眠い。何をいれようかな。シドニーで買ってきたT2の紅茶にしようかな。夜遅く羽田を出て午前中にシドニーについてタクシーでホテルに向かってすぐにランチに出かけてそのまま散策をした。すぐ近くにフードコートがあるビルがあってその地下にはメトロというスーパーやたしかWから始まる電車の駅があった。その駅構内にT2があった。友達がオーストラリアブランドの紅茶だと教えてくれた。すごくかわいい。色も形もみんなかわいい。友達はこのあと一人でたどり着けるかわからないからと早速お土産を買っていた。結局私たちはそのビルのスーパーを気に入って何度も足を運ぶことになったけど。チョコレートBARのコーナーが大充実で危険だった。水が安いと聞いたけど本当にそうで助かった。円安関係なくとにかく物価が高いからこういうスーパーはありがたかった。それでも高かったけど美味しい飲み物も見つけたりみてるだけで楽しかった。観光の時間があったのはその日だけであとはほとんど学会会場のホテルにいた。朝昼おやつと軽食が準備してもらえたので出る必要もなかったし一度出てしまったらサボることしか考えられない位置関係だった。会場はカフェみたいなコーヒーマシンがあって背の高い素敵な人が長い列にスマートに対応していた。私も多くの人と同じくカプチーノをお願いした。そのあとの人もそのあとの人もそのあとの人もカプチーノだったので4杯分一気に入れていた。でっかいミルク!など思いながら眺めているとカップにミルクを入れすぎた!という顔をしながらシナモンかココアパウダーをたくさんかけて、やっぱりしまった、と思ったのかそばの人を呼んで確認してもらったらその人はすっごく適当な感じで「まあいいんじゃない?」みたいなことをクールに告げて言われた方が肩をすくめて私をみた。この二人は仲良しなんだな、と思った。その人はクールな人の真似をして「いつもこうなの」みたいなことと何かを早口で言った。全部は聞き取れなかったけど面白くて笑った。このコーヒー、売り切れがちで(フリーだけど)何度か直前でなくなってしまったのだけどそのときにマシンの横に置いてあったのがなんとT2のティーバッグ。味が確かめられるの嬉しい!と思って自分でお湯を注いで飲んでみた。美味しい!私もお土産これにしよう、と決めて次の日も次の日も飲んだ。T2には日本茶もあった。これだったかな。私はペパーミントの紅茶をとても気に入ってそれを帰りの空港の免税店で買った。シドニー空港、なんにもないな、というかこれにこの値段!お土産買えないな、と残念に思いながら思い出づくりのために空港の人たちがいっぱい出入りしているカフェでホットチョコレートを頼んだらカフェラテというか多分フラットホワイトだった。向こうではそういう呼び方するんだって。私の発音が悪すぎたのか?1ドル多く取られたと思うんだけど。会計と作る人違うから仕方ないか。とてもいい感じで渡してもらったし。まあ美味しいからいいや、とトボトボフードコートでドーナツも買って時間を潰した。荷物を預けられるカウンターが開く時間になって行ってみたらでっかいサーフボードを置いた友人がいた。この人はまたサーフィンもしたのか!すごい!と自分の荷物を預けてから声をかけて写真を撮らせてもらった。学会とサーフィンを同時並行でこなす友、すごい。身軽になってお土産どうしようかなあと思いながらもう入ってしまえと出発ロビーに入ったらびっくり。高級デパートみたいな華やかさ。普通は逆ではないのか。入ってよかった。T2もあった!よかったー。買えたー。ウロウロしたりぼんやりしているうちにわりとあっという間に時間が経った。夜出発だったから飛行機で寝たり映画見たり食べたりストレッチしたりしているうちに羽田に着いた。時差が少ない国に行くときはこういうスケジュールにしようと思った。また綺麗な夜明けを機内からみた。行きにみた見たこともない赤い空ではなかったけど穏やかな赤のあと涼やかな水色が広がった。帰国してすぐに日常に戻れてよかった。疲れもあまりなくすっかりいつも通り。不思議。遠い国が近い。でも本当は何も知らないという意味ではすごく遠い。うん。今日も1日がんばりましょう。
投稿者: aminooffice
臨床心理士/精神分析家候補生
カマシ新作とか日本人であることとか。
黒蜜のフィナンシェ。美味しい。黒蜜、というだけで美味しいが本当に美味しい。色々入っているハーブティーと。熱々のを喉に流し込んでしまった。また火傷だ。熱かった。すぐに慎重になることを忘れてしまう。
夢を昼と夜というまるで一日スパンで語るのは違うと思う。覚醒と睡眠のあり方や程度にも色々あるから。そういえばKamasi Washington(カマシ・ワシントン)の新作『Fearless Movement』にアンドレ3000との「Dream State」という曲があってサックスとフルートが静かで不思議な世界を作っている。私のプレイリストではこの曲のあとにShabaka(シャバカ)の「End Of Innocence」が来る。最高だな、と思う。この二人にも柳樂光隆がとってもいいインタビューをしている。彼らがジャズミュージシャンとして自分のルーツやコミュニティのことを考え家族や他のミュージシャンをリスペクトしながら常に新しい場所へ向かおうとする姿には本当に励まされる。
シャバカが語る「小さな音」と尺八がかき立てる想像力、「音のポエム」とパーソナルな物語
カマシ・ワシントンが語る、より良い世界に進むための愛と勇気とダンスミュージック
GWは世界中の国の人が集まる国際学会でシドニーにいた。とはいえ、アジアパシフィック主催の集まりであったため参加者の大部分はその地域からだった。国内の学会とは全く異なり、各国の文化、歴史が色濃く反映された発表が多かった。予想していたことではあったが日本が他のアジア諸国に対してしてきたことを静かに突きつけられたような気持ちになった。必要なことだ。
私は候補生の集まりであるIPSOのパネルで各国からのパネリストのひとりとして発表をした。私は日本の精神分析インスティチュートの歴史を素材に、分断と呼ばれる状況に対して私たちがとりうる態度についてポリフォニーという言葉を使って考えを述べた。IPAのHarriet Wolfe会長もモデレーターとして参加してくださった。発表前日、彼女に自己紹介をする場面があったがそのときも当日もgood representationと褒めてくださった。彼女は前もって私の原稿を読んでくれていた。パネル本番でもいろんな国の参加者からとても温かなコメントをいただいた。とても嬉しかったが、他の国の候補生たちの発表に少し打ちのめされてもいたのでなんとも言えない気持ちになった。オーディエンスの一人にはそれを観察されていたようで気持ちを共有してもらったような気がした。こういう場で日本人の私が何を話せるのか、という迷いは簡単に話し合える類のことでもなく、歴史を学びながら時間をかけて言葉にしていく必要があると私は思う。私はその時代に生きていなかった、だから知らない、とは言えないのである。発表後、同じような逡巡を覚えながら別の発表をした友人と小さな声でそんな話をした。まだごく最近のこととして語られるそれらに私たちは耳を澄ませる必要がある。ジャズミュージシャンたちの語りに対してもそんな気持ちになるが、いつもどこでも励まされるばかり。今日は雨。今日も学ぶ。
病気というのは難しい。
窓を開けたらカーテンがブワッと膨らんだ。昨日から風が強い。地上ではあまり感じないがカーテンや洗濯物の動きを見るとそう感じる。
バラバラと色々なことをしているが特に進んでいない。夜はNHKスペシャル「山口一郎 “うつ”と生きる~サカナクション 復活への日々~」を見て少し泣いた。病気は本人だけでなく周りの人にとっても苦しい。うつ病は「鬱病」と書くべき難しい病気だ。身体は重たく、痛みもところどころで発生する。思考はパターン的になり自分にも他人にも別の見方をすることができず苛立ったり情けなくなったりコントロールが難しくなる。全く眠れなくなる人もいる。薬が効く場合が多いので医療にきちんと頼ってほしいが服薬に抵抗がある人も多くその不安についてカウンセリングをすることもある。とにかく色々一旦棚上げすることが必要になるが「色々」に耐えうる自分でないときに「一旦」という気楽さを持つことは難しい。医療にかかると自分の状態をシンプルにモニタリングしてもらえて投薬もそれに応じてなされる。物足りなく感じる人もいるかもしれないがこれがもっとも大事なのである。もちろんそうすることの背景に膨大な知見の積み重ねがあるわけだがそういうものを感じられない場合もあるだろう。どんなに苦しくても全てを誰かに委ねることはできないし、またそうしたくもないし、そうできる相手もいないし、など病気になるというのはいろんな次元の困難に出会うということでもあるので正しい知識がまず大事なのである。サカナクションについて私はよく知らず、山口一郎についてもよく知らず、『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』のMVが強烈でそのMVが一人なのでソロなのかと思ってしまったりして、こういうプロモーションのあり方や私みたいに中途半端な消費者の誤解が彼やメンバーやその周りの人の苦しみに繋がっていたりもすると思うが、なにかはなんでも本来苦しみだけに繋がっているわけではないので仕方ない面もある。ただその人が病気であることを知ったのであれば自然となされるべきことはあるだろう。
今日はやることがある程度決まっているのでこなすことならできるだろう。自分次第の課題もどうにか進められたらいいのだが。今朝のお菓子は山梨のお土産、桔梗屋の「甲斐の山々」。こういうのは美味しいに決まっているサブレ。クリームがさっぱりしていて甘すぎなくて美味しかった。知覧茶と一緒にいただきました。知覧もまた複雑なものを抱える街で、と書き始めると長くなるから書かないけど茶畑の美しさは別格でしょう。美味しいし。美味しいがいろんないいことを連れてきてくれますように。
映画『落下の解剖学』をなんとなくみた。犬がよかった。犬は本当にえらいが大変だ。多分。子どもも。大変だ。多分。大人は都合がいいからな。
発表時間は15分だった。「5」という数字がみえて少しスキップしようとしたら両側から優しく止められた。映画で犬が言われていたように「大丈夫、いい子」という感じのことをいわれた気がした。その場面を友人が写真に撮ってくれていた。まんなかで少し笑う自分がほんとに子どもみたいだった。私は外国の人のこうしたスピードに結構びっくりしてしまうのだがたしかに力強くサポートされた感じがした。日本語で15分間の原稿を英語にしたらまったく時間内におさまらなかった。かなりスッキリさせてちょうど15分におさめて大会の担当者に送付したのが一ヶ月前。友達に「深刻な否認」といわれるほど無になることでやり過ごしていた。というかプリントアウトした原稿を持ち歩くだけで単に練習をサボっていた。発表の1時間前に会場のロビーのみんなに背をむける位置にある椅子で読んでみた。口がまわらない。やばい。読み終えてストップウォッチをみたら17分。ありゃ。早口になるともったいないから、と言われて減らしたのに。それがあったから「5」という数字をみて急がなければと早とちりしてしまった。本番はやはり早口になったのか急ぐ必要はなかった。両隣の二人は素早く優しくそれを教えてくれた。無事に発表を終えたあとのディスカッションもあたたかくHAPPYないい時間になった。感謝。
それにしても日本は暑そう。早く薄着になりたい。今日も良い一日になりますように。
鳥、不気味なもの、台湾
かもめがきた。手を振った。手を振るくらいなら餌をくれ、だな、と思いつつ。もう一羽のかもめがきた。口から何か白いものが出ている。釣り針?釣り糸?しばらく変な首の動きや歩き方をしていて苦しいのかなと思ったがそのあと見たら口から何か出してはいるけどもう何事もなかったかのような顔をしていた。顔じゃないか、動きか。とりあえずよかったのか?苦しくなければいいけど。かもめの白は濃くてきれい。SNSで鳥の写真を見るのが好き。時折真っ白な文鳥が羽をシャラーっと広げた姿を見る。透かし見える白がとてもきれいで毎回びっくりする。鳥の目とか魚の目って少し不気味。私は愛でているけど。
フロイトは「不気味なもの」(1919)の中で不気味なものは実は馴染みのあるものとしている。私が月とか鳥の目とかに不気味さを感じると同時にそこに愛着を覚えるのはそういうことなのだと思う。どういうことだよ、ということを説明する気力が今朝はない。疲れている。
台湾の人に『亡霊の地』(陳思宏/三須祐介訳)をお勧めされた。早速Kindleに入れた。評価も高い。その人はその本について発表をするらしい。聞きたかった。フロイトがそうであるように文学と精神分析を切り離すことはできない。これからはそれらを絡めた発表を私もしていけたらいいなと思った。
しかし疲れている。数日ぶりにお酒を飲んだせいかもしれない。台湾の人たちとのおしゃべりは楽しかった。台湾、また行きたい。美味しいし優しいし楽しい。健康な胃腸を持ちたい。どんな疲れていてもこの先に楽しいことがあると自然に思えているのはそこそこ健康なのではないか、と自分を励ましながらがんばろう。できないなりにできないことをやるぞ。鳥ともおしゃべりするぞ。みんなもいいことありますように。
たくさん聞いてたくさん話しながらたくさん歩く。自分がいた場所と少し離れるだけで景色が変わることを知る。驚く。相手がいると自分が何に対してどんな気持ちでいるかを知ることもできる。意外な気持ちで事実を内省できる。それは率直に反応してくれる相手のおかげだけど。率直に反応するされる仲になるにはそれなりの時間経過とコミュニケーションが必要、強く支えられるときもあればまるで異なる意見を言われてショックを受けたりもするから。単に自分が思っていたことと違うことを言われて頭と気持ちが追いつかなくてショックを受ける場合もあるけど相手の気持ちを知って「ああ、そうだったのか」となるショックもある。どちらにしても大切にしたい相手であればそういう自分や相手にもちこたえる必要がある。「もちこたえる」という言葉は私の仕事ではよく使う言葉だと思う。何に、かといえばたいていsomething bad or unpleasantでその状態をkeep, hold, sustainしているある種の緊張状態だと思う。一言でsufferと言ってもよいのかもしれない。先日sufferにはwaitの意味があると聞いてなるほどwaitかと思った。そうするとそこには単なる緊張状態ではなくてその先が見えてくるなと思った。something bad or unpleasantがgoodかpleasantの方向へ、少なくともnot bad,not unpreasantくらいの状態へ変化することへの期待が込められている。実際はそうに違いないのだが、臨床現場で「もちこたえる」という言葉を使いたくなる場合、それはかなりなすすべがないといか行き詰まっているときで希望は無意識に追いやられている。どこかで希望がなくてはもちこたえることなどできないにも関わらず。しかしだからこそ「希望」とかいう言葉を簡単に使えないのかもしれない。「希望が持てないんですね」とはいえても「希望を持ちましょう」とはいえない感じがする。「少し希望の光がみえてきた感じでしょうか」とはいえるか。「希望の光」はたいてい「一筋の」とかがつくわけでそんなにすぐに全体を照らしてくれない。ひたすらその状況にとどまりながら時間に何かを託している状態でふいに気づかれるような、そんなものがあるのを忘れていたような光で安堵をもたらしてくれる。でもその光は未来からとか神様からとかではなくて実は過去の蓄積から生じてくるのだと私は思う。だから人はすぐに自分にとってbadだったりunpreasantなことが起きると「あのとき自分が〜したから」「あんなことさえしなければこんなことは」など思うのではないか。過去の集積=過去のせい、というのは明らかに短絡的なわけで「どう転ぶかわからない過去を積み重ねてきたんだな、それが今たまたまこんな光になったんだな」という認識がまず重要だと私は思う。すぐに何かに結びつけるような思考は反復を生じさせる気がする。だってそれはどちらかというとナルシシズムの世界にひきこもっていくような感じではないか。コミュニケーションが大事だけどとても難しいのはどちらに転ぶかわからないきっかけを作り出すものでもあるからだろう。信頼していたのに、大好きだったのに、あのときに言われたことって実は、あんな言い方で伝えてくれてたことって、など相手が心にいると出来事は時間経過とともに変化する。ああ、さっきから眠くてしかたないのにダラダラこううちづけている。ねむけにもちこたえることで何かを待っているのだろうか。希望的な何かを。いまのところ起きなくてはならない、という現実しか見えない。ああ。おなかがすいた。昨日は美味しいサラダに出会った。サラダは素材の味も大事だけどドレッシングが特に大事だと思うんだよね。バルサミコが上手に使われていたみたい。まあ、調味料っておいしいよね、みたいな話でもある。でも「おいしいサラダになーれ」と言いながらかけても誰も「調味料かけただけじゃん」とは言わないし。あ、うとうとしてしまった。わかりやすい魔法で今日が良い1日になりますように。なーれ。なれー。
PCからブログが投稿できなくなってしまった。どうしてだろ。
知らない街をなんとなく歩く。橋が見えたから橋のほうへ、というように。昔、半蔵門駅近くで働いていた頃、帰りに東京タワーが見えたから歩いてみた。遠かった。近づけばみえなくなってしまう。すると遠回りしてしまう。途中、路上の地図を確認してはまた近づく。その繰り返しだった。当時はまだGoogleマップもそんな一般的ではなかった、というわけではないかもしれない。私はいまだに使いこなせていないから。友人に野生の勘で歩いていると言われた。単に時間内で目的なく歩くのにストレスを感じないだけだが。野生は目的はっきりしてそう。私はむしろ暇と退屈をもてあそぶ人なんだろうな。
小さな子とピンクの服が目立つおばあちゃんとその家族がいた。ベビーカーを軽々と持ち上げながら急な階段を降り、そうしながらさらに赤ちゃんに陽気に語りかけるあの人が父親だろうか。似たような年齢の男性がもう一人いる。かなり高齢にみえるピンクのおばあちゃんはどの階段の踊り場にも先頭で降り立つ。お元気。みんな元気。
時折急に強い雨が降る。カフェの窓は全開。あまり気にしている人もいない。私は時々気になるけどなんとなく気にしない仕草が身につく。
おやすみとおはようをいうのを忘れた。鳥にばかり話しかけてしまった。通じない相手ほどそうしてしまうのはなぜ。いつも通り「とりー」とよんでいる。
PCが故障していないかが気になるがすでにヴィンテージだからしかたない。よくもってくれたと思えるさ、きっと。
おおよそのことは大体こんなかんじ、そんなものさ、まあそんなとこかな、いいんじゃない?くらいで動いていく。いちいちうるせーよ、という世界は窮屈。トリー、おはよー、みんなー、おはよーと大雑把に世界と関わる。それぞれどうか良い一日を。
特別な太陽をみた。赤く染まり始めた空に真っ赤な太陽がのぼった。そのあと一気に透き通るような白になった。それはまるで魔法の鏡みたいでものすごい光で思わず友人を起こした。光はだんだん空を水色にしながら散っていきそろそろ朝なのだろう。真っ白な満月のような太陽。これから夜が来てしまうかと思った.
