後も続いているが、『目の眩んだ者たちの国家』(キム・エランほか著、矢島暁子訳)は素早いアクションの中の一冊である。この本は「セウォル号事件で露わになった「社会の傾き」を前に、現代韓国を代表する小説家、詩人、思想家ら12人が思索を重ね、言葉を紡ぎ出した思想・評論エッセイ集」(出版社Webサイト)だ。

私は斎藤真理子著『隣の国の人々と出会う——韓国語と日本語のあいだ』(創元社、2024年)『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2022年)でこの本を知った。斎藤さんも韓国の作家たちの走りながら考えるスピードについて書いていた気がするけど、斎藤さんも仕事が早い。もちろんそれはすぐに次なるものが前景をなすような早さではなく、どんなに基本的で大切と思われる事柄でもあっという間に忘れる私たちにその隙を与えない早さでもある、ような気がする。とてもありがたい。『韓国文学の中心にあるもの』は40ページが加筆された増補新版も今年はじめにでた。セウォル号事件については本や映像で読んだり見たりしたが、事件後の今、までも含め、本当に言葉を失うひどい事件である、と同時に、キム・エランが表現した「文法自体が破壊されてしまった」状況はまさに日本の言葉の使用の現状であり、私が日々出会う精神分析状況における言葉の使用であると感じる。

週末、詩集や句集がたくさん置いてある本屋さんに行ってとても久々なほっこりを体験した。やっぱり本に埋もれているような時間が昔から安心する。子供の頃はこんなに豊富でなかった韓国文学にたくさん影響を受けてきたけどここで書くにはあまりにもインパクトが大きかったのがチョ・セヒの『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社)だった(とか言って書いたかもしれない)。多分、子供の頃に読んだ『ユンボギの日記』の記憶と混ざったからだと思う。おそらくこの本たちは同時代のことを書いている。きちんと調べてはいないけれど本を読んでいるとこういう重なりあいはよく起きる。行ったことのない土地の、まだ生きてもいなかった時代の子供や大人が生々しく立ち現れ、子供のときの私と大人になった私もそこに立たされる。その時代の空気に触れる。何年経っても繰り返されるばかりの失望や絶望に慣れてしまったのか慣れることなどないのかわからない、そんな登場人物に読者である私もどう振舞っていいかわからない。見過ごさないことでまだ自分は大丈夫か、と少し安堵したりもする。

自由を与えたふりをして、無意識のふりをして(無意識かもしれないが)搾取するのが当たり前、あるいは自分の思い通りにしたいだけの人、弱い立場の人の尊厳を考えない人の文脈に巻き込まれてはいけない。相手が国レベルならそおさら尊厳をひたすら主張しなくてはいけない。個人レベルでも基本的に相手を見下している人は表舞台に立ちたいだけの自分を支えている人のことなんて真面目に(というか普通に)考えることなんてしない。そういう人に限って自分の世界の狭い「普通」や「常識」を主張する。権力を握る人はそういう人が多いけど迎合する必要もなし。権力って官僚とか管理職とかそういう人だけが持っているわけではなくてそこらじゅうで権力闘争は繰り広げられている。私は、そういう人の提供する場で嫌な思いして荒んだ気持ちになるのは自分が辛いし、私が辛いと周りに優しくもできなくなるからそういう人には意見だけしてあとは様子見。意見しても何も変わらないし、強気でなにか言われたりするだけだけど意見しておかないといつのまにか同意と見做されるからそれは人として嫌。そんな面倒くさいことに関わらずにのんびり生きていきたいがそれは子供に優先されるべきこと。周りの人たちがせめてそうできるように、と思う。そしてやっぱりいろんな人と会って、聞いて、話して、ということをきちんと続けていこうと改めて思った。自分の欲しい言葉が自分のペースで与えられないと排除の心が動くような大人にはなりたくないしなってほしくない。子供のうちはいたしかたなくそうなることがあるからそこにはたくさんの守りが必要。お隣の国の本をたくさん読める時代に間に合ってよかった。そうそう、10月は演劇も2本見られたし、きちんと文化の秋楽しんでる。でも10月もあと10日。困った困った。北海道はもう雪なのね。寒くなると身体がつらくてどこにも行きたくないし何もやりたくないってなるから秋のうちに色々がんばれたらいいな。今週もがんばりましょう。

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俳句 短詩 精神分析 読書

雲とか本とか。

空の雲がすごい。お隣の金木犀がようやく強く香り始めた。秋だなあ、と思うけど、これをどう描写したらいいものか。昼間みたいな水色に白いモコモコが広がっていたり、薄いグレーで真ん中だけ塗られたような大き目だけど曖昧な形だったり、ポッカリでもなく夏雲みたいな立体感もなく、かといってのっぺりでもなく絵画のような静けさと明るさで我が家の南の大きな窓いっぱいに広がっている。昼間みたいな水色と思うのはこの雲の明るさのせいかも。朝でも夜でもない感じの光だから昼ということもないが雲なのに太陽を遮る感じもなく明るい。

今朝のNHK俳句のゲストは安田登さんだった。能の声はすごい。昨日、『文学カウンセリング入門』(문학-내-마음의-무늬-읽기)(チン・ウニョン、ギム・ギョンヒ著、吉川凪訳、黒鳥社)を読んでいたが安田登さんも日本の古典を通じた文学カウンセラーみたいだな、そういえば。『古典を読んだら、悩みが消えた。~ 世の中になじめない人に贈るあたらしい古典案内』(大和書房)などの本も書かれているし。日本にもチン・ウニョンとキム・ギョンヒが先生をしている韓国相談大学院大学みたいなのがあればいいのに。でも私がいっていた白百合女子大学は当時は児童文化学科として発達心理学と文学は今みたいにきちんと分かれておらず学際領域ということで自由に授業をとることができた。私も詩人や作家、編集者、翻訳家、児童文学者である先生方の授業がとても身近だった。あとから思えば錚々たる顔ぶれの先生方だったが当時はあまりよくわかっていなくてただ楽しくて児童文学の研究会に顔を出したりしていた。専攻は発達心理学だったから東洋先生と柏木恵子先生には特にお世話になったけど、先生方もよく本の話をしていた。一般教養の数学の先生とはよく本やCDの貸し借りをした。楽しかったなあ。私は卒論もグリム童話の理解だったし、小さい頃から自分を支え、変えてきてくれたのは文学だという感触は強い。精神分析を受けているときも今こういうの読んでるんだけどということばかりいっていた。どうしてそれを手に取ったのかとかも自由連想の中でふと思い当たったり。この前、フランス精神分析の勉強会で読んだアンドレ・グリーンの論文で、彼らは神話も詩も古典もなんでも引用できる知識を備えたインテリなわけだが、それらは私たちにとっても全然遠いものではないし、そういうのをインテリだな、で済ませるのは大変もったいないと思った。断片でも出会えたら確実に心に残る文章は多い。本を読むことはカウンセリングと同じ効果があることを私も強調したい。『文学カウンセリング入門』には谷川俊太郎の詩も引用されている。谷川俊太郎は韓国の詩人と対談した本、谷川俊太郎&申庚林著「酔うために飲むのではないから マッコリはゆっくり味わう」(クオン)も出ているし、近いところでいろんなこと話し合っていくのは素敵なこと。いろいろ読んでいろいろ話していろいろ耳を傾けて今日も過ごしましょ。東京は曇り、夜雨なのかな。今の空は明るいからこのままがいいなあ。よい一日を。

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お菓子 精神分析 精神分析、本

群馬のおせんべい、言葉の使用

眠い、というか寒い。寒いとお布団に帰りたくなってしまう。窓を閉めればいいのか。朝の空を眺めるのが日課だ。早朝、東の空の雲がさまざまな形で薄く光を纏っていてとても綺麗だった。今はほかの空と馴染んでグレー。それでも東京は天気予報は晴れだった気がする。

今朝は夏の間、水出しで作ろうと思って忘れていたとうもろこし茶をお湯でじっくり時間をかけていれた。香ばしくていい香り。群馬で買ったいそべくりーむせんべいと。なぜかひらがな。そしてこれは「上毛かるたデザイン」。群馬出身の人ならほぼ知っているであろう上毛かるたのよく知られた絵札が読み札と一緒に描かれたデザイン。今朝いただくのは「草津よいとこ一度はおいで」ではなく「草津(くさづ)よいとこ薬の温泉(いでゆ)」の「く」。こんな絵柄だったっけ。草津といえば湯もみ。草津節とは別に湯もみの唄もあるんだって。いそべくりーむせんべい、美味しい。高崎駅の新幹線改札のそばに群馬のお土産が買えるお店があるのだけど、群馬はほかにも三俣せんべいの商品もあるし、旅がらす七福神あられもあるし、パリッとしたお菓子が美味しい。からっ風で乾燥しているせいかしら。三俣せんべいも老舗中の老舗だけど残っていってほしいなあ。今ふと下北沢のせんべい屋さんを思い出したけどあそこもなくなってしまったのだっけ。なくなる前に買ってきたの、といっておばあちゃんにもらったことがあったけど。そのおばあちゃんは102歳まで生きた。近いうちに下北沢行くから見てみよう。多分ある、気がする。最近、通った、気がする。

冒頭で「さまざまな」という言葉を使いながら、こういうのは屁理屈かもしれないが、と思ったことがある。この前、ラカン派の本を読んでいて「父の名」を「さまざまな父の名」といっているところがあった。誰の本だったか忘れてしまったが。そういうのを見ると私としては、精神分析において「父の名」を「さまざまな父の名」と複数性を強調したところでさ、と思ってしまう。もちろんそんな簡単な議論ではないけれど。キリスト教の三位一体はよくわからなくても説得力があるけど、日本人の多くは馴染みがないし、何かを繋ぎ止めているのは「症状」だという方が伝わりやすいし、ラカン的には「父の名」って症状ではなかったっけ。症状って快不快のあわいで自ずと複数性を備えているし。たしかに「父の名」を単数で使うことで症状を維持することが必要な病理はあると思う。症状は多少あったほうが健康とも言えるので、とか「さまざま」問題はさまざまな問題というより、別の言葉にしないとぐるぐるした議論になりがちと思う。

この前、テレパシーのことを書いたときに少し書いたかもしれないけど精神分析は言葉の曖昧さ、流動性を当たり前に考えつつ、それを理論化してきた学問だから意味の強い言葉の使用は厄介だと思う。

メルツァーが『夢生活』で書いたことが精神分析における言語の使用を考えるときにとても役立つと思うけど思考の厚みがすごいので難解ではある。この辺なんかは基本的に押さえておきたいところだしわかりやすい。

第13章 患者と分析者における、夢を見ることと経験から学ぶこととの関係

分析において,われわれは通常,患者の情動的藤にかかわる思考過程に接近するために夢を研究する。しかし、ときおり、とくに患者が分析の訓練生や分析の方法に職業的に関心を持っている人の場合に、異なった種類の夢が生じることがある。これらは、自分の心がいかに働くのかについての患者の考えを反映しているように思われる夢である。それらは、「理論的な」夢とでも呼んでいいかもしれないものであり、精神分析そのものについてではないが、自分の心の働きに関する経験についての患者自身の理論である。

精神分析の歴史を通じて、いわゆる「心の理論」は、分析者が患者や自分自身に耳を傾け、観察し、理解しようと努める際に用いていると考えている、心的装置に関するモデルであり、それは変化し続けてきた。フロイト自身のモデルは、彼が仕事をしていく中で変わっていった。最初に彼が仮定したモデルは、ある種の電話のやり取りに似ていた。彼は、精神分析的な研究をする前に,「科学的心理学草稿」として知られている論文においてこれを推敲した。これは、神経学者のモデルであり、脳においてメッセージを伝達する装置にかかわっていた。それは、メッセージの意味にはまったく関係がなく、神経ネットワークを通じてメッセージが分配され伝達される仕方にのみ関係していた。彼は、いったん分析的研究を始めると、ある意味で最初の理論の補足である、2番目の理論、すなわちリビドー理論をつくり上げた。これは、「心的エネルギー」の分配に関する理論であった。そこでは、心的エネルギーと性的興奮は、おおむね相互に等価なものとみなされていた。

うん。スッキリしている。もっとずっと難解な部分もあるし、メルツァーの書き方は重みはあるけどごちゃごちゃしてなくて好き。臨床を伴っているから説得力があるのかも。何かを言おうとして引用したのだけど忘れてしまったのでこの辺で。

今日もがんばりましょう。まだ曇ってる。本当に晴れるのかな。調節しやすい服装で行こう。

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料理 精神分析

スパイスとか。

うっすら朝焼けがきれい。朝焼けは雨、夕焼けは晴れというけど、このくらいの薄色だと朝焼けとは呼ばないのかしら。今日の東京は一日晴れの予報みたいだし。

昨日、突然、クミンシードを使ったおかずを思い浮かべ、今すぐ帰って作りたい!となった。スパイスは使い始めると楽しい。植物と同じくスパイスも全然覚えられないけど、私が使うのはクミンパウダー、コリアンダー、ターメリック、チリペッパーが主で、クミンシードとシナモンが時々登場という感じなので簡単。中華料理の香辛料も大好きだけどあまり作らないからまだ賞味期限内に使い切ることができないなあ。北京、広東、四川、上海だと四川が一番美味しい、と若い頃に勤めていたクリニックの先生が言っていてよく連れていってくれた。休み時間まで気使うのはみんな嫌だったのでなんとなく顔を見合わせるときもあったけど自分でお金を出せるような店でもなかったから時々ついていった。美味しかったと思うのだけど、四川が一番美味しい、という言葉の方が残っている。昔、近所に北京料理の店があって安くて美味しかった。中国語が飛び交う古くからの店で、小さいのに中華街みたいな店構えだった。出前もやっていてとても使い勝手がよくありがたかった。どうしてなくなっちゃったのか。同じ名前の店は見るけどチェーン店ではなかった。と書いていたら中華料理が作りたくなった。東京で一人暮らしを始めるときに親が暮しの手帖版「おそうざいふう中国料理」という本をくれた。これ実家にもあって装丁も素敵で眺める本として馴染んでいたから嬉しかった。でも「サッと湯通し」とかも面倒だったし、揚げ物レシピが多いイメージがあってどうも火を使うのに適さない私には眺める以上の価値を見出せなかった。今見ると全然そんなことなくて、出来上がりの美しい写真とそこに向かう工程が数字つきではなく、ただの●の箇条書きでですます調の文章で説明されている様子は上品で素敵。「冷めたら、二枚にへいでから」とかいう表現も好き。普段「へぐ」って使わないから。料理の仕方だって今は揚げ焼きで油の量も少なくて大丈夫って学んだし、面倒さを解消する工夫はそれこそたくさん料理してきた人たちがたくさん開発してくれているから合わせて使っていけばいいのよね、と気楽にどんどん取りかかるようになったのは随分歳を取ってから。色々億劫がる余裕があったのだろうね、若い頃は。それはそれで大事だった。最近、また大学時代の友だちと集まることも増えているからダメダメな頃を笑う機会も増えることでしょう。

そうだ、フロイトの「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)について今日もメモるけど、そういえばボラスの『終わりのない質問』第4章「耳を傾けること」の冒頭でも引用されていたな、と思ってパラパラした。この論文は精神分析における耳の使い方を考えるときの必読論文だと思っている。「平等に漂う注意」というやつ。

「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)からボラスはこちらを引用。

「医師は、自分の注意力に由来する意識的な影響はすべて差し控えて、自分自身の「無意識の記憶」に完全に自らを委ねるべきである」「医師は単純に耳を傾ければよいのであり、自分の心の中に何かを留めることに煩わされてはならないのである」

これってどういうことか、というお話。もう時間がなくなってしまった。今日も美味しいもの食べてがんばろう。

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お菓子 精神分析 精神分析、本

笠原嘉、ジョアン・リビエールなど。

雨は降っていないみたい。時折、鳥の声が高くピーッと過ぎていく。今朝は小田急線鶴巻温泉駅そば(秦野市)アンドリアン洋菓子店のオレンジケーキ。鶴巻温泉駅って降りたことあったかなあ。これは山登りをした人のお土産。アンドリアンさんのは前にもいただいた気がする。オレンジのパウンドケーキ、つぶつぶのオレンジがかわいい。しっとり。面倒だからインスタントだけどコーヒーと合う。

