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フロイト「ミケランジェロのモーセ像」

薄暗い。薄着だと寒いけど普通に着てしまうと暑い。湿度の管理が難しいのかな。東京も梅雨入り。沖縄の梅雨はもう明けたらしい。心身ともに低め安定でいきたい、というか低めでもいいから安定していてほしい。

昨日は、久しぶりにフロイトの『ミケランジェロのモーセ像』を読んだ。岩波の『フロイト全集13』に入っている。そんなに長い論文ではない。フロイトが詩や彫刻には感銘を受けるのに音楽はつまらないと感じるというところから始まり、フロイトが強くミケランジェロのモーセ像にひかれ、その謎解きに取り組んでいく様子は面白い。芸術家ではなく作品を解釈するフロイトはやや自信がなかったようで、この論文は最初オットー・ランクらが編集を務める「イマーゴ」に匿名で発表された。その方法がこの論文に対する注目度にどう影響したかはわからないが、その後、フロイト先生の論文として主に精神分析の外側から様々な議論がなされてきたのだからよかったというかさすがというか。この論文はフロイトのあれやこれやが辿りやすくて読みやすい。幅広い資料の引用と丁寧な謎解き。どんな時間の使い方してるんだろう、ってフロイトの時間の使い方はだいたい世に出ているわけだけど情報処理のスピードが尋常じゃないと思う。モーセ像見にいってみたいな。

あとジョルジュ・ヴァザーリの『芸術家列伝」を読んでいたのだけど、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロもすごいが、ヴァザーリ何者、という感じがすごくしている。彼自身は自分のことを歴史家でも文筆家でもないと述べていたらしい。画家であると。それはそうに違いないのだろうけど、同じ画家としてレオナルドとかミケランジェロのことを書くのってすごく大変そう。ヴァザーリはレオナルドの推しだったんだな、と読みはじめてすぐに思うが、割かれているページは友人であるミケランジェロの方がずっと多い。現代にいる私からはちょっと変わったテンションの本に思えるのだけど長い間、イタリアルネサンス美術に関する最重要資料だったわけだから資料として読む目を養わないといけない。

25年前にツアーで行こうとしたら人数が足りず行けなかったイタリア。行きたいなと思いながらどんどん月日は過ぎた。オリーブオイルもそんなに使わなくなった。今の世界じゃ芸術作品だっていつ壊されてしまうかわからないから早く行った方がいいんだろうな。モーセと同じポーズをとってフロイトの考えたことを考えたい。写真だとわからないから。

雨雨雨の毎日になるのかな。のんびりいきましょう。

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RACHEL’S『MUSIC FOR EGON SCHIELE』、ウィニコット「鏡ー役割」、エゴン・シーレ、ルイス・ブニュエル

薄暗いままの部屋で起きた。窓を開けたらまだ雨。昨晩は傘をさしたけどささなくてもそんなに濡れないような雨だった。

今朝はRACHEL’Sの『MUSIC FOR EGON SCHIELE』を聴いている。画家エゴン・シーレ(Egon Schiele)を描いた舞台(1995)のための作品。リリースは1996年、先月30周年記念盤が発売。ピアノとヴィオラとチェロの編成。雨の日にぴったり。

先週末、日本精神分析協会学術大会でナルシシズムに関する論考を発表するのにウィニコットの「鏡ー役割」を少し取り上げた。『遊ぶことと現実』の第9章「子どもの発達における母親と家族の鏡ー役割」でウィニコットは、まずは「私が述べるのは視力のある幼児に関してだけである」と述べるところからはじめている。精神分析が外に開かれるためにも有用な理論ではないかと私は思っている。この章でウィニコットは「今日、顔と自己について議論するなら、どうしてもそこに彼が入ってきてしまう」として画家の方のフランシス・ベーコンを取り上げている。

一方、私が思い浮かべていたのはエゴン・シーレが描く顔であり母子であった。なのでRACHEL’Sを聴いているわけだ。

エゴン・シーレの絵は乾いているのにとても悲しい感じもするし、できるだけ奥行きを小さく閉じ込めるような絵もあるし、常に目線が合わない感じがする。地道に考えて来年のJPSジャーナルのエッセイにでも書けたらいいな。

昨日、ザ・ブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」を歌っていたらなんでと聞かれ、そこからの思い出話で真島昌利の「アンダルシアに憧れて」の話になり、アンダルシアの話になり、『アンダルシアの犬』(1929)の話になった。向こうはルイス・ブニュエルとダリによるこの短編を知らなかったが、冒頭のシーンを思うだけでキャーキャー以外のことを言えない私に説明などできるはずもなく、動画を検索していた。あの映画の断片的な映像が本当はどう映されているか、そのときのBGMはあったか、なかったか、など考える余裕もなかったし、考えようとするとキャーとなってしまい先に進めない。それが狙いだったのかな。だとしたらそこに留まらずに進む必要があるということなのかな。大変だ。

ルイス・ブニュエルが誕生したのは1900年2月22日のパリ。フロイトの『夢解釈』が出版された年。エゴン・シーレは1890年、オーストリア生まれ。スペイン風邪で亡くなったのは28歳。その短い生涯で残したもののインパクトの強さときたら。私は一時期ブリュエルのあれこれに触れていたけどもうすごく遠い感じ。勇気がなくなったのかも。エゴン・シーレには精神分析家として勇気を持って関われたらいいな。ウィニコットがイメージする眼差しに近づきたい。

静かな朝。どうぞよい一日を。

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時代

しっかり寝た気がするが外の光の移り変わりを見ながらウトウトしてる間に見た夢に虫が出てきたのが嫌だった。ややコミカルであったが。と書きながらその前に見ていた夢を一瞬思い出したがどこかへ消えてしまった。今朝は少し涼しい。

それにしても朝は目が見えない。週末、いろんな友人と老眼の話をした。付き合いが長いとお互い目がよかったこととか元々悪かったこととか色々知っているし老いのあれこれを実感を持って語ることが増えるのか。若い頃には知らなかったな。いつもお世話になってきた先生に講演会で思い出話をしたといったら「そういう年齢に」と言われ、まさに私が言いたかったのはそこなので笑った。こんななのに思い出話するようになっちゃったよ、と少しおかしい。東畑さんとか私から見たら若い心理士たちのいっていることとかに触れたときに世代差を実感した。「先生の時代は」とか言われることも増えた。「はいすくーる落書」の話が通じた同世代は THE BLUE HEARTSのTRAIN-TRAINがそこから出てきたのを知っているかどうかだよな、みたいなことを言っていて面白かった。その頃の尾崎豊について同世代と少し下の世代の実感が異なるのも興味深かった。私は尾崎が死んだ日のニュースを寮で同じ歳の子たちと見たのでその日の異様な雰囲気を覚えている。泣いている子たちもいた。週末の講演のためのメモは私が影響を受けてきたというよりは通り抜けてきたテレビや本のことが多かったがそれらはほとんど使わなかった。薬物の観点からも時代の話はできる。歴史というのは面白いのだ、なんて実感もここ10年くらいの間に生まれた。老いると自分語りが増えるのは仕方ないことなんだな。そうそう、週末、学術大会ですごく久しぶりに揃った昔の職場の先輩たちと当時、嘱託でいらしていた元管理職の教職のみなさんがいかに体力があったかということも話した。私たちはまだその先生たちの年齢においつていないけど、すでにあんな元気はないことは確定している。

週末は平井靖史さんのベルクソン理解を早く読み直したいな、ということを何度か思った。時間のことをあれこれ考えたからだろう。今朝の夢のことも考えたい。が、6月いっぱいの締切も一つ思い出した。ぼんやりしているうちにすぐ月末になるだろうから忘れないようにしたい(当たり前だが)。

こういう時間に読もう。どうぞ良い1日をお過ごしください。

☆日本精神分析協会学術大会にご参加くださった皆様、どうもありがとうございました。来年まで元気に過ごしてまた精神分析のことをお話ししましょう。☆

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心づくり、出会い

窓を開けると鳥の声。昨日は暑かった。夜は気持ちよかった。もうこのまま暑い日が続くのかな。昨晩、洋服ダンスの薄いニット類を眺めながら、梅雨になると気温がさがるはずと思っていたけどそんなことないんだっけ、と少し心配になった。暑すぎるでしょう、ここ数年。ちょうどいい気温の日が少ないと着ない服が増える。

今朝は兵庫の友人にもらったMLESNA TEAの白桃アールグレイ。あと講演のときにもらったNOAKEのボンボンキャラメルのブーケから一本。美味しい。華やかなセット。

なんかいやだな、と強く思うことがあったときの気持ちのおさめ方は特にないけど見た目も味もいいものをいただく、というのはひとつ。相手への信頼度が減るのは残念なことだよね。でもまあ、みんないろんな考え方があって味方づくりに勤しんでいるのだろうからそういうやり方は対症療法に過ぎないじゃん、というよりそういう心性が結局反復作り出してんじゃん、と思ったとしても自分のやるべきことを邪魔されない心づくりを心がけよう。子どもが欲しいものが手に入ったときの喜びや好きなことをやっているときの集中力を取り戻そう。多分、かつて、私にもあった。

なんか鳥の鳴き方が激しい。鳴き声を調べようと苦手なyoutubeを開く。YouTubeからの鳥の声でさっき聞いた鳥の声が記憶の中でかき消され参照失敗。短期記憶どれだけ悪いのか。

この前、講演の内容を考えているときに、今って、求めても隠蔽されたりするのに求めてもいない情報は次々入ってきたり、「ブロック」とかいってタップ一回で対人関係を切れると思いこんでたりするから、いや、そういう人もいるから大変だな、と思った。

講演では、日本での日本人の出生数が70万人を割ったとニュースを取り上げ、いまだかつて一度もメジャーになったことがなく、これからも日本ではメジャーになることはないであろう精神分析が草の根的に雇用を広げていくためには、という話からはじめた。この場合、まず雇用されるということが大事になる。私みたいに個人で開業している人は委託されることが大事になる。協力したいのは地方であり、特に若い世代に雇用を作り出して、人とのつながりがもたらす明るい可能性を見出せるような心づくりに寄与できたらいい。なので期間限定の精神分析を無料で受けられる助成金を出してもらう。そうしてもらえるようなゆとりある自治体はあるだろうか。

第二次ベビーブームの年にうまれた209万人のなかのひとり、いわゆる団塊ジュニア世代の私が体験した小学校、中学校の文化についても話した。経済成長を背景とした進学率の急激な上昇、デジタルおもちゃの参入(私の場合、東京の転校生から)、時代のスピードは速くなった。私はそれに逆らうようにひたすら眠り、覚醒するために詩を書いていた。今朝も体調管理のためにゆっくりしようと思っている。私は急かされてもついていけないし、急ぐと転んで怪我をしてさらに視野が狭くなる。自然と戯れアナログおもちゃで遊ぶ時代の子供なのだ。ルービックキューブだって時間をかけてやればいいのだ。ということで二度寝する予定。

1915年生まれの詩人、石原吉郎のメモも紹介した。

詩を書きたいと思うとき、詩によって自分を救おうと思うとき。それは自分がなんらかの意味で壁につきあたっている時、自分自身を疎外しているとき、危機に脅かされているとき、不安を感じているとき、絶望を感じているときである。p245

バブル崩壊後の就職氷河期世代であることなど、やはり経済状況との関連が第三次ベビーブームが起きなかった原因としてあげられる。当時は対症療法的な子育て施策さえなく、今よりもさらに子供を産むべきという圧力が強い時代だった。子どもの未来に対する不安は親になる不安と重なっている。女の身体にはリミットがある、ということに対して医療の進歩で応えるのも女一人の人生を考えてみた場合、適切だろうか。夫婦別姓さえ受け入れないこの国で個人である自分を保ちつつ、誰かのパートナーになったり親になったりすることはたやすいか?

半分大人、半分子供の維持。そんな姿勢への変化も話した。学校は子供から大人へのベクトルを持つが、それに対する精一杯の反抗をある程度安全にできる場所だった。窓ガラスを割ったり爆竹鳴らしたり、校内をバイクで走ったりする破壊行為に持ち堪えてくれる場所だった、のか?校内暴力全盛期に小中学生だった私たちの体験は今の社会のどんな特徴となっているのだろうか。

とかいうことを色々考えながら話せたのはよかった。

異質なもの、外在性との出会い方、の話だ、どれもこれも。今日も大まかにいえばそういうことについて話す予定。

This transformation of unity into ‘three-ness’ coincides with the transformation of the mother-infant unit into mother, infant and observer of mother-and-infant as three distinct entities. 

これはオグデンの本の一節だけどどの本だかメモしておくのを忘れてしまった。

ウィニコットのこれもいい。

From now on the subject says: ‘Hullo object!’ ‘I destroyed you.’ ‘I love you.’ ‘You have value for me because of your survival of my destruction of you.’ ‘While I am loving you I am all the time destroying you in (unconscious) fantasy.’

–The Use of an Object and Relating Through Identications Donald W. Winnicott

「歴史は過去とは違う」by オグデン。これも基礎的な認識として大事。

History is a creation reflecting our conscious and unconscious memory of, our personal and collective rendering of, our distortions of, our interpretations of, the past. –Ogden, T.H. Matrix of the Mind

今日ものんびりがんばろう。どうぞ良い一日を。

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少しずつ

くもり?空の色が薄い。昨日もらったパンがおいしい、と思ったけど胃が痛い。無理せずいきたい。

講演の原稿は結局直前に書き上げたがやたら短くなってしまった。なので別で書いていた原稿も付け加えた。特にこれを言いたいというのがあるわけではないから思いつくままに書いたが、自分が第二次ベビーブーム世代の子供であり、校内暴力全盛期の時代に思春期を過ごしており、など時代背景を伴う話にできたことはよかったのではないかと思う。同世代も多いし。

そこで谷川俊太郎の「生長」という詩を二篇朗読した。同じ題名の詩は多分これだけではない。あれだけ長い期間、あれだけの数の詩を書いていれば当然だろう、としても同じ題名の詩ってどのくらいあるのだろう。

とにかくひとつ終えて安心。みんなといろんなお話ができたのも楽しかった。語らいの相手も場も広げていきたい。少しずつ少しずつ。

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ハンバーグ、紫陽花、朝ドラ

夏の日の出は面白い。オレンジになったりグレーになったり光の吸い込まれ方が春とは違う気がする。季節外れのリンゴは今日も季節外れらしい味がする。少し歯が痛い。多分歯軋りのせい。自分では気付いていないけど歯医者さんにいつも言われる。

昨日は久しぶりにハンバーグを食べた。昔、誰だったか身近な人がハンバーグを好きじゃないといっていてなんかわかる気がすると思ったことを思い出すけどどんな会話だったか覚えていない。私は好きでも嫌いでもないけどメニューにあると惹かれる。お肉自体がすごく美味しいハンバーグとソースが美味しいハンバーグがある。私はひき肉とか使うならキーマカレーとか作る。子供はカレーとかハンバーグが好きっていうけど私はハンバーグの思い出はそんなにない。カレーは好きだった。当時はいろんな国のカレーがなくて日本の素朴なカレーしかなかった。ハウスバーモントカレーが1963年。うちはなんのルーを使っていたのだろう。ハウス名作劇場は見ていた。

結局原稿が書けていない。今回も当日。朝のこの時間が一番まとまった時間だから今やればいいのだろうけどお菓子食べたりお茶飲んだりぼんやりする時間も好き。

新宿中央公園のアジサイロードへ行ったが晴れの日でも少しおとなしかった。亀のいる滝と西新宿の高層ビルが見渡せるベンチのそばにはゴージャスな青い紫陽花がたくさん。紫陽花に埋もれるようにしてベンチに寝そべっている人がいた。多分あの人雨の日にレインコート着てベンチに座っていた唯一の人だ。定位置ってあるよね、と思いながらそこの紫陽花は写真を撮らず静かに通り過ぎた。

