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精神分析、本

『ピグル』1965年6月16日

1965年6月16日(昭和40年、水曜日)、3歳9ヶ月の女の子が父親と一緒に老齢の精神分析家のところを訪れた。ここにくるのはもう11回目だ。彼女の両親が分析家に手紙を書いたのは1964年1月、彼女は2歳4ヶ月だった。1ヶ月後、両親と彼女、8ヶ月になる妹は4人ではじめてここを訪れた。ロンドンのChester Square87、London Victoria stationが最寄駅だ。2回目からは毎回電車で父親とここへ通った。

“What’s this?” 前回と同じように列車で遊びながら彼女が言った。thisはコバルトブルーのOptrex社の洗眼ボトルのことのようだ。

東京の空が明るくなりはじめた。まだ水色にもなっていないグレーがかった薄い青。2022年6月19日(日)の朝がはじまる。

1965年6月16日(水)、また電車で遊んでいたガブリエルがウィニコットの背中に声をかけた。

“Dr.Winnicott you have got a blue jacket on and blue hair.”

彼女はOptrex社の洗眼カップをメガネにしてウィニコットを見ていた。ほんの数行の記録だが私の大好きな場面だ。乳房(このセッションではおっぱいyamsというべきだった、とウィニコット)という一部分をウィニコットという全体対象に押し広げ分析家と同一化し、以前は悪夢にしかならなかった情緒をたくさんの言葉遊びとともに自由に遊び尽くそうとするガブリエル。ウィニコットが核心的な解釈をするのはこのセッションの最後だ。その解釈を受け入れた彼女はとても幸せそうにそんなにたくさん手をふる必要もなく父親と帰っていった。

今引用しているのはイギリスの小児科医、精神分析家のドナルド・W・ウィニコットの最後の治療記録『ピグル ある少女の精神分析的治療の記録』である。この本については以前も書いた。

ウィニコットとガブリエル(=ピグル)が会っていたChester Square87番地(でいいのかな)もOptrex社の洗眼ボトルも検索すれば画像で見ることができる。しかし、この本を読んで何が起きているのかを知ることは不可能かもしれない。

私はかわいらしい声の女性二人と三人で輪読をしている。彼女たちの声がこの年齢の女の子をリアルに想像させてくれる。私たちはウィニコットとガブリエルが会った日付にできるだけ近い週末に約束をする。昨日2022年6月18日は1965年6月16日のコンサルテーションを読んだ。約3ヶ月ぶりだ。ウィニコットは心臓を患っていてこの時期の体調は思わしくなかったようで、セッションの後の手紙のやりとりには母親とガブリエルの不安が現れているようにもみえた。しかしそれも一時的というか当たり前の反応と思われた。

久しぶりに読んだからというわけではなくこのセッションの記録はウィニコットとガブリエルどちらの言葉なのか不明瞭な部分が多い気がした、というコメントをきっかけに3人で話しあった。

もしかしたらそれは二人の相互交流における浸透性が高まっているからではないか、このセッションでは融合しては境界を取り戻すという自由な遊びがさらに洗練されている、そしてそれは I とYouの境界をはっきりさせるようなジョークとノンセンスの領域での言葉遊びの行き来にも現れているのでは、などなど。ウィニコットがこれまでの記録にも触れてきたように「不明瞭」や「曖昧さ」というのはこの二人の治療の特徴かもしれないが、これは精神分析の特徴でもあるだろう。

いつ死ぬかわからない、というより、もうそんなに長くはないだろう、という予測がウィニコットにははっきりあっただろう。ウィニコットは会いたいというガブリエルにすぐに応じることはできない。それを知らせる手紙の中で彼はいう。「子どもたちは自分の問題に家庭の中で取り組まなければなりませんし、ガブリエルが今の段階を切り抜けることができても驚くことはないでしょう。もちろん、彼女はたくさんの機会にそうやってきたので、私のところにくることを思い浮かべているでしょうし、私もまた必ずガブリエルに会うつもりですが、それは今ではありません。」

とても簡潔で明瞭な手紙だ。ガブリエルの心の中にははっきりとウィニコットが存在する。それはたとえ今彼が死んだとしても保持されるだろう、ウィニコットにはいまやその確信がある。

