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戦禍の分析家たちの論文など。

薄い曇り空。お茶がなかなか冷めない。朝は向こうの通りを走る車の音を背景に早朝に開くドアや窓の音が響く。

昨日、18時の鐘の音をきいた。オフィスでは神宮球場の花火の音はきこえるが寺の鐘の音はきこえない。昨日5月5日は立夏、東京の日没は18時31分だった。鐘の音がきこえたとき、まだ空は明るかった。

この前、美術館の庭で蚊に刺されたところが痒い。長袖をきていたのに首と手の甲と掌をやられた。私は一度刺されるとなかなか治らずずっと痒いし、掌はほんとうにやめてほしい。ただでさえ散漫な注意がさらにそれやすくなる。すぐに気づいてペッて追い払ったのに手遅れだった。もう蚊の対策もしないといけない。

先日、イタリア精神分析協会Società Psicoanalitica Italiana (SPI)の精神分析家 Anna Maria Nicolòの思春期研究の本Developmental Ruptures: The Psychoanalysis of Breakdown and Defensive Solutionsの(2024)ことをメモ的に書いた。

『発達的断絶(Developmental Ruptures):崩壊と防衛的解決の精神分析』

2015年のInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたNicolò, A. M. (2015) Psychotic Functioning in Adolescence: The Perverse Solution to Survive. International Journal of Psychoanalysis 96:1335-1353「思春期における精神病的機能:生き延びるための倒錯的解決」もこの本に所収されているか、よりまとまった形で書いてあるのだろうと思う。

どの発達段階にあっても崩壊の危機は常にあるわけだが、先日、ソウルで行われたIPAのアジアパシフィックカンファレンスでいろんな国の人の話を聞きながら東洋と西洋では崩壊に対する感覚が異なるように思った。多くの分析家や患者の人生を変えたホロコーストの話題がでると特にそう思う。ここ数年、続いていた日本の精神分析協会内部の葛藤状況に思考の場を設ける役割をとってくれたエルリッヒ先生は1937年生まれのドイツ生まれのユダヤ人で幼いときに「水晶の夜」も体験し、ドイツを出てイスラエルで育った精神分析家である。戦争によって異なる立場になった様々な国の人同士に対話をもたらすグループを運営してきた臨床家であり、その成果は論文で読める。エルリッヒ先生は今はイスラエルとパレスチナの戦争によるIPA内部の葛藤にも取り組んでいる。海外の精神分析家たちと関わることは戦争が終わっていないことを実感する機会になる。

実感から入ると実際には会っていない精神分析家の論文の読み方も変わる気がする。私はエルリッヒ先生がその日、戦禍のイスラエルからいらしたことにインパクトを受けた。

イスラエルにはYolanda Gampelという訓練分析家もいて、ホロコーストを含む社会的、政治的暴力の影響に関する論文を書いている。

Gampel, Y. (2020) The pain of the social. International Journal of Psychoanalysis 101:1219-1235で著者はいう。

「イスラエルでは、私たちの生活が、気づかぬうちに単なるサバイバルになってしまったのだと思う。暴力的な死――現実の、あるいは潜在的な死――、世界の中にひとつの場を保ち続けようとする圧力、自らの存在を個人的な仕事の範囲に限定できない悲しみ、文脈から絶えずもたらされる悲嘆、これらすべてが私たちを摩耗させる。それは、私たちが自分の潜在力を発展させることを許さない。私たちが選び、望んでいるこの現実が、私たちを幽閉している。それは、最低限の自由さえ私たちに否認する。」

著者はbackground of the uncanny(不気味さの背景)という言葉をサンドラーのbackground of safetyを射程に使用する。これは社会的暴力や戦時のように患者と分析家が同じ外傷性状況に巻き込まれている場合、臨床の基底は「安全」から「不気味さ」にとってかわり、精神分析臨床においては転移ー逆転移に揺さぶられるframe(枠)をどう考えていくかが課題となる。

精神分析の枠についてはBleger J. (1967). Psychoanalysis of the psychoanalytic frame. International Journal of Psychoanalysis 48:511–519.が古典だと思うが、ペレルバーグがCOVID-19のときの体験を書いた以下の論文はこれらを参照しながら書かれたものである。

Perelberg, R. J. (2021)が The empty couch: Love and mourning in times of confinement. International Journal of Psychoanalysis 102:16-30

精神分析は分析家自身もトラウマの中にありながらそれを理解、記述していく学問であることをこうやって何度も思い出しながらやっていくんだなと思った。

GWも今日でおしまい。私は校正作業に費やすことになりそう。まとまった時間は貴重。東京はこれから気温があがったりするのだろうか。相変わらず調節難しいけど体調に気を付けて過ごしましょう。

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歩いたり頭使ったり。

立夏。朝日がさす位置が大分変った。もう結構前からだけど南側の窓からは夜明けを感じにくくなった。窓を開けるとまだひんやり。東の空からオレンジの光が広がっていた。身体が動きにくい感じがあるが早朝に起きてしまったので早めに移動するか。でもこうやってなにかしはじめると眠くなってくる。

昨日もたくさん歩いた。薔薇の季節。いろんな名前の薔薇があって面白かったしとってもきれいでいい香りだった。白い藤も満喫したし、こじんまりした美術館で係の人とおしゃべりもしたし楽しかった。私は花も美術もたくさん触れてきたわりに名前とか全く覚えられないけど触れるたびに元気になるのでやっぱり好きなんだと思う。

帰宅して校正原稿を修正して返信用封筒に入れた。忘れずに投函せねば。こっちは日本語だからいいけど、英語の原稿は自分で書いたくせに見直すのがつらいがGWあけるまでにやらねば。

休みの間にReading Freudの準備も少々。今年度はフロイトのメタサイコロジー論を読んでいる。十川幸司訳があって本当によかった。欲動概念についてはいまだに様々な議論があるので訳語に触れている論文をいくつかチェックした。

この前はノルウェーの精神分析家の論文について少し書いたと思う。今回はカナダ出身のMills, J. (2004). Clarifications on Trieb: Freud’s Theory of Motivation Reinstated. Psychoanalytic Psychology, 21(4), 673–677.人物についてはあまり調べていないが関係論の文脈で哲学的に精神分析概念を検討しているらしい。たしかに概念の整理はできた気がするが精神分析臨床になぜこの概念が必要かということを考えるには物足りなかった。著者がこの論文で討論の相手としているのはGeorge Frankという人だが欲動概念の検討ならまずはベーシックにこの人たちでは、という人ではないと思うのでどうしてだろうと思った。治療としての精神分析とは異なるようなので私が慣れていないだけかもしれない。論文を読むのは難しい。

もう5月も6日経ったのか。違う、5日だ。よかった。いや、よくない。やるべきことは多い。昨日、通りかかった古い小さな和菓子屋さんでおいしい柏餅を買って食べたときは5日のつもりで食べていた。こいのぼりもみたし。今日はどんな感じの一日になることやら。いいことありますように。

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ハイキング

今朝はとても風が強い。昨晩から警戒はしていたが。雨は大丈夫そうなのがありがたい。

昨日は三浦にハイキングに行った。坂をのぼりきったところにひろーいキャベツ畑が広がっていて思わず声をあげた。キャベツを運搬するのであろう台車が畑の中にポツンとおいてあるのが絵になった。ひっくり返しておいてあるのもあった。日曜でも休まず作業をしていらした。春キャベツなのかな。もう出荷されているものも多く、残されているキャベツがゴロゴロしていてちょっと不気味だった。このあたりのキャベツは潮風をうけておいしそう。三浦は大根も有名で、小さめの大根がコロコロしている畑も少しあったけどあれはもう使い手がないのかしら。歩いている途中に直売所があってそこのお野菜もおいしそうだったのけどまだ先があったから買わなかった。たっぷり歩きながら三崎口駅まで戻ったあと城ヶ島までバスででたがこれが大混雑。30分弱で着く予定が1時間半かかった。ずっと立っていたから少し疲れたけど三崎港の少し手前のバス停で運転手さんがここからまだかかるから歩いたほうが早いとアナウンスしてくれて一気にバスがすいた。バスに乗ったまま外を見ると三崎港の食事処はどこも行列。学生の頃にみんなできたときはこんなに混んでなかったに。あのときもくろば亭は少し待ったけど。城ヶ島も食事処は大行列。すでに2時を過ぎていたが海辺の店で名前をかいて時間つぶし。とっても小さな商店に入って一杯しながら待った。だいたい同時にきた外国出身の人たちとお店の老夫婦もまじえておしゃべりした。ひとりは東大の院生ということで以前住んでいたという別府の温泉の話とかして楽しかった。別府が素敵なところなのは知ってる。またいきたいな。名前を書いたお店に戻るとまもなく私たちの番でちょうどよかった。いい待ち時間だった。そこから城ヶ島を色々歩いて結局3万4千歩くらい歩いた。今日は風と仲良くできるかな。電車とまったりしているみたい。大変そうだけど無事に過ごしましょう。

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探したり。

今朝もいいお天気。昨晩は雲もなく月がとてもきれいだった。外にでたのが一番日射しが強い時間でやっぱり手の甲まで覆ってないとかゆくなってしまうんだなと残念だった。今日は夏山用の長袖シャツを着よう。

ロンドンでやっている世界卓球を少しみたけどドキドキしてみてられない!といいつつ怖々見ていたらいつのまにか終わっていた。途中で探し物を始めてしまったから。まったくみつからず案の定わりとわかりやすい場所でようやくみつけた頃にはすっかりなにもする気がなくなっていた。せっかくいつもより時間があったのに、と思うけど時間があるからひたすら無為に過ごすこともできるのだから悪くはないのだと思う、というか、色々ひっくり返して探しているうちに校正の原稿が入っている封筒を見つけてしまった。ソウルに行く前に積んでおいたのだった、そういえば。危ない。休み中にやらねば。

ソウルでも結構歩いたとはいえすごく狭い範囲の移動しかしていない。それでもハングルや韓国の街の様子に強く動かされることが何度かあった。韓国人作家の色々な本を翻訳で読んできたのもあるし、茨木のり子や斎藤真理子などの影響でもある。翻訳という営みについて考えていたせいか文庫のほうの中井久夫『私の日本語雑記』にも手が伸びた。以前から愛読していたが別の言葉を話す相手とコミュニケーションをする体験が新鮮なうちに読んだらまたそれまでとは異なる印象を受けた。

土居健郎の「甘え」についてはあまり進捗なし。また読み直さないと自分がなにをいいたかったか忘れてしまう。興味をもったらすぐに発表できるくらいの文章にしておかないと何度も同じ手間をかけることになってしまう。そうだ、昨日は友人の論文PDFを検索するのにもすごく時間がかかった。私が保存していたつもりの場所や形式が違ったらしい。その最中に第14回大会 大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」の討論原稿をみつけて、これはすでに「精神分析的心理療法フォーラム 13巻 2025年12月」に掲載されているのだけど、もうちょっときちんと形にしてもいいかも、と思ってしまい、そっちを少し進めてしまった。遊こっちのほうが楽に書けそうだもんなあ。現実逃避。

まずはすべきことを可視化。実際に見えるように机の上に置いた。今日はここまで、とならないようにしよう。とりあえずいいお天気。いっぱい歩くことにしよう。

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ソウルから帰ってきたり、色々読んだり。

今朝はひんやり。北側の窓をあけたら昨晩の風はおさまっているようだった。少し厚着をしてバタバタ家事をしたりお茶をのんだりしていたら今度は少し暑い。いいお天気。

今朝は韓国で買ってきたお菓子をお茶と一緒にいただいた。25年ぶりのソウルで、今回は学会のためにいったからそんなに観光はできていないし、色々チェックしていたお土産も買いそびれてしまったが、なんといっても近く、女性たちが親切。ハングルが全然わからず、韓国語も全く聞き取れないにも関わらず、こちらがわかるように伝えてくれるのだからすごい。初日からなにかあっても助けてもらえるという感覚をもって行動できた。感謝。近いって素晴らしいな。前日遅くまで仕事して、翌日早朝に空港にいって2時間ちょっとでソウルに着いてお昼過ぎから散歩したり美術館行ったりする時間も元気もあったし、昼の飛行機で羽田に帰ってきたあとも銀行へ振込に行ったりあっというまに日常に戻ってこられた。

今朝はちょうど流れてきた韓国の詩人、小説家、批評家、翻訳家(ロシア語)のイ・ジャンウク×ペ・スアのインタビューを読んだ。「クオンの本のたね」のnoteで。

翻訳について彼が言うには

「例えば、アメリカの作家よりも韓国の作家のほうがレイモンド・カーヴァーを楽しめると思うんです。アメリカの作家は慣れ親しんだ言語と文法でカーヴァーを読み、韓国の作家は異なる言語と文化がもたらす新鮮さでもって読みます。」

そうだと思う。今回、ソウルで開かれた5th IPA ASIA PACIFIC CONFERENCEにいっていろんな発表をきいたり、自分も発表したりしたが、海外にいくと言語と文化について考えることが普段の何十倍にもなる。

イ・ジャンウクはこうも言っている。

「考えてみると私には小説家として不利な条件がたくさんあります。ソウルに住んで標準的な韓国語を使っていて、中年で、男性で、異性愛者のうえ教授まで務めていて……。」

マイノリティの要素に意識的な人である。

「大韓民国は首都圏に住む中年・男性・異性愛者・知識人が圧倒的に支配しているじゃないですか。まず格好悪いですよ(笑)。」

これは関係あるかどうかわからないが私をソウルで助けてくれたのはみんな女性だった。彼らはみんな自分から話しかけてきてくれた。それなりに距離のあるところからそうしてくれた人もいた。

ちょうどジェンダーに関わる論文を読んだところだった。

読んだのはBell, D. (2020) First do no harm. International Journal of Psychoanalysis 101:1031-1038

これはかなり強い感じで書かれている論文で、相談が急増している“rapid-onset gender dysphoria”を社会的文化的文脈を検討せず、人的資源も時間も思考も足りないなか、本来は複雑であるものをジェンダーというプリズムを通じてしかみないことで多くのことが扱われないまま残されるという問題も書かれている。そして思考の排除と社会的圧力の中で、複雑な心理的問題が身体的解決へと単純化されていることへの批判も明確。

ちょっと考えれば簡単ではないとわかることも考える時間がない、あるいはそういう時間をもたないことで解決可能な問題にしてしまう。それは大変に危険なことだ。特に人間の身体や心における解決は常に暫定的なものだろう。

とにかく難しいことは難しいままにしておく必要があるのだろう。すでに起きてから数時間たつが眠くなってきてしまった。動かねば。今日は土曜日。よい一日になりますように。

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5月

今年も5月がきた。梅雨に向かう時期は花の色も変わる。

どこにいてもいろんなことがあるな、と当たり前のことを思う。それらのほとんどは当事者同士以外では共有されることはなかったりするけれど時々信頼できる人と共有できるととても安心したりする。今日は大切なのは我慢と信頼と夢見る能力とか偉そうなことをいってしまったけどそれだって環境の支えあってこそ。自分が得られなかったものでも誰かに与えられるようになるためにはどうしたらいいものか。そういうことを考えながら行動しているうちに本当に自分は与えられなかったということを悲しめたり悔めたりする機会を得られるかもしれない。そういうことを話せる場所がだれにでもあったらいい、というかあるべきだと思う。公的な資源はそういうことに使われるべきではないか。

5月までの大仕事が終わった、といってもまったく準備不足だったがそれこそ周りの人の助けを得てなんとか終えることはできた。感謝。今度こそ学術大会の準備をしないといけない。協会の人たちと話して大きなヒントをもらったので忘れないうちに取り組まないといけない。すぐ忘れる、といわれてしまったし。その通りすぎるのでがんばらねば。

