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2026年3月11日(水)

2011年3月11日14時46分に発生した大地震は多くの地域に甚大な被害をもたらし東日本大震災と名付けられた。私はあのときお茶の水にある駿台の専門学校の職員室にいた。事務の方や先生方と和やかな時間を過ごしているときのことだった。机の下に潜りこみ激しい揺れがおさまると同時に家族から着信があり短いやりとりをした。その後何時間も電話は通じなかった。その日は卒業式で会場から音を建てて揺れる高層ビルの間を縫って帰ってきた人たちは涙ぐんでいた。私はたまたま一階でみんなと一緒にいられたがいつもいるカウンセラーの部屋は6階とか7階とか上の方だった。少し落ち着いて部屋に行ってみたら掛け時計が落ちて粉々に砕けていた。そのときにすぐ片付けたのか、手伝っていただいたのか記憶がない。一体何が起きているのか、いや、起きていることはアナウンサーが説明をしているのだが、あまりに理解を超えたテレビの映像をみんなで眺め続けた。なにがどうなっているのか全くわからなかった。歩かない距離だが歩けない距離ではないと、夕暮れ前に家に向かった。神保町の古本屋の本が崩れているのをどう感じていいかもわからないままただただ歩いた。毎日スニーカーなのになぜかその日はぺったんこのおしゃれ靴を履いていた。歩いているうちに暖かくなると思ったがあまりに人が多く、ゆっくりトボトボ歩くしかなく寒かった。道路沿いの居酒屋はどこも満席だった。新宿まで着くとルミネのシャッターが降りており、「ああこんなふうになるんだ」と思った。真っ暗だったような気がする。とても感情が平板になっていた。それからまもなくNPOで石巻や三陸に行き、福島の郡山にあった避難所には定期的に食べ物と遊びの出前をした。その頃もまだ気持ちが全く追いついていなかった。その後もいろんな形で被災地へ行き、埼玉の避難所にも定期的に向かった。被災地のことを考えるとボロボロボロボロ泣くようになったのはいつからだろう。被災地のみなさんにも色々なお話を伺った。仮設住宅へ伺ったときもとても暖かくもてなしていただいた。あれはなんだったんだろう。そうじゃない、私なんかがこうしてもらう場ではない、でも自分の非力を思い悩むのも違う、そんな場合でもない。いろんなお話があまりに想像を超えていて優しさに触れるたび、時間差で突然涙が溢れることが増えた。なんてことが、どうしてここで、なんで彼らに、誰に問いかけても答えなんてない。あれから15年、そんな状況をずっと過ごしてきたみなさんがどうかあたたかい場所や心に触れられていますように。

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勉強したり。

明け方、雨の音で起きた。そうだったのか、今日は雨だったのか、と思ったらこのあと晴れるらしい。春のお天気は難しいけど雨は降ってくれないと困る。週末、勉強ばかりでほとんど歩いてもいなかったのでうちに帰る前に近所をちょこっと散歩した。ミモザがぶわーっと咲いている姿を想像しながら歩いていたのだけど立派な椿くらいにしか出会わなかった。毎年近所で見かけていた気がしたのだけどどこか別のところで見たイメージを連れ歩いていたのか。

今度の週末はラカンの鏡像段階、ウィニコットの鏡役割、コフートの鏡転移をめぐって議論する予定。その前にうちわで予習の会をした。福岡のおふたりと。日本精神分析協会には東京支部と福岡支部があって、精神分析家、候補生、精神療法家、研修生はみんなどちらかの支部に所属することになっている。私は東京在住の東京支部だけど、名古屋や関西の人もいる。福岡支部にも福岡以外の人たちがいるのは同様。セミナーは東京で開かれることが多いが福岡支部のみなさん、早朝の飛行機でやってきて夕方の飛行機で帰って普通に忙しく仕事しているのだからすごい。私はコロナ以前の候補生なのでいろんな地域からやってくるみなさんと直接交流ができて、精神分析家になった今もそういうつながりにとても助けられている。小さいグループで同じもの目指して勉強しあえるってとても幸せなこと。哲学をする、というのとは違って実際に人と会う実践を積み重ねながら学問としての精神分析を探求できるのは楽しいこと。精神分析には絶対に他者が必要。ということを存在の根源レベルで考えるのが鏡像段階からはじまる精神分析における他者や主体の議論。予習会でフロイト『快原理の彼岸』にも「ベイビー、オーオーオーってあるよね」という話になって「おー、そうだっけ、どこだっけ」と確認したら岩波の全集65ページの脚注にあった。それぞれすぐに開ける本が様々で私よりずいぶん若い方が一番古いフロイトの訳本をもっていたりして面白かった。人は他者と出会うことで自分のイメージと出会い(自分そのものと出会うのは不可能といえる)、他者の不在とも出会う。ないものをあるとする、あるものをないとする、私が実践においてもっともインパクトをうける人間のこころがもつこの作用、なんであってもそれは必要とされる作用であり作業であると捉えるのでそこにまきこまれつつ、自分にも同型のものをみいだしつつなにかが腑に落ちるのをまっているような仕事だがそこにわかったふりをもちこむと台無しになるのでそれは気を付ける。非表象領域というものがあり、そこに侵入すべきではないということをウィニコットは晩年明確に述べているが、だれもがもつその曖昧な領域は必ず侵襲された体験の痕跡を持っていると考えるのも精神分析であり、それは分析状況で反復されるだろうと考えるので、やっぱり技法なくしてはできない仕事だなと思う。精進せねば。枠組みを守るのだってほんと一筋縄ではないのでそれもがんばらねば。ああ。大変だのう。みんなでがんばろう。

まだ雨降ってる。いつやむのだ。ずっと部屋にこもってる仕事でも窓の外は明るいほうが嬉しいな。雨は大事だけど(と戻る)。まあ、どんなでもなんとかやっていきましょう。いいことあるといいですね。

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心身症論文を読んだり。

少し明るくなってきた。最近また皮ふの調子が悪くて起きてしまった。結局薬に頼る。周りに勧められたことはわりとなんでも試してみるほうだが、それでどうしてもだめなら薬、というほど慎重でもないので薬はなにかと併用する。皮膚科の先生もこれじゃ辛いから薬が効くならのんだほうがいいですよ、とごく真っ当なことをいってくれる。私も医師と連携して仕事をすることが多いので薬の話はしょっちゅうきくが、それは薬そのものの話ではなく、薬の使用(不使用)をめぐって語られるその人の身体や他者に対する考え方だったり、そこから立ち上がる様々な関係性の話だったりする。身体症状の話もそう。

昨日はAndré Green Revisited Representation and the Work of the Negative Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine(2019)のChapter 4. Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky: Green’s Theory of Representation Revisitedを読んだ。フランス精神分析における心身症に関する論文。アンドレ・グリーンの用語自体には慣れてきているが毎度咀嚼には時間が必要で、ほぼ寝ているような時間もあったが、グリーンのスーパーヴァイジーの事例だったので「ああ、こういうことかもしれないな」とつながりは発見できた。精神分析の事例というのは患者と治療者とそれをめぐる人たちのものなので(物語ではない。物語という人もいるが)症状の理解は当然必要だが、それぞれがなにをみているかをとらえようとするこちらも事象をミクロに分解しつつ、ガラッと視点を変えてそれらにまとまりを見出すことが必要になる。意識的にできるのは前者だけなので後者は自分が精神分析によってそういう体験をすることが必要だが。私は訓練を通じて精神分析の文献の読み方は大分変わったと感じる。わからなさに耐える力もものすごくついたというかそれがデフォルトになっているので「わかる」方向に進もうとする場ではひとりだけ時間が止まっているようなときもある。ガラッと視点が変わる作用を生じさせるのは精神分析でいえば「解釈」。またはそういうものを「解釈」というというのか。自分がガラッと崩れるような解釈を体験することはそう簡単ではない。精神分析の場合、誰かのひとことで人生が変わる、みたいな体験とはまた別で、長く積み重ねるプロセスの先にふたりの間(間というのはあまりしっくりきていないけど)で形をえるものなうえに、それを言葉にするかはまた別の問題、しかもガラッと崩れたり、視点が生じたりするのは患者だけではない。先にそれが生じているのはすでにその経験をしている治療者のほうだといっていい。そのずれがないと自分と自分でないものを区別するプロセスも生じないかもしれない。そういえば昨日の論文にprojective reduplicationという用語がでてきてよくわからなかったが、投影によって自己の表象が二重化すること、つまり自他の区別を曖昧にするメカニズムが心身症にはあるのではないかというマルティらの仮説として理解した。これ自体は主要な概念ではないからこだわることもないのだけど、自分と自分でないものの区別がいかに困難かは日々臨床で感じているのでそこに関わる状態は気になってしまう。心身症の場合は、同一化になんらかの困難があって過剰適応したり、その分、内的な体験を語ることが難しく、身体にまつわる語りに終始したりということはある。パリ心身症学派のPierre Marty、Michel de M’Uzan、Michel Fainらに対してグリーンがいいたかったことはあまりよくわからなかったし、事例もこれは心身症といえるのかなというものではあったが、非表象領域の表象化プロセスの論文であることを考えれば心に区分ができていくプロセスがずっとそこにあったであろう「もの」や「こと」に定位置を与える描写は、この人の身体もようやく地理的な混乱(メルツァー)を抜け出しつつあるのだろうなと思わされた。

今朝は山梨県都留市の「ならや」さんのおみやげ「お菓子とうふ」をいただいた。今週もがんばろー。

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土居健郎『精神療法と精神分析』とか。

いいお天気。今日は事例検討会と勉強。確定申告をおえても全然楽になっていない。勉強は難しいし眠くなる。

土居健郎『精神療法と精神分析』についてはいろんなところでなんども話しているが、再読するたびにやっぱりすごくいいなと思う。薬も器具もなく身ひとつでやる精神分析が押さえておかねばならない治療者としての態度が丁寧に書かれている。この本では「構造」と「過程」にわけて様々な態度や技法が記述されている。私はこの本を訓練に入る前のスーパーヴァイザーに紹介されたし、土居健郎の言葉は間接的にたくさんきいてきた。「、と土居健郎がいってた」というふうに。それは本当にそうだなということばかりで、実際の困難も体験して、ここに書かれていることがある程度当たり前に実践と繋がってくると今度はこうやって伝達するようになるんだな、自然と。これからもとりあえず「まずは第一章を精読して」と伝えていくのが一番いいのだろう。土居健郎の日本語は平易なのに読みごたえがあるし、引用されている作品も共有したいものばかりだから。

特に構造について書かれている第1編の第1章は私がスーパーヴァイザーとしてスーパーヴァイジーに伝えていることばかり。スーパーヴィジョンは「反省」をする場所ではないというか、もしそれを自分の問題と考えるならそれはここではなく自分の治療の場で扱うことなのでとりあえず反省ばかりするのはやめようといっている。とにかく患者に対してなにをしうるかを考えるために私たちは協力して考える必要があるんだよ、ということをよく伝えている。土居健郎はそれをきちんと書き言葉にしている。なのでこの本は必読にしたい。

ハクモクレンが一気に咲き始めてとてもきれい。今日もいい一日になりますように。

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土曜朝

暗い時間から挟間美帆。夜明けは何時だ。日付が変わってからe-Taxで確定申告を完了。何が何やらだったがどうにかなった。目が冴えてしまったので明日の勉強会用にコフート『自己の分析THE ANALYSIS OF THE SELF』でも読むかと思ったけど途端にぼんやりしてしまった。そんなもんだ。コフート久しぶりだな。最初の職場にいた頃に今はもうない慶應心理臨床セミナーにではじめ、丸田俊彦先生の講義を何度か聞いた。丸田先生は小柄なお年寄りだったが身のこなしがとても軽快でスマートだった。情緒豊かでラッパーのような語りはカッコよくアメリカに長くいた人なんだなあという感じがした。お、今、私のiphoneからはYayennings. こういうリズムとはちょっと違ったかな、丸田先生は。小此木先生が企画していた慶應心理臨床セミナーはこの先生はこの流派なんだー、というイメージを持ちやすい構成になっていた。本当のところはどうなんだろう。英国で訓練を受けてきた先生方はクライン派の講義をされていることが多いし、クライン派の分析家の分析を受けてこられた先生もおられるけど、英国対象関係論というもっと広い括りの中で、その香りや空気を纏ってきた先生方という感じがする。コフートに始まる自己心理学は私の中では丸田先生がはじめで、オリジナリティの強い岡野先生もふんわりそこにいて、その後富樫先生の双子転移、そこから「関係論」という括りのセミナーで吾妻先生もその中心の一人というイメージかな。「自己愛」という訳語は本当にどうにかしたいところだが、コフーシャンたちはなおさらそこにチャレンジしたくなったりしないのかな。私は日本で訓練してきたからどの学派でもないのだけどナルシシズムは理論としても実践としても常に基本的な課題。

明るくなってきた。ここからは早いよね、夜明け。それにしても眠い。少しうとうとしてから準備することにしよう。みんないい1日になりますように。

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EPFとか子育て本とか。

いいお天気。ひどい卵焼きを作ってしまった。弱火にもせずぼんやりしていた。いかん。

昨日はEPF(European Psychoanalytic Federation)によるETEP(End of Training Evaluation Project)に関する論文のことを書いた。EPFは「欧州精神分析連盟」でいいのかな。IPA(国際精神分析学会)の加盟団体である43の欧州の精神分析学会で構成。1966年発足、1969年IPA承認、現在、33カ国に居住し活動する8,000人以上の精神分析家および研修中の精神分析家が在籍、27の言語が話されている、とのこと。2015年末以降、ブリュッセルのRue Gérardに独自のHouseを構え、EPF加盟団体の全会員および候補生に開放。ブリュッセルかあ。いいなあ、というより、そういう専用の場所があっていいなあ。日本の協会は今まで小寺がそういう場所を担っていたけど、日本精神分析協会独自の場所はないもんなあ。日本の精神分析家の多くは自分のプライベートオフィスをもっているけれど、みんなで集まれるようなスペースはない。

とEPFのウェブサイトを見ていたら面白そうな本に出会った。Dear Candidateに寄稿している分析家たちもちらほら。

“Parenting Psychoanalysed: Letters to a Parent”, was published in May 2025 by Routledge and edited by Andy Cohen

『精神分析からみた子育て――ある親への手紙)』 って感じか。Andy Cohen編集。世界各国39名の精神分析家が寄稿。紹介文はこんな感じ。

「本書は、精神分析家39名が親であることについて率直に語った手紙を集めた、これまでに例のないコレクションです。各手紙は簡潔で個人的な語り口で書かれており、専門的洞察と感情的な率直さが融合しています。そこでは、子育てがもたらす予想外の喜びや困難、子どもが呼び起こす内的葛藤、そして多くの子育て本が見落としている隠れた真実が探究されています。この国際的な書物は、母親、父親、そしてケアを担う人々との意味ある対話を開くものです。そして読者に対し、自分の内的世界、心配や願いがいかに重要な意味を持つかについて省察するよう促します。それらは、開かれた、そして誠実なかたちで子育てを行うための重要な手がかりを含んでいるのです。」

寄稿者はStefano Bolognini、Harriet Wolfe、Fred Busch、Michael Diamond、Theodore Jacobs、Eike Hinzeなど。

精神分析は子育てに直接関わる形ではウィニコットくらいしか貢献していないイメージを持たれていると思うのでこういう本はいいかもねえ。読んでみたい。

先日、SNSでthe podcast Talks on Psychoanalysis. “Transience and the prohibition of “Don’t Look” by Osamu Kitayama を紹介した。北山修の「見るなの禁止」もそうだが、そろそろ学術大会に向けて「甘え」理論を復習せねば。あああ。いろいろ辛いが(花粉もね)がんばろう。

モコモコ風に吹かれてた。
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Dear Candidateとか。

きれいな空。昨日のこの時間は雨が上がり始めた頃。職場に着く頃には明るくなって、帰り道に傘を持っている人は少なかった。私も荷物を減らしたくてとりあえずオフィスにおきっぱなしにして外へ出たら月がとてもきれいだった。

昨日はHinze, E. (2015) What Do We Learn in Psychoanalytic Training?. International Journal of Psychoanalysis 96:755-771を読んでいた。2021年にでたDear Candidate: Analysts from around the World Offer Personal Reflections on Psychoanalytic Training, Education, and the Professionにも一章書いているドイツの精神分析家によるETEP(End of Training Evaluation Project) の議論のまとめ。分析家になる途上の候補生(candidate)が訓練の過程で学び、あるいは内在化しておくべき基本的要素の一群が提示されている。

ちなみにDear Candidateはいろんな国のシニアの精神分析家が候補生にむけてメッセージを送る一冊。2021年に出版されてすぐに読んだが(全部ではないが)当時候補生だった私にはあたたかい本だった。どの国でも似たような大変なことが起きているんだな、と思える本だった。日本でアジアンパシフィックカンファレンスが行われたのはいつだったか。この本にはそこでほかの国の候補生たちからきいた「噂」みたいなものも書かれていた。そして様々な問題や困難を経験してきた著者たちのほとんどがいうのはオープンであれということ。おおざっぱにいえば。別の理論、別の言葉、訓練中に出会うすべてのものに対して。IPA “Talks on Psychoanalysis Podcast”では編者のFred Buschがこの本について話しているので興味ある方はチェックしてみて。この本に様々なかたちでかかれている精神分析家になるための訓練で必要なこと、大切なことはIPAの地域の一部門などでこうやって研究され、その成果のひとつがHinzeの論文。これはEPF(European Psychoanalytic Federation)によるもの。

アブストラクトの一部をざっと訳すとこんな感じ。

「これらの要素は、次のような能力として具体的に示される。すなわち、各セッションにおいて患者がもたらす情緒的要求と、それに続いてしばしば生じる情緒の嵐を理解する能力、自由連想の価値を評価し深く理解する能力、中立的立場を保持する能力、転移と逆転移の観点から思考する能力、そしてセッションの中で何が起こっているのか、また自分が何をしているのかを概念的に考える能力である。」