笠原嘉(1928年神戸生まれ)が亡くなったと聞いた。直接お話を伺ったこともないが、中井久夫(1934年奈良県生まれ)や木村敏(1931年旧朝鮮生まれ)などの著作同様、よく読んだ。事例も豊富で、多くの患者さんが投げかけたり、残したりしてくれたものを日常の診療でどう捉えていけばいいのか考え続ける姿勢に多くを学んだ。私は単科精神科病院でその日の診察で心理面接を希望した方の状態や状況に合わせてお話を伺っていくあり方がとても好きだった。医師とすぐに直接コミュニケーションがとれる小さな精神科や小児科のクリニックでの仕事もどうしたらもっと工夫ができるだろうと考えられて楽しかった。今は週に4コマだけ担当させていただいているが、自分のオフィスでの生活が中心になった。精神分析家の資格を得て、オグデンたちがいう精神分析家に「become」するためにこの生活で実践を積み重ねていくことを選んだのだから若い頃みたいにあれもこれもというわけにもいかない。子ども支援のNPOの仕事もしたいし、療育もしたいし、笠原先生の本を思い返すと以前の日々も同時に送りたくなるけれど。今みたいに特定の人たちの中のいろんな部分とお会いする毎日を積み重ねられる時間だってそれほど長いわけではないし、これ以上別の専門の勉強をする時間はない。笠原先生のような本はいくら読んでもいくらでも実践に活かせるわけだから読み続けるけど。それにしても若い頃に読んだ本たちの濃さはすごかった。今とはだいぶ異なる読書体験をしていたように思う。簡単に感想を述べられるようなものでもなく、病気については哲学の方面も併せて歴史から学びつつ、症例から受けるインパクトに身を浸しつつ読んだ。本のおかげでいつでもそういう体験に戻れることに感謝したい。

先日、フロイト「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)を読み直していたと書いた。これはストレイチー訳以前に英国精神分析協会の創設メンバーでもある
Joan Riviere (1883-1962)も訳している。リビエールの大きな貢献である「陰性治療反応の分析への寄与」は最近復刊した重要論文集『対象関係論の基礎 クライニアン・クラシックス 新装版』に収められている。松木先生による紹介文にもあるけどリビエールはストレイチーも参加していたブルームズベリー・サークルにいた才媛で、1916年からジョーンズの分析を受けたあと、1922年2月から11月までフロイトとの分析を体験している。その間にフロイトの著作の翻訳をしており、フロイトが自分を翻訳者として見ていることに不満を持っていた、みたいなことが別の何かに書いてあったことを思い出した。フロイト理論にクライン理論を位置づける困難もリビエールだから説得力ある形でできたのだろうし、それがクラインとアンナ・フロイトの大論争のときの貢献にもなった。それでも自分の分析家から何かの役割で見られることは嫌だよね。そういうふうに使わないでほしいし。リビエールはその後クラインとも距離を置きつつ、文学、芸術分野と精神分析をつなぐ論文も書いていて、学派と関係なくインディペンデントな人だったのだろう、と思う。

1992年のInternational Review of Psychoanalysis,19:265-284にLetters from Sigmund Freud to Joan Riviere (1921–1939) が載っていて、1921年8月12日から1939年1月22日までの期間にフロイトがジョアン・リヴィエールあてに書いた一連の書簡が読めるようになった。私がPEPで読めるのは要約部分だけなんだけどワシントンのLibrary of Congressのサイトから探せるかも?わからない。そこにもフロイトの著作を翻訳し出版することに関するやりとりがあるらしい。リビエールはすでに伝記も出ていたかも、と今思い出した。あとでチェックしてみよう。みんな死ぬけど多くのことを残してくれている。ありがたい。

肌寒いけど風邪ひかないように参りましょう。どうぞ良い一日を。

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お菓子 散歩 精神分析

土偶の焼き菓子、学び

朝は冷える。気持ちのいい季節はもう終わってしまったのかしら。悲しい。今朝は、熱い紅茶と茅野駅そばのアニバーサリーチロルの土偶の焼き菓子をいただく。かわいい。美味しい。長野県茅野市、棚畑遺跡、中ッ原遺跡から発掘された二つの土偶は国宝。お名前は『縄文のビーナス』と『仮面の女神』。ふむ。いつ名付けたのだろう。この洋菓子屋さんは地元の名産品を取り入れたお菓子も多くてお土産にはぴったり。土偶たちは茅野市尖石縄文考古館に行けば会える。

まだ外は雨が降っているのかな。窓を開けてもよくわからない。降っていなさそうだけど時々雨粒がどこかに当たる音が聞こえてくる。どこかに溜まった雨が落ちているのかな。

昨晩、仕事が終わってエレベーターに乗ってから傘を忘れたと気づいた。夜は雨が降るっていってたのに。私のところへくる人たちもみんな持っていた。1F押しちゃったけど下まで行ってまた戻るか、と思ったが、開いた自動ドアから傘を持たずに歩いている人たちが目に入ったのでそのまま外へ出た。降っていない。駅に着くまでにほんの少し降り始めた。最寄駅も傘をさすほどではなく助かった。

先日、植物園に行った。花の名前も木の名前も何度見ても聞いても覚えられないけど植物園は楽しい。今回もトリカブトの花がきれいに咲いていたのを見た気がするのだけど写真に残っていない。植物園で見たのではなかったのかも。私は多分特定の植物にアレルギー反応があって歩いていると痒くなることが多いのだけど今回は大丈夫だった。いろんなところを歩いているうちにどの植物に反応しているのかわかってくるのかもしれない。

それにしても連日眠い。すぐにウトウトしてしまって仕事以外の作業が全く進まない。どうにかせねばとも思うけどいつもそうといえばそうなので時間を一気に使える自分が現れてくれるのを待つか。いや、地道にやらないと。今日は投句締切もある。1ヶ月が早すぎる。学会の役割も引き受けたからやらないと。精神分析実践の現実は言葉で伝わるものでは決してないけど、技法的な部分はどんな臨床をしていても共有できる部分は多いのでそこら辺を意識して話しあえたらいい時間になるのではないかと思う。知的な理解だけなら本を読んだほうがいいので、観念的な話からは距離を置きたい。臨床は人それぞれが全く異なる心模様で過ごしている日常からの学びなので知的な理解より心がいろんなふうに動かせるかどうかが大事。いつも似たような動かし方をしていたら同じ言葉しか出てこない。世界は広いから異なるものに開かれた学びを共にできる人が増えたら楽しい。個人的にはこじんまりやりたいけどどうなることやら。

なんか寒い。良い一日になるといいですね。

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精神分析 精神分析、本

フロイト「治療の開始について」を読んだり。

鳥の声が大きくて窓を開けっぱなしで寝てしまったのかと思った。やっぱり温かいお布団にしてから眠りが深い。昨日はすごくたくさん歩いて疲れたというのもあるが夏の間はよく眠れていなかった気がする。しかも今年の夏はあまりに長かった。

週末、大きめの公園を通り抜けると特に案内もない音楽イベントをしていた。内輪のものかもしれないけど穏やかな空気が流れていてやっと季節が変わったなあと思った。

さて、今日は火曜日。またリズムが崩れそうだから気をつけねば。

今度、学会で精神分析の導入について話し合うので、フロイトの「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)を読み直していた。

ストレイチー訳はこれ。Freud, S. (1913) On Beginning the Treatment (Further Recommendations on the Technique of Psycho-Analysis I). –The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud 12:121-144

副題に「(精神分析技法に関するさらなる勧め I )」とある。Iがあれば次があるわけで「精神分析技法に関する更なる勧めⅡ」は「想起すること、反復すること、ワークスルーこと」(1914)、Ⅲは「転移性恋愛についての観察」(1915)である。ちなみに「治療の開始について」は「転移の力動」(1912)、「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)に続くものである、と初版 Int. Z Psychoanal., 1(1), 1-10 and (2), 139-46.の脚注には書いてあり、これらは全て岩崎学術出版社から出ている藤山直樹監訳の『フロイト技法論集』に収められている。時間とかお金とか治療契約の基本的なところをフロイトがどう考えていたかは大体技法論集に書いてある。晩年に書かれた1937年の「終わりのある分析と終わりのない分析」「分析における構成」は前にも書いたようにフェレンツィへの応答というか陰性のものをフロイトがどう考えていたかという観点から読める。フロイトは神経症を倒錯のネガといい、ナルシシズムも倒錯との関係で描写した。それらはこれらの論文に見られ陰性治療反応の記述へと伸びていく発想である。

とちょっとお勉強的なことを書いてみた。今週も頑張りましょ。

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Netflix テレビ 精神分析

テレビ、フランス精神分析家たち

今朝は空が少し濃い。少し目を凝らすとちぎれたり帯状になったりした雲がたくさんみえる。虫の声もだいぶ静かになった気がする。取り壊された家のあとにぐんぐん伸びた草むらではまだ声高く鳴いているけど。

今日は月曜か。あまり朝に見られないが朝ドラ「ばけばけ」もとても好きでみている。高石あかりが素晴らしくかわいい。華やかさもあれば妖怪味もあってなんでも演じられるとはいえおトキちゃん当たり役。怪談好きの怖がり仕草もすごくいい。せっかく怪談好きのお相手と出会えたのにこれからどうなってしまうのかしら。おトキちゃんに早く幸せになってほしい。早く、というのはこれからを知っているからで、今のおトキは幸せなんだから今を喜ぶべきだな。人生幸せだったり不幸だったりの集積でできているということか。高石あかりはNetflix「グラスハート」の歌姫役もすごく素敵だったけど明治の没落武士の娘の苦労を明るく演じてくれるおトキちゃんいいなあ。このあとも楽しみ。

Netflixといえば「ウンジュンとサンヨン」もみていたが思春期の彼らが愛しすぎてその後がどうもイマイチと思ってしまう。ストーリーは彼らのその後としてとても魅力的だし、韓国のいろんな事情も切なくて見続けてはぢまうけど長く思春期の子たちと会っているとその年代に特別な思い入れができちゃうのね、きっと。

Netflixはほかにも色々みてるけど大河ドラマ「べらぼう」は相変わらずすごい。蔦重が横浜流星でほんとによかった。過酷な事態にだいぶ嫌な感じになってきたけど愛されてきた蔦重は今でもみんなに叱ってもれえるしその場面もいい。厳しい取り締まりにめげずに面白いこと続けてくれよ。

昨日は小グループのセミナーでアンドレ・グリーンのThe Capacity for Reverie and the Etiological Myth(1987)を読んだ。私はThe Freudian Matrix of André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century Edited By Howard B. Levine (2023)に入っている英訳で読んだ。フランス語で読めたらいいのだけど道のりは遠い。

フランスは日本よりずっと精神分析が身近なので組織も乱立していて問題も多い。つい先日もジェラール・ミレールという77歳の有名な精神分析家が少女たちをレイプした罪で起訴された。精神分析家なのに催眠を使ってる時点でイカサマ感強い(そうすることへのなんらからの主張が見当たらない)。人としてきちんと裁かれますように。ジェラール・ミレールはジャック・ラカンの娘婿でありラカン理論の継承、啓蒙をつとめてきたジャック=アラン・ミレールの弟。ジャック=アラン・ミレールについてはすでに入門書もでている。ジェラール・ミレールの場合、この問題が出るのは今回がはじめてではない。精神分析家として彼はいまだに組織に所属しているのか?本当に精神分析を悪用するな。というかそれは精神分析ではない。

アンドレ・グリーンの論文を読む楽しさについて書こうと思ったのにイラっとくる記事のことを書いてしまった。とりあえず今日も穏やかに過ごせますように。伊豆諸島が無事でありますように。良い一日を。

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精神分析

テレパシーとか。

空が薄い。羽毛布団に変えたせいかよく眠れた。カバーをかけるのが面倒だなあ、といつも思うけどがんばった。夏の始まりと終わり(もう10月も半ばだけど)の年2回だけなのにめんどくさいものよね、と思っていたせいか、PCに「取り替え簡単!」という掛け布団カバーの宣伝が出てきた。最近、検索もしていないのに思い浮かべていることと近い商品が出てくるから言葉のテレパシー性を振り返るべきよね、と今思った。というか、精神分析実践をしていると言葉は話されたものだけではないのは自明で、カウチ上で「何も思い浮かびません」「ちょっとぼんやりしちゃって」と言って何も言わないと「抵抗」とか言われることもあるわけだけど、この「抵抗」も意識的な行為に与えられている言葉ではない。自由連想なんて全く不自由だけど、「全然関係ないんだけど」「話ずれるんだけど」と自分でも「なんで?」と思うような事柄が思い浮かぶとき、それが鍵になる。夢と近いのはそっちだから。「夢は無意識への王道である」とフロイトが言ったことは言葉の機能を考えると本当に重要で、思い浮かべたことが広告として出てきてもそんなにびっくりしないな、と思う私はその機能を使って仕事をしているからだろう。オカルトじゃないよ、というのはフロイトが「夢とテレパシー」(1922 )の最初で言っている。もしそうだと思ったら期待外れですよ、この話、みたいな感じで始まるんじゃなかったかな。結構そういう書き方の論文多い気がするから違うかもしれないけど。岩波の『フロイト全集17』に入っているけどあれはオフィスにあるから後で確認しましょう。そうだ、カウチ上で「あ、それ夢に出てきた」と思うとき、本当に夢に出てきたかどうかは重要ではないし、確かめようもないわけだけどそれを思い浮かべて言葉にすること自体がすごく重要。連想を自由にできるようになると自分でも「あー、だからか」となんとなく仮説が立つようになるけどそれはかなり分析が進んでからだと思うので、それまでは精神分析家の技法が問われるわけです。ということで今日もがんばりましょう。色々やばいやばいとなっているから。

ちなみに『フロイト全集17 1919-1922年』はフロイトの大事な時期の大事な論文がたくさん入っています。「女性同性愛の一事例の心的成因について」は症例を使った最後の論文ではなかったかな(要確認)。断片的なものはその後も登場するけれど。

あとは「不気味なもの」「快原理の彼岸」「集団心理学と自我分析」など再読必至の論文たちも所収。「夢とテレパシー」はフロイトの夢シリーズとして光文社古典新訳文庫の中山元訳でもいいかも。ではでは。良い日曜日を。

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映画 短詩 精神分析 音楽

ハンカチとか懐かしさとか。

早朝、まだ空が暗いことを確認して洗濯物を干す。昨晩取り込んだハンカチをたたむために広げる。薄いピンクのハンカチ。少し小さな穴が開いているのにはじめて気づいた。本当に若いときに誰かからもらったハンカチ。当時はとても高級なものに思えた。実際そうなのかもしれない。ハンカチっていろんな人にいただくけどどれが誰からでその誰はどこの誰だったか、というくらい昔のものが多い。結局、一番上に置いてあるのを使ってしまうからお決まりの数枚しか稼働していないけれどその一枚。私は自分でピンクを選ぶことはほぼないけれどこのハンカチは見るたびにレタリングがかわいいと思う。どこのだっけ、と思ってまじまじみてみたけど書いていなかった。なんとなくKENZOのだと思っていた。KENZOがすごく流行った頃のかもしれない。改めて見てみるとこれってマザーグースの数え歌だと気づく。多分知っていた。でも覚えていない。マザーグースは谷川俊太郎訳のをセットで持っていた。今もその辺にあるはず。イラストは堀内誠一。堀内誠一は今年はじめかな、立川のPLAY! MUSEUMでやっていた展覧館に行った。すごく懐かしくて楽しかった。あの懐かしさのひとつなんだろうなあ、このハンカチ。A was an apple-pieからはじまる数え歌。B bit it, C cut it,D dealt it,E eat it,F fought for it, G got it,とつづいてく。きれいにアイロンかけて壁に飾るようにしようかな。実用から思い出の品に意識的に変えていくのもいい年齢かも、50代。

今週も何も進まないまま土曜日になってしまった。昨日は本をもつ気力もなく頭の中にあった韓国の詩人、呉圭原の詩を思い浮かべていた。茨木のり子の『韓国現代詩選』にも入っているし、吉川凪訳の『私の頭の中まで入ってきた泥棒 呉圭原詩選集』もおすすめ。多分、昨晩はゴロゴロしながら頭の中で本を探しているうちに「私の頭の中」という文字と重なり合ってこの詩集がヒットしたんだろうな。

今度読むアンドレ・グリーンにトロイメライが出てくる。Schumann’s Reverieという形で。私にとってこれはオルゴールの音楽でやっぱり懐かしさのひとつ。もうだいぶ前かもだけど有村架純主演の『コーヒーが冷めないうちに』の主題歌がYUKIの「トロイメライ」だった。

