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空がきれい。まだ凍空って感じでもない。今日は結社誌と小さなオンライン句会の投句締切。私がはじめた小さな句会なのだけどいつのまにか人が増えていろんな句が集まる。結社誌より気楽に出せるから面白い句も多い。毎朝、空を見て、つくおきして、と俳句になりそうなものはたくさんあるが切り取り方が難しい。でもとりあえず締切までにはださねば。

昨日、土居健郎の本を読んでいて一冊目は眠くなるばかりだったけど二冊目は吹き出してしまうところもあって楽しく読めた。土居健郎は再読になるけど何も覚えていないものだね、相変わらず。しかし、この書き方ははっきりしてて対話調で楽しい。

朝ドラばけばけを見ながらおトキちゃんは人の尊厳がどう維持されるかをよくわかっているんだなと思う。昨日の最後の場面、すごく良かったな。色々書きたいけど時間がない。細々とやることいっぱい。あー、明るい空。良い1日を。

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困り事

朝焼け。乾燥がひどくていろんなところがピキピキ切れ始めたけど空はいつもゆったり。ノンカフェインの紅茶が熱くて口の中を火傷してしまった。身体を気遣っているのかいないのか自分でもよくわからない。昨日の夕方、肩が急に上がらなくなった。ぎっくり肩!と思ったけどそんな言葉があるのか知らない。この年齢の肩には荷物が重すぎたか。前日からいつもとリュックの持ち方変えたりしていたのも前兆だったかも。そのときはなんとなくやっていただけだけど。かなり痛いけど動かなくなる前に動かし続けている。これは多分動かし続けた方がいいやつ、な気がする。

いろんな仕事にお勤めの人の話を聞いているし、聞いてきたが、それぞれの会社や機関や部署で時間の流れが全然違う。学校もそうだね。チームやグループで何かをする場合、話し合いが当然必要になるから本当に様々な困りごとが出てくる。それは不満だったり怒りだったり身体症状だったりで現れることが多いけど、一度巻き込まれてしまうとなかなか抜け出せないことが多いから辛い。

自分がやりやすい人と自分がやりたいようにやりたいなら話し合いなんてしないでそう言えばいいのにね、のけものっぽい扱いしたり、まるで見えていない、聞こえていないかのように扱ったり、結局、自分と「合わない」人の話なんて聞く気なんてないんだから時間の無駄でしょう、と思えればいいが、すごく我慢することが当たり前になっている人も多く、まず相手より自分を責めてしまう。だって責められるようなこと言われたりされたりするから。他にやり方いくらでもありませんか、と思ったところで、相手にとってはそれ以外ないし、いろんなことはその人にとって必要な「形式」あるいは「手続き」なので、協力する気がないじゃん、時間の無駄では、と感じる方が去り際、距離の取り方を見極める必要がある。全体を去るのではなくて、その部分的な関わりから逃れるスキルが必要。残ったり続けたりすることになんらかのメリットを感じる場合は優先順位が必要になるけど、長い目で見てもそれが本当にメリットかどうか、心を健やかに保つという観点から見たらどうか、とか色々考えた方がいいし相談した方がいい。

誰かが欲しいものは自分も欲しいものだと勘違いしてしまう関係性も多いけど、私の臨床経験上「そうなりたいんですか」「そうしたいのですか」「それが欲しいのですか」と訊いて「そうです」と確信を持って言える人はあまりいない。むしろ逆に「なりたくありません」「いや別に」「いや全然」と即答する人が多い。困ってるのだから当たり前だが。それでも求める。

人間は不思議で面白い。いつもどこか一部を他人に乗っ取られている状態なんだと思う、もちろん私も。精神分析はそれを実感させてくれるので正しさも信頼も常に揺らぐし、不安からは全然逃れられないし、それこそ時間の無駄と思う人もいるかもしれない。でもそれも長い時間をかけての気づきで、そういう揺らぎの時間こそ大事だったと知るのは随分立ってから。最初は結構変化に対してポジティブな場合も多い。最初は分析に対する期待も理想化もあるし、いつもと異なる設定で何かをすると自分の潜在的な可能性に少し気付けるからいいのだと思う。

同時に、それは同一化によって自分を保つ方法かもしれない。精神分析の設定や解釈はインパクトが強いからそのインパクトに耐えるには分析家の機能を取り入れてしまうのが手軽。それはすぐに自分の無意識と齟齬を起こすだろうけど。結局、身体も、心も自分にとって健やかであることが一番大事。健やかとはなにか、ということも考えないとだけど。難しいけど無理せずいきたいですね。いいことありますように(そういえば酉の市行けばよかった!)。

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余裕

珍しくのっぺりした曇り空。鳥たちは元気そう。東京のどこもかしこも紅葉してきていつもの道も鮮やか。大きな柿の木は小さな柿をたくさん実らせてたくさんの鳥の声が聞こえてくるし(姿は飛び立つときしか見えない)、薔薇が一本だけ柵を飛び越えて咲いているのも素敵。もうちょっと寒いのだけど歩いていればすぐ温まる季節だからできるだけ歩いてる。目的なく歩いていたら行きたかったチーズケーキ屋さんが入っているビルが三角定規の形だと気づいて驚いた。秋は空を見上げることが多いからいつもと違う景色に気づく。朝早くてまたもや買うことはできなかったけど。と、私は呑気に散歩できる東京にいるけど秋田とか岩手とかクマが生活圏に出ているところは今までみたいに景色を楽しんだりできないのかも。本当に学校とかも心配ですよね。コロナがようやく落ち着いたかと思ったら別の脅威が、と何も気にせず何も考えず過ごせる時間がどんどん奪われていったら人間関係にもじわじわ影響が出てくるに決まってる。みんなにとってどうにもならないことだってわかっていても誰のせいでもないと思うことは私たちには難しい。自分を責めたり他人のせいにしたりどこかに常に原因を求める。ただただ状況を追いながら自分の状態を丁寧に観察することの重要性なんてまず実際的な余裕をくれという話になって贅沢品みたいな扱いになる。自分の心は物質的な何かとは関係なく働く可能性をたくさん秘めていていつでもどこでも触れていいはずのものだけど実際はそうはいかない。わたしたちは自分で自分を自分が他人をがんじがらめにすることでどんどん世界を狭くする。そうやって自分の心を守っている。動かせば動かすほど広げれば広げるほど辛いことが増えることもまた確かだから。本当に難しい。でも希望を、常に希望を、そして信頼を。いろいろ怖くて色々不安で、そういう毎日にほっこりする瞬間や口元が綻ぶ一瞬を。良い1日になりますように。

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細やかさ。

東の空がきれい。まだうちの南側の大きな窓に光は届いていないけれど。今日は1日晴れるのかな。晴れたらいいね、とあえて言いたくなるのはドリカムが流れていたからかも。

高校のときの文化祭のテーマソング(?)がドリカムと米米クラブだった。壮大さが新しかった気がする、どちらも。今はスピード感のある曲が多い。普通に踊れる子供も多くなったし、というか、恥ずかしさを感じる領域が変わったというのもあるのかも。SNSは監視社会の手段みたいになっているけど推しを生き生きと語る場所でもある。さらけだしたり晒されたり地獄にも天国にも近い。

朝ドラ「ばけばけ」、言葉をなくすシーンが多すぎてとても辛いがとても面白い。「生きてるー」っていう感じがどんな感じかそれぞれの登場人物がいろんな形で見せてくれる。高石あかりは本当になんでもできる。ひとつひとつの表情が見逃せない。それぞれの心の動きが細やかに伝わるように描かれているから見ている方も揺さぶられるわけで、他人のケースを聞くときもこういう細やかさが必要よね、と思う。これまで大きな場所でも小さな場所でもたくさんのケースを聞いてもらってきたけど、私は比較的、場に恵まれてきたと思う。なんでここでその質問に、その話題に時間を費やさねばならないだろう、と思うことはあってもある程度は自分の返答で場を戻すこともできるし、失敗しながら場慣れする機会をたくさん与えてきてもらったし、自分から求めてもきた。臨床は自分のやっていること以上に他人の臨床から学ぶことが多い、というより、精神分析なら精神分析ってなんなんだ、という懐疑をもちつつ、それがやっていることを確かめているようなところがあるので、自分の言葉で内側に入っていく練習がたくさん必要。外からなら、後からなら、色々言える、けど私は自分の体験と結びついていないことはあまり言いたくないし言える気もしない。

来年も6月の協会の学術大会で発表したいことはあるけど、かなり難しいテーマだな、と思って症例をどう使うかを考え始めるとまとまらない。消費するようなことはしたくないから。事例検討会以外では症例は素材として使用させていただくわけだから全てにおいて加工はするとはいえやっぱり昨今の他人にばかり厳しいあれこれを含めた受け取られ方を考えるにこちらもあれこれ考えざるを得ない。人はそんなに正しくない、というか少なくとも自分の正しさなんてめちゃめちゃ偏っているものではないか、だから目の前の人と一緒にそこを逃れる作業をしているのではないか、なんからの自由のために、と私は思うので注力すべき場所を間違いたくないなと思う。細やかに関われる範囲を少しずつ増やすべく今日もがんばりましょう。

光がいっぱいになってきた。晴れたらいいね。晴れみたいだよ。

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生ーのー形式、とか。

空がグレー。昨日はお昼に急に雨が強くなった。「やむかなあ」と窓の外を見ながら出先で用事を済ませて、ちょうど出る頃には止んだので嬉しくて少し遠回りしてオフィスに戻った。

さて、急な右傾化について相談してもらったことでこれまでに色々読んできたものと今の関心事が繋がった部分がある。「急」はおそらく「急」でないが、パンデミックみたいな事態も起こりうるから、いや、これも私たちにとってはじめての事態だっただけで、ある側面からみたら反復なのかもしれないし、何かがプツッときれるときが「急」を作り出すのだろう。『私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック』はパンデミック以前のコロナ下でいち早く反応したしたジョルジョ・アガンペンの発言集(でいいのかな)。物議を醸したこの本を噂にのることなく読むには導き手が必要で、私はそれを岡田温司の『増補 アガンペン読解』(平凡社ライブラリー)に求めた。岡田がまとめているように

「所有」に代わる「使用」のパラダイム、「貧しさ」のもつ存在論的な意義、「宗教」としての資本主義への批判、生命間の線引きやヒエラルキー化への抵抗、風景の脱我有化

などを長年主張しつづけてきた老齢の哲学者がパンデミック下で素早く声を上げる必要があったのはなぜか。何かがプツッときれる危機を感じたからではないか。アガンペンの「生ーのー形式」は「非自体的」「非人称的」な思考の共同の形式であり、分割機能を働かなくさせる無為の戦略と結びついており、従属する生ではないという、などと書いているとキリがないのだが、この「無為」についての岡田の本で一章割かれているのでもう一度きちんと読んでみる。潜勢力の存在としての人間、その「遊戯」というのは、精神分析治療において私たちが持っている必要のある観点だと思った次第。

最近、朝のんびりしすぎて結局慌てる。世知辛い。暖かくして過ごしましょう。

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水族館、回帰

今日は晴れではなかったのか。空が薄暗い。昨日は雨ではあったけど傘をさすほどではない時間もたくさんあった。雨は必要だけど傘を持ったりなくしたりするから少し嫌。

週末は小さな水族館に行った。しゃがんで水槽をみていたら「こっちいるよ」とつたないかわいい声が聞こえて振り向くと小さな女の子がしっかり私の目をみて話しかけている。お父さんも何もみていないかのようにそばにいた。一生懸命話しかけてくれるので「いるね、いろんなお魚いるね」というと「いろんなおさかな」と今度は私は言葉の真似をした。言葉を覚えはじめる時期の子供とのやりとりは本当に楽しい。新しいなにかを教えて、といわんばかりに限られた言葉と指さしと目力で私を惹きつける。

最近、身近な人が急に右傾化したという相談を受けることが増えた。これはどの援助職にも同じ変化らしく、福祉の方から何かいい書籍はないかと相談を受けた。個人の右傾化は突然に見えるかもしれないが一般的にはもうかなり前から言われていたことだと思う。なのに私はそれらがまとまった書籍を数冊しか思い浮かべられない。大体記事で読んでいるし、右傾化そのものを書名にしたもの以外はどれもこれも関係している気がするし、でもそれが相談に対してどのくらい役立つかは自分で咀嚼してみるしかない。

最近だと中島岳志『縄文 革命とナショナリズム』 (太田出版)が紹介しやすいかなと思ったけどこれも右傾化そのものを話題にはしていない。終章で論じられる参政党など右派政党が志向する「縄文ナショナリズム」がどう生まれたかという話題は共有しやすいかもしれない。戦後日本の精神史を縄文時代が担ったであろうプリミティブなスピチュリアリズムとナショナリズムに見出す本、という紹介ではわかりにくいだろうなあ。どういえばいいのあろう。試し読みとかあるかな。探してみよう。

水族館で出会ったあの子はどんな社会を生きていくことになるのかな。プリミティブなものに回帰するのであればあの好奇心に回帰したい。

晴れてきた。今週もがんばりましょう。

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関わり色々。

瞬間を捉えた句か。NHK俳句を見ていた。岸本先生、スラッと長い。今日は朝の順番が色々違う。日曜日だから。初回面接の事例検討グループはあるけど。

古賀先生が紹介してくれたJ.ミルトンの方法もそうだけど精神分析でもクライン派という学派の人たちはアクセスすべきものが明確。アセスメントだけでなくて、技法として、ここに注意を向けてアクセスしていけばトラウマでも精神病でも発達障害でも良い方向への変化は起きる、ということを多くの症例を通して知見を積み重ね続けているから読み物としてはクライン派の方は説得力があってわかりやすい。心の中のぐちゃぐちゃや大混乱を抱える治療者の心の機能をコンテインするというけど、コンテイナーがきちんと整理された引き出しみたいな感じがする。刺激の処理が早いイメージ。心が何かと出会う瞬間の蠢きやざわめきを表す用語や仮説をいっぱい持っているからこそ。

一方、学校の先生や保育士さんにコンサルテーションするときはそういう瞬間よりは生活の中に行動や状態として現れているものを個別の言葉で記述しなおすところから。大抵は似たような価値観に基づく同じような語彙でまとめられてしまっているから。そういうときは心の動きの細かいことは言葉にせず、その心がどういう環境の中で生活しているか、その心を荒らしたり悲しませたり安心させたりする環境はどういうものかに注意を向けて、実際に起きているパターンを共有しつつ、関わる側が行動しやすい形を提示していくことをしている。いろんな人がたくさん目の前にいる状況で何か一つの方向を提示して、かつそれを一旦は受け入れてもらわなければいけないのが教育だから、集団を大雑把に把握することから始めないとだし、本当に大変だと思う。精神分析も組織を把握する視点は持っているけど、学校に関わるときは学校を取り巻く状況や仕組みを先に把握した方がいいと個人的な経験では思う。保育園だって公立でも民間の会社が運営しているところでも独自の反復しやすい問題があって、そこで働く人たちはそれがいつのまにか当たり前になって、おかしいと思う人は自分が変な感じになっていって、それをどうにかするには染まるか辞めるかみたいになる、みたいなことはよく起きていて、この数日間、数週間をどう耐えるか、みたいなところに注力する場合も、今あなたはこういう環境の中にいるらしい、ということを示しながら、そこでの反復と困りごとを結びつけて、子供側に原因を押し付けない視点を提示しながら担当職員や管理職に働きかけたりするわけだけど管理職も「上の人」とのあれこれで相当大変なことになっていたしする。そうなってくるともう政治の世界なので、やっぱり政治家選び大事だよな、とかなるけど、とりあえず現場は常に緊急の問題があるので、どうしても耐えることをどうがんばるか、みたいな方向の話になりがちかな。辛い。私が若い頃は学校の風土に関する研究とかが一時流行った気がするけどあれはSC導入の初期だったからかな。うーん。

眠くなってきたけど行かねば。東京は雨。どこいっても咳する人が増えている感じがする。学級閉鎖も起きているし。暖かくして過ごしましょう。

笹本晃 ラボラトリー
@東京都現代美術館
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お菓子、鳥、「精神分析を導入する」

今日の空は少し雲が多い。予報では晴れ間もあるみたいだけど。昨晩の月もきれいだった。月ってあっというまに欠けていく。それをみてふと来年のカレンダーのことも考えた。霜田あゆ美さんのカレンダーが来年も出るといいのだけど。

今朝は群馬のぐんまちゃんのコーヒーと新潟の駅ビルで買った安田牛乳のレーズンチョコサンド。あと近所のスーパーの柿をいただいた。レーズンチョコサンドは見ると買ってしまう。今は大抵個包装のがあっていろんなお菓子を試すことができてとてもいいのだけどこれは3個入りしかなかったから身近なところで分けて食べた。お土産はまた別の美味しそうなものがたくさんあったからそっちを色々。みんな選ぶものが違うから面白いなと思う。

あ、オナガが鳴いている。この前、細い道をオナガの声がすごいな、と思いながら歩いていたら目の前にたくさん飛び交っていてびっくり。小さな森のおうちみたいな庭の木にたくさん。写真を撮ったけど鳥って本当に撮るのが難しい。動きが早いし、撮っても木に埋もれちゃって見えない。電線に止まっているのはシルエットみたいになら取れるけど天気と時間によるなあ。新宿中央公園の高い木々を飛び回るのはよくみているけどあんなにそばであんなにたくさんみたのはじめてできれいではあったけど怖くもあった。

そうだ、学会で学んだことを紹介しようと思ったのだった。精神分析学会の臨床ケースセミナーという枠で、私たちのグループは「精神分析を実践する」という題でIPA基準の精神分析実践を素材に話しあった。講師は日本精神分析協会の訓練分析家でもある古賀靖彦先生。「精神分析を導入する」ということで、S.フロイト、N.コルタート、J.ミルトンのアセスメント技法を紹介してくださった。ミルトンは古賀先生がイギリスで訓練をしていたときのアセスメントのスーパーヴァイザーだったそうだ。その方法は「現代精神分析基礎講座 第5巻 治療論と疾病論」(2001,金剛出版)の「第1講アセスメント」に詳細に書いてあるのでぜひチェックしてみてほしい。具体的で興味深い。セミナーで古賀先生が複数の方法を提示してくれたように、アセスメントの方法に正解があるわけではなく「アセッサーの性格や嗜好、精神分析の準拠枠(学派)、置かれている臨床状況(文脈)など」によってそれらは異なる。これは私がオフィスでやっている初回面接を検討するグループでも毎回話されている。いろんな現場のいろんな事例を聞くことはだから大切なのだ。学会のときは、私がカウンセリング→精神分析的心理療法(週1回)→精神分析的心理療法(週2回)→精神分析(週4回、カウチ使用、自由連想)と移行した事例を素材に話し合った。「導入」については「実践」の前提としての講義で、実践全体はやはりアセスメントに基づいていることも確認でき、大変勉強になった。私の初回面接グループにも役立てていこう。

自分の記憶がおかしいときとか感情が揺さぶられるときに私の海馬が、とか私の扁桃体が、とか脳の働きを感じようとすることがある。脳の方から考えると自分は入れ物でしかない感じが強まるのでこの入れ物としての身体をどうしましょうと思ったりする。筋トレメンテナンスしかしていないけどしているだけいいか、と感じるのが私の脳でもある。村田沙耶香の「となりの脳世界」というエッセイは村田沙耶香の体験だけで面白すぎるのだけど、私の仕事もいろんな人の脳世界にちょこっとお邪魔するものだからそうやって協力してお互いにいろんな自分への経路を作れたらいいな。

良い一日になりますように。

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大福、脱錯覚、「甘え」

朝焼けがきれいだった。今日はすっきり晴れるのかも。あんまり寒くないし。昨晩はとてもきれいに月が見えた。立待月。月は名前がついてなくてもいつもきれいだけどね。

昨日は下曽我駅前の松栄堂さんのお土産があってすごく遅い時間だったのにいただいてしまった。今日中って言われたし。開運勝餅大福と五郎力餅。三郎って読んでいたら五郎だった。包装の折り目のせいだけじゃなくて「五」の下の線が太くて上にかかってたから。ここのお菓子、甘すぎなくて本当に美味しかった。私も昔行ったことがあるらしいのだけど曽我梅林に行ったことは覚えているのだけどなあ。ハイキングに行くと大抵その町の和菓子屋さんがあるので1つ2つ買ってその場でいただいたりする。お茶を出してくれるところも多い。どこからきたの、とかいわれながら登ってきた山の話やその町の話をする。梅まつりがあれば屋台で買ってしまうだろうし記憶がないけどまたここのいただきたい。大福も美味しかった。開運しますように。

