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精神分析

思春期、トレーニング、レイ・アナリスト問題

いいお天気。洗濯物をベランダへ。風ひとつない。全然揺れない。光がいっぱい。昨日の保育園の帰り道、区の先生と色々話す合間にいちいち「寒い寒い」といいあった。向かいの家の屋根はまだ濡れて光ってる。コーヒー飲むと暑い。と書いたのは何度目だろう。今朝も足柄の洋菓子屋さんのお菓子。フルーツパウンド。コーヒーにぴったり。足柄に住んでいた子と一緒に合格発表を見にいったなあ。若いときはそういう部分の親代わりみたいなこと結構していた。このときもそんなやりにくいことを私がやるのかと思ったけど結果が残念だったからこそ一緒にいられてよかった。長い付き合いの子だったけどあんなふうに感謝されたのははじめてだったな。今はオフィスやクリニックで思春期の子供たちが大きくなっていく時間を共にしている。大人になってから会う人とはまるで異なるインパクトを持つ彼らの言語や身ぶりに圧倒されたり笑いあったりこういう豊かさをみんな持っているはずなのだろう、本来は。ないものはないし見えていないものをあるはずと想定することは安易にはできないが密な作業を継続的にしていくことで出会う言葉や気持ちはそれまでと全く異なるものだったりする。「これこれこうするとこういうことが起きますよ」という意味ではこういうことが起きるのが精神分析的治療なのだけどこれは他人からみたわかりやすい「良さ」には繋がっていない場合も多いのでなかなか難しいところ。適応はよくなることがほとんどだけど適応は目的ではない。自分の不快さにとどまることを誰かと共にいながらその共にいてくれる誰かに侵襲されながらそれを反復に組み込んでその誰かをもそこに巻き込みながら共にそれを体験しその中で二人とも生き残る。結構な作業なのでトレーニングは必須だ。共倒れするわけにはいかない。そう、精神分析のトレーニングのことを調べていた。今回はラカンがSPP(パリ精神分析協会)の分裂によりラガーシュ一派としてSFP(フランス精神分析協会)の訓練分析家になりセミネールをはじめるまでのところをIPA(国際精神分析協会)の様子と関連させて調べていたが、精神分析のトレーニングはこうやって常に物議を醸すものなので結局いつも何度も調べ直すことになる。それは私自身のアイデンティティと関わるのだから必然的にそうなる。

1910年に設立されたIPAに所属する分析家が増えるにつれて制度化は求められ国際規格の訓練の義務化が動き出した。1925年バート=ホンブルクBad Homburgでのコングレスでのことだ。IPAの歴史はIPAのウェブサイト、HISTORY OF THE IPAで読める。現在はEitingon, French and Uruguayanの3つのmodelがIPAのトレーニングの基盤をなす。ちなみにこれは地理的な区分ではない。この前史、つまり1925年バート=ホンブルク以前のトレーニングを巡る状況とバート=ホンブルグ以降、Eitingonが主導したトレーニング委員会(International Training Board (のちのITC)が成した仕事をレイ・アナリストの問題と絡めて論じたSchröter, M. (2002) Max Eitingon and the Struggle to Establish an International Standard for Psychoanalytic Training (1925-1929). が非常に参考になった(IPAジャーナル83:875-893)。こんな感じ↓で動き出したらしい。

A new chapter in the history of psychoanalytic training began in 1925 at the Homburg Congress with a ‘Preliminary discussion of the question of analytical training’, convened by Eitingon. This led to the Congress decision that all the branch societies should elect a training committee and that the committees should combine to form an ‘International Training Commission’, to act as the ‘central organ’ of the IPA for all questions relating to psychoanalytic instruction (Int. J. Psycho-Anal., 1926, p. 141).

ただこのこのPreliminary discussion予備討論やcentral organ中央機関の設立がいつ、誰によって構想されたかは明確ではないとのこと。草案から今に至るまでさまざまな経緯があるわけでラカンはフランスでその影響をうけたわけだ。

ちなみにレイ・アナリスト問題というのは常に重要で以前から何度か「素人分析の問題」が収められた『フロイト全集19』の月報で國分功一郎さんが書かれた文章を紹介してきた。今はブログでは読めなくなっているようだが昨年出版された十川幸司 、藤山直樹 編著『精神分析のゆくえ 臨床知と人文知の閾』(金剛出版)の第1章でより詳しく國分さんの考えを知ることができる。この本は精神分析家の藤山直樹先生と十川幸司先生が主宰する小寺記念精神分析研究財団の学際的ワークショップ「精神分析の知のリンクに向けて」を書籍化したもので第二回「『素人分析の問題』をめぐって」は第1章「素人分析の問題」で論じられているのでぜひ。

今日はイレギュラーな用事がある日。まだ少し風がひんやりだけど暑くなるかな。気温差に対応できないけど体調崩さないようにしたいですね。週の真ん中。なんとかなんとか一歩ずつ。

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雨、お菓子、ラカン

鳥ってまとまって鳴いたと思ったらすぐに遠くにいってしまう。南側の大きな窓から外をみたら向かいの家の屋根が濡れていた。窓を少し開けたら薄く濡れた屋根に水滴が跳ねているのが見えた。少しだけ降っているのね。この時期は雨は降るものと思っておいた方がいいね。梅雨がくる。

私は群馬育ちで伊香保温泉とかグリーン牧場とか(これは私の中ではセット。今だったらここに原美術館ARCが加わる)身近なんだけど温泉といえば温泉饅頭。伊香保だったら清芳亭の湯の花饅頭。うちはこれ一択でした。饅頭屋さんにも色々あって、と落語みたいな話をしたくなるのだけどとりあえず今は神奈川県足柄郡の温泉土産クッキーをいただいています。あと同じく足柄土産レーズンサンド。レーズンサンドというものがございます。これもいろんな土地のいろんな店がありまして、と落語的雑談がしたいのだけどあとで誰かとしませう。

週末は久しぶりにフランス精神分析に触れた。立木康介さんにいただいた『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』(講談社選書メチエ)は最近読んだけど。あれもラカンの基本的な概念がわかりやすく取り上げられているのだけどフランスの精神分析家の論文を読むにはもっと基盤を勉強しないとダメだなと思ってちょっとずつまたラカンを読み始めた。私の持っている岩波書店のセミネール(これとか)はきれいなまま時を過ごしてきてるから途中のページでもパタンって開くくらいに読み込みたいですね、死ぬまでには。『精神分析の四基本概念』上・下は文庫で読めます。「四基本概念」って言い方、少し変だと思うのだけどそんなことない?

セミナーでも確認があったけどラカン派精神分析は診断カテゴリーを神経症、精神病、倒錯の3つに分けていて、神経症と精神病の違いは雑にいえば了解可能か不可能か、抑圧か排除か(本当になかったことにできてしまうのかどうか、対象がいるかいないか、備給の話、つまりナルシシズムとか転移の話)、空想か妄想か(外的現実の認識と象徴化の話)など。全部フロイトが基盤。ラカンの鏡像段階は有名だけどラカンは自我を鏡像的なもの、つまり想像的なものと捉えていてその起源を他者というかイメージにおいている。この時点で「現実」から引き離される。言葉が重要なのはその不在を埋めようとするから。言葉がいつも嘘っぽいのはそのせいというか現実に直接触れる言葉というものはないからなんだよね、みたいな理解でいいのだろうか。とにもかくにも同じ用語を使っていてもそれが意味するところ、しないところが異なるので勉強しないとなあと思った。でも以前よりもラカンを読むのはずっと楽でそれはフロイトをたくさん読んできたからだと思うんだな。とりあえずフロイトに戻らないことにはというのがラカンだもんね。今回はアンドレ・グリーンのウィニコットへのオマージュ論文だったからどうしてもウィニコットを読むということ自体も振り返らざるをえなかったな。フロイトを読むのとウィニコットを読むのはまるで違う。ウィニコットも「鏡」の役割を重視して有名な論文もあるけどラカンとは違うこと言ってるし大雑把に「にてるーおなじー」となりがちな私は気をつけないと色々見落とす。子供と遊ぶときはいいんだけどね。子供のざっくり把握能力ってすごいから。大人になるってなんだかね。でも言葉にばかり緻密で読み方とか書き方とか教えているにも関わらず全く幼児的な大人もいるから言葉だけの問題では全くないね。それにしても大雑把な把握は俳句とかに生かすべきだわ、と今思った。俳句は不在を言葉で埋めようとしない文芸だと思いませんか。精神分析も本来そうだと思うのだけど不在を実感するためにどうしても言葉が必要になってくるから難しいんだよね、きっと。俳句も難しいけど俳句でごはん食べてないからなあ。気楽だ。

