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グラミー賞とか。

第66回グラミー賞ノミネート作品が発表されたのね。外は風が強い。音がすごい。肌寒いけど膝掛けにも肩掛けにもなるフワフワのを羽織って熱い紅茶を飲んだら少し暑い。飲まないとすぐ寒くなる。冬ね。グラミー賞は時間があった頃は授賞式の映像を見るのを楽しみにしていた時期もあったけどここ数年音楽をきく余裕をなくしていた。ということに気づいたのもほんの数ヶ月前。それからはイヤホンを忘れると一日中元気がないほどに暇さえあれば何か聴いている。Spotifyでおすすめされるままに流していることもあるけど音楽評論家の柳樂光隆がすごい勢いで出してくる(ありがたい)インタビュー記事を読んでその音源をきくことが中心。重なってくる情報も多いおかげで最近少し頭が整理されてきた気がする。好きなロックミュージシャンたちは今も色々話題豊富な人が多いのかFacebookとかで流れてくるものからチェック。最近はCoverdale & Pageのことが流れてきて久しぶりに聴いた。YouTubeに1993年の大阪公演があがってた。東京公演行ったよ。ディヴィッド・カヴァデイルがほんと美しくて、そしてあの声、うっとりした。ジミー・ペイジはもうなんだか凄すぎた。かっこよかったなあ。一枚しかアルバム出さなかったけど今となってはあれでおなかいっぱいな感じもする。特別な二人の特別なアルバムって感じでいいよね。

ちなみに今年のBest Rock Albumは以下の5グループ。

Foo Fighters – But Here We Are
Greta Van Fleet – Starcatcher
Metallica – 72 Seasons
Paramore – This Is Why
Queens of the Stone Age – In Times New Roman…

やっぱり一番聴いているのはメタリカだねえ。Queens of the Stone Ageになると私にはちょっと新しいな。ライブに一番行ったのは1990年代前半だから2000年以降はほとんど新しい人だと思ってしまっている。しかもここ数年のブランクでよほど有名な曲でないと全然知らない。女性アーティストは結構フォローしてたかな。最近、ずっと聴いているジャズは根っこがつながっている感じで今のジャズを聞いても当時聴いていた古典が全然古びていないというかむしろすごいリスペクト向けられてるから古いも新しいもないかんじ。今私が聴いているジャズは、だけど。多分全然知らない世界もいっぱいあると思う。

あら。風の音が止んだかな。そろそろ行かないと。鹿児島で地震があったのね。どうぞお気をつけて。鹿児島、近いうちにお邪魔します。よろしくお願いします。良い週末をお過ごしくださいね。

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バティステ、ルララ♪

キッチンの小さな窓から入ってくる風がいよいよ少し冬。コーヒーとタルイベーカリーのパウンドケーキ。小さな人気パン屋さん。お隣のカフェも行ってみたい。昔、ボーイフレンドに焼いてくれた母のバナナパウンドは本当に美味しかったな。あげたことはお話としてしか覚えていないけど自分が食べたことは覚えている。

今、またジョン・バティステを聞いてる。今年9月、柳樂光隆のインタビュー記事を読んで知ったなんでもできるジャズマン。

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/39978

アカデミー作曲賞もグラミー賞もとっているすごい人だった。ニューオリンズ出身というのも素敵。この記事で最新アルバムを聴いてそのかっこいい始まり方から魅了されて何度も聴いた。そして昨日出た新たなインタビューで『Chronology Of A Dream』(2019)の音源と出会った。

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/40193/1/1/1

全然イメージが違った。ワーオだった。このライブ行きたかったな。みんな絶対すごくいい1日になったと思う。この曲かっこいいですよ。

2本めのインタビューでバティステはこう言っている。

「JB:スタイルよりも、どうやって制限を持たせないかということを考えていたんだ。『World Music Radio』は「ワールド・ミュージックを作らない」ための良いスタートになると思ったんだ。世界中のカルチャーをカラーパレットのように見立てることが、ジャズやソウル、ポップ、さらにワールド・ミュージックというジャンルから自由になる一種の方法で、僕はその自由さに美学を感じた。とても自由な発想で作るんだよ、まるで子供のようにね。だって、子供は音楽を「これはラップだ、クラシックだーーだから、僕の趣味じゃない」っていうふうに音楽を聴かないよね? 耳に入った音楽に自然と反応する。そういった感覚で音楽を作ったんだ。」

1本めのインタビューでの多様性の解釈とその現実化もすごいな、と思っていたけどこうやってさらに知るともうなんだか多様性、多義性に関して本気の人って、とリスペクトしかない。

柳樂光隆の質問がすごくいいというのも大きい。他の媒体の別の人によるインタビューも見たけどこっちが知りたいのはそんなことではないですよ、と思うものもいくつかあった。良い問いを発明することは世界に別の見方をもたらすのね。素敵。

サマラ・ジョイが流れてきた。とても好き。ちょうど良い深みの声。美味しいコーヒーみたい。そしてとてもかわいい。

音楽は安らぐ。色々辛いこともたくさんあるけど色々なんとかなっていくといいね。ガンバリルルラリルルララ♪

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コミュニケーション大事。

コーヒー&カステララスク(ゆず)あとアルフォート。カンマを使わなかった。

高橋ユキさんが書き手を下に見ている編集者のことを書いていたけどわかるーと思った。書き手としてすでに人気がある編集者でも担当作家のこと見下してた男性もいた。嫌な人だなと思った。相手が女だと上手に依存関係築いて職権濫用をお互いにしているというよりはwin-winだから別の女への搾取の歴史は消えていく。それはそれでどちらの女のことも家族とか身近な人も見下しているんだけど大人な人にはバレてるんじゃないかな。嫌な人だ。やっぱりいろんな人と会ってコミュニケーションとるのって人として大事だと思う。気持ちのいい関係に安住できる環境がある人はそれを守るのも大事だけど気持ちのいい関係以外は排除しながらそれを維持している人は他者から学ぶ気がないわけでしょう。その人もいつも似たようなカッコよさめの文章を書いてキャーって言われるみたいなパターンがあってオレイケてるって思ってるらしいのだけど(表面的には「いやー」とかいって謙虚っぽいけど)あれはコール&レスポンスですね。中身はどこへ。ファンがいるっていい面悪い面あるけど嫌われたくない!と強く願っていたから願いが叶っているともいう。読まずに「名著!」とか紹介する方もする方だよ。それも愛情なのかよ、って思うけどきっとそうなのね。変なの。変なの、って一緒に言ってくれる人がいるのもすごくいいと思う。その人はすぐアスぺとか病気とかいう人だったし。そういう言葉遣いもパターンってあるのかしらね。パターンというかそういう言葉を使う人だと知っている人は知ってるし知ろうとしないか知る機会のない人は知らないしということでしかないか。

今日はちょっとひんやり。風邪引かないようにして過ごしましょう。

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立冬

立冬。冬らしさまだ感じず。でも熱いお茶がこんなに美味しいからやはり季節は寒い方へ。高尾のお土産と一緒に。お菓子いっぱいで冬眠準備みたい、と思ってもすぐになくなってしまうから冬眠に至らず。準備不足でも冬眠してもいいですか。いいですよ。でもおなかすきますよ。それは困りますよー。

しまった。突っ伏して眠ってしまった。PCにwがいっぱい。この前はdがいっぱいだった。

昨晩はフロイトの「終わりのある分析と終わりのない分析」からメルツァーが引用した箇所を探していて何度見てもなくて途中からもしかしてと思ってメルツァーの本を確認したら引用ではなかった。やっぱりなあ。こんな文章あったっけ、と思っていたんだよ。でも私の記憶力なんて当てにならないし見逃してるだけだろうと思って結構時間を取られてしまった。何回か見たところであれ?と思ったのだからそこで確認すべきだった。確認が面倒で引き延ばしたのだろうね。そういうこともよくやる。昨日までに出すとか言ったのにダメだった。こんなに色々間に合っていないのはじめて。でもこれについては目処が立った。結構困難な作業だったな。勉強になったけど。とか言っていないで早く仕上げましょう。

昨日は石若駿のツイートでBanksia Trioを知ってそのアルバムを聞いていた。駿くんはいろんなグループにいるんだね、自分のグループも持ってるし。

「須川崇志(Banksia Trio)インタビュー & 『MASKS』全曲解説 | 日本のジャズシーンを代表する精鋭トリオ、バンクシア・トリオの成り立ちから、ニューヨーク時代の恩師、菊地雅章との出会いまで」という記事もざっと読んだ。みんな素晴らしいのだけど今それを書く余裕がないのでぜひお読みになって。アルバムも渋くてかっこいいのでぜひ聴いて

あー、突っ伏し寝は胃腸にも腕にも悪いしなによりこんな時間。立冬の光がブラインドの向こうで明るく光ってる。気持ちよく過ごせたらいいですね。行ってきまーす。

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強風、アメリカ、環境

昨晩からすごい風がおさまることなく吹いている。今朝は何も胃腸にいれる気がしない。入れすぎていたのだろう。早く元気になって。体調が悪いと何もしたくないけど動けている程度だからゆっくり動き続けましょう。無理はしない。

ふと写真が目に入る。ジーンズのポケット部分に写真が入るデザインの写真たて。このデニムのシャツを着た大きい男の人のオブジェはPasadenaだ。身内がLAに住んでいるときによく行ったのんびりしたモール。毎回文房具屋さんでかわいいカードを集めた。小さな美術館もあった。米国同時多発テロ直前、2000年には彼らとNYにいた。別の身内はあの日もNYにいたし今もNYにいる。その後、戦争が始まり、やけにすいた飛行機でLAに行った。はじめてLAに行ったのは20歳のとき。暴動の余波を感じる時期で近寄ってはいけないと言われた場所がいくつもあった。国内での暴動に比べて戦争中でもアメリカは静かだったなと感じる。そうではないアメリカもたくさんあっただろうけど。アメリカは広い。

サックス奏者、ヌバイア・ガルシアのインタビュー by Mitsutaka Nagiraを読みながら彼女の曲を聞いていた。何度読んでも小さい頃から当たり前のようにあった音楽環境の豊かさに驚かされるが私もクラシック音楽は小さな頃から身近だったなとか考えていた。ドイツだったと思うけど有名な指揮者がうちに来たこともあった。フィンケさんだっけな。私は楽器も習っていたけど才能もなかったしクラシック音楽は身近なだけで好きでも嫌いでもなかったしどちらかというとオーケストラのコンサートとかいくのは面倒だった。すぐに寝てしまうから。母なんて始まる前から私に肩を差し出していた。寝ないよ、まだ…、と思った。大学に入ってバイオリンをやっていた友達に誘われて親とは関係なくコンサートにいくようになってからようやくクラシックの魅力がわかった。ヌバイア・ガルシアみたいに豊かな音楽環境を自分の生活の一部とできていなかったことが少し悔やまれる。

昨日、ウィニコットのいう「環境」や「退行」について少し考えていたので関連部分を載せておこう。私は退行概念は以前からたやすく使えない用語だと思っているので何か言うならこの辺は参考になるかなと思った。もう行かなくては。とりあえずメモ。ほんとに風が強いからみなさんもどうぞお気をつけて。交通機関にも影響が出なければいいですね。

「私は、通常の赤ん坊において、誕生以前にも誕生以降にも同様に適用できる存在のあり方の仮説を提示したい。この存在のあり方は赤ん坊にとってのことであり、観察者にとってではない。存在し続けることは健康なことである。比喩として泡を例に取るならば、外側の圧力が内側の圧力と適合していれば、泡は存在の連続性を有しており、このことを人間の赤ん坊に当てはめるならば「生存する」と呼ぶことができるだろう。それに対して、泡の外側の圧力が内側の圧力に対して大きいか小さい場合、泡は侵襲に対する反応の状態にある。これは環境の変化に対する反応として変化するのであり、個人的で衝動的な経験によるのではない。人間という動物の観点から考えると、これは存在の連続性に中断があったということであり、存在の場が侵襲への反応に取って代わられるのである。侵襲が終わると、反応は終わることになり、また存在することへと復帰することになる。」ー『人間の本性』第4章「最早期の段階」

「子宮のなかの素晴らしい時という観念(大洋感情など)は、依存に対する複雑に組織化された否認である。退行に伴って起こる喜びはすべて、環境は完璧だという観念を前提としている。これに対抗するものとして、環境があまりにも悪いために人間が存在する希望が全く無いのではないかという、退行した子どもや大人にはまさにリアルなものとなりうる考えを、検討しなければならないだろう。」

ー『人間の本性』第10章「環境」

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11月5日朝

秋もみじ、というもみじ饅頭を熱いお茶と。くるみやら色々入った豪華もみじ饅頭なんだけどもはやもみじの形をしていない。ハンバーグみたいな形。でも美味しい。ポロポロ崩れるけど落ち葉ってことで。

寝不足。もうこんな時間。朝だね。朝イチの音楽は柳樂光隆が直近でお勧めしていたこちらKNOWER(Louis Cole&Genevieve Artadi)というのね。おー、エレクトロニック。かわいいおしゃれかっこいい。普通の褒め言葉が全部当てはまりそうな音楽だな。 YouTube、これ最初の撮り方かっこいい。普通の部屋で撮ってる?こういう感じは懐かしいな。インタビューもとったとのこと。すごいペースで記事書いてる。この量だと情報に合わせて音源コピペするだけでも大変だと思う。すごい。私の進まない原稿とは大違い。

KNOWERさんはLA発とのこと。なぬっ!レッド・ホット・チリ・ペッパーズのオープニング・アクトに抜擢されたこともあるのか。おお。なんでもできそうだしな。

YouTube見始めたら止まらなくなってしまった。いかん、今日もずっと書かねば。明日からまたまとまった時間はない。腰が痛いなあ。この前の長時間新幹線で悪くした感じがする。昨日も座りっぱなしだったし。鳥たちは元気らしい。とりあえず大きな声で鳴いておられる。なんだかまだ寒くないのがありがたいね。ここ数日暑いくらいだったけど寒いと身体がこっちこちになってしまう。手はもうしわしわ。あんなジメジメしてたのにもう乾燥。痛くなる前にクリーム塗りましょう。コロナ禍で肌荒れた人も多かったよね。消毒液で荒れてクリーム塗ってなんてなんか変だし。うちのピヨ(Hansaのひよこ)が倒れてるから首をPCの縁に乗っけた。deleteキーが打ちにくい。どかせばいいのだがなんかかわいい。君も何かおしゃべりしたらいいのに。私が一方的にしゃべっちゃうでしょ。まあいいか。というかあなたは喋らないもんね。表情で相手してくれてるんだもんね。いいこひよこ。かわいこひよこ。ありがとさん。

昨日は「あ、これって結局こういうことじゃん」となんか発見したような気分で書いていたんだけどもう夜もすごく遅くて「これあとから見たらなんだこれってなって消すやつかもよ」と思い直して見ずに寝た。今見るのも怖くてYouTube見ちゃってる。この前も「これって結局意識、前意識、無意識の言い換えじゃん」と発見した気分で寝てあとから見たら「どうしてそう思ったんだろう・・・」ってなって消したばかり。結局睡眠が大事ということか。とりあえず見て見ましょう。あー、怖い。饅頭怖い。お茶が怖いよー、ということでまたお茶いれてこよう。

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11月4日朝

すごく鋭い鳥の声。昨晩、山手線で大きな声で話していたオタクらしき3人の会話を思い出した。あまりに大きな声なのでクワイエットモードで音楽の音量を上げたがそれでも耳に入り込んできた。相手に言われたことを「それは違う」と自分の見方を主張する仕方に攻撃性は感じず確かな証拠を持ったこだわりといった様子で面白かった。でも周りが見えていないというか実際に立っている位置がたくさんの人が降りようとしているのを塞いでしまっているのに立ち位置を変えることができず慌てた感じで仲間も似たような感じでそれまで見えていなかった世界が急に動き出した感じみたいだった。人って意外とこうなるんだよね。イヤホンとかしてると特にそう感じる。この前、カフェでイヤホンで音楽聴きながら作業してたら周りの人がバラバラと急に立ち上がったのを感じてなんだなんだと振り向いたら怒鳴るように話している人がいてみんな避難したみたいだった。確かにそれまでもその人の声って違和感を持って入ってきてはいたんだけどイヤホンのせいで随分普通サイズになっていたみたい。周りの人たちみたいな切迫感は感じなかった。危機管理的によくないな、と思うのだけど聴きたくなっちゃうねえ。たやすく欲望に負ける。あー。

今朝は熱いお茶をいれたけどもみじ饅頭にしようか、みかんにしておこうか迷う。買ってきたみかんがさっぱりしすぎていてもう少し甘みのあるものが食べたいなあと思ったり。でももみじ饅頭じゃ甘すぎるかなあ、今の私には、と思ったり。絶対あとでもっと甘いもの食べると思うのだけど朝の味覚はわりとうるさい。