イスラエルのヒズボラ空爆、ガザに対してもそうだけど合意ってなんだろう、合意に違反っていえば攻撃が正当化される世界ってなんだろう。NY市長選でトランプとの対立姿勢が明確な民主党左派マムダニ市長が誕生したが、すごいエリートなのね。インド系移民であるとかムスリムであるとかを押し出すのではない方法で、つまり多様性を打ち出すのではない方法で格差拡大に対する政策を打ち出したのが勝因とも聞く。物価の高さはNYに住んでいる知人から聞いて驚いていたけどどうなるのか。私はアメリカンドリームが信じられていた時代の子供だと思うけどそんなもの本当にあったのか。なんでも時間をかけて現状となるとはいえ、アメリカがその脱錯覚に耐えるつもりがあればトランプ大統領を選ばないだろうし(現在の支持率が低いとはいえ)、働け働けでもなく取り締まり強化でもなく庶民が「普通に」暮らすために「普通の」ことをする(お金の流れを止めないとか)のってなんて難しいのだろう。ガザのことを考えているのに常にアメリカが背後にいるのが当たり前って思考を私がしているのもどうなんだよ、と思うが、

昨日は土居健郎の「甘え」概念に立ち返ってみた。相互退行の文脈で。たとえば、子どもが親に甘えるだけでなく、親が子どもに甘えるという一方向ではない依存、相互依存において投影しあう状況は自我境界を曖昧にする方向性で、それを退行と考え、記述すること。これもナルシシズムの文脈だけど。安易にナルシシズムを肯定するのではなく、しかし欲動の次元において作動する心的構造を探求しつづけること。脱錯覚できる心はどう成立するのか、しないのかとか考えるときにかなり射程の広い「甘え」概念はどう使えるのかな、とか。臨床的には「甘え」は瞬間的な一致の現れだと思うけど、とか。日本の精神分析家としては土居健郎を知っている世代の分析家が生きている間に対話できたらいいのだけど学べば学ぶほど大変な概念だと思う。

いいお天気。どうぞ良い1日を。

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新潟県弥彦村、エルリッヒ論文、村田沙耶香

東京。暗い。今朝は寒くない?暖房はつけるけど。夏の間、冷蔵庫に入れておいたフィナンシェを熱いお茶といただこう。柿もある。あっという間に秋になり、明日11月7日(金)は立冬。なんでも冷蔵庫に入れていた季節がようやく終わったのになんて慌ただしい。週末、新潟で時間があるなかで紅葉を楽しめたのはよかった。新潟駅も朱鷺メッセ周辺も赤に黄色に美しかったが、弥彦公園もみじ谷が素晴らしかった。まだ一分とか案内されていたが十分!十分きれいだった!弥彦山に登る予定の人と一緒に行ったのだけどあいにくの雨で一緒に弥彦神社やもみじ谷を散策。紅葉山もいろんな色に色づいていたから晴れていたらさぞ鮮やかだったでしょう。弥彦駅に着いたときは大雨でお店の軒下で雨宿りしたり、小さなお菓子屋さん分水堂菓子舗でパンダ焼き(人気!)を食べたり、そのお向かいのおもてなし広場で足湯で温まっているうちに小雨になり出発。弥彦神社までの道歩きも楽しい。弥彦神社では菊まつり開催中。いろんな菊があるねえ、と菊まつりに出会うといつも思う。大きな神社で鹿園もあって、良いニワトリたちもいっぱいいた!こんな豪華な並びは珍しいのではないか、と思った。弥彦神社を出てまた散歩しながら弥彦公園もみじ谷へ。とてもきれい。夜はライトアップもするとのこと。山の方へ伸びる道を見つけて行ってみたら湯神社に続く鳥居が続いていた。こんなところに異世界への入り口が、という雰囲気。細い道をどんどん行ってみたが10分くらい歩いても先が見えず、ふたたび登りにさしかかった。そのあと、弥彦ブリューイングに行ってから帰りたかったから霰も降ってきたので引き返した。あとから地図を見るともう少しで到着だったらしい。湯神社って面白い名前、と思ったけど弥彦温泉発祥の地なんだって。弥彦ブリューイングも無事にやっていてお店の人たちといろんなお話をして楽しかった。これはこれで色々書きたいがまたどこかで。帰り道は小雨だったけど寒かったー。これからこういう季節が来るのだなあ、と怯えた。寒いの本当に辛い。でも新潟はいいところだったな。東京から遠くないし。新潟市なら精神分析で開業してもやっていけるかもしれない、というか私は日本全国を巡りながらそこで精神分析で食べていけるかということは必ず考える。「最初はここのクリニックで雇っていただけないかな」とか奄美大島でも思った。奄美大島はね、住んでいる人やコロナ禍で移住してきた方とお話をした限り、コミュニティの繋がりの効果がすごそう。そこに精神分析的理解を活かすことはもちろんできるだろうけどね。

テレビをつけた。今日の東京は気温より寒いらしい。昨晩、月を楽しみにオフィスを出たら何も見えなかった。今日は見えるかな。

昨日、Erlich, S. (2025) Is psychoanalysis relevant to the Israeli–Palestinian conflict?. International Journal of Psychoanalysis 106:165-173をめぐる、エルリッヒとマイケル・パーソンズのやりとりについてちょっと書いた。

エルリッヒ先生は1937年生まれの88歳。ドイツ生まれのユダヤ人で幼いときに「水晶の夜」も体験し、ドイツを出てイスラエルで育ったという。この論文の中にもKristallnacht、1948 Arab–Israeli War、Yom Kippur War、Palestinian rocket attacks on Israelの体験について触れている。つまり当事者として、かつ精神分析家として書いている。今回のやりとりによって、エルリッヒが強調したいところが明確になったのはよかった。以前この論文を読んだときには気づかなかったことや外的現実をどう捉えるかという昔からある議論の再考を促された。イスラエルという国の歴史を学んではいるけど、立場が違えば書き方も変わる。私はどう書いたらいいか全くわからないのでとりあえず身近なところで話すことからしてるけど。

IPAの精神分析家になってよかったと思うのは精神分析を世界中の他の国と共有するものとしてリアルに考えらるからで分断とか特権とか権力とかいう言葉をたやすく使いたくない状況に身を置けるから、精神分析の限界についてずっと意識的でいられるから、かもしれない。

昨日、村田沙耶香『世界99』が第78回野間文芸賞を受賞したとのこと。そりゃそうでしょう!とこの文芸賞についてよく知らないけど思った。あれはすごかった。朝ドラ「ばけばけ」も人間のぞくっとさせるところを描いているが、村田沙耶香が書く人間は酷すぎて、でも知っている世界すぎてもうなんと形容していいかわからない。うわあ、うわあ、ということの連続をなんでもないような筆致で書く村田沙耶香が恐ろしくて大好き。おめでとうございます。

なんだか寒くなってきた。厚着しよう。どうぞ良い1日を。

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デイサービス見学、エルリッヒ➖パーソンズ論文

気持ちいい空気。今日も厚着してるけど寒さは週末ほどではない。新潟は寒かった。

昨日は学生の頃にはじめた障害児との仕事からの広がりで知り合った人たちと会ってきた。最初はとてもこじんまりと始まった地域密着型デイサービスの利用者さんが増え、私が伺った時間も小さなお部屋の大きな机は満席。様々な介護度の方が看護師さんに盛り上げられながらかわいいどんぐりの葉っぱを折り紙で作っていらした。よく言われていることではあるが何か作業をしているということ自体が本当に大事と実感するとのこと。そうだろうなあ。自分の老いだって視野に入ってきた今、昔こういうところに伺ったときとは違うものを感じた。それにしてもこの大変な仕事を生活の糧にしていくのは本当に大変で、行政の枠組みでやらねばならないこと、必要だからやってあげたいこと(現場にとってはこちらこそやらねばならないことだが)など優先順位って本当にそれでいいのかということもあるし、何をやるにも人が必要で、そのためにはその人たちの生活を守る人件費が必要だがお金のことが何よりも難しい。そして居場所だけではない(ひいてはすべて居場所のためだが)関わりのためには知識も実践も必要だが若い力が育って盛り上げてくれるような未来がみえている領域ともいいがたい。なくてはならない仕事なのに。昨日は幼稚園教諭で作業療法士の友人も一緒で、みんな若い頃からの知り合いなのでそれぞれの近況報告をしつついろんな話をした。難しいことだらけだが面白い話としてもそれを語ることもできるのはお互いを知っている気楽さゆえ。当時、まだ生まれていなかった子たちの今の年齢にまず驚く、というのを毎回やっている気がするが、その分私たちも老いた、ということも当然セット。昨日伺った場所は土曜日は「こどもの居場所」と「みんなの食堂」という地域の子供たちが気軽にやってこられる事業もやっている。子供から老人まで当たり前のように一緒にいられるようになるにはそういう経験が必要だと思う。私たちはどれも自分が通る道なのになぜか分けてしか考えられないときもある。私たちは重度の障害児と関わってきたのでとても具体的なこととして彼らのことも話すが、そういえばそういう場は少ないような気がする。専門家としてではなく生活に当たり前にいる人たちのことを考える時間と場所。専門家として働いて生活を維持しているわけだから有意義に連動させていきたいな。具体的に話せば話すほど個別の事情が複雑に絡み合っていることがわかるのでなんともいえないとみんなで頭を抱えることのほうが多いがそういうことが必要だと思う。それにしてもみなさんパワフルだった。「もうこれで最後かな」というのをきいて「ここまでこれだけのことをやってこられたのにまだやりたいことがおありなのですね!」と驚くことも会うたびにやっている。ほんとすごい。人生の先輩方をみれば私もまだまだ残りの年数を気にせず色々やれるかもという気もするがフロイトの精読しているうちに人生終わりそう、と思うこともしばしばなので私の時間というものを考えていかねばならない。予測通りにいかないという前提ありきだしどこで終わっても道半ばだろうけど。

昨晩はおすすめの論文ででてきたParsons, M. (2025) Israel–Palestine and the Internal World. International Journal of Psychoanalysis 106:854-855を読んだ。

これはErlich, S. (2025) Is psychoanalysis relevant to the Israeli–Palestinian conflict?. International Journal of Psychoanalysis 106:165-173に異論を唱えるマイケル・パーソンズの論文。

あー、エルリッヒ先生のこの論文、私も読んだよー、なんともいえない、本当に難しい気持ちになったよね、と思いながら読んだが、これはこれでどうなんだ、その精神分析的理解はエルリッヒ先生と十分共有できているところなのでは、と思い、うーんとなっていたら、エルリッヒがパーソンズに応答したものも同じ巻に載っていた。

Erlich, S. (2025) Response to Parsons: Correspondence Concerning the Psychoanalytic Controversies Section on the Israel–Palestine Conflict (Issue 1, 2025). International Journal of Psychoanalysis 106:856-857

うむ。パーソンズの受け取り方の失敗であることもわかるが、こういう対話って本当に難しく、論点が拡散してしまいがちだからエルリッヒの最初の論文に立ち戻りつつ考えることが誠実であると思う。イスラエル出身の精神分析家として、イスラエルの歴史を生きてきた当事者として語ることの痛みを抱えつつ、依頼に応えて書いてくれたものだし。これを最初に読んだとき、言葉を失うような感覚と精神分析のなせること、なしてきたことへの複雑な思いが押し寄せてきた。エルリッヒ先生についてはシガニー賞のウェブサイトを載せておこう。前のページはTAKEO DOIだね。

今日も色々な話をしながら過ごすのだな。みんなはどんな一日。がんばろう。

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新潟で、学会で

朝焼けがきれい。連休は新潟を満喫した。信濃川沿いをたくさん歩き、大きな橋をいくつか往復し、たくさん写真を撮った。いつもと違うことを感じたり考えたりしたかというとそうでもないし、新潟の方言もそんなに違いを感じなかったし、群馬出身で新潟はスキーとかで身近なせいか、親しみやすい街だった。植物園や弥彦山の方にも行った。激しい雨に降られた時間もあったが、ずっと雨予報だったわりに傘が必要ない時間も多かったし陽射しを楽しめる時間もあった。幸運でした。

精神分析学会は私はあまりコミットしていないが教える側として若い方の話は聞く。でも学問としての精神分析に自分が何を期待しているかと、学会に何を期待しているかは全く別物だと思うので、それぞれがじっくり自分の仕事や生活を考える機会があればいいと思う。私は学問としても実践としても精神分析を実際に使用する立場としてそういう時間と空間を守っていきたいと思う。

今回、私は人は人をそんなに簡単に信頼しないというか、素朴に信頼という言葉を使うことはできないんだ、という話もしたが、同じ病理を持っていてもあまりに違うひとりひとりとの関係を辿るときに素朴な信念は同じような物語を導きやすいように思うので細やかな使用を心がけたいと思う。

今日は若い頃から自閉症児の親の会とのつながりでご一緒してきた人生の大ベテランの方に会いにいく。地域に根ざした事業を着実に展開されてきたエネルギーはものすごいものがある。久しぶりだりだなあ。限られた時間だけど色々お話をうかがってこよう。

今日は火曜日。連休後は曜日の確認が必要。一日だけ短い1週間がんばりましょう。

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歩いた。

夜明けまでまだ時間がある。いつもよりずっと早く眠りについたので何回目覚めても夜明けが遠い。おなかがすいた。

昨日は3万歩も歩いてた。学会初日は土地勘がないから行きはバスを使ったけど帰りは歩いてみたら意外と近かった。なので昨日は朝イチの司会担当だったけどのんびり歩いていった。信濃川が日本海に流れ出るあたり、佐渡汽船ターミナルのほうまで川に浮かぶ船を新鮮な気持ちで眺めながら歩いた。まだ少しだけ時間があったので朱鷺メッセ31階の展望台に向かったらエレベーターが全然来ない。私が先頭だったので私ボタン押したよね、と心配になってもう一度押してみたりしたがライトもついてるし大丈夫、でもこない、後ろにのびてきた列にドギマギしていながら待っていたらようやく来た。360度みられる仕様ではなかったが朝は雨ではなかったので思ったより遠くまでみえた。海はいいね。ひろーい、と思いながらもさっきのエレベーターがくる遅さを心配してすぐに戻った。ちょうどのぼってきた人たちがいてすぐにのれた。で、会場に駆け込み発表者の方とご挨拶して無事にお役目を終えた。いろんな人の意見をきくのは面白い。

それからはずっと歩いていたわけだが、ちょっと道を変えたり、向かう方角が逆になったり、同じ方角でも反対側の道路を歩いたりするだけで景色が変わる。本当に変わる。朝昼夜でも全然変わる。お天気が変わるだけでもびっくりするくらい変わる。画家が何枚も何枚も同じ場所を描く理由がわかる気がする、とかいってそんな理由ではないかもしれないが、画家の目にはわたしが感じるよりずっと微細な違いがみえているわけだからすごく違う景色がみえるのだろうねえ。それを絵にしてくれたのを私たちはみているから美術館とかは楽しいのだね。それにしてもアパホテルはどこいっても本当にいい場所に建ってるなと思う。ランドマークにしやすい。

新潟のいいところをたくさん知れたのでいろいろ書きたいけどいいか。今日もお仕事終えたら歩こう。雨っぽいけど。

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新潟の朝

新潟の朝、だが空はまだ夜中。昨日、ホテルの窓からみえた無機質なビルは暗闇に溶けてしまったみたいで形がみえない。たいていはひとつふたつ電気がついている部屋があるし非常口とかなんらかの明かりはあるからここまで真っ暗は珍しい。雨は降っているのだろうか。昨日は予報と反して晴れ間もでたがひどく降ったりもした。

第71回日本精神分析学会にきている。昨日、朝早い新感線で東京をでた。昨日の東京は朝から暖かくて薄手のダウンを羽織って出てしまって失敗したか、と思ったが新潟駅に着いたら寒くて、一度向かったバス停から慌てて建物に退散。ストールまでまいてしまいました。バスがでる時間に戻るとさっきは2、3人しかいなかったバス停に長蛇の列。がーん、と思ったが乗れた。登山に行くときに登山口に向かうバスに長蛇の列ができることが多いのがバスって結構な数の人を乗せてくれるんだなあ、と思っていたので今回も乗りはぐれることはないだろうと、そばの人が乗れるかどうか何度も心配しているのを聞きながら吞気に構えていたら乗れた。ありがたい。しかし厚着をしてしまったのはここでは失敗。途中、混雑した車内で「あつい・・・」とつぶやく声が聞こえて心の中で強くうなずいた。人は知らない相手にもこうして応答しているものですね。SNSなんてまるで長い付き合いかのような応答が多いけど、日常のみえない応答癖が可視化された世界なのかもしれないですね。わからないけれど。

今回は依頼された仕事のみで当日にバタバタ準備するようなこともなく、と思ったけどなんでもパスワード、なんでもカード時代に適応できていないことが可視化され(可視化って言葉を使いたくなっている)、進行形で困っているけどどうにかはなるので困り感は少ない。がっかり感は強い。

とはいえ、次の締切まで少し余裕がある(はず)ので移動時間は仕事もせず景色と音楽を満喫した。車窓から移り変わる天気と山や田んぼを眺めつつ、オアシスのLIve’25 Tour Official Setlistを聴き、お隣の方が長岡で降りてからはノリノリだった。時間も空間も余裕があるって本当に大事。ハンドクリームとか化粧水に時間をかけてはいいことをしている気分になった。自分を意識していたわるのは病気のときだけに必要なわけじゃない。いたわり方を知らないといざというときにできないのだから大事。

先日、第71回角川俳句賞を受賞した句友の千野千佳さんの受賞作「愛嬌」50句が載っている『角川俳句』を買うついでに紀伊国屋書店に長居して至福だった。千佳さんは新潟県出身だからせっかくだから千佳さんの故郷で買うぞ、と思っていたのだった。

匙いれてドリア浅しや漱石忌

アイロンをンと押しつける年の暮れ

とか取り合わせにも千佳さんの豊かな生活と俳句大好きな感じがみえる。生活をほんのり明るくほんわか面白く切り取る千佳ぢから。

団扇の子はうばうに風送りけり

虫売にこどもたやすく近づきぬ

これらも誰もが知っているはずの生命力を改めて描写する包容力を感じる。私は結構千佳さんの句で泣いてしまうことがあるのだけど、力の抜けた言葉ってこんなにたくさんあるんだ、ってなんだか励まされる。精神分析は言葉が仕事道具だけどこういう普遍的な言葉を使うにはあまりにも意味に囚われている世界だと感じる。フロイトはそこから言葉をつまみだすことをやってくれたはずなんだけど、それがいかに困難な試みであるかも示した。だからいろんなことが必要なんだと。人間社会は難しい。その人にとって支えとなるような言葉を一緒に生み出しておおらかに生活していきたい。

紀伊国屋では普段いかないような棚とか新潟が特集されているコーナーも二度見して戻ったりした。新潟はやっぱりお酒。酒造巡りもしてみたい。そういえば来年の手帳があるな、と思ってみていたら新潟県人の手帳みたいなのがあって面白かった。同じ建物にLoftが入っていたのでそこものんびり巡った。すごく久しぶり。そこにも手帳がたくさんあった。長年、手帳を使ってきて全然使いこなせていないことがわかったので、 あまり考えずに適度な値段の気に入ったのを買ってそれに私が合わせていこうと思ったのが昨年。今年もそういう感じで買ってみたけどホテルに戻って改めてみたら文字が薄い?私の目のせい?と思ったけどやっぱり薄いと思う。薄いほうがかえってよくみようとするから見間違えない、とか私の場合はあるかもしれないが、大事なところを際立たせるのに蛍光ペンとかいらない感じはする。インクがなくなって文字が薄くなったとかならちょっと面白い(問題ではあるが)と一瞬思ったけどこんな均一に薄くすることはできないからこれがおしゃれだったりするということかもしれない。なんでも拡大しないといけなくなった私も逆方向の刺激を入れていく必要があるのだろう、きっと、とさっきまた開いてみたが今日もやっぱり薄かった。あれは夢だったのではないか、という期待も少しあった。