これらがいかに困難かももうすでに知っているが、だからこそ訓練が大変重要になる。IPAの訓練には3つのモデルがあり、国によって重要視されることが少しずつ異なるが、なんであっても精神分析を受けることが最重要とされることに変わりはない。特定の相手との密で長い関係は嵐が起きないほうが珍しい。しばしば思考停止し、言葉をなくしたり混乱したりするその状況をお互いがどう生き延びるか、そのプロセスを通じて思考するということを新しく体験していく、それによって自分とは異なるものに開かれることの意義を知る。そしてそれらをいずれ伝達できるものに変形していく。その作業の成果がDear Candidateのような本になる。循環。悪循環もあるだろうけど、それに気づくことができればなんとかなるかもしれない。いつも不確かだけど体験済みの希望を支えにやっていくような学問ではあるし、これからも日本で精神分析がメジャーになることはないと思う。それでもその意義を伝えられるように実践を地道に積みあげていけたらいいね、と同じ組織にいる人たちに対して思う。

今日も花粉が辛そう。良い一日になるといいですね。


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時代とか年齢とか。

今日も寒そう、かな。空が薄い。三寒四温とはもう言わないか。三寒四温は冬の季語。この時期は寒いといっても冬逆戻りじゃんというより、寒くても春だわね、という気分。梅は散りつつあるし早咲きの桜もピークを超えた。どの段階もきれいだけどね。

昨日の帰りの電車ではフロイトをドイツ語で読んでいた。ドイツ語全くわからないのだけど、フロイトが元々使った言葉から辿りたい用語があったのでDeepLの助けを借りた。DeepLって短い文章じゃないとうまく訳せない印象があるから今回も一文ずつ改行しながら。しっかし、インターネットが全く当たり前ではない時代に子供時代を過ごした身からすると今って嘘みたい。翻訳ツールのおかげでいろんな国の文学に少しでも触れられたりするのも嬉しいし、フロイトがいつどの著作でそれを言ったかをどの言語でも検索しやすくなったり本当にすごいことだなあと思う。なのに、生身の人を殺すことをやめられないのはなぜだろう。世界が身近になればなるほど排他性も際立つのか。人は異質なものに本当に脅かされやすい。

確定申告の作業を今年はあまり嫌々言わずやっているがひとつの場所に保管しておいたレシートたちがいつのまにか複数の場に散らばっているのは何故。君がおいたからだよ、ってそうなんだけど。でも毎年少しずつ一つの場所におく、かつそれがどこかを覚えておく(見える場所においておく)という課題の達成率が高まっているように思う。何歳になってもこういう小さいことの改善を目指すものだよ、こどもたち。昔は大人になるといろんなことができるようになるような気がしていたけど全然だった。「大人だから」は特になんの説明でもなかった。そもそも子供が大人になるだけで同一人物内の変化でしかないしね。そんな変わらない心とやたら不調が増えてくる身体とつきあっていく年齢になった、ということ。でもここに書いているような日々のわりとどうでもよさそうな気づきのおかげでなんとかやっているということ。そういうことを知れたのは成長かも。

今日は雨でもいいけど風が強くなりませんように。みなさんの地域はどうでしょう。どうぞよい一日をお過ごしください。

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火曜日

カーテンを開けたら外が濡れていた。まだ夜のような、でも少しだけ紺色が明るい気もする。まもなく夜明け。雨の日でも花粉はいろんなところに潜んでいると聞くが少しはましであってほしい。花粉症の症状はそれほどひどいわけではないがどこもちょっとずつぼんやり不調。筋トレは地道に続けていて、バスケ部時代の無理やりな筋肉とは違ういい筋肉(?)がついてきた。この動きをするためにこことここのこういう動きが必要だからこの筋肉を鍛えるトレーニングをしましょう、って当時やってくれていればケガだって少なくすんだかもしれないのに。まあ、あのよくわからない思春期の私がなにか教えられてもうまくうけとれたかどうかは疑問だが。そういえば今朝はいい卵といいイチゴを食べたぞ。いただいたの。いい筋肉のためにいいもの食べないとね。睡眠が足りてないのが一番効果を薄めている気がするけど。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」も朝ドラ「ばけばけ」も楽しんでいる。トキが「学がない」といったり、フミがトキの体調に「この症状はもしかしたら」と思えていない感じだったり(思ってるかもしれない)、ヘブンの教え方が英語教師じゃなかったり、学校に行っていない、子供を生んでいない、教師になる教育をうけていない、など経験がない(かもしれない)ということ、それがその人にどう受け取られ、どういうときに影響を与えてくるかはひとそれぞれすぎるが、「ばけばけ」はそういうありうる過去の影響を最小限のやりとりで描いている。経験のなさとそれが原因で生じていそうな出来事を単純に切り取ってなにかいうことはできず(それは生活全般を覆っていないし覆わせてもいけない)、「経験がなかったらできないよね」とあっさりいうことはできないわけで「ばけばけ」はそういうトーンを含まないのもとてもいい。いや、人はそうあっさりいう以前に「こんなのもわからないんだ」的なことを思いやすく、その理由として「〇〇してないから」と結びつけやすい。これは経験のなさに限らず、あることを知って「あー、だからこうなんだ」としたい心性は誰にでもある。そしてされたほうは嫌な気持ちになる、というのも大方共通。だからなんだよ、といったん距離をとれればいいが、それも一理あると思うと「やっぱり自分が」と自分の経験のなさに本人まで全ベットとはいわないか(HANAの影響だな)、「自分の〇〇のせい」という思考になっていく場合がある。それは健康によくない。私だったら「だから、ってどういうこと?」というかな。一理は全部を説明しないよね、似たような環境でもそういう風にならない人もいますよね、もちろん多くの人が「普通に」経験できることを経験できないと大変なことってたくさんあるかもしれない、でもだったらそれは社会の問題で、みんなの問題で、個人の問題じゃないというか少なくとも「私のせい」じゃないと思うんだけど。逆にどうしてそういうところパッと切り取ってあえて言葉にしたくなっちゃうのかな、とややイラっとした気持ちをこめてしまうかもしれない。特に今は政治に怒っていますから。もーほんと、毎日のニュースにうんざりするし、これからが不安。友人が高齢化社会なのに「自分たちはもう死ぬだけだから」とかいって適当なこといっている人たちにイライラするといっていた。自分のことばかり、というのはたしかにちょっと違うんだよね。私たちは社会的な存在といわれているから。それでいうと私はこの前よく行くカフェで「年寄りになるとなんでもできる」と大きな声で笑いながら開け放しておくのが通常(閉店時しか閉まっているのみたことない)の大きい扉をガラガラとしめたのをみてびっくりしたな。普通にお店の人にお願いしてみるとかすればいいのでは。希望がかなうかどうかなんてやってみなければわからないのだから。そこがだめでも、ほかの案が提示されたり、「ほんとすいません」とかいわれるだけで悪くない気持ちになったりする場合だってあるんだから。お店の人、なにもいわずまた閉めにきていたけど。それはそれで大事かもしれない。お店側の条件って、私たちの面接の設定と同じだもんね。

今日は3月3日火曜日。儀式としてのひな祭りにはあまり興味がないけど女の子でも男の子でもおいしいもの食べて幸せに育ってほしいと思う。このおかしな時代に人の心を、想像力を失うことのないように。今日もがんばりましょう。

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月曜日

昨日はいいお天気だった!原稿を修正する一日のはずだったが朝2時間くらいやったらうとうとして原稿がdddddddddddddddで埋まっていたり、一部消したりしはじめてしまった。自分がなにをやっているかわからなくなったので休憩。誘われるままに新宿へ。ほこてんだった!新宿の隣で働いていても休日の新宿にはほとんどでなくなってしまった。普段から東口には地下道からしかいかないけど。原稿できてないのは困ったけどいいお天気の日のお昼に外をのんびり歩けるのはいいね。気分転換になった。帰ってまたパソコンかたかたしはじめたけどほとんど無心。考えていることを意識するって難しいねえ。この状態を書くこともうまくできないんだけどね。

今日の空はうっすら暗い。ちょっとひんやり。今週はなにをする必要があるんだっけ。ルーティンは臨床。オンディマンドでやっているケースはまちがわないようにと気をつかうけどあとはリズムだからな。うーん。5月も6月も発表がある。6月の準備は全然手付かず。すでに眠いがとりあえずがんばっていきまっしょい。今日は3月2日月曜日。まずは確認から。大事大事。花粉もつらいけどぼちぼちやりましょう。

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3月。Reading Freud最終回。

きれいな朝。昨晩も月と星がきれいだった。帰宅して12時がくる45分前にカレンダーを3月にした。前を通りかかったからだけど今日どうしてもしあげねばらない原稿があるのでそれを忘れないために。さすがに危機感あるから忘れようもないけど忘れて休日を楽しんでしまいたい気持ちも猛烈にあるので自分を戒めるために。こういう自分騙しも大事。超自我を活用。昨日、時間がなさすぎたなあ、発表のときの映写のために文書をパワーポイントにはりつけるだけの作業にすごく時間がかかってしまった。もともとの原稿がどれだけみつけるのにも時間がかかった。本当にこういうの少なくしていかないとだ。なくすることは無理だとしても。

2025年度のReading Freudが終わったので色々書きたいがとりあずSNSにメモだけした。1911年「心的生起の二原理に関する定式」(全11)を精読して、帰ってきてすぐに「精神分析概説」の気になる個所をパラパラできるくらいにはつながってきた。二原理というのは快原理と現実原理。「精神分析概説」の冒頭(180ページ)では快不快の記述はこんな感じ。

「自我はその活動において、自我のうちにもとからある刺激緊張、または自我のうちにもたらされる刺微緊張に注意を払うことで誘導されていく。刺激緊張の増大は一般に不快として、減少は快として感じ取られる。しかし、快、不侠として感じられるのは、おそらく刺激緊張の絶対的強さではなく、その変化のリズムのうちにある何かであろう。自我は快を追求し、不快を避けようとする。」

「変化のリズム」というのがいいですね。

さて、今年度のReading Freudは1895年「心理学草案」を精読するという難しいことをやったわけだがわからなさにとどまり楽しめるメンバーのみなさんのおかげで毎回有意義だった。「快原理」が用語として使用されたのは「夢解釈」が最初ということだが内容自体はすでに「心理学草案」でも検討されている。ついでに「精神分析概説」の「心理学草案」に関連する個所を引用しておこう。岩波「フロイト全集22」194ページ。

「あらゆる科学は観察と経験に基づいているが、それらは、われわれの心的装置が仲介するものである。しかし、われわれの科学は、この装置自体を対象としているので、他の科学とのアナロジーはここで終わる。われわれは、心的装置を対象としたわれわれの観察を、同じ心的知覚装置を用いて、まさに心的なものの裂け目の助けを借りて、省かれているものをもっともな推論によって補い、それを意識的な素材に移すことによって、行う。われわれは、いわば、無意識的な心的なものに対して、ひとつの意識的な相補系列を作るのである。われわれの心的科学の相対的な確実性は、このような推論の拘束力に依っている。この仕事に深く携わった者は、われわれの技法があらゆる批判に耐えることを見出すであろう。

この仕事に際して、われわれは、われわれが心的なものの質と呼ぶものの区別を行うように強いられる。われわれが意識的と呼んでいるものについては、われわれは特徴を述べる必要がない。それは、哲学や一般的見解の意識と同じである。そのほかのあらゆる心的なものはわれわれにとって、無意識である。すぐにわれわれは、この無意識の中に、ひとつの重要な区別を仮定するように導かれる。多くの過程は容易に意識的になり、次にはもはや意識されていないかもしれないが、それでも、苦労なく意識的になりうる。つまり、再現されたり想起されたりしうる。

そのときにわれわれは、意識はきわめて束の間の状態にすぎないことを思い知らされる。意識的であるものは、ある間そうであるにすぎない。われわれの知覚がこのことを確証しないと」

と続いていく。このあとの「前意識」の話も重要だ。

私はたぶん岩波の『フロイト全集』を全巻もっている。福本先生が担当していた小寺の講読会にでていたときに私が全集を破って(論文ごとに切り離して)持ち歩いていることにびっくりされたけど当時は「読まないよりこうしてでも読んだほうがいい」といったのを覚えている。だってこんなに網羅的に読むようになるなんて思っていなかったから。破ったのは主要論文のいくつかだけだけど今になると破らなきゃよかった。どこかにいってしまって探す手間のほうがかかっているし、当たり前のように読む生活になると全集の中にきちんとおさまってくれていたほうがずっと使い勝手がいいことを知った。大抵の人はそんなこと当たり前だと思っているであろうこともわかる。でもまあこんな生活になるとは、と思うような生活を経験できているのはこの年になれば面白く感じる。色々あきらめられているから。でも今日はあきらめてはいけない。なんとかしあげないと。あー、せっかくいいお天気なのに。早々に洗濯はしたが。良い一日になりますように。みなさんも。

今回はこの黄色い本の使い方も紹介した。
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大変さ、楽しさ。

今日も曇りかな。空の色はみえるけど朝は文字を読めるようになるまでに時間がかかる。

私は仕事好きなんだけど大変なことも多くて、というかそういう仕事なんだけど、いろんなところに訪問したりする仕事でも本当にいろんな大変さがあった。講師とかで行く場合はいいけど臨床家として行く場合は危機対応みたいな部分もあるからだろうけど。いろいろあったなあ、ということをある有名な文筆家が〇〇へ行くと癒される、というような投稿をしていたのをみて思い出した。立場が違うと同じ人に会っても同じ場所にいっても感じ方は異なるという当たり前のことを思うことは多いね。多くの人は自分が一番正しいと思っている部分が少なからずあるわけだけど、それはある人から見たら相当ハテナでもあるグループからみたら当然そうだろみたいなことだったりするからまたややこし。私は今は臨床心理士より精神分析家のアイデンティティのほうが強いけど、そういう意味でもIPAという国際的な組織のメンバーになってよかったなと思ってる。「当たり前」なんて別の場所にいけばすぐに反転したりするということが当たり前の世界で基本的なことを考えていくのも楽しいから。大変だけど。好きだけど大変。大変だけど楽しい。こういうことばかりだな。朝ドラ「ばけばけ」のヘブン先生が「じごく」っていうのが好きなんだけどそういいながらそれと関りを続けている場合のほうが多いからね。「まつえ、さむい、じごく」といったところで冬と関わらなくなるわけでもないし。そうできるわけでもないというのもあるけど。立場やなんやかやの制限のなかでどれだけ豊かにやれるかが大事。

今日は絶対に忘れてはいけない提出物がある。子どものときは忘れ物ばかりであきらめられていたけど知らない相手に英語使って送らないとだから憂鬱。あの人また忘れてる、ってリマインドをくれるような仲じゃない。この提出は友達がリマインドしてくれたんだけど。まず添付ファイル探しから。今日もがんばりましょう。

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金曜日

東の空からの光が広がってきた。昨晩の帰り道、とくになにもない空をみながらJAXAの施設でやった「はやぶさシミュレータ」をやりたいな、と思った。ああいうのとても好きで面白いのだけど私が宇宙開発に携わったら莫大なお金を無駄にし、宇宙にゴミを増やし、自分が住む地球を危機に陥れるのは間違いないということもよくわかる。毎日空を愛でて、食べ物をおいしくいただき、それらが当たり前ではないことは旅をすることですでに実感しているので温暖化をこれ以上進めないために日々できることをする、とかそういうのが身の丈。

先日、特急で大月駅までいって、そこからすぐに登れる岩殿山へいった。秀麗富嶽十二景のひとつ。岩殿城があった山。高さは東京スカイツリーと同じくらい。落石の影響で通行止めになっていた部分は相変わらず通行止めなのだけど新しい登山道が6年ぶりにできたので行ってきた。よくぞ作ってくださいました、というような道。大変だったと思う。低山のハイキングでもいつもほとんど人に会わないのだけど今回は駅からも近いし富士山もきれいにみえるし人気の山らしくたくさん人がいた。高尾山とかに比べたら全然だけど。そこから天神山、稚児落としと向かうルートでは数組にしか会わなかったし。岩殿山は結構低い場所で熊も目撃されたとのこと。12月の情報だったけど冬眠しなかったのかな、熊。怖いなあ、と思いつつ熊鈴を信じて楽しんできた。いろんな地域の人のお話をきいてると熊ってほんと身近な人も多いのね。共存していける道を知りたい。城があったということはいろんな面でその地形が優れていたということで、その町には城主の庶民に対する考え方も反映されるから城めぐりも本当に面白い。全国いろんな城にいったりのぼったりしてきたが有名な城だけでもかなりの数あるから死ぬまでにというか身体が動くうちに全部いくのは無理だろうなあ。行きたいけど。熊本城とかすごく好きだけど2016年の地震の前しか知らないからまた行きたい。

今日こそ原稿仕上げねば。時間がないのに城のこととか書いてしまった。どうぞよい一日を。

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本を読んだり。

曇り空だねえ、と少し明るくなりはじめた空を何度も確かめた。別に晴れを望んでいるわけでもなく、このままでもいいのだけどまるで何かを期待しているかのように何度も空を見てしまう。うっすら曇ったまま少しずつ明るくなっていくだけだけど。

昨日、そばにあった三島由紀夫の本を2、3頁読んだのだけどあれはなんの本だろう。カバーがしてある本。あのカバーはなくなってしまった本屋さんのではなかった気がする。本屋さんで「カバーおかけしますか」と言われると「あ、結構です」といつも断る。時折「あ、結」くらいのところですでにさささッとカバーがされていることもある。そんなときは、ああ、世の中にはカバーを欲する人の方が多いからこの書店員さんのルーティンはこっちなんだろうなと思ったり思わなかったりする。コンビニの「袋どうされますか」は正確度が高い気がする。最近は「あ、結構です」の人の方が多い気がする。

昨晩、遅く帰ってきて、少し作業するぞ、と洗濯機かけながらPCにむかったが先日パラパラしてここ大事だなと思ってひっくり返しておいたブルース・フィンクの『精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際』をひっくり返してしまいそれを読んでしまった。アメリカの分析家ならではの危機感をもとに書かれた技法の本だが、ウィニコットとケースメントの引用が多いというか、きちんと読んでいるんだな、と思えるのがそれらをきちんと読んでいる私にも嬉しい。読み方の違いも含め、きちんと読んでいる人との対話は楽しい。ウィニコットに関しては読むべき人としてあげられている。フロイト、ラカン、クライン、ビオン、ウィニコットは著名な分析家たちは読むべき分析家としてあげるし、実際そうだと思う。結局臨床と理論を接地させるときにはこの人たちに戻ってばかり。精神分析における自閉症論に関してはタスティン、メルツァーがそこに加わるだろう。人は誰でも自分に寄せた理解、つまり思い込みが激しいので何を読んでも同じインパクトしか受けないという場合もあるから読むこと自体が大事というわけではないし、精神分析家になるのでなければ「読むべき」とは思わないというか、私は精神分析家になるプロセスでこれらを読まずにはいられなかったしなってからはますますそれは必須だし日常になった。不思議なものだ。

