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精神分析 読書

適応と適当

早朝が一番色々捗ります。今日は土曜日ですね。一日中雨かしら。

昨日は色々書いたまま眠ってしまい、内容は昨日仕様だったので消してしまいました。ほんと、画面からって消すのも消えるのも簡単。

でもたとえ私が文章を消したところで私の考えだからまた何かの形で出てくるでしょうし、たとえ私が姿を消したところで私が消えてしまうわけでもないので、何度でもやり直せますね。

でも現実に姿を消したとしたらどうでしょう。社会学者の中森さんの『失踪の社会学』を以前ご紹介しましたが、失踪とかで姿を消されたら辛いな。と、今、私が失踪される方であることを大前提として書いてしまいましたが、こういうのは注意が必要かもですね。「誰にでもありうること」、病気でも障害でも喪失でもなんでも。いや、なんでもはないか。

精神分析はその人のあり方全体を大切にしますが、それだってその人だけのこと、私たちだけのこと、誰にだって起きること、社会全体のこと、全てに関わることであって、単なる密室的なにかではありません。営まれる場はふたりだけのプライベート空間ですが。

精神分析では「適応」を特に目指さなくても治療の副産物として、いや違うな、「適応」というよりは、その人がその人らしさをある程度保ったまま、その場に適当に、ほどよくいられることができるようになります。それは精神分析が、固有のものを大切にすることのなかに社会を大切にすることを含みこんでいるからだと私は思っています。

静かな朝です。朝の暖かい飲み物がしっくりくる季節になりました。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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読書

遺稿

今年2月、クルーズ船での感染が騒がれ出した頃、敬愛する作家、古井由吉が亡くなった。その後、『新潮』に遺稿が載せられた。

多くの本屋がコロナを理由に休業するなか、オフィスのそばの本屋はいつも通り開いていた。『新潮』自体、よく売れていて手に入りにくいと聞いていたが、本屋が開いていると思わなかった人も多かったのだろう。私はいつもより暗いひっそりした通路を行き、エスカレーターを歩いて上り、いつも通りの明るさの本屋へ向かった。この本屋のことは大体知り尽くしている。『新潮』があるはずの棚へ真っ直ぐに向かうと一冊だけそれはあった。私はすぐにそれをレジに持っていった。いつもなら時間が許す限り長居していろんな本を見るが、この日は違った。

古井由吉はおじいちゃんだからもうすぐ死んじゃう、と思っていたにも関わらず、いざ亡くなってみると親戚でもなんでもないのにそれなりに衝撃を受けた。悲しかった。

「杳子」を読んだときの衝撃は忘れられない。女を描くならこう描きたい、と思った。薄暗いのは陽の光のせいだ。まるで病床にいるかのような女を男は観察しつづける。その視線もまた仄暗い。

コロナをめぐる状況は2月とは変わった。日々の景色も変わった。マスクをしない顔と会えるのは画面の中だけ、といったら大袈裟だが人は距離を取るようになった。

古井由吉は亡くなった。彼だったら今の状況をなんというだろう。

私はまだこの遺稿を読めていない。こころの距離がとれていないから。

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精神分析 読書

モモ

ミヒャエル・エンデの『モモ』が、最近また取り上げられていましたね。『モモ』は私にとってとても大切な作品で、好きな本を聞かれるといつも「モモ」と答えていました。もう少し大きくなると、同じくエンデの「鏡のなかの鏡」と答えていました。

映画も観に行きましたが、私が描いていたモモとはだいぶ違う、と思った記憶があります。本を読みながらはっきりしたイメージを持っていたわけではなかったのに不思議です。

赤ちゃんが泣きわめくとき、私たちはその子が何をほしがっているのか見定めようとします。0歳児に慣れている方は「おなかすいたね」「おむつかえよっか」「眠くなっちゃった」など声がけをしながらニコニコと抱っこをする余裕がありますが(もちろんこころで泣いて、というのはあっても)、はじめての子どもを持つお母さんや0歳児の担当ははじめて、という保育士さんは、赤ちゃんの切迫した泣き声に含まれる不安や不快や苦痛を自分のもののように感じてしまうことがとても多いです。この子はどうしてほしいのだろう、これでもない、あれでもない、もうどうしたらいいのだろう、もうやだ、と本当に辛く悲しくなってしまうときがあります。