花が咲いたりしぼんだりいつのまにか実になっていたり、毎日の景色の移り変わりが早くていちいちびっくりする。毎年のように毎日のようにみている景色なのに細かくみなくても気づく変化なのだから細かくみたらそれこそ今までとは全く別のものにみえてきたりするのではないだろうか。そういえば昨日も同じようなことを書いたか。

今日はとりあえず無事に。つぎのつぎのつぎのつぎくらいにまあまあ元気に。いつも元気、みたいのって疲れる場合もあるでしょう。自分にとって、というのはとっても大事だから「一般的に」いいといわれるものには首傾げていくのもいいと思う。お互いのありようでどうしていけないかしら、ってね。

5月、美しい季節、のはず。昔からそうなはず。のっぺりした全部が同じ色にみえるような世界にしないように小さいことを積み重ねていけたらいいね。

良い一日になりますように。

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挟間美帆「Fremes」、リウム美術館、月

いつも以上に早く起きてしまったので二度寝したがまだ早い。老眼鏡はなかったがiphoneが手元にあったのでSpotifyで適当にかけたらNubiyan Twistだった。これだとさらに目が覚めてしまいそうだと思いながら聞いていたらいつのまにか寝ていた。そのあとは挾間美帆のデンマークラジオ・ビッグバンド (DRBB) とのニュー・アルバム「Frames」を聞きながらゴロゴロした。これもこれで眠気を誘うには華やかだがきちんと聴きたくなって起きた。

「私は、このバンドの歴史と、その音楽的遺産を尊重しつつ、同時に新しい音楽を創造することを目指しました。その結果生まれた作品は、明快さ、自信、そして国際的な視点に裏打ちされた作品群となりました」

と挟間美帆はいう。ウェブサイトに書いてあった。聴けばそれが実現されていることがわかる。挟間美帆の作る音楽をきくと古典もたくさんききたくなる。この音自体はすごく新しい感じがするのに。新しさって本来そういうものなんだろうけど。

そういえば先日、リウム美術館でTraditional Korean Artをみた。これは常設展で無料だが一応予約して行った。時期によっては人数制限があるらしい。私たちがいったときはとても空いていて大変モダンな空間で5世紀から19世紀までのいくつかのジャンルの伝統美術をみられた。陶磁器が特によくて、飾り方のセンスも斬新でびっくりした。三国時代にも王朝時代にも詳しくないが時代の変化はたしかに作品からも感じたし、こんな昔のものがこの保存状態で残っていたのかとかそういうことにもびっくりした。このスペースは最初にエレベーターで4階まで1階へ降りてくる順路でそのらせん階段にもびっくり。中世ヨーロッパの窓を思わせる穴からのぞくと丸くくりぬかれたようなスペースで身体を使ったパフォーマンスをしている人たちがみえた。彼らはずっと指だけでつながりながら低く小さい音を出し続け、ゆっくりゆっくり動き続けていた。身体ひとつがなりうるもの、身体がひとつずつでつながりうるからできる形が面白かった。美術館はただの箱ではないことがよくわかった。職員さんたちの服装もゆったりしていて空間になじんでいた。時間があれば有料の現代美術のほうもみたかったがまずはこれだけでかなり満足した。おもしろかったなあ。

昨晩、ぼんやりした月をみつけた。昔は月の様子で次の日のお天気がわかったと思うのだけど今は月の満ち欠けも追えない。気づいたら3、4日前の月のことを昨日の話としてしていたりする。

この前の虹は本当に大きくてこれぞ虹という感じだった。これまでいろんな場面でみあげてきた虹のことを思い出した。正しさとかそういうのではなくて基本の形を知っていることは大切だなとなんとなく思った。あ、本当はそういう形してたの?と気づくのって本当にいろんな間違いや誤解を超えてだったりするけど、違和感を感じるところから、それを誤魔化さないところからはじまるのかもね。なにが?認識が。あぁ、となんとなくため息がでてしまう。子どものときのことでもいまだに思い出すと恥ずかしいやらひどいやらな自分がたくさんだし、これから今日のことで頭を抱えたりするかもしれないわけでなかなか難儀なことばかりだけど人を信頼してやっていけたらいいよね、結局は。どうみられてるんだろう、どう思われてるんだろう、というのは最小限は必要かもしれないけどそれに気をとられてばかりになる必要はまったくないわけで、こっちに足りないところがあると思うなら助けてくれよ、と私は思う。今って指摘だけしてほうっておくより悪くてあえて見つけ出す必要のないことを匿名でああだこうだいって自分は正しいという認識からおりないというなんだかひどいことが起きているでしょう。いろんなことはいろんな事情が複雑に絡み合って起きているので関係のない人が口出ししない、ってわりと常識だったと思うのだけど。みんなで補うあうことは本当に大事で補ってもらうことを恥だとか怖いと思ってしまうような関係は長い目でみなくても本当によくない。みんなどこか同じ程度に欠けてるものでしょう、と無理に自分の気持ちをおさめることはないけど事情を知ればなにもいえない、とうことはかなりあるのでまずは他人より自分。それぞれみんな大変なはずだもの。基本形は正しさとか完璧さとは全然違う。

月だって「今日は完璧な満月だぜ」とか絶対思わないわけで満ちたら欠けるし欠けたら満ちるしの繰り返しだし、人間だって老いていく身体を支える筋力をつけよう、とかアンチエイジングだって若さとか美しさとか言葉の意味づけを少しずつ変えながらやっていったほうがいいこともあるわけでしょう。え、本当はそういう意味だったの?ってことは結構あるわけで、なんでそんなことに囚われていたんだろう、って愕然とする体験は必要なことも多いけどそんな辛いことは最小限でいいと思うし、ましてや人に強制的に、迫害的にさせられることではないし、日々少しずつ認識を改めるゆるさをもつことで自分がまっすぐ立っているという状態がわかったりするんだと思う。少しずつ少しずつ。こわごわでもやってみたりやめてみたりいろんな自分を体験できる時間を自分にも相手にもあげられたらお互いにいいんじゃないかな。昔からいろんな先生がハンドルのあそびが大事といっていてそれはいちいち心に残ったし、その先生方の年を超えたであろう今はそれは実感になった。

世界中のニュースが痛ましいものばかりでなにもしていなくても気持ちが疲れる。そんななか毎日よく歩いているのも自分が無事に歩けていることを確かめたいだけなのかもしれない。不安なのかもしれない。それはそれで大事にしたい気持ちだけどなにも考えず呑気に過ごせる日々を保障してほしい。みんなでやっていくことのはずのことだけど中心となる人たちが大きな安心をみせてくれないとみんなは「みんな」になりにくい。

今日はどんな一日になることやら。一日で多様なことが起きるならそこそこ平和ってことかもしれない。みんなにいいことがありますように。

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「レンタル・ファミリー」をみたり。

昨日もいろんなお花を見た。ものすごく早起きしてでかけたわりに眠くもならず知らない道をたくさん歩いた。2万3千歩。そこまで歩いたように感じなかったけどいろんな景色に会えてよかった。カササギらしい鳥もみた。カチガラスともいうらしい。カチカチなくから。

この前「レンタル・ファミリー」をみた。ブレンダン・フレイザーが最初からとてもよかった。「ザ・ホエール」のブレンダン・フレイザーも大好き。今回はもっと感情の揺れ幅は少ないけど細やか。こういう人たちはこういう稼業につくだろうか、と思ったりしたがあやまり稼業などは昔からあるといえばあるが現代だとこういう切ない形もあるのだろうか。全体に派手ではないが深い葛藤がそれぞれの登場人物にあってとても面白かった。主人公の癒しとなる女性を安藤玉恵にしたのはなんだかちょっとずるい配役だなと思った。悲しいことがいっぱい怒るけど全体の穏やかなトーンはジーンときた。

今日もいろんな景色に会いたいな。鳥さんたちにも会いたいな。良い一日になりますように。

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昨日の夕方、虹がとてもきれいだった。あんなに大きくて虹色くっきりの虹をみたのは久しぶりかもしれない。

祖父江慎さんが亡くなったというニュースをきいた。大好きな人だった。早すぎる。

そうか、祖父江さんが亡くなったから虹が出たのかと言いたくなった。オフィスの窓からだんだん薄くなる虹を撮った。

なにがなにやらな毎日だがなんとか朝。世の中にはいろんな人がいるという当たり前の実感より1人の人間が大きな空虚を抱えるためになしているあまりに多くのことをどう記述すればいいのかと悩む日々。

毎日書くけど希望なんて探さなくてもみつかるものであってほしい。

虹、きれいだったな。今日がいい一日になりますように。

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月曜日

よく降っている。昨日はいいお天気だったのにね。

昨日はいいお天気だったのでお散歩をした。鯉のぼりの季節。

神社に行ったら昔の子供の遊びと書いた段ボールが小さな机に置いてあってお手玉やだるま落としやけん玉が無造作に入っていた。まずはそのそばにあった輪投げをやりあまりうまくいかず悔しい思いをし、お手玉はジャグリング的にちょっと上手に披露し、けん玉はわりとすぐ真ん中にいれてそばにいた人に「すごい!」と言われたので真ん中は横より簡単かもと言っておいた。実際そうだと思うのでみんな真ん中から挑戦した方がいいと思う。私は真ん中に入れるのは得意だけど横に乗せるのは難儀じゃ。

昨日の大河ドラマ見たけど落ち着いて考えなくてもひどい時代。辛すぎる展開。今だから戦国ヒーローとして推される彼らだが名もなきものたちにとってはなんでもいいから生活楽にしてくれよというのはいつの時代も変わらないのだろう。この「なんでもいいから」は戦争してもいいからってことじゃないけどね。誰かを殺すようなことはしない、という当たり前すぎることをまずは実行してくれよ、というところからだと厳しい。今またそんな時代なのかもしれないが。

山火事も地震も本当に怖いし心配だし気持ちが落ち着かない。絶望の中でいろんな理由つけて見出す希望じゃなくて普通に生活しているだけで芽生える希望に支えられていきたいしそのための土壌を作っていきたいものですね、みんなで。今週も無事に過ごせますように。

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Reading Freud初回だった。

いいお天気。昨晩は半分より少し膨らんだ月がきれいだった。寒かったけど。夜、もう少し暖かくなるといいなあ。昼間はこのくらいでいいからさ。

昨晩は2026年度Reading Freudの初回だった。今年度は十川幸司訳『メタサイコロジー論』を読む。すでに何度も読んだ論文たちだが、昨日、かなりじっくり精読したら「心理学草案」がシンプルに思えた。私はアンドレ・グリーンを支えに精神分析における欲動論の重要性を考えながら書いたり話したりするようになったが、昨日はその基盤となる論文、「欲動と欲動の運命」を丁寧に読んだ。欲動TriebはストレイチーによってInstinctと訳された。これらは語源は同じだがInstinctに対応するInstinktというドイツ語はあるので、フロイト自身これらを同じ意味で使っていたとはいえ、区別はやはり必要なのだろう。Revised Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, edited by Mark Solms, published jointly by the Institute of Psychoanalysis and publishers Bloomsburyではtriebはdriveに訳されている。

昨日は 導入としてフロイトを読むということ自体について書かれた『現代フロイト読本 1』の北山修論文「私有化された「フロイトを読む」」を最初に読んだ。この本は日本精神分析協会の分析家たちがフロイトの論文をひとつずつ選んで書いた論文集でそれぞれのフロイトの読み方を垣間見ることができる。北山修も訳語の問題に言及しており、私が常々どうにかして「エス」を日本語にできないものかと思っているという話もした。

今はフロイトを読むための手助けがたくさんある時代、昨日は欲動という力についてはなんとなく理解したが「心的」っなに、と振り出しに戻ったような感じもあった。北山修がいうようにあっちゃこっちゃ行ったり来たり(北山先生はもっと洗練された言葉で書いている)しながら読めばふと自分でその軌道の先にでることもあるだろう。楽しもう。

まずは日曜日を楽しもう。

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ドキュメント72時間を見たり。

少しひんやり。昨日も夜は寒かった。信号待ちで隣にいた人たちは私よりずっと薄着なのにずっとなんでもない感じで立っていた。

昨晩、テレビをつけたらNHKのドキュメント72時間をやっていた。今週は「気仙沼・酒屋の物語」。おかみが「私の手から夫が流されていって」と口調も変えずに言ったあたりから涙が止まらなかった。いろんなことを思い出してしまった。お酒に関しては依存症や身体の病気という文脈だけでなく、様々な個人的なエピソードを聞いてきたが、漁の安全と豊漁を願う酒という文脈もあるか、と酒というものについてその成り立ちからあれこれ考えてしまった。私の生活に海は全く身近ではないから、東日本大震災の被害はなおさら呆然とするものだった。彼らはずっと喪失を生きている。はじめて震災のこと話した、とこの前会った友人が言っていた。その人の実家は被災地でご家族のことは時折聞いていた。でも私はその人がそ自分がその日どうしていたかをはじめて話したことに衝撃を受けていた。たしかにはじめて聞いた。東京であの地震を地続きで感じながら家族の状況を把握し、慣れ親しんだ土地を想像し続けることは遠くで地震の話を聞いた、という体験とは全く異なる。ドキュメント72時間は単なる断片とは異なるものを見せてくれるから前から好きだが、15年たった今の語りをこうして何気なく伝えてくれたのもとてもよかった。

旅好きの友人に色々教えてもらってなにも進んでいない旅準備が少し進んだ。やることというより考えることが多すぎて歩みが止まっているが各種締切を恐々確認せねば。今日もなんとか過ごしましょう。寒暖差で体調崩さないようにしましょうね。

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ニュースとか。

岩手県の大槌町の山林火災、延焼のスピードがすごく速いらしい。心配で眠れないのではないか。大槌町は東日本大震災でも被害が大きかったところ。どうかどうか被害が広がりませんように。政府はどのくらいこうした災害に心を寄せて具体的な対応を考えているのだろう。本当に今の政府、信用ならない。

いろんな深刻なニュースを見て辛い気持ちになってチャンネル回してたらスウェーデンのヘラジカの大移動をやっていた。慎重な動き。人間はもっと慎重になるべきだし、慎重になれると思うのだけど。本来弱肉強食の世界じゃないんだから。言葉使えるんだから。

この前、お散歩していたらたこ焼きさんがあった。「へー」と思う味のたこ焼きのポスターが貼ってあったのだけどそれがなんだったのか全く思い出せない。ビールのおつまみによさそう、と思ったのだけは覚えているがまだ朝だった。最近見つけた魚屋さんに「タコがいっぱい」と書かれた練り物が売っていて「へー」と思ったら他にも「イカがいっぱい」とか「エビがいっぱい」とかあって迷いに迷ってしまった。すごく旬のものが食べたいと思っていたのでホタルイカをとりあえず買って「エビがいっぱい」も買った。私はやっぱりエビが好き。ソウルで海鮮が食べたいが余裕がなくなにもチェックできていない。友人が色々教えてくれるのが本当にありがたい。日本で韓国料理屋さんに行くと結局参鶏湯ばかり食べてしまう。タッカンマリというのを教えてもらってレシピを調べたらすごく美味しそう!だけど参鶏湯となにが違うのかな?と思って調べたらレシピがシンプル。参鶏湯はちょっと凝ってるもんね。タッカンマリなら作れそうだけど本場の調味料で食べたいよね。大学生のとき、ケンブリッジの語学学校に短期間通ったとき、寮で仲良くなった韓国人の子たちはみんな自分の家の味の調味料(?)を持っていた。学校の先生もいて、私からするとそんなに年齢差があるように見えなかったのだけどみんなはその人にとっても礼儀正しくて、年上の人に対する礼儀作法が染み付いているのもすごいと思ったし、数年後には徴兵にいくことが決まっている友達にぶつけた理不尽さもそのガールフレンドの奔放ぶりも懐かしいが、今彼らと会っても同じような気持ちを掻き立てられるのだろうと思う。ソウルの街角で実はすれ違っていたみたいなこともありそうななさそうなだが、すれ違っても絶対気づかない自信がある。あれからものすごく月日が経った。当時の瞬発力や言葉を超えたなにかで通じ合う自由さは今の私にはない。精神分析状況だと長い訓練のおかげでそれらは自ずと発揮されるというか、発揮されない場合、それを逆転移として思考することが可能だが、それ以外の場面では思い出そうとしても思い出せないことばかりだし、せめて見てもいないことを見たとかいわないようにしたいという心がけくらい。