二月は短いことを否認していた。締切伸ばしてもらったのにそれに気づいて再び困り始めた。昨日は少しだけ進んだ。今日もがんばろう。雨は降るのかな。少しは降ってもらわないとだけど風と一緒はいやね。いい一日になりますように。

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水曜日

薄い紺色の空。今日は雨らしいけどまだ降っていない様子。でもいざ外に出たら降っていた、ということはよくあるし、どっちにしても傘を持っていこう。

昨日は腕が痛いだるいとか色々言っていたが途中からそんなことも忘れ夜まで過ごした。あっという間で記憶がない、というのでは困る。勉強もしたはず。

色々書いていれば思い出すかもだけど時間がない。そういえばさっき窓の外の薄い紺色に光を感じながら精神分析では「光景」という言葉がしっくりくるなと思った。最近、印象的な夢を多く見ていて、夢こそ「光景」だな、という気もした。

鏡像段階のことを書いたが鏡だって光が関係しているだろう。

そういえば、ラカンはフロイト以降の自我心理学に見られる適応的(自律的な、だったか)な自我との同一化は想像的同一化であり、双数=決闘的(デュエル)な関係に貶めるといっていると思うが、鏡像段階論文のときのラカンはまだ想像的同一化を自我心理学的な同一化とこうやって重ねてはいなかったのではないか、など思った。要確認。ラカンは自我は誤認(méconnaissance)の機能においてその固有性を明らかにすると書いてはいるけど。短いのに出発点となる論文っていうのは価値が高い。

雨の音がする。何も思い出せないが今日は今日でがんばろう。

猿橋でみた蝋梅
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火曜日

今朝もあたたかい。昨日もぽっかぽかでハイキングも軽装でいけて楽だった。今日の夜は雨が降るかもらしい。

よく眠れたのはいいが軽い筋肉痛で腕がだるい。トレーナーさんともよく話すけどこの年になると上半身を使う機会ってそんなにない。荷物はいつも重たいけどリュックだし。しかし、昨日は低山にもかかわらず結構きつい鎖場があり、筋肉痛はそのせい。手もつりやすくなっているのでマッサージせねば。でも地道な筋トレの効果はあったと思う。ロープ場も数か所あり、これは助かった。砂がからっからで、砂利も多くかなり滑りやすかったから。実際、何度かすべってしりもちをついてしまった。あとから腰にきたらいやだなと思ったけど今のところ大丈夫。富士山は頂上だけずっと雲がかかってたけどとてもきれいだった。地元のおせんべいやさんやワインやさんともお話できて楽しかった。私も商売人なのでひとりでお店やっている人の話はいつも興味深い。人を使ったり使われたりする仕事もいいけど、個人の商売ならではの苦しみとか活気とかもいいよ。

昨日は訳がひどいといわれている弘文堂の『エクリ』をパラパラした。ひどいとうか読みにくい。でも知識があればあのことかもと思い当たることもできるし、翻訳って絶対にずれは生じるからずれや間違いのおかげで気づくこともある。「鏡像段階」はここでも「鏡像段階」なのね、と当たり前かもしれないことを思ったり。ラカンは最初の分析を受けている間、1936年に「鏡像段階」論を発表した。これは鏡像という他者に自分をすまわせて確立した「私」、つまり自己と他者が反転し続ける「想像界」のお話。この辺はまだなんのこっちゃの話ではないし、常に言及されるべき理論だからみんなで読めるのはいいことだな。今度セミナーで読むのだ。

いろんな種類のみかんを楽しんでいたらあと2種類になってしまった。さっき食べたみかんの名前をもう忘れている。デコポンみたいな、でもデコポンじゃないやつ。あと桜もちも半分いただいた。春だね。おいしい。今日はオフィスの家賃を払わないと。来年10周年。早い。良い商売ができるように研鑽をつみ、「よい」ものを提供できるようにならねば。教える仕事をしないで臨床だけで生活しているよいところは「評価をする」と軸が仕事に含まれていないこと。みんな評価されなれてるからこっちがなにもいわなくてもどんどん評価された感じになっていってしまう難しさはあるけどそういう軸で人をみないことに慣れていけるのはいいことだよなあと思いながら仕事してる。今日は火曜日。もろもろ間違えないように。よい一日にしましょう。

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精神分析

祝日

まだ暗い。今日はあたたかいどころか暑くなるらしい。たしかに早朝から暖房いらず。今日はいっぱい歩く予定。

昨日は色々やって楽しくも疲れた。そんなこんなで書く時間がない。アイデアは深まっている気がするというか、この段階でインプットはやめたほうがいいのはわかっているが検討が浅かったところをどうにかするにはちょこちょこ再読が必要で、すると新しい知識もついてしまうという悪循環。普段ならいいことなのだけど。私の場合、疲れをとるのも読書だからそれをする暇なく家のこととか仕事と全然違う感じで動くのはいいことなのだが、それはそれで頭の使い方が全然違うので切り替えが下手。そう、ようするに散漫なうえに切り替えも下手なのだ。

さすがに眠いなあ、といつもよりはやく眠くなりながらパラパラしたのは木村敏。やっぱりすごい。土居健郎もいいが木村敏の文章もきれい。『時間と自己』(中公新書)の最初のほうのここからしてよい。

「外部空間のものとは、見るというはたらきの対象となるようなもののことである。もちろん眼に見えないものも多い。しかしそれは、われわれの眼の能力に限界があるためであって、そのものが原理的に見えないということではない。それと同じように、内部空間のものについても、「見る」という言いかたが許される。われわれが頭の中で考えをまとめようと努力しているときなど、われわれは自分の考えが浮かんでくるありさまをじっと見続けているわけである。外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、見るというはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに距離がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。それが「対象」あるいは「客観」ということばの意味である。ものはすべて客観であり、客観はすべてものである。景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には、景色もその美しさも客観になっていないということがある。景色や美しさとのあいだになんらの距離もおかれていないから、われわれはその景色と一体になっているというようなことがいわれる。主観と客観とが分かれていないのである。そのような瞬間には、われわれの外部にも内部にもものはない。われわれはものを忘れた世界にただよっている。しばらくして主観がわれに帰ると、そこに距離が生まれる。景色や美しさが客観になる。そしてわれわれは、美しいものを見た、という。あるいは美しさというものを余韻として味わうことになる。」

ですね。対象を見出すには距離が必要。「対象」概念重要。今日は身体も頭も心もうまい具合に使えたらいいな。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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梅、アイデンティティ

薄いピンクに光が満ちてくる。きれい。春の太陽。

少し前にみにいった梅園をもう一度見に行ったら満開を過ぎていた。少しだれた華やかとでもいうのか。お手入れしなくても美人は美人というのか。きれいとキョロキョロ歩いてたら知らない人に「富士山はみた?」とニコニコ話しかけられた。「いまからです」というと笑っていた。美しいものは平和と繋がってる。夕焼けに浮かぶ遠くの富士山もとてもきれいだった。

昨日はフランス精神分析の祖、ラカンの初期、エクリの最初の方に載っている鏡像段階の論文に関連してコレット・ソレールの年次セミナー2014-2015“Vers l’identité”の英訳を読んでいた。ソレールはジャック・ラカンに直接師事し、ラカン派精神分析をリードしてきた重鎮。動画で彼女の姿も語りも見ることができる。『情動と精神分析』“Les affects lacaniens”の全訳の書評を書いたときに著者Colette Solerのもっと基本的なものをと思って読み始めた。書名は“Towards Identity in the Psychoanalytic Encounter
A Lacanian Perspective”

訳者による序文の一部。

“Translation of any kind is rooted in optimism,
(中略) Sustained by this optimism, week after week for almost three years, the members of the Cartel met to engage with the text and to … make it speak English!”

精神分析の文脈におけるidentity とidentificationの区別から始まるこの本、自由自在に講義するソレールの声が聞こえてくるよう。ソレールはラカンと強く同一化しながら彼の理論を救いつつ他者との同一化をそれまでの精神分析とは全く異なる形で論じ、プチラカンを作らなかったラカンの教えのせいかそこから逃れる方向にもいっている。ラカンの鏡像段階は出発点となる重要論文。数年前にエクリを読む会に出たときはこれが取り上げられてなくて、でもその時に英訳を買っていたので自分で読んだ。これはアーネスト・ジョーンズが会長だった1936年、ドイツのマリエンバードで行われた大会で発表されたのが最初で、エクリに収められているのは1949年のもの。

ソレールのセミナーでも当然取り上げられるわけだけどアイデンティティは前期だけで論じられているわけではないからやっぱりラカンに戻るのがいいんだろうなと思う。

やることだらけなのに毎日バタバタだけど少しずつだね。どうぞ良い日曜日をお過ごしください。

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マラブー、オグデンを読んだり。

すっきりした夜明け。今日は手首が痛い。高市首相のパフォーマンスがきつい。ひどいニュースが多い。川崎の事件は本当にひどかった。

昨日はポンプタイプを使っているハンドクリーム「アトリックス」が濡れた手に馴染ませてそのままサッと流して使うとしっとりすると聞いた。そうなのか。全然知らず普通に使っていた。今日は手を拭く前に塗ってみよう。昨年から肌の状態が一気に変わったのでこの冬はいつもよりがんばってハンドクリームを塗っている。そのせいかキレて痛いということが少ない。当たり前なのだろうけどケアが大事。

先日から『泥棒! -アナキズムと哲学-』 カトリーヌ・マラブー 著 伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子 訳(青土社)を読み始めた。そんなことしている場合ではないが、アガンベンのことも書いてあるし、今の作業に役立つかもだし、哲学はいつだってヒントをいっぱいくれるから趣味として。通勤時間に少しずつ読んでいるので全然進まないが面白い。第2章のアナーキーとアナキズムの違いもそうだったのかと。アナーキーは原理(アルケー)の不在、で、アナキズムは・・・なんだったか、見直さないとわからないが、マラブーは可塑的な力として論じる。支配に対する態度の一つとでもいえばいいのか?最初にしっかり取り上げられるのはアリストテレスの『政治学』。ここだけですごく勉強になる、というか思ったよりずっと読みやすくて短時間でも没頭できてしまう。で、まだ私はその章にいる。「統治されざるもの」は「統治しえないものではない、という言葉が心に残る、というか、ここを出発点にしているのか?まあとりあえずちょこちょこ読み進めよう。当然、フロイトの引用もあるので。

昨日は原稿を書く時間はなかったがオグデンの「自閉ー隣接ポジション」の論文が入っているThe Primitive Edge of Experience by Thomas Ogden(1989)の 3.The Autistic-Contiguous Positionを再読した。これも部分的に訳してあるが訳の整理をしていなかったのでさらに部分的にしか見つからずだったがオグデンの英語は読みやすいし、用語自体は英語で押さえておいた方が他の論文を読むときにも楽、というか私が修正しているのは英語論文なので、このまま引用すればいいから英語で読んでしまった方がいい。精神分析におけるautisticという概念を心の体験様式の基盤に据えて思考することが必要な時代だと思うし、精神分析が初期に自閉症を捉える際にした失敗は繰り返してはいけない。別のものを同じ言葉で捉える、つまりすぐに似たような言葉で置き換えずとどまり続ける試みこそオグデンの大きな貢献だと思うので、というか私はオグデンのそういうところに力をもらっているので引用しながら自分の考えを提示できたらいいなと思う。

ということで今日もいいことありますように。まだ空にピンクが残ってる。元気に過ごしましょう。

西新宿
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フィギュア、みかん、原稿

今朝の夜明けも雲が多いかな。きれいな青。フィギュアスケート女子シングルフリー、みんな衣装が素敵。中井亜美の衣装は音楽に合わせてフェリーニ『道』のジェルソミーナだった。悲しく切ない愛しいジェルソミーナ。中井亜美のジェルソミーナはとてもかわいらしかったね。

今朝はリフェンリのケークマロン。東急世田谷線線松原駅のそば。京王線下高井戸駅からも歩ける。世田谷線は2019年に50周年を迎えたらしい。街歩きマップもあるし、お散歩に人気の路線。路面電車とか歩く道と高低差のない駅や電車はいい。気持ちが穏やかになる。満員じゃなければだけど。都電荒川線のあらかわ遊園に行きたいな。こじんまりしたところはこじんまりさ自体が楽しい。

二月はいろんな種類のみかんを食べている。今日はデコポン。かわいい形だねえ。農家さんもいろんな工夫を凝らしてその土地だけのものを作っていく。色々食べたいな。

原稿が書けなくて少し提出期限を延ばしていただいた。そもそも書き方をわかっていないという気がする。でもすごく勉強になっている。いいものにできたらいいな。時間がほしい。

坂本花織銀メダルか。この若さで引退かあ。この若さでいいものを次世代にたくさん残した人ですよね。すごい。私はあのスピードとパワーが大好き。みんなすごい。

今日もいいことありますように。

初台から新宿パークタワーと都庁方面
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大変なことだ。

夜明けが早くなった。今日の東京の空はとてもきれい。

昨晩のオリンピックも色々でしたね。それぞれ本当に強い思いを経験するんだろうなあ。大変なことだ。しかも映像で何度も同じシーンを体験させられる。大変なことだ。精神分析をしていると人間がいかに他人からの言葉を素直に取り入れることができないかが本当によくわかる。もちろん私も精神分析を受けることで受けなかったら絶対に気づけなかったであろうレベルで体験した。最後の方はどんな気づきも面白かったし、防衛的にならずにいられたけど最初は辛かった。これはどんな人でもそうだ、ということは経験している人にはほぼ伝わるだろう。頭でちょっと気づいていてもそれを他者と体験することは全く別。そうやって別の何かと出会っていくことに時間とお金をかけられる人はそんなに多くないけど私は結果的には良かったな。とかなり時間をかけないとその意義は掴みにくいかもしれない。というより、自分が気づいていなかった自分と出会う衝撃を体験すればするほどその意義には気づくのだけどその作業から逃げたい気持ちもものすごく強く体験させられる。防衛とはそういうものだし、精神分析が外傷的に作用するとよく言われるのもそれと関係している。何度も何度もこれまでの自分を体験させられ、そのたびに強く揺さぶられる。それは耐え難い不快さを伴う。精神分析の作業がなされるまで、あるいはなすことが困難な場合は身体の症状が出たり、日常生活でのうまくいかなさが増すこともよくある。いいことなんてひとつもないではないか、と思いながら、苦しむ場合も多い。それ事態に対する予測はかなり初期で共有されるのも特徴的だろう。人はこうなるものだ、という理解はわりと普遍的なものだと思う。でもその強度はものすごいのでどれもプロセスとして生じると知りつつも辛い。精神分析家の方もその場で起きていることを意識的には理解しつつも自分をコントロールできないことを感じながらなんとかそこに留まり続けなければならない。その人が生きてきたやり方に触れるわけだから何が起きるかを身をもって体験していないとかなり難しいだろう。体験していないからやれてしまっているような二人になる、ということも頻繁に起きるからまた難しいし、精神分析を受ければ絶対体験するものでもない。その前にやめてしまう場合も多いし、予測される体験を避けるために何度も何度も同じことを繰り返し、何も変わらないし、変えたいとも思わないとなる場合だってある。なんて書いたところで精神分析状況で生じるものすごい複雑で矛盾だらけの出来事、あるいはそれらをまるっきり単純なもので覆う動きは身体全体で感じていくものだから伝わるような表現は難しい。オリンピック選手がまず自分でこの場に立って同じ経験をしてから言ってほしい、というのはよくわかる。が、自分の言葉の外側で何かを言うってほぼ不可能。それを超えていくなら境界を曖昧にするリスクを背負うことになるし、そのためには・・・という循環が延々続く。大変なことだ。でもみんなそれぞれがんばろう。どうぞ良い一日をお過ごしください。

新宿中央公園。ピント合わせが難しい形態。
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身体、言葉

曇ってるのかな。夜明け前の空はぼんやり。今朝もオリンピックをつけながら作業。中井亜美すごい。オリンピックとは思えない軽やかさ。やっぱり上にメダリストがたくさんいる強いチームにいるっていうのは力になるのかな。安心かも。グループとしていろんな意味で強いって下の世代には大事。私は連日、現役かどうかにかかわらずオリンピック選手たちの言葉に感銘を受けている。とても正直な印象を受ける。怖さを感じるかと聞かれればあっさり「怖さしかない」とか。そりゃそうだよな、とストンと落ちることをものすごい現場からいわれると明るい気持ちになる。防衛的になればなるほど言葉は実感や現実から離れていく。身体をかけて戦う人たちに防衛している暇などないか。言葉ばかりの世界にいるからそこになにか隠された情緒があるような気がして他人に悪意を向けたくなるのかもしれないな。言葉はどんどん事実をややこしく変えていく。身体を上手に使えるようになりたい。私は嫌なことは筋トレ前に一気にすませたりする。それとは違うか。でも、きつい、無理、死ぬとかいいながらチャレンジしているうちに頭がからっぽになる。疲れてなにも考えられなくなるけど集中しないとバランスも保てない。身体に集中する時間って本当に大事。メンテナンスのための地味で地道な筋トレだけどちょっとしたアスリート(?)みたいなメニューをこなせるようになっている。最初はどこの骨や筋肉を動かしているかも自覚できないままひたすらきつかったけど今はだいぶわかる。ヤンキー座りもだいぶできるようになってきた。ヤンキー座りができるということは足首柔らかいということ。私はかたいんだよねえ。転びやすいしけがをしやすいのはキョロキョロ落ち着きなく動くからというのもあるけど。だから身体全体のことを学びつつここを鍛えるとこっちの可動域も広がるわけね、なるほどねー、と学べるのはいいこと。擬音語をいっぱい使いながらやっている。この前はピストルスクワットなる片足スクワットにむけて手すり付きで片足スクワットをした。久々に結構な筋肉痛になった。

