カテゴリー
精神分析 言葉 読書

ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。

カテゴリー
写真 言葉 趣味

映画、写真、まなざし

今朝は南側の大きな窓の間近、いつもより近くで鳥たちが鳴いて飛び去った気がした。今はだいぶバラけた個別の声が聞こえるだけ。

ケイコ 目を澄ませて』の友達同士のおしゃべりのシーン、本当に素晴らしかったなぁ。言葉を話すとはこういうことかとその手話の美しさに圧倒された。

いつまでも子供でいたいあの人の言葉にもっとも欠けていると感じた自然な「流れ」。

上原沙也加のニコンサロン(新宿)での個展「眠る木」にも連日行ってしまった。そこに写されていないものを写せる写真家なんだなあと涙が出た。「写真集、届いたら楽しんでくださいね」「楽しみます。とても楽しみ」と話した。

自分に意地悪な人は理論武装してもいくら愛想よく気遣いに溢れた振る舞いができても意地悪がこぼれでてしまう。それに気づいたり傷ついたりしてしまう人は亡き者に。攻撃的で衝動的な自分が嫌で仕方ないから他人を使う。自分を保つ。写真には写らない。けど写ってる。誰もが歴史と場所に痕跡を残してる。いずれ誰かに、と。

残酷な現実があるから成立するまなざし。それを単純化しないことが大切な気がしている。普段はごく普通の思いやりで、何かを指弾するならできる限り冷静に正確に。他者とは利用や馴れ合いではない協力を。孤独で冷徹な自分を十分に感じつつ。

あー。寒くて動きたくないけど仕事行かねば。みなさんもお身体お大事にお過ごしくださいね。

カテゴリー
精神分析 言葉

共謀とか同一化とか

なんでもいえちゃう言葉で誤魔化されるとその人らしいなと感心するけど笑えない不安が高まっている状況で使われると嫌な気持ちになりますよね。フレンドとかパートナーとか関係を表す言葉は特にいろんな含みがあるので中身をきくと「うわぁ、あの人とのことそんなふうに言っちゃうんだ」とか「あーこの二人はこうやって共謀しているんだなぁ」と思うことも多くないですか。治療関係でも物は言いようみたいになってるときは対象不在だったりするから気をつけないといけないなと思います。誤魔化したり嘘ついたりして自分のことばかり守りたくなっているのがそういう状況だと思うので。なかにはそういう言葉を指摘されると急に怒り出してしまう場合もありますね。それはそれでまた誤魔化しの上書きがはじまっているように感じたりもしますが、こちらも怒られてしまうと怖いし嫌だから「(自分が間違ってるって言われてるみたいで嫌なんだよね。間違いとかではなくて相手のこと考えてないよねってことなんだけど)」といろいろのみこんであちらの機嫌を優先しがちではないですか。特に女性が男性に言われる場合は。相手を優先した結果「それでよし」みたいな感じを醸し出されると本当にうんざりするけど「ごめんね」とか言われるのもうんざりです。受け手の体験としてはどっちにしても黙らされてるわけですから。こういう構造にどう立ち向かっていきましょうね。せめて自分がひどい傷つきをなかったことにしないことが必要でしょうけどひとりでは難しいですよね。そういうときは助け合いましょう、誤魔化さずになんとか踏ん張れるように。攻撃者との同一化という考えが精神分析にはあって「女の敵は女」とかがいい例ですがそうなりやすいのもたしかみたいです。ただ、そう言ったところで特にいいことを生まないのでうまいこと言う能力はなくても自分の痛みや悲しみから行動を立ち上げていけるように助け合えたらいいなと思っています。お互いに。必要なときに。週末もなんとか過ごしましょう。よくお休みになれますように。

カテゴリー
短詩 言葉 読書

「柔らかな舞台」のこと&追記

色々大変なのは変わらないけど昨晩はひどかった。寒すぎた。今朝は無事にご自身の畑(でいいのかな)で採れたというキウイもいただけたしなんとかいけそう。

忘れないように、という話を書いたけど忘れないようにしなくても忘れられない部分が人を苦しめる。フラッシュバックとは異なってもトラウマに関する病名がつかなくても苦しいものは苦しい。動けなくもなる。思考できない部分にものすごく消耗する。どうしても目にしてしまう状況で小さく積み重なっていく新たな傷つきとこれまでを切り離すには助けがいるが言葉にすることも難しいだろう。とりあえず一緒にいてもらうことが一番安全だったりする。

先日、東京都現代美術館へオランダの現代美術を代表するウェンデリン・ファン・オルデンボルフのアジア初となる(と書いてあったと思う)個展『柔らかな舞台』へいった。
植民地とフェミニズムがメインテーマだと思うが、よくある「対話」におさめない複数の共同作業の交差や重なり合いのなかで問いかけるような映像と配置がとてもよかった。写真が好きな私は「撮影」という手法自体に興味があるのでチェックしたい作家になった。映像作品を全部見るのに時間がたりずどれも中途半端になったがそのためにウェルカムバック券というのも用意されていて一応いただいてきた。期日中にまた行けるといいな。