♪雲の上で遊ぶトロイメライ 星に手が届きそう夢みたい 笑顔がよく似合うトロイメライ♪

この曲「トロイメライ」の言葉の乗っけ方がすごくいいんだよ。

最近、集中して音楽を聴くこともないけど久しぶりに聴いてみよう。良い1日になりますように。

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短詩 精神分析

暮田真名川柳、フロイト「小箱選びのモティーフ」

十月十日、東京の日の出は5時43分。まだ空は暗い。PCの向こうの壁に貼ってある川柳からいくつか。

シャトルバス以外は荒野なのだから

暗室に十二種類の父がいる

本棚におさまるような歌手じゃない

短歌(off vocal)

暮田真名第二句集『ぺら』からの引用。2019年5月から2021年4月までに発表した400句余りのうち200句を収録したでかい紙ペラ。B1らしい。B1なんてあるんだねえ。ぺらというよりべらという感じだけど視力検査みたいな並びがかわいい。さっき書いたのは遠くからでもよく見える上段の川柳。一番ちっこいのも老眼鏡で。

子供から遠近感を取り上げる

きゃー、と面白いのが目に入った。取り上げないでー。

臨床心理士の地域交流イベントにお呼びしたのが2022年夏。先月9月12日には柏書房からエッセイ集『死んでいるのに、おしゃべりしている!』を発売。重みと勢いをぎゅっと一気読みできる軽さに閉じ込めたかわいい本。暮田さんのおかげで川柳はポップな遊びになった。

さっきまで合格圏にいた虎だ

これも「ぺら」から。なんかよくわからない迫力と悲しみを感じるがよくわからないので本当には悲しくもないし面白い。確かな言葉を新しいコードに乗っけてくような作業を私は自分の領域でしていきたい。精神分析はそれにすごくふさわしいと思う。精神分析状況でないと発揮されないしそれを面白いと思うまでのもやもやや苛立ちもすごいけど。いずれいずれいずれと思いながら浮かんだ言葉を言ったり言わなかったりする日々を過ごすのが精神分析。そんなのに時間とお金をかけることは賭けかもしれないけど私はそれに賭けたおかげで今があるからそういう欲望に肯定的。

フロイトの書く文章は読み慣れてくるとたとえそれが悲観的な結びであっても結構ポップ。

1913年のエッセイ「小箱選びのモティーフ」なんて楽しそう。結びはこうだけど。

「ここに描かれているのは、男にとって不可避の、女に対する三つのかかわり方なのだ、とも言いうるのである。女とは産むものであり、伴侶であり、滅ぼす者である。あるいは、母の肖像が一生のうちに変化していく三形態、すなわち、母それ自身、ついで、男が母の似像に従って選択する愛人、最後に、男を再び受け入れる母なる大地である。年老いた男は、人生の初めに母から受け取った愛を、女から得ようと手を差し伸ばすが、むなしい。運命の女性のうちただ三番目の者だけが、口を閉ざす死の女神だけが、彼をその腕のなかに抱き取るだろう。」

フロイト全集12(岩波書店)かな、メモによると。男にとっての女三形態進化は面白くはあるし、重要でもあるのだけど、それはともかくこの結論に至るまでのシェークスピアとかギリシア神話とかグリム童話の引用が楽しい上質エッセイ。まだフロイトが症例に強いインパクトを受けていた頃。フロイトほど色々暴かれている人でもそれでもそんなのはほんと一部でフロイト理論の変遷はいまだにいろんな読み方ができる。誰がなんと言おうと誰かが話している誰かのことなんて本当に小さな一部でしかないから、というのが通じない世の中というか、自分のみたいようにみたいってことなのかもしれないけどそういうのは面白くないし、遊びとしてもつまらないと思うのでできるだけ逃れていきたい。がんばれるかなあ。鳥たちが鳴き始めた。柿をむこう。柿もだいぶ色づいてきた。このあとあの街のあの大きな大きな柿の木は濃いオレンジの小さな柿でいっぱいになって鳥たちがいっぱい訪れる。今年も出会えるといい。良い1日になるといい。

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精神分析

強風、Dana Birksted-Breenの本、「クライン派用語事典」

西側の窓はまだ暗い。ブラインドが時折風でカタカタいう音が少し大きいので布で対処。少し風が強い。台風22号の影響か。伊豆諸島7町村に暴風・波浪の特別警報が出ているとのこと。建物が揺れるくらいの風だという。眠るのも大変だったかもしれない。被害が出ませんように。

学会前なので教える側として出版情報をチェックしているが、自分の勉強をしなくてはならないし(大体英語の論文を読む作業)ここ数年、翻訳情報にも非常に疎いので既に翻訳が出ているのかどうかもパッと出てこない。

The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの翻訳が出るのはいいことだと思う。女性の精神分析家たちで原著を読んでいるが翻訳があれば助かる。Dana Birksted-Breenは1946年生まれ、2024年1月に亡くなった。The International Journal of Psychoanalysisの編集長を2007年から2022年まで長く務めたDanaの論文のリストはこちら。国際色豊かな言葉の持ち主であることは明確で、今回翻訳された本を読めばそのワールドワイドな知識にも圧倒される。

精神分析の仕事 セクシュアリティ,時間,精神分析のこころ』 ダナ・バークステッド-ブリーン 著/松木邦裕,富田悠生監訳(金剛出版,2025)

Bulimia and anorexia nervosa in the transference以外の全訳である。この章のアブストラクトならこちらで読める。秀逸な臨床論文だと思う。私は、引用文献を探すためにDanaの仕事を参照する、ということをしている。 精神分析に向けられてきた批判を十分に意識した書き方も勉強になる。

批判といえばR.D.HinshelwoodのA Dictionary of Kleinian Thoughe(1991)は第二版で1989年の第一版への批判を受けて改訂された。2014年に衣笠隆幸総監訳で『クライン派用語事典』(誠信書房,2014)として全訳されている。第1版への批判は第二版へのまえがきに書いてある。その主なものの一つは「死の本能」と「羨望」のある側面について、もう一つは、ベティ・ジョセフに関連した最近の技法の発展について、ということでその内容が書いてある。

ヒンシェルウッドのこの第二版はクライン派の中心的な13の概念がエントリー。技法、無意識的幻想、攻撃性、サディズムおよび要素本能、エディプス・コンプレックス、内的対象、女性性段階、超自我、早期不安状況、原始的防衛機制、抑うつポジション、妄想分裂ポジション、羨望、投影性同一視。各見出しに定義と関係論文の年表がついている。この第二版では引用文献も1987年から1989年までのものに更新されている。

そしてこの事典のさらなるアップデート版がE.B.スピリウス版 The New Dictionary of Kleinian Thought(2011,Routledge).こちらは多分まだ翻訳されていないと思う。この第二版が翻訳された時点で既に出版されていたことは衣笠先生の総監訳者あとがきを読むとわかる。衣笠先生によるとこちらは「より整備された構成と記述からなっているが、やや教科書的で個性のないものに改訂されている」とのこと。原著で確認すると、こちらは無意識的幻想、子供の分析、内的対象、妄想分裂ポジション、抑うつポジション、エディプスコンプレックス、投影同一化、超自我、羨望、象徴形成Symbol-formation、病理的組織化Pathological organizations、で最後に技法というエントリー。クライン派関連文献はこちらも1989年まで。1989年だけみてもブリトン、フェルドマン、ヒンシェルウッド、スタイナー、ジョセフ、メルツァー、オーショーネシー、サンドラーなど重要文献がたくさん出版されている。

とまあ、事典、辞典、辞書は大事ですよね。ヒンシェルウッドが書いているようにクライン派の概念はフロイト派の思考の中から生じているからその枠組みを理解することが必要だし、そういうのを整理してくれることのありがたみをすごく感じる。ヒンシェルウッドがこの事典以上に説明が必要な人にはラプランシュとポンタリスの『精神分析用語辞典』とライクロフトの『精神分析学辞典』をお勧めすることしかできないと書いているけど、この二冊も必携と思う。私は若いときに古本で半額とかで入手したような気がする。学問としての精神分析を大切に思う人は信頼できる辞典に何度も立ち返りながら勉強を続けていってほしい。お互いがんばろう。

窓の外で時折、風がうねる音がする。都心はどうなるのだろう。どの地域にも早く平穏が訪れますように。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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精神分析

寒露、団栗、茨木のり子

今日は十月八日。寒露。暦の上では晩秋となる。熱いお茶でちもとまんじゅうをいただく。あと柿も少し。

帰るのはそこ晩秋の大きな木 坪内稔典

寒露か、と思い、オフィスのそばの大きなシイノキを思い出した。殻斗にシュッと乗っかったどんぐりがきれいでよく写真を撮っている。昨日のブログの写真に載せたかな。

団栗の俳句は転がるのが多いけど私がみている団栗はあまりコロコロしなさそう。というかまだ木の上にいるのをよくみている。

団栗を押し傾けてうごく蜷 岸本尚毅

季語が二つ入っていても実景なんだと思う。こう動かされてしまう団栗の俳句はいいな。すこーしだけうごく。岸本尚毅の時間感覚は多彩。

疲れているとろくな話をしないわけで、昨晩の私は「ごんぎつね」と「てぶくろをかいに」を混同しており、どちらの狐も殺されてしまった。よくよく思い出すに、ごんのお話は子供があるおじいさんから聞いたという設定。「てぶくろをかいに」はお母さん狐の心情が主。と考えるとこの二つを同じ作者が書いていることは大変面白い気がする。

「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」

永遠の謎な気がする。新美南吉記念館が愛知県だと知ったので今度行ってみたい。

昨日は、茨木のり子のことを考えていた。蠍座を思い出したから。彼女は動員で東京の薬品製造工場にいくのだが、そこへの夜行列車を待つ駅でぎらぎらした蠍座を見た。「はたちが敗戦」という有名なエッセイの一場面。茨木のり子の『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)は詩を書いていた思春期の頃の愛読書だった。茨城のり子の本がうちにあるのは知っているがどこにあるかがわからない。読みたいなあ。この前終わったNHK朝ドラ「あんぱん」の主人公のぶは茨城のり子みたいだと私は思うが、お父さんとの関係がだいぶ違う。

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

も有名だが、これは自分への怒りだろう、と読んだ。

ハングルに惹かれて50代から言葉を学び、『韓国現代詩選〈新版〉』(亜紀書房)の編者も務めた茨木のり子。斎藤真理子の解説でこれらの訳業が省略などの手直しを含んだものであることを知って驚いた。さすがに自らも詩人であり、取り上げられた詩人たちの交流もあると言葉への意識が研ぎ澄まされている。昨日か一昨日も書いたように言葉は内容ではない。

空がオレンジ色を増してきた。良い一日になりますように。

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料理 精神分析 読書

加藤陽子著、モリナガ・ヨウ絵「となりの史学」など。

空が薄い色になっていく。西側の窓を開けたら強めの冷たい風が一気に吹き込んできたけど一回だけだった。行き場をなくした風が溜まっていたのかもしれない。そしてヒヨドリの高くよく響く声。窓を開けると一気に音が増える。カラスと鳩も鳴いている。人間は朝は静かめ。小さな声で、できるだけ言葉少なめで、ということを保育園巡回の仕事で話すことが多い。言葉は内容ではない、というのを精神分析家の先生のスーパーヴィジョンで教わったことを私は精神分析以外の現場でも実感してきた。今はそれを私がいろんなところで伝えている。大事な教えだった。

昨日の夕方、郵便物をだそうと外へ出たらびっくりするくらい寒かった。部屋の中は蒸し暑い感じで冷房をつけていたのに。昼間は半袖でちょうどよかったはず。帰りは上着を忘れないように、と確認しながら温かい飲み物を買った。何年ぶりかの午後の紅茶ミルクティー。「冬の濃厚」という文字が身体にフィットしてしまった。温かいまま飲みたかったからサーモスのカップに移して飲んだ。

今朝は熱い緑茶。印度カリー子レシピでカリカリ豚こまを作っていたら冷めてしまった。「サラダ油を薄くひいたフライパンに入れ、中火で1〜2分揚げ焼き」とあるけど毎回中火で1〜2分では全然カリカリしなくて結構焼いている。カリカリでなくても美味しいのだけどヨーグルトの水分が多いのか、片栗粉が少ないのか。そもそも「サラダ油を薄くひく」のでは「揚げ」には足りないのではないか。でも豚肉から油が出るから揚げ物っぽい音は立てるのよね。印度カリー子さんにどこが問題かチェックしてもらいたい。クミンパウダーを使い切った。カリー子レシピで使うのは小さじ1/2とかなのに地道に減ってついになくなった。この年になってようやくスパイスを賞味期限内に使い切る人になれた。

冷めた緑茶といただくのは箱根の老舗和菓子屋ちもとの「湯もち」。久しぶり。ふわふわ。あっさり口の中でとけてしまいましたとさ。早かった。

昨日、イレギュラーな予定を確認してメールしないと、と思ってiphoneのカレンダーを見たら「しまった、ダブルブッキングしている!」となった。慌てて申し訳ないどうしましょうのメールを打ち始め、もう一度カレンダーを確認したら昨年の予定をみていた。そういえば昨年もダブルブッキングしそうになったから確実にあけられる時間に変えたのだった。昔はいろんな場所でいくつもの仕事ができていたけどやること定まってからは規則正しいのになれてしまって毎回ドキドキする。先方もわかっててリマインドのメールをくれたりするから助かるけど。

今、加藤陽子著、モリナガ・ヨウ絵の「となりの史学」(毎日新聞出版)を読んでいる。東京大学出版会のPR誌「UP」で2010年11月号〜2018年11月号まで連載されていたものに加筆・補正を加えたものとのこと。「UP」はたまにしか読んでいないから知らなかった。著者が書いているけどこれが連載されていたのがどういう時代かというのも大事。東京大学出版会が出した関連書物を読み込みながら書かれるこの本の第1章は井上陽水の「なぜか上海」で始まる。陽水の父親は衛生兵としてソロモン諸島で戦って俳句も作っていたとのこと。大変読みやすい。そしてモリナガ・ヨウさんのイラストがすごく味がある。この本の「おわりに」が書かれたのが2025年4月という。トランプ政権が二期目となり、世界がいよいよ歴史を放棄しはじめたような気がした頃だ。まだほんの半年前のこと。戦争は終わらず、生まれたばかりの子供も殺され、それに対するグレタさんのような人たちの戦い方もぶれない。戦後80年、私は井上陽水も身近だし、80年の前半30年は知らないけど50年は過ごしてきたわけで、今、昭和の出来事や景色を思い返すとなんだか違う色の世界を見ているような気持ちになる。実は私も世界も何も変わっていないのかもしれないけどいろんなことは相互作用だ。平和という言葉は今も重みがあると思う。戦争とは違って。若いお母さんが眠っている子供の隣でぼんやりしながら「へいわー」と言っていた。束の間でも平和を感じられる心を守るためにできることを考えながら仕事して勉強して生活をする。どれもこれもこういうことができるってまだかろうじて平和なんだ。

良い一日になりますように。

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精神分析

不思議だったこと

空が薄暗い、と思ったら太陽が出てきた。今日はまた少し暑くなるらしい。鳥たちは元気そう。田園都市線が大変なことになっている。沿線上の学校はどうするのだろう。休校だろうか。政治は相変わらずうんざりが続いている。平和を願わない人は政治に関わらないでほしいが真逆の方へ向かっている様子。

週末に行った店で飲み物以外の品が出てくるまでに1時間近くかかった。ゆっくりしか動けないが耳も声もよく外国からの人には「ドリンク」だけは何度も聞く。頼まないという選択肢があるのかないのかもわからない。文章はほとんど話さない。調理は妻。妻はおばあさんという感じはせず、夫へのサポートは的確で優しい。飲み物に関しては何の問題もなく食べ終わった人にはお茶も入れて持っていくように夫に渡す。お盆から自分で取るように仕草で促すおじいさんに外国の人が戸惑いつつも受けとる。定食を待っていた外国からのカップルは店内のテレビでアニメが始まると写真をとったり楽しそうだったが一本目が終わり二本目が終わりに近づくと明らかに苛立っていた。お魚にたくさんお醤油をかけていた。注文通っているのかな、と心配になって聞いてみると「順番に出している」「ナスは時間がかかる」とか申し訳なさそうにいうが順番でもないし、ナスはそんなに大変じゃないと思ったので聞いてみたからなんとも不思議な気持ちになる。観察していても何が起きてこうなっているのか本当にわからない。意図を感じないことの不思議さ。一方、店内のいろんな人たちの行動にそれを感じるかといえばそうでもなく、なんなら私たちの「普通」が問われているのではないか、というような気がした。

