さてアンナをみつつぼんやり“Key Ideas for a Contemporary Psychoanalysis Misrecognition and Recognition of the Unconscious” By Andre Green がどんな本だったかをチェックしていた。2023年12月にも読んでいた時期があったらしいが全く覚えていない。今回は原書のフランス語版にむけて書かれたペレルバーグの書評Jozef-Perelberg, R. (2005) Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine d’André Green. Revue française de psychanalyse 69:1247-1261をみつけたのでそれも読みつつ目次を確かめつつ、今読むべきところを探ってみた。フロイトの「否定」論文は何度も読むべきものだけど、その「否定」では表せないだけでなく、精神分析実践ならではの心の動きを示すのがグリーンの「ネガティヴ」という概念だと思う。ネガティブはとらえどころがないからネガティブなのであってそれがwork(作業、仕事)できる心かどうかが精神分析プロセスを追うときの大切な指標になる。心とか主体とかあるんだかないんだかみたいなものを想定せざるをえないのはなんらかの動きを感じるということが起きたとき。ふと感じられる主体が現れるとき。時間が動くのとセット。それまで止まっていた時間が。「あれ?どうして今これ思い出したんだろう」「今ふと思い出しのだけど」と不思議そうに現れる気持ちは過去の出来事とつながっている。「あれなんで泣いているんだろう」とかも。過去は単なる時間ではないのだ。情動とくっついて時間として現れる、のでは?時間に関しては今年はベルクソンに加えてポール・リクールを読みましょう。積んであるからね。あとアガンベン。人は生きていること自体が行為になってしまうから色々難しい。さらに言葉も持ってるからややこしい。今年もそんなめんどくさい自分とつきあっていきまっしょい。
次に読むアンドレ・グリーンの本をしつこく探していてLa Clinique du négatifはどうかなあと思ったけど英訳もなく、どの論文が入っているかもわからない。André Green Revisited Representation and the Work of the Negative Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine Copyright 2019はグリーンを引用して何か書く場合に非常に参考になりそう。著者はRene Roussillon、Jean-Claude Rolland、Howard B. Levine and Anna Migliozzi、Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky、Fernando Urribarri、Claudio Laks Eizerik, Lucian Falcão and Zelig Liberman、Marie France Brunet、Talya S. Candi and Elias M. da Rocha Barros、Rosine Perelberg 、Francis Baudry。
ペレルバーグのRepetition, Transformations and Après-Coupだけでも読めないかなと思ったけどpepにはなかった。The Controversial Discussions and après-coup(2008)が参考になるかな。
グリーンはまとめる対象ではなく読み続けるべき対象だなと思ったのでLIFE NARCISSISM, DEATH NARCISSISM. André Green 著(Andrew Weller 訳)London/New York: Free Association Books, 2001, 262頁も買ってしまおうなあ、どうしようかなあ、と思ったが洋書は高いのでとりあえず買わない。こんなだとPEPに高い入会金を払って読み放題にしたほうがいいのかもしれない。IJPジャーナルだって全然読めていないものも多いけど自分が探求するものに関してはお金かけどきかも。こういうのも全部年齢、つまり残り時間との相談になる。すくなくとも若い頃よりは先の短さはたしかなわけだから。でも先生方にはまだまだ長生きして対話をつづけてほしいな。わがままだが。
これは1997年7月29日、IPA第40回大会(バルセロナ)W.R.ビオン生誕100周年記念のオープニングレクチャーをもとにしています。なのでビオンの理論の検討がされています。私が先に書いたことはビオンの”I am, therefore I have thoughts without a thinker which demand a mind to think about them!”について考えるグリーンの言説。
Reading Freudで「心理学草案」(1895)を精読したのでその意義を確かめるべくアンドレ・グリーンの論文を準備したのだが、当初使おうと思っていたより論文よりNEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊である“The Fabric of Affect in the Psychoanalytic Discourse”(Routledge, 1999年、Alan Sheridan訳)のほうがそのままフロイトの初期の著作について書いてあるからいいな、と思い訳し始めた。原著は“Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)。いい題。