とにかく毎日安心して過ごしたいね。ため息まじりだけど良い一日になりますように。

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イタリア精神分析とか。

曇り空。今日は気温が上がらなそうだから服装もちょうどいい感じにしていけばいいので楽。

昨日、イタリア精神分析協会Società Psicoanalitica Italiana (SPI)の精神分析家 Anna Maria Nicolòの思春期研究の本Developmental Ruptures: The Psychoanalysis of Breakdown and Defensive Solutionsについてもうひとつのブログで少し書いた。この本はネットで拾える範囲でしか読んでおらず、IPAジャーナルに載った著者の論文について書こうと思ったのだが、本のことだけで結構いっぱいになってしまった。アナ・マリア・ニコロはフロイトの多形倒錯をブレイクダウンを防ぐ一時的な防衛配置として見ているようなのでその路線は面白そう。クライン派からウィニコット的理解へと立場をうつしてきたらしいのだけど全体としては関係論的記述というかイタリアっぽい感じがする。

イタリアのPsicoanalisi e Socialeというサイトは社会に開かれた精神分析の実践を発信するプラットフォームという感じで興味深いのだけど、元はイタリア精神分析協会(SPI)の分析家やエンジニアや心理療法家たちが立ち上げたものらしい。今はODVというボランティア団体が運営していてメンバーも臨床家だけではなく、ジャーナリストや映像の専門家もいるみたい。今のトップページには浅野にいおの「ソラニン」の評ものっている。扱っているテーマの幅広さからイタリア精神分析の主流のフィールド理論が社会的実践を伴っている様子。日本にもこういう団体ができるくらいのムードがあればいいけどなかなか難しいね。こういう団体があれば災害が起きたときの募金とか支援活動もしやすくなると思うけど。

なんかやることの種類が多くてクラクラする。情報処理能力は確実に落ちているので別の何かに頼りたいが何があったっけ、自分に。とりあえず今日もそこそこ元気に過ごしましょう。

ワイルドに風に揺れてた
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更衣、酒饅頭、人間関係

朝日がきれい。華やかさより強さが増して夏が近づいてきているのを感じる。

昨日は黄砂と花粉で辛そうな人が多かった。私も朝はクシャンクシャンしていたがあまり外にいなかったせいか大丈夫だった。それにしても気温が安定しない、というか春はこんな感じで過ぎていくのだろうけど着る服が難しい。日差しがあれば半袖がいいし、風があるとちょっと羽織るものほしいし、夜はさらに羽織らないと寒い。少しずつ衣替えをしてほぼ終わったけどこの時期のために残してある服もいくつか。薄手のシャツやTシャツに薄いコートやジャケットで出かけたいけどそれだと夜が寒いからパーカー被ったり結局なかなかの厚着をしている。風邪をひくのも嫌。

今朝はまた日光の湯沢屋さんの四色酒饅(ししきさかまん)から日光の四神の一つ、西方の白虎をモチーフにした白酒饅。形はいたって普通の酒饅頭だけどこう言われると特別な感じになる。これで白、黒、青、赤全部いただいたことになる。おいしいうえになんかご利益あるならもっといいよね。ご利益あるとかべつに書いてないけど神様のことを知りながらいただく行為ってお参りと一緒な感じがする、とか適当なことを言っていると叱られてしまうかしら。なにがなくともみんなに普通の平和な日々があるといいよ。神頼みより政治頼みだから選挙だっていってるのに毎日危機感を募らせるニュースばかり。本当に嫌になる。

自分が直接関わった場合にほんとあの人いなくなってほしいとか思うことは一時的で衝動的な感情として珍しくもないけど、直接的になにかを被ったわけでもないのに持続的に特定の誰かを排斥しようとなんらかの行為をしている状態は危ないと思う。いじめとかがそのひとつだし、特定の相手を常に称賛し、それ以外を概ね見下すことをナチュラルにやっている人は身近にもいる。その場合、どの程度関わるかは相手の行為の程度によると思うが、もしそういう関係にエネルギーを取られる場合は絶対誰かに相談した方がいい。距離を取るというのが一番いいけど、それが難しい状況もあるだろう。その場合でも一人では絶対抱えない方がいい。諦めずに状況をオープンにしていくことは大事。緊張感を感じる相手と友達ごっこする必要はない。ある場合はよっぽど大変な状況になっているときかもしれないので、やっぱり共有が大切だと思う。自分がする側になっている場合、孤独を否認するゆえに強者の立場にあるような錯覚で自分を保っていることが多いから誰かを頼る必要がなくなっていることもあると思う。なんか自分おかしなことしてるとどっかの片隅で思うのであればそれも誰かに相談した方がいい。自分が変われる可能性にきちんとかけた方がいい。自分と他人の区別をきちんとつけていく努力をみんなで協力していけたらいいのにね、と最近特に思う。

さあ、東京はいいお天気。雪国の雪はすっかり溶けるということはないのかもしれないけど桜も咲き始めたみたいだし、厳しい冬を無事に越えたことをみんなで喜べていたらいいなあ。青森とか地震が大きかった地域も。良い一日になりますように。

緑濃くなってる
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地震

今朝もずっと地震のニュース。首相は「社会経済活動の継続」を呼びかけていたが今それをあえていう必要性ってなんだろう。これだけの地震大国で、これまでの大きな被害も知っている世代がそこから学ぶのではなく、見て見ぬ振りをし続けることこそ不安の現れだろう。この状況ならこうなるのが普通だろう、だから今は最低限この言葉かけを、この働きかけを、と当事者ではない方が心を砕くことが人間の心の基本的な作動と思っているが、どんな状況にあっても自分の不安を否認して他者まで視線を向けることをしない人はいる。それはそれで助けが必要な状態だと思うが、政治家がそれでは困る。社会経済活動の継続を危うくしている当人がこの状況で自分に言うべきことをメディアで外に投げるという権力の使い方は間違っていると思う。地震は後発地震だけでなく、これまで大きな被害を体験してきた人たちの記憶を揺さぶることもするだろう。自分だけじゃないから、自分より大変な人はいる、自分ががんばらなくては、と渦中にいる人が思わなくていいような物理的な介入を政治家たちには考え続けてほしい。自然災害は戦争のように防ぐことはできない。普通に生活しているだけの人たちが多く死ぬのを、環境が破壊されるのを私たちはずっと見てきている。だからこそ常に喫緊の課題であるはずなのにやめられる加害を正当化することばかりに時間とお金が使われるのはおかしい。自然災害を含めた環境問題に取り組むことをせず、まるで活動の基盤があるように振る舞うための椅子ではないだろう、政治家の椅子は。どうか被害が広がりませんように。自然以上に、人間が引き起こす被害が広がりませんように。

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言葉とか料理とか。

今朝は少しひんやり。春のうっすらとした優雅な夜明けもいいな、と思えるようになってきた。そんな頃にはもう夏が立つ。なんでも気づくのが遅いな。でもまだ春の内。

内と外については土居健郎も書いているし、日本人の特徴を語られるときの補助線になりやすい言葉ではある。土居健郎は内と外についてたくさん語ったあとに、といっても便宜的なものでそんな確らしさがあるわけではないけどね、という様子で書いていた気がする。土居の文章も読みやすいが思考を追うのは難解。「甘え」さん独り歩きのせいでこちらが迷子みたいな感じがある。

多分いずれ関係してくるというか私が関係させていきたいと思っているだけだけど、今NHK Eテレ「100分de名著」ウィトゲンシュタイン特集をやっている。1回目を見逃して2回目をみたがこれだけコンパクトにする場合ここを取り上げるのかという感じがした。私が古田徹也さんの朝カルとかでの講義に出てウィトゲンシュタインを少し読めるようになったのだけど、Eテレのこの番組は誰を取り上げるときもなんとなく読めるような気分になってしまうからすごい。伊集院光と安部みちこの進行のおかげ。ウィトゲンシュタインの第2回も方言の話がとても面白くて、言葉は生活と密着しているということを再確認した。この土地でこの言葉を使うのはその土地で同じ言葉を使うのとは違うんだよ、ということを知っていることは大事。土地だけでなく、子供と大人の言葉の違いも文化の違い、時代の違いが現れる。「私が育った地域では」「平成生まれの間では」とかそれらの違いを意識した話し方をする患者さんはたくさんいるし、戦前、戦後というのが世代間伝達を考えるときのキーワードになることも多い。関係というのはほぼ言葉で成立しているので、子供の頃にこんなことをこんなふうに言われたということが何十年もその関係を規定している場合だってある。言語ゲームというアイデアは有用だ。この場合の「ゲーム」はウィニコットが「遊び」というときと同じく生活そのものと近い。

朝、ぼんやりしていたら料理の手順を間違えた。昨晩やろうと思っていたのを先延ばしにしたのだけど、昨晩だったら間違えなかったのかというとそれも怪しい。目が悪くなってレシピのみまちがいが増えているのだが思いこみも強くなっているのかもしれない。なんか変だな、と思っている場合、レシピを見直したら大抵「あーやっぱり間違ってた」と思いそうなものだが、見直したつもりで修正が効いていないということは「見たいように見る」状態になっていたのかもしれない。危険だわ。

今朝は日光のお土産「湯沢屋」の酒饅頭。やったー。日光に行ったときに前を通っているはずのお店だけどあまり覚えていない。参道にはたくさんお店があるから目移りしているうちに忘れてしまったのだろう。日光ラスクももらった。これはパッケージもとてもかわいくて味も大好き。私が日光に行ったときはこれをお土産にした。日光も特急で日帰りで行けるからとってもいい。GWとかはものすごく混みそうだけど。

そうか、もうすぐGW。出かける準備も発表の準備も何もできていない。生活整えながらがんばらないとだ。新しい週もなんとかがんばろう。

もこもこ
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4月19日(日)

今朝は相模原市緑区橋本のケーキ屋さんSUMI BAKE SHOPの桜フィナンシェ。桜色がストライプみたいに入ってて小さくてかわいい。このフィナンシェは硬め。この大きさだとこの硬さがちょうどいいかも。美味しかった。

私は大学が京王線だったから橋本駅って名前だけ身近なんだけど実際には数回しか行ったことない。友達のうちとハイキングと。私にとっては新しい駅というイメージ。駅前にきれいな図書館があって、とかいうのももうすごく前の話をしているかもしれない。この前、歳をとったと自覚するときみたいなテーマでいろんな人がポストしててどれも自分に当てはまっていてすごく面白かった。「この前」と話したけど30年前、みたいな。カフェとかで無料Wi-Fiに繋ぐとき聞かれる生まれた年にたどり着くまでにたくさんスクロールが必要とか。もうこの年になるとざっくり50代とかで細かい年齢忘れてるし、大体のことは乗り切れる胆力はついてきたとはいえ、身体の不調の話とメンテナンスの方法で盛り上がるのが常。

ここ数日は気温が安定してきたかな。ダウンからフリース、パーカーと上着も変わってきたけど夜、急に冷え込むことも多かったから薄手のダウンはいつもオフィスに置き上着して最近も数回着て帰った。本当軽くて小さくなって便利だから旅にもいつも持っていく。昨日はバタバタ動いていたら暑くなったので半袖のまま外に出たらちょっと寒かった。部屋の中で窓を開けていても外の気温そのものを感じるわけじゃないから難しい。バッグに突っ込んでいたシャツを羽織ろうかなと思ったけど歩いているうちに暑くなるか、とそのまま歩いた。ブロック塀の隙間から火を吹くように咲いているツツジとかもっこもこの白い山みたいななんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)とか品のいいハナミズキとか名前のわからないいろんな花たちもみんな素敵で歩きながらパシャパシャ写真を撮った。暑くなったらこんなのんびりと歩けないんだなと思いながらのんびり歩いていたら全然暖かくならなくてシャツを羽織った。羽織ると途端にちょうどよく、こんな薄い一枚でどうにかなる季節は最高だなと思いながらお買い物して帰った。

今日もスッキリ早起きできたのでお散歩しながら出かけよう。みたい映画も舞台もあるけど時間が合わないなあ。映画館を変えるか見る作品を変えるかすればなにかしらはあうだろうけど、結局合間合間にNetflixとか見てしまう。最近は「九条の大罪」を見ている。あまり何も考えずに見る分には面白いし町田啓太と柳楽優弥が好きなので見てるけど、ちょっと考えるとモヤモヤすることが出てくるドラマ。黒崎煌代の演技も本当によかったなあ、とそういう部分で楽しんでいるけど。

今日は日曜日。もう19日とか嘘みたい。本当色々どうしましょう。がんばりましょう。またね。

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ケーキ屋さん

今朝はパティスリーイシノの「秩父かぼすケーキ」。ちょっと不安定な丸みがかわいい。香りもよく美味しい。店主さんは秩父出身で外で修行を積んでからUターンで秩父に開業したとのこと。私が昔住んでいた烏山のケーキ屋さんでも修行されてたって。秩父にUターンしてきた人のインタビュー記事を読んだ。すごいなあ。秩父に帰ることを子供が喜んでくれて安心したという話もいい。子供の環境を変えることってとても気を遣うものね。自分だけだって余裕なくしてしまうし。

秩父は行きやすいからいつも人がちょうどよくたくさんいて私も好き。このパスィスリーイシノのお菓子は本店ではなくて西武秩父駅とくっついている温泉「祭りの湯」で買ってくれたものなんだけどこの「祭りの湯」ではいろんなお店の個包装のお菓子を一つずつ買うことができるのでとてもいい。食事もできるし。とてもいいのだけど、私は食事は地元に昔からある居酒屋さんとかでするのが好きだから「祭りの湯」ができたことで人の流れが変わり結構厳しいのでは、と心配になる。便利な場所ができるとウロウロしなくなるでしょう、私たちって。私の地元も私がいた頃は全く何もなかった駅の向こうにモールができたら「まち」と呼ばれていた中心地はシャッター商店街になってしまった。そのローカルさゆえに映画のロケで使われることはあるけれど。でも秩父の私が心配している数軒は結構クセが強いとか色々特徴があってそれを愛する常連さんもいるようなので大丈夫なのかな。私も個人で商売している身だから色々気になってしまう。

私をケーキ屋さんにたとえるなら精神分析が看板商品で、カウンセリングやスーパーヴィジョンが定番商品で、コンサルテーションが季節限定商品みたいな感じか。精神分析という商品を良いものにするために特別な修行を長年してきた。この看板商品は受け継ぎ受け継がれるものとして磨いていきたい。定番や季節限定はそこで得た学びとそれまでの臨床心理士としての経験から生み出されるから多様な商品なのでかなりいろんなことを試せる。外でのコンサルテーションは私が精神分析家であるとかカウンセラーであるとかはあまり関係なくそこでやることが私を規定する感じ。私側人のアイデンティティは揺るがないけど人に規定される部分があるのも悪くない。終わったあとに「先生ってカウンセラーさんなんですね」とか言われて「実はそうなんですよ」とかいう場合もあるからね。紹介文として知らされていることってそんな重要ではないらしい。「先生って精神分析家なんですね」はないなあ。あまりにマイナー。「精神分析って本当にあるんですか」はあるなあ。やっぱりマイナー。この15年くらいで大きな本屋さんの精神分析の棚はものすごく縮小された。本屋さん自体が縮小したりなくなったりしているというのも大きいけれど。昔はいろんな本をワクワクしながら立ち読みしてもっとワクワクした本をたくさん本屋さんで買えたのにね。日本は精神分析の地元でもないけど、日本の精神分析の歴史をつないでいけるようにがんばりましょう。お求めになる人の数は少なくても会う日数が多いのとそこで生じるインパクトはお互いに絶大なのでそこから生じるアイデアを使って多様な臨床もしていきましょう。いろんな道を歩くことで出会う驚きを楽しんだり、ショックを受けてもそれをじっくり味わうことでなにかをつかんだりそういうことしていきましょう、かね。今日は土曜日。いい一日になりますように。