今日は事務的な失敗で時間割かれないようにしないと。いつもやるべきことをやる前の準備段階で失敗や間違いをおかしてスタート地点に立つ頃には1日が終わってることが多いから。いつもこれでは本当に困るけど老眼も進んでるし明らかに認知能力が落ちてきているのを感じるからせめて丁寧にやりましょう。もう「そういうことあるよね」とかいうレベルではないもの。まあ色々大変だけど今日もなんとかとりあえず1日を。

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ホクホク、句会色々、孤心

今朝は新しいお菓子がやってきた。温泉のクッキーとかカステラとか。嬉しいな。

句会でホクホクして一日を終えようとしたらまた自分の間違いに気づいてしまいすぐにメール。はあ。本当にね。よくやってきてるな、こんなんで。どうにかなるといいのだけど。

こんなんでもなんとかなってきてるのは助けが多いから。いつも個人にも環境に助けられている。カラスが鳴いてる。どうしたのかな。どうもしなくても鳴くか。カメラオフのzoom句会でかわいい声が聞こえてマイクマークに赤い斜線が入る。「寝たはずの子が起きちゃって」「ちょっと子どもが」と小さい子どもがいると親は大変だ。最初からカメラオフにしておくのはいい設定だと思う。昨日は知っている子どもの声が聞こえた。もうすぐお誕生日だね。また遊ぼう。一緒に絵本も読もう。コロナ以前に私が立ち上げた句会は投句と選評だけ書き込みあう会。管理は持ち回りの当番制。その後「談話室」でやりとりすることもあるけど基本的には選評で対話している感じ。「夏雲システム」というオンライン句会のためのシステムを使わせていただいているがシステムのおかげで俳句を続けられている人も多いのではないだろうか。開発、運営を一人で担ってくださっている野良古さんには本当に感謝感謝である。私たちの小さな句会にも結社の枠をこえてひとり、またひとりと人が増えてきた。コロナ前は月1回対面で集まっていた句会はオンラインに切り替えて主宰不在のまま継続してきた。私は一度抜けさせてもらったけど再開。この句会はまだオンラインだけど吟行の企画が増えてきた。参加はできないけど吟行先と句会場所を聞くだけでも楽しい。私が出ている句会はやさしいというか普通に思いやりのある人ばかりで穏やかで言葉を大切にするホクホクした時間を過ごせるから新しい方もすぐになじめると思う。俳句は「座の文学」と呼ばれるけど大岡信が『うたげと孤心』(岩波文庫)で書いたように孤心を生きるものでもある。大岡信はこう書いた。

“それらの詩人たちとは、柿本人麻呂、菅原道真、紀貫之、藤原俊成・定家、松尾芭蕉、与謝蕪村、岡倉天心、正岡子規、夏目漱石、窪田空穂、高浜虚子、萩原朔太郎その他である。これらの詩人たちは、私の考えでは一人残らず「うたげ」の中で「孤心」を生き、 「孤心」の中で一人「うたげ」を主宰し演じることに長じていた詩人たちにほかならなかった。(中略)

 この人たちも皆、悩み多き自己分裂の生を生きたのだと思うことによって、私は少なからず励まされてきたと思っている。”

借り物の言葉ばかりで支持をあつめている人は孤心ではなく孤独だけどそれもずーっと続ければ虚構にはみえず無事に孤独を防衛できたりする。ある人が書いた言葉がそれを引用したある嘘つきな人の言葉として賞賛されているのをみたことがある。虚構のための搾取、と変に納得したけど悲しかった。「孤心」を生きるというのは自分の有限性を生きることでもある。精神分析は自分の言葉で話したい、と自分自身と向き合おうとする。それを自分自身に求める人は多くないが誰かの言葉や身体を食い物にしないための一つの方法ではある。

さあ、お菓子。食べるならこっち。もうだいぶ明るい。新しい一週間をどうにかこうにか始めましょう。

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テレビ、マクドゥーガル、軽薄さ

朝早くからテレビをつけてみた。大体の人が寝ているような時間に静かにであっても会話をしている姿をみてるとなんか奇妙な感じがする。みんなが寝ている時間ならひとりになれるから、と眠らない人たちもいるわけだから本来コミュニケーションの時間ではないのでしょうね。早朝だと普段は聞こえない電車の音も聞こえる。私はオンラインのセミナーも苦手でコロナ禍ではそういう勉強サボりまくりだったわけだけど関係があるんだと思う。自然を感じながら何かすることが子供の頃からずっと当たり前なんだと思う。授業中もずーっと外を見てたし。夜遅い読書会でみんながすごく疲れているのをみると自然でいいなあと思う。もう長い付き合いだからそういうのを取り繕う人もいないし変に興奮しないためにはフロイトを読むくらいがちょうどいいね、夜は。興奮そのものについて論理的に考えられる学問だしね。昨晩はこれもずっとやってるフェミニズムやセクシュアリティに関する本を読む会でジョイス・マクドゥーガルのTHE MANY FACES OF EROSを少人数で読んだ。関西の人と始めた会でこれはコロナ前からオンライン。今回はセクシュアリティに関する主訴を持つ患者をたくさんみてきたマクドゥーガルが珍しく事例を出さずにneosexualityという考えを提案する短めの章だった。この精神分析家が何を考えてこの本を書いていたのかがだいぶわかってきたかもしれない。臨床現場で出会うセクシュアリティの多様なあり方と現れ方を精神分析が得意とする「倒錯」という言葉を再考しながら記述する仕方はそんなに論理的ではなかったけどあまりの多様さに圧倒されながら臨床をしていたらこういう風にしか書けないかもしれない。色々話し合ったあとはそれぞれのみものをとってきてあれこれおしゃべりした。いろんな内緒話もできるし議論に載せる前の本音も色々話し合える大切な時間。みんな忙しいから2ヶ月に1回とかだけど。家では家での時間も大切だしね。リビングからつけぱなっしのテレビの音が聞こえる。NHK短歌かな。このあとテレビ体操があってそのあとNHK俳句。いつも見るのを忘れがちだけど今日は大丈夫そう。朝のうちにひとつ資料作っておかねば。こちらはなかなか気が重いけどはじめたものはやらねばな。軽薄さって責任をとる気がない、あるいはとれないことの表現だと思っているけどそういうのをひとつのエンタメのように楽しめる立場の人は気楽でいいなと思ってしまう。そのせいで蔑ろにされる性や生活があることなんて想像しなくていいんだもの。軽薄さがナルシシズムに基づく敵意の防衛でその空虚さはこちらが感じることになっているような関係性の場合、なかったことにされる、いなかったことにされる体験をたくさんすることになるのでこっちもおかしくなってきていつの間にかこっち「が」おかしいみたいになるから痛みに持ち堪えながらできるだけ正確に観察できたらいいね。マクドゥーガルを見習お。テレビ体操がはじまった。いつもみているうちに終わってしまうやつ。姿勢と呼吸がしっかり意識されているきれいな動きに見とれながらピアノの音にのってると終わっちゃうのよね。そんなこんなでも健康に気をつけて過ごしましょうね。どうぞよい日曜日を。