出会っては別れるを繰り返し、お互いの不在によって確かになる存在をまた確かめ、また離れ、生きていく。子どもの遊びのような、彼らの成長のような、目を見張るような部分を自分自身に見出すことはもうできないが生を限りあるものと認識できるようにはなったと思う。だから何というわけではない。もう60歳くらいになるガブリエルも同じ空の下で残りの時間に思いを馳せたりしているのだろうか。彼女は大人になってからインタビューに応じた。ウィニコットとの治療のことはよく覚えていないそうだ。ただ、この治療がホロコーストを身近に体験した母親に向けてもなされていた可能性を示唆している。

子どもがそれが何かはわからないまま晒される続ける不安、それは大人がかつて子どもだった頃に体験した不安でもある。思いを馳せる、大切な人に。何かができる距離にいなくてもせめて不安をともにすることができるように。そんな関係を築くことができるように。「ひとりの赤ん坊などというものはいない」「全体がひとつのユニットを形作っている」というウィニコットの言葉を思い出しながら。

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仕事 精神分析

迷路

薄く窓を開けた。コーヒーも失敗せずに入れた。雨は静かに降ってるみたい。どこかに打ちつけるような音はしないけどまっすぐの通りを走り去る車の音が雨を引きずっている。

今日は新しい出会いがある。これまでいくつの保育園を回ってきたのだろう。何年もの間、一年に20園ほどを巡回してきた。主に0歳から2歳の子供たちをたくさんみてきた。今年は巡回の仕事を半分ほどにしたので担当する園を組み替えていただく必要があり、何年も一緒に仕事をしてきた保育園との別れもあったし、今日ははじめての保育園へいく。どこの園を担当するかは新年度にならないとわからないためお別れなどもできないが「来年も先生かはわからないんですよね」というのが毎年、年度内最後の巡回の日の決まり文句なので「そうなんですよ。また担当になったらよろしくお願いします」と互いを労って別れる。保育士にも異動がある。出会いと別れは当たり前なのでさっぱりしている。ただ、同じ区内で長く巡回を続けているとこっちの園でお別れした保育士と別の園でバッタリなんてこともあって偶然も楽しい。全て同じ区内の保育園なのでこれだけ何年も回っていれば土地勘も身につきそうなものだが、その駅自体は頻繁に利用していても知らない道の多いこと。こんなところにこんなものが、というのは昨日オフィスのそばを散歩したときもそうだった。

人もそうだよね、と急に思う。人なんて迷路みたいなもんだ、とかとりあえず思い浮かんだ言葉を書いてみるが、書いてみるとそんな気がしてくる。戸惑いながら「好きだ」という以外になんの確信ももてないまま一緒にいるようになった。だからいつでも時々迷子になる。見慣れた景色が見えて安心したかと思えば突然の事故で思考停止することもある。恋ほど理由なきものも先行きの見えぬものもない。精神分析バカの私はなんでも反復強迫だと思っているが、そんな言葉で説明する気にもならない色とりどりの情緒が、激しい衝動が、そこには溢れていることも臨床経験で実感している。

どうして、ばかり問う。自分にも相手にも、心の中で。こんなにくっついているのに、「なに?」と聞いてくれてるのに、言葉にすることができない。「なんで今?」「なんでわざわざ」「どうして私が嫌がると知ってるのに?」「どうしていつも」などなど。見て見ぬふりが増えていく。不安で眠れない夜を経験しても理由をいうことができない。恋は少なからず人を狂わせる。暴走したい気持ちに苦しむこともある。どうしてこんな苦しいのに。どうしてこんなに好きなのに。いや、好きだからだ。愛情は必ず憎しみとセットである、とフロイトだってウィニコットだっていってる。むしろ憎しみが生じない愛情関係をそれということができるだろうか、と思ったところで苦しいものは苦しい。不安や疑惑に苛まれるのも辛い。それを溶かすように、包み込むように安心させてくれる瞬間もたくさん知っているのに。

同じ傘の下でそっと指を触れ合わせながら「やまないね」と空を見上げる。このままやまなければいいのに、とさっきよりほんの少しだけそばに寄る。そばにいたい。あなたを知りたい。そんな気持ちがいずれなんらかの形で終わることもどこかで知っているが今だけでも、と願う。人なんて迷路みたい、というか人生が迷路ってことか。