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春の朝

ぼんやり。窓を開けたら鳥たちの声が聞こえはじめた。春の朝は冬の夜明けほど感動しないな。そんなの関係なく花々が鮮やかなのかな。夏の陽射しに耐えうる花、冬の寒さに咲ける花、色や音もその季節ならでは。秋は花がなかったとしても木々が鮮やかだし。今の新緑の輝かしさも素晴らしいし。それぞれの季節に似合う音の重なり合いやリズムがあるのもそういうこと。戦争なんかしたらそういうの全部失われて、ということは時間感覚も失われて、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚全て変わってくるでしょう。景色から色が抜け、平板になり、突然の大きな音に鼓膜がどうかしてしまったり、逆にナイショ話に敏感になったり、変な匂いが当たり前になったりいろんなことが変わってしまうでしょう。いろんな本や映像がそういうのを示してきた。今、まるで当たり前かのようにあるものやことや人を突然失うなんていやだ。みたくないものがたくさんあるのと本当にみえなくしてしまうのは全く別のことだよ。もう、毎日、政治に怒ってる。支配されるなんてまっぴらごめん。支配するのも嫌。いつのまにかそうしてしまう部分も知っているけどだからこそ別の道を探したい。

今期の朝ドラはみていないので「ばけばけ」でときが止まっている。熊本編は何も起こらない(ということは実際はないのだけど)ということで退屈に感じた人もいたようだが、ラフカディオ・ハーンが熊本でみたものを書いた作品を読むのは楽しく、ドラマでもうまく取り入れられていた。「停車場にて」がその一つ。これは土居健郎が「「甘え」の構造」で引用している。ハーンが驚いて書きつけたような日本人の心情がそこにあるらしい。心情とは違うか、心的傾向というか、いや、集団と個人の関係か。

今日もお仕事。仕事できる日々が奪われませんように。いろんなことを自分で決める猶予がありますように。相談しながらたくさん迷って決められないことも許容される時間をたくさん持てますように。昨日も書いたけどもう晩春。夏が来てしまう。気持ちよく過ごせますように。

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ウィニコットとラカンに関する本を読んだり。

鳥たちが賑やか。みんな朝早い。今朝はDélices tarte&caféの紅茶のクッキーを紅茶と一緒に。大阪のお土産。熱い紅茶を飲むと暑いね。

昨晩、ルイス・A・カーシュナー(Lewis A. Kirshner)の『ウィニコットとラカンに学ぶ 臨床的対話とその思想』(筒井亮太訳、日本評論社)をパラパラした。原題はBetween Winnicott And Lacan A Clinical Engagement。ウィニコットとラカンを両方取り入れながら実践をしている精神分析家たちの論文を集めたアンソロジー。

第1章「ウィニコットとラカンのあいだの空間で考える」の著者はデボラ・アナ・リウプニッツ(Deborah Luepnitz)。この論文はIPAジャーナルに掲載されたもので以前読んだことがある。

リウプニッツはToward a new Middle Group: Lacan and Winnicott for beginners. という論文も書いていてこれはIn M. Charles (Ed.), Introduction to contemporary psychoanalysis: Defining terms and building bridges . Routledge/Taylor & Francis Group. という主要な精神分析理論を紹介する入門書に収められている。

どちらもいろんな人がいろんなことを言っている本だけど、どこからでも読み始めることができる方がこの余裕なき時代にはあっているのかもしれない。精神分析を体験するには心の余裕を作るために時間の余裕も作らないといけないけど。

私はいつ始まるかわからない精神分析のために当時かけもちしていたいくつかの職場に事情を話して理解してもらって数年後に分析家から枠があいたけど使うか使わないかという連絡がきて一度はすぐに合わせることができずまた待ってまた連絡がきて今度は受けて、と余裕を作るにも時間が必要だった。ご迷惑をおかけしたにも関わらず暖かく送り出してくださった上司の先生方には本当に感謝しているし、常に相談に乗ってくれたさまざまな職種の友達のおかげとも思う。それに数年のウェイティングの期間も訓練目的ではないセラピーを精神分析家に受けていたので環境的にも気持ち的にもいろんな準備ができたのも恵まれたと思う。自分のためにそこまでやるかという感じもあったけどこれを生業にするのだからこのくらいはやると思ってやってきた。いまだに大変だったなあという気持ちが先にくるけど、精神分析家になってから今度の6月でようやく2年だからこれからだなあという感じ。この年齢でこれからがあるのはありがたいけど身体の衰えは着実だからがんばってもってくれよと願うしかない。臨床心理士資格の更新も5回したけど(25年やってきたということ)これはもう更新しないかもしれないなあ。してもあと1回だろう。それだってそれまで生きてるのかな、みたいな気分になるが平均寿命まではそれなりに長くあるので精神分析家としての人生はそこそこ長くあってほしいし、時間の中のさまざまな時間を自分で引き伸ばす努力をしていかないといけない。論文を書くとかで。大変だねえ。とりあえず今日も無事に過ごしましょう。良い一日になりますように。

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晩春

早くも晩春。蛙の目借り時という季語が好きだが最近それにぴったりの眠気があったかしら、と思うとない気がする。寂しい。昨日はイレギュラーな用事がありいつも迷う丸の内で知っている道だけ歩くように気をつけ、帰りはまさに春闌という景色の中を歩きながら戻ってきた。春日傘を使っている人もちらほら見かけた。私は晴雨兼用の傘を持っていたけど写真を撮るのに邪魔だからリュックに入れたままにした。平日の昼間は宴より小さなひとり、ふたりでソメイヨシノより遅く咲く桜の花の影でのんびりする人たちを見かけた。政治家はこの平和を守ってくれなそうだが私たちは守っていかないといけない。

子どもの頃は家のそばも通学路も田んぼや畑があったから季節の移り変わりはそこで感じていたけど日常的にお手伝いしていたとかではないから身体がそれを覚えているというほどでもない。GWに2回旅したのと鉄道七尾線の車窓に続く水田の風景はとってもきれいで、この時期になるとあの田んぼはどうしているかなと思い出したりはする。と同時に地震で隆起したり倒壊したりしたあの道やあの建物はどうしているだろうと思う。和倉温泉もだいぶ泊まれる場所が増えてきたとのこと。また伺いたい。

我が家の放っておかれがち花壇、いや放っておきがち花壇に昨年春菊の種を蒔いたが収穫が遅れ立派な茎に成長し花芽がついてきた。もう今年は花を咲かせてしまおうと思う。この時期に種を蒔くとしたら西瓜か?西瓜を植えたら案山子も立てるか。こんな小さな花壇だけどきっと鳥たちはやってくる。山椒の木だって植えたばかりの数年はアゲハの幼虫に食べられちゃってた。いまやいくらでもどうぞという感じの立派な木になったけど。昨日はヤマツツジにとまったアゲハを慌ててそばにきた外国の人と並んで写真におさめた。

先日、ケラリーノ・サンドロヴィッチと緒川たまきがやっているケムリ研究室の舞台を見に行った。サボテンの涙、と書こうとしたが正しくは「サボテンの微笑み」。でもこの芝居、たとえ「涙」と間違っても通じるとても悲しく切ない舞台だった。緒川たまきの無垢と愚かの境界線をなくす芝居はもう大好きすぎて今回も堪能したけど、嫌なやつを追い詰める不気味な芝居にもいいぞいいぞとなった。この作品のことは色々書けそうだけどもう色々話しちゃったからみんなの感想とかを読んで楽しんでいる。体験を話せるって本当にいいこと。でも体験の場が狭まったら話されることだって狭まるのだからほんと政府にはしっかりしてほしい。結局そこだが。資源を外国に頼らないとやっていけない国なのにどうして自分ならできるみたいな態度を取り続けているのか。どうして、って私たち国民を犠牲にすればいろんなことは不可能ではない(それでも可能ではないと思うけどね、全然)という前提を崩す気がないからだろうけど。現実にこんな大きな危機が訪れているというのに自分の生活だけは別、と思えているうちは突き進むのみか。本当にやめてほしい。もうっ!朝からなんだなんだだけど毎日なんなんだよというニュースばかりでしょう。そりゃ怒るよ。平和な朝を平和な昼を平和な夜を普通に過ごしたい。そのために色々考えることはそんなに難しいことなのかな。がんばりましょうね、私たち。とりあえず今日を。

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お菓子、グッド・ドクター、甘え

さっきまで面白いくらい鳥が賑やかだったのに少し遠くへ行ったみたい。今朝はいただきものの薄い黄色の柑橘と二宮の小さなケーキ屋さん「菓子の里」のレーズンサンドを熱い紅茶と。こういうのは間違いなく美味しい、とレーズンサンドを見るといつも買ってしまう。私の美味しいレーズンサンドの代表は小川軒の「レイズン・ウイッチ」。あと六花亭の「マルセイバターサンド」。新宿の地下道を歩いていると京王デパートの真ん中の入り口あたりで期間限定で有名店のお菓子を売っているのを見かけるのだけどそこに時々どちらも登場する。北海道のお菓子は北海道展とかよくやるし購入しやすいけどいつどこで見てもほしいお菓子がたくさん。バラで売ってくれたらもっといいけどそういうのは「菓子の里」みたいな街のお菓子屋さんで買うのがいいか。「菓子の里」のレーズンサンドはサクサクとしっとりがちょうどよくてとても美味しかった。絵本に出てきそうなお店だったな。たくさん歩いていると小さな素敵な出会いがたくさん。一方、最近旅先でのお土産やさんでは有名なお土産が一つずつ買えたりして自宅で色々試せるようになった。でもきっとまだ気づかれていなかったり地元の人には大人気とかのお菓子もあると思うし、お菓子行脚はやめられません。

この前、Netflixで『グッド・ドクター 名医の条件』を久しぶりに見たら話がとても進んでいた。そんなに長く見ていなかったのか。これは自閉症の外科医ショーンを中心とした医療ドラマ。患者との関わりを通じて浮かび上がるそれぞれの育ち、葛藤、そして成長をゆっくり描けるのはショーンが主人公だからこそ。ショーンの戸惑い、怒り、悲しみ、興奮、誰の手にも余る豊かな情緒がそれぞれの脆い部分を動かすし、それぞれのキャラを際立たせる。ショーンの一見奇妙な行動をチームのみながケアとは違う必要性と想像力で理解しようとする筋立てもいい。希少な病気を扱ったりもするのでそれも興味深く、人間の身体ってすごいし、それによってあらわになる人間模様も複雑だ。犯罪や信仰なども顕在化する場所だし。

信仰といえば土居健郎『甘え・病い・信仰』(創文社) で土居が引用した聖書の部分が面白かった。これは『土居健郎選集』全8巻のあとに出版された一冊。で、長崎純心大学キリスト教文化研究所における長崎純心レクチャーズ第3回1999年10月25日~10月27日の講義を加筆、修正した本。電子版もある。土居健郎は聖書も「甘え」で切ってしまう。「甘え」という概念を正確に理解しないと土居の言っていることもなんでもかんでも甘えかよとしか受け取ることができないかもしれないが、土居は概念を説明ではなく生成のために使っていることも強調していると思う。このくらい具体性を持った抽象概念の使い勝手は悪くないが適当に使えば概念としての価値は落ちる。臨床に使える概念として少しでも息を吹き込めればいいなと思う。

ここまで書いて眠くなってきてしまった。まだ時間はあるが電車が混む前に出かけよう。今日の曇り空に八重桜が映えるでしょう。皆さんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

モッコウバラ
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早起きとか枇杷の木とか。

寝ても寝ても眠い、ということは今日はないがまだいくらでも寝られそう。でも寝てばかりだと腰が痛くなるからね。と毎日なにかをしすぎると不調が生じるということを書いている気がする。

すっかり日の出が早くなって明るくなったからと起きてみてもまだ5時台。ここ数年といってもすでに10年くらい経っているかもしれないけど目覚ましがなくても早朝に起きてしまう。朝一番で精神分析やスーパーヴィジョンを受けていた年月もむしろ快適に早朝散歩しながら出かけたりしていた。人の少ない都会で昼間には誰も気が付かなそうな葉っぱや花や実をじっくり眺めながら歩いた。それがこの冬、数回寝坊した。自分で少しびっくりした。30代のときに働いていた精神科病院で老齢の看護師さんたちが「年寄りになると早起きしているんじゃなくて起きちゃうのよ」と迫力ある声でいっていた。私はその起きちゃうがとても早くにきたんだなと思っていた。大学生までは低血圧で朝全く起きられなかったのが血圧もどーんとあがった。朝からごきげんなのはいいがやっぱり長期間寝不足だったと思う。頭も身体もこころもちょうどよく動かして今日も疲れた~といっぱい寝て朝の光とともに起きることを自然にできるようになりたい。

分析家のオフィスに通うまでに枇杷の木があった。私は「今朝の枇杷」という感じでしょっちゅう話していたと思う。分析を終えるときは終わりの作業に数か月準備することが多いが、私の場合、約10年間の分析の終わりはとてもゆるやかに設定された。終わる話がなんとなくでてから一年以上かけただろう。それまでがあまりに大変だったから実際そのくらい必要だったと終わってから思ったが、ここで終わってもいいけどこういうことがあるからもう少しやろうかな、まあそうだね、みたいなことをのんびり話しながらやっていた。そのゆるやかな作業の日々のある日、枇杷が枇杷がとかいっていたらあっというまに一年経ってしまった、といったら分析家は笑った。シルヴァスタインの『おおきな木』(The Giving Tree)とは別の形で私の時間を整えていてくれたあの枇杷はきっとまだ日当たりのよい都会の道であまり日陰を作ることもなく、誰かに実をとられることもなく日々を過ごしているのだろう。そういえばそんな枇杷の下で、外国の人が枇杷のパックをもって食べていたことがあった。びっくりしたし楽しい気持ちになった。その人が今自分は枇杷の木の下にいると気づいていたのかどうかはわからない。言葉がわかればそんな話もきけたかもしれない。

今日はどんな一日になるのかな。いい一日になりますように。

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日曜日

よく寝た。春は疲れやすいな。いや、何も進まない理由を疲れているから、としているだけだな。この一週間の自分を思い出しても特に疲れる理由も疲れていた時間も浮かんでこない。忘れているだけかもしれないが忘れるくらいのものならね。とほほ。とほほ。春のオフィスに光があまり入ってこないせいかしら。結局なにかのせいにしたくなるけど明るいテラスみたいなところにいたってきっとごきげんになるだけでなにも進まないに決まっている。あー。でも実際、春の私のオフィスは薄暗い時間が多い。冬はきれいに日差しがはいってポカポカなのに。昨日は外に出て強い光に驚いた。朝はまだまだ柔らかい光だったけど一気に夏だった。今日は昨日みたいなお天気なのかしら。日差し対策も必要かしら。昨日はなにもしてなくて首の後ろがじりじり焼けるのを感じた。

昨日はすべきことを頭のすみにおきつつパソコンでkindleにはいっている本を再読していた。パソコンの前にいればやった気分になるとものでもないがいつでも取り組めるぞという心構えになる気がして、といってもそれで成功したこともないけれど。