さあ、今日がいい日になりますように。

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オリンピック、明治神宮

また早朝からオリンピックを見てしまっている。スキージャンプ男子スーパー団体、雪で中断。たしかにすごい雪だった。それでも観客のみなさんは盛り上がっていた。寒いだろうに熱いのだな。そしてフィギュアスケートペアフリー。りくりゅう完璧。結果どうなるかな。みんな衣装素敵。デザインする人も楽しいだろうねえ、これは。フィギュア男子のマリニンの衣装もすごかった。あれが似合う人がいるんだからすごいことだ。私はフィギュア団体のマリニンの後半の演技に度肝を抜かれた。失敗したあとにあれだけ迫力ある演技ができるのか、と思った。おー、りくりゅう、金メダルか。最高の演技でとれるのは本当に嬉しいね。ドイツのペアは衣装も雰囲気もとても素敵だった。

先日もらった日本野鳥の会の「別冊ユリカモメ 生物多様性特集」で「月例明治神宮探鳥会で会える生き物たち」を読んでいた。毎日のように歩いていた日々ではなくなったが、歩いていた頃に知ってればなあ。とはいえ私のオフィスは明治神宮の西参道にあるのだからお散歩にいけばよいのだ。なんとなく用事ついでに新宿中央公園を通って新宿に出てしまうのだが。明治神宮の森はオフィスの窓からきれいに見えるので季節の移り変わりがよくわかる。冊子にも書いてあったけど落ち葉の季節が2回あるね、明治神宮。初冬と春。ナラ枯れのせいでクヌギやコナラの大木が倒れて日当たりが変わって地面の環境も変わり、木々や虫たちの状況も変わっているとのこと。池が干上がるとか、本当に少しずつ見える形で心配なことが増えてきているよね、きっと。青森に旅したときに地元の人たちから聞いた「はじめてクーラーを買った」とかとれる魚が変わってしまったとか生活の変化を直接に聞いたときも本当に恐ろしくなってしまった。

今日は雨は降っているのかな。昨晩は結構降っていた。久しぶりに強めの雨の音を聞いた。今年はすっごく寒い日は少ないけどまだ冬みたいな日もあるから身体大事にして過ごしましょう。

メジロがちっちゃく鳴きながら梅をツンツンしていた。
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散歩したり。

朝の空のピンクはきれい。昨日の昼間は暖かった。今日は昨日ほどではないのかな。

あまり高低差のない埼玉の山をふたつ登ったというか散歩した。埼玉はほんと平野。関東平野。お隣の群馬はあんなに山に囲まれてるのに。東武東上線と八高線を乗り継いでその町にひとつしかないという駅を降りてしばらくは舗装路を歩いた。工場が多くてほとんど人がいないせいか鳥たちが賑やかでカワラヒワと思しき鳥の尾がきれいだった。ようやく土の道に出たと思ったら延々竹藪、ではないな、ある程度整備された竹の道を延々歩き、一つ目の到達点の峠へ。武将たちの思いが今の人をも熱くするらしくそこまで誰にも会わなかったのにそこだけ歴史を語る私くらいの年齢の人たちで盛り上がっていた。私たちは再び雑木林へ。街中では紫の小さなホトケノザや梅が咲いていたが、ほとんど花と出会わず。小さな山の公園の見晴台に着いたら大きな声で話す老婦人たちが煙草の煙をはいていてびっくりした。「火気厳禁」の表示の目の前で紙たばこかあ。慌てて隠してたけどこうやって山火事って起きるのかもなあと思ったりした。中学生じゃないんだからさ、とちょっと呆れた。公園には犬を連れた老夫婦や双眼鏡をぶら下げたカップルやなんとなくこっちきてみたみたいな若者とかいたが老年期の方が多かった印象。みなさん杖つきながらよく歩く。山登りというほどの高低差はなくても普通の散歩よりはずっと山道に近いのに。そのあといくつかの施設でのんびりして結局3万歩以上歩いた。帰りの電車はほぼ寝てしまい、帰ったらちょうどやっていた大河ドラマで途中からのくせに号泣した。昨晩締切の俳句をウトウトしながら作って送信したがあまり記憶がない。結社誌がオンラインでの投句になったのはありがたい。紙に清書する元気は残ってなかったからもしそうだったら今回は投句できなかったに違いない。そして今朝、メールをチェックしてひとつ用事を忘れていたことに気づいた。あー。

色々頭がこんがらがっているがやらねばならぬことばかり。がんばろう。よい一日にしましょう。

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精神分析

オリンピックとか学術大会とか。

雲は少なそうなのに夜明けらしい空はみられなかった。

昨晩、色々終えて「長い一日だった・・・」と思ったけど時刻的にはいつも帰る時間と同じだった。内容がいつもと違うだけで感覚が全然違う。保育園の巡回から帰る電車が本数ないのに少し遅れておりギリギリでオンラインのミーティングにでて、読書会を終えテレビに戻るとアルペン男子大回転をやっていた。冬季オリンピックでブラジルが金メダル。選手は海外でトレーニングを積んでいるのだろうけど国というのはやはり大事なのだね。自分を規定するものは全て大事だよね。逃れようのないものとして、という意味ではなくて思考の体勢を作っていくうえで。外側から押し付けられるものであれ、自分で掴み取るものであれ。そこで自分は、そこからさらに自分は、と悩む。精神分析の文献は大体海外のを読んでいるけれど両親の国籍とかユダヤ系ドイツ人のようなルーツの記載や移民という単語はよくでてくる。やはりそれらは文脈として非常に重要となる。オリンピックに出るほどの選手の言葉もまた、私が一生経験しないような状況から生みだされたもので胸打たれることが多い。その国の人として出ることの重み。少ない練習場所で一緒にトレーニングしてきたいろんな国のいろんな人、それぞれの背景。違いに思いをよせることでしか生じないリスペクト。同じ言語を話す人同士でもこんなに通じないのに、という体験は誰にでもあるだろう。そういう違いを国名でまるめてなかったことにしないように、私はこうしたい、私はこう思う、私の言葉でいえばこう、といえる関係を育てていく必要がある。つまり自分の欲望と出会っていくこと。たやすく形にならないものたちとまずは出会う場を。精神分析はそういう場を提供できるはずだが現代はそんな能動性を患者のニードに認めるのは難しいのかもしれないし、そういう分析家になりたいと訓練に入る人も少ないかもしれない。コスパ・タイパの時代。

そういえば、そんな精神分析のことを守秘義務をもつ臨床家のみなさんにお伝えする場として、日本精神分析協会第44回学術大会が開催される。会期は2026年6月13日(土)午後〜6月14日(日)。場所は東京都新宿区、JR線、東京メトロ南北線・有楽町線、都営新宿線「市ヶ谷駅」そば、TKP市ヶ谷カンファレンスセンター。協会のウェブサイトをぜひチェックしていただけたら嬉しい。私は今年もパネルと演題をだし、司会も務めさせていただく。豊かな議論のためにがんばって準備するのでどうぞよろしくお願いいたします。

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土曜朝

東の空の細い月がきれい。

スノーボード・男子ハーフパイプ、フィギュアスケート・男子シングルフリーと見ている。戸塚優斗、素人にもわかるものすごいランだった。

あ!俳句作るの忘れてた。いや、覚えていたのだけど明日締切という意識が薄かった。結社誌用とオンライン用。15句できる気がしない・・・。が作るしかない。論文の修正が全く進まず困っているうえに今日は移動も含めて夜中までバタバタ。俳句は移動時間にやろう。

フィギュア最終グループは登場から華やかだな。日本はまもなく夜明け。イタリアは何時なんだろう。

論文の修正が進まないのは自閉スペクトラムの特性に関わる記述がうまくいかないから。ASDではなくてASの。精神分析はパーソナリティの精神病部分と非精神病部分という分類とは別に、メルツァー、タスティン、ビック、シドニー・クライン、アルヴァレズ、オグデンたちが人の心に自閉という軸を取り入れてきた。私はウィニコットを議論の基盤においているけど、ウィニコットの事例を自閉という観点から見直す作業が足りていないせいでうまく書けないのだろうと思う。わかっちゃいるが・・・。うーん。とにかくこちらもあと締切が近い。がんばらねば。

空が明るくなってきた。うすーく水色とピンクが広がってる。今日は昨日より暖かくなるのかな。とても花粉を感じる・・・。河津桜がかわいく咲き始めていた。今日も無事に過ごせますように。

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橋本多佳子の俳句とか。

今朝も雲が多い。スノーボード女子ハーフパイプ決勝もすごかった。解説の人がいちいち日本を強調しないのがいい。すごい人たちが普通に讃えられる世の中でありますように。

昨日、橋本多佳子全句集(角川ソフィア文庫)をパラパラしたら「淡路島」という題を見つけた。

一夜の島月下の石蕗の花聚まる

海より雨激しくよせる石蕗の花

など6句。秋に行ったのね、きっと。淡路島はコロナ禍で出かけられなくなる前に最後に旅したところ。この前、長いお付き合いの美容師さんから淡路島に行った話を聞いた。同じときに私は渦潮の向こう側、徳島の鳴門にいた。渦潮は淡路島からの「うずしおクルーズ」の方がおすすめだな。船だから当日にならないと予定立たないかもだけど。

橋本多佳子は中村汀女・星野立子・三橋鷹女と並ぶ“四T”といわれる俳人のひとり。この句集と橋本多佳子については前にも書いた気がする。最近、私が大好きなイラストレーターの霜田あゆ美さんが装画と挿絵を描いている宮崎智之編『精選日本随筆選集 歓喜』が出た。このアンソロジーにも橋本多佳子が登場。短編「椎の実」が取り上げられている。

「淡路島」と題された俳句の手前にちょうどこの短編で書かれた一句があった。

椎の実の見えざれど竿うてば落つ

自分は淋しがりといわれる。言われてみればそうかも、と書いていくうちにやっぱり全然そうではないかも、となる話である。人はひとりでも空虚や孤独ばかり体験するわけではない。歩けば出会うものたちへの気づきに満たされていく様子が明るく書かれたこの作品は確かに「歓喜」という題にふさわしいのかもしれない。小さな歓喜。小さな椎の実がもたらすものと似たような。

今日は早くも金曜日。びっくりだびっくりだ。いい一日になるといいね。東京の空はまだ曇ってるけどこれから晴れるみたい。がんばろう。

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鳥吟行

よく寝た。曇が多いが少し明るくなってきた。

昨日は雨の中、リュックの上からもらったレインコートを羽織り、借りたNikonの双眼鏡をぶらさげ、野鳥観察へ行った。自分で推し活用双眼鏡(と書いてあった)を持って行ったがプロ仕様のを使わせてもらえて嬉しかった。100円ショップのレインコートもとても助かった。装備って大事。おかげで大好きな鳥さんたちを快適に観察できて楽しかった。一応、吟行で訪れたのだけど、春の季語になるような鳥さんたちには全然会えず。気温も低かったし、花は椿くらいだったので春の季語でなくてもOKということだったけどみなさんしっかり早春の探鳥吟行を俳句にしていた。同じ結社のみなさんともとても久しぶりにお会いできて、みなさん相変わらず面白くて俳句も素晴らしかった。枯れ木のてっぺんに気高く佇むミサゴ(鶚、季語だと冬)とかとてもきれいな模様のアカゲラ(秋)とかちっちゃくてまんまるいカイツブリ(鳰、冬)とかみんなに教えてもらいながらいろんな鳥を見られた。カイツブリは春になると背中に赤ちゃんヒナを乗せて泳ぐ姿がとってもかわいいんだって。もう春なのに、とぼやきつつ、いかにもヒナが乗りそうな平たい背中を愛おしく思った。

昨晩、メモしておいたことを書こうかなと思ったけど時間がないよ。今日は月曜日ではなくて木曜日。昨日、今週も大河ドラマやってないのか、と思ったら水曜日だった。みんなも気をつけて。間違えないか。良い一日になりますように。

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ピクトグラムとか。

空に青が増してきた。フィギュアスケート男子シングルショートプログラムを見ていた。みんなすごいな。衣装も楽しい。

先日グループで読んだバロスの私訳と私見をもうひとつのブログに載せた。いろんな論文を読んで、これはいまいち、とか色々あるがIPAのジャーナルに掲載される水準の論文はかなりハイレベルと考えてよいと思う。自分で読んだときにいまいちと感じても読んでおいて良かったと思うことの方が多い。なにより編集委員が優秀。彼らの査読を経て掲載されているのだからそりゃそうだなのである。昨日の帰り道、言葉の変容についてあるアイデアが浮かんだ。バロスの論文も思い出した。バロスは言葉とイメージの距離が近いのではないかと考えた。というより、言葉をそのまま言葉として捉えすぎではないか。言葉にもいろんなレイヤーがあって音だけ聞けば言葉として受け取ることもできるが、全く意味を成していないものもあるし、相手からの言葉なのにその部分は剥ぎ取って自分の気づきとして語られる言葉もある。しかも何度も、新しい気づき、として。そんなとき、いかにその言葉を受け入れ難いかということを感じる。オラニエはピクトグラムを精神病の患者との仕事から生み出した。どんな病態の人と出会っているかで同じ言葉でも意味づけは変わる。オラニエがいうピクトグラムとバロスのいうピクトグラムは異なるだろう。オラニエからしたらバロスのいうピクトグラムは言葉であってピクトグラムではないのではないだろうか。それは物語へ向かう言葉であって、わからないものをわからないままにしておける言葉ではない。神経症かパーソナリティ障害の描写であればそれも可能だろう。

今日は鳥を見にいくんだ。受験生たちの結果も気になる。世の中には競争が多いが結局は自分とどうやってやっていくか。相手とはどうやっていくかというより素直に関わっていけたらいいのかな。いろんな気持ちに正直でいられるような環境を自ら壊すことなく、大切に、自分を蔑ろにする環境にはNOといいがんばっていきましょう。

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お菓子、王様

今朝の夜明けは雲が多かったが月は明るかった。今日は10度超えるみたい。ここ数日寒かったものね。

徳島で買ってきたお菓子たちが最後になった。最後は穴吹駅前の日之出本店さんで買った「和三盆のふわっとチーズケーキ」。年末年始ももう遠い。春じゃ春じゃ。

カステラみたいな形をしたチーズケーキ。美味しい。徳島県美馬市穴吹町は「うだつの街並み」で有名。最寄駅は穴吹駅。徳島駅から阿波池田までバスで行ってから電車に乗った。地元のタクシー運転手さんに「潜水橋」(渡れて嬉しかった!)のこととか色々教えてもらいながら四国三郎と言われる吉野川を渡り「うだつの街並み」へ。年末でどこも空いていない通りをのんびり歩いたあと、打って変わって活気にあふれていたスーパーへ。そこの休憩スペースでも日持ちしない地元のお菓子をいただいた。それも美味しかった!帰りは穴吹駅まで吉野川沿いを歩いた。洪水が多かったらしいのでそれを防ぐためか竹林がずっと続く道だった。これは竹?竹に似ている何か?と私が知っている竹とは少し違ったけど竹細工が有名とあったからやっぱり竹らしい。徳島は吉野川に助けられたり困らされたりしてきたのね。私が行ったときは水の美しい穏やかな川に見えた。そして駅前の日乃出本店へ。かわいいお菓子がいっぱいでテンションがあがった。お土産のいくつかもここで買った。徳島は2度目だったけど眉山と阿波おどり会館で阿波おどりを教えてもらったことと阿波尾鶏が美味しかった居酒屋のことしか覚えていなかった。今回は県内に絞って色々回れてようやく徳島の地理が少しわかった。どこに行っても水が本当にきれいで穏やかながらダイナミックな地形も身近に体験できて街の人も気さくで素敵なところだった。

毎日、いろんな人と会っていると穏やかな時間もたくさんあるけど辛かったり重苦しかったり耐えがたかったりする時間もたくさんある。臨床は知的なものに還元できない形にならないものであふれている。それらを形にするだけでなく、そこに居続け、抱えていくのが仕事の基本だと思っている。スーパーヴィジョンや事例検討会でも誰にでも当てはまるような用語を使うのではなく、その人が出会ってきた場面や経験の個別性を大切に立体的に描写できるように協力したいと思っている。そんな毎日の臨床体験のなかで時折思う。人は、百獣の王でも海賊王でもなんでもよいから、小さなうちに一度はこの世界を征服してみた方がいいのではないかと。今の政治家たちを見ているとなおさら。彼らはそれを体験してこなかったのではないかと。

ベッドで飛び跳ねながら雄叫びをあげ、ジャングルジムのてっぺんで王は自分だと叫び、小さな手で大きな旗みたいにタオルを振り回し・・・。どうにでもできる!なんにでもなれる!と吠えるように宣言しよう。すごいね、かっこいいね、強いなあ、さすがだ、と大人をひれ伏させ、口々に褒めてもらいながら世界の頂点に立った方がいい。どうしたって叶わないはずの世界できちんとそういう体験をして大人になった方がいい。

子供の頃は本当に唐揚げになれるって思ってたんだよ、と笑う大人に近づいてきた子がいた。唐揚げさえあれば世界が輝いていた頃、自分が唐揚げになってしまいたかった。でもそれは多分海賊王になるより難しいと徐々に知った。そして今は笑い話だ。全てにはなれないが何かにはなれる。こっちがダメならあっちもある。支配や征服なんて今はもうどうでもいい。あの頃はまだ僕の世界には数えられるほどの人しかいなかったんだ。みんなを見渡すことができて、みんなの注意をひくことができた。でも今は世界には見えない部分がたくさんあること、行けない場所がたくさんあること、知らない人がたくさんいることを知ってる。だからひとりじゃ難しい、いろんなことが広がっていかない。だから誰か、と人を求める。そしたらまた支配欲がむくむくと、という場合もある。人間は簡単じゃない。でもできるだけ、せめて論理的になろう。言われたことをそのまま聞き、書かれたものをそのまま読み、見えるものをそのまま見よう。それが難しいからこうなっているんだろうけどね。ああ。難しい。小さな子供たちが小さなうちに王様の体験をできますように。

外は光がいっぱい。みんなの気持ちも晴れますように。

西新宿
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月曜日

夜明け前の空、まだ高いところで半分くらいの月が輝いていた。ミラノ・コルティナ冬季五輪、フィギュアスケート団体、スノーボード女子ビッグエアを見たり、選挙結果を少し見たり。タイも総選挙だったのか。アメリカのフィギュア選手、アンバー・グレンのインタビューを読んだ。苦しい。がんばってほしいが、がんばるべきはグレンではなくて、グレンたちを苦しめる人たちだろう。なんであの若さで、いろんなものを背負わなくてはならないのか。そんななかでパフォーマンスをするグレンはどう考えても素晴らしいが。応援している。