いつも以上に頭が働かないなあ。みんなはどうかな。ため息つきつつ休みつつなんとかやれたらいいですね。ブアイブアイ(身内で「バイバイ」をいうときこう言っていた時期がある)。

ー数時間後の追記ー

メモなんだけどウェンデリン・ファン・オルデンボルフの作品を見ながら映画批評家の三浦哲哉さんの『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を思い出した。この本の問いは

「映像が動く。ただそれだけのこと(傍点)にただならぬ感動を覚えるまなざしがあるとすれば、それは具体的にどのようなものか」

というものだ。アンドレ・バザンによるリアリズムの定式化を検討するところから始まるこの本は映画の「直接的な力」を「リアル」という言葉ではなく「自動性automaticité,automatisme」の概念によって定義しなおそうとする。ちなみに本書の『映画とは何か』という書名はバザンがその遺書の題名として掲げた問いだそうだ。

まだ実家にいた頃、父の書斎には夥しい数の「β」がありたくさんの映画を見たがあまり記憶にない。フランス現代思想の講義(主にドゥルーズ)にも色々と出たがこちらもあまり記憶にない。よって私はフランス映画にもフランス現代思想にも詳しくないのだがこの本がそういう人にとっても興味深く読める理由は先述した問いに力があるからだと思う。2014年刊行のパラパラした記憶しかなかったこの本を映画でもないこの個展で想起し再び手に取るとは思わなかった。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの展示では最初壁にかかったイヤホンをとってから進む。入り口からどちらの方向へいっても構わないがおそらく大体の人は時計回りに、しかも入ってすぐに聞こえてくる対話に注意を向けるだろう。そしてなんとなく椅子に座り彼らの話を聞き始めるだろう。まるで外側から参加するように。そこから反対側をみると別の映像が流れている。しかもそちらは音声が聞こえない。そちらへ周りイヤホンジャックを挿せばいいのかと気づくまでに時間がかかった。字幕で内容に気を取られたのと別の画面に伴う音声で音を補えてしまっていたせいだろう。というのは私の場合で、この展覧会はおそらくはじまりから体験の仕方はかなり多様になるだろうし、そういう風に構成されているように感じた。内容に注意がいく人もいれば、映像のなかで起きていることに目が向く人もいるだろう。私は映像のなかのカメラマンにも折り重なる眼差しを意識したし、どこからどんな風に見えるのかどんな風に聞こえるのかを試してみたりもした。自分の動きによって同じものが別のものに見えてくるのは映像作品の配置だけではない。田舎の水族館のような構成だと思ったのは雨が降っていたせいもあるかもしれない。自分のまなざしが揺れる。変わる。そのうちに委ねている。

そうそう、この展覧館のチラシをパッとみたときに言葉の意味を壊すというようなことが書いてあった気がしたのだがそれは暮田真名さんが展開している川柳のようだなと思った。暮田さんは以前『文學界』に「川柳は人の話を聞かない」という文章を寄せている。私は川柳のことも暮田さんの以外はよく知らないのだけど映像に対してはこういうちょっとトンがった態度はとりにくいように感じている。映像は背景と奥行きが勝手に仕事をしてくれてしまう感じがするし、常に何かが後回しになったりどこかへ忘れ去られたりしてでもはっきりと目に入れているものもあるので複数の対話を背中に聞きながら話しているような状態に近い、という点で今回の映像のなかの、そしてそれを体験する私の状態と近い気がする。

特に何を書きたいとかでもなく思い出したことを書き連ねてしまったらなんか長くなってきてしまったのでこの辺で。ぶあいぶあい。

カテゴリー
あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

無駄ってなんだったんだろう

「あれはなんだったんだろう」の時間は「余裕」があるときにやってくる。睡眠時間はそのための「余裕」ではないはずだけれど追い詰められる時間が長ければそんな変な認識にもなってくる。


