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精神分析

暑い

暑い!立秋を過ぎてすでに秋を感じるのも事実だが、やはり暑い。いつもと少し目線を変えて歩く道を変えて違う人と話をしているといつもとは全く違う頭の使い方をしていると感じる。

毎日いろんな人と会ってのけぞったりとにかくいろんな気持ちになりながらいろんな話を聞いているはずなのに仕事以外で別の話を聞くとそんな気になるんだからとても不思議だと思う。この仕事は特殊というか人間は変だな。一人一人みんな違うんだから当たり前だがこんなにも異なるものかと毎日毎日感じている気がする。

さっきピングーの話をした。歯を磨くようにいわれてトイレにブラシこすりつけて音だけ立てているシーン。子どもってほんとこういうことやる。私もたまにやってつっこまれる。歯磨きとは別にね。だってめんどくさいこといっぱいあるでしょう。

子どもと遊んでるとそんな叱られるようなことしかやらない。子どもはすごい。ものすごくすごいので勝ちにいく。実際の勝ち負けなんて反転しやすいものはどうでもいいが。お互いに真剣に楽しめる体験をたくさんする。大人は色々めんどくさいよ。なんとなくなってしまうものだから引き受けるけどね。

今日もよい一日でありますように。

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精神分析

季節はめぐる、「大人になる」

キッチンの小さな窓を開ける。網戸に雨粒。鈴虫が鳴いている。ルイボスティーを入れて塩レモンキャンディーを口に入れた。

昨日は新宿中央公園の亀もへばっていた、ように見えた。石にへばりついていたという意味でもへばっていたといえるかもしれないが亀は別にへばりついていたわけではないだろう。もっと余裕がある。ご存知だろうか、彼らの意外な軽やかさを。小亀たちはまだよちよちだが。暑すぎたせいか亀を眺められるベンチにはひとりしか座っていなかった。亀のすぐそばで長時間足を止めている外国語を話すグループが二つあった。見れば見るほど面白いからね、亀。多分どこの国にいても。

立秋だ。この前の鱗雲に秋を感じてしまったが本当にすぐそこにいたのだ。ここからも鈴虫が聞こえる気がするが除湿のモーター音の方が強い。

回復できない傷がどうであろうと季節はめぐる。残酷とか酷いとかいくらいったところで人間の都合で動いているものなんてほとんどないのだ、多分。無力だと分かっているのに生きていたら何かが起きてしまうから起きてもいないことまで想像したりしちゃうのだろう。シンプルに、ミニマムに、なんて無理だ。常に過剰。

ラジオから演歌が流れてきた。紅白でしか聞かないが聞くとうまいなあと思う。私はクラスで歌が下手な人と認識されていた程度に歌が下手(つまりかなり。合唱コンのせい。)なのだが先日数年ぶりに短時間カラオケにつきあった。小さい頃から失敗だらけの私は何かが下手であることをほとんど気にしないので(エアロビとかも。)気にせず歌った。おまけに記憶力もない。あれだけ口ずさんだaikoのカブトムシ。出だしを忘れるとは。助けてもらった。若い子の歌はほとんど知らなかったが本人のライブ映像が流れて歌とダンスのうまさにびっくり。ノリノリだった(古いか)、私が。下手でもなんでも音楽は身体にも心にもいい。先日立ち寄ったビルの踊り場で高校か大学の吹奏楽部かオーケストラ部が演奏をしていた。なんともいえないヘタウマさで大変好感をもった。弾けるだけすごいとか私レベルと比べているわけでは全くない。音楽には力があるのだ。もう中学生の子が保育園に入る前に熱唱していたアナ雪を思い出した。あれも素晴らしかった。

保育園で誰かが歌い出すとみんなが歌い出す。お隣のクラスの子も。まだ不明瞭な言葉で。全身の動きだけで歌っている子もいる。こういう姿に希望を見いだすことができないなら一体何に、という気さえする。

彼らはこんな社会で大人になっていかなくてはいけないのか。大変なことだ。これだけ子供のままでいられる社会でどうやって大人になれというのか。世代を繋ぐことを真剣に考える機会は減るばかりではないか。ただ「大人になる」ってなんだろう。私にとってそれはエディプスコンプレックスについて考えることだ。フロイトが近親姦と殺人という激しい言葉の世界を理論の中心に据えた意味を考える。

とりあえず動こう。やることやらねば。

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不義理、セクシュアリティ、土産

こんな朝早いのにゴミ捨て場にはすでにゴミが。私も色々捨てた。今朝は風がない。向こうのほうの曲がり角にグレーの
Tシャツを着た人が見えた。家の前の道路はすでに灼けたような疲れたような様子だった。

戻ってきた。机の上に今年も使わなかった暑中見舞いのハガキを見つけた。不義理をして申し訳ございません。唸る。いろんな申し訳なさを思い出してしまった。絶対思い出せていない不義理もある。申し訳ございませんの宛先さえ不明。というかこんな不真面目だったりファンシーな暑中見舞いのハガキを溜め込んでいたなんて・・・。私そんな人だったっけ、と思う。不真面目ではあるかもしれないがファンシーではない。そのときは相手に合わせて準備してるからそうなっているに違いないけど出してないのでは意味がない。唸るしかない。

しまった、今目に入ったファイル、この連絡もせねば・・・。あれもこれも先方がすでにお盆休みに入ってしまっていたらどうしよう。ありうる。私は休みに入ったら遊びもするけどそれはそれで溜め込んだ仕事もする。毎度そんな状況だけどこういう休みがないと色々片付かないからやっぱり休みはありがたい。

ちょっと思い出したからメモ的に書くけど精神分析体験はなくとも(あるほうが特殊だろう)精神分析理論を用いた治療的アプローチに力動的精神療法というのがあって私がスーパーヴィジョンをしている臨床家は自分が患者になったことはなくとも力動的にものを考えられるセラピストになりたい人がほとんどである。そこで私がどの人にも基本として立ち返るように促すのはアセスメントと理論の基礎の基礎。つまり不安、抑圧、抵抗。私たちの職種のところにくるからには何か困ったことがあるわけだが、心のことは物を修理するのとは異なり本人にもどこがどうなっているのか説明することが難しかったり困っていることほど言葉にはしにくいものだったりする。誰かに話すという行為は推奨されがちだが自分のことを話すのはそんなに簡単ではないということを前提にすべきだろう。精神分析はこの、言葉にすることの不安にものすごくコミットしている。なぜか。性を人生の組織化の基本に置くからだ。『ヒステリー研究』の時にはフロイトはすでにそれを確信しブロイアーと袂を分かった。性は抑圧され抵抗にであうものである。人に話せばそれまでの関係における心の動きが相手を変えても反復され性欲動に突き動かされた不安が蠢く。今後子供が大人のsexによって生まれるものでなくなったとしても性欲動を生欲動と同義と見なすことはできるだろう。セクシュアリティはsexそのものを表すわけではない。『ヒステリー研究」におけるフロイトの確信は患者との間に生じる特殊な出来事を体験したからだ。この体験を説明する概念の中心にセクシュアリティを置いたのはそれ以外にこの強力な力のありかを見つけられなかっただろう。精神分析家はそこに抑圧された願望や空想を見出し、それらが投影同一化や再演を通じて治療者に伝達されると考えるのだ。

さて、欲動の動きは他者との境界をめぐって生じた不安と恐怖やそれらを伴う症状を形成する。ウィニコット的にいえば子供と取り入れの対象となる大人の攻撃とは異なる侵入をめぐる攻防の問題である。そこで生じる不安はどこから切り離されても(切り離すことのできないという苦しみも含む)生き延びなくてはならないという実際的な問題とタブーとの関連で何重にも抑圧される。人が人と関わって生きざるを得ないということは個人に最早期からかなりの負担を強いている。その前提があるからこそ精神分析はみたいと言いつつみようとしない、あるいはみたくないという患者や異質なものを攻撃と感じるという患者の態度も当たり前のものとしてその複雑さそのものを見据えていく。難しいのは治療者もそのような心を持っていることであり治療者自身が治療を受ける必要性はここにある。患者に要求することを自分にも求めるのは当たり前だろう、というフロイトの態度も一貫性がある。患者の目的はそれぞれに異なり出会ってみてから何を求めていたのかを知ることが多い。というか精神分析を求める人は無意識に駆動されていると思われ、それが言葉になっていくのは常に事後である。そう考えるからこそ今目の前で話されている言葉を聞くことはどういうことか、という問いは問われ続け、いまだに精神分析の技法論の中心的な問いでありうるのだろう。

という理解のもと、今日もいろんな人と会う。

さあ、腹ごしらえをしなければ。おなかがすいた。最近は東海道五十三次の49番目の宿場である滋賀県甲賀市の「土山宿」のお土産や飯田橋にある青森のアンテナショップのお土産をいただいていた。土山はお茶も有名とのことでかわいいパッケージに入ったお茶ももらったがかわいくて開けられない。青森のお菓子は食べ慣れている。全国的に有名なものもいくつかあるから青森で惚れ込んだお菓子をこちらでも買うことができる。アンテナショップならなおさら。素敵なことだ。旅に出たらそうやって旅時間を長引かせたりもしたいから。今日も暑そう。気をつけて過ごそう。

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精神分析

東京公認心理師協会地域活動など。

今朝も暑そうなのでカーテンを開けていない。昨日は東京公認心理師協会の地域活動の助成を受けて「コロナ禍を振り返る」というイベントを行った。臨床心理士、公認心理師の交流を図っての企画で昨年から始めた。私と松岡宮さん(芸名)という車掌の制服を着てあまり他の人には書けない詩を歌う日本最高峰ランクの学歴を持つ才媛との企画だ。ただ松岡さんの能力をもってしても「有名」とは程遠い私たちであり、こういう素朴な企画は今の業界にはほとんど必要とされないので(教科書や規約的には義務みたいな領域の話なのだが)人が集まらないことを見越してはいた。しかし部屋代と交通費を出していただく以上、できる広報はがんばった、が元々SNSのフォロワーも少ないし広報力は私たちにはない。個人的にはこういうのはとりあえず立ち上げておくことが大事だと思っている。二人以上でやれば成立はするので松岡さんともとりあえず会えるの嬉しいね、ということで今回もやった。NPOでたくさんの子どもたちとボランティアを連れて毎夏キャンプへ行っていた。それも本当に小さなグループから始まったものだった。今はそのNPOは解散したが地域の保育園としてその名を残し繋がりは続いている。その保育園も無認可の本当に小さなお部屋ではじまった。今は第2保育園も持つ認可保育園だ。私はNPOの初期から自閉症の子どもや親の会との関わりや広報の担当でずっと関わってきた。保育園では巡回相談と集団へのコンサルテーションで今もお世話になっている。最初の頃のままでも特によかったのだと思う。でもニーズに応えていく必要もあった。今はたくさんの人を前に話をするようになったが知らない保育士も増えた。小さくても大きくてもいろんなことは起きるのだ。どちらがいいとか悪いとかの基準はない。見るところを変えれば評価は変わる。これだけの数の臨床心理士と公認心理師がいるのだからいろんな人がいろんなことをすればいいのだ、という話も昨日はした。一人の人にできることは限られているし、一人の人だっていろんなことをしている人もいるわけだからそういう意味では寛容であれ、自分にも他人にも、ということが普通に大事だろう。動けば失敗はどうしても起きる、でも試行錯誤していくしかない。相手ある仕事なのだから試行錯誤自体を止めるわけにはいかない。一方、誰かの何かに寄りかかって自律的に動くことを回避しているようにみえる人たちのことも話した。私はもうだいぶ上の世代になってきたので30代40代前半の人たちが巻き込まれがちな関係からはいつの間にか遠くなってしまい下の世代から話を聞くのみだがそういう時期も皆通るものだ。とにかくいろんな人がいていろんな方法がある。今回も試行錯誤のひとつだった。テーマは「コロナ禍を振り返る」だったがコロナの影響で参加できない方もいらして「やっぱりまだ終わっていない」と思った。この企画を出したときに「振り返るがまとめない」ということも書いた。これほどの事態を誰もが当事者として体験したわけだがまだ完全に収束していなくてもこうやって忘れられていく。だからこそ言葉で共有しておく必要があるのだろう。公認心理師協会の地域活動推進委員の先生方もいらしてくださって地域交流が盛んだった頃の牧歌的な時代の話もできて嬉しかった。私はいまだに昔働いていた地域から呼んでもらっているがその地域に親しめているのは当時同じ地域で苦労を共にしていた同業者との地域会のおかげだった。今はコロナでオンラインになったこともありあまり機能していない地域もあるらしく、地域支援という視点が持つ多様な可能性が見失われつつあるのかもしれない。

会が終わり、参加してくれた人とその街で長くやってきたような喫茶店でランチをしながらおしゃべりをした。そんなふうに話せることはほとんどないのでとても楽しかった。

夕方、突然雨が降り出した。そういえばランチをした喫茶店からも一気に降り何事もなかったかのように晴れた空をみた。晴雨兼用だと信じている折りたたみ傘を持っていた。電車の中から白い雲が沸き立つように空を覆っていて驚いた。その空に旅先のことを思い出してその話をした。

別の街に出るとまたポツポツと雨を感じた。祭りの後の提灯が商店街に揺れていた。空は強い光と水色と黒でいろんな様子になっていた。空が明るいほうへ歩き出してもすぐに黒い雲に追いつかれてしまった。寺の境内や出版社の倉庫前で雨宿りを繰り返しながら細い糸のような雨やあっという間にできた水溜まりを風が動かすのを見ていた。歩いてはどこかへ入り、あまり上手くないが好ましい演奏を聴いたり突然振る舞い酒を振る舞われたりちょっと寄った店でサッカーのいくつかのシーンにみんなで盛り上がったりしているうちに空は安定したようだった。夜までずっと風が気持ちよかった。いつも通り月を探したが昨晩は見つけることができなかった。

今日も一日長い。朝は少しゆっくりだけどもう準備しなくては。夏の疲れが出る時期だと思う。休息をたくさんとりつつ過ごせますように。

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月、蝉、鈴虫

満月を過ぎてから急に月の出が遅くなった気がする。そんなはずはないのだが夜オフィスを出て「月どこかな」と探すと「え、まだそこ?」みたいな低さに大きい月を見つけてびっくりした。その日から月探しが楽しく月を見つけると「お、今日ものぼってきたね」とほくそ笑んでしまう。毎日月と待ち合わせ。今日の月は寝待月。月南中時は3時21分だからみんな寝てるものね。寝て待て寝て待て。「果報は寝て待て」も月の満ち欠けと関係していたのかしら。空が明るくなってもまだ見えるだろう。ゆっくり休んでいて大丈夫。日曜日だもの。

南側の大きな窓をそっと開けて南の空高くに浮かぶ月を見上げる。帰り道にみた月よりずいぶん小さくてすっかり遠い存在になってしまったみたい。鈴虫だ。真っ暗になりきれない住宅街のどこかから響いてくる。秋か。日中ものすごい陽射しを浴びながら蝉の声を秋っぽく感じていた。さすがにこの炎天下、子供を遊ばせるのは危険、ということなのかいつもは週末子供とその親で詰め尽くされている広場は空いていた。芝生広場も熱すぎるのか寝転がる人もいなかった。水場は盛況のようだったが外から見えないようになっているので雰囲気だけ感じた。咲き終えた花々が剪定され少し寂しくなった花壇の間を歩きながら蝉の声に包まれた。見上げても姿は見えない。単体と集団では音量だけではなく聞こえ方も異なる気がするが全体の音量は落ちた気がした。数日前、朝の鱗雲に「うわ、秋?」と驚いてから暑い暑いいいながらもどこかで秋を感じてたし探してもいた。鈴虫って秋の季語だけど結構夏の間から鳴くんだよね、かき消されやすいだけで。

今日もいろんな人の声を聞こう。

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8月、ルンバ、我が家にいた犬

今週は1日1日が長い気がする。7月はあまり記憶に残らないほどあっさり過ぎてしまった。それにしても今朝は暑い。涼しい寝室から出るのが嫌で起きるのが遅くなってしまった。リビングの冷房が今強い風の音を立ててがんばってくれている。一度起きたときにつけておけばよかった。よく冷えた麦茶が美味しい。

とちょっと家事をしている間に部屋が冷えてきた。ありがとさん、冷房さん。思わず話しかけてしまう家電の代表といえばルンバだろう。ロボット掃除機ルンバ。私たちは「ロボット」というものはその姿形がどうであれ人の言葉を理解できる存在としてみなしているに違いない。いやそうでもないかもしれない。まあ何はともあれこの場合言葉が通じようが通じまいが関係ないのだ。「あらあらそっちにいくとぶつかっちゃうわよ、ほらいったでしょ、こっちこっち」といったところで別にこちらの言葉をきいて彼らが動いているわけではなく向こうの特性をキャッチしてるこちらが動きを予測して言葉を与えているだけなのだが噛み合っているようにみせることは可能だ。コントみたいなものだ。かな?犬に話しかけるのとはだいぶ違う。犬はかなり通じてしまう、らしい。我が家にいた犬は世の犬を飼う人たちがいうほど通じていなかった気がするが散歩に行く様子を嗅ぎ取るとよくわからない動きで興奮する姿は欲しいものを買ってもらえるときいて飛び跳ねる子供のようだった、気がする。私も犬と一緒に大きくなってきたから子供のようなものとかいうのはなんだか烏滸がましいが(そうなのか?)。だって我が家にいた犬(メスの方)はとっても高貴な感じがしたもの。オスのゴロウに対してもピシャッとやる時はやってたし彼犬が最初に子供を産んだときに近寄った私の手を思わず噛んでしまいすぐに申し訳なさそうにした顔も忘れられない。ごめんね、赤ちゃんいて気が張ってるところに、と私は泣いた。二人で泣いているような気分だった。赤ちゃんはいつも庭の見えないところで産みおとされ、なぜか母はいつもその場所をすぐに見つけ安全な場所に移動しみんなで子育てを見守った。子犬たちも本当に本当にかわいかったが彼らを産んだ彼犬が特別だった。

