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語ること、聞くこと。

起きたら首が凝っていた。首が凝る=頭痛もする、なのでストレッチをした。この「動かせばなんとかなる」とわりと素朴に思っている自分ってどうなんだろう・・・と時折思う。私はある程度正確な動かし方ができるから自分でなんとかできるけどよけいに悪くしてしまう場合もあるから人にはお勧めできない。でも専門家のところへいったら悪くなったという人もいるから身体は本当に難しい。心と同じだね。

熊本の暑さが心配。地震のあとに追い打ちかけるなんて信じられない、と誰にいったらどうにかしてくれるのかわからない。気候に関しても私たちはあまりに無力。気温とかもどっか地震と連動しているのだろう、と思うがそんなこといったらなんだってつながってる、となって、素朴な思いが陰謀論につながったりしてしまうかもしれない。SNS時代になってから、あまりに素朴に自分の信念を反射的に発する人が多くなったけど、それが政治家でもなんでもないただの同業者の特定のポストにむけて発せられているとかなると怖いなあと思う。自分は正しい、ということを素朴にいっているようなものだけど、自分はあなたとは違う、ということって本来そんなに素朴に言えないことだと思っている、私は。自分は「絶対」そういう方向にいかないとか思ってもいつのまにか、というのはよくある。いつのまにか親と同じことしていたりするじゃないですか。人間のそういう部分を知っているからこそ不安になって私のようなところへ相談にくる場合だって少なくない。「自分は違う」ではなく、「自分にもそういう部分があるのかもしれない」という不安を自分も匿名ではなく、特定の相手に語れるって大切な力。それがとても難しいことではあるのもわかるだけにそうできることを力と感じる。

私は専門的な支援以外で被災地にいくことがわりと多いほうだと思うけどそこでも語ろうとすること自体にものすごく力を感じる。思ってもみなかった言葉を聞く体験を積み重ねてきても私は相変わらずそれを推測することはできない。私はまた思ってもみなかった言葉たちと出会うのだろうな、という推測しかできない。被災地に限らず、それぞれの言葉はものすごく個別的なもので、臨床は特にそういうものを見出していく作業だからわかりやすい言葉でひとくくるにすることには抵抗がある。ただ聞く、という時間がどうしても長くなるのはそういう人たちの言葉たちに対応しているから。なにもしてくれない、と相手が感じているのを知っていてもそれ以外できなかったりするから悩ましいが、聞くこと、黙ることに関してはかなり専門的だと思う。がんばらんとね。

あー、おなかがすいた。あさごはんは大切というよ。みんなもいい一日を。熊本に涼しさを。

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精神分析 精神分析、本

ナルシシズムとかソレール講義とか。

凍らせておいた葡萄が美味しくなくて悲しい。果物をたくさんいただいたから少しだけ凍らせたのだけど残念。上手な冷凍保存のしかたをネットで学んだのだけど少し傷んだとしても冷蔵庫で保存しておけばよかったな。七月後半は氷やアイスを食べることが増えた。鎌倉に住んでいる人に連れていってもらった老舗の甘味処のアイスが美味しかったな。おなかが強ければかき氷をチョイスしたかったけど全然こっちも正解だった。

今週は火曜日に熊本の地震があって気持ちがどんどん落ち込んでいく一方、毎週、毎日の仕事をいつも通りいろんな気持ちになりながらこなした。私の仕事はものすごく個別性が高いが長年たくさんの人と密に会い続けていると「人間って」という普遍的な部分に気づいたりもする。一番は人間はいかに人を信頼することが難しいかということで、ナルシシズムを個人の病理として捉えていない私はこの仕事を通じて社会の問題としてのナルシシズムを考えていく必要があるのだろう。

先日、コレット・ソレールの本を読んでいたついでに、別のソレールの本も読んでいた。気持ちが落ち着かないときはなんとなく手元にある本を再読することが多い。Kindleでダラダラ読んでいたのはコレット・ソレールの講義録Towards Identity in the Psychoanalytic Encounter: A Lacanian PerspectiveのChapter 6 4th February 2015。前に少し訳を載せた気がする。少しラカンを齧っている程度の私にも読めるラカン入門。先日ウィニコットの「ピグル」の読解で紹介したソレールのWhat Lacan Said About Women: A Psychoanalytic Studyのなかのhysteria and femininityで書かれていることの要約もこの日の講義では使われていて、ラカンがよく引用した有名なヒステリー患者が素材として用いられているので共有できるし、こっちに焦点を当てるとこういうことがいえるのかという発見にもなる。ソレールは倒錯を「一般化」しているものとして捉えており、その辺の議論がこの本にあったかどうか忘れたが、ラカン派の文脈では特に重要なことだと思う。この章ではファルスをどう捉えるかという議論が展開されている。たとえば以下の部分とかラカン派ではベーシックな議論なのだろうけど私には結構面白いことがはじまるぞ、という感じがする。

“二つの欠如(Two lacks)

結局のところ、存在の欠如(manque à être)は、享楽の欠如(manque à jouir)とは同じではありません。これはまったく異なる事柄です。フロイトがファルスや去勢について語るとき、彼にとってそれは当初から性的享楽の器官であり、その器官、すなわち性的享楽に対して向けられた脅威を意味していました。それでは、ラカンは何を根拠に、ファルスを一方では存在の欠如のシニフィアンとし、他方では享楽の欠如のシニフィアンとしたのでしょうか。”

という感じで続く箇所。私はものすごく曖昧な「自己」よりも「主体」という言葉を使うけど「主体」という言葉も定義するのは大変難しい。かといって「あいだ」とか「関係」とかいう言葉がちょうどよく機能してくるかというとそうでもない。自分ってなにかしらね、「私」なんているのかしら、という常に感じる思いから六月の学術大会ではパネルを立てたが、これに関してはそもそもこういう問題意識を共有していないとなかなか難しかったと思う。精神分析もどこか「本当の自己」みたいなものを目指しがちだろうから。

今日は土曜日。今日から8月。暑さにめげず元気に過ごせたらいいですね。無理せず大事に過ごしましょう。