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精神分析、本

言える機会

空はグレーと水色のあいだ。グレーと水色なんてただでさえ間の色なのにさらに。間ってどこまでいってもあるのね。

コーヒーが熱い。冷房も入れたばかりだけど飲んだらすぐに汗になりそうな季節はもう過ぎたみたい。虫の声が朝の静けさを守ってる。蝉の声が世界をのっぺりと平板にしていくのとは違う。言葉にできないけどなんか違う。

この前、暮田さんとフェミニストの言葉について少し触れた時に竹村和子の『愛について』は精神分析の知識がないと難しくてとおっしゃっていた。そうなんだよね。でもあそこで想定されている精神分析の「目的」は大分古典的かつ一般的なフロイトに対するイメージであって誤解を招くと思う。私の場合、精神分析の本として読まないせいかそこを「わからない」とはならないかな。精神分析がこうやって捉えられがちなのはわかるけど違うよ、とは思うけど。でも著者はこの主張をするための補助線として精神分析をこう理解して使っているのかと仮固定の場と捉えて読む。

最近ますます複数のことを同時にできなくなっている。例えば今ならNetflix流しながらこうしているんだけど感覚が以前と大分異なる。注意の配分が自然にできなくなっている感じで指の動きとかにもたまに意識的になる必要があるくらい。次にやるべきこともルーティンなのに抜けている感じで時間感覚も鈍くなっているみたいだし。ほんと軽い認知症なのではと思うことが増えた。ただ記憶力は元々相当悪いし、注意力も子供の頃から注意されてばかりだからようやく自分の状態を正確に認識しつつあるだけかもしれないわね。あまり嬉しくないけど自分を知るってそういうことかもね(これ以上みたくないみたいから適当に終わらせようとしている気もするわね)。

あー。さっき書いた本の読み方もこういう適当に割り切ってしまうところが出ているのかもねえ。前提が正しくないのだからそこをどう読むかはもっと正確であるべきなのかもしれないけど。うーん。でもどこに時間をかけるかと言ったら精神分析そのものだからフロイトはもちろん主要な古典を精緻に読むことで暮田さんとのちょっとしたおしゃべりの時に「あれはちょっと違うの」と言えたみたいな関係を持つことが大切かもしれない。言えたのは嬉しかったな。そもそも読めなくても触れてないとその本の話が自然に出てくることはなかったから。

この前もね、とまたとめどなく書いてしまいそうだけどやめとこ。この日記ともいえない朝のこれはなんていうのかしら。もう90日続いてるって通知がきた。衰えゆく認知機能に対する無意識的抵抗かもしれない?「これをやっている今は朝だぞ」ってことを染み込ませているのかしら。そんなこといってないで仕事へいく準備をしましょう。余った時間は精神分析の文献を読みましょう。読みます。はい。

今日は東京は雨が少し降るみたい。少しであってほしいな。

週の真ん中、休みが遠く感じるかもだけどご無理なさらず。無理しなくてもいい環境づくりもしていきましょうかね、少しずつ。

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精神分析

「覚醒時の独特面の気質や感覚が、夢生活の中にも引き続き現れるものなのかどうか、現れるとしたらどの程度までか」

第四回Reading Freudで『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』「第一章 夢問題の学問的文献」 (F)夢の中での倫理的感情の冒頭である。

これに対してもいろんな人がいろんなことを言っているのをフロイトは拾い上げている。夢の中では誰だってすごいことしちゃってるもんだというのは前提にあるようだけどそれを覚醒時の自分と統合する仕方についてはそれぞれの道徳観が顔を出す。

「カントの定言命令は、一蓮托生の相棒のようにわれわれに付きまとっているので、われわれは眠っている間もそれを手放すことはない。」とヒルデブラント。とてもよくわかっていそうなヒルデブラントさえこうだよ、とフロイトがいう場面である。

夢にまで責任もてと言われたらほんと大変だよ、と思うけどこのSNS時代、昔だったら特別な相手としかやりとりしなかった時間帯にも、仕事とプライベートの区別なく、年齢差も時差も関係なく記号や言葉が交わされる。そんな中で眠りの質も変化しているだろうから、「抑圧された表象が夢で浮上する」ということは変わらないとしても「夢を見られない」ことを症状として考える契機は失われているかもしれない。ちなみにイギリスの精神分析家であり小児科医でもあるウィニコットはそれを主訴として精神分析を求めた。

それにしても眠い。頭痛持ちだからいつもぼんやりと痛みを感じつつひどい時には文字通り頭を抱えるしかないのだが痛みを超えて眠りに落ちることができると夢の中では痛みはおさまっている。痛くて辛い夢を見るわけでもない。でもまた起きると痛い。これは痛みの象徴化とはいえないが痛みだけでできているわけではないので当たり前か。それに痛いのは頭だけではない。毎日、瞬間的に、持続的に体験する痛みに対して夢は仕事をしてくれていると思う。自分で自分を抱えるように膝を抱えて泣きまくって眠ってしまった日よりも翌日の痛みの方がまだまし、という経験は多くの人がしているだろう。

今日は月曜日。色々書きたいけど時間切れ。夢も覚醒してしまえばおしまい。また夜ね、と夢に対していえるくらいの生活リズムは保ちましょうか。今夜から。明日から。と先延ばしになりそうだけど睡眠大事。少しずつ。

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精神分析、本

それでも委ねる

「物事を分析する際に、ブラック・フェミニズムの伝統は、さまざまな抑圧には、体系を異にしていても、互いに重なり合い関連している特質があることを強調してきた。この伝統はまた、グループ全体こそがリーダーシップの中心にあらねばならないという、女性に発する物事の見方を大切にしつつ、LGBTQIAの人びとの懸案も共有しているものである。そしてこの伝統は、ブラック・コミュニティのなかにおいても最も周縁化され、弱い立場にいる人びとを、運動を語る言語や課題の重要度において、その中心に据える途を探ろうとするものである。」

バーバラ・ランスビー著『ブラック・ライヴズ・マター運動 誕生の歴史』(彩流社)の冒頭「本書の概要」からの引用である。ミシェル・オバマでもなく、ビヨンセでもなく「ブラック・コミュニティのなかにおいても最も周縁化され、弱い立場にいる人びとを、運動を語る言語や課題の重要度において、その中心に据える途を探ろうとするものである」。SNSを見る限り、この視点は常に忘れられがちなように思える。

生身の相手と交流しながら感じ、知ろうとするのではなくTLを流れる言葉や映像に反射的に反応していく。その様子はその人自身が描写する分には豊かな物語かもしれないが見たいもの触れたいものとしか交流したくない自分として表現されることはないだろう。たとえ他者からはそれが明らかであったとしても。否認というのは認め難いゆえに否認であり、生身の他者に委ねる、あるいは委ねられることは面倒で恐ろしいから絶対避けたい、といわないまま好かれていたい。そこまでの否認を可能にするのも言葉だろう。一見、傷ついた場所に正確に丁寧に絆創膏を貼るような言葉が、「自分の言葉」が通じない相手の傷を広げ、傷ついたということを表現することさえ封じ込めようと躍起になった結果であることをその恩恵を受けた人は知らない、ということもあるだろう。

私は背が低いので混雑した場所でモノ扱いされたかのように痛い想いをさせられたり、全く関係のない相手への怒りをちょうどその場にいた反撃できなそうな相手としてぶつけられたりすることがあるが、これは子供、女性、障害をもつ人なら誰でも多かれ少なかれ体験していることだろうと思う。

無力。生まれつき何かを剥奪された、あるいは欠如している、と表現することもできる。それは表現としても洗練されているように思える。が、私は使いたくない。大体、生まれつきとしても一体誰が剥奪したというのか、そもそもこれを欠如とするなら欠如していない状態は誰が定めたものを指すのか。

非対称の関係に傷つき傷つけられることを繰り返し絶望と希望に振り回されながら過ごす特定の他者との生活は外からは見えない。力ある者の言葉や仕草に封じ込められていることもそれが暴力や殺人として明らかになるまでは「普通の家庭」「仲良し」と表現されることも多い。

一見知的で豊かな表現力をもった似たような言葉遣いの者同士ののっぺりとした「連帯」を支えているのは非対称な関係においてそんな相手に身を委ねざるを得ない、ときには暴力的に支配されている人たちであることは否認される世の中だ、特にこのインターネット時代においては。

毎日「それでも」と思う。私は私でこの身体でこの言葉で生きていくしかない。いつも誰かに片想いしたままその囚われから抜け出すことができないような重たさを引き摺りながらそれが錯覚であることにも気づきつつやっていく。支配やコントロールより偶然性に身を委ねられたらと思うが、それこそ自分でどうにかできるわけではなくすでに選択肢はなくその状態であることはそれはそれでとても苦しいものだ。それでも、と思う。

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精神分析、本

男性性研究の本を買いに行ったら忍者のことも学べた。

NHK WORLD-JAPAN On DemandでNINJA TRUTH Episode

を見ていた、というか流していた。早朝からKUSARIGAMAとか聞いて何をしているのだ、私は。

昨日本屋へ寄ったときに東大出版会のPR誌『UP20226月号があったのでいただいてきた。表紙に「忍者」という文字を見つけた。金沢に忍者寺(妙立寺)というのがあって私はその仕掛けだらけのお寺が大好き。忍者大好き。それにしても忍者学というものがあるのか。と「忍者学への招待」という連載を読んでみた。今回は3回目「忍者の火器・火術」について。ふーん。忍者学というのは学際領域なんだな。これを書いた荒木利芳さんは三重大学の水圏生物利用学というのがご専門らしい。??…なんだそれは。三重大学のHPによると「水圏に棲息する魚介類を対象とし,それらの生産する有用物質の抽出解析並びに未利用資源の開発を行うとともに,遺伝子操作を用いた魚類の品種改良や微生物による生合成のための原理と技術を研究する。また,化学物質と生体の相互作用を分子レベルで解明し,その作用機序を細胞から生体レベルで明らかにするための技術やシステム生物学に関する教育研究を行う。」という学問領域らしい。世の中にはいろんな研究があるのだなぁ。それにしても「水圏に棲息しない魚介類」というのもいるのかな。「すいけん」とうつとやっぱり「酔拳」と出てきた。あまりテレビをみる子供ではなかったがたまにみる「酔拳」はべらぼうに面白かった。

忍者といえば伊賀、伊賀といえば?そう、三重。三重大学はすごい。三重大学国際忍者研究センターというのを持っている。本も出している。その出版記念シンポジウムの内容も多岐に渡りなんだか面白かった。もう素早く動けないのでそういう人にも使える忍術を教えてほしいしアナログ忍者ゲームもやってみたい。にしてもこういうのみると勉強って大事。物理学も生物学もわかってないと忍術なんて編み出せないじゃん、ということも楽しく学んだ。しかも冒頭に載せたのは英語なので忍者を通じて世界と繋がることができますね。