東京は雨。さっきより屋根を打つ音が増えている。色も素材も形も全て異なる屋根を雨が打つ。鳥たちの鳴き声もいつもと違う。何を伝えているのだろう。好きな人の気持ちだってわからないのにあなたたちのことをわかるはずもないか。また、バカみたいだ、と苦笑する。恋は少なからず人をバカにする。抱えてくれる腕や胸や言葉を必要とする。どんな拙くても、どんなわかりにくくても自分の言葉でいってほしい。それがどんな言葉だとしても何かの真似っこのような言葉より目に見える物よりあなたがどんな感じでいるのかをいってほしい。

人を想うのは難しい。シンプルなことほど難しい。それでも今日もシンプルに考える。見えるもの、感じたことをたやすく複雑なものに変形しないように自分の限界がいくら近くてもそれを大切にする。先のことはわからない、なんていうことはどこの誰にとっても同じこと。あなたが大切だ。それでももっとも確からしいこの気持ちを胸に、今日も。

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精神分析 精神分析、本

オグデンを読み始めた

昨年、邦訳が待ち望まれていた『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳)がようやく出版された。原書名はRediscovering Psychoanalysis ーThinking and Dreaming, Learning and Forgetting。https://kaiin.hanmoto.com/bd/isbn/9784909862211

オグデンのこれまでの著作はRoutledgeのサイトで確認できる。https://www.routledge.com/search?author=Thomas%20H.%20Ogden

『精神分析の再発見』以前に邦訳されたのはおそらく2冊目の著書『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』、4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』、5冊目『もの思いと解釈』、6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』の4冊だと思う。つまり12の著書のうち5冊が邦訳されたことになる。未邦訳のものも翻訳作業は進行中のようでそう遠くないうちに日本語で読めそうでありがたい。

2021年12月にはThe New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊が出た。このシリーズはクライン派の本はすでに何冊も訳されているが、独立学派のものは昨年邦訳がでたハロルド・スチュワートの著作と、そのスチュワートが書いた『バリント入門』くらいだと思う。オグデンの最新刊はComing to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility

オグデンは本書でフロイトとクラインに代表される”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ。

この本はこれまでに発表された論文がもとになっているが、私はまずはオグデンがその仕事の初期から行ってきた”creative readings”に注目したい。読むという試みは常に私の関心の中心にある。

オグデンは『精神分析の再発見』においても「第七章 ローワルドを読む―エディプスを着想し直す」(Reading Loewald: Oedipus Reconceived.2006)と「第八章 ハロルド・サールズを読む(Reading Harold Searles.2007)とローワルド、サールズの再読を行っている。

これまで彼が行ってきた精神分析家の論文を再読する試みには

2001 Reading Winnicott.Psychoanal. Q. 70: 299-323.

2002 A new reading of the origins of object-relations theory. Int. J. Psycho-Anal. 83: 767-82.

2004 An introduction to the reading of Bion. Int. J. Psycho-Anal. 85: 285-300.

などがある。

ほかにも詩人フロストの読解などオグデンの”creative readings”、つまり「読む」仕事は精神分析実践において患者の話を聴くことと同義であり、それは夢見ることとつながっている。

オグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”ではウィニコットの1963、1967年の主要論文2本が取り上げられている。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

まだ読み始めたばかりのこの本だが、50年以上前に書かれた論文がなお精神分析におけるムーヴメントにとって重要だというオグデンの考えをワクワクしながら読みたいと思う。

オグデンがウィニコットとビオンに十分に親しむ(ウィニコットの言い方でいえばplayする)なかでontological psychoanalysisをhaving to do with being and becomingと位置付け、「大きくなったらなにになりたい?」という問いを”Who (what kind of person) do you want to be now, at this moment, and what kind of person do you aspire to become?”とbeingとbe comingの問いに記述し直し、ウィニコットの”Oh God! May I be alive when I die” (Winnicott, 2016)を引用しているのを読むだけでもうすでに楽しい。

そしてすでにあるオグデンの邦訳が広く読まれ、精神分析がもつ生命力を再発見できたらきっともっと楽しい。

本当ならここでもっとオグデンについて語った方が読書案内になるのかもしれないがここは雑記帳のようなものだからこのあたりで。

そういえば中井久夫『私の日本語雑記」の文庫が出ましたよ。おすすめ!