眠りたくない。朝が来てしまうから。そういう声をたくさんきいてきた。何度も何度もそういいながら何度も何度も薬や刃物で自分を傷つけながら。そんな日々を何年も繰り返しながら「ねてもねなくても来ちゃうんですけどね、朝。」というようになったりもする。
昨日まで「普通に」笑っていた人が二度と起きなかったり、自分では動かせない身体でひたすら死を願ったり、今日も目覚めてしまったと絶望し再び暗い布団に潜り込んだりいろんな境目の超えかた、越えようのなさがある。どれもこれも自分でコントロールしているのはごくわずかだろう。
「自分で!」とあるいはその言葉を獲得する前から大人の手を振り払うこどもたち。そっとサポートする手にもすぐに気づき、怒る。「バレたか」と大人同士笑い合う。「自分で!」といえて受け入れられること。豊かで大切な時期だ。
こんな特別な夜明けに出会いながらどこかでそれを血が滲んでいるようだと思った。内臓のような赤にも見えた。写真には映らないものたちに囲まれた生活を思う。
山内明美『痛みの〈東北〉論――記憶が歴史に変わるとき』 の文章を引く。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3914
東北で育った山内明美は石牟礼道子を訪ねる道中、水俣で子供の頃の遊び場や発声や発語を奪われた人たちについて書く。
「その震源でもっとも苦しんでいる人びとが、自ら声をあげられないこの理不尽な世界のあらゆるしわ寄せを、水俣は一身に引き受けてきた。水俣は、いまも抱え続けている。
うちが働かんば家内が立たんじゃもね。うちゃだんだん自分の体が世の中から、はなれてゆきよるような気がするとばい。握ることができん。自分の手でモノをしっかり握るちゅうことができん。うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんごとなったばい。そらもう仕様もなかが、わが口を養う茶碗も抱えられん、箸も握られんとよ。足も地につけて歩きよる気のせん。宙に浮いとるごたる。心ぼそか。世の中から一人引き離されてゆきよるごたる。
くり返すが、海と暮らしてきた人びとは、充満する「無限」世界のなかで生きてきた。「世の中から一人引き離されてゆきよるごたる」と語るゆき女の心ぼそさは、わたしたちが理解できる範囲を超えた離散であるには違いない。だが、ここにひとの魂の深さを、誰だって読みとるに違いない。」
こう書いている隣で老夫婦がサプライズで誕生日を祝われていた。もう成人して海外で暮らす娘さんたちがいるらしい。祝う側の女性にも2歳になる娘さんがいるとききお二人は「びっくりした!」「えらいわね!」と声をかけた。
神様はいなくても誰かがいる。そう思えたらいいなと思った。
雨の音。車が水を巻き込みながら走る音が聞こえる。なんとなく聞き入ってしまっているうちにもうだいぶ時間が経ってしまった。山口県のみかんを食べることにした。むいてきた。甘い。なんというみかんだったか。何度か口にしているし、さっき見たばかりなのにもう忘れてしまった。みかんを噛む音で雨の音が消える。みかんの汁は口の中を濡らすにはとてもいいけど雨みたいに降られたら嫌だね、ベタベタになってしまう。どうでもいいことを考えながら食べ終えてしまった。また雨の音。
週末、あまり行かない街を散歩していてインスタでフォローしている本屋さんや雑貨屋さんの実物を見た。なんか知っている名前、と近づいてみて調べてみたらフォローしてた、みたいな。こんな小さい本屋さんなんだ、すごくいい場所にあるんだな、あれ、入り口は小さいのに中が広い。お客さんもたくさん、などイメージはどんどん塗り替えられ、そこがそこでどうして営みを続けていられるのかを知った。文脈って大事だ。南方熊楠は「未完の天才」といって途轍もない範囲で膨大な量の仕事をしたが何を成し遂げた人かと聞かれたら答える方は困ってしまう。熊楠は生活の糧のために何かをしていた人ではないから、ということもできるわけだが形にすることが必ずしも何かを成し遂げるということではないわけでこれだけのことをやって生きて死んだのだから存分にやり遂げたともいえる。自分が研究対象になっている時点で成し遂げないことで成し遂げることを目論んだ人なのでは、無意識でと思ったりする。精神分析だった同じだ。ゴールは特にない。自分の中に変数が増えていくばかりでそれがいい感じで動き出せば人生は結構いい感じだ、と思える、ただそこまでが途方もなく感じる、というやつ。何を書いているのか。色々無になることで考えないようにしているうちに現実の方が近づいてきた。はい、ここまでですよ、ここから先はやるしかない以外に進むことはできないし戻るという選択肢はありません、という現実。世知辛いわー。でもね、人はそこからまた逃げ道を見つける。でも少し先に進む。だってそれしかないのだから。こういうところはうまくできてるよなあ、人間も、環境も、と思う。環境は変えようがないものあってそれは本当に辛いことなのだけどあえて自分で作っていく環境というのもあるので、そこだったら本当の本当に追い詰められたり破壊されたりすることはないので練習場所にできる。逃げまくったり失敗しまくったりしてもどうにかなる世界。赤ちゃんの環境を広くしすぎないこと、目が届く範囲、手が届く範囲であることが大切なのと同じ。赤ちゃんはこれから育つためのパターンを身に付けないとだから精一杯自分を出しまくってこの先はいけないのかとか学んでいくわけだけど大人は自分を出しまくるのはかなり限定的な場所でやってそういう限界を学んで同時に自分の可能性を知っていく必要がある。どうせ自分は、とかいったところでどこにもいけない。が、どこにもいきたくない場合もあるのでそういう言葉が悪いわけではない。あ、また書き続けてしまった。逃避だな。がんばりましょう。
4月29日のにっぽんのいろは躑躅色だそう。今年もツツジを満喫した。ワイルドにそこら中に咲いていてくれるし根津神社みたいに見事に整えられているのもあるし。ツツジやフジは私の中では5月の花なのだけど4月の終わりと合わせて花の色をなくしていく様子。毎年こんなに早かったっけと言っている気がするからGW前の花なのかな。また来年。きっとすぐ会える。でも自分がどうなっているかは全く不明なんだよね。不思議。花だって突然大地が割れたり流されたりしてしまうことはあるだろうけど人間の方が不確定要素が多いと思う。つい数日前に普通に笑って話した人が突然入院してすぐに亡くなったことがある。本人が一番びっくりしたのではないだろうか。元々病気を抱えていたとはいえあのときの時間の流れはおかしかった。コロナ禍で火葬場が混んでいるという話も普通にされお葬式も身内だけでせざるを得ない時期だった。死は悲しいのだけどそれだけではなくてその人が私の心の中でいかに生き続けているかをも事後的に教えてくれた。先日、2015年に亡くなられた狩野力八郎先生が残された蔵書の無料頒布会に伺った。仕事の合間にサッといったのでじっくり見られていないが古典はあまり多くなかった印象。もう絶版になっていると思われる本を数冊いただいた。節度を持って、と口頭で言われただけで何冊いただいてもよかったのだが節度も荷物の限界もあった。私自身が古くなってきて今は絶版である本を普通に買えていた時代の人なんだなとも思った。ただ、私にとってこの会は単なる本の頒布会ではなくて狩野先生を強く意識する会で、先生はこういう本も読んでいらしたんだな、と少し本に触れて密かに狩野先生を偲んだ。先生のゼミ生だった方に声をかけられて「狩野先生」という言葉を交わすことができてなんとなくよかった。次世代をきちんと育てられた先生だった。私は先生には何度かケースを見ていただきとても大変な局面を支えていただいた。お会いするたびに気にかけてくださった。狩野先生は69歳でまだお若かった。亡くなってからもう10年近く経つのか。先生に推薦書を書いていただき無事に候補生になれてからも同じくらいの時が経つ。今回の頒布会で先生をこうして思い出すことができてよかった。本当にいろんな先生方のお世話になって今がある。先生方の時代の精神分析は豊かだったと思う。狩野先生は『精神分析になじむ 狩野力八郎著作集1』の中で古澤平作、小此木啓吾の仕事に触れつつ「岩崎、神田橋、小倉、牛島といったいわゆる第三世代、北山、相田、皆川、狩野といった第四世代」と書かれている。ここ数年で亡くなられた先生もおられるが、お名前を見るだけですごい時代だったと思う。来年どうなるかわからないとしてもというか今日、明日どうなるかわからないとしてもこういう今があることはありがたいことだと思う。はあ。がんばらねばなあ。狩野先生、どうもありがとうございました。
「だけど精神分析はフロイトを読まなきゃできません。フロイトを読まない人は精神分析はできません。ここが違います。」
と藤山直樹先生は『集中講義・精神分析 上 精神分析とは何か フロイトの仕事』(岩崎学術出版社)で書いている。私もそう思う。なのでもう何年もフロイトを読み続けている。コロナ禍に安くてオンラインの読書会がたくさん開かれるなか、私はコロナ以前から小さなオフィスで対面でフロイトだけを音読、精読する読書会を主催してきた。これだけ丁寧に読む会はあまりないと思う。少なくとも私が体験してきた会にはなかった。精神分析そのものを体験、実践する人は少ないが、私はせめてフロイトを対話的(「対話」って嫌いな言葉になってしまったが)に読める人を増やしたいという気持ちを持っていた。分析家の先生たちと「フロイトだったら」という話をするのは楽しい。時代が違うのなんて当たり前で実践においてそれらはすでに古典で、そのまま受け継いでいる人はいない。それでも現在の精神分析を作ってきたのはフロイトと、そして患者と素手で取り組んできた人たちであり、それをしなかったら精神分析は生きている何かではなく部分使用される古物みたいになってしまう。まあ、特になくなってもいいと思っている人も多いとは思うが、現在も長くて高いこの治療を受けている人たちがいることも忘れないでほしい。相変わらず苦しくても以前よりずっと楽な自分で生きられるようになったという実感を得ている人がいることも事実である。彼らは週の半分以上、分析家のところへ通いながら今の自分を認識するということがどのくらい困難かを知り、その困難を通じて出会った自分のどうしようもなさに絶望しながらもそれまでよりずっと楽だと感じ、実際に外側での適応は自然とよくなり、大きくは変われない自分ながらも人を頼り人を憎んでも関係が切れないことに安堵し以前よりずっと人(自分を含む)を信頼しながら安心して生きている自分を発見する。そういう人たちの信頼が精神分析を生き残らせてくれているともいえる。やはり地道な実践ありきだなと思う。フロイトと真摯に向き合える人も人に対する信頼感が高めなように感じる。たいして読まずに批判めいたことをたやすく呟ける時代にそんなことは当然せず、自分がやっている「精神分析的」臨床とは別のものとして、しかしそれを振り返るものとしてフロイトの言葉を聞くように読み「精神分析だからこうなるのか」という発見を素直にしている様子をみるとホッとする。今年度の私のReading Freudの回は「ねずみ男」と呼ばれる症例について書かれた論文から読み始めた。1909年出版の5大症例のひとつである。あ、洗濯物ができてしまった。今日はいいお天気みたいだから干しっぱなしでいきたいから干してこよう。フロイトは自宅で精神分析を行っていたので患者はフロイトの生活の断片と出会っていた。「ねずみ男」と呼ばれたこの患者はフロイトにとってかなり特別な患者でフロイトに食事まで出されている。それだけでなく最初からややこしいことをたくさんしているこの治療は詳細な記録が残っている唯一のもので今だからわかるフロイトの限界を知ることができるという点でも貴重だ。私はまず生活、そして仕事、今日もその繰り返し。がんばろう。
柳樂光隆の記事、壷阪健登のピアノなど。
鳥ー。おはよう。早速いろんな生活音を重ねてしまうけど合間合間できみたちの声が聞こえる。空でやりとりしているきみたちの声はよく届く。今日はそこに壷阪健登のピアノを重ねてみる。いつも私に音楽の楽しみと深みを届けてくれる柳樂光隆さんがSNSで呟いていたピアニスト。壷阪さんが大学生の頃に柳樂さんにインタビューをして今回柳樂さんが壷阪さんにインタビューをしたそう。それを読むのも楽しみ。
私は元々ジャズが好きだから響くというのもあるけどひとつの記事で自分の音楽の記憶が動き出す経験ってあまりしたことがないと思う。柳樂さんの記事は音源もたくさん貼ってくれて字数も多いので本当に読み応えがある。字数が多いといっても私が読むような論文は大体12000字とかだからそれより少し少ないくらい。インタビューは会話だし活字得意じゃない人にもちょうどいい量ではないか。ジャズミュージシャンが語るそれぞれの自分の音楽のルーツを聞いていると才能と環境との出会い、つまり教育についても考えさせられるし、そもそもその教育というのは歴史と関係しており、彼らが自分の音楽を掘り下げつつ新しく展開していく作業は自分の、そして自分の国や育った場所での歴史と能動的に関わっていくことにほかならないし、それを長年やり続けるっていろんな点で本当に大変なことだと思う。柳樂光隆さんのインタビューはそんな彼らの言葉を丁寧に引き出し拾ってくれて全体にポジティブなエネルギーを私たち読者に伝えてくれるから音源も全部聞きたくなってしまって大変。
さて、壷阪健登のピアノ。クラシカル?と一瞬思ったけど全然それだけじゃなかった。というより私が思うクラシカルは私にとって馴染みがあるくらいの意味なので一瞬懐かしさを感じたのだ。さっきも書いたけど全然それだけではなかった。ピアノはいいね。どの楽器にも言ってるけどさ、ピアノの特別感ってなんなんだろう。1音を響かせるだけでもその良さが伝わるのってピアノくらいでは?そういう響きを持つ楽器ってほかに何があるだろう。壷阪健登デビュー・アルバムは5月15日発売。プロデュースは小曽根真。先行シングルなどを聞きながら少し圧倒されつつ画面をスクロールしたらポッドキャストが紹介されていた。すでにいろんな媒体で紹介されているのか。知らなかった。私が最初に見つけた番組は壷阪健登と、ベーシスト/ボーカリストの石川紅奈によるユニットsorayaがゲスト回の深夜ラジオのポッドキャスト。石若駿と角銅真実みたいな感じかなとその二人のファンなのでついこちらも聞いてしまった。声がピアノのイメージと全く違って驚いた。私はこの少しあどけないような優しい声をピアノから想像していなかった。すごいな、音楽家は。石川紅奈さんはベースも弾けて声もいいのか。部活の話、面白かった。すごいな、音楽家は。語彙がないな、私は。週末の朝に良いものを聴けて嬉しい。早朝の耳には深夜ラジオがちょうどいいことにも気づいた。鳥の声に朝を感じつつ少しずつ感覚を目覚めさせていく感じか。となるとこのピアノ、早朝にきいたからなおさらインパクトがあったのかもしれないな。瑞々しいけど朝の爽やかさはどっちかというとsorayaの方にある気がした。力強いピアニストのデビュー、良きニュース。今日もいろんな人の声を聞く。がんばろ。
鳥の声より洗濯機の音の方が大きい。でもこの音は最後の回転の音。最後一気にがんばってスッと静かになってピーピーと終わりを告げる音がなる。はず。終わりを告げるのはピーピーじゃなかったかもしれない。うん、絶対に違う。音楽だ。毎日聞いているのになんでピーピーと書いてしまうのか。
昨日、瀬谷ルミ子『職業は武装解除』 (朝日新聞出版)について書いた。昨年末、柏書房から出版されたセブリーヌ・オトセールの『平和をつくる方法 ふつうの人たちのすごい戦略』も関連してあげておこう。セブリーヌ・オトセールはコロンビア大学の政治学の教授であり、瀬谷が活動するような現場で参与観察、調査をしてきた研究者である。平和構築に携わる人ということで平和構築者(ピース・ビルダー)という肩書きもある。この本は20年にわたる研究成果をテキストとして活用できる形で示した本である。巻末にはクラスでテキストとして使う場合や読書会のためのガイドもあり、これらは著者のウェブサイトにも資料として載っている。このウェブサイト自体、平和構築のための草の根的活動に貢献している。私たちはそこを通じて想像力を働かせ当事者や現場の支援者や調査者を支援することができるだろう。アウトサイダー主導のトップダウン型ではなくインサイダー主導のボトムアップ型の平和構築が繰り返し強調されるのは瀬谷の本と同じだ。研究成果が詰め込まれているためインパクトのあるエピソードにとどまるより蓄積されるそれらにまとまらない感情のままついていくような読書体験だったが、先述したように巻末にはこの本から何を感じ何を考えたかということを議論するためのガイドがついているのでそれらをヒントに考えを深めていくことができる。柏書房のnoteで試し読みができるのでぜひ。私の印象に残ったのは「まえがき」の反転する書き方と最後の章でそれにまた少し立ち戻る仕方だった。誰にでも動機というのはあるがこの著者もまたそこに育ちの影響が含まれていることをそっと提示する。初期の環境は選べないという実感がより過酷な環境に育つ人たちへの支援を後押しする部分は少なからずあるのだろう。それを実際に行動に移せるかどうかはまた別の話かもしれないがこの著者もまた迷わずそれを選択した印象がある。すごいことだ。
東京は今日も暑くなるらしい。晴れの予報ではあるが洗濯物を干しっぱなしでいくかどうか迷う。うーん。ひとまずみんなの1日が無事にスタートしますように。
近所の藤の花が咲いた。桜の老木にいつのまにか巻きつき葉桜になってすぐにそこを居場所として紫色の花を咲かせる。昨年もこの桜と藤のことをここに書いた。週一回通る道にも白い大きな花が屋根や他の木々を覆うように咲いていて驚いた。先週は気づかなかった。藤と同じつる性なのか?一気にこんなになるものだろうか。その道も何年も通っているがそこが花屋になってからはまだそれほど経っていない気がする。いや、意外と時間は過ぎているものだ。地元の小さなカフェだってまだ新しいと思っていたら「え!もうそんなになりますか」「そうなんですよ」と店員さんと話したばかりだ。いや、これも「ばかり」ではない。コーヒーフェスティバルがあるという話も聞いたから秋だろう。薄着でも厚着でもなかった気がする。そのあと、別のあのカフェができて、最近はあのビルの2階に小さな店ができた。実家が被災したため営業開始日が遅れる、という貼り紙を見たのは今年の正月だ。能登半島地震から間もなく4ヶ月。まだまだ厳しい状況が続いていると聞く。先日もその店の人は瓦礫撤去の手伝いのため店を閉めて能登へ帰っていた。