昨日、本屋へ寄ったのはレイウィン・コンネルの『マスキュリニティーズ 男性性の社会科学』(伊藤公雄訳、新曜社)を買うため。高い本だが男性性研究は今の時代追っておくべきだろう、私の仕事では特に。この本も「第一章 男性性の科学」の冒頭はフロイトの引用だ。著者は「ジェンダーに関する私たちの日常的な知は、理解し、説明し、判断すべき相反する主張にさらされているのである。」という。それはそこに複数の実践があることを暗示しており、その実践を支えている理論的根拠は何か、ということに目を向ける必要があろう、ということで著者は広がりを見せる男性性研究における知を紹介していく。まだ途中だがとても丁寧な本だと思う。

そういえば忍者学の皆さん、男性ばかりではなかったかな。忍者にはくのいちがいるけど。「万川集海」にも登場しているって書いてあったよ。精神分析の世界も男性社会ですね。IPAの会長は二代続けて女性なので少しずつ変わってきていると思うけど。私は男女の違いをとても感じながら生きているけれど精神分析における両性性に関する議論は転移状況において私たちが性別を超えて被分析者にとっての重要人物になっていくことを考えればもっと臨床と理論を掛け合わせたところで深めていけるもののように思う。そのためにもこの本は活躍してくれそうだ。

あーあ。このドアをひっくり返したらあの人がいる場所に行けたらいいのに。忍術が戦いのためじゃなく使われるような世の中にいつかなるかしら。願いましょうか、今日も。

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精神分析、本

悩める朝に

明るい。朝はとりあえずカーテンを開ける、というのは大切なことですね。内側がどうであれ外側くらい大切にしないと。

この前、ゲンロンカフェでやっていた安田登さんと山本貴光さんの「心を楽にする古典講義──『古典を読んだら、悩みが消えた。』刊行記念」イベントをアーカイブで見た。

昨年夏には安田登×玉川奈々福×山本貴光「見えないものの見つけ方」イベントにもいった。それは『見えないものを探す旅 旅と能と古典』刊行記念イベントだった。

安田登さんはとてもたくさん本を書いているんだな。今回の『古典を読んだら、悩みが消えた。』もとてもユニーク。今ちょっとエネルギーがないので書きたいことも書けないけど出版社のページをぜひチェックしてみて。と言いたいのだけど目次が載っていないのが残念。

「自分より強くてイヤなやつがいるなら」「自分の気持ちをうまく言葉にできないなら」「自分は陰キャだと思うなら」「コミュニケーションで失敗しがちなら」などなど私たちがよく悩む事柄に対して古事記、和歌、平家物語、能、おくの細道、論語を解釈しながら応えるという超難易度高い人生相談を安田さんは誰にでも読める形で実現してくれました、というかわいい表紙(中の漫画もかわいい)のすごい本。読んでいるうちになんか昔見たことあるあれ、聞いたことあるあれって本当はこういうことだったんだ、とか思っているうちに悩みにも別の意味が与えられて「まあこれでいいのかな」と思えると思います。お悩みがなくても私は夢の話とかすごく面白かった。能は特に興味深いなと感じます。ゲンロンのイベントで「みんな必ず寝るけど必ず起きるでしょ」(超雑な抜粋です、アーカイブでチェック)というようなことを安田さんが話していたのだけどこれ本当にそうで、この流れで話されたこともよかった。本では能は“「残念」を昇華する芸能”と書かれていてフロイトのいう個人的な無意識の産物とは違うよ、というようなことが書かれています。今は精神分析は個人のこころを集団的なものとして扱う視点があるので安田さんの書いてあることは本当にそうだなぁと思うのでした。

なんだか文章がバラバラしてしまうな、今朝は。いつものことか。私が悩んでいることもこの本にあるから読み直すことにしよう。

そうだ、昨年のイベントでは能の「忘却と疲労」のお話がとても印象的でブログにも書いた。コロナ禍だったけど現地で見られてラッキーだった。少人数で間近で見られた安田さんと玉川奈々福さんのおくの細道の実演は迫力とユーモアがあったし、一緒に声に出して読むのも新鮮だったし(今回のイベントでもやってたね)、山本さんがお天気のせいか何かで電車が止まっちゃって遅れちゃったことが起きたのもおくの細道の世界と相俟って面白かった。

朝から楽しかったことを思い出せたことに安心した、今。こころを集団として、全部私だけど全部私だけではない部分で構成されていると考える。変化しつづけていると考える。いろんなことは「変わらない」と感じられることの方がずっと多くて「もういやだ」ということばかりかもしれないけどこころを集団的かつ力動的なものと捉えれば綻びや虫喰いを見つけたときこそ変化のチャンスかもしれない。とはいえあまり思い切らずにいこう。行動化っていうのはあまりよくない、私たちにとっては。

ふー。なんとか今日も過ごしましょうね。東京は気温もちょうどよさそうです。

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仕事 精神分析

迷路

薄く窓を開けた。コーヒーも失敗せずに入れた。雨は静かに降ってるみたい。どこかに打ちつけるような音はしないけどまっすぐの通りを走り去る車の音が雨を引きずっている。

今日は新しい出会いがある。これまでいくつの保育園を回ってきたのだろう。何年もの間、一年に20園ほどを巡回してきた。主に0歳から2歳の子供たちをたくさんみてきた。今年は巡回の仕事を半分ほどにしたので担当する園を組み替えていただく必要があり、何年も一緒に仕事をしてきた保育園との別れもあったし、今日ははじめての保育園へいく。どこの園を担当するかは新年度にならないとわからないためお別れなどもできないが「来年も先生かはわからないんですよね」というのが毎年、年度内最後の巡回の日の決まり文句なので「そうなんですよ。また担当になったらよろしくお願いします」と互いを労って別れる。保育士にも異動がある。出会いと別れは当たり前なのでさっぱりしている。ただ、同じ区内で長く巡回を続けているとこっちの園でお別れした保育士と別の園でバッタリなんてこともあって偶然も楽しい。全て同じ区内の保育園なのでこれだけ何年も回っていれば土地勘も身につきそうなものだが、その駅自体は頻繁に利用していても知らない道の多いこと。こんなところにこんなものが、というのは昨日オフィスのそばを散歩したときもそうだった。

人もそうだよね、と急に思う。人なんて迷路みたいなもんだ、とかとりあえず思い浮かんだ言葉を書いてみるが、書いてみるとそんな気がしてくる。戸惑いながら「好きだ」という以外になんの確信ももてないまま一緒にいるようになった。だからいつでも時々迷子になる。見慣れた景色が見えて安心したかと思えば突然の事故で思考停止することもある。恋ほど理由なきものも先行きの見えぬものもない。精神分析バカの私はなんでも反復強迫だと思っているが、そんな言葉で説明する気にもならない色とりどりの情緒が、激しい衝動が、そこには溢れていることも臨床経験で実感している。

どうして、ばかり問う。自分にも相手にも、心の中で。こんなにくっついているのに、「なに?」と聞いてくれてるのに、言葉にすることができない。「なんで今?」「なんでわざわざ」「どうして私が嫌がると知ってるのに?」「どうしていつも」などなど。見て見ぬふりが増えていく。不安で眠れない夜を経験しても理由をいうことができない。恋は少なからず人を狂わせる。暴走したい気持ちに苦しむこともある。どうしてこんな苦しいのに。どうしてこんなに好きなのに。いや、好きだからだ。愛情は必ず憎しみとセットである、とフロイトだってウィニコットだっていってる。むしろ憎しみが生じない愛情関係をそれということができるだろうか、と思ったところで苦しいものは苦しい。不安や疑惑に苛まれるのも辛い。それを溶かすように、包み込むように安心させてくれる瞬間もたくさん知っているのに。

同じ傘の下でそっと指を触れ合わせながら「やまないね」と空を見上げる。このままやまなければいいのに、とさっきよりほんの少しだけそばに寄る。そばにいたい。あなたを知りたい。そんな気持ちがいずれなんらかの形で終わることもどこかで知っているが今だけでも、と願う。人なんて迷路みたい、というか人生が迷路ってことか。

東京は雨。さっきより屋根を打つ音が増えている。色も素材も形も全て異なる屋根を雨が打つ。鳥たちの鳴き声もいつもと違う。何を伝えているのだろう。好きな人の気持ちだってわからないのにあなたたちのことをわかるはずもないか。また、バカみたいだ、と苦笑する。恋は少なからず人をバカにする。抱えてくれる腕や胸や言葉を必要とする。どんな拙くても、どんなわかりにくくても自分の言葉でいってほしい。それがどんな言葉だとしても何かの真似っこのような言葉より目に見える物よりあなたがどんな感じでいるのかをいってほしい。

人を想うのは難しい。シンプルなことほど難しい。それでも今日もシンプルに考える。見えるもの、感じたことをたやすく複雑なものに変形しないように自分の限界がいくら近くてもそれを大切にする。先のことはわからない、なんていうことはどこの誰にとっても同じこと。あなたが大切だ。それでももっとも確からしいこの気持ちを胸に、今日も。

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精神分析 精神分析、本

オグデンを読み始めた

昨年、邦訳が待ち望まれていた『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳)がようやく出版された。原書名はRediscovering Psychoanalysis ーThinking and Dreaming, Learning and Forgetting。https://kaiin.hanmoto.com/bd/isbn/9784909862211

オグデンのこれまでの著作はRoutledgeのサイトで確認できる。https://www.routledge.com/search?author=Thomas%20H.%20Ogden

『精神分析の再発見』以前に邦訳されたのはおそらく2冊目の著書『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』、4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』、5冊目『もの思いと解釈』、6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』の4冊だと思う。つまり12の著書のうち5冊が邦訳されたことになる。未邦訳のものも翻訳作業は進行中のようでそう遠くないうちに日本語で読めそうでありがたい。

2021年12月にはThe New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊が出た。このシリーズはクライン派の本はすでに何冊も訳されているが、独立学派のものは昨年邦訳がでたハロルド・スチュワートの著作と、そのスチュワートが書いた『バリント入門』くらいだと思う。オグデンの最新刊はComing to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility

オグデンは本書でフロイトとクラインに代表される”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ。

この本はこれまでに発表された論文がもとになっているが、私はまずはオグデンがその仕事の初期から行ってきた”creative readings”に注目したい。読むという試みは常に私の関心の中心にある。

オグデンは『精神分析の再発見』においても「第七章 ローワルドを読む―エディプスを着想し直す」(Reading Loewald: Oedipus Reconceived.2006)と「第八章 ハロルド・サールズを読む(Reading Harold Searles.2007)とローワルド、サールズの再読を行っている。