は、私は朝から何を書いているのか。我が家にいた犬のことを語り出すと止まらない。大変大変、準備何もしてない。

あっついよ。今週末はいろんなところでお祭りがある。明日はイベント。心理士(師)の人いっぱいきてねー、ハイブリッドだから涼しい場所で美味しくしながら。

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子供、大人、親子など。

何も設定を変えたりしていないのだけど除湿がちょうどよく効いてくれた。よく眠れた。私の睡眠時間はとても短いけれどこの「よく眠れた」という感覚はなんだか充実していていい。だいぶ疲れていたせいもあるのだろう。

最近、ネットで筋ジスなど進行性の疾患や移植に関するニュースを読むことが多かった。子供の場合、どうしても動きの中心は親になる。病気や医療状況について知ることも大事だが、「家族」というものがなぜ必要だったかということについても考えさせられる。これまで多くの夫婦の馴れ初めや家族の成り立ちを聞いたり、実家を出たりいろんな形式の結婚をしたりする人生のプロセスに立ち会ったりしてきたが「子供」という存在が人の移動にどう影響していくかということは常に考えている気がする。長年保育園でたくさんの子どもたちを見続けていれば小さな彼らの移動能力に限りがあるだけではなく、彼らがいかに大人の都合で簡単に移動させられるかということもよくわかっている。コロナ禍では特に過酷だった。多くの子供が転園、転居を余儀なくされた。もちろんこれらは大人にとっても大きな決断を必要とした。子供がいる場合とそうでない場合、周りの大人たちの動きはどう異なるだろうか。身体的な動きでさえお互いの心身の状態に影響を受ける状況で生き延びるためには大人と子供はセットとして存在する必要がある。その始まりやプロセスに性的なもの、欲動という概念で説明されるものを常に想定しながら考えている私にとって親と子という状況で生じる出来事にそうあるべきものなどというものはないように思える。彼らそれぞれの今を運や運命で語るのも外からは簡単だろう。ただもし彼らの困難に対して何かできることをと考えるならそういう外側からの言葉は慰めになることはあっても具体的な行動には結びつきにくいのではないか。人間に内在するものがどう自分や関係を動かしているかを詳細に吟味し手に届く形が表れてきたときにそれとどう関わるか、それはひとつひとつとても大きな出来事なんだということをせめて覚えておく。そんなことを考えていた。

こういうことはそれこそ吟味して書く必要があることなので別の場所に書くがとりあえず感覚的に書けるところだけ書いた。とりあえず今日も長い。なんとかはじめよう。

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ブラインド、候補生、責任

冷房が効きすぎないようにドアをほんの少し開けておく。ほんの一筋なのに朝日が眩しい。ドアを出てドアを閉めた。リビングのブラインドはいつからか反対向きにできなくなってしまった。だから完全に陽射しを遮ることはできない。間取り的にそんなに不便はないがこの夏の間だけは「閉まらないかなあ」と何度もブラインドの紐を引っ張ってしまう。引っ張りすぎて動かなくなったのかもしれないがもう何年にもなるから記憶がない。

外に出すことはない仕事ばかりしているけど日々工夫しながら静かに格闘している、お互いに。臨床家としてはもう結構なキャリアになってきて教える立場にもいるが精神分析の世界ではまだ候補生だ。候補生になるにも分析受けたり面接受けたり要件を満たさなければならなかったし(なによりお金と時間を準備しなくてはならないとがんばっていたが今だったらそれはやりながらでなんとかなると知っている)2016年に登録されてもう7年。生活を送りながら訓練をすることは大変でしょう、と言われるけれど精神分析の世界はリズミカルなのではじめてしまえば忙しいだけでむしろ手厚い環境の中でいまだにこれだけの新しい体験ができるなんてすごいことだと思っている。訓練を重ねれば重ねるほど驚きは増える。ただ身体に対する不安は増えた。最近なにはともあれ感覚器官が衰えないうちにやってみてもいいのでは、そんなにやりたいのであれば、というアドバイスをしたりもする。基本的なことは大事だ、という認識に常に立ち返るための訓練としてその行き着く先は身体ということか、とかくと大袈裟だけどみんなそこそこのキャリアを積んでから候補生になるので精神分析家になる頃には自分に残された時間というものを意識せざるを得ないと思う。実際、子どもたちの成長や健康の話ばかりしている。精神分析家になれたとしても訓練分析家になるまでにはまた色々積み重ねていかなくてはならない。それもとりあえず生きて目や耳が使えることが大事。多くは必要ないが必要な事柄はある。

なので、もう子供ではないので、親世代に何か責任を求めるようなことはしない。環境のせいにすることがどういうことかということも精神分析を患者としても治療者としても体験することで実感できてきた。法的な責任を除いては責任というのは権利として自分の側にあると思う。立場が危うくなるとしてもそんなことわかってて身体を張って行動しているとエアリプのようにあの手この手で攻撃を受けたりもするが自分の責任で動いているのだから煩わしさはあれど大切にしていることが揺らぐことはそんなにない。責任を持つという権利を行使することを見守ってくれる環境を知っているから言えることではあるけれど。

環境と対象の使用について、直線的な歴史を自分の体験としての歴史に書き換えていくことについて毎日考えている。

今日も朝から晩まで長い。昨晩、友達が月に感動していた頃、オフィスの窓からはまだ月は見えなかった。仕事を終えて窓の外をみたらとても明るく丸い月がすっきりと浮かんでいた。今日も見えるだろうか。どうぞそれぞれに良い一日を。熱中症に気をつけて。

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夏休み、雷雨、Mahalel, A. T. (2023)を読むなど。

昨晩はクーラーをつけずに南側の大きな窓を半分だけ開けていた。網戸がついているのが半分だから。月がきれい月がきれいと毎日言いながら帰ってきているが昨日もいよいよ満月らしく月の写真をあげている人がたくさんいた。私も。一昨日は一昨日の朝の空の写真をあげている人がたくさんいた。私も。陽射しは強いのに鱗雲に「秋になっちゃった!」と何回もシャッターを切った。とりたい方向をむくとどうしても太陽が目に入ってしまいしばらく目がぼやけていた。いけない。今朝はまだカーテンを開けていない。蝉の声がクーラーの音の向こう、カーテンの向こうに聞こえる。ああ、逗子に行きたいな。逗子の岩場をぴょんぴょんどんどん進む子どもを何かあったら自分が殺されるよー、と私にいいながら友は声かけをしていた。子はとても人間らしかった。海沿いの食堂の駐車場でワカメを買い、小さな市場で魚を買った。帰れば父親が捌いてくれる。海で育つというのはこんな感じなのかと山育ちの私には眩しかった。その子ももう中学生。海を見下ろす山のお家に遊びに行きたい。葉山の美術館も行きたい。彼らのおかげで逗子葉山はとても身近になった。鎌倉へ歩いていく道もわかる。子どもたちが夏休みに入ってから自分はいつも通り毎日朝から晩まで仕事しているのにどこかへいくことばかり考えている。気持ちだけ夏休みでなんだか得した気分だ。今年はいろんなお祭りも久しぶりの開催となる。仕事で阿佐ヶ谷へ行ったら8月4日から始まる阿佐ヶ谷七夕まつりの準備が始まっていた。大きな吹き流しがしゃらしゃらと音を立てるなか小さな赤ちゃんを抱っこしたお母さんが「サラサラいってるねえ」と話しかけながら通り過ぎていった。当日はとても混雑するだろうけど準備期間の朝もいい。長く通っている街なのにこんな光景ははじめてだったかもしれない。開催期間中に少しだけでも寄りたい。

昨日はIPAジャーナルのおすすめ記事を教えてくれるメールに先日ここでも取り上げたアナト・ツール・マハレルの名前を見つけた。早速読み始めた。フロイトの夢思考とベンヤミンの弁証法的イメージとDenkbildを再検討しながらそれらが表象不可能な表象をどう書き出しうる(表現ではなく)か、つまりトラウマの歴史を追憶するための空間を作り出すことは可能かという問題意識のもとに書かれた論文らしい。ここではフロイトとベンヤミンの後期の著作をナチスの台頭に直面したヨーロッパのユダヤ人知識人の文脈で取り上げられており素材となるのはフロイトのlast Moorish kingとBenjaminのangel of historyである。経験を言葉にしていくことと歴史を構築していくことは常に表象不可能なものとの格闘だ。そのための視点のひとつを提示してくれる良い論文だと思う。

Mahalel, A. T. (2023) The Visual Image and the Denkbild: Sigmund Freud and Walter Benjamin on History and Remembrance. International Journal of Psychoanalysis 104:527-545

昨日は突然のものすごい雷雨の中避難場所として入ったカフェで「一つだけ空いている」と通してくれた席で一気に読んだが目が一気に悪くなっているので文字を読むのは苦痛だ。あのくらいの異変が環境側に起きていたからこそ安定を図るために身体が何かしなくてはと動いてくれたのかもしれない。自分のことなのにままならぬことよ。空が再び明るくなってからカフェは一気に空いた。

おなかが空いた。今日はどこのお土産だったか。葛餅があるのだ。紅茶入れちゃったけどお茶ももらったんだった。せっかくだから入れ直すかな。でもお茶のパック開けるのもったいないなとかいっていないで資料の手直しと印刷をせねば。あー、ということで8月2日。なんとか過ごしましょう。

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「なが餅」、「心配ご無用」とか。

昨晩の雷はすごかったですね。窓の外が瞬間的に真っ白に光って白とオレンジを基調とした我が家のカーテンの色がそのときだけ消えていました。そして向こうの空というものを感じさせるあの音。雷のときはただただ広がっているかのような空に位置や距離を感じます。空が光って何秒であの音がくる。身を潜めるようにして数えながら待つ。少しずつ近づいてくる地響きのような音が向こうの空から。そして落ちる、どこかに。上毛三山(赤城、榛名、妙義)に囲まれて育った人は夏の雷の威力をご存知のことでしょう。昨日、群馬県は雷に強風に雹までふったそうです。東京の雷はカーテンの中まで入ってくるような感じはせず内側の私はいつの間にか眠っていました。

今朝は三重県四日市市のお土産「なが餅」をいただきました。7枚入り。こんな名前なのに日持ちはしないとのことで開けてみると薄っぺらくて長くて白いお餅が折り重なっていました。こんなに薄いのにきれいに餡が入っていてすごい。創業天文拾九年とのこと。まさに長持ち。お日持ちの短さはペロって食べられちゃうから心配ご無用でした。

「心配ご無用」といえば・・・。親密だったはずの相手から適当に扱われると感じるととても辛いですよね。例えば、元々誰との関係でもどこかルーズな人とは知っていましたが仕事も公私混同で信頼関係を崩す方にいっているように見えたので心配したらまた圧をかけて黙らせる雰囲気の言葉が返ってきました。またか、と怖いし面倒だったので「心配ご無用ですね」といったら「心配ないなんていいましたか」とさらに圧をかけられました。どうしていつもそういうふうに追いつめる言い方や態度になるのだろう、平然と嘘をついているのはあなたなのに、と思いつつなんとかきつい仕事もこなしました。相談などできるはずはありませんでした。その人が「しんどい」と書けばSNSではたくさんの味方が心配してくれました。いつも無条件に味方してくれるビジネスパートナーと外で美味しく楽しく過ごしているようでした。一方でこちらには関わったこと自体を「後悔しています」と言いながら圧をかける言葉を使い続けていました。「賢人」と言われる人でも心ない言葉の使用や身体への雑な関わりは普通にあります。外から見えるものではありません。こんな例は身近にたくさんあることでしょう。外での優秀で素敵な振る舞いと思いやりのない暴力的な言動は両立するということは今やだいぶ一般的な知識になりつつあります。なのになくなりません。傷ついた心身の回復は遅れます。そういう人たちは絶対に変わらないんだということを見せつけられながら立ち上がらなくてはいけないからです。現実を否認できる人、言葉だけは巧みに扱える人、社会的にはそういう人の方が強いというのは世の常です。男でも女でも。「そうなりたいんですか」と聞けばみんな「なりたくない」というのに不思議なものです。今日はどう生きていきましょうか。朝がこなければいいと願いながらいつの間にか眠ってしまった人の絶望はなかなか知られることはないでしょう。助けになるのは人だけではないというかむしろ言葉のいらない世界かもしれません。この暑さと折り合いをつける方が難しいですよ、という人もいるかもしれません。それならそれは本当にそうだから一緒に笑えそうです。どうか今日もそれぞれになにかしらに支えられて一日を過ごせますように。

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海、夢、堀本裕樹『海辺の俳人』

あっという間に一時間。若い頃は家族に気を遣われるほど寝起きが悪かったのに今は目覚ましもかけず空が明るくなる頃にはぱちっと目が覚める。家族に気を遣われるほど、と書いたがただ私がぐったりしているのを放っておいてくれただけで、あ、それが気を遣ってくれたということか。週末は大きいものを洗濯して天気予報を信じてしっかり洗濯バサミで止めて外に干したまま出かけた。我が家のベランダは風も強い。信頼って大事だ。夜帰ってくると全部しっかり乾いていた。

久しぶりに海をみた。仕事を終え電車に乗った。沿線で大きなトラブルが起きていたようだったが私の乗る区間には影響がないようだった。一番早く出発する電車に乗ったからそれが遅延していたのかどうなのかもよくわからない。海辺の街の本屋さんに行くついでにぼんやり歩いていると小道から海が見えた。ビーチへ向かう道とは逆方向へ来たつもりだったからうわあっとなった。海なし県育ちなせいかいつになっても海を見ると衝撃を受けてしまう。こっちからもいけるのかもしれない。大通りを歩いた。ふと前の方に親子3人組が現れた。そこに道があるのか。すれ違ったときはお天気の話をしていたようだったが地元の人ではないようだった。休日の役所の前を通り小さな道を見つけた。ドキドキしながら進む。見えた!小道の先に。海が。その道は直接ビーチに出る道ではなかった。

なぜかここまで書いて寝ていた。夢を見ていた。小さな女の子二人がキックボードで渋谷西武の前のような道を人混みをすり抜けて走っていく。車道側に呼び寄せ私たち大人たちの間を走るようにいう。子供たちはキックボードを捨て今度は元気いっぱいに走り出す。私たちも追いかける。飛ぶように走る彼らを妖精のようだと思う。私は大人になった彼女たちを知っている。時折振り向く彼らと言葉を交わす。夢から覚めた。可愛らしく幸せな夢。いつの間に眠りに落ちたのだろう。腿の上のPCは今日は暑くなっていない。扇風機をようやく出して電源を入れた。もっと早く出せばよかったと思うが毎年のことだ。

俳人、堀本裕樹の初エッセイ集『海辺の俳人』のいくつかのエピソードにも影響を受けたのだろう。先日、幻冬舎から出版されたこの本は私の周りでは連載時から話題だった。堀本さんの好奇心とユーモアと小さな発見と豊かな文学的知識に満ちた海辺での生活がモノローグからダイアローグに変わっていく様子は各エッセイの最後に添えられる即興俳句にも見ることができる。その変化は堀本さんを師とするプチ俳人たちの心をざわつかせたりもしたようだった。私は連載を読んでいなかったが彼らの話を定期的に聞いていた。懐かしい。コロナ禍、オンラインで顔も知らない人たちとそんな話をしていたのだ。つまりこのエッセイはパンデミック直前からコロナ禍に書かれたということ。情緒豊かに予測できない日々を送りながら世界を17音に圧縮していく。それと同時に先生に見てもらうためにやってくる数えきれない17音を読み取る。取り上げなかったからといって落胆する必要はない。また淡々と作り続けるだけだ、と堀本さんは言っていた。評価のために表現をしているわけではないのだからそれはその通りだ。コロナ禍に生まれた娘や家族に対する文章を読めば堀本先生の師としての魅力も十分に伝わることだろう。俳句には全く関心のない人にも広く届いてほしい一冊だ。

また近いうちに海へいこう。知らない街の知らない道を目的もなく歩こう。とりあえず今日も一日。今日は7月31日?ああ。31日。がんばろ・・。

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島とか出会いとか

毎日暑い暑い以外の記憶がない。二度寝する合間に洗濯はした。そういえば昨日も月がスッキリ輝いていて「きれい!」とみあげた。目線を上げたら「この木はオリーブ?」とオリーブに気づいた。オリーブといえば小豆島だけど小豆島には本当にたくさんのオリーブが植えられている。木の名前を知らなくても「これはオリーブ!これも!」と堂々と言える素敵な島です。小豆島は醤油造りも有名。私が料理に使う二大調味料はオリーブオイルと醤油なのでありがたい島でもありますね。自転車でいろんな道を走った。地区によって雰囲気が違って楽しかったな、小豆島。

