とはいえ、次の締切まで少し余裕がある(はず)ので移動時間は仕事もせず景色と音楽を満喫した。車窓から移り変わる天気と山や田んぼを眺めつつ、オアシスのLIve’25 Tour Official Setlistを聴き、お隣の方が長岡で降りてからはノリノリだった。時間も空間も余裕があるって本当に大事。ハンドクリームとか化粧水に時間をかけてはいいことをしている気分になった。自分を意識していたわるのは病気のときだけに必要なわけじゃない。いたわり方を知らないといざというときにできないのだから大事。
Botella, César & Botella, Sára. The Work of Psychic Figurability: Mental States without Representation. London & New York: Routledge with the Institute of Psychoanalysis, London/The New Library of Psychoanalysis, 2004. 心の形象化機能について。
Ogden.What Alive Means5 Giving back what the patient brings On Winnicott’s “Mirror-role of mother and family in child development”これについては何度か書いた。『遊ぶことと現実』第9章「子どもの発達における母親と家族の鏡ー役割」のcreative reading。
あとAndre Green at the Squiggle Foundation (The Winnicott Studies Monograph Series)”On Thirdness”。グリーンのロンドンでの講演。イギリス対象関係論とフランス精神分析の差異の話も面白い。
昨日の初回面接グループもとても勉強になった。事例で具体的に初回面接を検討したあと、30分間、今日事例から学んだことを話し合うのだけど、今回話題になったのは中立性。初回なのになぜそれが保たれないときがあるかという話はしょっちゅうしているのだけど、今回は私がMichel Neyrautの逆転移の概念を紹介したりした。ミシェル・ネイローでいいのかな、読み方。どこかで誰かがYouTubeとかで引用しているだろうからその発音を後で確認しよう。Société psychanalytique de Paris(SPP)の会員らしい。ネイローは「逆転移が転移に先行する」として、分析家が社会的・性的・思想的あらゆる属性を超越した絶対的他者ではありえない、といった。そしてそれでもそうであるふりをしなければならない、と。前者は当たり前といえば当たり前。後者は単なる役割としてという意味ではないだろう。ネイローは『Le transfert』(1974)以来一貫して「精神分析的思考pensée psychanalytiqueそのものが抵抗である」と言っているらしい。と同時に「要求としての逆転移(contre-transfert comme demande)」ということも。応答ではないということだろう。
多分この辺について詳しく書いてあるのがNeyraut, M. (1988) Les destins du transfert: problèmes méthodologiques. Revue française de psychanalyse 52:815-828だと目星をつけているのだが。Le transfert : étude psychanalytiqueもに読みたい。
そうだ、フロイトの「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)について今日もメモるけど、そういえばボラスの『終わりのない質問』第4章「耳を傾けること」の冒頭でも引用されていたな、と思ってパラパラした。この論文は精神分析における耳の使い方を考えるときの必読論文だと思っている。「平等に漂う注意」というやつ。
先日、フロイト「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)を読み直していたと書いた。これはストレイチー訳以前に英国精神分析協会の創設メンバーでもある Joan Riviere (1883-1962)も訳している。リビエールの大きな貢献である「陰性治療反応の分析への寄与」は最近復刊した重要論文集『対象関係論の基礎 クライニアン・クラシックス 新装版』に収められている。松木先生による紹介文にもあるけどリビエールはストレイチーも参加していたブルームズベリー・サークルにいた才媛で、1916年からジョーンズの分析を受けたあと、1922年2月から11月までフロイトとの分析を体験している。その間にフロイトの著作の翻訳をしており、フロイトが自分を翻訳者として見ていることに不満を持っていた、みたいなことが別の何かに書いてあったことを思い出した。フロイト理論にクライン理論を位置づける困難もリビエールだから説得力ある形でできたのだろうし、それがクラインとアンナ・フロイトの大論争のときの貢献にもなった。それでも自分の分析家から何かの役割で見られることは嫌だよね。そういうふうに使わないでほしいし。リビエールはその後クラインとも距離を置きつつ、文学、芸術分野と精神分析をつなぐ論文も書いていて、学派と関係なくインディペンデントな人だったのだろう、と思う。