これまで彼が行ってきた精神分析家の論文を再読する試みには

2001 Reading Winnicott.Psychoanal. Q. 70: 299-323.

2002 A new reading of the origins of object-relations theory. Int. J. Psycho-Anal. 83: 767-82.

2004 An introduction to the reading of Bion. Int. J. Psycho-Anal. 85: 285-300.

などがある。

ほかにも詩人フロストの読解などオグデンの”creative readings”、つまり「読む」仕事は精神分析実践において患者の話を聴くことと同義であり、それは夢見ることとつながっている。

オグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”ではウィニコットの1963、1967年の主要論文2本が取り上げられている。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

まだ読み始めたばかりのこの本だが、50年以上前に書かれた論文がなお精神分析におけるムーヴメントにとって重要だというオグデンの考えをワクワクしながら読みたいと思う。

オグデンがウィニコットとビオンに十分に親しむ(ウィニコットの言い方でいえばplayする)なかでontological psychoanalysisをhaving to do with being and becomingと位置付け、「大きくなったらなにになりたい?」という問いを”Who (what kind of person) do you want to be now, at this moment, and what kind of person do you aspire to become?”とbeingとbe comingの問いに記述し直し、ウィニコットの”Oh God! May I be alive when I die” (Winnicott, 2016)を引用しているのを読むだけでもうすでに楽しい。

そしてすでにあるオグデンの邦訳が広く読まれ、精神分析がもつ生命力を再発見できたらきっともっと楽しい。

本当ならここでもっとオグデンについて語った方が読書案内になるのかもしれないがここは雑記帳のようなものだからこのあたりで。

そういえば中井久夫『私の日本語雑記」の文庫が出ましたよ。おすすめ!

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精神分析

基盤と繋がり

CBTとか精神分析とかなんでも専門的な技法以前に共通してやることとしてマネージメントがあって、それがその後の展開にとって大切、といつも思う。

20年以上、様々な現場で臨床をしてきたが、基本の型みたいなものは身に付いていると思う。それを相手や状況に合わせてどうカスタマイズするか、はこれからもいちいち立ち止まりながら考えることになるだろう。

私の世代の心理士は、特定の技法のトレーニングをするというより分野、領域横断的に勉強してなんとか自分の臨床とそれらを接続してやってきている人が多いと思う。私は今は精神分析のトレーニングをしているけれど、これまでも今もその仲間関係に支えられていることが多い。

昨日もまだ効果研究が積み重ねられていない領域についてCBT専門の知り合いに連絡したらすぐに様々な資料を送ってくれた。そういう分野はたいていまだ英語文献しかないのだけれど自動翻訳でわかる明快な文献も多いので助かる。

こうやって困ったら「教えて」って言える信頼できる相手がいて、自分もいい加減教えてもらったらサクッと勉強するという流れができているのでなんとかなっているのだと思う。

結局いろんな人と繋がりがないと何事も難しい、というか人との繋がりのない臨床実践というのはない。


現在は特定の技法のトレーニングへのアクセスも簡単になっていて、日本語で学べる機会も多くて、それはとてもいいことだと思う。ただ、教える立場が増えてきて感じるのは、最初に書いた「マネージメント」など、思想や思考の仕方の違いがあっても共有されるような基盤がなかなか基盤として置かれにくいということ。

どうしても技法の違いや自分の求めている方向に話が行きがち。なのでまずは、その人がその人のいる場所でいつ何を誰とどのように感じているか、という視点に戻ることをお勧めしている。そして、特定の技法の知識だけではなく、環境面において概ね共有された言葉で説明できる事象のなかでその人がどういう立ち位置にいるか、ということを他者との関係性を含めて描写することも大切と伝える。患者と誰か、そして自分の繋がりや交流のありようを多面体において記述することの大切さは伝えていきたいと思う。


特にこのコロナ禍で私がずっと懸念していることは、症状を含め自分に生じている出来事を繊細に吟味しないと、そこにどうコロナが関わったかという部分が忘れられる可能性があるのではないかということ。私たちは強く心揺さぶられたことでも意外とすぐなかったかのように振る舞える。でも基盤の変化はその後に必ず影響してくると私は思う。特に精神分析は基盤というものを重要視してきたと思う。


コロナ以前とコロナ以降の違い、あるいはその期間に生じた変化がすごいスピードでかき消されるか、大雑把な言葉でひとくくりにされる様子を思い描くのは難しくない。震災について考えるなどすれば。

個人的にはコロナ後の症状や環境側の反応の揺り戻しを警戒している。繋がりがいつどのように切られるかわからない、そういう状況で過度に繋がろうとしたり、逆につながれないことに悩まなくなったり、この期間で徐々に生じた他者に向ける注意の質の変化を感じるから。私はたまたま精神分析を受けている間にこの事態になっているから自分自身の気持ちの揺れ動きにもいちいち注意を払う機会を持てた。

この一年半、意志と記憶に関する本をよく読んだと思う。それは多分私が自分にも生じている変化に対して意識的であろうとする無意識のせいだと思う。

焦っても急がない、先走らない、とりあえず何度も立ち止まる。自分がいる場所はたまたまという偶然の積み重ねでできているとしてもそこをマネージしていくのは自分であり、身近な他者との繋がりがそれを助けてくれる可能性には常にかけていいと思う。

今日も地道に。

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精神分析

終わりのない仕事

なんだかひどく疲れる。見て見ぬふりをできるものもあればできないものもある。難しいのは見て見ぬふりができるのは最初からしっかり見ていない場合であって、二度見とかしちゃってきちんと目に入れてしまったら見て見ぬふりなどできなくなることだ。見て見ぬふり、というのは他の記憶とまぜこぜにしてなかったことにできる程度にしか見ない、ということではないか。もしそうできない場合は見て見ぬふりは失敗し、むしろしっかり見てみるまで気になってしょうがなくなってしまったりするのではないだろうか。

精神分析の訓練の間はものが書けない、と妙木先生がおっしゃっていた。どこかに書いてもいらしたと思う。これはとてもよくわかる。別に訓練が終わったら書けるかというとそうでもないだろうし、訓練中に書いている人だってもちろんいる。

でもおそらく妙木先生が言っているのはそういうことではない。ものすごく書ける彼でさえそういう状態に陥るのだ。

精神分析は自分の人生を差し出すような試みである。何かを形にする行為ではない。

吉川浩満さんが山本貴光さんとの共著「人文的、あまりに人文的』でロビン・G・コリングウッド『思索への旅ー自伝』を取り上げている。コリングウッドが提唱した「問答倫理学」は、命題や作品に接するときには、「誰それはこれをどんな問題に対する解答にしようとしたのか」と問うような態度のことらしい。

私はいつも通り精神分析という体験と結びつけて考えているわけだが奇遇なことに(?)コリングウッドは哲学をやる以前は考古学をやっていたそうだ。フロイトもまた考古学には強い関心を向けていた。

やっているのは常に問題の再構成だ。そして「問題」とは、精神分析でいえば現在の在り方であり、過去の出来事なのだろう。そしてそれを語るさまざまな症状を持った(人は誰でも症状を持つ)その人の身体と言葉、暫定的な私という存在が「解答」なのだろう。一体、私という暫定的な解答は今のところどんな問題を示しているのか。

もちろん精神分析ではこれは一人の作業ではなく精神分析家との作業として思考される。技法としてはそのはずだ。それをなすべく、精神分析家も一定の訓練を受けており、自分自身も精神分析家との間に自分を差し出した経験を持ち、それがどんな出来事か知っており、解体しそうな患者にそれと気付かせないように抱える腕を持っているはずだ、理論的には。

そしてそれもまた錯覚であり、幻想であることを知らせるのもまた精神分析なのだろう。終わりのない仕事だ、生きている限りは。

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精神分析と絶滅

吉川浩満『増補新版 理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』(2021,ちくま文庫)を読んでいると「グールドよかったね」と親戚でもなんでもないのに思う。

語られること、読まれることで生き続ける、という意味ではグールドのような登場人物だけでなく、作者も作品もそうかもしれない。当人が願っているかどうかはともかく(むしろ大きなお世話である可能性すらあるがこれはこれで読者の営みなのでご容赦を)。


吉川さんがこの本で最初に登場させるラウプの3つのシナリオでもっとも有力と思われるシナリオ=「理不尽な絶滅」。詳細はぜひ本書をお読みいただきたいが、ここでは例によって「絶滅」から「精神分析」をちょっとだけ考える。自分に引き寄せて読む悪い癖だけど癖はなかなか直らない。

精神分析は語ってくれる人を持ちづらい誰かが自由連想を試み、治療者がそれを受け取ろうとする試みを続ける限りは生き残るだろう、と私は思っている。

精神分析を絶滅危惧種という人もいるし、実際そうなのかもしれない。が、精神分析そのものは特に実体ではないので、絶滅しようもないのでは、とも思う。もとよりそんな大きな集団でもない。

誰かに向けて自分を語る、その行為がなくならない限りはこの営みもまた細々と続いていくのではないだろうか。

それにしても、精神分析がどうというより、誰かに向けて自分を語ること、その場所が保たれること、この状況下ではまずはそれを願うべきかもしれない、とも今思った。

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不確かさと沈黙

ほんと言うだけなら簡単、と私も思われているに違いない。してもいない経験をまるでしたかのようにいうことには相当の注意を払っているつもりだが、経験をするということがどういうことかということも常に問い直される。

ひどく痛むのに「ここだよ」と痕すらみせることができない傷、もはやどこにも起源を見出せない痛み、精神分析は痕跡について特殊な理解を示してきた。一見因果論にみえるかもしれないそれは触れればそうでないとたやすく知ることになる。

これはこうだと決めることはできない。確定した途端にそれが錯覚だったと気づくような不確かさに触れ続ける体験は精神分析に独特のものだろう。どっちにもいけない場所で自分を感じ続けること、精神分析家になる訓練が必然的にもたらすはずのその痛みを十分に生きることであるとしたら「真の」精神分析家などいないのではないか。その懐疑とともにそこにいる以上はともかくも死んではいないということだろう。

饒舌な語り手の前に沈黙し、上書きされ累積する痛みに身を沈めること、判断を保留し、自分に閉じることで開かれること。いずれ、と願うばかりの毎日にもいつか、と思えるようなささやかな出来事が今日もありますように。

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無力

人との「つながり」がいかに理不尽なものか、私はわりといつもそればかり考えているような気がします。コロナ禍では特にそうです。そのせいか何かと押しつけを嫌います、今は特にかもしれません。もうちょっとゆっくり考えさせてほしいと思うこともしばしばです。自分の押し付けがましさを棚に上げてと言われるかもしれないけれど、少なくとも私は治療者としてはそれに対しては意識的なほうだと思うのです、多分(自分のことは自分ではわからないのでまだ訓練中の立場です)。

ウィニコットという英国生まれの精神分析家がいます。

彼は『情緒発達の精神分析理論』という本で「交流することと交流しないこと」について書きました。

英語だとCommunicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites (1963)

書名はThe Maturational Processes and the Facilitating Environment: Studies in the Theory of Emotional Developmentです。

ウィニコットは英語で読むことが大切だと思っているのでがんばって英語でも読んでいます。

冒頭にはKeatsがBenjamin Baileyに当てた手紙からの引用があります。

Every point of thought is the centre of an intellectual world (Keats)

ウィニコットもたくさん手紙を書く人だったそうです。そしてこの文章は私がこの論文で最も好きな箇所で再び繰り返されます。

I suggest that in health there is a core to the personality that corresponds to the true self of the split personality; I suggest that this core never communicates with the world of perceived objects, and that the individual person knows that it must never be communicated with or be influenced by external reality. This is my main point, the point of thought which is the centre of an intellectual world and of my paper. Although healthy persons communicate and enjoy communicating, the other fact is equally true, that each individual is an isolate, permanently non-communicating, permanently unknown, in fact unfound.