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テレビ、セルジュ・ティスロン『家族の秘密』

鳥たち元気。少しずつ明るくなってきた。さっき間近で高い声で鳥が鳴いて去っていった。

昨晩、ごはんを食べながらNHKの「スイッチインタビュー」と「超多様性トークショーなれそめ」を見た。二週連続みた。テレビは地震が起きたらつけるし日曜朝のNHK俳句をたまにみたりはするがほとんどみなくなった。近所の居酒屋がコロナ禍ではじめたテイクアウトを美味しくいただきつつ画面の中の会話を聞いていた。会話によって引き出されるゲストの体験や想いに笑ったり涙ぐんだりした。エンターテイメントだな、テレビ。人に歴史あり。カップルに、家族に歴史あり。

昨日から隙間時間はセルジュ・ティスロン『家族の秘密』(白水社)を読んでいる。訳者は精神科医の阿部又一郎さん。カミーユ・エマニュエル著『跳ね返りとトラウマーーそばにいるあなたも無傷ではない』(吉田良子訳)の校正に関わり柏書房のnoteで書評も書いていたのを読んだばかりだ。この『家族の秘密』もトラウマに関する本と言っていいだろう。精神科医であり精神分析家でもあるティスロンが家族の秘密を主にフランス精神分析にけるトラウマ理論とごく基本的な精神分析概念をシンプルに用いながら一般向けの概説書として仕上げた一冊らしく読みやすい。日本語版序文もティスロンによるもので2016年の日本・フランス合作の深田晃司監督の映画『淵に立つ』を取り上げ「秘密という牢獄」を家族という単位で描写した場合の一例を書いているがこれだけで重たい。精神分析は父、母、子供という三角関係を根源的な形とした秘密と傷に関わる学問であり治療法だ。秘密と思っていたのは実は身内だけですでに周知であり拡散されているような現代において秘密を「真理」ではなく「コミュニケーション」と対立するものとしてそのメカニズムを再考することはたしかに今まさに求められていることなのかもしれず「トラウマ」という言葉を安易に用いないことにも繋がるかもしれない、などとと思いながら読んでいる。

今日も色々大変だ。隙間時間に読むべき本はこれではないが届いたから読んでしまった。まずはやるべきことを、と毎日思いながら思うだけで日々が過ぎる。大変だなあ。自分のせいだけど。

今朝はなんだか寒い。気温がそんなに低いわけではなさそうだけど極度に寒がりな私は暑い日以外はほとんど寒さを感じているような気がする。この前も友達の中で一番厚着だったし。本当に三者三様の服装で体感温度の個人差が面白かった。ああ、窓の向こうのグレーの空をみながら梅雨も近いということに気づいてしまった。憂鬱。まあ、とりあえず今日を。みなさんもどうぞご無事で。お身体にお気をつけて。

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アナログ、グリーン、ウィニコット

なにがなにやらはらへりへりはら。いやお腹空いてないけど。AIとかなんとかいう前にPCだってこうやってひたすらフォーマットに書き込むくらいしかできないのにこれからやってけるのかな。直接人と関わる仕事ばかりしてきたのもそれしかできないからだね。はあ。調子良く原稿を集めたまでは良かったけど編集作業で切り貼りするだけで肩が凝りました。

昨日書いたAndré Greenの論文、ざっと読んだ。私の英語力のせいで全く別の意味にとったりしていないとしたらとても良い論文だった。まあ多少間違って理解していたとしても全体的にいい論文だった。私が日々格闘しているわからなさにとどまるためのヒントを与えてくれた。

論文はこれ。“The Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D. W. Winnicott”

やっぱりウィニコットが絡んでいると安心するのかな。基盤って大事だな。

アナログ人間の私には本当にそうだな!と思う文章もあった。まぁ、アナログの意味違うけどやはりフロイトのこの辺も追わねば。

“However, Freud had the courage to write, ‘Without metapsychological speculation and theorizing—I had almost said “phantasying”—we shall not get another step forward’ (1937a, p. 225). We cannot accept that our theories are fantasies. The best solution would be to accept that they are not the expression of scientific truth but an approximation to it, its analogue. Then there is no harm in constructing a myth of origins, provided we know that it can only be a myth.”

精神分析の世界では多分世界を離散的なものと捉えている分析家と連続性ありきで捉えている分析家の両方がいると思う。私は離散的なものとして捉えているしフロイト、ウィニコット、グリーンもそうなんじゃないかと思っている。時間についてどのような認識を持つかで治療者のありようは変わってくると思うのでその辺の議論ができたらいいな。

精神分析の目的は結局はこれ、とグリーンが書いているわけではないけどウィニコットを引用してこう書いている。

“Perhaps analysis only aims at the patient’s capacity to be alone (in the presence of the analyst), but in a solitude peopled by play (Winnicott, 1958).”

The capacity to be alone (WINNICOTT, D. W. 1958,1965)の引用ですね。邦訳は『完訳 成熟過程と促進的環境 情緒発達理論の研究』(岩崎学術出版社)の「第一部 発達に関する論文」の「2.一人でいられる能力」。

そういえば週末までにもう一本読まないとなのでは。がーん。もう週末じゃないか。どうしよう。とりあえず今日の分をやらねば。もー。

お寺の鐘がボーンってなった。

持っておきたいウィニコットの本
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精神分析の論文を読んでいる。

週末に向けてせっせと英語の論文を読まないとなのに読み始めると寝てしまう。面白くないわけではなくて英語だから。最近、老眼が進んで楽に読めないのに加えて英語を読むスピードはものすごく遅くなった。サボッテタカラナ。あー、珈琲飲むと暑いー。

読んでいるのはフランスの精神分析家アンドレ・グリーン。エピグラフはW.ブレイクとボルヘスの虎。これら本当にたくさん引用されるんだねえ。昨年はアメリカの精神分析家オグデンが詩を読むこと、あるいは詩のように読むことをどうしてそんなに大切にするのかに興味があったからアメリカ詩、イギリス詩を結構読んだけどブレイクのTigerはどの本にも出てきてた。朗読も結構きいた。イギリスの精神分析家ブリトンは『信念と想像:精神分析のこころの探究』でブレイクを引用しつつ結構紙面を割いていたと思うからそれも再読したいね。新装版も出たしね、と思って今調べたら2016年だった。あったあった。2章割いてる。

13 ミルトンの破壊的自己愛者,あるいはブレイクの本当の自己?
14 ウィリアム・ブレイクと知的自己愛

というかグリーンに戻らねば。読んでいるのは精神分析状況での患者の変化よりも分析家の変化の方に着目した論文。

the way that the patient enacts it and makes the analyst experience it. For, all things considered, there is change only to the extent that the analyst is able to understand such change and to report it.

これ大事。

あ、読み耽ってしまった。このペースで読まねば。

今朝はバターシュガーじゃない、「シュガーバターの木」のたっぷりショコラサンド「横綱」。このパサパサ感はコーヒーとよくあうけどなぜに「横綱」って名前にしたのかね。私さっき「紙面を割く」って書くのも「ページを割く」の方がいいかと思いながらもそのまま書いちゃったけどそんな感じ?