たとえばおかずひとつでも、あれもだめ、これもだめと大きな声で泣き、小さな手でお皿を払いのけようとし、これまた関わる人は大慌てで「これ?」「こっち?」と彼らの本当のニードを必死に探ろうとします。でももう全部だめ、何をやってもだめ、させてもらえるのは抱っこだけ、と抱っこして泣きやむのを待って、落ち着いたらもう一度お座りをさせて、小さなスプーンであげてみたらぱく、ぱくぱくってなったりして、こちらがほっとするとあちらもにっこりしたりして・・。

私たちはなにがほしいのか、どうなりたいのか、なんて本当ははっきりしないのかもしれません。そのときの体調やそれが差し出されるタイミングやなにかいろんな感覚的なものが混じりあって、パッと決められるときもあれば、これかな、あれかな、とやりながら「これかもな」と一番自分のイメージにしっくりくるものを選択するときもあるのでしょう。そしてそれはあとから変わることもあるのでしょう。

モモは受け身で、静かな子どもです。人の話を聞くのが上手です。話したくてウズウズしても、怖くてしかたないときでも性急に言葉を発することを控えることができる子です。そう学びました。

眠って、夢をみて、目覚めたら、やるべきことが自然に定まるような、なんとなく言葉の形になるような、まるで精神分析プロセスのようなプロセスを踏んで、モモは強くなっていきます。

もしかしたら、私はそんな時間が大切で、精神分析家を目指しているのかなぁ、と思いました。私が思い描いているそれと「精神分析」のイメージが違うかもしれないから(違ってもいいのだろうけど勝手に変えることはできないから)、私はどうしたいのかな、ということを長い時間をかけて、眠り、夢をみて、目覚め、言葉にして・・というトレーニングを繰り返しているのかもしれません。

今日の言葉は、明日は少し違う形を描くかもしれません。時間をかけて、二人で、大切にしたいなにかと出会っていけたらいいなと思います。

それでは今日もおやすみなさい。

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未分類 読書

雲の絵

今日の空、すごかったですねえ。入道雲がすごすぎてアニメみたい!と思ったのですが間違いでした。こんな景色が本当にあるからあんなアニメもできるわけですね。

歩いていても、電車に乗っていても、何層もの雲が湧き上がるように青空を占めていて、太陽の光がつくるグラデーションがきれいで、いちいち目が離せなくなってしまいました。

雨が降るっていうから傘を持ち歩いていたのですが降られませんでした。降ったのかしら、雨。

「のはらうた」のくどうなおこさんだったらどんな詩を書くでしょう。かぜみつるくんが「でかい くもだぜ」とかいって通り抜けるのをやめて眠っちゃったり、きりかぶさくぞうさんが「きょうは くもも 「どっこいしょ」 をしている」とかいったりするのでしょうか。

ご存知ですか、「のはらうた」。とっても素敵な装丁の小さな詩集です。それを眺めているだけでもいと楽し、ですが、自然の声を聞きたくなったときに開いてみるといいかもしれません。

夜になっても雲は、昼間の形のまま、背景の空より少しだけ薄いグレーになって、街を包みこんでいます。

画像は昼間の新宿駅です。まるで絵みたいじゃありませんか。

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俳句 読書

花火

今日も暑かったですね。夜の風もなんとなくまとわりつく感じになってきました。月は良い感じに雲隠れにし、でした。夏の月って雲の向こうでもなんとなくすっきりと明るく感じませんか。

以前、お世話になっている先生に「書く」練習として沢木耕太郎を「読む」ことを勧められてとりあえず『一瞬の夏』を読みました。内容はうろ覚えですが、最初に神田でビールを呑んで、新宿でウィスキーを呑んで、1杯目のビールだけが汗を引かせてくれた、というような記述があるのです。この話って結構暑苦しいお話だと思うのですが、その前振りとしてかっこいいなぁと思いました。

ビールの一杯目ってほんとそういう感じですよね、という話ではないのですが、夏ですねえ。今年はビアガーデンとかどうするのでしょう。

今年は十勝の勝毎花火大会は中止らしいです。帯広の藤丸百貨店屋上でビールを呑みながら見たことがあります。ああいう夏がまたきてくれますよね、と誰に聞いたらいいかわからないけど、きてくれるといいですね。でも私には北海道は寒くて、その日も途中でリタイアしてガラスの内側で音と本物が放つ光をみていましたけど。東京の夏はエアコンで喉がやられてしまうし、一体どこがちょうどよいのか・・困ったものです。