空が遠くまでピンクがかってきれいだった。向かいのいろんな形の屋根にまだ残る雪もピンクに染まった。ほどなく陽がのぼり、そこにくっきりした影を作った。雨も降らず水分不足だった東京は少しは潤ったのだろうか。それにしても眠い。当たり前だが。

昨日はブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeを担当した。ただ訳して読み上げただけだが。主にクライン派の重鎮たちの間でトレーニングを積みながら、その知見の多くを翻訳し、ブラジルに広め、IPAにおいても貢献度の高いバロスだが、日本ではあまり知られておらず翻訳もないと思う。今回の論文は症例の「わかりやすさ」と理論化の仕方にしっくりこないみたいな感じだった。でもそれもバロスのスタイル、とべつの論文を読んで思った。

それにしても眠い。今日もがんばりましょう。

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日曜日

雪少し積もってる。まだ空は曇ってるみたい。まだたまにパラパラ。レースのカーテンも開けておこう。

羽根木公園の梅まつりも河津桜まつりも始まった。雪の中の春はきれいでしょうね。踊り子号乗りたいな。

スノボビッグエアすごかった。鍵山優馬の演技もすごかった。なんであんなステップできてしまうのだろう。ジャンプなんて凄すぎてポカンとしてしまう。スキーには馴染みがあるけど子供の頃は知らなかった競技ばかり。アイスホッケーとかやってみたかったな。今はもうあの小さいパックが見えない。

昨晩は『葬送のフリーレン』を見た。フェルンとシュタルクのデートの回。人の気持ちがわかるってどういうことだろう、と考えた。

さあ、選挙だ選挙だ。足元気をつけて出かけましょう。

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オリンピック、言葉

ミラノ・コルティナオリンピック2026、冬季オリンピック100年なのね。アメリカも日本も酷すぎるし、本当にうんざりしてくるけど、戦争の拒絶を訴えるメッセージがあらゆる人の心に染み渡りますように。

開会式のいろんな身振り、手振り面白かった。言葉だけでは足りないからたくさんジェスチャーがあるとのこと。すごい。昨晩のフィギュア団体、これで引退となる坂本花織の演技に感動した。リクリュウもすごくかっこよかった。アイスダンスの吉田唄菜、森田真沙也組はでリプレイではじめてみたけどハツラツとしてて楽しかった。すごい体力、すごい体幹、と地道な筋トレ人としてはそこにまず感動してしまう。毎回、そういえば今オリンピックなんだ、くらいの興味の向け方だが選手たちにとっては本当に本当に特別な場所なのだろう。誰にとってもいろんないいことが起きますように。

昨日も慌ただしかった。事務仕事に思いのほか時間を取られてしまった。隙間時間に『ブリジャートン家』シーズン4を少し見てしまった。シンデレラストーリーそのものなのがなんか面白かった。仮面舞踏会が本当にゴージャス。お菓子がもう少し見たかったな。まだ主演の女優さんがマスクをとったところにたどり着いていないけど会話のテンポも楽しいし、かっこよさそうなシンデレラ。音楽も相変わらずいい。私はこういうのもなんでも安心して楽しみたいんだよ。平和を。ひたすら平和しか願わない。

全米批評家協会賞のファイナリストに、多和田葉子『エクソフォニー  母語の外へ出る旅』の英訳版 “Exophony: Voyages Outside the Mother Tongue” by Yoko Tawada (tr. by Lisa Hofmann-Kuroda) が批評部門と翻訳部門でノミネートされたとのこと。日本で出版されたのは10年以上前。「エクソフォニー」とは「母語の外に出た状態一般」のことだそうだ。この本は翻訳という行為そのものだから納得だなあ。松尾芭蕉『奥の細道』のドイツ語訳の話とかも面白いよ。

ながら書きしてるとバラバラしたことしか書けないな。今日もがんばろう。東京も雪が降るのかな。すぐに電車止まってしまうから心配。雪じゃなくてもしょっちゅう止まってるけど。選挙結果に先走って絶望しそうだがまずは投票。

今、日本の多くの人は「平和」という言葉を嫌っているのかもしれない。多和田葉子はいう。

「好き嫌いをするのは言葉を習う上で大切なことだと思う。嫌いな言葉は使わない方がいい。学校給食ではないのだから、「好き嫌いしないで全部食べましょう」をモットーにしていては言語感覚が鈍ってしまう。一つの単語が嫌いな場合は、自分でもすぐには説明できなくても必ず何らかの理由があり、その理由は、個人の記憶や美学と結びついている。だから、思いきりわがままな好き嫌いをしながら、なぜ嫌いなのかを人に言葉で伝える努力をしたい。」

ーー多和田葉子『エクソフォニー  母語の外へ出る旅』

嫌い?だとしたらどうして?という対話を続けていくのも平和あってこそだ。どうぞ良い一日を。

道端の春
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シーズン4、クラウス

昨晩の月はそれを覆う雲よりずっと明るく輝いていた。夜明けの空がうっすらピンクがかってきた。きれい。今日の東京は昼間とても暖かいらしい。夜は風が強いみたい。

Netflix『ブリジャートン家』シーズン4が始まっていた。見ねば。今回はアジア系のオーストラリア人のハ・イェリンが主役とのこと。面白そう。

昨日はようやく原稿の修正に取り組めた。1時間くらいしかできなかったけどよかった。最近読んでいたものが元のものと繋がってきた感触があると「このまま地道に取り組んでいけば大丈夫かも」とちょっと安心する。古田徹也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)のカール・クラウスの章は大変勉強になった。

「他の何かの代理・媒体として働く側面のみに言葉の価値を置くならば、たとえば恣意的な文法規則の変更や言葉の置き換えといった「浄化」「融合」などによって、言葉がかたちを成しうる可能性を潰して平板なものにし、そもそも代理・媒体としての役割すら果たせないものに変容させてしまいかねない。そうクラウスは指摘するのである。」

クラウスは詩句を取り上げるけど、精神分析の自由連想、夢解釈における言葉の使用はまさにこれだ。先日読んでいたブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeに出ていた症例を思い出す。言葉を使うことで心の世界が大きく動くように発語は常に喚起的だ。分析家はときにそれを初語のような驚きとともに受け取るし、何より本人が自分の言葉の使用に驚くプロセスが必ず起きる。やっぱり面白い。

今日も作業を少し取り組まねば。まだ空がうっすらピンク。雪国のみなさんが安全に1日を過ごせますように。

いただいた!鳥かわいい♡
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グロットスタインとか隙間時間にやったこととか。

今朝も空がきれい。昨晩、オフィスを出て月を探すと月自体は見えなかったが居場所はすぐにわかった。雲越しでも十分明るかった。今日も晴れみたい。あまりに雨が降っていないけど大丈夫だろうか。雪も雨も人間が対処できるくらいちょうどよく降ってくれないものだろうか。

今回の選挙はそれを強行すること自体が人の命を危うくし、ぎりぎりのところで踏ん張っている人たちをさらに追い詰めるものであることは大体の人が共有していると思う。でも、だから、とはならないのも人だろう。だからこそ、今こそ、とわざわざ自分たちの生活を脅かす人たちに投票する人はこれまで通りそうなのだろう。そうする理由なんていくらでもつけられる。期待なんていつまでだって持てる。その間に自分が脅かされさえしなければ。いや、脅かされても脅かしているのはその人たちじゃない、と自分に嘘をつけるなら。幻滅しないためなら人はいくらでも力を尽くす。精神分析は幻滅のプロセスに入ってはじめて動きが出るといっていいと思う。もちろんそれまでの長い長いプロセスあってこそだ。人は今の、今までの自分を手放すなんてできない。その仕方だってわからない。だから相手を求める。でも触れられれば抵抗する。頭ではごく当たり前のこととわかるのに、いざ自分にそれを言われると激しく動揺する。自分は間違っていない、と何も言われていないのに言い募ったりしてしまう。思わずしてしまう動揺に委ね、考えるなんてできない。人はどこまでも今のままでいることに安住しようとする。たとえそれがどんな環境でも。自分と相手の重なる部分を増やしながら、助け合いながらやっていくのが一番安全なはずなのに。いかに自分が人を受け入れていないか、いかに自分が自分を正しいと思っているか、そういう疑いにどこか怯えながら表面だけ取り繕うことにエネルギーを割き続ける。それがどんなに不毛だったか、そしてそれがどんなに必要だったかを実感するのは意外と外側の事情でどうにもならない事態が生じるときだったりする。精神分析プロセスにおいては本当に不思議なことにセッションの動きとそれは重なる。本当は不思議ではないけど、全て相互作用だから。何が起きても何も感じない人はいるわけだから、今、現にこうして。

昨日は、私の中でいつも気の利いたこというおしゃれおもしろ紳士みたいな位置付けになっていたJ.S.グロットスタインを知るべくいくつかの文献をざっと見た。アメリカの精神分析家ローレンス・ヘッジズ(Lawrene E Hedges)のWorking the Organizing Experience: Transforming Psychotic, Schizoid, and Autistic States.の序文もそのひとつ。まあ、鮮やかな・・・。グロットスタインはそこで組織化(organizing)という用語をヘッジズ(1983)に由来し、彼自身によって精緻化されたもの(Hedges, 1992)として、その概念をとりまく主要な理論を的確に軽やかに紹介していく。ヨーク(Yorke, 1986)、ストロロウおよびアトウッド(Stolorow & Atwood, 1992)における早期の組織化体験、ビオン(1962, 1963)の「乳児的破局(infantile catastrophe)」、ウィニコット(1952)の「存在し続けることの失敗(failure to go on being)」、マーラー(1952, 1958, 1968, 1972)の「消滅不安(annihilation anxiety)、タスティン(1966, 1972, 1980, 1981, 1984, 1986, 1987, 1988, 1989, 1990)そしてグロットスタイン自身(Grotstein, 1990, 1991)の「ブラックホール不安(‘black hole’ anxiety)」、パーソナリティの「早熟な閉鎖(precocious closure)」、それと対応するバリント(1968)の「基底欠損(basic fault)など。

そして乳児の能力に関してメラニー・クライン、スターン(1985)、サボツキー(Subbotsky, 1993)、シェア(Share, 1994)、バウアー(Bower, 1974 および私信)の乳児研究を紹介し、

「スターン、サボツキー、シェア、バウアーが明らかにしているのは、乳児の生において、体験や知覚が心的表象や記憶として符号化されない、あるいは符号化不可能な時期は、存在しないかもしれない、という点である」とまとめる。そしてReturning now to Hedges’s work, とさらっと戻る。どこからの球も軽やかに受け止め、鮮やかに打ち返せるのは博識なのはもちろん、私くらいの人でもいろんなところでその「私信」を目にするという印象を持つほどの対話の幅広さではないだろうか。

さらに昨日は隙間時間に岡本源太さんのnoteで公開されている講義を聞き、岡田温司『増補 アガンベン読解』を開きつつ、引用されている箇所を味わった。短いから隙間時間にちょうどいい。そして言語が形をなすことについて考えるために古田徹也『言葉の魂の哲学』も同時にパラパラした。九鬼周造の「いき」の議論と土居の「甘え」の議論を言葉の使用という側面から考えることも同時にした。隙間時間にやることはどんどん忘れていくのでこうやってメモっておかないと。あー。哲学の勉強をもっとしたいが時間が全然ない。今考えていることに絶対豊かさをもたらしてくれるのに。

まあ、できることを地道にやろう。積み重ねは信頼できる。もう週も後半。焦るががんばろう。いい1日になるといいですね。

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立春

立春。日の出は6時39分。まだ暗い。暦の上では今日から春。「立春大吉」も季語。どこかにお札貼ってあるかしら。

立春や月の兎は耳立てゝ 星野椿

月も毎日きれい。オフィスを出たときは少し欠けた月がとても明るかった。帰宅する頃には雲に隠れていたけどそこだけ明るくてすぐにわかった。へたっぴかくれんぼ。ちっちゃい子のかくれんぼって本当にかわいくて見つけてないふりをするのもとても楽しい。ハイハイができるようになった赤ちゃんだと本人隠れてるつもりがあるのかないのかわからないけどあっという間にとっても上手に隠れてしまう。カーテンの向こうとかに。そういうときはこっちもちょっと必死。見つけるとニコニコしたり泣いちゃったりするけどどちらにしてもこちらは安堵。

昨日はビオン経由でフェッロとチビタレーゼのThe Analytic Field and its Transformations By Giuseppe Civitarese, Antonino Ferro Copyright 2015を読んでいた。若いときにラッカーを読んでいたらバランジャーを読むといいよと妙木先生に勧められてはまった。が、フェッロにはあまり興味が持てずなんとなくフィールド理論を読まなくなった。最近、私より若い世代がフィールド理論の翻訳をしてくれているので興味を向ける人が増えているのかもしれない。私が読んでいたのはGiuseppe Civitarese, Antonino Ferroが二人で書いてきたものの論文集のような一冊。読みながらなんとなくフィールド理論に乗れなかった理由がわかった。ビオンを自分でたくさん読むようになったからだと思う。勉強しつづけるってこういう発見があるからいい。この本のChapter 8 A Beam of Intense Darkness: a discussion of the book by James Grotsteinは貴重。日本でグロットスタインがどれだけ読まれているのかわからないけど私が読むような本には大体登場する。「私信」という形の引用が多い気がするのは気のせいなのかな。フェッロとチヴィタレーゼはこの「ビオンおよびBFTモデルを理解するうえで不可欠」ということでグロットスタインの主要論文を書評する形式をとっている。が、グロットスタインの主要な論文を自分で読むのもいいと思う。私がフロイト、ウィニコットはもちろん、グリーンとオグデンが私がなにかを論じるときの基盤なのだけど、グロットスタインは彼らにもよく引用されている。でも邦訳がない(と思う)。なんでだろう。たくさん書いているし、ビオンを臨床と接続させるにはとてもいいと思うのだけど。ビオンだけに取り組んでもなかなか実感湧かないと思うし。pepによると一番引用されている論文として上位に来るのはGrotstein, J. S. (2004) The seventh servant: The implications of a truth drive in Bion’s theory of ‘O’. International Journal of Psychoanalysis 85:1081-1101。これそんなにややこしくはないけど長い。ここで著者が提案するのは題名にあるとおり「真理欲動」。truthの議論は難しい。「真理欲動は無意識的意識unconscious consciousnessと協働して機能すると仮定されるんだって。精神分析に関心のない人はもうこの辺でなんのこっちゃだと思うけど、こういうことを細かく考えるのが好きで、そうしながら精神分析に使う言語が作られていくと考える私にとっては面白いんだな。学び合い。

今日も長い。春を感じつつがんばろう。

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節分

夜明けの空がとてもきれい。昨晩は月もとても明るくて四方八方に光の筋を尖らせていた。日曜日は郊外からの車窓に大きな月を発見。冬の月は低い位置にあってもそんなにおどろおどろしくないのね。

さて、2月4日は立春。ということは節分は今日。冬と春の分かれ目。節目だから節分。意識していたわけではないが週末に豆を買った。店構えが魅力的でお煎餅やさんと思って入ったら豆菓子屋さんでこの時期らしくさくら豆が推しとのことで買った。ほかのも試食させてもらった。豆はどれもおいしいよね、という感想になってしまう私は季節のおすすめに従うのが吉。ピンクのお豆、珍しいし。いろんな美味しそうな豆たちが並んだ数段の棚の一番上には阪神タイガースグッズがたくさんあった。大ファンなのかと思いきや、最初は隅っこに少し置いていただけなのにお客さんの持ち込みも多数とのこと。「隅っこに少し置いていただけなのに」と何度か繰り返しておられたのがおかしくていっぱい笑ってしまった。ニコニコの店主さんが、流通している国産の落花生は1割程度と教えてくれた。なんでも輸入なんだね、日本は。落花生といえば千葉が有名だけど実は神奈川発、など色々教えてくれた。この商店も多分不況の煽りを受けているだろう。長年地道にやってきた商店が安心して暮らせる日々に向けてすべきことは、言葉を誠実に使う政治家を選択すること。SNSなど使わずとも伝わる言葉と地に足のついた政策を実行したことがある人を選択すること。排除や差別の構造を理解せず、意気揚々と晒すこと、煽ることをするような人を選ばないこと。今だったら青森の大雪がそうだが、人の生き死にが関わる状況で選挙という方法が選択されたことをおかしいと言い続けること。緊急に訴えたいことがある人たちの声を無視して成り立つ政治にいいことなんてない。袴田ひで子さんの「せめて人間を守るような法律を」という訴えも辛い。人生のほとんどを理不尽との戦いに費やさねばならなかった人たちの声に強くインパクトを受ける心を私たちは保持できているだろうか。

昨日は第68回グラミー賞授賞式だった。ネットに流れてくる様子をちょこちょこチェックしていた。ICE OUTのバッジをつけてのスピーチに拍手する人たち。自分が持つ力を良い方向へ使える人たちに感動する、というか、ありえないことが現実に起きていることに戦慄する。

昨日は一句の俳句を作るのにやたら時間をかけてしまった。寒月で作りたかったのだけどできなかった。ささやかな時間が脅かされないことだけが願い。というかそんな当たり前のこと願わなくても守ってほしい。人の心はそんなに強くない。どんどん容易い方に流れる。何も考えず、反射的にそれっぽいことをいう人たちが踏みとどまるにはどうしたらいいのか。自分の欲望を他人に預けてなかったことにするだけでなく、いつのまにかそれが自分の満足かのように振る舞ってしまうのも人間だ。どうか自分を大切に、と思うが、それが常に闘いになってしまう現状が辛いけどがんばろう。福がいっぱい訪れますように。

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2月月曜日

今日は濃い朝焼けがみられた。俳句を作らねば。と書いたところでなんと先月の句会の選評をしていなかったことに気づき、慌てて書いた。自分でリマインドメッセージだしたのに。すっかりやった気分でいた。みなさんの正月の句を読んだだけで満足してしまっていたらしい。いつもギリギリとはいえ、最近、こういうことなかったのになあ。やっぱり一月は色々調子狂っていたのだろう。

今日は隙間時間に吾妻先生がでていたウェビナーをみるつもり。日本の精神分析家の話をどうして英語できかねばならないのか疑問だが。しかも土居の「甘え」についても話すらしいのに。土居は日本語でということにこだわったのに。日々の臨床を英語でやっている人はともかく(吾妻先生は英語でもやっておられると思うが)臨床で日本語を使っているのに、ということには常にひっかかっていきたい。単に英語にするの苦手、とかいう理由ではなくて。そんな理不尽を感じつつ、私は今日は自分の英語論文も見直さねばならない。英語を日本語にして、また英語にしてだけならともかく、私が使った日本語はこれだったのか?いや、こっちか、とやっているうちに論旨を忘れたりさ。大変なことだ。でも機械翻訳のおかげで世界は本当に広がった。昨日はこういうのもみてしまった。