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精神分析、本

言語と身体あれこれ

いつからこんなんなっちゃったんだろう、といえば「もともと」となる。いまや人に言われる前に自分が答えるほうが早い。なんだか前はもう少しましだったような錯覚をしていたいのね、私は、きっと。と思えるようになっただけましかもしれない。

まあ、自分からこうしてことをややこしくしたいときはやりたくないけどやらねば(あるいは考えたくないけど考えねば)ならないことがたまっているときだ、私の場合。前にも書いたが自分で自分をごまかす技ならたぶんたくさんもっている。まったく自分のためにならないのに不思議なことだ。いや、損得で言ったら損かもしれないが、自分の気持ちがまいってしまわないためには必要な技だし、気持ちがまいらないことはかなり大切だ。精神分析でいえば防衛機制というやつ。

精神分析家の北山修は母と子の間でしか通じない言語を「二者言語」といい、第三者に分かる必要のある「三者言語」と区別した(『ピグル』まえがきとしてーウィニコットの創造性)。

社会学者で作家でもある岸政彦は又吉直樹との対談で「言語以前」「無意味に身体を肯定される瞬間」について話していた(ネット上で読めます)。

北山修は「二者言語」を「言語以前の言葉」ともいっているが、私はそこに「身体」を持ち出すこと、つまり乳幼児的であることを言葉ではなく身体で説明すること、そしてそれを肯定していくことに価値を見出す。もちろん精神分析はそれをやってきてはいるが、どうしても説明は言葉でなされるのでその身体の肯定の瞬間はなかなか伝わりづらいかもしれない。

自分の身体の輪郭は自分ではなかなかわかりづらい。鏡をみればわかると思うかもしれないが、ボディイメージこそ自分をごまかしたり裏切ったりするものであることは多くの人と共有できるだろう。私たちは思いこむ動物だ(あえて断定したい)。

赤ちゃんはしっかりと腕に抱かれるまでに時間がかかるときがある。泣き叫んだり、のけぞったり、ひっかくようにしがみついてきてこちらが思わずのけぞったりするときもある。なかなかの困難を伴うが、多くの場合、大人の苦闘によって彼らは徐々に腕におさまる。動きを止めたその子の身体は形や重さを明確に知らせてくれるだろう。まだとっても小さくて軽いんだ、この身体であらん限りの力でなにかいってたんだ、とこちらが我に返るときもある。

線と中身は同時に作り出される、私はいつもそう感じる。抱きかかえるまでのプロセスこそが輪郭をつくり、中身を伴わせる。そこには赤ちゃんとそれを抱きかかえる腕や胸とが溶け合うように、しかし区別された形で存在する。ウィニコットの言葉を思い出す、というかそもそもピグルのことを考えていたのでウィニコットの言葉発でこんなことをつらつら書いている。

ややこしい書き方になるのは、とまた繰り返したくなるが繰り返さずにやることをやらねば。

ちなみに北山修『錯覚と脱錯覚』は『ピグル』を読んだ方にはぜひ読んでいただきたい。名著だと思う。

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精神分析

無力

人との「つながり」がいかに理不尽なものか、私はわりといつもそればかり考えているような気がします。コロナ禍では特にそうです。そのせいか何かと押しつけを嫌います、今は特にかもしれません。もうちょっとゆっくり考えさせてほしいと思うこともしばしばです。自分の押し付けがましさを棚に上げてと言われるかもしれないけれど、少なくとも私は治療者としてはそれに対しては意識的なほうだと思うのです、多分(自分のことは自分ではわからないのでまだ訓練中の立場です)。

ウィニコットという英国生まれの精神分析家がいます。

彼は『情緒発達の精神分析理論』という本で「交流することと交流しないこと」について書きました。

英語だとCommunicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites (1963)

書名はThe Maturational Processes and the Facilitating Environment: Studies in the Theory of Emotional Developmentです。

ウィニコットは英語で読むことが大切だと思っているのでがんばって英語でも読んでいます。

冒頭にはKeatsがBenjamin Baileyに当てた手紙からの引用があります。

Every point of thought is the centre of an intellectual world (Keats)

ウィニコットもたくさん手紙を書く人だったそうです。そしてこの文章は私がこの論文で最も好きな箇所で再び繰り返されます。

I suggest that in health there is a core to the personality that corresponds to the true self of the split personality; I suggest that this core never communicates with the world of perceived objects, and that the individual person knows that it must never be communicated with or be influenced by external reality. This is my main point, the point of thought which is the centre of an intellectual world and of my paper. Although healthy persons communicate and enjoy communicating, the other fact is equally true, that each individual is an isolate, permanently non-communicating, permanently unknown, in fact unfound.

