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精神分析 言葉

NHK短歌、ムーミン、精神分析

NHK短歌を見た。大森静佳さんのムーミンの歌、すごく良かった。ゲストは大好きな祖父江慎さん。ムーミンはいろんなことを教えてくれるしこうして今にも受け継がれている。すごいことだ。今、我が家にはムーミン谷のお土産が色々ある。埼玉のだけど。

空が水色。テレビ見てるとあっという間ね。

精神分析のことなんだけど、週4日も同じ人のところへ通っていると相当量アウトプットしつづけることになるわけで、あれは特異な体験だったな、と思う。沈黙も対話によって生じる沈黙と自分のなかで記号化できないなにかを感じ取っている間の沈黙では異なるし、こうやって一人でアウトプットしているのとカウチで分析家の隣でアウトプットし続けるのって全然違う。

今も昔もだろうけど精神分析を受けているといえば即、知りもしない人の家の台所事情やライフプラン、夫婦関係や家庭状況にまで言及してくる人もいますがそれはそれ。推測も憶測も自由。でも財産も生活も共有しているわけでもない人がプライベートな部分に踏み込むことがあるとしたらそれには守りが必要でしょう。自分の判断だ、自分の選択だ、と言ったところでそれは実に揺らぎやすいものなので誰かに何か言われるとすぐに揺らいでしまうのが私たちですがそういう揺らぎも大切にすべきだしされるべきでそういう作業を始めた人を邪魔しないでほしいなと思う。学術的な議論としてするならともかく。精神分析は侵入する、されるがたやすく生じやすい設定だけど、それは関係が近いからだけでなく、人の心は脅かされやすいから。そして脅かされると攻撃に転じやすいから。だから精神分析家の方は訓練を必要とする。特定の他人に自分を晒しつづけるという訓練を。それは同時に誰が相手であっても晒すものではない自分(境界)を作るプロセスでもある。他人とどう関わるかは自分の自由である、ということを各々の倫理において確立するプロセスと言えばいいのでしょうか。被分析者の方も精神分析家になるための訓練が目的ではないとはいえ体験としては同じ。狩野力八郎先生が患者さんの方が家族よりも自分のことをわかっていると思うとおっしゃっていましたがこれも単純に受け取るべき言葉ではないでしょう。私も「ある面では本当にそう思う」と思っていますが。ラカンが精神分析を受けた人は精神分析家であるといったのにも非常に納得していますがこれも単純な話ではないでしょう。精神分析家は偉い人でも優れた人でも性格のいい人でも全くなく(そういう人もいるでしょうけど精神分析がそうしたわけではないと思う)非常にマイナーな職業にも関わらず資格として考えるとなんとなく持っている人、待っていない人みたいな分類のもとに思考が展開してしまう場合もありますね。子供がいる人いない人みたいなものでしょうか。だったら子供がいない人にももっと寛容であってほしいな、同時に子供がいる人にももっと手厚いサポートをしてほしいな、とかも思いますがそうはならない思考が展開されるというか停止するというか、とにかく決めつけが入りやすい類の問題なのでしょう、何者かであるというだけで。外側から何かをいうことのたやすいこと!学問に対して自分倫理を持ち込むことに危機感はないのかと思うことはしばしばですが、自分は自分で誰かとは全く異なる生活と運命であるはずなので自分の考えや欲望に注意を向けることがとても大切でしょう。精神分析家としてはそのための時間と空間を提供しているつもりですが人と人との関係は操作できるものではないので一緒に作業できるようになるまでは安全や安心とは遠いのかもしれず、そういう現実と出会いながら対話を続けていくことが必要なのでしょうね。継続的な関わりの中で自分自身が実感を掴んでいくこと。その実感も一瞬にして幻に変わる場合もあるけれど、それにも素直に出会っていくこと、歳をとればとるほどそれまでの経験で様々なことを語りがちですし、若ければ若いで少ない経験で語りがちですが、事実として語り継ぐ責任はそれぞれにあると同時に、自分の体験の不確かさを他人の言葉でたやすく補完せずに持ちこたえていきたいものです。ムーミン谷の優しさを思い出しながら今日もがんばろう。

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言葉 読書

青木玉の本、受け身の言葉

朝が来た。毎日来ているが今日も来た。窓を開けているかのように鳥の声が近い。鳥たちもえらいね、毎日規則正しくて。幸田文みたい。幸田文のこと考えながら「そういえば青木玉の本ってどこに置いたんだっけ」とぼんやり思っていたらすぐ見えるところにあった。表紙を見て「ああ」となった。これまでその装幀を美しいと思いつつあまり意識していなかった。『小石川の家』も『帰りたかった家』も幸田露伴が愛用したカバー入り用箋が重ねて描かれていた。装幀は安野光雅。さすがだ。青木玉もこの装幀は「夢のような御褒美」と書いている。余白に魚が描かれた便箋には当然まだ何も書かれていない。それ自体の余白に彼女のみてきた景色が透けて映る。しかしそれは露伴の目でもあり、文の目でもある。一人の子供の、一人の孫の生活史として非常に面白い本になっているのは玉の文才だがやはりこういうのも遺伝するものなのか。玉の娘の青木奈緒も才能豊かな作家だ。才能の遺伝もあるかもしれないがこの家族ならではの言葉が生き生きと書かれるのは玉自身の言葉が子供の頃から大切にされてきたからだろう。これらの本を読むと露伴も文も困った祖父であり母であるが娘であり孫である玉がそれを自由に書きつけているところがもう面白い。基本的に陽気で優しい家族だったんだろうな、と思わせる。私はその人の言葉がどんなであってもその人の言葉として非常に興味深いと思って人の話を聞いている。そこで感じるうんざりも驚きも相互作用だと思うからとても大切。そうだなあ、彼らの言葉には常に対話がある。外とも内とも。となると対話がない状態というのは、ということを考えるのが臨床家の仕事だが私たちは大抵まだ聞こえない言葉として言葉を受け取っている気がする。そういう対話が今として。

先日、生かされている、選ばれている、生きさせられている、など、れる、られるという受け身の言葉に敏感な自分に気づいた。我らおしなべて受動態といえばそれはそうかもしれないが「自分がある」、よって「自分がする・した」という想定をしないと自分の辛さってどうにもならないと思う。選ばれたからなに、生かされてるからなに、生きさせられてるとしたらなに、そう考えてなにか変わるならいいけどそういう表現をしたくなるのってなに、と思う。一方、確実に相手に責任を求めたい場合は受け身の言葉も確実に使うべきだとも思う。と読んだことのないSF作家さんのインタビューを見て思った。SFの水準でようやくそうとしかいえない受け身というのは確かにある。こっちの能動性が発揮できない状態だから。子どもというのはその点、結構苦しい立場にいるわけだが青木玉は無事に大人になってその辺を明るく表現している。遺伝と環境、そういう分類も簡単でいいがそれらもそれってなに、というより「だからなに」という感じかもしれない。いろんなことに「だからなに」と思いながら「だからなに」的な文章を書き連ねている自分は書かされているわけでもないのになにをやっているのか。自分に書かされている、とかなると物は言いようということになる。まあ、今日もあれこれがんばれたらがんばろう。