そんなこんなで荷物を増やしていたら肩と腰がきつくなってきたのでホテルに荷物を置きにいこう、とカラスの群れみたいなのを見上げながら歩いていたら突然すごい雨が降ってきてびっくり。さっきまで太陽もちらほらでていたのに。あと5分待ってくれればよかったのに一瞬でかなり濡れた。すごく大きな雷も鳴って、ビニール傘も一回ひっくり返ったけど元通りにできた。大変だったけど一日中雨と思っていたから降らない時間に歩けたのはよかったのかな。少し眠ってからまた外にでたらまた強い雨。ホテルから一番近いお店に駆け込んだ。弱雨になったので一番近いコンビニの場所を店員さんに聞いて向かった。店員さんが説明してくれているときになにかで笑いあったのだけどなんだったか。人って本当に小さなことで顔見合わせて笑ったりしているもんだ。よきことだ。外に出たら、駅が意外と近いことに気づいたのでちょっと寒かったけど教えてもらったとは別のコンビニ(新潟は都会)を通り過ぎ駅へ向かった。おなかまわりがでるショート丈の服を着ている人たちが寒い寒いといっていた。関西の言葉のように聞こえた。駅ビルには期待通りかわいいものやおいしそうなものがあって自分用とお土産用の新潟お菓子を買った。角打ちもあってたくさんの人が新潟のお酒を楽しんでいるようだった。角打ちいいよねえ。大好き。イギリスのパブみたいなもんだね。

学会ではIPA基準の精神分析の事例を用いてその導入のところから話し合った。最初にコンパクトな講義をしてくださったのは教会のほうの会長でもある古賀先生。「アセスメントのスーパーヴァイザー」という言葉でイギリスの精神分析の訓練ではアセスメントのみのSVも枠組みとしてあるのかあ、ととてもいいなと思った。私もそういうSVを提供しているけれど、そう契約してやっているわけではないな。初回面接グループはアセスメントに特化しているから今後のグループのためにも大変勉強になる時間だった。いろんな人の意見はいろんな人の言葉でもあるのでそれぞれの言葉で私の言葉を受け取ってもらえてよかった。コミュニケーションはズレから生じるはずだから。参加者のみなさんもなにかいいものを持って帰ってくださっていたら、と願う。

今日も朝だけお仕事。新潟のおいしいお米を食べてがんばりるれろ。東京はどんな感じだろう。離れるとすぐわからなくなる。いつものみんなも元気で過ごしてほしい。良い一日を。

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十一月。

11月。空がきれい。アラームがなくても夜明け前に起きてしまう年齢になって早何年?低血圧で朝が辛くていつもぐったりしていた時代が嘘のよう。あの頃、日本の社会はどんな感じだったかしら。まだ海外にも気楽に夢を持てていた時代。さて、洗濯物を干した。生活大事。でも連休は半分仕事。世知辛い。

昨日はハロウィン。あまり外にいなかったせいか仮装した人は見なかったけど渋谷方面のバスは15時台で終わりという張り紙は見た。今年の渋谷はどうだったのかな。私は仮装ってあまりやったことない。文化祭くらいかも。あれは仮装とは言わないのか。衣装?ハロウィンで雨だから雨っぽい仮装とかなるとカエルとか河童とか雨粒とか?普通、雨に合わせないか。河童の仮装したって傘さすだろうしね。昔、ドリッピーって英語教材があったのだけどあれは「家出のドリッピー」が正式なのね。シドニー・シェルダン作。すごく豪華な声優陣だった。河童といえば遠野だけど数年前に2度目の遠野に行ったとき、自転車でいろんなところ散策したら熊が出たという町内放送(?)が流れてすごく怖かった。町の名前もわからないからどこに出たのかわからないし、出てもおかしくない場所が多いし、とりあえず急いで自転車借りた観光案内所みたいなところに大急ぎで戻った。当時は電動自転車も当たり前ではなかったからママチャリでこわいこわいいいながら。今はもっと頻繁にああいう放送が流れているのだろうか。心配だ。農水省が効果的な対策をとってくれるといいですね。本当に怖い。いろんな要因の積み重ねで長い時間かけて今の状況があることを思えばそんなにすぐに解決はしないのかもしれないけど。でも何もやらなかったら被害が広がるばかりで多分もっと手出しできなくなる。カウンセリングでも「様子を見て」という言葉があまりいい印象を与えないのは無力なまま時間が過ぎていくことは耐え難いから。でも実際様子を見ないことには、というのもある。ウィニコットが子供にとって母親の不在が外傷となるには時間的要因が関係していると書いているけど、これも単に時間だけの話ではないとは思う。

書き物の準備のために読んでいたこれらは大変面白かったのでメモ。

Botella, César & Botella, Sára. The Work of Psychic Figurability: Mental States without Representation. London & New York: Routledge with the Institute of Psychoanalysis, London/The New Library of Psychoanalysis, 2004. 心の形象化機能について。

Ogden.What Alive Means5 Giving back what the patient brings On Winnicott’s “Mirror-role of mother and family in child development”これについては何度か書いた。『遊ぶことと現実』第9章「子どもの発達における母親と家族の鏡ー役割」のcreative reading

あとAndre Green at the Squiggle Foundation (The Winnicott Studies Monograph Series)”On Thirdness”。グリーンのロンドンでの講演。イギリス対象関係論とフランス精神分析の差異の話も面白い。

お、鳥が鳴き始めた。私も早く出るか。風邪ひかないように過ごしましょう。

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ワンピ、英語

かぼちゃ色のワンピースをまえうしろ逆に着ていた。鏡がある世界でよかった。朝から人参とピーマンをたくさん千切りして疲れた。カラフルな朝。空は白に近いグレー?雨予報か。嫌だな。ショート丈の長靴で行こうかな。

今日がリミットの投稿論文。やる気が出るのを待っていたけどやる気は出ず、でも隙間時間を使って後半まできた。でもさすがにここからだと間に合わないかも。日本語で書いたものを英語にすると自分が言いたいことが変わってしまってそれをなおすと全体がなんかおかしくなって、と慣れていないと本当に大変。でも前にお世話になっている先生に自分の日本語を自動翻訳で英語にしてみるとどんな日本語が通じるかわかると教えてもらったので、日本語で何か書くときもそれは意識している。大抵時間がなくてバーって書いてしまってるから英語にしたらひどい文章かも。悲しい。

もうこんな時間。今日はここまで。良い一日を。

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ばたばた

薄い色の空がいつのまにか光でいっぱい。このWordpressのサイトのセキュリティの警告みたいのを対処の仕方がわからなくて放置してしまっていたのだけどchatGPTに聞きながらできた。すごい。やってみれば簡単だったのだけど説明のサイトをみても用語がわからないからそこまで遡って「それってなに」と聞けるのはいいね。私の周りは使いこなしているらしいけど私はいまいちその存在を忘れてしまう。ああ、それにしても朝から時間とられた。明日までにやらねばならないことがある、というときにこういうことを始めてしまうのが人間というもの。はあ。コーン茶で一息。

小さいとき、実家のすぐそばはトウモロコシ畑で自分の背よりずっと高いふさふさのなかを犬と一緒にくぐりぬけて遊んだ。トウモロコシが交易ルートのひろがりとともにその遺伝子を世界中に広げたのはずっと昔。やっぱりコロンブスが絡む。そしてもちろんダーウィンもトウモロコシの適応能力(?)について天才ならではの議論を展開している。近所のトウモロコシ畑がアメリカの広い大地にたくさんあると知ったのは社会の時間。地図帳か資料集みたいのか、後ろのほうにのっている穀物などの国別生産量のグラフをみるのが好きだった。親戚の子がペンで触れるとその国名の音声が国家とともに流れる本が大好きで一緒にいろんな国をポチポチした。コロンブスやダーウィンだったら熊の行動の変化をどう描写するのだろう。トレーナーさんともお互い山好きなので熊の話をよくするが、アラスカの生活を流しているYouTubeを教えてもらった。みてみたら家を建てるところからでびっくり。その土地で暮らすということは、と考えさせられた。とにかく遡ることは大事だ。トウモロコシだってアメリカで暮らすには、とトウモロコシが考えたわけではないけど、人間がトウモロコシの能力に驚かされながら積み上げてきた知見にもとづいて栽培されてきたわけだし。

人間同士の絆みたいな言葉もいいが、なんで人間がつながる必要があったかとかを視覚とか聴覚とか感覚モダリティの発生から考えるとか、精神分析やってるとそういうこと考える。特定の時間、ほぼ聴覚に刺激を集約させてそこでなにが処理されたり積み残されたり言葉になったり記憶を作ったりしているのか、それは目にはみえないけどイメージはできなくはない。知覚や記憶に関する知見の積み重ねだっていまや膨大だろう。バタバタしながらバタバタとしたことを書いているけど。どうぞ良い一日を。

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表情とか言葉とか。

朝の空。昨日の気温はよかった!夜は少し寒かったけど大きく息を吐いて、吐き切ったら自然に吸う、というトレーニングでやっていることを適当に使ったら駅に着く頃には暖かくなっていた。今日のお天気はどうなるのかな。光はすっきりときれいだけど。

朝ドラばけばけ、楽しい。本当にひどい時代だな、と思うのはどの時代に対してもだが、そこで生き生きと生活している人たちをみると安心する。私は笑顔が一番、みたいなことはよく笑う人に対してしか思わないけど(笑顔で!とか要求するもんでもない)、表情がくるくる変わるのは素敵なことだと思う(淡々と表情変えないのも好きだけど)。おトキちゃんが「すいません」と言ってばかりだと悲しいけど表情の豊かさを叱られて育つ子を思い浮かべると気持ちが全て顔に出ているおトキちゃんによかったね、と思ってしまう。すごく過酷ですごく辛いことはあるに違いないけど、それを表現できる方法があるって、そういうものを育てていくって大切だと思う。

なので相手が子供でも大人でも治療者が患者の言葉がどういう風に使われているかに注意を払うことはとても大事。言葉は現実をそのまま表してはくれないけど、私たちは辞書の役割を果たしているわけではないというか、そういうことは辞書のほうが確かな仕事をしてくれるので、私たちは言語が現実をどう切り取って、その認識がその人独自の体験の中でどのようになされてきたかに注意を向ける。認識って常に事後的なもの、そして言葉はその中で独自の機能を備え、語彙も意味づけされていくいく、という認識。ややこしや?特に精神分析では言葉が切断や去勢の作用をもつことを重要視するし、言葉が距離を生むんだという認識は共有していると思う。その質をどう考えるかだね。ややこしや?

♪毎日難儀なことばかり♪とハンバートハンバートが朝ドラ主題歌で歌っている。本当そう。でも今日も歩こう。生活しよう。♪落ち込まないで諦めないで♪

いいお天気になりますように。良い一日を。

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怖かったりのんきだったり。

朝焼けはまだ。東の空も暗い。早朝の家事を終えて少しぼんやりしていたら少し冷えてきた。暖房をつけた。旅に出ると早朝は散歩に出かける。西は日の出が遅いことを実感する。季節によって太陽がのぼったり沈んだりする方角が変わるから一概にはいえないけれど、佐賀に行ったときだったか、早朝まっくらななか散歩にでてしばらく歩いて宿に戻るまでずっと暗くてびっくりしたことがある。それにしてもこれだけ熊に襲われる事件が相次ぐと早朝気楽に外に出ることも難しくなるだろう。低山ハイキングも毎回びくびくしているが用心するなら行くなということになりそうで怖い。青森で温暖化怖い、となって、山に行っては林業の衰退によって放置される森林を目の当たりにし、東京にいたって本当にどうしたらいいんだ、ってなるのに熊とそばに住んでいる人たちに対してなにができるのだろう。お金のない国になりつつある日本(ということは格差が広がりつつある社会ということ)で弱っている人、困っている人たちが優先されるということは起こりうるのか。いまだかつて起きたことはあるのか、といえば部分的には起きているだろう。東京都の子育て支援は手厚い、という場合にその手厚さがなにを示すかは検討が必要なように。手厚い部分は残しつつ、それが広く長く生活に良い影響を与えていくにはどういうシステムが必要なんだろう。まずは排他的ではない政治家を選ぶところからだろうか。毎日、ニュースをみれば憂鬱になるし、かといって無邪気に知らなったともいえない。見たくないものが増える社会でも発見されるのを待っているなにかを探し出していかないとだが。うーん。

いろいろ考えるとあれ食べたどこ行った空がきれい仕事大変とかいっていることものんきすぎるのか、とか思えてくるが、そんなはずはない。自分の生活を自分なりに営むことをやめてはいけない。

今朝は札幌市のほんまさんの「寒月」というどら焼きをいただいた。友達が成城石井で買ってきてくれた。熱いままのお湯でいれてしまった新茶と一緒に。いつも誰かと会うたびにお菓子交換みたいなことをしている。そういうことやめたくない。コロナ禍みたいな制限も嫌だし、用心のしかたもわからないまま制限されるのもするのもつらい。旅行もやめない。人間界を長い目でみれば移動は必要。暴力的ではない行為で経済的にも豊かな国になるにはまず暴力的、排他的な思考をやめること、と思うが、自分のことだけ考えてもそういう気持ちが蠢かないといえば全然うそになるので理性を働かせるためにも人と会っていきたいと思う。すぐに悪意にとられる世界にまきこまれたくない。言葉じゃなくても伝わる良い部分を大事にすることかな。言葉にするからどんどん大変になっていくのかな。うーん。とりあえず今日もなんとかやろう。

先日みたM&OPlaysプロデュース、岩松了作・演出『私を探さないで』の舞台のことを書くつもりだったのにひとことも演劇に触れない文章を書いてしまった。岩松作品と河合優実は絶対相性がいいと思ってとって、誰が出演するかもよくわかっていなかったがシャープな勝地涼と気怠いキョンキョンがすごくよかった。ああ、だめなまま、足りないまま、時折、思い出したくもない昔に心揺さぶられたりしながら生きていきたい、とこういう舞台をみると思う。難解といわれる岩松作品だが、私はそこは全然気になっておらず、いわれてみれば毎回確かにそうなのだろうと思うが、なんでもかんでもわかろうとするから難しいのかもよ、と思ったりする。ビオンを難しい、わからない、と言い続けることとも似ているかもな。

どうぞ良い一日を。

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予報、グループ、逆転移

朝焼けがきれい。久しぶりに見られた。先週は晴れ予報がいつのまにか雨予報に変わりお布団干したのにという方もいたらしい。辛いよねえ。私は怖いからお布団は自分がいるときしか干さない。もちろん失敗済みだから。予報ってこれだけ毎日積み重ねられていることなのに難しいのね。昨日のお昼も関東で地震もあった。午前中の初回面接グループを終えて、みなさん送り出してすぐ。ドンってきたからびっくりした。お花をいけた細いガラスの花瓶は動じていなかったけど長く伸びた観葉植物がゆらゆらしていた。地震も予測が難しい。熊だってなんだってそう。わからないことの方がずっとずっと多いのに人の心を決めつける人が多いのはなぜかしら。これだけの数いたら単にひとりひとり違うというよりみんな変わっていく。日々違う、相手によっても体調によっても状況によっても。

昨日の初回面接グループもとても勉強になった。事例で具体的に初回面接を検討したあと、30分間、今日事例から学んだことを話し合うのだけど、今回話題になったのは中立性。初回なのになぜそれが保たれないときがあるかという話はしょっちゅうしているのだけど、今回は私がMichel Neyrautの逆転移の概念を紹介したりした。ミシェル・ネイローでいいのかな、読み方。どこかで誰かがYouTubeとかで引用しているだろうからその発音を後で確認しよう。Société psychanalytique de Paris(SPP)の会員らしい。ネイローは「逆転移が転移に先行する」として、分析家が社会的・性的・思想的あらゆる属性を超越した絶対的他者ではありえない、といった。そしてそれでもそうであるふりをしなければならない、と。前者は当たり前といえば当たり前。後者は単なる役割としてという意味ではないだろう。ネイローは『Le transfert』(1974)以来一貫して「精神分析的思考pensée psychanalytiqueそのものが抵抗である」と言っているらしい。と同時に「要求としての逆転移(contre-transfert comme demande)」ということも。応答ではないということだろう。


多分この辺について詳しく書いてあるのがNeyraut, M. (1988) Les destins du transfert: problèmes méthodologiques. Revue française de psychanalyse 52:815-828だと目星をつけているのだが。Le transfert : étude psychanalytiqueもに読みたい。 

週末、何も書き物が進まなかった。もうだめだー。仕方ない。おとりあえず良い1日にしよう。

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ジェラート、一次過程

空がしっとり。雲もない。今日はどんな雨なのかな。花壇に植えたお花や野菜が発芽しはじめた。かわいい、と呑気に眺めていないで間引きしなくては。毎日なんらかのお花の写真を撮っているけど自分で育てる過程も写真に収めながら育てよう。それにしても植物のことも調べ出すとキリがなくどんどん時間が経ってしまう。

昨日、北海道の中標津町、ジェラートシレトコのジェラートをもらった。遅い夕飯を食べたら動けなくなってしまったのでひとつ食べてしまった。エネルギーが残っていると色々やるべきことをできるけど残っていないと食べる気力しかない。美味しかった!箱に入っていた商品の紹介の紙をなんとなく眺めていたら「食べる前にほんの10分間お部屋の中に置いておいて」と書いてあって危なかったーと思った。私はこういうのはどれどれと食べながら読むことが多いので、硬いままいただくところだった。でも昨日の私に10分は長く、ヒーターのそばに置いて最速で柔らかくしてネリネリして食べた。中標津かあ。知床と根室は行ったことがあるけど中標津はないかも。通ったかもしれないけど覚えていない。酪農が盛んということでジェラート。きれいな景色なんだろうなあ。行ってみたい。美味しかった。ジェラートはアイスより罪悪感少ないけど、そのあと変な格好で寝てしまったのは失敗。疲れてるといつもしないことをしていつもと違うスペース作り出してそこで寝てしまったりする。なにやってるんだろう、と眠い頭で思ったりもしながら。すぐそこのベッドに行けばいいだけなのに。ジェラートをとりにいく気力があったのならそれくらいすればよいのにね。まあ、夢見る状態に近づくと人は変なことしてしまうものだね。一次過程に向かう状態。

Reading Freudで『心理学草案』を精読している。これはわかるとかわからないとかいうものではなく、単にヒステリーの真的過程を解明するためのものでもなく、フロイトの自己分析のプロセスで書かれたものであり、概念になる以前の原初的な言葉が生じるまでのニューロンの運動を体験してみよう、という論文だな、など話しながら読んでいる。つまりフロイトも一次過程の心に浸されつつなんとか言葉と思考でそんな自分を宙吊りにしながら書くみたいなことをしていたのではないかと。『夢解釈』だってそういう位置を取れないと書けないと思う。そしてそれはかなり病的な状態になる、ということでもあると同時に、精神分析過程ではどうしようもなく生じてしまうので、設定がそれを助長すると同時に、設定がそれを抱えていくということをする。フロイトの自己分析には限界はあれど、こういうのを読むとひとりでふたりの役割を十分にやっている気がする。そしてそれはそのまま精神分析家の役割ってただ他者として存在することではないわけで、とか色々照らし返されるものがある。フロイトがヒステリー患者から受けた衝撃をその心的過程をなんとか形にするという使命に変えたのは、自分の一次過程に十分に浸されたからなのだと思う。そこをを生き延びるにはこういう困難な知的作業を同時にする必要があったのではないか。昨晩は、第三部、正常なニューロンの過程について書かれたところをみんなで読んだが、不快、注意、表象、指標、欲望、思考など私たちでも知っている概念を言葉の意味を固定化する以前の動かせる状態で読んでいかないと私たちが知っている範囲(めっちゃ狭い)でしかこれらを捉えられなくなる。それだとフロイトを読むことはできないので、かなり夢見に近い状態で読んでいかないとかもね、など話した。面白かった。その前の事例検討も非常に面白かった。いろんな実践から学びつつ古典も読んでいく。今日もそんな1日になる。疲れ知らずなら余力で書き物もできるだろうけどどうなることやら。昨晩の自分の状態を思い返すに無理そうな気がするがなんとかしましょう。