今日はすごく鳥の声が澄んでて響く。空がスッキリきれいだから?今日もすごい光。暑くなりそう。毎日「マジでふざけんな」と思うことに囚われつつどう行動していくかを模索しているのは相変わらずだけどやることはやっていかないとね。もうすぐ家賃の請求もくるし。なぜか引き落としじゃないから毎月毎月無事に払えることに感謝できるのは良いこと。がんばって論文読もう。精神分析実践ありきという態度を私は維持したいし。あるものはある、起きたことは起きた、ないものはない、なかったことにすんな(マジでふざけんな案件はこうしてちょこちょこ入り込んでくる)、「不在」という表現には期待が込められているといったのはグリーンだったと思う。グリーンはネガティブという表現を使う。そういえば十川先生の『思想』での連載はどうなったんだっけ。あれこそネガティブの話でグリーンとも関連づいてるわけだよね、と今思い出した。とりあえず取りかかりましょう。今日も暑さにバテない工夫してえっちらおっちらやりますかね。はあ、すでにバテている感じね、これだと。みなさんもどうぞお大事に。

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ムクドリ、にせもの、来し方

南側の大きな窓をスーッと開けたら涼しい風がスーッと入ってきた。よく滑る窓なので早朝は少し気をつけて開ける。今日はすごくすごく暑くなると聞いたからその前の風を感じておきたかった。コーヒーを飲むと暑くなるのはどの季節も同じだけど窓を開けっぱなしにできるのはいいね。

この前駅へ向かってたら大きな犬のいる家の植木から黒い鳥が飛び出してきた。オレンジ色の足と嘴。ムクドリ。鶴川から帰るときによくみるやつ。まずその声に驚きそっちを見上げたときの数に驚きそれらが飛び立つときの真っ黒ぶりに驚くやつ。駅前の大きな木をねぐらにしている彼らは夕方になるとその辺りにどんどんどんどん集まってきて何かいっている。多分みんな毎日のようにこの光景を見ているのだけどつい見上げちゃうくらいのインパクトがある。自然に対しては気づかないことはあっても飽きることはない。朝、小さな木から飛び出してきたムクドリのオレンジの部分は目をひいた。だからムクドリだとわかった。でも夕方駅前に集結する彼らのことは真っ黒っていってしまう。そうにしか見えてなかった。

昨日、鶴見俊輔を読んでいると書いたが『不定形の思想』もいいけどと『旅と移動 鶴見俊輔コレクション3』(河出文庫)に途中で変えた。島崎藤村を読んでいたはずなのに。この中に「キラーニーの湖──アイルランド」という題の文章があってそれが好き。トマス・ムーア(Thomas Moore 1779-1852)作詞の庭の千草」(原題はThe Last Rose of Summer)の思い出とこの曲のまがいもの性について。時間がないから引用だけしておく。日本国内旅するだけでもいろんなまがいものやにせものと出会うが鶴見俊輔が「忘れたくない」という想いはよくわかる気がする。

「トマス・ムーア原作、明治日本人翻案の「庭の千草」もそのひとつである。それらは、今は洗いだされたアイルランド文化の古型から見て、にせものだろう。

にせものをこえて、別のアイルランドへの道を見出せるのは、いつの日か。だが私は、にせものによってそだてられたものを忘れたくない。」

自らの来し方を振り返り、と書いて「来し方」って言い方はなんか膨らみがあっていいなと思った。ライルが『心の概念』の最初の方で「外的」「内的」という対比は比喩であるといっていたと思う。あの本は心の病理を描写することの難しさを教えてくれる。古田徹也さんのウィトゲンシュタインの本や日常言語学に関する本はここ数年、読みやすいものがたくさん出てるからそれらと一緒にライルを読むのもいいかもしれない。あの本は分厚いから挫折している人も多いみたいだし英語で読んだ方がわかりやすいという人もいたけどそれは英語で正確に読める人のお話。

さてまだ今朝やっておくべきことが終わってないのだった。がんばろー。暑さに気をつけて過ごしましょうね。

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藤村のいろはがるた、鶴見俊輔

まだ暗いうちから島崎藤村を読んでいた。つもりだったがいつのまにか鶴見俊輔を読んでいた。いつのまにか川の名前が変わっていたみたいな感じで無意識に流されるままに本を読んでいることがあるが私にとってこの二人は「かるた」つながりだからそこで自然とそうなったのだろう。

このブログはwordpressで書いている、といっても仕組みがよくわからないまま書き込んでいるが、もっと早い時間にこうして書こうとPCに入っているwordpressのアプリ(PCでもアプリっていうのか)を立ち上げたら立ち上がらない。Expired nonce.って出てきてしまう。なのでしばらく放っておいた。なんで今こうして書けるようになったのだっけ。なんか適当になにかしたらnew postという選択肢が出てきたからそれを選んだらこの画面が立ち上がった。また同じことが起きたときに困るが困るのは自分だからまあいいかとなる。雑文ブログは雑談みたいなものなので残しておく必要も特にない。

というわけで島崎藤村、鶴見俊輔を読みながら感じていたことをもう思い出せない。すぐにどこかへ流されていってしまう。

島崎藤村が『夜明け前』の冒頭で描いた木曽福島の関所の隣の高瀬家(こちらは『家』の舞台)で藤村のあれこれについてご親族の方から教えていただいたことはすでに書いた。そこで藤村のいろはがるたを知ったのだ。この内容が力が抜けていてとても面白かった。藤村記念館で販売していたから買えばよかったのだが案内してくださった高瀬家の方の特に強い思いいれがあるわけでもないよく知らないのだけどこんなのもあったみたいみたいな語りがいい感じでまあいいかと思わせたのかもしれない。買おうと思えばどこかで手に入るだろうというのもあったかもしれない。

なんだか眠くなってきてしまった。外はすっかり明るい。今日は晴れなの?なんだか暑くなりそうな光。

藤村のいろはがるたは馬籠のところどころで小さな街灯にデザインされていた。絵は岡本一平。岡本太郎のお父さん。鶴見俊輔はこのかるたを高く評価した。鶴見俊輔は「かるた」という論考で「概念」という言葉をきらい、その底にある「折り重なっている絵札」としてそれを描き出した。昨年、鶴見俊輔生誕100年ということでいろんな本が出たので興味のある方は「かるた」のはいっている本を読んでみてね。私が数時間前に再読していたのは『不定形の思想』(河出文庫)。奈良美智の装画が目を惹く文庫です。2022年は島崎藤村生誕150年でもあったね。

頭がぼんやり。眠気がきたり去ったりしてる。今日もなんとかやりましょー。

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誰かといながらひとりでいること

よく降りますね。ちょうど小降りになったときやちょうどの止み間に外にいられることもあってそんなに傘使っている感じがないのだけど今日はきちんとさすことになるのかな。保育園の子どもたちもお散歩行けないね。私が巡回する園は園庭がないところが多いからお散歩行けないと結構狭い場所にずっといることになって大変。雨に限らずコロナ禍も本当に大変だった。

長友夫妻に4人目のお子さんが誕生されたのですね。すごい。子供がいる人といない人のリアリティというのはまるで違う。どっちがどうとか、どっちだからどう、ということではなく子供がいるとかいないか、誰かと一緒に暮らしているかどうかはその人を理解するときの変数として大切。時間の使い方ひとつとってもそう。家に誰がいたとしても自分のしたいようにしているようにみえる人もいるけどそれだってその誰かがいるかいないかで気持ちのありようは全く異なる。妻に平然と嘘ついている人でも家にいてもほとんどオンラインの世界にいる人でも「家には妻がいるから」とかいう場合もあるでしょ。そういうときに「え、全然関わってないじゃん。堂々と嘘ついてんじゃん」「そんな負担なら離婚すればいいじゃん」と思うかもしれない。でもそんな単純なものではない、誰かと実際に一緒にいるということは。物理的に離れることでの負担軽減は本当に大事だけど。他人の生活には平気で侵入してひどいことしたりする人でも自分の時間を脅かされることには耐えがたくて、でもナルシシズムを満たしてくれる対象は常に必要だからせっせと社交していつもしんどいしんどいいっている人もいるでしょう。「嫌われたくない」と言いながら疲れ切ってしまう場合もある。スプリットという防衛機制できれいに葛藤をなかったことにする場合もあるけどその負担は相手が負うことになる。その人が楽なら、とみるか、「あなたは楽だろけどそれでまいっている人がいる」とみるか、これも関係によって同じ事態に対してであっても言うことは変わる。人間は一人では生きていけないので現実の人間との間には色々起きてしまう。そういうのが現実。痛み分けとかいっても痛みにも色々あるし。ウィニコットの「ふたりでいながらひとりでいること」の困難。誰かといることで生じる圧に対してどういう態度をとっているかを考えだすとまた「人間って」「私って」となるけど考えざるをえない。辛いことですね。