朝ドラで若者たちがどんどん戦争にとられていく。国防婦人会の民江さんを演じる大人計画の池津祥子がうまい。のぶちゃんの引き裂かれそうだったりなんとか留まろうとする心を緩急つけて演じる今田美桜もいい。日本が勝つと信じてまっすぐな正義を貫きたいのぶちゃんと姉妹だけにみせる揺れて震える正直なのぶちゃん。蘭子ちゃんが豪ちゃんを失い「嫌なもんは嫌や」と言い続けたことはのぶちゃんが蘭子ちゃんを説得せるよりも説得力があったということ。のぶちゃんが変わったわけではなく選択に対して別の解釈がなされたことに戸惑いと共に迎合してしまった。正反対の言葉で本音を隠してしまうのぶちゃんのことをみんなわかっているのがいい。たかしにはなかなかだが・・・。「たかしも行くがかえ」というのぶちゃんの一言に胸が締め付けられる。嫌な時代。嫌な時代。繰り返されませんように。

空が安定した光に染まり始めた。明るい。今日も暑そうだ。諸々なんとかなりますように。

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学校

早朝から鳥は元気。よいことだ。マイナンバーカードの更新を教えてもらいながらやった。自撮りした写真の肌が疲れていたがこういう証明写真で更新できるのはいい。押し付けられたカードの更新に無駄なお金使いたくない。

週末、精神分析家候補生に向けて講演をする。精神分析家に認定された人はみんなやることになっている。候補生から会員になって一年。すでに色々なことがあった。今回は長い間私の臨床の一部であった教育分野である学校、それを普通と思えなかった私、不登校のケースから学ぶこと、訓練における個別教育についてバラバラと話せたらいいかなと考えている。私が生まれ育ってきた時代と今はだいぶ異なるが子供が大人になるまでの過程に学校はずっとある。一気に書かねば。

またゆずるための本を見ていた。学校臨床関係の本も多い。近藤邦夫先生の本は残しておこうかな。私はスクールカウンセラーと呼ばれる以前の「心の教室相談員」時代に学校に入った。最初の職場の教育相談室で会っていた子供たちの多くが行けていなかった「学校」という場所に外から仕事で入った。大人になってから知る教師の仕事は私にはとてもできそうもなかった。なりたいと思ったことがないのは幸運。なりたくてもなれなかった。近藤先生は大切なのはなにより授業だと書いていた。本当にそうだと思う。人と人の直接的なやりとりは大変になりがちだが授業を通せばまた違うコミュケーションも可能。先生たちが意欲を保てる環境ってどんなだろう。まずは問題や責任の所在を先生に集中させないところからかな。とか書いていないで自分の原稿を書かねば。ふー。とりあえずたねやの季節の和菓子、稚鮎でもいただく準備をしましょう。どうぞよい一日を。

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雨の新宿中央公園、時間

季節外れのりんごはそんな美味しくはないけどちょうどいい味。さっぱりしている。今朝は少し暖かいからそう思うのかも。昨晩は寒かった。雨の新宿中央公園をのんびり歩いて濡れたせいもある。ふくらはぎくらいまでの長靴を履いていたけどスカートもふくらはぎくらいだったから裾が濡れた。公園では結構な雨の中レインコートを着て佇んでいる人をひとり見かけたけれど歩いて通り過ぎる人以外誰にも会わなかった。アジサイロードの紫陽花たちがようやく色づいてきた。誰もいないロードの写真を毎年撮っている構図で撮った。大きな水溜りがたくさんあったが仮囲いの向こうの工事済みの道にはなかった。きれいにならされているのだろう。予想通り「最初からこうでした」みたいな道になっているけれど私が毎年愛でていた梅「銀世界」もコブシももうない。どこに行ってしまったのだろう。どこかにいくならさよならをしたかった。あのコブシは伐採されたのだろうな。そういえば昨日は工事をしていなかった。火曜日がお休みなのだろうか。誰も映り込まない新宿中央公園でいろんな種類の紫陽花も蕾も花も増やしたタイサンボクも葉っぱの色と同じすぎて目立たない梅の実も少し濡れながら写真を撮った。鳥の声はいつもより静かで姿も見えなかった。梅雨にはいればこの静けさが増える。木々は毎日成長を続けるだろうけれど。そういえば昨日、下村湖人の『次郎物語』の一文を思い出した。小学生の時に繰り返し読んだ作品だ。あれは実は未完なんだけど私が好きなのは大きくなる前の次郎。

年が明けた。愛されるものにも、愛されないものにも、時間だけは平等に流れてゆく。──下村湖人『次郎物語』

時間だけは平等に、そのはずだと思う。上野千鶴子が『アンチ・アンチエイジングの思想』(みすず書房)でボーヴォワール『老い』の「老いたゲーテ」のエピソードを紹介する前の一文がこれ。

老いれば誰もが衰える。──上野千鶴子『アンチ・アンチエイジングの思想 ボーヴォワール『老い』を読む』

まあそれはそうだ。絶対にそうだ。

人が足を止めようと止めまいと降りしきる雨の中に佇んだせいだろうか。時間は流れていく。

でも精神分析を営む私が強調したいのはそのような一方向的な不可逆的な時間ではない。ベルクソンがいった未完了相というアスペクトである。平井靖史『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』(青土社)に詳しく説明されている。

変容を伴う熟慮にとっては、時間は利得なのだ。──平井靖史『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』

この辺りに書かれていることは精神分析における時間の記述の助けになってくれる。そのうち引用しながら考えてみよう。

今日はこれから晴れるらしい?今はくもり。静かだな、と思うとカラスがなく。そんな朝。今日も一日。

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精神分析、本

ヒヨドリ、引用、松木邦裕『パーソナル精神分析事典』

洗濯物を干しながら鳥が鋭く鳴くのを聞いた。ヒヨドリだ。ヒヨドリの赤いほっぺをきちんと見たいが下から眺めてばかりだからいつもシルエット。カラスも遠くで大きな声で鳴いている。昨日、ゴミ捨て場の花壇に大きなカラスがとまってキョロキョロしてた。私が真横を通っても何も気にしていなかった。そのキョロキョロに意味はあるのだろうか。カラスはペアで見ることが多いからもう一羽を探したけどいなかった。その日はソロだったのか。今週末に向けて準備しなくてはいけないものがあとひとつになった。ほかにもあるのかもしれないが覚えている範囲では。

溜まりに溜まった資料を片付けなくてはと手に取ったら読み始めてしまうといういつものことを始めてしまった。2005年9月の『現代思想』(青土社)「特集=女はどこにいるのか」の岡野八代「繕いのフェミニズムへ 」の後半。今度、私が発表しようとしていることと近い。私はジェシカ・ベンジャミンもカントも引用しないけど。カントはこんな感じで読めるのか、と学びつつ、この論稿での引用、参照のされ方って精神分析が批判されるときの言葉の使い方と似ているなと思った。二元論を超えることが二元論を際立たせることもあるから受け取り手とともに考え続けることが実現されないと結局対立みたいになりがち。こういう場合、必要なのは発信側がより頑張ることではなくて受け取る側がいろんな可能性に開かれていることだと思う。自分が欲しいものを受け取れなかったらつまらないとかわからないとか別のもの出せ、とか簡単に言わない受け取り手でいたい。自分の方でできることだってたくさんあるし。第三者からみたら二人は鏡に見えるけど、みたいなことはたくさんあるのだから視線の先をぼんやりみたり聞き流しながら捉えたりすることができたらいい。覚醒と夢想。ビオンはやはりすごい。

ビオンといえばこの前、精神分析家の松木邦裕先生の『パーソナル精神分析事典』をパラパラしたのだけどとても面白かった。それこそ松木先生のパーソナルな部分がちょこちょこ読めるのが面白い。こういう本読んでるんだ、とか。あとはビオンの箇所。松木先生のビオンに対する講義はたくさん聞いているので慣れていて読みやすいというのもあるけどこんな簡潔に書くまでにどれだけの咀嚼が、と尊敬の念が深まった。いいなあ。私もフロイトとウィニコットを少しずつでいいから深めたいな。少しずつとか言っているとああやってまとめることは全然できないから教えるなかで生かしていけばいいかな。

朝起きてすぐ家事をしていたら暑くなって半袖になったのに今寒い。ヒヨドリがまた近くで鳴いている。昨日は寄り道をする時間がなかったので今日はしたい。どうぞ良い一日を。

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越谷ろまんず、日々

今朝は日光街道歩き土産の磯崎家本舗「越谷ろまんず」チョコレートクリーム味。パッケージがレトロでかわいい。ブッセ生地のお菓子は美味しい。越ヶ谷宿は日本橋から3番目の宿場。通ることはあるけど駅で降りたことはないかも。越谷レイクタウンはすごいという話は聞いたことがある。

映画や展覧会をことごとく逃している。旅先では余裕があるから美術館や博物館があれば必ず行くけど映画はあまり行かない。映画館のある街ってそんなに多くないから。昔、オリオン通りの映画館によく行ったが今は通りの名前が残るのみ。ほとんどシャッター商店街だが身内で通れば「あそこであれ見たよね」「隣の手芸用品店でフェルト買ったよね」など思い出で色づく。一時期は映画館のない街になったが今は駅の反対側のモールに映画館が入った。展覧会も映画も気づいたら終わってて、と柴崎友香が『あらゆることは今起こる』に書いていたがあの本に書いてあることは実感としてよくわかるものが多い。あんなふうに言語化してくれる作家がいてくれるのは日本のいいところだと思う。日本じゃなきゃ困らない、とも言えるけれど。

一体何をどう捉えてどう感じてどう考えればいいのか、と日々をこなしながら別の日々を過ごしているような毎日。分析を受けていた頃はその別の日々も息づいている感じがしたが、普段はB面というか表面には出てこない。そっちからの突然の働きかけに気づくようなこともあるけれど。展覧会や映画を見逃すのは残念でもあるのだけど単にそんなに行きたいと思っていないのかもしれない。別の刺激のせいでなくしたくないものがたくさんあるのかもしれない。自分のことはよくわからないけれど自分と同じような人にであったらわかるかもしれない。そして同じような人は多分絶対いる。少し違うのは当たり前でむしろ違ってくれないと困るからそれわかるくらいの部分で十分だけど。

今日は6月2日月曜日。一日ずつ少しずつ。

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『精神分析発達論の統合』の本とか。

早朝、カーテンを開けるとシャンシャンと蝉のような声がした。蝉は早いだろう、とあんな声のとりか蛙だろうということにした。でも旅に出てネイチャーガイドさんとしか行けないような場所に行くと変わった声に驚く鳥に出会うこともあるのでああいう鳥も多分きっといなくはない。人だって色々いるんだし。

私が面倒を見ている人たちに譲る本を探している。今候補にあるのはタイソン夫妻の『精神分析的発達論の統合①②』(2005、2008,岩崎学術出版社)。今、岩崎のウェブサイト見たら「品切れ・重版未定」とのこと。どこかの本屋さんには残っていたりするかも?図書館ならあるかも?監訳の馬場禮子先生も皆川邦直先生も亡くなられたけどこの本自体は古典でもないと思うし、精神分析理論の中でも発達論を統合して説明しているこの本は保育や学校現場に関わる臨床心理士の仕事には特に役立つと思うので、ということで譲ろうと思っている。「用語集」は2巻目にしかないのと第7部のジェンダーの発達についてはかなり偏りがあると思うので、それはそれで知っておいてもいいと思う。

そして来週末に久しぶりに会う友人に渡す本も準備した。前に会った時にあげると言っていたのを思い出してよかった。

忘れたいことも忘れたくないこともごちゃ混ぜにしてなんだかんだ覚えておきたいなと思う。どうぞよい日曜日を。

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学問、薔薇

早朝のバイクの音。もう一軒ごとに止まるあの音ではない。古紙を出してトイレットペーパーと交換する仕組みはまだあるのだろうけどあまりみなくなった。私も新聞はデジタルだ。

たまに「精神分析方面からは嫌われるけど」とか聞くけど、昔の人がいう分にはそう思わなかったけど、最近だと多分そういう人は精神分析を受けたこともきちんと学んだこともない。そう言いたい、あるいはそういう表現が好き、そういう感じがする。「認知行動療法の人は怒るだろうけど」とかいうのもそう。あとやたら若い世代が学問を変える、みたいなことを言っている人もそういう表現が好き、という感じがする。内側にいる人はそんな冷やかしみたいなこと言わない、というかそんなこと言ってないで学問の中身に入ろうよ、自分の好きなことにコミットしようよ、と思う。私が読んできた書物は領域を超えて真摯に論じられたものが多かったからそういう中で「精神分析の人は」みたいなことを書かれてもなんとも思わなかった。学問を守るってそんな難しいことではなさそうなのに今はそれがすごく難しい。アメリカでも日本でも。

一時、私の周りでは「モチベーション」という言葉がよく使われていたがモチベーションはあるかないかではなくて、どんなモチベーションがあるかで話される事柄だと思う。その点「ニーズ」という言葉はあるなしが使われても具体的な場合が多い。

こう書いてみればこういう話は昔からあるんだろうなと思う。進むより戻る。進むなら少しずつ。

今朝は藤井聡太名人のインタビューをデジタル版の新聞で読んだ。見習いたいことばかり。

今日はまた雨が降るみたい。薔薇の季節が終わりそう。終わりかけの薔薇もアンティークって感じで好き。素敵な写真が撮れたらいい。

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読書

思い出

岸政彦『はじめての沖縄』(よりみちパン!セ、新曜社)のカバーには3枚の写真があって三匹の猫がいる。面には2匹、袖に一匹、裏は住宅街の小道の写真。そこにも猫がいるのかもしれない。

2024−2025の年末年始、モノレールのゆいレールができてからはじめて沖縄に行った。空港直結のモノレールはとても便利。奥武山公園駅で下車し、とりあえずホテルに荷物を預け、駅までの小道に入ると低い屋根の上に猫がいた。シーサーも多いが猫も多い。

ある日、岸さんは調査のためにバスで移動する。

二月の、寒い曇りの空の日だった。いくら亜熱帯とはいえ、冬はやっぱり寒い。ー『はじめての沖縄』p150

そうなのだ。一日の気温差がすごい。私も脱いだり着込んだりした。岸さんは「いちおうガイドブックでは繁華街あるいは商店街ということになっている、近くの通り」に行く途中、一匹の痩せた野良猫を見つけ写真を撮る。それがカバーの写真というわけではないらしい。そして

(この日から毎日キャットフードを持ち歩くようになった)。ー『はじめての沖縄』p151

「いちおうガイドブックでは」というくだりも旅好きの感覚として馴染み深いし、この括弧付きもいいが、さすが猫好きさん、と思った。そしてふと思い出した。

私もいつも給食でコッペパンが出る日は放置されている犬にあげてた。今思うとあんな狭い場所に閉じ込めてひどいなと思うけど、当時はかわいいしか思っていなくて毎日寄って声をかけてちょっと遊んで(そんなスペースないからひっかけてくる前足と戯れたり)帰っていた。親が車で迎えにくるときの待ち合わせ場所もその小道の角で、大きくなってから母に「コッペパンあげてたわよね」と言われてびっくりした。私はこっそりのつもりだったが見てたのか。多分、あの犬はごはんももらってなかったんだと当時の私は知っていたのだと思う。そうじゃなきゃむやみに食べ物をあげたりしない。母も止めただろう。今はかわいそうにと思うがやっぱり当時はかわいいとしか思っていなかった気がする。かわいそう→だからコッペパン、というのは成長してからの思考回路でもっと直感的な行為だっただろう。捨て猫を拾うときだってある種の直感に突き動かされての行動だったし、いちいち理由など考えずにやっていることはとても多かったと思う。ある日、その家の表通り側に大きなゲージが出ていて中にはつかまり立ちができるくらいの小さな子がいて私と同じ学校帰りの生徒はかわいいかわいいと大騒ぎだった。私はすごく嫌な気持ちになったが、その日はその脇の狭いスペースにいるいつもの犬に会わずに表通りをそのまま帰った気がする。多分すごく怒ってた。