鳥たちが鳴きながら素早く通り過ぎていった。雨、あまり降りませんように。

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話す、離す、引き伸ばす

今日も空が薄い。また雨かな。今降っていないみたいだけど。昨日はこれから晴れてくるのかなと明るくなりつつある空を見ながら用事を済ませて出てきたときには雨が降っていた。iphoneで天気予報を確認したら予報から晴れマークが消えて雨マークになっていた。銀行に振り込みに先に行けばよかった、と思ったが、東京は歩いて銀行に行けるからいいよなあ、と思ったり、でも実家にいるときはどんな近くても車だったな。

根室で震度5弱。寒い地域の夜中の地震。続いて起きることがありませんように。自然災害に対してはこう祈るしかないが、人に対しては祈るしかないような事態はできるだけ起きない方がいい。熊のことだってそう。政治なんてもっとそうなはず。でも一番論理的であることが難しいのも一番祈りが届かないのも私たち人間なのかもしれない。論破とかいったところで物言わせなくしてるだけでしょう。それは論理的であることとは違うと思う。

人が人を裁く、ということについてももっと考えていかないと危ないと思う。絶対に声を上げなくてはいけないことはたしかにある。その場合、できるだけ声を上げる人を孤立させてはいけないわけだけど、絶対に声を上げなくてはいけないことほど言葉にしにくいことだったりするから難しい。その人がその人の言葉で語れるようにまずできることは時間と場所の確保だろうとは思うけど。SNSでまるでそれがすべて正しいかのような情報がたくさん流れてくるが、それは個別に向けたものではないのでどんな著名人がいったことだとしても自分のことだと思ってはいけない。そういう情報を心の栄養にできている場合はいいが、心に圧力がかかっているときは情報を情報として自分から引き離すことが難しくなっていることが多いからインプットでどうにかしようとするとかえって混乱することもある。カウンセリングで患者さんたちはいろんな本や検索したことの話をしてくれるけど、自分がなんでその本を手に取ったか、どうしてそれを検索したか、とかの話にその人のニーズが現れているように思うので、守られた場所でそれについてはなされることの意義は計り知れない。その場合も理由が大事なわけではなくてあれこれ話すこと自体で自分の中の「そうしたい自分」みたいなのを離れたところから見てみるとちょっと違う景色が見えるかもね、くらいだけど。欲望のお話。「話す」は「離す」であると北山修はじめ、心に関わる人はよくいうが、そのためには実際の時間と場所を準備することも大事だし、まずは遅延という時間を取り戻すことが大事だと思う。誰かに責任を問うということは自分が誰かを裁く権利とどう関わるかということでもあるので、とにかく時間の効果に意識的でありたい。誤りだろうが断片だろうがものすごいスピードで発信され、拡散される時代に正義などなさそうなものだが、自分は間違っていない、という信念のもとそういうことは平然となされ、それを受ける側がどうなろうと当然の報いくらいに思われたりする恐ろしい時代。できるだけ時間を引き延ばし、ゆっくり話される言葉を私は大事にしたい。衝動性の背景にもそれは流れていると思える場合に。

先日、マイナンバーカードの更新が必要で手続きして取りに行ったけど同じ書類内で「個人番号カード」と「マイナンバーカード」の両方が自由に使われているのだけど、これわかりにくい人いないのかな。同じでしょ、同じだよね?と思ってしまった。早くも生活の当たり前みたいになったマイナンバーカードだけど私は全然慣れていない。手続きも私より明らかに高齢と思われる方が担当してくれたけど流れ作業というか、言われるがままにやってれば交付はされるのだけどこんなに考えないで進められる作業で個人情報が管理されているんんだな、と思い、途中、自分のほうのスピードを落としてみた。結果はマイナンバーの交付がされるというだけで何も変わらないのだけど、担当の方もきちんと名乗ってはじめてくれたわけだし、私は私の個人情報を大事にしたいのでお願いしますという気持ちをこめた、というのは後付けだが、このスピードは良くない気がする、というときは自分の方を緩めるというのは悪くないと思う。時間引き伸ばし作戦。相手をイライラさせたり次の人を待たせたりというのもあると思うけど、ロサンゼルスのスーパーでは後ろに列ができてもレジの人はおしゃべりをしていたし(それがいいと思っているわけではなく)、実家のほうの郵便局では顔見れば今日何しにきたかをわかってもらえたし(わかってもらうことが大事なわけではなく)、遅延させることで思考のスペースを取り戻すって感じか。

こんなことを書いていないで書くべきものを書かなくてはいけない。こちらは締切までに書けそうにないが遅延したら次の機会は一年後。出せなかったら出せなかったで仕方ないけどあと6日。粘れるかなあ。今週末は休みがないからまとまった時間も取れないがまとまった時間があると遊びに行きたくなってしまうから活かすこともできない。とりあえずそれぞれがんばりましょう。雨、少し降ってる、東京。このくらいで強くなりませんように。

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地震、政治、焼きまんじゅう

双葉町と浪江町で震度3。朝のバタバタで気づかなかった。2011年、東日本大震災で被災地へいかなかったら福島の町はこんな身近ではなかった。余震が続くなかの被災地訪問だったが、被災したみなさんの揺れに対する反応にとても切なくなった。うまく眠れないという悩みを抱えて受診する人が多いようにリラックスすることはただでさえ難しい。震災は震度が一番大きかった時間で終わるわけではなくむしろそこから始まる。それはその後のものすごい長い時間に影響してくる。能登のように地震で生き残り、大雨で亡くなった人もいる。亡くなられた方はもちろん、さっきまでいた人を目の前から、腕の中から失う体験は、これからの時間だけでなく、今ここの時間、それぞれが生きてきた時間にも遡って影響を与える。影響の中身は様々に違いないが、地震がトリガーとなって前景化する記憶はそれがなかったら出会わなかったものかもしれない。トラウマやPTSDという言葉を使う以前にそれぞれの体験を現場からのものとして忘れずにいたい。被災地の地名を見るたび、聞くたびに私に駆け巡る景色も言葉をなくすものだった。一緒に支援に入れてくださったみなさんの健康も祈る。

今朝の東京も寒い。カーテンを開けなくても薄いグレーの空とわかる。一応開けて確認したけどやっぱり思ったとおりの空色だった。

高市内閣に対する若い世代の支持率が高いそうだが、身近な若者たちの様子からもそれは感じる。わかりやすく自分とは関係ないと思わせてくれるからかもしれない。震災もそうだが、私たちの多くは当事者になる以前に当事者意識を持つことはしない。どうにかしてくれる「感じ」というのにお任せして、何かやってくれる「イメージ」で自分の不安を防衛する。それが一般的だろう。だから曖昧な「感じ」や「イメージ」が本来何であるかを探る行為(勉強)が必要だし、政治は自分たちを代表しているだけで、自分が気に入らないものや人を排除してくれる機関ではない。人は自分の理解を思い込みと思いたくないし、何か大きなものがそれに賛同してくれる「気がする」という感触を得られればなおさらそれを変えようとしない。すぐには変わらない困難に対しては時間をすすめるのを早めることは逆効果だが、大胆に何かを打ち出すやり方の方が魅力的に見えるということもあるのだろう。異なる他者と生きざるを得ない人間の知恵は、他者との間においても自分だけの時間を確保できる心から生じると思うが、「自分だけ」が他者の排除と結びついていたらそれはかえって囚われている状態で自分をなくしている状態だろう。ナルシシズムがあたかも自分の思い通りの世界を構築しているようでその内実が空虚であるように。

今朝なh、群馬の名物焼きまんじゅうの味をマフィンとして焼き上げたMOO-FACTORYの「焼きまんじゅうマフィン」。

”マフィン生地には群馬県中之条町の「こうじや徳茂醸造鋪」より仕入れた、麹から作った甘酒を仕込むこだわり。味付けには前橋市朝日町の焼きまんじゅう老舗「たなかや」の秘伝の味噌ダレが使われています。 ”

とのこと。ウェブサイトはこちら。焼きまんじゅうといえば「たなかや」というイメージはたしかにあるが「たなかやよりこっち」という店をおすすめしてくる前橋市民もいてローカルフードならではのこだわりを感じられて面白い。ほかほかを味噌だれの香りで味わうとても素朴な焼きまんじゅうだが、こうやって形を変えて受け継がれていく強さをもっていたんだな。郷土の力。

それにしても寒い。やらねばならないことばかりなのに本当にどうしたものか。とりあえず取り組もう。良い一日でありますように。

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「想起」、相手あってこそ

夜明け前の空の青。静か。

精神分析における言葉と時間の関係を考えるにはベルクソンが必須だと思って平井靖史さんの本を中心に色々勉強しているわけだが、精神分析だけでも相当の勉強が必要なので時間が全く足りない。引用できるほど理解できるとは思っていないのであくまで精神分析が展開してきた時間概念を精緻化、あるいは展開するために読む。平井さんの本は難解ではあるが、本当に丁寧に書かれているので何度も読んでいるとだいぶわかった気がしてくる。

たとえば、フロイトの「想起」について考えるときに、平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(青土社)を読んでいると、ベルクソンの『物質と記憶』を引用して書かれている部分に興味を惹かれたりする。なかでも考えさせられた部分を脚注だけど引用すると

「通常は、「夢見る」こと自体が、生を司る欲求や意志の緩みに起因するわけだが、想起の場合は、逆説的なことに「夢見ることを欲求する(vouloir rêver)」(MM87[115])ことが必要だとされる」

とか。なんとなくわかった気分になるでしょう。こんなふうにわかった気は直感を得るためであればわりと大事だけど間違った理解は学問のためによくないのでフロイトやウィニコットの引用はできるけど、ベルクソンの引用には怖気付く。なんにしてもその直感を使うなら精神分析理論の方をかなり正確に理解しておく必要があるな、と思いながら取り組んできた。私はもともと実践志向だが、理論なき実践はないと。はいえ、私の頭では実践なしで理論の理解はできなかった。フロイトの著書に早くから出会ってはいたが、どちらかというそれまで慣れ親しんできた文学的な興味で読んでいたし、いざ、こういう実践の中に身を置くとすごく特殊なことをものすごいスピードで思考しながら書いていたんだなと思う。その思いつきの様子が大体書簡にも書かれているのも面白い。相手あってこそ。

相手あってこそ、という気付き、誰にも頼らずひとりでやってきたつもりが全然そうではなかった、という気づきは大事だが、誰にも頼れない環境がある子供がいるのもまた事実で、というか、本当に事実なんだよ、ということを知ってほしいと思うことがよくある。頼りたくても、というより、頼らなくては生きていけない中をぎりぎりで生き残ってきた子供たちがいる。それでも生きられたのだからいいじゃん、と軽々しい言葉を投げかけられながら生きてきた子もいる。もちろん養育者を守る福祉制度(親への支援、保育士の待遇、研修)の不足など社会施策の問題もあるし、子供単体でも母子ユニットでも父母子の三角形でもそれだけで生きられるはずもない。なのに、という現実を考え込んでしまうことは多い。多分、普通に困っている人が優先される政治はこれからもずっと遠い。「普通」が変わっていくから。すでに変わっているから。とにかく無事で、と願うより、安心して送り出し当たり前のようにまた会える毎日がいい。どうぞ良い一日を。

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精神分析

ピアノ、音、冬

第19回ショパン国際ピアノコンクールで桑原志織さんが4位に入賞した。素晴らしい演奏だった。コンクール直後のインタビューも知的で落ち着いていてとても素敵だった。ピアノが弾けるだけでもすごいのにズゴイひとの音は全然違う、と言っていた子がいた。本当にそう思う。小さい頃からいいものに触れられたらいいね。

一方、プロの音楽家を目指している子と一緒にその子がコンクールで賞をとったときの演奏を見返していたとき、途中でその子がにわかに落ち着かなくなり「このあと!うわっ、聞かないで!はずかしい!」とか言いだした。私にはどの音がその子にとっての失敗だったのか全くわからなかった。プロになる子はやっぱりすごいのじゃな、と思った。

桑原さんはコンクールを通過点としつつやれることはすべてやれたとおっしゃっていたがこの子みたいな瞬間もあったのだろう。プロの耳の細やかさを私は一生体験できないけど耳と同じくらい繊細な指との協応から奏でられるその演奏に心振るわすことはできる。魔法だな。音楽って素敵だ。YouTubeで無料で聴けるなんてさらに。良き時代かも、そこは。

今日は雨。雨の音はみんな子供の頃から聞き分けてきたと思う。雨自体の音ではないだろうけど。風、屋根、土、アスファルト、傘、いろんな素材を介して聞こえてくる雨。詩人や俳人も音楽家と同じように良き耳を持つ人たちだと思う。

「氷点下になると、川の流れは白い氷の下に閉じ込められる。凍る瞬間も揺れ動いたため、川面の模様や同心円状に広がった波紋が透けて見えるところもある。表面は厚い氷に覆われていても、川底では変わらず水が流れ、魚が泳いでいるはずだ。どれだけ硬いのか確かめたくて、私は足元の石ころを拾い、氷の上に投げてみる。石は鈍い音をさせて跳ね、そばに落ちる。歩いてもよさそうなのに、なかなか足を踏み出せない。」

ハン・ジョンウォン『詩と散策』 시와 산책(橋本智保訳)の「寒い季節の始まりを信じてみよう」の一節だ。まだ冬ではないが冬を感じると読みたくなるエッセイ。たくさんの詩人の詩が引用されている。

こうやって能動的に音を発生させて拾うことも私たちはよくやっていると思う。最初は自分の動きに呼応して偶然聞こえてきた音を拾う。次は意識して立ててみたのを拾う。そして「ならこれは?」と少し力を弱めたり強めたり位置を変えたり。一つの音との出会いが次を広げていく。自由連想みたい。精神分析の言葉もこうやって聞かれていく。単に内容ではない。

昨日は寒くてすでに平均以上の厚着をしているのに置きっぱなしの上着をさらにかぶっていた。カーディガンにもなる膝掛けみたいなやつ。きれいに四角に畳めるのにきちんと洋服にもなるのすごい。寒くてなにもしたくない病がすでに始まっているが、ひたひたと近づいてくる冬の支度を楽しくできるように工夫できたらいいな。とりあえず今日を温かく過ごしましょう。

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精神分析 読書

できることできないこと。

沖縄から伊豆諸島はまた大雨か。熱帯低気圧。八丈島は今夜も激しく降るらしい。まだ断水が続いているところもあると聞くけど島の産業への打撃も深刻だろう。募金くらいしかできないけど、状況は追える範囲で追っている。

台風24号は、南シナ海を1時間に25キロの速さで西に進んでいるとのこと。日本にはこないみたい。フンシェンというらしい。

昨日、台風22号で大きな影響を受けた八丈島の方の発信を見たのだけど台風に慣れていて対策のための知恵が豊富なことにも驚くけど、被害は甚大で、支援が必要なことに変わりはない。19日のニュースで、陸上自衛隊が自衛隊としてははじめて、一般施設と自衛隊装備の組み合わせによる入浴(加水)支援活動を始めたとあった。これまでそういうことはしていなかったんだね。東日本大震災のとき、福島県郡山市で避難所として使用されたビッグパレットふくしまに通っていたけど、そのときは裏の広いスペースに自衛隊が独自で入浴スペースを作っていて、中のピリピリした空気から逃れる場所にもなっていたように思う。私たちは「遊びの出前」と称して、調理ができるトラックと一緒に子供たちの遊び場をつくって一緒に過ごしていたのだけど、怒号もきこえたし、あの独特の空気は今もすぐに思い出せる。入浴というのは安全であることが大前提だから、温泉施設でなくても、その後の復旧のことも考えれば元々あるものを利用できるならしたほうがよさそうなものだけど、支援のスピードが変わってしまうのかな。それぞれの工夫を共有するって意外と難しいものなのかもしれない。避難所でのプライベートなスペースの確保などについても部分的には素晴らしい取り組みが紹介されるようになったけど、いざ災害が起きたときにそれらが当たり前のように展開されるほど認知されてはいないだろうし、毎回、大きな災害が起きるたびに、外国はこんなに進んでいるのに、とか、前回の災害から何も学んでいないのか、という声が出るのは本当に考えなければいけないこと。私も誰もが被害者になりうるという実感はあるけど、やっぱり支援が必要な「そのとき」に対して受け身であるとは思う。支援者としての体験を活かせるかと聞かれればその自信もない。ただ「わがまま」を代わりに言える状態は作っていけたらいいなと思っている。カウンセリングや精神分析はそういう場としても機能しているけれど、これまでNPOで繋がってきた人たちの繋がりも再び強くなっているので生かしていけたらいいなと思う。

社会学者で社会運動研究者の富永京子さんは『みんなの「わがまま」入門』(2019、左右社)でこう書いている。

”「わがまま」を言うべき立場の人はなかなか言い出せない、だから代わりに言ってあげることは大事だし、もしかすると代わりに言うことがじつは自分自身の言いたい「わがまま」と結びつくことがある。”

この本は誰にでも通じる言葉でとてもわかりやすく書かれているのでおすすめ。

今朝も寒い。パーカーを羽織った。昨晩も寒かった。深夜に暖房をつけてしまった。冷蔵庫の中は週末のつくおきで充実、のはずがなんだか減りが早い。食べすぎているのか?冬眠もしないのに?熊などの冬ごもりは疑似冬眠というそうだ。時々覚醒して排泄や摂食などを行うから(by広辞苑)。それはともかく、隙間時間にせっせと作るより、もう毎日鍋でいい、みたいな気分になったりもする。寒がりがめんどくさがりを助長するが、こだわりは特にないのでそれでよし。温かいものは大抵美味しい。でもインスタで流れてくるハロウィンおかずとかはちょっとやりたいな。ちょっとの手間で済むのならかわいく楽しくやりたい。

熊といえば、『ともぐい』(新潮社)で直木賞を受賞した河﨑秋子さんのソロキャンプ密着記を読んだが、彼女自身が酪農に従事したこともあり、ソロキャンプにはまっている現場の人だと知ってびっくりした。羆文学という言葉がいつからあるのかわからないが今年はどうしてもそういうものを手に取ってしまう。怖いのだ、要するに。軽い登山でも毎回怖い怖いと思っているが、東北ではこれまで熊と会わなかった街中にも出没しているし、もうどうしたらいいかわからない。でも河﨑さんの話を読んでいるとまだできることはあるんだな、という気はする。最近、誰と会っても熊の話題が出るような気がするし、人間にできることってなんだろう。

話は変わるが、この前、精神分析家のくせに催眠って、とジェラール・ミレールの嘘っぽさを書いたけど、それはジェラール・ミレールが本当にひどいことをしたからであって、催眠自体は今も効果を認められているし、私は大変かかりやすい。教育相談室に勤めていたときに外部から催眠療法、イメージ療法の先生をお呼びしたときに実践してもらったら簡単にかかってしまった。管理職の先生方は全くかかっていなかったのに。かかっている自分に笑いながらも逃れられない状態が可笑しかった。あれはなんだったんだろう。今もああなるのかな。なるのだろう。またやってみてほしい。