そしてついに木曽路のお菓子が尽きてしまいました。辛いことです。でもまたお菓子をいただきました。嬉しい。毎日「やっちまった」が多くて自分に嫌気がさすけど助けられる。色々めげつつもめげすぎない程度にチャージしつつがんばれたらいいですね。それでは足元やお身体にお気をつけたてお過ごしください。

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仕事 俳句

ミーティング、「ブラック・サバス」、俳句

雨の音がしなくなった。耳をすます。やっぱりしない。あ、するかな。鳥がさっきピチューピチューピチューって高い声で鳴いてたけどみんなも早起き。

昨日はとても重要なミーティングがあった。ここまでくるのに一年かかった。が、まだ続く。代表者のひとりとして動いていることは最後まで丁寧に。女3人でやってるけど結構楽しい。住んでいる地域もバラバラだからリアルで会ったこともなく小さな子供たちを抱えながらのミーティングも毎回さくさくせざるをえない。でもこの仕事だからお互いのことを手早く知ることに慣れているのかもしれない。この一年でお互いに色々あったこともなんとなく知りつつなんとなく近況報告しつつ。もちろん親密になるというのとはまた別だし「運動」の先頭に共に立つというのは緊張感も伴うものだけど違いを丁寧に補い合うこと自体楽しい。考えや見方が違うからこそ共にやる意味がある。そうか、私たちは「違う」ということに慣れているのがいいのかもしれないな。この仕事は「いろんな人がいる」と実感しつづける仕事だから。障害や病気を持つ人たちと長く関わってきているから何か考えるときにその人たちの生活が常に頭にある。違和感のあるものと共に生きざるを得ない人たちの話をたくさん聞いているとこっちも「なんでそこそんな簡単に根拠なく進めちゃうわけ」みたいなことに敏感になる。臨床は患者さんやクライエントと協力してやるものだから。「ケア」という言葉は当てはまらないように感じるな。お互いにハードだよね、思いもかけないことがたくさん起きるから。本当はそんなことは日々起きてるんだけど人間の処理能力ってすごいから大体のことはパターンに組み込めて違和感少なくできてしまう。密になるとそこが崩れる。だからハード。でもそこに転機も面白さもあるんだと思う。私は今回東京に住みいろんな意味で恵まれている立場だからこそやっておいた方がいいだろうと彼らと協力体制を組んだけどすごく勉強にもなっている。かなりの程度「普通」に生活できている人がやっておいた方がいいだろうということはたくさんあるし育てる仕事をしている責任もあるからいってることとやってることの差異を少なくしていきたい。

その大事なミーティングの前に大急ぎで俳句を作り速達で投函した。ネット句会の締切にも間に合った。いつもギリギリだけど俳句はいい、短くて。15日締切の分も作らねば。明日か。

さっきニュースで見たんだけどイギリスでヘビメタバレエ「ブラック・サバス」の公演があるんだって。オジー・オズボーンもOKしたと。見たい。日本でもやってくれないかな。私の青春時代を支えてくれたミュージシャンたちはもうかなりの歳だ。私だって残された時間の方を意識するわけだ。

今日は私がマネージしている臨床家のみなさんとのグループ。グループでの作業はそれまでの自分の見え方や感じ方を揺さぶるけれど正解があるわけでもないからせめて自分がいってることやってることの確認をしておきたいね、常に戻れるポイントを作っておくことは責任ある作業には必須だと思うし。私も勉強しよう。そして鳥や花もみにいこう。新宿中央公園とか明治神宮がお散歩範囲のオフィスでよかった。昨日私の写真を見て「似てる!」と送ってくれた動画に「私のは明治神宮」と返したらそこも明治神宮だった。似てるどころか同じではないか!とびっくりした。森で見上げる空の形はすごい。森が作る空の形というのかな。明治神宮はお花はあまりないけど蛇イチゴの小さな実がなっててかわいい。それも昨日俳句にした。

はあ、昨日はまたもや句友たちが賞をとったり嬉しいニュースもあったしよかったなあ。がんばっている人たちがきちんと評価されるってそのがんばりを知っている周りの人にも幸せをもたらすね。本人がすっごく喜んでるのも楽しい気持ちになるし。昨晩はたくさんの「おめでとう」「嬉しい」が流れてきた。もちろん私も送った。前に小さな句会を長く維持していくには駄句を出す人も必要なのではという話になった。私は駄句出し係みたいな感じだけど存在意義は十分感じる。評価にこだわるほど真剣にコミットしていないことはよくないのかもしれないけれどいろんな人が同じことしてるのって面白い。いろんな句に触れているとたまにいい句もできちゃうしね。なんでもやり続けてみるもんだ、変な無理をしない範囲で。無理自体はどうしても生じてしまうのだけどそれが過剰じゃないことが大事だよね。

ということで今日も無理なく良い一日をお過ごしください。

明治神宮
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お菓子

宇都宮土産とかいつものお菓子とか

深夜にも早朝にも原稿が届いた。みんな仕事しすぎでは。でも素敵な文章をありがとうございます。あああ。ここからがまだ長いけどもう5月も13日か。困った。が、とりあえず今日を。大切な会議もあるし。なんとか無事に終わってほしい。

さて今朝は宇都宮のお土産「とちおとめバウム」。ちっこいまるたみたいなバウムクーヘンがしっかりチョコに包まれていて中にはとちおとめのクリーム。10こ入りでホワイトチョコとスウィートチョコ5個ずつ。とっても美味しいの。私も栃木へいったらこれをみんなに買ってこよう。うちには餃子も買おう。ホワイトチョコ自体をあまり好きじゃない人からホワイトチョコ味の方は追加でもらったのでいっぱいあったんだけどすぐになくなっちゃうね。なんのための個舗装かってね。バウムクーヘンはホールだと賞味期限までに食べきれないから買えないなあ、とか思ってたけどそんなことない気がしてきた。でも最近はどこも個包装があるか。近江八幡のクラブハリエで焼き立てバームクーヘン食べたなあ。近江八幡ってすごくいいところで、と宇都宮から心が離れてしまった。いけない。宇都宮からきたお菓子をいただいのだから。

群馬県民にとって宇都宮は身近なんだけど最後に行ったのはいつかな。友達のうちへ行ったり後輩の結婚式へ行ったり普通に遊びに行ったりしたけど。私が行ったときって駅前の広場にいくつも餃子屋さんが出ていてみんな並んだりしてたけど今もそういうのやってるのかな。私は量を食べられないから普通にお店で食べたけど昔池袋のナンジャタウンで餃子の食べ比べができてそこのは何度か行った。今もやってるのかな。いろんなことが昔になっていくねえ。早く記憶から消えてほしいことほど薄まりもしないでずっと苦しかったりするのにね。食べ物のお土産とか「消えもの」って言い方するけど大事な発想だと思う。

おみやげをくれた人が宇都宮に行く前に餃子像を見るのが楽しみといっててそんなのあるのか!と調べたらすごく笑ってしまった。「言わないで!聞きたいけど、でも言わないで!」というから画像を見せることも説明することもしないでひとりでウケてたんだけど送られてきた写真を見るとそれはそれでまた全然印象が違った。いろんなこと思いつく人がいるもんだ。私も会いたい、餃子像。