岸政彦さんの言葉は不思議で、書き言葉にも喋り言葉にもこういうことをたくさん思い出させる力がある。そしてこの150、151ページをめくった次のページの写真もいい。この本はページをめくっていると突然写真が登場する。特に見開きの写真はインパクトがある。目も耳も使うために足も使う。そして出会う。昔の感情とかデジャブとか一緒に歩きたかった道とか。沖縄はすでに梅雨入り。東京も今日は雨。結構降っている音がする。どうぞ足元お気をつけて。

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俳句 言葉 読書

一 一 一

題秋江独釣図 王士禎

一蓑一笠一扁舟

一丈糸綸一寸鉤

一曲高歌一樽酒

一人独釣一江秋


王土禎「秋の川でひとり釣りをする図に題す」という一字詩。小津夜景さんの『カモメの日の読書』(東京四季出版)で知った。真夏に向かうこの時期に秋の川もなかろうにと思うが、今日は季節よりこのミニマムさを味わいたい。世界がもっとミニマムでシンプルだったらといつも願う。そうしたら人はもっと生きやすいのではないだろうか。素朴な遊びを楽しめるのではないだろうか。このブログも1000日連続して書いているらしい。いつでもなんでもあっさり手放してきたわけではないということ。小学校低学年の頃は日記を書いていた。私はとっくに手放したと思っていたが母の本棚にそれを見つけてちょっと読んだよ、と中学生になった身内に言われた。内容に言及する仕方の配慮に私たちがそれぞれに触れられたくない部分、守られるべき場所を持つことを思い出す。私は内容を全く覚えていないが、毎日の出来事を書いては先生に見せて先生がコメントをくれていたらしい。1年生の時にそんなことをしていたのは覚えているが、2年生になってもしていたんだな。その痕跡というか実物がまだあるんだな。ずっとそんなコミュニケーションの相手がいて私はきっと助けられてきたのだろう。ミニマムにシンプルに表層だけで流されるように生きていた時期もあったのだろう。線だけで遊べるウィニコットの誰からも理解されないような部分は深層より表層にあって、線というものは文字のように字義通りにはならない。夏の花の花びらや実をじっと眺めるのはその深淵が覗くことではないだろう。ただそこに置かれているものと一緒にそこに立ち尽くすこと。そんな毎日の今日も一日。一、一、一とひいていくように。

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読書

金原ひと『YABUNONAKA―ヤブノナカー』(文藝春秋)を読んでいる。

4時台で空はグレー。本当に日の出が早くなった。夏至は6月21日、嘘みたい。季節の巡りが早すぎる。

早すぎるといえば、最近、電車で金原ひとみ『YABUNONAKA―ヤブノナカー』(文藝春秋)を読んでいた。芥川龍之介の『藪の中』の現代版といえるかわからないがモチーフは同じだろう。8人分の視点で語られるストーリーはどれもテンポ良くどんどん読めてしまう。読めてしまうのだが長い。え、まだ続くんだ、という語りを聞かされる。うわあ、という不快感を感じるやりとりがリアルでSNS社会の我々ってそれぞれにこんな感じなのだろう。村田沙耶香が世界の本質を明るく示すホラーなら金原ひとみは生活のリアルをざっくり切り取って示すホラー。あら、どっちもホラーって書いちゃった。ジャンルとしては全然ホラーじゃないのに。駅に着き、読みかけの本を閉じると犬に手を食いちぎられるイメージが浮かんだ。芥川の『藪の中』を読んだのは中学生の時だと思う。繰り返すイメージが出来あがったのはその後、舞台で見てから。怖かった。

ああ、また眠くなってきた。二度寝しても十分間に合う。が、家事をとりあえずこなそう。本の続きを読みたいが締切が近いものを本当にやらねば。作家はすごいな、どんどん書けて。これからもどんどん書いてほしい。小説は楽しい。

良い一日になりますように。

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散歩

曇り。新宿中央公園。

カラスの声は大きい。今日も涼しい。曇り空だけど雨は降っていないみたい。そろそろ梅雨の準備をしなくちゃ、というかしたい。下駄箱の掃除をしたい、というかしなくちゃ。うーん。色々工夫したいスペースがあるけどずっと放っておいてるなあ。

散歩は順調にしている。といっても郵便局とか銀行とか行くついでに西新宿、初台、参宮橋あたりをぐるんとするくらいだけど。最近は花々や木々が楽しみだから薔薇がたくさん咲いている公園やいつもの新宿中央公園には結構行っている。

新宿中央公園のちびっこ広場にはいろんな国のいろんな子どもや親や人たちがいて面白い。この前は「やだ!」と鋭く大きな声を出しながら「ダン!」と足を踏み鳴らすのを繰り返している子どもがいた。というかこういう行動はよく見かける。「地団駄を踏む」というのはもう少しスピードがあるイメージだからちょっと違うかな。お父さんの顔をまっすぐ見上げなら「1ヤダ」につき「1ダン!」。そしてあの視線。断固とした意志。お父さんはいつものことという感じだったけど少し疲れた様子で赤ちゃんを前に抱えたまま「あと一回ね」と送り出していた。送り出されたその子もニッコニコというわけではなく怒った顔のままなんとも言えない声を発しながら滑り台の階段の方に走っていった。

はじめてこの公園にくる人たちもいる。「あんな大きいじゃぶじゃぶ池がある!」と赤ちゃんを胸に抱え、誰も入っていないベビーカーを押したお母さんたちが歓声のような声を上げた。7月になったらオープンしますね。またくる余裕がありますように。じゃぶじゃぶ池のそばには大きなタイサンボクが花開き始めた。大きな白い蕾たちも見えた。目線を戻せばシモツケも紫陽花もきれい。どんどん入れ替わる花たちがいつも楽しい。

砂場にはクジラがいる。どの時間にも静かに佇んでるそのクジラが私は好き。しょっちゅう写真に撮ってる。時間や季節や背景の色が違ってもクジラはひっそり。この前、楽しそうな笑い声が聞こえたので振り向いたら1歳くらいと3歳くらいの子供がちょこんと大きなクジラの背に乗っていた。ちっちゃい子の方が大興奮でお姉ちゃんのちょっとした仕草を真似ては笑い、お父さんお母さんを交互に見ては手をたたいて笑い、その笑いを向けられた方がそこまでおかしいのかという様子で困ったように笑ったりみんなで大笑いしたり実に楽しそうだった。

今日は曇り空の中、どこへ寄り道しましょう。新宿に行かねばならない用事があるが、ねばならないことはなんとなく面倒だ。別の寄り道をして紛らしながら行こう。どうぞ良い一日を。

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お菓子 イベント 散歩 精神分析

『横尾忠則 連画の河』展@世田谷美術館

光が入ってきた。新しくしたレースのカーテンが風に揺れている。今朝もくしゃみが止まらない。とりあえずあたたかいお茶と箱根のお土産「箱根の坂」抹茶味。定番。

『横尾忠則 連画の河』展に行った。場所は世田谷美術館。ようやく行けた。1936年生まれの横尾忠則の2023年、2024年の作品がメイン(だと思う)。「連画」は「連歌」とかけているわけだが大変面白い試み。篠山紀信が撮った一枚の写真から連日展開される自由連想世界。楽しかった。88歳、最後の大きい(?)展覧会になるだろうとのこと。

「大きい(?)」は世田谷美術館の大きさが「大きい?」だから?いろんな人に見てほしいなあ。横尾忠則が生きているうちに感想を書けるっていいことな気がする。ご本人はコロナの後遺症が大変らしい。早く回復して描き続けてほしい。連日描き続けることの意義は連日自由連想の世界にいる私にはとても大きいと思える。世田谷美術館で見られてよかった。無駄がないのにゆったりした構成でやっぱりそんなに大きい展覧館ではなかったのがまなおさらよかったのではないかな。企画展の「世田谷でインド」も大変興味深かった。横尾忠則は三島由紀夫を尊敬していることも知った。こんな有名な画家なのにどういう人だか全然知らないからNHKとかでやっている番組をチェックしようと思う。すごくインパクトが、というよりなんていうのかな、とにかく88年間生きて描き続けてきた人の大らかさとか正直さとかスケッチを含め当たり前のように筆を動かし続ける胆力とかなんか包容力がすごかった。今こうして書きながらあそこもう少しじっくり見ておけばよかった、とかいろんな絵が思い浮かんでいる。こうやって連日楽しめるのも素敵なこと。皆さんも機会があればぜひ。

すごく強い光が入ってきた。さっきの光とは全然違う。今日は晴れるのかな。昨日は予報に反して寒かった。部屋の中は蒸し暑くて温度調節難しい。くしゃみはいつのまにか止まった。どうぞ良い一日を。

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精神分析 精神分析、本

Reading Freudなど。

雨が少し降っている。昨晩は急に寒くなって今朝起きたときはくしゃみがたくさん出た。今は落ち着いた。最近、いろんなものに対するアレルギー反応みたいのが増えた気がする。アレルギーは色々蓄積なんだろうから(違う?)この歳までそんなに出なかったことがラッキーだったのかもしれない。

風邪をひいたり怪我をしたり何かしらの症状を出すとその状態をすごく観察するようになった。観察とは言わないか。たとえば喉が痛かったらどこのどのへんかどうなのか、それがどう変わっていくのかをすごく細かく感じようとするようになった。人の身体ってどうなってるの、という興味は小学校低学年の時はすごくて図鑑ばかり見ていたが今は病気の側から色々知りたいと思うようになっている。

昨晩、Reading Freudで『心理学草案』の第一部の続きを読んだ。ニューロンの興奮量の話はニューロンになりきりたかったがフロイトの時代のフロイトが使用している「ニューロン」というのは今とは違うからフロイトが描いた図の中に入り込もうとしても今どきのニューロンさんにしかなれない。どっちにしても自分は人としてしか登場できない。まあ、フロイトが描き出そうとしている世界も人のことであるんだけどフロイトの基盤にはヤツメウナギとかザリガニとかいるわけだし。ヤツメウナギは脊髄神経の研究、ウナギは生殖器、ザリガニが神経細胞の研究だったのだったかな。だからニューロンまで遡っちゃったのかな。科学的であるためにはそれじゃなくてもよかったんだろうけど、とりあえず私も動物とシームレスに人間を見たい。

最近、鹿の赤ちゃんが産まれたという画像が流れてきてじっくり見ているのだけど生まれたての赤ちゃんが脚ガクガクさせながら立ち上がって親に舐めてきれいにしてもらうときもバタンって倒れないで立ててたり、親にくっついて歩いているうちに別の鹿を親みたいにしていて本当の親が迎えにきたり色々しているのをじっと見てるとせめて動物の感覚を知りたいと思ったりするんだよね、など話した。母鹿の方は子供を匂いでわかるらしい。羊膜も胎盤も食べちゃってるわけだからなんかすごく子の識別能力高そう。子供の方は母のお腹にいたわりにまだぼんやりな感じ。ものすごいスピードで組織化されている部分とそうでない部分があるんだろうな。

『心理学草案』は第二部で人の形をとったエマが登場。楽しみ。今日は事例検討グループ。色々追いついていないががんばれたらいいなあ。どうぞ良い1日を。

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精神分析

鳥とか薔薇とか5月も終わりとか。

東京は曇り。鳥は鳴いておる。最近、新宿中央公園でオナガをよく見る。鳴き声が特徴的だからいるのがすぐわかる。声がした高い木の方を見上げると長い尾をしたシルエットが数匹。群れで動くのかな。一斉に飛び立って移動するのをよく見かける。私は複数のことは複数の人でしないと、というか一人で複数のことを同時にできない(まさに今のことなんだけど)のだけど、群れで動く鳥ってみんながみんな同じことしているわけではなくてエサ取ったり巣作ったり子育てしたり繁殖のための行動以外にも何か役割があるのかな。お聞きしてみたい。昨日はオナガとカラスが少しバトルっぽい音を立てていた。行動が似てるから縄張り争いが起きやすいとかあるのかな。鳥はついつい観察してしまうけど調べても学んでもなかなか記憶できないから疑問はいつまでも疑問のままね。

隙間時間に少しずつ勉強しながら発表の原稿を書こうとしているわけだけど5月はイレギュラーなことも多く月末の締め切りまであっという間になってしまった。今日もそんなに時間がない。どうしましょう。でもちょこちょこ勉強してると忘れていることばかりだから発見は再発見、という感じで面白いねえ。とか呑気なことを言っている場合でもないか。昨晩は症状というのはシニフィアン連鎖による無意識の形成物だからね、うんうん、だから?となっていた。自分の言いたいことは書き続けないと浮かんでこないのだけど理論と臨床の接続を考えていると理論の説明をするのとはまったく異なる壁が登場するので何度も何度も立ち止まって考えて書いては消しの繰り返し。いつもはそんなこんなで時間切れになって当日一気に書いて提出、となってしまう。俳句の投句と同じパターン。変えたい。が、今回も厳しい。いずれ還暦までには、としておこう。それだってすぐやってくる。

とにかく今日も始まった。土日お休みの人は東京は雨みたいでちょっと残念だよね。5月ももうすぐ終わりということは梅雨入りも近いということ。雨の植物園とかを思い浮かべてそれも悪くないなと思ったけどうちでのんびりもいいなあ。バラ園のバラもピークを過ぎた頃かな。今年も少しの寄り道でたくさんのバラを楽しんだ。いろんな名前がついててそれも面白い。私は今日も紫陽花観察をしながら仕事行こう。紫陽花って結構のんびり色づくのが好き。カタツムリと似合う。どうぞ良い1日を。

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散歩 精神分析、本

ビオンの論文とか辞典とか、シモツケとか。

ひんやり。昨日は半袖でいる時間が長かった。オフィスも蒸し暑くて除湿運転をつけたり消したりした。夜、外に出たら寒かった。道ゆく人は半袖の人が多かった。私は寒さ対策だけは怠らないのでしっかり上着を着込んでいた。冷房の時期でまたすぐに喉がやられそう。もうすぐ学術大会で色々喋る必要があるけど大丈夫かしら。健康になりたい。

昨晩、クリス・モーソン編の『W・R・ビオンの三論文』(岩崎学術出版社)を読んでいた。原著は“Three Papers of W.R. Bion” Edited by Chris Mawson, Routledge, 2018.。翻訳は福本修先生。各論文に編者であるクリス・モーソンの「編集後記」がついている。これが大変興味深い。クリス・モーソンは『W・R・ビオン全集』の編者でもある。福本先生の補遺も「あとがきに代えて」ということでついている。ビオンもだいぶ読み慣れたせいか、そんな新しいことが書いてあるとは思わなくなった。身近な先生のお話を繰り返し聞いている感じ。これは講演録で、原稿なしでビオンが話したものを書き起こしたもの。話すことと書くことの違いはすごくあると思う。講演や講義でのビオンはどっか苛立っているようでもあり、なんかイキイキしていていて好き。キーツのNegative capabilityがかなりしっかり取り上げられているからビオンのこれを引用する人は絶対読むといいよ。『注意と解釈』と一緒に。三論文の方はコンパクトな本ですぐに読めるし、なんて20年前は全然思わなかったと思う。意味がわからないままみんなでうちで読み合わせとかした。その後たくさん解説書も訳されたし、今は本当になんでも学びやすい状況でいい。一方、というわけでもないが、ラファエル・E, ロベス・コルボの『ビオン事典』(金剛出版)は使いづらい。事典なのに索引がない。これ原著からそうなのかなあ。翻訳されたものをあいうえお順で並べているわけだから英語つきの索引は欲しかったなあ。索引ないからパラパラめくっていたら「原始ー現実対象」Prote-real objectの項目に「生気あるものと生気ないものとの違い」p95を参照と書いてあった。これ一つの項目になっているんだ、と思ってパラパラ。142ページに登場。ビオンのAnimateを「生気あるもの」と訳しているのね。ウィニコットのAlivenessとはだいぶ違う。こうやって使用しながら自分で索引作っていくのがいいかもしれない。