長期休みになると2泊か3泊でいろんな土地へ行くのだけど一応日本の有名な都市は回ったので最近は行くなら島かな、ということで最近だと(といってもコロナ以前)しまなみ海道の島々、淡路島とかにいった。この夏は地続きのところへ行くけど色々行きたいな、島。30年くらい前に行った式根島が楽しすぎたせいで島への憧れが作られたのかもしれない。写真部の合宿らしき集団と同じ宿だった。部屋に鍵はなくお刺身は美味しすぎた。式根島はシマアジの養殖で有名だ。私たちは写真部のちょうどよい被写体だったらしく恥ずかしそうに許可を取りにきたり夜になると花火を分けてくれたりかわいい人たちだった。式根の地図に載っている道はほとんど全て歩いた。人が通った形跡がない道を蜘蛛の巣を祓いつつ、蛇に驚きつつ進んだところに突如ひらけるのが唐人津城。つい東尋坊と間違ってしまうがここには誰もいなかった。ただただ荒涼とした絶景。ここから落ちたら誰にも見つけてもらえないねといいながら海を眺めていると心静かになった。旅に出るとそういう瞬間が増える。これまでの道のりを全く読めないこれからを思い出すでも思いを馳せるでもなくなんとなく感じる。

好きな作家のご家族と話しながらパートナーへの敬意を感じた。数年前にあの席で一緒だったと言われるまではじめましてみたいな感じで話してしまっていたが色々思い出した。ただただ楽しく喋ってしまった。前もそうだったよ、そういえば。親世代の方との素敵な出会いもあった。私が住む街に息子さんが暮らしていたことがあるそうでとても嬉しそうな素敵な笑顔で色々聞いてくれた。その地域の図書館員の方の工夫も教えてくれてその方とも会えた。特に約束もせずたまたま会ったから話すような関係もいい。

今日はどんな一日になるかな。とりあえずすでに暑い。どうぞお大事にお元気で。

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ブックレビューエッセイを読むなど。

鳥がよく鳴いている。元気ってことかな。生きてるってことではある。昨晩の帰り道、大きな木から大きく長くジーって聞こえてピタッとやんだ。思わず見あげた。こんなに木があってもそのひと声だけで夜は静かだった。毎朝毎朝蝉がジュワジュワいってると思いながら歩いているけど転がってるのをみるとほとんどメカだなと思う。それと比べると鳥たちの声の主張豊かなこと。なにかな。私にはわからないけど元気ならいいね。

作って冷やしておいた麦茶を今朝も飲む。花火柄のコップで。黒い液体を入れたらもっと夜空の花火っぽい感じになるだろうけどアイスコーヒーくらいが限界かしら、黒に近い飲み物って。麦茶みたいな空の色のときってあるよね。これは何か起きるのでは、というような不穏な空のとき。今日はどうかな。とりあえず暑いだろう、ということはわかるけど。花火はきれいね。

昔つきあっていた人に誘われたけど行列で入れなかった店にはじめて行った。朝は行列はなかった。モーニングセットを食べた。アイスコーヒーと。おいしくなかった。たいていのものをおいしくないとは思わないのだけどここのはおいしくなかった。行列の目当ては多分パフェ。長居してそうな常連も多そうだからそれで混むというのもあるのかな。おいしくなくて安心した。うまくいかなかったわけだ。その人はいつも「話題」を探し振りまくのが得意だった。

昨晩、ポストを開けるとIPAジャーナルが届いていた。ここですでに何度か書いた米国の精神分析家オグデンの一番新しい本の書評が載っている!しかも書いているのはMichael Parsons、すぐに読み始めた。長い。IPAジャーナルの書評はこんなに長く書いていいものなのか、と思って見直したらブックレビューエッセイだった。

精神分析における読むこと、書くことに対するオリジナリティあふれる探索にますます磨きをかける本書の書誌情報はこちら。

Coming to Life in the Consulting Room: Toward a New Analitic Sensibility, Thomas H. Ogden, London and New York, Routledge, 2022, 175pp., £29.99, ISBN: 978-1-032-13264-8

組織から比較的自由な立場で精神分析臨床を続けながら論文や小説を書くオグデンの患者理解は深い。昨日も書いたがそれは理解を超えたところのなにかで存在に関することだ。彼らがいかに自分を存在させることに苦労しているか、それは思わず出る言葉以外で掴むことはなかなか難しいのではないか、というのは私の実感だが私はそれを書くことでしか前に進めないのだろう、オグデンに従えば。

28度設定だと少し動くと暑い。無理せず、とかいっているうちに色々大変なことになっているができない無理はできないからこのままいこう。皆さんもどうぞご無事でご安全に。

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日々とか仕事とか

まだ朝の光とはいえ陽射しが強い。明け方の空はもっと弱々しい感じでほんのりピンクがきれいだった。オフィスのそばの銀杏の緑の濃さに迫力を感じながら歩いていたら黄色い葉っぱがパラっと落ちてきた。秋?まだ子どもの葉っぱみたい。見上げた葉の密集ぶりに全く日の当たらない部分ができてしまうからかななどと思った。季節の花々が次々に咲く新宿中央公園でもこの時期はこぞって目をひいていた花々から水が抜け色が失われていく。陽射しにどんどん色を濃くしていく緑の中やそばでもいろんなことが起きている。

同じ曜日、同じ時間にやってくる人たちの話を聞き続ける毎日。人って理解するとかされるとかいう対象ではないと感じる。なんというかそんなこと無理というか。最初はまだ理解するされるの世界にいるというかそうじゃないとどうしていいかわからないからそこに自分をとどめておく感じだけどその人を理解するために二人で協力しようとするとすごい断絶や距離が明らかになることもあれば「あぁ」と二人で同時に同じような感触を掴むこともある。たとえば「みんな死ねばいいのに」という言葉が思わずでたとしたら「みんなって」と聞く人もいるかもしれないけどその時点でその憎しみの向けようのなさを失っていることを知る二人の間での思わずの言葉には反応よりも沈黙。持ち堪えることを二人でする。しつづける。何か別の思考が生じるまでお互いに身を委ねつつ。精神分析の場合、技法っていったってものすごいシンプルで設定と約束事が守られていればあとは延々同じことを続けるだけ。今年はラカン派ではないフランス精神分析の勉強会に出ているがフランスではカウチの使用や頻度は設定の一部ではなるが大きな位置を占めるわけではなく自由連想が精神分析を基礎づけていると考えているらしいと聞いた。たしかにフランスの精神分析の辞典や教科書をみるとカウチで高頻度ということより自由連想をするということで精神分析は定義づけられている。カウチ、高頻度は自由連想という困難な作業を支えていく環境として重要なのだろう。環境あってこその対象の使用というのはウィニコットの理解を借りると実感しやすい。

早朝、昨晩掃いた玄関前の葉っぱをゴミ袋に入れたり結構前に枝切り鋏で落としておいた山椒の木の枝をもっと細かくしてゴミ袋に入れたりしていたら蚊に刺された。こんな格好してたら当然刺されるとわかっていたが玄関を入ればすぐ置いてある虫除けをしなかった。痒い。辛い。昨晩、ひっくり返っていた蝉にほうきが触れたらジジジっていったからまだ生きてると思って今朝まで放置していた。今朝はもう動かなくなっていた。

猛暑猛暑。今日も気をつけていきましょう。

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Reading Freud’s Patients Memoir, Narrative and the Analysandなどに関するメモ

COURRiER Japonのフロイトに関する記事の原文が読みたいな、と思っていたら山本貴光さんがくっつけてくれた記事を見つけた、と以前Twitterに書いた。そのメモをまとめておく。

ハアレツ紙(イスラエルの有力紙)に掲載された記事(英語版)はこれ。

Ofer Advert, “Angry Outbursts and Erotic Insinuation: What Freud Was Really Like”(2021.08.05)

https://haaretz.com/world-news/.premium.MAGAZINE-angry-outbursts-and-erotic-insinuation-what-freud-was-really-like-1.10089349

記者のOfer Aderetも取材されたReading Freud’s Patients Memoir, Narrative and the Analysandの著者アナト・ツール・マハレルもおそらくフロイトと同じくユダヤ人の歴史を共有していると思いつつKindleでこの本を読んだ。

この本に出てくるフロイトの患者たちはフロイトの伝記などにも登場するがこちらが読みやすいかも。

『フロイト : 視野の暗点』 Breger, Louis著,里文出版

患者の体験を通じてフロイトの精神分析実践を垣間見ることができる本で最近書かれたのがThe History of Psychoanalysis Series,のAnat Tzur MahalelのReading Freud’s PatientsMemoir, Narrative and the Analysand(Routledge, 2020)である。この本はWinner of the 2021 ABAPsa Book Prize Awardを獲得している。

それ以前だとBeate Lohser&Peter M. Newtonの”Unorthodox Freud The View from the Couch”しかなかったそうだ。高価な本だが試し読みができる。

https://www.guilford.com/books/Unorthodox-Freud/Lohser-Newton/9781572301283/reviews?utm_medium=social&utm_campaign=share-widget&utm_source=twitter.com

ちなみに『心の革命  精神分析の創造』(みすず書房)のジョージ・マカーリがこのLohser&Newtonの本のレビューをIPAジャーナル(1997)に書いているが、翌年には著者のPeter Newtonがこのレビューを a careless review だとして”Dear Sir,”で始まる文章を寄せていり。書いていることとやっていることが違うのでは問題、に対する読者の誤解に対する懸念、というか「ドイツ語でフロイトを読める私たちとしては」とストレイチー訳を批判しつつ書かれた手紙(?)は興味深い。

一方、Anat Tzur Mahalelは文芸批評の手法を取り、回想録の別の読み方を提供してくれル。

この本の「シリーズ編者による序文」はPeter L. Rudnytsky。フロイトが息子のように愛した精神分析家フェレンツィの『臨床日記』を重ねながらの紹介にしみじみした。https://www.msz.co.jp/book/detail/08695/

これまで患者の書き物は分析家のそれより周辺的な扱いを受けてきたがAnat Tzur Mahalelは患者の回想録を「精神分析文学」として文芸批評の対象とし、The author-analysandsたちを個別の患者というより「フロイトの患者」というグループとして扱う。

精神分析実践は、「メジャーな言語」に束縛されたマイノリティである自分が「ある言語の内において、その言語の外に出る」ことといえる。著者は序文でドゥルーズとガタリが見出した「マイナー文学」を引用し、フロイトの患者による回想録もそれとして理解することの意義を記す。

cf.1.叢書・ウニベルシタス 1068『カフカ マイナー文学のために〈新訳〉』      2.ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ著, 宇野 邦一訳『ドゥルーズキーワード89』 堀 千晶&芳川 泰久(著) せりか書房

著者がドゥルーズ&ガタリ『カフカ マイナー文学のために』から引用するのはここ。

「穴を掘る犬のように、巣穴を作る鼠のように書くこと。そのために自分自身の未開の地点、自分自身の方言、自分だけの第三世界、自分だけの砂漠を見出すこと」

ー第3章「マイナー文学とは何か」33頁

引用はされていないけれどここも大事かと。

「マイナー文学の三つの特性とは、言語の脱領土化、個人的な事項がじかに政治的事項につながるということ、言表行為の集団的アレンジメントである。」

「偉大なもの、革命的なものは、ただマイナーなものだけである。」

ー第3章「マイナー文学とは何か」

アナト・ツール・マハレルの本では当然オグデンも登場する。聞くこと、書くこと、夢見ることについて考えるときには必ず引用される論文はこちら。邦訳も出ているはず。

Ogden, T. H.

 “A Question of Voice in Poetry and Psychoanalysis.” Psychoanalytic Quarterly 67, 426–448. (1998).

The History of Psychoanalysis Seriesといえばこの本もそう。

『アタッチメントと親子関係 ーボウルビィの臨床セミナー』(金剛出版) ボウルビィ著  バッチガルッピ編  筒井亮太訳 のなかでボウルビィも言っている。

「患者の報告する実体験に敬意を払うこと、それがきわめて大切だと思います」

ミラノ・セミナーでの言葉だ。

Series EditorsはBrett KahrとPeter L. Rudnytsky。「シリーズ編者による序文」でブレット・カーも引用している箇所だ。

https://routledge.com/The-Milan-Seminar-Clinical-Applications-of-Attachment-Theory/Bowlby-Bacciagaluppi/p/book/9781780491677

https://kongoshuppan.co.jp/smp/book/b587826.html

さて、最初に登場するのはアメリカの精神科医、Joseph Wortis

02. Fragments of an Analysis with Freud by Joseph Wortis: Criticism and Longing

フロイトの被分析者の体験談の多くは1970年代にでている。しかしWortisは分析が終わって5年後、フロイトが亡くなって数ヶ月に早くも回想録を書いた。

この題名はもちろん「あるヒステリー分析の断片」(1905)=症例「ドーラ」と関連している。

患者が体験を早急に第三者に開きたくなるのには理由がある。端的にいえば、彼にとってフロイトとの分析がbad analysisだったからだろう。

しかしそれを「書く」行為が明らかにしたのは単に精神分析がもつ限界だけではなかった。常にongoing であること、著者は、この本であとから登場してくるH.D.の体験を素材に無時間性に関する学術論文も書いているが、そこでの議論とも通じるように思う。

ジョセフ・ウォルティスの『フロイト体験 ーある精神科医の分析の記録』(1989,岩崎学術出版社)は前田重治先生監訳。前田先生は東京で分析を受けていたときに古澤平作先生に本書を紹介されたと「解説」で書いている。

前田重治先生はご自身の体験も本にされているし、おすすめしたいご著書はたくさんあるけどきたやまおさむの歌を知っている人なら誰でも楽しめるのはこれかも。

→「良い加減に生きる 歌いながら考える深層心理』(2019, 講談社現代新書)著:きたやまおさむ&前田重治

前田重治先生の『「芸」に学ぶ心理面接法 初心者のための心覚え』(誠信書房)も。

ジョセフ・ウォルティス『フロイト体験 ーある精神科医の分析の記録』の次にminor textとして取り上げられるのはS.ブラントン『フロイトとの日々ー教育分析の記録』(日本教文社、馬場謙一訳)。

03. Diary of My Analysis with Sigmund Freud by Smiley Blanton: From a Deadlock of Silence to the Act of Writing 

ブラントンの回顧録は妻のマーガレットにより編纂されたもの。この本をざっと読みながら元の回顧録や症例研究にあたるなかで精神分析体験に第三者が関わることのリスクについても考えさせられるだろう。ブラントンのこの本も前田先生の覚え書も目を逸らしつつ読む感じになってしまった。

 ちなみに前も書いたがOgden,T.H.の関連論文と翻訳本もメモ。

 “On Psychoanalytic Writing.” International Journal of Psychoanalysis 86, 15–29. (2005).

“Reading Harold Searles.” In Rediscovering Psychoanalysis: Thinking and Dreaming, Learning and Forgetting. London and New York, NY: Routledge, 133–153.(2009).

オグデンの著作で訳されているのは多分これらです。

2冊目『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』5冊目『もの思いと解釈』6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』

Rediscovering Psychoanalysis  Thinking and Dreaming, Learning and Forgetting→『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳、 木立の文庫) 

The New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊も出た。それについてはすでに書いた

このシリーズはクライン派の本は結構訳されていると思う。独立学派は昨年でたハロルド・スチュワートと同じくスチュワートが書いた『バリント入門』。

以上メモ。関連の本を読んでいるのでこちらに付け足すかも。

資料作るの忘れてこんなことしてしまった。作ろう。

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身体、環境

昨晩のベランダも気持ちよかった。今朝も気持ちいい。冷房もつけていない。これから暑くなるのだろうけど。麦茶を作っておく季節にもなった。出かけるまでに冷まして冷蔵庫に入れないといけないけど時間がない時にはたくさんの保冷剤を巻き付けるようにして冷やす。ある映画でカエルがたくさんよじのぼって身体を埋め尽くしていく場面を見たけどあんな感じ、でもないな。今ちょっと思い出しただけ。両生類というのは不思議な生き物だよね。私たちも本来そんな感じなんだろうけど。昨日世界水泳に出るような人の身体の特徴についても聞いてやっぱり生まれ持った身体が違うんだなあと思った。

精神分析家のウィニコットは環境も遺伝だと言ったのだけど、これってこれだけ書くと「えー」と思うと思う。説明されれば「ふーん、そうなのかあ」と思うのだけど、と書きながらここでは詳細書かないけど(本がそばにないので私の説明ではさらに曖昧になる可能性がある)どうして誤解されないそうな言葉でそういうこといったんだろ、と思ったりする。こうやって引っかかる人が出てきて「どういうこと?」って探索するからいいのかな。かまってちゃんパターンとは違うんだと思う。ウィニコットはgood enoughな注意を向けることを前提にしている人だから。かまってちゃんパターンはその注意の不足が前提にある。

寝不足なわりに何も進んでいないしもうだめだー。と毎日なってるけど今日も始めましょう。今日は火曜日(確認)。

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朝、読書、漫画

お隣のガラガラが聞こえた。朝には朝のパターンがある。ソファで断続的に寝る起きるを繰り返してしまった。全然朝という感じがしない。身体が昨日の夜のまんまという感じ。リズムを崩すとパターンも崩れる。夏休みに一気に体調崩さないように(ありがち)用心せねば。健やかな毎日を送りたいのさ。

今週は芥川賞、直木賞が話題になるなか寺山修司を読んでいた。大雑把に言えば思春期に俳句、その後に短歌、その後演劇、と表現の場を変えていった寺山修司。個人的な興味は彼の演劇にあるが作品として強烈なのはやはり短歌。『寺山修司全歌集』の後半は特に圧倒される。それにしてもこの人も母に対する想いの強さのハンパなきこと。この人「も」と書いたのは宮崎駿の『君たちはどう生きるか』をみて宮崎駿にもそう感じたから。この題名、覚えられないんだなあ。誰かと話すとき直されてばかり。今もきちんと書かなければと確かめるために「なぜ君は生きるのか」で検索してしまった。重なってはいるけど全然違った。別の本が検索結果に表示された。でも「なぜ君は生きるのか ジブリ」で検索したら「君たちはどう生きるか」が出てきた。よかった。映画もとてもよかった。冒頭、主人公が走るシーンが一番好き。もう最初から母への想いに貫かれているように感じた。感動はそこからというわけではなくこれまでのどのジブリ作品にも描かれてきた疾走シーンと違って今回は死にゆくものの生命の力をすごく感じてものすごく感動した。昔話の王道ともいえる仕組みも散りばめられていてとても楽しくもあった。それにしてもジブリ作品に出てくる料理はいつもなんて美味しそうなんだろう。特にパン。あのパンとバターが食べたいよー。

子供たちはもう夏休み。親たちは大変だ。みんなで子供を見る仕組みができたらいいなと思う。私はNPOで活動していたときにそういう環境が普通にあることを知ってその結果赤ちゃんの頃から知っている子供がたくさんいる。余裕があると成長って面白いと思えるけど親だけで見ていたらルーティンを確保するので一杯一杯だろう。うーん。実用的な助けにはならないけど吉田戦車の『まんが親』を子育て中のみなさんに贈ってあげたりするのはいいかもしれない。ここだけ抜いてもわかりにくいかもだけど「超正しい子供理由!」とかすごく共感できるエピソードばかりだから。

大人も子供もそれぞれ色々あるけどとりあえず無事に過ごそう。良い週末を!