昨日、橋本麻里さんのツイートでとても気になる作品を見つけた。「かみ添」さんというところの作品。これは見たいなあと思った。

「かみ添」というのは唐紙老舗「唐長」で修行したのち、独立した新世代の唐紙師・嘉戸浩による屋号とのこと(美術手帖より)。

11月1日からTERRADA ART COMPLEXⅡ BONDED GALLERYで始まった特別展「ひかりの底」で見られるらしい。キュレーターが橋本麻里さん。橋本さんの記事の熱量もすごい。熱量とはいわないのか。私が勝手に受け取るもののずしんとした感じがすごい。2021年に出た『かざる日本』なんて豪華な図録みたいな本だった。宝物をさらに大切にしたくなる記述に溢れてた。

ああ、かみ添さんのこの作品は見たいなあ。ビオンというサミュエル・ベケットの分析をした精神分析家の研究者でベルギーの精神分析家のベルモート先生という人がいるのだけど彼がとりあげた作品はビオンの見方の一例を示すものだった。

Kazimir Malevich, Suprematist Composition: White on Whiteという作品。1918年の作品だからビオンの著作に出てくるのかもしれない。私はベルモート先生から知ったのだけどどうなんだろう。

うーん。時間できたらいいのだけど。自分次第自分次第。あー。

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11月2日朝

地震だ。昔あれだけ怖かったのに2011年5月以降、何度か東北の被災地へ出向いて余震を経験したからだろうか、正確には被災した子供や親たちと余震を経験したからだろうか、地震が起きると怖いとかいう以前に東北は、と思うようになった。今朝の震源地は千葉らしい。

今朝も社会福祉法人ぎんが工房のかわいいクッキーと大好きな街、神戸の岡本に本店があるモンロワールの葉っぱのチョコ。これも大好き。秋だし。東京でもいろんなところで買えるけど先日神戸の友人がくれた。三宮で働くその人が甲子園の熱気を伝えてくれたときは嬉しかった。昨晩の日本シリーズ第4戦はすごかった。8回裏からしか見ていないが申告敬遠という文字が電光掲示板に出てなんでそのフォントということ以上に作戦に驚いた。満塁策で4番と勝負。大山が最後きれいに打って決めたのも気持ちよかった。みんな激しく喜んでるんだろうな、といろんな阪神ファンの顔を思い浮かべる。私は特にどこファンでもないが周りに阪神ファンが多いので今回は阪神を応援している。中江有里が毎日甲子園に行って応援しているのが面白い。わらし姉妹も一人は毎日来ている。しかもなんで「お帰りなさい」「湯浅」のプラカード準備しているのだ。すごい。あらゆる可能性に備えているのかな。さすがだ。私の身近な兄弟は一人はオリックスファン、一人は阪神ファンなので兄弟対決とか言っていたがオリックスって阪急ブレーブスだったよね。阪急の帽子持ってたって言ってた。私も新しいキャップが欲しい。この前新宿ピットインにあるかなと思ったけど混んでてよくわからなかった。

10月中に色々終わらせる予定のものが終わらなかった。締切伸ばしてもらったけど平日は無理だな。色々割り切ってとりあえずやらねば。学会準備もせねば。あー。そんな今日もグッドミュージックと共にがんばりましょう。みんなは何聴くのかな。聴かないのかな。良い1日になりますように。

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工房のクッキー。

やっぱり平日は書き物が全く進まないなあ。忙しい・・・。

さて今朝は米粉のクッキー。ピスタチオ&ココナッツ味。山梨県甲斐市天狗沢の社会福祉法人ぎんが福祉会ぎんが工房というところのお菓子。グルテンフリーだって。作業所なのかな。こういうところのパンとかクッキーとかすごく美味しいのにすごく安かったりする。私が知っているところはそこで売り手をするのも作業の一貫だったけど今回は高尾のお土産やさんで買ってきてくれたもの。かわいいパッケージでおいしい。これはいくらだったのかわからないけど相場の値段で売れていればいいのだけど。相場があるわけではないのかもだけど大抵とても安いから。いろんな作業所があるけど都合のいい解釈がされない場所であってほしいな。近所の作業所の前を通るといつも大きな声で挨拶されて私も挨拶をするのだけどそこはまだ場所が良くて地域にも馴染んでる感じがある。おしゃべり好きなスタッフさんがいらしたのだけどここ数年見かけなくなってしまった。品物を見ると安いなあと切なくなる。障害や病気と一括りにしないでひとりひとりにあった仕事を紹介してくれるような支援センターもあるし、患者さんの話を聞いていると効率的に多職種が連携している地域もあるんだなと知るのだけど多分そんなに多くはないと思う。関わりの難しさはお互い様だから生活に必要なお金を自分で稼ぐ仕組みとかあるいは当たり前のように基盤作りをしてくれる専門家とか増やしていければいいけど。小さい正方形のきれいな二色のクッキー、美味しかった。熱い紅茶といただきました。ごちそうさまでした。

なんか秋になっても爪の伸びが早いわ、と思ったけど時が過ぎるのが早いだけかもしれない。書き物進める前に資料作らないとだ。あー。今日は暑くなるの?体調崩しそうですよね、調整が難しくて。寒さにも暑さにも対応できる重ね着でまいりましょう。

どうぞ良い1日をお過ごしください。

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頭の中とか。

井の頭線の浜田山のお店を調べるつもりが同じ京王線だけどメインの京王線の方の八幡山と打って調べていた。なのに検索結果は浜田山のお店が出てきた。なぜだ。同じ店があるわけでもないのに。私が打ち込んだ文字より打ち込んだ私の脳を読んでくれちゃってる?出てくる広告とかみると絶対読まれてるなと思うことは多いけどついに検索も念じるだけでできるようになっちゃった?これ冗談みたいで全然冗談じゃないと思ってるんだ、私は。近い未来にそんな感じになるんじゃないかな。

精神分析は自由連想といって思い浮かんだことをなんでも話してとお願いしてやってもらうのだけどこれ全然自由じゃないじゃんと皆さんすぐに気づく。自分が実際に声に出している言葉と考えていることが全く違ったりすることにもすぐに気づく。言葉はどんどん意味内容よりその話し方や言い間違いやなんかこういう感じがするというものに変わっていって治療者がその感覚をもとに言葉にしたものの方がずっと患者の心を動かすことがある。人は強く心が動くと自分でもコントロールできなくなるから言葉が揺れたり途切れ途切れにしか話せなくなったり言葉にならなくなってずっと沈黙したり急に多弁になったりいろんな様子になる。こういうコミュニケーションの情緒抜きバージョンをAIは可能にするんじゃないかな。情緒抜きでもある程度心を動かすコミュニケーションにはパターンがあるからそれくらい学ぶべるだろうし。もし心を動かしたいだけならそれでいいけど人間の防衛をどう扱うかは難しいのではないかと思う。私がこんな感じのことを言うとあなたはいつもそんな感じのことを言う、と「感じ」のパターン化が結構難しそう。

こんなこと書きながら今私の頭をそこそこしめてるのは早朝からずっと読んでいた精神分析家のビオンに関する本「Reading Bion」に書かれていたこと。そして2種類のBGM。Gretchen ParlatoのButterflyと彼女がカバーしたHarbie HancockのButterflly.グレッチェン・パーラトのButterflyはLive in NYCバージョンもいいし、アルバム “in a dreamに入った日本版限定ボーナストラックのButterflyもいい。湧水みたいなやさしくてきれいな声。

自分でも知らない自分の部分に期待して今日もがんばりましょう。失望の方が多くてもそっちの方が普通だよ、多分。回復しては沈み、寝込み、でもまた起きよう。心にも二度寝、三度寝が必要なときもあるものね。

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ねば。

雨。結構しっかりした音を立てている。晴れの予報と聞いていたというか、今日は山に行くという話を聞いていたから日曜って晴れなんだ、と勝手に思っていた。

昨晩はPC前の椅子に寄りかかったまま寝ていた。ようやく書き始めた原稿を見直したが何が書いてあるのかわからない・・・私が書いたんだよね?はい。くまったくまった。消す。ああ。

今日も夕方までセミナーがあるからどうしよう。読んで、書く、を繰り返すしかないけど遊べないのが本当に嫌、とか言っている場合ではない。読むのも書くのも嫌いではないのだから、と自分を励ますものの書きながらぶつかる種々の事態に思考が追いつかない。というか、早くとりかからないからこういうことになるわけですよ、と自分を叱る。励ましもお叱りも他人から受けたい。自分は自分のやったことをすぐ無効にすると経験上、知っている。メカニズムは知らないけどなぜか効果がない。セルフケアは大事だけどあれは「まずやってみる」が大事でしょう。私はその「まずやってみる」を失敗しがちだからこうなるんだと思うのでそういう本買っても読み物としてしか活用できないだろうなあ。「この本にこう書いてあったからやってみれば」とかアドバイスには使えるかもしれない。お菓子食べながらダイエットの動画を見るようなことは最近していないけど。あ、今日は日曜だからラジオ体操じゃないや、テレビ体操あるでしょう。あれも眺めてると終わっちゃうのよね。当たり前だけど。お手本になってくれる体操の人たちの動きが呼吸にもすごく意識払っていてめちゃくちゃキレイ、と感心していたりピアノの音聞いてたりすると終わってしまう。テレビ局の意図はわかってるんだけどね。学校だってある程度の強制力があるというのがメリットなんだよね。その加減が難しいから色々大変なことも起きるのだと思うけど。大体の子は行けている、ということがそこで生じていることが適切だということを示しているわけでもないし。私の場合は最初から学校がもつ強制力を感じていなかったのかな。空気読めなかったのかな。勉強も大学に拾ってもらうまではほとんどしてないし。よく高校入れたよなあ。バイトばかりしてたからやっぱり学校というものが発する意図を理解していなかったのだと思うけど。反発するような強制力の強い学校でもなかったし。友達とか先生とのエピソードは色々思い出す。いい学校だったな。なら行けよ。はい。でも当時はそんなこと考えてなかったんだもん。でもだってじゃない。はい。隠れてやっていたバイトは厨房のおじさんとか最初めっちゃ怒鳴っててなんやねん、と思ったけど休まず行っていたのに。今だったら怖くてやめちゃう。なんか別の意味で怖いもの知らずというか世の中で前提となっていることとか普通の流れとかがセットされていなかったんだろうねえ、自分の中に。バイトはお金もらえるから、というほどもらっていなかったし、ほしいものがある子どもでもなかったからある程度貯まると郵便局に預けちゃっててそれでバレたんだけどね。怪しいことしているのではないかと疑われたけど一応労働の対価なの。ごめんなさい、心配かけて。はあ。論考書かねば、なのにこっちをダラダラ書いてしまった、と取り掛かろうとすると途端に眠くなる。これ強制力あるよ、締切間近ですよ。大丈夫ですか、自分。大丈夫じゃないよー。もう嫌だよー、じゃないよ、自分。って自分と追いかけっこ始めてはいけないわけです。はい。これが怠惰というの?ですね。コーヒー淹れよう。出かけるまでに進めねば。ネバー。

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月、カーテンみたいな花。

毎晩、月がきれい、と思っていたら昨晩は十三夜。いよいよ満ちてきたその姿自体というよりは澄み渡った空の黒にすっきりと輝く様子に心落ち着きました。気温もちょうどよいからリラックスした身体で眺められますしね。

昨日はコンビニへ向かう緑道で花の写真を何枚か撮りました。金木犀はまだ花が残っているけど大分香りが薄くなりましたね。金木犀はみんなが思わず呟きたくなる花だと思いますど「え?金木犀?」とキョロキョロするくらいどちらの方向にいるのか分かりにくいですよね。「あ、カレーのいい匂い♪」と帰り道とかに感じる時って大体このお家、ってくらいには方角がわかるのに不思議じゃないですか?緑道には色々な花が咲いていたのですが「ゴージャス!カーテンみたい」と思ったのはケイトウ。学名は燃焼という意味のギリシャ語に由来する、とウィキペディアに書いてありました。今調べました。確かに。私が「カーテンみたい」と思うのは実家のリビングの大きな窓にかかっていたカーテンがこんな色だったから。岩崎ちひろの絵のようにお留守番のときに電話がかかってくるとくるまっていたカーテン。ベロア素材みたいで気持ちよくて隠れたりぐるぐる巻きになったり色々遊んでもらいましたね、カーテンさんには。

鳥がそばで鳴いています。カラスも遠くで鳴いています。遠いのに大きな声。読みたいと思っていたカラスの本があるのを思い出しました。これを閉じたらすぐにまた忘れそうだけど書いておきましょう、本屋さんで急に思い出すかもしれないから。声とか文字とか。記憶を引き出してくる情報は恒例のイベントとかだったら分かりやすいけど感覚的なものはすぐに空気に溶け込むように形を崩してしまうし意識的に引き出すことは難しかったりします。でも多分一度出会ったものは必要なときに出てきてくれるでしょう。フラッシュバックみたいな辛い記憶もあるけれど昨日の月みたいにギュッとした輝きに守ってもらえますように。

どうか今日もご安全に。良い週末を。

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バンド世代、國分・千葉世代

今朝はぬるめのお茶。やさしい緑とかおり。

先日、ウドー音楽事務所の創業者の有働誠次郎さんが亡くなった。懐かしいアーティストたちが続々とSNS上に現れたのは彼を追悼するためだったのか。yahooニュースでは彼が招聘したアーティストとして「エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、KISS、エアロスミス、サンタナ、ジェフ・ベック、デヴィッド・ボウイ、ビリー・ジョエル、ボン・ジョヴィ、ジョージ・ハリスン、ザ・フー、ヴァン・ヘイレン、TOTO、ブライアン・アダムスら」を挙げているが、私はこの3分の2くらいのライブに行っている。私のロック時代はウドー音楽事務所によって支えられていたわけか。確かに名前にはとても馴染みがある。

今は久しぶりにEric Claptonを聴いている。『MTV Umplugged』のライブを収録した『Unplugged』がグラミー賞を取った年か次の年に私は東京へ来た。CDは1992年発売だからその年か。18歳の私たちは聴きまくったし歌いまくった。池袋の河合塾の帰り道や隙間時間にバンドマンの男子たち3、4人と楽器屋さんやヤマハで歌った。私は聴いてただけだけどすごく楽しかった。なんで彼らはあんなに弾けて歌えたんだろう。全員がバンドマンだったわけでもなかろうに。いやでも当時はバンドブームか。そのときの彼はベースを弾いていた。あの頃はいろんなところで自由に演奏できた。CD屋さんに入りびたっていろんな曲を教えてもらったりレコファンでレコードを漁ったりした。プレイヤーは実家にしかなかったのに。西武百貨店にはまだリブロがあった。フロイトの『精神分析入門』の文庫を買ったのもリブロだ。リブロにはあまりに馴染みがあり、池袋に通わなくなったあとも演劇を見にいくついでなどに寄った。2013年の千葉雅也選書フェアで色々買ったのもリブロだ。震災後、2011年から2013年は千葉雅也、國分功一郎の書き物からたくさん学んだ。二人ともほとんど同世代だったし臨床実践を意識しつつフロイトに触れてくれる人だったからなんとなく親近感があって勉強も楽しかった。

ふふふ。きっと今ここに書いたことって前にも書いている。何も考えずに書いている場所ではなんでもありなのだ。何度も思い出して何度も書く。精神分析設定での自由連想では毎日のように起きていることだ。反復に含まれる反復ではないものと少しずつ出会っていく実践だからその侵襲性に注意を払うために高頻度の設定が必要になる。精神分析的な心理療法を週1回の頻度で受けはじめた人が頻度をあげることを希望するのは当然のことだろう。もちろんそれが可能かどうかはお互いの現実的な事情による。やりたいからという理由でできることはそれほど多くないものだ。自らが置かれた状況で自らの持ち物で、今日も一日。

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朝(Asa)、閃き、直観

明け方のまだ暗い空に大きな布を広げよう

透かしてみえる小さな世界

混ざってく光がまだら模様

ー石若駿 feat.角銅真実 「Asa」 (『Song Book』収録)

石若駿のプロジェクト『Songbook』シリーズは本当にいい。角銅真実さんの声がとても安心する。お二人は藝大で打楽器を専攻した先輩後輩関係にあたるらしい。

精神分析学会でも音楽を取り上げるとのことで聞こうと思っているがまだきちんとチェックしていない。Institute of Psychoanalysisでも象徴化されない経験の新たなコンテイナーとしての音楽ということでセミナーがある。バイオリニストのSara Trickeyがバッハのthe Chaconne for solo violin from the Partita in D minor by Bachを演奏してくれるらしい。精神分析で音楽を語るとしたら特にこの曲だと反復が重要になってくるのかな。フロイトはグスタフ・マーラーの分析はしたけど音楽に親しむ人ではなかったらしい。フロイトの部屋に音楽関連の機材ってあったっけ。あとで写真を見直してみましょう。

