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記録、「甘え」という語

今朝も雨。この国の気象はどうなっていくのだろうか。歳時記の季語もいずれ大きく変わったりするのかもしれない。

毎朝せっせと、でもないが、ダラダラと書き続けているが、なんのために?なんのためだろう。やっぱり朝のウォーミングアップかな。この仕事は書き仕事が意外と多い。本を書くとかそういうのではなくて、臨床がメインであっても。私の場合の主な書き仕事は記録。あとは、紹介状とか紹介状のお返事とか。

これまで、いろんな機関に所属してきた。どの機関でも、その人の困りごとに対して何ができるか考えるために一度はお話を伺う。PSWやケアマネさんと一緒に働いていた頃は、彼らが聞き取りをしてくれていたが、時間がないときは私たち心理士がすることもあった。それは主に医師の診察のためで、私は短時間で聞き取りをし、それをまとめる仕事がとても好きだった、大変勉強になった。心理検査もたくさんとった。ロールシャッハに関してはその日のうちに所見をだす余裕はなかったので、次の診察まで、とか猶予がもらえた。記録や資料の作成に関してはフォーマットがある程度きまっているところもあればそうでないところもあった。私は、今は医療機関へ紹介状を書いたり、紹介状を受け取ってそれに返事を書くことが多い。フォーマットは一応作ってあるが、ものすごくシンプルなものだ。

最初の聞き取りをインテークということが多いが、かける時間は機関によって違った。クリニックでは15分くらいでお話をうかがって、その場で状況と印象、簡単な見立てを書いて、医師に渡して診察に役立ててもらうということが多かった。教育相談室では、担当になった人が最初にお話をきいて、何曜日だかの朝の会議でここで引き受けたほうがいいか、リファーしたほうがいいか、受けるならどういう方針で、誰が、などを決めていた。私はそのための資料作りが好きだった。考えるのが楽しかった。医師とやりとりする場合の所見は、できるだけ簡潔に読みやすくということを心掛けるので、そのために考えあぐねるのも勉強になる。書くときは一気に書く。一方、教育相談室のように、担当しなくても来談した方の受付をしたり、共有する会議があったりすると、みんなでみている感じが強くなる。今思うと、十分な時間をとっていたように思う。慣れるまでは書くのも大変で、そのための勉強もたくさん必要で、会議にだすとそれがいかに足りなかったり過剰だったりするかも気づかされた。私にとって、そういう職場が最初の現場だったのは幸運だったと思う。その後の職場でスピーディーに簡潔に書く、という下地をつくってもらった気がする。今も困れば相談する相手ができたというのも大きい。

そのような記録において、私が最近ずっと取り上げている「甘え」という言葉を使ったことはあっただろうか。本人がそれをキーワードのように使ったのであれば書いたかもしれない。でも私からそれを使ったことはないように思う。そういう自分の行為を振り返ると、土居健郎がいうほど「甘え」は自明ではないのかもしれない。土居は「「甘え」の自明性をめぐって」という論考の最後に以下のように述べる。

>私が「甘え」理論でやったことは、もともと誰にも自明であった「甘え」の心理に精神分析的理論を読みこんだだけのことではどうもなさそうだ。むしろ、ちょっと逆説めくが、この自明性はこれまでは誰にもしかと見えなかったものであって、精神分析的視点ゆえにそのことに気づいた私がそれを取り出し皆に提示したことに「甘え」理論の意義があるのではないか。その意味においてこの小論も今一度「甘え」の自明性を訴えようとしたものであるといって、決して過言ではないと思われるのである。(引用ここまで)

たしかに土居は精神分析的精神療法の実践によって「甘え」を確信したのだろう。しかしそのことと、それが自明であることは別なのではないか。たしかに、もし、私が「彼には満たされない甘えがあって」と書いたとして、それは結局、私がその人の何を聞いて、何を伝えるためにそう表現したのかを示す必要があるだろう。「甘え」という言葉は、それ以上の記述を不要にしてしまうようなイメージ喚起力があるから。でも、やはり、そのことと「甘え」が自明であることとは異なる。