Winnicott and Freud – Polish Psychoanalytic Society – November 20, 2021 Prof. Dr. Leopoldo Fulgencio (University of São Paulo) Prof. Dr. Martine Girard (France, Toulouse)

2021年11月20日にポーランド精神分析協会が開いた「ウィニコットとフロイト」という会。

Leopoldo Fulgencio 教授(サンパウロ大学)
Martine Girard 教授(フランス・トゥールーズ)の対話。

これは英語の字幕でみられる。普段はポルトガル語とフランス語を使うお二人なのかな。この動画、うちの洗濯機が鳴らす音楽と似たような音がしたり犬が吠えてたりして最初はそっちに気をとられてしまった。テーマはとっても魅力的。とにかくこちらが自分のためにどういう変換を加えるにしてもその人の母語を大切にすることは絶対大事。同じ日本語を使っているはずがまったく通じないことも増えている今、言葉ってなんだっけ、という疑問はつねにつきまとうけど。選挙の話ですけどね。嫌なニュースばかり、って思わない人が多いからこういう結果なのかな。いやだいやだ。「普通」や「常識」がどんどん崩れていく。臨床の現場も変わっていくのだろう。相手を「救いたい」という動機で心理士になる人は相変わらず多いと思うが、自分を救いたいならともかく相手をとなる場合、それはなにをすることでなにを意味することなのか、そういう会話を続けていくことで大切なものと出会っていけるか、普遍的ななにかを見出していくことはできるのか、大変疑問だ。

昨日はたくさんのロウバイをみて、いい香りにニコニコした。帰りに寄った中華料理屋さんでそのあたりの桜の見どころも教えてもらった。もう夕方だったのにその日はじめてのお客さんだといわれ、観光地に向かう駅なのにその駅回りが使われない状況を感じる話しぶりにきゅーっとなった。たくさんおしゃべりしていたら常連さん家族がきてほっこりした。お互いのこと何でも知っている感じがよかった。「今日は飲んで平気なの?」「髪型変えたのね」など。全然脂っこくないさわやか中華でおいしかった。長く続いてほしい。人を大事に、自分を大事に、今日もがんばろう。

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駒テラス西参道、『サハマンション』、バロスのピクトグラフィック論文

寒そうな朝空。色々薄色。昨日のお昼、寒かったけどいいお天気だったのでオフィスの周りを散歩した。小田急線参宮橋駅に続く一本道(明治神宮の参道、西参道)には日本将棋連盟がやっている「駒テラス西参道」がある。この道は整備されて夜も明るめになった。昨年までカフェもあったのになくなってしまったのが残念。一度しか利用したことないけどこじんまりしててのんびりできた。イベントも色々しているみたいだけどもう少し盛り上がってもよさそうなものだけどという雰囲気。昨日はみんなでテレビの対局をみていたようだった。そういうの楽しそう。数年前、高知の高知城にいったときは、お城に続く公園で何組もの人たちが小さな机を並べて将棋やってて、これ毎日やってるんだろうな、という様子ですごくいい感じだった。私もデイケアや小児科のグループで将棋を教わること多かったし、将棋は意外と浸透しているんだろうなあと思うのだけど。渋谷区のまちづくりの一環でもあるのだし、いい場所にあるのだからもうちょっとなにか、と思ってしまう空間ではある。私が知らないだけでもりあがっているときも多いのかもしれないけど。子どもたちがたくさんいるときは楽しそう。そばにボールとか使える公園もあるし、子供たちにとってのほうが敷居が低いのかもしれない。

昨日『サハマンション』チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳のこと書いたけど、あれは筑摩書房だから出版社のウェブサイトをポストしたのだけどトップページがポストされちゃったからやり直した。ついでにトップページからも色々みてみた。こういう時間久しぶり。老眼になってから手あたり次第読むことが減った。すぐ疲れてしまう。まずどーんと入ってきた大きめの文字は茨木のり子生誕100年、没後20年。そうなのか。茨木のり子のことも韓国文学つながりで前に書いた。詩を読みたいねえ。そして次に目についたのがAマッソ加納の連載「何言うてんねん」(webちくま)。最新のを読んでみた。面白かった。芸人さんに詳しくないから名前は知ってるけど、くらいな感じなんだけど、絶対面白いだろうな、と思って読んだらやっぱりおもろかった。すごいよねえ。しゃべるように書けるんだよね、きっと。そうだ、昨日『サハマンション』を思い出したのは今の日本の政治状況に絶望しか感じず、サハマンションみたいに絶望が渦巻きそうな場所ではぐくまれる希望がほしかったからかも。新しい登場人物がでてくるたびにガーン、ガーンと心が撃ち抜かれそうな気分になるのに後半にいくにつれ希望が積みあがっていく感じ、なんだあれは。忘れてしまっている部分も多いけど、これ映画にしたらかっこいいだろうな、と思った。ごく普通の罪悪感が維持されている世界は優しい。そう考えると今の日本の政治家たちの心なさはすごい。自分の利益の追求以外なにもみないから平気でうそもつくしなかったことにする。選挙に希望を見出せる国にしよう、みんなで。

1月は本当にあっとまに終わってしまった。本当にまずいのでとりあえずひとつひとつ確実に終わらせようと(最初からそうすべきだったと知ってる)とりくんではほうっておき、を繰り返していた2000年のエリアス・マレ・バロス(Elias Mallet Barros)のInternational Journal of Psychoanalysis ,81(6):1087-1099、Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life by Elias Mallet Barros(情動とピクトグラフィック・イメージ― 心的生活における意味の構成 ―)を全部訳して勉強会のみなさんに共有した。そんなに難しい英語ではないとはえ内容も難解なのでなんとなく時間がかかった。その間に関係ない論文を色々読んでいたのもよくなかった。長い目でみればいいのかもしれないがすぐに忘れてしまうのでやるべきことをきちんと形に残すこと。2月はそれに集中したい。ああ。

とはいえ、今日は日曜日。きちんと休むぞ。1月は睡眠時間の確保にもがんばった。ただ眠い時に寝てただけど。だからこうなったわけだけど。ぐちぐち。メリハリ大事。良い日曜日をお過ごしください。

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本とかLechevalier論文とか。

いいお天気。最近の月は昼間にはうっすら東に、帰る頃には一番高いところに。毎日どこかなあと見ているのに意外な場所にいると感じるのはなぜか。見ているようで見ていないもんなんて山ほどあるか。人は見たいものしか見ないし聞きたいものしか聞かない、という話はしょっちゅうしているし、精神分析は自分のそういう部分に出会う営みだからいやーな気分になることもたくさん。でもそういう自分をどうにかするにはどうしても通る道だからつらいよね。

昨日は仕事以外なにかしただろうか。政治のニュースに苛立ったり、アメリカで起きていることを恐れたり心配するのは毎日のことだけど。Kindleにはいっていて既に読んだことのある本を数冊数ページダラダラ読んだか。台湾文学『亡霊の池』とか。韓国の作家の本もそうだけど、家と土地の描写の仕方がすごいなといつも思う。何もない景色、というか登場人物がいる場面がそうである場合はそれが目の前になんともいえない情緒を引き起こす書き方で置かれる。韓国は特に住宅事情によって格差がはっきりわかるから登場人物の言葉の端々に滲むリアルにドーンとなることも多い。一方、そうだなあ、たとえばチョ・ナムジュの『サハマンション』(筑摩書房)はそういうものを全て剥ぎ取ったかのような空間で雑多なものの動きだけが展開するような感じで、なのに、というか、それだけに、というか生々しさがすごい。翻訳の力もあるのか、日本語で読んでいるのにものすごく外国の文学という感じがする。知らない世界がきちんと生々しくそこにある。SF的翻訳文学ではない感じ。すごいことだ。

昨晩はTVerでサンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃんも見て、すごいすごいとたくさん言っててたくさん笑った。博士ちゃんたちは本当にすごい。芦田愛菜もすごい。学ぶ力って聞く力で話す力なんだなというのも実感する。

あとSNSにポストしたけどこっちにもメモしておこう。ケイト・バロウズ編集の『自閉症スペクトラムの臨床』は子どもと大人両方の自閉的側面が事例とともに広く記述されている本でとてもよくて、昨日は序章にしか出てこないBianca Lechevalierの論文を少しチェックした。邦訳だとレケバリエと訳されているけどルシュヴァリエじゃないかなと思った。この人の講演とか音声がないので確認できないのだけどフランスの神経学者としてマーク・ソームズと一緒に書いたものもあるらしいのでたくさん出ているソームズの動画をチェックすればLechevalierの名前も出てくるかもしれない。名前はできるだけそれに近い日本語にしたいと十川幸司先生が言っていた。大事だと思う。この本で参照されている。論文は二本あって、一つは2003 The 7th Annual International Frances Tustin Memorial Prize “Autistic Enclaves in the Dynamics of Adult Psychoanalysis by Bianca Lechevalier-Haim, M.D. of Caen, France。受賞論文もここから読める。最後にクラリッセ・ニコイツキー. Clarisse Nicoïdskiの詩が引用されていてそれがとても硬質で繊細な痛みと混乱を表現していて自閉的な世界の描写は厚みよりもこの感じになってしまうな、と辛かった。

東京は今日はずっと晴れみたい。最近出会った詩たちが描く冷たさに凍えそうだったけどただ春を待つだけではなく冬は冬として、という気もする。良い1日になりますように。

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アルフレッド・ロレンツァー論文を読んだり。

寝不足。年末にもらった新潟味ののれん本舗のおせんべいが美味で遅い夜ごはんのあとに食べてしまったが、今朝は意外と胃腸にきていない、かも。あとからくるのかな。怖い。

私はやっぱり黄金揚げが好き。はちみつとお醤油はまさに黄金の組み合わせ。歌舞伎揚げも昔から大好き。あれはざらめとお醤油かな。小さい頃はいつもうちにおせんべいがあった気がするけど、今、自分で買うことはほとんどない。旅先でならあるけど。昔、祖父母の家からその辺に住む人しか使わない細い道を行った先に小さな商店があってそこで祖母がお煎餅を買っていた。ぽたぽた焼きのおいしさを知ったのはそこでだったか。あれは亀田製菓。やはり新潟。米どころの煎餅はおいしいね。そんななか詰め合わせをいただいたので色々試せて楽しい。自分で買わないのは食べ過ぎてしまう心配があるからかも。あまいの食べるとしょっぱいのが食べたくなるし逆もそうなんだから、あまいのとしょっぱいのがマリアージュしてしまっていたら食べちゃうでしょう。困りますね、おいしいというのは。

この前、ドイツ精神分析協会(DPV)の精神分析家、Bohleber,W.が紹介するアルフレッド・ロレンツァーの論文について少し書いた。そこで紹介されていた論文はLorenzer, A. (2016) Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy. International Journal of Psychoanalysis 97:1399-1414。私の設定でもPEPで読めた。最初に検索したつもりだったのに。自分がなにを考えてその論文にたどり着いたかは私にとって大事なのだけどすぐに忘れてしまうから最初の目的とずれた方向で勉強してしまっていたりする。今回もそれで検索ワードを間違ったのかもしれない。それはそれでいい面もあるけどやるべきことがあるときは本当に時間がなくなるのでいけない。自分のこういうところに不便さを感じる。さて、ロレンツァーのこの論文は英訳が2016年。訳者はPhilip Slotkinという人。元の論文はZeitschrift für Psychoanalyse und ihre Anwendungen, 37:97-115 (1983).ロレンツァーは2002年に亡くなっている。原著はボルバーの論文から私が読み取ったものとはずいぶん違った。巻き込まれることについての記述なんだという印象は変わらないが、症例の提示はないにもかかわらず著者の臨床態度がなんとなく伝わってくるような論文で、理論化に説得力があって、隙間時間を全部使って読んでしまった。著者は最初に語表象と物表象をどう扱うかを示して「物表象とは、(いまだ言語に基づかない)相互作用の記憶痕跡――すなわち、経験された行為の沈殿物であり、未来の行為のモデルである」という。そして「治療者が患者の「遊び」に参加することを基礎として、患者によって提供されるすべての素材を、夢解釈に類似したアプローチによって扱う場面的理解(scenic understanding)は、無意識への王道(royal road)なのである。」という。そして「この方法と対象の「言語ベース」の性質は、精神分析の根本的特性であると同時に、根本的問題でもある。というのも、精神分析における認識対象が無意識であるという事実は、次のような奇妙なパラドクスを生み出すからである。すなわち、精神分析は、言語の外部にあるものを、言語に基づく手段によって探究しようとする、言い換えれば、理解しえないものを理解しようとするのである。」と精神分析が逃れようのない問題を確認しつつ、主にフロイトの著作を引用しながらそのメタサイコロジーを部分的に更新していく。

ボルバーのIntroduction to Hermann Argelander’s paper ‘The scenic function of the ego and its role in symptom and character formation’、ヘルマン・アルゲランダー論文「自我の場面的機能と、それが症状および性格形成に果たす役割」(Argelander, 1970)への序論、と訳せばいいのかな。

ボルバーはそこでロレンツァーと同世代人のヘルマン・アルゲランダーの紹介をしているが、ロレンツァー自身が、自分とアルゲランダーの考え方の相違にも触れていた。ついでだからフランクフルト学派との関わりも感じさせる文章と一緒にざっと訳すとこんな感じ。

「「物象化的(reifying)」な見方の支配は、過去50年間にわたって、「ヨーロッパ諸科学の危機」(フッサール、1936年)の中核として、またわれわれの日常的盲目性の主要なトポスとして、次第に明らかにされてきた。思考が一般に物象化へと「頽落(fallenness)」していることを考えれば、精神分析的理解の場面的性格の認識が、その完全な開花に至るまでに時間を要したとしても、驚くには当たらない。というのも、それが完全に明示され、精神分析の状況的基盤を反駁の余地なく浮き彫りにしたのは、「転移と逆転移」の相互作用がもつ決定的意義が全面的に理解されるに至ってからだったからである。
この理由からしても、「場面的理解」モデルが、互いにかなり隔たった二つの研究領域において、同時に成立したということは、同様に驚くべきことではない。すなわち、アルゲランダーの臨床分析と、私自身による精神分析的方法の科学・理論・メタ理論に関する探究とである。
もっとも、両者の概念は完全に一致しているわけではない。しかし、この差異は本論の目的にとっては本質的なものではない(最終的には、付加の問題にすぎない)。とはいえ、ここで簡単に触れておくことにしよう。アルゲランダーは、場面的理解を「自我の機能」として捉えている。すなわち、場面的経験を構成するのは自我である、という立場である。これに対して私は、精神分析的知の主体の決定はイドの場面的構造を前提としている。イドは、場面的な関係公式(自然と社会的実践の諸形式との総合として)から生じるものと理解される。」

と。なるほど。ドイツ精神分析における自我心理学との関わりとそこからの転回を追うのも面白そう。たぶん誰かすでに書いてくれていると思うからいずれ探そう。

ついでだからアルゲランダーのこともメモしておく。ボルバーによると「ヘルマン・アルゲランダーは1920年生まれで、医学修業後、内科学の専門医となった。その後、ベルリン精神分析研究所において精神分析の訓練を受け、1950年代に資格を取得した。1959年には、ハイデルベルク大学心身医学講座においてAlexander Mitscherlichとともに勤務、1960年には、ミッチャーリッヒが新たに設立したフランクフルトのSigmund Freud Instituteへと移った。」

と。ここでアルゲランダーとロレンツァーは出会ったのかな。アルゲランダーは2004年逝去。今度のIPA COWAPのレクチャーでDPVの人たちの名前があったけど英語だからなあ。私はひたすら文字になったものを読んでばかり。色々聞けたらいいのにね。

冬の果物
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ロレンツァーの場面的理解とか。

今朝もうっすらピンクがかっている時間がない。夜明けは随分早くなったと感じる。

昨日はドイツ精神分析学会(DPV)の精神分析家Bohleber, W.の2016年の論文、Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’.を読んだと書いた。アルフレッド・ロレンツァー論文「精神分析的治療における言語、生活実践、場面的理解」の紹介でいいのかな。ここに書いてあることをざっと書いておく。正確な翻訳ではないので原典をご参照あれ。これはロレンツァーの1983年の論考の再録と展開のよう。1922年生まれのロレンツァーはエルンスト・クレッチマーのもとで精神科医として訓練を受けた。無意識の「場面的理解(szenisches Verstehen)」を中心に据えた、新たな精神分析メタ理論を構築した。シュトゥットガルト精神療法研究所およびハイデルベルク大学アレクサンダー・ミッチャーリッヒの心身医学クリニックで精神分析訓練を修了し、その後、ミッチャーリッヒが所長を務めていたフランクフルトのジークムント・フロイト研究所で勤務した。これはBohleberが2013年のIPAジャーナルで紹介している同じくDPVのヘルマン・アルゲランダー(1920ー2004)の経歴とほぼ同じ。ロレンツァーはドイツ精神分析学会(DPV)の訓練分析家であり、1971年にブレーメン大学社会心理学教授、1974年にはフランクフルト大学社会学部に移り、社会化理論の講座を担当した。1991年、病を理由に研究・臨床活動を退き、2002年に死去。

1960年代のフランクフルトでは、マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノによる批判理論を基盤に、社会科学の方法論、科学的客観性、意味の解釈学的理解をめぐる、極めて刺激的で実り多い議論文化が形成されていた。精神分析も理論としてこの議論に含まれていた。
社会科学者と精神分析家の対話は、精神分析理論に豊かな進展をもたらし、その一つがロレンツァーによる新しい精神分析メタ理論構想であった。彼はドイツ精神分析を代表する理論家の一人であり、精神分析的知の形成過程を精密に理解し、精神分析を社会理論の文脈に位置づけることに力を注いだ。

彼の関心は当初から、精神分析的理解の固有性に向けられていた。彼の提唱した「場面的理解」は、論理的理解や心理学的理解の限界を超え、精神分析的認識の対象が本質的に場面性(scenic character)をもつことを明らかにした。
フランクフルトのフロイト研究所で同時代を生きたヘルマン・アルゲランダーは、臨床経験から独自に心的過程の場面性に到達し、ロレンツァーの概念を採用したが、彼はこの機能を自我に帰属させた点で、イドに場面的構造を認めたロレンツァーとは異なっている。