先日、同郷ということでなんとなく読み始めた『職業は武装解除』(朝日文庫)という本がとても勉強になった。もう10年以上前に書かれた本だが知らなかった。瀬谷ルミ子さんというDDRの専門家の体験記だ。DDRとは「兵士の武装解除」(Disarmament)「動員解除」(Demobilization)「社会復帰」(Reintegration)のこと。すでにとても有名な人だったということを後から知った。この本の序盤には生育歴におけるいくつかの出来事や状況が書かれその後の彼女の決意を支える背景を知ることができる。高3のとき、著者はルワンダの難民キャンプの親子の写真を目にして強い衝撃を受ける。彼女は
「私は、努力さえすれば、自分で状況を何とか変えられる社会に生きている、ということだ。私には、彼女らにない選択肢があり、すべては、自分の手の中にある。そして、それを生かすかどうかは、自分次第だ。」
と「ニーズがあるのにやり手がいない分野」にこだわり専門を決め、その後、紛争解決や経済発展のためにDDRの仕事につくことになる。そのプロセスや現場の描写はどれも胸を打つ。状況は過酷だがユーモアさえ感じさせるその語り口は本当の現場の人のそれだった。目を瞑り耳を塞ぎたくなる状況も彼らの言葉を通せば見られるし聞ける。彼女の思考は常に具体的で実践的だ。彼女たちの手を離れても活き続ける支援を想定している人の一貫性と柔軟性、交渉スキルの高さからも学ぶことが多かった。私はKindleで読みながらいくつもの文章をハイライトしたがぜひ多くの人に読んでみてほしい。戦地でも子供と女性の立場は弱い。著者の職業は特殊かもしれないが、そこで対象となるのは人権と言わずともまずは生きのびるということでありそれが当たり前のように可能な国で生きている私たちだからこそできることも読めば自ずと考えさせられる。
「ある十三歳の少女は、一回百二十円で自分の体を売り、八十円の揚げパンを買う、そんな毎日の繰り返しだ。 「数カ月前に始まったばかりの生理が来なくなった。妊娠したんじゃないかって言われたの」そう現実感がなさそうにつぶやいていた。路上で襲われることを心配して、駐車した車の下で寝泊まりしていたある少女は、車が動いたことに気付かずに、命を落とした。」
「私は頭を抱えた。単に彼らに経済的に自立する意思が育たないだけの問題じゃない。加害者が優遇され、もてはやされる風潮が長引くと、「無罪になって恩恵がもらえるなら、加害者になったほうが得だ」という価値観が社会に根付いてしまう。手厚い支援を受ける元子ども兵が新品の制服と文房具を持って学校に通う一方で、一般の貧しい子どもたちは鉛筆ひとつ買えないような状況があった。それを見て育った子どもたちは、将来、争いの芽が再び生じたとき、果たして加害者側に回らず踏みとどまることができるのだろうか。」
著者らは
「最終的には現地の人たちが自ら行うべきもの」という大前提のもと、自分たちがいなくなる存在だということを伝えながら事業の計画を立てる。」「そのため、最初から現地の組織や関係者に最大限参加してもらう仕組みにしている。」「私たちができるのは、現地の人々だけではつくれない選択肢をある程度まで一緒につくることだけだ。その後は身につけたスキルをもとに、選んだ道をどう進んでいくかは、本人たち次第だ。」
という。こう引用してしまえばシンプルだが、この過酷な状況を目の当たりにしながらここまでが自分たちの仕事だと線引きするには相当の経験と勉強が必要だ。これらも事例とともに記述されている。
また、この本には繰り返し「訓練」という言葉が出てくる。警察や軍を訓練して安全を確保する、女性に職業訓練をする、現地NGOや住民の訓練、などなど。訓練と教育を通じて伝わるのはその内容だけではない。
「身寄りのない彼らには、彼らのことを思い、支えてくれる大人が、今までいなかったのだ。初めて、自分たちのことを気にかけてくれる大人の存在を感じ、涙したのだろう。世界の裏側であっても、一人でも自分たちのことを思って行動してくれる人がいるという事実。それがどれだけ彼らの希望になったのか、私には計り知れない。しかし、ほんの一筋の希望の光が、絶望から人を救うということ。そして、その可能性を大いに感じることができた出来事だった。」
瀬谷ルミ子さんは現在、認定NPO法人Reach Alternativesの理事長を務めておられるそうだ。REALsにてアフガニスタン、ケニア、南スーダン、ソマリア、トルコ、シリアで紛争とテロの予防事業、女性を紛争解決の担い手として育成する事業、緊急支援などに携わる(wikipediaより)。REALsのウェブサイトの代表メッセージはこの本に書かれていた著者の思いを端的に表現してる。
「対岸の火事と思っていたテロや紛争が、身近に迫ってから焦っても、できることは限られていること。 壊れた建物は修復できても、失われた命は戻らない。
REALsが目指すのは、有事に劇的な救世主の到来をひたすら待ちわびるのではなく、金を出すか、軍を出すか、非建設的な他者批判をするかの三択に終始するのでもない、新たな選択肢をつくること。命が失われてから嘆くよりも、未然に防ぐ道をつくる。
命を落とした人たちが「また生まれてきたい」と思う社会を築く。紛争地にとっても日本にとっても「自分ごと」であるそんな社会づくりに、一緒に取り組んでください。」
ルワンダの親子の写真との出会いからずっと彼女の活動は一貫している。そのためならなんだってしている。後悔をしたくない、彼女のその強い思いはどこからくるのか。それはこの本にも探せるかもしれないしそれだけではないかもしれない。わからない。彼女自身を含む生き延びた命と数えきれない死から私たちは学ぶことができる。希望を見出すことを教えてくれる一冊だと思った。
早朝より早くに起きてしまったからお布団で携帯で作業しようかなと思ってiphoneをもってお布団に戻ったら眠ってしまった。そんなものそんなもの。
今朝も調布市「feuquiage」のフィナンシェピスターシュ。ピスタチオのお菓子はもう本当にどこでも定番ですね。外国だともともとそうだったりするのかしら。昔々にもらったアフタヌーンティーのかわいいフォークでパクリ。あー、これもとっても美味しい。しっとり。かなり甘いと思うのだけどこれぞ「うまみ」では、とまた「うまみ」をよくわからないまま使う。味とは模索するもの。模索を楽しませるものが「うまみ」では。というかそもそも感覚器官を意識的に使わせるものには魅力があるのかもしれない。
私が日々営んでいる精神分析だってお互いにものすごく辛い局面はあれどやっぱり自分の面白味、人間であることの醍醐味を知るから受けた人はそれを価値あると思うわけだし。私は訓練でもあったから患者として受ける以上に膨大な時間とお金をかけたけど自分にとって本当に良い選択をしたと思う。感情をフルレンジで使うのが精神分析だと言われていたけどこれは無意識の作業を相当しないと難しいとよくわかったし、それができるようになって私の場合は楽しいこと、面白いことがそれまで以上に増えた。SNSとかで時折外側から呟かれるようにいろんなことが日本の精神分析協会にもあるけどどの組織にも少なからず何かはある。内側にいる人はその部分だけに関わっていないというよりその部分に巻き込まれながらそれをどうにかしていく人間なので批判ではなくコミットしつづけることが必要で大変。もちろん素知らぬふりをしながらとりあえず所属先として組織を使用することもできるけど私は自分の居場所を人にお任せするのはちょっと嫌。自分のオフィスを他人にあつらえてもらうのは嫌、自分の家庭を他人に評価されるのも嫌(これはしょっちゅう起こりうることだけど)。治療関係もなんでもそうだけど外側から何かいうのは簡単だよ、と思うこともある。でもそんなことを言っている暇はなくなってしまった。余裕がないから協力して、とは思う。もしも批判が「良く」する方向をむいているならそのための言論空間を守り育てる方向にシフトしていかないとではないだろうか。他人のこと、他人のせいではなく、環境因はもちろんあるものとしてそこで生きている自分のことを考える、というのは精神分析作業の前提。だからこそ精神分析はその歴史において自分が自分にいかに激しく巧みに抵抗するかを明らかにできた。防衛ってすごいし、病的な防衛と言われるものもあり、わたしたちはみんなそれを少なからず使いながら生きている。結構大きな問題を自分だけ見て見ぬふりしていられることだってできてしまう。精神分析はそういう自分でありたくない人が価値を見出すものだと思うし、大抵の人はそんな日々やっていることを変えようとは思わないわけで、本当にどうにもならなくなって受ける場合が多い、というかそうじゃないとそんなに時間とお金かける気にならないだろうからメジャーにはなりえない治療。メジャーになったらそれはそれで豊かな時代が来たな、という感じがするし好循環かも、と内側の人間としては思いたいけど。私の場合は昔から精神分析家になるというより精神分析を受けることを決めていたのでよっぽどどうしようもない自分を感じていたのだろう。フロイトを読む以外に精神分析のことなんて何も知らなかったのに不思議な縁だと思う。色々ある組織であってもどの訓練分析家の先生たちにもとてもお世話になった。人間は本当に自分にも他人にもわからない部分でできているのでそのわからない部分にまずは治療者が持ち堪える訓練が必要でこれがないと無意識は揺るがない。表面的な変化は生じてもその変化を起こしたのが精神分析かどうかはわからない。自分でも相当びっくりな自分を体験するのが分析なんだと今は思う。途中から自分で自分のこと手放して委ねて苦しんででも興味を持ち続け、それができるように関心を向け続けてくれる相手を知る。人は人に支えられている。そこへの信頼が自由をくれる。今世界のいろんなところで起きている戦争ではそれが損なわれている。精神分析ではケアはキュアの前提であって自分と他人をケアすることは分けられない。常に相互作用。本当にいろんな大変さがあるけどその面白味、醍醐味を知ることができて本当に良かった。嬉しいし。
東京の今日は雨。大きな傘を持っていこう。台風の時に傘の骨が曲がっちゃって今もそのままなんだけど元々が大きいから不便ではなくまだ直していない。傘屋さんで買ってもらったいい傘だからそこに持っていけばいいだけなんだけど。梅雨に入る前に直していただきにまいりましょう。みんな元気かな。そこそこでも何かいいことありますように。
鳥より私が音を出す方が早かったな、と西の窓から聞こえてきた鳥の声を聞いて思う。昨日はバタバタよく動いた。なぜならAppleから「製品をお渡しする準備ができました」というメールが届いたから。長い件名だがわかりやすくて良い。隙間時間に新宿に急いだ。途中で汗ばんできた。アップルストアは担当がつけば早口ながら丁寧ではある。でも店を入るときの対応がイマイチな人が何人かいる、というのは私の主観にすぎないが「今絶対気づいてたのに無視したよね」という対応に「えー」となったこと数回。急いでいる身としては、しかもどっちかというとアップル側の都合に振り回されて数回来店することになった今回としては腹が立った。しかも服の色とかチェックされる。他のスタッフに引き継ぐときにわかりやすいようにということだが「私、暑いからこの黒い上着すぐ脱いじゃうよ、その下いきなりオレンジだよ、それいらなくない?」と思ってしまった。急いでいたんだ。今回の担当者にも私のMacBookAirはvintageだからと強調された。「ここにアップルマークが出るのはもうないんですよ」など色々言われた。新しいのを知らないからイメージが湧かず曖昧に笑いながら「早く私のマックをお返しください」とだけ思っていた。余裕のあるときに取りに行くべきだったかもしれないがMacがないと困るんだ。最初はvintageの響きが少し嬉しかったが今回あれやこれやで何回か毎回違う担当者と話すうちに「要するに買い替えろということですよね」と思うようになってしまった。私容易い。実際「お買い替えのご検討も」と言われたし。でも、がんばろうね、私のマック。バッテリー交換は無事にできたし内部に異常はないと言われたのだから。いろんな旅にも一緒に行ったではないか。まだまだ一緒にいろんなとこ行こう。いや、買ってまもない頃に高野山に連れて行ってフリーズしたのを思い出せ。だって、でも、とマックをめぐる私内対話が続く。大事にしよう。こんな雑に使ったのにもっていてくれているのだから。シドニーには一緒に行こう。ただでさえ慣れない場の発表で手間取りたくない。だからお願い。無事でいてね。
昨日本屋へ寄った。今年、本屋大賞に選ばれた宮島未奈の『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)をまた少し読んだ。立ち読みで読み終えるようなことはしないけど大津の西武にさよならするところまで読んだ。文体も素材も新しいなと最初は思った。でも読んでいくとなんだか懐かしいというか成瀬って変わり者だけどある意味普遍的な人間像だよなあと思ったりして愛すべき友情が微笑ましかった。ちょっと『スキップとローファー』の雰囲気を思い出した。舞台は滋賀。滋賀はとても魅力的な県だと思っているが一部しか知らない。一応、琵琶湖の東西南北全部の大きめの市に滞在したことがあるとはいえ滋賀は琵琶湖ばかりだなんて言っていられないくらい知らない土地がたくさん。でもこの本で「膳所」を「ぜぜ」と読めるようになったぜ。
ブルーノートから無料で届く新聞サイズのマガジンの表紙はマリーザ・モンチ。雰囲気ある。昨晩は一晩中マリーザのちょうど良い深みと気だるさがある歌声を聞いていた。ブラジル音楽は身体全体に心地よく響く。寝不足の身体にも優しいけどあまり今日の朝っぽくないからどうしましょう。石若駿くんに娘さんが生まれたそうだから駿くんの曲にしよう。まずは桑原あいとのアルバムからDear Family. おめでとうございます。私は駿くんのドラムと楽曲に出会えて音楽が楽しくなった。ライブでの振る舞いもとても印象的だった。ライブに行ったときに周りの私の同世代の人たちが「駿ちゃん」「駿くん」ばかりいうから私もそうなってしまった。みなさん、駿くんが子供の頃から知っているみたいだった。そんなファンの皆さんには孫ができたみたいな気分なのかしら。まるごと愛すべき存在がいるっていいことだ、きっと。本当におめでとうございます。これからの活躍も楽しみ。
さてさて見ないようにしてきたもろもろのことを見ないと。その前に今日も調布市のお菓子とケーキのお店「フキアージュ」さんのお菓子をいただきましょう。ここのお菓子とっても美味しい。今度自分でも行ってみたいな。調布は楽しいですよ。バスで神代植物公園に出るのもいいし。
今日は曇り空のままかなあ。雨が降るのかなあ。ゴミ出しに行ったときは降っていなかったけれど。調整の難しい気温ですがどうぞお大事にお過ごしくださいね。
おはようございます。疲れのあまりそばのソファに無理矢理身体をねじこんで寝てしまった。身体が痛い。広いお屋敷やお城に暮らしているわけでもないのになぜベッドに辿り着こうとがんばれないのか。アメリカは7時間の睡眠を推奨しているのか。そのためのツアーまで組まれている。なんだそれは。睡眠って大事だけど個人差あるし中途覚醒とかもことさら問題にする必要ないし。どんなツアーなのだろう。皆が同じ夢を見て夢で交流するツアーとか入眠までの早さを競うツアーとか色々できそう。同じ夢をみるはできないか。入眠競争なら私は自信がある。睡眠クリニックで検査を受けたときにそこが「異常に」速いという数値だった。「一般的な」日本社会で暮らすには不便なのかもしれない。
今日は調布市のフキアージュさんの桜マドレーヌ。色も形も美しい。桜はすでに葉桜だけどまだほんのりピンクを纏ってるような木も多い。昨日はそんな桜も八重桜も藤もモッコウバラも菜の花みたくさんみた。普通に生活しているだけなのにこんなたくさんの花々に囲まれてるなんて素敵なこと。桜マドレーヌも上品なピンク。甘さも上品。コーヒーと一緒にいただきました。ほかの焼き菓子ももらったので楽しみが続く。
いとうせいこうの『東北モノローグ』は買わないと。『想像ラジオ』はそれはもう必読としか言えない本だった。いとうせいこうみたいに言葉を多様に聞き書き言葉に反映できる人が「聞き書き」したこの本もきっとそういう本なのだろうと想像する。先日、東北の友人が満開の桜の写真を送ってくれた。とてもきれいだった。みんなの当時が今どのように体験されているのかわからないけれど今日もどこかしらで土地の傷痕がうずくのだろう。せめて想いをはせる。
東京は曇り空。どうぞ良い一日をお過ごしください。
起きるなりパタパタ動いて花の名前をいちいち言った。目立つ花の名前だけ覚えている。細い枝の先にピンクの羽根のような花びらをつける葉っぱの少ない木もツツジかな。山に咲く花みたいな佇まい。ハナミズキも満開。小学校のとき、学校の木としてアメリカハナミズキがあったのだけど校長先生の挨拶とかでその名前がでるだけで一部の男子はクスクス。アメリカよりハナミズを拾ってしまうのが小学生の耳とういうもの。アメリカ➕ハナミズ➕木で分解されるのだろうね。花水木って素敵な漢字がインプットされるまでは。近所の遊歩道は沈丁花が満開のときは沈丁花しか植っていないのではないかと思うくらいなのにこの時期になるとツツジしか植っていないのではないかと思う。赤にピンクに白に重なり合っているところは特にきれい。コデマリもポコポコポコポコかわいく咲いてる。今日は曇り空だから花の色がなおさら鮮やかに感じるでしょう。楽しみ。
今一番困っているのはパソコンがないこと。オフィスのはあるけどMacBook Airがない。バッテリー交換が必要って表示をみてしまったがために心配になり診断してもらったら危険信号みたいな赤い表示みせられてしかも預けると一週間くらいかかるというから今は本当に困るからまた今度と思ったのだけどApple Storeの人の早口の説明にうなづいているうちに預けることになってしまった。首を横に振るには縦に振るよりエネルギーがいる。あの赤いマークのインパクトにもひそかにやられていたに違いない。なのにPCが古すぎて(2015年モデル。「ヴィンテージですね」といわれた)品物があるかわからないから二週間くらいかかるかも、しかもほかにもいくつか不具合が見つかりそれに対してはものがない場合修理できないというからひとまず取りに行って持ち帰った。そしたら翌日修理の準備整った方持ってきてとメールが。なんだすぐにできるんじゃん、と再びMacを持ち込み。行き来に疲れた。それでも一週間はかかるのか。つらい。パソコンがあってもなにが進んでいるわけではないがいつも一緒にいた子がそばにいないのはつらい、ということかもしれない。高野山でフリーズしたりいろんな旅を経験したものね、Macさん。一緒にシドニーに行きたいから元気になって帰ってきてね。オフィスのパソコンも2017年からだから古古だよなあ。突然電源が落ちるのは初期からだから老化のせいではなさそう。