今年は小さく線香花火もいいかもしれないですね。

手花火を命継ぐごと燃やすなり 石田波郷

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読書

ポッカリ

というわけで(前のつぶやきとつながっています)8月です。

今日は夜の予定を間違ってしまいぽっかり時間ができました。ポッカリ月がでましたら、舟を浮かべて出掛けませう、は中原中也でしょうか。彼が生まれた山口県湯田温泉、いつでもいつまでものんびりお散歩していたくなる大変よいところです。お目当てだった居酒屋さんが満席で、お知り合いのお店を紹介してくださって、なぜか駄菓子も持たせてくれて、うかがったお店も暖かく迎えてくださって地元ならではの雰囲気を堪能したことを覚えています。今年はそんな旅もお預けでしょうか。行かれる方は楽しめますように。観光客を待っていてくださる地元のみなさんもどうぞお元気で、と願います。

本当に今年は辛いことが多いですね。もちろん毎年そういうことはたくさんあるのですが、新型コロナはこれまでと違う形で私たちの生活を変えつつある気がします。

ようやく梅雨があけたので「そうだ、暑中お見舞い書こう!」と思い立ち、さっき架空の宛先に暑中見舞いを書いてみました。8月はこんな夏だからこそちょこっと想像書簡のようなもの、あるいは夏の宿題シリーズ的なもの、あるいはこれまで通り?まぁ、気ままに書きたいときになんか書こうと思います。

今夜の月は穏やかです。これからグンと暑くなるでしょうから大雨の被害に遭われた地域の方の体調も心配です。どうぞご無事で、ご安全に。

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精神分析 読書

誤配

東浩紀は『哲学の誤配』のなかで、フロイトにこだわる理由を問われ、フロイトとユングの比較をしたうえで、フロイトは個人主義者なので、「人間一人ひとりはバラバラだけど、各自がバラバラの状態で出力したデータを集積すると、データのうえでは集合的無意識が立ち現れる」という東さんの考えとしっくりくる、と答えていました。

 それはそうと、この「誤配」という概念は大変有効で、精神分析のように明確な目的を持たず、特定の問題を焦点化するでもなく、二者でいるのに自分のことばかり語り、沈黙し、感じ、それをまた言葉にしていく作業を連日続けていくというのはまさに誤配をつくり出す作業なのではないか、というようなことを研究会で話しました。

 倉橋由美子的だな、とも私は思っていました。

 ほかにも色々話しましたが、やはり「誤配」概念の射程は広く、精神分析の可能性を示すための補助線になるように感じました。東さんはこの本のなかで誤配は意図的に作り出すのは不可能なので、誤配が起こりやすい状況を作りだせないか、と考えているともいっています。

 精神分析は「先のことは誰にもわからない」という現実を無責任にではなく素朴に言い続けているようなところがあります。「いい悪いではなくて」とか「今ここのことを話している」という言葉も先のことはわからないという現実とつながっているように私は思っています。

 精神分析は、他の人からみたらなんの意味があるかわからない、無駄な時間なのでは、と思われるかもしれません。実際、精神分析を受けたり、実践したりしている側にもそういう思いは生じます。でも「で、だから?」というのが精神分析なように思います。答え、目的、意味って?自分で無駄という言葉を使うなり「無駄って?」と自分に問い直すようなことが起き続けているという感じでしょうか。

 この前、「三度目の殺人」という映画を観ました。ぼんやりとみていたので詳細もぼんやりですが、「それって誰が決めるの?」というような言葉を広瀬すずさんがいっていました。線引きに対して疑義を呈するというのは是枝作品に一貫した態度のような気がします。そうでもありませんか?

 私たちはそんな確かな存在ではないので、というか、私はそう思っているので、いろんなことを感じて考えていつも揺れ動いて、なんだか大変だなぁ、ということが多いです。一方でよく笑ったりくだらないこといったり、ちょっとしたことで今日はいい日だったなぁ、とか思うことも多いです。「だから何?」みたいなことを書いているのもそんなわけです。

 明日はどんな一日になるのでしょう。ウィルスも災害も気になるし、それどころじゃない、むしろ目の前のこの人の気持ちの方が気になる、という場合もあるでしょうし、特に何も気にならない人もいるでしょうし、色々ですね。かなり確かなのは明日から八月ということですね(びっくり)。とりあえず睡眠は大切なのでみなさんもよく眠れますように。

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精神分析 読書

密、親密、秘密

6月に社会学の本を読んだよ、ということで気鋭の若手社会学者、中森弘樹さんの『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』を取り上げました。

この本、コロナ関係の本かと思ってしまいませんか?題名だけみると。でも違うのです。出版は2017年ですから。そのくらいコロナは親密性と責任について考えることを余儀なくしたウィルス、というかもはや出来事となったと思いませんか。