Meissner, W. W. (2001)による紹介通り「アンドレ・グリーンは、大西洋のこちら側とあちら側のあいだを首尾よく「翻訳」することのできる、数少ないフランスの精神分析家であり思想家の一人である」。本書で「グリーンは議論の中心を、情動概念に対するフロイトの貢献に据え、その検討はフロイトの主要著作のほとんどを網羅することになる。グリーンは、『ヒステリー研究』(1893–1895)や『心理学草案(プロジェクト)』(1895)における初期の定式化から、フロイト晩年の著作に至るまで、フロイトの思想がどのように漸進的に展開していったのかを丹念に跡づけている」。本体より追記が多い本(実際には三分の一らしいけど)という印象で構成は変だが、最初のChapter 1 Affect in Freud’s Work Evolution of the Conception of Affectはとてもいい。フロイトの著作において織り込まれている情動概念に関する思考の展開を以下の段階に区分。
クーパーの場合、設定を転移の場としてAndré Greenのventilated spacesを引用する。この用語は1975年のIPAジャーナルに掲載されたThe Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D.から。
少し前にここに、アンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practice by Andre Green French Psychoanalysis、英語版への序文を書いたHoward B. Levineによる説明を書いた。
序文はLimit cases, transformation, and the ordeal of the session: André Green’s extension of Freudian theory。そこにはこう書いてある。
さて、この用語が使われたグリーンのThe Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D.(「分析家、象徴化、そして分析設定における不在」、1975年)はIPA 地域間精神分析百科事典(IRED)日本語版の「設定」の項目でも参照されている。とてもいい論文で、私は幸運なことに勉強会で訳を共有していただいているのでまた読み直そう。ventilatedのところは忘れていたし。ちなみに「設定」に関しての基本論文はBleger J. (1967). Psycho-analysis of the psycho-analytic frame. International Journal of Psychoanalysis 48:511–519. IREDでもそうだが「設定」を論じるなら必ず参照されていると思う。
ちなみに読んでいたのは The psychoanalytic frame: Its internalization by the analyst and its application in practice。クーパーの「設定」とは全く違う「枠組み」のお話。この論文は Contemporary Psychoanalytic Practice(2012,Karnac)とThe Freudian Matrix of André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century(2023, Routledge)の両方に入っているのもややこしい。重要論文だからなのだろうけど。これらはどっちもそんなにややこしくないいい本だと思う。グリーンの好き嫌いだけ知っておけば、難しいけどややこしくはない。
毎日少しずついろんなものを訳しているのでそれを整理しようと思ったら間違ってコピペしたりでかえってわからなくなってしまった。複数のことを同時にできないからあとがどんどん大変になる。落ち着こうと思って読み慣れたオグデン(Thomas Ogden)の最新刊“What Alive Means”(2024、Routledge)のCh6 Like the Belly of a Bird Breathing On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”を読もうとパソコンを開いた。これは2023年Int. J. Psychoanal., (104)(1)に掲載されたもの。オグデンがウィニコットをクリエイティブにリーディングするシリーズのひとつで、14本目と書いてあったと思う。ウィニコットのalivenessを探求しつつ発表もしてきた私には欠かせない論文なのだが、それを精読するオグデンも細やか。私はいまだにたくさん辞書をひかないと英語読めないのだけど(しかも覚えられない)機械翻訳を使いながら読んでも「え、なんでこの言葉使ったの」とひっかかるところがあって、そういうとここそ面白いと知っている。言葉ってきちんとひっかかるようにできてるよね、と思いながらもまたそこに時間がかかるのでいくら時間があっても足りないが、継続してきたことでいろんなつながりがみえてきたのが嬉しい。アンドレ・グリーンを読んでいると宇宙を指さされながらなにか聞かされているような気分になるが、オグデンは「ばけばけ」のおトキちゃんとヘブン先生が怪談を語り、きくという構図と似ている。わからない言語をなんどもなんども聞いているうちに雰囲気で分かってくる感じもいい。ほんとうはなんども聞いているから雰囲気ではなく言葉の要素を理解できるようになるからだけど雰囲気という言葉でふんわりさせるのもいい。いい、いい、言っている場合では全然ないのに月曜日が始まってしまった。なんとかなりますように。とりあえず体調きをつけて過ごそう。みなさんもお大事にお過ごしくださいね。