「無駄な時間をありがとう」といわれた。曖昧に笑った。心が曇った。心があるとしたらの話だけど。なんの余韻も言葉もなくひきはがされることには結局慣れなかった。言葉や仕草の乖離やわからなさを埋めるのに消耗した。そういえば「無駄」って國分功一郎さんや藤原麻里菜さんにいわれたならうれしかったかも。そういうつもりだったのかな。誰かの真似が多くてよくわからなかった。どうにかこうにか大好きな気持ちと折り合いをつけようとしているうちにもいろんなところが裂けていった。傷口がふさがる間もなく。何か答えれば馬鹿にしたように首を傾げられたりため息つかれたり不機嫌になられたりした。最初はからかわれてるのかと思って情けない気持ちで笑ったりしてたけどだんだん怖くなった。「あれのこと?」といったら「わかってるじゃん」とうんざりされた。え?普通に考えたらわからないからわかろうと思っただけなのだけど。同じスピードで処理できないよ、あなたが見下すとおり馬鹿なんだから。体調が悪いことも増えて病院へ行く時間も増えた。体調が悪い、今日は病院、と伝えてみたけど思った通りお決まりの愚痴が返ってくるだけだった。SNS との乖離がすごすぎてこっちを信じていたけどそっちがほんとだったみたいでびっくりした。ほんとあれはなんだったんだろう。唖然としつづけている。文字情報のない世界に生まれたかった。あれはなんだと問わなくてもいいように。


そう、言葉は怖い。相手がどんどんなかったことにできるのは言葉のせい。だから逆に言葉でそれを大切に保存していく。いずれ戦うならそのために。一方的に戦いの言葉にされた気持ちを取り戻すならそのために。

それではそんなこんなでも良い日曜日を。

カテゴリー
仕事 言葉

どんな一日、どんな言葉

公に向けた仕事ができる人の特権、というのを「加害」「被害」の関連で読んだ。今回は本を書く人が特定の相手を傷つけたという事態。相手あることを事実として書くのにその言い方は、と最低限必要と思われる著者の想像力に基づいた配慮がなかったらしい。一方、そういうのを平然としないでいられる人の言葉だから一部の人に「ウケる」というのもあるのだろう。「相手」の苦痛は計り知れない。DVやいろんな中毒について考えるときにも同じ問題がある。人は発信せざるをえない。誰もが苦しい。特にものを書く仕事の人はそれで生活しているから書かざるをえないというもあるだろう。なんにしても「相手」あることをどう考えるかというのは人として一般的に持っていると想定される心的機能をどの程度使えるかということでもある。機能不全を起こしていても公に向けて書いて人気者になったり信頼を集めたりすることはできる。だったらむしろAIの方が、とか。

少し前に私は女が傷つきについて書くとき、まずは、主観的一方的に書く必要があると思うというようなことを書いた。書くのが仕事の人は別だろう。個人的な語りの場合だ。女性は構造上の問題に囚われ自分の言葉を奪われやすい。もちろん女性に限らず構造上の問題にがんじがらめになることはあるのでその場合も同様。私の仕事はそういう語りが可能になる場を提供しているのだと思う。外で話したら何回でも何重にも傷つく可能性がある思いや考えを言葉にしてみる。その手助けをする。これはこれで本当に難しいが大切なことだ。

切りつけるような言葉を言った相手が次の瞬間には多くのフォロワーをもつSNSで軽薄な言葉を使用しているのを目にする、そういう時代でもある。言葉の使用はどんどん残酷になり見えない分断の種をまいていると感じる。特定の相手にとってはその人はそういう人だとわかっていてもよくそんなことが平然とできるなという理解できなさにずっと苦しむ事態でもあるだろう。そのせいで起き上がれず何もできないのに相手の活躍を目にしなくてはならない、ますます苦しい、ということもあるだろう。当たり前だが個人的な関係は外からは見えない。個人的な状況と文脈を考えれば明らかに自分に向けられた揶揄にたくさんの♡や「いいね」がつくのを目にすることもある。「自分のことをいわれてると思ったんですか」と言われてしまえば黙るしかないかもしれない。でもまぁそれでも「ああまたこれか。直接的に相手がわかる形でされるよりはましか、この人いつもこうだし」と「〜よりまし」「いつもこうだから仕方ない」という方法で怒りや衝動を抑えこむ場合も多いだろう。そうして何十年も経ってからカウンセリングに訪れることもある。怒りを向けるべき相手が事故で亡くなったり病気にかかったりすることが契機になることもある。「どうしてもっと早く」と周りは思っても外からは見えないことの方が世の中には多い。そんな簡単ではないのだ。むしろ簡単に切り替えられてしまうのを目にすることで動けずに時間が経ってしまうことだってあるのだ。

今日はどうだろう。どんな言葉を受け取り、どんな言葉を使うだろう。動けない人たちに向けて言葉にならない人たちに向けて私は仕事をする。そのために私は私のこともどうにかしようとしているつもりだけどどうなのかな。難しいですね。東京は雨のち晴れですって。みんなの場所はどうだろう。がんばろうね、ただ耐えるだけの時間と感じているかもしれないけれどなんとなく誰にともなく。

カテゴリー
言葉

「幸福」

ミナ ペルホネン(minä perhonen)の皆川明の文章を読みながら「幸福」という言葉をずるいと感じた。その文章自体は一見すればごく当たり前に大切な、でも大抵の場合は困難な関係を記述したものだった。まだどうしても立ち上がる力が出ない身体にはさらに重たく感じた。