土居は『精神分析と精神病理』の序論で「精神分析的精神病理学の基礎は症例研究であって、すべての精神分析の命題はそこから出発している」と述べている。そして「日本語の動詞に由来する「甘え」概念は、従来もっぱら形容詞的概念を用いての現象学的研究の対象であった諸現象を精神分析学的に解明する有力な概念的道具を提供しているように思われるのである」という。それならなおさら、土居が臨床状況を「甘え」という言葉を使ってどう描写したかに注目していかねばならない、と私は思う。なんでもかんでも「甘え」とすることはそれこそ言葉に甘えすぎだろうし、土居が「甘え」というならば、とたいした吟味なく納得してしまうのであればそれは土居に甘えすぎだろう。

言葉の使用について考えるときには、そもそも、というところに再び帰る必要が生じる。精神分析において、それを試みるなら、ウィルフレッド・ルプレヒト・ビオンによる理論が欠かせないんだろう。私が参照するのは、『精神分析の方法 II 〈セブン・サーヴァンツ〉』(福本修訳, 平井正三訳、法政大学出版局、2002)である。ビオンはそれの「第12章 変形された容器と内容」においてこう述べる。

>記述2:語(word)は意味を包容する。逆に意味は、語を包容することができる。その語は発見されるかもしれないしされないかもしれない。その関係は、結合の性質によって確立される。精神分析における要素の一定の連接は、それに語・理論・他の定式化を賦与することによって「拘束」されうる。それを拘束する語は、それが表示するはずの一定の連接から意味を取り除くような、強力な連想の陰影を予め持ちうる。逆に、一定の連接は、定式化が「包容」しようとした語や理論、他の定式化を破壊しうる。例えば、或る男性は、あまりに強い感情を表出しようとしているために、彼の言語的表出の能力は、吃ったり意味のない支離滅裂な語の呟きへと解体する。

記述3:容器(♀)が内容(♂)からあまりに多くを抽出する結果、内容は実質を取り去られる。或る精神分析は、あまりに長く続けられているので、患者はそれからさらに意味を得られない。逆の例は、患者にもはや忍耐や我慢・不屈の精神・支払う金がなくなるまで続けることだろう。容器は、内容「から」あらゆるものを搾り取りうるし、また、内容の「圧力」によって、容器は解体するかもしれない。一例は、背景が失われ語に意味が失われるまで隠喩として用いられた語であろう。(引用ここまで)

「語(word)は意味を包容する。逆に意味は、語を包容することができる。その語は発見されるかもしれないしされないかもしれない」とビオンがいうとき、ここには、語と経験の関係についての転換があるのではないか。通常、私たちは、まず語があり、それによって経験を把握すると考えがちである。土居でいえば、「甘え」という日本語がすでに存在しており、それによって精神分析的状況に生じる経験を把握できた、という経緯があった。しかし、ビオンがここで示すのは、そのような順序ではなく、意味は、まだ発見されていない語を包容しているかもしれないということである。したがって、土居の仮説が妥当であるならば、「甘え」という語を知らない分析家であっても、「甘え」と呼びうる経験に出会っていることになる。とはいえ、それを「甘え」と名づけたところで、意味を得られるとは限らない。ビオンはさらに、語があらかじめ帯びている「連想の陰影」によって、かえって一定の連接(経験といっていいかもしれない)から意味が取り除かれる可能性を指摘する。「甘え」でいえば、母子関係、依存、愛情、幼児性などだろうか。それらの連想が強すぎれば、精神分析的状況に生じている経験は、あらかじめ知っている「甘え」なる語に拘束される一方、意味は抜き取られるかもしれない。土居の緊張はここにあるのではないだろうか。語によって意味を失う可能性、強すぎる連想の陰影などと関連した緊張が。

なにやら話を複雑にしてしまった。ビオンの引用を用いた考察は我ながら雑なのでいずれ修正するとしましょう。とりあえず、まだ朝なので(?)このくらいに。今日も一日雨かしら。すでに被害が生じている地域にこれ以上の負担がかかりませんように。今日もがんばりましょう。

ハナミズキ