1992年のInternational Review of Psychoanalysis,19:265-284にLetters from Sigmund Freud to Joan Riviere (1921–1939) が載っていて、1921年8月12日から1939年1月22日までの期間にフロイトがジョアン・リヴィエールあてに書いた一連の書簡が読めるようになった。私がPEPで読めるのは要約部分だけなんだけどワシントンのLibrary of Congressのサイトから探せるかも?わからない。そこにもフロイトの著作を翻訳し出版することに関するやりとりがあるらしい。リビエールはすでに伝記も出ていたかも、と今思い出した。あとでチェックしてみよう。みんな死ぬけど多くのことを残してくれている。ありがたい。
今度、学会で精神分析の導入について話し合うので、フロイトの「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)を読み直していた。
ストレイチー訳はこれ。Freud, S. (1913) On Beginning the Treatment (Further Recommendations on the Technique of Psycho-Analysis I). –The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud 12:121-144
副題に「(精神分析技法に関するさらなる勧め I )」とある。Iがあれば次があるわけで「精神分析技法に関する更なる勧めⅡ」は「想起すること、反復すること、ワークスルーこと」(1914)、Ⅲは「転移性恋愛についての観察」(1915)である。ちなみに「治療の開始について」は「転移の力動」(1912)、「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)に続くものである、と初版 Int. Z Psychoanal., 1(1), 1-10 and (2), 139-46.の脚注には書いてあり、これらは全て岩崎学術出版社から出ている藤山直樹監訳の『フロイト技法論集』に収められている。時間とかお金とか治療契約の基本的なところをフロイトがどう考えていたかは大体技法論集に書いてある。晩年に書かれた1937年の「終わりのある分析と終わりのない分析」「分析における構成」は前にも書いたようにフェレンツィへの応答というか陰性のものをフロイトがどう考えていたかという観点から読める。フロイトは神経症を倒錯のネガといい、ナルシシズムも倒錯との関係で描写した。それらはこれらの論文に見られ陰性治療反応の記述へと伸びていく発想である。
昨日は小グループのセミナーでアンドレ・グリーンのThe Capacity for Reverie and the Etiological Myth(1987)を読んだ。私はThe Freudian Matrix of André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century Edited By Howard B. Levine (2023)に入っている英訳で読んだ。フランス語で読めたらいいのだけど道のりは遠い。
早朝、まだ空が暗いことを確認して洗濯物を干す。昨晩取り込んだハンカチをたたむために広げる。薄いピンクのハンカチ。少し小さな穴が開いているのにはじめて気づいた。本当に若いときに誰かからもらったハンカチ。当時はとても高級なものに思えた。実際そうなのかもしれない。ハンカチっていろんな人にいただくけどどれが誰からでその誰はどこの誰だったか、というくらい昔のものが多い。結局、一番上に置いてあるのを使ってしまうからお決まりの数枚しか稼働していないけれどその一枚。私は自分でピンクを選ぶことはほぼないけれどこのハンカチは見るたびにレタリングがかわいいと思う。どこのだっけ、と思ってまじまじみてみたけど書いていなかった。なんとなくKENZOのだと思っていた。KENZOがすごく流行った頃のかもしれない。改めて見てみるとこれってマザーグースの数え歌だと気づく。多分知っていた。でも覚えていない。マザーグースは谷川俊太郎訳のをセットで持っていた。今もその辺にあるはず。イラストは堀内誠一。堀内誠一は今年はじめかな、立川のPLAY! MUSEUMでやっていた展覧館に行った。すごく懐かしくて楽しかった。あの懐かしさのひとつなんだろうなあ、このハンカチ。A was an apple-pieからはじまる数え歌。B bit it, C cut it,D dealt it,E eat it,F fought for it, G got it,とつづいてく。きれいにアイロンかけて壁に飾るようにしようかな。実用から思い出の品に意識的に変えていくのもいい年齢かも、50代。