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フロイト読書会など

暑い!と言おうとして「うん?そうでもないか」となるような気温ですね、今日は。表示は30度だけど。あっつい紅茶を飲んでも汗をかきません。代謝の問題だったりして。今日は和菓子処かわはら「横浜銘菓 港の丘」とFIkaのとてもかわいいクッキー。たくさんあったかわはらのお菓子はこれでおしまい。ご馳走様でした。美味しかったです。Fikaのクッキーは箱もとても可愛くていただくととても嬉しい。クッキー好きさんへの贈り物にもはなまる。

昨晩はフロイト読書会のアドバイザーでした。やっぱり最初からしっかり読んでいくと概念の成り立ちの最初から追えるせいか以前読んでいたときよりも緻密だし修正もきく。立ち戻るポイントをいくつも持てるようになると理論を自分仕様に変えてしまう心配は減るから地道って大事よね。精神分析なんて毎日のように延々同じことをやり続けていてひどく不毛な一方でそれを不毛というにはあまりにいろんな作業を自分の見えない部分がしていて反復はただの物語では全くなくなりまさに今ここで治療者と患者が起こす出来事となる。言葉だけではとても表現できない、自分を超えている何かが自分を強く動かすことがあることをお互いに実感する。フロイトは多くの患者との臨床体験において目の前の患者に大きく心揺さぶられただろう。それは「大変だった」「びっくりした」「辛かった」というような感情体験ではなく自然の驚異みたいなもので届かなくとも自分もその一部として探究せざるを得ないことだったのではないか。本当に大きく揺さぶられることがなければここまでのことはできない。言葉でならなんだって言えるがその言葉が実感とどう結びついているかは非常に重要だろう。精神分析の設定もその揺さぶりに持ち堪えるためにある。環境の準備がないところでお互いの生身の感情が動くとしたらそれは暴走しやすいし破壊に繋がりやすい。思いがけないことはどうしても起きてしまうし自然破壊のように環境破壊を繰り返したりもするがなすすべなしにはしない。共存とは何かを考える。そんな感じ。

ビリー・ジョエルが来日するという。16年前の東京ドーム、行きました。アルバムもほとんど持っていたけど意識的にものすごいファンとかではなかった。それだけ聴いてたらファンなのでは、と自分でも思うが意識的にはハードロックバンドに夢中だった。みんな長生き、というのも変な表現だけどこの歳になると死は遠い世界の話ではない。コロナのせいもあるだろうけどまだ生きててくれてたんだ、と思うことは増えた。私のためにではなくても誰のためでもなくてもそう思う。誰かの死について考えようとしてもその人やその人の周りの生について考えるしかないのだけどなんだかいろんな気持ちになりますね。

今日は金曜日。どうぞお大事にお過ごしください。

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お菓子 散歩 精神分析

寄り道、新ハムレットオンデマンド配信、カチカチ山

暑い。でも朝はまだ冷房が効くのが早い気がする。今朝のリビングは31度だった。28.5度設定。0.5度ずつ変えられるようになったのっていつからだろう。その差をどのくらい身体がキャッチしてるかわからないけど。

隙間時間に友達とおしゃべりして連れてきてもらった道を戻るのではなく神社のほうへ。あ、通りの名前は知ってる。この通り、この前も見たけど繋がってるってことか、と陽射しを辛がりながら歩く。明らかにこの前通ったばかりみたいな景色だがこれはどっちにいけばいいんだろ、と左へ。あ、いつも突然現れる美術館はここかあ、行くときはのんびり寄り道しながらいくから全然道を覚えない。知っている道なのに知らない感じ。ここはどこだろう、と思ってると間もなく馴染みの景色へ。別の駅から帰りたかったのに降りた駅に戻ってしまった。あーあ。都会は難しいな。美味しそうなお店も見つけたけどまた偶然通りかかるまでは忘れちゃうな、きっと。その時はもっと時間があって偶然お腹も空いていますように。寄りたい。

五戸真理枝さん演出で6月、PARCO劇場で上演された 『新ハムレット〜太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?〜』が今日から7月25日(火)までオンデマンド配信とのこと。劇場なんて遠くて行けなかったよ、みたかったよ、という人はぜひチェックしてみてください。太宰の命日である「桜桃忌」にはすごくかっこよくてすごくうじうじしたハムレットを演じた木村達成とこんな舞台を作ってしまう天才、五戸真理枝のアフタートークショーも収録されているとのこと。舞台の3分の1のお値段です。夏の夜のシェイクスピア、太宰のハムレットはやや暑苦しいけど女たちも魅力的。

太宰といえば河口湖町にカチカチ山(天上山)というのがあってハイキングにもいいしロープウェイでも山頂に行けるのだけど山頂も色々遊べて楽しいの。たぬき茶屋もあるしかわらけ投げもできる。もちろん太宰のカチカチ山の場面を辿れる場所もありますよ。面白いです。

今朝は太宰繋がりで河口湖土産、私的(多分多くの人にとって)No.1のフジヤマクッキー。オンラインでも買えるけど現地からきたそれらは少し山頂の雪が溶けたりしていてそれはそれで趣というもの。今回も美味しいです。

はあ、パソコンあっつい。熱い紅茶も飲んじゃったからあっつい。きれいさっぱりして出かけましょう。でもきっと外に出るなりダランデロンってなって電車でキンキンに冷やされてまたダランデロンってなっての繰り返しだろうけどね。毎日ぐったりしがちやわ。みなさんもどうぞお大事にお過ごしください。

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問う

問われることを極度に嫌う人が問いを大切にするのはなぜかという問い。問いって本当に終わりなきもの。一問一答が見えなくしているものについてはこの前のグループでも話し合った。一問一答で問いを狭め仮の答えを欲しがっているとしたらそれはなぜか。こぼれ落ちるものが増えるだけとわかっているのに余計なことをしてしまうのはなぜか。子供といると「なに?」「なんで?」とよく聞かれる。泣き叫ぶ赤ちゃんにこれかなあれかなと何かを提示しても泣かれるばかり。なすすべなしと「うんうん、やだね、泣いちゃうよね」と抱っこしていると指しゃぶりを始めたりさっき拒んだおもちゃを気にするそぶりを見せたり。答えってなんだろう、と問いはいくらでも出てくるが答えってなに?「適応」ってなに?というのもよくある問い。誰に?何に?あなたに?社会に?あなたが社会ってやつ?「逸脱」ってなに?何から?どこから?あなたのルールから?お互いにお互いのこと考えたらそんなに差はできないはずだよね。いろんなことは差異で語ってるんだよね、私たち。みんな違ってみんないい、とか悪いとかではなくてとりあえずみんな違う、ただそこからなんだよね。違う?永遠に問いの型にすることはできるのだけどどっかで答えを決めたいね、仮でいいから、という場合もある。同じ、違うというマッチング課題は具象と抽象の行き来を見ることもできるけどずっとそこでゆらゆらしていられないことってある。朝がきたら仕事行かなくちゃ、学校行かなくちゃ、とか実際それをするかどうかはともかくなんらかの「次」っていつも準備されていてプレシャーをかけてくる。身体を自由に動かせなくなってしまった人と目で話す。これ?こっち?次は?これ?・・・と繰り返す。目の光を追っているような気がしてくる。それがいつの間にか言葉になる。できるだけ言いたいことと近い言葉でありますように。願いながら問い、仮の答えを探し、それを繰り返しなんとなくのまとまりを一緒につくる。言葉にならないものが言葉になっていく。それが正しいか間違いかはともかくとして。「クィア・アイ in Japan!」の印象的なシーンを思い出す。プライベートな関係は外からは見えないもので溢れてる。だからプライベートなわけで自分のあり方に侵入されない場所がないと人は壊れてしまう。ウィニコットのいう「孤立」がありうる場所を。問いの基本は相手がいるということ。=言葉があること。耳が聞こえない親である斎藤陽道さんご夫妻と子供たちの関わりを描く斎藤陽道さん原作のNHK Eテレの手話アニメーション「しゅわわん」で斎藤さんが「好き」という手話の起源を考えるシーンがあった。人はなぜ起源を考えるのだろう。なぜルーツを探るのだろう。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)の著者は流刑地を辿りながら追放された3人が見たであろう「陸の端とその先の果てしない海」を眺める。そして自分がここにいる理由を見出す。「存在するものはすべて、なんらかのかたちで痕跡を残す。(中略)ここでは、ほかの場所では不可能なかたちで、その人たちを取り戻すことができる。」私たちは、相手や別の可能性を想定する問うという行為を言葉以前からしてきた。ウィニコットのいう「孤立」はその源泉なのだろう、ということに仮固定しておく。そして次へ。きっとまたここへ。その繰り返しを問いとともに。今日はお休みの人も多いだろうか。すでに暑いけどどうぞお気をつけて。お大事にお過ごしください。

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囚われ、連帯、『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)を読み始めた。

すでにのんびりしてしまった。やらねばいけないことは山ほどあるのにのんびりもできてしまう。人間のキャパを舐めてはいけない。と思いたいが、私たちの心はものすごく何かに囚われやすいことも事実だろう。死に囚われてしまった人に対して反射的に何か言いたくなるときそれは抵抗かもしれない、自分がそれに囚われないための。人は人を使って生き延びているだけかもしれないのに不快さや不安を感じると相手ごと自分から切り離そうとする。「私よく知らないし」とか「え?関係あると思ってたんですか?」みたいな感じで。嘘くさいがそういう人たちも本気だ。それはそれで囚われている。切り離すことなどできない。

私は「連帯」という言葉が苦手だが人は人を使って生き延びている、というか「いかなる人生も自己もひとつの統一体ではないこと(p.15)」を自由と連帯の側面から描写する本と出会った。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)というきれいな青い表紙の本だ。ここには3人の流刑囚が登場する。柏書房のwebマガジン「かしわもち」(note)から引用しよう。ありがたいことにプロローグも公開されているのでそこだけでもぜひ。「ホームシック」についての印象的な記述が本書で著者と辿る流刑囚三人の物語の導入となる。

「本書はある流刑囚三人の物語です。すなわち──フランスによってニューカレドニアへ送られたパリ・コミューンの闘士、ルイーズ・ミシェル(1830-1905)、イギリスによってセントヘレナへ送られたズールー人の王、ディヌズールー・カ・チェツワヨ(1868-1913)、ロシアによってサハリンへ送られたウクライナの人民主義者、レフ・シュテルンベルク(1861-1927)。より大きな自由とホームの理念のために、目の前の自由とホームを犠牲にした者たちの生涯を著者は辿るのです。」

最初は名前や地名に馴染むのに少し苦労した。異国へ向かうときに最初に生じる言葉の混乱。でもそれも最初だけだろう。まだ読んでいる途中だ、ということで読みたいのであと一冊、すごく力強い本に出会ったけどそのことはまた今度書くことにしよう。

今日はジャスミンアールグレイと生チョコのお菓子をいただいた。治療後の歯が痛いが食べることもやめられない。困った困った。

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お菓子、毒、親密さ

今朝は横浜市緑区長津田の老舗和菓子処かわはらの「長津田さやか」をいただいています。なるほど、これはブルーベリーのお味なのですね。私は美味しいとか好きとかはわかるのですが味から原材料を想像するとかが本当に苦手です。柑橘系の何かが入ってるのかな、くらいの曖昧さでならわかるけれども。知って驚いてもう一度食べてなるほどと思うの繰り返しですね。毒見係とかできなそうです。少量の毒だったらすぐには死なないでしょうけどちょっと変な味だぞ、とか判別できないといけないのでしょうか、この係って。映画『ゴッドファーザー3』に出てくるカンノーリを巡るシーンを思い出します。大学生のとき、長期休みは不登校の子どもたちと山中にある廃校になった小学校で一緒に生活をしていました。みんなで校庭から続く山道を散歩していたとき植物博士のスタッフが「触らないで!」と大きな声を上げました。私はそこではじめてそれがトリカブトだと知りました。それまでも見たことはあったでしょう。でも知らなかった。そんなものやことばかりです。

私の主な仕事は特定の相手との親密さと信頼に基づく相互交流ですが親密さと信頼を築くまでが大仕事です。カウチ上で自由連想をすることによって思っても見なかったことを話してしまう、他人になど見せたことのない態度をとってしまう、自分の意識的なコントロールを超えた「思わず〜してしまう」自分と出会うのは苦痛な作業です。よっぽどの切迫感を持って自分の問題として取り組みたい気持ちがないと取り組むのは難しいでしょうし危険もあるでしょう。

最初は聞いてもらえるだけで信頼できた、親密になった気がした。自分でも知らない自分が出てくる、思ってもみなかった反応が返ってくる。不安。不快。世界は自分用にできていない。不快。不安。自分がそこでどんな防衛を使って生き延びてきたかなど暴かれたくない。それはそうせざるをえなかったというだけの話なのに人は「暴かれた」と感じてしまう。最初の親密さは剥がれ落ち別の「近さ」が二人の関係を難しくする。親密ってなんだろう。不信感が渦巻く。言葉が性愛と攻撃性に塗れていることに気づき始める。不安。不快。自分にそんなところがあるはずはない。不快。不安。でも知らないといけない気がする。このままでは自分はまずいかもしれない。想起は続く。不快。不安。抵抗。防衛。反復。いいかげん反復に気づく。防衛がきかなくなる。不快。「こんなはずじゃなかった」「そんなつもりじゃなかった」何を言っても言い訳をしているように感じる。不快。不安ということさえ伝えたくなくなる。何も言いたくない。何も言ってほしくない。それでもここにいて同じことを続けていく。なんで?

