東浩紀は『哲学の誤配』のなかで、フロイトにこだわる理由を問われ、フロイトとユングの比較をしたうえで、フロイトは個人主義者なので、「人間一人ひとりはバラバラだけど、各自がバラバラの状態で出力したデータを集積すると、データのうえでは集合的無意識が立ち現れる」という東さんの考えとしっくりくる、と答えていました。
それはそうと、この「誤配」という概念は大変有効で、精神分析のように明確な目的を持たず、特定の問題を焦点化するでもなく、二者でいるのに自分のことばかり語り、沈黙し、感じ、それをまた言葉にしていく作業を連日続けていくというのはまさに誤配をつくり出す作業なのではないか、というようなことを研究会で話しました。
倉橋由美子的だな、とも私は思っていました。
ほかにも色々話しましたが、やはり「誤配」概念の射程は広く、精神分析の可能性を示すための補助線になるように感じました。東さんはこの本のなかで誤配は意図的に作り出すのは不可能なので、誤配が起こりやすい状況を作りだせないか、と考えているともいっています。
精神分析は「先のことは誰にもわからない」という現実を無責任にではなく素朴に言い続けているようなところがあります。「いい悪いではなくて」とか「今ここのことを話している」という言葉も先のことはわからないという現実とつながっているように私は思っています。
精神分析は、他の人からみたらなんの意味があるかわからない、無駄な時間なのでは、と思われるかもしれません。実際、精神分析を受けたり、実践したりしている側にもそういう思いは生じます。でも「で、だから?」というのが精神分析なように思います。答え、目的、意味って?自分で無駄という言葉を使うなり「無駄って?」と自分に問い直すようなことが起き続けているという感じでしょうか。
この前、「三度目の殺人」という映画を観ました。ぼんやりとみていたので詳細もぼんやりですが、「それって誰が決めるの?」というような言葉を広瀬すずさんがいっていました。線引きに対して疑義を呈するというのは是枝作品に一貫した態度のような気がします。そうでもありませんか?
私たちはそんな確かな存在ではないので、というか、私はそう思っているので、いろんなことを感じて考えていつも揺れ動いて、なんだか大変だなぁ、ということが多いです。一方でよく笑ったりくだらないこといったり、ちょっとしたことで今日はいい日だったなぁ、とか思うことも多いです。「だから何?」みたいなことを書いているのもそんなわけです。
明日はどんな一日になるのでしょう。ウィルスも災害も気になるし、それどころじゃない、むしろ目の前のこの人の気持ちの方が気になる、という場合もあるでしょうし、特に何も気にならない人もいるでしょうし、色々ですね。かなり確かなのは明日から八月ということですね(びっくり)。とりあえず睡眠は大切なのでみなさんもよく眠れますように。