先日、友人にコロナの症状に「風味がわからない」という症状が残ることがあると聞いた。「風味!」と驚いたが抹茶風味のチョコレートのチョコの味はわかるのに抹茶の風味がわからないという話を聞いてなるほどと思った。そして日本のお菓子や料理がいかに風味を大切にしているかという話になった。またこれも一例だがコロナで味覚障害になった人が回復するときに甘味と酸味を最初に取り戻したという。これも動物としての人間を実感するエピソードだった。母乳と腐った食べ物の対比を思い浮かべたからだ。そして今度は母乳を飲まない赤ちゃんの話になった。お母さんも赤ちゃんも双方大変だろう。これは腐っているぞ、食べさせてはいけない、という嗅覚を働かせるのは母親のほうであり、早期の母子はやはりユニットとして存在しているのだ(cf.ウィニコット)と思わざるをえない。もちろんその役割はすぐに父親にも共有されるだろう。

そうだ、これも今書かなければいけないもの(全然書けない)で取り上げようと思っているのでメモがてら書くが、精神分析家のビオンが1978年7月3日のタヴィストック・セミナー

「私たちはこの残骸すべてを見て、その中に何らかの生命の火花vital sparkを探知することができるでしょうか」(2014, p.54)

という問いを投げかけている。

ウィトゲンシュタインは

「私が変化しない二つの顔をじっと眺めていたとする。突然、両者の類似性が閃く。こうした経験を、アスペクトの閃きと私は呼ぶ。」(私が引用したのは古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHK出版)p274)

「アスペクトの閃き」というのはビオンのいう「直観」ときわめて近いものとして私は実践にもとづく感覚から捉えているがそれによって捉えたものをどうするか、ということについても考える必要がある。あくまで患者「と」の体験である精神分析においてどちらか一方が何かを捉える(それだとおそらく「理解」の範疇)ということはない。その二人の体験には必ずぶつかり合いが生じる。ビオンが「火花」という言葉にその事態を含んだかどうかはわからないが理解ではなく体験を重視したのは確かだろう。

ということで書かねば。

どうぞ良い一日を。

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厄介

かりんと饅頭、美味しい。やっぱりかりんと饅頭は美味しい。「やっぱり」をつけるなら「かりんと饅頭は美味しい」は一回でいいよね。熱い緑茶といただきました。

女の権利が脅かされる出来事って事件化されていなくても第三者に話せば「ひでえな、クズだな」と言われるようなことは色々ある。たとえば、妻、愛人、ビジネスパートナーと都合よく使い分けをしていることを搾取として自覚しないどころか、こっちには怪我をさせたけどあっちにはしていないから大丈夫、となかったことにできる「俺倫理」を持っている知識人もいる。また、単なる快楽の種類に基づく使い分けをみんなを少しずつケアしてあげてるつもりでいる勘違いフェミニストである賢人もいる。しかし、都合よく扱える女が複数いても足りないこともあり、SNSで「がんばる」宣言をして「いいね」をもらわないとがんばれない50代もいる。この例は、女は数ではないということを示してくれてはいるが、その場しのぎの部分利用でそこそこ満足できればそれで構わないので、そういう自分のあり方についてはどうでもいいらしい。複数の人を「ケア」しているつもりであるがためにダブルブッキングなどスケジュール管理できなくなって苛立ったり自己嫌悪に陥っている人を見たときは、この人その前に何か感じないんだ、と思ったりした。彼の主観としては「まさか俺様が女を見下したり傷つけたりするなんて」という感じだろう。女の方も見下されていると思いたくないので美味しいもので「満足!」となかったことにしたり、それこそ身体的な満足を優先することもあるのでお互い様となってしまう場合もある。相手を部分利用するだけではなく、自分をスプリットさせる防衛を使ってしまう。ナルシシズムが傷つかないための防衛は次から次へ発動する。傷ついてもそんな人が支えてくれるわけはないし、そんな人と関わっている間に失ったものにあとから気づいても戻ってこないのだから難しいことだ。人が健康に一人の全体として大切にされながら生きる時間を奪っておいて平然と快原理、一次過程優先でいられるのも人間だし。残酷。など事件化されない出来事にも事件になるものと同じ芽が潜んでいるとみて基盤となる構造は同じでもたまたまそれが表面化しないような環境があったとかなかったとか正当防衛とかいって責められる前に責めておいて黙らせるとかいろんなふうに出来事は処理されるわけだし人間関係は厄介だ。

今日も色々あるでしょう。自分を大切にがんばりませう。

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精神分析

ジャニス、お菓子、ブランディー

Don’t compromise yourself. You are all you’ve got.

ーJanis Joplin

ジャニスを聴き続けていた。ジャニス・ジョプリン。27歳ってどんな年齢だったっけ。私は大学院を修了してはじめての職場、といっても非常勤だったから学生時代からの塾講師のバイトも続けながら。当時も朝から晩までよく働いていた。朝、自転車で教育相談室へ向かう途中、同じ方角の大学に通っていた塾の教え子と時間が重なりいつも一緒に行っていた。生意気盛りの中学生集団の時期からみていたが彼だって27歳を無事に過ぎた。私はちょうどお金の準備ができたから精神分析家のところへ連絡をした頃か。その時は2、3回のやり取りで「まだいいのでは」となり治療は始まらなかった。その分析家はそれから数年して亡くなった。電話とFAXの時代だった。あの緊張と安堵の体験があったから私はずっと精神分析を信頼して自分もそれになろうとしているのだろうといつも思う。精神分析を受けるということは私にとって当たり前の選択だったのが自分でも意味がわからないがなんらかの形で生き直さねばならないと思っていたのだろう。私にとってはそんな年齢だったがジャニスはそれまでに多くの曲を作り、ライブをし、死んだ。薬物中毒と言われている。ジャニスは母と同じ世代で絵を描く人だった。母はジャニスを聞いていただろうか。聞いたことがない。絵は自分を内に籠らせる、歌は外に開く、歌が自由にしてくれた、というようなことをジャニスは言っていた。同窓会のときのインタビューで。冒頭の引用も有名だが引用元がわからない。ジャニスの辛い体験や底知れぬ孤独が彼女の死と直接結びつくわけではないだろうけど、彼女のあの声によって生かされてきた人もいることを思えば彼女の生き様が見事だったことだけは確かだろう。ものすごい歌声だった。夜中にお風呂に浸かりながらずっと聞いていた。身体が乾くまできいていた。出てきてしばらく半袖でいたら冷えた。寒いなと感じながらジャニスの歌声を頭の中で反芻していた。20代の頃から着ているテキサスっぽいリバーシブルのトレーナーを着た。というかこれテキサスロングホーンズのか。大学名やチーム名が入ったトレーナーが流行った時代だったか。ジャニスは生まれ故郷のテキサスに戻るかはわからない、サンフランシスコが好きだから、というようなことも言っていた。切ないよ、ジャニス。

今朝は先日書いたプレオープン中のケーキ屋さんの「焦しバターのフィナンシェ」。名前だけで美味しそう。美味しかった。だるま珈琲といただいた。そして今朝の音楽は柳樂光隆のインタビューを読んで知って聞いてみたらハマってしまったジャズハーブ奏者のブランディー・ヤンガー。柳樂光隆のプレイリストがまた素晴らしい。ずっと聞いていられる。

お菓子と音楽、仕事仕事仕事。がんばりましょう。

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精神分析

月曜日、お菓子、週末

月曜日がまたきましたね。あえて「きてしまった」と書かないのが味噌。味噌ってなんだ。「手前味噌」とかもさ。「みそっかす」のみそも味噌?なんなんだ。旅に出て朝ごはんがついている宿に泊まるとお味噌汁の味に驚くことがある。そうか、ここは赤味噌か!とか。旅先に思いを馳せている場合ではない。再び月曜日ということはもう月末ということなのだから。

私の朝ごはんはほぼお菓子。今朝はパッケージの素敵な薄い珈琲とこの前散歩中に通りかかった小さなケーキ屋さんのちっこくてかわいいマロンの焼菓子。なんだここは、とのぞいたらプレオープンということでどうぞどうぞとしてくれた。オープンしたらケーキを買ってみよう。とても素敵な缶入りクッキーがあって思わずきれいと呟いたらデザイナーさんと協力して作ってるとのこと。特別な贈り物にしたい。焼菓子、ちっこいのにしっかりマロンの味がしておいしい。満足じゃ。でもお土産にもらったぐんまちゃんのこちらもちっこいメープルケーキもつけた。SPODEの小さなお皿にちっこいふたつを並べたらとてもかわいい。ぐんまちゃんって今や群馬のゆるキャラとして有名だけどもともとはあかぎ国体のキャラクターだったと思うんだよね。私がまだ小学生のときだったけどそこら中で見かけていたように思う。あかぎ国体は身内が吹奏楽部で演奏していたし、小学校の行事としてみんなで見にいったんじゃなかったかな。家族でいったのかな。

週末はいくつか事例検討グループがあったのだけどとても有意義だった。初回面接を検討するグループでは逃れられない自分の思い込みをどうやってできるだけスタンダードとかニュートラルとか言われる状態に持っていくか、そのための訓練、という話とかした。あとグループのマネージメントについて。人が3人以上いたらマネージメントは必須になる。私は臨床の基本はマネージメントだと思っているのでこういう小グループでじっくり話し合う時間があるのは私もありがたいしみんなにも役立ててほしいと思う。

昨日は閉館間際に滑り込めるかなと思っていた展覧会に行けなかったので勇気を出してはじめての喫茶店に行ってみた。はじめての場所って緊張しないですか。私はいちいちドキドキする。でも行ってよかった!音楽に浸れるお店で大好きなIPAを飲んだ。お店の人も素敵だった。今度はレコードのこともうちょっと教えていただこう。

さあ、月曜日。洗濯物は外に干したよ。秋晴れは信頼していいよね。少しでもすすめなくては。はあ。がんばろー。

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精神分析

環境、還元。

曜日感覚がおかしくなっているのか予定を忘れたり間違えたりが増えている。何も進んでいないのになぜだろう。みんなパワフルだなあ、と周りを見て思うがやることをためるから動けないのだろう、と自分で自分を叱る。自分で自分に何かやってもその自分もたやすく怠けるからダメダメですのん。「ですのん」って言い方、昔からずっと好きな大阪出身の俳優山内圭哉さんのマネ。大阪のイメージそのままのかっこいい人。中島らも主宰の笑殺軍団リリパットアーミーに所属していた頃から知っている。中島らも事務所プロデュースのわかぎゑふ作・演の『お正月』が最初に見た舞台だと思うのだけど違うかも。この前のケラ&緒川たまきのケムリ研究室『眠くなっちゃった』にも出ていて相変わらず倒錯的なのかまともなのかいや絶対まともじゃないという人をナチュラルに演じていた。絶対素敵な人だと思いますのん。昨年、高円寺にお店を開いたとのことなので行きたい。ナイロン100℃というよりグループ魂の、といったほうがいいのかもしれないけどこれまた昔から大好きな三宅弘城さんとのライブも私のオフィスから散歩圏内の幡ヶ谷であってそれもすごく行きたいけど時間が合わない。三宅さんはEテレの『みいつけた!』でもお馴染みだから小さな子がシームレスにライブや舞台とつながる機会になればいいなあ。音楽評論家でDJで昭和音楽大学でも教えておられる柳樂光隆さんのいろんなジャズミュージシャンへのインタビューを読んでいるとそれぞれを取り囲んできた教育やサポートを含めた音楽環境の豊かさ(というか工夫)に驚かされる。柳樂さんも若い世代が出来るだけ早く「クラブへ行く」とかを体験できる環境整備の大切さを考えておられるようだけど本当に大事と思う。英才教育とかではなくてお金がなくても日常的にその文化に触れていける場所があるというのはそれを職業にするとか関係なくその人の人生に影響を与えると思う。フレディ・マーキュリーが死んだ日、友達が教室でずっと泣いていたこと、新しいもの好きな父が買ったまま使わずにいたCDプレイヤーでこっそりマイルス・デイビスを聞いていたこと、高校生のときに行ったディスコ(いけない)、ロックを語らせたら止まらないぜ、と言っていた塾の先生のことをその時にきいた曲とともに忘れない。曲は忘れてもエピソードを忘れない。そういうきっかけがあったからしばらく音楽生活から離れていてもこうして再びどんどん触れていけるのかもしれない。それがいいものだと知っているから。舞台もそう。原点は多分あの日の宝塚。今の私と同じくらいの年齢だったであろう女性たちの悲鳴も覚えている。自分のハンカチを使うふりをされただけでものすごい興奮!今ならわかる。すごいサービスだったな、と今なら思う。わかるわからないを超えてとりあえず出会っておくこと、そういう場所があること、そういうことの大切さを最近特に考える。自分がそこそこ恵まれてきたからこそそれを還元するには、ということを考える。その前に目の前のことを、ですね。はい。今日は日曜日。2グループやりますよ。美味しいお菓子を食べてがんばりましょう。

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七福神、蕪島、象徴化

眠い。今日は晴れみたいなのに空はまだ曇り空。昨日の空はとてもきれいで写真をアップしている人が多かったですね。私もしました。今朝のお菓子は群馬の定番お菓子「七福神あられ」。小さい子からご老人までみんな大好き。しかしなぜ七福神以外に「寿」とかいってココア味を作ったのかしら。「旅がらす」と同じ失敗では、と思ってしまう。ココア味のお菓子なら他にたくさん美味しいのがあるのだし定番がこんなに美味しいのだから加えなくていいのに。七福神めぐりするときだってそれ以外いないじゃん。まあ、でも宝船とか色々ゴテゴテしてるから余剰も大事か。夏に八戸に行ったときウミネコの繁殖地で有名な蕪島へ行ったのだけど、そこから見える景色に「七福の岩」というのがあった。岩7つ。神様の形態は柔軟だな、というか石や岩が投影先として柔軟なんだな。硬いのに。自閉症の子でその硬さを好む子たちもいるけど彼らがそれを遠くから見て神様と思うことはないだろう。実際の硬さが重要であってあえて変形する必要もないだろう。象徴化機能は過度である必要はない。そういえばこの蕪島、イワシがたくさん獲れる場所だからウミネコが繁殖したらしいのだけど太平洋戦争の末期に旧日本海軍が埋め立て工事をして島を陸と繋げてしまった。そのせいで何が起きたかといえば猫、タヌキ、キツネなど天敵が増えた。だから保護しなくてはないけなくなった。こういう話、大間から見える島にもあった気がする。その島は海鵜が自然に繁殖したのだったかな。勝手に変形するのはよくないこともあるよ。自然が変わってしまう。言葉のレベルだってそう。言葉にするとか見立てるとかって相手なくしてできるものではない。象徴化機能は一見「正常な」大人として必要な機能みたいな感じがするけど言葉巧みなだけで心ない人なんてたくさんいるわけだから。あんなことしといてそんな言葉で「いいね」集めたり人にもの教えたりしてるんですか、とかね。しかもそういう人って誰かの言葉の引用が大得意だったりする。自分が吐いた言葉は態度を伴うので直接吐かれた人との関係で考えるべきでしょうけどね、と私は思う。感じよく人生にまつわる何かを教えたりしている人が気に入らない相手に加害性押し付けて自分だけ平然と快楽を保持しているだけの人だったりするから。いや、そうやって人を部分的に扱う人といったほうが正確か。精神分析で象徴機能が問題になるのはその位置付けがそんな簡単じゃないからかもね。あーあ。神保町のことを書こうと思ったのに蕪島のことを書いてしまった。晴れてきた。どうぞ良い一日を。

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精神分析

先輩たち

早朝の空がとてもきれい。気温も半袖ニットでちょうどいいくらい。足出してないせいもあるかも。今日は友達とサッと会ってサッと移動しないとだから服装気をつけよう。ギリギリまで会いたい。お互い近くに住んでいても遠くの地での学会のときくらいしかごはんしないという人もいるけど「今度東京行くからごはんしよう」とかお互いの土地にいくときは声をかけあったりする。私は学会に行くときは大抵開催地に住む友人と会う。この年齢になると学生時代の友達はいろんな土地へ散らばっているし、学会って大体大きい都市でやるから誰かしらがいる。札幌でやったときは最高だったなあ。バド部の先輩が同じ道内とはいえ少し離れたところからわざわざきてくれて色々とおもてなししてくれた。北海道の人がみんなそうというわけではないだろうけどその人はフットワークが軽くて札幌にも詳しかった。学生時代は近くに住んでいたからお部屋に遊びにいっておしゃべりしたりした。「あみー」とのんびり寄り掛かってくる声が聞こえそう。バド部の先輩たちとは今も仲良しだけどその先輩は特別。ニセコでダッキーというのか、一人乗りボートでの川下りに連れていってくれたときには驚いた。途中ボートから川に降りて遊んでボートに戻ろうとすると自力で上がれなくなっていた。こんなに消耗していたのかとそのときはじめて気づいた。なのに私よりずっとか弱いと思っていた先輩はあっさり戻っていた。えー。しかもそのあと重たいボートを自分で持って歩かなければだったのだけどそれもあっさり。疲れ切ってるのにこんな重たいもの担いでいくのかよ、と私にはキツかったのに。先輩、そんなに逞しかったっけ。そういえばそうか、とこれまでのいくつかの場面を思い出した。ニセコは水量も十分で激しく遊べてとても楽しい体験ではあったがボートに戻れないときは怖かったよ。先輩。水って怖いね。先輩の家は冬になると一階部分が雪に埋まるそうだ。私が遊びにいったときはまだ一階から景色が見えた。すごい。北海道とか雪国の生活ってすごい。私は寒いだけでかなりダメになるので住めない。でも住まなくてはとなったらどうしよう。先輩に助けてもらおう。頼りにしてもらっているようで結局いつもずっと寄り掛かってきた。みんなすごく面白いし優しいんだもん。子沢山の先輩も数人いるけどもうみんなすっかり大きくなったらしい。小さかったのにねえ。当たり前だけど大きくなるよねえ、ときがたてば。それぞれ個性的な人生を歩んでいるようなのでこれからもマイペースでがんばってほしい。なんだかさる・るるるだよ。子沢山の先輩には「あみこ」と呼ばれているけど当時からお母さんだったんだね。全然そんな風に思ったことなかったけどずっと面白がってかわいがってくれたものね。絵本を思い出すわけだ。プチこどもがえりができる場所があってよかった。精神分析は赤ちゃんになりすぎて自分でもやばい(患者として)と思うときがあるけど友達はグッドイナフ。彼女たちはグッドイナフなお母さんたちだな。すごい。なかなか無理なものとしてのグッドイナフでしょう、普通は。こうやってダラダラ喋り続けられるのも友達のおかげだよなあ。ありがたい。ありがとう。今日もそんな場合ではないけど気持ちだけはのんびりやりましょう。なんか今日は夜雨なのかな。どの地域の方もお気をつけてお元気でお過ごしくださいね。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