なんだか急に眠気が。つらい。携帯でこうしてるのが疲れるのかもね。皆さんの空はどんな感じでしょうか。どうぞ良い一日をお過ごしください。
リプトン、情報、4月感
南の窓から鳥の声が聞こえた。西の窓からは聞こえない。どこへいったのだろう。
今朝はアーモンドののったしっとり焼き菓子。どこのだったか。いただきました。見た目よりずっとさっぱりしていて美味しい。お徳用のリプトンと一緒に。リプトンといえば茶葉そのままよりティーバッグという印象がある。今は本当にいろんな種類のが出ていて、と少しネットで調べてみたら知らない紅茶もたくさんあった。何気なく調べるとすごく驚くわけではないが少し興味を引かれてしまう記事に多く出会ってしまう。そして読んでしまう。そしてこんな時間になる。今日はまだ時間があるからひとつ例に挙げてみるとなんとリプトンというか森永乳業というかリプトンって
「缶・ペットボトル飲料はサントリー食品インターナショナルが製造、(中略)紙パック・チルド飲料は森永乳業が製造・販売している。」
そうだ。wikipediaに書いてあった。
しかもミルクティーは「(2022年3月ロイヤルミルクティーにリニューアルしたが、2023年3月復活)」とのこと。ミルクティー「旧発売」に向けてお客さんからの問い合わせの言葉を使った短編アニメ「667通のラブレター」というのも作られたという。渋谷駅でプロモーションしていたらしいけど私は出会っていたのだろうか。渋谷駅も新宿駅もいろんなアニメの絵が大きく張り出されていたり映像が流れていたりするがそれらを横目に通り過ぎるだけでそれらの前で写真を撮ったりしている人たちほど意識的に目を向けていない。新宿駅西口と東口をつなぐ地下通路は新しい方は映像、古い方はポスターと分かれて提示されているイメージだがそんなことはないのだろうか。両方ともただの壁に見えるけど仕様が異なるのだろう。すごいことだ。
先日、同世代の友人とラジオの良さについて話していた。無駄と思われる情報と触れることって大事というような話を子育ての話の中でしていてCMの効果についてもお喋りした。テレビつけっぱなし、ラジオ流しっぱなし、というのは選択したものをYouTubeで見るのとは異なる構えをこちらにとらせる。情報に対してニュートラルな身体でいることは難しいけど情報の質や量に少し意識的になるだけで関わり方は変わるかもしれない。4月になって街の景色が変わったなと感じるのも毎年同じような生活をこちらがしているからだろう。カチッとしたスーツ姿で外の段差をベンチにしておにぎりを食べている二人を見かけたが多分これは4月の新入社員の光景。しばらくしたらすぐそばのベンチにも気づくだろう。微妙な距離感なのになんだか楽しそうで素敵な光景だった。みんなの毎日はどんな感じだろう。4月感、ありますか。私は毎日「トリー」「はなー」と密かに盛り上がっている。鳥と花の名前もそろそろ詳しくなっても良さそうなものだが全く記憶できない。それがなんでも愛でるものが豊かにあるのは良きこととして今日もがんばろう。良い1日でありますように。
お土産のスノーボールをつまんでそっと半分噛んだ。サクサク。もう半分もすぐに口に入れた。サクサク。フランス語だとブールドネージュというお菓子。とっても好きなお菓子のひとつ。精神分析家になるための訓練に入ったのが、つまり精神分析家候補生になったのが2016年。お金を節約しなければというのもあったけれど時間が取れなくなってフランス語の教室に通うのをやめた。先生とはSNSで繋がっている。ちょうど通っていた頃にお子さんが産まれて赤ちゃん用靴下をプレゼントした。喜んでもらえた。私はかわいい箱にちっちゃく重ねられたシューズ柄の靴下を出産祝いの定番にしている。友人は健診にその靴下でいったら人気者になったと笑っていた。「出産祝いに靴下をあげた」とフランス語でいう場合、J’ai offert à mon professeur de français une paire de chaussettes comme cadeau de naissance.ってきちんとjeを主語にしたほうがいいのだろうか。Les chaussettes étaient offertes lors de la naissance d’un bébé.みたいに受動態でいうのは不自然か。フランス語の発音が好きなのでまたやりたいがまずはお菓子で学ぶフランス語ということでいろんなお菓子を食べましょう。いつもなにかと理由をつけてお菓子ばかり食べていたらすっかり腰回りが太くなってお気に入りの巻きスカートが入らなくなってしまった。20年前に友達にもらったもので昔から巻きスカートが大好きでとても気に入っていたのに。小学生の時、巻きスカートで鉄棒をぐるぐる回っていたら滑って落ちたことがあった。スカートまわりといってスカートを少し鉄棒に巻き付けてそこを支えにするとぐるぐるぐるぐるぐる回れて私はこれが好きだったのだが巻きスカートは巻くときに左右でずれが生じるから失敗したのだろう、と今となれば思う。それにしても当時の私の多動ぶりはすごかった。暇さえあれば身体を使って遊ぶという術がなかったら教室の椅子に座っていることも難しかったかもしれない。小学校2年生の時、担任の先生が毎日『窓ぎわのトットちゃん』を読み聞かせてくれた。毎日帰りの会かなにかで数ページずつ。私はその時間が大好きだった。みんなトットちゃんと自分を重ねる部分が多かれ少なかれあっただろう。私の初恋の人でもあるその先生は私たち子供のことをよくわかっていらした。大変荒れた学年で卒業まで問題続きだったがまだ20代だった先生はいつも元気で大らかだった。友達と先生の家に遊びにいったこともある。そういう時代だった。先生が38歳になるくらいまで年賀状のやりとりをしていたと思う。なぜ38と思っているのかは忘れてしまった。先生が結婚したときは少し複雑な気持ちになった。そういう複雑な気持ちを教えてくれる先生だった。自分を持て余す子どもたちに葛藤することの大切さを自然に教えてくれた。現代は葛藤も高級品になったがそばに共に持ち堪えてくれる大人のこころを感じることができれば誰にでも抱えていられるはずのいくつものこころが今日もどこかで大切にされていますように。私もそうできますように。全く余裕がない毎日だけど今ここで先生のことを思い出したら穏やかな気持ちになった。お元気でありますように。皆さんもどうぞ良い一日をお過ごしください。
寝坊、でもないが、いつもより遅くなった。が、のんびり和菓子。うまい。あまい。
iphoneがそろそろ寿命らしい。Appleサポートとチャットして見積もりを出してもらった。修理するなら買い替えたほうが良さそうだけど高い。チャットの相手はAIなのだろうかと最初は思ったが言葉の使い方や処理の時間からすると違うか。Macもバッテリー修理が必要で予約をした。 Macもかなり古い。冬の高野山に持っていったときはフリーズしてしまいお正月から銀座のアップルストアに長居することになった。高野山へは修行に行ったわけではない。長期休みの恒例日本全国めぐりの旅だった。原稿が書けておらずPCを持ち込んだが原稿が進まないどころかPCは単なる荷物となり、お正月に慣れない都会で無為な時間を過ごすことになった。一番早く予約を取れたのが銀座だった。一番大きな通りにあった。今もそこにあるのかどうか知らないがアップルストアはどこもわりとメインの通りに面している気がする。渋谷の公園通りのアップルストアの隣はバレエ用品などをうっていたチャコットという店だったがもう跡形もない。ビルがなくなっていく様子を私はずっと追っていた、というか単にその前をしょっちゅう通っていたので見ていた。高校時代の友人が大人になってからバレエを始め一緒にグッズ探しに付き合ったときにはじめて入った。身体が恐ろしく硬い私にも絶対できるようになるよと勧めてくれて少し心動いたが今となるとあの時はじめても絶対できるようにならなかった気がする。友よ、あの素敵なチャコットはなくなってしまったよ。友は東京を離れてもバレエを続けていた。私のMacのフリーズは原因不明だった。店内では無理ということで工場に修理にだして直ったとなってもまたフリーズしたりした。二度目は渋谷のアップルストアに行った気がする。トラックパッドから汚れが入ったとかでお掃除してくれたりOS変えたり色々してくれたが原因不明で寒すぎたりするとそういうことが起きるかもしれないということになった。高野山は雪だった。それだけで修行だったが、素敵な宿坊の朝は早く、お坊さんたちと同じお経を唱える会に出たら足元が恐ろしく冷えて私がフリーズした。Macは結局Chromeをアンインストールしたら落ち着いたのでそういうことだったのだろうと思っている。私は私の部分をアンストールしても原稿を書けるようにはならないのでこんなんなままなんとか書いて出したのだろう、その後きちんと形になったから。あの年のお正月の銀座は中国の人がすごく多かった。今はどこもかしこもとにかく外国の人が多い。日本はどんな感じですか。都会もいいですが高野山とかも良きですよ。それにしてもシドニーでMacもiphoneも使えなくなったらどうしよう。また修理に時間もかかるしお金もかかる。困った、がいく前に治すべきだよなあ。ああ。まあ今日もなんとか過ごしましょう。よいことありますように。
眠い。昨日もお菓子をいっぱい食べた気がする。満足できるお菓子とそうじゃないお菓子があってそれが甘さのせいなのか量のせいなのか味のせいなのか食べるタイミングのせいなのか気分のせいなのか他にも色々複合的な要因のせいなのか自分で全然わからなくてなんかいつも「美味しい!」となっても物足りなさが残ったりする。朝にいただくお菓子は少量でも美味しくて満足と思えるものが多いから時間帯とおなかの空き具合によるのかも。今朝は秩父のお土産「秩父よいとこ」。これは何度かいただいたことがある。白餡と芋餡かな。いい香り。甘ーい。お茶とあいます。今日はほうじ茶。温まる。ここ数日はエアコンいらずで服装の調整だけで過ごせる快適な気温。嬉しい。なんか雨が窓に当たる音がするんよ。いやね。出るまでにやんでほしいけど出るときにこそ降ってそう。そういうものですね。
石原真衣、赤坂憲雄と読んで今度は山内明美。南三陸生まれの研究者。『こども東北学』(よりみちパン!セ)を読んだことがある方も多いかもしれない。私が今回読んだのはこれもSNSで見かけた山内明美『痛みの〈東北〉論――記憶が歴史に変わるとき』(青土社)。今年三月に出たばかりなのね。震災後まもなくいろんな本が出始めて私は本屋でそれらを違和感を持って眺めていた。丸善お茶の水店でそういうコーナーがあったのだったか、少し中身を見ては棚に戻してその表紙をぼんやり眺めて立ち尽くした。なんとも複雑な気持ちになった。いつも私が買うような現代思想の雑誌や本には有名な知識人ばかりが寄稿していた。ほぼ男性。2011年5月、6月に出たそれらはどのくらい被災地の人に届いたのだろう。もちろん被害が少なくともあの日は東京だって異常事態だった。私はお茶の水にいた。自分の体験は何度も語っている。その日に限ってスニーカーを履いておらず、その日に限って上着も十分ではなく、歩いているうちに温まるかと思いきや道は人でいっぱいでノロノロしか歩けなかった。山内明美の新著にも繰り返し書かれる彼女の体験がある。彼女は当日東京で地震にあっているが南三陸の被害状況が流れる中、親と連絡が取れずにいた。どれだけ不安だったことか。あの日、私と同じ部屋で地震を体験した人は親族を失ったとあとから聞いた。皆その人のご実家が東北であることを知っていた。どうかご無事で、と言葉にするのも憚られる映像がテレビに流れ続け、みんなで立ち尽くすようにそれを見ていた。隙間時間にこの本を開き「あれ?ここさっき読んだっけ」と何度か思った。いや、読んでいない。何度も同じことが書かれているんだ、としばらく経ってから気づく。時間が経つにつれて心寄せる先が広がり響きあっていく。福島、奥尻、水俣、石牟礼道子、宮沢賢治、地元の産業、子どもの頃の<三陸世界>、外国人花嫁、アイヌ、森崎和江、確かにこの本は「記憶が歴史に変わるとき」が書かれていた。当事者の体験としてそのプロセスがある部分ではバラバラとした状態を残しながら、別の部分ではすでに整備された道の歴史を辿るように書かれていた。出来事が生々しく目の前を覆い、心を塞ぎ思考停止しそうな状態から何かを立ち上げようとするとき人はそれまでの様々な痛みと共鳴しそれらと繋がろうとするのかもしれない。そんなことを感じさせる本だった。時間がなくなってしまった。鳥たちが高いところで鳴いている。雨が上がりつつあるかもしれない。どうぞよい一日を。
ちょっと筋肉痛。クロネコやAmazonのおかげで旅支度が少し進んだ。なによりも友達のおかげだが。感謝感謝。しかし本来一番やらねばならなかった準備…ぐちぐち(まとめちゃおう)。ぐちぐちいうのもそこそこめんどくさいわね。
早朝に洗濯機をかけた。洗わねばならないものを入れ忘れた。別に今日洗わなくてもというものはいれた。なんなん自分。
昨日の昼間は半袖で動けた。新宿中央公園の桜が葉桜になりお隣の八重桜の濃いピンクがフットサルコートと空に映えた。新緑が眩しくて赤い三角コーンにハート柄のなにかがまかれていた。お花の時期は赤いコーンも悪くないけどおいてもおかなくても良さそうな場所のコーンはこのくらい目立たない方がいいかもね。ちっこい球根はすごい数のチューリップを咲かせいろんなツツジも満開に近かった。亀たちも誰が上に乗ろうと気にしない様子で重なり合ってのんびり。新宿でさくっと用事を済ませてまたオフィスに戻った。亀って重さとか乗っかられて煩わしいとかないのね。私は10キロくらいのデッドリフトは余裕だけど(多分)足ちょっと踏まれるとかでも嫌だな。どうなってるのかな、亀さんたち。たまにまじまじと見てみるのだけどただただのんびりしておられてかわいい。
公開されてたジャズのプレイリストを適当に選んで歩いた。耳に止まった音楽は曲名もプレイヤーもわからないままお気に入り登録した。夜になってまた耳に止まった。今度は画面を見てみた。同じ人の曲を昼間登録していたとわかった。緑のチェックがはいっていた。私はこの人が好きなのかもと思ってチェックしたらネイト・スミスという有名なドラマーの曲だった。知らなかった。これはジャズというよりなんていうの?ジャンルはわからないけど違うノリで聞いていた。かっこよくてアルバムもいくつかチェックして少し前のアルバムをお気に入りに登録した。電車でリズムを刻んだが変な動きだったかもしれない。
モッコウバラでいっぱいの壁を左手に眺めながら歩いていたら右手の狭い芝生に3種類くらいの鳥がいた。鳩とスズメとあの子は誰やろ。よく見かけるベーシックな鳥なのに忘れてしまった。ガーン。校庭で遊ぶ子どもたちみたいだった。色々いる。そういえばこの前ツバメをみた!木曽路でみたたくさんのツバメを思い出して一句作ったばかりだった。素敵だよねえ、ツバメ。昨日の朝、北海道の友人が送ってくれた春景色に映っていたマガモも陽射しですごくきれい色になってた。東京はそろそろ夏の日差しだね。春短かった気がする、と書いてみたけどそんなことないか。日々の寄り道で十分満喫した。今日も少し寄り道とか遠回りとかしちゃおう。どうぞお元気で。
とりあえずひとまず。
今朝は「秩父 芝桜ろーる」。甘い!秩父には羊山公園という芝桜いっぱいの公園がある。もう何年も行っていない。これもお土産。本当の羊もいたような、いないような。それにしても甘い。旨いが甘い。煎茶が進む。飲み干してしまいそう。
バタバタ家事をしていたらあっという間にこんな時間。今日の予定を頭の中で反芻。定期的でない仕事が一番心配。間違えないようにしないと。間違えないようにしないと、ということがいくつかあるとかえって忘れてしまうから優先順位で考える。めんどくさいな、自分。
難しいことを色々と考えているとどんどん頭が悪くなる気分。多分、頭が悪くて考えられない部分に気づくからだね。困った困った。老眼も進むばかりだし新しい本を読む意欲もないし。ぐちぐち(いっぱいあるからまとめてしまおう)。
1901年4月13日はジャック・ラカンの誕生日でした。フロイトが『夢解釈』(岩波だと夢解釈。人文だと夢判断。)を出版したのが1900年(実際には1899年)。ラカン赤ちゃんは自分が精神分析家になるなんて考えたこともなかったでしょう。フランス精神分析の元祖となるなんて。フランスの学派はたくさんあってどこが国際精神分析協会(IPA)に所属しているのかとかも覚えられない。それでも付かず離れず勉強しているとラカン以外のフランス精神分析家や学派にも色々触れるから現代思想で引用されるラカンとは全く異なる観点からそれらと触れ合うことになる。臨床的な成り立ちからからみると患者の姿がそこにはいつも見えるので病理と離れたところから引用することは難しくなる。別の観点からいえば、私は臨床をしていなかったらラカンを読むこともなかっただろうから出会い方も色々。今日もNHK Eテレ「100分de名著」があるかな(deじゃなくてよかったのに。打ちにくい)。立木さん解説のフロイト『夢判断』。伊集院さんの反応が本当に豊かで驚かされる。知らない世界にも好奇心いっぱいに入っていってそこでの自分の感覚を結構ギリギリまで言語化しようとしているのだと思うのだけどそれがすごいと思う。ついぽろっといってしまった、みたいなことをしない慎重さも備えてるし。すごい。前に近所の店に伊集院さんがお買い物にきていたことがあって大きな人だなあと思った。だから何というわけではないがそばで見たことがあると親しみがわきますね。伊集院赤ちゃんも自分がこんな売れっ子になるとは思っていなかったでしょう。願えば叶うというものもあれば願わずともそうなっていたという場合もあるしなんかよくわからないけど今があるという場合もあるしこんなはずではなかったというのもあるしいろんな場合がいろんな時々であるから人生わからないものです。なので、というわけでもないけど私は大変なことが控えていてもとりあえず「行って帰ってくる」を目標にしている。何かあってもとりあえず無事に行って帰ってくることができればなんとかなることもあるでしょう。次なる試練もあるでしょうけど。色々ある毎日ですがひとまず今日が良い1日でありますように。やだ、なんで「ウニ」って変換されるんだ。句会の兼題が「海胆」だったからか?まあとりあえずひとまず。どうぞ良い一日を。