再読していたのはH. D. (Hilda Doolittle)のTribute to Freud。これ邦訳がでているのだけどもうすごく高い値段でしか買えないみたい。原著は2012年に新版がでて、序文をアダム・フィリップスが書いている。ということは古典として読まれるべき本という位置づけなのでは、と思うので日本でも新訳がでてもいいのかもしれない。アダム・フィリップスは妙木先生が一冊訳してるけどほかは訳されていないのではないかな。彼はウィニコットのこともたくさん書いているので私はチェックしてるけど。彼の対談とかもYouTubeでたくさんみられるのでよくみている。英語よくわからないけど本屋さんでやるイベントとかだと背景も含めて興味深い。

今日は仕事して遊んで仕事しての日曜日。もういよいよ色々まずいので進めましょうね、自分。がんばったら絶対あとが楽しくなるって経験はたくさんしてきているのだからがんばろうね、自分。みんないい一日にしよう。

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土曜日

今日は土曜日。いいお天気。東京は夏日になるって。突然だ。昨日も風が強かった。八重桜もどんどん散る。春の薄い空の桜を写真に撮るのは難しい。自分の眼で見ているようには撮れない。濃い八重桜なら、と思ったけどそれほど変わらなかった。梅の実もあまりに緑で葉っぱとみわけがつきにくいので撮り方に工夫がいる。チューリップみたいに地面をとる分にはきれいに撮れるけど空の光は難しい。

NASAのアルテミス計画、もう帰ってくるんだ。もう、でもないのか。月は遠いね。無事でなにより。月の裏側と表側ってどの位置との関係で裏とか表とかわかるんだろう。またJAXAで勉強せねば。

昨日の街歩きは新宿ではなく、朝早くに少しだけ遠出をした。たけのこごはんとたけのこと蕨をもらって食べてからでたのに朝ごはん二回してしまった。お昼は余裕がなかったからちょうどよかったかも。食べ過ぎると胃も痛くなってしまうから気を付けないと。さてさて普段の移動範囲が狭いからちょっとでも遠出に感じられるのはお得。ちょっと足を延ばせばすぐに知らない町だし。出勤時間の中山道を少々。あ、知らないと思っていたら前に行ったことがあるよ、といわれた、ということもしばしばだけど、街歩きはいつでも楽しい。昔の人は何時くらいが出勤時間だったのかしら。都会の現代人は早いよね。続々と駅に流れこんでいく似たようなスーツ姿とすれ違いながら不思議な気持ちになった。今日は土曜日だから電車も少しすいているね、朝は。今日は紫外線にきをつけねば。すぐかゆくなってしまうからね。

昨日、いくつか大切なことを思いついてメモしていたのだけどなんだったか。ノートをみればわかることだけど文章にしていないからみても思い出せないかもしれない。臨床上の気づきは繰り返し生じるからきっとまた同じこと考えるでしょう。期待しよう。今日もがんばりるれろ。

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金曜日

今朝も風が強い。開けた窓をすぐに閉めた。昨日は風に吹かれながら散歩した。なんかいろんなものをすいこんだ気がする。基本的にマスクしてるけど。

昨晩、枯れ木だった木に葉っぱがたくさんついててびっくりした。本当につい先日まで枝には何もなくて鳥の居場所になっていていい写真がたくさん撮れたのに。新緑も今だけの色だから素敵だけど。

新年度になって疲れている人が多い。そりゃ疲れるだろうというシステムは変えていったほうがいいが改良の結果が今だとしたらこんがらがりようは無力感につながる。大変なことだ。少しずつほつれた糸を、とやる余裕があればいいが。

なにか仕事を頼まれるたび自分が意識してこなかったあれこれに気づく。私の得意分野と思われての依頼なんだろうけど仕事としてやっているものは本当に一部なのでいざそれを仕事にとなると切り替えが必要。でもなんでも仕事になる可能性があるという構えで取り組んでいたらいい仕事できなそうし。まあいいのかな。

この風で雨まで降るのは嫌ね。昨晩、帰り道、急に雨が降ってきて慌てたけどうちの方は降っていなかった。今日も降るなら傘いらない程度であってほしいな。良い一日になりますように。

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春塵、イメージ

陽射しが強い。でも春の空は白い。いろんなものが飛んでるから光が拡散しちゃう。拡散とはいわないのか。散乱かな。

春塵や東京はわが死にどころ 鈴木真砂女

春塵やマクドナルドの黄なるM 岸本尚毅 

先日から移動時間は村松武司『朝鮮植民者 ある明治人の生涯』(皓星社)を読んでいる。砂ぼこりを感じながら。「植民者」という耳慣れない言葉が使われている理由も聞けばなんだか重たい。岸政彦の生活史シリーズのおかげで同じ地域で生活してきた人でもそれぞれ全く異なる語りになるのは多くの人が驚いたことと思うし、同時にその語りの集積がいろんな「同じ」を浮かび上がらせるのも多くの人が目撃したことと思う。村松武司『朝鮮植民者 ある明治人の生涯』は、村松が母方祖父の浦尾文蔵から話を聞き、そのノートに基づいて書いたものだ、という以外にまとめようもない。ある人の生涯を要約できるはずもない、という当たり前のことに気付かされる。今度ソウルに行くが、彼の足取りとどこか共にするところもあるのかもしれない、と思いながら読み進めている。「イメージと違う」という言葉があるし、それが自分に向けられることもしばしばだが、そんなとき私は、そんなの当たり前だろう、と心で呟く。自分が描くイメージを豊かに広げ、別の世界へ飛んでいけるのは素敵なことだが自分のイメージに合う、合わない、というのは特に何も、それ以上のことはない、という感じがする。

精神分析は特に目的もなくその人の自由連想(それが自由な連想になるのはかなり経ってからとはいえ)を聞き続ける仕事なわけだが、そこであるイメージが浮かんでもそこにとどまることは私はあまりない。浮かんでは消え、突然思い出されては忘れ、ということを繰り返しながらすぐそばのその人、患者にとっては切り離すことのできない自分自身の現実の輪郭がはっきりしてくる。それはもはやイメージではなく、イメージを作り出す基盤となる身体で、ようやく「自分」になるということだろう。

今朝は二宮の小さなかわいいケーキ屋さん「菓子の里」の小さなパイナップルのケーキ。ふわふわで美味しかった。二宮は駅からすぐ吾妻山公園という菜の花と桜がとてもきれいな公園に登れるのがいい。公園を出て散策していたらとてもかわいいお店を見つけてつい入ってしまったのが「菓子の里」。昔ながらの、という感じで小さな空間にぎゅっとかわいいお菓子たちが並べられている中にいるのは短時間でも至福。色々欲しくなったけど色々我慢して色々買った。

今日は気温はどうかな。最近、夜が本当に寒いけど今夜はどうかな。平和を願える穏やかな一日になりますように。

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春、水曜日

いいお天気。春。太陽の位置が変わって早朝の部屋の雰囲気も変わった。昨晩は寒かった!一日のなかの気温差がすごいね。

平日は寝不足が続くのがきついというか身体によくないので食べ物とかほかの部分でどうにかしなくてはいけないけど今週は筋トレもできていないし順調にお菓子を食べることはしているし。意志を強くもちたい。四月ももう1週間以上すぎている。新入生たちはまだバタバタかな。学校のシステム、特に大学は難しいね。私の頃はまだわかりやすかったと思うのだけど。一人暮らししながらでもそんなに混乱することもなかった気がする。担任制で手厚かったからかな。みんな少しずつ慣れてくるから慌てずに乗り切ってほしいな。

なんか政府にみはなされた国民みたいになっているというか政治家だけが国民みたいな?なんだそれ。メディアは当たり前のことをいう機能を失っているしもう色々ダメダメだよね、日本。日本だけではないけれど。今日も国家議事堂前では平和憲法を守るための緊急アクションがある。生配信もある。政治家のみなさんにはなんとか良心を取り戻してほしい。彼らなりの良心ではなくてもっと普遍的な。という場合の良心って?哲学者のみなさんはなんらかの答えをそれぞれお持ちだと思う。そもそもそれってなに、というところに関心を向け続けることはとても大変なことなのだろうね。

お花の時期は寄り道必須だけどいつもの道を一本ずれるだけで知らない景色に出会えるのだからいいよね。同じ道だって季節によって見え方は変わるから歩くって楽しい。この前歩いてるときに「ああそうか」と思うことがあって「ちょっとアイデアが浮かんだからメモしていい?」と止まったら相手も「自分も今曲思いついた」とのこと。お互い一緒にいても別々の作業をしてるもんだね。そしてこうして重なり合う。再現できるほどに曲思いつくってすごいな。昔、作曲の宿題があってなにがなにやらで家族にやってもらったけどあれは素敵な曲だった。ああいうのは才能だから宿題なんかにしないでくれよ。私だって再現できない鼻歌なら日々量産してるんだから。

またどうでもいいことを書いているが今日も長い。でもいいお天気で嬉しい。北国の春も暖かそうな映像が増えてきた。みんな身体に気をつけてがんばろう。どうぞ良い一日を。

梅の実
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言葉の責任とか

今朝も暖かいけど空は白い。春の曇空は雲がないの?今日はずっと曇という予報とお昼過ぎくらいまで雨という予報と社によって違うみたい。春の天気はそんなもんよね。

朝のお菓子。秩父で買ってきたお菓子はこれでおしまいかな。玉木屋さんの「秩父 よいとこ」。秩父産の太白芋というさつまいもを使用したほっくりお菓子。緑茶と。優しい甘味で美味しいでござる。私は特急好きなんだけど西武池袋線の特急ラビューは特に好き。池袋で既に楽しい気持ちになれる。山に行くときは朝早いからコンビニでお菓子を買って乗車。ちょっとゆっくりすれば池袋駅構内で色々買えて楽しいのだけど秩父にも美味しいものはたくさんあるし、ハイキングのあとに食べる楽しみは取っておかないとだからね。

しまった。朝から気持ちだけ遊びにいってしまった。平日になると仕事以外何もできないけどやらねば。昨日もあっという間に終わってしまったからな。新宿から歩くくらいしか動いてないかも。

毎日、自分の言葉の使い方だけでなく使われ方に関して思うことが多い。自分の都合に合わせて他人の言葉を使いたくなるときは相手に責任を預けていると考えることもできる。もちろんそうでない場合もある。自分の感覚や情緒が言葉になるまでの距離は相当遠いはずなのに言葉って雑に使われがち。かなり長い沈黙を自分の言葉と共に過ごすためには文学作品を読むのがいいと思う。文学作品の言葉はこちらがたやすく使えるようには書かれていないから。要約とか感想とかも求められていない限りはする必要もないし、書き言葉がもたらす衝撃に対して反射的に言葉にすることなんてほぼなくて(驚きの声をあげたり涙が急に出ることはあってもね)沈黙を深めることでその感覚と対峙することの方が多いから。私の場合は。

今日もそんなこんなあんなな色々を考えて過ごすのでしょう。自分の言葉に責任をもて、みたいな超自我的な言い方はしないけど、言葉には責任が伴うね、ということは共有したい。

雨降らないといいなー。曇のままいこう、東京の空。良い一日になりますように。

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精神分析

散歩とか舞台とか邦画とか。

空が白い。東京はこれから晴れるらしい。昨日は資料整理していたら11時くらいにおなかがすいてしまい、早めのお昼でもしようかな、と歩きだしたらごはんより散歩みたいになってしまい、またもや春を堪能。桜は葉桜になり、花びらがほかの木にくっついて別の花のようになり、ツツジもハナミズキも咲き始め、新緑がとてもきれいだった。今だけの色。そういえば別役実の脚本にピクニックの話があった気がする。「うわー、きれい」とのんきな気分が一転して別の「うわっ」に変わるというか言葉を失うというか。別役実だからたぶんきっとそんな作品。

別役実を思い出したのはケラリーノ・サンドロヴィッチが別役実の文体はもはや血肉と化しているとポストしていたからだろう。ケラさんならそうだろうなあ。すごい。あれは青山円形劇場最後の公演だったか、別役実が体調を崩し、新作ではなく旧作から選んでのケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の舞台があった。円形は本当にいい劇場だった。こんなに長く使わないのなら使い続けながらあとを考えればよかったのに。それはともかくケラさんと別役実は本体が似ているのだろう。特に当時とそれ以前は。私も別役実の『別役実のコント教室: 不条理な笑いへのレッスン』などの本を愛読していた。あの怖さはなんというのだろう。怖さは怖さなのだがそれまでの景色が一気に現実味を失うような怖さをあの短さで書けるのは本当にすごいと思う。ケラさんの最近の舞台は別役実とは違う明るさの不条理を描いていると思うけど日常のよくわからない敵意の応酬よりずっと平和で本当に面白い。不条理とナンセンスにあふれた「世界」になら協力したい。

人間が人間をコントロールできると素朴に信じているような世界はまだ「世界」になれていないと思う。世界はそうできていないからいろんな可能性をひめていて、だからいろんな人がいて、だから楽しいことがたくさん起きるはずなのに、今は狭く狭く、自分がみえる範囲だけなんとかなってればいい、みたいな感じでしょう。それはまずいでしょう、という人には精神分析はますます必要ともいえるけど、そういう人は多くないから今がこうなっているわけなので精神分析を求める人はますます減るのかもしれないね。が、しかし、多くの人に不要といわれようと必要な人がいるから世界中で受け継がれてきた学問であり治療法ではあるので、なぜ生き残ってきたかを言葉にしていくことは大事。私は精神分析を受ける人と精神分析家になる・であることを試みようとする人の相互作用が、異なる言葉が共有できる言葉になる基盤を作り、そこで伝達されてきた言葉を守ることにつながっていると実感しているので、そんなようなことを今度ソウルで話してくる。実践を伴ったことで実感とともに書けることは増えている。でも英語だと通じるか不安。日本語でも不安だけど。通じたらいいな。演題が通ったということは少なくとも一部の人には通じているわけだしがんばっていきましょう。とにもかくにも、今いる場所や相手に憎しみを抱いたときに、そんな自分は嫌だ、と思えること、そんなときに世界の広さや見えなさに恐れより希望をもてること、そういう素朴な好奇心に協力したい。

週末の事例検討会でも言葉の選択と使用、それまでの時間で生じていることについて考えていてやっぱりすごく興味深いなと思った。その人を、私たちを表現する言葉を模索していきたい。

最近Netflixで、見たかったけど見ていなかった邦画を2本みた。一本は『ナミビアの砂漠』。とてもいいのだけど、画面が揺れるから酔ってしまって一気にみることができない。私はああいう撮り方はとても苦手。『リリイ・シュシュのすべて』もそうだったよね。きつかった。『ナミビアの砂漠』に関しては河合優実の身体の使い方だけで十分ではないか。あの歩き方、走り方、声の出し方、すごく面白い人物造形だと思う。

もう一本は『あのこは貴族』。ポスターが素敵で門脇麦も好きだし見にいきたったけど逃してしまったから配信があって嬉しい。すごくいい映画だった。高良健吾はああいう相手役うまいよね。ああいうっていうのは役どころという意味ではなくて、女の邪魔をしない演技。しかし、格差ってすごい。それぞれがナチュラルに少しずつおかしなことしているのは格差とはまた別の話かもしれないけど、すりこまれているものの強力さよ。華子も美紀もそれぞれにああいう友達がいてよかった。今やっている映画もいくつかみたいのがあるのだけど時間が全然合わない。テレビでやってくれるといいな。

今日は月曜日か。また新しい一週間がんばりましょう。

桜の花びらが別の木の花に。
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春、日曜日。

さてさておはよう、日曜日。昨日は春の嵐予報に怯えたけれど風が強いときには傘をささなくても大丈夫なほどの雨で、しっかり降っているときには風がなく、私の外出時間は思ったより穏やかでした。みなさんはどうだったのかしら。東京は今日がお花見のピークかな。