そして、コロナ関連の本が続々。本というか雑誌?みなさん、仕事が早くてすごいです。危機のときの情報の取り入れ方は人それぞれだと思いますが、私はネットニュースやSNSで流れてくる情報をぼんやり眺めながら、そのなかでも信頼している書き手が参照している元の資料や文献をみて、でもよくわからないから関連のもみて、とかやりながら自分の仕事をどうしていくかを考えています。終わりがない作業ですねえ、こういうのは。開業だと最後は自分で決めるしかないけれど。

研究者のみなさんはすでに視点が定まっているから「この視点でこの出来事を見た場合」という感じで書けているわけでしょうか。これが臨床との違いかなぁ。でもこういう雑誌を読むときもどの論考も大抵「今の時点で」というような言葉は入っているわけだから変わりゆくものとして取り込むことが大切なのかもしれませんね。

あ、「こういう雑誌」というのは2020年8月に出た『現代思想』のこと。今号は、パンデミックを生活の場から思考する、ということで「コロナと暮らし」という特集を組んでいます。目次は青土社さんのHPをご覧くださいね。

冒頭に挙げた中森さんの本、やはりコロナにも通ずるテーマですよね。親密性と責任。ここでは、【家族と「密」】という分類(分類、やや雑ではないか?と思わなくもないけどスピーディーな作業には必要かもしれない)で『「密」への要求に抗して』という論考を書かれています。

 まず、「コロナ離婚」という言説、あるいは社会現象を「ステイホーム」がもたらす親密圏への過負荷に対する私たちの不安感を示唆するもの、として捉えるところから始まるこの論考。

ワイドショー的な言葉の使い方はこうやって言い換えてもらうと急に自分のこととして考えられる言葉になるような気がします。これぞ専門家の役目かもしれません。

「密を避ける」、で「ステイホーム」、といってもそもそも「家族」って形式としては「密」ですよね、でもそこは前提だから議論は避けて通りますか、だとしたらそれはなぜでしょう、みたいな疑問を中森さんはきちんとしたデータをもとに書いておられて、「それを自明の前提として受け入れるとき、その背景にはどのような規範が存在しているのだろうか」という「問い」に変換していきます。

「そんなの当たり前じゃない?」というのは昨日書いたような「あっちがあるじゃない」というのとたいして変わらないような気がします。前提を顧みること、「前提が、現状に対してとりうる選択肢を狭めている」可能性を考えること、中森さんがここでしているのはそういうことかと思います。

「家族を特別視する背後にあるもの」を検討するために援用されるのは山田昌弘(2017)。私にとっては久しぶり。あとは読んでいただくのがいいと思うので詳しくは書きませんが、確かにコロナ禍のコミュニケーションのなかで、それぞれが前提としている「家族らしさ」ってあるんだなぁ、と思ったのは本当。そしてその前提から要求が生じ、いつの間にか大切にしたかったものはなんだったっけ、となることも確かにあると感じます。

中森さんはご著書でも「親密」をキーワードにされていましたが、ここでも家族にとどまらない親密な他者との関係について、まずは「親密圏」とはという概念から教えてくれます。これも昨日書いた「広場」の概念を考えることと私には重なってきます。

とサラサラ書いていたらなんかすごく長くなってきてしまいました。読みにくいですね。もしご興味のある方は、まずは本屋さんでちょっと見てみてください。他の方の論考も興味深いです。

中森さんのこの論考、最後はジンメルの「ある程度の相互の隠蔽」を引用し、「ステイホーム」においては、「秘密」「奥行き」、すなわち「距離」あってこそ生じるものの確保という課題が想定されるため、「「密」への要求に抗する新たな規範を構築してゆく必要がある」と結ばれています。

ここは土居健郎の「隠れん坊」とか「秘密」の概念と重ねて考えるところです、私の専門としては。

そういえばジンメルも「人間関係論」のテキストに出てくるなぁ。有名な社会学者です。

「人間関係」は本当に幅広くて複雑で難しいこともたくさんですが、目の前の誰か(とかSNS上の文字とか)のキャッチーな言葉に自分のことを当てはめたり、当てはめられたりしてしまう前に、「なんでこんな不安なのかなあ」とかまずは自分のこころの奥行きを使ってみてもよいかもしれません。本来であれば、そこは秘密の場所だと思うので。

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読書

「マルジナリアでつかまえて』

楽しみにしていた本が届きました。

予約していたからサイン本です。細字ボールペンで丁寧に描いてくれています。嬉しいです。

学生時代、友人に極細ペンできれいに平行線を描くコツを教えてもらったことを思い出しました。新宿の「世界堂」に連れていってくれたのもその子でした。はじめての「世界堂」はインパクト大でした。下手絵しか書けないけど画材が好きです。