プロとか人間とか。

薄緑のお茶がきれい。何もかも進んでいないけどお茶はいつもきれい。空の色も水色とピンクになるようなならないような色が境界線なくしててきれい。昨晩は明日までに読まなくてはいけない本を探し回って終わってしまってなんにもなんにも進んでいないのだけどなんにもベイベーだな、って今思ったのは前に身内が「何度もベイベー」って曲を舞台用に作ってそれが私の中を流れてきたから。ほんと単純で最初はなんだその曲って笑っていたのだけどプロにアレンジをお願いしたらとんでもなくかっこいい曲になって返ってきてプロすごい・・・と思ったのだ。しかもその人とてもいい人で、とまで書いて「あ、これは別の人だったかも」といつも通り記憶の揺れがひどい。いい人!素敵な人!やさしい!って思うことがたくさんあるから混ざってしまう。「プロすごい・・・」と思うことも本当によくあってこの前も「ちょっと意味がわからない」と思うくらいすごい人に会ったのだけど一緒にいたり会話できたりするんだよね。動物とは通じ合っている気はするけど会話はできないし。プロってなんだ、という話でもあるけど対話ができる、ということまで含めてプロだと思う。

でも人間ってわからないものでとっても素敵でとっても大好きと思っていた人に「あれ?」と思う瞬間があったとして、そのときは「この人に限ってそんなはずないか」という感じでなかったことにするのだけど小さな違和感は大抵正しかったりする。悲しいことに。前にその人の全体がなんだかわからないまま勢いみたいな感じで親しくなった人がいた。その時点で「あれ?」という感覚をいくつも持っていたのだけど否認していた。その人には配偶者と愛するペットがいてそのペットが死んだあともそのペットについて呟くたびにたくさん「いいね」がつくほど動物好きで有名だった。その人の家にはほかの動物もいたけどそのペットだけは特別だったようで家族がほかのペットの死を悲しんでいる日もその人はごきげんに愛想を振りまいていた。私がそういうエピソードに「あれ?」と思うのは、その人が人に対しても突然冷たくなるところがある人でいわゆる「さめる」様子がよく伝わってきて、怖いと感じることがあったから。そしてその直感が正しかったことは悲しみが共有されなかったペットが死んで一年もしないうちにわかった。人を全体としてみていたら絶対にできないことってあると思うのだけど部分で見ている人はやってしまってから「だっておまえがひどいことするからじゃないか!」みたいな感じで何も言っていないのに不安定になったりしてしまう。本からそれだけ学べるのに人からは決まった範囲でしか学べないのか、SNSではそれだけ発信できるのに受信範囲はそれだけか(見なければいいから)と驚いたりもしたが自分の攻撃性によって被害的になりやすい人との対話は難しい。ああ、このセリフってあのアニメの男の子のセリフだな、と思ったけどアニメって本当に人のそういうところをよく描き出している。人の関係における複雑さを単純化する力がすごい。プロたちすごい。今日もいろんな人から学ぼう。私の仕事はとりあえずそのまま置いておくところからかな。現象大事。事実大事。

鳥たちも元気っぽい。がんばりましょう。

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精神分析 精神分析、本

小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。

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精神分析

山、ビール、筋肉痛

筋肉痛。起きられるかな、と思ったけど腹筋だけで上半身を起こせた。腹筋はあまり使っていなかったらしい。立てるかな、と思ったけど立てた。ふくらはぎがパンパンな感じで少し痛い。遠くに洗濯物干すのに身体を伸ばしたら背中も痛かったけど普通に動いている分には全然痛くない。筋肉痛になるとどの筋肉が使われたのかがわかるから面白い。辛いけど面白い。いずれにしても本格的な痛みはこれからかも。

厚木オクトーバーフェスト2023」にいくついでに低山登山をした。時間ができたから調子に乗って計画してしまったが老体に鞭打つみたいな感じになってしまった。距離だと6キロくらいしか歩いていないが普段はあげない高さに足を上げてこんなふうに踏み出してバランスとりながら身体を持ち上げることを繰り返すことなんてないし、なんてちょっとしたことをはじめて言語化したくなるくらい身体が自然に動かなくなっているのを感じる。トレランやろうとグッズ探したりしたのだってすごく前ではなかったような気がするがすごく前なのだろう。あのときコピス吉祥寺でかわいいと思ったトレラン向けリュックが全然似合わなくて買わなかったのが分かれ道だったのかもしれない。今はわからないが当時のコピス吉祥寺には赤ちゃんや小さい子を連れていきやすいフロアがあってそこで赤ちゃん連れの友達と会っていた頃だから10年くらい前か。コピスもまだ新しかったし。2014年に精神分析家になるための訓練に入るための準備に入って2016年に候補生になって(候補生になるにも手続や審査がある)自分でも開業したりで単に時間がなくなったというのもあるが今回みたいにちょっと思い立ってサクッといって帰ってこられる山は東京にもたくさんある。今回は1200mくらいの山だったが標高100メートルくらいの山でもなめてはいかんぞと実感したのは島根県のJR安来駅から徒歩で行ける標高92mの十神山だろう。私たちはよく旅に出るがちょっとした山があると登ってみる習性がある。その日も足立美術館に行って帰るのに電車の時間まで少し間があったので標高100mくらいならと向かってみた。なんだかいい山でぐんぐん登れたが途中から「意外ときつい?電車間に合うかな」となった。当時は駅まで走って戻る体力があったのでよかったが100mをなめたらあかん、と学んだ。いい山だったのでまた行きたいな。ちなみに足立美術館ではスクールカウンセラーをしていた学校で親しくしていた先生と偶然再会したりとても素敵なこともあったがかの有名な庭園とか送迎バスに関しては結構な文句を言ってしまった。だってさ、と今も言いたい、とかにはならないが。思い出とは過ぎ去った証拠。

そうそう、「山登り後のビールは最高!」と書きたかったけど山は時折ポツポツパラパラと雨が降ったり寒かったりだったのでいつも通り「ビールはうまいぜ」でした。祭りは楽しですしね。今日は結構きちんと雨なのかな。寒いし。風邪ひかないように過ごしましょう。

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秋の空、黒糖、無理。

PCの画面に何か通り過ぎた。首だけ後ろに倒して空を見ると早速鱗雲。秋。いくつかのことは確実に積み上がってきてるのだけど今が一番大変かも。かも、というのはこれまでにも大変なことはたくさんあってやるべきことのシンプルさは知っているから。それにしてもなぜこんなに効率が悪い、というか効率の良いやり方を忘れてしまうのか。しかもなぜいつも保存先を間違えたりしてしまうのか。さっきも危なかったぜ。毎回、色々学んだり教わったりしてるのに自分のものになっていかない。よくこんなんでやってきたよな。まあでもこれでやってきたのだからこれでやっていくのだろう。

サクサクのはずのお菓子がベタベタになってしまった。お菓子ってお砂糖なんだなあと改めて思う。美味しいお砂糖ってあるのね、きっと。うちは沖縄のお土産だっけな、黒糖があるのだけどサトウキビは美味しい!あんみつの黒蜜も黒糖から作るんだよね?難点は塊が大きいこと。これ皆さんどうやって砕いたりしてるのかな。そのまま舐めておやつにする人もいるみたいだけどそれはちょっと不安、止まらなくなったらどうしよう。自分の意志の力を信じられない。温めたら溶けちゃうよね。うーん。そういえば作家、作詞家の高橋久美子さんが自分の畑で黒糖作って売ってた。チガヤ倶楽部というサイトがあるのですよ。そこに書いてあるかな。あとで探してみよう。彼女の記事は面白いし勉強になる。それにしても高橋久美子といい松山ケンイチといいすごく忙しそうなのに食べられるものを育てている。芸能活動と通じる一貫した何かがないとなかなか時間を割くの難しいと思うのだけど。すごいことだ。

私は自分が無理できる範囲でできるだけ無理しながらできることやろう。「無理しない」ことが本当に大切なこともあるけど無理無理言いながら少し力を入れたら「あれ?さっきよりちょっと遠くに手が届いた」みたいな地道な無理は続けていけたらいいかもね。小児科でも子供たちにそういうちっこい魔法をかけて遊んだりしたなあ。ちょっとのイカサマで結構な自信がついたりする遊びって結構あるの。面白いよ。ということでがんばりましょう。

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雨、Sufjan Stevens、福来氷

起きたら雨が降っていた。東側の大きめの窓を開け放したままだった。まっすぐに落ちるような雨の音だったから大丈夫かな、どうかなと思ったけど、うん、よかった、降り込んでいない。パソコンのあるこの部屋の窓はどうだったっけ、とパタパタ。そうだ、昨晩寒くて大きく開けた窓を少しの隙間を残して閉めたのだった。

SNSで知ったSufjan Stevensの『CARRIE&LOWELL』をかけてみた。最初の曲”Death with Dignity”のリフレインに驚いて何度もスマホを覗き込んでしまった。壊れたレコードみたいになるはずもないのだが。なるはずもなくもないのか?二度目に聴いたらそんなに不思議には感じなかったのだから不思議だ。このアルバム、雨の日にピッタリ。圧力を感じない声。安心する。Sufjan Stevensのサイトにポンっと飛んでみたら曲とはまた少し異なるイメージの背景に写真。車椅子や杖?と少し驚いた。Guillain-Barré Syndromeでリハビリ中とのこと。重くなければよいが。新しいアルバム”Javelin”が出たばかり。あ、これから出るのか。チェック。あ、もう聴ける。本当に雨の日にピッタリ。背景の音の美しい規則性のせいか。優しい声に心が落ち着く。

それにしても冷える。昨晩は窓を少し閉じたほど寒かったのに真夏の格好のまま寝てしまった。トレーナーを着た。お湯も沸かし中。今、我が家はお菓子天国だから迷うな。筑波山のお土産もいくつかあるが「福来氷」にしようかな。でもこれは夜っぽい。つくばは福来みかんというみかんが特産だそうで福来氷はそのふくれみかんの皮を加えた寒天菓子。表面がカリカリしてたりパサパサしてたりするお菓子は甘いのが多くて少し苦手なのだけどお茶菓子としては絶対優秀。お茶をいただく必要がでるお菓子たちだよね。組み合わせで考えるの大事。羊羹とかも以前は苦手だった。甘すぎるから、と思っていたけど茶道とかで使うお菓子ってそんなに多くないものね、と少量ずつお茶といただくと染み渡る。福来氷も小さいからやっぱり朝のうちに緑茶といただこうかな。茶道の先生をしている身内にもお裾分けしよう。彼女にお土産のお菓子を選ぶのはとても楽しい。ゆっくりみていると本当にいろんな工夫がされているなあ、と知れるのも楽しいし。

二度寝したくなってきてしまった。ダメダメ。気持ちよさしか求めていない感じになっている。バックトゥリアリティ。ポンっとクリックしなくてもここが現実。戻らなくてもそこにいるでしょ、逃避しない、と自分に言い聞かせないとなかなかね。東京は一日雨なのかしら。皆さんもどうぞ足元にお気をつけて。

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朝の月とか星とかクリスマスソングとか。

空がきれい。寒いのは嫌だけどこれから冬にかけて朝の空はどんどんきれいになる。今朝の西の空にはまだ月が明るい。月のそばで明るく輝く星はなに?木星?

Samara Joyの投稿を見て”Have Yourself A Merry Little Christmas”を早速チェック。もうそんな季節。足元に入り込んでくる風の冷たさに急に気づいた。優しくて暖かい声。23歳でこの声。これからもっといろんな声が出せるようになるのでしょう、きっと。すごい。楽しみ。今流れている“Tight”もすごくいいなあ。

カイリー・ミノーグもまた新譜出してたんだね。UKチャートにも入ったのか。すごい。高校時代、ジャズを聴きまくる一方、ユーロビートにもはまっていた。かっこいいお姉さん的存在は今も元気。嬉しいことだ。カイリーはオーストラリア出身だよね。シドニーに行ったときにライブハウス行けないかな、と思ってるんだけど情報を得るのが下手すぎるから多分いけない。日本のだってスケジュール管理だけで精一杯で空き時間をライブ情報と合わせるのは私には複雑な作業。移動時間とか考えるといけないのが多いし。あとから「あーきてたんだー」「あーやってたんだー」と「あー」ばかりだけど「おー来てるのか!」とライブに行けなくても馴染みの景色に彼らが立つ写真をSNSで見たりして嬉しくなったりもする。今は色々リアルタイムで知れてしまうのはあまりよくないよな、と思っているのだけどそういうときは嬉しい。勝手なもんだ。

この週末もお菓子がたくさん集まってきた。再び豊か。秋!暖かい飲み物はなににしましょう。身体冷やさないようにしませう。長すぎた夏のせいでなんかおかしくなってる。みんなもそうかも?大事に過ごしましょ。

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音楽聴いたりおしゃべりしたり。

夜と朝の風が冷たくなってきた。日中はまだ暑いけど。

SpotifyでThis is 石若駿を聞いている。今思えば柳樂光隆の記事をその人の記事としてきちんと読んだのって石若駿に関する記事ではなかったか。友達に紹介したくて転送したんだ。今急に思い出した。まだみていないがジャズ漫画が映画化された「BLUE GIANT」の音楽を上原ひろみが担当し、石若駿もドラムで参加。先日の柳樂光隆によるインタビューもすごく面白かった挾間美帆も参加。すごくいいサントラ。サントラって今もいうかな。石若駿率いるバンドしてはSongbook Trioが好き。

「〇〇って今もいう?」っていう会話が増えた、と母に言ったら母が笑った。母が何かの単語を使ったあと「まだ関西弁が残ってる」といったあとのおはなし。それは関西弁がどうか怪しい、母には母語(ははご)があるから、と私は言った。母は笑った。母語(ぼご)といったら私たちの場合は日本語だが狭い意味での母が使うという意味での母語が我が家にはあった。私も普通に使っていたら周りに笑われたりして「えーこう言わないの!?」となったことが何回かある。父語もある。おいおい、きちんとした言葉使っておくれよ、だからこんなんなっちゃって、なんて父母のせいにしない(当たり前か)。数えられる程度の語彙がいまだに思い出話として残っているのだからそのインパクトは大きかったに違いないが。

自分が住んでいる街のことを住んでいる人が馬鹿にしちゃダメだよ、今度帰ってきたら再発見してもらおう、名古屋で遊ぶのが不思議と難しいのは「何もないから」ではないよ、だって奈良すごく楽しかったじゃん。平城京の空、すごかったものね、ねー、タクシーの運転手さんの話も。あそこであべさんがね、建物っていいわね、ねー。

隣の市の市役所の展望台から住み慣れた街を眺め、地上に。自分の住む街と比較したくなるのもわかる。私が育てられた街でもある。段差の少ない歩きやすい道を案内しながらゆっくり歩き、話す。さまざまな苦労のなか、私たちにいろんな体験をさせてくれた感謝を織り交ぜながら。東京にもあるデパートのローカルな喫茶店でフルーツパフェを頼んだ。二人でパフェ食べるのなんてはじめてだよね、と。お互いがパフェを食べている姿なんて見たことないのではないか。10代後半、当時の彼とMY CITY(今はルミネエスト)の多分2階、今もカフェがあるところのカフェで大きなパフェをよく食べた。荒井注が隣で一人でパフェだかなんだかを食べていて彼が興奮して小さな声でそう伝えてきたのを覚えている。私はドリフは見ていたけど誰が誰だかあまりよくわかっていなかったから「そーなの!」という表情だけして「この人が、そうかー」と思っていたに違いない。大体いつもそんな感じだから。阿部寛が隣にいたときも私は全然気づいていなかった。なんだか大きくてかっこいい人と電話ボックス(知ってる?)で隣り合ったのだ。今思えば向こうは撮影の合間だったのだろうけど。東京に出てきてからのそんな日々を母は知らないけど話ならいくらでもできる。生きている間は。どちらかが死んじゃっても話すのかもしれないけど。みんなが少しずつ時間をずらしながら死ぬことは当たり前ではないんだな。たくさんの人が一気に亡くなることの言葉にならなさ。辛い。震災も、戦争も。今日の東京の空は静か。月曜日、いってきます。