いつも考えていることの大半はこの文章に集約されている気さえします。ウィニコットが何を持って「健康」とするかはともかくいわゆる「普通」と言い換えてもいいかもしれません。

肝心なのはthe other fact以降です。an isolateである私たち(=私)、これを維持することは生きているということの本質をなしているように思います。

コロナ禍において断たれたつながりは私に改めてその理不尽さを知らしめました。コロナというウィルスは誰のせいでもなく広がりました。そしてそれに対する無力に耐えられなかった集団化した思考の行動化によって私たちは無力でいることさえ許可が必要になった気がします。それもまたひどい無力感の現れですが。

偽りの「つながり」や「連帯」がan isolateである私たちを、本来誰からも見つけられることのない不可視であるはずの私たちを剥き出しの状態にしたともいえるでしょう。

今はただこういう抽象的な言い方しかできません。もちろんこれは具体的な体験に裏打ちされている感覚です。しかし精神分析は渦中にあるものがいかに潜在性を帯びているかに驚かされてきたはずであり、その事後的な発露を待ち続けるような学問でもあると思います。

だから私は判断を最大限保留したいと思っています。それは思考や情緒が無駄に波立つことを抑えるためではなく、むしろ逆で、刻々と時は過ぎ、老いていく自分にはその時間を同質に引き延ばすことなどできないと感じながらその無力にとどまることが大切なように感じるからです。

それぞれの「孤立」が守られること、私のそれを私自身が裏切らないこと、不安な毎日が続きますがこの無力を抱え込みながら過ごすこと、まずはそこからと思っています。

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友人が好きな歴史小説を教えてくれた。早速Kindleで買って読み始めた。本に限ったことではないが、その世界全体を見渡そうにもそれは海を眺めるようなもので「ここからみた景色が好き」と連れて行ってくれる友人はありがたい。ありがとう。

一方、ただ海を眺めるときの様々な情緒の揺れや混じり合いは独特でほかの行為では得難く時折とてもそれを欲する。

歴史小説にあまり馴染みがないせいか、まずは登場人物の関係図が頭に出来上がるまでに時間がかかってしまった。まぁこれも歴史小説に限ったことではないが、私の場合。

時代ものと言えばいいのだろうか、私は藤沢周平を敬愛しておりいつも手元に置いている作品がある。以前、ここかどこかでそれについて書いた気がする。

同じ土地に生きていてもそれぞれの日常がある。それはごく当たり前のことだ。

藤沢周平の作品でもモチーフ自体が斬新だったり、いつも何か新しいことが起きるわけではない。どれもこれも小さなまちで寝起きしている男女の日常が描かれているだけ、といわれればそんな気もする。しかし、彼らは生きている。激情を、諦めを、嫉妬を、殺意を、愛しさを。

海が海でしかないように言葉にしてしまえばそれはそれでしかないのかもしれない。それでもそれは「それぞれ」のものでこころ模様ほど多様で複雑なものはない。

藤沢周平の流麗な文章は、めくれたりとじたりする「それぞれ」のこころのひだを私に体験させ沁み渡らせる。

歴史も海も人も全体をみわたそうとすれば途方に暮れる。

精神分析を体験している人はその途方もなさに唖然としたことがあるだろう。自分のこころなのにあまりに・・。

精神分析は、毎日のようにカウチで自由連想をすることを基本原則とした。だから今日、せめて明日、刻々と色合いを変える自分のこころの「今ここ」の描写を、ひとりでは難しいからふたりで、と考えた。

途方もない自分のこころの全体性あるいは潜在性を信じ、自分自身に丁寧に関わることでこんな困難よりは少しはましな生き方をしたい、そう願う人は少数かもしれない。なぜならその営み自体もまた困難を伴うから。

藤沢周平は、自分のこころの動きに押し潰されそうになりながら小さな理解と小さな諦念のもと悲しみと清々しさと共に小さな一歩を踏み出す「普通の」人たちを生き生きと描き出す。

傷つきや困難を伴わない関係性などおそらくないのだろう。

海を見たい。いずれいつかの週末に。少し足を伸ばせばいける場所にあるのだから。

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『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』からの連想

吉川浩満さんの『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』(ちくま文庫)が即重版決定だそうです。パチパチ。おめでとうございます。

ちょうど「食い違い」や「論争」について考えていたときに再読の機会を得たのは幸運でした。というか、これらは常に身近すぎて考えざるを得ないことなのですが。

この本は2014年刊行の名著の文庫版です。生物の進化を「生き残り」ではなく「絶滅」という観点から照らし直す本書、サイズと装丁はかわいらしいですが、増補新版ということで収録された書き下ろし付録「パンとゲシュタポ」のインパクトもすごく、直線的な思考にうねりをもたらしてくれます(私にはありがたいことでした)。

やはりこれは読まれるべき本です。

私はなんでも精神分析を通じて考える癖があるのでバイアスがかかっていると思いますが、正反対の読み方とかはしていないと思います、多分。でも自信がないので一応その可能性は残しながらの再読と連想です。

ここではただ連想を書いているだけというか、この本を読んだら結局また精神分析のことを考えてしまったというだけなので、本来なら省いてはいけない文脈を省いてしまっています。

だからぜひ読んでいただいて共有したいのですが、この本に登場する科学者たちの「個人的事情」=「学問=科学と人生の無関係の関係があらわになる場所」=「「ウィトゲンシュタインの壁」が立ち上がる場所」は彼らがそこで体験した引き裂かれるような痛みを感じさせます。

そしてそこを私たちが目指す場所として位置付け、私たちの態度を問い、May the Force be with you(そうは書いていないですが)と著者は祈ってくれているようです。

おそらくこの本を書くこと自体、その痛みにどうにか持ちこたえるプロセスだったのではないでしょうか。今回の文庫化を期にさらに多くの方がこの本と共にあらんことを、と言いたくなります。ダークサイドの話は今回書き下ろされた付録「パンとゲシュタポ」をぜひ。

さて、すでに別のところで呟きましたが、吉川さんが終章で示した「理不尽にたいする態度」(文脈必要ですが突然取り上げます。すいません)はあれかこれかではない思考、簡単に言えば多様性を集団が維持するための手がかりとなるように感じます。

私たちは「この世界に内在しつつ、世界に関わっている者」同士、互いを少し侵食しながら語らうことをやめられないでしょう(今「寄生獣」という漫画を思い起こしましたがそれはまたちょっと別の話ですね)。

だからこそ「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という「理不尽にたいする態度」はたとえそれに対して勝利を謳うものがいたとしても「負け」にはなり得ず、自分が生きるため、同時に相手の内側で蠢き続け動かし続けるための動力として機能するのではないでしょうか。

私は精神分析を「信頼」し実践している立場なので他者の体験あるいは出来事に大雑把な言葉を与える人には「執拗に」物申したい気持ちになることが時々あります。実践においては私は物申される立場でもあります。

精神分析においては自分の分析家がその対象として最もふさわしく、自分の情緒は分析家の身体とこころ(転移ー逆転移の場)を通過して自分に帰ってくるため(おおよその対人関係はそうかもしれませんが)、最大限自由であろうとするならばそこが安全ということで、カウチ 、自由連想という設定の必要性もそれと関連しているように思います。

同時に、最大限自由であるということは、そこが危険で苦闘の場にもなりうるということでもあり、カタストロフィックな体験によって自己が変容するというモデルをとるならば、その場は常に両方の性質を持つと考えられるでしょう。

ちなみに本書においてカタストロフとルビがふってあるのは「大量絶滅事変」であり、「大量絶滅事変は、後継者たちに進化的革新(ルビはイノベーション)のための作業場(ルビはワークプレイス)を提供する。そしてそれは進化的革新の内容を指示(ルビはディレクション)することはないものの、その可能性と限界を規定(プロデュース)するのである。」(p78)と書いてあります。規定はプロデュースなのですね、なるほど。

精神分析においてカタストロフは自分の内側で生じます。

そして、そこでの体験をトラウマにせず生き直しの機会として体験するためには実在する第三者の介入に対して脆弱ではない、二者関係における第三者性をお互いの内側に宿らせることが必要になると思われ、そのプロセスは必然的に長期にならざるを得ないかもしれません。

さらに、精神分析における出来事は常に事後的で予定調和はあり得ないという考えを維持するのであればそこは名付けようのない場所であり、現象の描写にしかなり得ないはず、と私は考えて文章を書いたりしています。

突き当たる壁をなかったものにせず、そこに留まろうとするプロセスにおいて両者の間に常に蠢いている他者、私はこれが「理不尽にたいする態度」が形を得たものとイメージしました。対話を志向するとき、そこを別々の二人の場とみなすのか、互いの一部が重なり合う場とみなすのか、前提はプロセスを左右するかもしれません。

そしてウィニコットが言ったように、という連想になっていきそうですが、時間がきてしまいました。再び良書に出会えたことに感謝します。それではまた。

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自転車と親子並行面接

オフィスのそばの自転車屋さんへ行った。学生時代に新宿で買ったマウンテンバイクもどき(マウンテンバイクなのかも)はもはや枠組以外残っていない。長い年月を経て様々な部品を交換しながらも原型を保っているこの自転車がちょっと愛しい。最近、ずっと乗っていなくてごめん。