ロレンツァーは1965〜70年にかけて、外傷性神経症、強制収容所生存者のトラウマ、戦争外傷についても独自の研究を行っていたが、その後、主たる関心を精神分析的知の対象・方法・科学的地位へと移した。
1960年代には、ユルゲン・ハーバーマスによる「精神分析=内省の科学」という立場と格闘するが、ロレンツァーはそれとは異なり、精神分析のプラクシス(分析家が実際に何をしているか)を議論の出発点とした。彼は精神分析がそれをどのように理解しているかよりも「分析家が何をしているか」を基盤にメタ理論を構築した。彼の基本命題は、精神分析とは言語の変容に関わる営みであり、それは表象representativesの象徴化/脱象徴化の過程という象徴理論の文脈で理解される、というものである。このメタ理論は次第に異なる象徴形成の平面に位置する相互作用形式」という概念へと展開されていく。ロレンツァーにとって精神分析は、自然科学と解釈学の中間に位置する独自の科学であり、後年彼はそれを「身体の解釈学hermeneutics of the body」と呼んだ。フロイトは精神分析を自然科学の領域に属するものと見なしていたが、彼自身は――暗黙のうちにではあるが、決定的な仕方で――自然科学と文化諸科学とのあいだの境界を廃し、新たな科学のパラダイムを打ち立てた。ロレンツァーにとって、「フロイトへの回帰(Back to Freud)」というスローガンは、自我心理学者たちとは異なり、メタ心理学的立場および欲動理論への回帰を意味する。精神分析の生理学的基盤を保持しつつも、彼はフロイトのいうところの「素朴な生物学主義」とは対照的に、欲動の心身的構造を社会的過程の産物として構想することに関心を向けている。この目的のために、彼は相互作用形式(form of interaction)という基礎概念を展開する。

という感じ。このあと、三層モデルとか二層のプロセスとかを用いてロレンツァーが解釈学とは異なる場面を理解する学問として精神分析を捉えたみたいなことが書いてある感じ。より巻き込まれる感じが強いってことだと思う。そして多分水平、垂直の二層は環境と関係で言い換えできるかもと思うけど言語以前の形象を記述するのって本当に難しい。ないけどあるんだ、ということをひたするいう感じ。兎にも角にも戦後のドイツ精神分析はフランクフルト学派第一世代との関連で理論化が進んできた感じなのかな。私はハーバーマスしか読んでいないからまとまったものを読まないとだな。あ、場面的理解って私が英訳から訳してしまったのはszenisches Verstehenなんだけど訳者もそのニュアンスを伝える英語がないからとりあえずこうした、みたいなことがどこかに書いてあった気がする。単なる場面ではなくて舞台とか上演とかに関わる単語だって書いてあったかな。忘れてしまった。Bohleberはローレンツァーとアルゲランダーの紹介をしつつ、ドイツの精神分析家としてトラウマの研究を続けている。アルゲランダーの紹介もローレンツァーの紹介と同じ感じの書き方で読みやすかった。今、メモを探す余裕がないので論文名がわからないけど2013年のIPAジャーナル。1960年代以降、ドイツの精神分析が自我心理学と離れていく様子をガダマーの「真理と方法」の影響などから書いていってたと思う。私はガダマーのこれも読んだことがないけど「遊び」について言っているところは別の論文で読んだことがあってウィニコットと似たようなこと言ってるなと思った。記述が似ているだけで違うのだろうけどね、全然。細かく検討しないとみんな似てる、みんな同じ、と言いがち。危険。ただ「わからない」「知らない」「経験したことない」と言えばいいものをちっちゃい同じ探しで括ってく。危険。

衆議院議員選挙のお知らせもきたけどほんと嫌だ。期日前投票も始まった。杉並区長の岸本聡子がこの時期にこういうことをされるとどれだけ困るかをきちんと書いていたがそんな声も届くはずもなし。今がどんな時期か、とか考える力もその気もないから今こうなっているのだし。声の聞けない政治家なんて本当にいらない。口角の上がり下がりとかどうでもいいがそれで読めてしまう内容しか言葉にできないなんてもっとダメだと思う。自分のためだったら誰の時間やお金を使っても構わない、という愚かな権力者イメージそのままの人をリーダーの位置に置いてしまったことで多くの人が迷惑を被っているわけだが、それに賛同する人たちが多いのも事実。誰かに秩序づけてもらわないとたやすく不安になるのが人間で、だから神は必要だったし、今も神的なものが求められることは多い。だからか?それにしても神っていうのも同じ人間の形でイメージできてしまうのが微妙に巧妙だと思う。私たちって同じ人間だと思うと自分がモノ扱いされてもなんか理由があるような気がしてそんなものなのかなって思っちゃったりする。なにかに強く違和感をもつって本当に難しくて、相手がなんらかの点において自分より弱い立場だと認識した場合にしかその違和感を表明できない場合も多いと思う。なんで自分がこんな目にあうわけとか、なんかおかしくない?と思うことはあってもそれを「革命」の動機にするにはそうしない理由がいくらでもでてくるのではないだろうか。もちろんそんなのは個人の自由だけど、と放っておくこともできるわけだけど、そういうことは考えておいたほうがいいのでは、と今の政治状況にあると特に思う。わからないけどさ、精神分析を受ける人は自分のそういう考えられなさをどうにかしたいと思っている人が多い気がする。そのせいで実際に辛い状況であることを自覚するプロセスで精神分析を求めることが多いのではないかな。というか、こちらがそういう状況だと理解するからこそ提案するというのもあるか。まあ、このへんは相互作用なので、まったく個別の出会いと導入のしかたになるだろうけど。理解するとか考えるというのもそれってそういうことじゃなくてということはそれぞれよくあると思う。「もうちょっと考えてから行動しなよ」というより「早い、早い」といっがほうがとりあえず効き目があったりするのと同じで考えろとか勉強しろとかそういう言葉ってすごく曖昧。私がいった考えるはそういうことじゃないとか言い出す不毛さってあるでしょ。言ってもわからないとわかってるくせにわからせようとしてる自分のことも嫌になるしね。嫌になっても止められないし。

なんかダラダラ書いているとキリがないけど仕事の時間。今日は早くも木曜日。東京はいいお天気。梅がきれい。がんばりましょう。

ろうばい
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just for a while,ドイツの精神分析家の論文

今日は晴れてる。バタバタして夜明けを覗くのを忘れた。もう1月が終わりそう。先週、やるべきことはほとんど今週に持ち越された。

持ち越されるといえばNetflixで『ザ・ホエール』を見たのだけど「語り手は自らの暗い物語を先送りする」というセリフが何度かでてきた。私がやるべきことを持ち越すのとはだいぶ意味が違って、英語だともっと違う。

because I knew that the author was just trying to save us from his own sad story, just for a while.

メルヴィルの『白鯨』との関連は別にしてもいいセリフだよね。just for a whileがいい。

こういうことをしているから色々持ち越すわけだけど昨日は調べなくてはいけないことを少し調べることはした。

非表象領域での出来事をどう記述するかという課題がずっとあるわけで(私のというより現代精神分析のかもしれない)、ウィニコット(イギリス)のネガティブ、ビオン(イギリス)の原初思考、アンドレ・グリーンを通じてのボテラ夫妻(フランス)の形象可能性、オラニエ(フランス)のピクトグラム、今回はバロス(ブラジル)の情動的ピクトグラムと読んでいきつつあれこれ考えていた。それでも書き物に用いた臨床素材について記述するにはまだなにか足りないと思っているところに今回出会ったのがドイツの精神分析家、Bohleber, W. (2016) Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’. International Journal of Psychoanalysis 97:1393-1398。2020年9月のIPA Off the Couch、Episode 66: Otherness, Anti-Semitism and Psychoanalysis with Dr. Werner Bohleberで声を聴くこともできる。2007年のSigourney Award Winnerでそこでの紹介を訳すとこんな感じ。

「Werner Bohleber博士は、その多大な知的エネルギーの多くを、特定の主題群に注いできた。それらは、個人レベルおよび社会的次元の双方におけるトラウマ、テロリズム、右翼過激主義、反ユダヤ主義、そしてドイツ国民社会主義(ナチズム)の時代という特異な歴史がもたらした帰結である。ドイツの精神分析家として、ボルバー博士は、ナチスの犯罪をめぐるドイツ社会の沈黙、恥、罪責という過去の問題に正面から取り組み、その関心を追究するにあたって、きわめて高い誠実さと勇気を示してきた。彼は、ホロコースト、暴力、過激主義、排外主義についての精神分析的理解に関して、重要な著書および論文を数多く著している。また、子どもの福祉に深い関心を寄せ、思春期、アイデンティティ、第二次世界大戦が子どもの発達に及ぼした世代間的影響についても研究を行ってきた。」

IPAの精神分析家になって、世界中の精神分析家と精神分析を取り巻く環境が身近になって、そこには常に戦争が関わってきたし、現在もそうであることを実感するようになった。IPAの中にも当然分断があり、議論も対話の場はあるがそこでの困難もきく。日本には日本の課題もあるが、世界に目を向ければもう少し別の対話が可能というか必要ではないか、と思いつつ、自分が属する場所は大事なのでそこにいる。組織に入り、国際的な学会にでることで世界の精神分析家が背負ってきたものの重みは増した。本の読み方も変わった。創始者フロイトがユダヤ人であることはもちろん、ナチズムによって亡命を余儀なくされた多くの分析家の移動によって精神分析は多様になったが、移動しなかった、もしくは戻ってきたら、あるいは母国にいながら沈黙を守る必要があった精神分析家たちもいる。ドイツの分析家たちがまさにそうかもしれない、など考えながら読んでいたら同じBohleber W. (2013)が間主観性について The Concept of Intersubjectivity in Psychoanalysis: Taking Critical Stockという論文も書いており、これはまだ途中だが、大変よくまとまっているので参照していきたい。

論文の中身について触れる時間がなくなってしまった。とりあえず今日は水曜日。健やかに過ごせたらいいですね。がんばりましょう。

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火曜朝

今日も寒そうな空。曇ってる。最近、同じ屋根や電線にいろんな種類の鳥たちがとまってて春だなあと思っていたのに今日は冬だな。

この前、SNSでゲームウォッチの画像が流れてきてとても懐かしかった。あれ、ゲーム&ウォッチなのね。言われてみればそのまんまなんだけど、私はウォッチの機能をほぼ無視していた気がする。スマホで時間確認するみたいな感じで使ったことない。ひたすらゲームを疲れるまでやる、みたいな。うちにはポパイとミッキーのがあった。小6のときかな、東京からの転校生がたしかファミコンを持っていて、やっぱり東京の子はすごいな、という感じでその子の家に集まったりした気がするけど(すべてうろ覚え)私がゲームにはまることはなかった。同じ画面に集中しているのが難しいのだと思う。

コリアンダーを買わねばと思って毎日忘れている。一度に使うのが小さじ1とかだからもうなくなりそうなのにまだでる、という状態。印度カリー子レシピを知ってからターメリック、クミンパウダー、コリアンダー小さじ1ずつのレシピをよく作るようになった。いつも賞味期限を切らしていたスパイスたちを期限内に買い足す生活になるなんて。カリー子さんはタクコ(1:1:1)と覚えて、と書いていた。大体すごく簡単にできるレシピばかりで気に入っているのだけどこの前「理想のカレーまん」レシピを載せててこれはちょっとめんどうだなと思いながら見ていたのだけどすっごく美味しそうだった。コンビニで買うとしたら肉まんだけど寒い日の空腹を熱さをホフホフする幸せで満たしているだけで味にそんなに満足するわけではないから自分で作るのもありだよねえ。カリー子さん、肉ぎっしりを皮で包むのすごく上手。私はこういうの下手だから結局具の少ないまんになってしまうかな。でもやってみるか。

今朝はなんとなくAndré GreenのClinical Thought/POUR INTRODUIRE LA PENSEE CLINIQUEの試し読みを読んでいた。これ英訳がないのに、なぜ英語の題が併記なのだろう。実は英語訳あるのかな。この前ここにも少し訳を載せた
Green, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71. と似たような内容がこの本には載っていそう。「臨床的思考」という用語でその他の思考との違いを明確にしていく感じかな。前提として精神分析の特異性が語られている様子。たとえばこんなところから。

「精神分析家が、分析中の人々を「病者」と呼ぶことは稀である。彼らはそれらの人々を患者、あるいはさらに一般的には被分析者と呼び、自らの実践を過度に医学化することを避けている。精神分析家は、医師が病者を「治療する」のと同じ仕方で、被分析者を「治療」するのではない。この場合、病者は医師の処方を厳格に守り、その指示に従うことを求められる。精神分析においては、この関係が逆転することが知られている。分析はまず、言葉を与えられる被分析者の手に委ねられている。」

などなど。フランスの精神分析家は哲学にも通じているし、それは一体なんなのか、ということを常に批判的に考えている感じがする。理論の歴史に対する敬意があるからこそ自分がやっていることに対しても批判的に内省する。精神分析はそういう姿勢にしっくり沿うものだからまあそうだなという感じはするけど。

今日はゆっくりめのスタートだからのんびりしてしまった。外は晴れてきた。今日は火曜日。いいことありますように。

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月曜日

すっかり朝になってしまった。夜とも朝ともいえない時間から冷凍スープ玉の動画とか手品動画とかをぼんやりみたり、うとうとしてとても意味ありそうな夢をみたり。その夢の中で全然落ち着きなく相手をびっくりさせてしまったり。どうして私は視覚刺激にひっぱられやすいのだろう。すぐ動いてそばの人をびっくりさせてしまう。仕事中は大丈夫になったけど。

札幌とNYから雪景色が届いた。札幌は雪景色とかいってられないくらい大変そう。うーん。私は絶対雪国で暮らせないと思うのだが、実際知っている人たちが暮らしているのをみると暮らせないとかいっている場合でもないし、そういうことになったら暮らす以外ないのだから、ないのだからなに、というわけでもないけど知っておくのは大事よね。大学時代の先輩もこの時期、一階部分は埋まると言っていたしな。NYは学校はもちろんいろんなことが中止とのこと。子どもたちが少しの起伏でソリを楽しんでいる様子も送られてきたが、ソリは常備品なのだろうか。あ、でもうちだって全然使わないのに雪かき用の大きいシャベル買ってあってあるからな。アメリカは今本当に危機的な状況だと思うけど子供たちの楽しそうな声をきくと少し安心する。

昨日は事例検討会もミーティングもあり私なりに頭を使って疲れた。先日MacのPagesで訳したアンドレ・グリーンのGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71.をWordファイルにしてOneDriveに保存してからWindowsパソコンで開こうとしたら見当たらず。ほかのファイルも破損しているから開けないとかいう表示がでた。私はこんなに長くMacでOneDriveを使ってきて、なんどか同じ事態になっているのになんとかなってきてしまったことでなにもしてこなかったのだな、とMacとのさよならが近づいてきている今になって反省してちょっと調べたらすぐ対処方法がでてきた。対処方法以前の私のわかってなさの問題という気もしたがとりあえずよかった。このMacがまだ新しかったころにOfficeをインストールしたのだけど相性が悪かったのかフリーズしてばかりでapplestoreでもそういわれるばかりだったのでpagesばかり使ってきてしまったのだ。学会発表とか原稿でWordファイルを求められるときはオフィスにあるWindowsのパソコンに送って手直して出していた。すると文字数が結構変わってしまったりして、常に時間も文字数もぎりぎりで書いているので大慌てということもよくあった。にもかかわらず、と話ですね。Macとはお別れしがたいたけどそういうめんどくさいことがないようにWindowsのパソコンを買ったし、作業はそちらに統一していかないと。

ということでアンドレ・グリーンの論文はみつかって、もう一度きちんと読もうかなと思ったけど文字を追うだけで内容が全然入ってこなかった、昨日は。昨日の朝は元気でやるべきことをやろうとパソコンの前にいたけど初期からの女性の精神分析家のこととか子供と大人両方を話題にしている精神分析家の動画とか本のアブストラクトとか関連の用語調べたりしてしまってあっというまに時間切れになってしまった。自分の興味にそっている場合ではないから、それを広げたり深めたりしていくためにもこの平日の隙間時間にできることをさぼらずにやらねばならない。梅もみにいかねばならない。どんどん景色が変わってしまうからね。雪の地域の人たちもどうぞお気をつけて。心あたたまる景色と出会えたら写真とって送ろう。

また新しい一週間、がんばりましょう。

裏の細い道にかわいい絵が描いてあった。工事用の柵なんだろうけど。
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Reading Freudでアンドレ・グリーンを読むなど。

昨晩は「つかれたー」と何度もひとりごちてしまった。今週もあっという間に過ぎた。今朝は夜明けを眺めていたら眠くなってしまい二度寝してNHK俳句を見逃した。最近、全然見ていない。俳句を遠くにしないようにしないと。好きは好きだからね。

昨晩は今年最初のReading Freudだった。今年度はフロイトの『心理学草案(プロジェクト)』(1895)を岩波訳で精読した。読み終えてから関連文献を読んでいるが、最初に精読したときはほぼわからなかったのにそれについて書かれたものを読みながら草案に戻るとなんかわかったような気分になるから不思議だ。内容を理解する、というより「あ、だからあそこでこう書いていたのか」とか「これってあそこに書いてあったことか」と文章が秩序だって立体的になってくる。するとフロイトが多くの読者を想定し、実際に多くの人に読まれた本に書かれていることの源泉を発見した嬉しさを体験できる。フロイトの発見を再発見する楽しみがある作業。

昨日、使用したのはANDRÉ GREEN “Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)の英訳版。NEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊で “The Fabric of Affect in the Psychoanalytic Discourse” 。これも英訳はAlan Sheridan。情動の観点からフロイトの著作を簡潔に紐解く手捌きは鮮やかで、今回は『草稿G』(1895) 『心理学草案』(1895)について書かれている箇所を読んだ。『草稿G』については前にもここで書いたがメランコリーについて書かれたもので『喪とメランコリー』を読む際は参照してもいいと思う。『心理学草案』についてアンドレ・グリーンはこう書いている。