そもそもフロイト精神分析の最早期はパリの神経学者シャルコーであり、彼がウィーンに持ち帰ったのは催眠療法だった。ヒステリー研究を共にかいたブロイアー。彼らは催眠を医師の指示に従わせるものとしては使わなかった。催眠による想起自体に治療効果を見た(症例アンナ・O)。その後、フロイトが催眠を放棄したが、生涯気にしてもいた。なんてことをわざわざ書く必要もないのだが、昔、中学校での先生向け講習会やクリニックでやっていた自律訓練法の位置付けってどうなっているんだっけ、と思ったから。自律訓練法はドイツの神経学者シュルツによって体系化された。催眠の一種と言っていいだろう。私は当時動作法とか身体へのアプローチにも関心が強かったので、クリニックでたくさん経験できたことはよかった。そこでスクールカウンセラーをしていた学校で先生方にやってみたわけだが、なんと床が冷たすぎて、結局温かいお茶を飲みながらの座談会に変更になった。心理療法の前提に環境調整があることをわかっていてもこういうことは起きる。そしてこういう不備を共有し、そこに別の手当てを施すことができることも臨床をする心理士には必要だろう。これは技術ではなく、不備を指摘してもらえたり、それを素直に認められたり、それを笑い合えたり、それらを抱える別の状況作りだったりする。つまり、割と当たり前のことだ。スーパーヴィジョンをしていても、仲間内で話していても、鍵ってどうしてる、とか、カレンダーどんなの使ってる、とか、車椅子の置き場ある、とか、休みの連絡ってさ、とかそういうことは結構常に大事で、でもそこに正解があるわけではないからあえてトピックにするようなことでもなく、それぞれがいろんな状況を体験してきているのを共有することが意義深い。患者さんの話だってそういう細かいことから生じる出来事がほとんどだと思う。今朝鍵かけるの忘れて出てきちゃって、とか、まだカレンダーが8月のままだって気づいたんですよ、とか、子供の頃はまだ車椅子が小さかったから、とか、私、その日、すっかり休みだと思ってて、とか、いうことがあったら、その続きは一人一人全く異なるわけで、まあ、当たり前だが。体験していないことの方がずっと多いわけだから、思い浮かべられる状況なんて限られている。でもそのものさえ知っていれば言葉にしてもらうことで想像が広がっていく。そこにはもちろん誤解もあって、何ヶ月もたってから、あ、そういことか、と驚くこともある。そういう心の不確かさや言葉の曖昧さを実感させてくれるのが精神分析で、そういうのを忘れないでいられる密度の濃い設定はそれらが無意識と交流していずれ別の形を得るのを待っている設定でもあるので時間もかかるけど、触れ得ないものに触れるのではなくて、触れられないと知ることの豊かさは計り知れない。すぐに結論を急ぐ人には全く向いていない技法だけれど自分のペースでじっくり考えたいよ、という人には有効だと思う。そういうのも相手によって違う自分だから。どうして私はこの人の前だとこんなに待てないのだろう、とか、なんか今急に思い出した、ずっと忘れてた、というかそんなことあったのかってびっくりしてる、とかいろんな驚きと出会うのが精神分析だから、そういうのいいかもしれない、と思える人にはおすすめしたい。時間とお金という問題以外に、フロイトたちが発見した想起というものが持つ自らに対する侵襲性がお互いの関係を難しくすることは最初から致し方なく見込まれることではあるのだけど、言葉と身体の相互作用も丁寧に観察しつつ、分析家の方も患者さんの言葉が守られる場での鍛錬を欠かさずやっていくことが大事。

なんか何ができるだろうなあ、何ができているのだろうなあ、ということを考える朝になった。暖かくして過ごしましょう。

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精神分析 読書

お隣の国の文学、心を守る

昨日『文学カウンセリング入門』を読んでいると書いて、著者の参照URLをクリックした人は読んだと思うけど、著者のひとりチン・ウニョンの「私は古い街のようにあなたを愛し」という詩集も詩集としては異例の販売部数を記録したそうだがまだ日本語にはなっていない。しかしその詩集に収められている2014年4月に起きたセウォル号事件の遺族のために書かれた詩「あの日以降」は『文学カウンセリング入門』の訳者あとがきでその一部を読むことができる。それにしてもまだ10年か、この事件については「もう」ではなく「まだ」と感じるのはなぜか。この事件に対する韓国の文学者たちのアクションはそれを直接描く作品だけではなく、その後も続いているが、『目の眩んだ者たちの国家』(キム・エランほか著、矢島暁子訳)は素早いアクションの中の一冊である。この本は「セウォル号事件で露わになった「社会の傾き」を前に、現代韓国を代表する小説家、詩人、思想家ら12人が思索を重ね、言葉を紡ぎ出した思想・評論エッセイ集」(出版社Webサイト)だ。

私は斎藤真理子著『隣の国の人々と出会う——韓国語と日本語のあいだ』(創元社、2024年)『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2022年)でこの本を知った。斎藤さんも韓国の作家たちの走りながら考えるスピードについて書いていた気がするけど、斎藤さんも仕事が早い。もちろんそれはすぐに次なるものが前景をなすような早さではなく、どんなに基本的で大切と思われる事柄でもあっという間に忘れる私たちにその隙を与えない早さでもある、ような気がする。とてもありがたい。『韓国文学の中心にあるもの』は40ページが加筆された増補新版も今年はじめにでた。セウォル号事件については本や映像で読んだり見たりしたが、事件後の今、までも含め、本当に言葉を失うひどい事件である、と同時に、キム・エランが表現した「文法自体が破壊されてしまった」状況はまさに日本の言葉の使用の現状であり、私が日々出会う精神分析状況における言葉の使用であると感じる。

週末、詩集や句集がたくさん置いてある本屋さんに行ってとても久々なほっこりを体験した。やっぱり本に埋もれているような時間が昔から安心する。子供の頃はこんなに豊富でなかった韓国文学にたくさん影響を受けてきたけどここで書くにはあまりにもインパクトが大きかったのがチョ・セヒの『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社)だった(とか言って書いたかもしれない)。多分、子供の頃に読んだ『ユンボギの日記』の記憶と混ざったからだと思う。おそらくこの本たちは同時代のことを書いている。きちんと調べてはいないけれど本を読んでいるとこういう重なりあいはよく起きる。行ったことのない土地の、まだ生きてもいなかった時代の子供や大人が生々しく立ち現れ、子供のときの私と大人になった私もそこに立たされる。その時代の空気に触れる。何年経っても繰り返されるばかりの失望や絶望に慣れてしまったのか慣れることなどないのかわからない、そんな登場人物に読者である私もどう振舞っていいかわからない。見過ごさないことでまだ自分は大丈夫か、と少し安堵したりもする。

自由を与えたふりをして、無意識のふりをして(無意識かもしれないが)搾取するのが当たり前、あるいは自分の思い通りにしたいだけの人、弱い立場の人の尊厳を考えない人の文脈に巻き込まれてはいけない。相手が国レベルならそおさら尊厳をひたすら主張しなくてはいけない。個人レベルでも基本的に相手を見下している人は表舞台に立ちたいだけの自分を支えている人のことなんて真面目に(というか普通に)考えることなんてしない。そういう人に限って自分の世界の狭い「普通」や「常識」を主張する。権力を握る人はそういう人が多いけど迎合する必要もなし。権力って官僚とか管理職とかそういう人だけが持っているわけではなくてそこらじゅうで権力闘争は繰り広げられている。私は、そういう人の提供する場で嫌な思いして荒んだ気持ちになるのは自分が辛いし、私が辛いと周りに優しくもできなくなるからそういう人には意見だけしてあとは様子見。意見しても何も変わらないし、強気でなにか言われたりするだけだけど意見しておかないといつのまにか同意と見做されるからそれは人として嫌。そんな面倒くさいことに関わらずにのんびり生きていきたいがそれは子供に優先されるべきこと。周りの人たちがせめてそうできるように、と思う。そしてやっぱりいろんな人と会って、聞いて、話して、ということをきちんと続けていこうと改めて思った。自分の欲しい言葉が自分のペースで与えられないと排除の心が動くような大人にはなりたくないしなってほしくない。子供のうちはいたしかたなくそうなることがあるからそこにはたくさんの守りが必要。お隣の国の本をたくさん読める時代に間に合ってよかった。そうそう、10月は演劇も2本見られたし、きちんと文化の秋楽しんでる。でも10月もあと10日。困った困った。北海道はもう雪なのね。寒くなると身体がつらくてどこにも行きたくないし何もやりたくないってなるから秋のうちに色々がんばれたらいいな。今週もがんばりましょう。

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俳句 短詩 精神分析 読書

雲とか本とか。

空の雲がすごい。お隣の金木犀がようやく強く香り始めた。秋だなあ、と思うけど、これをどう描写したらいいものか。昼間みたいな水色に白いモコモコが広がっていたり、薄いグレーで真ん中だけ塗られたような大き目だけど曖昧な形だったり、ポッカリでもなく夏雲みたいな立体感もなく、かといってのっぺりでもなく絵画のような静けさと明るさで我が家の南の大きな窓いっぱいに広がっている。昼間みたいな水色と思うのはこの雲の明るさのせいかも。朝でも夜でもない感じの光だから昼ということもないが雲なのに太陽を遮る感じもなく明るい。

今朝のNHK俳句のゲストは安田登さんだった。能の声はすごい。昨日、『文学カウンセリング入門』(문학-내-마음의-무늬-읽기)(チン・ウニョン、ギム・ギョンヒ著、吉川凪訳、黒鳥社)を読んでいたが安田登さんも日本の古典を通じた文学カウンセラーみたいだな、そういえば。『古典を読んだら、悩みが消えた。~ 世の中になじめない人に贈るあたらしい古典案内』(大和書房)などの本も書かれているし。日本にもチン・ウニョンとキム・ギョンヒが先生をしている韓国相談大学院大学みたいなのがあればいいのに。でも私がいっていた白百合女子大学は当時は児童文化学科として発達心理学と文学は今みたいにきちんと分かれておらず学際領域ということで自由に授業をとることができた。私も詩人や作家、編集者、翻訳家、児童文学者である先生方の授業がとても身近だった。あとから思えば錚々たる顔ぶれの先生方だったが当時はあまりよくわかっていなくてただ楽しくて児童文学の研究会に顔を出したりしていた。専攻は発達心理学だったから東洋先生と柏木恵子先生には特にお世話になったけど、先生方もよく本の話をしていた。一般教養の数学の先生とはよく本やCDの貸し借りをした。楽しかったなあ。私は卒論もグリム童話の理解だったし、小さい頃から自分を支え、変えてきてくれたのは文学だという感触は強い。精神分析を受けているときも今こういうの読んでるんだけどということばかりいっていた。どうしてそれを手に取ったのかとかも自由連想の中でふと思い当たったり。この前、フランス精神分析の勉強会で読んだアンドレ・グリーンの論文で、彼らは神話も詩も古典もなんでも引用できる知識を備えたインテリなわけだが、それらは私たちにとっても全然遠いものではないし、そういうのをインテリだな、で済ませるのは大変もったいないと思った。断片でも出会えたら確実に心に残る文章は多い。本を読むことはカウンセリングと同じ効果があることを私も強調したい。『文学カウンセリング入門』には谷川俊太郎の詩も引用されている。谷川俊太郎は韓国の詩人と対談した本、谷川俊太郎&申庚林著「酔うために飲むのではないから マッコリはゆっくり味わう」(クオン)も出ているし、近いところでいろんなこと話し合っていくのは素敵なこと。いろいろ読んでいろいろ話していろいろ耳を傾けて今日も過ごしましょ。東京は曇り、夜雨なのかな。今の空は明るいからこのままがいいなあ。よい一日を。

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お菓子 精神分析 精神分析、本

群馬のおせんべい、言葉の使用

眠い、というか寒い。寒いとお布団に帰りたくなってしまう。窓を閉めればいいのか。朝の空を眺めるのが日課だ。早朝、東の空の雲がさまざまな形で薄く光を纏っていてとても綺麗だった。今はほかの空と馴染んでグレー。それでも東京は天気予報は晴れだった気がする。

今朝は夏の間、水出しで作ろうと思って忘れていたとうもろこし茶をお湯でじっくり時間をかけていれた。香ばしくていい香り。群馬で買ったいそべくりーむせんべいと。なぜかひらがな。そしてこれは「上毛かるたデザイン」。群馬出身の人ならほぼ知っているであろう上毛かるたのよく知られた絵札が読み札と一緒に描かれたデザイン。今朝いただくのは「草津よいとこ一度はおいで」ではなく「草津(くさづ)よいとこ薬の温泉(いでゆ)」の「く」。こんな絵柄だったっけ。草津といえば湯もみ。草津節とは別に湯もみの唄もあるんだって。いそべくりーむせんべい、美味しい。高崎駅の新幹線改札のそばに群馬のお土産が買えるお店があるのだけど、群馬はほかにも三俣せんべいの商品もあるし、旅がらす七福神あられもあるし、パリッとしたお菓子が美味しい。からっ風で乾燥しているせいかしら。三俣せんべいも老舗中の老舗だけど残っていってほしいなあ。今ふと下北沢のせんべい屋さんを思い出したけどあそこもなくなってしまったのだっけ。なくなる前に買ってきたの、といっておばあちゃんにもらったことがあったけど。そのおばあちゃんは102歳まで生きた。近いうちに下北沢行くから見てみよう。多分ある、気がする。最近、通った、気がする。

冒頭で「さまざまな」という言葉を使いながら、こういうのは屁理屈かもしれないが、と思ったことがある。この前、ラカン派の本を読んでいて「父の名」を「さまざまな父の名」といっているところがあった。誰の本だったか忘れてしまったが。そういうのを見ると私としては、精神分析において「父の名」を「さまざまな父の名」と複数性を強調したところでさ、と思ってしまう。もちろんそんな簡単な議論ではないけれど。キリスト教の三位一体はよくわからなくても説得力があるけど、日本人の多くは馴染みがないし、何かを繋ぎ止めているのは「症状」だという方が伝わりやすいし、ラカン的には「父の名」って症状ではなかったっけ。症状って快不快のあわいで自ずと複数性を備えているし。たしかに「父の名」を単数で使うことで症状を維持することが必要な病理はあると思う。症状は多少あったほうが健康とも言えるので、とか「さまざま」問題はさまざまな問題というより、別の言葉にしないとぐるぐるした議論になりがちと思う。

この前、テレパシーのことを書いたときに少し書いたかもしれないけど精神分析は言葉の曖昧さ、流動性を当たり前に考えつつ、それを理論化してきた学問だから意味の強い言葉の使用は厄介だと思う。

メルツァーが『夢生活』で書いたことが精神分析における言語の使用を考えるときにとても役立つと思うけど思考の厚みがすごいので難解ではある。この辺なんかは基本的に押さえておきたいところだしわかりやすい。

第13章 患者と分析者における、夢を見ることと経験から学ぶこととの関係

分析において,われわれは通常,患者の情動的藤にかかわる思考過程に接近するために夢を研究する。しかし、ときおり、とくに患者が分析の訓練生や分析の方法に職業的に関心を持っている人の場合に、異なった種類の夢が生じることがある。これらは、自分の心がいかに働くのかについての患者の考えを反映しているように思われる夢である。それらは、「理論的な」夢とでも呼んでいいかもしれないものであり、精神分析そのものについてではないが、自分の心の働きに関する経験についての患者自身の理論である。

精神分析の歴史を通じて、いわゆる「心の理論」は、分析者が患者や自分自身に耳を傾け、観察し、理解しようと努める際に用いていると考えている、心的装置に関するモデルであり、それは変化し続けてきた。フロイト自身のモデルは、彼が仕事をしていく中で変わっていった。最初に彼が仮定したモデルは、ある種の電話のやり取りに似ていた。彼は、精神分析的な研究をする前に,「科学的心理学草稿」として知られている論文においてこれを推敲した。これは、神経学者のモデルであり、脳においてメッセージを伝達する装置にかかわっていた。それは、メッセージの意味にはまったく関係がなく、神経ネットワークを通じてメッセージが分配され伝達される仕方にのみ関係していた。彼は、いったん分析的研究を始めると、ある意味で最初の理論の補足である、2番目の理論、すなわちリビドー理論をつくり上げた。これは、「心的エネルギー」の分配に関する理論であった。そこでは、心的エネルギーと性的興奮は、おおむね相互に等価なものとみなされていた。

うん。スッキリしている。もっとずっと難解な部分もあるし、メルツァーの書き方は重みはあるけどごちゃごちゃしてなくて好き。臨床を伴っているから説得力があるのかも。何かを言おうとして引用したのだけど忘れてしまったのでこの辺で。

今日もがんばりましょう。まだ曇ってる。本当に晴れるのかな。調節しやすい服装で行こう。

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料理 精神分析

スパイスとか。

うっすら朝焼けがきれい。朝焼けは雨、夕焼けは晴れというけど、このくらいの薄色だと朝焼けとは呼ばないのかしら。今日の東京は一日晴れの予報みたいだし。

昨日、突然、クミンシードを使ったおかずを思い浮かべ、今すぐ帰って作りたい!となった。スパイスは使い始めると楽しい。植物と同じくスパイスも全然覚えられないけど、私が使うのはクミンパウダー、コリアンダー、ターメリック、チリペッパーが主で、クミンシードとシナモンが時々登場という感じなので簡単。中華料理の香辛料も大好きだけどあまり作らないからまだ賞味期限内に使い切ることができないなあ。北京、広東、四川、上海だと四川が一番美味しい、と若い頃に勤めていたクリニックの先生が言っていてよく連れていってくれた。休み時間まで気使うのはみんな嫌だったのでなんとなく顔を見合わせるときもあったけど自分でお金を出せるような店でもなかったから時々ついていった。美味しかったと思うのだけど、四川が一番美味しい、という言葉の方が残っている。昔、近所に北京料理の店があって安くて美味しかった。中国語が飛び交う古くからの店で、小さいのに中華街みたいな店構えだった。出前もやっていてとても使い勝手がよくありがたかった。どうしてなくなっちゃったのか。同じ名前の店は見るけどチェーン店ではなかった。と書いていたら中華料理が作りたくなった。東京で一人暮らしを始めるときに親が暮しの手帖版「おそうざいふう中国料理」という本をくれた。これ実家にもあって装丁も素敵で眺める本として馴染んでいたから嬉しかった。でも「サッと湯通し」とかも面倒だったし、揚げ物レシピが多いイメージがあってどうも火を使うのに適さない私には眺める以上の価値を見出せなかった。今見ると全然そんなことなくて、出来上がりの美しい写真とそこに向かう工程が数字つきではなく、ただの●の箇条書きでですます調の文章で説明されている様子は上品で素敵。「冷めたら、二枚にへいでから」とかいう表現も好き。普段「へぐ」って使わないから。料理の仕方だって今は揚げ焼きで油の量も少なくて大丈夫って学んだし、面倒さを解消する工夫はそれこそたくさん料理してきた人たちがたくさん開発してくれているから合わせて使っていけばいいのよね、と気楽にどんどん取りかかるようになったのは随分歳を取ってから。色々億劫がる余裕があったのだろうね、若い頃は。それはそれで大事だった。最近、また大学時代の友だちと集まることも増えているからダメダメな頃を笑う機会も増えることでしょう。

そうだ、フロイトの「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)について今日もメモるけど、そういえばボラスの『終わりのない質問』第4章「耳を傾けること」の冒頭でも引用されていたな、と思ってパラパラした。この論文は精神分析における耳の使い方を考えるときの必読論文だと思っている。「平等に漂う注意」というやつ。

「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)からボラスはこちらを引用。

「医師は、自分の注意力に由来する意識的な影響はすべて差し控えて、自分自身の「無意識の記憶」に完全に自らを委ねるべきである」「医師は単純に耳を傾ければよいのであり、自分の心の中に何かを留めることに煩わされてはならないのである」

これってどういうことか、というお話。もう時間がなくなってしまった。今日も美味しいもの食べてがんばろう。

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お菓子 精神分析 精神分析、本

笠原嘉、ジョアン・リビエールなど。

雨は降っていないみたい。時折、鳥の声が高くピーッと過ぎていく。今朝は小田急線鶴巻温泉駅そば(秦野市)アンドリアン洋菓子店のオレンジケーキ。鶴巻温泉駅って降りたことあったかなあ。これは山登りをした人のお土産。アンドリアンさんのは前にもいただいた気がする。オレンジのパウンドケーキ、つぶつぶのオレンジがかわいい。しっとり。面倒だからインスタントだけどコーヒーと合う。