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俳句 言葉

雨、朝顔

雨が降り始めた。空から真っ直ぐに落ちてくる。水分量多くたまに膨らむように落ちてくる直線たち。風はまだ吹いていない。

朝顔の紺の彼方の月日かな 石田波郷

今日の日めくりは波郷。季語は「朝顔」。朝顔ほど普通に親しまれている花も多くないだろう。初秋の季語となる。朝顔は紺色だけではないがあえて「紺」と言われると夜明けの空もイメージされる。朝の空は闇を水で溶かしのばすように薄くなるけどこの朝顔には凝縮された日々がある。「彼方」は「忘却の彼方」などいうように時間的な遠さを示すのはいうまでもないが、朝はたしかにそこにいたのに昼過ぎには萎んでいる朝顔からは感じられない時間感覚がある。色褪せる前のはっきりした紺色はこの雨の朝も彩っているだろうか。

あさがほやはやくも夢で逢ひし縁 久保田万太郎

万太郎の散文で心に残る文章がある。恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)から引用する。

「ー〝影〟あってこその〝形〟である。

ということを書いた。

ー〝影〟あってこその〝形〟・・・・・・

便宜、これを、俳句の上に移して、〝影〟とは畢竟〝余情〟であるとわたくしはいいたいのである。そして〝余情〟なくして俳句は存在しない。すなわち、俳句の生命がその表面にだけあらわれた十七文字の働きだけで決定せられるる運命しかもたないものであるなら、こんな簡単なつまらない話はないのである。表面にあらわれた十七文字は、じつは、とりあえずの手がかりだけのことで、その句の秘密は、たとえばその十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きにまつべきなのである。」

水にまだあをぞらのこるしぐれかな 久保田万太郎

時雨は冬の季語。一文字だけ漢字で書かれた「水」はたしかに「余情」を湛えている。同じくこの俳句集の「散文」に収録されている「文字に対する敏感」についても書いている。耳が痛い。

朝顔を「彼方」よりも明確な時間感覚におくと以下のような句がある。

朝顔のあすのつぼみやいなびかり 久保田万太郎

土砂降りに明けて朝顔の瑠璃ひとつ 水原秋櫻子

嵐のあけ朝顔一つ咲き居たり 尾崎放哉

嵐には早めに去ってほしい。朝顔はしっかりとそのツルをどこかに巻きつけて耐えているだろうけれど。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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言葉 読書

地震、読書

揺れた。昨日から地震が多い気がする。そして早朝に地震が多いと感じるのは阪神・淡路大震災のイメージが大きすぎるのか。今朝も同じくらいの時間だった。あのときその場にいたわけでもなく、当時テレビもなく、時間差で知った地震だったが友人たちが住む地域だったので連絡を取り合ったりなにより気持ちが落ち着かなかった。被災した方々の思いはいかばかりか。

昨日の朝、水村美苗の『日本語で書くということ』(ちくま文庫)を少し読んだ。夜、ウィニコット協会にだす原稿を書いていると「こんなところにも文庫積んでたんだ」と本棚の隅のスペースに目が行った。せっかく書き始めたのにすぐにこんなだ。手に取ったのは前田愛『増補 文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)。また似たような本を手に取ってしまった。夏目漱石はどちらにも登場するのだけど断片だけでも面白いような気がする。すでに読んでしまっているからそう思うだけかもしれない。覚えているわけでもないのに不思議なものだ。この本にも「言葉と身体」という章があり、そこを開いた。久しぶりに開いた。「この本にも」と書いたのは言葉と身体は精神分析では切り離せず常に議論の対象だから、なのだろうか。それだけではないかもしれない。「コードとコンテクスト」とかよりはずっと身近だしこうしてなんとなく開くのにちょうどいいのだ、と思って読み始めたらまた結構読んでしまった。この章では蓮實重彥の「横たわる漱石」という論文が引用されている。私はこの論文は『夏目漱石論』(講談社文芸文庫)という本で読んだことがある。「横たわる漱石」は『夏目漱石論』では第一章なのでよく覚えている。日本史の教科書で旧石器時代と縄文文化にばかり詳しくなるのと同じで(私だけではないと思う)最初の出会いには何度も立ち返ってしまうものだ。だからあえて「過去は振り返らず」みたいなことをいうわけでしょう。こういう適当なことを書き始めると止まらないし使い方よくわかってないけど「知らんけど」で適当に終わらせることになるから気をつけねば。この章だけでもやっぱり面白い。『伊勢物語』の和歌の読み方もとても素敵な章であることも思い出した。手に取ってみるもんだ。いや、いつでも読めるのだから今やるべきことを。それもそうだ。ちなみにこの本と一緒に積んでいたのは野谷茂樹、石垣りん、郡司ペギオ幸夫、山口昌男、丸山圭三郎。だからウィニコットの書き方について考えていた時に読んでいた本ってこと。色々無意識で繋がってるんだ、きっと。でもなんでもかんでも繋げるのはもっと時間があるときにやらないと。毎日自分で自分を叱っているけどやっぱり自分で自分をはあまり効果ない。でも誰かに叱られるのも嫌だしなあ。締切とか時間的な区切りで約束しておくことは大切だ。ああ、これもそろそろ時間切れ。あくびばっかりでるけどがんばりましょう。

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映画 言葉

高崎、高橋、ギター、千葉

今朝の飲み物はだるま珈琲。先日、突然高崎へ行った帰り、新幹線改札前にある充実のお土産屋エリアで我が家用に買ってきた。この前ノンフィクション作家の高橋ユキさんが高崎駅を利用して前橋に傍聴に行っていて、そのルート知ってる、と嬉しかった。前橋地裁で働いていた知り合いもいたし、高橋さんが以前その近くの美味しい珈琲やさんのことも呟いていたのも嬉しかった。もちろん布袋のことも呟いていた。新幹線ホームの発車メロディが布袋虎泰になったから、多分今年。高橋さんは氷室ファンなんだっけな。高橋ユキさんの傍聴記録はvividですごいし、有料だけど最近始まった日記もすごく面白いからチェックしてみて。人のこころと行動のわからなさに対する理解が深まるから。

さてさて珈琲のお味はどうかな。パッケージは白地に赤い達磨の絵が書いてある素敵なデザイン。いただいたちんすこうと一緒に。美味しい。この珈琲、結構コンク(うち語)。色々あって美味しい。みんな違ってみんないい。金子みすゞは上田出身なんだっけ、など話す。ちなみに画家の星野富弘は群馬出身で美術館もある。小学校の授業で色々みたり聞いたりしたときはどうしてそんなことができてしまうのかと驚いた。かわいいお花の画集も持ってる。群馬にはね、といえばそこそこ観光案内できる程度に色々行っているな、群馬出身者のわりに。高崎は隣町で小さい頃はクリスマスケーキは高崎のお店のと決まっていたし、夏のキャンプでは新幹線からも見える白衣観音の麓にあったカッパピアというプールに連れていってもらっていたくらいしか記憶がない。ここ数年で少しずつ知った。高崎市は達磨の生産量が全国第一で、この珈琲は市内の珈琲やさんがそれにちなんで作ったみたい。高崎だるま市は東京都調布市の深大寺、静岡県富士市の毘沙門天大祭だるま市と並ぶ「日本三大だるま市」の一つ。高崎はアニメ映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』の舞台になっていて映画にも達磨が登場。主な舞台は大きなイオンモール。あの辺何もないから遠くからでも目立つ大きな建物なんだけど行ったことないな。イオンモールって割とそういうところにあるイメージ。滋賀県草津のイオンモールもこんな感じだった気がする。滋賀は色々と興味深い土地だし友達にも会いたいからまた行きたい。そのまま京都へ行くこともしてみたい。