いつも考えていることの大半はこの文章に集約されている気さえします。ウィニコットが何を持って「健康」とするかはともかくいわゆる「普通」と言い換えてもいいかもしれません。

肝心なのはthe other fact以降です。an isolateである私たち(=私)、これを維持することは生きているということの本質をなしているように思います。

コロナ禍において断たれたつながりは私に改めてその理不尽さを知らしめました。コロナというウィルスは誰のせいでもなく広がりました。そしてそれに対する無力に耐えられなかった集団化した思考の行動化によって私たちは無力でいることさえ許可が必要になった気がします。それもまたひどい無力感の現れですが。

偽りの「つながり」や「連帯」がan isolateである私たちを、本来誰からも見つけられることのない不可視であるはずの私たちを剥き出しの状態にしたともいえるでしょう。

今はただこういう抽象的な言い方しかできません。もちろんこれは具体的な体験に裏打ちされている感覚です。しかし精神分析は渦中にあるものがいかに潜在性を帯びているかに驚かされてきたはずであり、その事後的な発露を待ち続けるような学問でもあると思います。

だから私は判断を最大限保留したいと思っています。それは思考や情緒が無駄に波立つことを抑えるためではなく、むしろ逆で、刻々と時は過ぎ、老いていく自分にはその時間を同質に引き延ばすことなどできないと感じながらその無力にとどまることが大切なように感じるからです。

それぞれの「孤立」が守られること、私のそれを私自身が裏切らないこと、不安な毎日が続きますがこの無力を抱え込みながら過ごすこと、まずはそこからと思っています。

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『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』からの連想

吉川浩満さんの『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』(ちくま文庫)が即重版決定だそうです。パチパチ。おめでとうございます。

ちょうど「食い違い」や「論争」について考えていたときに再読の機会を得たのは幸運でした。というか、これらは常に身近すぎて考えざるを得ないことなのですが。

この本は2014年刊行の名著の文庫版です。生物の進化を「生き残り」ではなく「絶滅」という観点から照らし直す本書、サイズと装丁はかわいらしいですが、増補新版ということで収録された書き下ろし付録「パンとゲシュタポ」のインパクトもすごく、直線的な思考にうねりをもたらしてくれます(私にはありがたいことでした)。

やはりこれは読まれるべき本です。

私はなんでも精神分析を通じて考える癖があるのでバイアスがかかっていると思いますが、正反対の読み方とかはしていないと思います、多分。でも自信がないので一応その可能性は残しながらの再読と連想です。

ここではただ連想を書いているだけというか、この本を読んだら結局また精神分析のことを考えてしまったというだけなので、本来なら省いてはいけない文脈を省いてしまっています。

だからぜひ読んでいただいて共有したいのですが、この本に登場する科学者たちの「個人的事情」=「学問=科学と人生の無関係の関係があらわになる場所」=「「ウィトゲンシュタインの壁」が立ち上がる場所」は彼らがそこで体験した引き裂かれるような痛みを感じさせます。

そしてそこを私たちが目指す場所として位置付け、私たちの態度を問い、May the Force be with you(そうは書いていないですが)と著者は祈ってくれているようです。

おそらくこの本を書くこと自体、その痛みにどうにか持ちこたえるプロセスだったのではないでしょうか。今回の文庫化を期にさらに多くの方がこの本と共にあらんことを、と言いたくなります。ダークサイドの話は今回書き下ろされた付録「パンとゲシュタポ」をぜひ。

さて、すでに別のところで呟きましたが、吉川さんが終章で示した「理不尽にたいする態度」(文脈必要ですが突然取り上げます。すいません)はあれかこれかではない思考、簡単に言えば多様性を集団が維持するための手がかりとなるように感じます。

私たちは「この世界に内在しつつ、世界に関わっている者」同士、互いを少し侵食しながら語らうことをやめられないでしょう(今「寄生獣」という漫画を思い起こしましたがそれはまたちょっと別の話ですね)。