こんな毎日お菓子ばかり食べてたら肌が荒れてきてしまった。ローソンとセブンイレブンのお菓子はもうほとんど試してしまった。セブンイレブンのあんみつは定番としてずっとあってほしいな。ファミマはあまり行かないけど宇治抹茶のティラミスは甘い甘い言いながらふわふわとしっとりが美味しくて全部食べちゃったな。ローソンは最近だとさくさくバターパイサンドとあんバターサンドが美味しかった。あ、肌荒れしてるのにまたお菓子のことばかり思い浮かべてしまった。

あ!投句締切、今夜の分だけじゃないことを今思い出してしまった。15日までのが二つもある。しかもひとつは必着。もう間に合わないではないか。欠詠だけはしないようにというのが目標だったのに。明日なら直接持っていけるからそうするかなあ。東京ってこういうことができてしまうからすごい。とかいってないでまずは俳句を作らねば。鳥たちよ、俳句になっておくれ。

鳥雲に隠岐の駄菓子のなつかしき 加藤楸邨

これは春の句だけど鳥とお菓子でこんな句作れちゃうのすごい。私は毎日こんなたくさんのお菓子や景色と出会っているのにダメダメだな。こんな駄文ではなく素敵に切り取って残していけたらいいのにね。

今日の暦生活はみつ豆だ!きれい。キラキラしてる。夏は透き通るお菓子を楽しむのもいいですね。お菓子好きじゃない人も別のものやことに支えられて一日なんとかやれますように。良い週末を。

草いちご
宇都宮土産
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読書

寝不足、鳥、魚

寝不足、というと普通はあまり寝てなくて眠い、きつい、辛いというところまで含むのだと思うのだけど私の場合の寝不足は単なる記録のようになっている。眠れないとかでもないし。朝から夜遅くまで仕事していれば疲れはするけど仕事自体にリズムがあるから楽なんだろうね。そのあとにさらにミーティングや読書会があるとさすがにぐったりだけどミーティングは相手にもよる。そりゃそうか。体力とか雑談力とかもう少し生かした方が健康に良さそう。雑談力は単に相手に無理させている可能性もあるからともかく体力に関しては時間ができたら友人の卓球部(なのかな)に入りたいな。

今週は愛鳥週間ということでいろんな鳥のグッズとか画像に出会えて楽しい。もう名前忘れちゃったけどとてもきれいな色の鳥のイラストをあげている人がいて私もこういう鳥に会いたいな、どこにいるんだろう、と思っていたら「私もよくみます」「可愛いですよね」みたいなコメントがついていてその鳥は私が知らないだけで意外とメジャーらしいということがわかったりする。毎日鳥と動物と花とお菓子ばかりチェックしているけどそういう時間は素敵な時間だから睡眠と同じくらいの効果があると思う。この前さかなクンの本『一魚一会』を読んだけど素人でもこうやって時間を忘れてしまうのだからあれだけおさかな大好きのさかなクンがああなるのはごく自然だよなあ。とてもいい本だった。学びとか愛とかって殊更そんな言葉使わなくても伝わるんだな。優しい世界はそう感じることができる人あってこそでその人たちの使う言葉がそういう感受性を育ててくれるのかも。前に竹芝のイベントと和歌山のとれとれ市場のイベントでさかなクンをみたことがある。どちらも偶然だったけどめちゃくちゃ説明がうまくてすごく魅力的だった。和歌山にいたさかなクンはその少し前まで東京で仕事をしていたらしくその移動の速さに驚くツイートがたくさんあるのをあとから見た。大変だ。でも本当に貴重なお仕事をしてくれてるんだなあ。すごい。

あー、こうやってサラサラ書けるのはいいねー。仕事のことは言葉にならないことばかりだし考えあぐねるにも考えること自体が難しかったりする。言葉にならないところで何か考え続けている感じ。特殊な注意状態。こうやって書いているときも特に何も考えていないけど極めて意識的でこれは精神分析でいう自由連想ではないんだな。自由連想は全然自由じゃないもの。「思い浮かんだことを全て話す」というのはこういうのとは違う。フロイトの教示の仕方がまずいとしたらどういうふうにここで患者にやってもらう作業を伝えたらいいのかなあ。

洗濯物できた。今日も長いぞ。がんばろー。

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精神分析

地震、漫画、お菓子

早朝の地震、大丈夫でしたか。千葉での地震、続きますね。早朝だと無理やり起こされたみたいになるしお疲れの人もおられるかもしれないですね。どうかお大事になさってください。

最近、SNSで同じ漫画が何度も流れてくるのだけど、最近ではないのかもしれないけど、出てくる部分だけ見るにストーリーの枠組みは三角関係とか浮気とか単純で普遍的なのだけどそれぞれの登場人物の視点ごとのバージョンがあるのね。あの漫画を提供している会社の縛りなのかな、そういう形式をとるって。想像力とかむしろいらないみたいな世界?人が二人以上いたらそりゃそれぞれは色々思うわけだけどその思いってお互いに影響されてぐちゃっとしてすぐにありがちなストーリーから外れるよね、実際は。ストーリーに閉じ込めるためには先に文字情報を与えてしまった方がいいのかもしれないけどどうやって読まれてほしいのかなあといつも思ってたんだ。

人が二人以上いたらぐちゃっとするのよ、どうしても。だから精神分析は転移逆転移を重要視するの。何かをこうすれば理解できるなんて方法はない。人はそんな簡単じゃない。でも想像力の欠如によって愛と憎しみが全く混同して捉えられてしまうとしたら「普通」と言われるものについて何かで学べるといいかもしれない。良質な文学を読むのもいいかもしれない。高橋ユキさんの本とかノンフィクションもとてもいいがあのぐちゃっとした行き場のない想いに囚われる現実と触れるのは困難もあるかもしれない。普通に思いやりのある人がそばにいつづけてくれる人が一番いいかもしれないけど「普通って何」ということばかりにこだわってしまったらそこからも学べない。難しいね、人間は。

さて、今朝のお菓子は中津川の老舗「すや」の「木曽路」。しっかりした生地に硬めの餡がぎっしり。桧笠モチーフなのね。妻籠宿や馬籠宿でも売ってたし被っている人もいた。私たちもその場しのぎの帽子を買ったけど桧笠を被ってもよかったかもしれない。

GW明けにどこかいくといろんなところのお菓子が集結してて楽しい。昨日は忙しくてとりあえず一番上に置いてあった箱のものをいただいたのだけどうさぎ!これ大好き。鳥取県米子市の定番土産「因幡の白うさぎ」。とっても美味しいし可愛いし好き。前にも書いたけど、ちょっとうさぎの耳が微妙よね。でもこれだけ白餡?黄身餡?をしっかりつめるにはふわっとしたうさぎじゃない方がいいもんね。しっかりした個包装に守られているし今回も美味しゅうございました。ありがとう。私も今度お茶会するから美味しいお菓子集めておこう。

またお菓子のこと書いちゃったよ。毎日色々あるけどせめて自然災害が起きませんように。みんなが無事でありますように。本当に願うしかないことばかりだけどやれることやろう。他人に巻き込まれながら自分を立ち上げていく、その中でやれることを見出していく、という作業を一緒に、私の場合は。

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スイカ、珈琲、馬籠宿

まずはスイカをパクッ。美味しい。水分!食べると感じるね、足りなさを。朝はカフェイン、昼は水、夕方は色々、夜はアルコール、どれも少量ずつ、みたいな感じだから健康的な水分の摂り方ではないのよね。お水をいっぱい飲んだ方がいいっていうでしょ。2リットルとか。ちょっとずつ頑張ろうと思っても今度はお腹壊したりしちゃうし保育園みたいにお茶を飲む時間とか管理してもらわらないとダメなのかしらね。でも自分だってそういうことやってきてもらって育ってきたわけでしょう。小さいときから逸脱気味だからみんなと同じにできなかったのかしらね。とかいってももうどう考えても残りの人生の方が少ないのだから改善よりも維持ね。これをやった方がいいとわかっちゃいるが私にできるのはこのくらいってことで。仕事も全然はかどらないし色々ダメダメだけどやれてるっちゃやれてるから無理なく生きましょう、ってなるね、結局。