昨晩久しぶりにギターを触った。コードは4つくらいしか覚えていない。Cを押さえて弾いてみたらCの音がしなかった。ガーン。以前は教わるままにやればそれなりにそれっぽい音が出たのに。ガガーン。とかショック受けてないでジャラーン♪ってカッコよく弾けるようになりたい。せめてバンド組んで失敗する夢くらいみたい。なんか夢ってあまり成功しなくない?そんなことない?意外と現実の方が無難だったりする気がするよ。とにかくなんでも触れ続けていないと夢にだってでてきてくれないよね、続けよう。続けるのが一番大変なんだけどね、というのは3回くらいしかみていない朝ドラの蒼井優のセリフ。まさに。

昨日は朝から千葉雅也さんの言葉にしんみりしっぱなしだったなあ。この前の平井靖史さんの時間論とも重なったし読者でいてよかったなと思った。人の言葉は断片で聞くものではないからね。

さあ、準備して出かけましょう。準備なんてあっという間。持ち帰り仕事もそのまま持って出ましょう・・。

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仕事 言葉 音楽

言葉とかTシャツとか初回面接とか。

寝てるときに右足首を左足首にかける癖があるようで自分の足の重さのせいで痺れたり痛んだりしている。力の抜けた人間の身体は重いとはいえ両方とも自分なのに。どの雪崩れからここへきたのか舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』(ちくま文庫)を手に取った。パラパラしつつ最近私は歌のない曲か歌詞が聞き取れない曲ばかり聴いているなと思った。もしかしたらとんでもない歌詞の曲を口ずさんだりしていたりして、と思うことはハードロックに没頭していた高校時代にもあったがそんな感じ。色とサイズがかわいくて気に入っていたTシャツの文字がスラングだと英会話の先生に笑われたときは赤面した。好きだった人が半ば押しつけるように買ってくれたTシャツには差別用語として受け取られてもおかしくない言葉が書いてあった。自分で選びたかったな(ツライ)。音楽はどうなのだろう。差別的で暴力的な言葉を使う人でも誰の胸にも響くような音楽なら奏でられたりするのだろうか。するのだろう。差別用語をモノに包んで贈り物にだってできるのだし。言葉は相手がいればその影響を受けざるを得ない。自分が何かを言って相手から返ってくる言葉は自分が発した言葉の影響を受けていることは忘れられがちだが、という話を初回面接のグループでした。力動的な心理療法家としてアセスメントする場合、防衛のあり方などはそのコミュニケーションにおいても反復されるので自分のあり方抜きでアセスメントはできないだろう。治療者は目の前の人が何に困っているのかを把握するためにいつもその人が取りがちなコミュニケーションに対して開かれている必要がある。たとえ相当苛立ったりしたとしてもどうして今この人とそうなっているのかということを自分が発しているものを含めて考える。だから自分の特徴を知っておく必要がある。そのために訓練はある、という話をした。

別の本のことを書こうと思っていたのだが眠くなってしまった。二度寝はできぬ。準備せねば。新しい1週間もがんばりましょう。

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言葉 読書 音楽

かわいいといえば、とか。

眠い、すぐに眠ってしまう。急に涼しくなったから身体がついていかないという人が多い。私もそうなのかもしれない。あくびばかりでる。仕事のことで音声入力を使ったら変換間違いがおかしかったのでふざけて関係ないことも入れてみた。「あくびが出てしまう」と適当な口調で言ってみたら「歯茎がでてしまう」と出た。変換後の文章を文字としてみても変換前になにを言ったのかわからない。「粘着の間違い」ってあるんだけど私はなにを言ったのだろう・・・。英語だったらもっとひどいんだろうなあ。「人間は弱いかな」とかもある。絶対こんなこと言っていない。弱いだろ。言ってもいないのに返事しちゃった。こういうことって実は日常的に起きているのかもしれない、と思うと少し心配ね。でもそこから生まれる遊びもあるかな。ここでもたまに変な間違いしてるんだろうね。

私が思わず「かわいい」というと「かっこいい」と言い直す園児がいた。「かっこいい」と言い直すと満足そうだった。彼女は結構大きくなっても「かわいい」という言葉がしっくりこないようでみんなが「かわいい」というものにもそんなに興味がもてないようだった。「きれい」「すてき」という言葉はとても自然に使っていた。ちっちゃい子が「すてき」とかいうとかわいい。その子の前で赤ちゃんのことを「かわいい」と言ったら「私は?」と言われた。あらあら。「すごくかわいい」と言うとそこそこ満足そうだった。

かわいいといえば暮田真名さんの川柳に「かわいい」という言葉を使ったものがあったがなんだったか。(「かっこいい」だった!in『ふりょの星』左右社)暮田さんが「暮田真名以外」というアカウントに載せているstand.fmのラジオが秀逸。やっぱり頭がいい。声もいい。喋り方もいい。淡々とした一人漫才も面白い。一人喋りがこれだけうまいのだから漫才もできちゃうだろう。というか漫才の才能がある人は一人喋りがうまいのだろう。なんてことない出来事の一部を広げていくしかたが新鮮ですごくいい。記憶力もいいのだろう、というか暮田さんはとても頭のいい人だと知っている。川柳に記憶力は必要ないと暮田さんはおっしゃると思うのだけど辞書に載っていない言葉を含め、語彙力は絶対に必要だと感じる。あと軸のブレなさ。教え方とかもびっくりするくらい上手なのですよ、暮田さん。誰にでも通じるものにする工夫をずっとしている気がする。川柳をというよりあの教え方を体験しにいくのもいいんじゃない?と思ったりする。それにしても暮田さんの文化は新しい。最近「くるり」の新譜が出たが「くるり」くらいだと共有できるのかな。ブルース・スプリングスティーンは共有できないかも・・・。知識としてはできるけどこの熱狂とかあの想いとか。最近、柳樂光隆のプレイリスト「for Joshua Redman”Where Are We”」に大好きなブルース・スプリングスティーンを発見して再び聞いている。柳樂光隆さんの記事を読むようになってよかった。自分の音楽の歴史が想起されたことに驚いた。記憶力ないのに。Netflixでは今も『SPRINGSTEEN ON BROADWAY』が見られる。『ボーン・トゥ・ラン ブルース・スプリングスティーン自伝』(早川書房)と繋がってるんだと思う。この本はファン必携。かわいい赤ちゃんのときの写真から始まりますよ。赤ちゃんはかっこいいとはいわないよね、あんまり。行動にはいうと思うけど。そうか、彼女は「かわいい」は見かけのことというか全体を表す言葉としてはしっくりこなかったのかもな。

今日はいいお天気。乾燥もはじまった。身体大切に過ごしましょう。

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短詩 言葉 読書

言葉の使用とか。

大学って非専門家をお友達感覚で専門分野の先生として使う時代なんだっけ、今って、しかも人の心身を傷つけたり搾取したりする人に、と思うけどこういう事例って国立大学でもあるようなので引き受けた者勝ちということになるか。勝ち負けではないが被害者側が相当の負担をおって事件化しない以上、一方で搾取しながら他方で稼いでいるわけだから経済的に敗北感があるとしたら被害者の方だろう。搾取側に勝利感はないだろうけど。そういう意味では常に勝利している、というか弱い立場に立てないためにそうなっているのだろうから。ナルシシズムという言葉も薄っぺらいし邪悪という感じの悪でもないし思考停止というのも違うし、と考えるときに田野大輔、小野寺拓也編著『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店)はとても参考になる。歴史研究者と哲学研究者という異なる専門家の対話によってハンナ・アーレントの<悪の凡庸さ>という言葉というか、これは概念になっているわけだけど、それをプラグマティックな発想のもとに割り切って「使う」のか、その言葉の使われ方、受け取られ方の変遷を含め、それが現代の私たちの文脈にもたらす意味を探るのかという対比も非常に重要な論点だと思う。