親密さってそんな感じではないかと思っています。その人の部分ではなく全体的な個別性に出会うことは当事者であっても難しくましてや他人が、でしょう。判断も行動も速すぎないほうがいい。特に他人のことに関しては。精神分析は判断と行動からは遠い治療だと思います。時間をかけて目的もなくわからないならわからないなりにそんな自分とそれを見ている相手に持ち堪えていく。そういう時間を積み重ねていくことで快原理ではなく思考過程を優位に作動させることができるようになり反射的ではなく時間をかけることができる心のスペースを少しずつ広げていく、そんな治療法です。誰かになにかを無闇に押しつけるのではなく無理や我慢ではなく自分でゆらりゆらりと思考しながら抱えていけますように。困難とわかりつつもそこに価値を見出せますように。

東京は今日は曇り空です。引き続き暑さにお気をつけてお過ごしください。

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子供の調子

冷房を効かせすぎた。しまわずによけておいていただけの羽布団をまた引き寄せてしまった。起きたら身体の半分が熱かった。きちんと閉まって冷房には注意しよう。ただでさえバテてるのに風邪までひきたくない。保育園の子たちがお腹の風邪とかアデノウイルスとかヘルパンギーナとかでお休みしていると聞いたり「今日久しぶりの保育園なんだよね(だから調子が出ないんだよね)」ときいたりするとこんな小さいのにかわいそうにと切なくなる。本人はニコニコ元気でも身体が追いついていないことも多くなんか調子悪そうだなと思ってお熱を測ると37度後半、これから上がるかも、ということは多い。私は主に0歳から3歳までの子供をたくさん見ているのでまだ言葉以前の子たちが多く子供の変化に気づくのは本人より大人だ。傷であればそれがどんなに小さくても(ただでさえどこもかしこも小さい)本人に見えるので指差しで教えてくれることもあるし彼らは絆創膏を貼るのも好き。ケアされてる感じがするのだろうか。剥がれて同じ絆創膏がないと泣いてしまったりも多い。子供の絆創膏ってかわいいのがたくさんあるしね。この時期は熱中症もとても心配。大人も絶対気をつけたほうがいいけど子供は気をつけてあげていてもあっという間になってしまうから本当に油断できない。この時期は気温が高すぎるから保育園ではお散歩に行けないのだけど屋内でも熱中症にはなる。お茶とか飲んでくれない子だとほんとに心配。人間、必要なものを摂取するとは限らないのね。確かに今私が摂取したのは暑くて食べる気がしないとか思いながらも「カントリーマアムチョコまみれ」だし摂取しなくてもいいものは食べたくもないのにつまんじゃったりするし。昨晩のポテチとチーザでおなかきもちわるいし。大人は自己管理ですものね。でも大人だからね。子供は調子崩すと本当に心配。いつもは小さくてもすごく逞しく感じる身体が本当に頼りなくさらに小さく見えてずっと泣いているのをずっと抱っこし続けるしかないこともある。保護者も保育者も気が抜けないうえに心細いだろうし本当に大変。みんな今日もあっついけど元気に過ごすんだよ。子供への心配は尽きないですね。子育てツイートとかいつもいろんな気持ちになりながら眺めています。

あ、なんか結構長く書いてしまった。準備しなくては。精神分析を子育てのメタファーで語ることについてSNSでブレストしていたので保育のこと書いてしまったのかな。ブレストは嘘だな。ブレストしようと思って電車でひとこと書いただけだ。忙しくて自分が何を考えていたかすぐ忘れてしまうからとりあえず書いていること多いけど展開させずに終わっていることも多い。がしかし、今日も忙しい。移動も辛い。ふー。兎にも角にも暑さには気をつけましょう。

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くずきり、失敗、スヌーピー

首の痛みが治らないな。ヘルニアが悪化してるのかな。嫌ね。さっきいただいた抹茶くずきりを半分にしようと思ったら大惨事。大というほどではないけどやや惨事。というか「惨事」だけでも結構な感じね、いざ書いてみると。くずきりってどんなだっけと思いつつも知っているものとしてきちんと思い浮かべなかったのがいけなかった。こういうことは失敗したから思うだけだけど。まず抹茶が入っている小さな袋を開けるところで失敗。横にちょびっと開けるはずが縦に裂けるように開いてしまった。でも抹茶が少し親指にかかった程度で被害は少なかった。幸運。くずきりが水分とともに麺状で出てくるのはわかってた。でも水分量と麺が滑り出てくるスピードに対応できなかった。また少しこぼしてしまった。お盆の上だからよかったけど。抹茶は最初黒蜜かなと思って(抹茶くずきりって書いてあるのに)、とか小さな思い込みを重ねながらぼんやり行動するからこうなる。私みたいに不注意で不器用な人は普通よりも意識的に行動しないと叱られたりこいつ大丈夫かと思われるようなことをしでかすので療育を学んでから気をつけてきたのだけど相変わらずですな。あと怖い人といると失敗する。緊張してさらになんだこいつ感が強くなる(というかそういう感じを醸し出す人だから怖い)。前に私は好きな人だったんだけど向こうはイライライライラしてて(嫌われてたんだろうね)買ってきてくれた小さなお菓子を小袋から手に出してあげるときにこぼしてしまった。怖くて緊張してしまったのね、きっと。というか絶対そうなんだけど好きだったんだよね。とてもとても悲しい思い出。今も思い出すと怖いし悲しい。身体の記憶として残ってしまってる。不注意や不器用がある子どもが失敗しては怒られてさらに失敗を重ねるのってこういうこと。何ができなくても怖がらせるのは良くないよね、という普通のことを思う毎日ですね。

この前、南町田クランベリーパークにあるスヌーピーミュージアムに行った。高校生の時、演劇部がスヌーピーのキャラクターが登場するというかエレベーターに閉じ込められた世界がその世界になりそれぞれがその時間をそのキャラクターで生きるような、いや、全然違うかもしれない、まあでもスヌーピーの主なキャラクターたちが繰り広げる劇をやったのをみた。私の高校の演劇部は強豪校(というのかな)でレベルも高かった。今も、というかコロナ前まではたまに高校演劇も見ていたけどうまさとはなにかと考えさせることが多かった気がする。なんかもうこの年齢の子たちのエネルギーだけで満点じゃん、とやられてしまうときもあればそもそも自分にはできないことをしている時点で「すげー」と思ったりもする。スヌーピーのキャラクターの成り立ちとかシュルツ自身のこととかよく知らなかったのでとても面白かったしアニメーションとかいろんな展示もワクワクしたし、漫画もたくさん展示されていてどれも意外性と深みがあったしすごく楽しかった。漫画だと全部読んでも全然疲れないね。「ライナスの毛布」というのは多くの人に伝わる言葉だよね。そういう引き継がれる言葉が残っている作品ってすごい。写真はライナスのことを好きなチャーリー・ブラウンの妹のサリー。ちゃっかりはっきりしててかわいい。

You play with the cards you’re dealt.. Whatever that means.

スヌーピーの言う通り。火曜日もなんとか過ごしましょう。外はすでにとっても暑そうですよ。どうぞお気をつけて。

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心構えとか

地震で起きた。ネットを見たら福岡佐賀に線状降水帯による雨に対する警報が出ていた。昨年末から年始は佐賀、福岡にいたがどの辺がどうなってしまっているのだろう。佐賀はあまり災害がないと聞いたこともあるがどんな様子なのだろう。どうか被害が広がりませんように。自然に対してはいつもなすすべなしというかなしても予想を超えてくるという推測は立つ。心構え的なものが有効である程度であってくれますように。

「心構え」について昨日の勉強会で話した。余計なことをしないための、相手の言葉を奪わないための何か特定の方法があるわけではない。むしろどうしても生じてしまうその事態を最小限にしていく、というよりその影響を知るためにはそうなっていることを実感を持って認識することから始める必要がある。「頭ではわかる」が実感を伴った理解に変わればそれ自体が心構えになる。技法は模倣できるが心構えは模倣できないから患者との経験から学ぶしかない。というか臨床はその連続でしかない。

今日は頭がモヤモヤしていてすぐにウトウトしてしまう。最近寝ぼけてヒヤヒヤすることも多い。寝るときもエアコンを使用するようになり快適に眠ってはいるけれど。夢で「郷土料理という幻想」について講義をしていたのだが最近吉本隆明の『共同幻想論』を再読していたせいだろうか。食べ物のことばかり考えているからだろうか。郷土料理についても実際に話したか、そういえば。今朝のお菓子は梅のお菓子。梅の実はもうおしまいかな。昨日は銀杏並木の木陰を歩きながらその枝にびっしりと銀杏がなっているのを見て驚いた。いつの間にこんなにたくさんなったのだろう。まだ大きくなるとも聞いた。

今日は月曜日。眠いけどはじめましょう。

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ここ数日でいろんな川を渡った。川を渡ると景色が変わる。電車で座って本を読んでいても川にさしかかればわかる。顔をあげる。視界が開ける。しばらくその景色をじっとみる。毎回少し感動する。いつも同じ時間に小田急線で多摩川を渡っていた頃は夕焼けが美しい時間でその変化で季節の移り変わりをはっきりと感じることができた。いちいち感動した。京成線が中川を渡るときの景色も好きだ。スカイツリーのある景色もいいが何もないかのように見える景色もいい。夜東京へ戻るときも川が近くなれば景色が変わるから気づく。遠くに街の灯りが遠ざかっていくのを眺めながらまた感動する。慣れることなく感動するのだから不思議だ。海が視界に入れば毎回身を乗り出してしまうのと同じか。これは私が海なし県育ちだからではないと思う。新幹線で富士山が見えれば車内がなんとなくざわめきシャッターの音が聞こえたりもする。スカイツリーのある景色といえば、かつしかけいた『東東京区区』単行本第1巻発売がもうすぐだ。楽しみ。

中井久夫が亡くなってもうすぐ一年になる。私は1週間の夏休みをとっていて神保町にいた。ランチの店が開くのを待っているときに友人のツイートで知った。中井久夫のそばで働いている人たちや近い世代の先生方から話を聞くことは多かった。私は一度だけ研修会で見たことがあるがそんなに強い印象は残っていない。中井先生がどうというより壇上の先生方の会話は今だったら色々言われるであろう会話だったのは覚えている。まだSNSがそういう使われ方をされていない時代だった。私が中井先生の仕事で一番馴染みがあるのは風景構成法だ。年齢、性別、症状問わず多くの患者さんに描いてもらった。その項目の一つに「川」がある。詳細は書かないが川が風景に及ぼす影響と川の個別性に毎回驚かされた。それが川だとは全くわからないものもあった。目の前で「川」を描いてもらうようにいうのは私なので私にはわかるしその人にとっては間違いなくそれは「川」なのだ。そういう共有もよかった。

それぞれの心に残る景色があるだろう。全国を旅しながら別の季節にきたら全く別の景色を目にするのだろうと想像することもある。美しく広がる草原を「きれい」と言ったら津波で全て流された後だと聞き愕然としたことも思い出す。私の仕事は出来事と景色を見せてもらうように聞く仕事だからこれからもその個別性に驚き続けるのだろう。私が誰かとしたはずの体験も私の中にしまわれたものと相手の中にしまわれたものでは違う。それにとても悲しい想いをしたり回復できない衝撃を受けることもあるけれど差異こそが現実でひとりひとりの体験は絶対に大事だからいろんな気持ちになりながら今日も過ごすのだろう。こういうことってすぐ忘れてしまうこともであるからいちいち驚いたり感動したりするのかもね。

今日も暑そう?まだよくわからないな。屋内でも屋外でも熱中症には気をつけて過ごしましょうね。あと車内の冷房にも。どうぞ良い1日を。

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土曜日、出会い、心

除湿をつけた。窓も少し開けた。エアコンは設定温度に向けて初動がんばってくれるので音がいつもより大きいというか風の音が強い。蝿虎がその下でじっとしている。でもそこじゃ風が当たらないよ。真下すぎる。いいのか、それで。涼んでるわけじゃないのだから。あ、少し動いた。とかしている間にどんどん時間が過ぎていく。あっという間に土曜日だ。

今週はたくさんの人と会った。無事に過ごせただけでも嬉しいし、新しい出会いも集団でイキイキ仕事ができるのもおもしろたのしく普段の仕事のための学びにもなる。イレギュラーな形でしか対応できないが長年続けているものは今後もやっていけたらと思う。

小さいパウンドケーキを半分とフルーツティーをいただいた。部屋もだいぶ除湿されてきた(のか?)。涼しくはなってきた。最近これを書くときはPCを腿の上に置いてダラダラ書いている。腿が熱い。暑い。そして書き始めるとどうしてこう眠くなるのか。

今度の旅ではどんな人に会えるかな、と話した。どこかへいけば誰かと出会う。話す。別れる。そんなことの繰り返しだ、日々は。あえて出会いを求める時期やそれが必要な状況もあるかもしれないが私は大体流されるままやってきた。めんどくさがりなのだろう。自分で強く求めた出会いは精神分析に関するものだけかも。まあ、出会ってしまえば出会い方がその後にものすごく大きな違いを生じさせるかというとそうでもなく起きることはそんなに変わらずひどいことも起きる。そういうのはしかたない。後悔できる類のことでもない。傷つきながら苦しみながらそれでもまた繰り返す、日々を。そしてひどく苦しい気持ちから回復できなくてもそれとは関係ない場所ですごくくだらないことをして笑っていたりもする。笑えない状況でも笑えてしまうのだから人間はすごい。死が間近でもそういうことは生じる。人間は常にon goingだ。こうするときはこういうもの、みたいなものを持っているくせに、パターンを反復しがちなくせに、自分を自分が超えてしまう。誰の力なのかしら。ひとりで生きているのでない以上、自分にはどうしようもない部分が大部分。気持ちを感じるのは自分だから防衛が必要になるのかもしれない。大変なこといっぱいあるもんね。心を守る必要と工夫。

さっき何かの本のことを思い出して書こうと思った瞬間に忘れた。なんだっけ。まあいいか。必要となればまた思い出すだろう。必要ならまた電話かけてくるでしょう、というのと同じ。最近は文字文化だからそういう感覚って薄れているのかもしれないけどね。

というわけで良い土曜日をお過ごしください。

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ポテンシャル

南側の大きな窓を開けて洗濯物を干した。レースのカーテン、さらに洗濯物の向こう、向かい側のマンションのドアが開いて人が出てきた。お互い早うございますね。おはようございます。

重たい障害や疾患のある子どもといるとその限界を頭では分かりつつそのポテンシャルに驚くことが多い。進行性のものであってもそうだ。先日、朝比奈秋の「植物少女」を読んだと書いたが著者は医者だと聞いてなんとなく納得した。日々、病に触れていると注意を向けるところも優先的に使われる言葉も変わってくる。著者は小説を書き始めてから医者の仕事と一旦かなりの距離をとった時期があるらしい。「普通の」人が使う言葉の世界に戻ってくる時間だったのだろうか。「普通」と折り合いをつけた通じる言葉で語られたとしてもその原型が変化することは少ないだろう。精神分析でいえば原光景みたいなものだ。そこは善も悪も幸も不幸もないぐちゃぐちゃとしたどちらかというと暴力的かつ甘美な場だ。つまり性的な場だ。今は「性」と言葉はそういうものとして使われることは少ないように思う。文学作品を読めばそんな性は溢れているというのに。私が進行性の、あるいは回復や治癒の見込みはないといわれる障害や疾患を持つ人に感じるポテンシャルの源泉もそういった意味での性にあると思う。アンドレ・グリーンがラカン、フロイトに回帰しつつウィニコットを中心とするイギリスの精神分析家の理論を踏まえた情動を中心に据える議論を展開しているがそういうものを読むときも性をそのような性として「普通に」捉えることができないと議論はすれ違うばかりのように思う。対象関係論は対人関係のことを扱っていないということもできるがその実感は自分を脅かしつつも生かし続ける性の力を生々しく実感していないと意味を取り違えるかもしれない。その取り違いにさえ無意識という言葉で何かをいうことは可能なわけだが無意識という言葉をゴミ箱的に使うのも違うのでそういうものだとそのままにしておく必要があるのかもしれない。多くの具体的な出来事を思い浮かべながら曖昧なことを書いているがなかったことにしないための行為のひとつだ。今日もなんとかはじめよう。

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本、お菓子、雨

「推しの子神回」ですと?まだアニメ3話目の私についていけるはずのない展開があるのね、きっと。今夜も見よう。

雨ですね。雨の音でどこに何があるかわかったりする。私の場合はすでに目でも見てるから。目の見えない人は耳がその代わりをするらしい。

『聴こえない母に訊きにいく』の五十嵐大さん@daigarashiと『わっしょい!妊婦』の小野美由紀さん@MIYUKI__ONOのTwitterスペース「エッセイを通して社会を描く」を聞き始めた。

聴こえない母に訊きにいく』(柏書房)は最初から泣いてしまった。書かれていない出来事や気持ちがシンプルな文章に染み渡っていて読むと浮かび上がってくるそれらに揺さぶられてしまった。雨の日にピッタリ。母の静けさには迫力さえ感じた。それは耳が聴こえないから、それでも親になったから、という単純な話ではないのだろうと思う。個人の体験は個人だけのものではない以上、語りえないものに溢れてる。この本でいえば父はあまり登場しない。なぜだろう。私の仕事は書かれていないことの方に注意を向ける。そのようなことも含め、ありがちな物語に回収しないように耳を傾けるべき一冊だと思う。『わっしょい!妊婦』はまだ読んでいないけどお二人のお話を聞いているとすごそう。昨日も目の前で妊婦さんたちが3人で話していた。ひとりは明らかに妊婦だとわかったが聞こえてくる話だとこの人も?この人も?と思ったが見た目ではよくわからなかった。妊婦とはそういう状態だということかもしれない。「こんなのが出てくるってすごいことだよね」「ほんとほんと」という会話を聞きながら「こんなのを出せるってすごいことだよ」と思っていた。3人は何度も「〇〇ってすごいことだよね」と言い合っていた。自分のことなのに自分にはわからない、そういうものが神秘として語られるのかもしれないけど妊娠、出産、子育ての現実は神とかいるなら助けてくれよという出来事の連続だからそのすごさに対して全方位からまともな眼差しが向けられたらと願う。

雨が降る。雨が降る。眠気がとれない。お菓子(五日市土産、「里の娘」)は食べた。美味しいお茶も飲んだ。被害の出ている地域は大変だろう。昨日、妊婦さんたちの話を耳にしながら各地の被害状況を見ていた。いろんな場所でいろんなことが起きている。どうぞご無事で。ご安全に。

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ネットワーク、注意、暮田真名「うわの空のすすめ」

今朝も風が気持ちいい。台風とか天候の乱れの予兆ではないよね、と天気予報を見る。九州に大雨の予報、土砂災害に厳重警戒とのこと。こういうとき無事かどうか連絡せずとも知れるのがTwitterだったのだけど今後どうなるのかな。私は東日本大震災のときにTwitterをはじめた。震災後すぐの5月にNPOで被災地へ行きその活動をつなげていくためだった。阪神・淡路大震災のときは関西に友達がたくさんいた時期だった。グループでの付き合いだったからネットワークができていたのはよかったが当時Twitterがあったら何がどう違っただろう、と考えることはある。九州は土砂災害の被害が多く地盤も緩んでいるところが多いだろう。毎回九州に大雨というニュースを見聞きすると旅で行ったときに目にした水害の痕を思い出す。どうか被害が生じませんように。

今週はイレギュラーなことが多いので少し気を張っている。心配は主に体調面だが。常に慌ただしいので自分の状態から気を逸らしておけるのは悪くない。囚われる暇があると余計に気になってしまうということもある。逆に痛みが強いときなどはその痛みがどんな感じかをつかむために集中することがある。これまでとどう違うのか、違わないのかをつかむべく。状態としては結構大変でもその後の回復を予測できるときがあるから。

昨晩は除湿も冷房もつけずに南側の大きな窓を開けていた。風が気持ちよく月がとてもきれいだった。見えたものをシンプルに言葉に置き換えていく俳句、そこに情緒が加わる短歌、景色よりも言葉の意味よりも言葉の並びや音が何かを醸し出してくる川柳、これらを短詩と括ることができるがそれぞれの違いは興味深い。

6月30日に川柳人の暮田真名さんの電子書籍が発売された。「次世代の教科書」シリーズ編集部による暮田真名さんへのインタビューをまとめた「うわの空のすすめ」(金風舎)。題名からして暮田さんらしい。昨夏、臨床心理士、公認心理師向けのイベントにゲスト講師としていらしていただいてから仲良くしているが経験に対して素直かつ貪欲なのが面白く魅力的。若さだけが理由ではないだろう。

「私にとって川柳との出会いは、自己否定の堂々巡りを断ち切る鋏のようなものでした」

と暮田さんは冒頭に書いている。高校生や大学生には特に響くであろう言葉も多い。私は暮田さんがどのように言葉を拾っているかに最初から興味があったのでそれについても話されていてさらに関心を深めた。精神分析は視覚も聴覚も普段とはだいぶ異なる注意のもとに使っている。フロイトはそれを「平等に漂う注意」といった。今日もぼんやりとなにかを待つようにやっていこう。短詩仲間とのオープンチャットも作った。ようこそ、いらっしゃいませ、おいでなさいませ、とお出迎えするときみたいに言葉を迎えられたらいいなと思う。

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ユヌクレ、南信州、ヤキフェス?