最近、世界のニュースも含め、何をどう考えればいいかわからない状況が続いている。目の前で起きていることのわからなさ、不思議さは具体的に共有しやすい。反応も大事にできる。今日も小さなことに立ち返って楽しいことやきれいなことと出会えたらいいな。

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精神分析

あたたかくつなぐ。

涼しい。昨日に引き続きお天気はイマイチか。昨晩の福島の地震、少し大きめだった。ちょうど能登の話、東北の話をしていたところだった。

今日は月曜日だと思ったら日曜日だった。イレギュラーな用事があるとすぐに曜日感覚がおかしくなる。昨日は長い一日だった、というより家に帰ったのはいつもより早かったけどこれまでの時間がぎゅっとつまった濃密な時間を過ごした。モーニングワークの大切さとワークスルーした人の柔らかさ。それに触れて流す涙とこの先の幸せを願う気持ち。悲しい出来事を共有した人たちみんなでその先の今を共有できるしみじみとした嬉しさ。日本の政治はあたたかみを大切にする意味を知らない人によって支配されつつがあるが、こういう細やかで長く続く関係が育んできたものは強いと信じたい。

50年近く続いてきた団体を引っ張ってきた世代はもう70を超えている。その下が私たちの年代。その下で中心になりつつある20代を支えていかないと歴史は途絶えるという危機感。簡単に歴史を変えたり捨てたりできるこの時代に自分たちの育ちに必要だった関わりや文化を残そうとしてくれる若者たちがいることはとてもありがたい。でもそれを支えていく私たちはいつも地味に忙しく、かつ、かつての体力はもうない。それでもできることは何か。それはかつてのつながりを生かすこと。誰かを失ったり、誰かが生まれたりするたびに回復してきたつながりを気楽に使っていくこと。若い頃は自分にも他人にも厳しかった自分たちを笑いながら最低限のことをしていく。そんな話をいろんな思い出話ついでにした。こういうのもついでにするくらいがちょうどいい。言葉だけのやりとりではなく行動を伴わせてきたのだから多くを言葉にしなくても大丈夫。心理療法の積み重ねだって同じこと。これらはもっと少ない言葉でゆったり語られるべきだと私は思ってきたのでこれも現代の人気者たちとは相容れないが育ててきてくれた環境に感謝しつつあたたかさをつなぎたい。

それにしても十月ももう五日。少しずつ困ったことになっているがどうにかなるといい。良い一日になりますように。

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精神分析

貧しい時代に。

窓を開けていると寒いくらい。気持ちいいけど急激な気温の変化に身体がついていっていないみたい。元気なんだけどどこか疲れている感じ。ちょっとしたことで元気なくなってちょっとしたことで元気出たり。私の場合、すっごく小さなことでの小さな浮き沈みだけど。かわいいスニーカーにするだけで姿勢が戻るみたいな。

元気なくなる、といえば、この前、住民税の督促状がきた。しれっと引き落とされるのが嫌で口座振替にしていなくて納付書で分割で払うようにしているのだけど2度目。私が遅れたのが違反というのはわかるがこの督促状は本当に心身に悪い。延滞金加算のみならず、給与調査、自宅捜索、差押などの文字が並ぶ紙っぺらを送りつけられることの負担がすごい。長年、毎月きちんと家賃も税金も納めてきたのに払うのは当たり前、払わなければ生活の基盤失います、みたいな感じ出してこなくてもよくないか?心身ともに貧しい時代にこれは本当によくない。この前書いたけどしれっと森林環境税が入っているのも住民税だ。思い出した。今回、私は少し遅れてしまったけどすでに払ってあったので行き違いだった、行き違いだよね?私、払ったよね?と不安になった。不安になるだろ、こんな督促状がきたら。取締りばかり厳しくなる社会。人の個人情報を色々間違えて使用したり無くしたりしても何もしてくれないのにね。理不尽。

で、嬉しかったのは、昨日発表された第17回TAMA映画賞の最優秀新進女優賞に桜田ひより&中野有紗が選ばれたこと。先日また読み直していた、と書いたばかりの辻村深月原作の『この夏の星を見る』の劇場版で二人は茨城と五島列島で暮らす高校生を演じた。力強さと繊細さを対照的に演じていた二人の受賞にすごく納得。若い役者の名前と顔が一致しにくくなっているが、本当に達者な人が増えていると感じるので日本の映画界もいろんな困難を乗り越えていい作品を作り出していってほしい。こんな心身ともに貧しい時代(2度目)だからこそ。

さあ、今日はいつもと違う動きがあるけど大丈夫だろうか。余裕を持って動こう。無駄な寄り道しないようにしよう。寄り道はあと。雨降るんだよね、今ちょっと太陽が出てるのだけど。このままであってほしいなあ。良い一日にしましょう。

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オープンダイアローグとかひきこもりとか。

曇っている。これから晴れるのかな。光ってるグレー。もう10月3日になってしまった。オフィスのパソコン(Windows)を持ち帰ってよくわからなくなってしまったフォルダの整理をしようと思ったのにアダプターしか持っていなかった。帰宅してバッグを開けたらいつものMacBookが出てきてびっくり。君はオフィスのパソコンと交換こされて置いてこなかったっけ。私はこの子を一度出してそのまま戻すという作業をしたわけか。馬鹿だな。こういうことはよくあるので「ああまたか」と小さく失望してやや開き直って過ごすことになるわけだが夜遅くまで仕事して帰ってきてまだ仕事しようとしていたのがおかしい。どうせしないで持ち歩くだけになったりしていただろうに。自分に小さく期待してしまっているのだろう、そういうときは。大方裏切られるとわかっていても。自分に自分が。

10月13日(月)はそういえば祝日か。「スポーツの日」だって。10月10日は「体育の日」でお休み、というのをなかなか修正できない。月曜日にお休みを集められたのは助かるときと困るときがあるね。精神分析関係でいうと13日(月・祝)は藤山直樹&十川幸司主催の小寺財団の学際的ワークショップがあるらしい。四谷三丁目の小寺財団セミナールームで。今年のテーマはオープンダイアローグ。申込の締め切りは過ぎていても連絡してみるといいらしい。

オープンダイアローグ(OD)は今やオンラインでもたくさん紹介されている。主な紹介者は斎藤環、高木俊介か。ヴィゴツキー研究者の神谷栄司「オープンダイアローグの理論的基礎」という論文はセイックラが引用したバフチンやヤクビンスキーの対話論、ヴィゴツキーの側からOD理論の精緻化を試みている。学部生時代にヴィゴツキーのファンになったのでこういうの楽しい。今回の小寺財団学際的ワークショップのゲストはOD紹介の第一人者、斎藤環先生。社会的ひきこもりでも有名だけど、昨今のいろんな名付けによる症状理解を見るに「社会的ひきこもり」という用語はいいかげんに使えない感じがよかったような気がする。今回はひきこもり研究ラボなども立ち上げている精神分析家の加藤隆弘先生もゲスト。登壇者が男性医師ばかりだから参加者もそうなるのかもね。藤山先生と十川先生は医師というより精神分析家の仕事が主か。

今は斎藤先生が代表なのかな、わからないけど青少年健康センターとか、いのちの電話のデイケアで「ひきこもり」の状態にあるみなさんと週一回とか一緒に過ごしていたけどほとんど男性だった。自閉症の人たちの施設もそうだった。今はどうなのだろう。

保土ヶ谷の坂の多い街の古いアパートだったと思う。あの日々で私は横浜の坂の多さを知った。その後、横浜の看護学校で仕事をするようになったときも似たような地形を歩きながら当時を懐かしんだ。もう記憶もおぼろだが、私はあのアパートの居間しかいたことがない気がする。常勤スタッフの方がいつもウェルカムでいてくれて楽しかった。そこでその日のお出かけの計画を立てていろんなところに行った。カラオケとか室内スキーとかも行った。いろんな経験をさせてもらった。スタッフさんが車で連れていってくれるのだけど神奈川だったから私はつい「ダイナミック! ダイクマ 」を口ずさんでしまってそこから生まれた一瞬の交流は今でも思い出すとほっこりする。当時は今以上にいろんなことが口をついてでてきてしまっていたから気づいたら色々伝わっていて失敗も多かったけどそういう瞬間も多かった。あのCMソング、今はどのくらい通じるのだろう。

今日もがんばりましょう。良い一日を。

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辻村深月『この夏の星を見る』、エリクソン

やっぱり秋の空はスッキリきれい。今朝は房州銘菓元祖牛乳せんべい。館山市の加藤菓子舗という老舗のおせんべいだそう。予想より少し硬い。そして予想より少し甘い。でも牛乳せんべいってこういう感じだった、そういえば、と思う。美味しい。

クリーニング屋さんから特別ご優待のハガキが届いていた。今月はクリーニングに出すお洋服を着るからありがたい。嬉しい用事があるということ。この年にならなくても、本当に急で、本当に衝撃的な体験をしている人たちがたくさんいる。辛く悲しい日々を超えて新しい体験に向かうのは躊躇いや恐れも生むけれどそれでも、とがんばっている人たちがその人のペースで歩めるように応援したい。

辻村深月『この夏の星を見る』をまた読み始めた。映画も見たがこうやって文字に戻っても引っ張られることもない。この作家はそれぞれの子どもの心が人との間で見せるうつろいを描写するのが本当にうまい。子どもに関わる支援者の人(多分全ての支援者がそうだと思う。みんなかつてそうだった)は専門的な本を読むのもいいけどこういう本を読むのもいいと思う。個別に見ててもわからない世界がリアルに、ポジティヴに書かれている。特にこの本はコロナ禍の中高生のお話。程度はともかく誰もが無気力、思考停止、排他的な心との葛藤を体験した日々。そこで特に中高生がどんな体験をしていたのか。フィクションだからこそ目を背けずに知れることも多い。空を見上げて繋がりを思った日々の複雑な感情も。爆音に命の危険を感じながら空を見上げる子どもたちが今この瞬間もいる。どこを向いても安心できる場所がない彼らの身体も心も持ち物すべてが守られることを望む大人がマジョリティになりますように。

一昨日、急にテーマを変えて書いた発表原稿は募集要項をみたら全然大会のテーマと関係なかったというか大会のテーマに関係していることが査読のポイントになっていた。あーあ、と思ったけど国外の同業者を意識したらああなってしまったからしかたない。昨年のシドニーで国外の人たちとの交流で自分が日本人であることとか彼らとの歴史とかに関する意識と自覚がすごく強くなった。多くはたやすく言葉にできないことだけどプライベートな場では多くを話し合った。自分の国が持つ加害性を他人事にすることはできない。そこで育っていたらどこかしら何か引き継いでしまっている。それに対する恐れと自分は狂っているのではないか、あるいはこれから狂うのではないか、という恐れは似ているだろうか、そんな問いを症例を通じて考えてきた。とてもデリケートな問題なので少しずつ考えたくて、今回もそのことについて直接書くことはしなかったけどエリクソンを引用した自分には驚いた。大学の頃は発達心理学専攻だったから身近だったエリクソンだが精神分析家になったら精神分析家として身近になった。それが急に自分の前に重要性を持って現れた。何かヒントがあるのだろう。もっと読んでみようと思う。

東京は良いお天気。良い一日を。

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日光ラスク、原稿

雨?向こうのお家は濡れているけど雨が見えない。まだ暗い。少しずつ冬に向かっていく。オフィスはまだ冷房つけてるけど。

昨日は珍しく隙間時間もせっせと作業してぎりぎりではあったけど来年ソウルで開催されるIPA The Asia Pacific Conference5th用に演題提出して仕事もいつも通りやってようやく帰るぞ!という時間に怖い目にあった。駅員さんが駅のどこまでを安全管理の領域としているかわからないが混雑した駅で危ない行為をしているのをみたら止めてほしいな。警察を呼んでくれてもいいし。故意にぶつかってくる人には何度か会っているが自分の行きたい方角にいる人は蹴散らしていい、くらいな勢いの人には久しぶりに会った。怖かった。もし私が大きな男の人だったらまるで目に入ってないかのように向かってきたりしないのかな。こういうときはいつも思う。もし私が大きな男だったらって。

ということで昨晩はストレスが多かったのか、夜遅くに日光のお土産の日昇堂さんの「日光ラスク」を食べてしまった。パッケージがとても可愛くてもったいないから開けてなかったんだけど個包装された高級そうな袋を開けてみたら小さくコロンとしたラスクがいっぱい。おいしくてぱくぱく食べちゃった。最近、甘いものも食べられなくなってきたな、とか思ってたけど毎日どの時間帯もなんらかのお菓子を食べているからむしろ気をつけなくてはいけないのかもしれない。でも可愛くおいしいものは元気をくれるから昨日みたいな日は食べて正解。

私は書き始めがいつもいつも直前すぎて本当にダメだと思うのだけど、今回は内容も突然変えてしまったし、形式からよくわからないし(英語だから)困った。締切ギリギリになってしまったからサマリーとアブストラクトもバーって書いて送った。アブストラクトは完全に下手だな、というかここそんなに言いたいとこではないけど、とにかく時間がないからしかたない、と修正しなかった。日本語を修正するとそれをまた英語にしないとで、ただでさえ英語にしたときにずれている可能性があるのに急いだらもっと変な英語使うことになるからね。内容はオグデンが分析的枠組みの変更に関して述べていることをヒントに、beingとbecomingに関することを書いたつもり。難しいテーマにしちゃったけど今後も考えていきたいな、と思うことのきっかけになりそうな部分だけ書いた。そういえば6月に討論を担当した精神分析的心理療法フォーラムの校正原稿が届いた。早い。きちんとしている。ウィニコットフォーラムと精神分析研究は書いてからもうどのくらい経つのだろう。当時とはもう考え方が変わっているかもしれないが、ああいうのも自分的きっかけになればいいけどそんな得意なわけでもないのに時間割いて書いたのにーとなる。ウィニコットフォーラムは会員ではないけど今度大会があるらしいので興味ある方はチェックしてみて。大会はきっと面白いよ。ウィニコットを読む人が増えるのは私にとってはとても楽しいこと。さてさて、今月書くのは分析協会用。こっちはスケジュールが最初から提示されていて、それに合わせてきちんと進行すると知っている。昨年出したから。先生方は協会の仕事も普段の仕事も忙しい中で査読とか編集とかしてくれるからきちっと進めていかないとご自身も大変になってしまうのだろうけどありがたい。

空が明るくなってきた、と言っても紺色。この時間もきれいねえ。今日も長いぞ。がんばりましょ。

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精神分析

あつさとか静けさとか。

風が気持ちいい。カラスが大きな声を出しながら通り過ぎた。今朝は柿と葡萄とカントリーマアムの秋っぽいやつを紅茶と一緒に。温かい飲み物をエアコンなしで美味しくいただける季節、ありがたい。なんか昨日は暑かったけれど。あと夜、アイロンをかけたら暑かった。自分の家で手作業で仕上げているクリーニング屋さんは昔だったらすごく暑かったことでしょう。それに対しても素敵な工夫がありそうだけど。今はあまりみなくなったかなあ。地元で長くやってきたクリーニング屋さんもなくなってしまった。荻窪の小児科や保育園で働いていた頃、教会通りにごはん食べに行ったり、お散歩やお買い物に行ったりしたけどそこに東京社というクリニーニング屋さんがあって閉まっていても外観が好きでよく写真を撮った。きれいな水縹色の壁と不思議な作りの建物。この夏はこんなに暑かったけど作業はどうされていたのだろう。荻窪の古い商店がどんどんなくなっていくのをちょうど目にしてきたけど、再開発たって、ねえ。川勢も老朽化で無くなってしまったらしいし、街の顔としてありつづけてくれた店も大切にされないのっぺりした世の中って寂しい。