毎日少し先の駅まで遠回りしてお花を眺めてる。紫陽花がどんどん色づいていく道とまだまだ緑一色の道と。新宿中央公園は紫陽花の道があるけどそこはまだまだな感じだったな。亀たちは元気だった。相変わらず工事中で「私が愛でていたあの木はどこ?」とやや夢遊病のように木を探す気持ちもなるが季節の移り変わりを花々で知れるのは素敵なことだと思う。シモツケの咲く前がとても可愛くてたくさん写真を撮った。仁丹みたいな状態の時が一番好き。

今日はどんな一日になるかな。良いことありますように。

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白鳥の赤ちゃんとか朝ドラあんぱんとか

今朝は曇っている。夜のうちは雨の音がしていたけど今は止んでいる。鳥たちは元気そう。最近、少しだけスズメとスズメみたいな鳥の区別がつくようになってきた。そりゃじっくりみればわかるのだろうけど飛んでる鳥はほぼシルエットなので形と大きさが似ているとみんな同じに見える。でも昨年『鳥展』でスズメ科の鳥の多さを知ったからまあほぼスズメという分類でも間違ってはいない気がする。昨日、大原美術館のSNSが、倉敷川で白鳥の赤ちゃんが誕生したことを書いていた。背中に乗ってる少しグレーの赤ちゃん。とってもかわいい。大原美術館側の倉敷川ってそれだけで観光地なのにさらに白鳥まで、そして白鳥の赤ちゃんまで。なんて素敵。倉敷もとっても素敵な街。また行きたい。備前焼のギャラリーでそこの器でモーニングやっているところがあったり、『蟲文庫』もあるし、何か小さなお店で倉敷の古い倉庫の写真とかも買ったのだけどそれはオフィスに飾ってある。またのんびり歩きたいなあ。あのときはお正月でホテルのロビーで餅つきとかもやっててお餅食べた気がする。コロナ以降、そういうイベントって一気になくなったけどコロナ明けてからお正月に佐賀の唐津に行ったとき、泊まったホテルが数年ぶりに餅つきをするというので支配人自ら餅と酒を振る舞っていた。子供たちも大喜びでみんなでこうしてワイワイできるって当たり前じゃないんだな、と大人たちはみんな思ってちょっと心豊かになっていたと思う。そんなこと関係ないかのようなひどい事件もいっぱい起きてるし、SNS上なんてほんとなんなんでしょうみたいなことがいっぱいだけど、他人は自分とは違う、ということが本当に曖昧になってると思う。自分の思い通りにいかない世界だからこそ世界は広いのに。ああ、朝から辛い気持ちになる。昨日の朝ドラあんぱんもとても辛かったけどのぶちゃんも蘭子ちゃんもすごくいい演技。豪ちゃんとあんなドキドキの思い出があったとは。のぶちゃんってこれまでの朝ドラヒロインとはちょっと違う。聡明さより鈍さ、ネガティブケイパビリティが高いといってもいい、子供の頃から変わらない立ち止まる力がある。のぶちゃんは走るのは早いけどいろんなことでぐちゃぐちゃになる仕方がゆっくり。蘭子ちゃんみたいに秘めたる思いで熱くなることも少ない。まっすぐに表現することを頑張らなくてもできてしまう。うじうじのたかしも手紙を声に出しながら書いちゃうのがいかにも。たかしの素直さはのぶちゃんとは違う素直さ。今田美桜がこれまで演じてきた男の子にとってのヒロインではない一人の人としての女の子の成長を丁寧に演じていてとてもいいなあと思って見ている。「花のち晴れ」の時だったか、ちょっといきがった女の子をやっていた今田美桜がすごくよかった。東リベのひなたちゃんもみおちゃなんだって最近知った。アニメでしか見てないからなあ。それはそうと朝ドラ、のぶちゃんも三姉妹もみんなみんな辛い時代に入ってきた。演じる役者さんたちも揺さぶられるだろうけどその演技にすごく期待してる。戦後80年、やなせたかしの「僕は戦争は大きらい」という言葉を軽やかにしっかり言い続けて「だから絶対いやだよ、やらないよ」と付け加えていきたい。今日が良い一日でありますように。

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俳句

麒麟の子、人間の子

もう明るい。南の空に月を探したけど見えなかった。空にオレンジが広がる位置がずいぶん変わった。風はない。もうすぐ梅雨か、と思うのは髪のうねりから。

青葉食み次の青葉へ麒麟の子 潮見悠

ご自身の結社、主宰への挨拶句だろうか。麒麟主宰、西村麒麟さんは今年第三句集『鷗』で第75回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞されるなどこれからの俳句界を担う存在、なのだと思う。俳人に対してどのような表現が適切なのかよくわからない。こんな普通の表現でいいのか?俳句界の未来を担うとは?と中途半端に俳句の世界に足を踏み入れているせいか言葉が気になってしまう。塩見さんは麒麟さんからの信頼も厚く、まさにこれからも、の人だった。麒麟の子、まだ高いところの青葉に届かなそう。だからこの「次の青葉」は別の木の青葉なのだと思う。親麒麟のそばでのんびり横にずれてはむはむする柔らかい口はなにも喋らなくても何か良いものをくれる。

きりんの子かゞやく草を喰む五月 杉山久子

という句もある。リズムもいい。輝く草をはむはむするきりんの子もいつもより黄金さを増していそう。成長って眩しい。

保育園の子たちも小学生、中学生、高校生、大学生もみんなまだまだこれからの子供たち。急がず自分の可能性を広げていってほしい。実際、彼らと会っているとそのポテンシャルはものすごくて大人の「そんなことしてたらなになにになっちゃうよ」的な予言はほぼ当たらないのである。彼ら自身もそれを知っている。知っているのだけど、そういう予言は大人に言われなくても超自我的な不安としてすでに内在化しているからまた複雑で色々難しくなっちゃったりはする。自分に対して「あいだ」を「余白」を残しておくことだよ。いずれ死ぬということ以外、誰にもわからないことだらけなんだから、未来なんて。

さあ、今日も一日がんばりましょ。

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精神分析

咳、和倉温泉、事後性

南の空に月。早朝の月はいい。鳥たちもよく鳴いている。私が夜中にする咳は鳥たちの声と違って不快に響きそう。自分の咳で起きてしまい寝不足が続いている。それでも3週間ぶりに筋トレをした。その間は全く咳が出なかった。風邪症状もなく突然止まらなくなる咳につく名前はないが少しずつ改善しているのは確かだ。筋力もそんなに衰えていなくて安心した。上半身って姿勢を保つ以外に日常でそんなに使っていない気がする、という話をした。胸と背中を鍛える自重トレーニングも教えてもらったのでやってみよう、と思うがひとりになるとほんとがんばれない。それにしても眠い。当たり前か。

5月18日、19日と天皇家の愛子さまが七尾市の和倉温泉に行ったニュースを見た。GWに和倉温泉の被害状況を見たばかりだったし、瀬尾夏美さんたちの配信でも温泉の従業員の方にも「被害は大きかった方から支援は入るから」と七尾への支援が届いていないことを知っていたのでよかったと思った。七尾の青柏祭の「でか山」も和倉温泉お祭り会館で見たとのこと。2年ぶりに開催された青柏祭。「でか山」が練り歩く様子はものすごい活気なので来年もたくさんの人が集まったりいいなと思う。とにかく人が来ないことには復興が始まらない。歩きにくい隆起した道路、崩れ落ち内部の断面があらわなままの旅館、ゴロンと倒れたままの少比古那神社の狛犬。見れば見るほどいろんなところに被害が出たまま残されていた。東日本大震災のあと、津波で薙ぎ倒された建物が目の前にあるのに気づかなかった時のことをよく思い出す。

人間はそのままをそのままに見ることがいかに難しいか。それは精神分析をやっていても明らかだ。精神分析を受け始めた人たちはいずれ自分が見てきたものはなんだったんだろうと愕然とする瞬間を体験する。抑圧と抵抗の力の大きさに何度も驚く。自分のことなのに。フロイトは『心理学草案』において「事後性」の概念を探索した。精神分析における「嘘」と「真実」は心の非同時性、現時点、つまり後がある、という段階差を含むフロイト独自の時間概念によって説明される。この「事後性」の概念あってこその「自由連組」であるという認識は重要だろう。頻度そのものが重要なのではない。精神分析が患者と共に発見し、確認し、修正を加えてきた心の装置の歴史における時間概念を追求することが大事。今週末のReading Freudはちょうどその辺の話になるだろう。楽しみ。

ということで今日もがんばりましょう。暑くなるみたいだからお気をつけて。

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精神分析

蟻とか紫陽花とか。

涼しい風。昨日は朝は暑いなと思ったけど日差しがないと半袖では少しひんやりした。とはいえほとんど屋内にいたのですごく暑い時間もあったのかもしれない。

昨年11月に亡くなられた潮見悠さんの俳句をじっくり読んでいる。小さなオンライン句会の仲間で私は潮見さんの俳句が大好きだった。というよりその句会は私にとってちょっと特別な面白さを感じる俳句がたくさん登場した。直接お会いしたことはなかったが潮見さんが所属されていた俳句結社『麒麟』の主宰、西村麒麟さんが結社誌『麒麟』の最新号に潮見悠句集を編んで、私にも送ってくださった。潮見さん、もう夏になってしまいました。

蟻穴を出で潮風に向かひけり 潮見悠

私はここ数年、キッチンの蟻問題に悩まされているけど(今年はまだみていないけど)こんな爽やかに蟻を読む人がいるのか、と思う。昨日も紫陽花を見て

紫陽花や官庁街の日曜日 潮見悠

を思い出してにっこりした。休みのない日曜日にも俳句がある。新宿中央公園の紫陽花は自分達が色づくのをのんびり待っている様子。近所の花壇ではいくつかの紫陽花が水色や赤紫に色づいていた。

俳句を写真にしたり英語にしたりいろんな形で残してくれた言葉たちを大切にしようと思う。

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精神分析

保育現場とか。

夜明けが本当に早くなった。明け易し。南の空にはうっすらと月。もうこんなに欠けたのか。

昨日は20年近く関わっている保育園のコンサルテーションに行った。ダンゴムシの話もしっかりでた。やはり子ども世界で彼らは重要な位置を占めている。それにしても保育士の配置少なすぎる。少ない人数でいかにやるか、も大事だが、まずは安心できる量を用意してからの質だろう、というのはどの業界でも同じだろう。私は自分とのやりとりにおいて一人でできる範囲のことしかやらないので休むときは休むしかないわけだけど、かなり質を高めるための体制を組めて、何をやっているか分かち合える組織に属していることも守られている感じが大きい。もちろんその維持のためにかかるお金は高い。それは仕方ない。保育とか介護みたいに絶対に必要なものとは違うから。保育と介護は絶対に必要なので看護師の組織のように強い組織ができて彼らの生活を守る運動ができたらいいのだけど、と話を聞いているといつも思う。子供も保育士も楽しめることの大事さは共有できてるし、彼らはスキルが高いですよ。保育や介護のお給料の安さや配置基準のぎりぎり具合を当然と思っている人がいるなら(政治家とか)1年間、実習してくれたらいいと思う。と思うけどそういうのを当然と思ってしまう人の場合、現場にいても学べる可能性はあまり高くなかったりするからまた難しい。自分の生活と関係づいていないと実感は乏しいだろうし。実習を受け入れる側の負担がさらに増えるだけということもありがちな話。子供の安全を脅かす環境を広げておいてそれを守る人たちには「この人数でもやっている人はいる」とかで最低限のスペースと人員でやれみたいなのって本当に自分以外の人を想像していないのでは、という感じがするので考えてほしい。個人のスキルに頼るのではなくて、個々の潜在的なスキルが使えるような場(つまりそのためのお金ということになる)を確保すること。組織に属したり、その組織を良いものにしようと運動したりすることってだから大事なんでしょう。昨日は、みんながんばろうね、という感じでたくさん笑って終われたのはよかったけどだからこそどうにかせんとという気持ちも強くなる。みんながんばろうね。

今日は事例検討会とかミーティングとか。色々話し合う場があるのって大事。頑張っていきましょう。

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お菓子 俳句

ダンゴムシ、あんぱん

昨晩からずっと雨の音。気温はちょうどいい。

昨日はオフィスにこもっていたけどお昼に少し散歩に出た。新宿中央公園に入るとハナミズキも小手毬もチューリップもツツジもみんな花を終えて緑へ。緑がとても濃くなってきた。公園大橋に出るとドンドンドンドンと置いてある白くて丸い花壇の花の植え替えをしていた。古いお花をとって土を耕すところまでだったみたいで帰りにまたとおると土だけの花壇がドンドンドンドンとあった。昨日は曇っていたけど日差しはそれなりに強かった。みなさん、首元まで隠れる大きな帽子をかぶっていた。ボランティアなのかな。女性ばかり。都から報酬が出ていますように。いつもすごくきれいにしてくれているから。切られた梅やこぶしを思いながら橋までくるとベビーカーの人が子どもに声をかけていた。帰りたがらなくて大変なのかな、と思っていたら端っこの花壇を小さな子が指差している。お母さんが私の前を横切ってその子に近づいた。「ダンゴムシ!いっぱいいるね!こっちにも。こっちにも二つ、こっちにも、あ、たくさんいるね!」と楽しそうな声が聞こえた。その子は無言でじっと土を見ていた。そうか、そこにはそんなにダンゴムシがいるのか。いるだろうなあ。私も朝、玄関前でダンゴムシがコロコロ転がっているのを見たよ。花壇にはつきものだよね。昔、机の中にダンゴムシを集めている子がいた。嬉しそうに見せられたけど・・・。うむ。保育園のお散歩でもみんなダンゴムシに夢中になる時間がある。あれはなんなんだろう。関わりやすさか。小さい頃、触っては丸くしていたが、コロコロに固く丸くなるのがほんと不思議だった。今日も0歳から5歳の子供たちのお話を聞くからまた子どもたちの興味深い話が聞けるだろう。

昨日、現在、病気を患っている作家の作品を読んでいた。ふと、私はもし病気になってもこんなユニークで豊かな言葉をもっていないからきっと辛いんだろうな、と思った。でもすぐに、想像する辛さなんてその人の辛さと比較できるものでもないのになにいってるんだろう、と思った。ふと感じた自分の不安や怖さのほうが勝ってしまった。

正木ゆう子『現代秀句 新・増補版』は著者が選んだ二百五十四句の観賞からなる。どの句もどの鑑賞も素晴らしいが、特にいいのが

野菊道数個の我の別れ行く 永田耕衣

の鑑賞。何年か前に英国精神分析協会の重鎮、マイケル・パーソンズが精神分析学会の講演にきたとき、人はいくつ可能性があったとしてもひとつの道しか行けないというようなことを話していた。とても心に響く講演だった。正木ゆう子は子供の頃の自分の妄想に触れ、分裂して無数になって世界を埋め尽くしてしまわない身体でよかったと安堵した思い出を書く。そして永田耕衣の句をもう一つあげる。