さあ、コーヒーを飲みましょう。スイカとコーヒーって食べ合わせ?飲み合わせ?が悪いんでしょ。少し時間おけばの少しが数分ではただでさえ消化の悪い私の身体には意味がないのだろうけど一応別々に食べたり飲んだり。消化のこと考えなくても味的にも合わないもんね。合うなあ、って思う人もいるのかもしれないけど。今朝のコーヒーはちょっと特別。飯能の「OH!!!~発酵、健康、食の魔法!!!~」で買った天覧山珈琲、ビターブレンド。「!」の多い名前だけど広くてのんびり発酵食品食べたり買えたりする道の駅のような施設です。地ビールも飲める。発酵ものということで「ご飯がススム」コロッケもあります。ご一緒にどーぞー。天覧山ハイキングコースはこの施設の横を入っていく感じ。施設自体もかわいいお花に囲まれていて楽しいよ。お菓子は木曽福島の芳香堂で買ったそば饅頭。そばと栗が郷土自慢ね、信濃、木曽は。そば饅頭は素朴な味でおいしい。

こんな呑気に実況してるけど昨晩も何もしないまま朝になってしまった。今から仕事始まるまでにやらなくては。もう随分光が強いけど鳥の声があんまり聞こえない気がする。もうどこかへ行ってしまったの?早いね。今日のお天気は?昨日と同じようなお天気になるみたい。まだ少し肌寒いですよね。

中津川の馬籠宿は水車で発電して街灯をつけたりしてるところもあるのだけどその大きな水車の横に小さくておしゃれな珈琲屋さんがあったの。恵那に向かうバスまで時間があったから寄ってみた。暑い日だったけど私は店内でカプチーノ。店内はカウンターとテーブル席で8人くらい座れたかな。ちょうどコーヒータイムだったのかあっという間に狭い店内が並ぶ人でいっぱいに。外国の人も多かったなあ、今回の旅。何回か道を聞かれたけど私がお会いしたのはフランス語を話す人たちだった。

渋くてかっこいいお二人がやっているその珈琲屋さん、並んでいる人に氷が作れなくなってしまったと伝えていた。それを聞いてその後に並んでいた人も一気にいなくなって店内は再び静か。暖かいのもおいしいよー、と小さな声で呟いていると暖かいのを求めているお客さんは無事にお持ち帰り。いい香りがいっぱいの店内、小さなドアから店員さんのひとりがしっかりしたカゴを手に出てきた。店のガラスのドアを出て坂道を駆け上がっていく。凄すぎる。ここ多分馬籠で一番急な坂道だよ。私より年上に見えたけどすごく軽やか。これ一気に上まで行けちゃうのかなと目で追っているとあっという間に見えなくなった。すごい。すると今度はどうやって降りてくるのかを想像してしまう。絶対走って降りてくるに違いないけど氷はどこで手に入れるのかしら。氷屋さんあったかな。この宿場町なら使われる氷の量もすごいだろうからきっとあるんだよね。でも多分そばのカフェから借りるんだと思うな、など話しながら待っているとその人の姿が見えた。こっちが興奮した。おもたそうなカゴを右手に顔を少しだけ歪めて駆け降りてくる。戻ってきた。こっちが感動した。あまり息があがってない。すごい。こういう土地で働くには体力と繋がりが大事なのね、と感心。また商いについて考えさせられたよ。

さあ、私も商いをがんばらねば。とりあえず昨日やるはずだったことを・・・。馬籠宿のみなさんはGWが終わってのんびりした宿場の日常に戻ってるのかな。そういう時期にもまた行きたいな。次の休みまで遠いなあ。とりあえずがんばろうね。またね。

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散歩

神代植物公園

神代植物公園に行きたい。5月いっぱいバラフェスタをやっているそう。先月行ったときはまだ緑の方が多かったバラ園があの見事な色と香りに満たされていると思うとうっとり。宮殿のお庭みたいなバラ園なのだ。

私が通っていた白百合女子大学も森の美しい大学だった。最寄駅が京王線仙川駅、住所は調布市仙川緑ヶ丘にありお隣のつつじヶ丘駅は身近だった。不登校の子どもの家庭教師にも通っていた。先日久しぶりに降りたつつじヶ丘はすっかり便利な街になっていてびっくりした。私の大好きなスーパーオオゼキが駅前に!なんと羨ましい。神代植物公園にはつつじヶ丘駅からも調布駅からもバスでいける。中央線なら三鷹や吉祥寺からバスで。両親が東京にきたときにみんなで行ったのがはじめてだったか。今は身近な場所も当時は全て目新しかった。

昨年秋に行った時は映画のセットのように落ち葉がふわふわに敷き詰められていて小さな子どもが埋もれながらもたくましくそれらを空へまき散らしていた。そのときは調布からバスで行き深大寺へ先に寄った。蕎麦屋「湧水」で少し呑んで深大寺を散策して句碑を写真に撮り、山側というのかな、土の道を通り深大寺門から入った。雑木林を抜けると景色が開けた。お城が現れたかのようにものすごい数のバラが咲く庭が広がり、その向こうに大きな温室があった。そばによるとものすごい香り。芳しいとはこのこと。

次に行ったのは今年の春だ。つつじが満開だった。新緑の美しさにも目を奪われた。遠くから「なんだあの木は!」と思って近づくとどの木かわからなくなってしまうような森を散策もした。そのときはつつじヶ丘駅からバスで直接神代植物公園へ向かい正門から入った。名前の札を立ててくれている木々や花々が多いのは植物園の素敵なところだけど私は無知すぎるので全ての木々に書いておいてほしいくらいだけどいいかげんパンパスグラスは覚えたし今回は「ハンカチの木」が満開だったのでそれも覚えた。バラ園はどうなっているのだろうと思って向かったらあの場所には緑が広がっているだけだった。あれ?たしかにまだバラの季節ではないので当たり前なのだがあの景色を勝手に心の中に広げていたので少しびっくりしてしまった。その代わり、藤が満開でバラが美しい季節には気づかなかったよく整備された藤棚の通路は陽射しを受けてキラキラしていた。藤棚のそばにはふじ園があり、藤にもいろんな種類があることを知った。

あのとき少し咲き始めていたバラが今は満開なのか。行きたい。紫陽花も咲き始めているだろう。花や木々の名前を調べる時間が増えた。佐久間一行ファンに佐久間さんが出ている「道草さんぽ」というNHKの番組を教わりテキストも買った。先生役の多田多恵子さんがとても素敵で散歩をするときにますますキョロキョロするようになってしまった。牧野富太郎の本も実家にあったから子どもの頃から眺めていた。主にスケッチを。「月刊MOE6月号」は牧野富太郎特集ということで久しぶりに買った。牧野植物園のクリアファイルもついていた。旅に出れば植物園にもいくし山道も歩く。もう少し彼らについて詳しくなったら水や鳥や動物や土地の歴史をもっと知ることができるかもしれない。先日歩いた木曽路はドブ川がたくさん流れていた。ドブ川と呼ぶには水がきれいだったが何よりその水量に驚いた。多分水の流れに合わせて建てられた家の玄関の高さなども「どうして?」と思うことが多かった。これも宿題。

とても苦しくてどうしようもないときはとりあえず自然を意識できる場所へ出向く。いろんな驚きをくれるから。一瞬であっても辛い記憶を別のものに置き換える。鬱っぽくて活字を読むことができないときもただ佇めるし鳥の声がうなだれ沈みがちな姿勢を少し上向きにしてくれる。注意を空に向けてくれるから。