まだ朝の静けさが続いている。あと少ししたら駅に向かう人の足音が聞こえ始める。私もその一つになる。

つけたばかりのエアコンとかけたばかりの洗濯機とこうしてタイプをする音、そして時々、もぐもぐする音と飲み物が喉をごくんとする音、季節が秋で、これが夜だったらこれだけでものすごく静か。これが朝だと全然違う。朝は意外と音が多い。太陽が登り始めた頃。鳥が起き出した頃。谷川俊太郎の詩が書いてそうな景色が次々と立ち上がり始める時間。この種の音が少しする場合の静けさとただただ続く釧路湿原を行くときの静けさも全然違う。釧路湿原を歩き始めたら大地が揺れた。地震だった。どこにも誰もおらず、それ以上揺れないことを見込んでまた歩き始めたのは何年前か。比較的大きな地震だった。再生可能エネルギーの促進か自然保護か、って自然保護に決まってるだろう。釧路湿原をひとりで歩いてみたらいい。自分も自然の一部であり、常に生かされているという感覚が少しでもあるのであればわかるだろう。

私は今日までの原稿を書かねばならないのだった。当初とは異なるテーマを思いついてしまったのでまだ半分くらいしか書けていないのでほぼ無理だと思うのだけど。万が一書けたとしても内容的にも採択されなそうだけどこの数時間でできるところまでやって、今回無理なら次回の下地にしよう。続けていこうと思ったのに全然ダメだったな。まあ、お仕事は今日もがんばりましょう。良い1日になりますように。

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自律神経、『W・R・ビオンの三論文』

朝焼けがきれいだった。でもまだ早くて「自律神経を整えるには」と考えながらぼんやりしていた。南の窓からの風が冷たくて気持ちよくて離れたくなくてベッドに本を持ち込んでみたけど寝っ転がってぼんやり本を読むのが昔よりずっと億劫になってきた。好きなものを両立できないって悲しい、とか思いながらしかたなく起きて家事をした。今日も印度カリー子レシピにするか。きのこも色々買ってこよう。一年中食べてるけどやっぱり秋の食材といえばきのこでしょう。とはいえこの前どこかのファミレスで松茸のメニューがあって松茸はここで食べなくてもいいかなあなど話した。特別感あるものは食べられたら嬉しいけど食べなくてもいいし食べるなら特別な感じで食べたいとか思う。

日曜日は唯一早めに夕飯を食べられる日なのでダラダラ食べてしまった。夜に作業をする時間があるぞ、と思ったのに気づいたら寝ていた。ぼんやりやリラックスが得意なのはいいけど、私が個人的に怖いのはそれで消化が悪くなること。胃腸の働きを正常にしたい。色々気をつけているんだけどな。

こうしていてもなんかいつもと違うリラックスがほしくてラジオをつけてみた。昔は朝はずっと聴いていた番組。ラジオの台本を書くバイトに応募しようとしたこともあった。なんでしなかったのか。当時は今よりずっといろんなもの書いていたし、エネルギーあったから出しちゃえばよかったのに。採用されなくてもいい経験になったかもしれない。私のことだから郵送(当時はなんでも郵送)が面倒だったのかもしれない。すごくありうる。変わってない。

昨日、寝落ちする前に開いていたのは、昨日書いたフロイト「心理学草案」がらみで『W・R・ビオンの三論文』(2023,岩崎学術出版社)。この翻訳も日本の精神分析家の福本修先生。編者のクリス・モーソンは2020年に急逝。ビオンの二人目の妻、フランチェスカとともにビオン全集の編集に関わったクリス・モーソンの仕事を引き継げる人なんているのだろうか。この本は各論文(講演記録)にクリス・モーソンの編集後記がついていて、本の半分くらいの分量があるのではないか。そこがおすすめ。いろんな事情や背景やいろんな資料があるんだなあと驚くし、その内容も勉強になるし面白い。序言はロナルド・ブリトン。

昨日は午前も午後も別のグループで事例検討会をしていた。午前は初回面接のグループ。午後は仲間内で定期的にやっているグループ。ビオンは第一論文「記憶と欲望」(1965)で「臨床報告」と呼ばれるものは現実の経験だったものの変形物だという。でも、とビオンはそこを入り口にもっと広い問題を語っているので部分的に引用することはしないけど(したいけど)、ビオンがこの講演の中でフロイトに倣って言う「人は本当にほとんど盲目になる必要がある」の部分に関してフロイトを引用しておこう。いや、フロイトを引用しているモーソンの編集後記を引用しよう。

「フロイトは一九一六年五月二五日(原注だと五月一三日)のルー・アンドレアス=ザロメへ宛てた手紙の中で、それに言及した。フロイトが手紙で述べているのは文章を書くという行為についてだが、彼が「私は、すべての光を一つの暗所に集中させるために、意味のまとまり、調和、修辞そしてあなたが象徴的と呼ぶあらゆるものを放棄して、自分自身を人為的に盲目にしなければならない」と書くとき、彼は明らかに、精神分析的な注意自体に言及していたーーそれは、分析者が「自分自身の無意識を受信機のように、患者が送って来る無意識に向ける」(フロイト、一九一二、一ー五頁)ことを可能にする、平等に漂う注意にとって必要な条件である。」

フロイトを読んでいるとビオンの言っていることの含蓄も実感する。ビオンの方がフロイトより心揺さぶる書き方してくれるし。ウィニコットほど変なマイルドな感じがしないし。どの書き方も好きだけどビオンの誠実さは特に好きだな。原著で全集を買ったのはウィニコットの方だけど。

もうこんな時間だ。今日も暑くなるんだって。ただでさえ夏の疲れが残っているでしょうから無理せず過ごしましょう。お元気で!

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精神分析

早朝雑事、「心理学草案」、Kohon論文

今日は曇りなのかなあ。光はあるけど水色とグレーと白がどれも薄く混じり合ってる。どんよりしていないのはいいね。風も涼しい。

とだけ書いて果物とお菓子でお茶して、朝早くから大掛かりな掃除というか色々した。が、まだこんな時間。余裕で間に合う。

昨晩はReading Freudで「心理学草案」の第三部、主に「注意」について書かれているところをじっくり読んだ。欠席の人が多かったのともうすぐ読み終わってしまうのでかなり丁寧に読んだ。そしてアンドレ・グリーンを楽しく読むモチベーションが高まった。今年度はあれやこれやでグリーンの購読会にあまり参加できていないけど一、二年前と比べるとずいぶん理解が深まった気がする。「心理学草案」を精読せねば、という気持ちもグリーンを読んでから強くなった。オグデンはウィニコット発が多いけど最近の議論はそもそもフロイトの初期に戻りつつのアップデートな感じがしている。「心理学草案」だけ読んでも何が何だかだが、症例論集、技法論集、メタサイコロジー論をはじめ、フロイトの書いたものをずっと読んできたなかで読むと「注意」という概念ひとつとってもそれが精神分析の中でどう扱われてきたかに関心が向くから楽しい。ビオンはフロイトは「注意」に関する研究を展開しなかった、といってるけど、そう言いながら自分が展開しているわけなので源流を読んでおくのは大事。昨日は「草案」の中でも「接触障壁」について検討しているKohonの論文があると教えてもらったので帰ってからそれを読んでいた。2014年のInt. J. Psychoanal., (95)(2):245-270、Making contact with the primitive mind: The contact‐barrier, beta‐elements and the drives。

公開されている部分のアブストラクトはこんな感じ。正確には原文を

臨床ヴィネットを出発点として、ビオンの「接触障壁」の概念――「精神現象を二つのグループに分け、一方は意識の機能を、もう一方は無意識の機能を果たす」(Bion, 1962)――と、それがフロイトの欲動理論といかに関わるかが探究される。ビオンの概念は、フロイトが『心理学草案』(1950[1895])で記述した「接触障壁」と比較される。この比較を通じて、ビオンのメタサイコロジーのさまざまな側面、とりわけビオンが量的・エネルギー的に「刺激の付着‘accretions of stimuli’」と記述した「ベータ要素beta-elements」という概念が明らかにされる。接触障壁の機能を介したβ要素の処理は、フロイトが述べた欲動の「拘束‘binding’ 」の発展形として理解される。ただし、ベータ要素は内から生じる衝動だけでなく、「未処理の」外的刺激も含む点で異なる。「β要素」と「欲動」は、ともに心が知りうるものの限界を定める概念として理解される。さらに臨床素材が提示され、著者の主張――すなわち、ビオンの接触障壁および関連する概念(α機能、コンテインメント)は、フロイトのメタサイコロジーの経済的・エネルギー的側面に照らして理解されるべきである――が論証される。

最初から臨床ヴィネットがくる書き方で興味深いけど長い。長すぎる。のでちょっとずつ。こんなことよりすることあるけど関係ないことばかりしてしまうな。人間らしいといえば人間らしいか。さあ、いいお天気になってきた。いいことありますように。

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俳句 精神分析 読書

よあけ、気づき、分析家の自由

どの向きの窓を開けても暗い。夜明けが遅くなってきた。ユリー・シュルヴィッツ作の「よあけ」を思い出す。静けさと美しさに驚く絵本。読んでなくても見たことがある人は多いかも。うちにもあるはずなんだけどどこだろう。あれは瀬田貞二訳。瀬田貞二は中村草田男の俳誌の編集長もやっていたはず。翻訳家は俳句も上手そう。あとで調べてみよう。

昨日の朝、馴染みのクリーニング屋さんの小さな花壇に朝顔が咲いていた。大きかった。少し散歩してまたそこを通るともう萎んでいた。びっくりした。

岸本尚毅の朝顔の句を読んで、私は本当に注意力が足りないなと思っていた。じっと観察してそのものになってから広がる世界。私には到底難しい。それにしてもどんな句だったか。朝顔のしぼみて暗き海があり、だっけ。岸本尚毅の先生だった波多野爽波の句も読んだがそれも忘れてしまった。注意力も記憶力も足りなすぎるが、自分のできていない部分に細かく気づくと「ちょっとそこ注意してやってみよう」と思えるのは彼らがいい先生だからだろう。押し付けるわけでもなく「あ、俳句ってこんな感じなのか」という直感的な良さをくれる。それがモチベーションになる。

小さな気づきも大事だが、もう本当に書き仕事は進まない。仕方なく自分の関心がなんだったかを忘れるというまさかの事態が起きないように細々とインプットを続けている。サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの今のところ一番新しい著書、What alive means: On Winnicott’s “transitional objects and transitional phenomena”は表題論文という感じなので読み応えがあった、というか、オグデンが書いてきたこと、やってきたことがますます洗練されていくのを読むのはすごく勉強になる。オグデンも読者自身が発見し創造していくことを求める書き手なので私も色々考えながら読んでいる。オグデンはウィニコットと同じく精神分析家である、精神分析家になることをものすごく意識的に言語化している人なので、精神分析実践を伴うとその言葉にますます切実さを感じるし、まだその感覚わからないな、と感じることもある。この論文は、ビオン、シミントン、ピック、コルタートを引用しながら自分の症例を通じて分析家の考える自由と分析の形や枠組みを検討している。この作業はオグデンがフロイトを読み直すことを含めてずっとやってきている仕事だと思う。

オグデンがこの本のこの論文の最後の方で参照するNeville Symington (1983) “The Analyst’s Act of Freedom as Agent of Therapeutic Change”(International Review of Psycho-Analysis, 10: 283–291)の“a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” なのだけど、この論文をPEPで読む権限は私にはないので(お金払えば読めるだろうけど)ネットで読める範囲のものを読んだ。でもこれこの論文のどこに書いてあるのか探せなかった。

オグデンの論文だとこんな感じで訳せる。

「Symington1983)は、分析家の「考える自由」についてBionの続きから論を起こす。Symingtonにとってthe analyst’s freedom to think は分析家が自らを「ある種の(拘束的な)無意識の知のパターニング “a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” 」から解き放つ能力に依存する。分析の開始時から、分析の二者はひとつの「corporate entity」の一部となり、そこから分析家は、独立した思考が可能であり、かつそれに責任を持つ分析家としてのアイデンティティを回復しなければならない。」

シミントンの元の論文だと超自我と絡めた説明になってるようだけどオグデンは超自我という概念を好まないのか?この辺ももうちょっと見直し。オグデンはウィニコットを中心に引用するが結局フロイトに戻る。私はつまみぐいだとできない実践のために訓練積んできたから地道な作業だけどやらねばねえ。雑な言葉遣いで精神分析という治療文化を自分の理解の範囲に押し込むなんてことしないためにも。それじゃ面白くなくなってしまうものね。どうしても分析における二者はそういうナルシシスティックな共同体になりやすいわけだけど、そこから自由になる能力を発展させよ、ということなのだろうし。

それにしても・・と言っていてもキリがないのでとりあえず今日をはじめましょう。良いことありますように。

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テレビ 精神分析

朝の光

全方位、空がきれい。夏の間、大きな窓のせいで部屋が異様に熱くなってしまうのでブラインドの上に東側の窓に遮光シートをつけていた。朝の部屋が薄暗いのは嫌だったけどあの暑さだと通常溶けないものまで溶けそうだった。それを外した。ちょうど日の出の時刻。部屋が明る句なっていく。この1週間、家ではエアコンいらずでとても気持ちよかった。秋になって仕事が捗るような気分でいたが自分の書き物は全く進まず。締め切りに間に合わなそう。10月末までのはがんばろう。仕事ではない「お手伝い」は心も身体も普段とは違う部分を使っているが、個別に疲れる作業にしたくないので私の心身の全体に馴染ませていきたい。涼しくなって身体は楽になったから色々工夫できたらいいな。

花壇とベランダを有効したいと20年くらい言い続けている。引っ越してから数年はいろんな植物が部屋の中にもあったが枯らしているうちになにもなくなった。豆苗とか、キッチンで再生できるものはやるけど。あとミョウガはよかった。放っておいても何年もなってくれた。また植えよう。あとはとりあえずベビーリーフを植えよう。プランターだけはたくさんあるし、種まきにはちょうどいい時期みたいだし。それにしても体感では陽射しが気持ちいいけど視覚にはまだ結構強い。朝の光ではあるけれど。

今日は朝ドラ「あんぱん」最終回か。いいドラマだった。メルヘンという言葉が久しぶりに心に響いた作品でもあった。私はアンパンマンは大人になって子どもたちと関わるまでよく知らなかったけど「詩とメルヘン」は大好きだった。そのうち高知県香美市のやなせたかし記念館アンパンマンミュージアムに行きたい。アンパンマンはのぶさんとの子どもたちだからおうちを建ててあげないと、って建てたんだっけ。なんかそんな話をどこかで聞いた気がする。子供がいるんだからおうちがないと、というのは生きるには食べ物がないと、という発想と同じだと思う。そこに人がいて生きていこうとしてるんだから必要なものを、という感覚を忘れないでいたい。そういう「普通」の発想とは異なる行為が世界中で行われているわけだけど、だったらなおさら。

今日も寄り道しつつがんばろう。いい一日になりますように。

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写真 精神分析 精神分析、本 言葉

朝ドラ「あんぱん」、藤山直樹「精神分析家、鮨屋で考える 再び」、中井菜央「ゆれる水脈」

祝日があると曜日感覚も身体感覚もなんかおかしい。それでも明け方の空はいつもきれい。ずっとこのくらいの気温であってほしい。絶対そうならないってわかっていてもそう願ってしまう。

朝ドラ「あんぱん」、最近は毎日冒頭から泣いている。見る時間はバラバラだったがとても好きな朝ドラになった。SNSでのコメントも楽しかった。朝ドラも大河も大体決まった人たちの秀逸なコメントやとっても素敵なイラストを見て楽しんでいたのだけどたまに「え!フィクションにそんなこと求めるの?」「全部は書いたり見せたりできないのが作品ってものでは」「私たちがすでに知っているような人たちがいかに名を残さない人たちに支えられたかという話なのでは・・・」となるコメントを見かけたりもした。こういうことはみんなで話す会を開いたりして、そこにある程度知られた人がいる場合にもよくある。そんなとき私は「ハテ?」となる。すでに名もあって、語る場も持っている人の話はほかで聞けるけど、こういう場ではそうではない人の声こそ面白いのではないの?と思ったりする。そうやっていつも同じような人同士で対話?するグループみたいなのができて、そういう人が権威的に「権威」を語ったりするようになるのかもな、と思う。

話飛ぶけど、子供たちが口々にしゃべっていることをよくわからないけどなんだかすごいぞ、と一生懸命聞き取る方が、いつも同じ人が同じようなこと話しているのを聞くよりずっと楽しいんだけど、と私は思っている。子どもという生物の説得力は大人の言葉よりずっと力がある。