私たちは大抵何かの対立軸で物事を見ているわけだけどそれがそれぞれ異なることを前提にしないと話が通じないこともある。それとそれはそもそも意味的に対立するものではない、とか、歴史上の文脈が全く異なる言葉を無理やり対立するものとして使っていたりする場合もあるからそれはそれで違いを明らかにすることが必要だし。こちらを言いたいがために持ち出した何かがその人がいうとそれっぽいのに私が言ったら全くそれっぽくないという場合はそれがそれっぽいのは行動の勢いによるものであって言葉の意味ではないわけね、ということもあるし、いつどこの誰の何をどんなふうに見ているのか、どうしてそういうふうに見ているのか、という5W1H的な問いは常に大事と。さてさて果たして今は有効ではない言葉なんてあるのだろうか。果たしてその一言でその人を説明できる言葉なんてあるのだろうか。

ちなみにnoteにも引用したがアーレントの『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』の以下の部分は事件化しないと決めた問いについて法と政治がらみで考える場合に有効だと思う。

「ここでわれわれの関心をひくのはもっぱら君のしたことであって、君の内面生活や君の動機は犯罪的な性格を持っていなかったかもしれぬということや、君の周囲の人々の潜在的な犯罪ではない。」
「政治とは子供の遊びの場ではない」

–『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)より

暮田真名さんのラジオについて書くつもりが全く別のことを書いてしまった。いい感じなので聞いてみてね。ではでは。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析 言葉

9月27日朝。

キッチンで色々しているうちに空の青が薄くなってきた。きれい。54袋入りの麦茶が消費できていないけれどこれは2巡目なのかな。8月初旬に青森に行く前から作っていたと思うのだけど、と書いていたら「あ、これ2袋目かも」と思えてきた。前に空になった袋に別のゴミを入れたイメージが浮かんできた。青森、楽しかったな。猛烈に熱くて猛烈な陽射しでまだ日焼けの跡がくっきり残っている。最終日に行政の方にたくさん説明をしていただいた八戸ブックセンターでは24日(日)「本のまち八戸ブックフェス2023」が開催されたとのこと。私も知っている関東の出版社も参加されていた様子。会場はこの八戸ブックセンターと「八戸まちなか広場マチニワ」「八戸ポータルミュージアムはっち」。街づくりの時にこれらを拠点として街をぐるっと回れるように設計したというのも聞いた。私たちは何も知らないままそれらをぐるっと回ってブックセンターに到着したので街づくりは成功している。

あ、雨だ。さっき天気予報をみて朝だけ少し雨マークがついていて「ふーん」と思っていたら本当に降った。降り込んではこなそうだから窓は閉めない。鈴虫が遠くの下の方で鳴いている。水平線を想った。空はもうだいぶ明るい。

別のところにも書いたが、人の心を殺して身体を傷つけるような人でも外では優しく穏やかに軽薄なおしゃべりをしながら快楽優先で過ごすことは当然ありなのだが、知識があったり書くのが上手ということだけで臨床の知にまで踏み込んできたりするのは厄介だなと思う。もちろん賢い人の行動よりお言葉のほうが関係のない人には貴重で、知的な部分だけで「学際的」であることも大切かもしれない。でも、現場での搾取や現場でトラウマが作られる可能性に言及するのであれば、同時に、法的にも規約的にも規制されない部外者をお友達感覚で現場に関わらせて消費者からお金をとることについても鈍感であってはいけないのではないか。少なくとも人をモノのように扱う人に自動的に書く場が与えられているのをみると世の中の仕組みだなあとうんざりする。見えない暴力は蔓延るばかり。現場を守る環境を壊す仕組みを見ながら現場で仕事をするというのは不毛だが不毛さから何かを見出す仕事だから無思考にはなりたくない。そんな社会でも自らの思考や心ある身体を守ろうと思う人は患者としてやってくるだろう。すでに傷ついた心身と共に。言葉と力で言いたいことだけ押し通そうとしているだけの人を見破ることはできなくても戸惑いや疑惑を感じたら相談する場と出会ってほしい。背中を見せれば触ってもいいと思っているような人たちは現実にいる。一度受け入れれば何してもいいと思っている人も現実にいる。自分の暴力性もナルシシズムも否認して相手が悪いとする人に効く治療はあるかもしれないがないかもしれない。そういう人が治療を自ら求めるとしたら自分が相手にしたことを自分が体験したときかもしれない。やはりこの仕事は傷ついた人たちに向けられているので弱い立場の人の声をかき消すような構造や仕組みに対してできる抵抗を考えないといけない。専門性はそのためにあるのだろうから。

今日こそ地道に。コロナもインフルエンザも流行っているようなので皆さん、どうぞお気をつけて。体温調節も難しいと思うけど脱いだり着たりできるようにしましょう。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

ペンは剣よりも、焦点を少しずつ、学ぶ

まさにペンは剣よりも強し。別の意味で。暴力よりも暴力的とでもいうのかな。昨日は比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技術であることも学びました。身体を傷つけられずに学べるなら不快さと痛みを引き起こす暴力性はある程度必要ってことかもしれないですね。相手の心も体も弄んで傷つけるような人の表現はそう捉えることは難しいですけど。そうされた人はそういう人の表現に触れるたびに何時間も何日間も苦痛をただ耐える時間を過ごさねばならなかったりするから。いっそのこと、と考える人だっているのはそういう人が黙ることはほとんどないからかもしれません。千葉雅也さんが先日フィルタリングのために「物理的に瞬時に目を閉じる」とツイートしていました。私もやっています。(ミュートしているのに)またか、と思いつつ反射的に目を閉じる、薄く開けて焦点をぼやかしながら画面を閉じるバツ印を探す、また目を閉じる、落ち着くまでその状態に身を委ねる。ペンは剣よりも強し。なのでしょうか。

あっという間に1時間、2時間が過ぎた。まるで何事もなかったかのように家事をし、おしゃべりをしているのは生体防御反応だ。こんな状態になってから長くなってきた。突然の刺激に晒され衝撃を受け続けるなか「まただ」とその衝撃を予測しながら目を開け続けることをするようになった。一方でできるだけ距離をとるようにミュートをした。それでもこのネット社会、軽薄な言葉ほど軽々しく網の目をすり抜けるように現れることがある。瞬間的に目を閉じる。じっと嵐に耐える。そのまま眠ってしまうこともある。生体はうまくできている。生き残るために、適応するために何をするかといえばそこから学ぼうとする。暴露療法のような方法をとりはじめた。恐々目を開ける。焦点を本当に少しずつ合わせながら見てみる。最初は全部は見られない。それでも少し目を開ける時間が増えたことをモチベーションに変える・・みたいな。なんなんでしょう、この努力は。この時間は。と思うでしょう。でも学びは残る。比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技技術なんだなぁ。これが「賢人」の技術かぁ。スプリットされたこころで思考停止のままでいられる技術。自らの被害感と不快感を癒してくれる人は大切よね。遠くへ追いやったそれは今まで通りポイ捨てしてきた対象に処理してもらえばいいのだから。そういうのもテクノロジー。ペンは剣よりも強しをチャットなんちゃらにいれたらこんなお話もできるのかしら。そういうデータならいくらでもあるだろうから。