と書くのは、子供の心理療法について書かなければだからで、昨日は少し書けたが、その数日前に書いたものとの整合性がなくなってしまった。やっぱり途中にオラニエ(Piera Aulagnier)Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementを読んだのがいけなかった。オラニエは最早期の心の生成を複数の水準で描き出そうとしたわけだけど、オラニエの描写する赤ちゃんってクラインの描く赤ちゃんとは別の感じで辛そうなのが辛い。ウィニコットやグリーンは死せる母について書いたけど、オラニエは母の中で死んでいる子供を書いてる感じ。精神病の精神分析の長年の経験がオラニエに心の原初まで遡らせる強いモチベーションを維持させたのだろうけど、ウィニコットの主観的対象と同じく、心の原初を描くにはどこかで何かしらの形を想定する必要がある。そしてそれをあくまでその後に続く運動と連動するものとして捉えながら描く必要がある。事後性の概念はそれに貢献するし、欲動理論もここに役立つ。アンドレ・グリーンはその種まきをたくさんしてくれたと思う。オラニエもラカン発の分析家ではあるが、オラニエが基礎に置くのは身体と欲望。方向性としては母がカッコ付きの「私」を見出すというより、私が母になることで「私」になるという感じか。とか考えていると、そこまで書いていたものに揺さぶりがかかってしまうから書けないんだな。隙間時間にやるのだから別のものは入れずにとりあえず一気に書き上げないといけないのだろうけど。すぐ何考えてたか忘れてしまうし。うーん。賢い人が羨ましいが、そういう不足は継続によって補うのが吉、と思っているのでなんとかがんばりましょう。がんばれますように。
Elias Mallet Barros(2000)、Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life. 読み始めたと書いたが、関連文献を色々読んでいるうちに誰が何を言っていたのかわからなくなってしまった。バロスのことはジョン・スタイナーがメラニークライントラストのウェブサイトで紹介しているのでそちらを参照。バロスは英国精神分析協会でローゼンフェルドたちから訓練を受け、ジョン・スタイナーたちと仕事をしていた人。その後、ブラジルに帰ってサンパウロ精神分析協会でもIPAでも活躍。クライン派の仕事を南米に紹介した人のひとり影響が強そうだけど、私が今年最も引用したボテラ夫妻、アンドレ・グリーン、アントニーノ・フェッロ、トーマス・オグデンの引用も多い。英国で訓練を受けてきた日本のクライン派の先生方もそうだけどその土地の精神分析文化に馴染んだ人が翻訳によってそれらを伝達してくれることのありがたさたるや。バロスがこの論文で依拠する主たる分析家はAulagnier, Bion, Ferro, GreenそしてKhan。
バロスが参照するピエラ・オラニエ(Aulagnier, P)の1975年の著書 La violence de l’interprétation. Du pictogramme à l’énoncé の英語版The Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementを英語に訳したのはAlan Sheridan。ラカンを英語で読める形にした最初の(エクリはその後フィンクが英語で全訳出したけど)翻訳者。フーコーとかも訳している。オラニエのThe Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementには訳者のノートもあってporte-paroleをword-bearerと訳したのはなぜか、ということなども書いてあった。言葉の字義、精神分析における文脈、著者の造語の傾向、英語圏での誤読の回避などいろんな目配りが必要な仕事。オラニエがどんな人か知らないのだけど概念と言語と精神病の間で生じる緊張をここまで言葉にできるのはものすごいことだと思う。英語にしてくれてありがたい。フランス精神分析の基盤を持つ人に日本語にしてもらえたらもっとありがたい。オラニエもAlan Sheridanの訳注を引用していたし信頼関係があるのだろうな。大変だけど素敵な仕事。