準備、中耳炎の思い出
なんと表現したらいいかわからない鳴き方の鳥の声をベッドの中から聞いていた。何かが斜めにザッと切り落とされるような音が断続的に聞こえていた。なぜ音だけで「斜めに」と思ったのか自分でわからない。夜更かしをしたが読書会のあとに友達に色々教えてもらって久々の海外へ向けた準備が進んだ。余裕がなさすぎて基本的な準備に全く頭が回っていなかった。パスポートだけは先月取り直したけど。Amazonを見ていると余計なものを買い込みそうになる。危ない。電源変換プラグもそこそこいいのを買ってしまった。こういう小物はとっても楽しい。あと「のどぬ~るぬれマスク」を勧められた。たしかに。飛行機に乗ると喉が張り付いたみたいになってしまう。私は長時間乗る時はいつも濡れタオルをもらって口を押さえたりしていたのを思い出した。すぐに喉がやられてしまうだけでなく鼻が悪くて耳抜きができず中耳炎にもなりやすいから。一度かなり重たい中耳炎になってしまった。あの痛みも思い出した。最初の職場にいた頃、北海道に行く飛行機で中耳炎になり痛いし聞こえないし大変辛かった。薬で痛みが治まった後も聞こえにくい日々が続いた。世界の音が全て遠かった。しかしすぐにこれも悪くないな、と思うようになった。当時の職場には怒鳴り散らしたり不快感をコントロールできない話し方をする人たちがいた。毎日苦痛だったそれらが膜の向こう側に聞こえた。なんて平和な!とニコニコ穏やかな気持ちでいられた。ニコニコしてると怒鳴られそうだから心の中で舌を出しつつニコニコしていた。当時の私はそういう人が話す内容を信用していなかったけど聞こえ方が変わると内容を吟味する気も起きるのかその人たちのパターンもよくわかったし、話し方抜きで言葉を聞く仕方も学んだ。不快だとその人について知ることもしたくないがそのときは余裕があった。逆に、入職したばかりの頃は不快さに囚われてしまって知りたくもないのに「なんで」と知ろうとしてしまって辛かった。そんな状況ではこちらの知る機能も働かなくなっているからいくら努力しても無理であることに気づかなかった。その後もずっと良き友人でいてくれる先輩たちが現実検討を助けてくれた。彼らはすでにそれらの不快な声を聞き流しつつ「こういうことが言いたいんですよね」と爽やかに捉えることに慣れていた。いつも優しくて面白かった。とはいえ、中耳炎にはもうなりたくないので警戒する。予防する。「のどぬ~るぬれマスク」を買いにいこう、忘れずに。
読書会ではJoyce McDougallのThe Many Faces of Eros A Psychoanalytic Exploration of Human Sexuality(Norton Professional Books)をようやく読み終わった。3ヶ月に1回くらいのペースで読んでいたので時間がかかったが読んでよかった。多くの学びがあったので忘れないうちにどこかにメモしておこうと思う。
今日から初回面接グループが始まる。みんながんばろう。毛布とか洗って外に干していきたいけどにわか雨とかあるかしら。春の天気は侮れません。あ!春の天気とか書いたから明日投句締切であることを思い出した。やばい。いつも通り一句もできていない。言葉探しもがんばろう。素敵な言葉落ちていますように。あるいは降ってきますように。
政治、映画、フィナンシェ
日本は高齢男性政治家たちの好き放題。彼らのあり方はいろんな男性(に限らないが)たちのいろんなことの免罪符にもなっているのだろう。「だって○○だってやっている」「しかたないだろ、こんな国なんだから」など子供のまま呟きつつ。みんなが少しずつ政治家に悪い部分を集めて政治家批判しつつ自分も同じなのに自分は違うと言い張るみたいなことも起きているのだろう。もしくはただの悪を悪から生じた善みたいに言って誤魔化そうとしたり。なんの哲学もないくせに自分の悪行ごまかすためなら引用し放題みたいなこともある。SNSはそういう人に非常に協力的。
フーコー研究などその著作も面白い重田園江が「白水社の本棚」の連載で一番好きなタランティーノ映画の一つとして『ジャッキー・ブラウン』(1997)をあげていた。私も大好き。高校の時の友達と見にいった。めちゃめちゃかっこよかった。ひでーなとひどいシーンを笑いつつドキドキワクワク、かっこよすぎた。私も不当な権力に甘んじるマゾヒズムを発達させないところは真似していきたい(そういう話ではない)。
今朝は京都土産のフィナンシェを温めて食べることを忘れなかった。温めて食べた方が美味しいって書いてある紙を見る前に食べてしまっていた。まあ、どっちでも美味しかったよ。今日は予定通りこなせるだろうか。だろうか、の時点で怪しいがやらねば。
東京はいいお天気。皆さんもどうぞ良い一日を。
あまりに良きもの、倒錯
いろんな人のライブ情報が入ってくる。コーシャス・クレイもまた5月にくる。
村井理子さんの愛犬ハリーが琵琶湖を泳ぐ映像があまりに美しい。岸政彦、齋藤直子夫妻の愛犬ちくわもあまりにかわいらしい。あまりによき姿というのはこの世に溢れているのでずっとみていたいがどれもこれもそればかりでできているわけではないので今日も普通に愛でたり憎んだりしよう。憎むまでは時間がかかるからなるべく憎しみにしないように違和感や怒りに素直になろう。
フェミニズムに影響を受けたといいながら平然と女をとっかえひっかえ利用する人(こういう場合、大抵家族もいることを考えるとどの関係性も代替可能と思っているところがポイントか。面白いことに表面的な類似性もある)が自分の身体の痛みにばかり敏感で相手の身体の痛みに鈍感であることについて考えていた。これはDVや多くの身体的な暴力についてもいえるかもしれないと思った。もちろん身体の痛みは心の痛みとイコールで考えている。私が考えていたのはヘテロセクシュアルで性器的な志向が強い場合の倒錯についてというか、それそのものの倒錯性についてなのだけど、こういう場合の方が暴力を暴力と思わないのではないか。今の政治もそうかもしれない。自分への執着を部分的に他者に投影して、それがモノである場合は思い通りにできるけど人である場合は相手にも身体と心があるから空想通りにはいかない。で何をするかというと人扱いをやめる。モノ扱いする。そうすれば何してもいい相手になる。考える必要のない相手になる。そういう倒錯性を考えると倒錯はマジョリティを説明する概念の一つになるかもしれない。イコールナルシシズムとして。他者をいなくしてしまうわけだから。でも倒錯という場合、そこにマゾヒズムの現れがあるわけでそれが自分の痛みに対するあり方に出ているのではないか、と考えたわけ。こういうことはすでに誰かが言っているかもしれないが、実感があるとこれはかなり恐ろしいことだと感じる。良きものが持つ力もそういうあり方に対しては無力というか部分的に利用されてしまうだろう。フェミニズムの知を喰いものにする「知識人」だってすぐそこにいるだろう。悪循環を断つには愛の物語が必要なのはどの時代も同じだがそれがマジョリティのナルシシズムでは困るわけだ。といってもそれがマジョリティである以上、そっちが「愛」と言われたりするわけだけど。などなど考えていました。難しい。
ああ、ハリーもちくわも近くの空を飛ぶ鳥たちもみんなあまりに良きものたち。世界がとんでもなく悪いものとしてもとんでもなく良いものたちを思い出す機能だけは残しておきたい。
どうぞ良い一日をお過ごしください。
腕が痺れて目が覚めた。いや、目が覚めたら腕が痺れていた。今も動きが悪い。とかくこうなりやすい。
昨日からずっと頭の中を挟間美帆の”A Monk in Ascending and Descending” が流れている。昨年秋に出たアルバム”Beyond Orbits”からの先行シングル。さっきはかわいいvisualizerヴァージョンをリンク先にしてしまったけどアルバム全体はこっちでチェックできるかな。私はあまりYouTubeを使わないのだけどジャズミュージシャンや曲の検索には使い勝手がいい気がする。私が求めている関連情報が出ているのかもしれない。
昨日Kindleでなんとなく『俳句がよくわかる文法講座: 詠む・読むためのヒント』(井上泰至,堀切克洋著)を読んでいた。堀切さん自身が本の紹介をしているサイトがあった。堀切克洋さんは演劇研究者でもあって私はそっちのお仕事にも興味がある。マイリス・ベスリー『ベケット氏の最期の時間』(早川書房、2021年)の翻訳も手がけておられる。『俳句がよくわかる〜』の本に「文語体の今昔」という章が2章設けられていて、その後「歴史的かなづかいのヒミツ」という章に繋がっていくのだけどこの辺りとっても面白いのですよ、奈良時代からの日本語の変遷が俳句を素材に説明されていてあくまで口語的に考えている私たちの文語として文語を捉えるから読んでいくと昔の言葉と現代語ってそんなに変わらないじゃん、だってなんとなく読めちゃってるし、と思うと思う。そして引用されているたくさんの俳句がどれもいい。赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』で芭蕉が歩かなかった、みなかった(見ようとしなかった)東北について書かれている章にはプチ旅人の私としては反省しきりだったが、この本で俳人として出てくる芭蕉の俳句はやっぱり面白くて旅人というより言葉のアップデートを試みた先駆者という感じがする。俳句を読む人って本当にこういうことよく考えてるのですよ。一方で私みたいにあまり何も考えず締切直前に投句してばかりの(出せないこともある)人の心もこうやってなんとなく惹きつけておくのも俳句で、これはやっぱり文語が全然遠い世界の言葉ではないからだと思う。だって言葉ってどれもこういう話し言葉から生まれてきたのでしょう?という感じで俳句の言葉を特別なものにしない感じがこの本の素敵なところだと思う。
それにしてもそれにしてもなのだが今日も無事に過ごしましょう。東京はいいお天気です。まだ肌寒いけど。どんな気温にも対応できる重ね着でまいりましょう。どうぞよい一日を。
今朝は筍ごはん。春。毎年静岡の小動物みたいな筍をいただくのだけど今年は来ないな、と思っていたらアク抜きした筍と筍ごはんのお裾分けをいただいた。正直、こっちの方が嬉しいな。フサフサの小動物みたいな筍もかわいいのだけどたくさんむきむきして小さくなってもそれなりに大きいというか、要するに茹でるのが面倒なのよね。いつも米ぬかもつけてくれるからただ茹でればイイだけなんだけど、と書くとなんでそんなことがめんどくさいのかと思ったりもするけど時間もかかるし米ぬかも結構厄介なところがあるでしょう、と思うのは、やっぱり他の料理より手間だな、と感じてるってことだね。もしかしたらほかにも要因があるのかもしれない。でもせっかく旬のものをいただくのだからはりきれるようになりたいわね。
今日はきれいに晴れそう。空はまだ薄い水色だけど東からの日差しが早速強い。部屋が朝日いっぱい。何が何やらな毎日でかえってぼーっとしてるだけみたいな気分なんだけどどうしたものかしら。この前、またパーソナルトレーナーの先生のところへ行ってみてもらったのだけど自分で柔らかいと思っていた肩甲骨周りが全く感覚がなくてびっくりした。昔みたいにひどい肩こりがないのも単に感覚がなく固まってるからなのか?怖い。そういう人いるらしい。ヨガやってるし、とかいって安心していたけどコロナ前からやってないし。先生に触られればそこに骨や筋肉があるとわかるのだけど自分で動かすことができなくてびっくり。でもそういう体験自体はヨガでたくさんしてきたからいずれ動くだろうとは思える。ヨガやる前の身体がほんと固くてみんなが低い姿勢を取れるなか一人だけ何もしていない人みたいな高い位置にいたりして先生も笑っちゃったりしてちょっと恥ずかしかったけど若い頃と違って全然恥ずかしさよりどうにかせねばという危機感の方が上回っていていつも先生の真前で超真剣にがんばって数年、だいぶ柔らかくなって今は見た目だけはどのポーズもそこそこ上手。全くできないポーズもいくつかあるけど。でもこれらが得意な筋力でごまかした結果の見せかけであることも知っている。先生にはバレているのだよ。はあ。指でちょっと姿勢直されるだけでふらついたりするのだからあーあって自分に対して思う。下手に運動神経がいい方だから使えるところで誤魔化しちゃうんだよね。その結果、今があると。はあ。でもさすがプロは技が多い。色々教えてもらって動いているうちに感覚ではつかめないけど鏡を見ればこんな感じかと動けるようになった。これを「今ここが動いてる」って自分で掴めるようになるためにはまずはどこが動いていないかを意識しようということで器具を購入。テニスボール2個でも代用できるけど2個を正確な位置に置ける気がしない。不器用すぎて。こうやってカシカシうっているときも時々姿勢を意識せねば。あーあ。整形の先生が言っていたことは正しかったんだなあ。いつもそう。人がいうことは大抵正しい。お世話になります。がんばりましょ。今日も良い1日でありますように。
うむ。ラベリングというかその出来事をなんと呼ぶかで事実認識が変わってしまうことは多々ある。私の仕事でいえばなんでも「アスペ」というとか。対話でなら「どんなところをそういうふうに」と聞けば解きほぐされて別の言葉になっていくわけでプロパガンダのような言葉にたやすくのっからないようにせねば。SNSは批判によってその言葉を知らしめてさらに使い勝手をよくしてしまうところがあるから怖い。
雨ですなあ。嵐になると聞いていたのだけど嵐はこれからでしょうか。滑りのよい南側の大きな窓をそっと開けて確認。あ、サンダルを避難させねば。使っていない陶器の鉢にポン。いい陶器だけど何年も使っていないからこんな入れ物扱いされている。いやいや、サンダルは大切な日用品。しっかり守ってあげねば。このサンダルが遠くに行ってしまっていないということは嵐はまだきていないということ。交通機関、乱れないといいですね。
問題を解きほぐした言葉で記述しなおし、それを歴史に位置づけ、記録されていない声の方、そしてそこには沈黙も含まれることに注目し、それらをたやすく「トラウマ」と呼んだり過度にイキイキした記述にしないように気をつける。
そういうことをする中で石原真衣のアイヌ研究、赤坂憲雄の東北学はとても勉強になった。東日本大震災の前に書かれた『東北学/忘れられた東北』の意義はますます大きい。昨年岩波書店から出た文庫は5本の論考を加えての再版で著者曰く「定本」とのこと。増補5「旅と聞き書き、そして東北学」には当時、福島県立博物館の館長として震災の記憶を記録するために奔走した著者が職を解かれたという記述に驚いた。しかし著者は奥会津ミュージアムという幻想のミュージアムを立ち上げる。今それはウェブ版で見ることができるのだがこの集積場(アーカイブ)について、特に災害との関連でそれについて考える際に参考になる本にも出会った。高森順子『残らなかったものを想起する──「あの日」の災害アーカイブ論』(堀之内出版)。この本はそもそもアーカイブとは、という視点を持ちながらメディアごとの実践が具体的に披露されている。したがって執筆陣も多様だ。アイヌ研究者の石原真衣は「語り」によって当事者の声を残しているが、アーカイブのあり方にも慎重であり、アーカイブとはなにか、何を成し得るものか、あるいは何をしてしまうものなのか、という視点は当事者を中心に考えながら立ち上げていく必要があるのだろう。記録は消費でもあるため何かをしゃぶり尽くす人を自分がしゃぶり尽くそうとしているということも生じやすい。その意味でもどうやったって想起されないものたちへの静かな関心も維持されるべきなのだろう。いろんなことが大変で難しいがまずは春の嵐に対してどうしましょう、という感じの空模様になってきた。毎年のことのはずなのにいつも同じ戸惑いばかり。どうぞご無事でご安全に。
京都、挟間美帆、アイヌの本
京都のお土産ももうすぐおしまい、どれも個性があって美味しかったなあ。ありがとうございました。京都の景色は中学のときの修学旅行から始まっている。その前にも行ったことがあるのかもしれないがどの土地にも思い出の始まりみたいなものがあってそれは本当の時系列とは違うかもしれないし同じかもしれない。中学の修学旅行はグループで調べたところに好きに回ってよくて小さなみたらし団子屋さんに行ったりもした。今は普通に通り抜ける商店街である新京極はカツアゲに気をつけなければいけない場所としてインプットされているが「要するにカツアゲでしょ」と変換したのは私だと思う。京都は学会なども含めると友達も住んでいるし一番多く行っている土地だ。いくたびにかなりの距離を歩く。大学受験の時に泊まった宿はまだあっただろうか。母と泊まったとても古い町家は本当に素敵だった。そこはもうなくなったと聞いた。何度も見たい景色があるし一緒に行きたい場所もまだまだあるけど書き出せばとめどないであろう思い出がどんどん浮かんでくるから十分な気もする。どこにもかしこにも有名な物語が存在する京都。今朝は四条通の和菓子屋さんの栗きんとん。煎茶と一緒に。甘さを堪能してはお茶で打ち消す。また堪能する。また打ち消す。何をやっているのだ。これでは永遠に食べられてしまう。でも大丈夫。ここのお菓子は小さいから。リミットセッティングがされているのが優しい空間。
昨晩、ジャズ作曲家、挾間美帆の『情熱大陸』を見た。励まされるだろうなと思って珍しくテレビをつけっぱなしにして待っていた。励まされた。以前の柳樂光隆によるインタビューも大変面白かった。彼女の音や言葉や活動はとても魅力的。オーケストラを率いているのがとてもよき。私は音楽の才能が全くないけど音楽的な環境はとても豊かだった。父が趣味で地元のオーケストラでオーボエを吹いていたつながりなのか、いろんな有名な人たちの演奏会にもたくさん連れていってもらってよく泣いた。すぐ寝たりもしたが起きている間に聞こえてくれる音楽にはすぐ感動してすぐ泣いた。クラシックにも物語がたくさんある。いろんなことが同時に起きる。最近、海外でのカンファレンスで発表する原稿を書きながらあまり意識することなく馴染んできた世界が自分の思考を支えてくれていることに気づくようになった。明確な記憶ではなくて身体に染み込んだ印象が少し形になってきたのかもしれない。