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精神分析

謝罪とか言葉とか。

古田徹也『謝罪論』(柏書房)を前に謝罪のメールを書いた。たまたま読んでいる途中で置いてあっただけだが。古田徹也はこの本でも「小さな子どもに「謝る」ということを教える場面を想像してみよう」と子どもと大人のやりとりから始める。2022年10月にでた『このゲームにはゴールがない』(筑摩書房)の冒頭は幼稚園に通う娘さんとのやりとりで、これが本当に心つかまれるものだった。今回は単に子どもが言いそうないくつかのことが書いてあるのだがこれが早速生き生きしている。言われればどれも聞いたことのある台詞だがスラスラと書き言葉にできるのは生活で子どもと密に関わっている人だからだろう。私は古田徹也の著作や講義のおかげでウィトゲンシュタインに触れ続けているが『このゲームにはゴールがない』もウィトゲンシュタインと自由に距離をとりながら対話する書き方がすごかった。「子どもが「痛み」という概念を習得するプロセス」とか「子どもが言語ゲームを始めるとき」など「心」って、「心をもつ」って、ということが詳細に議論されているのでこちらもすごくおすすめ。にしてもこれにしても『謝罪論』にしてもめちゃめちゃややこしいことによくここまでピタッとくっつきながらいくつかの視点から描き出せるよなあ、と思う。子どもの言葉も生き生きと描き出せるわけだ。『謝罪論』も最初から謝罪のややこしさがすごくわかるから「もう謝罪という言葉を一度なくしてみたほうがいいんじゃないの?」とか思わなくもないが、そんなことをしていたら多くの言葉が消滅してしまう。というか言葉は取り消し不可能だからこうやってややこしい議論をしなくてはいけなくなるのだ。難しい。ややこしやー。「すみませんではすまないんだよ!」みたいなこと言いたくない。内心「私何ややこしいこと言っちゃってんだろう・・・」と思うだろうし。とにもかくにも下訳をお送りするのが少し遅れます、という謝罪メールを書いた。クスン。思ったより時間が取られていて困るが小さなお出かけもしながら息抜きだけは上手にやっている。言い方を変えればサボるのだけはやめられないってやつだ。「サボる」って言葉もさ、とか始めたくなるがそんなことしてるから時間がなくなるのだ。今日は少しだけ遠くへ。電車の中で頑張ろう。みんなー、と意味もなく呼びかけたくなるなあ、今日は。対面で会える日々だけどコロナもインフルエンザも本当に流行っているからお気をつけてお過ごしくださいね。では。

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精神分析

ひとり喋り。

着々と仕事を終えている、と早く書きたい。早く書きたい、という時点で全く「着々」感がない。今日出すのも「速達」だし。高いし。昨日出せる予定だったのに持ち歩いていた書類を間違っていた。郵便局で気づくなんて・・・。悲しかったけど速達の切手を買って速達という赤いスタンプを押してもらった。スタンプ押してもらえたのは少し嬉しかった。朝出すのを忘れないこと。毎日毎日確認事項だらけ。自分でやっていると結局間違ったり忘れたりするから「忘れてそうだったら言って。忘れてそうじゃなくても言って」とリマインドをお願いすることもある。私もできることあったらするから言って。ああ、何ができるだろう・・。

翻訳は難しい。意味はとれても日本語の書き言葉にするのは非常に難しい。なんなんだ、このギャップはと思う。わかるのに伝わる言葉にできない。でもまあ言葉というのは大体いつもそんなもので対話しているうちに「ああ、そういうこと」となったりすることも多いのだから、とも思うが、書き言葉は直接的な対話を前提としていないので「言わなくてもわかる」書き方が必要なのだ。なんてひとり喋りをしている場合でない。

まず速達を出すこと。念じておかないとすぐに忘れる。前に抱えて歩くリュックのチャックを少し開けて自分から見えるようにしておかねばならない。駅前のポストに無事に投函してからチャックをしめること。癖で封筒の端っこ押し込んでチャーッとしめてしまわないこと。はい。

今朝はウィニコットフォーラムのための抄録を仕上げた。色々書いていたがほとんど使わなかった。まあこれもそのプロセスが大事、ということで。

ああ、言い訳がましい朝ですよ。

今夜はこれ。

RadioAmbient 027 : The Bookends Vol.02

ただの雑談だけど楽しかった。紹介した本はぜひチェックしてほしいです。

どうぞ良い週末を。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析 言葉

9月27日朝。

キッチンで色々しているうちに空の青が薄くなってきた。きれい。54袋入りの麦茶が消費できていないけれどこれは2巡目なのかな。8月初旬に青森に行く前から作っていたと思うのだけど、と書いていたら「あ、これ2袋目かも」と思えてきた。前に空になった袋に別のゴミを入れたイメージが浮かんできた。青森、楽しかったな。猛烈に熱くて猛烈な陽射しでまだ日焼けの跡がくっきり残っている。最終日に行政の方にたくさん説明をしていただいた八戸ブックセンターでは24日(日)「本のまち八戸ブックフェス2023」が開催されたとのこと。私も知っている関東の出版社も参加されていた様子。会場はこの八戸ブックセンターと「八戸まちなか広場マチニワ」「八戸ポータルミュージアムはっち」。街づくりの時にこれらを拠点として街をぐるっと回れるように設計したというのも聞いた。私たちは何も知らないままそれらをぐるっと回ってブックセンターに到着したので街づくりは成功している。

あ、雨だ。さっき天気予報をみて朝だけ少し雨マークがついていて「ふーん」と思っていたら本当に降った。降り込んではこなそうだから窓は閉めない。鈴虫が遠くの下の方で鳴いている。水平線を想った。空はもうだいぶ明るい。

別のところにも書いたが、人の心を殺して身体を傷つけるような人でも外では優しく穏やかに軽薄なおしゃべりをしながら快楽優先で過ごすことは当然ありなのだが、知識があったり書くのが上手ということだけで臨床の知にまで踏み込んできたりするのは厄介だなと思う。もちろん賢い人の行動よりお言葉のほうが関係のない人には貴重で、知的な部分だけで「学際的」であることも大切かもしれない。でも、現場での搾取や現場でトラウマが作られる可能性に言及するのであれば、同時に、法的にも規約的にも規制されない部外者をお友達感覚で現場に関わらせて消費者からお金をとることについても鈍感であってはいけないのではないか。少なくとも人をモノのように扱う人に自動的に書く場が与えられているのをみると世の中の仕組みだなあとうんざりする。見えない暴力は蔓延るばかり。現場を守る環境を壊す仕組みを見ながら現場で仕事をするというのは不毛だが不毛さから何かを見出す仕事だから無思考にはなりたくない。そんな社会でも自らの思考や心ある身体を守ろうと思う人は患者としてやってくるだろう。すでに傷ついた心身と共に。言葉と力で言いたいことだけ押し通そうとしているだけの人を見破ることはできなくても戸惑いや疑惑を感じたら相談する場と出会ってほしい。背中を見せれば触ってもいいと思っているような人たちは現実にいる。一度受け入れれば何してもいいと思っている人も現実にいる。自分の暴力性もナルシシズムも否認して相手が悪いとする人に効く治療はあるかもしれないがないかもしれない。そういう人が治療を自ら求めるとしたら自分が相手にしたことを自分が体験したときかもしれない。やはりこの仕事は傷ついた人たちに向けられているので弱い立場の人の声をかき消すような構造や仕組みに対してできる抵抗を考えないといけない。専門性はそのためにあるのだろうから。

今日こそ地道に。コロナもインフルエンザも流行っているようなので皆さん、どうぞお気をつけて。体温調節も難しいと思うけど脱いだり着たりできるようにしましょう。

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散歩 精神分析

月、祭、音楽

昨晩、月がきれいだときいたが私が見たときにはもうどこかへ行っていた。その前の日はきれいに輝く月を見た、神奈川県秦野市で。ということで今朝の音楽はB’z「今夜月の見える丘に」と思いきやスターダスト☆レビュー「月の輝く夜に」。彼らももう長い。B’zより前からだろう。B’zは今年35周年。最初から大好き。吉田栄作も来年歌手デビュー35周年だそう。なぜ突然吉田栄作かというと「秦野たばこ祭」でライブを観たからです。栄作(ライブで野太い声で「栄作ー!!」と叫んでいた人を思い出している)は「はだのふるさと大使/秦野たばこ祭エグゼクティブアドバイザー」とのこと。LUNA SEAの真矢もはだのふるさと大使ということで和太鼓を披露していた。私は川沿いにズラーっと並んだみんなが掲げたスマホの画面にそれらしき姿を眺めながら遠くからの太鼓とスピーカーからの音を聞いただけだけど。とてもいい祭だった。祭については時間ある時にnoteにでも書いておこう。ちょっと確認しながら書かないとだろうから。LUNA SEAはB’zより少し遅い登場だった。なんでもB’zが基準になっとる。

今朝も何も進まないまま寝不足。大変なことだぞ。羊羹とお茶の組み合わせは早々にいただいたが。日差しが優しくなったのにもホッとする。バタバタと移動しながらの日々だから辛かったんだ、夏は。電話もしなければいけないんだ。まずい。気づいたそばからその前に思い出した予定が抜けていく。大丈夫じゃないな。が、こういうことは珍しくないので単にしっかりしなさいという話か。なんでも寝不足のせいにしてないで。昨日は早速買ったばかりの高性能イヤホンが行方不明になり泣きそうになった。なくさないように派手な色のポーチに入れねば、と思ったところまでしか記憶がなかった。帰り道まで気づかずにいられたのはよかった。仕事詰まってるのに気になっちゃって、というのでは困る。患者さんたちもいろんな音楽聞いてるよなあ。この仕事してるといろんな学校や仕事や音楽やゲームや習慣の話を聞くので世界は広いなと感じる。自分のことを話すというのは他人のことを話すということでもあるのでお会いしたことのない人が聞いたり読んだりしているものまで知っていたりする。私は最近再びジャズを聴き始めたおかげでずっと音楽活動をしてきた先生といろいろ話すことができた。黒人音楽のような手応えのある「相手」の登場は日本にはありうるだろうか。小さな差異に非対称を見出すことでは話を聞く気などない相手に抵抗することはできないだろう。いつの間にかのっぺりと「きみたちも似たようなもんですよ」と呑み込まれなんだかんだそこに安住している自分を見つけたりしないだろうか。それも見ないふりでいくのだろうか。傷つきはすべて「個人的なトラウマ」として処理される可能性はないだろうか。行けるところまで見て見ぬふりで?実際、そうなっていると感じないだろうか。日本の精神分析は日本の文化に向けられたものである必要がある。患者が生きる場所自体の分析を同時に行うために大切な対話ができたのはよかった。

今日も冷たい冷たい世界ちゃん、おはよう。秦野たばこ祭の「火」は幻想的に燃えていた。どこで熱くなるかは人それぞれ。それなりの緊張感と切迫感を維持したいと思うがどうだろう。

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精神分析 音楽

「個人的なこと」、「場の安全」?

なんか蒸し蒸しする。まだ冷たい麦茶を飲んでいる。もう9月も22日というのに。もう22日か。言ってみて改めて意識する。どうしよう・・。

あるイベント会社の会員の自動更新が減っているという。どうしてだろう。私もやめた。私の場合は小さな抵抗として。女を部分対象として扱い、扱えない女には暴力的に振る舞い、そう扱える女とは依存関係を維持し、そうすることで自らを使ってくれるホモソーシャルな場ともwin-winであろうとする人を知識人として扱い登壇させる場にお金を払うことは性的搾取の温床の維持に貢献することになるから。個人の戦いなんて誰にも理解されないかもしれないが、そう感じながら戦っている人はたくさんいるというのも事実だ。個人的なことを個人的なこととして考える大切さを知っているからむやみに「私も同じだよ」と言わない。だからそれぞれ孤独だけどそれを維持することも必要なんだ。精神分析は社会的に、政治的に自分を抑圧、否認、解離することで消去してきた人に「個人的なこと」を個人として語る場を提供する。そういうイベントスペースとは真逆の機能。こういうプライベートな空間を維持するためにはそれを脅かす場にたやすく課金するなどしないという努力も必要。私が会員の自動更新をしなかったところで登壇者たちは何も困ることはない。そこではない場所で十分に稼げている社会に「適応」した人が登壇する場所だから。それでも、ということ。

喪失をモーニングワークすることができない時代。実際の身体をもつ人間同士の関係を「リセット」できるかのように振る舞う人が高度なAI技術について語ったり「人は誤る。失敗する。そういうものだ」とかいっているのを見ると「なかったことにしたいだけじゃん・・・」と呆れる。痛みに触れることができないのだろう。相手から脅かされたと感じるとすぐにビビって被害的になってありったけの知識を駆使してこちらを加害者にするスキルも高い。痛い想いするくらいなら相手の心も身体も壊してもいいことになってるみたい。すごいことだ。人の痛みを理解する基盤を自らが壊す。大変な時代だ。そういう人が「場の安全」とか言ってるのをみると驚く。自分の「安全」ばかり考えている人が?安全ってなんだっけ?場づくりについてはずっと考えていかないとすぐに何か良くないものの温床になる。難しい。

Samara Joyの声は優しいなあ。昔、サラ・ヴォーンが大好きでよく聞いていたことを思い出した。個人的なことを大切にできる場をそれぞれが維持できることを願って。

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精神分析

旅のこととか。

日の出が少しずつ遅くなる。西の方はまだまだ明けない。夏の旅は日の出の早い方へ。冬の旅は日の出の遅い方へ。昔からの友人に旅の話をした。「うちは転勤族だったから」ときいてそういえばそうだった、と思った。海沿いの街に住むその人に案内されながら時々車が身体すれすれに通るのを避けながらその人の前を歩いた。便利か便利じゃないか、というのも誰にとって?何を目的にする場合?そういう便利さからはあえて離れたい、とか色々ある。日本全国旅をしていると地域によって観光客に対する態度は異なる。もちろん個人の性質もあるだろうけど「見かけない顔だね」と囁き合うシーンをテレビなどで見たことがあるだろう。異質なものに対する態度はその土地が歩んできた歴史や文化と関係があるように思う。旅するなかでいろんな体験をしてきたが毎回興味深いのは地元の人との関わり。あったりなかったりする関わり。

菅島に泊まったときの話をした。菅島は三重県鳥羽市、伊勢志摩と呼ばれるあたりの離島の一つだ。その人は三重にも住んでいた時期があるが離島のことはあまり知らなかった。菅島には鳥羽マリンターミナルから市営定期船でいく。船がくると多分島の人たちが続々と荷物を積み始めた。鳥羽湾最大の島、答志島に最初に寄り散策をした。島の生活、島の祭事に関わるであろうもの、狭い道路、突然開ける海、猫、歴史を感じさせる佇まいだった。そこから宿泊先の菅島に移動した。旅館の人が迎えにきてくれた。行きはほとんど何も話さなかった。魚が干されているのをたくさん見かけた。答志島の活気とは打って変わってとても静かだった。誰にも会わない道は海沿いなのにいつの間にか海が見えないくらいの木々に囲まれ夕日が沈むまでに灯台にたどり着けるかわからなかった。その後の記憶はあまりない。別に何が起きたわけでもない。魚が干されている四角い網、木々の間からチラチラ見える海、私たちしかいない大広間と御膳、そんな断片的な場面と独特の静けさだけが私に残った。翌日、宿を出て船の出る場所まで送ってもらった。昨日と同じ人が島のことを話してくれた。最初彼が口を開いたことに少し驚いてしまったがなんだか少し嬉しかった。

友人の案内で海を離れてまっすぐ歩いていたら駅に出た。お店はどこも混んでいるようだった。最初の店は予約で満席、二つ目の店も満席と言われてドアを出てエレベーター前の狭いスペースを挟んだ数歩先のガラス窓はイタリアンだった。入ってみた。入れた。とても美味しかった。たくさんの話をした。お互い生活が変わってもなんでも話し合える関係は全然変わらない。楽しかった、と駅へ向かうと時間を調べてあった電車が電光掲示板に出ていなかった。人身事故でダイヤが乱れてるとアナウンスがあった。乗り換えが増えるだけで電車の本数はある駅だ。私より心配そうに見送ってくれる友人の変わらなさにもほっこりした。

今日も一日仕事だ。いろんな土地での出会いや思い出を自分の背景に海みたいに広げながらそこで遊ぶようにでも真面目な顔して仕事したい。いい気持ちで二度寝したらこんな時間になってしまったけど。どうぞ良い日曜日を。