昨日はElias Mallet Barros(2000)、Affect and Pictographic Imageを少し読み始めた。ピクトグラムの論文。精神分析でピクトグラムというとフランスのピエラ・オラニエがオリジナリティを発揮。主著はAulagnier, P. (1975). La violence de l’interprétation. Du pictogramme à l’énoncé Paris: Presses Universitaires de France. 英語版はThe Violence of Interpretation: From Pictogram to Statement, trans. A. Sheridan. New Library of Psychoanalysis. London: Routledge, 2001.これは持っていて部分的に訳してあったのでそっちも参照。本当はオリジナルの概念は用語集や辞書を参照してから中身に取り掛かるのが一番いいと思う。Reading French Psychoanalysis Edited By Dana Birksted-Breen, Sara Flanders, Alain Gibeault(2010)のGlossaryにあるPictogram [pictogramme]もよくまとまっている。昨日はそれを見直そうと思ったのに別の紹介を読んでしまったので時間を取られたLa pensée clinique chez Piera Aulagnier Matinée scientifique de la S.P.R.F. du 11 avril 2015 Conférence de Cathie Silvestre 。2015年4月11日S.P.R.F.(Société Psychanalytique de Recherche et de Formation, Psychoanalytic Society for Training and Research)の会で行われたCathie Silvestreの講演記録。「ピエラ・オーラニエにおける臨床的思考」。これが長くて難しいのだけど結構面白くて一生懸命理解しようと真剣になってしまった。PCの画面に目を近づけすぎてた。近づけなくても老眼鏡のおかげで読めたのだけど目に入れる情報を少なくしないと理解できなかったから。ピクトグラムは人間の心が対象や環境と近づく運動の中で最初に現れる原初的形態といえる。表象なんだけど表象以前という感じ。これも訳したら勉強会で共有しよう。勉強も関心を共にする人たちと協力しながらやると広がりも深まりもあっていい。基本的には孤独な作業だからこそ支えが必要。べらぼうと同じ(余韻に浸っている)。
昨日、仕事を終えてもう今日はなにもできない、と脳内で弱音を吐きつつiphoneのKindleアプリのマークを眺めていたらメールがきた。The International Journal of Psychoanalysisから。新しいジャーナルが出るとくるお知らせメール。スタイナーの論文の紹介から始まってて少し元気が出た。知っている名前が出てくるだけで少し嬉しい、とざっと見たらLetter to the EditorのセクションでMarie Lenormandがオグデン(Thomas Ogden)の最新論文、Inventing psychoanalysis with each new patientに対してコメントしていることを知った。そしてそれに対するオグデンの返事も読めることがわかった。PEPを開いて早速読んだ。私はこのLetter to the Editorのセクションが好きで、今回は私もインパクトを受けた論文に対するコメントだったのでなおさら興味深く読んだ。結構強い言葉で批判しているなと思ったが長いのでオグデンの応答を先に読んだ。簡潔にして的確。レノルマンって読むのかな、Marie Lenormandはウィニコットについての論文で読んだことがある気がする。この二人はウィニコットの読み方も対照的なんだろうなと思った。オグデンの論文は訳してあるからもう一度読んでみよう。こういう対話があると論文の理解が深まる。
French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目、André GreenのContemporary Psychoanalytic Practiceの第6章、The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだと書いた。昨日はCHAPTER 7 Sexuality in non-neurotic structures: Past and presentを読んだ。ここでグリーンは自分の論文”Has sexuality anything to do with psychoanalysis?” (Green, 1995)を引いているが、両方読むと理解が深まると思う。グリーンの問題意識は以下から始まる。
青と黒の、というのは本が入っている箱のことで中の本はグラシン紙に包まれていた。黒か茶色の本。昔はそうやって色で呼ぶことが多かった気がする。赤い本とか。ちなみに私が大好きだった本は「黒いチューリップ」。単に色が好きなのかもしれない。デュマも知らなかったし何も知らず何度も読んでいてはじめて行った海外であるサンディエゴの州立大学の図書館でも探した。そのまま今調べてもthe black tulipでそのままの英語なのに見つからなかった。私は当時どんな言葉で検索をかけていたのか。もう30年以上前の話だけどあの図書館、検索ができた気がする、そういえば。それともコンピューターでの検索ではなかったから調べ方が十分ではなかったのかもしれぬ。覚えていない。
さてContemporary Psychoanalytic Practice by Andre Green French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Seriesの一冊目、グリーン自身がウリバリとの対話の中で選出した論文集。英語版への序文は The series editorでThe Freudian Matrix of André Green序文”Why Green?”もよかったHoward B. Levine。
