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精神分析 精神分析、本

『女の子のための西洋哲学入門』を読んだり。

昨晩は久しぶりにピカピカの月をみた。キラキラの朝顔もみた。昨日会った人は、じめじめした空に慣れてしまってなんか変な感じ、と青空を見上げながらいった。

ギリシャ神話でハデスにさらわれたペルセポネーはどんな空をみただろう。大西洋奴隷貿易でさえらわれた女の子たちはどこから空をみただろう。

昨日、精神分析も哲学も男の言葉ばかりだと書いた。祝日に久しぶりにゆっくり読書して満足だったはずなのに「なんか男の言葉ばかり」と気づいて悲しくなった。そして、そうではない本を開いたとも書いた。

それが、メリッサ・M・シュー、キンバリー・K・ガーチャー編、三木那由他・西條玲奈監訳『女の子のための西洋哲学入門――思考する人生へ』(フィルムアート社、2024年)である。

共訳者は、青田麻未、安倍里美、飯塚理恵、鬼頭葉子、木下頌子、権瞳、酒井麻依子、清水晶子、筒井晴香、村上祐子、山森真衣子、横田祐美子。

今朝は、その第13章、シャノン・ウィナブスト「人種――『人間』という概念に見られる存在論上の危険性」(権瞳訳)について少し書く。

原著の書誌情報は以下のとおり。

Winnubst, Shannon. “Race: The Ontological Crisis of the ‘Human.’”In Philosophy for Girls: An Invitation to the Life of Thought, edited by Melissa M. Shew and Kimberly K. Garchar, 181–192. New York: Oxford University Press, 2020.

章題だけを見れば、ハイデガーの「世界内存在」の話かな、と、少ない知識で思ったりもする。けれども、読みはじめればすぐに、そのような思索を支える足場よりも前にある現実に打ちのめされる。歴史のなかを生きたはずのひとりひとりの女の子たちは記録から消し去られ、故郷、家族、名前、身体の安全という、世界内存在を成り立たせる意味の連関を暴力によって突然断ち切られた。女の子たちはもはや世界と関わる主体ではなく、他者の世界を支える商品へと変えられた。そのようなことが本当に起きていたこと、そして、そのとき作られた「人間」と「黒人」の区分が今なお世界を形づくっていることを、私たちは淡々と知らされる。

著者は、「人種的に『白人』とされる人々は[著者を含む]、こうしたカテゴリーについて真剣に考えるよう無理強いされたり、促されたりせずに済んでいます」と、自らの社会的特権を自覚しつつ、奴隷船へ押し込められることで、人間から積荷へと変容させられた少女たちが越えさせられた境界―「帰らざる扉」―の前で、私たちも立ち止まってみないか、と誘う。

私たちは、おそらく、世界内存在として生き、その世界を世界として認められることが、すべての人間に等しく許されてきたわけではないと知ることになる。世界内存在は哲学の概念としては普遍性をもつかもしれない。しかし、本章で「ヴィーナス」と呼ばれる女の子は、世界をもつ主体としての位置を剥奪され、「人間」というカテゴリーからも外された。

そこで奪われたのは、彼女の内的な世界形成能力そのものというより、彼女の世界が一つの世界として承認され、持続し、他者と共有されるための社会的・物質的条件である。彼女は感じ、恐れ、望み、空想し、愛したはずである。しかし、それがどのようなものであったのかを、私たちは知ることができない。ウィナブストは書く。

「希望、心配、欲望、恐怖、空想、快楽、愛などといった、女の子のなまなましい感情のひだにはいっさい触れることができないし、これからも、知り得ることはないでしょう。」

もちろん、歴史上の記録が残されていないこと自体は、大多数の名もない人々についてもいえる。だが、ヴィーナスの場合、彼女の固有の生は記録されなかった一方で、彼女を商品や性的対象へと変えた側の記録は残されている。そして、彼女の固有性を消し去ることで作られた「黒人の女の子」という虚像は、今なお生き続けている。

私はさっき、「希望、心配、欲望、恐怖、空想、快楽、愛などといった」と書いたが、実は「快楽」という言葉だけを書き落としていた。精神分析にとって中心的であるはずのその言葉だけを写し忘れた自分について、しばらく考えた。私は、快楽をもつ女の子のことを考えるのを、どこかでためらったのだろうか。もちろん、ただの転記ミスかもしれない。しかし本章の冒頭では、ペルセポネーの誘拐が「実は性的な意味合いも持つことには一切言及はしないままに」語られている、と指摘されている。私は、女の子の生にある快楽や性的なものに言及せずに済ませる、その身振りを反復してしまったのではないか。それは、一方では、暴力を性的な物語として消費してはならないと思うからだろう。けれども、「ヴィーナス」から快楽を取り除くことは、「ヴィーナス」を別の仕方で犠牲者に固定する暴力にもなりうる。確かに生きていたにもかかわらず、歴史の記録から固有の生を消された女の子から、さらに何かを奪ってはならない。

こういうことに気づき、考えるのはとても辛い。悲しい。でも、辛いのは私ではない、という声も自分の内側から聞こえる。だからといって、考えないというのも違う。どうすれば、彼女たちの知られることのない生をこちらの物語で埋めることなく、その存在を歴史に書きとめることができるのだろう。

他者のための場を保つこと。現時点で私にできるのは、それと、あと何だろう。やはり、言葉を控えることなのかもしれない。強要された沈黙ではなく、自ら選ぶものとして。他者のために。使うべきは口ではなく、耳だろう。

私は、今日も自分の足で歩き、空を見上げる。何度も、好きなときに見上げるだろう。世界中の女の子がそうであったらよいのに、と。そうではない世界のことを思いつつ。