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精神分析

上原ひろみ新作とクラリネット

ゴミ捨てにいった。私より早く家の前の道に誰かいる音がしていた。もう昼間みたいな音を立てて。ゴミを持って外に出ると誰もいなかった。隣の家はまだ起きていない。あの窓がガラガラと音を立てるんだ。ゴミを捨ててタイマーをかけていた除湿機に溜まった水を捨ててまたかけた。玄関には靴もたくさんあるから除湿は必須。とはいえ毎日同じ靴ばかり履いている。最近はいつ雨が降ってもいいように傘は持たずともずっと雨用のスニーカーだし。靴は服よりも使ってあげないと悪くなる気がする。持っているのはスニーカーばかりだけど生地によってはすぐはきにくくなる場合もある。不思議だ。生地の特性とかをしればうまいお手入れもできるのだろうけど。靴屋さんみたいに壁に貼り付けるみたいに並べれば手に取るかな。なんでも一番ちょうどいい場所にあるものを使ってばかりだから。

コンビニのレジ横にあったというスイートポテトをもらった。角切りりんごが入っているとあって確かにポテトというよりアポー。紅茶が合う。

柳樂光隆による上原ひろみのインタビューを読んだ。衣装もすごくかわいい。米ラジオ局「NPR」のTiny Desk Concertの音源が最高。最高すぎて何度も何度も聴いてしまう。

SET LISTは 新作”Hiromi’s Sonicwonder”から”Sonicwonderland” “Wanted”の2曲。トランペットの Adam O’Farrillがすごくいいと書いてあったが実際すごかった。ドラムはGene Coye、音が小さいってあったけど本当にそう。ベースはHadrien Feraud。あとでアルバムも聴いてみたい。私はベースはビリー・シーンとダフ・マッケイガンくらいしか名前を覚えていない。ギタリストはたくさん知っているけど。それももうだいぶ忘れたか。楽器として好きなのはベース。昔付き合っていた人もベーシストだった。低音の方が好きなんだろう。このアダム・オファリルのトランペットもクラリネットみたい。ああ、素人すぎてなんと表現していいかわからない。

小さい頃からピアノを習っていた。隣の市まで子供だけで電車で通った。ボックスシートではないドアのそばの二人がけの席でちょっとしたことでずっと笑いをこらえるように笑っていた。うるさくする子供ではなかった。たまに喧嘩もしたがお互い少し心細かったのかすぐに仲直りした。車内で編み物をしている高校生がいた。みんな三つ編みだからあの学校だ、とわかるようになったのはもう少し経ってからだ。父の整髪料の匂いがすると父がいるのでは、と探した。仕事をしている父を知っているのにここにもいると思うのだから電車はまるで夢の中だ。駅のドムドムでジュースを飲んだ。ドムドムの象さんはいつもそこにいてくれた。ピアノの先生はきれいでしっかりした人だった。ピアノの才能が特にない私は順番を待っている時間が大好きだった。とにかく綺麗がいっぱいだった。綺麗なカップで紅茶を淹れてくれる。最初はいい子にそこで待つ。すぐに飽きる。綺麗な花柄のトイレットペーパーを点線でちぎってポケットに入れたり勝手に外に出てマンションの生垣を綱渡りするようにひと回りして戻ってきたりした。マンションの周りは同じ植物ばかり、と思ったのもその頃。一番楽しかったのは先生が一緒に暮らしていたクラリネット奏者のお部屋に入ること。細身で優しくて小さく笑う人だったがそこで会ったことはあったのだろうか。いつも誰もいなかったような気がする。私の記憶ではその部屋はとても小さかった。いつもドアのそばの低めの本棚の前に座り込んで音楽雑誌を見ていたから中の広さを気にしたことがなかった。今思い出してもそんなに広いマンションではなかった。クラリネットの練習部屋だったのかもしれない。雑誌の中でもクラリネットはトランペットより上品で私はなんだか誇らしかった。クラリネットの音というか多分その人が奏でるからなんだけど、その音に魅了されたのはそこでだったからやっぱり彼はいたのかもしれない。アダム・オファリルのトランペットをきいて彼のクラリネットを思い出した。

冬休みはいろんなライブに行きたい。旅先で出会う音楽もいい。そろそろワイヤレスイヤホンを買うか。ずっと音楽と離れていた気がするけどそろそろ昔みたいに一緒に。

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精神分析

夏と秋の間、時間軸

今朝の空もきれい。オフィスの窓からはずっと遠くまで空が見える。夏の雲と秋の雲が共演する季節。単にダイナミックなだけではなく、単にコントラストがはっきりしているだけではなく、うっすらと落ち着きが宿る。特に昨日は風がなかったせいかもしれない。絵画みたいな空だった。その空の下の明治神宮の森は空よりも少しだけ秋らしく緑に少し錆びたような色が混じり始めていた。昨晩の空は夜の萌黄色という感じで緑がかってみえた。明日は雨なのかな、と空を見上げながら帰ってきた。実際、今日は雨が降り出すみたい。移動の時間と重ならないでほしいけどちょこちょこ移動してるからどこかで雨にあたるのは仕方ないか。明後日は?くもりのち晴れか。悪くない。

今朝はこの秋はじめての柿。ワケアリみたいな感じで4個入りで安く売られている和歌山産の柿。袋がかわいくて柿の時期が終わるまで今年もきっと何度も買ってしまう。最近スーパーで買い物をするたびに合計金額に驚く。いつも似たようなものしか買わないのに物価が高すぎる。海外に行けるだろうか。柿は見かけより熟していた。おいしい。硬いのも熟しているのも好き。

インスタでお花が開くタイムラプス映像をじっと見ていた。ずっと見てしまう。小さい頃、部屋のお花がいつ開くのかと植木鉢と同じ高さで寝そべるように頬杖をついてずっと見ていた。お水をあげるとピクンと動くのを目にすることができたが開花を見るには時間も忍耐も足りなかった。いつの間にか寝てしまい目覚め慌てて花を見ても眠る前と何も変わっていなかった。小声で声をかけたり歌を歌ったりしてみたが声も変わってるし歌も下手だからあまりいい刺激にならなかったかもしれない。でも花こそ変わった形や色に溢れてるから人間の変さなどきっとどんぐりの背比べ。タイムラプスやスローモーションという手法は私が待っていた長い長い時間をぎゅっと縮めてその繊細な動きを鮮やかに見せてくれる。大体の植物は頭をグイッともたげるようにして立ち上がりゆらめく。そのしなやかなこと。大野一雄なら表現できるかもしれない。植物とも動物とも境界をぼかせる人間もいるのだ。表現というのはすごい。私は時間軸が異なる世界に感動することが多いような気がする。だから精神分析とかやるのだと思う。絵本とか子供の本とかだと引き出しとか庭の穴とかが時間軸の異なる世界への入り口になる。でも植物といたり動物と暮らしたりすると時間軸は自ずと揺らぐ。あと赤ちゃん。

あー。社会の時間はもう私にこれを書くのを続けさせてくれない。突破することもできるが合わせることで得るものも多いから出かけますよ。みなさんもどうぞお元気で。

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精神分析

カーディガン、チョコレート、いちょう並木のセレナーデ

窓の外がきれい。でも風が足りない。朝晩はだいぶ涼しくなった。昨日の帰り道、Tシャツの上にカーディガンを羽織っていたことを駅に着くまで忘れていた。冷房対策と夜の気温対策が同じ服でいけるという時期ということ。

誰かと会うたびにちょこちょこお菓子とか小物を贈り合うが、そろそろチョコレート好きの友人にあげられるかも。ずっと外にいるのでなければ溶けないだろう。棚に並ぶチョコを眺めてその人の顔が思い浮かんでも手にとれない時間が結構長かった気がする。だってここにこうやって書く程度には何度も同じことを思ったから。チョコレートは気楽に買える範囲では日本のチョコが一番おいしい気がする。DARSとか出たとき「あーこれおいしい」と思った覚えがあるし。アポロとかかわいいのも最高。あー。秋だからモンロワールの葉っぱのチョコとかもプレゼントにいいか。そういえばDARSのCMってオザケンだった。

オザケンはこの季節だったら

♪きっと彼女は涙をこらえて 僕のことなど思うだろ いつかはじめて出会った いちょう並木の下から♪

ですかね。 「いちょう並木のセレナーデ」。

仕事が全然進んでいない。隙間時間にひたすら訳すとかしないと翻訳の仕事は進まない。ウィニコット協会の抄録は絶対今日書こう。

そうそう、私がはじめて読んだウィニコットの論文は「食欲と情緒障害」(1936)だったと思う。今は精神分析家になられた妙木浩之先生が『小児医学から精神分析へ ウィニコット臨床論文集』の読書会をしていらしてそこに参加した初回が第1章のこれだった。私にとって最も印象に残っている論文でもある。もちろん内容的には重要論文と言われるものはこの本の別の章のものだったりするのだけどインプリンティングみたいなものだ。最初に出会ったものを親だと思う、みたいな。その後もよくわからないなりにウィニコットだけは読み続け、よくわからないからクラインとフロイトの購読会に何年も参加し、そこでいろんな分析家の論文に触れ、今は自分で読書会を持つようになったし、精神分析家になる訓練まで受けてしまった。同一化ってこういうプロセスなんだな、と事後的に感じているのが今。

とか言っている間に作業をしましょう。少ししか時間がなくなってしまった。なくなって、とうったら「な苦なって」とでた。テレパシー。今日は木曜日。なんとか過ごしましょう。

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精神分析

朗読、絵本

鳥たちが少し鳴いてまた静かになった。窓を全部開けてみたけど作業するには暑くて少しの隙間を残して閉めてエアコンをつけた。エアコンの音。風が涼しい。でも冷えるばかりで自然ではない。

友人が朗読のファイルを送ってくれた。小学生の頃、教科書をもらったら国語だけはすぐに全部読んでいた。朗読も大好きだった。指されると嬉しかった、ような気がする。今も保育園でまだ絵本でさえ重たそうに持って膝に乗ってくる子たちに読み聞かせをする。辿々しい足取りでみんな違う絵本を持ってくる。「読んで」とはまだ言えないが目の前にぐいぐい差し出してくる。かわいい。最初に持ってきた子の絵本をみんなに見せるように読みはじめるとさっきまでぐいぐい自分の本を差し出していた子たちの動きが止まってそのままの姿勢で絵本に見入る。読みながら立ち尽くして絵本に吸い込まれそうになっている子のそばの床をトントンとする。座る。目線は絵本から離れない。読み終わると「もっかい!」と小さな手で同じ絵本をもう一度開いてくる。さっき自分の絵本を読まれなかった子たちが再び目の前にいろんな絵本を押し付けてくる。「じゅんばん」となんとなく掴んでいた順番で次の子の絵本を受け取る。別の子がそれを叩き落とすようにして自分のを差し出す。一応受け取って床をトントンとして座ってもらって3番目の子にアイコンタクトをしてうんうんと頷く。その子に表情でお礼をして2番目の子の絵本を読みはじめる。どうしてこれが通じるんだ、と思いながら。大学の臨床センターで幼児グループをみていた頃もよく任せられた。その頃は今よくみている0、1、2歳よりも大きい幼児さんだったがADHDや自閉症など発達の困難を抱えている子たちだった。すぐにどこかへ行ってしまう子供たちもいたが私が絵本を読む時間は療育の後のフリーの時間だったのでみんな自由にしていてよかった。それでも絵本には力があるのだろう。遠くにパーっと走っていってもドアのところから絵本をじっとみている子もいた。隣で急に大きな声を出すので「どうぞ」という気持ちで床をトントンすると隣に座って絵本は見ずに言葉を聞いているようだった。

あ、朗読のこと。いつの間にか友達が送ってくれたファイルの再生が終わっていた。私もこれにチャレンジする予定。

もう13日か。まずいな。みんなはどんな感じだろう。どうぞ元気で。

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精神分析って。

窓を開けずにキッチンであれこれしてパソコンの前にきた。キッチンの小さな窓は開けっぱなしで寝た。その前に立った時にあまりいい風が入ってくるようなイメージを持てなかったのかもしれない。椅子に座ってすぐにエアコンのスイッチを押した。鈴虫が今日はそばで鳴いている。

今朝、宇多田ヒカルのインスタがネットニュースになっていたが私もこの写真はインスタで見た。ほんと子供ってすぐに大きくなる。こうやって私生活を守りながらあれだけの仕事をしていることにも驚嘆する。宇多田ヒカルは精神分析に助けられたそうだし私も助けられてきた。では何が助けになったかというと精神分析を体験した人とは共有できると思うがその人たちとさえ言葉で共有できるかというと心許ない。むしろその共有できなさについて言葉にすることになる。私のところへ来る人は専門家に話すのははじめての人もいれば別の場所にかかったことのある人もいるし多くは医療にかかりながらだ。彼らは以前のカウンセリングや医療での体験を「話を聞いてもらえて」とか「問題を整理してもらえて」と話すことが多い。精神分析にもその側面は含まれるが混乱の中、狂気に陥らずに混乱したままいられるようになるとか、自分にしかわからないことを自分にしかわからないこととして大切にできるようになるとかいうことを助けに感じていることが多いと思う。異質なものや人に対してバウンダリーを揺さぶられつつもメタで考えられる自分の機能を失わなくなる。ほとんどの場合、「適応」はいつの間にかよくなる。憎んでいた人や場所を愛せるようになるとかではないけれど「最悪!」と思いつつも憎しみに覆われることも減るし、覆われている自分に自分で気づけるようになるので行動が変わる。外側は何も変わっていないのに自分が別のしかたでそこにいられるようになる。あるいはいてはいけないことを認識できるようになる。もちろんそのプロセスは反復のプロセスでもあり何度も似たようなことは起きる。その度に狂気に陥りそうになる。でも精神分析が機能していればその反復は少なからず治療者との間にも起きている。だから外側のことではなく今ここのこととして扱える。同じものをお互いの場所から眺め対立したり共有したりする。「そっちからはそう見えるのか」という驚きに素直に驚くことができず「こっちからはこうにしか見えないのだからこうなんだ」と言い張ったりしながら少しずつ別の可能性に開かれていく。このプロセスにおける二人はとても対等で直接的な関係だ。でもこの局面にこそ関係の非対称を持ち込みたくなるのも事実。差異はあるものとせず差異のせいでこうなっているという考えにとらわれてなんとか自分の立ち位置を維持する。それはある意味なけなしの努力でもある。変わることは怖いことだから。などなど。体験してみなければわからないことを言葉にしていくことの意味などない、とは全く思わない。自分の知らない場所の方が知っている場所よりずっと多いなんて当たり前なのだから。「そういう場所があるんだ」と知るところから旅が始まるのと同じ。精神分析状況を両方の立場で体験しているから観光案内としてもそんなに間違ったことは書いていないと思う。でも考えは変わるかもしれないからこういうことも書き続けると思う。もう準備せねば。今日は火曜日。なんとかやりましょう。

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精神分析

北杜市、シャトレーゼ、環境。

今日は虫も鳥も遠い。PC前にきたのが遅かったからか。ハーブのパウンドケーキをハーブティーと。どちらもとても優しい味。ケーキ職人の友人が暮らす山梨県北杜市で今週末だかいつだか何かのイベントに参加すると大学のときの友人が言っていた。詩とか本のイベントかな。ほかにも知り合いが北杜市のイベントに出ると話していた。みんなが知らずに同じ場所で出会っていたりするのかな、と思いながら聞いていた。北杜市が合併する前、不登校の子どもたちと廃校になった小学校で長期休みを過ごしていた頃、みんなを連れてシャトレーゼのアイス工場へ行った。工場見学はとても楽しくてみんな食べ放題のアイスを競い合って持ち帰ろうとしていた。すぐ溶けるってわかってるのに。さっきウェブサイトを見たらこれまでの工場見学はコロナ禍の2020年に休止し、2022年4月に再開中止の発表。その後は有料の体感ツアーという形で見学は再開された様子。食べ放題はないらしい。もう25年以上前のことだがみんなが嬉しそうに楽しそうにそこにいられるような場を作ってくれたことに感謝。今でも話題にするほど楽しい時間だった。

シャトレーゼは私が子どもの頃にできたのだと思う。どういう出会いだったか忘れたけれど小さな衝撃のようなものを受けたのを覚えている。田舎の子供が知っていたアイスとは違うというよりも多分私が驚いたのはその売り方だったような気がする。今はシャトレーゼは素敵なケーキ屋さんのような店舗ももっていてそれを見たときにも驚いた。この変化に対する大きくはないがそれなりに何かを考えさせる驚きをうまく表現することができないが別の文化と出会ったような感じだったのかもしれない。

違う文化といえば、先日、外国からきた訓練分析家資格を持つ精神分析家と話す機会があった。そこでオーストラリア精神分析協会のトレーニングシステムの話を聞いた。精神分析家になるためには訓練を受けなければいけないがその訓練を受けている人たちを候補生candidateと呼ぶ。私もその一人だ。

日本精神分析協会は東京支部、福岡支部の二つがあるのだが、オーストラリア精神分協会にはシドニー支部Sydney Branch 、メルボルン支部Melbourne Branch、アデレード支部Adelaide Branchの3つの支部がある。

そこでは、
the candidates of the three different Branches of the Society meet interstate three times per year to share their clinical and theoretical experiences.

