今朝は降っていない。肌寒い。東京は今日は晴れてくるらしい。
子どもの頃、はじめての一人部屋は、西日しか差し込まない、厚いカーテンのひかれた部屋だった。そこにはたくさんの本やレコード、そしてアップライトピアノがあった。小さな頃から長年習ったピアノはまったくうまくならなかったが、お菓子の歌が大好きだった。それはたぶん、湯山昭のピアノ曲集『お菓子の世界』だった。お稽古はいつも練習不足で退屈。終わった後はぐでぐでしながらウルトラマンをみていた気がする。その薄暗い狭い部屋で、子どもたちで『ちびくろサンボ』のトラになって、ぐるぐる回ってバターになったりもした。劇とか音楽とか読書とか、まだ分類も知らないそれらは、私たちにとっては全部 PLAY だった。
ぐるぐるぐるぐるゲラゲラゲラゲラ。私たちはいつのまにかバターになる。ときには喧嘩になったりもする。何が原因だったのか、そもそも原因なんかあったのか、今はもう覚えてもいないけれど、わりと激しめの喧嘩をして、親に泣きついて両成敗になったり。
>生とはその語り得ない瞬間であり、出来事それ自体を超越する。愛において、非人称という宝石のような瞬間が空中で煌きらめく。それは身体の未知の栄光であり、瞬間々々の、鳥肌で感じられる物質である ―― 感じられるのは、身体の外部で生起するきわめて客観的な非物質であり、高みで火花を散らす喜びである。喜びは時を形成する物質であり、何より瞬間である。
クラリッセ・リスペクトルの『水の流れ』の冒頭からの引用である。喜び。それはたしかに非人称だった。
リスペクトルはいう。
「わたしの歌は誰のものでもない。」
私の歌なのに?なんて問うのは野暮だ。そんな大人が子どもをだめにする。私の子どもの心をだめにする。私もそうやっていろんな人の心に境界を与えてしまったかもしれない。いや、確実にしてきているだろう。私が「甘え」をこんなにしつこく問うているのだってそういうわけかもしれない。
「いつまでママママいってるんだ」あんなにママと呼ばれたかったのに?「あなたと私は違うから」あんなにひとつになりたかったのに?「もう、赤ちゃんなんだから」といわれて不機嫌になる。「いい加減にさぁ」と言葉を濁される。続きを言わせようとする。黙る理由などわかっているくせに。私たちはどうしてまるっきりひとりで生きていく動物として生まれなかったのだろう。あんなに楽しくバターになっていた時間を忘れたかのようにそう思ったり。
境界を作りたいのか、消したいのか。輪郭がほしいのか、曖昧にしたいのか。土居の「甘え」にはすでに個としての身体が想定され、他者を認識できるお互いがいる世界で生じる。私がひっかっているのはその手前の運動、「甘え」が生まれるまでの身体と心の歴史である。
この先はまた理論的なお話になるのでまた今度。
さっきあえてPLAYと書いたけど、日本語の「遊び」でイメージされる遊びって限定的だと思う。性的な意味での「遊び」はかなり日常語として使うわりに、音楽や演劇や絵画など文化全般を「遊び」と呼んで、排除、とまではいかなくても、軽視はする。文化的なものにはなかなかお金をかけないのに、「女遊び」なんて言葉は当たり前のように使われ、他人の私生活を週刊誌のネタにしては面白がる。そしてそういうのが売れる。そういう社会で精神分析がなかなか広まらないのもしかたないといえばしかたない。
そういえば、上野千鶴子の『女遊び』が今年復刊された。1988年の本である。紹介文を読むと、女性が自分の身体や快楽を自分の言葉で語ることの難しさが、いまもなお問題になっているという。そんなことを考えていたら、今度は麻生太郎の文春ネタが目に入った。こちらは政治資金の使途をめぐる報道で、もちろん検証されるべき問題なのだが、女性との関係が見出しになると、途端に「女遊び」を面白がるような読み方も入り込んでくる。それは私が問題にする「遊び」ではない。「遊び」におけるセクシュアリティはより複雑で、単なるゴシップとして消費できるようなものではない。
シェイクスピアを読んだことがあるだろうか。その劇をみたことがあるだろうか。目まぐるしく生き死にを演じる登場人物たちに、心を、身体を、欲望を、そしてあらゆる情緒を刺激される体験をしたことがあるだろうか。精神分析はわりとそういうものだ。そうであってほしいし、そういう文化を継承していきたい。
今日もがんばりましょう。いい一日でありますように。