だからこそ「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という「理不尽にたいする態度」はたとえそれに対して勝利を謳うものがいたとしても「負け」にはなり得ず、自分が生きるため、同時に相手の内側で蠢き続け動かし続けるための動力として機能するのではないでしょうか。

私は精神分析を「信頼」し実践している立場なので他者の体験あるいは出来事に大雑把な言葉を与える人には「執拗に」物申したい気持ちになることが時々あります。実践においては私は物申される立場でもあります。

精神分析においては自分の分析家がその対象として最もふさわしく、自分の情緒は分析家の身体とこころ(転移ー逆転移の場)を通過して自分に帰ってくるため(おおよその対人関係はそうかもしれませんが)、最大限自由であろうとするならばそこが安全ということで、カウチ 、自由連想という設定の必要性もそれと関連しているように思います。

同時に、最大限自由であるということは、そこが危険で苦闘の場にもなりうるということでもあり、カタストロフィックな体験によって自己が変容するというモデルをとるならば、その場は常に両方の性質を持つと考えられるでしょう。

ちなみに本書においてカタストロフとルビがふってあるのは「大量絶滅事変」であり、「大量絶滅事変は、後継者たちに進化的革新(ルビはイノベーション)のための作業場(ルビはワークプレイス)を提供する。そしてそれは進化的革新の内容を指示(ルビはディレクション)することはないものの、その可能性と限界を規定(プロデュース)するのである。」(p78)と書いてあります。規定はプロデュースなのですね、なるほど。

精神分析においてカタストロフは自分の内側で生じます。

そして、そこでの体験をトラウマにせず生き直しの機会として体験するためには実在する第三者の介入に対して脆弱ではない、二者関係における第三者性をお互いの内側に宿らせることが必要になると思われ、そのプロセスは必然的に長期にならざるを得ないかもしれません。

さらに、精神分析における出来事は常に事後的で予定調和はあり得ないという考えを維持するのであればそこは名付けようのない場所であり、現象の描写にしかなり得ないはず、と私は考えて文章を書いたりしています。

突き当たる壁をなかったものにせず、そこに留まろうとするプロセスにおいて両者の間に常に蠢いている他者、私はこれが「理不尽にたいする態度」が形を得たものとイメージしました。対話を志向するとき、そこを別々の二人の場とみなすのか、互いの一部が重なり合う場とみなすのか、前提はプロセスを左右するかもしれません。

そしてウィニコットが言ったように、という連想になっていきそうですが、時間がきてしまいました。再び良書に出会えたことに感謝します。それではまた。

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精神分析

記憶

フロイトは忘れたくても忘れられない人だったみたい。実際は多くのことを忘れているし、それが当然だろうけど。

夢、日常生活における間違いや「〜忘れ」と呼ばれるもの。

回想も連想も事実の想起ではない。でも事実の表現ではある。事実が私を作ってきたとするならほんとに大事だったのは事実それ自体ではなくてそれをどう体験したかにほかならない。

世界には、といわなくても私の周りにも悲しいこと、しんどいこと、耐えがたいことはたくさんあって、もうどうしようもない気持ちでもなんとか、なんとかやっている。そんな声は少なくない。

忘れたいことばかり。全部が錯覚で思い込みだったと思おうとしても、実際にそうだったとしても、忘れるということは不可能なことだ。

精神分析は記憶にまつわる学問だ。時間と空間という二分法に陥ることなく、私たちが生きる場所をそこに見出したのだと私は考えている。

英国の精神分析家、ウィニコットが「私たちの生きる場所」といい、「可能性空間」といったのもつまり、そこが精神分析の場所であるということだろう、と私は思う。

ひとりではない体験。その記憶。しかも生成され続けるそれとともにいること。辛くて長い作業だ、と何度でも言いたくなる。

なんとか、なんとか生きている。そんな毎日をどんな言葉で綴ろうか。

秋日和。日曜なのに制服のこどもたち。部活かな。今日は半袖でも大丈夫ね。良い一日でありますように。

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「その後」

昨晩は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン(藤山直樹編・監訳、岩崎学術出版社、2017)』のラットマンの部分、つまり「強迫神経症の一症例についての覚書(一九〇九)」を読了。