早い時間にメロンを食べてしまったから寂しい。勝手に一日締め切りを延ばしてしまったものを朝のうちにやらねば。世界には辛いことがたくさん。「癒す」という言葉に対する不快感ってなんなのかしら。今日も学びましょう、と軽々しく言いづらいのはさっき書いたみたいに強い痛みを想定できるから。精神分析もそういう痛みを想定している。本とかでは学べない「知」に向けて友達や家族に支えられてやっていけたらいいけれど。今日も理不尽さにのみこまれつつ生き残る方向でいけたらいいけれど。とりあえずとりあえず、ですね。気のきいたこと何も言えないけどどうぞご無事でお過ごしください。

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コミュニケーション 散歩 言葉

菓詩、歌詞、葛藤なき世界

朝は少し冷えますね。すっかり寝不足ですが今朝も山梨県塩山のお土産をいただきます。今回は「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」の抹茶のほう。栗を抹茶餡でくるんであります。今日の断面は素朴できれい。そしてこれもほんのりした甘さで美味しい。ただほろほろ崩れやすいのでご注意あれ。包装紙にはキラキラした文字で和歌みたいのが書いてあるのだけどキラキラしてて読めない。少し暗いところ、でも暗すぎないところで見てみましょう。あ、見えた。

志ほの山  さしでの磯にすむ千鳥  君が御代をば  八千代とぞなく

古今集 詠人しらず

だそうです。ふーん。少し君が代的かな。山梨には磯はないから志ほの山ってどこかしら。一青窈のハナミズキ的でもあるわね。「菓詩処 石井」だものね。どのお菓子にもなんらかの詩とか和歌とかが書いてあるのかしら。あとで白あんの方もみてみましょう。大学生の頃、山梨県身延の方の廃校になった小学校で学校に行かない子たちと一緒に生活するポランティアをしていたので塩山は何回も通っている。桃の花といったら塩山のあの景色を思い浮かべるなあ。農園に降りるなり高齢の方が小さなナイフで手早く桃をむいてくれてその場で美味しい美味しい言いながら食べた。手がぬらぬらになるのも外だと気にならないしね。手をきれいにするというところまで混みでむいてくださっていますし。自然の中でいちじくをとったり鳥兜を「触るな」と言われたり音楽室でバンドで歌ったり騒いだり眠ったりシベリアンハスキー2頭の散歩行ったりウサギを校庭に離して草食べさせたり、烏骨鶏の卵をいただいたり。チーコだっけな。とってもかわいいひよこがどんどん大きくなっていくのにはびっくりしたしなんかどんどん立派になって別の世界へ行ってしまったと感じて悲しんだこともあったな。修羅場ありつつ楽しかったけどあんなことよくやってたな。すごい体力。地元の子たちもよく遊びに来てくれた。ちっちゃい頃からよく遊んでいた子に弟や妹ができてたくさん面倒もみた。彼らは別の世界へとは思わなかったな。当たり前か。チーコの世界はどうなっていたのかなあ。かっこよかった。こっちはカラスが鳴いてるよ。こんなとき「君が御代をば 八千代とぞ」とか「君と好きな人が百年続きますように」とかいう気分になるのね。みんなに幸あれと。

そうそう、この前高崎に行ったばかりだからなおさら思い出したのかもしれないけど高崎市山名町に石碑之路(高崎自然歩道)というハイキングコースがあってそこに万葉集の歌碑がたくさんあるの。寂しくて悲しい歌詞が多くてね、山の中で読むとなおさらジーンときてしまうのですよ。

自分のお気に召さないと葛藤するのがいやだからすぐ別の人で代替、補完してしまうような、人を想う余裕などないというか人を人とも思わない人もいるしそういう人でも本の言葉、他人の言葉とかを上手に借りて葛藤について語ることはできてしまう。でもできたら想うこと、想うがために生じる葛藤から言葉を紡げたらいいのではないか。こっちはポイ捨てしたしこっちには上手く隠せてるしこっちは絶対に味方してくれるしみたいな感じで葛藤なき世界を作り上げることはできてしまうけど。葛藤することが実はいかに難しいかはこの仕事をしてればわかる。してなくても体験から知ってるかも。多くの犯罪と彼らの言葉を知ればその極端な例もわかる。そうでなくてもあんぐりしてしまう言い分もたくさん聞くし巧妙な言い回しもたくさん聞く。嫌ね。辛いね。苦しいね。私はネガティブな方に強く気持ちを揺さぶられたらとりあえずじっとする。時間経過でそれがどう変わっていくか観察する。それから表現する、なんらかの形で。直接的にすることもあればただ黙々と不特定多数の相手にそうするだけのこともある。ある事象に関しては即座にパターンとして表出することもある。俳句や和歌にできる人が羨ましいけど自分が壊れてしまわないためにやることは自分なりの形式でやればいいのだろう。

さあ、今日は水曜日。まだまだですね。なんとかやれたらいいなあ。みんなはどうですか。どうぞご無事でお過ごしくださいね。

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俳句 言葉

滑らかに。

領収書全部やっつけたぞ、と思ったけどamazonで買った本が未入力だった。あーあ。どこかでわかっていたはずだぞ。あーあ。私の支出はとてもわかりやすく家賃、書籍、訓練費、その他という感じ。ほかにほしいものも必要なものもないから問題ないけど。あ、甘いものにお金使いすぎなのは問題かも。オフィスのある西新宿は新宿の雑踏は越えるけど歩けばコンビニ、セブン、ファミマ、ローソン全部にあたる。ミニストップも遠くない。こんな環境で我慢とか無理、とか環境のせいにしたくもなるけど変わらない自分なりに少し工夫をしましょうね、と思うのですけどね。春は、夏は、秋は、冬は、と全部の季節を言い訳にできちゃうからなあ。加齢が最も現実的なストッパーかも。

今日は3月14日火曜日。日めくりは「花種を蒔きて呪文を掛けておく 太田土男」つちおさんって読むのかしら。お名前とピッタリの一句。花種は春に蒔く種のことで夏か秋に咲く花の種ですって。どんな呪文を掛けましょうか。すごく先のことより少し先の季節に向けて欲張らずに。うーん。呪文というとなんか怖い花が咲きそうだけど種を蒔く人が掛ける呪文なんだから花に何かを託すわけだよね。何を託しましょうか。適当に呪文めいた何かを唱えながら種蒔きすること自体楽しそうでいいことありそうだからそれだけでもいいか。でも「無事に咲いて」と願うのだって小さくない願いかもしれない。だからどうかそれまで無事にいられますように、呪文が守ってくれますように、って考えるとどんなのがよいかしら。とかいっている間にきっと季節はどんどん先へ。どうにもならないこともたくさんあるけどとりあえずとりあえずでどうにかこうにか生きていけるように願う言葉をそのまま呪文に。大江健三郎さんが光さんと一緒にうちの大学にいらしたのはいつだったか。仙川あたりによくいるけれど見かけても声をかけないでください、と上品におっしゃっていたっけ。なんだかいろんな人が引き伸ばしてくれた時代が終わりに向かっているようでとても寂しいけれど亡くなったことではじめてその言葉を知る世代もあるでしょう。少しずつ少しずつ。断絶よりは滑らかに。