その序文、Limit cases, transformation, and the ordeal of the session: André Green’s extension of Freudian theoryの一部訳を置いておく。
先日、読書会でThe Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの第7章(邦訳だと第6章)Time and the après-coupを読んだと書いた。そこで引用されていた英国精神分析協会の訓練分析家、Rosine Jozef Perelbergのウェブサイトをみていた。ペレルバーグは2023年に精神分析と社会人類学の創造的対話構築による時間性・セクシュアリティ・反ユダヤ主義への取り組みに対してシガニー賞を授与されている。ダナとペレルバーグの共通点は精神分析の古典を網羅的に精読しつつものすごい知識と現代的な視点でそれらを外に開く努力と知力にものすごく秀でた精神分析家であるということかな。
ダナのaprès-coup論文でペレルバーグが引用されるのは彼女がシガニー賞を受賞した理由からも明らかだと思う。ペレルバーグのウェブサイトにKey Conceptsのページがあるがその一番上にAprès-coup, Descriptive and Après-coup, Dynamicの説明がある。いつも通りざっと訳しておく。大変簡潔にまとまっていて文献の紹介もあるので自分で勉強しやすいと思う。ダナの本のaprès-coupの訳は「アプレ・クー」だが翻訳の工夫と苦労が滲み出る訳書。「アプレ・クー」を含むいくつかの訳語については訳者の説明が丁寧になされている。私としては意地でもダナのいうaprès-coupを単なる「事後性」とは異なるものとしてカタカナではなく日本語に変換したいがどうしたらいいものか、ということでペレルバーグの訳には一応定訳である「事後性」を用いた。ペレルバーグのように事後性の前に説明をつけるのがいいと思う。ダナの場合だったら「遂行的事後性」「創発的事後性」とか?ベルクソンを思い浮かべながらそんなことを考えた。
>事後性(Après-coup)――記述的事後性と力動的事後性
infant(乳児)とは過去の赤ん坊のことであり、個人の発達の中で観察可能な存在である。 一方フロイトによれば、infantile(乳児的なるもの)とは、大人の内部にいる子どもであり、構成(construction)の過程を通じてのみ到達することができるものである。 乳児は観察の対象となりうるが、乳児的なるものは、事後性(après-coup)の過程の中で分析家によって再構成されるものである。 この主題は、ペレルバーグの最初の精神分析論文(1991年、ブエノスアイレスでのIPA大会にてチェザーレ・サチェルドーティ賞受賞)の中心でもあった。 その研究は、2008年刊行の著書 『Time, Space and Phantasy』 へと結実した。 ペレルバーグは 『The Controversial Discussions and Après-Coup』(2006, 2008)の中で、次の区別を提案している。記述的事後性(descriptive après-coup)セッションの今‐ここにおける、事後的理解を指す。力動的事後性(dynamic après-coup) フロイトのメタサイコロジーに深く埋め込まれた概念であり、反復強迫、性(sexuality)、時間性(temporality)、そして転移といった概念のネットワークを含意している。
昨晩は、アンドレ・グリーンの関連でJean Guillaumin(1923-2017)とBernard Brusset(1938-)のことを調べたり動画を見たりしていたら眠ってしまった。ふたりともSPPのメンバー。グリーンはThe enigma of guilt and the mystery of shameで羞恥心に関する7つの説明をしているが、そこに登場するのがこの二人。ついでだからそのなかの3つをご紹介。こんな感じ。いつも通り正確には原文をご参照あれ。
数ヶ月に1回、女性精神分析家たちで女性の精神分析家の本を読んでいる。昨晩はThe Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-BreenのChapter7 Time and the après-coupを読んだ。最近、翻訳が出たのでそちらに助けられながら。日本語でも難解で英語と行き来させることで考えを巡らせ、みんなと話し合うことで言語化をがんばった。良い聞き手は良い仲間。
アンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practice chapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameを訳したものがshame以降がなくなってしまった。コピペではなく切り取ってペーストしようとしていたのを別の作業で忘れてしまって切り取られたまま消えたに違いない。これまで何度もやっている失敗。そんなにきちんとした訳ではないとはいえ結構苦労したのになあ。グループのみんなにも共有したかったし。フロイトを精読するアンドレ・グリーンは「心理学草案」にもしばしば言及し、引用するし、精神分析の未来についても実践的に考えているから読むべし、と思っているのだけど伝える側になってきた私がこれではなあ。色々注意していても不注意を注意するには限界がある。とりあえずやれるかどうか手を動かしてみよう。