The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの翻訳が出るのはいいことだと思う。女性の精神分析家たちで原著を読んでいるが翻訳があれば助かる。Dana Birksted-Breenは1946年生まれ、2024年1月に亡くなった。The International Journal of Psychoanalysisの編集長を2007年から2022年まで長く務めたDanaの論文のリストはこちら。国際色豊かな言葉の持ち主であることは明確で、今回翻訳された本を読めばそのワールドワイドな知識にも圧倒される。
Bulimia and anorexia nervosa in the transference以外の全訳である。この章のアブストラクトならこちらで読める。秀逸な臨床論文だと思う。私は、引用文献を探すためにDanaの仕事を参照する、ということをしている。 精神分析に向けられてきた批判を十分に意識した書き方も勉強になる。
批判といえばR.D.HinshelwoodのA Dictionary of Kleinian Thought(1991)は第二版で1989年の第一版への批判を受けて改訂された。2014年に衣笠隆幸総監訳で『クライン派用語事典』(誠信書房,2014)として全訳されている。第1版への批判は第二版へのまえがきに書いてある。その主なものの一つは「死の本能」と「羨望」のある側面について、もう一つは、ベティ・ジョセフに関連した最近の技法の発展について、ということでその内容が書いてある。
そしてこの事典のさらなるアップデート版がE.B.スピリウス版 The New Dictionary of Kleinian Thought(2011,Routledge).こちらは多分まだ翻訳されていないと思う。この第二版が翻訳された時点で既に出版されていたことは衣笠先生の総監訳者あとがきを読むとわかる。衣笠先生によるとこちらは「より整備された構成と記述からなっているが、やや教科書的で個性のないものに改訂されている」とのこと。原著で確認すると、こちらは無意識的幻想、子供の分析、内的対象、妄想分裂ポジション、抑うつポジション、エディプスコンプレックス、投影同一化、超自我、羨望、象徴形成Symbol-formation、病理的組織化Pathological organizations、で最後に技法というエントリー。クライン派関連文献はこちらも1989年まで。1989年だけみてもブリトン、フェルドマン、ヒンシェルウッド、スタイナー、ジョセフ、メルツァー、オーショーネシー、サンドラーなど重要文献がたくさん出版されている。
昨日は珍しく隙間時間もせっせと作業してぎりぎりではあったけど来年ソウルで開催されるIPA The Asia Pacific Conference5th用に演題提出して仕事もいつも通りやってようやく帰るぞ!という時間に怖い目にあった。駅員さんが駅のどこまでを安全管理の領域としているかわからないが混雑した駅で危ない行為をしているのをみたら止めてほしいな。警察を呼んでくれてもいいし。故意にぶつかってくる人には何度か会っているが自分の行きたい方角にいる人は蹴散らしていい、くらいな勢いの人には久しぶりに会った。怖かった。もし私が大きな男の人だったらまるで目に入ってないかのように向かってきたりしないのかな。こういうときはいつも思う。もし私が大きな男だったらって。
昨晩はReading Freudで「心理学草案」の第三部、主に「注意」について書かれているところをじっくり読んだ。欠席の人が多かったのともうすぐ読み終わってしまうのでかなり丁寧に読んだ。そしてアンドレ・グリーンを楽しく読むモチベーションが高まった。今年度はあれやこれやでグリーンの購読会にあまり参加できていないけど一、二年前と比べるとずいぶん理解が深まった気がする。「心理学草案」を精読せねば、という気持ちもグリーンを読んでから強くなった。オグデンはウィニコット発が多いけど最近の議論はそもそもフロイトの初期に戻りつつのアップデートな感じがしている。「心理学草案」だけ読んでも何が何だかだが、症例論集、技法論集、メタサイコロジー論をはじめ、フロイトの書いたものをずっと読んできたなかで読むと「注意」という概念ひとつとってもそれが精神分析の中でどう扱われてきたかに関心が向くから楽しい。ビオンはフロイトは「注意」に関する研究を展開しなかった、といってるけど、そう言いながら自分が展開しているわけなので源流を読んでおくのは大事。昨日は「草案」の中でも「接触障壁」について検討しているKohonの論文があると教えてもらったので帰ってからそれを読んでいた。2014年のInt. J. Psychoanal., (95)(2):245-270、Making contact with the primitive mind: The contact‐barrier, beta‐elements and the drives。