幸福という言葉はずるい。頭痛がひどくなる。差異をうやむやにしたりいつでも反転可能な状態にしておけるこういう言葉にはなすすべなしと感じる。しかし実際幸福というのはそういうもののようにも感じる。取り巻く状況も最悪で、心身の状態も最悪で、私たちの関係も最悪なように思えるのに会い続ける中で時折訪れるあの感じ、そこだけふと明るく温かくなるような一瞬、あれは多分幸福な瞬間だ。でもすぐに消える。やっぱり幻だったという絶望と引き換えに。

会い続けるのが条件。そのためには幸福を感じられることが条件。無限ループ。断ち切るか継続にかけるかはその人次第だと思うがそれだっていつだって「そんなつもりはなかった」という言葉で無効化できる。時間って?責任って?愛情って?そしてやっぱり幸せって?

昨日は真冬のようだった。今日の光は溢れんばかり。日々は続く。空。見上げるしかない。包まれるしかない。心身への影響も回避できない。一喜一憂。これまでだってそうだった。

「100年後を想う活動」、ミナの理念。憧れのブランドは着るには身近ではないけれど作品としても追っている。ひとつひとつの手作業に潜む記憶。それを無意識的に受け継いでいくこと、離れても纏うことでじっと感じる、そうしたいしたくない以前に。そんな行為を幸福と感じられたら。今日もなんとか。

カテゴリー
精神分析 言葉 読書

言葉とセクシュアリティ

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ、と昨日書いた。

図書館という設定の豊かさを改めて知った。桜庭一樹の小説で図書館最上階に住む女の子の話、なんだっけ、思い出そうとすることは全て思い出せないといういつもの現象。その子はすっごく頭が良くてというのは覚えている。あの設定も素晴らしいなと思ったしほかにも図書館が登場する小説は多い。檻でもなく鳥たちを窓の外に本の内に息づかせ、どんな人でも利用できるマージナルな場所。

この本ではここが主人公と外界の中間領域となる。彼だけがその言葉を理解する兄との場所ではなく、鳥たちとの交わりえない交流でもなく。もうこのあたりから私は切なくてどうしようもなくなった。多くの患者さんを重ねてしまったからだ。

言葉が通じると感じられる場所。「通じる」とはなにか。

「それはごくありふれた事務的な連絡事項にすぎないのだとよく分かっていながら、小父さんはなぜか、自分だけの大事なお守りを無遠慮な他人にべたべた触られたような気持に陥った。」—小川洋子『ことり』

想いは空想は生み言葉を暗号化する。セクシュアリティの機能だろう。身を隠すようにささやかな生活に「じっと」身を浸してきた彼はもはや本を閉じたら消えるような世界にはいない。著者は極めて耽美に鳥から人間の声に耳を澄まし始める主人公の様子を描き出すが、一瞬のセクシュアルな混乱や相手はこれを夢だと知っているという現実もさりげなく織り交ぜる。

「一粒だから、今でも夢のように美味しいと思えるんです。」–小川洋子『ことり』

言葉とセクシュアリティ、精神分析が取り組んできたもののすべてだろう。切なさも絶望もささやかな喜びも自由を求める衝動も私たちは患者との間で体験する。

セクシュアルな感覚は人を少なからず病的にする。言葉は暗号になったり精神安定剤になったりする。簡単に絶望しODしたりもする。確実な言葉などどこにもない。のみこんでも吐き出しても不安は尽きない。

時を重ね身体を合わせ言葉を交わし続けるなかで言葉の質がふと変わる時がある。この本の主人公は長く継続的な関係を築いたのは兄のみだった。彼のセクシュアリティは幻滅を体験するプロセスにはいるほど機能していなかったのかもしれない。継続的な関係ではお互いがお互いを想う限りにおいてセクシュアリティと言葉は錯覚と幻滅を繰り返しそのあり方を変えていく。それはふたりのプロセスでありもはや切り分けることはできない。

たとえば一方が急に謝った。するともう一方はそれに被せるスピードで「なんで」といった。今誰と対話してた?私はあなたのその部分だけを切り離して考えるなんてできない。それが「世間」からみてどうであったとしても。

分析家がスーパーヴァイザーや文献との対話を「今ここ」に持ち込むことを患者は嫌う(ことがある)。外側の第三者が私たちの何を知っているのか。私たちはそれぞれの関係を築いている。

一人の、あるいは第三者のモノマネのような言葉はセクシュアリティが引き起こす危機とは別の困難を生じさせる。それはこの本を読めばわかる。

言葉を紡ぎ二人が繋がり次へ繋がっていく。セクシュアリティのもつ豊かさと困難を毎日そうとは知らず生きている。そんなことを考えたので書いておく。