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あれはなんだったんだろう 言葉

実験、「あと」、「被害」

資料を作らねば、と毎日言っていて、それなりに作っているのだけど次から次へと。ここに書くようなことと違って吟味が必要なので時間がかかってしまう。がそういう作業が背景にないとこんなところでこんな実験みたいなことをしていても意味がない。私にとって、だけど。ここは実験場所だったり自分の状態を確かめる場所にもなっているから。言葉が出てくるスピードとかトーンとかは自分にしか感じられていないのだけれど内容よりもそっちの方に意識を向けて今日のそれがどうであってもしいつもと違うならどうしてかということをなんとなく考えながらこうしている。バスケ部時代に連日とてもきついフットワークをやっていた。身体の動きとしてはもう染み付いているから、というか新しい動きが加わるときにそれまでの動きがいかに染み付いているかがわかるのだけど、そういう自動的に動く身体を基盤とした行為に無意識が宿っている気がするのかもね。身体の調子が悪い時って意識的には何も考えてないみたいな状態になりにくいもの。バスケで怪我したときみたいに庇いながら動く

とどうしても全体のバランスが悪くなるし。というか当時結構な怪我してても部活休まなかったのはどうしてだろう。普通休むだろ、と今なら思う。いろんなおかしなことをしてしまってるよね、毎日。きっと今日も何かしらするでしょう、あとから思えばどうしちゃったんだよみたいなことを。その「あと」がいつになるかわからないけれど。

ここ数ヶ月、被害と加害ではなく「被害」についてずっと考えている。臨床では加害者臨床ということがあるのだけど被害者臨床とは言わない。普段の臨床で被害か加害かで考えることも少ない。そんな単純ではないから。それでもある出来事から「被害」と呼びうるものが確実にあることを知ってそれについてずっと考えている。その人がそういえばそう、みたいな言葉の使い方ではなくてむしろそういう風な言葉の使用を含めてその言葉が使われる意味を考えている。

あ、資料作らねばだった。あと少し。東京は今日は晴れ。昨日も晴れだったっけ?とにもかくにもどうぞお元気で。怪我とか風邪とかにも気をつけてお過ごしください。

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俳句 言葉

個人、関心、句友

今日は雨の予報なんですね。たまには降らないと地球水不足になってしまうけど今日は降らないでほしかったな、なんて個人的な事情はね、ああ、個人的な事情って本当に世界には関係のないこと、というか、相手が傷つこうか死んでしまおうがやりたいことをやる人はやり続けるものですね。世の中で関心を向けられるべき人は現在それを得ている人たちではないのはたしかでしょう。あからさまな差別をしている人たちはいうまでもなく、口先だけの心優しき強者も弱者には見えないコミュニティでもこれまで通りの賞賛と共感を得られるでしょうから色々なかったことにして弱者も共存するコミュニティにいい顔して入り込むのは避けてほしい。それはこういう文章を書くという行為であっても同じことだと思っています。とかいったところで傷つけられた個人がそう思っているだけの場合は集団における印象というのは変わることはないし、支持と共感のおかげで弱者を差別する自分を上手に後悔して過去の「失敗」にできてしまう人のほうが肯定的な関心と評価を得るのが「ふつう」です。構造的な問題、と日々激しい口調で言っている人でさえたやすく巻き込まれてしまいますから。声をあげるなんて怖くてしかたなくなりそうです。一方、日々死にたいと思いながらもなんとか生きている弱い立場の人たちに例外なく優先的に関心を向け一緒に考えていくことができるのもまずは個人でしょうから、まずは自分ということになるでしょうか。

昨日は久しぶりに句友の連載や句評をたくさん読んで残酷な社会との関わり方のひとつとしての俳句に励まされました。彼らはとても優れた書き手ですが書き手として生活しているわけではないし俳句で食べていく人もごくわずかでしょう。基本的にわざとらしさを嫌う俳句同様、自由で気楽な雰囲気を感じる文章はいつも新鮮です。一方的ではない関係で地道に言葉のやりとりに支えられながら今日も一日。

ああ、雨ですかねえ、東京は。鳥は今日も元気そうです。みなさんもどうぞご無事にお過ごしください。

スヌーピーに鳥の友ある日永かな 斉藤志歩

斉藤志歩『水と茶』(左右社)より

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精神分析 言葉 読書

ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。

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写真 言葉 趣味

映画、写真、まなざし

今朝は南側の大きな窓の間近、いつもより近くで鳥たちが鳴いて飛び去った気がした。今はだいぶバラけた個別の声が聞こえるだけ。

ケイコ 目を澄ませて』の友達同士のおしゃべりのシーン、本当に素晴らしかったなぁ。言葉を話すとはこういうことかとその手話の美しさに圧倒された。

いつまでも子供でいたいあの人の言葉にもっとも欠けていると感じた自然な「流れ」。

上原沙也加のニコンサロン(新宿)での個展「眠る木」にも連日行ってしまった。そこに写されていないものを写せる写真家なんだなあと涙が出た。「写真集、届いたら楽しんでくださいね」「楽しみます。とても楽しみ」と話した。

自分に意地悪な人は理論武装してもいくら愛想よく気遣いに溢れた振る舞いができても意地悪がこぼれでてしまう。それに気づいたり傷ついたりしてしまう人は亡き者に。攻撃的で衝動的な自分が嫌で仕方ないから他人を使う。自分を保つ。写真には写らない。けど写ってる。誰もが歴史と場所に痕跡を残してる。いずれ誰かに、と。

残酷な現実があるから成立するまなざし。それを単純化しないことが大切な気がしている。普段はごく普通の思いやりで、何かを指弾するならできる限り冷静に正確に。他者とは利用や馴れ合いではない協力を。孤独で冷徹な自分を十分に感じつつ。

あー。寒くて動きたくないけど仕事行かねば。みなさんもお身体お大事にお過ごしくださいね。

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精神分析 言葉

共謀とか同一化とか

なんでもいえちゃう言葉で誤魔化されるとその人らしいなと感心するけど笑えない不安が高まっている状況で使われると嫌な気持ちになりますよね。フレンドとかパートナーとか関係を表す言葉は特にいろんな含みがあるので中身をきくと「うわぁ、あの人とのことそんなふうに言っちゃうんだ」とか「あーこの二人はこうやって共謀しているんだなぁ」と思うことも多くないですか。治療関係でも物は言いようみたいになってるときは対象不在だったりするから気をつけないといけないなと思います。誤魔化したり嘘ついたりして自分のことばかり守りたくなっているのがそういう状況だと思うので。なかにはそういう言葉を指摘されると急に怒り出してしまう場合もありますね。それはそれでまた誤魔化しの上書きがはじまっているように感じたりもしますが、こちらも怒られてしまうと怖いし嫌だから「(自分が間違ってるって言われてるみたいで嫌なんだよね。間違いとかではなくて相手のこと考えてないよねってことなんだけど)」といろいろのみこんであちらの機嫌を優先しがちではないですか。特に女性が男性に言われる場合は。相手を優先した結果「それでよし」みたいな感じを醸し出されると本当にうんざりするけど「ごめんね」とか言われるのもうんざりです。受け手の体験としてはどっちにしても黙らされてるわけですから。こういう構造にどう立ち向かっていきましょうね。せめて自分がひどい傷つきをなかったことにしないことが必要でしょうけどひとりでは難しいですよね。そういうときは助け合いましょう、誤魔化さずになんとか踏ん張れるように。攻撃者との同一化という考えが精神分析にはあって「女の敵は女」とかがいい例ですがそうなりやすいのもたしかみたいです。ただ、そう言ったところで特にいいことを生まないのでうまいこと言う能力はなくても自分の痛みや悲しみから行動を立ち上げていけるように助け合えたらいいなと思っています。お互いに。必要なときに。週末もなんとか過ごしましょう。よくお休みになれますように。