笠原嘉(1928年神戸生まれ)が亡くなったと聞いた。直接お話を伺ったこともないが、中井久夫(1934年奈良県生まれ)や木村敏(1931年旧朝鮮生まれ)などの著作同様、よく読んだ。事例も豊富で、多くの患者さんが投げかけたり、残したりしてくれたものを日常の診療でどう捉えていけばいいのか考え続ける姿勢に多くを学んだ。私は単科精神科病院でその日の診察で心理面接を希望した方の状態や状況に合わせてお話を伺っていくあり方がとても好きだった。医師とすぐに直接コミュニケーションがとれる小さな精神科や小児科のクリニックでの仕事もどうしたらもっと工夫ができるだろうと考えられて楽しかった。今は週に4コマだけ担当させていただいているが、自分のオフィスでの生活が中心になった。精神分析家の資格を得て、オグデンたちがいう精神分析家に「become」するためにこの生活で実践を積み重ねていくことを選んだのだから若い頃みたいにあれもこれもというわけにもいかない。子ども支援のNPOの仕事もしたいし、療育もしたいし、笠原先生の本を思い返すと以前の日々も同時に送りたくなるけれど。今みたいに特定の人たちの中のいろんな部分とお会いする毎日を積み重ねられる時間だってそれほど長いわけではないし、これ以上別の専門の勉強をする時間はない。笠原先生のような本はいくら読んでもいくらでも実践に活かせるわけだから読み続けるけど。それにしても若い頃に読んだ本たちの濃さはすごかった。今とはだいぶ異なる読書体験をしていたように思う。簡単に感想を述べられるようなものでもなく、病気については哲学の方面も併せて歴史から学びつつ、症例から受けるインパクトに身を浸しつつ読んだ。本のおかげでいつでもそういう体験に戻れることに感謝したい。

先日、フロイト「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)を読み直していたと書いた。これはストレイチー訳以前に英国精神分析協会の創設メンバーでもある
Joan Riviere (1883-1962)も訳している。リビエールの大きな貢献である「陰性治療反応の分析への寄与」は最近復刊した重要論文集『対象関係論の基礎 クライニアン・クラシックス 新装版』に収められている。松木先生による紹介文にもあるけどリビエールはストレイチーも参加していたブルームズベリー・サークルにいた才媛で、1916年からジョーンズの分析を受けたあと、1922年2月から11月までフロイトとの分析を体験している。その間にフロイトの著作の翻訳をしており、フロイトが自分を翻訳者として見ていることに不満を持っていた、みたいなことが別の何かに書いてあったことを思い出した。フロイト理論にクライン理論を位置づける困難もリビエールだから説得力ある形でできたのだろうし、それがクラインとアンナ・フロイトの大論争のときの貢献にもなった。それでも自分の分析家から何かの役割で見られることは嫌だよね。そういうふうに使わないでほしいし。リビエールはその後クラインとも距離を置きつつ、文学、芸術分野と精神分析をつなぐ論文も書いていて、学派と関係なくインディペンデントな人だったのだろう、と思う。

1992年のInternational Review of Psychoanalysis,19:265-284にLetters from Sigmund Freud to Joan Riviere (1921–1939) が載っていて、1921年8月12日から1939年1月22日までの期間にフロイトがジョアン・リヴィエールあてに書いた一連の書簡が読めるようになった。私がPEPで読めるのは要約部分だけなんだけどワシントンのLibrary of Congressのサイトから探せるかも?わからない。そこにもフロイトの著作を翻訳し出版することに関するやりとりがあるらしい。リビエールはすでに伝記も出ていたかも、と今思い出した。あとでチェックしてみよう。みんな死ぬけど多くのことを残してくれている。ありがたい。

肌寒いけど風邪ひかないように参りましょう。どうぞ良い一日を。

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お菓子 散歩 精神分析

土偶の焼き菓子、学び

朝は冷える。気持ちのいい季節はもう終わってしまったのかしら。悲しい。今朝は、熱い紅茶と茅野駅そばのアニバーサリーチロルの土偶の焼き菓子をいただく。かわいい。美味しい。長野県茅野市、棚畑遺跡、中ッ原遺跡から発掘された二つの土偶は国宝。お名前は『縄文のビーナス』と『仮面の女神』。ふむ。いつ名付けたのだろう。この洋菓子屋さんは地元の名産品を取り入れたお菓子も多くてお土産にはぴったり。土偶たちは茅野市尖石縄文考古館に行けば会える。

まだ外は雨が降っているのかな。窓を開けてもよくわからない。降っていなさそうだけど時々雨粒がどこかに当たる音が聞こえてくる。どこかに溜まった雨が落ちているのかな。

昨晩、仕事が終わってエレベーターに乗ってから傘を忘れたと気づいた。夜は雨が降るっていってたのに。私のところへくる人たちもみんな持っていた。1F押しちゃったけど下まで行ってまた戻るか、と思ったが、開いた自動ドアから傘を持たずに歩いている人たちが目に入ったのでそのまま外へ出た。降っていない。駅に着くまでにほんの少し降り始めた。最寄駅も傘をさすほどではなく助かった。

先日、植物園に行った。花の名前も木の名前も何度見ても聞いても覚えられないけど植物園は楽しい。今回もトリカブトの花がきれいに咲いていたのを見た気がするのだけど写真に残っていない。植物園で見たのではなかったのかも。私は多分特定の植物にアレルギー反応があって歩いていると痒くなることが多いのだけど今回は大丈夫だった。いろんなところを歩いているうちにどの植物に反応しているのかわかってくるのかもしれない。

それにしても連日眠い。すぐにウトウトしてしまって仕事以外の作業が全く進まない。どうにかせねばとも思うけどいつもそうといえばそうなので時間を一気に使える自分が現れてくれるのを待つか。いや、地道にやらないと。今日は投句締切もある。1ヶ月が早すぎる。学会の役割も引き受けたからやらないと。精神分析実践の現実は言葉で伝わるものでは決してないけど、技法的な部分はどんな臨床をしていても共有できる部分は多いのでそこら辺を意識して話しあえたらいい時間になるのではないかと思う。知的な理解だけなら本を読んだほうがいいので、観念的な話からは距離を置きたい。臨床は人それぞれが全く異なる心模様で過ごしている日常からの学びなので知的な理解より心がいろんなふうに動かせるかどうかが大事。いつも似たような動かし方をしていたら同じ言葉しか出てこない。世界は広いから異なるものに開かれた学びを共にできる人が増えたら楽しい。個人的にはこじんまりやりたいけどどうなることやら。

なんか寒い。良い一日になるといいですね。

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精神分析 精神分析、本

フロイト「治療の開始について」を読んだり。

鳥の声が大きくて窓を開けっぱなしで寝てしまったのかと思った。やっぱり温かいお布団にしてから眠りが深い。昨日はすごくたくさん歩いて疲れたというのもあるが夏の間はよく眠れていなかった気がする。しかも今年の夏はあまりに長かった。

週末、大きめの公園を通り抜けると特に案内もない音楽イベントをしていた。内輪のものかもしれないけど穏やかな空気が流れていてやっと季節が変わったなあと思った。

さて、今日は火曜日。またリズムが崩れそうだから気をつけねば。

今度、学会で精神分析の導入について話し合うので、フロイトの「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)を読み直していた。

ストレイチー訳はこれ。Freud, S. (1913) On Beginning the Treatment (Further Recommendations on the Technique of Psycho-Analysis I). –The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud 12:121-144

副題に「(精神分析技法に関するさらなる勧め I )」とある。Iがあれば次があるわけで「精神分析技法に関する更なる勧めⅡ」は「想起すること、反復すること、ワークスルーこと」(1914)、Ⅲは「転移性恋愛についての観察」(1915)である。ちなみに「治療の開始について」は「転移の力動」(1912)、「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)に続くものである、と初版 Int. Z Psychoanal., 1(1), 1-10 and (2), 139-46.の脚注には書いてあり、これらは全て岩崎学術出版社から出ている藤山直樹監訳の『フロイト技法論集』に収められている。時間とかお金とか治療契約の基本的なところをフロイトがどう考えていたかは大体技法論集に書いてある。晩年に書かれた1937年の「終わりのある分析と終わりのない分析」「分析における構成」は前にも書いたようにフェレンツィへの応答というか陰性のものをフロイトがどう考えていたかという観点から読める。フロイトは神経症を倒錯のネガといい、ナルシシズムも倒錯との関係で描写した。それらはこれらの論文に見られ陰性治療反応の記述へと伸びていく発想である。

とちょっとお勉強的なことを書いてみた。今週も頑張りましょ。

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Netflix テレビ 精神分析

テレビ、フランス精神分析家たち

今朝は空が少し濃い。少し目を凝らすとちぎれたり帯状になったりした雲がたくさんみえる。虫の声もだいぶ静かになった気がする。取り壊された家のあとにぐんぐん伸びた草むらではまだ声高く鳴いているけど。

今日は月曜か。あまり朝に見られないが朝ドラ「ばけばけ」もとても好きでみている。高石あかりが素晴らしくかわいい。華やかさもあれば妖怪味もあってなんでも演じられるとはいえおトキちゃん当たり役。怪談好きの怖がり仕草もすごくいい。せっかく怪談好きのお相手と出会えたのにこれからどうなってしまうのかしら。おトキちゃんに早く幸せになってほしい。早く、というのはこれからを知っているからで、今のおトキは幸せなんだから今を喜ぶべきだな。人生幸せだったり不幸だったりの集積でできているということか。高石あかりはNetflix「グラスハート」の歌姫役もすごく素敵だったけど明治の没落武士の娘の苦労を明るく演じてくれるおトキちゃんいいなあ。このあとも楽しみ。

Netflixといえば「ウンジュンとサンヨン」もみていたが思春期の彼らが愛しすぎてその後がどうもイマイチと思ってしまう。ストーリーは彼らのその後としてとても魅力的だし、韓国のいろんな事情も切なくて見続けてはぢまうけど長く思春期の子たちと会っているとその年代に特別な思い入れができちゃうのね、きっと。

Netflixはほかにも色々みてるけど大河ドラマ「べらぼう」は相変わらずすごい。蔦重が横浜流星でほんとによかった。過酷な事態にだいぶ嫌な感じになってきたけど愛されてきた蔦重は今でもみんなに叱ってもれえるしその場面もいい。厳しい取り締まりにめげずに面白いこと続けてくれよ。

昨日は小グループのセミナーでアンドレ・グリーンのThe Capacity for Reverie and the Etiological Myth(1987)を読んだ。私はThe Freudian Matrix of André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century Edited By Howard B. Levine (2023)に入っている英訳で読んだ。フランス語で読めたらいいのだけど道のりは遠い。

フランスは日本よりずっと精神分析が身近なので組織も乱立していて問題も多い。つい先日もジェラール・ミレールという77歳の有名な精神分析家が少女たちをレイプした罪で起訴された。精神分析家なのに催眠を使ってる時点でイカサマ感強い(そうすることへのなんらからの主張が見当たらない)。人としてきちんと裁かれますように。ジェラール・ミレールはジャック・ラカンの娘婿でありラカン理論の継承、啓蒙をつとめてきたジャック=アラン・ミレールの弟。ジャック=アラン・ミレールについてはすでに入門書もでている。ジェラール・ミレールの場合、この問題が出るのは今回がはじめてではない。精神分析家として彼はいまだに組織に所属しているのか?本当に精神分析を悪用するな。というかそれは精神分析ではない。

アンドレ・グリーンの論文を読む楽しさについて書こうと思ったのにイラっとくる記事のことを書いてしまった。とりあえず今日も穏やかに過ごせますように。伊豆諸島が無事でありますように。良い一日を。

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精神分析

テレパシーとか。

空が薄い。羽毛布団に変えたせいかよく眠れた。カバーをかけるのが面倒だなあ、といつも思うけどがんばった。夏の始まりと終わり(もう10月も半ばだけど)の年2回だけなのにめんどくさいものよね、と思っていたせいか、PCに「取り替え簡単!」という掛け布団カバーの宣伝が出てきた。最近、検索もしていないのに思い浮かべていることと近い商品が出てくるから言葉のテレパシー性を振り返るべきよね、と今思った。というか、精神分析実践をしていると言葉は話されたものだけではないのは自明で、カウチ上で「何も思い浮かびません」「ちょっとぼんやりしちゃって」と言って何も言わないと「抵抗」とか言われることもあるわけだけど、この「抵抗」も意識的な行為に与えられている言葉ではない。自由連想なんて全く不自由だけど、「全然関係ないんだけど」「話ずれるんだけど」と自分でも「なんで?」と思うような事柄が思い浮かぶとき、それが鍵になる。夢と近いのはそっちだから。「夢は無意識への王道である」とフロイトが言ったことは言葉の機能を考えると本当に重要で、思い浮かべたことが広告として出てきてもそんなにびっくりしないな、と思う私はその機能を使って仕事をしているからだろう。オカルトじゃないよ、というのはフロイトが「夢とテレパシー」(1922 )の最初で言っている。もしそうだと思ったら期待外れですよ、この話、みたいな感じで始まるんじゃなかったかな。結構そういう書き方の論文多い気がするから違うかもしれないけど。岩波の『フロイト全集17』に入っているけどあれはオフィスにあるから後で確認しましょう。そうだ、カウチ上で「あ、それ夢に出てきた」と思うとき、本当に夢に出てきたかどうかは重要ではないし、確かめようもないわけだけどそれを思い浮かべて言葉にすること自体がすごく重要。連想を自由にできるようになると自分でも「あー、だからか」となんとなく仮説が立つようになるけどそれはかなり分析が進んでからだと思うので、それまでは精神分析家の技法が問われるわけです。ということで今日もがんばりましょう。色々やばいやばいとなっているから。

ちなみに『フロイト全集17 1919-1922年』はフロイトの大事な時期の大事な論文がたくさん入っています。「女性同性愛の一事例の心的成因について」は症例を使った最後の論文ではなかったかな(要確認)。断片的なものはその後も登場するけれど。

あとは「不気味なもの」「快原理の彼岸」「集団心理学と自我分析」など再読必至の論文たちも所収。「夢とテレパシー」はフロイトの夢シリーズとして光文社古典新訳文庫の中山元訳でもいいかも。ではでは。良い日曜日を。

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映画 短詩 精神分析 音楽

ハンカチとか懐かしさとか。

早朝、まだ空が暗いことを確認して洗濯物を干す。昨晩取り込んだハンカチをたたむために広げる。薄いピンクのハンカチ。少し小さな穴が開いているのにはじめて気づいた。本当に若いときに誰かからもらったハンカチ。当時はとても高級なものに思えた。実際そうなのかもしれない。ハンカチっていろんな人にいただくけどどれが誰からでその誰はどこの誰だったか、というくらい昔のものが多い。結局、一番上に置いてあるのを使ってしまうからお決まりの数枚しか稼働していないけれどその一枚。私は自分でピンクを選ぶことはほぼないけれどこのハンカチは見るたびにレタリングがかわいいと思う。どこのだっけ、と思ってまじまじみてみたけど書いていなかった。なんとなくKENZOのだと思っていた。KENZOがすごく流行った頃のかもしれない。改めて見てみるとこれってマザーグースの数え歌だと気づく。多分知っていた。でも覚えていない。マザーグースは谷川俊太郎訳のをセットで持っていた。今もその辺にあるはず。イラストは堀内誠一。堀内誠一は今年はじめかな、立川のPLAY! MUSEUMでやっていた展覧館に行った。すごく懐かしくて楽しかった。あの懐かしさのひとつなんだろうなあ、このハンカチ。A was an apple-pieからはじまる数え歌。B bit it, C cut it,D dealt it,E eat it,F fought for it, G got it,とつづいてく。きれいにアイロンかけて壁に飾るようにしようかな。実用から思い出の品に意識的に変えていくのもいい年齢かも、50代。

今週も何も進まないまま土曜日になってしまった。昨日は本をもつ気力もなく頭の中にあった韓国の詩人、呉圭原の詩を思い浮かべていた。茨木のり子の『韓国現代詩選』にも入っているし、吉川凪訳の『私の頭の中まで入ってきた泥棒 呉圭原詩選集』もおすすめ。多分、昨晩はゴロゴロしながら頭の中で本を探しているうちに「私の頭の中」という文字と重なり合ってこの詩集がヒットしたんだろうな。

今度読むアンドレ・グリーンにトロイメライが出てくる。Schumann’s Reverieという形で。私にとってこれはオルゴールの音楽でやっぱり懐かしさのひとつ。もうだいぶ前かもだけど有村架純主演の『コーヒーが冷めないうちに』の主題歌がYUKIの「トロイメライ」だった。

♪雲の上で遊ぶトロイメライ 星に手が届きそう夢みたい 笑顔がよく似合うトロイメライ♪

この曲「トロイメライ」の言葉の乗っけ方がすごくいいんだよ。

最近、集中して音楽を聴くこともないけど久しぶりに聴いてみよう。良い1日になりますように。

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短詩 精神分析

暮田真名川柳、フロイト「小箱選びのモティーフ」

十月十日、東京の日の出は5時43分。まだ空は暗い。PCの向こうの壁に貼ってある川柳からいくつか。

シャトルバス以外は荒野なのだから

暗室に十二種類の父がいる

本棚におさまるような歌手じゃない

短歌(off vocal)

暮田真名第二句集『ぺら』からの引用。2019年5月から2021年4月までに発表した400句余りのうち200句を収録したでかい紙ペラ。B1らしい。B1なんてあるんだねえ。ぺらというよりべらという感じだけど視力検査みたいな並びがかわいい。さっき書いたのは遠くからでもよく見える上段の川柳。一番ちっこいのも老眼鏡で。

子供から遠近感を取り上げる

きゃー、と面白いのが目に入った。取り上げないでー。

臨床心理士の地域交流イベントにお呼びしたのが2022年夏。先月9月12日には柏書房からエッセイ集『死んでいるのに、おしゃべりしている!』を発売。重みと勢いをぎゅっと一気読みできる軽さに閉じ込めたかわいい本。暮田さんのおかげで川柳はポップな遊びになった。

さっきまで合格圏にいた虎だ

これも「ぺら」から。なんかよくわからない迫力と悲しみを感じるがよくわからないので本当には悲しくもないし面白い。確かな言葉を新しいコードに乗っけてくような作業を私は自分の領域でしていきたい。精神分析はそれにすごくふさわしいと思う。精神分析状況でないと発揮されないしそれを面白いと思うまでのもやもやや苛立ちもすごいけど。いずれいずれいずれと思いながら浮かんだ言葉を言ったり言わなかったりする日々を過ごすのが精神分析。そんなのに時間とお金をかけることは賭けかもしれないけど私はそれに賭けたおかげで今があるからそういう欲望に肯定的。

フロイトの書く文章は読み慣れてくるとたとえそれが悲観的な結びであっても結構ポップ。

1913年のエッセイ「小箱選びのモティーフ」なんて楽しそう。結びはこうだけど。

「ここに描かれているのは、男にとって不可避の、女に対する三つのかかわり方なのだ、とも言いうるのである。女とは産むものであり、伴侶であり、滅ぼす者である。あるいは、母の肖像が一生のうちに変化していく三形態、すなわち、母それ自身、ついで、男が母の似像に従って選択する愛人、最後に、男を再び受け入れる母なる大地である。年老いた男は、人生の初めに母から受け取った愛を、女から得ようと手を差し伸ばすが、むなしい。運命の女性のうちただ三番目の者だけが、口を閉ざす死の女神だけが、彼をその腕のなかに抱き取るだろう。」

フロイト全集12(岩波書店)かな、メモによると。男にとっての女三形態進化は面白くはあるし、重要でもあるのだけど、それはともかくこの結論に至るまでのシェークスピアとかギリシア神話とかグリム童話の引用が楽しい上質エッセイ。まだフロイトが症例に強いインパクトを受けていた頃。フロイトほど色々暴かれている人でもそれでもそんなのはほんと一部でフロイト理論の変遷はいまだにいろんな読み方ができる。誰がなんと言おうと誰かが話している誰かのことなんて本当に小さな一部でしかないから、というのが通じない世の中というか、自分のみたいようにみたいってことなのかもしれないけどそういうのは面白くないし、遊びとしてもつまらないと思うのでできるだけ逃れていきたい。がんばれるかなあ。鳥たちが鳴き始めた。柿をむこう。柿もだいぶ色づいてきた。このあとあの街のあの大きな大きな柿の木は濃いオレンジの小さな柿でいっぱいになって鳥たちがいっぱい訪れる。今年も出会えるといい。良い1日になるといい。

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精神分析

強風、Dana Birksted-Breenの本、「クライン派用語事典」

西側の窓はまだ暗い。ブラインドが時折風でカタカタいう音が少し大きいので布で対処。少し風が強い。台風22号の影響か。伊豆諸島7町村に暴風・波浪の特別警報が出ているとのこと。建物が揺れるくらいの風だという。眠るのも大変だったかもしれない。被害が出ませんように。

学会前なので教える側として出版情報をチェックしているが、自分の勉強をしなくてはならないし(大体英語の論文を読む作業)ここ数年、翻訳情報にも非常に疎いので既に翻訳が出ているのかどうかもパッと出てこない。