北側の小さな窓からスーッと風が入り込んできた。南側の大きな窓を開けたときには感じなかったのに。今朝はユヌクレさんのバターサンドを半分。大人気のパン屋さんはコロナ禍でオンラインショップに切り替えたまま南信州へお引越しされるとのこと。南信州ってどこ?おお、長野の南か。静岡側。そりゃそうか。南信州だもんね。飯田市が一番大きいみたい。人口は172,921人(2008年1月現在)とウィキペディアから。今は2023年、その後の人口はどうなっているのかしらと調べたら96,507人(2023年6月)。こんな減ってるの!?と思ったけど前者は南信州地域の人口。私が調べたのは飯田市のみでした。びっくらした。私の友人も長野に引っ越して商売をしているけど南信州ではない。長野は広いからなあ。色々いってるけど南信州かあ、いったことないと思うなあ。飯田って日本一の焼肉街なんだって。行きたい。朝はユヌクレ、たくさん歩いてお昼はそば、夜は焼肉というコースで。「焼来肉ロックフェス」ってなに!?楽しそう。日本一長い鉄板で焼肉?ギネスに挑戦?あ、世界一か。ギネスだもんね。すごい。楽しそう。流しそうめん的発想かな。あれも「世界一長い」ってあったよね。世界一小さな鉄板だと味がわからなくなっちゃうし、そうめんも流れてもらうにはそうめん以上の長さが必要だし食べ物で競われるのは長さの長い方とか大きさの大きい方なのかな。モノだとどれだけちっこくできるかも競うよね。スプーンおばさんとかアリスは本人の制御を超えているし競ってないなぁ。焼來肉ロックフェスは今月22日と23日か。昨年もやったのね。2021年は中止、2020年は配信。今年はどのフェスも復活かな。色々行けるように体調気をつけないとですね。なんでも食べられる胃腸がほしいです。胃腸が悪いとずっと眠いし好きなものを我慢しなくてはいけないのは悲しいですから。我慢できなくて半分食べちゃったけど、バターサンド。このあと気をつけましょう。火曜日もどうにかこうにか過ごせますように。

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回復、時間感覚

さっきベランダに出たら鳥の鋭い声がした。よく聞く声なんだけどお名前が相変わらずわかりませぬ。でもいつもこんなにずっとは鳴いていない気がする。あまり風もないけど気温も高すぎない様子。でも部屋に入ってもカーテンを開けなかった。冷房の効果を気にする程度には外は夏だもの。数少ないお休みをすっかり体調回復に使ってしまったけど痛がりながら寝っ転がりながらかき氷やあんみつ食べにいきたいとかやりとりしてた。機能が衰えると欲望の健全さを感じますね、普段は困ったもん扱いの欲望さんにも。もちろん欲望によって破滅(しっくりこない言葉だけど)することもあるけれど。身体の痛みやだるさって本人にしかわからないし死もいつおとずれるかわからないんだな、ということは実感を持って知るようになりつつあるけど実際に起こることについては全然知らない。自らの死が間近なことを予測しながらSNSに「これが最後になるかも」と言葉を残す人もいるしまだ幼い我が子が重度の障害を抱えつつ生きた軌跡を残すご家族もいる。今私が思い浮かべた子はすでに亡くなっているので過去形にしたけど存在を確かめるためにSNSを利用している人も少なくないように思う。赤ちゃんの頃から何度も手術を繰り返していた子が小学生になったと知りお祝いをいうことができたのもSNSのおかげだった。動くこともままならないまま限られた人たちと日々を過ごしていると、と色々書いたけど消した。ものすごく大変なことだ。漫画『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)で突然石になってから復活する日までの時間を主人公が数えながら持ち堪えていたが孤独や狂気から辛うじて身を守る手段のひとつが時間感覚を維持するということなのかもしれない。トラウマは時間感覚を破壊する側面を持つがその場合SNSはさらなる外傷と関係してくるかもしれない。断片化されたこころに断片的な言葉の取り入れは困難である場合が多いだろうから。また眠くなってきてしまった。どうなることやらだが委ねられるだけ委ねよう。また1週間がんばれたらいいね。

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観たり読んだり。

まだそんなに気温高くないですね。鳥たちの声は聞こえません。なぜなら早朝からNetflixを見ているから。きっと今日も鳥たちは元気。「離婚しようよ!」はとてもおもしろかった。特に5話までが。今は「バーレスク」。朝から観るものでもないかもだが観たかったんだ。クリスティーナ・アギレラ大好き。楽屋でのDon’t touch my stuff!というセリフに反応してしまった。ケンブリッジに6週間いった時に寮で2週間同室だったコロンビアの子に私が圧を込めていったセリフ。Shit!なことが多かったぜ。一度本気でキレたら部屋に寄り付かなかくなったけど。不良少女たちみたいな雰囲気で妹分のような子たちはかわいかったし仲良くしてたんだけどな。腹たつ。私も相当やばいと思われたみたいだけど知らんがな、仕掛けたのそっちやろ、とまだ元気な20代でした。今でも同じことされたら同じことする気がするけど。戦略なんて増やしたくないしね。しかしシェールもかっこいいな。

『新潮』7月号で朝比奈秋「植物少女」を読んだ。これまでにない母と娘の関係を見せられた気がして深いため息をついてしばしぼんやりした。「離婚しようよ!」で「生きているのか死んでいるのかわからない」というセリフがあった。生き「ている」ことを主人公たち以外の人物からも見せつけられた。意志ってなんだろう。

今日も見たり読んだり出かけたりしよう。言葉にならないことが多いな、なんだか。どうぞ良い一日を。

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肉まん、ボロ市、『ねこたちの夜』

ほっかほかの肉まん。蒸した方がしっとりするけど今朝は電子レンジ。加減が難しいですよね、こういうのって。書いてある通りやってもあちちって火傷しちゃうこともあるし。とっても美味しい鹿港があるあたりは12月と1月に2回開かれる「世田谷ボロ市」で有名。駅だと東急世田谷線上町、世田谷、松陰神社あたり。コロナ禍のボロ市ってどんなだったか・・・。今年はすごく盛り上がっていました。普段見たこともない、使い方もわからない雑貨を眺めたりお話聞いたりちょこちょこ歩き食べしたり。アンジュというレアチーズケーキが特に美味しいプラチノというケーキ屋さんが出すココアがこの寒い時期にぴったり!あー、早く冬が来ないかなあ、とは全然思わないけど毎年行きたくなる伝統行事です。世田谷通りは美味しいお店も多いしお散歩にもピッタリ。馬事公苑のそばには古井由吉も住んでいた。馬事公苑もオリンピックで使うために閉園となってすっかり変わってしまった。というか新しくなってから行っていない。とってもいいところで世田谷まつりか何かのときに偶然友達家族に会ってまだ5歳の子とじゃんけんしたのは何年前かな。もう中学生だから約10年前か。生まれる前から知ってるんだよー、なんてその子は知らないし子供は子供の大変さがあるに違いないけど意外といろんな大人があれこれ考えながら見守ってるものよ、うざいだろうからあえてそんなこと言わないだけで。また何かのお祭りで偶然会いたい。夏祭りの貼り紙もそろそろ見かけるのではないかしら。7月ですね。いまそばにある総合俳句誌「俳壇」は4月号だけど。本はこんな夏の朝でもあっという間に全く別の時間、別の季節、別の場所に連れていってくれる。友達のさわださちこさんの最初の詩集『ねこたちの夜』も昨晩見つけた。ここにいたのね、猫さんたち、という感じの表紙は編みメーション作家のやたみほさんによるもの。この詩集は三越左千夫少年詩賞を受賞されています。

てぶくろのはんたいは?

っていうから

こたえたら

ろっかいぶたれた

くやしくて

いいつけたら

「わるい おにいちゃんねえ」

おかあさん わらった

へんだな わたしも

おこりたいけど わらっちゃう

てぶくろ

ろくぶて

そうか

うーん

ー『ねこたちの夜』(2012、出版ワークス)

また冬を取り上げてしまった。まだ、というより今日から7月というのに。ろくぶて、懐かしい。あれはなんだったんだろう。きちんと6回ぶたれてたよね、大体の人は。123456!って早口でいう相手に。なんだったんだろう・・・。今日はもういいかげんにしてくれよ案件もある。ろくぶてに笑いながら腹を立ててた頃が懐かしいわ。ぶち返すにも微妙な感じあるしね。たしかに。ここまできたら最後まで丁寧に緻密にやりましょ。

暑さからも冷房からもちょうどよく距離とってがんばりましょ。

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心ない人、心と経済、夏のお花

寝たり起きたり。寝違えたわけではないというか、仕事中に急に寝違えたような首の痛みがきてそれからずっと痛くてそれでうまく眠れないみたい。暑いというのもあるね。

心ない人についてずっと考えている。性的な加害性を持つ心ない人(自分の加害性は相手に押し付けるような心はあったりする)が信田さよ子や小川公代を引用して暴力やケアについて被害者の味方みたいな立場を維持しているのをみると心ないというよりもあなたの心はどうなっちゃってるのと怖くなる。でもこれも外からはわからない。信田さよ子だって相談に来なければ助けることはできないからSNSとかで発信してくれていると思うのだけどSNSの言葉ってこうやって都合よく利用されることもしばしば。

「私はそんなことされてないしむしろ優しくされてるしそういうのは個人的なことだと思う」という人も多い。もちろん個人的なことですよね。でもそれを個人的なこととして片付ける個人が多いという意味では社会的なことですよね。個人的なこととかいっている人が「フェミとは距離とってまーす」(こういう軽薄さを伴う場合が多い)とか「ひどいことしてくるのは大抵女」とか雑な分類で何かいってたりするのもよくあること。都合がいい言葉の選択。

ペットが子供代わりみたいな関係がペットが死んで変わることもある。というよりペットが死んだらペットによって繋がれていた関係だったとわかる、みたいなことはペットがいなくても起きる。たいていの関係には媒介がある。利害とかも媒介となりうる。いつの間にか死んだペットを自分の寂しさの象徴として利用していたり。モーニングワークはそういうものではないし、二者関係によって第三者を慈しんでいたならその第三者を喪失したら二者関係がワークの基盤になるが相手を想う心があまり育っていない人は自分の痛みや葛藤を抱えることがすでに難しく快を維持する二者関係以外はしんどいからどこかへ追いやってただただスッキリしたい。商魂逞しい場合、ネタ化、商品化によってさらに誰かの痛みや孤独を強めたりする。「黒歴史」として書いて売っていることもあるだろう。「こういう現実を生きるために」という本だって書いてしまうかもしれない。その場合「なかったことにするために」が正確な題名だと思うけど。

こういう現実を生きるために何にお金を使うかはもっと大切に考えないとだな。貧しい時代なんだもの。心と経済の繋がりを具体的な体験と離れない形で考えて行けたらいいですね。

今日は友達がくれたクラブハリエのちっちゃいバウムをいただきました。とってもかわいいし美味しかったです。お花もいただきました。夏のお花、明るくて大好きです。

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ラジオ、かつしかけいた、7月へ

Good morning. It’s five o’clock, from the J-WAVE Singin’ Clock♪

ってずーっと変わらないよね。学生時代はひたすらJーWAVEだった。今も聞くと当時の人たちがたくさん喋っててみなさん親になったりしてるのね。ずーっと声だけ聞いてるからCMとか別の場所で聞くと「あ、J-WAVEの人だ」と思ったり、J-WAVE主催のライブに行ったり、台本というのかな、そういうのを書くバイトに応募しようとしたりしたなあ。どうして書かなかったのか。きっといつも通り怠惰のせい。

ラジオのこと書きながらも頭は別のことも考えていてさっきはまんが家、イラストレーターのかつしかけいたさん @ktsksketch「路草」で連載していた『東東京区区』の単行本第1巻発売楽しみだな、とか思っていた。連載冒頭の作品紹介を引用させていただきます。

「自分が生まれ育った「東東京」は、まだまだ知らないことばかり……。偶然知り合った年齢も性別もルーツも〝まちまち 〟な三人が、「東東京」の街を探検・散策し、その新たな魅力や今まで知らなかった場所、気付かなかったことを見つけ出していく地元発見冒険譚 。 」

面白そうでしょう。東東京、いわゆる「下町」ですよね。墨田区はスクールカウンセラーをしていた学校はなくなってしまったけどその頃の繋がりで今でも幼稚園に仕事にいくし、江戸川区の病院でも長く働いていた。その頃にかなり歩いていろんな駅やバスを利用してみたりしていた。精神病院の朝は早かった。患者さんたちも早朝から並んでいたし近所の公園でもよく見かけた。NPOで市川(総武線)や市川真間(京成線)北国分(北総線)も身近だった。前に江戸川区の病院で仕事したあと歩いてみようと思ったら江戸川に橋がない!結局市川橋まで歩いて夜のミーティングというか飲み会に行ったのでした。この漫画はインドネシア人の父と日本人の母をもつサラさんがエチオピア出身のセラムちゃんのお母さんが営むエチオピア料理店@立石に入るところから。地図を手に道に迷っているうちに春太くんと出会うよ。東京出身の人ほど東京タワーに行かないというのをよく聞くけどここは下町。スカイツリーがそういう場所。スカイツリーの完成は2012年。押上の友達の家でカレーパーティーをしたときにはまだできていなかった。そっちの方にいくたび、押上の街がどんどん変わっていく様子を聞いたのを思い出す。

わたしはかつしかけいたさんのイラストや写真も好き。街をこんな風に切り取れるのはその全体を知っているからなのかな。単行本はAmazonでも予約が始まっているそう。私は本屋さんで買うけどチェックしてみてくださいね。お散歩好きの人には特におすすめ。

ジャークチキンって言葉がラジオから流れてきた。最初に聞いたのはいつだろう。「邪悪チキン」って悪い顔をした鳥さんを思い浮かべたでしょ、最初はみんなも。そんなことない?フェス飯の話か。そういう季節だねえ。私はまだコロナ警戒中だから空いてるフェスがあるなら行きたい。適当に踊ったり歌ったりしたい。歌と踊りといえば今Netflixで「ヘアスプレー」配信中。すごく元気でるミュージカル映画です。昼間は外出たくないけど夜、花火したり外で遊びたいね。松戸の花火屋さんを思い出した。江戸川でやったなあ。懐かしい。今年も浴衣着よう。受け継がれてきたものも大切にしないとね。楽しいことばかり考えてるけど外に出るのは憂鬱ね。暑そうだもの。まあ、今日も一日なんとかやりましょう。週末は7月!