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短詩 言葉 読書

「柔らかな舞台」のこと&追記

色々大変なのは変わらないけど昨晩はひどかった。寒すぎた。今朝は無事にご自身の畑(でいいのかな)で採れたというキウイもいただけたしなんとかいけそう。

忘れないように、という話を書いたけど忘れないようにしなくても忘れられない部分が人を苦しめる。フラッシュバックとは異なってもトラウマに関する病名がつかなくても苦しいものは苦しい。動けなくもなる。思考できない部分にものすごく消耗する。どうしても目にしてしまう状況で小さく積み重なっていく新たな傷つきとこれまでを切り離すには助けがいるが言葉にすることも難しいだろう。とりあえず一緒にいてもらうことが一番安全だったりする。

先日、東京都現代美術館へオランダの現代美術を代表するウェンデリン・ファン・オルデンボルフのアジア初となる(と書いてあったと思う)個展『柔らかな舞台』へいった。
植民地とフェミニズムがメインテーマだと思うが、よくある「対話」におさめない複数の共同作業の交差や重なり合いのなかで問いかけるような映像と配置がとてもよかった。写真が好きな私は「撮影」という手法自体に興味があるのでチェックしたい作家になった。映像作品を全部見るのに時間がたりずどれも中途半端になったがそのためにウェルカムバック券というのも用意されていて一応いただいてきた。期日中にまた行けるといいな。

いつも以上に頭が働かないなあ。みんなはどうかな。ため息つきつつ休みつつなんとかやれたらいいですね。ブアイブアイ(身内で「バイバイ」をいうときこう言っていた時期がある)。

ー数時間後の追記ー

メモなんだけどウェンデリン・ファン・オルデンボルフの作品を見ながら映画批評家の三浦哲哉さんの『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を思い出した。この本の問いは

「映像が動く。ただそれだけのこと(傍点)にただならぬ感動を覚えるまなざしがあるとすれば、それは具体的にどのようなものか」

というものだ。アンドレ・バザンによるリアリズムの定式化を検討するところから始まるこの本は映画の「直接的な力」を「リアル」という言葉ではなく「自動性automaticité,automatisme」の概念によって定義しなおそうとする。ちなみに本書の『映画とは何か』という書名はバザンがその遺書の題名として掲げた問いだそうだ。

まだ実家にいた頃、父の書斎には夥しい数の「β」がありたくさんの映画を見たがあまり記憶にない。フランス現代思想の講義(主にドゥルーズ)にも色々と出たがこちらもあまり記憶にない。よって私はフランス映画にもフランス現代思想にも詳しくないのだがこの本がそういう人にとっても興味深く読める理由は先述した問いに力があるからだと思う。2014年刊行のパラパラした記憶しかなかったこの本を映画でもないこの個展で想起し再び手に取るとは思わなかった。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの展示では最初壁にかかったイヤホンをとってから進む。入り口からどちらの方向へいっても構わないがおそらく大体の人は時計回りに、しかも入ってすぐに聞こえてくる対話に注意を向けるだろう。そしてなんとなく椅子に座り彼らの話を聞き始めるだろう。まるで外側から参加するように。そこから反対側をみると別の映像が流れている。しかもそちらは音声が聞こえない。そちらへ周りイヤホンジャックを挿せばいいのかと気づくまでに時間がかかった。字幕で内容に気を取られたのと別の画面に伴う音声で音を補えてしまっていたせいだろう。というのは私の場合で、この展覧会はおそらくはじまりから体験の仕方はかなり多様になるだろうし、そういう風に構成されているように感じた。内容に注意がいく人もいれば、映像のなかで起きていることに目が向く人もいるだろう。私は映像のなかのカメラマンにも折り重なる眼差しを意識したし、どこからどんな風に見えるのかどんな風に聞こえるのかを試してみたりもした。自分の動きによって同じものが別のものに見えてくるのは映像作品の配置だけではない。田舎の水族館のような構成だと思ったのは雨が降っていたせいもあるかもしれない。自分のまなざしが揺れる。変わる。そのうちに委ねている。

そうそう、この展覧館のチラシをパッとみたときに言葉の意味を壊すというようなことが書いてあった気がしたのだがそれは暮田真名さんが展開している川柳のようだなと思った。暮田さんは以前『文學界』に「川柳は人の話を聞かない」という文章を寄せている。私は川柳のことも暮田さんの以外はよく知らないのだけど映像に対してはこういうちょっとトンがった態度はとりにくいように感じている。映像は背景と奥行きが勝手に仕事をしてくれてしまう感じがするし、常に何かが後回しになったりどこかへ忘れ去られたりしてでもはっきりと目に入れているものもあるので複数の対話を背中に聞きながら話しているような状態に近い、という点で今回の映像のなかの、そしてそれを体験する私の状態と近い気がする。

特に何を書きたいとかでもなく思い出したことを書き連ねてしまったらなんか長くなってきてしまったのでこの辺で。ぶあいぶあい。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

無駄ってなんだったんだろう

「あれはなんだったんだろう」の時間は「余裕」があるときにやってくる。睡眠時間はそのための「余裕」ではないはずだけれど追い詰められる時間が長ければそんな変な認識にもなってくる。


「無駄な時間をありがとう」といわれた。曖昧に笑った。心が曇った。心があるとしたらの話だけど。なんの余韻も言葉もなくひきはがされることには結局慣れなかった。言葉や仕草の乖離やわからなさを埋めるのに消耗した。そういえば「無駄」って國分功一郎さんや藤原麻里菜さんにいわれたならうれしかったかも。そういうつもりだったのかな。誰かの真似が多くてよくわからなかった。どうにかこうにか大好きな気持ちと折り合いをつけようとしているうちにもいろんなところが裂けていった。傷口がふさがる間もなく。何か答えれば馬鹿にしたように首を傾げられたりため息つかれたり不機嫌になられたりした。最初はからかわれてるのかと思って情けない気持ちで笑ったりしてたけどだんだん怖くなった。「あれのこと?」といったら「わかってるじゃん」とうんざりされた。え?普通に考えたらわからないからわかろうと思っただけなのだけど。同じスピードで処理できないよ、あなたが見下すとおり馬鹿なんだから。体調が悪いことも増えて病院へ行く時間も増えた。体調が悪い、今日は病院、と伝えてみたけど思った通りお決まりの愚痴が返ってくるだけだった。SNS との乖離がすごすぎてこっちを信じていたけどそっちがほんとだったみたいでびっくりした。ほんとあれはなんだったんだろう。唖然としつづけている。文字情報のない世界に生まれたかった。あれはなんだと問わなくてもいいように。


そう、言葉は怖い。相手がどんどんなかったことにできるのは言葉のせい。だから逆に言葉でそれを大切に保存していく。いずれ戦うならそのために。一方的に戦いの言葉にされた気持ちを取り戻すならそのために。

それではそんなこんなでも良い日曜日を。

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仕事 言葉

どんな一日、どんな言葉

公に向けた仕事ができる人の特権、というのを「加害」「被害」の関連で読んだ。今回は本を書く人が特定の相手を傷つけたという事態。相手あることを事実として書くのにその言い方は、と最低限必要と思われる著者の想像力に基づいた配慮がなかったらしい。一方、そういうのを平然としないでいられる人の言葉だから一部の人に「ウケる」というのもあるのだろう。「相手」の苦痛は計り知れない。DVやいろんな中毒について考えるときにも同じ問題がある。人は発信せざるをえない。誰もが苦しい。特にものを書く仕事の人はそれで生活しているから書かざるをえないというもあるだろう。なんにしても「相手」あることをどう考えるかというのは人として一般的に持っていると想定される心的機能をどの程度使えるかということでもある。機能不全を起こしていても公に向けて書いて人気者になったり信頼を集めたりすることはできる。だったらむしろAIの方が、とか。