The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの翻訳が出るのはいいことだと思う。女性の精神分析家たちで原著を読んでいるが翻訳があれば助かる。Dana Birksted-Breenは1946年生まれ、2024年1月に亡くなった。The International Journal of Psychoanalysisの編集長を2007年から2022年まで長く務めたDanaの論文のリストはこちら。国際色豊かな言葉の持ち主であることは明確で、今回翻訳された本を読めばそのワールドワイドな知識にも圧倒される。

精神分析の仕事 セクシュアリティ,時間,精神分析のこころ』 ダナ・バークステッド-ブリーン 著/松木邦裕,富田悠生監訳(金剛出版,2025)

Bulimia and anorexia nervosa in the transference以外の全訳である。この章のアブストラクトならこちらで読める。秀逸な臨床論文だと思う。私は、引用文献を探すためにDanaの仕事を参照する、ということをしている。 精神分析に向けられてきた批判を十分に意識した書き方も勉強になる。

批判といえばR.D.HinshelwoodのA Dictionary of Kleinian Thoughe(1991)は第二版で1989年の第一版への批判を受けて改訂された。2014年に衣笠隆幸総監訳で『クライン派用語事典』(誠信書房,2014)として全訳されている。第1版への批判は第二版へのまえがきに書いてある。その主なものの一つは「死の本能」と「羨望」のある側面について、もう一つは、ベティ・ジョセフに関連した最近の技法の発展について、ということでその内容が書いてある。

ヒンシェルウッドのこの第二版はクライン派の中心的な13の概念がエントリー。技法、無意識的幻想、攻撃性、サディズムおよび要素本能、エディプス・コンプレックス、内的対象、女性性段階、超自我、早期不安状況、原始的防衛機制、抑うつポジション、妄想分裂ポジション、羨望、投影性同一視。各見出しに定義と関係論文の年表がついている。この第二版では引用文献も1987年から1989年までのものに更新されている。

そしてこの事典のさらなるアップデート版がE.B.スピリウス版 The New Dictionary of Kleinian Thought(2011,Routledge).こちらは多分まだ翻訳されていないと思う。この第二版が翻訳された時点で既に出版されていたことは衣笠先生の総監訳者あとがきを読むとわかる。衣笠先生によるとこちらは「より整備された構成と記述からなっているが、やや教科書的で個性のないものに改訂されている」とのこと。原著で確認すると、こちらは無意識的幻想、子供の分析、内的対象、妄想分裂ポジション、抑うつポジション、エディプスコンプレックス、投影同一化、超自我、羨望、象徴形成Symbol-formation、病理的組織化Pathological organizations、で最後に技法というエントリー。クライン派関連文献はこちらも1989年まで。1989年だけみてもブリトン、フェルドマン、ヒンシェルウッド、スタイナー、ジョセフ、メルツァー、オーショーネシー、サンドラーなど重要文献がたくさん出版されている。

とまあ、事典、辞典、辞書は大事ですよね。ヒンシェルウッドが書いているようにクライン派の概念はフロイト派の思考の中から生じているからその枠組みを理解することが必要だし、そういうのを整理してくれることのありがたみをすごく感じる。ヒンシェルウッドがこの事典以上に説明が必要な人にはラプランシュとポンタリスの『精神分析用語辞典』とライクロフトの『精神分析学辞典』をお勧めすることしかできないと書いているけど、この二冊も必携と思う。私は若いときに古本で半額とかで入手したような気がする。学問としての精神分析を大切に思う人は信頼できる辞典に何度も立ち返りながら勉強を続けていってほしい。お互いがんばろう。

窓の外で時折、風がうねる音がする。都心はどうなるのだろう。どの地域にも早く平穏が訪れますように。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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精神分析

寒露、団栗、茨木のり子

今日は十月八日。寒露。暦の上では晩秋となる。熱いお茶でちもとまんじゅうをいただく。あと柿も少し。

帰るのはそこ晩秋の大きな木 坪内稔典

寒露か、と思い、オフィスのそばの大きなシイノキを思い出した。殻斗にシュッと乗っかったどんぐりがきれいでよく写真を撮っている。昨日のブログの写真に載せたかな。

団栗の俳句は転がるのが多いけど私がみている団栗はあまりコロコロしなさそう。というかまだ木の上にいるのをよくみている。

団栗を押し傾けてうごく蜷 岸本尚毅

季語が二つ入っていても実景なんだと思う。こう動かされてしまう団栗の俳句はいいな。すこーしだけうごく。岸本尚毅の時間感覚は多彩。

疲れているとろくな話をしないわけで、昨晩の私は「ごんぎつね」と「てぶくろをかいに」を混同しており、どちらの狐も殺されてしまった。よくよく思い出すに、ごんのお話は子供があるおじいさんから聞いたという設定。「てぶくろをかいに」はお母さん狐の心情が主。と考えるとこの二つを同じ作者が書いていることは大変面白い気がする。

「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」

永遠の謎な気がする。新美南吉記念館が愛知県だと知ったので今度行ってみたい。

昨日は、茨木のり子のことを考えていた。蠍座を思い出したから。彼女は動員で東京の薬品製造工場にいくのだが、そこへの夜行列車を待つ駅でぎらぎらした蠍座を見た。「はたちが敗戦」という有名なエッセイの一場面。茨木のり子の『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)は詩を書いていた思春期の頃の愛読書だった。茨城のり子の本がうちにあるのは知っているがどこにあるかがわからない。読みたいなあ。この前終わったNHK朝ドラ「あんぱん」の主人公のぶは茨城のり子みたいだと私は思うが、お父さんとの関係がだいぶ違う。

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

も有名だが、これは自分への怒りだろう、と読んだ。

ハングルに惹かれて50代から言葉を学び、『韓国現代詩選〈新版〉』(亜紀書房)の編者も務めた茨木のり子。斎藤真理子の解説でこれらの訳業が省略などの手直しを含んだものであることを知って驚いた。さすがに自らも詩人であり、取り上げられた詩人たちの交流もあると言葉への意識が研ぎ澄まされている。昨日か一昨日も書いたように言葉は内容ではない。

空がオレンジ色を増してきた。良い一日になりますように。

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料理 精神分析 読書

加藤陽子著、モリナガ・ヨウ絵「となりの史学」など。

空が薄い色になっていく。西側の窓を開けたら強めの冷たい風が一気に吹き込んできたけど一回だけだった。行き場をなくした風が溜まっていたのかもしれない。そしてヒヨドリの高くよく響く声。窓を開けると一気に音が増える。カラスと鳩も鳴いている。人間は朝は静かめ。小さな声で、できるだけ言葉少なめで、ということを保育園巡回の仕事で話すことが多い。言葉は内容ではない、というのを精神分析家の先生のスーパーヴィジョンで教わったことを私は精神分析以外の現場でも実感してきた。今はそれを私がいろんなところで伝えている。大事な教えだった。

昨日の夕方、郵便物をだそうと外へ出たらびっくりするくらい寒かった。部屋の中は蒸し暑い感じで冷房をつけていたのに。昼間は半袖でちょうどよかったはず。帰りは上着を忘れないように、と確認しながら温かい飲み物を買った。何年ぶりかの午後の紅茶ミルクティー。「冬の濃厚」という文字が身体にフィットしてしまった。温かいまま飲みたかったからサーモスのカップに移して飲んだ。

今朝は熱い緑茶。印度カリー子レシピでカリカリ豚こまを作っていたら冷めてしまった。「サラダ油を薄くひいたフライパンに入れ、中火で1〜2分揚げ焼き」とあるけど毎回中火で1〜2分では全然カリカリしなくて結構焼いている。カリカリでなくても美味しいのだけどヨーグルトの水分が多いのか、片栗粉が少ないのか。そもそも「サラダ油を薄くひく」のでは「揚げ」には足りないのではないか。でも豚肉から油が出るから揚げ物っぽい音は立てるのよね。印度カリー子さんにどこが問題かチェックしてもらいたい。クミンパウダーを使い切った。カリー子レシピで使うのは小さじ1/2とかなのに地道に減ってついになくなった。この年になってようやくスパイスを賞味期限内に使い切る人になれた。

冷めた緑茶といただくのは箱根の老舗和菓子屋ちもとの「湯もち」。久しぶり。ふわふわ。あっさり口の中でとけてしまいましたとさ。早かった。

昨日、イレギュラーな予定を確認してメールしないと、と思ってiphoneのカレンダーを見たら「しまった、ダブルブッキングしている!」となった。慌てて申し訳ないどうしましょうのメールを打ち始め、もう一度カレンダーを確認したら昨年の予定をみていた。そういえば昨年もダブルブッキングしそうになったから確実にあけられる時間に変えたのだった。昔はいろんな場所でいくつもの仕事ができていたけどやること定まってからは規則正しいのになれてしまって毎回ドキドキする。先方もわかっててリマインドのメールをくれたりするから助かるけど。

今、加藤陽子著、モリナガ・ヨウ絵の「となりの史学」(毎日新聞出版)を読んでいる。東京大学出版会のPR誌「UP」で2010年11月号〜2018年11月号まで連載されていたものに加筆・補正を加えたものとのこと。「UP」はたまにしか読んでいないから知らなかった。著者が書いているけどこれが連載されていたのがどういう時代かというのも大事。東京大学出版会が出した関連書物を読み込みながら書かれるこの本の第1章は井上陽水の「なぜか上海」で始まる。陽水の父親は衛生兵としてソロモン諸島で戦って俳句も作っていたとのこと。大変読みやすい。そしてモリナガ・ヨウさんのイラストがすごく味がある。この本の「おわりに」が書かれたのが2025年4月という。トランプ政権が二期目となり、世界がいよいよ歴史を放棄しはじめたような気がした頃だ。まだほんの半年前のこと。戦争は終わらず、生まれたばかりの子供も殺され、それに対するグレタさんのような人たちの戦い方もぶれない。戦後80年、私は井上陽水も身近だし、80年の前半30年は知らないけど50年は過ごしてきたわけで、今、昭和の出来事や景色を思い返すとなんだか違う色の世界を見ているような気持ちになる。実は私も世界も何も変わっていないのかもしれないけどいろんなことは相互作用だ。平和という言葉は今も重みがあると思う。戦争とは違って。若いお母さんが眠っている子供の隣でぼんやりしながら「へいわー」と言っていた。束の間でも平和を感じられる心を守るためにできることを考えながら仕事して勉強して生活をする。どれもこれもこういうことができるってまだかろうじて平和なんだ。

良い一日になりますように。

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精神分析

不思議だったこと

空が薄暗い、と思ったら太陽が出てきた。今日はまた少し暑くなるらしい。鳥たちは元気そう。田園都市線が大変なことになっている。沿線上の学校はどうするのだろう。休校だろうか。政治は相変わらずうんざりが続いている。平和を願わない人は政治に関わらないでほしいが真逆の方へ向かっている様子。

週末に行った店で飲み物以外の品が出てくるまでに1時間近くかかった。ゆっくりしか動けないが耳も声もよく外国からの人には「ドリンク」だけは何度も聞く。頼まないという選択肢があるのかないのかもわからない。文章はほとんど話さない。調理は妻。妻はおばあさんという感じはせず、夫へのサポートは的確で優しい。飲み物に関しては何の問題もなく食べ終わった人にはお茶も入れて持っていくように夫に渡す。お盆から自分で取るように仕草で促すおじいさんに外国の人が戸惑いつつも受けとる。定食を待っていた外国からのカップルは店内のテレビでアニメが始まると写真をとったり楽しそうだったが一本目が終わり二本目が終わりに近づくと明らかに苛立っていた。お魚にたくさんお醤油をかけていた。注文通っているのかな、と心配になって聞いてみると「順番に出している」「ナスは時間がかかる」とか申し訳なさそうにいうが順番でもないし、ナスはそんなに大変じゃないと思ったので聞いてみたからなんとも不思議な気持ちになる。観察していても何が起きてこうなっているのか本当にわからない。意図を感じないことの不思議さ。一方、店内のいろんな人たちの行動にそれを感じるかといえばそうでもなく、なんなら私たちの「普通」が問われているのではないか、というような気がした。

最近、世界のニュースも含め、何をどう考えればいいかわからない状況が続いている。目の前で起きていることのわからなさ、不思議さは具体的に共有しやすい。反応も大事にできる。今日も小さなことに立ち返って楽しいことやきれいなことと出会えたらいいな。

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あたたかくつなぐ。

涼しい。昨日に引き続きお天気はイマイチか。昨晩の福島の地震、少し大きめだった。ちょうど能登の話、東北の話をしていたところだった。

今日は月曜日だと思ったら日曜日だった。イレギュラーな用事があるとすぐに曜日感覚がおかしくなる。昨日は長い一日だった、というより家に帰ったのはいつもより早かったけどこれまでの時間がぎゅっとつまった濃密な時間を過ごした。モーニングワークの大切さとワークスルーした人の柔らかさ。それに触れて流す涙とこの先の幸せを願う気持ち。悲しい出来事を共有した人たちみんなでその先の今を共有できるしみじみとした嬉しさ。日本の政治はあたたかみを大切にする意味を知らない人によって支配されつつがあるが、こういう細やかで長く続く関係が育んできたものは強いと信じたい。

50年近く続いてきた団体を引っ張ってきた世代はもう70を超えている。その下が私たちの年代。その下で中心になりつつある20代を支えていかないと歴史は途絶えるという危機感。簡単に歴史を変えたり捨てたりできるこの時代に自分たちの育ちに必要だった関わりや文化を残そうとしてくれる若者たちがいることはとてもありがたい。でもそれを支えていく私たちはいつも地味に忙しく、かつ、かつての体力はもうない。それでもできることは何か。それはかつてのつながりを生かすこと。誰かを失ったり、誰かが生まれたりするたびに回復してきたつながりを気楽に使っていくこと。若い頃は自分にも他人にも厳しかった自分たちを笑いながら最低限のことをしていく。そんな話をいろんな思い出話ついでにした。こういうのもついでにするくらいがちょうどいい。言葉だけのやりとりではなく行動を伴わせてきたのだから多くを言葉にしなくても大丈夫。心理療法の積み重ねだって同じこと。これらはもっと少ない言葉でゆったり語られるべきだと私は思ってきたのでこれも現代の人気者たちとは相容れないが育ててきてくれた環境に感謝しつつあたたかさをつなぎたい。

それにしても十月ももう五日。少しずつ困ったことになっているがどうにかなるといい。良い一日になりますように。

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精神分析

貧しい時代に。

窓を開けていると寒いくらい。気持ちいいけど急激な気温の変化に身体がついていっていないみたい。元気なんだけどどこか疲れている感じ。ちょっとしたことで元気なくなってちょっとしたことで元気出たり。私の場合、すっごく小さなことでの小さな浮き沈みだけど。かわいいスニーカーにするだけで姿勢が戻るみたいな。

元気なくなる、といえば、この前、住民税の督促状がきた。しれっと引き落とされるのが嫌で口座振替にしていなくて納付書で分割で払うようにしているのだけど2度目。私が遅れたのが違反というのはわかるがこの督促状は本当に心身に悪い。延滞金加算のみならず、給与調査、自宅捜索、差押などの文字が並ぶ紙っぺらを送りつけられることの負担がすごい。長年、毎月きちんと家賃も税金も納めてきたのに払うのは当たり前、払わなければ生活の基盤失います、みたいな感じ出してこなくてもよくないか?心身ともに貧しい時代にこれは本当によくない。この前書いたけどしれっと森林環境税が入っているのも住民税だ。思い出した。今回、私は少し遅れてしまったけどすでに払ってあったので行き違いだった、行き違いだよね?私、払ったよね?と不安になった。不安になるだろ、こんな督促状がきたら。取締りばかり厳しくなる社会。人の個人情報を色々間違えて使用したり無くしたりしても何もしてくれないのにね。理不尽。

で、嬉しかったのは、昨日発表された第17回TAMA映画賞の最優秀新進女優賞に桜田ひより&中野有紗が選ばれたこと。先日また読み直していた、と書いたばかりの辻村深月原作の『この夏の星を見る』の劇場版で二人は茨城と五島列島で暮らす高校生を演じた。力強さと繊細さを対照的に演じていた二人の受賞にすごく納得。若い役者の名前と顔が一致しにくくなっているが、本当に達者な人が増えていると感じるので日本の映画界もいろんな困難を乗り越えていい作品を作り出していってほしい。こんな心身ともに貧しい時代(2度目)だからこそ。

さあ、今日はいつもと違う動きがあるけど大丈夫だろうか。余裕を持って動こう。無駄な寄り道しないようにしよう。寄り道はあと。雨降るんだよね、今ちょっと太陽が出てるのだけど。このままであってほしいなあ。良い一日にしましょう。

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精神分析

オープンダイアローグとかひきこもりとか。

曇っている。これから晴れるのかな。光ってるグレー。もう10月3日になってしまった。オフィスのパソコン(Windows)を持ち帰ってよくわからなくなってしまったフォルダの整理をしようと思ったのにアダプターしか持っていなかった。帰宅してバッグを開けたらいつものMacBookが出てきてびっくり。君はオフィスのパソコンと交換こされて置いてこなかったっけ。私はこの子を一度出してそのまま戻すという作業をしたわけか。馬鹿だな。こういうことはよくあるので「ああまたか」と小さく失望してやや開き直って過ごすことになるわけだが夜遅くまで仕事して帰ってきてまだ仕事しようとしていたのがおかしい。どうせしないで持ち歩くだけになったりしていただろうに。自分に小さく期待してしまっているのだろう、そういうときは。大方裏切られるとわかっていても。自分に自分が。

10月13日(月)はそういえば祝日か。「スポーツの日」だって。10月10日は「体育の日」でお休み、というのをなかなか修正できない。月曜日にお休みを集められたのは助かるときと困るときがあるね。精神分析関係でいうと13日(月・祝)は藤山直樹&十川幸司主催の小寺財団の学際的ワークショップがあるらしい。四谷三丁目の小寺財団セミナールームで。今年のテーマはオープンダイアローグ。申込の締め切りは過ぎていても連絡してみるといいらしい。

オープンダイアローグ(OD)は今やオンラインでもたくさん紹介されている。主な紹介者は斎藤環、高木俊介か。ヴィゴツキー研究者の神谷栄司「オープンダイアローグの理論的基礎」という論文はセイックラが引用したバフチンやヤクビンスキーの対話論、ヴィゴツキーの側からOD理論の精緻化を試みている。学部生時代にヴィゴツキーのファンになったのでこういうの楽しい。今回の小寺財団学際的ワークショップのゲストはOD紹介の第一人者、斎藤環先生。社会的ひきこもりでも有名だけど、昨今のいろんな名付けによる症状理解を見るに「社会的ひきこもり」という用語はいいかげんに使えない感じがよかったような気がする。今回はひきこもり研究ラボなども立ち上げている精神分析家の加藤隆弘先生もゲスト。登壇者が男性医師ばかりだから参加者もそうなるのかもね。藤山先生と十川先生は医師というより精神分析家の仕事が主か。

今は斎藤先生が代表なのかな、わからないけど青少年健康センターとか、いのちの電話のデイケアで「ひきこもり」の状態にあるみなさんと週一回とか一緒に過ごしていたけどほとんど男性だった。自閉症の人たちの施設もそうだった。今はどうなのだろう。

保土ヶ谷の坂の多い街の古いアパートだったと思う。あの日々で私は横浜の坂の多さを知った。その後、横浜の看護学校で仕事をするようになったときも似たような地形を歩きながら当時を懐かしんだ。もう記憶もおぼろだが、私はあのアパートの居間しかいたことがない気がする。常勤スタッフの方がいつもウェルカムでいてくれて楽しかった。そこでその日のお出かけの計画を立てていろんなところに行った。カラオケとか室内スキーとかも行った。いろんな経験をさせてもらった。スタッフさんが車で連れていってくれるのだけど神奈川だったから私はつい「ダイナミック! ダイクマ 」を口ずさんでしまってそこから生まれた一瞬の交流は今でも思い出すとほっこりする。当時は今以上にいろんなことが口をついてでてきてしまっていたから気づいたら色々伝わっていて失敗も多かったけどそういう瞬間も多かった。あのCMソング、今はどのくらい通じるのだろう。