「(・・・)理論的諸問題に取り組もうとする並外れて大きな努力を示すものであり、しかもフロイトがその後二十年以上にわたって、少しずつ展開・活用していくことになる仮説の大部分が、最初にして一挙に噴出するかたちで姿を現している最初の試みでもある。すなわち、量と質との関係、自由エネルギーと拘束されたエネルギーとの区別、経済論的仮説、満足体験と苦痛体験に関する最初のモデル、自我の最初の素描とその対象との関係、象徴化の役割、一次過程の定義、そして思考の理論――言語および意識との関係において、情動の攪乱的な役割が姿を現すその理論――である。この著作のきわめて大きな利点は、メタサイコロジーのこれらすべての基礎概念を、明確に連関づけて提示している点にある。もちろんそれは、随所に遊びの要素を含む、緩やかな連関ではある。しかしそれでもなお、きわめて重要な連関であることに疑いはない。」

と。まさにそうなのだけどあっさりまとめてくれちゃうもんだわね、とがんばって読んだ私たちは思ったりもする。グリーンのこの本は「情動」という側面から切り取っているという点では偏りはあるが、フロイトを読む際の補助線になる。アンドレ・グリーン=難解、なだけではなく英国対象関係論とフランス精神分析の架け橋になっているくらいだから、フロイトと私たちをこうして繋ぐことだってしてくれるのだ。昨年はグリーンをたくさん読んでたくさん訳してきたがこういう文献との出会いもあって報われている気がする。

さらに、なにのために読もうとしたのか忘れたが昨日はなんとなくGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understandingも読んだ。そしたら私がここでたまにぼやいているようなことがきちんと精神分析の危機として書かれていた。書くならこのくらいの熱量で書かないといけないのね、と思いながら読んだ。

ロベルト・カラッソ『Ka』(1998)の引用からかっこよく始まるこの論文、冒頭だけでも雰囲気は伝わると思うので私が機械翻訳を用いつつ訳したものを載せておく。

「将来、歴史家たちが現在の精神分析の時代を振り返るとき、彼らはこの時期が精神分析的理解の危機を経験していたと結論づけるかもしれない。私たちは、自分たちの学問分野の発展を、他者が擁護する諸理論との関係の中に自らを位置づけることで追っているつもりでいる。しかし実際には、私たちがそれを行えるのは、きわめて近似的で個人的な翻訳を通してにすぎない。とりわけ、それらの著者が自分たちと同じ思想的家系に属していない場合、私たちは、彼らと何とか結びつきを作ろうとする試みとして、そのような翻訳を行っているのである。そして私たちは、しばしば自分たちにとって異質なものの前で、礼儀正しさと敬意を入り混ぜた態度で、一般的な意見交換に参加する。最良の場合でさえ、彼らが推論を構築する基盤の妥当性について、私たちは懐疑的である。というのも、根本的には、私たちはもはや共通の理解の原理を共有していないからである。

フロイトは、ある種のバランスシートを作成するように、精神分析の仮説が公理として見なされるべきなのか、それとも研究の成果として見なされるべきなのかを判断するのは困難であると認めることで、この問題に間接的に言及している(Freud, 1938)。その結果、私たちは一方では交換における過度の緩さと、他方では問いかけをほとんど許さない強硬な姿勢とのあいだで引き裂かれることになる。しかしながら、この状況には利点もあった。それは、最も厳密なものであっても、いかなる科学的方法も、明確に限定された公理や基本概念の集合に基づいてはいない、ということを私たちに認識させた点である。フロイトはすでに1915年にこのことを指摘していた。ここで生じる問いは、私たちの発見がもつ価値に関するものである。

私たちは、共通の臨床実践という領域においてさえ、合意に達することができるという幻想を抱くことはできない。しかも、この境界自体も決定的な助けにはならない。というのも、精神分析の始まり以来、臨床領域はあまりにも大きく変化してきたため、今日ではその統一性を見出したり、その限界について合意したりすることが、かつてよりもはるかに困難になっているからである。さらに、この多様化の進展は、ビオンの用語でいう定義的仮説と、それに関連する理論的・臨床的原因病理論的概念の発展を促してきたが、それらはしばしば互いに乖離している。

この問題を考える上で最も適切なのは、構造と歴史との連関を形成しようとする思考である。ここでいう構造とは、精神を構成する様式と呼びうるものが、安定―不安定の勾配を中心として、収斂・補完、もしくは対立といったかたちで秩序づけられていることを意味する。葛藤の圧力は、それらの内部調整を硬直と解体のあいだで揺り動かす。

一方、歴史とは、時間性の展開、より正確には精神分析が示してきた絡み合った複数の時間性(Green, 2000)を意味する。構造と歴史との関係は、精神分析だけが独占しているわけではないが、この領域では他分野以上に複雑であることが明らかである。」

と続いていく。フヒー。古典を読む意義は伝わる人には伝わっていると思うけど、実践と理論を乖離させないように丁寧に織り込んでいく作業をさまざまな形でしていかないといけない。大変なことだ。がんばれたらいいなー。今日は事例検討会。多分これまでで一番ぎゅっとした話しあいができている会でもう何年も続いている。先日書いた子供の心理療法に関する一章もそこで受けたインパクトのおかげで一気に書けた。そういう相手がいるって本当に大事。若い人たちもいろんな年代、いろんな経験の方と患者のことを自己流ではないやり方で検討できて、検討会が終わる頃にはその人の人生が歴史性を持って立ち上がるような感覚を持てるような場を作っていってほしい。色々文句もぼやきもあるだろうけど、政治と同じで、そこを変えていくのは自分でもある。がんばれたらいいね。

いいお天気!良い日曜日になりますように。

新宿中央公園の梅とパークタワー
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オグデンの「自閉」など。

世界のニュースに気持ちが追いつかない。夜明けは今日もきれい。

昨日の朝、論文の手直しを少しした。いくつかの点でもう少し根拠をしっかり提示する必要がある。そのためには素材の方も別の箇所を使用した方がよさそう。結局、全体的な手入れが必要。夜はそういう作業する時間はないので毎朝、少しずつやっていくしかない。関連してオグデンの自閉ー隣接ポジション(autistic-contiguous position)論文を読み直したけど、その後の展開があまりされていないのもさもありなんという気がした。今手元にないのでこの部分が、と正確に引用できないけど、この概念が展開するにはタスティン、メルツァーといった自閉症に関する代表的な論客の言わんとしたことを理解するのはもちろんだし、彼らの使う「自閉」が自閉症だけを指しているわけではなく、誰にでもある心の機制であるという理解が必要である。それ以前に自閉症を含むさまざまな病理のインテンシブな精神分析的治療を体験しておくことは不可欠なわけだ。精神分析の概念はインテンシブな治療である精神分析体験で必然的に生じる患者と分析家の強い情動体験をもとに展開してきている。それが生じない事態を考える場合もそれまでの二人が積み重ねてきたい時間の中で明らかになってきた「生じなさ」に対する強い自覚が起点となる。それは相手に、あるいは二人の関係性にオグデンがいう意味での自閉的な要素を見出すことでもある。今は専門家でない人が「アスペ」とか「自己愛性パーソナリティ」とかカジュアルに使うようになったがそこに含まれる相手を見下した態度は知らないこと、わからなさへの耐性の低さを示しているのだろう。オグデンたちがいう自閉という言葉は決してそういう水準のものではないが、専門家であってもこの言葉で喚起されるイメージの偏りは大きいので、使用しにくい言葉だなとは思う。夢やイメージ以前の感覚的印象の散らばりによって混乱が生じたときに心がとる態勢を臨床素材の描写と共に記述していく難しさったらない。カモフラージュのためではなく、空間以前の表面でなされる反応としての模倣が対象との間でどのように形を変えていくかを記述する語彙を育てられたらと思う。精神分析は自分の中の圧倒的な語彙不足、言葉の誤った使用への気づきに打ちのめされ、それまでの自分の体験に対する見方がガラッと変わる。人は誰でも自分のことを棚に上げて他人のことを色々いっているものなので、ナルシシズムは傷ついても、人より自分という場所からまた始められるのは大事なのでは、と思うが、その苦しみも半端ないので、現代社会に生きる人の特徴を踏まえた上で理論と技法の更新が必要なんだな。常に大仕事という気がする。

今日も寒そう。風邪ひかないように過ごしましょう。

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次世代とかお菓子とか。

夜明け。うっすらとしたオレンジがとてもきれい。もうこんな時間なのに広い広い空はゆったり太陽を迎えていく。生き物たちはこの夜明けで季節が進んでいくのを感じとる。次の世代のための準備もする。人間も生き物のはず、なのにね。世代間伝達という言葉が悪い意味でしか使われないわけだ。下の世代が連鎖を断ち切ろうと無理しなくてもいいように上の世代が必要なことを下に引き継ぎながら自由にさせる工夫をしないと。もちろん分離に伴う不安や恐怖でしがみつきだって起きるだろう、お互いに。ひどいことだって言ったり起きたり言われたり色々するだろう。それだって大人の方がすでに場数踏んでるはず。今や当事者より理解できる心の状態のはず。動物たちの子育てに学ぶことは多い。彼らは時間を自分よりずっと大きなものに委ねてるからやることやります、という感じ。人間はなんなんだ。モモの時間どろぼうかよ。自分のことより次の世代のことを考えることは結局自分のためであるという実感をどこかで持つには自分も大きなものに抱えられているという感覚が必要。時間も空間も必要。自分より大きな存在、子供にとってみたらそれは大人。大人が仕事しろよ、と思うことは多い。エディプスの神話だって、大人たち何してくれちゃってんだよ、という話でもあり、臨床場面でも「仕事するのは私たち大人です」となることは多い。大人の中の赤ちゃんの子心はもちろん大事。それが大事にされてこそ、大人の仕事はできる。でもその心で現実を動かせるなんて思っちゃいけないし、そんな体験してはいけないしさせてもいけない。

それにしても今週は寒いね。乾燥もますますひどい。そして花粉。オフィスの床はフローリング。何か敷いてもよかったけどきれいにしやすいからそのままにしている。花粉は見えないけど毎日クイックルしてるから少しはマシかな。ハンドクリームとリップクリームもすぐ使える場所に。届く距離にないと本当に使わない。辛い思いするのは自分なのに。そんなだからかユースキンのhanaハンドクリームをもらった。これはいいね。ベタベタしないからすぐ作業できる。オレンジのぬるっとしたのにも助けられているけどどこか触ってしまうまでの時間を耐えるのが難しい。なのでありがたい。いただきものならきちんと使うはず。今のところこまめに使っているので小さい切り傷とかもできず良い感じ。

徳島で買ってきた我が家用お菓子も随分少なくなってきた。今はどこへいっても個包装でひとつひとつ帰るお菓子が増えているからいろんな銘菓を試すことができる。お正月明けに集まった各方面からのお菓子たちも加わって1月はとても豊かだった。いただいたものだと福田屋さんの「熊本和栗庵 謹製 栗好き」がすごく美味しかった。熊本は和栗の産地でもあるのね。

今日は我が家用土産で買ってきた徳島で一番有名かもしれない「金長まんじゅう」。包みをみれば「あー、見たことある」となる人も多い気がする。天保年間『阿波狸合戦』の金長狸をモチーフにした徳島を代表する銘菓。皮はチョコレートで狸色。徳島県小松島に伝わる民話。この民話、単なる恩返し話とは違って途中から「えー」となってしまったのだけど、やっぱり戦いなんて自分の中だけですればいいのでは、助けを得ながら、と思った。本当に戦ったら他人が傷ついたり死んだりする。しかも「あなたのため」とか言いながら。ダメでしょう、そんなの。主君のため、とか言って裏切りまくって権力者になっていく戦国時代ではないのだから。裏切ってるつもりはなかった、そこには協力もあった、とかそりゃそうだろう、みたいな話はまた別のお話。大河ドラマとかは楽しいですよ、それはもちろん。だからそういう話ではない。あー、難しい。

今日もがんばりましょ。

都庁からパークタワーとオペラシティ

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木曜朝

きれいな空。今週はいよいよ寒いけど冬の光をいろんなところで感じる。そういえば道路を敷き詰めていた金色の銀杏の葉がすっかりきれいにされたあともまだまだという様子で輝いていた大きな銀杏の木がすっかり葉っぱを落としていた。いつのまに?自力で落ちたのかしら。いや、落ちるときは力がなくなって落ちるのだろうけど、もういい加減冬支度しなさい、とお掃除ついでに落とされたのかしら。毎日見ていたのにそういう瞬間には出会えないものなのね。北海道はすっかり雪景色なんだよなあ。昨日の朝、あちらで開業している仲間から写真が届いた。公共交通機関が動くかどうか見極めながら早め早めに移動しなくてはいけないから大変そう。SNSで流れてきた羅臼に至っては猛吹雪の写真が流れてきた。住んでいる人にとってはいろんなことがいつものことなんだろうけど色々知ったら「え、そういうときはどうされているんですか」とお聞きしたくなることがたくさんでてくると思う。皆様、どうぞお気をつけて。

毎晩、もう寝ないと、と思っているのにすごく遅くなってしまう。少し前は遅い夕食を食べたらぐったり何もできず眠ってしまっていたのに。今も起きているだけでなにもしていないのだから寝ればいいってわかっちゃいるが。気温の変化とか乾燥とかいろんな環境の変化が身体に影響を与えているのだろうねえ。季節を感じるのはいいが、花粉を感じたりするのは辛いものだ。花粉症は春の季語。

袖口に菊の花粉や我が花粉 池田澄子

いつ使えなくなってもおかしくないと思いながら使い続けてきたMacBookAirがいよいよ動作が遅い。サイトがなかなか開かない。スクロールしても動かない。パソコンも歳をとると反応が鈍くなるのか。昔はこうやってよく待ちぼうけしたなあ。ダイアルアップ接続ってやつ。ダイアルアップ接続ってISDNとは違う?ADSLで「早っ!」ってなって光回線なんてつい最近な気分。今っていろんなことが早い、早すぎる。私が大学生の頃は書き物はワープロだったし、ポケベルやPHSは身内でしか使っていなかった気がする。フロッピーも大きかった。数年前まで高尾に「高尾の湯 ふろッぴィ」というローカルな温泉があった。これはどちらかというと「けろけろけろっぴ」と同じ方向性を持ったネーミングだと思う。いつも以上にどうでもいいことを書いている気がするがどうでもよくもない。「ワープロってなに?」「フロッピーってキャラクター?」とか言われる時代なんだろうから、今は。懐かしむ以前になんかキチンと記録しておいた方がよくないか、となる。公的な記録だって平然となかったことにされる時代でもあるが。

そうだ、なんでこんなこと思ったかって国内でも海外でも買い集めてきたポストカードやレターセットを誰にどう使うか問題について考えていたからだ。封筒があるものは中に紅茶とかコーヒーとかを入れて送るのもいいな、思っている。今、個包装の可愛いのがいっぱい出てるから。ポストカードは突然送るのも変な時代なのかしら。文通文化もなくなったみたいだし。高校生の頃は毎日会う友達と毎日手紙のやりとりをしていた。ルーズリーフとかでだけど。当時からカード類はちょこちょこ買っていたのだからそれでやりとりすればよかったのかもしれない。いろんなことがこんなに早く変わって、使わなくなるものがこんなふうにでてくるなんて知らなかった。せめて人のこころみたいなものはあるとかないとか言っていないで普通に守られていきますように。

いい一日になるといいですね。

白い梅も咲き始めた。
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水曜朝

今日もはっきりしない空。起きたら筋肉痛、と思ったがバタバタしているうちに治った。筋力維持のための筋トレは続けている。負荷をかけたスクワットをきれいにできるようになりつつある。低山であればそこそこのスピードで負担なく登れるくらいの筋力は維持している。せめてソウルにいくまでは維持したい。混んでる時期に混んでる場所に行くのは時間がもったいないからとにかく街歩きをしたい。ハングルが読めないから今から紹介されてたアプリに行きたい場所をいれてその辺の駅と通りの名前くらいはなんとなく頭に入れておくつもり。ソウルも素敵な本屋さんが増えてるみたい。有名な図書館もあるし。でも外国だと読めないから長居しないですみそう。そうでもないか。シドニーの本屋さんは雑貨もたくさんでお土産もそこで買うために通った。ああいう子どもも大人も集う大きな本屋さん、東京は少なくなった。私はもっぱら初台の本屋に行くわけだがオペラシティのなかにあるくまざわ書店にいくと地元のおじいちゃんおばあちゃんたちと店員さんの面白いやりとりをよく聞ける。ああいうローカル感はいいところだ。

そういえば東京オペラシティ アートギャラリーでは今日から企画展「アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち」が始まる。あそこは2階の収蔵品展寺田コレクションもいい。寺田小太郎(1927-2018)さんのおかげでいい作品がたっくさん見られる。私が行くときはだいたいいつもほぼひとりじめ。企画展のほうも平日はそんなに混んでいないことが多いからだいたいゆったり見られる。

この前、SOMPO美術館でみた松本竣介(1912‐1948)は相変わらずとてもよかった。若い頃に地元群馬は桐生市にある大川美術館でみて以来ファン。桐生の人ではなかったのね。どういう歴史を持った人か知らなかった。いや、なんどか展覧会にいっているから知っていたのだろうけどすぐに忘れて桐生の人ってことにしていたのだろう。しかし、若い頃に出会えたのはよかった。峻介は36歳で亡くなっている。こちらの出会いは大川栄二のおかげ。こういうコレクターの存在は大きい。お金を正しく使ってくれている感じがする。今の政治家は芸術的な素養がないのだろう、と思ってしまう。審美眼以前になにかを見る力というか。

こんなことつらつら書いている場合ではない、ということははっきりしていて土居健郎と森田正馬を楽しく読んでいる場合でもなかった、とわかったのだがもーむりーという気持ちにもなっている。が、しかし、私は富豪でもないし、基本給というものもないから自分に力をつけていく以外に稼ぐ方法はないからなあ。がんばらないと。こんなとき富豪や優秀な人たちをうらやましく思う気持ちにもなるが私にコレクターができるほどの眼や商才があるかといえばまったくないし、能力という点ではどの分野においても極めて普通。筋トレならこの年齢を考えればわりと優秀かも、程度なので地道に着実に。とかいって、それもまた難しいから急に変なことしだすわけだけどそれでも少しずつやるしかないものね、と自分で自分を励ましつつ、周りに助けられつつがんばりましょう。

みなさんもよい一日をお過ごしください。

時間によってはとてもすいてるオペラシティ