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精神分析

鳥、言葉、同時

鳥たちが蝉みたいに一斉になくのをどう表現したらいいのかなと思いながら楽しく聞いていた。少し資料に目を通したり、流れてきた政治家の演説を少し聞いている間に鳥たちはどこかへいってしまったらしく今外はとても静かだ。

いろんな音が聞こえるがさっきまで道路の方に感じていた人の気配ももうない。カラスは時折通り過ぎるし。車が走り去る音も聞こえる。でもまだまだ朝の音だ。

パソコンがフリーズしてしまったので再起動かけた。私たちも寝て起きて再起動。立ち上がりの遅い自分を棚上げして文句言っちゃいけないよなあ、と立ち上がりの遅いパソコンの画面を眺める。でも私の立ち上がりが遅いからきみたちみたいな人、人じゃなくて何?もの?機械に助けてもらっているわけだから早く立ち上がって、とも思う。どっちにしても待つしかないが。

のんびりとだが立ち上がったのでこうしている。こんなことしている場合でもないが動きたくない。どうしましょう。今日もいろんな人と会って私は主に聞く方で一緒に考えて一緒に言葉にしていく作業をする。そういうときは言葉の意味以外、言葉が発せられる行為そのものをぼんやり観察している。精神分析ではそのときの自分の発話などの行為とそこで生じている逆転移も同時に観察している。決まった目的のために、たとえば何か特定のことを伝達するために言葉を使う場ではないので彼らは彼らの文法のままに言葉を使い思考し発話する。いろんなことが同時に起きていて表層に浮かんでくるものを発話し続けている彼ら自身も戸惑いながらだ。こんなことが言いたかったわけじゃないんだけど、とか思わず言っちゃったけど、とか「けど」「でも」「だって」など自分の中で整合性を保つ努力をしながら浮かんだことをそのまま言葉にしようとしてはその困難と不可能に直面する。自由連想ってこんな感じ、ということを書きたかったわけではなかったのだけど指にまかせていたらそうなったのだから書きたかったのだろう、といろんなことは事後的、というのも精神分析の特徴で抵抗や批判にあうところだ。でもそういうもんじゃないのかな。あとからいくら正確に文字にしたところでなんの意味もないということはよくあること、というかそこにはなんらかの反復を見出すことはできるから重要は重要なんだけどその人の転移とか抵抗とかセクシュアルだったりアグレッシブだったりする空想とかそいう諸々は精神分析のルールにそって現れてくるものだからその方法では扱えないんだな。フロイトの技法論集も参照。

いろんな鳥たちが一斉にいろんな鳴き声でいろんな風に鳴いている感じなのかもね、私たちの言葉も。身体と欲動と言葉。いろんなことに順番はないしどっちかということもない。分けられないまま同時に起きてることに身をひたす。まだ風が気持ちいいです。どうぞ良い1日を。

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精神分析

Juicy by 土居健郎

いただいたメロン、とっても美味しかった。ジューシー。土居健郎が藤山直樹の最初の本『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(2003、岩崎学術出版社)の序文で使った言葉だ。

「英語にジューシ(Juicy)という形容詞があるが、彼の書く文章がまさにそれである。」

この本が出た夏、私ははじめて藤山直樹先生の単発のグループに出た。そこでこの本を購入した(たしか著者割)。一緒だったみんなとはその後も精神分析を学び合う関係でありすでに精神分析家になった人もいるし別の道を選択した方もいる。

私は土居健郎のことは土居先生と呼ぶほど身近ではなく、パトリック・ケースメント(うろ覚えだが)が来日してケースカンファレンスがあったときに発言する土居健郎をみてその迫力に圧倒された。土居健郎が亡くなったときのことは相田信男先生がどこかに書かれていたし、先生方からもお聞きした。土居健郎の著作も一人でもセミナーでも多く読んできたしいろんな人から話も聞いた。みなさん、なにかしら土居先生とのイキイキしたエピソードを持っていて土居先生はオープンな人なんだなあ、あんなど迫力なのに、と思っていた。藤山先生がケース理解に関してなにか大切なことを伝えてくださったあと「って土居健郎がいってた」というのもいつも面白かった。いまや私も訓練中とはいえ臨床家としては教える立場になったので「って土居健郎がいってたって藤山先生がいってた」と言ってみたりすることもある。それに「ような気がする、がいっていないかもしれない」とか曖昧なことを言ったりもする。伝達とは不確かなものだ、というか先生方の考えにだって変遷がある。「前はそんなこと言ってなかったじゃん」ということだって普通にある。というかそれが普通だ。

それにしても『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』はいい本だ。フロイトとの対話が基盤にあり、オグデンの考えに強い影響を受けながら一人の精神分析家と患者たちひとりひとりのパーソナルな出来事がまさにイキイキと書かれている。土居健郎はこれをジューシ(Juicy)と表現したんだな。私はものすごくパーソナルな精神分析というものを普遍的なものとして記述するって転移、逆転移を軸に展開する世界をこうやって描写することなんだ、と思い「これを読む先生の患者さんはみなさんご自身のことかと思うかもしれない」とお伝えしたことがある。先生は「そうかもしれないね」と笑っていた。どこにいっても相手を変えて反復を繰り返す私たちのこころは身体を借りて今日も誰かとの間に自分を見出しては否認するだろう。とりわけ分析に通う患者はそれとの距離に敏感だ。自分のこころなのになぜこんなにも遠くにおいてしまいたいのか。自分で自分のことを嫌う。そんなような表現は日常的でよく聞きもする。「自分のことが好きになれない」とか。でも精神分析は好きとか嫌いとか対人レベルの何かではなく自分にもどうにもならない快と不快という原初的なセクシュアリティのレベルで生じる情動と衝動を扱う治療だ。そこには砂漠もあれば泥沼もある。オアシスは空想でならありそうだ。土居健郎が藤山直樹の本の序文で「精神分析という営みにはどのような陥穽が潜み、またそれがどのような醍醐味をもたらすものであるか」と書いているが非常に際どいモノだと思う。

今日はどんな1日になるだろう。あまり聞かない音を立ててバイクが通り過ぎた。御殿場のお菓子屋さんの抹茶パウンドが美味しかった。たくさんの主語があるね、世界には。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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精神分析

思いやり

さっきまですごく賑やかだった鳥たちの声が少なく、遠くなった。もうお出かけですか。早いね。私も今日はいつもより早く出よう。昨日バタバタ急いでてやるべきことを残してきてしまった。今日もバタバタだから朝のうちにやっておかねばまたすぐ1日が終わってしまう。

子供のいない夫婦の夫側が妻と妻以外のパートナーにどういう優劣をつけがちかということについて話しながら書いていた。子供という絶対にお世話が必要な相手がいる場合は実際はなんのお世話もしていなくとも時間的にも気持ち的にもそれなりに拘束されるので別。誰かを大切にする仕方って人それぞれだけど葛藤なく分けて考えていること自体に優劣が発生しているよね、という話。「葛藤なく」が大事。本人なりの葛藤とかはちょっと別。行動と状況から推測。ほとんど葛藤する必要のない状況が多いから、そういう人の場合。色々話しながら考えていくとやっぱり子供やお世話のニードがある相手がいるかいないか、いなくてもそういう相手の存在というものをリアルに考えざるを得ない状況にあるかないかで相手のことを思うこころ、一言でいえば思いやりというものが求められる状況は異なるから何をどう問題にしていくかは変わってくるよね、という話。公私混同しながらダラダラ時間使えてしまうような関係でももちろん思いやりはあったほうがいいけどなくてもそういう相手がいる場合と比べたら深刻にはならない場合の方が多いでしょう。周りを巻き込むこともあまりないし。都合よく離れる理由が最初からたくさんあるから。もちろん一番身近な人がそういう思いやりを大事にする人だったらものすごい負担をかけるだろうけど。障害や病気はもちろん、子供や高齢者のケアについて考えるときにそういう切迫感にどれだけ浸されているかは重要なんだな。「子育てしかしてなくて」と申し訳なさそうに女に言わせる社会はそういう切迫感に耐えられず自分なりの葛藤に留まっている人たちの思いやりのなさから生じているといってもいいかも、これは男女限らずだけど。でも今はまだいくら形整えても結局無意識的に男頼みにならざるをえないのが自然な状態なわけだから女は現実的に相当な状況にならないとこういうこと考えるの抵抗あるかもね。今も具体的な人のことがたくさん思い浮かんでいるのだけど引き続きやっていこう。また話そう。

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夢とか快とか

寝たり起きたりしているうちに朝になった。寝苦しかった。除湿もつけていたしちょうどいい感じだったのに。難しい文献を読んで頭がおかしくなっているのかもしれない。今日も暑そう。昨日は特別なお弁当を食べた。塩気に弱い私には少ししょっぱかったけどすごく美味しかった。塩分も大事ですね。そういえばかわいいオリーブオイルとバルサミコ酢もらったんだ。バッグから出しておかねば。いつも持ち歩いてしまうから。バッグ開けるたびに「あ、出すの忘れた」となる。マイドレッシングセットとして持ち歩くならまだしもね。

こんなことしてないで色々片付けないとなあ。ウィーンにも行きたい。フロイトがいたBerggasse 19へ。義務を思い出したら願望で打ち消してしまった。快原理。でも本当に叶わぬ夢にしないようにしたい。

フロイトは「夢はひとつの願望充足である」とその機能を位置付けた。これは「快楽」と結びつけられるかもしれないが、フロイトによる「快」はとりわけ無意識においての「快」は前意識や意識にとっては必ずしも快ではない。フロイトの「快」や「一次過程」(eine andere Lokalität)の彼岸については『快原理の彼岸』とラカンによる発展を追う必要があるが夢がどこからどこへどうやって何をしようとしているのかを考えることは面白い。夢が不在の表象を代理するものとして(ラカンだったら来るべき表象とかいうんだっけ?)なにかしらのスプリットされた主体部分を呼び寄せるものだとしたらウィニコットが「夢を見られない」ことを主訴として精神分析を求めたのはその切迫した不安、あるいは切迫することができない不安に突き動かされてのものだったのかもしれない、など思ったりした。

うーん。そんなこと言っていないで出かける前にお片付けをしましょう。今朝はコーヒー&チヨコレイト。夜はビールが飲みたいな。そんな季節の朝ですよ。どうぞみなさんもご無理なく。

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線、差異、チーズ

光が強い!でもまだ朝の光。昨日バス停に向かうとき、強い光とビルやマンションと道路沿いの木々が作り出す暗さというか黒さに強く夏を感じた。建物の間から見上げる海みたいな空は真っ白な雲が数えられる形で浮いてた。こんな綺麗な色の海はあまり見たことがないのにそう思った。道路沿いの植え込みには濃い紫の紫陽花が咲いていた。知らなかった。

いろんな人の話を聞きながら語られている土地を想像し、景色や場面を想像し、それぞれの体験に近づこうとする。どんな感じなのか聞きながら。似顔絵を描いてもらうように。彼らが描写しようとしているものとそれを聞きながら私が描写しているものは異なるだろう。警察官だったらその正確さを要求するだろうが私の仕事は正確さよりどこから線が始まり、どこが強調されるかということを大切にしているように思う。夢を聞く場合も同じだ。断片が部分に、部分が全体に、そしてまた断片に、その動きを繰り返しているうちに見えてくる別の景色こそ「あ、それ、そんな感じ」となることが多い。差異を作り出すことができたらそれは本当に大切な一歩となるように思う。私たちはずれや差異を掻き消す方向を目指しがちだから。

今も頭の中に最近読んだいくつかの戯曲のことが頭にあるがそれについては昨日も今日も書く気がしない。ここでは手が止まってしまうようなこと、手を止める必要があることは書かない。だから大抵似たようなことばかり書くことになるけどこの繰り返しの中で自分が感じる差異に日々助けられているような気もしないでもない、今書きながら思っただけだが。読んだ戯曲には結構考えさせられているのだろう。だから簡単に書けないんだ、きっと。

インスタでブーラッタチーズを果物と豪快に合わせている写真を見た。なんだろうブーラッタチーズって。絶対美味しいに違いないけど楽しそうな名前だね。ブーラッタ♪ブーラッタ♪ってズンチャッチャのリズムでいける。あーいいな。トマト、蜂蜜、生ハム、メロン、あとは美味しいオリーブオイルとかで食べるんでしょ、きっと。素敵素敵。

昔、渋谷のスペイン坂でね、と思い出を書きたくなったけど積まれるばかりの本や資料が目に入っちゃったからやめとく。はあ。暑さに負けずに過ごしましょうね。朝の強い光はだいぶ空全体に馴染んで見かけは穏やかなお天気です、東京。どうぞお元気でお過ごしください。

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精神分析

邪悪道

規則的に鳴く鳥を脳内で真似る。毎日いろんなニュースがあるなあ、と脳内でため息をつく。Netflixで「ミニオンズ」をみた。最高にキュートじゃないか。悪の側があんなだったら能天気でいられるのに。最近善人面した悪人が多すぎるのではないか。むしろそっちが主流なのか。私はすぐに「邪悪」認定されるから善人ヅラしていないらしい。よかった。このままいきたい。「私が邪悪だっていうんですか」と聞かれた。めんどくさいのでとりあえず否定した。そう言われると「そうかもね」と思ってしまうけどめんどくさいからそういうのやめようよ、と思う。「悪いのは自分じゃない、お前が邪悪だ」と悪を押し付けたい人の単純な反転。あなたの周りはそんな単純な善悪でできているんですか。そう思い込んでるからいつもしんどいんじゃないんですか。薄くて浅い関係で毒にも薬にもならないちょっと気の利いたことを呟くのは大得意だものね。単純な「いいね!」をもらいすぎたのかしら。そういう関係は「いいね!」、傷つかなくて。でもそれはそうではない関係で誰かを弄んだり見下したり貶めたりしていい理由にはならないんだよ。そういうことは本からは学べないから知らなかったかもしれないけど。自分の思ってもみなかったことを問われるとイラッとした態度で一生懸命積み重ねてきた本の知識で説明を繰り返すか怪訝そうに首を少し傾けて小さなため息をついて圧をかけて黙らせる。「何その態度、子供?」なんて言おうものならもっとめんどくさくなるので「お勉強」と思ってきちんと耳を傾ける。世間ではそういう人が善人、賢人扱いされて本気度の少ないベタベタダラダラしたサークル的世界で気持ちよさを追求しているのだから、そういう世の中に慣れていかなければ、それが「大人」になるということ、というわけでは全くない。うんざりするが「はいはい、邪悪なのは私ですね。その通りです」ということで正しく邪悪道で精進していきたいものだ。

noteにメモったが、と昨日読んだ戯曲のことを書こうと思ったけどそのエネルギーがない。脳の働きが鈍い。すでに疲れているがなんとかやろう。

note:

日本劇作家協会 戯曲デジタルアーカイブ

青空文庫>91日本文学>912戯曲

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精神分析

鳥、涙、アセスメント

今日は鳥たちが早くからとっても賑やか。いろんな声に耳を傾けているとあっという間に時間が経ってしまう。鳥たちがこうやって毎朝鳴き続けてくれることで気持ちが少し明るくなる。身体の実際の痛みは癒えても謝らないとまずいという気持ちにさせられるほどの言葉の攻撃で受けたダメージには蝕まれ続けている。眠れないまま朝を迎えてしまった人にも彼らの声が届きますように。

SNSで見かけるお店やお花がきれいな場所に行きたいな。早朝散歩を復活させてもいいかもしれない。大学2年生の時だったか、夏に1ヶ月サンディエゴのSDSUに滞在した。朝5時だったか、毎朝みんなでランニングをした。海でもよく遊んだ。全身真っ黒になってしまい先生にこの地域の皮膚癌の発症率データと共に怒られた。最初は食べられなかったカフェテリアの甘いお菓子もいつの間にか食べられるようになった。だだっ広い道路をでっかいスーパーに向かって歩いていると車の中から差別用語を叫ばれた。

鳥たちがどこかへいってしまった。あ、鳩の声はする。くぐもった声で一定時間鳴いてまた黙る。なぜか目がしみて痛い。涙が出る。悲しいのかもしれない。

目の前の人が急に黙る。それまで低い声で落ちついてしゃべっていたのに。一言だしてはつまる。涙が溢れてくる。泣いていたのか。一度涙が溢れてしまうと止まらない。じっと一緒にいる。自分ではどうにもできなくて、とやってくる人たちの緊張の糸が切れる瞬間はいつも突然訪れる。「大変でしたね」という言葉に堰を切ったように泣き出すこともあるが大抵は意外な瞬間に。ずっとひとりでやってきたのか、こんな感情を秘めたまま。そうせざるをえなかったわけには歴史を伴う事情があるのだろう。あるいはそれまでの歴史を断ち切られるような出来事が。まだわからない。本人だってそうだろう。それでも心は動いた。その動きをどう捉えるかがアセスメントのもっとも重要なところだろう。もぐらたたきのもぐらのようにどの出来事に対しても同じように衝動が強まるのか、突然海に投げ出されたかのように自分の涙に溺れそうになるのか、驟雨のように泣き泣き止めば雨など降らなかったかのような、でもさっきまでより明らかにしっとりした連続性をもったストーリーを紡ぐのか。

いつもより広く開けた西側の窓から冷たい風が入ってくる。さっきまでは感じなかったのに。カラスが数羽、大きな声を出し合っている。心はまだ動くだろうか。時折不安になる。

シャワーを浴びて散歩に出て一度帰ってきても仕事に間に合う。まだそんな時間だ。梅雨の晴れ間でもなく曇り空だが雨の降っていない空はこの時期貴重だ。人気のない住宅街でまだ眠っている人をそこかしこに感じながら昨晩と同じように咲いているであろう花々に顔を寄せる。あ、脳内で散歩してしまった。そういうことではない。今日も実在の概念を広めにとっていこう。なんとなくそう思った。

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精神分析

ゾロ目を待つように。

444だ、と32、33、34と時計が進むのを待った。44444!よし!時計のゾロ目まちはいつから?見逃したってまたいずれくるのに?そうだよ。生きてる限りゾロ目と会うチャンスは失われないのにいつだって見逃すから待つんだよ。

ベケットが死んだのは1989年、1999年だったらややゾロ目。死ぬのをあと10年待っていてくれたら。ややゾロ目のために?ありえない。でも子供のときの私たちのゾロ目待ちにかける情熱は結構なものではなかったか。

1999年は松木邦裕、藤山直樹、十川幸司が精神分析のオフィスを開業した年だ。私は大学院を修了した年だ。なんとかまだ生きてるな、みんな。

突然、友をなくすような体験を何回かしたことがある。理由がなんであれ「どうして」と問い続けることになる突然の喪失の最たるものが死だ。親密でいる間は知らなくてもいいことだって知ってしまえていたのに。どうして、と絶望に打ちひしがれながらでもどこかで理由づけができていたのに。