ふらんす堂の連載、岸本尚毅「俳句日記」

《四月五日》行く馬が映るぬかるみ春の暮

岸本さんの俳句も文章もいいしここで紹介される虚子の句もいいしやっぱり岸本さんの文章もいい。春って楽しい、と思う一方、私は花より鼻ばかりかんでる。

今月の句会のお題に「春塵」をだした。私のパソコンでは春と塵をわけて変換しないといけないので単語登録しよう。した。春塵、おー、一回で出た。当たり前か。

先生やいま春塵に巻かれつつ 岸本尚毅

昨日はいろんな先生やなかまたちと夜遅くまで話し合いがあってうちにかえって色々してたら目が冴えてしまった。なんとなく本棚から『友情の哲学』(藤野寛著)をパラパラした。新年度になって新しい人間関係で悩むことのひとつに「友情」があるのではないかしら。でも「友情」って?と考えるとまあそんなにこだわらなくても大丈夫かもよ、となるかも。本はそこにこだわっているわけだけどこだわればこだわるほど現実ではそんなこだわらなくてもいいかも、とかそこまではこだわらなくてもいいかも、とか難しく考えるほうが面倒だからまあいっか、となったりするかも。わからないけどね。自分ひとりで考えているとおなじところぐるぐるしている間に変な信念が生まれかねないからそういうときに哲学の本は役に立つと思うよ、となんとなく新入生に向けて話している気分。私はアリストテレスをやっぱり面白いと思うので素人ながらいずれ引用できるくらいには読んでいきたいが、この本自体はアリストテレスからはじまるがそればかりではない。

そんなこんなで今朝は寝不足で疲れているような気がする。しかも今日は暑くなるという。それはそれで鼻が大変。どうすりゃいいのだ。まあ悪いことばかりでもないでしょう。まだ朝だし。みんなにいいことありますように。良い日曜日をお過ごしください。

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新年度

眠い。今日は西の方から春の嵐になると昨晩の天気予報で言っていた。昨晩の月はあんなにきれいだったのに。夜桜を照らすような明るさだった。でも、まあ、しかし、これが春。桜が咲く時期はいつも雨が降るような気がする、とアナウンサーが言っていて、私もそう思ってるからデータが出てくるのかな、と思ったら特にそれに対する応答がなくて残念だった。あとで調べてみよう。

今年はまだ新年度らしい集団と出会っていない気がする。いや、出会った。彼らは横に大きな一列を作っていて、私はその間を割くようにすれ違うことになってしまった。このちょっとやそっとのことでは崩れない一列を作る心性は中1、高1、大1の頃に見られるものなのだろう。つまり変化のときということだが。小1は大人がマネージしているからまた別かな。不安の質は同じかもしれないが。

保育園の子たちはあまり変わらずいつもと同じ時間にお散歩。いつみてもかわいらしいが春色のなかの彼らは特別な感じ。幼稚園の子は「年長さん」くらいになるとトコトコそばにきて四月から「年長さん」と言いにくる。年少、年中くらいだとまだやや曖昧。2歳くらいだとたまに間違った数の指を立てながら年齢を教えてくれるけど年度というよりお誕生日が意識されている。お誕生日会もあるしね。どうしてみんな年齢教えてくれたり、指差して名前聞いてきたりするんだろうね。かわい面白い。

今日は土曜日。今週はやるべきことをやるのみで全然勉強しなかった。これもやるべきことではあるけど勝手に優先順位を下げた感じはあるな。がんばらねばな。でも夜になったら関東も春の嵐なんでしょ。やる気なくしそう、とか言っていると一生やらないことになるし、残りが少ないという意味で一生の重みが昔とは違うのだからどうにかがんばってくれないものかしらね、自分。あー、この空の色、あまり好きじゃないな。でもいいことあるといいね。良い土曜日にしましょう。

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理想化とか。

いいお天気。昨日は午後になれば暖かくなるのかと思ったらそうでもなくて晴れ間がみえたのも思ったより遅かった。それでも夕方になってオフィスの窓から明治神宮の森を見るとだいぶ春色になった感じがした。その向こう、渋谷の高いビルも西日でオレンジに染まっていた。帰りは置きっぱなしにしておいた上着を一応重ね着してから出た。ちょうどよかった。空を見上げると月がとてもきれいで、いつもの夜よりすれ違う人が多くてそれも春っぽかった。最寄りの駅に着くとカップルとすれ違い「春なのになんでこんな寒いの!」という声が聞こえた。ほんとそうだな、と少し面白かった。今朝の東京はいいお天気。春のお天気は読みにくい。花粉もあるから洗濯物は外には干さないけど一番使い勝手のいい折り畳み傘が探しても探しても見つからないので急な雨とかは降らないでほしいな。ほんとどこ行っちゃったんだろ。

昨日、なんとなくKindleで『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―』斎藤環著 、與那覇潤著を再読していて小保方晴子さんに対する記述を失礼だなと思った。前に読んだときもそう思ったのかどうか忘れたがこのお二人の言葉にはちょこちょこ似たような失礼さを感じる。斎藤先生はひきこもり支援の現場を間接的にご一緒した身としては尊敬しているし、ここで私が失礼だなと思ったのは與那覇潤さんの言葉だが、対談なので介入はありえたよねと思う。しかもこの本は賞もとっていると知った。知識人の多くには受け入れられたということだろう。

さて、これもまた別の読み物を読んで思ったことだが狭い世界での理想化というのは怖いもので、現実と出会わなければそれはいつまでも続き、現実を知ると一気に幻滅へと反転する。理想化は現実と出会いたいという願いである場合もあるが、多くの場合はその逆だ。現実という広大で複雑なわかりえない世界の、ものすごく小さな断片を切り取ってそこで「甘え」の夢を見続けられるのが理想化だろう、と私は思っている。私もたやすく理想化され、たやすく幻滅されるプロセスを多く経験しているが、精神分析の場合は、幻滅のプロセスが非常に大切になってくるので、「出会う」とはということから考えることが必要になってくる。いずれにしても理想化するなら狭い世界ではなく、遠い場所の人の声とも真剣に対話するなかで、がいいな、私は。

今日はどんな一日になることやら。いいことちょこちょこありますように。ちょっとした楽しいこと、面白い言葉とかって通り過ぎるとすぐに忘れてしまうけど意外と出会っているものだと思うしね。どうぞ良い一日を。

月曜日の初台
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散歩とか仕事とか。

雨だねえ。桜が咲くと必ず。桜が咲いたのに雨が降らなくなったらいよいよ水不足も深刻になり国内の自給率はますます下がるのではないか。

先日、菜の花で有名な公園に散歩に行った。ネット情報では菜の花はもう終わりとのことだったがまだまだとてもきれいで桜と重なり合う景色も素晴らしかった。今年は蝋梅と白と赤の梅の三色が咲き揃うのも見られた。そのときは地元の人に驚かれた。なかなかみられないよって。嬉しいねえ。仕事のない時間は自然の中にいたい。畑仕事を手伝えるわけでもないけど。できること言ってくれたらやるけど役に立たなかった経験しかない。普通より力持ちとはいえああいう作業って力以上に日常で鍛えられた技が必要でしょう。うーん。その地域に観光客として経済的に貢献するくらいか。といっても小さい小さい貢献だが。どこに行っても国内一次産業の状況が気になる。山に行けば林業の必要性はひしひしと感じるものの熊が頻繁に里に降りてくる今、林業に従事する人を守る対策の優先度はどうなってるんだろうとか。うーん。

この仕事をしているといろんな仕事を知る。「日本の組織」みたいに大きく語れる部分ではなくてその人の日常や歴史と切り離せないものとして知る。研究者がするような大きな括りも大事。それを学びつつそれでは表せないとても複雑なものとしてその人にとっての仕事を知る。言葉になるものはほんの一部だから継続して関わることが必要になってくる。お互いの日常として関わり合う。机上の仕事も個人の複雑さに対する意識を大切にやらないと「その場所からならなんだっていえますよね」ということばかりになりそう。継続的に関わることは相当難しく苦しい状況も生むけどお互い複雑だから少しずつ少しずつそれらが言葉になっていくのを待つ。私の仕事はこんな感じ。お互いがんばりましょう。まずは傘をどこかに置いてこないように気をつけましょう。東京はこのあと晴れるみたいだから。良い一日になりますように。

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四月一日水曜日

曇っている。これから雨になるみたい。気温も下がるみたい。今日から四月。桜を眺めすぎて風邪ひかないようにしましょうね。

それにしても日本政府が日本を悪くするスピードが早すぎてどうかしてるとしか思えない。「そもそもさ」ということに常に立ち戻らないといつのまにか全く違う物語が語り継がれそう。人は本当に目の前の小さな現実さえそのまま受け取れない。自分もそういう生き物であることを前提に「正しく」あるとはどういうことか。

自分とは違う言葉を持つ相手として他者と出会い、自分の言葉や仕草がどんな感じなのかを自分で知っていくこと、それを受け入れることの難しさを超えていくこと、私はそんな自分をどうにかしながら他者のそういう作業に貢献していくために精神分析という方法を選び訓練を受けて精神分析家になったのだと思うから勉強を続けていかないといけない。この場合の勉強は机上のものでは全くない。

とはいえ今は土居健郎を読まねばならない。全く読めていない。が、すでに一連の書物は読んでいるので時折土居のことばを思い出したり、考えが浮かんだり、無意識で対話は続いているらしい。さっきはそういえば土居は精神療法を「隠れん坊」と言ったが、それは土居がキリスト教の信者であり続けたことと関係あるのだろう、と思った。だから何というわけではないが宗教のどの側面が土居の治療の描写に表れているかはどの部分が隠されているかという問いにつながるので大事なような気がする。

などなど今日も無意識に期待しよう。とりあえずやるべきことをがんばろう。まずは傘忘れないようにしよう。今日も良いことありますように。

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徳島のこととか。

今年度最後の日。お天気がよくない。風が強そう。雨はまだかな。

Netflixで『眉山』をやっている。2007年公開。原作はさだまさし、監督は犬童一心。新潟県中越沖地震の年。私たちが徳島に行ったのは映画が公開された年。映画のことは徳島で知った。ロケ地にプレートが立っていたり盛り上がっていたから。当時のことはほとんど覚えていないというか鹿児島と混ざっている気がする。きちんと覚えているのは鳴門の渦潮が混んでいたことと眉山がとてもきれいだったこととその麓の道を暗いなか歩いたことと阿波踊り会館で見せてもらった踊りがすごくかっこよかったこと(一緒に踊ったことも)と居酒屋で食べた阿波尾鶏がとてもおいしかったこと。今も仲の良い先輩が毎年サークルで踊りに行っていた。いつもすごく楽しそうで私も行ってみたいと思っていたのに1回目はぼんやりした旅をしてしまった。それはそれで楽しかったに違いないけど。昨年から今年の年末年始、約20年ぶりに徳島を訪れた。行ったら色々思い出すかなと思ったけど時間が経ちすぎた。阿波おどり会館は年末年始で休みだった。眉山の麓の道は私が思っていた建物とは繋がっていなかった。でも今回はバスと電車を乗り継いで前回行かなかった観光名所へ色々行った。どこへ行っても水がとてもきれいで2日もすれば眉山を見ると帰ってきた気持ちになった。早い!徳島駅前のホテルのそばにはアミコという駅ビルがあって親しみを感じた。お土産もそこで買った。夜、呑みに出ると地元の若者たちと隣になった。忘年会らしく、地元の変化を語り合っていた。その中のひとりがアミコに図書館が入ったり立派に残ってくれてよかったと嬉しそうに言っていた。そうだったのか。よかったよかった、というかそのとき君たちはいくつだったんだ。あー、阿波おどり会館のおじさん、かなりおとしに見えたけどすごく身軽でめちゃくちゃかっこよくてそれはずっと忘れずいろんな人に話してるな。あれから20年、どうされているだろう。今回は忘れたくないなと思いながらいろんな道を歩いた。小さな船も乗った。川から見る景色は歴史を感じやすい。まだこんなに交通機関が発達していない頃から川はずっとみんなの道だっただろうから。みんなみんな元気でいてくれたらいいなあ。

朝から思い出話を書いてしまった。準備準備。次の旅に向けてまず仕事。良い一日になりますように。

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月曜日

今日はひんやり?でも暖房をつけるほどではない。昨日はとてもいいお天気でたくさんの春の花に出会えた。大学で卒論を書くときに協力してもらった幼稚園がある駅でも遊んだ。どこからきたのかといわれ「東京です」というとGWには薔薇がきれいだからまたきてほしいけどそんなしょっちゅうはこられないでしょう、というようなことをいわれた。通っていた私としては「いえ、まったく」なので薔薇の季節にも行けたらいいな。この週末は各地でイベントが多かった様子。たくさんの家族をみかけた。歩道橋で小さな子がおばあちゃんを気遣って「荷物持つよ」「大丈夫よ」というやりとりを繰り返していて、おばあちゃんはいつものことだろうから多分本当に大丈夫で、孫に持たせるほうが心配かもなあ、でも一生懸命お手伝いを申し出るこの子の気持ちもあるしねえ、と思って「持ちましょうか」と声をかけたらその子が元気に「ありがとうございます!」といってくれた。気持ちのいい子だ。お花のきれいな公園に自転車で遊びにきていたやんちゃそうな子どもたちのやりとりもすごくよかったんだよねえ。対等であることってみんなが同じものやことを同じ量だけ請け負うことではなくて、というか量的なものの比較って人間関係では難しいわけで、お願い事をしたらありがとうというとかそういうひとことやひと仕草でどちらかだけが負担に思ったり寂しさや悲しさを感じたりしないようにやってきたのが人間の知恵だったはずでしょう。保育園でいつも周りの子のおもちゃをとってしまうことを気にされていた子が「はいどうぞ」をはじめてできて驚かれるという場面を何回も見ているけど言葉にするって勇気がいることだし周りの支えあってこそだと思う。そういえば帰りの電車で隣に座った高校生たちの会話はとてもつらかった。なんで必要のない意地悪をするのだろうね、人は。自分のなかにとどめておくのが難しいのはまだ若いから、でもなんでもないだろうけど。みんな少しずつ負担をわけあってカジュアルに感謝しあえる関係のほうが、お互いの排除のこころで団結する関係よりいろんな面でいいことが多いはずだけど。政治に対する怒りが日常のあれこれを厳しく査定することにつながってはいけないし、むしろ日常のあれこれに対してはいろんな人がいてそれぞれに事情があるとうことを前提にして強制や支配の文脈からできるだけ離れていくことが大事だよね。そうそう、今日もそれぞれがんばりましょう。

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日曜日

いいお天気。気温も高そう。今日はお散歩に行くので日焼け止めを塗りました。花粉と紫外線の季節、と書くとちょっと辛い季節だけど春の季語をたくさん思い浮かべて過ごしましょう、といっても暗記できている句は少ないので歳時記を持っていきましょう。

6月の精神分析協会の学術大会で発表する土居の「甘え」について考えているけどまだ何も書いていない。演題応募したときに書いた文章は結構悪くないような気がしているが、そこからしっかり広げていくの結構大変、と大変弱気になっている。加藤典洋が『日本の無思想』のなかでタテマエとホンネについて検討しているが、そこで中心的にとりあげられるのが土居の著書『表と裏』である。加藤は土居のタテマエとホンネの説明に欺瞞までいかなくても疑問をもちアーレントを引き出してくる。しかしアーレントのいっていることにもほんとそうかなとなり、いろんな作家、思想家などの言葉をもとに「本心=信念」、それを「言葉」にすること、あるいはしないことについて検討していく。これは大変面白い本でというか、増補改訂版は付録が面白くて、加藤のいっていることがどう誤解されているかに本人が答えてくれているのでここから読んで「え?どういうこと?」と本文にはいってもいいかも。土居の「甘え」だってたくさん誤解されているらしいじゃん、というか私はその誤解がなんだかよくわかっていなかったのだけど幅広く調べだしたら「えー、甘えってそういう意味なのか!?」と自分が誤解しているのか、相手が誤解しているのか、どれが誤解でどれが本当なのかわからないよ、土居先生!となったりもするが、たぶん私の理解はそんなに間違っていない、と思ってやっていかないとスタート地点が定まらない。というかまだそんな状態ということですね。ソウルでの発表準備もなにもしてない。自分の書いたことを確認して読めるようにしておかないと・・・。