枠組みは大切だ。

2020年、私が子どもと親御さんの心理療法を行っているクリニックのメンバーで本を編んだ。『こころに寄り添うということ 子どもと家族の成長を支える心理臨床』(金剛出版)という本だ。院長を中心とした日々の試行錯誤を仲間たちとこうして形にできたことは喜びだった。それぞれがそれぞれの技法でそれぞれの患者と実践を積み上げてきた痕跡がそこにあった。

私はそこで親子並行面接を取り上げた。「クリニックにおける心理療法の実際」の「第5章親子並行面接という協働」という論考である。社会人になってはじめて勤めた教育相談室時代からこの枠組みはずっと私の実践にある。多くの親子の「子担当」、あるいは「親担当」になり、私は先輩方と協働していた。慶應心理臨床セミナーに出始め、児童精神科医にスーパーヴィジョンを受け始めたのもその頃だ。まだ「親子並行面接」そのものを問うてはいなかった初期の初期。

その後、20年、実践を重ねるにつれ、この枠組みの意義について疑問を持つことが増えた。教育相談室をやめたあとも親子の心理療法を担当する場は持ち続け、この枠組みとはともにあった。今回論考を書くにあたり、テーマはあっさりと決まった。

昨日もここで、精神分析は、こころのなかに複数の人を住まわせる作業だと書いた。私は、集団をひとつのパーソナリティとみなすと同時に、個人のパーソナリティを複数の自己と対象からなる集団とみなす、というビオンのアイデアを援用し、親子並行面接という枠組みを見直してみた。

親子並行面接はこころの複数性に形を備えたものであり、それぞれが緩やかにつながりを維持することで、子どもと親のこころが安全に重なり合う場として空間的に機能する、というのが私の概ねの主張であり、論考ではそれを事例を用いて示した。

店には美しいフォルムのかっこいい自転車がたくさんあった。私の古ぼけた自転車も当時はそこそこ素敵でたくさん褒めてもらった。スクールカウンセラーをしていた学校の嘱託の先生は自転車乗りで、私の自転車を気に入ってくれてメンテナンスの仕方を色々教えてくれた。一緒に100キロ走ったこともある。若かったな、と今思ったが、彼は当時すでに還暦を過ぎていたわけで、若さの問題ではなさそうだ。

「これとっちゃっていいですか」若い店員さんの声に振り返る。手を黒くして作業してくれている。すでに本体のない台座を彼は指差していた。昔つけたスピードメーター、そのセンサー、最初につけたライト、2番目につけたライトなどなど。台座という痕跡が本体の記憶を蘇らせ、思い出を再生する。こんなに痕跡を残したままだったんだ。少し可笑しくなって笑いながら答えると店員さんもつられて笑った。

タイヤもサドルも当時とは違う。なのに見かけは当時のままだ。だいぶ黒ずんだけど。強固な枠組みは痕跡を抱え、私の年月を抱え、思い出を作ってくれた。私はこの自転車でとてもたくさんの場所を走った。昨日も自転車をとめては降りずに写真を撮った。曇り空の向こうに残る水色の空と夕焼けがきれいだった。

オフィスのある初台は昔住んだ街だ。当時とは街並みも変わった。商店街の名前は当時のままだ。あの頃から乗り続けているんだな。あれから何人の人と出会い、別れてきたのだろう。

これまで出会ってきた親子の多くはもうすでに別れているだろう、物理的には。当時子どもだった彼らはもうすでに子どもではないのだろう。当時すでに親だった彼らはきっといまだに親であり子どもでもあるのだろう。

私は教育相談室時代の仲間と今も緩やかにつながり、コロナ禍においても支えあった。私たちは彼らとの共通の思い出がある。いろんなことがあった。この論考も読んでくれた。まだ同じことを考え続けていることを褒めてもらった。論考に「協働」とつけたのはまさに彼ら彼女らとの仕事がそうだったからだ。

私たちは親子、あるいは大人と子どもという枠組みを維持したまま世代をつないでいく。緩やかに繋がりながら痕跡を残し、壊れたり、壊されたり、修復したり、捨てて新しくしたりを繰り返しながら日々を過ごしていく。この自転車ともいずれなんらかの事情で別れるのだろう。もう危ないからやめなさい、と言われまではメンテナンスを繰り返していろんな道を走りたいと思う。

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True Colors

Cyndi LauperのTrue Colors、思春期のあたたかな思い出だ。THE BLUE HEARTS「少年の詩」もあのカセットには入っていた。♪1.2.3.4 5つ数えてバスケットシューズがはけたよ♪

私はバスケ部だった。大好きでいつもそのことばかり考えている。バスケはそういうものだった。精神分析は今もずっとそうだ。これからは俳句もそうなっていくかもしれない。〆切までに出すのが精一杯だけど。

人が人を想う。言葉だけならすでに使い古されているかもしれない。私はチームスポーツが好きだ。組織での訓練にも大きな価値を見出している。喜びも悲しみも苦痛も絶望も希望も終わってみれば全て夢のようかもしれない。それでも生きている限り、それらは私たちのこころを彩り続ける。

そばにいてもわからない人のことを想う。電話越しでも伝わってくる人のことを想う。会えない距離の人のことを想う。明日会えるのに囚われてばかりの人のことを想う。

精神分析は複数の人をこころのなかに住まわせる仕事だと以前にも書いた。私はあなただったりあなたは私だったり彼や彼女が私やあなただったりする。あの時の場面、あの時の出来事が、今ここと交差して立ち現れる。

思春期はまだ幼い。それまでとは異なる性愛の世界の入り口で身体もこころも戸惑っている。私は何者なのか。それはこれから先も長い間あなたを悩ませるかもしれない。

問い直し、出会い直す。痛みも多い作業だ。それでも人は人を想う。想われた記憶がふと現れるとき、想う私も現れる。それがないならここで紡ぎ、編み出していく。

大切な曲がたくさん詰まったカセットテープをもらった。小さな几帳面な字で曲名が書かれていた。「シンディー・ローパー/True colors」。今はApple Musicで聴くこの曲も探せばあのカセットテープできけるだろう。

I see your true colors and that’s why I love you.

忙しない日常を今日もはじめよう。また思い出すことはできるだろうから。

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精神分析的心理療法とは

臨床心理士になって20年、様々な領域の職場で働きながら、毎週1回、同じ曜日、同じ時間に会う面接を続けてきました。今は、週1、2回、あるいは4回、患者さんやクライエントと、カウチあるいは対面で、自由連想の方法を使って行う面接がメインですが、当初は、固定枠を持てる職場は少なく、週一回固定枠では10ケースも持っていなかったように思います。ただ、少しでもそれを持てたことは本やセミナーで学んだことに実質を与えてくれました。

そして、そこを基盤にして細々と、限られた資源の中で、そこを環境として安全な場所にしていくこと、何が人のこころを揺らしたり脅かしたりするのか、ということを考え、何を提供し、何を控えるかなど、構造化、マネージメント、コンサルテーションの重要性に気づき、試行錯誤を重ねていきました。

30代になると、自分も週1日、2日の精神分析的心理療法を受け、スーパーヴィジョンを重ね、自分自身も多くのケースを担当するようになり、ようやく精神分析的心理療法ってこういうものなんだ、ということを実感できるようになりました。

さらに、精神分析家になるための訓練に入ってからは、そうやって少しずつわかってきた精神分析的心理療法を基礎づけている精神分析と直に触れるようになり、フロイトの症例にも精神分析を生み出した生の体験として出会い直し、開業し、実践を重ね、それらに通底する精神分析の普遍性を感じることができるようになってきました。

精神分析はとても長く、苦痛を伴う体験ですが、驚きの連続でもあります。それを「美しい」体験という人もいます。

このように精神分析を体験しながら精神分析や精神分析的な実践を行なうと、それらはこれまでよりもたしかな技法として手応えを持ち始めました。職人と同じで、訓練を受けている人の指導を受けながら見様見真似で行なってきたそれは、言葉にしてしまえばとてもシンプルなもののような気がしています。

以下はプライベートオフィスでの精神分析的心理療法をご希望の方に向けたご案内です。オフィスのWEBサイトにも載せています。https://www.amipa-office.com/cont1/main.html

たどり着くのはいつもシンプルなことなんですね(これも実感)。

ーこんな場合にー

人は誰でもなんらかの違和感や不自由さを抱えています。
それがあまり気にならない方もいれば、それらにとらわれて身動きが取れなくなっている方もおられるでしょう。

当オフィスでは、もしそのようなことでお困りの場合、ご自身のとらわれについて考え、変化をもたらしていく方法として精神分析的心理療法をご提案することがあります。

ーたとえばー

たとえば、いつも自分はこういう場面で失敗する、いつも自分はこういう人とうまくいかない、と頭ではわかっているのに苦しむばかりだったり、その結果、不安や抑うつなどの症状を呈したり、なんらかの不適応をおこしている場合、かりそめの励ましやその場しのぎの対処ではもうどうにもならないと感じていらっしゃる方も多いでしょう。

そのようなとらわれたこころの状態から自由になりたい、別の可能性を見出したいとお考えの方に精神分析的心理療法はお役に立つと思います。 

ー方法ー

この方法は、自分でもよくわからない自分のこころの一部と出会うために、こころの状態に耳を澄まし観察してみること、そして頭に浮かんできたことを特定の他者にむけて自由に言葉にしてみることを大切にします。 

ひとりではなく他者とともに、みなさんがより自分らしく生活していくためにそのような時間と場所をもつことはきっと本質的な変化と新しい出会いをもたらしてくれることでしょう。 

ーアドバイスは難しいー

同時に、この方法は、考え方や対処方法にいわゆる「正解」があるとは考えていないことを示してもいます。
そのため即効性のあるアドバイスを必要とされる方にはお役にたてないと思います。

アドバイスというものはとても難しく、「一般的にはこうかもしれない」ということはお伝えできても、単に個人の主観的な意見を押し付けてしまう危険性を孕んでいるように感じます。 

法律に反することなどはお互いのために禁止事項になりますが、生き方、考え方については誰かが答えを持っているわけではないと私は考えております。 

そのため、問題を整理したうえで一般論をお伝えすることはありますが、それ以上のアドバイス、ましてや「即効性のあるアドバイス」は難しいと思うのです。 

ー定期的で継続的な時間、少なくないお金を必要としますー

また、精神分析的心理療法の場合、ある程度長い期間、定期的で継続的な時間(週1日以上)を維持することが必要になるため、お受けになる方にも一定の時間を確保していただく必要があり、それに伴うお金も必要になります。

ー別の方法をご提案させていただくこともありますー 

このようにコストがかかるうえに、これまで知らなかった自分の一部と出会い、情緒的に触れ合うプロセスは決して楽ではないため、状況や状態によっては負担が大きく、ご希望されても始めないほうがよい場合もありうるでしょう。