あるいは、ひっそりと、「うまく言えないんだけど・・・大きな声では言えないんだけど・・・ほんとは自分はこう思ってるんだ・・・」という語りを聞くことの貴重さ。それができる場はとても大事だし、誰にも知られていない自分の、誰にも触れられたくない自分を守ることの価値って今はほんの一部の人としか共有できなくなっているのかもしれない。守りたいのは本当に小さなことかもしれないのにあなたのことを知りもしないよく知られた人に抱えてもらいたい。そんな大きな願いで自分を保ちたくなる時代なのかもしれない。

この前、ハイキングで山から降りてくる途中、大きな鉄塔が立っていた。「すごい」と見上げているとそばにいた多分少し年上の人が「すごいよねえ、こんなの人間が立てるんだから」と笑った。本当にそう。いろんな山に道ができているだけでも「一体どうやって」と驚くのに、この鉄塔、これと同じものがあっちの山にもこっちの山にもずっと続いてるってことでしょう、一体どうやって、どのくらい時間をかけて、と思う。空高く伸びる鉄塔を一緒に見上げならちょっとお話ししてその人は先に降りていった。でもすぐに追いついてしまった。結構岩が多いしどうしようかな、と思って距離をとっていると向こうが止まってくれた。お互い「すいません」「ありがとうございます」と言い交わし、先に行かせてもらった。この日、その人と私は同じルートを歩いていたようだったけど時間をかける場所がちょこちょこ異なっていたようで抜きつ抜かれつした。そのたびに知っているような知らないような雰囲気で交わす一言がなんだか面白かった。

なんて話、どうでもいいようでいて、ハイキング仲間に話すと楽しく盛り上がったりする。みんな似ているけどちょっとずつ違う体験を話したり聞いたりしながら山でのコミュニケーションのあれこれに思いを馳せる。こういう「持ち寄り」が新しいコミュニケーションにつながったり、安全につながったりする。最近、熊が怖くて気軽に山道を歩けなくなっているが、これからもどうにか自然と過ごしていく必要がある私たちには大切な会話だ。

WEBみすずで精神分析家で日本精神分析協会の訓練分析家でもある藤山直樹先生の鮨の連載が再び始まっていた。みすずの連載は紙で届かなくなってからほとんど読まなくなったがこれはWEBで読んだ。藤山先生の連載は「精神分析家、鮨屋で考える 再び」。第一回は「鮨が生き続けること」。「生き続ける」ということに限界を感じつつ生き生きとそれにチャレンジしつづけるのは鮨も精神分析も同じだし、鮨屋の危機感を老齢となった精神分析家はもちろん強く共有している。

今は精神分析基礎講座と名前を変えたが、当時まだ対象関係論勉強会と呼ばれていたセミナーで、藤山先生の夏のグループの案内をもらった。申し込みからすごく緊張して、オフィスに伺ったのが先生の一冊目の単著『精神分析という営み』が出版されたときだから2003年。そのグループで一緒だった人たちの数人とはその後も関係が続き、当たり前だがそれぞれ20歳ずつ歳をとった。私もそうだが、精神分析家になった人もいる。

あの頃の日本の精神分析は活気があったと思う。小此木啓吾も土居健郎もいた。当然だが、彼らが遺したものは良いものばかりではない。まだ内側にいなかった私もそのあとすぐに様々な噂を聞くことになったが、自分のことで精一杯だった私は、精神分析でもなんでもただただ学べることが楽しかった。重度の自閉症の人たちと週末を過ごしながら教育相談員やスクールカウンセラーをやり、クリニックでの臨床も、塾の講師もしてた。とりあえず臨床家でありたかったし、精神分析を受けるためにも稼ぎたかった。若かった。

ここ数年、子育てがひと段落して久しぶりに学会にきたという友人やその頃からの付き合いの友人ともそんな昔話をすることが増えた。「あの頃はよかったよね」と言いたくなる感じを「なんか変わったよね」みたいな曖昧な感じで表現することも多くなった。時代が変わるとはそういうことなのだ。それでも修行の期間が長い私たちは簡単に去るわけにはいかない。私なんてまだ始まったばかりなのに、いつまで続けられるのだろう、と身体の不調や加齢を実感するにつけ不安になる。藤山直樹の年齢になればますます切実ななにかを感じることになるだろう。小さな日本の小さな訓練組織である協会の基盤づくりをしながら下の世代を育てることは、すでに整った組織で数多くの訓練分析家が機能している国のインスティチュートとは事情が異なる。今回の連載にはニューヨークに渡った馴染みの寿司職人、中澤親方という人を訪ねたときのことが書かれている。似たような危機を見据えながら下の世代を育て、自分が愛し、信じた文化が生き延びることを願い、自らも日々のそれを仕事として営む。しかも生き続けるためには生き生きと、というのはウィニコットとオグデンと藤山直樹の受け売りでもあり私の実感でもある。そんなあり方が人間にとってもっとも自然な姿だったらいいのに、と私は思うが、現実はそうではないような気がする。どうなるのかどうするのかどうしてくれるのか、とか言っていないで、私や私たちができること、したいことを模索していくことが必要だろう。何を言ったところで時間は有限だ。たくさんの支えを得ながら楽しめたらいい。

WEBみすずには8月号まで写真家の中井菜央さんの「ゆれる水脈 写真 表象の先に」が連載されていた。写真家ならではの細やかな観察と広がりのある言葉選びが魅力的で、知っている場所でまるで知らなかった景色を見せてもらっているような気持ちになる不思議で豊かな連載だった。新章を加えた書籍化が予定されているとのこと。楽しみに待ちたい。

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精神分析

心と身体

西の窓を開けたら向かいの家を薄いオレンジ色が覆っていた。南の窓から見える家はまだなのに。建物の高さで個々の家に訪れる日の出は違うということ。この時間の山の中はまだ暗いだろう。

頭を使う仕事の前に低山に登った。普段の筋トレに加え、時折、ハイキングをするようになってから、ハイキング用の筋力と体力が戻ってきたようで平均より(ヤマレコで比較)速いスピードで行って帰ってこられるし、帰ってからも仕事ができる。イレギュラーな用事と比べたら全く疲れない。標高300メートル台くらいなら簡単ではあるけど、遊びではなく合間にいくハイキングは、考えや気持ちを整理するためでもあるので岩場や水辺やそれなりの起伏はほしい。とはいえ、これも心の状態がよければそんなものなくても山は十分豊かで様々な驚きや発見をくれる。しかし、私がこういう目的でハイキングをするときは当然心の状態があまりよくない、あるいは少しでもよくしたい、というときなのできちんと目を開かせてくれるもの、耳を傾けさせてくれるもの、自分の貧しい感覚でも気づきをくれる外部を必要としているときだ。心が豊かなときはなんでもない見慣れた植物にレオ・レオーニが描いた平行植物を重ねたり、そういう知覚のジャンプができるわけだが、何かに囚われているときはまず自然界の秩序に触れて自分のちっぽけな囚われやこだわりに別の視点を持ちこみたい。しかもそれを限られた時間で、となると、環境に求めるものが増えてしまう。この前も「なんかこの道つまんない」とダラダラ続く緩いのぼりを歩きながら今私が「つまんない」と思っているありうる理由を口にしてみた。意識できている腹が立つ事柄と出来事が本当に腹を立てるようなものだったか、ということを考えながら一気に言葉にしながらこの山道を「つまんない」とか思っているのは「つまんねーな」「面白くねーな」という私の気分であって、道がやや整備されすぎて障害物がないとか薄暗い杉林ばかりで鳥も鳴いていない、とかそういうせいではまったくないんだよな、と思った。そしてそういえばなんでこの森、こんなに鳴き声が少ないの?オナガのぎゃーっとした声しか聞こえてこないぞ、とか耳がしてくれていた仕事に気づく。こうやって感覚が流れ出すのを動きながら待つ作業。

30代でまだ元気だった頃、心がそんなに健やかだったとは思えないが、分析を受ける前でまだ自分のダメさに本気で気づいていなかった分、何も考えずに生きていられたのだろう。やたら体力があってトレランをやろうと道具を揃えようとしたことがあった。トレラン用のリュックがあまりにも似合わずショックだったところまで覚えているが、その後忙しくなったのか、分析的な治療(分析ではない)を受け始めたせいか、トレランどころか運動もしなくなった。ヨガは続けていたか。時間さえあればどこまでも歩いていく癖はあったのとまだ自分で開業する前でいろんな勤務先が川や山が近くてしょっちゅう散歩していたのでなんとなく足腰の健康は維持されていたのかもしれない。50代になってこれだけ動けるのはとてもありがたい。こういうことを本当にありがたいと思うようになったのも加齢やいろんな理由で心身の様々な不調を経験したから。若いときに「若い人にはわからない」と言われた理由が本当によくわかる。経験した人にしかわからないことを共有するためにはその経験をすることが大事なのではなくてこの「わからない」という体験、つまり経験とは本当にその人独自のものだ、ということを身をもって体験する必要があるのだろう。

今朝はおいしいおいしい葡萄を食べた。ただ「ぶどう」と書かれた片面がセロハンで透明になっている三角袋に入って送られてきたのだけどすごくおいしい。巨峰なのかな。冷凍しておいたぐり茶の新茶も開けた。ようやく熱いお茶をのんびり楽しめる気候になった。身体も心もできるだけまともに動くように整えて行けたらいいなと思う。今日は水曜日。間違えないようにしよう。

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睡眠、ロジカルに。

東の空がすごくきれい。ピンクがかった鱗雲。早朝から小皿を割ってしまった。随分前から使っているムーミンのお皿。最初は5個あったのに今は2個しかない。この1年で2つ割った。一番手に取ることが多いお気に入りのお皿だからその分リスクも高いのか。比較的きれいに割れると知っている安心感からかそれほどショックを受けずにあっさり片付けられた。昨晩もたくさん頭と心使って言語化もして疲れたのでとりあえず眠って回復せねば、と睡眠に挑んだ、といっても気づいたら寝ていた。睡眠に関する研究はたくさんあれど、なかでも信頼性の高い知見を参照しつつ、自分の生活と自分の感覚を頼りに自分にとって最良と思われる睡眠を確保するのがベターなのだろう、と思うのだけどなかなか難しい。私は同じ曜日の同じ時間に同じ人と会っていく仕事だからはじまりとおわりは毎日ほぼ同じだけど日中がごちゃゴチャする日がある。外部での仕事とか生活の色々とか、ここで時間を確保するぞ、と気合を入れてスケジュール調整しても毎日のことではないし、イレギュラーなことも多いし、私の管理を超えた部分が多いので、休息もうまく取れないし、睡眠もうまく取れないし、となる日もある。移動もものすごいラッシュとかはもう何年も避けてるけど東京のラッシュは朝早いし、昼間は行き先によって全く様相が異なるので、ルーティンになっていないことはリサーチも追いついておらず「今日は運がいい!」とか結果オーライ思考で、全部運のせいにしかねない。リサーチといっても、私の生活とメインの仕事のためにいかにエネルギーを確保するかが目的なので様々な情報を頼りに自分でやってみて「これならいける」「これよりはこっちのやり方の方がいい」とか実証していくしかないのである。そのうち慣れる、から、そろそろ慣れてきた、となるまでには身体が持たなくなるかもしれないし、また別の事柄で日常はたやすく崩れるかもしれない。そういういつ何が起きてもおかしくない毎日を「まあなんとかなる」と腹をくくることは気持ちではできるが疲れるとますます失敗が増えたりするので、そうそうなりゆき任せにもできないのが現状。若い頃の嘘みたいな体力なんてもうとっくにないし、それでも昔より観察力と思考力と忍耐は身についているはずなので細々と獲得してきたものを生かすべし。ということで毎日疲れ切りながら生活の仕方を模索するのは悪くない。

中年に差しかかってからずっと精神分析を受けながら年を重ねてきた。本当にたくさんの臨床現場を開業一本に変更していく中で、自分のやってきたことが何に繋がっているのかを考えられた時間は本当に助けになった。自分が精神分析家として仕事をはじめてから、それまでよりずっと、人々には本当に様々な、本当に複雑な事情があるという現実を突きつけられるようになったので、なにかをたやすく判断したりしないことがもっとも大事なような気がして、持ち堪えることにものすごくエネルギーを使うようになってきた。だから身体のメンテナンスにも気を遣うようになった。やりとりにおいては物事はもっと複雑なのだから論理的に考える必要があるのではないか、と主張するようになった。それはとても当たり前のことなのだが、大抵できていない、というというと反論もあるだろう。そういう反論にエネルギーで消耗したくないのだ。それはそうだろう、と。それだけのことだから。それにしても、まさか私が論理的であることを強調するようになるとは。でも精神分析を体験して、結局それがもっともシンプルにトライすべきことなのではないかと思うようになった。そもそも、に立ち返ったり、おかしくなったときにもう一度最初から落ち着いて、きちんと観察して、ロジカルに考えてみよう、と。そうできるようになるまでにものすごく揺さぶられたがそれもプロセス。自分ひとりでは独りよがりな論理を振りかざして怖くなったり恥ずかしくなったりしたかもしれない。二人でいると最初はもっと強烈に感じた。独りよがりで幼い自分に気づくための二人設定だから一方ではすごく抱えてもらっているのだけど渦中にいると悪いことばかり起きているような気さえした。自分がこんなに赤ちゃんみたいになるとは思っていなかった。大人が赤ちゃんみたいな心性になるというのは特殊な事態だが赤ちゃんってこんな感じに泣いたりわめいたりひとりで楽しそうにしたりしてるんだろうな、という体験だったってこと。赤ちゃんの鳴き声や笑い声と言葉ってシームレスだからそういう言葉を体験した。本当に大変だったけど。

今日は身体も頭も使う。体調崩さずに過ごしたい。

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大河ドラマ「べらぼう」とか。

いいお天気。昨晩、部屋が少し蒸し暑くて窓を開けた。寒いくらいの風でも少し嬉しかった。夏掛けもほしくないくらいの暑さは楽しくない。季節はなにかしらで工夫して楽しみたい。

楽しくないといえば、昨夜の大河ドラマ「べらぼう」で恋川春町が死んだ。大好きなキャラクターだったし、その生き様死に様に泣きに泣いた。取り締まるやつなんて屁だ。「屁♫」をやるときにもう春町先生はいないのか…。悲しいし寂しい。洒落や皮肉を笑えない世界なんて全然楽しくない。

精神分析は面白いものだ、とアダム・フィリップスはいった。『精神分析というお仕事: 専門性のパラドクス』参照。妙木浩之訳。そうだよ。この「面白い」が通じない人にはなりたくないけど言葉の世界はどんどん危ない方へ向かっていると思う。もう超自我なんて機能しない心の世界が主流なのかもしれない。

週末お祭りの射的でピチッとした薄いTシャツを着たおじさんが男の子たちに「switch2もあるよ」といっていた。「switch2もあるの!」と驚きの声をあげる子どもたちのほうが嘘っぽくて笑えた。彼らはその露店の前でどこで手に入れたのかプラスチックの剣でチャンバラをしながらおじさんに見守られていた。

今日も今日という日常で面白さを探す。作る。「おもしろくねーな」という人のそばで軽やかに面白がる人がいてまた別の誰かの言葉に怒ったり笑ったりする。「べらぼう」はこのあと辛いことが増えていく。そこをどう面白がっていくのか。とても楽しみだ。

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俳句 散歩 音楽

秋三日目。

暗いうちから掃除した。空が濃いグレーになって濃い紺になりつつある。もうすぐ日の出。今朝はノラ・ジョーンズをかけた。きれいな柔らかい声。柳樂光隆さんが今年もノラ・ジョーンズにインタビューしていた。今週の来日公演に向けて楽しそうなノラが素敵。自分の大好きな楽曲を信頼できる人たちと演奏できるなんて最高だろうな。昨年リリースのVisionsはとっても生き生きしたアルバムだったからライブ行ける人はいいなあ。インタビューに音源あるよ。レポートもいっぱい読もう。