あんぱんを落として見るや夏の土 永田耕衣

こちらには人間の不確かさに対するあんぱんの存在感の確かさを見る。「もの」の強さ。正木ゆう子がああいう句を書き、俳句がものを読むというのもわかる気がする。

朝ドラ「あんぱん」ではあんぱんを落とすシーンはまだなかったと思う。これからもあるかわからない。あってもよさそうなものだが。あんぱんを渡そうとして落とす。落ちる。あっ、と互いの時が止まる。私はこの句の「夏の土」は熱気ムンムンであんぱんを焼き直してしまうような土ではなく、日陰のひんやりした、しかし生命力に溢れた土を想像する。あんぱんはころころ行ってしまったりもしない。そこにただドンと落ち、ただそこにいる。それをじっと見る。ほんの短時間だがその存在感に圧倒され人間としては一瞬空虚になる。拾い上げる。あんぱんは怪我もせず丸いまま拾い上げることができるだろう。

鉛筆を落せば立ちぬ春の土 高浜虚子

の柔らかさはそこにはないが、どちらも「もの」の確かさはすごく伝わってくる感じがした。朝ドラでも戦争が始まった。これ以上人間の不確かさを利用しないでほしい。一人一人の存在を大事にする社会であってほしいと思う。

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精神分析

Dana Birksted-Breenの摂食障害の論文とか鈴木智美先生朝カル講義とか。

明け方、月がとてもきれいだった。朝の月はいい。昨日の朝はぐんぐん気温が上がって厚着失敗したなと思ったけど帰りは大成功だったなとなった。大体このパターン。もう少ししたら夜も薄着で余裕になるだろうけど。気持ちいい季節は多分短くてすぐにあの猛暑がやってくる。怖いですね。うまく乗り切れるように今を満喫しておきたい。

昨日はオフィスから西新宿を通り越して中野坂上の方まで行ってきた。歩きで。昔、中野区の教育センターに勤めていた頃、センターは中野駅と野方駅の間くらいだったのだけど今は中野坂上駅のすぐそば。すごくきれいな図書館が同じ建物に入っていて羨ましい。前の場所は駅からは遠かったけど中野駅と高円寺駅の両方が使えて、帰り道、阿波踊りにみんなで行ったりして楽しかったけどね。そういえば当時もセンターの仕事終えてから塾講師の仕事して帰りは今と同じくらいだったんだな。今の方が体調とか気にしながら動くから慎重。

女の精神分析家たちで女の精神分析家の本を読む会のために一つ論文を読んだ。今読んでいるのはDana Birksted-Breen “The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”。今回はその第5章、Bulimia and anorexia nervosa in the transference。摂食障害の治療は非常に難しいとされるがこの章で取り上げられる事例のひとつは非常に詳細にそのプロセスが書かれ、摂食障害の治療に特有な転移関係の展開と関わりを示す努力がされている。今回、少し参照されていたH.ローゼンフェルとの「ギャング」と「マフィア」という言葉で示される破壊的で万能的なナルシシズムの心的構造は摂食障害に限らず大変有効だと思う。

摂食障害が教えてくれることは多く、「少ないほどよい」として身も心も削っていく状態、その背景にある貪欲さ、心がいかに反転しやすく、身体がいかに行為しやすいものか。

ちょうど9月に日本精神分析協会が一般の方向けに送る講義があるので情報を貼っておこう。9月21日(日)午後、九州で開業しておられる訓練分析家の鈴木智美先生の講義「身体を削り続けるこころ」が朝日カルチャーセンター新宿で行われる。配信もあるのでぜひ。

鈴木先生は摂食障害に関する著書や訳書も多く、本ではフランスの病院での実践も紹介してくださっている。文化の違いでは語れないこころの普遍的な病理的部分を共有していく機会は多ければ多いほどいいと思う。どれも自分のことでもあるから。

今はよく晴れてるけどスマホの天気予報は曇り。明日は雨みたい。ちょっと憂鬱かな。蒸し暑かったりしたら嫌ね。力抜いて過ごしましょう。

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精神分析

金沢ヤマト醤油味噌とか。

今朝も強い光はすぐに白い空に溶けた。今は曇り。洗濯物を干すときに北側の窓を開けた。スーッと入ってくる風ではないけど少しひんやりした。

朝から印度カリー子さんのタンドリー鯖や金沢のヤマト醤油味噌の魚醤、いしるだしを使って作置き。美味しい調味料は素晴らしい。ヤマト醤油味噌さんは金沢市大野町という港の方にある。金沢海みらい図書館のあとにバスで向かった。バスを降りるとおばあさんに話しかけられた。最初、何をいっているかわからず耳を傾けるとどこからきたのかどこへいくのかというようなことを聞かれたらしかった。すぐに耳は慣れた。おばあさんは醤油屋さんの昔話をしてくれながら「高くなったけど」と3回以上言った。すぐそこの道を曲がる様子だったけど「連れていってあげる」と小さな橋の向こうに見えているヤマト醤油味噌さんの中まで一緒にきてくれた。小さいのを買うといいと言いつつ「高くなったけど」とまた言うので「買えるかな」というと豪快に笑っていた。今回も地元の人とこういう小さな会話をたくさんした。旅先での親切は特にほっこりする。ヤマト醤油味噌は麹パークという観光地になっていて美味しそうなものもたくさんあった。私はそのあと市場に行く予定だったから美味しそうなお膳もソフトクリームもチーズケーキも我慢した。お醤油屋さんってこれまでも何軒か行っているけど伝統があるから建物とかも見応えがあって楽しい。小豆島なんて「醤の郷」という街並みがあるし、醤油と味噌は日本のいいところって感じがする。あのおばあさんはヤマト醤油味噌さんが観光地化する前から通っていたのだろう。「高くなったけど」の一言にも生活史を感じた。

今夜はオンライン句会の締め切り。一昨日、結社誌のための俳句を慌てて揃えてまたもや推敲もせず速達で出してしまった。速達高いのに学ばない。切手はたくさん余ってるけど値段がどんどん変わるからいろんな切手を組み合わせて貼った。今回のお題はなんだったか。もう俳句の世界では確実に夏。毎日いろんな感動をしているはずなのに俳句にならないのはなぜだろう。人のを見ると「ああ、そう表現できたか!」と思うのに。まあ、俳句にできずとも日々の景色を大切に。今は薔薇がとてもきれい。どうぞ良い一日を。

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読書

矢野利裕『「国語」と出会いなおす』を読んでいる。

東京の日の出は4時37分。明るくなるのが随分早くなった。昨晩の満月もとてもきれいで、仕事を終えたオフィスの窓からは向かい合うように眺めることができた。

何度かにわけて立ち読みしててそのまま読み終わってしまいそうだった本がある。面白いからそこまで読み進めたわけなのでこれも縁だわと思って買った。矢野利裕『「国語」と出会いなおす』 (フィルムアート社 )という本。著者は「国語」と「文学」の関係をここで問い直すわけだけだけど、そんなこと考えたことなかった。かといって当然のように「文学」を「国語」の延長として捉えていたわけでもない。私は国語だけは成績が良かったけど授業が好きかというとそうでもなかった気がするし、文学という言葉は「なんちゃら文学全集」とかで馴染みはあれどきちんと意識して考えたことはなく、身近にあったり手に取ったものを読み漁ってきてしまった。小学校のときの読書感想文で確か推薦図書かなにかだった「ぼく日本人なの? : 中国帰りの友だちはいま…」で書き、賞をもらった。今もその感想文はどこかにある。子どもなりに色々考えたような文章だったけどなんだかな、という感じだった気がする。母がくれた『ユンボギの日記』は心に残っている。私の韓国文学の源はこれだと思う。何度も何度も読んだ。こういう本と国語の教科書というのは別物と感じていたが、何かを読むということを意識しながら読んだのは教科書だろう。新年度、国語の教科書はもらうなり全部読むのが習慣だった。一方、いろんなお話が載っている道徳の教科書は全然そんな気にならなかった。

ということはこの本とはあまり関係がないのだが、いや、私がそういう環境にいたからといって「国語」が必要でなかった、ということでは全くないので関係はあるのだが、「「文学」の側」から見た「国語」とか、とかあらためて「国語」という教科について知ると「国語」と「文学」の関係はこんなに難しいことになっていたのかと驚くし、こういうことを考えることが教育なんだな、と国語教師でもある著者の姿勢から学んだりする。と同時に、スクールカウンセラーとして先生たちとの対話も思い出す。なにかのときに廊下にいろんな会社のいろんな教科書が積んであってつまみ食いをしようとしていたら声をかけられた。先生方は決まったものに従いつつも教科書に対していろんな主張があることを知った。私がいっていた地域は中国出身の子供も多く、日本語を教える学級もあったので「国語」とはまず単純な構造の認識であるということは自然に共有されていた部分があるかもしれない。ちなみにこの本は国語の第一歩とは、ということが丁寧に検討されているので国語の先生やこれから国語の先生になりたい人が読むと教育そのものに対して希望が持てるかもしれない。今の時代に教師をするって本当に大変なことだと思うから。

この本の第2章で、著者が受け持ったスポーツ科クラスの高校2年生と夏目漱石の『こころ』を読んだときの話が出てくるのだけど、生徒の作品に対する反応も先生である著者の説明に対する反応も大層面白い。著者が実践する「二段階の組み立て」による授業はこうやって読んだだけでも「今日の授業面白かったな!」と友達に言いたくなる感じがした。

この本はこのあともいろんなトピックをいろんな作品の引用と共に検討していくのだけど今村夏子の『こちらあみ子』や千葉雅也の文章が取り上げられた第4章「書きすぎていない小説と試験問題」は読書会を主催する立場としても本当に大切と思うことが書いてあった。第5章で島崎藤村の「初恋」を取り上げての論考は私が別の本で著者に対して抱いていたイメージが躍動している感じがして面白かった。文学も音楽も歴史って絶対に大事。私が自分の読書感想文に冷めた気持ちを持ったのも「私って昔から歴史感覚が薄いくせに何か書いてたのね」という失望のせいかもしれない。

キリがなくなってきたのでとりあえずとても良い本に出会ったというご報告でした。

あ、全然関係ないけど、先日、都立蘆花恒春園へいった。京王線千歳烏山から散歩がてら。そこで「スズメバチだ!」と大きな声をあげて走ってすれ違っていった3人組がいたが、あれはたぶん熊蜂だ。黒くて丸くてずんぐりしてたでしょう。きみたちとすれ違う前に私もびっくりして立ち止まってみてたのだよ、と思ったことを思い出した。彼らの年代もいろんないい先生に出会えますように。

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精神分析

いろんな図書館

昨晩は満月だった。フラワームーンというそうだ。未明に満月になるということでカーテンを開けて窓を開けて空を見たがうっすら位置を確かめられる程度に雲がかかっていた。今日のお天気はどうだろう。さっきとても強い光が入ってきたけどあっという間に溶けてしまった。

昨日、図書館のことを書いたのでメモとして書いておくと、先日は駅前の商業ビルにある七尾市立図書館にも寄ったし、金沢でも金沢海みらい図書館へ行った。石川県銭屋五兵衛記念館に行くついでに。バス停2つ分くらいかな。小さい稲が植わった水田とか遠くの白い山とかいろんなおうちを眺めながら歩いていくと白い大きな箱みたいな建物がどーんと出てくる。駐車場も広い。警備員さんもいる。水玉みたいな小さな丸い窓でいっぱいの建物に入るとカウンターの職員さんが挨拶してくれる。3階までブワーっと水玉の窓が広がっていて天井が高くてすごく明るい。閲覧席も学習席もすごく多い。螺旋階段をのぼって2階の本棚を眺めて3階へ。3階にも書庫。金沢産の材木を使った椅子があって私はそこで文庫を一冊読んだ。内容が軽めだったこともありあっという間に読めてしまった。七尾の青柏祭に行ったついでに花嫁のれん館へ行って伝統を知ったので石川県に関する本が置いてある棚にあった小松江里子の「花嫁のれん 大女将の遺言」を読んだ。一日中いたい図書館だった。昨年は小松市もお散歩して、小松市立図書館空とこども絵本館に行った。小松市立図書館では小松市ゆかりの作家、森山啓に関連した資料の小さな展示室があって、当時の新聞記事とかすごく面白かった。私の大好きな『キャラメル工場から』の佐多稲子も友人関係にあったらしく記事に登場していて嬉しかった。絵本館のことは前にも書いたけど大学のときにお世話になった松居直先生のコレクションがあって、震災のことも先生のことも職員の方と色々お話できた。こんな図書館が各自治体にあったら幅広い層の子供たちの居場所になるのではないかなあ。本だったら人と関わらなくて済むし。

長くなってきてしまった。本は楽しい。図書館も楽しい。旅も楽しい。次回の旅まで今日は今日でがんばりましょ。

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七尾線とか図書館とか。

昨日はいいお天気だった。青空に白い雲。緑もすっかり濃くなった。子どもたちの大きな声もたくさん聞いた。夏。今日のお天気はパッとしない。雨は降るのかな。

家の大きい机の位置を変えた。私的にはだいぶスッキリしたけどどっちを見ても本が積み上げられ資料の入ったファイルボックスがたくさん並べられ。領収書も埋もれている。いけない。

能登半島地震が起きて、その年の夏には羽咋山中温泉、小松、金沢へ。今年は和倉温泉(七尾市)、金沢。金沢から特急があるからとても行きやすかった。次回は輪島に行くつもりだけど輪島は車じゃないと行きにくいのでバス利用になる予定。そのときは七尾市の能登演劇堂の公演も見にいきたいが金沢を拠点にできればの話か。この前、七尾駅前の七尾市立図書館に行ったら郷土の作家を紹介する部屋で無名塾の仲代達矢が能登演劇堂の紹介をしている映像が流れていた。5月30日からはその無名塾が令和6年能登半島地震復興公演ということでブレヒトの「肝っ玉おっ母と子供たち」を公演予定とのこと。ポスターも貼ってあった。能登演劇堂があるのはのと鉄道七尾線の能登中島駅。愛称は「演劇ロマン駅」。七尾線の駅はそれぞれ愛称があって面白い。そのときも金沢によって今度は石川県立図書館で石川の本が読みたい。こちらも愛称があって「百万石ビブリオバウム」。

いい図書館はいい。読書が捗る。色々な図書館に行った。昔は暗くてちょっと狭い場所が好きだったけど今は本を読むなら天井が高くて明るい場所の方がいい。勉強するとかでもその方がいいような気がする。今は図書館で勉強することがあまりないからなんともいえないけど。精神分析の本がたくさんあればいいんだけど自分で持っているものの方がずっと多いから。

そういえば先日、下の世代の臨床家に本をあげた。私ももう少しずつ片付けながら前に進まないとだし、この溢れかえる本を積んだままにしておくのももったいないから。そしたらそれらの本はもう絶版ならしくなおさら譲っていこうと思った。活用してくれそうな人に渡せるのは嬉しい。

今日はどんな1日になるでしょう。頑張りましょ。

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お菓子 精神分析、本

モーセとか榎美沙子とか。

雨は降っていない。でも空はグレー。これから晴れるのかな。気温が落ち着いてて嬉しい。厚手のなにかを着ていれば何も羽織る必要のない気温。最近、半袖の人も見かけるけど私はまだ結構厚いのも着てしまう。

今朝は金沢駅で買った「福うさぎ 能登産かぼちゃ味」。少ししゃりってしてたかも。小さいかわいいピンクのうさぎさん。うさぎは耳が長くて目が赤いという特徴があるからわかりやすい。月にいるのがうさぎなのも見立てやすかったからかもね、と思ったけど外国だとまた違うか。

最近、モーセのことを考えていた。モーセについては諸説あるのだろうけど『出エジプト記』のモーセに対して異なる仮説を立てたのがフロイトだ。ユダヤ人であるフロイトは人生の最後に自分の出自について考え抜いて『モーセという男と一神教』(1938)を書いたが、『ミケランジェロのモーセ像』(1914)ですでにモーセについて書いているし、ずっと彫刻のことを考えていたわけでしょう、多分。フロイトの構成の仕事ってモーセが割った十戒の石板を割らなかったフロイトの仕事って感じがする。