そこで、ご自身の現在のこころの状態が必要としているものを明らかにするために、最初は見立てのための面接を数回行うことにしています。 

そのうえで精神分析あるいは精神分析的心理療法をご提案することもあれば、別の方法をご提案したり、別の機関をご紹介することもあります。

まずはそれぞれのお話によく耳を傾けることから始めたいと考えています。 

ー低料金での精神分析ー
週4日か5日、寝椅子に横になって行う精神分析をご希望の方は、
私は現在、精神分析家候補生ですので通常より低料金でお引き受けしております。

日本精神分析協会のHPもご参考になさってください。
http://www.jpas.jp/treatment.html

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精神分析とはなにか

精神分析ってなんだろう。ということについて色々考えます。今のところの考えは「精神分析と○○」シリーズ(なんとなくそんな感じで書いてきたこれまでの記事を集めただけだけど)としてオフィスのHPにまとめました。

先日、中公新書ラクレから出たばかりの『ゲンロン戦記』(東浩紀)を読んでいました。副題は、「知の観客」をつくる。私は東浩紀さんの本もそうですが、「ゲンロンカフェ」という開業哲学者、開業批評家としての彼の実践に関心を持って応援してきました。

東浩紀さんがいう「観光客」という概念は、精神分析を語るときにも重要です。

私はゲンロンや哲学の結構良い「観光客」であり「観客」だと思っています。彼らのことを人としてはよく知りませんが、私にとってそれは重要ではなく、彼らの思考や活動に触発され続けているものなので、その内側にいけなくてもずっと支えていきたい知がそこには存在するように思います。

ところで、そこにはいってみてはじめて「知らなかった!」と驚く景色があります。

東さんがチェルノブイリにいわば素人として降り立って知った、ガイドブックにはあったけどその姿を知らなかった景色、私も旅をするのでそのような驚きをたくさん体験してきました。

精神分析もまた、多くの「観光客」を持つ「知」のプラットフォームです。ここでいう「観光客」は、精神分析を受ける(単に「する」が正解かも)、という体験をするより、精神分析家の本を読んだり、ファンになったり、精神分析に触発されていろんなことを話し合ったり、そうやってゆるい繋がりを維持している人たちのことです。

そしてその人たちの存在こそが精神分析という文化を維持しているように私は思います。私がゲンロン友の会にはいったり、本やアーカイブを購入し、そこに触れ続け「観光客」であり続けることでその一端を担っていると感じるように。

精神分析家になるという選択をする人はそれほど多くないでしょう。哲学者になるという選択と同じです。内側での作業はひどく孤独なものですが「観光客」の存在が励みになります。私はそのマイナーな立場から彼らに注意を向けて精神分析という体験を少しずつ対話的な言葉にしていけたらいいなあと考えています。

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フロイトを読む


noteで一番読まれている記事。みなさんがフロイトに関心があるのなら嬉しい。精神分析のアップデートの基本作業が「フロイトを読む」だと思うから。

以下はなんとなく書いたnote引用。

「フロイトを読む」という試みは世界中でいろんな方法で行われている。

私がフロイトと出会ったのは随分前で、子供の頃から「夢判断」(今は「夢解釈」と訳されている)は知っていた。自分で読みこなしていたわけではなく、大人が引用する部分を耳で聞いていたわけだが、夢には無意識的な意味があるということは、子供の私にもごく自然に、なんの違和感もなく受け入れられていた。私に限らず、夢の意味を考えるということはクラスでもテレビでも本でも普通に行われていたことで、「無意識」は現在の精神分析がその用語を使用する以上に生活に浸透していたのだろう。

あえて取り上げると物議を醸すというのは精神分析臨床ではそうなのであり、有るというならエヴィデンスを示せ、というのは、愛情でもなんでも多分そうなのである。そしてそれが不可能であることも大抵の人は承知しているはずで、だから切なくて苦しいのに、精神分析はいまだに厳しい批判に晒されている。でもフロイトの意思を継ぐ者はその人だけのこころが可視化するのは生活においてであることを知っている。

またもや適当なようだけどそんな気がするな、私の体験では。

月一回、私の小さなオフィスでReading Freudという会を行っている。少人数で1パラグラフずつ声に出して読み、区切りのいいところで止め、話し合い、なんとなくまとまりを得て、また読み進める。この方法はとても有意義で、声のトーンやスピード、フロイトの書き言葉との向き合い方はわからなさに持ちこたえようとするその人なりの仕方をあらわしているようでもある。

随分前に、小寺記念精神分析財団という、精神分析及び精神分析的心理療法の知識的なことを学べる財団主催の臨床講読ワークショップというセミナーでフロイトを系統立てて読むようになった。このセミナーは毎月一回、平日夜の3時間、フロイト論文を一本、それと関連する現代の論文を2、3本読むというものだった。

このセミナーは私がやっている小さな読書会と違って20人ほどが参加していて、毎回担当を決めて、レジメを作り、この時間内でそれをもとに議論をするという形だった。日本の精神分析家の福本修先生が論文の選択と解説をしてくださり、数年間でかなりの数の論文を読むことができた。フロイトを中心とした現代の精神分析家のマッピングが自分なりにできたのはとてもよかった。

キノドスの『フロイトを読む』(福本修監訳、岩崎学術出版社 http://www.iwasaki-ap.co.jp/book/b195942.html)はこのセミナーのメンバーが訳したものである。私が参加する以前のメンバーなので私は翻訳に参加していないが、この本はフロイトを読むときのお供として活用すると精神分析概念を歴史的に学ぶことができ、何年にも渡って加筆するフロイトの思考の流れを追いやすくなる。

サンドラーの『患者と分析者』(北山修、藤山直樹監訳、誠信書房http://www.seishinshobo.co.jp/book/b87911.html)のような教科書もコンパクトに重要概念とその歴史、現代的な意義がわかってとてもおすすめだが、まずは「フロイトを読む」、精神分析に関わるときの基本の作業はこれだろう。

とか書いているが、私は読んでもすぐ忘れてしまう。もうずっとそうなので、読んだときのインパクトが大事、精神分析ならなおさら内容よりインパクトが大事、だってそれは無意識が揺すぶられた証拠だから(言い訳かも)、と思って読んでは忘れる、をそのつもりなくり返している。


私たちのReading Freudで現在読んでいるのはウルフマン症例、「ある幼児神経症者の病歴より」である。使用しているのは『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』だ(藤山直樹監訳、岩崎学術出版社 http://www.iwasaki-ap.co.jp/book/b341286.html)。

1910年にフロイトが出会ったロシア人貴族である男性。この患者がみた夢から「ウルフマン」と名づけられた。あまりに有名で、関連文献もたくさんでているこの症例論文、当然私も何度か読んでいる。そしていつも通り忘れていた。

ひとりひとりが全く異なる声で、1パラグラフずつ読んでいた。私は読まれ方で喚起された疑問などをぼんやり考えながら聞いていた。その日はちょっと眠くて「夢」という言葉が出てくるたびにうんうんと夢見がちになっているのを感じた。

章で区切って、とりあえず書いてあることの理解を手助けしながら意見を聞いていたら、なんだかこれまであまり感じたことのない感慨に耽ってしまった。

宗教からして、言葉からして、身分からして、とにもかくにもいろんなことが違いすぎる。病歴も大変すぎる。方言だって理解できない私が、まるで違う環境を生きてきた彼の体験を追体験することは到底できそうにない。

なのになぜだろう。話をしているうちにやはり私たち(私だけではないと思う)はこの症例に身近さを感じてしまう、視覚像を共有したような気がしてしまう、普遍的な情緒を、こころの動きを捉えてしまう。少なくともそんなときがある。それはフロイトの思考に導かれているからだ、逸脱も含めて。どうやら私の感慨は、精神分析がもつ普遍性に対するこれまでとは異なる水準の気づきだったらしい。知らんけど、といいたいけど。

この多神教の国、日本においても精神分析が生き残っているのは、この普遍性ゆえに違いない。この普遍性は確実に、私(たち)が精神分析臨床に持っている信を支えている。たぶん。

以前も書いたが、フロイトの著作の翻訳に完全なものがありえず、それが夢解釈と同様に多義的で、精神分析と同様に終わりのない作業であることから示唆されるように、精神分析がもつ普遍性というのは関わり続けることで生じる変容可能性であり、身体の死を超えてなお生き残るなにかなのではないだろうか。

夢見がちでこんな感慨に耽っただけかもしれないが新鮮な体験だった。

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保育園巡回というお仕事

若い保育士たちと対等に仕事を共にできるのは他職種だからだろう。

彼らは現場の切迫感でこちらと対峙する。みてもいないようなこと言うなよ、という迫力を感じることさえある。

違和感に敏感で、傷つきながらもそこに居続け、笑えない状況だとしても遊びと生活を絶え間なく提供する。そういう役割を毎日生きている。あるいは生きようとしている。保育士の仕事は過酷だ。

一方、外部から短時間、年に数回出向く私の役割はかなり限定的だ。というよりむしろ限定的であることを意識し、どこを切り取っていくかを観察によって短時間でアセスメントしていく必要がある。今は様々な保育園の形態や動きがわかるので集団力動も読みやすい。でもこの現場の事情に慣れるまでは苦労した。

限られた時間でおこなう支援は、見かけはのんびりと静かに、しかし実際は現場のスピード感を邪魔しないようやりとりをする必要がある。自分の持ち物と役割を自覚することが大事と感じる。

いくつかの中学校でスクールカウンセラーをしてきたが、保育園のスピード感は育児のそれであって、時間と空間を構造化するスキルは欠かせない。症状や障害のある子どもの行動観察、テストを取りにくい子どもに対する臨機応変な態度、15分間インテークで身につけた聞き方、何かしら役立つものをシンプルに言葉にする努力、などなどこれまで体験から学んできたことを総動員し、反応を確かめつつ、お互いに試行錯誤しながらなんとかやってきた。もう何年になるのだろう。

「先生がくる日はいつもと全然違う」

多くの巡回相談員が言われる言葉だ。

普段の姿を見せたい保育士が、小さな子どもの手を取って笑いながらそういえるような関係はいい。本質はそこではないと彼らはすでに知っている。

私をみて泣き出す0歳児に「人見知りするようになったんだよね」と優しく抱き上げて報告してくれる関係もあたたかい。

私たちは年に数回、合わせても数時間しか会わなくてもお互いの仕事を知っていく。

0歳児からの最初の数年間、子どもたちの成長はこちらの予想を裏切り続ける。大きく見れば本に書いてあるようなことが起きているだけと思われるかもしれない。でもここで起きていることは今ここの関係でしか見られないとても個別の現象だ。