あー。春の素敵な気持ちはどこへ。外へいったらまた思い出すでしょう。やるべきことを忘れず、しかし腐らず。いずれ花咲くような気分でがんばりましょう。どうぞよい日曜日をお過ごしください。

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日常

水分の多そうな空。昨晩、オフィスのビルを出たらタイルが濡れていた。やっぱり雨になったんだ、と思ったが降ってくる雨粒は見えない。もう降り終わったのかな、と傘を取りにいくことはせず屋根の外にでたらポツポツと雨があたった。夜は降るといっていたし、傘を準備しておかないとと思っていたのに出るときには忘れていた。でもいつも通り「このくらいの雨なら」と歩き始めた。結構な雨の日も「これくらいの雨なら」と傘を取りに戻らず後悔することもあるが、昨晩は本当に大したことがなかった。桜を散らさずにいてくれたのかもしれない。今、どこも花たちでとてもきれい。少しの遠回りで見たこともない景色と出会える。オフィスのそばの新宿中央公園の整備をなんともいえない気持ちで日々眺めてきたが、新しく植えられたたくさんの球根はそれはそれで可愛らしく、昨日は咲き始めたチューリップの写真をたくさん撮ってしまった。毎日、雨でも早足で歩いていてもつい足を止めて写真を撮ってしまう。大地震など自然災害への支援も足りない中、同じ人間のせいで「普通の」日常にも燃料不足の影響が生じている今、次々花が咲くからキリがない、と思えるのはとても幸せなことだが。これが束の間でありませんように、と願う。

朝ドラ「ばけばけ」が素晴らしいラストを迎えた。高石あかりの演技は最初から最後まで素晴しかった。「ヒロイン」という言葉より似合う言葉がありそうな気もする。「たあいもないスバラシな毎日」の幸せを私もだいぶわかるようになったが、自分ひとりではどうにもならない難儀なことばかり。「あんぱん」では「あなたならできる」と夫をひたすら信じ続け、励まし続ける意志の強いヒロインだったが、「ばけばけ」ではそれはもう一人の主人公、吉沢亮に託された感じがあり、高石あかりは反射神経の良さと情緒的にのんびりな部分の緩急が素晴らしく、ものすごく苦労している面を強調するでもなく、本当にただ日々を積み重ねている中で少しずつ変わっていく面白く悪意のないヒロインだった。特に結婚前の日々の表情の変化は楽しく、毎日明るい気持ちにさせてもらった。日々を積み重ねること、難儀なことばかり、とぼやきつつもスバラシにしたい。今日は全国的に暖かくなるみたい。と言っても北国は寒いのかしら。深刻な、深刻な社会情勢の中、みんな元気に過ごせますように。

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言葉

うっすら曇っているけど光は届いている。昨晩も帰りには雨が上がっていて嬉しかった。昨日は雨の中を長靴でバタバタ走ることになり大変だった。一応傘をさしていたけどあまり意味なかったかも。最初から閉じて走った方が安全だったか。途中、派手に転びそうになったし。でも無事に用事を済ませて雨に濡れた桜を愛でたりしながら戻ってくることができた。でもそれで疲れてしまったのかその後の隙間時間はほとんど何も進まなかった。

もう四月になってしまう。『四月になれば彼女は』って原作ありの映画あったよね。みていないけどすぐ思い浮かんだ。言葉の響きが取り入れやすいのかもしれない。言葉といえば、斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』(創元社)を読み直してとてもいいなと思っていた。ハングル入門としてもいいし、韓国文学を日本に広めた翻訳家でもある著者の言葉へのこだわりがほかでは読むことのできない表現で書かれているのがいい。韓国人が経験してきたたくさんの辛い出来事が書かれているのにそこでも失われることはなかったであろうユーモアや喜びが行間をさらに豊かにしている。

私は色々詳しくないが言葉に引っかかりを感じることから探索が始まることが多いので、というか精神分析ってそういう仕事なんだと思うけど、単なる「対話」ではなくて、言葉を生かしていくことを大事にしていけたらいいなと思うんだよね、と思う。

あー、もうこんな時間。今日は今日のやることを。いい一日になりますように。

都庁裏。
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先生方

眠い。雨だ。「雨だ」と打ったつもりが「甘えだ」とでた。最近、土居健郎のことをちょこちょこ考えているせいだろうか。熱いお茶が美味しい。

昨晩、日本精神分析協会訓練分析家の藤山直樹がよく口真似していた土居健郎の言葉「精神療法はハラハラドキドキなんだよ」「精神療法はね、出たとこ勝負だよ」 をポストした。私は土居健郎の声を一度だけきちんと聞いたことがあるが藤山先生の口真似は多分似ていない。でも土居のこれらの言葉を藤山先生の声で聞いてインパクトを受けた人は多いと思う。言葉だけみれば大した意味を感じないかもしれない。しかし精神療法に真剣に取り組んでいる身には結構響くのだ。私は慶應心理臨床セミナーを終え、グループSVに出たり、友達と精神分析的な臨床をする先生方にお願いして小さなグループをやったりしながらある程度、精神分析的に心理療法をするということのイメージを掴んだ頃に藤山先生の指導を受けた。その患者はとても「難しい」患者であると「わかった」のも後からで、そのときはどうしたらいいか全くわからず、先生に何を言われても落ち込むばかりだった。今なら「難しい」も「わかる」もかっこ付きで書く必要があることがわかるし、何をそんなに困難だと感じていたのだろうと思うが、というか、全く通じ合う感覚が生じないことに困難を感じていたのだが、通じ合えるという前提がそもそも間違っていた。人は、というか私たちはそんなに簡単ではない。なんなら自分のことが一番厄介で難しかった。なんて自分が精神分析を体験しなければ実感できなかったと思うが、当時はもう今から考えると滑稽なくらいひとりで悩んでいて(二人のことなのにね)そんな私に藤山先生は時々とてもインパクトのある言葉を楽しそうに言った。そして「って土居健郎が言っていた」と付け加えた。最初に書いた言葉たちもそれらの中の一つ二つである。私は「ハラハラドキドキ」できない自分に嫌気がさしながらも「きっとそうなんだろうな」と思えたし、そうなれたらいいなと思い、患者のことを思い浮かべた。私は心理職なので心理士で精神分析的心理療法をやっている先生方のSVも受けてきたが、どの先生からもそれぞれインパクトのある言葉を受け取っている。

先日、中井久夫の言葉を引用した。

「土居先生は怖い先生だと聞いていました。面白かったのは、誰でも精神分析の用語を使うとものすごく叱られるのです。まして二流の精神分析の論文など引用すると、烈火のごとく怒られまして、「そういうものを読むから頭が悪くなるんだ」と言われました。これは、私には都合のよいことでした。私は精神分析の本をあまり読んでいなくて、精神分析用語を使わずに話をしたので、逆に過大評価されたのかもしれません。」

ー『中井久夫集4 1991ー1994 統合失調症の陥穽』

私は深津千賀子先生に「転移」という言葉を使用したときに似たような怒りを感じたことがある。直接そんな言葉を使うな、と言われたわけでもないし、烈火のごとく怒られるなんてことは全くなかったが、そんな言葉を使う前に、と言われている気がした。その後、私は臨床を積み重ね、スーパーヴァイジーたちを持つようになったが今は深津先生のあの感じがよくわかるし、同じことを言っている自分がいる。転移といいたがるオレら、という時期があるのだろう、誰にでも。

私はSVと治療は全く違うものと最初からわかっていた、というか精神分析を受けるという目的は当時は私の仕事とは関係のない、ただただ患者になる、ということだったので、SVで患者置き去りの反省とかしないでいられたのはよかったと思う。ひたすら患者とやっていることを考え、実感を持って理論と触れることの積み重ねをさせてもらったと思う。その後、精神分析家になると決めて長い期間訓練を受けてようやく学術的であることがどういうことかもわかるようになって論文も書けた。お世話になった先生方はもうだいぶ高齢だ。いつまでも仰ぎみるような存在だが、私も日本の精神分析の世界にほんの少しだけ貢献できるようになりました、と伝えられるようになりたい。

精神分析は口承文化なのだろう、ということを書きたかったのだが思い出話を書いてしまった。私もだいぶ歳をとってきたから先生方との思い出を書いておくのも悪くないだろう。ということで今日もがんばろう。

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水曜朝

空が暗い。雨になるのかな。夢がちょうどよくないところで終わってしまった、というか起きてしまった。夢にちょうどいいもなにもあるわけではないが「そこで起きるんだ、私」という感じ。

PEPとかIJPから新しいジャーナルが出ると紹介メールが来るのだけどいつも目通したらゴミ箱にいれてしまう。でも先日Baranger(2025)の文字が目に止まり「あれ?」となった。バランジェ夫妻(Madeleine 1920–2017 &Willy Baranger1922-1994)はどちらも亡くなっている。紹介されていた雑誌はJ. Revista de Psicoanal. v103 (2025)。マドリード精神分析協会(APM:Madrid Psychoanalytic Association )発行の雑誌。テーマは¿Cómo se concibe el psicoanálisis en la actualidad?(現代において精神分析はいかに構想されているか。)。この雑誌のCLÁSICOS(古典)のセクションでバランジェとカンバーグが取り上げられていた。Barangerは経済論モデルの再定義、Kernbergは技法の現代的分岐ということらしい。ちなみにタイトルは

Polémicas actuales acerca del enfoque económico

Willy Baranger

Convergencias y divergencias en técnica psicoanalítica contemporánea

Otto Kernberg

バランジェの論文では「フロイトのメタ心理学における経済論的アプローチの位置づけが批判的に検討されている。著者はまず、心的エネルギーという概念から出発する。これは、無意識的過程を「量」「流れ」「備給」といった観点から把握することを可能にした理論的カテゴリーである。しかし同時に、この概念を物理学的あるいは機械論的な意味で理解することの限界についても指摘している。バランジェは、経済論モデルを物理学からプシュケへと単純に移し替えたものとしてではなく、むしろ心的装置における意味の変容や配分を捉えるための発見的メタファー(ヒューリスティックな比喩)として再考することを提案している」とのこと。

これはフロイトの「心理学草案」の理解を深めた私の興味と重なるような気もするが読んでみないとわからない。

この論文は1967年の Revista Uruguaya de Psicoanálisis(Vol. 9, Núm. 2)掲載論文の再掲らしい。

IJPジャーナルでもこれまで英訳されていない論文が訳されて載るセクションKey Paperがある。最新号はFrancis Pascheの論文。

Pasche, F. (2025) From the Ambivalent Superego to the Impersonal Superego. International Journal of Psychoanalysis 106:1200-1210

「超自我は複数の要因を含む過程の帰結である」という始まりは面白そう。あとでチェックするけどその前にやることやりましょう。

今日は何曜日?水曜日。空の色が不穏だけど桜は今日もきれいでしょう。雪国にも早く暖かい春が来ますように。

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くさくさ。

いいお天気!鳥たちが近い。今朝は椿山荘のメープルバームクーヘン。いい香り。

それにしても高市政権になってから気が休まることがない。市民が特に何も考えず、政権を監視せずとも自分の仕事や趣味に没頭できるための暮らしを作るのが政治ではないのか。と考えるとみんな何を求めて政治家を選んでいるのだろう。監視社会にしたいのか?たしかに学問やってても学問への情熱よりたいして関係が深いわけでもない人間関係にばかり気を取られている人は多い。土居健郎や中井久夫の本を読んでいると患者のために何ができるかを真剣に、根本から考える場を共有できているのが本当に羨ましい。患者だってそういう場に集まるわけだし。私にとっては日本精神分析協会がそういう場になりうるだろうし、いくつかそういう場は持てているけれど、この政権で、プライベートプラクティスを中心とする精神分析家としての生活が維持できるのかは多分死ぬまで不安だろう。私は今みたいな政権は全く支持しない。

ああ、こんないい天気なのにくさくさしてしまった。昨日は読むべき資料が溜まっているにもかかわらず、資料を見つけるのに時間をかけてしまった。こういうのはさくさくやりたいもんだわ。整理したつもりだったのにつもりはつもりってやつか。まあ、見つかったからいいけど。これまでMacのアプリばかり使ってきてしまったからその移行がうまくいっていない。機械難しい。

今日は風が強いね。くしゃんくしゃんしそう。いい一日になるといいですね。

東京オペラシティ
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本のある場所

お天気よくない。でもそれほど暗くもないし寒くもない。まだ風が吹くと寒いけど動けばすぐに気にならなくなる。桜もあっという間に満開になりそうだし、チューリップも次々咲くし、春は楽しい。でもくしゃみもいっぱい。ふー。

先日、若者と小さな図書室で過ごした。地理や歴史の本を集めている様子に感心すると同時になんでもいろんな本を読むといいよと思った。本棚には私が小さな頃からなんとなく手にとっては読んできたいろんなジャンルの本があった。それでもジャンルでいったら相当偏りがあるのだろう。いろんな本を読むといいよと思いつつ言葉にしなかったのは、本を読んでいれば自然と別のジャンルの本にも出会っていけるから。そんなことを思っていると須賀敦子の『本に読まれて』が目に止まった。懐かしいな、と手に取りながらますます余計なことだなと思った。この本は須賀敦子の書評集でたくさんの質の良い本と出会える一冊だが、ほかの須賀のエッセイと同じく、歴史と言語に対する深い思考がどの本も上質にしてしまうし、対象の本を読まなくても須賀の文章を読み進めること自体が豊かな読書体験となる。だからこうやって自分の手が伸びること自体が大切なのだ。そして伸ばす場所があるのが大切なのだ。図書室のある二階は少し暗くて、その子はとても怖がりだった。子供の頃、二階が子供部屋だった。夜、階段をのぼりきるとベランダに通じるドアのガラス窓にぼんやり浮かび上がるものがとても怖かった。廊下とも呼べないような短い部屋までの距離を急ぎ、部屋に入ったらすぐに忘れるような怖さだった。それでもいつも怖かった。その日、その子は図書室でのんびり一緒に過ごした数時間後、ひとりでそこに行った。「ひとりでいくんだ」と母親がつぶやいていた。「ひとりでいけなかったんだ」と私はそこで知った。本を読むことは単に言葉を目で追うことではないことを実感する時間だった。

さて今日は月曜日。やすみやすみ過ごしましょう。

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土居健郎の言葉とか。

きれいな空。ほんと春の夜明けってこんな感じなんだなあ。昨晩は夜桜の向こうに細い月がきれいだった。

昨晩『中井久夫集』を読みながら土居健郎のことをポストしたら知らない方たちからも反応があった。土居健郎のベストセラー『「甘え」の構造』を読んだことがある人がどれだけいるかわからないけど中井が面白がった土居の「怖さ」以外の面白さや迫力を知ってほしい。臨床家のみなさんは戦後の精神医学に「みたて」を持ち込んだ土居健郎の『新訂 方法としての面接 臨床家のために』も読んでね。そして土居健郎は訓練分析でワークスルーすることはできなかったけど日本の精神分析の基盤を作った一人なので6月の日本精神分析協会第44回学術大会にもいらしてくださいね。参加申込みが始まっています。私は6月14日(日)の一般演題 「『甘え』を再考する」で土居健郎の「甘え」概念と対話を試みます。この大会は守秘義務を負う臨床家のみなさまにオープンにしております。 医師、歯科医師、公認心理師、臨床心理士、看護師、保健師、助産師、薬剤師、作業療法士、理学療法士、言語聴覚士、精神保健福祉士、社会福祉士など臨床に携わるみなさま、ぜひチェックしてみください。