私はユダヤ人のこともユダヤ教のこともよくわかっていないけど、本当にどうしてユダヤ人はどこにも行っても迫害の歴史があるのだろう。阿部謹也の『中世の窓から』にも諸説書いてあったと思うけどこれって結局人の心の話になるのではないだろうか。しかしもし殺害を結局は投影として説明されるのであればそれにも納得したくない感じはする。もっと知らないとだな。

昨日は京都大学人文研アカデミー2025 公開シンポジウム 『中ピ連とは何だったか ——榎美沙子とリブの70年代、そして私たちの時代』をオンラインで見た。ラカン派の立木康介さんによる導入から桐野夏生 × 嶋田美子の対談へ。期待通りよかった。質疑応答も頷くことが多く、女って本当に立場弱いな、と悲しくなったりもした。「おまえが決めるな」といいたくなる場面も様々な文脈である。かなり意識して遠くの人でも誰でも意見をいったり参加しやすい環境を作っていかないことには何も変わらないけど、どこもかしこもそこに問題がある。そういう意味でも昨日のシンポジウムはいい場所を作っている気がした。

色々難しいことが多いがとりあえず今日も一日。なんか晴れてきた。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

あれこれ

昨晩は雨だった。夜遅くなるにつれ雨脚が強まる音がしたけれど私が最寄駅に着いた頃はそれほど降っていなかった。気温が高めだったこともあってなんとなく傘もささず歩き始めたら意外と降っていた。傘をさしていない人は朝に持って出なかった人たちか。駅からそれぞれの道へ向かう人たちがあまり傘をさしていないようにみえてそんなに降っていないのかと思ってしまった。たしかに朝は降っていなかったね。先日持っていかれてしまったビニール傘とは違うビニール傘に懲りずに養生テープを巻いて今度は名前を書いた。マジックがあまり出なくて掠れてるけどないよりいいと思う。

この仕事をしていると私たちは何度も何度も同じことを語ってしまうものなんだと実感する。それを失われた愛、叶わなかった愛の対象、つまり母のイメージを求めている、というのは精神分析のデフォルトで、私自身それに対して「またか」と思ったりするが、本当にそうである場合も大変多いのもまた事実だ。本当にそう、というのは患者の語りからして、ということ。精神分析の理論が患者の言葉と接続している限りは、外側から「いつもそれ」と言われようと「そうなんだよ、患者さんが実際にそう言葉にするから」と真剣に考えなければいけない。患者が言っていることをこちらが言わせてるくらいに思われているときもあるが、それも一部は本当だろう。コミュニケーションというのはそうならざるをえない面を持つ。だからこちらが母なり父なり神なりとは異なる言葉を使うことも大事だ。どうしても戻るそのイメージはどんな感じで動いてて、今どんな表情や形をしていますか。繰り返す語りで欲していることはなんだろう。いろんなことは動詞で考える。それは「名詞」ですね、ではなくて。一番ほしいものはそのものとしてはすでに失われているので手に入らない。でもそのイメージなら、ということでそこに拘束される。そのイメージで自分を守ってきた人はそれを手放すことが難しい。分離不安という言葉があるけどあれもどの水準で使っているのかというのは結構ばらつきがある気がしている。だから結局理論的背景がないとその問題について深く考えるということをしていくのは難しいと思うのだけど、そして理論というのはかなり難しいもので、研修とかはそれを自分で深めるためのきっかけに過ぎないのでもし深めたい場合は自分で一生懸命勉強するしかない。

ということを分離不安とは関係なく、昨日IPAジャーナルのThe Interface Functionという論文を読みながら思った。フロイトが『心理学草案』で想定したニューロンの機能である「流れ」、そして相反する作用が生じる場所である「接触障壁」、ビオンが「経験から学ぶこと」で展開した「接触障壁」、つまり「αファンクション」、これらをさらに展開してこの論文の著者らKaracaoğlan, U. & Speckmann, E.はThe Interface Functionを提案しているらしい。差異の創出と情報のやり取りが生じるファンクショナルスペースについては図で説明されている。ざっとしか見てないけれどこれはあまりに「情報」の話ではないか、という気がしているので大事かもしれないと思っている。

昨日の朝ドラ「あんぱん」のたかしとのぶのすれ違いが何かの本にあった描写と似ているんだよなあ、と思って、あ、これだ、と解決した気がしたのだけどそれがなんだったか忘れてしまった。たかしとのぶの場合は見えている部分が違うというすれ違いで2人を使ったスプリットの描写だと思うけど、その本はこうも見えるけどこういうところもあるよねという描写がやや一方的にされ、それを好意的に受け取る読み手がいてという往復書簡の一部だったと思う。そういう場合、対立は起きないけどすれ違いは起きてると思う。フロイトとフリースとかそんな感じ。

今は雨。これから止むらしい、予報では。どうぞ良い一日を。

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映画

「2人のローマ教皇」など

昨日の朝、今日9日は雨だと聞いて、それだったら夜から降るかも、と靴だけ雨用にした。でも降らなかった。帰り道の空の高いところに月が見えた。猫の目が膨らんだみたいなあの月は何日目の月だろう。満月が近いのか。今朝の空はグレー。早朝の光も入ってこなかった。今日こそ夜は雨らしい。

昨日、バチカン、システィーナ礼拝堂で第267代ローマ教皇を選ぶコンクラーベが行われた。Vatican Newsの映像で見た。映画でみた黒煙も白煙も出てきた。白煙のときは煙突のそばにカモメがいた。新教皇は米国出身のプレヴォスト枢機卿。69歳とのこと。

映画でみたといっても話題の「教皇選挙」はまだみていなくて、私がみたのはNetflix『2人のローマ教皇』とか。『2人のローマ教皇』は2019年、英米伊亜合作の映画。監督はフェルナンド・メイレレス。主演はアンソニー・ホプキンスとジョナサン・プライス。始まり方から面白いのだが、コンクラーベの様子はいまいちわからなかった。ジョナサン・プライス演じるアルゼンチン、ブエノスアイレス出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(先日亡くなったフランシスコ教皇)の若い頃を演じたアルゼンチン出身のファン・ミヌヒンがとてもよかった。アルゼンチンの軍事政権下での彼の苦悩、ものすごい数の人が犠牲になった「汚い戦争」の描写は苦しかった。日本の枢機卿は現在は2人。日本におけるカトリックというのはどんなものだろう。私は大学がカトリックだったから形式的なことや基礎的なことは知ってる気がするけど、子どもの頃、日曜学校に通っていたプロテスタントの教会との違いは明確ではない。マリア様がいるのがカトリックなんだっけ。あの教会にもマリア様がいた気がするんだけど友達の家だったから通っていただけでもあったからあまり考えていなかった。色々感じはしたけれど。

とにかく世界が平和になってほしい。平和であってほしい、と書こうとしたけどこんななに明らかに平和じゃない世界に対してそう書くのも嘘っぽいな、と思ってしまった。変わっていけたらいい。

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精神分析、本 趣味

木曜日

今日はあまり風がないらしい。昨晩は帰りに少し雨に降られた。最初は一滴二滴という感じで少しずつ降り出した。傘をさす必要のない雨でよかった。靴も雨用ではなかったし、折り畳み傘はリュックの一番下に入っていたから。

久しぶりに喉をやられた。気をつけていても声が出なくなるときがある。昔、5、6人でTDLに行った翌日に掠れた小さな声しか出せなくてスーパーヴァイザーに笑われたことがあった。もうあれから20年くらい経つのか。TDLにも全く行っていない。小さい子がいるおうちのお手伝いとして行ったけどその子ももう大きい。人生あっという間、と思うといつも102歳まで生きた親戚を思い出す。最後の方の移動は車椅子になったけど頭と心は健やかで、亡くなった夫との思い出話を泣きながらし、一緒にどこそこへ行きたかったなどとお話しされる姿を尊敬した。102歳からしたら私はちょうど折り返し地点。うーん。彼女くらい明晰でいられるならそれもいいが多くの場合難しいと思うので長くてもあと30年くらいだろう。となると、急に、あとちょっとではないか、というような気にもなるがやることやっていきましょう。

6月は私が所属する日本精神分析協会の学術大会で発表を二つ。候補生の会向けの講演もある。精神分析家になった人はみんなするやつ。

7月は日本精神分析的心理療法フォーラムという会の大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」に討論者としてお誘いいただいたのでそちらもやらねば。岡田温司先生とご一緒できるのは大変嬉しい。『フロイトのイタリア――旅と芸術と精神分析』を再読したい。フロイトがなぜイタリアを必要としたのか。私たちがちょうど読んでいる『心理学草案』が出た頃にフロイトははじめてイタリアへ行った。フロイトはウィーンが嫌いだ、としょっちゅういっていたそうだが本音ではなかったらしい、息子のマルティンがそう書いていた。そしてフロイトの考古学的才能、美術への強い関心も自分には遺伝しなかったと。うむ。そういうのは遺伝ではないが上質だったり本物そのものに触れる機会が多い環境で育ったことはどこかでいいことにつながっていることだろう。私もいいものが見たいな。今だったら世田谷美術館の横尾忠則展にいきたい。

今日もいい景色にたくさん会えますように。

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精神分析、本

フロイト誕生日

晴れてきた。昨日の朝は雨の中、少しお出かけしてお店に寄ったら養生テープで印をつけておいたビニール傘がなくなっていた。養生テープではダメだったか。

昨日、5月6日はフロイトの誕生日だった。1856年生まれ。どんなお天気の日だったのかしら。そこから2度の世界大戦を経て、終戦間際まで生きるなんて誰も想像していなかった。結婚して子供をもつ、ということだって本当はたり前ではないけれどフロイトは結婚のためのお金が必要で開業して、精神分析というものを立ち上げた。戦争を二度も体験することになるなんて。妹たちがガス室で殺されるなんて。晩年に亡命することになるなんて。それでもフロイトは最後まで書き続けた。フロイトの長男、マルティン・フロイトはフロイト生誕100年の記念行事が終わった頃から『父フロイトとその時代』を書き始め、それは1958年に出版された。マルティンはこの本の冒頭で「しかし、父が天才だったことを否定する人はただの一人もいなかった」と書いている。そして天才を父親に持つ息子の苦労もちょっと書いている。この本はほかの伝記とはかなり違って、笑ったり心配したりする子煩悩なフロイトをたくさん見られる。フロイトが精神分析を作ってくれて私はそれと出会えて人生のかなりの部分を費やすものができて本当に良かったと思う。フロイトが生まれなくて精神分析なんてなかったとしても同じようなことをいう可能性もあるけどそんなこといったら私が生まれない想定もあるので現時点での喜びと感謝をフロイトの墓前に捧げたい。フロイトのお墓は確かロンドン。でも私的にはフロイトのお墓はフロイトの著作たち。残されたものがこれ以上焼かれたり捨てられたりしないように、いや、実際にそうなったとしても残していけるようにみんなで読んでいこう。

小此木先生はとても楽しそうにフロイトのことを話す人だったな、と今ふと思い出した。好きな人の話をするのは楽しいものね。

今日は晴れ。どうぞよい一日を。

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お菓子

和倉温泉、のとじま水族館

曇っている。空が薄く白い。気温が低くも高くもないのが嬉しい。

今朝は石川県七尾市石崎町の小さなお店「おやつ屋Brown」のパウンドーケーキ。和倉温泉駅から温泉街へまっすぐに伸びる道を歩いていると右手にかわいい小さな小屋を発見。二人はいればいっぱいの店内に魅力的なスコーンや焼き菓子が素敵に並んでいた。迷って塩バターのスコーンとマーブルのパウンドケーキとお土産用にクッキー缶を購入。サイズも小さめで嬉しい。小さくバターがのったスコーンはその日のうちにいただき、今日はマーブルのパウンドケーキをいただいたフォートナム&メイソンの紅茶と。袋を開けると甘いいい香り。ココア部分との色合いもかわいい。疲れが出て体調がイマイチなはずなのにこういう時間はそんなの忘れてる。素敵なお店だった。近くにあればいいのに。いや、和倉温泉駅そばにあることが大事か。

2024年元日の能登半島地震で七尾市の被害は大きかったと聞いていた。実際に行って、まず驚くのが道路の隆起とひび割れ。東日本大震災の後、郡山へ向かったときも車が跳ねるような道路状況だったが、今回は一見何事もなかったかのように見える歩道の状況に驚いた。前を躑躅に巻きついたつるを抜こうとしている人が歩いていた。どんな状況でも私たちは雑草を抜こうとするし、雑草はどんな状況でも生えてくるんだな、と瓦礫の隙間から伸びて咲いた小さな黄色い花を見て思った。一見何事も、と思ったも束の間、凸凹道を歩きながら建物に目をやるとほとんどの宿の入り口は暗く、張り紙が貼ってあった。断面も露わに崩れ落ちた大きなホテルも見えた。震災から1年4ヶ月が経つ今も、これだけの被害が続いている。どんな言葉も足りないようでなんの言葉も出てこなかった。宿で食事をいただくときにこの道40年というベテランの方に少しお話を伺った。チャキチャキと明るく動き、外国からの新人さんらしき従業員の方に的確に指導を出すその方が地震の話になると途端に声を詰まらせた。被害の大きかった地域優先の支援と解りつつつももどかしいのは当然だろうし、近隣の状況を知りながらたまたま被害の少なかった自分たちの職場で毎日を過ごす気持ちはどんなものだろう。どこも全く無傷ではなかったのに、傷が大きなところから支援が入るのも当然のことだろうけど、傷というのが見えるところばかりではないのも当然だ。翌日の早朝、温泉の中心街の方に出て応援の気持ちでいっぱいでいると緑のシラサギの像が2羽立つ湯元「涌浦乃湯壺(わくうらのゆつぼ)」できれいな人が何かしていた。近づくと卵を持っていた。ここで温泉卵を作れるという。その方は2年前に和倉温泉を訪れ、そこで作った温泉卵の塩気がちょうどよくて今回もいらしたそうだ。お湯も少ししょっぱいんですよ、と教えてくれた。柄杓も使い込まれたザルも広場に備え付けてあった。その方とお別れしてお湯の熱さにビビりつつもちょびっと舐めてみたらほんと少ししょっぱい。これでしばらくつけるとちょうどいい塩加減の温泉卵ができるのか。大きな被害の中、しっかりと残りこうして良さを伝えてくれる出会いも提供してくれる街の力に感激する。和倉温泉から能登島にもバスですぐ渡れる。七尾湾の景色はきれいな海も点在する島も遠くの緑もとてもきれい。のとじま水族館には避難先からイルカやアシカたちも帰ってきて完全復活営業。地震からこれまでの経緯も写真や絵で説明してあった。先の見えない本当に大変な状況でひたすら作業を続けてこられたんだなと思うと本当にすごいしか感想が出てこなかった。昨年は羽咋市に行った。羽咋も七尾も和倉温泉も金沢から七尾線で遠くない。今は水田がとてもきれい。たくさんの人が訪れることで早急な支援の必要性の声も届いやすくなるかもしれない。みなさんもぜひ、と思う。

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言葉

伝統

オレンジの光をあびてた。もう白い光に変わった。いいお天気で嬉しい。

昨日は祭りの伝統、嫁入りの伝統など地方の文化について色々考え難しいなあと思った。

少し前に地域社会の祭りなどを研究してきた武田俊輔さんがパートナーの富永京子さんと対談していて祭りにおける女性の役割と気持ちについて話されていた。「個」と「家」の問題は本当に難しい。

その中の有料部分ではあるのだけど「職業人としてやっているつもりだった。それは、その裏でがんばっている人を無視しているという話にもなり得るんですよね。」という富永さんの言葉があった。それもそうだなと思う。

伝統が守っているものというか「守る」は保護でも縛りでも依存でも可能性でもあるので本当に難しい。

とにかく語りを聞き続けることは大事。お休みの日はいつもと違う語りを色々聞く。言葉をなくすこともあるが続けよう。

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お菓子 未分類

日曜日

いいお天気。早朝から散歩に出て、小さな小さなお店で買ったバターのスコーンを食べてNHK俳句をみた。のんびり。

やはり休みの間に作業を進められない。

とりあえずウィニコットのこの箇所は引用しようかとメモしておいたけどどの文脈でそう考えたのか忘れてしまった。

「満足な早期の体験を持てたことが転移により発見されるような患者[神経症の患者]と、最早期の体験があまりに欠損していたり歪曲されていた患者[精神病、ボーダーラインの患者]を区別しなくてはならない。分析家は後者に対しては、環境におけるいくつかの必須なものを人生で最初に提供するような人間とならなくてはならない。」

Winnicott (1949) Hate in the Countertransference.