昨年度からオフィスで始めた小さな読書会。4月から新しいメンバーを加え2年目をスタートさせたけど、コロナの状況を考えてまだ一度も対面でお会いできていない。

昨年度は同じく岩崎学術出版社から出ている『フロイト技法論集』をちょうど一年かけて読み終えた。今回のラットマンは
 Ⅰ 病歴の抜粋 Ⅱ 理論編 というシンプルな構成。1ヶ月に1回2時間で4ヶ月、8時間で読んだ。強迫神経症の症例としても、転移を扱わなくてもよくなった症例としても、フロイトとラットマンの幸福な時期の描写としても読める本である。

ラットマンという名前は彼の病歴からとっている。私も自分の問題に名前をつけるとしたら何かな。病名よりはその人固有の感じが出る方がいいなと思う。

ラットマンはフロイトにお母さんのようにお世話をされ、陽性転移の中よくなっていくが、第一次世界大戦で戦死する。だから「その後」は「戦死」以外、分からない。

ウィニコットの子どもの治療記録『ピグル』に出てくる女の子は50年後にインタビューに応じている。

死に方には色々あるし、いつどうなるかは誰にも分からないけど、できたら「その後」を死以外のなにかで伝えたり、伝えられたりしたいな、と思う。

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どうして5年日記とか10年日記は続かないのに毎日の日記なら続くのかしら。と思ったけど、日記ですものね。その日のことを記す場所として好きに紙面を割けばいい。その自由度の高さ、気ままにやれる感じがきっとよいのでしょう、私には。紙じゃないけど。

雨が降っています。昨晩より強く土砂降りのような音。レインコートと長靴かな。

フロイトは『夢解釈』が有名でしょうか。以前は『夢判断』と訳されていたけど精神分析ではやっぱり「解釈」かなぁ。

夢は本当に不思議で矛盾する出来事が普通に生じる時間を生きられる唯一の場所です。小学生の頃から「夢占い」とかもしました。フロイト を持ち出すまでもなく。

でも持ち出すと、フロイトには A  Lovely Dream(「素敵な夢」フロイト 全集5『夢解釈2』p12)、「すてきな夢」という題がつけられた夢が登場する。どんな夢だと思いますか。きっといろんな「すてき」を思い浮かべますよね。これ、読むとわかるのだけど夢だけみても特に素敵ではない。「すてきはどこ?」と思って読んでいくと、実はこれゲーテ『ファウスト』からの引用である。「いつか見た夢すてきな夢さ」。

連想のたくましい患者である。精神分析ではフロイトの時代から夢と分析状況は関連づけられている。そして今も私たち臨床家は患者の夢の中に自分たちを見出す。自分の夢の中にも様々な関係が姿を変えて現れる。「現実に起こったことと空想で起こったことは、まずは等価なものとして現れる」。私たちはごくわかりやすそうな夢もみるが「巧妙に仕込まれた夢作業」をすることもある。それは小学生の時代からそうだったように他者との間に置かれると意味をもつ。

当時の可愛いイラスト満載の「心理テスト」とか「夢占い」という本は大抵「A.〇〇の夢をみた人」→「ほかに気になる男の子がいます」とか選択方式で、それを読んで「きゃーっ」と盛り上がるという感じだった。現実的に好きな子が今いないとしても一部あっているような気がしてしまうのは昔から変わらないことである。みんな想像してしまうし、「ちょっと気になる子」は大抵いる。だからちょっと興奮して盛り上がる。ちょうどよい遊びだ。

精神分析は選択肢がない。使うのは「自由連想」である。こちらも想像力を必要とする。が、精神分析という状況で現れる夢は今ここにいる二人の関係だったりするので結構複雑だ。秘め事としての夢だからキャーキャーできていたのにここに置かれてしまう。置かれることで連想は質を変える。その連想がまた夢想に近くなる場合もある。

ひとりの夢がふたりの夢に。精神分析ってそういう場所だ。

出かけるまでに止まないな、この雨。今朝はどんな夢を見て起きただろう。精神分析家のウィニコットは「夢をみられない」ことを主訴に精神分析を受けはじめた。夢という時間と場所を失うことは主訴になりうる。こころの世界が守られること、いつだってそれはとても大切なことに違いない。