先日、連れていってもらったカフェにDJブースがあっていろんなレコードが積まれていた。元楽器屋だったことと関係あるのだろうか。こだわりのコーヒーたちは高いが長居する人も多いのだろう。「ごちそうさま」のついでに店の人と立ち話をしていた人の肩を外から来た人が強めにたたいた。振り返ったその人は途端に嬉しそうな顔になってハグして今度はそばの椅子に二人で座っておしゃべりをはじめた。ここはそういう場になっているんだな、と思いながらめちゃくちゃ美味しいチーズのサンドイッチを頬張った。
北海道大学アイヌ・先住民研究センターの石原真衣さんの本がほしいがAmazonの置き配だとそこに置かれると雨が降った場合に困るんだよなあ、という心配があるので本屋で、でもなかった場合に困るから在庫があるか確認してなければ取り寄せてもらってとかいう手間が面倒ですでに持っているものやオンラインで見られる論文を読んだりしていた。
『アイヌからみた北海道一五〇年』という本はアイヌにルーツを持つ人たちの言葉を集めた本。石原真衣さんの書き言葉は言葉に重みがあることを思い出させてくれるのだがこの本は歴史を背負うということについて自然に考えさせてくれる本。とても大変だけど応えていきたい言葉がたくさん。多くの人に読まれたらいいなと思う。
どうぞ良い1日を。
起きるたびまだ早朝。やっとちょうどよく朝になった。ハーブティーをいれた。真夜中に何か食べると罪悪感を感じたりすると思うのだけど時間感覚って睡眠によって決まってる感じがする。書いてみるととても当たり前に思う。人間は夜は眠る仕様の動物だものね、例外があるとしても夜行性には分類されないものね。昼行性。中高生ではない。いや、昼行性の中高生もいる。自動変換は言葉あそびを誘惑してくるしトンデモナイ間違いもするから困るのだけど面白い。
昨日、SNSでフォローしている人が『〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー)― サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』石原 真衣 著(北海道大学出版会)を引用していて私が今度発表することと近いので読もうと思った。うーん。これはとても多くの文脈を必要とする話だからこういうところには書けない。SNSなんかではもっと書けない。書いてはいけないことってたくさんある。クローズドな場所でオープンに話すことから始めていかないとたやすく反復になる。
NHK俳句、堀田季何さんだ。いいねー。黒岩さんのコーナーもあるのか。面白いねー。俳句、本当に本当に細々と続けている。おー夏井さん。夏井さんをきっかけにすごくなっていく俳人は多い。本当にすごい仕事をしてる。お元気でいてほしい。
さあ、のんびりした。お菓子食べよう。作業しよう。
白湯を飲んでいる。鳥が鳴いている。手がまだみかんの匂いがする気がする。今日も少し雨が降るのかな。少し寒い。
そばにあった山川出版社の『詳説 政治・経済研究』をパラパラ。最初に司法制度のところを開いた。この辺は高橋ユキさんの記事のおかげでだいぶ自然に身についてきた。高橋さんの文章は余計なことが書かれていない分、書かれていない知識はこちらから自然に手が伸びるのだ。最近、そういう力がある書き方や喋り方をする人っているなあ、と思って高橋ユキさんや富永京子さんのことを思い浮かべる。さらにパラ。あ「バカヤロー解散」。衆議院議員総選挙一覧に解散日、解散時の首相、選挙結果の特徴、と一緒に「通称」が載っている。「なれあい解散」「抜き打ち解散」「天の声解散」「話し合い解散」「ムード解散」など色々面白い。政治状況は全然面白くないがなんじゃこのネーミングは。最近だと「近いうち解散」が面白い。はあ、なんかため息が出るね、政治のことは。私たちの生活なのに。私たちの生活、っていう場合、貧しい人を出さないということが誰にとっても一番大事と思うのだけど逆の方向にどんどん行っている。臨床心理士資格認定協会もまた変なことしてるし。私たち女3人で代表になって賛同してくれた全国のみなさんと認定協会に議事録の開示請求とかして叶わなかったのだけど、頼んでもないことに予算(=時間)使うならやっぱり議事録開示してほしい。どういう話し合いでこういうくだらないことが決まっていくのかもはや興味だな、これは。人のこころとかいっている私たちの代表たちが育児や障害のある生活に対するサポートよりも頼んでもいないカード作りの案に時間とお金(カード自体にはかからないとしても)を割くことをどういう話し合いで決めているのか見せていただきたい。最初、冗談かと思った。メールアドレスの公表もせず、私たちとのやりとりだって最初は封書。こういうことにいちいちお金使わせて事務の人に手間かけさせて返信には名前もなく時間をかけてようやく話ができても結局議事録の存在さえ明らかにされなかった。こういう嘘みたいなことをしれっとやるのやめてほしいから運動してるのだけどこんなんで何が社会貢献だよ、と思うよ、私は。書きものでは偉そうに政治語っている人たちがこういう地道な運動に協力してくれるとは限らない。自分の周りだけどうにかなればいい世界を目指す仕事じゃないと思うのだけど。まあ、どの世界でもよくあること、だとしてもまあ、言い続けていかないことにはなかったことにされるのもどの世界でもよくあることなので言い続けないとですね。身近な人を大切にしない人ほどなによりも妻とかなによりも家族とかいうのと同じ。相手のみならず言葉自体を馬鹿にしてるのだと思う。自分の問題に他人の言葉に強い刺激を受けながら取り組みつつ自分の言葉を問い直していく精神分析の世界でも精神分析はしないけど精神分析について自分の言葉で語りたい人たちはいっぱいいるわけでそれはそれでいいけど政治のことを現実感を持って話す関係が増えていくといいな。どのアプローチがどうこうとか権威がどうこうとかではなく。普通に自分が困っていることを共有するってことだけど。いちいちSNSとかで反応するのではなくて。文句を言い続けるならきちんと運動したほうが結果は出るし。私たちの運動も相当労力使ったわりに署名とかで協力してくれた人たちに「こんな結果ですが」と残念な感じで伝えざるをえなかったけど実名で丁寧に形にしていくことは人として大事。それに本題から逸れたところで時間割くのは避けたくないですか、みんな。無駄なことは信頼できる人たちと楽しんでやりたい、わたしは。こういうことは教科書に書けるような類のことではなくて生活の知恵というか家族や友達や社会から学びつつ作っていくスタイルみたいなものかもしれないけど独りよがりではなく考えていきましょ。
4月、ホワイトガトーショコラ
煎茶。お菓子はもうちょっとあと。少し糖質高そうなのを食べようかどうしようか迷ってる。栗きんとんさんです。どうしましょう。そういえばエクセルシオールカフェに新しくホワイトガトーショコラというケーキを見つけた。見た目はチーズケーキみたいだから最初「???」となって角度を変えて眺めてみたりしてみたのだけどつい頼んでみた(ついじゃないよ)。ホワイトチョコが練り込んであるらしい。練り込んで、というのかわからないけど。店員さんに伝えたら意外と言いにくい「ホワイトガトーショコラ」。「ガトーショコラブラン」ってフランス語で揃えた方がいいのでは。大きなお世話では。はい。でも言いやすいよ。言い比べてみて。ガトーショコラブラン。関係ないけど「シャノアール」が「Chat Noir」だと知ったときは「それで黒猫!」と思う以前に「シャ」と「ノアール」で分かれるのか、という驚きの方が大きかった。だって「シャ」なんて単語があるなんて思わなくないですか。そういえば青森では自分のことを「わ」というという話をしたばかりだな。そうそう、店員さんにお願いしたらこの時期だからか研修中の人でケースを覗きにいってもどれだかわからなくて先輩に助けを求めた。そーですよねー。見た目、チーズケーキですもの。しかもケーキの名前が書いてある札ってお客さん側にしかないのね、きっと。これは間違わないようにケースの内側にもつけておいた方がいいよ。大きなお世話か。はい。私が店員だったら自分用につけさせてもらうな。絶対間違える自信がある。それかチーズケーキと完全に位置を分けさせてもらう。右端と左端とかで。で「右チー、左ホワ(いつのまにか略す。レスカみたいな。)」と何度も暗唱する。先輩店員さんはさすがにすぐにわかるみたいで教えてあげてた。少し傾いているトレイにケーキ置いて大丈夫かしらと思ったけどコーヒーでバランス取れてた。この不安そうだけどどうにかこなしている感じが「おー、4月」だった。「一年生」という季語で一句作れそうか、もしかして。「一年生ショコラに白があるなんて」とか。どこにも出せない一句ばかりできそう。ナイスアシストの先輩店員さんはホワを見て思い出したらしく別の店員さんに「そういえば試食した?」と言っていて「えー、新しいケーキって試食できるんだー、いいなー」とこれからいただくところなのに聞き耳を立ててしまったのでした。もう一つオレンジのムースかな、新発売の商品が出てるのですよ。それも試したい。あと春野菜の天ぷらが食べたいです。エクセルにはないです。私は自分で揚げ物はしないから行きつけの居酒屋さんに行きたいです。全然行けてない。でも昨日はがんばって原稿の校正を仕上げた。引用の間違いが多くて自分にびっくりした。ご迷惑をおかけすることにならなければよいけれど。毎日謝罪すべき事柄が生じるものですね。もはや二十何年生なのに。もう食べ物関連のことしか浮かんでこないのだけど昨日も三浦哲哉さんの『LAフード・ダイアリー』で盛り上がってしまった。「トレイダー・ジョーズのサラダ」という章でLAのスーパー事情が書いてあるのだけどそれをLAに住んでいた人と一緒に見ながら懐かしんだ。私も何回か遊びに行ったからちょっとわかる。なんかさっきから外ですごくかわいい鳥の声がしてる。すぐそばにいるのね。でもカーテン動かすとどこかへ行ってしまうから聞いていよう。いや、仕事しよう。そっと覗いてみたけど見えなかった。シジュウカラかな。あら、カラスの大きな声がしたと思ったらかわいい声も遠くへいっちゃった。まだ聞こえるけど。さあ、仕事仕事。お菓子食べる時間がなくなったかも。あー。まあ、いいか。色々美味しいもの思い浮かべて結構満足したかも。普通にいつもの道を歩いてるだけで桜が本当にきれい。どうぞ良い一日をお過ごしください。
お菓子、藤原さくら、過剰
今日は京都、普門庵の「京フランス」というフィナンシェ。開けたとき色がとってもきれいでびっくりした。半分こにするときは縦割りにしないと。トースターで温めるとさらにおいしいと書いてあることにさっき気づいた。じゃんねん。あと2つあるからそれは温めていただきましょう。
「フランス国家最優秀職人章(M.O.F.)パティシエのパスカル・モリネス氏と、全国茶審査技術十段の酢田恭行氏が監修。素材は、フランス産発酵バターと酢田氏が選定した京都産宇治抹茶「祥楽」を使用。」
と書いてある。なにやらすごい。世の中には色々な資格のようなものがあるのですね。フランス産発酵バターと書かれているものは全部食べたくなるし文字情報ってすごい。でもいざ食べるときは「やっぱりフランス産発酵バターおいしい」とはいちいちならない。おいしいものはおいしい。そうじゃないものはそうでもない。くらいな大雑把さ。いい加減なものよのう、自分は。
昨日、藤原さくらの新アルバムがリリース。ドラマーの石若駿がプロデュース。昨年知ってライブにも行きファンになった石若駿。色々聴いていて曲として一番いいと思ったのがSongbook trio(石若駿+西田修大+角銅真実)。角銅真実と藤原さくらは似た雰囲気の声だと思ったから今回のもすぐにきいた。よかった。石若駿はドラムの才能もずば抜けているわけだけど曲作りが本当に素敵だと思う。ジャズを基盤に誰にでも届く音楽を作っている感じがする。演奏も誰とでもやれる人みたいだし、ライブでも主役だったのに全然前に出ようとしない。若い人の紹介も本当にいい形でしていたのも驚きだった。言葉のいらなさを知る振る舞い。
なのに私ときたらここまでですでに過剰だわね。過剰といえば、次の作業に移る前に最近全然読めていなかったPEP-webの論文を見ていてこの分野は興味があるな、と思ったのは兄弟関係がテーマとなる精神分析事例。相手を過剰だと思う関係の典型。ラカン派の論文だったのだけど途中までしか読めていない。でも今日からまたちょっと後回し。何度か思い出してまた忘れていた校正原稿がきた。9日まで。チェックは入っていなかったけど自分で間違いを見つけてしまった。あーあ。もっと丁寧に書けばよかったな、と読み返しながら思うけどあのときは無理だったな、とも思い返す。何事も少しずつ精進。今日の東京は曇。もうさすがにダウンは着ないよね。冬が長かったので一番暖かいむくむくしたダウンには大変お世話になりました。クリーニングに出しましょう。今日は4月4日か。4/4って並びはなんかいいですね。過剰ではない。割り切れる。今日もいろんなお花と出会えそう。どうぞ良い1日をお過ごしください。
以前、ウィニコットフォーラムにて発表した原稿を簡略にしたものを一部載せておく。
テーマ「ウィニコットと家族」
ウィニコットの症例といえば(スクイグル・ゲームがふんだんに使われたコンサルテーションの事例集である)「子どもの治療相談面接」と(成人の治療報告である)「抱えることと解釈」、『ピグル』の3冊は、小児科医であり精神分析家であるウィニコットと対話したいときに欠かせない。
特に「子どもの治療相談面接」では『ピグル』において議論の的となった「オンディマンド」という治療設定を選択するときの精神分析家としてのウィニコットの考え、そして「主観的対象」という「ピグル」の発症に関わる発達最早期の赤ちゃんの状況を示す概念について重要な記述がされている。
『ピグル』は、ウィニコットの死後、1977年に出版され
た『ピグル』というニックネームの女の子の精神分析的治療の記録。セッション自体は1964年から1966年にかけて、オンディマントという設定で16回。
ウィニコットの二番目の妻、クレアが書いた序文によると、ウィニコットは、この治療を「ー家族療法ではなく ーケースワークでもなく ー共有された精神分析」と記録していた。
ここであえて「家族療法でもなく、ケースワークでもなく」と書かれているのはおそらく、この治療プロセスの重要な要素として、セッションとセッションの間に交わされた両親との手紙や電話による多くのやりとりがあり、そこから読み取れるウィニコットのマネージメントの仕方や母親の態度の変化など、「共有された精神分析」であるそれを読者が別のものとして受け
取るかもしれないことが想定されたからではないか。
ウィニコットは、家庭や家族を子どもの病気の唯一の原因としたり、治療のターゲットにしたことはない。彼はそれらを「環境」という言葉に含め、発達最早期には環境と個人は融合したユニットであると考えた。そのため、環境が個人を抱えることに「失敗」したり、環境が個人に対して果たすことのできなかった役割については記述したが、それが扱われたのはあくまで転移状況においてである、という点において、この治療は家族療法でもケースワークでもなく、精神分析であると考えたのだろう。
なんだか夜、暑くありませんでした?まだ服装もお布団も真冬と同じなので暑くて起きてしまいました。二度寝したけどなんか暑かったよねという寝ぼけた感覚がまだ残っています。
今朝も京都若菜屋さんのお菓子。「苺クリームヴァッフェル いちごいちえー一期一会」。これもかわいい。開けるなりいちごクリームのいい匂い。私が大好きな系列のお菓子。「ヴァッフェル」ってワッフル?と思って調べたら
「欧米の伝統的なワッフル生地をさっくりと堅焼きし、芳醇なヴァニラクリームを挟んだ長崎堂のヴァッフェル。 」
という大阪の長崎堂さんのサイトが最初にでてきた。なんと。「ヴァニラ」とくっついておるのですか。若菜屋さんのも美味しいです。ありがとう。
ここのところ思いがけずっと色々大変で仕事が進まない。でもそんな状況にも少し慣れて締切を2つ守ったのは守ったことだけ偉かったと思います。内容はともかく。もうひとつは国際精神分析協会(IPA)のアジアンパシフィック地域の大会で出すパネルの原稿。もうダメだと思って1週間締切を伸ばしてほしいとメールしたらbut no later than Friday 5th Aprilということで2日遅れで出しました。日本語で15分間話す分量から随分減らすことになってしまったけどそういうものなのですね。色々素人すぎるけど今回学んだのは締切に遅れると英語でメールを書く手間が増えるということ。これはこれでめんどくさかった。
”Spotifyの2024年のデータを基に、どの国でどのメタル・バンドが最も聴かれているかを示す「現在、世界各国で最も聴かれているメタル・バンドの地図」が話題に。”
というニュースを読みながら「へーおもしろーい」となっていた。
”注意点としては「何をメタルと分類するかによって結果が変わること。”
いやあ、そうでしょうねえ。
アジアンパシフィックの大会でご一緒する国を見てみましょう。
Taiwan:Flesh Juicer , Korea:Madmans Esprit , China: Nine Treasures , India: Bloodywood , Australia: Parkway Drive。で、日本はBabymetal。
ふむ。早速インドのBloodywoodを聴いてみましょう。おお、インド音楽要素が強い!のにしっかりメタル。面白い。いいですね。
新しい本を読むエネルギーがないので再読ばかりしていたのだけどなんとなくKindleで読んでいない本を読んでみたのです。そうしたら全然頭に入ってこない。入門書かと思ったら博士論文を書籍化したものでした。博士論文の書籍化って多いけど難しい、素人には。まあ、まずは専門の人に役立つのが大事だからいいのだけど。読んでいたのは
成田正人著『なぜこれまでからこれからがわかるのか ーデイヴィッド・ヒュームを哲学するー』(青土社)。副題と目次からして難しいってわかるだろ、という感じだけど題名が魅力的だったのですもの。
教えて、ご本人、というわけで「普及版」といいながら全然普及しなそうな値段の『デイヴィッド・ヒューム 『人間本性論 第1巻 知性について』 (木曾好能訳、法政大学出版局)を読み始めました。さすが、ひとつひとつ丁寧。そう思ったから買ったんだもんね。ちょっとずつ教えてもらうように読みましょう。
さあ、洗濯は終わりましたが資料作りがもう少し。こんなことしてる場合ではなかったよ。どうか良い1日になりますように。