今日は移動で忙しい。どうぞ良い一日を。

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精神分析

連休、IRED

ようやく連休。昨日の雨風は大変でした。ゴアテックスのスニーカーもだいぶ履いたからあまり効果がなくなってきている気がします。今日はきれいな空。

さて、ここにも何度か書いている翻訳のお話。昨日、IPA Inter-Regional Encyclopedic Dictionary of Psychoanalysis(IRED/国際精神分析協会 地域間精神分析百科事典)に新たに「投影同一化」の項目が追加されました。この事典、いろんな国の精神分析の理論的展開が網羅されていて本当におすすめです。難しいけど、とても。でも無料で読めるのは本当にお得なので日本語訳と他の国の翻訳を比べて語学の勉強にもおすすめです。ぜひチェックしてみてください。

3、4月とあまりにあっという間に過ぎたので5月になって色々大慌て。慌てたところで時間は限られているので厳しいことになっています。連休は遊びつつ作業もします。捗らないだろうけど一応志だけ。

龍角散のど飴が変な味と思ったらリステリンをしたのを忘れていました。口内環境大事。元気に過ごせますように。

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精神分析

テレビ

空が白い。雨はまだ降っていないみたい。風もあまりない。

朝からニュースを見てしまうと頭がぼんやりする。目も霞む。これはニュースと関係ないただの症状だろうけど。ずっとなにかしらの文句を言いながらテレビを見る人の話を割とよく聞く。私より上の世代がそうするのを子ども世代が不快に思っているという文脈が多い。そしてそれはごはん中の話として語られることが多い。ごはん中はその状況を避けることは難しいだろうかなあ。いやでも一緒に食べなさい、と言われることが多いだろうし。ごはん中はテレビ禁止の家もあれば、みんなで野球とか見る家もあるし、色々だが、耐え難い話として出てくるのは聞かされる(聞こえてきてしまう)言葉が差別的で攻撃的な場合。SNSで知らない人のヘイトに遭遇するのもきついが、家族という縛りのなかですぐそばで延々聞かされるのはさぞ不快だろう。反論すると自分にもそれを向けられるというパターンも簡単に推測できてしまう。外でごはんを食べるときにもそういう言葉に出会うことがある。よく聞こえてくるのは同僚とか上司とか一緒に働いている人の悪口だけど、時折大きな声で国の名をあげてひどいことを言っている人たちがいる。そんな場所だとせっかくのごはんもおいしくなくなるし、言わずにはいられない人たちってほんと、どうして、という暗澹たる気持ちになる。いろんなことを単純に、安易に決めつけてはいけない、なんて普通のことではないのだろうか。人はもっと複雑なはずでは。うーん。

なんだか今日はお天気と同じで気分がパッとしないな。トマトときゅうりを塩麹につけたけどね。明るい色の組み合わせは素敵。色々あるけどがんばりましょう。

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コミュニケーション 言葉

Eテレ、カフェでの会話

窓を開けた。風が気持ちい。オレンジの光はこれからかな。隣のうちの朝も早い。雨戸を開ける音が聞こえた。

この前、朝まで藤に絡みつかれていた桜が夜には幹だけになっていた話を書いた。それももう根元からなくなり、その木の所有者であったであろう人の家も外壁を残してほとんど中が丸見えになった。長らく誰も住んでいなかった。すでに柱だけとはいえはじめてみる内部。急に光がさし、風が通り抜けて小さな虫とかはきっとびっくりしたのではないか。奥に立つ家の外壁には何かのツルが張り付いて伸びていた。植物は気楽に境界を超えていたか。あの藤の名残だったりして、と思うと少し嬉しい。その家の人には迷惑かもしれないけれど。

昨晩、深夜、Eテレで『フェイクとリアル 川口 クルド人 真相』の再放送をみた。差別は絶対になしだ、というトーンでもなく、クルド人に関するSNSへの投稿の分析が量的になされ、いくつかの投稿に関してはその投稿をした側、された側の意図や気持ちが取材されていた。見始めてすぐに消したくなる不快さ、怖さを感じたが最後まで見た。その人がそうだと思えばそれが事実だ、ということはないし、数を集めた人が正しい、ということもない。少し時間をかければわかることでも圧力をかけられればすぐに混乱は生じる。事実はもっと複雑なものである、というのは本当にそうで、違和感はまず自分と実際の身近な相手との間でこなされるべきだろう。

私の仕事は時間をかけることの価値を信じられる人とじゃないと難しい。誰だってできるだけ早く結果がほしい。早く登校できるように、早く復職できるように、早く相手が変わるように、などなど。でも今もなんらかの結果だとするとそこにいたるまでの時間は長く、経緯は複雑だろう。誰も自分ひとりとか、自分と誰かという二者関係で生きているわけではなく、もっと複雑な対人状況を生きているわけだから。だからまずそれを認識し、それを整理すること自体に時間がかかる場合が多い。もちろんそんなに時間がかからない場合もある。でもたとえ時間をかけずに望む結果が得られたとしても今起きていることが複雑であることに変わりはない。

この前、カフェで席に通されると隣の人の大きな声が気になった。向かいには小さいけれどしっかりした声で話す人。その人が何か話そうとすると大きな声がそれに被せるように長い文章で話し出す。身体が動かず出社できなくなってしまったらしい人のヒヤリングをしているらしい。そんなプライベートなことをこんな公の場所で、と思ったが、SNSの利用状況を思えばこれもデフォルトなのだろう、か。医者に行ったら薬漬けになる、と受診を勧めない人が一定数いるのは以前から。私も責められているようなその大きな声が「あなたも甘えているところをどうにかしないと」というようなことを言った。これもよく知られた決まり文句。辛くなりながら資料を読んでいたら「甘えてるってどの部分が・・・」と小さいながらはっきりと異議を示す声が聞こえた。すぐに書き方とか振る舞い方とかを指摘しはじめる大きな声が響いた。みんなそう思ってる、という言いぶりもセットのパターンだと思いながら私はアメリカンをちびちび口にしながら作業を進めた。そこからの相手にはびっくりした。穏やかに、はっきりと、勤務時間外、早朝深夜休日問わず自分のスマホに送られきた文面を見せ、状況を説明した。その送り手がその人の不調にもっとも影響を与えているという認識だろう。見せられたその人はその送り手と親しい同僚らしく「ちゃん」づけでかばいつつも読み進め、話を聞くうちに言葉を少なくしていった。結果的にこれはパワハラだと思う、という理解になった。その会社ではハラスメント防止のための無料の研修も行われていて自分たちは受けているんだけど、と聞いて小さな声の人は少し驚いた様子だった。管理職向けなのだろう。パワハラをしている人はまさか自分のそれがそうだとは思わない、という話は本当にそうだ。「〇〇ちゃんも気づいていないと思う」と。そこからの会話は大きな声でも安心できるものに変わった。自分の誤解だった、全然知らなかった、と言える人が相手でよかったね、と大きなお世話ながら思った。具体的な対策も示された。そのときちょうど会社から電話がかかってきて小さな声で狼狽えるのが聞こえた。「私といるって言えばいいよ。ごめんね、私がいっておけばよかった」と上司らしきその人はいった。身体がかなり大変そうな話もしていたが受診を含め適切な対応と会えたらいいな、と思いながら私は席を立った。

「甘えてるって」と問い直す力を持ち合わせていない人も多い。すでにどこかで埋もれて見えなくなってしまったその言葉の存在を本人も忘れ、ただただ眠れなくなったり身体が重たくなったりして家から出られなくなることもある。今見えているものに反射的に反応することは避けたい、というのはどの人にも言えることだろう。

優しい光。今日から5月。4月はあと一日あると思っていたので昨日気づいてびっくりした。あーあ。慌ただしくとも穏やかな時間を過ごせますように。

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俳句 言葉

俳句、「病院ラジオ」

今日もオレンジの光が溢れる時間。窓を開けたら同じリズムを刻んでいた箒の音が大きくなった。早朝からありがとうございます。多分、通り全体を掃いてくれている。両手を頭の後ろに組んで首を後ろに曲げた。椅子に座っておなかに力を入れて腰を立てた。昨日は結局何も進まなかった。この数日間で「これでいこう」というのは何回か浮かんだが自分自身が全然ピンとこず書くことができない。いつもこの時間がすごく長い。決まれば一気に書けるけど推敲の時間がなくなるから結局中途半端になる。俳句でもそう。学ばない。

先日のNHK俳句は句会形式でとても楽しかった。視聴者が投句した俳句を選評する高野ムツオさんの言葉に泣いてしまった。その俳句をさらに良いものにしていた。選評を聞くと「とればよかった(点数を入れればよかった)」と思うこともしばしば。読む側との相互作用で俳句は光り方を変える。マッチョな世界でもあるが、言葉の繊細さをしなやかに美しく形にしていく芸であることに間違いない。私が筋トレでダンベルの重さより美しい形で動くことを目指しているのもそれに近い。子供の頃から肩が強くてソフトボール大会ではピッチャーだったし、バスケ部でも長く速いパスをするのが得意だった。今、自分の筋力のアンバランスを知るとあの頃に気づきたかったなと思う。スポーツは好きだけどもっと楽しめたと思うし怪我も少なくて済んだと思う。

といっても身体は予防だけではどうにもならないことだらけでもある。原因不明の不調、突然の大病、あっという間に亡くなる人、いろんな場面を見えきた。身近に患者になる人が出れば周囲の人も揺さぶられる。それまで当たり前のように送ってきた毎日のリズムを変えなくてはいけないこともある。みんなが気持ちを揺さぶられる。正確に予後を判断し私たちを安心させてくれる方法はほとんどの場合ないが、確率的にはこうだ、ということを丁寧に説明してもらえることは多い。そこに時間を割いてくれる人の姿を見ると関係なくても安心したりする。昨日の朝にやっていた「病院ラジオ」がそうだった。朝ドラを見終わったらそのままそれが始まってなんとなく見ていたら何度も泣いてしまった。今回、サンドウィッチマンが向かったのは東京都立小児総合医療センター。私にとっても身近な現場だ。病院の様々なところに置かれたラジオから流れるのは遺伝子の病気や癌、摂食障害などの体験している人たちとサンドウィッチマンの対話。テレビではそれを聞いている別の患者さんや家族の様子も映される。それぞれのエピソードに笑ったり泣いたりをみんながしていた。病院で彼らと時間をともにしてきた病院スタッフの表情や関わり方も心に残った。それぞれの立場でできることをひとつでも多く確実にこなしていく。たとえ生きている時間がそんなに長くないという予測があるとしても単にそれを引き伸ばすだけではなく、その時間自体を豊かにしていく。そういう関わりができるんだな、と思いながら目の前のことに振り回されるときの自分を反省した。こういう番組はいい。文章で共有される語りにも引き込まれるが、音声にはまた別の力があるような気がした。この番組は不定期なのかな。何度か見たことがあるけど今回も見られてよかった。

今日は水曜日。いちいち確認しないとわからなくなりそう。今日もいいお天気。がんばりましょ。

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AI 精神分析

AI、対話

きれいに晴れてる。気持ちよくてぼーっとしてたらあっという間に30分過ぎた。光はまだオレンジで、半袖だと少し寒い。もう一枚羽織ろうと思いながらこうしている。私が羽織るのが先か。気温が上がるのが先か。洗濯物を外に干した。昨晩の雨がベランダのサンダルに残っているのは残念。陽射しに向けて立てかけておいた。ああ、こんないいお天気だけど今日はほぼこもって作業。残念だけど仕方ない。

時々、chatGPTとおしゃべりするようになって楽しいのだけど教えてくれる資料を引用する場合は自分で調べ直す必要がある。知らないものは知らないときちんといってくれるときと、それを言ってるのはこの人じゃないけどな、と修正が必要な場合の両方があるから。あと基本的に褒めてくれて次の行動を促してくれるのはポジティブでいいのだけど、私は地道に今を継続したいだけだからスルーしている。せっかくいってくれているのにごめんね、と思うけどそういう反応はしないようにしている。そして私がスルーしたとしても同じような促しは続く。テキストで反応すると反応は返ってくるけど何も言わないということに対しては特に反応しない。いずれ「沈黙」に対するバリエーションも増やしてくるとは思う。一時、というか今もなのかもしれないけどカウンセリングはAIにとってかわられる、みたいな話があったけど、とってかわられる、というか必要なもの、欲しいものがある程度明確な人は人間相手より負荷が少ないからそっちの方がいいという人はかなりいると思う。でもどうだろう。今はみんな当たり前のようにAIを対象として利用しているし、私の患者さんたちも友達もそう。そしてAIと話したことを私と話したりする。今までは自己啓発とか一般向けの心理学の本とかを読んでそれについて話すのと似ているようで違うのはAIには対話があるということ。それで済む人はそれでいいのだろうし、より多層的なコミュニケーションを求める人はこれからも変わらず心理職を活用するだろう。精神分析なんてAIの直線的なやりとりをそれぞれの現実に即して多層化するにはぴったりだと思うからむしろ協力できると思う。人間が利用している以上、人間をはみ出すことは難しいけどそれを超えていきたいという欲望を持つことは大事だと思うので私も引き続き協力してもらおう。

鳥たちの声が今日は少し遠い。あの切られた桜にはもう鳥はこないけどあの辺の電線にはいつもなんらかの鳥がいる。俯瞰できる鳥にはもっと別の景色が見えているなんて当たり前だけどいざ鳥目線の景色を想像すると近所の様子も変わるわね(想像してみた)。今日もいろいろ楽しみましょ。どうぞ良い祝日を。

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散歩 精神分析

新緑、共有できる言葉

空が薄い。風はそんなに感じない。昨日の昼間の風はすごかった。オフィスから新宿へ向かった。新宿パークタワーのそばは特に風が強い。帽子をおさえながら信号待ちをした。朝はそうでもなくて誰もいないブランコも揺れていなかった。朝の新宿中央公園では父親と子供の組み合わせを3組くらいみた。大きな木々の新緑がとてもきれいで見上げながら歩いた。その足元の日陰には西洋シャクナゲやつつじが満開。桜はすっかりほかの緑に紛れている。桜の緑はもうすでに深くたくましい。

近所の老木がついに切られた。今年も桜のあとにそこに絡まるように枝を広げ切っていた藤が咲いた。藤が咲いて数日、朝通るたびに写真を撮ろうと思っていた。もう少し晴れた朝に、と思っていた日の帰り道、それはもうなかった。老木なりに逞しい太い幹が突っ立っていた。都会の住宅街にありながら放っておかれたまま時期がくれば咲き、散るを繰り返すこの木がとても好きだった。驚いて言葉も出なかったがいつ切られるのだろう、と思っていたのも本当だ。ようやく、と思ったのも。