昨日は土居健郎『甘え・病い・信仰』も読んでいて、土居はここでも「甘え」をすっきり説明している。

「まだ言葉を話さない赤ん坊が物心がつくようになって、母親を求めるようになると、母親に甘えるというのです。生後しばらくの間は、話すことができませんし、もちろん甘えるという言葉を知るわけはありません。物心ついておぼろげながら母親の存在を自覚するようになる、少し難しく言えば、自他の区別ができてくるのだと思いますけれども、そうなって自分の方から母親を求めるようになると、そういう動作をさしてこの子はもう甘えると周りで言うわけです。」

ここまではわかる。このあと「子どもが親に甘えるとき、子どもは親とのある種の一体感を感じていると想像されるということです。(中略)日本語だけにこのような言葉があります。今、一体感という言葉を使いましたが、そのことと関連のある専門用語を紹介しますと、identification という言葉があるんです。」と書いている。私はここであれって思う。土居は続ける。

「もう一つの意味は、何者かと一体になる、何者かと自分を同じようにする、そのものと自分が結びついて一緒になる、そういう場合でして、日本語ではその場合には「同一化」というふうに訳します。一体化と言ってもかまわない。これは精神分析の方でよく使われるようになった用語です。identify というのはもともとはふつうの言葉なんですけれども。後者の意味でこの語を使うとしますと、子供が甘えるときは、子供は親と同一化しているのであって、親との一体感を感じている、こういうふうに解釈することが可能となります。」

私は一体感と同一化は違うと思っていたので「うん?」となった。これについては発表に使うかわからない。今日は勉強する時間ないし明日から平日だしもうどうしましょう。まあ、こうやって少しずつか。良い日曜日をお過ごしください。

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散歩、言葉、表情

夜明けの空。すっかり春。特に今日はうっすらとしたピンクが朧。

昨日は日米首脳会談で高市首相が何を言ってしまうのか気になって仕方ない祝日だった。東武東上線の成増でモスバーガー1号店「なりもす」へ行き赤塚エリアを散歩。赤塚城跡はもう何も残っていないけど地形が城っぽかった。あの辺は起伏の多い地形なのね。桜もぽつぽつ咲いていて今日とか一気に咲きそう。城跡内には東京23区初の区立美術館の板橋区立美術館も。今は「焼絵 茶色の珍事」。面白かった。描くのではなく焦がすのね。十八世紀、十九世紀の作品もいいけど、最近の猫野ぺすかさんの猫の作品、特に猫タロット占いは惹かれた。買ってくればよかったなあ。昔、職場でタロットが流行って教えてもらったことがある。どこいってもひとりはできる人がいる世界な気がする、タロット。カードだけでも魅力的だしね。

さてさて首脳会談。これまでの文脈を無視すればどっちの意味でもとれることを言ったのは戦略か、たまたまか。パールハーバーを気楽に持ち出されたことに対する緊張感のなさ。「あなたも同じことしましたよね」という言葉は自分の行動を正当化する理由になどならない。過去に対して即座にどういう態度を示すかは政治じゃなくても常に重要だ。「そういえばそうでした」と黙るのも違うし「何度も謝りましたよね」も全然違う。過ちを犯しても、「おまえがいうなよ」と言われ続けても、消えることのない過去の過ちを認め続け、「だからそれを繰り返してはいけない」という信念を表明し、それを体現しつづけようとする。孤立した状況だったらそれはとても難しいことかもしれないけど、様々な感情になりながらでも「それしかできない」という現実にじっと静かにいつづける。なぜそれはそんなに難しいのかを実際に見続け、実感しつづけ、考え続けるのは私たち臨床家の仕事でもあるけど、知識として、小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』のような本は読んでおきたい。「そういう人ばかりじゃない」というのは当たり前であって大きな問題をなかったことにする理由にはならないし、「意見が違うだけなんだから尊重してよ」というのはそれはそうだが「だから触れるな」と禁止することはできない。どう触れるかはもちろんものすごく重要なことだが。こういう話は立場表明のためであれば極論に急ぎ、思考停止になりかねないが日常生活においてはいちいち表明も宣言もする必要はそんなにないはずなので揺さぶられては考え、事実と文脈に戻り検証し、例外を全体の説明にしたくなるならそれはなぜか考え、などなどを続けていく必要があるのだろう。

ところで、私は笑えない話に笑う人に違和感を覚えるが、なんなのでしょうね、表情って。私は精神分析の世界に入ってからあまり笑わなくなったと思う、というと客観的にはそんなことはないらしいが。気持ちと表情が一致してきたのかもしれない。違うな。私の仕事は私から笑うようなものでもない。ものすごく受身的な仕事だということ。ものすごく自分と違う人と出会うときに自分の感覚なんてあてになるはずもなく、まず普通に聞く、フロイトだって技法としてはそれを推奨した。まず観察、まず聞く、表情につながる回路は相互作用でできていくのだと思う。もちろん逆転移というのはその距離をなくすものでもあるので自分の笑いに自分で驚くこともあるし、それに激しく嫌悪感を抱くたり、抱かれたりすることもある。臨床場面の私はその場にいない人には想像できないくらいいろんな笑いを共有している。相手によって、状況によって、プロセスに応じて、全く異なる笑いを。私にとって違和感を感じない笑いは笑えない話を一緒になって笑うことではなくて、そこから連想がはじまり、そのプロセスで生じる反射ではない笑いだ。冷笑は笑いではないし、なんでも笑い飛ばすことを笑いと思わない。ただ普通に笑う。ただ普通に聞く、と同じように。

政治家は楽観的すぎるというか見る範囲を狭めればそれが可能なポジションなのだろうし、昔の精神分析家は悲観的すぎると思う。今の精神分析家はよくわからない。私は日本語で学術的なことを書いているときは中立的だと思うが、英語だと急に自分の言葉が他人のものみたいに思える。20歳のとき、はじめて海外に行ってそれなりにコミュニケーションできるようになって帰ってきたが、あれは英語ができるようになったというより言葉の使い方がまだ幼児に近く、コミュニケーションに特化していたせいだと思う。今は自分の中にあまりにいろんなモードの言葉があって、精神分析のおかげで一番自然にしゃべれている状態に馴染んだから戻る場所はわかるんだけどすぐに迷子になる。しかも私は今どこにいる?というより私自身を見失う迷子。これ書いてるの私?みたいな。特に母国語以外で抽象度の高い作業をするときにそうなる。精神分析臨床は具体的というか具象的というか、そういうのの積み重ね。それを高度に抽象化するのはまた別の仕事で、でも精神分析家としてはそれを同時にやっていかなくてはならないわけで、仕事するって楽しくも大変。「ウラメシ、ケド、スバラシ。」の朝ドラ「ばけばけ」も終わってしまうね。本当にいいドラマだった。今日もお散歩しようかな。みんなにいいことありますように。

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意識化とか。

空が明るくならない。雨降るのかな。昨日もほんと数えられるくらいの雨粒にはあたったけど。今日もそのくらいならいいな。それでも「降る」っていうのかな。

この前、山の話をしていて富士山登山のあれこれが出た。私にとって富士山はいろんなとこから眺められる素敵なもので登りたいと思ったことがない。くだりはとても退屈だと聞いた。山で退屈さを感じると興奮と同じくらい危険な気がする。私は低山でも退屈な道だなあと感じると何もないのに転んだりする。どうしてすぐにぼんやりしてしまうのだろう。

昨日、柳樂光隆さんが書いたシャバカとのインタビュー記事を読んでいたらシャバカが自分がやっていることを細やかに言語化していてやっぱりすごいなあ、と思った。新しく何かを始めてもあっという間に深いところにいけるのは結局基礎がしっかりしているからで、それは自分がやっていることを意識化できるから。これ、自分もそうだけど、いろんな人の話を日々聞いていて、それがいかに難しいことかを実感しているのですごいなと思う。没頭できるということでもあるけど。私は没頭が足りないな。たまにできるけど一日中そればかりやっているということがない。そればかりといっても単に一つのことというより一つのことに含まれる多数の手続きを細やかに繰り返していくわけで、これは本当に大変なことだよ。

今年になって英語論文の査読が帰ってきて修正すれば採択してもらえるとのことだったのだけど、私が形式をわかっていなかったので全体の組み直しが必要になったのと、内容についてもかなり本質的な指摘が簡潔に書かれていて、これはものすごく大変だぞとなった。内容を変える必要はないのだけどきちんと答えるべきだなと思って、こんなに削っていいのかな、というくらいシンプルにして、形式もオグデンとか自分がよく読む論文を参考に整えた。それをやるのはとても大変で、なんとかやったけど時間をかけすぎた。というか頭にはあるが手を動かし始めるのが遅かった。慣れていないことほど言われたことをすぐにやったり、何度も何度も見直したりするべきなんだろうけど難しいよーとサボってしまった。手を動かし始めても英語にするプロセスで自分の思考が散ってしまうというか、直せば直すほど何を言いたかったんだっけとなって困った。提出してまた査読結果が返ってきて好意的に評価していただいたけどまた少し形式上のアドバイスをいただいた。本当そうだな、と思って今回はすぐにやってすぐに出した。でも今回も私は自分がやった作業プロセスを意識化できない。無心でやれる作業ではないのに無心みたいな気分にしかならなかった。いかん。シャバカを見習わねば。というか柳樂さんの記事で読むジャズミュージシャンたちはみんなとても丁寧に自分の作業を言語化してくれる。本当に憧れるし、だからこんないい音楽ができるんだなあ、と楽しくなる。まあ、がんばりましょ。

今日は春分の日だよ。昨日はいつも通る道で桜が咲き始めていた。いつもみない鳥もたくさんみた。春だ春だ。いい春にしましょう。

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日本精神分析協会第44回学術大会

おはようございます。改めていうこともないですが精神分析家の岡本です。

今年も6月に日本精神分析協会の学術大会が開催されます。参加申込みが始まっています。4月15日締切ですが忘れてしまう前にぜひお早めにお申込みください。詳細は日本精神分析協会のウェブサイトをご覧ください。

どのセクションでも精神分析の事例が登場すると思います。精神分析実践が可能にすること、行き詰まり、限界、そこからの発見など様々な側面を共有できるはずです。なかなかない機会ですので守秘義務を持つ臨床家の方はぜひご参加ください。

1日目:2026年6月13日(土)

13:00〜15:15 / 15:30〜17:45

内容:クリニカルグループ(事例検討)

訓練分析家(会員)、精神分析家(会員)、候補生、精神療法家、研修生の様々な組み合わせ(司会、事例提示、討論)で計10ケースについて検討がおこなれます。各時間帯1セッションずつ選択することができます。私も1セッションで司会を担当します。組織での訓練を基盤とした精神分析、精神分析的心理療法の事例を聞く機会はあまりないと思いますので多くの方にいらしていただきたいです。実践ありきの学問ですので。

二日目:2026年6月14日(日)

9:00〜10:25
●講演と討論①「回帰する亡霊−外傷、乖離、およびエディプスコンプレックス−」
 講演:池田暁史 討論:岡村斉恵 司会:加茂聡子

10:35〜12:00●講演と討論②「「見るなの禁止」と日本語の二重性」
講演:北山修 討論:宮田善文 司会:鈴木智美

12:50〜17:00
●パネル ●候補生の会の企画 ●精神療法家センターの企画 ●一般演題

私は12:50〜13:30の一般演題で「甘え」をめぐっていくつかの観点を提示します。多くのみなさんと議論できたらと思っています。

あと15:00〜17:00のパネル4に登壇します。今年も昨年と同じメンバーで私が企画しました。テーマは「『私』と出会う」 。精神分析は相互の自己に変容をもたらすものであることが事例を通じて共有できればと思っています。

多くの臨床のルーツである精神分析の現在をぜひ見に、聞きにいらしてください。精神分析実践は他の臨床実践にも多くの示唆を与えてくれるはずです。臨床家同志の対話の場としてちょうどよい、学会よりずっと小規模の集まりです。こんな世の中だからこそ人のこころが持つ可能性に希望を持ち続ける実践を大切にしていきたいと願っています。ぜひいらしてください!

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論文を読んだり。

早朝の暖房がいらなくなりつつある。なんとなくつけてしまうと消せなくなるけど。空の色がぱっとしない。なんか茶色がかってるようにもみえてしまう。

今朝はいただきものの「湘南クリエイティブガトー葦」の「湘南チーズパイ」と熱い紅茶。これ大好き。お店にも一度行ったことあるけど昔ながらの街の喫茶店という感じでとてもよかった。ひっきりなしに訪れるお客さんといろんな種類のケーキをみながらお茶をした。飽きない。なにを食べたのか忘れてしまったが軽食だったと思う。地元という感じがとても好きになった。と思ったらいろんなおしゃれビルで販売だけの店舗をみかけるようになってすごく湘南ローカルなわけではないのか、と思った。私が知らなかっただけね。こうやって人からいただくわけだし。知ってからみえてくるものって多いね。

昨日は隙間時間の使い方がそこそこうまくできた。今年もいくつか発表を控えているのでそれ関連の論文をPepでざっとみした。途中からあまり関係ない本も読んでしまったけど。Pepでは書籍は抜粋しか読めないので、本の概要を知るにはまず出版社のサイトを読む。章ごとのアブストラクトがあるのは本当にいい。もっと詳しく読みたいものは書籍になる前に専門誌に載っている場合が多いのでそれをチェック。

今回はBonaminio, V. (2017) Clinical Winnicott: Traveling a Revolutionary Road. Psychoanalytic Quarterly 86:609-626をチェック。これは発表とはあまり関係ないけどウィニコット関係はとりあえず読む。著者Vincenzo Bonaminioはイタリア精神分析協会の訓練分析家。ローマで個人開業。イタリアのD.W. Winnicott Instituteとthe Winnicott Centreのディレクターもお勤めとのこと。先述した論文が入っているのは前からチェックしていた“Playing at Work: Clinical Essays in a Contemporary Winnicottian Perspective on Technique”(Routledge, 2022)。この本はNew Library of Psychoanalysisシリーズの一冊。New Books Networkで著者のインタビューをきける。全部は聞き取れないけど英語とイタリア語が交じり合うとても楽しいインタビューだった。患者のことを書くということについても最近言われていることとは異なる視点で語っているし、臨床のリアリティにあふれていてこの著者のことはイタリアの精神分析家のなかで一番好きかも。フェッロとかチビタレーゼもいいし、読むべきと思うけど、私が実践で得る感覚を言葉にしてくれているのはこっちかな。クリストファー・ボラスも楽しそうに序文を書いているし、これはイタリアの精神分析であるという感じが本文にもあふれていて、昔憧れたイタリアへの熱がまた少しぶり返した。20代の頃、ツアーに申し込んだら戦争がらみだったかツアーが催行されなかった。昨年、日本精神分析的心理療法フォーラムでアートと精神分析の交わりに関する分科会で討論を務めさせてもらったこともイタリア熱再燃のきっかけになったと思う。とはいえ、しばらくは国際学会以外は国内の被災地中心の旅になると思うけど。いずれいけるように筋トレ続けよう。美術館いっぱいまわりたいしいろんな小道を歩きたいから。

昨日は仕事終わってメールみたらなんとか論文掲載してもらえそうでほっとした。ちょっと直さないとだけど。本当に丁寧にみていただいてとても勉強になった。隙間時間をもっと上手に使えるようになって一年に一本は英語の論文を書いていけたらいいな。臨床と研究が離れていかないように地道にやろう。人は本当に簡単に言葉にできるものではないのだから。それぞれ色々あるけどみんないい日になりますように。