コーヒー&和菓子。机に向かうのが遅くなった。最近、帰宅するとNetflixの『三体』をちょこちょこみている、と早朝からすでに朝を2時間ほど過ごしたにもかかわらず書き始めたら昨晩より前に頭が戻った。朝らしさいっぱいの部屋なのに。昨晩もちょっとみた。『三体』は読もう読もうと思って読んでいないので何も知らないがこれはこれで面白い。すごいコンパクトにしちゃってるんでしょ。でも私はこれでいいや、みたいになってる。しかし、すごいね、原作も役者もゲームのことも知らない私みたいな人でもこのなんとなく知っている全く知らない世界を作り上げてしまうのだから。あ、しまった。こんなこと書きながら京都土産の「ほっこり餅」を食べてたらあっという間になくなってしまった。もっと味わって食べようと思ってたのに。この若菜屋さんのお菓子はほんと小さくてかわいい。ペタッ、モチッとした生地でニッキの香りほんのり。パクパクしちゃったけどニッキの味が残ってて美味しい。やっぱり知らない世界を知らないようにえがくって本当に難しいんだな、とまたドラマのことを思い浮かべてる。けど、味覚は「うん?何この味?」ってかなり新規性を感じるものがあるね。歯磨き粉とかも。この前、いつもと同じメーカーだからとあまり何も考えずに買った歯磨き粉が使い始めて何回かはいちいち「なんじゃこの味」となった。でも今は慣れてしまった。この最初の未知との遭遇の時間の短いこと。貴重。今年はもっとベルクソン勉強したいな。昨年、平井さんに問いを発したもののそれをしたことで自分が考えていたことにも疑問符がついた。この前のクドカンドラマはタイムマシンだったけどあれも既知である未知との遭遇だよね。そうそう、タイムマシンの物語って19世紀末までなかったそうですよ。アインシュタインの相対性理論が契機らしい、って何かで読んだ。でも記憶が意識されている以上、脳の中はいつもタイムマシン状態なわけだから「これタイムマシンものじゃない?」って今からなら思える物語はたくさんありそうですよね。神話とか。でも空間というか場所の移動、というのはかなり特殊な事態なのか、よく考えれば。一番そういう世界をたやすくこなしてるのは夢ですかね。昨晩、NHK Eテレで『夢判断』のことやってたけど立木康介さんの説明も面白かった。伊集院さんが指摘してたけどこんなこと自分でやってしまうフロイトやっぱり変だろう、と思いながら楽しくみた。しかし、なぜこの番組は岩波版の『夢解釈』ではなく古い訳を使ったかな。いろんな事情があるのかな。昨日はエイプリルフールだったけど「なにか嘘ついた?」という会話しかそれらしいことはしなかった。楽しい嘘ならつきたいもんだ。今日はどんな感じになるかな。良い一日になりますように。
今朝のお菓子は迷った。京都のお土産たちを眺めに眺め結局ひっくり返して賞味期限を確認して一番早いものからにした。お日持ちするのを買ってきてくれたけど多分どれもすぐになくなっちゃう。どれも美味しそう。今朝、選ばれましたのは若菜屋「京銘菓 焼き栗きんとん」。すごく素朴に栗の形になっててかわいい。小さいしかわいい。かわいいって二回書いちゃった。そして、うん、美味しい。結構甘いからこの小ささがとってもいい。ほうじ茶と一緒に。このほうじ茶、棚の奥で忘れられていたいい煎茶をフライパンで煎ったもの。あ、煎るっていうかな。いうね。あんな乾いてるようにみえても湯気で水分の存在に気づく不思議。すごくいい香りがする作業です。
今日は首が痛くて持ち上げづらい。ひどい頭痛は頚椎ヘルニアのせいかも。というか、前にそういうふうにいわれた。
私のオフィスは新宿が近いので「今新宿なんだけど」って急に声をかけられることがある。時間があえばちょこっと会ったりする。ごはんする時間がなくてもちょこっとお茶しておしゃべりしてバイバイするだけでほっこりする。ほっこりほうじ茶タイムを過ごしたら思い出した。
朴沙羅『記憶を語る,歴史を書く』(有斐閣 )を久しぶりに手にとった。noteでの記事は読んでいたのだけど、社会学の専門的な本でもあるから取り組めなかったのよね。でも最近、主にナチとか戦争が関わる歴史や歴史修正主義に関する本を再読していたせいか今回はじっくり読めている。何かが生じるにはいろんな条件が必要なはずなのにそれを吟味する前にパッと攻撃対象を作ったりするのも既に何か前提があるからだよね、ということを言ってるんだよね、と思いながら読んでいるのだけど違ったりして。私自身が思っていることを投影していませんように。読めていますように。まあ、ゆっくり。
ほっこりとかゆっくりとか言ってるときほどそんな場合ではないわけだけどどう焦ったら成果が出るのかもわからないし作業しつつたまにほっこりゆっくりしながらやりますわ。小さいお菓子をいただくほっこりも隙間時間の読書も時間的にはたいしたロスじゃないし、常にチャージされてた方ががんばれるかもしれないじゃん。ということでexcuseはもう結構、と自分で自分にいって始めましょうか。
東京は昨日桜が一気に咲きましたよー。暑いくらいの一日でしたから。朝と夜で駅前の景色が変わっていて驚きました。皆さんもどうぞ良い一日をお過ごしください。
ジュリアン、イングヴェイ、親子丼
起きたら身体がバキバキだったが少し家事をしたら戻った。足のむくみがひどくて歩き方が変。ストレッチポールを早速サボってる。ただの椅子と化している。昨日はそのままウトウトしてドスンと落ちてしまった。あぶなーい。腰あぶなーい。怪我防止でやっていることで怪我するの良くない。日付が変わってから31日締切の原稿を送った。すっかり後回しになってしまっていたがなんとか出せた。パネルで出したものを学会誌用に文字化しただけなのだけど発表のときに好きに話してしまったから読めるものにするのに苦労した。日々丁寧に作業をしておかないとこういう苦労をするのですよ。知ってた。なのにーなーぜー。ビヨンセの新作COWBOY CARTERを聴きながらやっていたらノリすぎてしまって作業にならなかったのでジュリアン・ラージの新作にした。Speak To ME。今回の柳樂光隆さんによるジュリアン・ラージへのインタビューも勉強になった。戦前ジャズのお話。柳樂さんの勉強量もすごいけどジュリアン・ラージはなんであんなになんでも知ってるのだ、と思って読んでいると最後に柳樂さんが「なんでそんなに詳しいんですか?」と素朴に聞いてくれている。プロも驚くプロの知識。歴史に意識的である人は信頼できる。
「ジュリアン:僕はいつも歴史に興味があった。若くしてキャリアをスタートして、周りから多くの注目を集めていて、そのことに対してある種の恐れを持っていたんだ。アメリカには才能ある若者を搾取する構造があることにも気づいていた。そんなとき、歴史を学ぶことが僕の心の拠り所になった。歴史を学ぶことは、自分自身も長い歴史のなかの一部であって、あくまで大きなコミュニティの一人であるということを再認識させてくれる。そこからずっと学び続けてきて、その過程で同じ考えを持つ人たちと出会うこともできたんだ。」
なんと。7歳から学んでおられる。歴史を知ってるからスーパーうまいわけではないだろうけどあの音は唯一無二。学び方というのもあるが教え方というのもある。伝え方か。
そしてイングヴェイ・マルムスティーンが来日するらしい。うむ。こちらは私がももっとも親しんできたハードロック。彼は彼でスペシャルな人だけどなんと表現したらいいのだろう。ライブも行きましたよ。今回、誰とくるんだろう。
今年もどっかで時間作ってライブに行きたい。夏休みかな。能登にいくことは決定してるから何も東京でライブに行かなくてもいいんだよね。そういえばこの前金沢のさつまいもスイーツをお土産でいただいてとってもおいしかった。あれはどこのだったか。有名なお店と聞いたのだけど忘れてしまった。調べようとしたら金沢には有名なお菓子屋さんが多すぎて迷子になった。金沢は本当に素晴らしい街だよね。今度行ったら絶対行きたい焼き鳥屋さんがあるのだけど私たちが行ったのって新幹線が通る前だしまだあるかな。どのお店もすごく混んでてお昼を食いっぱぐれそうになっていたら「ここはやってるのかしら・・・」という雰囲気の小さなお店を見つけた。恐る恐る入ってみた。お昼もやってた。親子丼!親子丼があったらそれ一択。というかお昼は親子丼しかやっていなかったかもしれない。ものすごくおいしかった。親子丼、大好き。でも親子丼と聞くといつもそこを思い出すくらいになってしまった。夜は焼き鳥屋さんらしい。今度絶対くる。と思ったのに名前忘れちゃったよ。なんかもうなんでもかんでも忘れてしまうのだから嫌なことも忘れられたらいいのにね。嫌なことって結構積み重ねで嫌になるからなかなか消えないんだよね。美味しいものは積み重ねるとおなか壊しちゃうし。こっちはいくらで積み重ねたいのに。色々うまくいかないわね。がんばれるかしら。とりあえずお洗濯は済みました。はちみつルイボスはちょっと甘すぎるな。作業作業。どうぞ良い一日をお過ごしください。
パフェを食べた。美味しかったけど多すぎた。うーん。昨日は調子が狂った、というかすでに色々狂っているところにまた狂ったからもとに戻ってるかもしれない。もとはどこだ。昨日はビヨンセが渋谷タワーレコードにきたというのを聞いて最初に狂った。誰かが同じ空気を吸えるだけ幸せ、といっていたが私もそう思う。ライブじゃなくて『COWBOY CARTER』のプロモーション?Jay-Zも来てたって。Jay-Zのライブ?わからないけどビヨンセがあそこにきたのかあ。ゴージャス。そしてうっかりNetflixで「ドリームガールズ」を見てしまった。寝不足。「HOMECOMING」もまだみられるかな。みたい、とか言っている場合ではない。
でもね、今、東京は見るべきものが多すぎて危険。元写真部の私には欠かせない写真展たちも。竹橋の東京国立近代美術館で開催中の『中平卓馬 火ー氾濫』展は彼がもと編集者で理論家であることもあって文字情報も多い。新聞も日記も小さい文字がびっしり。急性アルコール中毒で記憶の一部を失って以降の作品を後期とすると、写真それ自体の変化というよりこの展示の仕方を許容できるようになったんだ、というかむしろこの展示の仕方で保たれる何かがあるのか、など複雑な気持ちになった。ものをものとして撮るという点に関しては後期の方がもうどうしようもなくそうなっている印象を受けた。最近は女性の写真家たちも増えて私が高校の写真部の薄暗い部室で眺めていたそれこそ中平たちの時代の雑誌にはない世界が広がっているように感じる。生活に対する構えも違うのだろうか、と考えるが、その辺だとそれは男女差というよりもっと個別的な歴史の話かもしれない。
朴沙羅『記憶を語る、歴史を書く』も関連して思い浮かべた。多くの写真がマイノリティを映すということとも関わる。私は人の話を聞くという行為でそれをしていると思っている。朴沙羅さんのようにオーラル・ヒストリーをきく仕事の人もそうだろう。そのときにこの仕事を難しくしている自分の問題に直面することがある。そこで「健康」を保ち続けるには「スキル」がいる。私は精神分析を受けなければこれだけの語りと出会うことは難しかっただろう。聞き出すわけではない仕事だから。対象とどう出会えばいいのか、という苦闘を体験しやすい仕事だからいろんな歪みも出る。だからいろんな人と関わっておく必要がある。中平のいろんなエピソードがぽつぽつと思い浮かぶ中こう書いているが後期の不自然なくらいピカッとツルッとした展示に前期とのつながりがあろうがなかろうが同じ人間の作品であることに違いはない。そういう重みと私もどう向き合っていくのだろう。いろんなことを考えた。
さあ、もう行かねば。どうぞ良い1日を。
久々にお茶漬け。温まる。今日は少し暖かいのかな。お茶を飲むとその瞬間だけは暑いくらい。
最近、再読ばかりしている。新刊を読むエネルギーがない。三浦哲哉さんのは読めた。レシピの紹介の仕方も素敵だし、食材も乾物も調理器具もお酒もうつわもみんな楽しいし、三浦さんは引用もいい。あの本は「おいしいトーストの焼き方」から始まるのだけどトーストの「いいにおい」って想像できますか?ほわってした蒸気のにおい。「ああ、蒸気か!」って思う人もおられるかしら。トーストって聞くと最初は乾いているカリカリのイメージが出てくる方もいるかもしれないですね。パン屋さんって10時開店とかでも早朝からとってもいい匂い。本にも書いてあったけど蒸気が落ち着くまでに時間がかかりますものね。焼き立てを売っているお店は紙袋に入れても上は開いたまま。ビニールだとすぐ白くなるくらい。紙袋だと顔近づけてあのほわほわジュワーを自分だけ吸い込んでおいて「あーいい匂いが逃げちゃう!でも閉じたらそれはそれで違っちゃう」と家まで急ぐとかやりますよね。三浦さんはトーストのおいしい焼き方を紹介しつつ「におい」ってものがどんな感じで私たちに体験されてるかもサラッと書いてくれちゃってる。おいしく賢く素敵な気持ちで過ごしたいものです。それにしても外はまだ雨。風も強そう。窓に雨粒がいっぱい。午後は晴れるみたいだけど長靴履いちゃおうかな。ショートブーツに見えなくもない、いや、ショート長靴(どっちだ)にしか見えないか。そうそう、エネルギーがないから再読してるって書いたけどこのダラダラ再読するのが結構悪くなくて、昨日は森田真生『計算する生命』を読んでいたのですよ。あ、これ文庫化されてて解説が下西風澄さんですって。この本、ざっと説明しますね、みたいな感じで計算史について書かれている部分も勉強になるし紹介されるひとりひとりのエピソードで「数学」に人間のイメージがくっついてくるし、AIや自然とも普通につながっていっていつのまにか壮大な世界になってる、いや、こうやって社会を見る方法があるのか、と私にとっては新鮮な視点をもたらしてくれた本なんだけど今回は「あー、ここここ、うっかりブルックスのファンになるところだったぜ」とかダラダラ思い出読みをしています。数学が身近になる本が増えましたよね。私は数学全然できなかったけど周りは数学好きが多いです。こういうのを読むとその楽しみがわかる気がします。三浦哲哉さんの本も森田真生さんの本も学術的なのに生活と密着している(三浦さんのは生活が前景)のがいいのかもしれない。生活大事、というか楽しきものにしていきたいです。
さあ、今日は何を再読しましょう。あ、村上春樹も最近また読んでますね。彼のはエッセイが好きです。ということで東京の皆さんはひとまず足元お気をつけて。良い1日をお過ごしください。
白湯、頭痛、ポリフォニー
白湯。これで「さゆ」って読むの面白い。「お湯」と同じではないのか、と思うけど一度沸騰させるのが違うとか。外国の甘いチョコレートと。白湯、あっついまま飲んだら白湯じゃなくなっちゃうけど飲んでしまってあちちってなってる。馬鹿だな。
頭痛持ちになってからだいぶ長くなってきてあまりに痛さに夜中起きてしまうこともあったり日中も歩くのが辛くなったりするのだけど慣れてくると苦痛に苦笑いが混ざるのです。どっちにしても「苦」ですけど。最近は頭に頭痛用のふっとい輪っかが嵌められたような痛みが多いのだけど寝ぼけてると外そうという動きを手がしてしまったり。それを覚醒している部分で「おいおい、とそれとれないやつですよー」とツッコミ入れたりしてる。こういう状況に「おいおい」だぜ、と思っております。一方でこんな痛くてもこんなくだらないならやっぱり結構大丈夫じゃね、と思ったり。今のところ脳の大きな異常ではないって言われてるけどそれもMRIとかで見える範囲ではだからどこでどうなるかは本当にわからないものです。
ポリフォニーという言葉を使って文章を書いたついでにそういう音楽ばかり聞いてる。小さいときから一番耳に馴染んでいるのはクラシック。特にオーケストラだからいろんなことが同時に起きている感じの不穏さとか華やかさにはドキドキしたりワクワクしたり。私は楽器の才能があまりにも乏しく演奏に混ざることはできなかったけど聞くのは誰にでもできる。今の時代はなおさら。今日も面白い音楽に出会えたらいいな。みなさんにもいいことありますように。
今朝もまたまたパティスリートリヨンフさん。小川町マドレーヌ。町名のついているお菓子が好きです。たとえばヴォアラの「世田谷讃菓」とかだと太子堂の風景として「芙美子のかけおり坂」、豪徳寺だと「福まねこ」とか。心象風景をお菓子に、ということなので「これはどうしてこの味かしら」と想像しながらいただくのが楽しいです。なんでも「か」は「菓」に変えてしまうところとかも好きです。小川町マドレーヌはどうして小川町?というかどうしてマドレーヌ?これは多分ごくシンプル。パッケージに「和紙のふるさと」とあるからマドレーヌ自体に街らしさがというより街のお菓子屋さんならではの定番お土産なのでしょうね。「小川町って和紙のふるさとなんだー」「そう、わしのふるさと」「・・・」みたいな会話をもたらすのでしょう。「あ、わしって私ね」「(わかってるよ。だから・・・なんだよ)」みたいな会話も聞こえてきますね。あ、くだらない。
千葉雅也さんの『現代思想入門』読みましたか?私の周りは多分「フーコー」で挫折してると思うのです。デリダ、ドゥルーズとものすごく軽やかに話されているわけだけど「フーコー」は内容からしてちょっと雰囲気が変わるからなんにも考えずに「ただ読む」という方法をしない人は立ち止まってしまうと思う。なまじ有名だし。でも本は立ち止まらないことが大事。全部平面として読むことが大事。小さい頃って多分それができていたと思うよ、みんな。絵本の読み聞かせしてるといちいち反応はあるけど立ったまま膝に乗ってきたり指くわえてぼんやりしたりしながらもわりとじっと本を見て聞いているでしょ。反応は自分の中の情報と照合できる部分とかびっくりしたりするところであるわけだけどある意味作者の意図通りなわけでそこはそこ。進むことが大事。千葉雅也さんはこの本の付録にこういう読み方についてもっと上手にユーモラスに書いてくれています。「細かいところは飛ばす。一冊を最後まで通読しなくてもいい。」など。えー、最初に言ってくれよ、と思う人もいるでしょう。でもこういうのは壁にあたってから「え、そうだったの?」となる方が学びになるのでさすがは千葉先生なのです。方法論について常に考えておられるのはnoteを購読しているとわかる。それもすごく勉強になる。この本もベースになっているのは立命館大学での授業だそう。いいねえ、こんな先生に教わることができて、と思うけどだったらこの本を読め、ということですね。高校二年生のときのお父さんとのちょっとしたエピソードも印象的。進路を考え始める時期に誰かがいてくれるって本当に大事。言葉に従うためではなく何かを言われたら反抗したくなったりなるほどそうかと思ったり考えるためのきっかけができるから。そういう相手がいろんな事情でもてなかった人たちとお会いすることが多いのでこういうエピソードにもじんときてしまうのかもしれません。そうそう千葉さんの『エレクトリック』のフランス語訳も出版予定だそう。高2の達也くんのお話。フランス人にどう読まれるのか、千葉さんご自身がフランス語堪能だからご紹介してくれることでしょう。楽しみです。