ああ、ハーブティーで身体が熱い。窓を開けているが風が入ってこない。と書いたら少しだけ風を感じた。意識が風を捉えたのか。多分違う。風を呼び続けその到来を待ち続けなくとも事足りるほどの風はこの土地には吹いている。多分。

幼い頃、雨乞いをする姿を何かの漫画でみた。日照りが作物の、ひいては人の死ももたらすことは容易に理解できた。怖かった。でも子どもの世界では人々に限界が近づく頃に嘘みたいに雨が降った。みんなが空を見上げ手のひらに雨を感じ泣きながら感謝を捧げる、奇跡への。そんな描写だった。『ゲゲゲの鬼太郎』にも「ひでり神」が出てくる。なかなかなダメキャラでキュートなのでチェックされたし。ゲゲゲはなんでカタカナなのかなあ。意味より音、外来感を表しているのか。ひでり神は中国の神話からきてるからどちらかという漢字由来でその漢字が難しいからひらがな+漢字なのかもしれない。

なんでも神の怒りとしてそれを鎮めるためにいろんな工夫をするのもありだがそれはもう奇跡を待つしかない場合ではないか。言葉で通じるうちは声をあげ続けてもいいかもしれない。なんの仕打ちかと考える以前に起きたことをそのまま描写する仕方で。人間界で絶望を与える相手を変えることは奇跡でも起きなければ難しいかもしれないがなんにしたってそんな人と同じ世界を生き延びなければならないのであれば外在化は最小限にしてただ事実を身近な場所で、と思ったりする。見たくないものは見ない、問われたくない問いは悪い問いと認定しそれ以上考えない、あらゆる「正当防衛」に味方してくれる問いを立てられない(決まった問いしか立てられない)相手とだけ一緒にいる、そういう狭さというか基本的に相手を見下した神様的態度は神にもどうにもできないだろうから「あなたからしたらそういう描写になるだろうけど私からしたら」ということを事実と共に淡々と繰り返しなんとなく応答を待つ。問う形にしないのはそういう人からは応答はないと知っているから。応答を待つのはそれとは別の偶然を知っているから、かもしれない。

鳥たちが一気にざわめきだした。次のゾロ目はいつ。6時を回ったらそれはしばらくやってこない。今日も一日なんとかかんとか。

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効果、違和感、『まちがえる脳』

スズメ、カラス、きっとほかにも色々と。おはよー。今朝はハーブティー。ジャンキーなスナックの背で胃がもたれている。目の前に「チョコレート効果CACAO72%」があるけど一体どんな効果が?ほう。カカオポリフェノールがたくさん入っていると。ポリフェノールって何に効果があるんだっけ。ほう。抗酸化作用。この前おなかがすきすぎてなんとなく身体に良さそうというか悪くはなさそうと思って買ったのだけどなんとなく謳い文句で買っているものって多いと思う。普段のお菓子はやたら吟味した挙句いつもと同じものを買ったりするけど。大体チョコならすぐにおなかぺこぺこをおさめてくれるのではと思って買うのにこれ低GIでもある。ということは血糖値をあげたい時には不向きでは。でも一枚食べるだけでも落ち着いたから結局は情報より少しの行動の効果という気がする。今は目の前にあっても食べる気がしないなあ。おなかが気持ち悪い。おなかは気持ちではないからこの言い方は変か。でも言いますよね。違和感というのは気持ちだものね。おなかは気持ちと直接繋がってる感じがする。特に子供の場合。私は小さい頃からおなかいたくなりがちな子供だったけど大人になってもずっとそうだと当時みたいな切なさはほとんど感じない。おなかと気持ちというのは脳と(身体と)心のことでもあると思うけど。櫻井芳雄『まちがえる脳』(2023,岩波書店)は面白かった。「ニューロンの発火」がキーワード。心を脳に属しつつも脳をメタ制御するものと捉えることで互いの可能性を残しておく描写。脳がまちがえるというよりはこちらの意識が追いつかない部分をこちらが間違いとか間違えとか言っているという感じかもしれない。「失敗」とかいうときも結構近いものを感じるなあ。そしてこれからもずっと追いつかないわけでしょ、自分のことなのに。精神分析で「自我」があまりに多種多様な役割を与えられてしまったのはこういうわけか、と思ったりした。なんだか水分が足りないなあ。以前よく通った個人営業のタイ料理屋さんでスイカがデザートだった。小さく切ってあるのに赤と緑と黒の点々。スイカは見た目も本当に可愛い。スイカマニアの友人が鳥取のスイカが一番美味しかったっていってた。名前を忘れてしまったけど。最近フルーツ不足かも。かも、というのは多分そんなことないからなんだけど今不足しているとそんな気持ちになってしまう。あ、もうこんな時間だ。色々やらねば。なんとかやっていきましょう、きついけど。辛いけど。まだ火曜日だけど。

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傘、移動、言葉

雨雨雨。まだ傘を直しにいけていない。姿形が同じビニール傘であってもそれぞれ誰かのもの。シールを貼った私のビニール傘と同じところに入れておくね、と見た目では誰のかわからない透明なビニール傘を傘立てを区切る正方形に一緒にさした。ちょっとしたことなんだ、区別するということは。

カプセルホテルって意外なところにあって意外と高いのね。時期にもよるみたいだけど。ひと区間を移動しながら移動にまつわる話から経済観念の話になってその人らしさみたいなことで笑いあった。同じ職業で同じくらいの稼ぎがあっても移動手段や泊まる場所の選択はそれぞれ。遠方からやってきた人と一緒に移動できる日々がまた訪れたからこんな雑談ができた。

実際に遠い目をしながら聞き流したり大抵の人が遠い目になった話を聞いて驚いたりもした。ものはいいようだなあ、と呆れつつ感心もした。言葉はいろんなことができてしまうから面白くもあるけど大変だなあと思う。他人事ではないが。

「大変でしたね」の一言でいろんなことが通じて笑い合った。言わずともわかる、むしろ言葉にしないほうが終わらせられる。残された時間を費やすべきところに費やしたいという大仰なことを考えているわけではない。自分のやりたいようにしたい人がどんな防衛を使い、どういう攻撃性に突き動かされているかがそれなりにわかる場合はやるべきことだけやるというドライなモードに切り替えるというだけ。ただそうすることにも労力がいるので言葉少なに労い合える関係があるというのはありがたいことだ。

UPするの忘れてうとうとしてしまった。眠たい月曜日。がんばろう。

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『新ハムレット』@PARCO劇場

劇場の前で流れている映像に池田成志がうつって思わず飛び上がって喜んでしまった。携帯やPC上でその画像は何度もみていたのに。映像だったから?多分違う。そのすぐあとに本物と会えるという嬉しさからだろう。長年ファンだと言い続けてきて毎回観劇のために感激感涙してきたがあまりに久しぶりでこんな反応をしてしまうほど好きだったとは自分にびっくりだ。

観たのはPARCO劇場開場50周年記念シリーズ『新ハムレット~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~ 』作:太宰治(新潮文庫刊『新ハムレット』より)上演台本・演出:五戸真理枝。最高の席で久しぶりの観劇。そして池田成志。五戸真理枝さんは句友。真理枝さん演出の舞台は二度目。シンプルで想像力を掻き立てられる舞台だった。出演は木村達成、島崎遥香、加藤諒、駒井健介、池田成志、松下由樹、平田満。私は勝手に池田成志が主演だと思い込んでいたが主演は木村達成。私ははじめて知ったが有名な人らしい。止まっていても動いていてもすごい見栄えの良さ!ものすごい長台詞を絶妙にこなし、ラップもうまい!衣装の着こなしもすごかった。これ太宰のハムレットでもシェイクスピアのハムレットでもどっちでもピッタリではないか。偶然隣り合わせた句友は早速ファンになった様子。わかる。が、私は成志。こんなに長く演劇を続けてくれていてありがとう、という気持ち。自由自在な面白さと不気味さにまた会えて嬉しい。原作を読もう読もうと思っているうちに当日になってしまった。新潮文庫の本は劇場ではすでに売り切れと聞いた。そりゃ買いたくなりますよね。ということで帰宅してすぐに検索。青空文庫のがKindleで0円で読めるようになっていた。ありがたい。原作に本当に忠実だったんだなあ。驚いた。心に残った台詞の数々を改めて文字で読むとまた別の、いや別というより舞台と重なり合ってよりシャープさと深みを感じた。上演台本、演出の五戸真理枝さんのお仕事は昨年、オフィスそばの新国立劇場でやっているのを知り当日券でみた『貴婦人の来訪』が私にとっての最初。演劇のお仕事をしているのは知っていたがすごかった。このあと真理枝さんは第30回読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞された。斬新な脚本と舞台作り素晴らしかった。達者な役者たちが繰り広げるこの不思議な世界に多くの人が足を運ぶ機会をもてますように。

台詞というか太宰の引用をしたいが時間がない。今日は一日雨かな。結構降っている感じの音だ。移動めんどくさいな。でも行かねば。準備準備。どうぞみなさんも出かける方は足元にお気をつけて。

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対談、仕事、読書

朝から成田悠輔×羽生善治の対談をみた。with連載「成田悠輔と愛すべき非生産性の世界」。羽生さんは本当に面白いなあ。文化をこうやって語れたらとてもいいなあ。精神分析文化も魅力的に語りたいなあ。ほんと苦しいけど「楽しい」と言えると思うし。自分のこと全然知らないという発見はすごい体験だと思うもの。でもまあ私は自分の仕事はほとんど好きだし自分ができない仕事の話も好きだからなんでも楽しいとか大雑把なことしかいえないか。集団へのコンサルテーションとかも楽しいもの。はじめての場所も知らない人との仕事も緊張はするけど楽しい。先日はもうすごく長く関わっている保育園に行ったけど当時はすごく小規模ですごく近しい関係だった先生たちはもうベテランで今はたくさん先生がいる大きな保育園に成長した。ずっと続けているから知らない先生からも「あみさん」と呼ばれているし、そのなかで親しくなって集団でのコンサルテーションが終わったあとに個別でもっとざっくばらんにアイデアを出し合ったり愚痴ったりする時間は苦しいことを話しているのに楽しくみんなで元気になる感じがする。保育は生活そのものだから生々しく気持ちは揺さぶられやすい。それでも相手に細やかに注意をはらい続ける必要がある。その分工夫の余地も多い仕事だ。子供たちの遊ぶ能力は素晴らしいのでそれに助けられながら彼らに余裕を持って関われるように時間や空間の使い方を工夫する。そういう共同作業がとても楽しい。精神分析が一番楽しいのはhere&nowだからだろうなあ。まだ起きてないことを考えてもしかたないし、過去を過去として掘り返しても何も起きない。それに今と過去の自分はそんなに変わらないだろうしこれからもそんなに変わらない。でも今ここでの自分を誰かを鏡としてみておくことはそれまでもそうだったはずのことの見方を変えるしこれからに対して勝手に絶望する根拠を揺さぶると思う。揺さぶられるというのはその余地があるからでしょう。それが負担でコミュニケーションをたつことで自分の世界を維持しようとするのも普通だけどいつも同じような人といたって少なからず揺さぶりは起こるしそこにどれだけの価値をおけるかで精神分析体験に対する態度は変わると思う。週末は精神分析のことばかり、でもないな。すごく楽しみな予定もある。その予定を楽しみにがんばれていた部分もあるのに過ぎてしまったらどうしたらいいのかしら。「たのしかった!」という思いを支えにまたがんばれたらいいな、とまだ過ぎてもいないのにその後を想像してしまった。めっちゃ最悪な気分になるかもしれないじゃんね、という想定をゼロに設定しているわけだけどこれまでの体験からそれは多分ほぼない。もしそうだったとしても「それだけではない」というのがほぼ全てのことにいえるわけだしね。誰にもどこにも出されてこなかったものを聞いたり発見したりする仕事を毎日毎日続けてる。ひそやかに出されて再びひそやかにしまわれるものたち。コンテンツとして消費されないことを大切にする世界にいると気持ちよくコンテンツを生み出すためにいろんな言い訳と排除を繰り返している人たちのことも考えざるをえない。それらは要素としては同時に存在するものだから。というわけで今日も不快。今日も楽しい。どっちもの時間を過ごすのだろう。みんなはどうかな。色々あるけどなんとか過ごしましょう。

ちなみに昨日電車で読んでいたのはカレル・チャペック『いろいろな人たち チャペック・エッセイ集』(平凡社)でした。ユーモアと優しさを感じてほっこりしながら読みました。面白い視点もいっぱい。エッセイ集だから拾い読みできるし移動にもピッタリでした。

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雨、傘、6月

ぼんやり雨の音を聞いているとどんどん時間が過ぎていく。なぜか今日を月曜日のように思ってしまう。昨日からそうだ。月曜日にやり残したことでもあったのだろうか。きっとあるのだろう。何も思い出せないが。

トレーナーを着て眠ったら少し汗ばんだ。明日投句〆切のオンライン句会の兼題の一つは「寝冷」。朝3時くらいに目覚めて汗を感じたのですぐに作った。そして二度寝した。

今こうしている右腕と左腕の間に又吉直樹『人間』の宣伝の紙うちわがある。紙うちわとは言わないか。言うのか?骨がない。ただの厚紙に指をいれる穴が空いているだけ。仰いでみた。親指で穴を軽く抑え残りの4本で反対側を軽く抑えてパタパタ。穴である必要はあるのだろう。気持ちいい。

骨といえば私の傘は骨が多く丈夫。誕生日にもらった。この前も「素敵な傘!蛇の目傘みたい」とお褒めいただいた。本当にかわいいのだ。若いときに台風か何か雨風でビニール傘がやられたついでに指まで傘を開ける金属部分に引っかかって皮がでろんって剥がれて血がいっぱい出た。あれ以来雨風の強い日に傘をさすのが怖い。先日の台風のとき、雨雲レーダーで雨が弱まる時間を狙って移動した。この傘ならちょっと何かあってもいけるのでは、と思い一緒に出てみた。最初の数分は雨も風もなかった。しかし間も無くして雨は弱いが突風がきた。何度か突風をやり過ごした。しまった、と思ったときには遅かった。でもちょうどそこは三角地帯のお地蔵さんが立っているところで傘がベロンと裏返るのを防ぐために押し付けておける壁があった。数秒だろう。突風が傘の丸い内側を突き破るみたいにぐいぐい押した。私は結構な力で開かれっぱなしの傘を壁に押し続けた。ちょっとした戦いが終わると傘の左側の骨が歪んでいた。でもよく持ち堪えてくれた。その翌日もさしたけど一緒にいた人に「台風で傘が歪んじゃって」と話したら歪んだ骨を覗き込んで「全然気づかなかった」と言ってくれた。傘屋さんの傘なので直してもらえる。直しにいいこうね。

毎日毎日モヤモヤする出来事が起きるがひとつひとつにウダウダ言っている暇はない。絶対になかったことになどするつもりのないことに対して「〇〇も××も△△もてめえの食い物じゃねーよ」という言葉も吐いた。文字で。なんかえらく独りよがりだなと思ったことに対しては直接対処した。そうこうしながらどんどん日々が過ぎていく。3月も4月も5月も本当にどうなるんだと思いつつ期限は数日ずつ過ぎててもなんとか色々終わらせた。6月も忙しさに変わりはないけど慌てなくてはいけないものはない、というか苦手な仕事がない。それが一番助かる。

雨だ。移動も多い。気をつけて過ごそう。みなさんも。

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精神分析

呉明益著『複眼人』を読んでいる。

あれ?鳥の声がしない、と思ったらいつも通りしていた。さっきこの時間には珍しく鳩が随分近くでポッポいったので遠くの音に鈍感になっていたらしい。

今朝のお菓子はリンツのリンドールチョコ(赤)といちごバウムクーヘン(ホワイトチョコ)。どちらも小さくとも美味しい甘さいっぱいでおなかいっぱい。PUKKAのthree gingerというお気に入りのノンカフェインハーブティーをたっぷりマグで一緒に。今日は水分たっぷりとらないといけなそうなお天気ですね。

また早朝から呉明益著『複眼人』を読んでいました。精神分析家ビオンの「複眼視」を思い浮かべタイトルだけで買ってしまったのだけど著者の呉明益は台湾を代表する作家だそうで同世代。1971年生まれ。買ってよかった。久しぶりにスケールの大きい物語に入り込んだ気分。アトレという少年とアリスという女性を中心に幾人もの視点が入れ替わり立ち替わり同じ時間に起きた出来事を映し出す。心情よりも景色を。アトレが生まれた島の諺や言い伝えは美しく巧妙に口減らしを表現する。昨日、この本の紹介をしようとしたが諺や言い伝えを思い出せず身も蓋もない言い方でこの島の慣習を説明してしまった。口承伝承に完全に失敗したが外側からみれば「それは単に」と言いたくなるようなことなのだ。でもそこに生まれそこで生きる人たちにとってそんな剥き出しの表現では深い悲しみや苦しみに持ち堪えることはできないのだろう。最初からとても切なかったが物語は人の力の及ばない自然の大きな動きに絡めとられ喪失を生きるための言語以前の言葉を探すことを促す。もうだいぶ後半だがまだ途中だ。読み進めよう。

毎晩疲れ切って眠るときの記憶がないが朝を迎えればそれなりに回復している。睡眠の力。みんなは眠れただろうか。これから寝る人もいるからもしれない。今日も無事に過ぎますように。わからないことはわからないままに。思ったことは思ったままに。