ということで私はほぼ毎日なんらかの事情でフロイトを読むわけだが、最近はアンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practiceのchapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだことでいつのまにか超自我の起源について考え始め、フロイトが晩年、いろんなところで書いている超自我についての記述を読んでいた。超自我は罪悪感と恥の起源でもある。ここ数日、ここにメモした分もそうだけど昨日はフロイト全集22所収の『モーセという男と一神教』における記述を読んでいた。フロイト最晩年のもうこの時期になると教科書に書いてあることの確認という感じでサクッとまとめられている。この論文は最晩年のものと言われているけど1934年には大体書き上がっていたらしい(その後、大幅に修正)と編注に書いてあった。どちらにしても癌とナチスに脅かされる日々に書かれたものだ。晩年のフロイトの日々は『フロイト最後の日記 1929〜1939』から窺い知ることができる。膨大な量の論文の濃密さに比べると日記はメモ程度のあっさりしたものだが、残虐な歴史に巻き込まれた一個人の記録としても非常に重要だろう。
昨日は『新・精神分析入門講義』第三一講 心的パーソナリティの分割を読んだ。その辺につながる French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series、Contemporary Psychoanalytic Practiceby Andre Green、chapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameの記述はこの辺。適当だがメモとして訳をおいておく。フロイトが罪悪感をいちづけるためにせねばならぬと思っていたことは以下、とアンドレ・グリーンはいう。
a. 罪悪感を、ある審級(agency)にひもづけること
b. それをエロティシズムを超える構造の中に挿入すること
c. それが生じる病理に関係した役割を果たしうることを認め、親のイマーゴ(エディプスコンプレックス)との関係によって解明される人類学的枠組みに配置すること
お勉強メモも少ししておこう。French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目、Contemporary Psychoanalytic Practice by Andre Greenのchapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだあと、そこで引用されているフロイト論文も読んでいた。アンドレ・グリーンのこの論文はそのまま訳せば「罪悪感の謎と恥の神秘」ってとこかしら、ということでまず罪悪感に関する、つまり超自我と同一化に関する『続・精神分析入門講義 第三一講 心的パーソナリティの分割』( Chapter XXXI of the New Introductory Lectures, “The dissection of the psychical personality”)を読んだ。ここは『自我とエス』に書かれている部分だからなじみやすい。
昨日Giuseppe Civitareseの『The Hour of Birth: Psychoanalysis of the Sublime and Contemporary Art』のメモを書いたが、そこにでてくる絵や作品のリストが試し読みでみられた。本の表紙はAlfred Kubin, Die Stunde der Geburt [The Hour of Birth], Leopold Museum, Vienna。アニッシュ・カプーアは金沢でみた作家ではないか?いろんな作品がみたいなあ。
そして先日読んだと書いたFrench Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目であるアンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practiceを読んでいると書いたが(書いたか?)最初に読んだThe enigma of guilt and the mystery of shameはグリーンにしては珍しくフロイト精読の跡がわかりやすく追えた。答えを出さない書き方がグリーン流とはいえ、皮肉とか脱線とか書き方が自由すぎて難解なのがいつも。この論文はテーマは難解だが書き方に苦労させられることはなかった気がする。この論文でもフロイトのナルシシズム論文が引用されているが、短い論文なのに影響力大きい。私もこの論文に触発されて発表も続けているからよくわかるけど。コンラッドの「ロード・ジム」が引用されれいるのもいい。
いけない。早朝からテレビ三昧してしまった。ので、時間がない。メモだけしておくと昨晩流れてきたGiuseppe Civitareseの新刊(だと思う)『The Hour of Birth: Psychoanalysis of the Sublime and Contemporary Art』が面白そう。チヴィタレーゼはイタリアの精神分析家。日本語だと『もうひとつの精神分析入門: こころというフィールドとの出会い』が訳されている。アントニオ・フェッロとの共著だと思う。