ということでin personで年に3回、州を超えて3支部の候補生が一同に会する機会があるという。精神分析の訓練は組織によって違いがあるとはいえかなりハードだ。そんななかこういう機会が候補生たちに対して設定されているのはとても心強い。

人はそれぞれ少しずつだが大きく異なる文化を持つ。日々、多くの人のこころの動きに細やかに出会っていくためには異なる文化に対する自分のあり方を常に内省し、変化させていく必要がある。そのためにはそういう違いをたくさん体験していくしかない。同じ場所でも別のしかたで立つために訓練を続けている今、環境側の整備も同時に必要だ。いまだcandidateとはいえ普段は教える立場でもある。次世代に向けて何ができるかも自分が訓練でどう変われるかにかかっているのだろう。

シャトレーゼに一緒に行った彼らとも本当にいろんなことがあった。今思えば私たちはそれほど歳が離れていなかった。元気だろうか。私のできなさを笑いからかいそれでも頼ってくれたりもした。感謝。私たちはみんな違うけどみんな似たようなものでもある。大学のときの友達とは会うたび「変わらないねー!」だが彼らからはすごく老けたと言われるだろう。現実、そうなのだ。同じか違うかより変われるかどうか。今日はどんな感じだろう。慌ただしいがなんとかやろう。みなさんもどうぞ良い1週間を。

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言葉。

洗濯機が回る音。いや、洗濯機を回す音?洗濯槽が回る音?洗濯槽も洗濯機の一部だからやっぱり洗濯機が回る音?元に戻ってくるまでのくるりんくるりん。言葉が醸し出す空間をくるりんくるりん。

「でもなんかそういうふうに言いたくないんだよなぁ」「なんで(笑)」言葉を使うというのはそこに含まれる命令に従うことだから?ピクトグラムだってそう。なんでそのマークのある方へ入らなくちゃいけないの?なんで三つしかない丸の色で止まったり進んだりしなくちゃいけないのさ、といって赤信号を渡ったら死んでしまうこともある。それはそれで縛られちゃってる。私は赤信号を突っ切って走ってきた車に轢かれそうになったことがあるが自分が間違ったのかと混乱した。その後、赤信号を突っ切っている車を数回見つけて「そういう場合もある」ということを確認したが。

言葉はずっと遊ばせておくと遊ばなくなってくる。楽しくてはじめた遊びがそのうち捕まるような悪さになっているなんてこともある。精神分析は言葉遊びというよりは言葉が遊ぶ生き生きした感じが好きなのであって患者のそれを大切にしたい治療法なのだと私は思っている。そしてその遊びは抑圧という心の動きを細かに想定してこそ成立する。抑圧されたものに気づくプロセスには痛みが伴う。自分ひとりの言葉がそうではなくなるから。押さえつけられているように感じるから。好きに話させてもらえない。ごまかしていては伝わらない。小さい子が叱られたときに大きな声で言ってはいけない言葉を何度も何度も繰り返して親の言葉を遮る。あれは悲痛な叫びだ。言葉で縛るのはやめてよ、と。自分は自分を大切に閉じ込めていたいんだ、という言葉が相手に通じるとわかると少し相手が自分に入ってくる。そして長い時間をかけて他人がいても言葉が遊ぶようになってくる。むしろ他人がいたほうが言葉が自由と感じたり。抑圧は治療者の言葉(非言語を含む)が患者の心を、という流れだけではなく患者の言葉(非言語を含む)が治療者の心を、という流れもある。陣初期のコンピューターで陣取りゲームをやったことがある。あんなシンプルではないがいつの間にか自分の陣地が減っているような感覚、それを取り戻そうという動き、いろんなことが二人の間に生じる。「コミュニケーションが成立しない」と言って切り捨てるのは簡単そうで簡単ではないから何度もそう思いながらずっと一緒にいたりもする。争いも消えないが仲直りの機会も残り続ける。コミュニケーションをしたいかどうかは重要だが。

たくさん言葉を聞いてたくさん言葉を使った後にひとりになる。別の音が聞こえてくる。別の言葉が生まれてくる。昔やった言葉のひとりあそび。最近は遊ばなくなった言葉と短時間戯れるように過ごす。言葉を使うことはとても疲れる。別のものに気づく余裕をなくすこともある。精神分析は毎日のように会うけど会わない時間の方がずっと多い。そのことがいかに重要か。音楽も聴き続けない。邪魔が入る。電源を落とす。それを聞いていないときに聞こえてくる音にノル。今日も一日。

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「地続き」にしない

お湯を沸かして残りのカポナータを温めてゴミ捨てにいった。涼しい。昨晩はタオルケットでは寒いくらいだった。雨は上がっていたが湿気がすごい。鈴虫。通りにはまだ誰もいなかったが家の中で人々が起きているような気配があった。今日は隣の家の窓が開いていない。土曜日だから少しゆっくりなのだろうか。ゴミ箱はすでに結構いっぱいだった。開け放したままの玄関に戻って昨日面倒で捨てなかった除湿器の水を捨てた。いっぱいになっていない。しょっちゅうかけていたからか。でも表示は湿度76%。この数字の方が溜まった水の量よりリアルなはずもないが体感はこっちに近い。空気はどれだけ水を閉じこめておけるのだろう。溢れてこぼれ落ちたものが雨か。メタファーとしても涙と近い。再び除湿器をONにした。「ワイド」「4時間」、あといくつか設定があったが変えるのはタイマーくらいだから忘れてしまった。

なにもする気がするせずただ眠れなかったというだけの寝不足をなんとか取り戻した。元々睡眠時間は長くない。どこでも眠れるからだろうか。昔は電車のドアの隅っこに立ったままガクンってなることも多かった。見かねて席を譲ってくれた人もいた。年上の人だった。「ベッドで寝なさい」と言ってもらえるのは子どもだけか。大人になってもそういう部分は子どものときのままという人もいるか。そうやって親と子供みたいなパターンになっていくこともあるのかもしれない。自分の性質の強い部分を強化する相手は対象として選択されやすいだろうから。

先日、音楽評論家の方にこのブログを引用されてびっくりしてしまった。閲覧数が平均より増えるとなのかなんなのかわからないのだけど通知がくるのだ。「読まれてます!」という通知はnoteだったか。いろんなところに書き散らしているのでそれぞれの文言を忘れてしまった。引用はその方の記事について書いたからに違いないけどその人のだから、と辿ってきた方々にこんな文章でなんだか申し訳ない気もした。きちんと考えて書くような文章は公にしない文章の方が多い。考えたからといって大した文章が書けるわけでもないが姿勢として。考えるでもなければ溢れてくるとか?というわけでもない。キーボードに手を置いて起きたばかりのことを書き始めると自然に浮かんでくる他愛もないことを書いているだけだから時間切れで突然終えてしまうことも多い。でもその人の記事がとてもよかったということが伝わったのならそれはそれでよかった。そういえば昨日はすごく久しぶりにブログを書かなかったな、と思ったら書いていた。寝ていなかったから時間軸が狂ったのかもしれない。

少し前に『中央公論』2022年10月号掲載の大山顕さんの文章を読んだ。漫画『東東京区区』のかつしかけいたさんが写真の色づけに関して紹介していた。

寝なかったその日にベッドで一瞬見た夢がカラーでも白黒でもなかった気がしたのとインスタで結構見かけるモノクロのポラロイド写真の数枚が重なって思い浮かび、写真の色づけに連想が飛んだ。

大山顕さんは写真家だ。記事はネットで途中まで読めるが私は全文を読みたかったのでKindle Unlimitedで読んだ。「戦前・戦争写真のカラー化は何を見えなくしたのか――色づけが生み出すスペクタクル」という記事である。写真に残された記憶を色付けによって現在の自分たちと「地続き」「身近」にすることについて彼はこう書く。

ー「地続き」「身近」にしないことの重要性があるのではないか。自分に引き寄せて感じたり考えたりすることは、いつでも良いことなのだろうか。遠く隔たったことを、そのままにして考え続けていくことが重要な場合もあるのではないか。そうでなければ、「当事者」が最も「正しく」なってしまう。ー

夢はどちらにでもになりうる。見たのは眠っている自分だけで最初から「正しく」などありようがない。

触感が強く残った一瞬の夢だった。精神分析状況は夢見と覚醒を行き来する場だ。今日はひたすら覚醒している必要がある時間があり言葉を信じて使う必要もある。勝手に自分たちと「地続き」にしない。私はそれを心がける。

窓を開けているとやはり少し寒いくらい。気温の急激な変化に体調を崩す人も多いだろう。どうかお大事に。良い週末を。

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雨。資源。

雨がいろんなところを叩く音が聞こえる。鈴虫も鳴いているけどいつもみたいにきれいに声が響かない。その場所から動けないのかな。それとも動いてそこにやってきたのかな。

「娘は絶対日本から出させる」「力のある女性は日本から出た方がいい」というような言葉をよく耳にするようになった。切迫感のあるメッセージだと思う。頭はいいらしいが幼児的な快楽優先の男性に気持ち悪さを感じながら戦ってきてくれた力ある女性たちの危機感は大きい。互いに甘えあってwin-winの世界にいる男女もたくさんいるがそれは多くの場合部分的な関わりなので、子供がいたり、普通に第三者的な視点を持っている人なら遅かれ早かれ自分と向き合わざるをえなくなる。このままでいいのか、と。いつまでも子供でいられる立場の人は永遠少女とか少年でいることに満足を見出す余裕もあるかもしれないからそれはそれ。でも永遠少女やお勉強はできて自分のダメさもふざけながら上手に自己開示できている男性に「ほんとそういうところが・・」なんて真顔で言おうものなら引きつった笑いか小さな舌打ちとともに不機嫌になって急に相手を見下した態度をとる人は多いわけで、戦う女性たちはそのあまりに薄っぺらい正体に怒りを通り越してヤバさを感じるのだろう。コミュニケーションが成立しないという判断のもと「こんなところにはいてはダメだ」あるいは「いさせてはダメだ」と。たしかに。「いさせてはダメ」というのは実際に守るべき相手に対して思うことでもあるし、自分の尊厳なるものに対してもだろう。一方、尊厳は守りたいが、たいして力のない私はここにいるしかない、というか与えられた場所でどんな工夫ができるかを考えることをまずするかもしれない。怒りに打ち震えたり吐き気と涙でぐちゃぐちゃになったり、何も手につかずここから動けないという状態になってもそういう自分をぼんやり観察する。そういう時はぼんやりか極端かのどっちかにならざるをえないから眠れないときみたいな少し変になった頭と身体で観察を続ける。狂った世界ではこちらも少なからず狂うこともを許容しないと知らないうちに迎合して本当に心が死にそうな気がする。だからぎりぎりのところに留まる。自分の資源があまりない場合は相当な切迫感がないと行動の判断って難しいけど心が壊れてしまうと死を行動と勘違いしてしまうこともあるから本当に危険。なのでひとりではなく専門家か、普通に思いやりのある人と。彼らが変わることは偶然何か起きないかぎり多分期待できない。自分が変わることも一人では多分相当難しい。だからまるで知らない人(繰り返すけど専門家か、普通に思いやりのある人、あと常識のある人)に相談してみるのもいいと思う。相手や世界に対するあれこれを吐き出しつつそこで反復される自分の心のありように目を向けてみる。それはときとしてこの国から離れたくなるくらい気持ち悪かったその人たちよりもずっと不快なものとの出会いになるかもしれない。でも他人のものより自分のものの方が取り扱いは安全にできる。ときに自分を傷つけたり誰かを傷つけたくなることもあるだろうけどどうにかして持ち堪える力も同時に芽生えていく。そういう心の変容って本当にあるから自分にはそんな力ないし、と本当はすごく気持ち悪いのに気持ちよくしてあげなくて大丈夫、と言いたい。そしてそんなこと言わなくてもいい日がくると願いたい。今はとても無理だけど。なんとか生き延びよう。そうだ、前の職場の人とごはん食べにいく日程決めなければ(=こういうのもありがたい資源)。

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「サイダーのように言葉が湧き上がる」とか寒立馬の作品とか。

「フライングドッグ」の設立10周年記念作品『サイダーのように言葉が湧き上がる』をNetflixで見た。2020年5月の公開予定がコロナで延期され、2021年7月に公開された映画だそうだ。

俳句をやっている友人が「高校生の俳句は本当に高校生が作ってて大人のは黒瀬珂瀾という人が作ってるんだって。よかったよ」と教えてくれた。二人の高校生が出会うまでのオープニングがとてもカラフル。誰かを想うことで防御一方だった過敏さを超えていく二人と彼らを取り巻く人たちの優しさの描写がシンプル。ところどころスマホに打ち込まれる俳句が意外なほどパワフル。

よい映画だった。

台風が近づいているのか。移動に支障が出たら嫌だがなにより被害が出なければよいが。

映像作家の小田香さんという人が、青森県の下北半島で寒立馬を題材に監督作品を作っているという。「かんだちめ」と読む。朝日新聞デジタルの記事で読んだ。小田香さんは大島渚賞の第1回受賞者とのこと。坂本龍一が強く推したそうだ。8月初旬に巡ったばかりの下北半島、下北半島に住むガイドさんがこれまで扇風機しか使ったことがないのに今年はエアコンを導入せざるをえなかったというこの夏の炎天下、のんびりとたくさん歩きながらいろんなことを感じた。この作品はぜひ見たい。その記事に小田香監督が寒立馬を撮影する写真が載っていたがちょうど私たちが行った頃のだった。すぐそばに津軽海峡と太平洋が広がり、それを分ける位置に真っ白な尻屋崎灯台が立つ。国の重要文化財であり日本の灯台50選に選ばれているとのこと。

さて、記事には

「放牧中の寒立馬はかつて、身近で見ることができたが、人が馬に蹴られたり突かれたりするトラブルが相次ぎ、柵越しにしか見られなくなった。」

と書いてあるが、どうやらペットを連れた人とのトラブルもあったらしい、と現地で聞いた。動物と人間の関係は難しい。

そういえばこれは先日ここで文句めいたことを書いた青森県立美術館のプロジェクトの一環だそうだ。素晴らしい活動だと思う。

忘れないようにここにメモしてしまうけどそれが小さなアザであろうと小さな裂き傷であろうと心踏み躙られる体験と重なればその傷自体が消えても痛みは消えることはない。ただ変化はする。単純に薄くなるとか、いずれ消えていく、とかではなく、景色でも人でも外とのなんらかとの関わりにおいて心がふと軽くなったりほっこりすることがある。逆に急に吐き気を催したり突然涙が止まらなくなることもある。そうなることはわかっていてもそうなるときはそうなってからでないとわからない。「またか」と思うのはそうなってからだ。そのときに思い出せるのが心を支えるなにかの方であることをいつも願う。その「なにか」が直接的な関わりだけではなく外からふとやってくるものであることも確認したい。

さてさて、今日はどんな1日になることやら。なんとかはじめましょうか。

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博物館とか美術館とか。

紅茶とフロランタンと粉砂糖のかかった丸いホロホロしたクッキー。名前を忘れてしまった。昨日、緑道を歩いていたらアゲハがフワフワよりも速いスピードで横切っていった。名前のわからない葉っぱのそばをこれまた結構なスピードで舞い降りたり浮かび上がったりしていた。花はないのに何を探してるんだろう。私は少しずつ近づきなかなか写真に収まってくれないアゲハを何回も撮った。きれいに写せたのも数枚あった。アオスジアゲハ。少し光沢のある水色の小さな四角が帯状の模様を作っていてとてもきれい。我が家の小さな花壇の山椒は最初はアゲハの幼虫に食われてばかりだったがいまや時々切り落とさなければならないくらい立派な枝を伸ばしている。どこが転機だったのだろう。花壇にアゲハがやってくると「むしろ今は食べ放題ですよ、ぜひ食べて」と心の中で伝える。料理で使う山椒の葉なんてほんと数枚だから。箱根登山鉄道 「入生田」駅からすぐのところに神奈川県立生命の星・地球博物館がある。以前ここで見た蝶の標本が素晴らしかった気がする。蝶のすごい標本というのは全国回っている間にいくつか見た気がするが多分私がこういうときに思い浮かべているのはこの博物館のだ。河口湖でもそういう展示があったかもしれない。とても心に残っている博物館なのでまた行きたい。今ならもっと違う楽しみ方もできそう。当時よりきちんと観察する力が身についたと思うから。いろんなところへいっていろんな人と話していると「ほらここ」と言われ何かをきちんと見る機会が多い。自分では気づかなかった部分に目を向けさせてもらえる体験はその後の自分の目の力になる、思い出と共に。