臨床ヴィネットを出発点として、ビオンの「接触障壁」の概念――「精神現象を二つのグループに分け、一方は意識の機能を、もう一方は無意識の機能を果たす」(Bion, 1962)――と、それがフロイトの欲動理論といかに関わるかが探究される。ビオンの概念は、フロイトが『心理学草案』(1950[1895])で記述した「接触障壁」と比較される。この比較を通じて、ビオンのメタサイコロジーのさまざまな側面、とりわけビオンが量的・エネルギー的に「刺激の付着‘accretions of stimuli’」と記述した「ベータ要素beta-elements」という概念が明らかにされる。接触障壁の機能を介したβ要素の処理は、フロイトが述べた欲動の「拘束‘binding’ 」の発展形として理解される。ただし、ベータ要素は内から生じる衝動だけでなく、「未処理の」外的刺激も含む点で異なる。「β要素」と「欲動」は、ともに心が知りうるものの限界を定める概念として理解される。さらに臨床素材が提示され、著者の主張――すなわち、ビオンの接触障壁および関連する概念(α機能、コンテインメント)は、フロイトのメタサイコロジーの経済的・エネルギー的側面に照らして理解されるべきである――が論証される。
小さな気づきも大事だが、もう本当に書き仕事は進まない。仕方なく自分の関心がなんだったかを忘れるというまさかの事態が起きないように細々とインプットを続けている。サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの今のところ一番新しい著書、What alive means: On Winnicott’s “transitional objects and transitional phenomena”は表題論文という感じなので読み応えがあった、というか、オグデンが書いてきたこと、やってきたことがますます洗練されていくのを読むのはすごく勉強になる。オグデンも読者自身が発見し創造していくことを求める書き手なので私も色々考えながら読んでいる。オグデンはウィニコットと同じく精神分析家である、精神分析家になることをものすごく意識的に言語化している人なので、精神分析実践を伴うとその言葉にますます切実さを感じるし、まだその感覚わからないな、と感じることもある。この論文は、ビオン、シミントン、ピック、コルタートを引用しながら自分の症例を通じて分析家の考える自由と分析の形や枠組みを検討している。この作業はオグデンがフロイトを読み直すことを含めてずっとやってきている仕事だと思う。
オグデンがこの本のこの論文の最後の方で参照するNeville Symington (1983) “The Analyst’s Act of Freedom as Agent of Therapeutic Change”(International Review of Psycho-Analysis, 10: 283–291)の“a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” なのだけど、この論文をPEPで読む権限は私にはないので(お金払えば読めるだろうけど)ネットで読める範囲のものを読んだ。でもこれこの論文のどこに書いてあるのか探せなかった。
オグデンの論文だとこんな感じで訳せる。
「Symington(1983)は、分析家の「考える自由」についてBionの続きから論を起こす。Symingtonにとってthe analyst’s freedom to think は分析家が自らを「ある種の(拘束的な)無意識の知のパターニング “a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” 」から解き放つ能力に依存する。分析の開始時から、分析の二者はひとつの「corporate entity」の一部となり、そこから分析家は、独立した思考が可能であり、かつそれに責任を持つ分析家としてのアイデンティティを回復しなければならない。」
昨日はオグデンの最近の二冊、Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic SensibilityとWhat alive meansの自分用訳を少し整理した。結構たまっていた。でもファイルの整理が悪いせいか同じところを訳したものが複数異なるファイルに入っていたり、ちょこちょこ修正したのはどっちだろう、となったりした。うーん。
昨日は勉強をサボったが、そういえば、とオグデンのComing to Life in the Consulting Room : Toward a New Analytic Sensibilityの4章 Destruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’を参照しようとメモを探したが、ない!これって2016年にInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたものだから、絶対どこかにメモしているはずなんだよー、と思ったがない。またか、と自分のこういうダメさに慣れているのもどうかと思えばないものはないのでもう一度読み始めたらやっぱりすごく難しい。これ、前も苦労したけどすごく面白かったのは覚えていたのでなんとか読んでいた。
オグデンのこの論文は、ウィニコットの「対象の使用と同一化を通して関係すること」の精読。Whar alive Means 6章 Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysisでウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデンのことを前に書いた。