どうぞ今日がよい一日でありますように。
今日も小川町のトリヨンフさんの焼き菓子と紅茶。神保町の隣の神田小川町ではなくて埼玉県比企郡小川町。東武東上線の。懐かしいなあ。東上線沿いに住んでいたことがあるから駅名はすごく馴染みがある。森林公園も遊びにいったなあ。ジャングルジムで遊んでたら男の子と間違えられた。当時の彼氏と一緒だったのだけどベリーショートだったから?いつもTシャツにジーパンだったから?今もたいていそうだけど。きっとそういうイメージなんだろうね。18でジャングルジム登るのが子供っぽいというのもあるか。でも公園行ったら遊ぶでしょ。今も小さい子たちと登ることがあるけど子どもの危険防止で登っているはずなのだけど私の方がバランスとか危うくて全然ダメですね。鍛えねば。最近ようやくストレッチポールに乗る習慣はついた。脛ゴリゴリするとまだすごく痛いけどトレーナーの先生のところでやったときより痛くない気がする。というかやり方が間違っているのかも?先生、ものすごく的確だったから。怪我しやすい人は身体が感覚掴めるまでプロにきちんと教わった方がいいと思う。自己流で怪我してたら二度手間というかとっても残念な気持ちになるし。整形外科とか行かねばになるといつも混んでるし病院通いは時間がかかるから本当にやってられないでしょ。私は日曜診療のところも使ってるけど、助かるけど・・・。この歳になると友達との病気関連情報網が発達してるから「ここは混むけど順番になると連絡くれるし先生がこういう感じでいい」とか「ここでこんなになってあれは失敗だった」とか教えてもらえるのがいい。この前、友人の病院選び失敗談を聞いてて、その人が医療系の友人にその病院のことを話したら「いい先生はそんなにべらべらしゃべらない」って言われた、と聞いた。至言と思った。必要なことだけをやるっていうのが技術でしょ、医療系も支援者も。余計なことはしない。友達じゃないんだから。友達だったら色々してほしいことをしてあげたいのはわかるよ。小さい子供がいる家庭なんて本当大変だし。予防接種行ったり、熱出したり、怪我したり、なんだかんだ、と自分のメンテナンスする時間も持てないでしょう。だからできることはしたい。私は小さい子がいる友達と遊ぶときはハーブティーとか持ってくことがある。自分が一緒に試してみたいのもあるし、前もってリサーチする場合もあるかな。ハーブって好き嫌いあるものね。彼らと森林公園に行くのもいいな。小さい子はとにかくいっぱい動きたいから見える範囲が広いところで(狭いとこっちもあれこれ注意払わなくちゃで疲れてしまうものね)遊ばせてあげたい。でも最近体力ないからあんまり遠くに行かないで・・・。森林公園は今はチューリップがたくさん咲いてみるみたい。昨年はチューリップで有名な公園に行ったつもりがもう終わっててありゃーってなった。でもいいところだったから野生の花々とか鴨とか見ながらお散歩して楽しかった。なんかまだ寒くて嫌になってしまうけどいろんな種類の桜が咲き始めてて沈丁花やコブシがとってもきれいなまま終わり始めてる。昨晩も真っ白なこぶしが朽ちていく手前の大きな花で闇を照らすみたいに咲いててすごくきれいだった。三浦哲哉さんの『自炊者になるための26週』(朝日出版社)の終盤「索引と徴候」という章で中井久夫の『徴候・記憶・外傷』からの文章が引用されている。この本は私もよく引用させていただいている。そこで中井久夫が書いた花のにおいのところが引用されているのだけど本当に見事な描写だと思うし、その後の三浦さんの思考の展開もすごい。「懐かしいにおいのお茶があれば、それを淹れてください。飲みつつ、つづきを読んでください。」のあとの文章。懐かしいにおいのお茶、なにかな。オレンジティーかな。バイト先で最初に飲んだときはびっくりした。紅茶なのにオレンジ?今ほどフレーバーティーのない時代だもの。でもすっごく美味しかった。あれはジャム使ってたのかな。タバコ臭くて意地悪なお客さんが多くてすごく近寄り難い喫茶店だったのだけど(だからバイトがバレないと思って友達に紹介してもらった)賄いのパスタもアイスココアも全部美味しかった。厨房の大人たちは怒鳴るし最初は怖かったけど(あまり覚えてないけど多分怖かった)「メニューにないものも作ってくれるよ、これが美味しいよ」と先輩が色々教えてくれたから恐々いってみると先輩のいう通り美味しいのが出てきてニッコリしたり。そのおっさんもそのうち怒鳴らなくなった。最初から怒鳴らないでよ。先輩はメルローズに就職した。あるとき道を歩いてたら田舎道ではあまり見かけないかっこいい車がピタッと横に止まった。声をかけられて「だれ!?」って一瞬ビビったけど先輩だった。モデル体型の人ではあったけどすごくおしゃれで最初誰だかわからなかった。エプロン姿しか馴染みがなかったから。あの人が私にとって「かっこいい」の元祖かも。元祖って今もいうよね?中性的で言葉少なくて優しかった。不良時代を支えてくれた皆々様との思い出が食べ物を通じて蘇るよ。感謝感謝。こんな歳になるまでどうにかこうにか生き延びております。みんなも元気でいてほしい。あ、千葉雅也『現代思想入門』のことを考えていたのに全然書いていない!なぜだ。お菓子を先に食べたからか。まあ、今日は時間切れ。あの本はとてもいいけどかなり難しいよね、ということを考えていたのさ。どうぞ良い一日をお過ごしください。
今朝は埼玉県小川町のパティスリートリヨンフさんのフルーツケーキ。ここの焼き菓子をいくつかお土産でもらったのでまたしばらく朝お菓子が充実。いちごもあるし。フルーツケーキって昔はあまり好きじゃなかった。多分生地にも少しお酒が入っているのが多かったんじゃないかな。あとドライフルーツが苦手だった。歯にくっつく感じが嫌だったんだと思う。レーズンは昔から好きだけど。甘さも好きな甘さではなかったんだろうなあ。実際、いろんなお菓子は当時よりずっと癖が抜けて誰にでも美味しくなっているのかもしれない。今となっては当時のをそのままの味で食べたいけどね。きっと美味しく感じると思うの。たとえ「ん?」となってもそれが美味しいってなりそうでもある。
三浦哲哉さんの『自炊者になるための26週』(朝日出版社)という本がとても良くて何度もパラパラしちゃう。『LAフード・ダイアリー』も一緒にパラパラしてなんだかジーンときてしまった。三浦哲哉さんの語り口が好きで映画の本も持っているけど私が映画に詳しくないからこんなワクワク感では読めなかった。でもこの2冊は本当に生活の色々が詰まっててこんな料理本これまであったのかしら!と驚く。三浦哲哉さんはお料理も上手だけど対談もすごくいいですよ。対談は映画のことをよく知らなくてもすごく面白い。すごく前のことだけど千葉雅也さんとの対談からファンになった。味もお話も引き出すのが自然で上手。生活する人、交流する人、考える人の自然に鍛えられた末の自然体、かっこいい。自炊本、1980円で買えるんだけどこの質でこの値段はものすごくお得ですよ。これは子育ても含め、三浦さんの育ちとか生活とかに即した本なのだけど引用されている文献もいいし、料理ってレシピではないんだよな、こういう行為で、こういう思考をもたらすものなんだよな、と何度もお鍋の中確認するみたいに舞い戻って読んじゃう。『LAフード・ダイアリー』もぜひ一緒に読んでほしい。生活って面白いな、ってなると思う。今日も美味しいものと出会えますように。良い1日をお過ごしください。
頭があちゃこちゃ大変。お湯がクツクツ。とちおとめパクパク。今日もミントティー。昔は苦手だったのにね。
なんか疲れやすくて乗り物を使うことが多い。普通は使うのだろうけど。昨日は小さなバスに乗った。大きなバスにも乗った。今小さなバスちっこかったな、と思い返していたらその前に乗った大きなバスの運転手さんのデッカくて早口な声がかぶさってきた。バスって外の人にも放送が聞こえるようになってるでしょ。あれっていつから?バス停にいると私が乗るバスがやってきた。何やら聞こえる。いつもバス停から少し離れて止まるバスが多いバス停なのでどうやらそのことらしい。乗った。乗ったのは私一人。席は満員。二人掛けの席は半分ずつ空いているところがあったけどもっこもこの私がぎゅーぎゅー入るのは申し訳ないのでいつも座らない。運転手さんの「発車します。危ないのでおつかまりください。」の声がデカくて早口で慌てて手すりを掴んだ。この運転手さん、ちょっと慌てん坊タイプでお知らせがないとバス停もないかのように突っ走ってしまう感じで一回慌てて止まってた。でもそういう時の態度が「あ、すいません、止まります」ってなんだか自然で、なんか安心した。運転手さんが焦った感じになっちゃうとこっちはもっと不安でしょ。私はのんびり運転手さんのときでも自分が降りるバス停をお知らせするのを忘れたりするから降りる直前だけちょっと気張ったけどね。というか、大抵は誰かがピンポン(ではないけど)押してくれるバス停なんですよ。なのにこの前気づいたら通り過ぎてて「えー!!」となった。私が押さなかったからなんだけどね。悲しかった。そういえばコロナ禍の頃かな、コロナとは関係ないと思うけど、バスの運転手さん、座ってとかつかまってとかつかまってくれないと発車できないとかすっごくたくさん言っててご本人も言われる方もなんかイライラした感じになっててこりゃ大変な仕事だな、と思ってたけど全然なくなった。あれは逆効果だったかもしれないね。よくデパートとかのエスカレーターとかで「よいこのみなさん」って呼びかけがあるじゃないですか。以前「「わるい子のみなさん」っていった方が注意引くのにね」と言ったら笑われた。そういう歌あったよね。「ねないこだれだ」の論理(?)でいえば「エスカレーター走って登っちゃうこだれだ」となるか。これはくどいね。小学生にもなれば「よいこのみなさん」と言われた悪いことしたい子は「よいこじゃねーから」となるし。でもまあそうやって注意が耳に届くこと自体が重要というのはあるね。今日もどうでもいいこと書いてるな。どうでもいいことといえばこの前夜にデニーズに行ったの。そしたら両隣も向こうも女性二人か男女のカップルで話してることはそれぞれだったんだけど喋り方が日中には全く聞かないようなプライベート感たっぷりの喋り方で「まだそんな遅い時間じゃないけどこの時間はもうそんな感じなのか」とすごく面白かった。退行タイムは大事よね。外でやるのか!という感じはしたけど大事よね。はあ。朝から疲れてるな。こんなこと書いてるからか。どうぞ良い日曜日をお過ごしください。
紅いもタルトにミントティー。喉、鼻、頭痛をスッキリさせたい。
昨日は佐多稲子の短編集『キャラメル工場から ─佐多稲子傑作短篇集』(佐久間文子編、ちくま文庫)を読んでいた。最近、戦争、特に敗戦と憲法について考えていたからそのつながりで手に取ったのだろう。本屋での行動は大体無意識から始まる。佐多稲子は1904年生まれ。平成何年だか、10年かな、94歳まで生きた。大正モダンガールといえばなんとなくいい感じだが共産党、戦争、震災とも切り離せない作家であり、朝日新聞の戦地慰問に行ったことは敗戦後もずっと彼女を苦しめた。林芙美子もその一行の一人だったが同じように苦しんだ。何がなくとも本人は苦しんだだろうけど周りからの批判も強かった。今と変わらず人は好き勝手いうのである。無事に帰ってきてくれて本当によかった、とはならないのか。ならないのである。無事に帰ってきてしまったがゆえになんか言われるのだ。彼らが兵士の話を聞いたり、こういう文学を書いていなかったら私たちは敗戦や小林多喜二の死から何を学べただろう。人の死から学ばない人は人が生きていることも喜べないのだろうと思う。この時代は日本の精神分析導入期とも重なり、私はその文脈から敗戦などについて色々考えていたのだが、1920年代にフロイトの翻訳をした安田徳太郎は佐多稲子同様、小林多喜二の遺体と対面した一人である。私は長編を読んでいないのだけど佐久間文子の編集による佐多稲子のこの短編集は多分とてもバランスがいい。デビュー作「キャラメル工場から」は実体験からとはいえひろ子の目が捉える一瞬一瞬がリアルな格差を感じさせ心揺さぶる。どの作品も女の痛みや怒りを登場人物の対話によって正当なものとして浮かび上がらせる。以前、人の言葉を「全部正当防衛のつもりでしょうけど」とかいったバカ男がいた。自分への怒りを感情ではなく道具としてしか受け止められない人は相手を見下しその怒りを相手だけのものとして押し込めようとする。自分のダメさを知るのが恐ろしいからだろう。そういう人が哲学教えてたりするのだから哲学者たちの言葉もかわいそう。見下されたことのある女たちには佐多稲子を勧めたい。一緒に泣いてくれるし怒ってくれる文学だと思う。
富永京子さんポッドキャスト
姫栗もなか。上手に割れず。クシャッとなってしまった。緑茶が美味しい。
昨晩も富永京子さんのポッドキャスト『仕事の合間』を聴きながら帰った。富永さん、本当に話すのが上手。おもし論文といって興味深い論文の紹介もしてくれるのだけどその説明もものすごい上手。上手という言葉にしてしまうと簡単なんだけどなんていうのかな、専門的な分野のこともこっちが全く興味を持ったことのないことも同じような楽しさの話にすっと変換しながら話してくれてるというか、疲れた帰り道でぼんやり聞いてるだけなのに耳はきちんと興味を持ててしまっている、というか社会運動の研究者は本当にいろんな人の声に耳を傾けているだろうからそもそも聞き手のことをよくよくわかっている人なのかもしれないねえ。元々そういう能力の高い人なのかもしれないし。そうそう、富永さんはいろんな人と美味しそうなアフタヌーンティーをしててすごく楽しそうなのだけど研究者同士とか狭い範囲の人と話すことが多いんだって。そこで話されている研究者同士の話の再現も「ほー」と思うのだけど、それ以外の人とのいわゆる雑談をものすごく新鮮に楽しんでいる富永さんの話も面白かったよ。私なんて仕事以外は雑談しかしていないから逆にそんなことがそんなふうに楽しいのか!と思ったり。またね、その紹介する話題も絶妙で、しょっちゅうそんな話してる人たちなら尚更ノれる話題だったりね。自分の言葉で喋っている人の話ってすっと入ってくるからいいのかもねえ。なんか好きなもののこと書いてると気持ちが和んでくるね。いいことだ。
とかいって逃避している場合か。場合じゃない。なんか頭がおかしいんだもん。だもんじゃない。はい。がんばりましょう、できる範囲で。
近所で用事をすませてコブシと雪柳が真っ白に咲き誇っている場所に少し寄り道しようといつもと違い道を通った。同じ場所に白い椿も咲いていた。いつもの道からだと見えていなかった。
地元の珈琲屋さんで移転してしまったラーメン屋さんのことを話した。移転先は決して便利な場所ではないのに看板も出さずに成功しているらしい。惜しまれて去ったと思われたら皆ついていったか。素晴らしい。
街歩き趣味の私はかつしかけいたさんが「路草」で連載している『東東京区区(ひがしとうきょうまちまち)』という漫画が好きなのだけど「第10話「卵・焼肉・あんみつ」」が公開されて嬉しい。舞台は上野。私が子供の頃は特急も新幹線も上野までで上野が玄関口だった頃の景色はよく覚えている。あの薄暗いホームこそ私の「東京」だった。実家にいる頃はなにかとお茶の水へ向かうことが多かったので上野で降りることはあまりなかったけどこんなに高低差がある街なのね、ということを今回の回で学んだ。たまに上野から根津、谷中、湯島の方へ抜けたりするけどここに出てくる道は歩いたことないかも。あんみつ「みはし」は憧れ。いいなあ。友達と行きたい。
仕事以外はだいぶぼんやりしていて手元にある本ばかり読んでいるのだけど再読のはずが全然新しい本に思える、やはり。奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』は二月末に名古屋に行ったときに帰りの新幹線用に買った本なのだけどようやく最後まで読んだ。三木那由他さんが解説。こんなにわかりやすく書ける三木さんがすごい。全般的な私の意欲が落ちているせいもあるのかもしれないが、この本はかなりずっしりした一冊でしたよ。今回、25年を経て待望の再刊だったらしい。私は社会学の流れとかをよく知らないのでなんとなく手に取ったが今でも、というか今だから読まれた方がいい本なんだろうなあ、と思った。いろんな場面や状況が想定されてそこで生じていることをどう理解するか(理解できないという理解をどうするかも含め)について緻密に議論が繰り広げられているが、これは古田徹也『謝罪論』に通じるところがある。というか私が選ぶ本はみんな通じるところがあるから選ばれているのだろう。だってこの本の後に手にとった大澤真幸の『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学 大澤真幸THINKING「O」第14号』(左右社)の見田宗介論文の要約にも奥村論文が登場しており、奥村隆の文庫のあとがきは大澤真幸の言葉から始まっていた。先輩後輩関係とのこと。社会学も人材豊かだなあ。あまり意識せずに色々読んできたけど意識すると「あぁ、この本の編者もこの人なのか」など少し繋がりが見えてくる。ちなみに吉本隆明『共同幻想論』もそばにあったのですこ再読したがこれも重たいねえ。私がお世話になっている世代は皆はまったであろうこの本。ここで出てくる『古事記』はやっぱり町田康のとは違うんだな。もうあれは印象が強すぎるからオリジナルとして読んだ方がいいと思う。吉本本とは異なるテンション。そうか、今私はテンションが低めなのでそこのブレに敏感になってしまっているんだな。いつもだったら振り幅考えずになんでも読んでいたわけだし。はあ。とはいえ今日もお仕事がんばりましょう。オフィス周りの地形も暗渠とかあって起伏が多い。隙間時間にぼんやり歩くか。東東京の方が個人的には魅力的だが普段使いの街への気持ちはこんなものだろう。私のオフィスがある西参道は初台駅利用もいいけど明治神宮方面に行くのも中野方面に行くのもあり。私は都庁に行かねば。新宿中央公園のコブシも黒くなってきちゃったかな。真っ白に満開に咲くとすぐ黒ずんでしまうのもコブシらしさ。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。