今日もがんばりましょう。良い一日を。

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精神分析 読書

辻村深月『この夏の星を見る』、エリクソン

やっぱり秋の空はスッキリきれい。今朝は房州銘菓元祖牛乳せんべい。館山市の加藤菓子舗という老舗のおせんべいだそう。予想より少し硬い。そして予想より少し甘い。でも牛乳せんべいってこういう感じだった、そういえば、と思う。美味しい。

クリーニング屋さんから特別ご優待のハガキが届いていた。今月はクリーニングに出すお洋服を着るからありがたい。嬉しい用事があるということ。この年にならなくても、本当に急で、本当に衝撃的な体験をしている人たちがたくさんいる。辛く悲しい日々を超えて新しい体験に向かうのは躊躇いや恐れも生むけれどそれでも、とがんばっている人たちがその人のペースで歩めるように応援したい。

辻村深月『この夏の星を見る』をまた読み始めた。映画も見たがこうやって文字に戻っても引っ張られることもない。この作家はそれぞれの子どもの心が人との間で見せるうつろいを描写するのが本当にうまい。子どもに関わる支援者の人(多分全ての支援者がそうだと思う。みんなかつてそうだった)は専門的な本を読むのもいいけどこういう本を読むのもいいと思う。個別に見ててもわからない世界がリアルに、ポジティヴに書かれている。特にこの本はコロナ禍の中高生のお話。程度はともかく誰もが無気力、思考停止、排他的な心との葛藤を体験した日々。そこで特に中高生がどんな体験をしていたのか。フィクションだからこそ目を背けずに知れることも多い。空を見上げて繋がりを思った日々の複雑な感情も。爆音に命の危険を感じながら空を見上げる子どもたちが今この瞬間もいる。どこを向いても安心できる場所がない彼らの身体も心も持ち物すべてが守られることを望む大人がマジョリティになりますように。

一昨日、急にテーマを変えて書いた発表原稿は募集要項をみたら全然大会のテーマと関係なかったというか大会のテーマに関係していることが査読のポイントになっていた。あーあ、と思ったけど国外の同業者を意識したらああなってしまったからしかたない。昨年のシドニーで国外の人たちとの交流で自分が日本人であることとか彼らとの歴史とかに関する意識と自覚がすごく強くなった。多くはたやすく言葉にできないことだけどプライベートな場では多くを話し合った。自分の国が持つ加害性を他人事にすることはできない。そこで育っていたらどこかしら何か引き継いでしまっている。それに対する恐れと自分は狂っているのではないか、あるいはこれから狂うのではないか、という恐れは似ているだろうか、そんな問いを症例を通じて考えてきた。とてもデリケートな問題なので少しずつ考えたくて、今回もそのことについて直接書くことはしなかったけどエリクソンを引用した自分には驚いた。大学の頃は発達心理学専攻だったから身近だったエリクソンだが精神分析家になったら精神分析家として身近になった。それが急に自分の前に重要性を持って現れた。何かヒントがあるのだろう。もっと読んでみようと思う。

東京は良いお天気。良い一日を。

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精神分析

日光ラスク、原稿

雨?向こうのお家は濡れているけど雨が見えない。まだ暗い。少しずつ冬に向かっていく。オフィスはまだ冷房つけてるけど。

昨日は珍しく隙間時間もせっせと作業してぎりぎりではあったけど来年ソウルで開催されるIPA The Asia Pacific Conference5th用に演題提出して仕事もいつも通りやってようやく帰るぞ!という時間に怖い目にあった。駅員さんが駅のどこまでを安全管理の領域としているかわからないが混雑した駅で危ない行為をしているのをみたら止めてほしいな。警察を呼んでくれてもいいし。故意にぶつかってくる人には何度か会っているが自分の行きたい方角にいる人は蹴散らしていい、くらいな勢いの人には久しぶりに会った。怖かった。もし私が大きな男の人だったらまるで目に入ってないかのように向かってきたりしないのかな。こういうときはいつも思う。もし私が大きな男だったらって。

ということで昨晩はストレスが多かったのか、夜遅くに日光のお土産の日昇堂さんの「日光ラスク」を食べてしまった。パッケージがとても可愛くてもったいないから開けてなかったんだけど個包装された高級そうな袋を開けてみたら小さくコロンとしたラスクがいっぱい。おいしくてぱくぱく食べちゃった。最近、甘いものも食べられなくなってきたな、とか思ってたけど毎日どの時間帯もなんらかのお菓子を食べているからむしろ気をつけなくてはいけないのかもしれない。でも可愛くおいしいものは元気をくれるから昨日みたいな日は食べて正解。

私は書き始めがいつもいつも直前すぎて本当にダメだと思うのだけど、今回は内容も突然変えてしまったし、形式からよくわからないし(英語だから)困った。締切ギリギリになってしまったからサマリーとアブストラクトもバーって書いて送った。アブストラクトは完全に下手だな、というかここそんなに言いたいとこではないけど、とにかく時間がないからしかたない、と修正しなかった。日本語を修正するとそれをまた英語にしないとで、ただでさえ英語にしたときにずれている可能性があるのに急いだらもっと変な英語使うことになるからね。内容はオグデンが分析的枠組みの変更に関して述べていることをヒントに、beingとbecomingに関することを書いたつもり。難しいテーマにしちゃったけど今後も考えていきたいな、と思うことのきっかけになりそうな部分だけ書いた。そういえば6月に討論を担当した精神分析的心理療法フォーラムの校正原稿が届いた。早い。きちんとしている。ウィニコットフォーラムと精神分析研究は書いてからもうどのくらい経つのだろう。当時とはもう考え方が変わっているかもしれないが、ああいうのも自分的きっかけになればいいけどそんな得意なわけでもないのに時間割いて書いたのにーとなる。ウィニコットフォーラムは会員ではないけど今度大会があるらしいので興味ある方はチェックしてみて。大会はきっと面白いよ。ウィニコットを読む人が増えるのは私にとってはとても楽しいこと。さてさて、今月書くのは分析協会用。こっちはスケジュールが最初から提示されていて、それに合わせてきちんと進行すると知っている。昨年出したから。先生方は協会の仕事も普段の仕事も忙しい中で査読とか編集とかしてくれるからきちっと進めていかないとご自身も大変になってしまうのだろうけどありがたい。

空が明るくなってきた、と言っても紺色。この時間もきれいねえ。今日も長いぞ。がんばりましょ。

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精神分析

あつさとか静けさとか。

風が気持ちいい。カラスが大きな声を出しながら通り過ぎた。今朝は柿と葡萄とカントリーマアムの秋っぽいやつを紅茶と一緒に。温かい飲み物をエアコンなしで美味しくいただける季節、ありがたい。なんか昨日は暑かったけれど。あと夜、アイロンをかけたら暑かった。自分の家で手作業で仕上げているクリーニング屋さんは昔だったらすごく暑かったことでしょう。それに対しても素敵な工夫がありそうだけど。今はあまりみなくなったかなあ。地元で長くやってきたクリーニング屋さんもなくなってしまった。荻窪の小児科や保育園で働いていた頃、教会通りにごはん食べに行ったり、お散歩やお買い物に行ったりしたけどそこに東京社というクリニーニング屋さんがあって閉まっていても外観が好きでよく写真を撮った。きれいな水縹色の壁と不思議な作りの建物。この夏はこんなに暑かったけど作業はどうされていたのだろう。荻窪の古い商店がどんどんなくなっていくのをちょうど目にしてきたけど、再開発たって、ねえ。川勢も老朽化で無くなってしまったらしいし、街の顔としてありつづけてくれた店も大切にされないのっぺりした世の中って寂しい。

まだ朝の静けさが続いている。あと少ししたら駅に向かう人の足音が聞こえ始める。私もその一つになる。

つけたばかりのエアコンとかけたばかりの洗濯機とこうしてタイプをする音、そして時々、もぐもぐする音と飲み物が喉をごくんとする音、季節が秋で、これが夜だったらこれだけでものすごく静か。これが朝だと全然違う。朝は意外と音が多い。太陽が登り始めた頃。鳥が起き出した頃。谷川俊太郎の詩が書いてそうな景色が次々と立ち上がり始める時間。この種の音が少しする場合の静けさとただただ続く釧路湿原を行くときの静けさも全然違う。釧路湿原を歩き始めたら大地が揺れた。地震だった。どこにも誰もおらず、それ以上揺れないことを見込んでまた歩き始めたのは何年前か。比較的大きな地震だった。再生可能エネルギーの促進か自然保護か、って自然保護に決まってるだろう。釧路湿原をひとりで歩いてみたらいい。自分も自然の一部であり、常に生かされているという感覚が少しでもあるのであればわかるだろう。

私は今日までの原稿を書かねばならないのだった。当初とは異なるテーマを思いついてしまったのでまだ半分くらいしか書けていないのでほぼ無理だと思うのだけど。万が一書けたとしても内容的にも採択されなそうだけどこの数時間でできるところまでやって、今回無理なら次回の下地にしよう。続けていこうと思ったのに全然ダメだったな。まあ、お仕事は今日もがんばりましょう。良い1日になりますように。

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自律神経、『W・R・ビオンの三論文』

朝焼けがきれいだった。でもまだ早くて「自律神経を整えるには」と考えながらぼんやりしていた。南の窓からの風が冷たくて気持ちよくて離れたくなくてベッドに本を持ち込んでみたけど寝っ転がってぼんやり本を読むのが昔よりずっと億劫になってきた。好きなものを両立できないって悲しい、とか思いながらしかたなく起きて家事をした。今日も印度カリー子レシピにするか。きのこも色々買ってこよう。一年中食べてるけどやっぱり秋の食材といえばきのこでしょう。とはいえこの前どこかのファミレスで松茸のメニューがあって松茸はここで食べなくてもいいかなあなど話した。特別感あるものは食べられたら嬉しいけど食べなくてもいいし食べるなら特別な感じで食べたいとか思う。

日曜日は唯一早めに夕飯を食べられる日なのでダラダラ食べてしまった。夜に作業をする時間があるぞ、と思ったのに気づいたら寝ていた。ぼんやりやリラックスが得意なのはいいけど、私が個人的に怖いのはそれで消化が悪くなること。胃腸の働きを正常にしたい。色々気をつけているんだけどな。

こうしていてもなんかいつもと違うリラックスがほしくてラジオをつけてみた。昔は朝はずっと聴いていた番組。ラジオの台本を書くバイトに応募しようとしたこともあった。なんでしなかったのか。当時は今よりずっといろんなもの書いていたし、エネルギーあったから出しちゃえばよかったのに。採用されなくてもいい経験になったかもしれない。私のことだから郵送(当時はなんでも郵送)が面倒だったのかもしれない。すごくありうる。変わってない。

昨日、寝落ちする前に開いていたのは、昨日書いたフロイト「心理学草案」がらみで『W・R・ビオンの三論文』(2023,岩崎学術出版社)。この翻訳も日本の精神分析家の福本修先生。編者のクリス・モーソンは2020年に急逝。ビオンの二人目の妻、フランチェスカとともにビオン全集の編集に関わったクリス・モーソンの仕事を引き継げる人なんているのだろうか。この本は各論文(講演記録)にクリス・モーソンの編集後記がついていて、本の半分くらいの分量があるのではないか。そこがおすすめ。いろんな事情や背景やいろんな資料があるんだなあと驚くし、その内容も勉強になるし面白い。序言はロナルド・ブリトン。

昨日は午前も午後も別のグループで事例検討会をしていた。午前は初回面接のグループ。午後は仲間内で定期的にやっているグループ。ビオンは第一論文「記憶と欲望」(1965)で「臨床報告」と呼ばれるものは現実の経験だったものの変形物だという。でも、とビオンはそこを入り口にもっと広い問題を語っているので部分的に引用することはしないけど(したいけど)、ビオンがこの講演の中でフロイトに倣って言う「人は本当にほとんど盲目になる必要がある」の部分に関してフロイトを引用しておこう。いや、フロイトを引用しているモーソンの編集後記を引用しよう。

「フロイトは一九一六年五月二五日(原注だと五月一三日)のルー・アンドレアス=ザロメへ宛てた手紙の中で、それに言及した。フロイトが手紙で述べているのは文章を書くという行為についてだが、彼が「私は、すべての光を一つの暗所に集中させるために、意味のまとまり、調和、修辞そしてあなたが象徴的と呼ぶあらゆるものを放棄して、自分自身を人為的に盲目にしなければならない」と書くとき、彼は明らかに、精神分析的な注意自体に言及していたーーそれは、分析者が「自分自身の無意識を受信機のように、患者が送って来る無意識に向ける」(フロイト、一九一二、一ー五頁)ことを可能にする、平等に漂う注意にとって必要な条件である。」

フロイトを読んでいるとビオンの言っていることの含蓄も実感する。ビオンの方がフロイトより心揺さぶる書き方してくれるし。ウィニコットほど変なマイルドな感じがしないし。どの書き方も好きだけどビオンの誠実さは特に好きだな。原著で全集を買ったのはウィニコットの方だけど。

もうこんな時間だ。今日も暑くなるんだって。ただでさえ夏の疲れが残っているでしょうから無理せず過ごしましょう。お元気で!

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精神分析

早朝雑事、「心理学草案」、Kohon論文

今日は曇りなのかなあ。光はあるけど水色とグレーと白がどれも薄く混じり合ってる。どんよりしていないのはいいね。風も涼しい。

とだけ書いて果物とお菓子でお茶して、朝早くから大掛かりな掃除というか色々した。が、まだこんな時間。余裕で間に合う。

昨晩はReading Freudで「心理学草案」の第三部、主に「注意」について書かれているところをじっくり読んだ。欠席の人が多かったのともうすぐ読み終わってしまうのでかなり丁寧に読んだ。そしてアンドレ・グリーンを楽しく読むモチベーションが高まった。今年度はあれやこれやでグリーンの購読会にあまり参加できていないけど一、二年前と比べるとずいぶん理解が深まった気がする。「心理学草案」を精読せねば、という気持ちもグリーンを読んでから強くなった。オグデンはウィニコット発が多いけど最近の議論はそもそもフロイトの初期に戻りつつのアップデートな感じがしている。「心理学草案」だけ読んでも何が何だかだが、症例論集、技法論集、メタサイコロジー論をはじめ、フロイトの書いたものをずっと読んできたなかで読むと「注意」という概念ひとつとってもそれが精神分析の中でどう扱われてきたかに関心が向くから楽しい。ビオンはフロイトは「注意」に関する研究を展開しなかった、といってるけど、そう言いながら自分が展開しているわけなので源流を読んでおくのは大事。昨日は「草案」の中でも「接触障壁」について検討しているKohonの論文があると教えてもらったので帰ってからそれを読んでいた。2014年のInt. J. Psychoanal., (95)(2):245-270、Making contact with the primitive mind: The contact‐barrier, beta‐elements and the drives。

公開されている部分のアブストラクトはこんな感じ。正確には原文を

臨床ヴィネットを出発点として、ビオンの「接触障壁」の概念――「精神現象を二つのグループに分け、一方は意識の機能を、もう一方は無意識の機能を果たす」(Bion, 1962)――と、それがフロイトの欲動理論といかに関わるかが探究される。ビオンの概念は、フロイトが『心理学草案』(1950[1895])で記述した「接触障壁」と比較される。この比較を通じて、ビオンのメタサイコロジーのさまざまな側面、とりわけビオンが量的・エネルギー的に「刺激の付着‘accretions of stimuli’」と記述した「ベータ要素beta-elements」という概念が明らかにされる。接触障壁の機能を介したβ要素の処理は、フロイトが述べた欲動の「拘束‘binding’ 」の発展形として理解される。ただし、ベータ要素は内から生じる衝動だけでなく、「未処理の」外的刺激も含む点で異なる。「β要素」と「欲動」は、ともに心が知りうるものの限界を定める概念として理解される。さらに臨床素材が提示され、著者の主張――すなわち、ビオンの接触障壁および関連する概念(α機能、コンテインメント)は、フロイトのメタサイコロジーの経済的・エネルギー的側面に照らして理解されるべきである――が論証される。

最初から臨床ヴィネットがくる書き方で興味深いけど長い。長すぎる。のでちょっとずつ。こんなことよりすることあるけど関係ないことばかりしてしまうな。人間らしいといえば人間らしいか。さあ、いいお天気になってきた。いいことありますように。

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俳句 精神分析 読書

よあけ、気づき、分析家の自由

どの向きの窓を開けても暗い。夜明けが遅くなってきた。ユリー・シュルヴィッツ作の「よあけ」を思い出す。静けさと美しさに驚く絵本。読んでなくても見たことがある人は多いかも。うちにもあるはずなんだけどどこだろう。あれは瀬田貞二訳。瀬田貞二は中村草田男の俳誌の編集長もやっていたはず。翻訳家は俳句も上手そう。あとで調べてみよう。

昨日の朝、馴染みのクリーニング屋さんの小さな花壇に朝顔が咲いていた。大きかった。少し散歩してまたそこを通るともう萎んでいた。びっくりした。

岸本尚毅の朝顔の句を読んで、私は本当に注意力が足りないなと思っていた。じっと観察してそのものになってから広がる世界。私には到底難しい。それにしてもどんな句だったか。朝顔のしぼみて暗き海があり、だっけ。岸本尚毅の先生だった波多野爽波の句も読んだがそれも忘れてしまった。注意力も記憶力も足りなすぎるが、自分のできていない部分に細かく気づくと「ちょっとそこ注意してやってみよう」と思えるのは彼らがいい先生だからだろう。押し付けるわけでもなく「あ、俳句ってこんな感じなのか」という直感的な良さをくれる。それがモチベーションになる。

小さな気づきも大事だが、もう本当に書き仕事は進まない。仕方なく自分の関心がなんだったかを忘れるというまさかの事態が起きないように細々とインプットを続けている。サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの今のところ一番新しい著書、What alive means: On Winnicott’s “transitional objects and transitional phenomena”は表題論文という感じなので読み応えがあった、というか、オグデンが書いてきたこと、やってきたことがますます洗練されていくのを読むのはすごく勉強になる。オグデンも読者自身が発見し創造していくことを求める書き手なので私も色々考えながら読んでいる。オグデンはウィニコットと同じく精神分析家である、精神分析家になることをものすごく意識的に言語化している人なので、精神分析実践を伴うとその言葉にますます切実さを感じるし、まだその感覚わからないな、と感じることもある。この論文は、ビオン、シミントン、ピック、コルタートを引用しながら自分の症例を通じて分析家の考える自由と分析の形や枠組みを検討している。この作業はオグデンがフロイトを読み直すことを含めてずっとやってきている仕事だと思う。

オグデンがこの本のこの論文の最後の方で参照するNeville Symington (1983) “The Analyst’s Act of Freedom as Agent of Therapeutic Change”(International Review of Psycho-Analysis, 10: 283–291)の“a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” なのだけど、この論文をPEPで読む権限は私にはないので(お金払えば読めるだろうけど)ネットで読める範囲のものを読んだ。でもこれこの論文のどこに書いてあるのか探せなかった。

オグデンの論文だとこんな感じで訳せる。

「Symington1983)は、分析家の「考える自由」についてBionの続きから論を起こす。Symingtonにとってthe analyst’s freedom to think は分析家が自らを「ある種の(拘束的な)無意識の知のパターニング “a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” 」から解き放つ能力に依存する。分析の開始時から、分析の二者はひとつの「corporate entity」の一部となり、そこから分析家は、独立した思考が可能であり、かつそれに責任を持つ分析家としてのアイデンティティを回復しなければならない。」

シミントンの元の論文だと超自我と絡めた説明になってるようだけどオグデンは超自我という概念を好まないのか?この辺ももうちょっと見直し。オグデンはウィニコットを中心に引用するが結局フロイトに戻る。私はつまみぐいだとできない実践のために訓練積んできたから地道な作業だけどやらねばねえ。雑な言葉遣いで精神分析という治療文化を自分の理解の範囲に押し込むなんてことしないためにも。それじゃ面白くなくなってしまうものね。どうしても分析における二者はそういうナルシシスティックな共同体になりやすいわけだけど、そこから自由になる能力を発展させよ、ということなのだろうし。

それにしても・・と言っていてもキリがないのでとりあえず今日をはじめましょう。良いことありますように。