毎年0歳児から5歳児まで新たな子どもたちを迎えながら、毎年毎日、同じように戸惑い、ときに荒ぶる気持ちを抑え、彼らの仕草に笑い、一緒に手をたたき、成長に驚き続ける。

数年も付き合っているとお互いの仕事が浸透しあって観察はさらに精緻になる。真剣な遊びのように共に仕事をする。その点では精神分析と同じだ、と私が思うのは、私の持ち物がそれだからだろう。

多くの人に、多くのことを習ってきた。習うより慣れよ、というより、習い、慣れる、をひたすら繰り返し、特定の文化に所属し、浸透するように型を身につける。0歳児の苦闘に戻ったような、その頃の視線や腕を思い出すような、そういう体験をこの年齢になっても積み重ねている。そこで得る得難い想いは小さな彼らのそれであり、若い彼らのそれとも重なり合うのだろう。

保育園に通い、子どもたちや保育士たちと「遊ぶ」ように仕事をする。保育園巡回はそういうお仕事なんだろう、私にとって。

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歩きながら撮る

相変わらず歩きながら空ばかり撮ってる。

山手線を降りて人混みを縫いながらオフィスへ向かう。新宿パークタワーの三角の屋根が空を指している。モノクロの夕暮れに向かってぼんやり歩いていると、時々後ろの人がぶつかりながら追い抜いていく。さっきよりもっと端のほうをだらだら歩く。

文化服装学院のほうに出ると道が開ける。西新宿は東や南と比べると同じような色が多いが、この辺りは華やかだ。

さっきよりモノクロの夕暮れに近づいたが、グレーの雲の濃淡ははるか彼方まで続いている。少し圧倒された。あの明るい鱗雲はどこへいってしまったのだろう。美しい水色に規則正しく並ぶ白い雲たち。立冬を過ぎた頃から感染者数が増え始めたが、その頃はまだそんな空が見られた気がする。

外灯で少し不自然に輝いている銀杏を見上げる。銀杏にも個性があって、日当たりなど環境との相互作用で色づき方は異なるという。高層ビルが好き好きな高さで建つこの街の銀杏を見ているととても納得がいく。

店の窓はクリスマスの灯りが増えた。この時期、西新宿の高層ビルにはいつの間にか大きなクリスマスツリーが現れる。オフィスを構えてからは、毎年11月に東京オペラシティのサンクンガーデンでの設営場面を見るようになった。

20年以上前、できたばかりのオペラシティを通って家に帰っていた。あの頃、一階にはドーナツ型のソファがいくつかあって、この時期になるとその真ん中にサンタクロースが置かれていた。

西新宿からも多くのベンチが撤去された。居場所を減らすことで成立する美しさとはなんだろう。

色々な色、色々な形のコートがあるものだ。まだ大きなマフラーを巻いて身をすくめるように歩いている人は少ない。上着の前も開けたまま俯き加減に、あるいは賑やかにおしゃべりをしながら女性たちが通り過ぎる。数人は新宿駅へ続く地下道へ消えていった。

まだ肩パッドが流行っていた頃の私のコートはパッドを外してもかっちりした形を保っている。これパッドの意味あったのかなと思うこともある。このコートを着ると自分のシルエットが長方形になってしまいちょっと可笑しい。背の低い私には大きすぎるような気は最初からしていた。よって着こなせず、たまにしか着なかったからまだきれいだ。でもなぜか今年はこればかり着ている。年齢がこの形に追いついてきたのかもしれない。

前方からは仕事を終えたらしきスーツ姿の男性たちが横に広がったまま向かってきた。数年前の学会で同じ学派の先生方がこんな感じで歩いてきた場面を思い出した。オーシャンズ11みたいだ、と思ったんだ、そのとき。

今年はコロナで学会なくなったけど。

道で偶然出会った年配の女性とおしゃべりをした。とても80代には思えない身のこなしで前から歩いてきた彼女にすれ違いざまに気づいた。あまり体調がよくないらしい。人を蝕むものはコロナだけではない。

お金の問題についても考えていた。オフィス街では私が一生体験することがないであろう金額の話が飛び交う。お金も人を蝕む。誰でも座れるベンチが撤去されていくように。

こころをお金で語ったのも精神分析だが、フロイトはかなり切実な問題としてこれを扱った。

精神分析家になるためには訓練が必要である。国際精神分析協会(IPA)の基準と他の団体のそれでは異なる点があるが、なんにしてもそれに「なる」ためには精神分析を受ける体験が必須だ。長い歴史に支えられた組織で長期間、ある型を自分のものになるまで身に付け、かつその少し先を見据えるために鍛錬を積む。目には見えないが手応えのある環境として、存在として、自分を提供し、かつ自分の生活を維持していくために、莫大なお金と時間をさいて修行する。提供できる自分になるために。育てる自分になるために。それは痛みにしか感じられない場合もあるけれど、もしそうならその痛みを体験する自分にじっと注意を向ける。痛みを通じて学ぶことは多い。今大人気のアニメたちもそれを描き出している。もちろんそれらが光と闇で描き出すように、痛みが憎しみに変わり奪い取ることで満足を得る自分になる可能性だってあるだろう。憎しみに覆われた彼らが空を見上げている場面はあまり見ない。

もはや運みたいなものかもしれない。精神分析家候補生になるためには訓練分析家からの査定があるが、私はそれをなんとか通過してなんとか候補生としての生活を維持している。しかし、この「なんとか」とか「ギリギリ」の感覚はいつも付き纏う。いつ終わるかわからない日々であること、大切な人をいつ失うか全くわからない日常を生きていること、その不確実さだけがなんとなく私を奮い立たせ、持ちこたえさせる。

「希望」とかたやすくいう人をわたしは疑う。というか私は言わない、たやすくは。あえてそんなこといわなくても今日もなんとかやっている、私はそういう事実を大切にしたい。そこには静かな価値が眠っている。

明日にまた会える。多分。そしたらまた写真を撮ろう。

ところで、一ヶ月前に歩きながら撮ったのはこちら。季節はめぐる。

https://note.com/aminooffice/n/n38ce1485734e

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精神分析

精神分析というプレイ

決めのセリフというと決め台詞と少しニュアンスが違いますね。決め台詞というと「出た!」という感じがするけど(多分それぞれに思い浮かぶ台詞は違うでしょう)決めの台詞というとなんだかもう少し個人に向けられた感じ。そんなことないかもしれないけどそんな気がしました。

精神分析はアセスメントのあと始まってしまうと認知行動療法(CBT)のようにパッケージがありません。なので、その先は個々の患者と治療者の言葉に委ねられていきます。

精神分析は、生きることと死ぬこと、あるいは愛と憎しみの瀬戸際、子どもの性と大人の性の瀬戸際で人のこころを描き出してきました。そこには俯瞰してみれば似たような、近づいてみればまるで違う世界が存在しています。そのため、お互いが使用する言葉も似ているようでまるで違ったりします。決め台詞は共有されないかもしれません。

日本の精神分析家の北山修先生がきたやまおさむとして紡ぐ歌詞と、彼が精神分析家として語る言葉の違いは多くの人に通じる例かもしれません。あえて例を出せばということで、いつも付け加えるように、患者と治療者の二人がその場、その時間に使用する言葉はひとつひとつ全く異なるはずです。

同じ言葉に潜む距離、それが実感されるまでには長い時間がかかります。また、大抵の治療はお金がかかりますが、精神分析はそういった長い時間に伴った多くのお金がかかります。これは、それで生活をしている専門家の時間を買っているから、といえばそうですし、その専門知を、その存在を守るため、といえばそうなのかもしれません。ただ、これらの説明は一面的というか、専門家の側に立った言い方のようにも感じます。もちろん患者はいつでも辞めることができますので、そんなことはしたくないよ、となればやめればいいわけですが。

でもどうでしょう。私たちはそんなにはっきりキッパリした存在でしょうか。むしろ精神分析を受けにくる方は、自分のこころの曖昧でぐちゃぐちゃした部分に困っている方ばかりではないでしょうか。

そういえばこれは北山先生も強調するところですし、お金のことも『心の消化と排出』(作品社)という本に書いてあります。夏のブックフェアで『居るのはつらいよ』(医学書院/シリーズ ケアをひらく)の東畑開人さんも選んでおられたのでご存知の方も多いかもしれません。

お金を払う、お金をもらう、ということについて私たちは普段そんなに意識的ではないかもしれません。私がよく知る心理職の間でも、同じ職種でこんなにお給料が違うのになんとなく理由をつけて済ませていることが多い印象があります。

親子の間でも子どもの側は親がどんなふうに自分にお金をかけているかについてあまりよく知らないでしょう。子どものうちは知る必要もないかもしれません。

子どもの精神分析的心理療法の場合、お金を払ってくださるのは保護者です。ということは、保護者が払わないと決めたら治療はそこで終わる場合もあるということです。そのときはじめてお金の問題が患者である子どもと治療者の間に切実な問題として立ち上がってくることがあります。私は、この局面がとても精神分析らしいと思っています。曖昧さを、どうにもならなさを、どうにかしようともがくふたりにこれまでとは異なる言葉が生まれてくるチャンスだから。切実な問題は二人を切り離しも近づかせたりもするのです。

さて、大人の精神分析の場合も、プロセスは少し異なりますが、時間とお金と言語という、形がありそうなのにあまりに曖昧で多義的なものに患者と治療者は出会っていきます。

もし訓練でこの部分が切り離されたらそれは精神分析ではないだろうと私は思います。セッションの頻度などの変数で比較する以前に。

長い期間、お金を払い続けたり、いただき続けたりするなかでお互いの生を繋ぎながら見えてくるのは、私たちがいかに曖昧なつながりを信じて生きているかということです。そしてそのつながりは関係性によって名前を変えます。それが繋がりになるか搾取になるか、今はこうでもいずれは別の言葉になるのか、こころも言葉も揺れ続けます。とても大変で切ないことです。

精神分析は転移ー逆転移という過去と現在が同期したり切断したりされる時空で行われるものなので、とにかくいろんなことが起きてしまうようです。これはお互いの真剣なプレイであって、「すること」以外には共有の可能性は低く、精神分析におけるふたりのあいだに決めのセリフは多分、ボルヘスのいうように身も蓋もないそれ自体ということになるのでは、というのが今のところの私の仮説です。

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精神分析

同時性

私は、精神分析家について何か書くとき「日本の」とか「今も実際に会える」とかあえて付け加えたくなります。それは「同時性」というのをとても大切に思うからです。同じ国に生まれて、同じ時代を生きて、同じ学問を愛して、同じ場所をともにするなんてとても特別なことのように思いませんか。