秋3日目。昨日も気持ちよくて遠回りしてオフィスへ行った。新宿中央公園でも昨日、今日はパークマルシェ開催。フリーマーケットみたいのもやっているみたいだった。先週まで鳴いていた蝉の声もしずまり、剪定を終えてなんとなくひっそりした花壇を抜けて公園側から熊野神社へ降りた。赤、水色、黄色の屋台。紅白の垂れ幕が見えた。あんず飴は赤の看板。「スーパーボールすくい」の文字はカラフル。お祭りの日の朝っていい。神社に入るとまだ何もない鉄板、きれいに積まれたじゃがいも、一つの屋台にまだ一人ずつ。パラソルの下のラムネ、足を派手に動かす蛸の絵、サッポロの味じゃがバター、味の王様フランクフルト、広島風お好み焼き、超大盛り焼きそばなどなど。いつもひっそりの本殿、社殿が搬入のための小型トラックに隠れてますます静か。それでもやっぱり主役感があるのは伝統ある神社だからか。本殿横の小さな神社の狛犬は面白い表情をしているのだけどかなり昔からいるみたい。西新宿の小さな一角のいつもと違う土曜の朝。良い寄り道だった。

たのしさは支度にありて秋祭 鷹羽狩行

一日の秋にぎやかに祭りかな 正岡子規

狛犬がおどけて笑ふ秋祭 阿波野青畝

そういえば、まだ暑かった少し前に句友たちが以前吟行していた東高根森林公園にいった。みなさんのやりとりを見ながらいいなあと思っていたのだ。彼らは吟行先を選ぶのが本当に上手。まだまだ知らない素敵な場所がたくさんある。東高根森林公園は小田急線向ヶ丘遊園からバスで生田緑地を過ぎて田園都市線溝口駅まで向かう途中にある。生田緑地ばら苑へ行こうかと思ったらまだ開園していなかった。10月16日から文化の日までだそう。向ヶ丘遊園で降りたのは久しぶりで新しいお店がたくさんできていた。昔、ここに住んでいた友達の家に心理検査を教えてもらいにきたなあ、など思い出しながらバスの時間まで散歩した。若い頃は仕事の後、友達の家に泊まり込んで勉強することが多かった。元気だった。溝口駅行きのバスは途中からたくさん人が乗ってきて驚いた。何もなさそうな場所なのになんでだろう、と思ったけどそのあとも続々人が乗ってきてバス利用の地元の方が多いってことかな、と思った。バスを降りて少し行くと白い曼珠沙華がたくさん咲いている鉢があった。その辺で方向を間違っていることに気づききた道を戻ると公園のきれいな案内板がすぐに見えた。私は湿地が好きなのだけどこの公園も水も緑も豊かですごく良かった。植物を眺めながら歩いているうちに結構上の方まで登っていた。

病める手の爪美しや秋海棠 杉田久女

みづうみに鰲を釣るゆめ秋昼寝 森澄雄

秋らしさを待ち侘びて小さな秋を探しながら残暑を過ごしたが、思い返す景色の色は着実に季節が進んでいたことを教えてくれる。立秋って本当に立秋っぽい空になるんだな、とか実感もしていたけど暑過ぎた残暑のせいで言葉と体感と景色が脳内でなんかチグハグしていた。ようやく一致した感じ。

新涼や白きてのひらあしのうら 川端茅舎

これね、私はまだ経験していない感じ。

新涼や起きてすぐ書く文一つ 星野立子

これはすごくわかる。これだって毎日書いてるけど気分が全然違うものね。今日も涼しいといいな。もう流石にあの暑さには戻らないでしょう、と思うとそれだけで身体が楽な気がする。

良い日曜日になりますように。

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俳句 精神分析

子規忌、岸本尚毅

曇り?うちから見える屋根が濡れてるけど降ってはいない様子?すこーし降ってたりするのかしら。窓を開けるととても涼しい風が入ってきた。やっとこさ秋二日目。気持ちいい。のんびり冬に向かっていってほしい。

昨日、九月十九日は正岡子規の忌日だったので青空文庫でも読める『墨汁一滴』『病牀六尺』をパラパラしていた。子規忌は糸瓜忌、獺祭忌ともいう。

糸瓜は秋の季語。子規が亡くなる直前、最後に作った三句

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をとゝひのへちまの水も取らざりき

糸瓜の水には去痰作用があるとされていた。子規はまさにこれから仏とならんとする自分のことを俳句にした。これらの句碑は東京都台東区根岸の子規庵にある。昨日は子規庵の糸瓜(へちま)が3年ぶりにぶらさがったそう。

まだすっごく暑かった8月31日、朝日新聞朝刊歌壇俳壇面で月1回掲載される「俳句時評」をデジタルで読んだ。担当しているのは俳人の岸本尚毅。軽やかで面白くて大好き。NHK俳句の選者でもある。

岸本尚毅が取り上げたのは今年四月に再刊(四十二年ぶりだそう)された正岡子規『俳諧大要』(岩波文庫)のこの部分。

“この本のなかで、子規は「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず」と説いた。”

ここでまず引かれるのは子規の四天王の二人、高浜虚子と河東碧梧桐。

赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐

流れ行く大根の葉の早さかな 虚子

ちなみに四天王のあと二人は石井露月、佐藤紅緑だ。記事を読むと子規がいった「一種非空非実の大文学」の「非空非実」とはなにか、という問いがいまださまざまな答えを導くものらしいとわかる。写実とは、というだけでも虚子と碧梧桐では異なるのだろう。

鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

は私が好きな一句なのだけどこれはいかにも非空非実では?ない?わからないが「ぬべし」がいい。

この教えは『俳諧大要』「第七 修学第三期」の最初の方に書いてある。


「第三期は文学専門の人に非ざれば入ること能わず。」とある。「第二期は知らずの間に入りをることあり。第三期は自ら入らんと決心する者に非れば入るべからず。」と続く。なるほど。日本でIPAの精神分析家になるためには日本精神分析協会に入らなければならないというのと同じか。確かに入るかどうか決めるために別の分析家と分析をするくらい決心が必要だった。分析を受けることと生業としての精神分析家になることは全く違うから。この前後でも子規はいいことしか書いていない。本当そうだなあ、と思いながら読める。夏目漱石が子規と過ごした日々のことを書いている文章も相当面白いのだが、どこに入っているのか。とにかく子規は、岸本尚毅もいうとおり、若くして亡くなってもずっといろんな人の心に生き続けている。

岸本尚毅が俳句にした子規はこれらとか。

健啖のせつなき子規の忌なりけり

子規の世は短かりけり柏餅

子規の忌やわが子を刈つて丸坊主

子規の柿茅舎の柿と潰えけり

私は岸本尚毅の墓の句が好きなのでそれを引いて子規のみならずいろんな俳人を私の中で生き続けさせたい。

墓親し陰に日向に落花して

柿潰れシヤツだらしなく墓に人

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お菓子 精神分析 精神分析、本

涼しい。

昨夜はみんなが傘をさしているなかこのくらいならいいかなと折りたたみ傘を開かないまま歩いていたら駅に着いた。濡れていなかった。深夜、雨脚が強まる音が聞こえた。雷も鳴り始めた。停電になったら嫌だなあ、と懐中電灯を探したがなかった。実家から持ってきた真っ赤な大きいラジオ付き懐中電灯があった。これ間違ったとこをカチってやると大きなサイレンが鳴っちゃうんだよな、と思いながら慎重にライトの電源を探してカチッとした。案の定何もつかなかった。そりゃそうね、と電池カバーを外すと単1が3本。おお、大きな音がするわけだ。最近、電池を取り替える必要がある家電は単3ばかりだったから単1はどこかな、とちょっと探したけど、もう寝ないと、と結局何もせず朝になった。まだ暗いうちに起きてしまったけど停電にはならなかったみたい。雷はそんなにひどくならなかったのかも。起きなかったし。早朝はまだ結構雨が降っていたが明るくなるにつれて雨も止んだ。短くても秋らしさを感じられるのは嬉しい。

今朝は銚子のまちの駅、銚子セレクト市場で買った「ふるさと」の「地球展望館」というお菓子。丸くしたパイナップルが乗った丸いタルトみたいなお菓子。これが地球ってことね、きっと。地球と月ってこと?「地球展望館」って名前、「地球の丸く見える丘展望館」に違いないのだけど(違うのかな)結構大胆に略したなとちょっとおかしかった。第21回菓子博有功金賞だそう。有功金賞というのがあるのね。アールグレイと美味しくいただきました。

昨日はオグデンの最近の二冊、Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic SensibilityとWhat alive meansの自分用訳を少し整理した。結構たまっていた。でもファイルの整理が悪いせいか同じところを訳したものが複数異なるファイルに入っていたり、ちょこちょこ修正したのはどっちだろう、となったりした。うーん。

とりあえず今日をがんばろ。涼しい!

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散歩 精神分析

寺家ふるさと村、Reading Freud

空が明るくなってきた。今日は曇りなのかな。ピンクがかってくるのではなくグレーが薄くなるしかたで朝になっていく。天気予報は東京は午前中は晴れ、午後は雨が降ったり雷が鳴ったりするみたい。今朝もエアコンはつけておらず扇風機で外からの弱い風を循環させている。明日は一気に気温が下がるらしい、といっても28度とかだけど。日本はどうなってしまうのだろう。

先日、横浜市の寺家ふるさと村へ行った。田園都市線青葉台駅、小田急線柿生駅からバスで行ける。横浜はみどり税だっけ、独自の税金をとって横浜みどりアップ計画を実施している。寺家ふるさと村四季の家もその「ウェルカムセンター」のひとつとして機能しているらしい。東京在住在勤の私も緑に関する税金をとられていると思うのだけど何税だっけ。こんなのとるならきちんと緑守ってよ、と怒った覚えがあるのに税金の名前を忘れてしまった。いかん。寺家ふるさと村の寺家は「じけ」と読む。バス停を降りるとすっかり実った稲が広がっている田んぼと藁で束ねられた刈り取られた稲が並べられた谷戸田が広がっていた。とてもきれい。その日もまだ暑かったけど素敵な里山の秋景色。春に田植えして夏には青青と育った稲たちもきれいだっただろう。それにしても子どもの頃はすぐそばにあった田園風景にいちいち感動するようになってしまった。GWに金沢から和倉温泉まで七尾線に乗ったときも空と雲がそのまま映り込む水田が続いていて何枚も写真を撮った。

横浜市のみどり税にも文句はでているだろうけど、この寺家ふるさと村は結構賑わっていて四季の家のレストランも混んでいた。お蕎麦と鰻のお店みたい。外のベンチでお弁当を食べている人もいた。四季の家では蕎麦打ちとかイベントも色々開かれているらしい。私たちはそこでお手洗いに寄ってから里山散策スタート。田んぼの脇の道をいくと熊野神社の階段が見えた。田んぼの向こうの人影に目をやると親戚の集まりらしき人たち。お墓参りかしら。家族っぽい集まりには友達や他人とは違う距離感が作り出す形、みたいなものがある気がする。熊野神社への階段は少し急でいかにも里山の神社という佇まいだった。脇道を降りて再び田園風景を歩く。いろんなカカシが田んぼを守っていた。少しいくと釣り堀の池に。誰も言葉を交わさず、ほぼ等間隔で動きのない池にただ静かに釣り糸を垂らしていた。釣り堀はいい。市ヶ谷のとか何度か行ったことがある。そこから森へ続く坂へ。通勤の距離で行けるハイキングコースは理想的。道もほどよく整備されていた。いろんな虫や植物がいてまだ青い柿もまだ緑の栗もまだ黄緑のどんぐりも待ち望んだ秋を地味に彩っていた。この前までどこにいってもたくさんいた蜂は少し減ってきたように思えた。スズメバチ注意の看板は一年中かかっているだろうし、スプレーは作業場のそばに置いてあったけど。途中の池はあまりきれいではなかったけど近くの木々でハンモックでくつろいでいる人たちもいて気持ちよさそうだった。森を抜けると再び田んぼ。小さな子どもたちが稲刈り体験かカカシ作りか田んぼの中で楽しそうな声をあげてるのをみられた。ミャクミャクのカカシもいたが、多くのカカシは名無しだろう。子どもたちに聞けば「あれが〇〇ちゃんの」と指差して教えてくれることはあるだろうし、近くによれば名札が付いていたりする場合もあるとは思うが。帰りはあまり本数の出ないバス停からちょうどよくバスに乗れた。ナスの畑とぶどう畑の間にあるバス停にはすでに二人並んでいてそれぞれ文庫本を読んでいた。何を読んでいるのかなあ、と思ったがわからず。結構厚い本だった。

そういえば、Reading Freudで精神分析の創始者であるフロイトがその早期に展開した神経学的な仮説「心理学草案」(『フロイト全集1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』岩波書店)読んでいるが、メンバーのなかで、これがまるで「物語」かのように共有されはじめた瞬間があった。

「心理学草案」(1895)は

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。

というものであらすじがあるようなものでも要約できるようなものでもないにも関わらず。フロイトは精神分析を知らずとも多くの人が知っている名前だし、少し知識のある人ならフロイトとフリースの関係でこれが書かれたことも知っている。フリースを知らなくてもフロイトは常にそれなりに濃い関係で読み手なり聞き手なりを持っていたから自ずとその言説はコミュニケーションの結果として読まれ、そこに共通の物語が生じやすいのかもしれない。

今日はもう木曜日か。1週間早い。良いことありますように。

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イベント 精神分析

回帰

今日の東京の日の出は5時25分。毎日1分ずつ遅くなる。金曜日から急に涼しくなるらしい。明日は雷の予報も出ているのね。昨晩の新宿の空は大きな雲が層になっていて明るく感じた。東京だから?星かと思って眺めていた小さくて白いものはいつのまにか雲に隠れた。飛行機だったらしい。オフィスのそばでいつもみる飛行機は都庁やオペラシティに突っ込むのではないか、というくらい低空飛行だからあれはなんだったんだろう。UFO?と思うのはいろんなところでUFOの話を聞きすぎているからか。能登地震があった翌年の5月は石川県羽咋市の宇宙科学博物館、コスモアイル羽咋にも行った。宇宙人がたくさんいて展示も本格的ですごく楽しかった。最近だと千葉県銚子市の地球の丸く見える丘展望館でもUFOの映像をみた。経営困難による廃線の危機を「ぬれ煎餅」などで乗り切ってきた銚子電鉄の犬吠駅が最寄り。途中のひまわり畑が圧巻だった。以前は、展望館でUFO召喚イベントとかもしていたらしい。銚子電鉄に乗ること自体が目的の人もいるし、観光だと犬吠駅で降りる人がほとんどかも。駅前の回転寿司屋さんも犬吠埼灯台もとてもいい。そういえばこの前、京王線新宿駅の売店で銚子電鉄のぬれ煎餅を見かけてびっくりした。「まずい棒」もあったのかな。銚子電鉄と京王は何繋がりなのだろう。銚子電鉄が京王線の車両を使っているとか?私の実家の方のローカル線はたしか井の頭線の車両だったからそういうのもありうるかも。鉄道はそれ自体、旅の醍醐味。昔の面影も届ける大切な手段。盛り上がってほしい。

不注意で色々予定を入れまちがったり、アプリを使ったあれこれができないのは、最近の携帯が私には小さすぎるからではないかと思い至った。Duolingoだってパソコンでできればいいのに。。。と思っていたらパソコンでもできるというではないか。私が知らないだけだった。いざやってみたらやりづらいのは携帯が小さすぎるせいではなく、どちらにもメリットデメリットあるという普通のことに気付かされただけだった。でも携帯とPCではやれることが違う気がするので両方使ってみようと思った。これも少し前に書いた習慣を崩すことの一環になるかも、と少しワクワク。この話をしたら「ボケ防止ですね」と言われた。まあそうなんですけどね。

ボケ防止で思い出したのだけど、最近思うのは、私は死ぬまで本を売ることをしないだろうなということ。もちろん売るための本なんて書けないというのもあるけれど、本を書いている人たちは目的がはっきりしている人が多いなと気づいて、私は特に自分の中にそういうものを見出せないから、こういう毎日のパーソナルで他愛もない発見をメモ的に記しておくのがあっているんだな。もちろん国内外での発表は続けたいし、協会のジャーナルには投稿していくだろうけど。それにしてもこういうのだってすぐ忘れてまた少ししたらそういえばDuolingoってパソコンでもできるんだって、とか戻りかねない。自分だけのことならそれでいいわけで、というか、相手あることだって何度でも聞き直していいわけよね、人は。何度も同じ話するのだって人なんだから。精神分析なんてほんと何度も何度も同じ話をしたりする。けど、それも全く同じということは全くないのだな、とか考えているのがフフフという楽しみだったりする。自分のことってよくわからないから、何度も同じ道で迷っちゃったりはしないかもしれないけど、またここに出ちゃったよ、みたいなことはあるわけだし。回帰するともいう。