思い出といえば青森県立美術館はとてもまわりにくかった。最初から館内が複雑でまわりにくいと言われていちいち案内されるのだが、この案内のせいでまわりにくかった。美術館の設計がどうであれ私は一度入ったら自由にまわりたい。次はあっち今度はこっちあれれどこ行くんですかこれはこっちいやいやお手洗いへあああちらへあれれこちらはご覧になりましたか今お手洗いへ行ってきてはいはいそうですかこっちはご覧になりましたかはいさっきあそうですかなど今やっている「生誕120年 棟方志功 メイイキング・オブ・ムナカタ」は十分に楽しみつつも疲れてしまった。あまりの声の指示の多さに途中からはイライラもしてしまった。どうして簡単な地図と矢印とか視覚情報ではいけないのか。点字だってあっただろうか。美術館では視覚優位になっているので聴覚情報とバランスが悪いと疲れるのだろう、と今思った。余裕があるとこういうことも考えられるがあのときは疲れきった。そのあとに奈良美智の「あおもり犬」へ向かおうとしたらここからだとすぐそこなのにそこのドアは配慮の必要な人用だから、と一度外へ出て階段を登って、と疲労とイライラに少し拍車がかかった。こちらがこれだけ動きにくいとなると障害のある人とか妊婦さんとかにも全然使いにくいのではないか。人の声での指示はできるだけ少ない動線づくりというのが重要なのでは、と保育園でいうようなことを思いながら歩く。いた。あおもり犬。でかいのはわかっていたがかわいい。このおかげで元気を取り戻したがいやはや、自由度大事。

それにしてにも以前青森にきたときに三内丸山遺跡はいったのに青森県立美術館にはいった覚えがない。時間はあったと思うのだけど。すぐそばだし。まあ一度は行けてよかった。八戸市美術館は真逆でとてもオープンな空間で作家との距離も近くその時やっていた展示も非常に印象的だった。また行きたい。八戸ブックセンターでは行政の人とたくさんお話できたし楽しかったな。

しまった、もうこんな時間。いかねば。どうぞ良い1日を。

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林芙美子「漣波」、リモコン、寿命

遅い時間のごはんが消化されない。アタリマエジャ。ソリャソウダ。ごはんを食べたあとまた林芙美子『トランク 林芙美子大陸小説集』(中公文庫)をパラパラした。やっぱり面白い。芙美子は4本の連載を書きながら突然死んだ。今回の文庫にはその中のひとつ「漣波ーある女の手記」が収められている。1951年、芙美子が死んだ年に中央公論社から「漣波ー或る女の手記,女家族,菊尾花(新方丈記)」を収めた『漣波』が出ておりそのあとがきを書いたのは川端康成だった。今回の文庫『トランク』にはそれが付録として収録されている。「漣波ーある女の手記」は手記なので一人称で書かれており「三十歳を越えた私は、十七歳の、あの時から、まるで一呼吸(ひといき)で現在になったような気がしてなりません。」と十七歳のときに女中としてパリで体験した出来事がとても無垢ぶった様子で書かれていて大層面白い。気持ちが昂ったり急に冷めたりうっとりしたり意地悪な気持ちになったり男性との関係で経験する体温の変化を十七歳ならではの無邪気さでなんとなく大袈裟に描写しているのがとてもかわいい。最後に(絶筆)とあるのでこれが未完であるとわかるが書かれなければこの余韻のまま何も気づかないかもしれない。

今朝はすでに暑い。エアコンをつけた。西の窓の左後ろの方でカラスが一声鳴いたあと少し早いリズムで何度か鳴いた。

昨日、とうとうエアコンのリモコン(なんでも「コン」だな)に何も表示されなくなりついに運転を切ることができなくなった。電池を変えよう変えようと思っていたのだが小さなリモコンの動かせる部分を全て(と言ってもスムーズに動くのは1箇所のみだが)動かしても電池を入れる場所がわからず変えていなかった。でも今回ばかりはまずい。消さないで出かけられない。こんなときこそインターネット(久しぶりにきちんと言った)。「ナショナル」と品番を入れて検索。「ナショナル」は2008年にブランド名として廃止されたが私がここに住んで15年くらいだからナショナル最後の世代のエアコンということになるか。やはり世界をつなぐインターネット。同じように困る人はやはりいるらしくすぐに動画が見つかった。なんてことはない。私が何度も滑らせていたカバーの下の方をねじるようにして力を入れて開ければよいだけだった。おかげで「運転 切/入」を押したらピッと消えてくれて出かけることができた。消したら急に鈴虫の声が聞こえ始めた。そういえば冷房をつける前もすごく鳴いていた。同じ鈴虫だろうか。ずっとそこにいたの?私ここにきて15年くらいなんだけどみんなは?検索。鈴虫は卵が孵化してから約4ヶ月、成虫の寿命は約1、2ヶ月しかないそう。「人の手で大切に育てたとしても冬は越せないため、」と読んで悲しくなっていたら「次の年も飼育を楽しむには産卵・繁殖させる必要があります。」と続いていた。Oh…。

今日やるべき事務作業や翻訳作業の資料はひとつのファイルに入れた。分けるとあっという間にどこかへ分散してしまうことがわかったから(何回もやってるけど)「2006世界バスケ日本開催!」と大きく書いてあるファイルに入れた。どこかでもらったのだろう。中学時代バスケ部だった私は一時バスケ観戦もよくしていたから。今回の「FIBAワールドカップ2023」は日本すごかった。前回日本で開催したのが2006年だからこのファイルもこの家にきた頃のものか。ものは大雑把な時計代わり。私は物持ちが良すぎるから時計としてはどんどん大雑把な機能しか果たせなっていくものたちだけどそれぞれの寿命をなんとか生きましょうかね。

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お菓子、クリップ

キッチンの窓を開けたら珍しく鳩の声が一番最初に聞こえた。今は西の窓の向こうで鈴虫が鳴いている。あ,鳴かなくなった。鳥たちがガヤガヤとなにか言っている。どんなことがやりとりされているのだろう。やりとりとは限らないか。人間には思いもよらない何かがたくさんあるのだろう。

今朝は友人の手作りフロランタン。吉祥寺の小さなお店を閉じてから何年経つのだろう。オンラインにお店を出すわけでもなく、季節ごとにケーキと焼き菓子セットを届けてくれる形式。山梨県北杜市から。その人のこだわりにきちんと答えてくれる土地なのだろう。引っ越してからもうだいぶ経つ。小さな段ボール箱を開けるといつもの小さな紙にその人の書いた字が見えた。栗の実のことも書いてあった。「竹のクリップはプレゼントです」とある。箱の中をみるとクシャッとされた薄ピンクの硬めの紙に守られたいつもの蝋引き袋がある。蝋引き袋というのを私はそれまで知らなかった。おしゃれで機能的。袋はいつもはない細長い竹のピンで留められていた。そっと外す。口はとても小さく挟む力はほとんどない。端っこを押して開く仕組みでもない。挟むというより留めたいものをそっと差し込むようにする。いざ挟むと結構しっかりしている。ゼムクリップよりもずっと繊細にみえるけど竹は強い。ケーキの紹介文が書いてある和紙のような紙を差し込んでその確かさを頼もしく思った。その人みたい。竹のクリップは竹細工職人さんに作っていただいたとのこと。嬉しい。フロランタン、とっても美味しかった。少しずつ大切にいただこう。

今日はいつもの仕事の前にあれこれやっておかねばならないことがたくさん。困った。いつも困っている。とりあえずやろう。夜中より雨の音が弱まっていると思うのだけど今日は一日雨なのだろうか。雨は大事。いい音。どうか静かに降ってくれますように。自然に対しては願うばかり。

月曜日、なんとかはじめよう。

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おばあちゃん

「うん?三日」と思う。昨日は「うん?二日?」と思った。一昨日は「(略)」と思ったがいよいよ〆切日だ。毎月毎月誰も見ていないのに声も出さずこんなことを繰り返している。「ちっ、暦なんかあるから、グレゴリウスめっ」とか思っても〆切は遠ざからない。というか暦って多分ないと困る。毎月毎月ほぼ同じように数字で区切ってもらえるからかろうじて〆切だって思い出せるわけだ。これが1ヶ月40日とかだとちょっと感覚狂うかもしれない。40人学級より30人学級の方が運営はうまくいくはずだ。何月が31日まであるんだっけ、と小学生のとき、友達が指で確認していてめっぽうかっこよかった。私も真似したが山と谷、どっちが30日でどっちが31日かを忘れてしまったりそもそも最初の手の形が違ったりする。しかもチョンチョンって2回やって折り返さなければならない。難易度が高い。なので結局「8月は31日まで」というのを基準にあとは大体変わりばんこと覚えていた。私の誕生日を祖母は死ぬまで「8月31日」と思っていて毎年「亜美ちゃん、8月31日、お誕生日おめでとう」とお手紙とお小遣いをくれた。おばあちゃん、私の誕生日は30日だよ、といつもほっこりした。

そうそう、おばあちゃん、と祖母に向けてお話したくなるがBack to realityの声が聞こえる

そうそう、おばあちゃん、昨日ね、友達がとっても美味しいお店に連れていってくれたの。前菜がシャインマスカットといちじくと生ハムだったの。すごいでしょ。最高でしょ。夏に青森に行ったんだけどね、その話とかしながらなんとなく群馬の話も出たの。そしたらシェフが「生ハムは群馬のですよ」って。そー、びっくりでしょ。向いてるんだって、群馬、生ハムに。あのからっ風が。あの冷たい乾燥した風が生ハムの熟成にいいんだって。前髪は凍るし肌は粉吹いちゃうしいいことなんてないと思ってたのにね。「からっ風、いいとこあるじゃん」って思わずいっちゃったよ。

あ、天の声を無視してしまった。Back to reality.あなたは9月は本当にまずいよ。がんばりなさい。あぁ、おばあちゃん、私こんな歳になったけどまだこんななんだけどなんとかやってるよ。おばあちゃんは元気かな。なんで死んだ人にそう思っちゃうんだろ。私の記憶の中で彼らがみんな元気でいてくれたらいいなと思うからかな。また話そう。今日も元気でね。

おばあちゃんといえば

Woman’s Best 13 韓国女性文学シリーズ10​『私のおばあちゃんへ』나의 할머니에게

ユン・ソンヒ、ペク・スリン、カン・ファギル、ソン・ボミ、チェ・ウンミ、ソン・ウォンピョン 著​ / 橋本智保 訳

はとてもよかった。

私も着々とおばあちゃんに向かっている。戦争を知っている祖父母は長生きした。その時代に生きるってどんな感じだったんだろう。うん。やっぱりまた話そう。なんらかの形で。岸政彦さんたちの本とか生活史の本もたくさん出てきた。私も聞こう、話を。

みなさんもどうぞお元気で。

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『デオナール アジア最大最古のごみ山 くず拾いたちの愛と哀しみの物語』(柏書房)を読みはじめた。

よく寝たと思ったけどそんなに時間は経っていなかった。

人の身体を傷つけて心を踏みにじった人がしんどいしんどい言いながら嘘ついたままやりたいことやって偉そうに人間ってこういうものみたいにいっていると唖然とする。嘘、しない。そういう人だから。「知性」も自分の暴力的な関わりをなかったことにして突き進むために利用するならそんなのなかったほうがよかったのでは、と思うけど、そんなこと知らない人には大層役に立っていたりもするのだから大きなお世話だろう。見えないところでなされる暴力が裁かれることは少ない。自分の快楽に忠実な人が起こす様々な事件も事件にならなければなんにも問われない。事件になっても関わっていなければ心壊されることもない。そんな安全がほしい?ほしいだろう。それが人間。なのか?疲れる。胃が痛い。

昨日は金曜日の仕事をしていたのにどこかで土曜日だと思って病院に行きそびれた。朝の予定を間違えたからだろう。不注意な人間にはよくあることだ。辻褄を合わせようとするから。一度間違って「あれ?」と思う。特にトラブルにならなければすぐに忘れる。でもどこかで最初間違えたときのモードが残っている。それがどこかに出てしまう。気をつけててもそういうことは起きる。完全に忘れるのも問題だがそれこそ不可能なことだ。困った。胃が痛い。

『デオナール アジア最大最古のごみ山 くず拾いたちの愛と哀しみの物語』ソーミャ ロイ 著/山田 美明 訳(柏書房)を読みはじめた。発売前、柏書房のnoteに公開されていた冒頭を読んだときにすでに言葉を失った。巨大なごみ山に捨てられた大きなガラスびん。そこに詰め込まれた臍の緒がつながったままの三つ子の赤ん坊。それをそっと抱きかかえ埋葬したのはそんなごみ山に暮らす子どもたちだった。これはノンフィクションである。ムンバイを拠点とするジャーナリスト、ソーミャ・ロイが2013年に出会ったゴミの山、デオテールごみ集積所を8年以上にわたり調査、インタビューをしてきた記録だ。物語はデオテールごみ集積所でくず拾いをしながら暮らすコミュニティ、特に大人になる一歩手前、18歳になろうとするファルザーナー・アリ・シェイクを中心に進む。

また読み耽ってしまった。今日も無事に過ごそう。

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心の作用

今日もいいお天気らしい。暑くなりそうなのだけどもう「暑」という字は使いたくない。暦のほうに寄せているわけでもないけど最近は朝は冷たい麦茶と温かい紅茶を両方いれる。そして最初に飲むのは温かい方。身体的には起きたらまず冷たい水を一杯、とかいうから冷たい麦茶の方が喜ぼれるのかもしれないが私の身体はもう秋仕様らしい。それにこれまでだって「身体にいい」生活にこだわってきてもいない。大体いろんなお菓子に喜ぶ日々をやめるなんてできない。いつまでも喜べる身体でいられるために健康に気をつけるんだよ、と言われたとしてもそこまで身体に悪いことしているわけでもない。弱い胃腸を信じられるところまで信じたい。

自傷行為は自分の身体へのチャレンジだと思う。自分は自分にどこまで耐えうるか確かめるための。嗜癖という苦痛な快が和らげてくれる瞬間を少しでも引き伸ばしながらなんとか生きようとする心の作用。

誰にもいえない状況で傷つけられた体験を声にしようとするとき、そこには大きな痛みと恐れが伴う。「また傷つくだけだよ」「だったら言わなければいいじゃない」と制止がかかる。「それだって自傷行為みたいなもんなんだからやめなよ」と。そうだろうか。自傷の日々から逃れたくて、他害の恐れからできるだけ遠くにいきたくて自分のこころを守ろうとする行為が?立場を利用して人の性を軽く、乱暴に扱う人に対してもの言いつづけることが?もっと痛い想いするのだから、あるいはもっと絶望が深まるのだから、と制止してくる声は平然と嘘をつきながら人を傷つけた歴史を黒歴史としてヘラヘラと処理するような、あるいは記録がない、証拠がない、と言い続ける加害者に寄り添う声なのだろう。

みみをすます。自分の。他人の。他人から向けられた自分への。痛みと生きることのいたしかたなさを簡単に「しかたない」と言わないために、粘り強くそこにいつづけるためになんらかの工夫を。

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ブルース・フィンク『精神分析技法の基礎』をパラパラするなど。

ベランダにハンガーにかけたバスタオルなどを干した。いいお天気。部屋に入ったらベランダの風はついてきてくれなかった。なんでなんだろう。外だと気持ちよく感じた風は確かに「吹いている」のに。窓は開けたままなのに。

それにしても疲れた。多分、夏に。あと難しい本に。

ブルース・フィンクの『精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際』を再読した。これは難しくはない。が、パッとしない。電話分析の可能性についての章はカウチでの自由連想を頻度よりも強調するフランスでは特にオリジナリティが高いのだろう。「電話分析に特有の難点」が詳細に書いてあるのもいい。そしてフィンクは高頻度であることを重要であると考えているというか、ラカン派は変動時間セッションを行なったりするので時間に対する感覚は独特なのでその辺の考察はもっとほしい。この本には変動時間セッションを行う分析家が電話分析を行う際の具体的な手続きも書いてある。フィンクくらいになれば直接会いにいける距離にいないがフィンクによるラカン派のセッションを受けたいという患者は多いのだろうからその経験が蓄積されているのだろう。やはり本人が多く体験している臨床事例から書かれたものは思弁的でなくこちらの思考も促される。ラカン理論が臨床としっかり接続していくためにはラカン派ではない私たち実践家もラカンを読んでいく必要がある。フロイトと同時に。現在のフランス精神分析の中心はラカン派でいう「精神病」事例についての議論が盛んだと聞いた。日本の精神分析の遅れも指摘されたが臨床ありきであることを考えればフランスほど精神分析が根付いていないこの国とフランスではまるで異なることが生じるのは当然といえば当然であって遅れているわけでもなかろう。フロイトやラカンへの回帰に基づく理論の更新という点ではその議論が当たり前に盛んなフランスとは比べ物にならないかもしれない。フィンクもこの本に書かれた議論を読むことでラカンを読むインスピレーションを与えたいようだ。たしかにラカン派の本を読むとラカンとフロイト読まねば、となるいい循環は確実にある。

今朝は出雲土産のバウムクーヘンを食べた。昨晩は熱海土産のお饅頭を食べた。お菓子がますます美味しい季節はもう少し後。どちらもとても美味しいけどもっと涼しかったらあっついお茶や紅茶ともっと楽しめそう。秋よ、深まれー。