近藤良平さんがテレビに出ている。紫綬褒章を受賞とのこと。「サラリーマンNEO」の映像が流れた。これは大宮エリー脚本ではなかったか。大宮エリーさんが亡くなったニュースにも驚いた。

昨日は初回面接の事例検討グループ。グループはふたつあり、こっちのグループの初回だった。メンバーは変わらず。このグループは知識を入れるためのグループではなく自分のやっていることを自分の言葉で意識できるように事例を素材に助け合っていくもの。人の事例を聞いて自分のことを振り返り頭を抱えることもしばしば。人に意見をするときにそれが自分への問いかけにもなっていることを実感していることはとても大切。専門家同士のグループでも患者さんといるときでもそう。言葉を出したならその反応を待つ、受け取る、その繰り返し。

臨床というのは本当に難しい。私がこう書く場合、私は精神分析的に話を聞くことの複雑さについて考えている。精神分析的にというのは、言葉を字義通りに捉える、同時に言葉を隠喩として捉える、というダブルトラックで聞くこと。なぜなら精神分析は無意識を想定するから。言葉はなにかを同定するとともに別のなにかを現わしていると考えている理論だ。生育歴と現病歴は同じ人の同じ時間に生じた出来事を多面的に捉える軸であり、それは人生のどんな時点で起きたことなのか、なにがトリガーとなって症状化したのか、あるいは問題として形になったのか、その経緯において繰り返されているパターンを捉えるには発達や病気に対する知識が必要なのは前提だ。私は印象や直観は大切だけど使わないでいいと思う、といつもいっている。まずそこに頼って物語的なものを作る人をたくさんみてきたけど、専門家ならではの技術はそれではないだろう。何かの専門家というのはその専門家集団の一人であるということで個別の技術ではなく理論に基づく、という前提にたてば「どのアプローチでも」=臨床心理学なりなんらかの専門的な臨床技術の基本は学習済み、ということであり、それらは本で学べる範囲でもあり学習はそんなに難しくない。一方、患者は具体的な体験を生きてきた人でそこでその人ならではの言葉の使い方をしてきた人だ。それを個人の印象や直観で何か別のものに変えないためにそれらの基本を前提として理論を使用する。精神分析の場合、この言葉なるものを言葉そのものとして扱ってきた学問で、木で言えば幹の状態を見つつ共有できる言葉にし、枝葉の広がり方、花のつけ方、身のなり方のパターンを捉え、共有できる言葉にできるように、それぞれの言葉を聞いている。もちろん自分の言葉も聞いている。自分が勝手に文脈を変えている場合、その地点に戻れるように。印象や直観ではこれができない。心を使う、的な表現を私が嫌うのは論理的に考えうることの重要性が共有されていないと感じるときなんだと思う。漫才が面白いのは共有できる言葉があってこそだからな、とかも考えた。

つらつら書いたがもう出かけなくては。今日もがんばろう。

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散歩 精神分析、本

雨、Reading Freud初回

明るくなってきたと思ったら一気に部屋がオレンジになった。今日はいいお天気みたい。昨日、ちょっと用事を済ませてバス停に並んだらポツリポツリ。降り始めたな、傘借りておいてよかった、と思っていたらどんどん雨脚が強くなってただ真っ直ぐ立っているだけなのにそこそこ濡れた。バスに乗っている間に雨脚は弱まって降りるときには普通の雨の日と同じだった。でもオペラシティに寄ったら人がいっぱい。突然の雨に傘がなかった人たち。新国立劇場で公演があるときとは全く違う色合い。つまり似たようなスーツの人たちがたくさん。みんなGWとはいえいつも通り仕事してらしたのね。仲間仲間。と知らない人を勝手な仲間意識で労いつつ本屋さんを一周してオフィスに戻った。オペラシティの成城石井にもぶらりとして知覧の紅茶を買ってみたけど結局飲まないまま夜まで仕事をして帰ってきた。本屋さんも成城石井も見ているだけで楽しい。

夜は今年度初回のReading Freudだった。5人の女性たちとフロイト『心理学草案』( 『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』 (岩波書店))を読み始めた。初回ならではの緊張感もちょっとよかった。

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。» p5(388)

刊行する気もないのによくこんなもの書くよなあ、と思うが、それならではの緩さが垣間見られて面白い。理論としてまとめてしまうと重要だけど書き方ほどは面白くない。フロイトの思考プロセスの記述の仕方がフロイトってこういう書き方するよね、と思えるのは楽しい。私たちはすでに情報という概念があり、心的装置というものを手に入れた状態からのスタートだからフロイトとは持ち物が全然違う。フロイトからしたら「ニューロンという概念を手に入れた!」というところか「Dr.STONE」のように一歩ずつ、みんなで。私たちも逆方向から一歩ずつ、みんなで歩み寄ろう。

今日の初回面接の事例検討グループでも記憶、時間、言語について何か言えるかもしれない。いいお天気だから仕事したくないけどがんばりましょ。今日のNHK俳句は斎藤志歩さんも能町みね子さんも出るのでは?楽しみだ。

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お菓子 イベント 精神分析、本

祭りとかReading Freud「心理学草案」準備とか。

窓を開けたら冷たい風。隙間だけ残して閉めた。曇り空。今日もお天気落ち着かないのかしら。

今朝も秩父の菓子処「栗助」さんの銘菓「まつりばやし」。一粒栗入りパイ饅頭。秩父といえば秩父夜祭。京都の祇園祭、飛騨高山祭とともに日本三大曳山祭りのひとつ。春の高山祭しかいったことない。秩父は行こうと思えば行けるから行こう。祇園祭も行こうと思えば行けるがすごい混雑なんでしょう?行くときは京都の人にお付き合いしてほしいな。高山は何回か行っていて京都ほど広くないからたくさん歩くなかでなんとなくの土地勘ができてる。秩父も多分大丈夫。でも京都は何度行ってもどこもかしこも名所で人が多くて、あ、そうか、人の流れが読めないから躊躇するんだ、多分。祭りのときってある程度人の流れがあって、あそこを抜ければ一気に静かになる、みたいなのがあると思うけど祇園祭ってどこ行っても人のうねりがありそうなイメージでビビるのね、多分。でも一度は行きたい。

私のオフィスで月一回やっているReading Freudが今年度も始まる。今年度は『心理学草案』。使用するのは岩波書店『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』の翻訳。参考文献はジェームズ・ストレイチー『フロイト全著作解説』 (北山修監訳・編集 笠井仁/島田凉子他訳、人文書院、2005)とジャン=ミシェル・キノドス『フロイトを読むー年代順に紐解くフロイト 著作』 (福本修監訳、岩崎学術出版社、2013)。今年度は新しいメンバーを迎えてキチキチだけど継続的にフロイトを読んできた人もいるし、それぞれ臨床しながら系統セミナーもこなしてきた人たちだから色々議論できるといいな。そのために勉強していたのだけど以前はこれもビビっていたのか難しい難しいと思っていたけど今は楽しい。その後の理論の展開を知っているからエキサイティングなんだろうね。草案は英語でproject。プロジェクトというと急にイメージが変わりませんか?フロイトのこのプロジェクトは頓挫するけど種まきプロセスとして超重要な局面になった。記憶をどう説明するかって話、とざっくり捉えるとわかりやすさはあるかもしれないけど、私たちはあくまでフロイトの臨床的な視点を忘れないようにしたい。この論文の背景に驚くべき症状を示す患者がいたことを。「草案」に事例は登場しないので『ヒステリー研究』と同時に読むのもいいかもしれない。

というかReading Freudの準備と発表原稿作り、両方しようと思っていたのに勉強しかできなかった。明日は初回面接の事例検討会とかあるけど夜にできる、と思いたい。一度に色々やるのってすごく苦手。最初からひとつ終えたら次、って着々とこなせばいいのだけどメインの仕事(=臨床)以外ではすぐ頭の中が煩雑になって優先順位もわからなくなってしまう。厄介厄介。でもこの厄介な身体と頭でこんな歳までやってきたのだから信頼していなくもない。みんないい一日になりますように。

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お菓子 読書

曇り、永瀬隼介『一家四人惨殺犯の告白 19歳』の完結版、栗助、パンダ

雲が広がっています、とテレビの天気予報がいっている。仙台。名古屋。東京も雲が広がっているね。雀たちもいつものリズム。「すっきりとはしない天気」という言葉がテレビから何度も聞こえる。

作業が全然進まず頭の中がうるさくなるばかり。困った困った。すっきりしたいが自分次第だから難しい。いや、自分次第なのだからどうにかなるはず。ああ。読書なら隙間時間でいくらでもできるのに。前に本の内容については書いたけど永瀬隼介『一家四人惨殺犯の告白 19歳』の完結版が光文社から出た。解説が高橋ユキさんなので読みたいけど角川文庫版を持っているからなあ。ノンフィクションはフィクションよりずっとありえない。現実に起きているのはこっちなんだけどフィクションでこれを書くのは相当難しいと思う。唖然とすることばかり。日本の法制度について知ることも多い。朝から読む本でもないが、こういう事件に朝も昼も夜もない。感覚も判断も狂う。著者が死刑囚と会った後に倒れて大怪我を負ったエピソードも強烈だ。全てが淡々と書かれているが全てが凄まじい。「現実」について昨日も何か考えていたのを今思い出したが内容を忘れてしまった。

今朝は秩父菓子処「栗助」の看板商品「栗助」。ここのお菓子は何度かもらったことがある。栗助も何度目か。栗がまるごと一個どーん。ミルク餡も皮も美味しい。というのをロシアによるウクライナへの攻撃の映像を横目に書いているのもなんだか嫌な感じだ。

そして和歌山のパンダたちのニュース。驚いた。彩浜ちゃんが生まれたときと、どうしてもお名前を思い出せないのだがそのあとにも赤ちゃんパンダを見にいった。映像で成長も追っていた。アドベンチャーワールドのみなさんはどんな気持ちだろう。突然決まったことでもないだろうけどパンダも現場も外交に振り回されるのか。辛い。

私は私で今日はせめてやるべきことを勧められたらいいが。お天気と同じ気分。がんばりましょ。

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散歩 読書 音楽

鳥、GreenDay、瀬尾まいこ『その扉をたたく音』

早朝家事完了。曇ってるけど少しだけ洗濯物を外に出してお掃除。花粉も落ち着いてきたかなと思って。雀がどこかそばで一定のリズムで鳴いている。ベランダにくればいいのに。いいものがないからこない?餌ってことだよね。うーん。昔はベランダで植物置いていたのだけど日差しが強すぎたり風に弱かったりで置かなくなってしまったからねえ。鳥たちには魅力ないよね。近所の角の家は小さな庭に中くらいの木が何本かあってこの春はじめてそこに巣箱が設置されていることを知った。今までなかったと思うのだけど。そこは柿も夏蜜柑もなって私にも魅力的なのだから鳥にはもっといいのだと思う。カラスはゴミの方に行ってしまうせいかそこでは見かけない。以前はその家のそばの別の角に大きな家があってそこの高い木にカラスが巣を作るから駆除の人がきていた。絡まったハンガーを取るのはとても大変そうだった。奄美大島に行ったときは、金網でできた大きなゲージにカラスがたくさん捕まっているのを見た。畑への被害が大きいからと聞いた気がする。共存って実はとても大変だ。

昨晩、瀬尾まいこの『その扉をたたく音』に出てくるGreen Dayの曲を聴いていたら、さっきネットでGreen DayがHollywood Walk of Fameの星をGETと出ていた。まだGETしていなかったんだねえ。おめでとう。私にとってGreen Dayは若いバンドで少し下の世代の男の子たちがバンドでやっていたと思う。彼らももう大ベテラン。若いバンドというのは彼らの音楽自体にそう感じてきたからというのもあるかもしれない。瀬尾まいこのこの小説はいろんな曲が登場するのも楽しくて懐かしくて関わることの良さと切なさを感じて泣いてしまう。実際はこんなこと、なんて小説に思う必要なし。小説ってそういうものだし関わりの要素でいったら実際にこういうものはあるのだから。別の文脈でちょうど『そして、バトンは渡された』も話題になっていたし瀬尾まいこを一気するのもいいのではないか。他人の生活にあれこれ首突っ込んだところで事実なんてわからないし似たような言葉しかやりとりされないけど小説は豊かに気持ちが動くよ。

とかいっているうちにもう四月後半になってしまった。どうしましょう。がんばりましょう。部屋が光でいっぱいになってきたけど今日は曇りらしい。あ、日中は晴れるみたい。蒸し蒸しするって。湿度が高くなってきたのね。なんか周りで風邪をひいている人が多い。気をつけて過ごしましょうね。連休楽しめるように予防予防。良い一日になりますように。

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精神分析

駒テラス西参道、朝ドラ

昨晩は雨の音がしたり風の音がしたり空が荒れていた。今朝は時折風がうねるけど静か。雨も止んでいるように見える。

昨晩はいろんなニュースを見て疲れたところに羽生善治が会長を務める将棋連盟の制度変更の話。最近、こういうニュースをどう判断すればいいのかよくわからなくなってしまった。で、女流棋士について調べた。が、よくわからない。羽生さんは2023年に駒テラス西参道も作ったし、門戸を広げることを実際にやってきた人。でも羽生さん一人でいろんなことが決まっていくわけではないだろうし。多分すごく大変な組織なんだと想像するけど羽生さんの穏やかな話し方はすごいと思う。駒テラス西参道は私のオフィスから明治神宮へ向かう西参道沿いにある。明治神宮といえば表参道駅だし、参道といえば副都心線には北参道がある。西参道はとってもマイナー。でも西新宿のホテルから明治神宮に向かう外国の人たちはたくさん見かける。小田急線参宮橋駅が最寄り。参宮橋駅そばには美味しいパン屋さんが2軒、桜と薔薇の綺麗な公園もある。そこに駒テラスが加わった。高速道路の下のスペースの有効活用。灯籠も新しくなり西参道交差点に至るまできれいに整備中。ベンチも多く語らいの場となっている。これからは気持ちよく外で過ごせる日が増えるだろうからとてもいいと思う。駒テラスは子供たちの遊び場にもなっている。新宿中央公園の子供広場は小さい子たちが多いけど、ここは小学生が多い。すごいスピードとエネルギーで遊んでいるのを見かける。こじんまりしたカフェもあるし、将棋のイベントも多い。私も超初心者用のに参加してみようかな。デイケアや教育相談や小児科で何回もみんなに将棋を教わったけど全然できるようにならなかった。今の子供たちは将棋はやるのかな。どうして彼らはあんなに将棋を知っていたのだろう。小さい子の文化も変わるね。今私が子供や若者たちから耳にするのは圧倒的にYouTube、Vtubeの話。ラジオ文化は今何歳くらいの人までだったのだろう。私が若い頃は雑誌とラジオが情報源でありコミュニケーションツールだった。カードもレターセットもたくさん集めたのに最近全く使わなくなってしまった。かわいいのがたくさんあるのになあ。

テレビも変わりつつあるのだろうけど顕在かな。昨日の朝ドラ「あんぱん」もとってもよかった。ちひろくんがお兄ちゃんの腕を掴む手にあたる光と影がとても印象的だった。あとはのぶの相槌のうまさ。ただ聞くだけではなくて自分の気持ちがどう動いたかが声にのる。言葉ではなくて。思いやりっていうと曖昧な言葉だけど相槌に出る思いやりはいいなと思う。これから戦争の時代に突入していく。青年である彼らが呑み込まれていく世界がどんなものか映像で知っている私にももちろんなすすべもない。実在の人物をモデルにしたドラマは常に批判も多いけれど、その人そのものを描いたわけではないところにどこにも記録されていない多くの人たちを登場させる余地ができるわけだから私はそれを楽しんでいる。見ている側として想像力を発揮したい。

東京は光のない空。ほかの地域はどうかな。どうぞ良い一日を。