 たとえば私は、土居健郎先生とは同じ会場にいたことはあるけれど言葉を交わしたことはありませんし、土居先生の考え方やお人柄などはひとづてや本でしか聞いたことがありません。一方、小此木先生以降の東京の先生方にはご指導をいただいてもきましたし、日本精神分析協会の先生方は特に身近に感じています。だからといって土居先生は遠く感じるということではなく、実際にお会いできたことで遠くは感じないのです。

 私より若い世代の方にとって、小此木先生や土居先生は等しく遠いレジェンドのように感じられることもあるようですが、「実際に同時にここにいた」という事実、そして実際にその場で私が受けたインパクト、それは知らない相手に対して自分勝手に言葉を繰り出すことを難しくします。だから知ろうとする、対話を試みる。フロイトを読むのもそのためです。

 それに、過去の過ちを繰り返してならない、とばかりになされる試みがその過去にすでになされていたことを知ることもしばしばで、そんなときも知るのは自分の無知でしかありません。若いときにはそれこそ若さだからいいと思いますがもうそろそろそういうのはいいかな、という感じがしています。多分、またやるけど。

 同時というのは過去、現在、未来、という直線的な時間軸を超えていく概念だと私は思います。精神分析でいう「今ここ」が単純に「あのときそこで」と対比できないように、それは今より前も今より後も含みこむ生成されつつある時間なのだと思います。だから、私の中で生き続けている実際に同時にここにいた人たちをとても大切に思うのです。

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精神分析 読書

適応と適当

早朝が一番色々捗ります。今日は土曜日ですね。一日中雨かしら。

昨日は色々書いたまま眠ってしまい、内容は昨日仕様だったので消してしまいました。ほんと、画面からって消すのも消えるのも簡単。

でもたとえ私が文章を消したところで私の考えだからまた何かの形で出てくるでしょうし、たとえ私が姿を消したところで私が消えてしまうわけでもないので、何度でもやり直せますね。

でも現実に姿を消したとしたらどうでしょう。社会学者の中森さんの『失踪の社会学』を以前ご紹介しましたが、失踪とかで姿を消されたら辛いな。と、今、私が失踪される方であることを大前提として書いてしまいましたが、こういうのは注意が必要かもですね。「誰にでもありうること」、病気でも障害でも喪失でもなんでも。いや、なんでもはないか。

精神分析はその人のあり方全体を大切にしますが、それだってその人だけのこと、私たちだけのこと、誰にだって起きること、社会全体のこと、全てに関わることであって、単なる密室的なにかではありません。営まれる場はふたりだけのプライベート空間ですが。

精神分析では「適応」を特に目指さなくても治療の副産物として、いや違うな、「適応」というよりは、その人がその人らしさをある程度保ったまま、その場に適当に、ほどよくいられることができるようになります。それは精神分析が、固有のものを大切にすることのなかに社会を大切にすることを含みこんでいるからだと私は思っています。

静かな朝です。朝の暖かい飲み物がしっくりくる季節になりました。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

蝉の死

新宿中央公園はいまだに蝉の国だけど、蝉の死骸もだいぶ増えてきた。仰向けに寝転がるように一生を終えた彼らの透明な羽をきれいだと思った。

この時期なら新宿中央公園への道案内は簡単。「ここをいくと蝉の声が聞こえてくるからそこ」って言える。蝉の声が空間の輪郭を描く。

精神分析はいまだ輪郭を持てずにいるその人の部分に触れる。そこに無理に言葉を与えてしまわないように細やかに注意を払う。そうありたいので訓練する。簡単じゃないけど、いろんなことは大抵簡単じゃない。

蝉は「精一杯生きたぞ」とか思わないで力尽きて死んでいく。それはある意味「力の限り生きた」という感じでもある。

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精神分析 読書

誤配

東浩紀は『哲学の誤配』のなかで、フロイトにこだわる理由を問われ、フロイトとユングの比較をしたうえで、フロイトは個人主義者なので、「人間一人ひとりはバラバラだけど、各自がバラバラの状態で出力したデータを集積すると、データのうえでは集合的無意識が立ち現れる」という東さんの考えとしっくりくる、と答えていました。

 それはそうと、この「誤配」という概念は大変有効で、精神分析のように明確な目的を持たず、特定の問題を焦点化するでもなく、二者でいるのに自分のことばかり語り、沈黙し、感じ、それをまた言葉にしていく作業を連日続けていくというのはまさに誤配をつくり出す作業なのではないか、というようなことを研究会で話しました。

 倉橋由美子的だな、とも私は思っていました。

 ほかにも色々話しましたが、やはり「誤配」概念の射程は広く、精神分析の可能性を示すための補助線になるように感じました。東さんはこの本のなかで誤配は意図的に作り出すのは不可能なので、誤配が起こりやすい状況を作りだせないか、と考えているともいっています。

 精神分析は「先のことは誰にもわからない」という現実を無責任にではなく素朴に言い続けているようなところがあります。「いい悪いではなくて」とか「今ここのことを話している」という言葉も先のことはわからないという現実とつながっているように私は思っています。

 精神分析は、他の人からみたらなんの意味があるかわからない、無駄な時間なのでは、と思われるかもしれません。実際、精神分析を受けたり、実践したりしている側にもそういう思いは生じます。でも「で、だから?」というのが精神分析なように思います。答え、目的、意味って?自分で無駄という言葉を使うなり「無駄って?」と自分に問い直すようなことが起き続けているという感じでしょうか。

 この前、「三度目の殺人」という映画を観ました。ぼんやりとみていたので詳細もぼんやりですが、「それって誰が決めるの?」というような言葉を広瀬すずさんがいっていました。線引きに対して疑義を呈するというのは是枝作品に一貫した態度のような気がします。そうでもありませんか?

 私たちはそんな確かな存在ではないので、というか、私はそう思っているので、いろんなことを感じて考えていつも揺れ動いて、なんだか大変だなぁ、ということが多いです。一方でよく笑ったりくだらないこといったり、ちょっとしたことで今日はいい日だったなぁ、とか思うことも多いです。「だから何?」みたいなことを書いているのもそんなわけです。

 明日はどんな一日になるのでしょう。ウィルスも災害も気になるし、それどころじゃない、むしろ目の前のこの人の気持ちの方が気になる、という場合もあるでしょうし、特に何も気にならない人もいるでしょうし、色々ですね。かなり確かなのは明日から八月ということですね(びっくり)。とりあえず睡眠は大切なのでみなさんもよく眠れますように。

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精神分析

ワークする

海外の分析家の文献を読むとき、Obituaryを参考にする。この人誰だろう、と思って調べると結構上位に出てくるのだ。Obituaryとは死亡記事のこと。生涯を通じた略歴が載っているので全体像をつかみやすい。この人ってあの分析家の分析受けてたんだ、この人ともこんなの書いてるんだ、この人の娘さんはお父さんより先に亡くなったんだ、などなど色々思いながら読んで、これから読まんとする論文なりの位置づけをなんとなくしてから読むとちょっと新鮮。読んでいる途中は生きているその人との対話になるし。

でも死ぬって止まっちゃうことなんだなと改めて思う。どんなに名を残しても、フロイトみたいにどんなに私生活が暴かれても、その人が個別に築いていた関係がどのようなものであるかは誰にもわからない。本人にだってわからないだろう。

生きていれば「今の時点」を積み重ねて、その先はわからないことにしておけるけど、死んでしまうとその先を作ることができない、当たり前だけど。

今日は幼い頃に父親を失い、その死を否認することでしか生きられなかった母親とともに生き、こころのなかにカップルを描けず、執筆活動ができなくなった女性の事例が載った英語論文を読んだ。創造性はこころのなかに安全に両性性をすまわせるプロセスと関係している。そしてそれは喪の作業とも関係する。この論文の患者は、分析家とともにその作業をやり通した。その結果、彼女の母親も在りし日の夫を再び胸にすまわせることができた。

長くて苦しい作業。患者とその作業をしていくためには、分析家自身が訓練をやり通す、精神分析ではワークスルーと言うけど、それがとても大切なんだろう。そしてそれ以前にまずは生きながらえること、死亡記事に載せるものなんか何もなくてもそれが基本的に重要だと思う。

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精神分析

心理職

多くの同業者の実感と違うかもしれないけど、学校や病院みたいな他職種のみなさんの中にいると心理職はいいとこどりというか立場を曖昧にしておけるミステリアスな存在だと思うんだな、私は。それに対して外部に伝わりやすい名前をつけないと給与面での交渉はできないと思うけど、とりあえずそう思う。

一回30分とか50分とかいう枠のあるところもあるけど、なくてもやれることはたくさんあるし、隙間産業という人がいるのもうなづける。私が今、しっかりした設定の精神分析臨床をプライベートなオフィスで営めるのは、これまでのいろんな現場での流動的、中間的、ある程度可塑的なあり方を許容されてきたからだと思う。そこでの試行錯誤がないまま開業したらなおさら「精神分析とは」みたいな迷子になっていたかもしれない。

心理職は、家族と違うのは当たり前だけど、教師や医師や看護師とも違って、「心理教育」はするけど叱ったり、お説教したりする親役割をとることはない。どちらかというといいお兄さん、お姉さん、おばさん、おじさんみたいなちょっと立ち位置をずらした曖昧なところにいて、生徒や患者から「先生にこう言われた」とか愚痴や不満を聞いて、気持ちの一時預かり所みたいなことしながらお互いの仲介のような役割をとったりしていると思う。

しかも病院とかだと来院してはじめてそういう立場の人(心理士)がこの集団の中にいるってことを知った、というような患者さんも多いわけで、いつもは背景に紛れていて、必要とされたときにふわーっとそこから現れでてこられるような仕事だと思うのだ。前に別のところでも書いたけどスクールカウンセラーが週一回という設定なのも逸脱を防いだり、必要な子に開いておける仕組みになっていると思う。もちろんこちらの活用の仕方次第だけど。

私は組織内の心理士としては、ミニマムな存在でありながら使われるときは勤務時間内にしっかり(持ち帰りとかはせず)役割を果たす、という移行対象的な存在でいたい。(しつこいけど)勤務時間内にその人の固有性にちゃんと使用され、しばらくしたらその人にとってはもう必要ない存在にきちんとなるべく、中立性とか平等に漂う注意とか精神分析が大切にしてきたことをどこでも大切にする。

こういう存在に名前をつけられれば仕事として成立すると思うけどこういう考え方は少数派かな。ある意味、社会から少し逸脱した場所で、役割ありきではなく、荘子の「哀れみ」のような、人を基礎付ける何かを大切にできる存在として動きすぎず静かにそこにいながらしっかり使われる、心理士としては(分析家とは違ってという意味)そういうことを続けていきたいと思ったりしています。