さて、マルジナリアとは「余白の書き込み」のことだそうです。

山本貴光さんの『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』

題名だけでいろんなことを連想しませんか。そして題名を打ち間違えたらまた新たな発見がありました。間違いや失敗って大切です。

透明のきれいなビニール袋から取り出してパラパラっとしたらウワッとなって、一度閉じて、表紙を眺め、二度目はもっとそっと開きました。この本、嬉しい。最初のページからしばらく続くカラー写真。豪華。すごく楽しい。きっと本好きな方には共有していただけるような気がします。

本当は今夜読みたいけど余裕がないのが残念です。作業に疲れたらこの写真たちで休憩してから作業に戻ろうと思います。そして作業が終わったらつかまえにいこう。

いろんなニュースに気持ちがあっちこっち行きますが、本はいつも静かにそばで待っていてくれるから、まずは目の前のことをやりましょうかね。

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読書

『銀河の片隅で科学夜話』

『銀河の片隅で科学夜話』、どんなお話を想像するでしょう。全卓樹(ぜん・たくじゅ)さんの本です。副題というのかな。とっても素敵な表紙には「物理学者が語る、すばらしく不思議で美しいこの世界の小さな驚異」とも書いてあります。この表紙についても素敵エピソードがあったそうで、それは全氏が勤務されている高知工科大学のHPで読むことができます。

本をめくった時の裏表紙というのかしら。そこに載せられた絵もこれから出会うお話への期待を高めてくれます。この本は、天空編、原子編、数理社会編、倫理編、生命編と全22夜の語りがおさめられているのですが、各編冒頭に引用される吉田一穂の詩(ですよね?)は魅惑的な世界の入り口にぴったりです。

これまで高度に専門的な内容をこんなに美しく、門外漢にも自然に通じるように書いてくれた科学の本があったでしょうか。というほど数を読んでいませんが、子どもの頃は子ども向けの図鑑や絵本とたくさん出会えました。でもこの本は大人になった今だからこそ染み入るお話のような気がします。バタバタとすぎる日常でふと見上げる夜空のこと、人類が出会ってしまった原子のこと、案外単純な計算で示しうるこころのこと、人間という存在が進もうとしている未来のこと、倫理のこと、人間を相対化する生き物たちのこと、一話ずつ読むつもりが一気に読んでしまいました。

人間なんてちっぽけな存在、という言葉を誰が言い始めたのかわかりませんが、きっとそれって誰もがふと感じる瞬間があるから生まれた言葉のような気がします。自分の知らない世界の存在を実感するとき、そしてそれに美しさを感じるとき、私たちはなおさらそんなふうに感じるのかもしれません。

素敵な本と巡り逢えました。今夜もどこかで降り出した雨の音をききながら未知の世界を想う科学者がいるのでしょう。たくさんの被災地にも静かな夜が訪れますように。

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俳句 読書

成長

坂の上の小さなおうちだった保育園はいまや駅前に第一、第二と園舎を持つ認可保育園になった。あの頃赤ちゃんだった子たちはもう小学生だ。長い間成長を見守っていると大きくなったその子たちに当時の面影を見ることがある。

毎月どこかしらの保育園を巡回する。4、5歳になると年に数回しかこない相手のことも覚えている。「また会ったねー」と寄ってくるスピードも雰囲気もそれまでとあまり変わらない。

万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男 

少し前にここでとりあげた句だ。その日、保育園にいくともうすっかりおしゃべりでやりとりするようになった子どもたちが「またきたー」と寄ってきた。そして口々に「歯が抜けたんだよ」と口をいーっと横にひらく。最初に生えたであろう下の前歯が抜けている。なんともいえずかわいい笑顔はこの時期だけのものだ。「永久歯」が生えてくる。

永久歯とはに抜け落つ麦の秋  桑原三郎

この歳になると目に見える変化もないので特に成長は喜ばれないが再会を喜び合うことは相変わらずある。喪失は子どもの頃よりもずっと日常になる。

ところで、女が歳を重ねることをリアルに書いたのは藤沢周平だと思うがどうだろう。今、私の手元には「夜消える」が二冊ある。何故だかわからない。第一刷が1994年。多分一度読んで、読んだことさえ忘れてまた買ってしまったのだ。古い方の一冊にはもうカバーもかかっていない。別の小説を探していたら本棚に並ぶ二冊を見つけた。並べたことすら忘れてしまっている。そもそも今これを書き始めようとしたときに私はこのことを書こうとしたのだ、そういえば。