少し前に私は女が傷つきについて書くとき、まずは、主観的一方的に書く必要があると思うというようなことを書いた。書くのが仕事の人は別だろう。個人的な語りの場合だ。女性は構造上の問題に囚われ自分の言葉を奪われやすい。もちろん女性に限らず構造上の問題にがんじがらめになることはあるのでその場合も同様。私の仕事はそういう語りが可能になる場を提供しているのだと思う。外で話したら何回でも何重にも傷つく可能性がある思いや考えを言葉にしてみる。その手助けをする。これはこれで本当に難しいが大切なことだ。

切りつけるような言葉を言った相手が次の瞬間には多くのフォロワーをもつSNSで軽薄な言葉を使用しているのを目にする、そういう時代でもある。言葉の使用はどんどん残酷になり見えない分断の種をまいていると感じる。特定の相手にとってはその人はそういう人だとわかっていてもよくそんなことが平然とできるなという理解できなさにずっと苦しむ事態でもあるだろう。そのせいで起き上がれず何もできないのに相手の活躍を目にしなくてはならない、ますます苦しい、ということもあるだろう。当たり前だが個人的な関係は外からは見えない。個人的な状況と文脈を考えれば明らかに自分に向けられた揶揄にたくさんの♡や「いいね」がつくのを目にすることもある。「自分のことをいわれてると思ったんですか」と言われてしまえば黙るしかないかもしれない。でもまぁそれでも「ああまたこれか。直接的に相手がわかる形でされるよりはましか、この人いつもこうだし」と「〜よりまし」「いつもこうだから仕方ない」という方法で怒りや衝動を抑えこむ場合も多いだろう。そうして何十年も経ってからカウンセリングに訪れることもある。怒りを向けるべき相手が事故で亡くなったり病気にかかったりすることが契機になることもある。「どうしてもっと早く」と周りは思っても外からは見えないことの方が世の中には多い。そんな簡単ではないのだ。むしろ簡単に切り替えられてしまうのを目にすることで動けずに時間が経ってしまうことだってあるのだ。

今日はどうだろう。どんな言葉を受け取り、どんな言葉を使うだろう。動けない人たちに向けて言葉にならない人たちに向けて私は仕事をする。そのために私は私のこともどうにかしようとしているつもりだけどどうなのかな。難しいですね。東京は雨のち晴れですって。みんなの場所はどうだろう。がんばろうね、ただ耐えるだけの時間と感じているかもしれないけれどなんとなく誰にともなく。

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言葉

「幸福」

ミナ ペルホネン(minä perhonen)の皆川明の文章を読みながら「幸福」という言葉をずるいと感じた。その文章自体は一見すればごく当たり前に大切な、でも大抵の場合は困難な関係を記述したものだった。まだどうしても立ち上がる力が出ない身体にはさらに重たく感じた。

幸福という言葉はずるい。頭痛がひどくなる。差異をうやむやにしたりいつでも反転可能な状態にしておけるこういう言葉にはなすすべなしと感じる。しかし実際幸福というのはそういうもののようにも感じる。取り巻く状況も最悪で、心身の状態も最悪で、私たちの関係も最悪なように思えるのに会い続ける中で時折訪れるあの感じ、そこだけふと明るく温かくなるような一瞬、あれは多分幸福な瞬間だ。でもすぐに消える。やっぱり幻だったという絶望と引き換えに。

会い続けるのが条件。そのためには幸福を感じられることが条件。無限ループ。断ち切るか継続にかけるかはその人次第だと思うがそれだっていつだって「そんなつもりはなかった」という言葉で無効化できる。時間って?責任って?愛情って?そしてやっぱり幸せって?

昨日は真冬のようだった。今日の光は溢れんばかり。日々は続く。空。見上げるしかない。包まれるしかない。心身への影響も回避できない。一喜一憂。これまでだってそうだった。

「100年後を想う活動」、ミナの理念。憧れのブランドは着るには身近ではないけれど作品としても追っている。ひとつひとつの手作業に潜む記憶。それを無意識的に受け継いでいくこと、離れても纏うことでじっと感じる、そうしたいしたくない以前に。そんな行為を幸福と感じられたら。今日もなんとか。

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精神分析 言葉 読書

言葉とセクシュアリティ

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ、と昨日書いた。

図書館という設定の豊かさを改めて知った。桜庭一樹の小説で図書館最上階に住む女の子の話、なんだっけ、思い出そうとすることは全て思い出せないといういつもの現象。その子はすっごく頭が良くてというのは覚えている。あの設定も素晴らしいなと思ったしほかにも図書館が登場する小説は多い。檻でもなく鳥たちを窓の外に本の内に息づかせ、どんな人でも利用できるマージナルな場所。

この本ではここが主人公と外界の中間領域となる。彼だけがその言葉を理解する兄との場所ではなく、鳥たちとの交わりえない交流でもなく。もうこのあたりから私は切なくてどうしようもなくなった。多くの患者さんを重ねてしまったからだ。

言葉が通じると感じられる場所。「通じる」とはなにか。

「それはごくありふれた事務的な連絡事項にすぎないのだとよく分かっていながら、小父さんはなぜか、自分だけの大事なお守りを無遠慮な他人にべたべた触られたような気持に陥った。」—小川洋子『ことり』

想いは空想は生み言葉を暗号化する。セクシュアリティの機能だろう。身を隠すようにささやかな生活に「じっと」身を浸してきた彼はもはや本を閉じたら消えるような世界にはいない。著者は極めて耽美に鳥から人間の声に耳を澄まし始める主人公の様子を描き出すが、一瞬のセクシュアルな混乱や相手はこれを夢だと知っているという現実もさりげなく織り交ぜる。

「一粒だから、今でも夢のように美味しいと思えるんです。」–小川洋子『ことり』

言葉とセクシュアリティ、精神分析が取り組んできたもののすべてだろう。切なさも絶望もささやかな喜びも自由を求める衝動も私たちは患者との間で体験する。

セクシュアルな感覚は人を少なからず病的にする。言葉は暗号になったり精神安定剤になったりする。簡単に絶望しODしたりもする。確実な言葉などどこにもない。のみこんでも吐き出しても不安は尽きない。

時を重ね身体を合わせ言葉を交わし続けるなかで言葉の質がふと変わる時がある。この本の主人公は長く継続的な関係を築いたのは兄のみだった。彼のセクシュアリティは幻滅を体験するプロセスにはいるほど機能していなかったのかもしれない。継続的な関係ではお互いがお互いを想う限りにおいてセクシュアリティと言葉は錯覚と幻滅を繰り返しそのあり方を変えていく。それはふたりのプロセスでありもはや切り分けることはできない。

たとえば一方が急に謝った。するともう一方はそれに被せるスピードで「なんで」といった。今誰と対話してた?私はあなたのその部分だけを切り離して考えるなんてできない。それが「世間」からみてどうであったとしても。

分析家がスーパーヴァイザーや文献との対話を「今ここ」に持ち込むことを患者は嫌う(ことがある)。外側の第三者が私たちの何を知っているのか。私たちはそれぞれの関係を築いている。

一人の、あるいは第三者のモノマネのような言葉はセクシュアリティが引き起こす危機とは別の困難を生じさせる。それはこの本を読めばわかる。

言葉を紡ぎ二人が繋がり次へ繋がっていく。セクシュアリティのもつ豊かさと困難を毎日そうとは知らず生きている。そんなことを考えたので書いておく。