フロイトは「代替形成や症状は抑圧されたものの回帰の指標」であるとして欲動との関係で抑圧を精密に捉えようとした。メタサイコロジー論のひとつ「抑圧」論文でフロイトは三つの神経症、つまり不安ヒステリー(動物恐怖症など)、転換ヒステリー、強迫神経症を取り上げて抑圧のメカニズムを記述する。1915年の三論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」「無意識」は、フロイトの症例とともにセットで読んだほうがいいと思うけど、私たちがReading Freudで読んでいる「心理学草案」が前提とした神経学的な仮説に基づいた思弁ではない方法、つまり臨床観察に基づく基礎づけをフロイトが試みたものたち。とても面白い。もちろん「痛み」とか「草案」からすでに印象的な取り上げ方をされているテーマは引き継がれている。

そういえばこれもどうでもいい話なんだけど、私はAmazonのオーディブルって無料期間に少し聞いたことしかなくて携帯の読み上げ機能でキンドル本を聞くことがある。これがかなりストレス、と同時に面白かったりもする。メタサイコロジー論は多分そんなに間違えて読まれないと思うけど、読まねば、みたいな目的があるときはそういう間違いはストレスでしかないかもしれない。ちょっとした息抜きとして聞いているときは読み上げの間違いは逆に面白みになったりもする。よくある読み上げの間違いは耳が自動変換するようになっているのでいちいち引っかからないけど、自然に思い浮かばない区切りや変換がされるときは、手を止めて文章を確認して「えー」となったり本当に知らない単語だったりする。英語の読み上げもフランス語が混ざっていたりすると急に声が変わったりして覚醒水準は上がるけど聞くだけではわからない場合が多いので、英語は地道に自動翻訳に助けてもらいながら書いたり読んだりしないといけない。自動翻訳もまだ辞書機能とかの使い方がよくわかっていないな、そういえば。そのポテンシャルを全然いかせていない気もするのだけどすごく助かってはいる。AI翻訳はみんな駆使しているみたいで私も教えてもらったのだけど使いこなせない。こんなでもどうにかなる世の中であってほしいな。パソコンだって普及していなかった時代に生まれているので素朴に自分の身の丈でやっていきたいよ。アナログ思考も大事でしょう。

この前、時計屋さんへ行ったときも思った。そこはこだわりの店主さんだからちょっと緊張するのだけど大事な時計を預かったのでみてもらいにいった。ついでに自分の時計も電池が切れてしまったので変えてもらった。そっちは1時間くらいでできるというので指定の時間を少しすぎたくらいに受け取りにいった。小さなビニール袋に小さなクッション付きで入れてくれていた。お礼を言いながら受け取ると携帯電話と近づけないように、と早口で言われた。一緒にいた人も少し驚く素早い指摘に「すいません!」と携帯をしまって時計をはめた。こういう切迫感は緊張するけどプロの仕事だもんね、と思う。私が文明の利器を使いこなせないという話とは全然違うけど。ところで、さっきから「携帯」と書いているけど書き言葉にするといつも違和感がある。iphoneとか書かないと通じなかったりして、とか。でも大抵は文脈で通じるよね、多分。

昨日、なんでだか忘れたけど倉橋由美子と三島由紀夫のことを考えていた。倉橋由美子が書くかっこいい登場人物に会いたかったのかも。いや、先日、神奈川近代文学館へ行ったからか。常設展には今回もいい感じの三島由紀夫がいた。お目当ては開催中の企画展「中島敦の手紙展――おとうちゃんからの贈り物」。行きたかったのだ。『山月記』は教科書で読んだのが最初だったか?覚えていないけど漢文の授業で読んだ気がしてしまっている。途中からはどんどん読めるけど最初が難しいんだよね。かっこいい文体で大好きだった。今回の展示は、パラオ滞在中に息子とやりとりした手紙が中心。次男は当時まだ小さくてお返事は書いていないけど長男の手紙が子供なりのしっかりさで次男の様子も伝えてくれている。中島敦の子供たちはあまりに早くに亡くなった父親の思い出とどう生きたのだろう、戦争の時代を。

昨日の朝ドラ「あんぱん」は戦争が終わったあとの父の顔も知らぬ子どもや孫世代が登場した。この重たさと悲しみに触れれば戦争が終わることがないんだと知る。だからこそすぐに終わらせねばならないのに。一日一日が平和を願う気持ちで過ごせたらいいのに。せめて今日、せめて明日、って少しずつ先延ばししながらずっと平和を願って、本当に平和が訪れますように。

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精神分析 精神分析、本

残暑、オグデン“Coming to Life〜など。

曇り。なんだかまだ蒸し暑い。よく動いてるし体温調節もできてると思うのだけど今年は汗に皮膚が反応しやすくて結構辛い。なんで自分の皮膚から出るものでやられないといかんのだ。しっかりして、と思うがいい子に薬を塗る。めんどくさいねえ。

週末、オンライン投句の締切に向けて、角川の秋の歳時記を電車でパラパラ見ていた。季語「残暑」の例句がいかにもじっとりしてて笑ってしまった。みなさん、さすが。

昨日は勉強をサボったが、そういえば、とオグデンのComing to Life in the Consulting Room : Toward a New Analytic Sensibilityの4章 Destruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’を参照しようとメモを探したが、ない!これって2016年にInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたものだから、絶対どこかにメモしているはずなんだよー、と思ったがない。またか、と自分のこういうダメさに慣れているのもどうかと思えばないものはないのでもう一度読み始めたらやっぱりすごく難しい。これ、前も苦労したけどすごく面白かったのは覚えていたのでなんとか読んでいた。

オグデンのこの論文は、ウィニコットの「対象の使用と同一化を通して関係すること」の精読。Whar alive Means 6章 Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysisでウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデンのことを前に書いた。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

似たようなことはすでにこのDestruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’の論文の冒頭にも書いている。こんな感じで。

「この論文ではあまりに多くのことがほのめかされるにとどまっているので、読者はそれを読むだけでなく、書くことにも参与しなければならない。本稿で私が展開するアイデアは、ウィニコットの論文に対する私自身の読むことと書くこと——私がそれをどう理解するか、そしてより重要には、それを用いて私が何を作り出すか——を示すものである。」

とか、その先でも

「それは、母親が「現実であるがゆえに破壊されつつあり、破壊されつつあるがゆえに現実になりつつある」瞬間に、対象が実際に生き残ることが決定的に重要であるという考えである。私は今なお、この言葉を読むと頭がくらくらする。この一対の考えを何とか理解しようとして、多くの時間を費やしてきた。対象が「現実であるがゆえに破壊されつつある」とはどういう意味なのか?ここで人は、ウィニコットの論文を「書く」ほかない。なぜなら、彼は決定的に重要な考えを、説明されることなく、ただほのめかされるだけの極めて捉えがたい形に残しているからである。」

ぶれないオグデン。この論文が面白いのは、オグデンがウィニコットを読む仕方が、理解が、変わってきたこと、その場所を明確にしていること。最初から丁寧に読んでいくことで明らかになっていくウィニコットの言いたいことに豊かな思考とともについていくオグデンは楽しそうだし、それを読む私も楽しい。読むことの楽しみだな。またすぐ忘れてしまわないように今度はメモの保存を工夫せねば。これまでも工夫してきたつもりなのになあ。どうすればいいんだろう。

まあ、今日は火曜日。これは要確認。今週もがんばろう。

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テレビ 散歩

アンパンマン、環境

今日は曇りかな。休日なので朝に朝ドラを見る。朝ドラ「あんぱん」気に入っている。主人公のぶの子どもたちへの眼差しがずっとあたたかいのが好き。私もまだ自分が子どもみたいな時から赤ちゃんから大学生、誰かの「子ども」までいろんな人たちに関わってきたし、今も関わっているけどその眼差しにはかなり変遷があるな。いろんな申し訳なさが襲ってくる。でも本当にたくさんの子どもたちと会ってきたことで随分成長させてもらった気がする。いろんなことを今も世代を超えて教えてもらっている。アンパンマンは、私は子どもの頃はあまりみていなかったけど、大学生のときに小さな子に「かいて」と言われ、全く絵心のない私の下手なアンパンマンで泣かせてしまったことがいつも思い出される。申し訳なかった。今ならあれよりはマシなものを書けるが子どもたちは「ちがう」と首を横にふることも多いので、子どもたちの指導のもと修正していく。「こう?」「こうかな」「これでどうだろ」とか言っている間にいちいち「ごめんごめん」「ごめんね」が入るのもしかたない。とりあえずアンパンマンの色に塗ってしまえば、とか思うこともあるが色塗りはたいてい子どもが自分からはじめるのでしたことがない。「ここ黒くして」と輪郭をかくことを頼まれることはあるけど。あの輪郭や枠組みを求められるときのじんわりした気持ちもたくさん経験してきた。中井久夫の風景構成法という描画も私はよく使うのだけど、あれは最初に治療者が枠を書く。そういうのと繋がっているのだ、きっと。こぼれ落ちないように、大切ななにかが。形にすることで生まれてくるように、見えていなかったなにかが。

昨日、なんとなく眺めていたテレビでどこかに海の平均気温が2度上昇して生えたての若草を食べる渡鳥に影響が出ていると言っていた。胸が痛む。私たちは環境にある程度守られてきて、自然は人間よりずっと厳しいときもあるけど基本的にはものすごく優しい。その自然が変わってしまったら私たちというよりこの先の人間までずっとあまりよくない影響を受けることになる。旅にいい、山に登り、海辺を歩く、観光客としてそこを訪れ話を聞いていると農業、林業、漁業の今を垣間見ることがある。たいてい厳しい話だ。知らないことがたくさんあるけど知ろうとしていきたいと思う。だから今日も歩く。

良い一日でありますように。

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俳句 散歩 精神分析

祭り、花壇、フロイト

昨晩は少し暑くて起きたがエアコンをつけたらすぐに寒くなって消した。すごく暑かった数日前よりエアコンの効きが良くなっている気がする。この夏、エアコンも酷使されっぱなしで寿命が縮んだのではないか。よくがんばってくれたおかげで私は生き延びたが家電は高いから引き続きがんばってほしい。

昨晩は通りかかった神社のお祭りにもいった。といっても通り過ぎただけだけど商店街のスピーカーから流れる祭囃子、町内ならではの案内、提灯にしかない明るさ、自転車で走りながら子どもたちが大きな声で交わす「またあしたね!」。突然、雨が降り出して自転車置き場に避難。雨雲レーダーと巨人〜阪神戦の結果を確認している間に止んだ。よく歩いた。

年よりが四五人酔へり秋祭 前田普羅

暑すぎて放置していた我が家の小さな花壇と玄関も少しきれいにした。剪定の時期ではないが、時間があるときにやっておかねばと剪定鋏でジャキジャキとパキパキの中間くらいの力で根元で陽もあたらず黒くなっていた千両の枝とすっかり大きくなった山椒の木の枝を切った。土も少し耕したら知らない大きな根っこを発見。君は誰、とびっくりしたけどまだ確認できていない。なんの根っこだろう。それにしても、剪定用の鋏、もう少し鋏部分が大きいのを買えばよかった。山椒の枝は少し太くなるとすごく硬いしトゲトゲしているから切りにくい。安全で使いやすくはあるから枝が逞しくなる前に適切な季節に切ればいいのだろうけど。昨日は風も気持ちよく少し涼しくなったとはいえ大きなゴミ袋に葉っぱや枝を片付け終わる頃にはやっぱり汗だくでクタクタ。肩もバキバキになった。今日の筋肉痛を恐れていたけど今はまだ大丈夫みたい。遅れてくるかもしれないけど。

昨日からオグデンが引用しているフロイトの文章が見つからなくてなんでだろうと思っていたらオグデンの本の誤植だと思う、多分。Freud, S. (1911b). The history of the psychoanalytical movement. SE, 14とあるけどThe History of the Psychoanalytic Movementは1914年だと思います。私もたやすく引っぱられてしまった。論文名見ればわかるじゃんね。まだまだな。オグデンが引用するフロイトも私は好きで、今読んでいる論文はオグデンの主張も好き。こういうの読みながら自分でも「ああ、そうか、あそこでフロイトがこう書いていたのはここに繋がっているかもしれないんだ」という発見があるくらいにはフロイトを読み続けてきてよかったなあとしみじみ思う。すごく時間がかかるしエネルギーも使うけど精神分析が関わる人の心ってそういうものだからな。

今日もあれやこれやがんばろう。今日のNHK俳句は岸本尚毅先生。一番好き。良い日曜日になりますように。

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俳句 精神分析 精神分析、本 言葉

梨、子規、サンガマ

夜はクーラーがいらなくなった。喉の心配が少し減って嬉しい。ちょっと調子悪いとマスクをする癖がついているけど気をつけるべきことなんて少ないほうがいいに決まっている。今朝はまだ少し雨が降っているみたい。見えないくらいの雨が。

梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 正岡子規

梨を食べている。豊水。おいしい。子規って1867-1902(慶応3年-明治35年)で35年しか生きていないのに(「のに」ってこともないけど)お菓子とか果物とかの俳句が多いイメージ。楽しい。

牡丹餅の昼夜を分つ彼岸哉 正岡子規

うちも昔、おはぎのやりとりしていた気がする。毎年、あんこ・きなこ・黒ゴマの三色で作って持ってきてくれた人もいた。父の仕事の関係の人だったような気がするけど私の中では「おはぎの人」となっていた。

職業の分らぬ家や枇杷の花 正岡子規

という句も好き。枇杷が好きだからというのもあるがこれも私だったら「あの枇杷の家」「あの枇杷の家の人」とか言っていたと思う。面白い句だと思う。

毎日のように分析家のところへ通っていた頃、通り道に枇杷の木が一本だけあった。私は毎日、毎季節、身がなるまでも身がなってからも眺め続け写真もたくさん撮った。最初の数年はその大きな道に枇杷の木があることに気づいていなかった。

精神分析を受けるとこれまで気づかなかった景色に気づくことが増える。現実の景色のお話。心の景色も連動はしているに違いないが。私の患者さんたちもそうだ。そしてこんなに毎日のように通っていたのに、と自分で驚く。こういう驚きがとても多いのが精神分析だと思う。自分でもびっくり、という体験はいろんな情緒を引き起こすけど、それまでの年月はそれにお互いが持ち堪えられる準備期間でもあるのでなんとか二人でとどまる、味わう。

子規は病床にありながら一日一日を豊かに生きた。俳句は単に生活の切り取りではない。わずかな文字数が見せてくれる景色に潜む意外性に心躍る。

昨日、なんとなく出口顯『声と文字の人類学(NHKブックスNo.1284)』をパラパラしていた。

この本に、南米ペルーの先住民ピーロが植民地制度アシエンダのSIL教育のもと読み書きを身につけたという話がある。そこで引用されるのがSILの指導なし識字能力を身につけたサンガマの説明である。

「私は紙を読む方法を知っている。それが私に話しかけてくるのだ。彼女が私に話しかけてくる。紙には身体がある。私はいつも彼女を見る。私はいつもこの(文字が書いてある)紙を見る。彼女には赤い唇があり、それで語りかけてくるのだ。彼女は赤く彩色された口がある身体をしている。彼女には赤い口がある。」

サンガマは「書かれた文字(writing)を音声言語の表象とは考えていない」のである。

「西洋の人間にとって文字は発話を符号化(encode)したものであり、符号の解読コードを知る者は誰でもメッセージを読むことができる。声を物質化したものが文字であるという西洋の考え方にサンガマも同意したであろう。しかしサンガマが聞いていた声は、文字とは「別の声」であり、声を発する紙は「文字」の外見とは異なる身体を持つ。紙はメッセージを担う生身の女として現れサンガマに話しかける。彼が聞いているのは女の声である。サンガマにとって読み方を知っている者とは、コード解読の術をマスターした者というより、印刷されたページが女に見える「眼」を持ち、女が言うことを聞き分けられる「耳」を持つ者なのである。読むこととは女の話すことを聴くことなのである。」

俳句もオグデンがウィニコットを原著で読めというのも同じだな、と思った。俳句もその人の文字で書かれていると見えてくるものが変わる。ウィニコットも。その潜在性=創造性であり、読み手にもそれは求められるものなのかもしれない。

いい俳句作りたいな。言葉を豊かにしないと。とりあえず今日もがんばりましょう。