今日もじっと引きこもっていたい人も身近な自然に少し助けてもらえますように。何も考えず委ねるなら人よりそっちの方がいい、というときもあるでしょう。

みなさん、どうぞご無事で。良いこともありますように。

ハンカチノキ

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精神分析、本

國分功一郎さんゲストのイベントへ行った。

今日も雨。昨晩帰宅する時間には小雨だったけどまた本格的に降っていそう。寒いし。寒さをもっと強く意識してしまう前に早朝から諸々済ませた。

7日(日)夜は「グリーフと哲学の夜 傷は癒えるのか、癒されるのか、癒すのか 」という國分功一郎さんゲストのイベントへ行ってきた。國分功一郎weekひと区切り。主催は「グリ哲2023プロジェクト」ということで袰岩奈々さん、森幸子さんを中心に普段から何か一緒に活動されているグループの企画という印象だったけど詳細はわからない。東北、関西、九州からこのためにいらした方々もあって同窓会的雰囲気もあった。お隣は関西の読書会グループの皆さんだったらしく國分さんの本はこれよりこれがいいなどなどとても盛り上がっていらした。みんなすごく楽しみにしていたみたい。もちろん私も。場所は国分寺のカフェスロー。昨年、川柳の暮田真名さんたちのイベントをしたカフェかと思っていたら違った。あちらは反対側の出口の胡桃堂。中央線は三鷹までしか馴染みがないからたまにいくと駅の中からキョロキョロしっぱなし。胡桃堂にいくのも迷ったけど駅の反対側のカフェスローにいくのも迷った。1、2分は結構自信満々に迷った。でもここを渡ったら変わるはずの町名が変わらない。迷うのもいつものことだから「こっちのはず」という予測ではなく「迷うはず」という予測に基づいてすぐ引き返した。予測モデルの話が今回ありました。熊谷晋一郎の当事者研究を参照したお話が多かったからね。さて、19時開演、18時半開場の予定が18時開場に早まったにも関わらず18時半少し前に無事に到着したときにはすでにたくさんの人がワイワイガヤガヤ。手作りイベント感があってよかった。私より年上の皆さんが多かったように見えた。質問もその場で紙に書いて集める形式だったけどたくさん出ていたし、國分さんが答えるというよりは考えこむ國分さんと一緒にみんな考えこんでまた書くみたいな感じもよかった。記憶と感情の話をするときに國分さんはフロイトの快原理を引用していた。國分さんと千葉雅也さんは精神分析理論を十分に咀嚼している哲学者なので聞きやすいし考えやすいのだけど哲学者はここでこうやってこれを持ち出すのかとかは新鮮だった。傷と痛みについて考え言葉にすること自体にどうしても攻撃性が含まれやすいことに國分さんがとても自覚的で慎重だったのも印象的だった。「サリエンシー」を導入の用語としながらそれの使えなさ、使用の難しさについて開かれていくプロセスも興味深かった。ちなみに熊谷晋一郎さんはもう「サリエンシー」という言葉は使っておらずどんどん考えも言葉も進化させているとのこと。お二人の『責任の生成 中動態と当事者研究』(新曜社)は必読でこうして痛みを伴いながら考えることをさせてくれる本だった。言葉にできない重苦しいような息苦しいような感覚が自然に大切にされる双方向的で対話的な時間は貴重。帰り道、そばを歩いていた人たちの会話が聞こえてきたがそれぞれに國分さんを通じてじっと考えさせられた様子で共感した。とても久しぶりに國分さんとお話できたしなんだか安心した。

さてさて今朝も木曽路の和菓子が甘さ控えめでおいしいです。熱いお茶と一緒に。みなさんも体調崩さないようにお気をつけてお過ごしください。

国分寺駅南口

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「実験」

時折強い風の音がする。嫌だな。雨がひどくならなければいいけど。

これが全部実験だったら嫌だな。実際そうだったのかもしれない。人体実験。向こうはこちらを使い、こちらはそれにのった。契約書のない契約。新しい環境に適応するためにがんばっているのを支えられたらと思った。居場所を失っているように見えた。使ってもらえる時間を作るために着々と仕事をした。自分の疲れは会えば自然とひっこんだ。「がんばれがんばれ」と大きな背中を小さくポンポンとした夏のことも覚えている。どうなってしまうんだろう、と感じながら、それまで経験したことのない不安と喜びと不気味さを感じながら。結局、実験にはならなかった。人をコントロールなどできないのだから当たり前だ。実験だと思えば少しは楽になるのかなと思っただけ。なるはずなかった。責任をとる必要のない肉体関係が想定されているらしいことを気づいていたけどまさか本当にそんな、というのはきれいごとで、そのまさかのこの人に人のこころなんてあるのだろうかと疑い、いつも不安を打ち消しながら過ごした。これは実験なんだから。最初から契約なんてないのだから。言葉なんて通じないのだから。自分を人間だと思うから苦しい。犬みたいに扱われたので「犬みたい」というと「似たようなもんだ」と言われた。上手に飼い主を愛せないとすぐ次のペットがほしくなっちゃう飼い主と一緒にいるためにはどうしたらいいのか。目的がすでに不毛すぎるが狂い始めたこころはそれに気づけない。言葉で主張したら悪意にとられる。理解が遅くても意地悪と思われる。怖い。ご機嫌でいてもらうために無理を重ねた。でも無理だった。もっとお手軽に利用できる幼くて依存的な相手ができたことにはすぐに気づいた。「○○パートナーです!」の「!」の軽薄さ。うんざりしつつも愛したが何も指摘されたくなかったその人はこちらをコントロールするために言葉を使い始めた。嘘をつかずに隠し事を続けているのだから後ろめたかったのだろう。言葉で言いくるめるのは得意技だ。地道にかけられてきた圧力の正体を見た気がした。やはりハラスメントやDVの構図を持っている人だった。それでも、それでも、と思ってしまう。ここで追い縋ってはならない。とりあえず逃げないと。相当なダメージに機能しにくくなっているこころを感じながらこれまでの言動と出来事を記録した。その人の親兄弟、今の家族に対する態度の幼稚さも裏付けとなった。それでも人間は愚かだ。傷が深くなって回復が遅れるだけなのにそんな人のことを考え続けることで時間を無駄にしてしまう。「実験」とかいって。愚かだ。

ああ、湧き上がる猛烈な怒りをこの風みたいに一気に振りかざせる形にできたらいいのに。怒りを言葉に置き換えられてもそれは鬱の始まり。深まるばかりの悲しみに動けなくなる。いつまでこんな地獄が続くのだろう。

などということをブコウスキーや川井俊夫さんみたいな荒々しさで書けたらいいのに。

雨はやまないらしい。窓を打つ音が聞こえる。風がないと雨音は静かだ鳥が一気に近づいてきて離れた。鋭い鳴き声。

GWは國分功一郎weekと書いたがひとまず今日でひと段落。インスタに何冊か読んだ本をあげた。読むべき本が溜まっている。私が國分さんを知りその運動と思考を追うきっかけとなった東京都小平市の都道328号線建設計画の是非を問う住民投票。あれから10年となるのに合わせ、今日の午後、小平では玉川上水周辺の環境保全を考えるシンポジウム「小平の玉川上水の自然が危ない」が行われるという。市民団体「みどりのつながり市民会議」共同代表で市議でもある水口和恵さんが「住民投票十周年に改めて328号線計画を考える」、麻布大いのちの博物館名誉学芸員の高槻成紀さんが「小平の自然の豊かさと道路による分断の影響」と題して講演すると東京新聞に書いてあった。ここに名前は上がっていないが國分さんも少しお話をされるという。後日配信もされるらしいのでそちらもチェックしたい。

いつも通り眠れないまま朝を迎えてしまった人もいるかもしれない。起き上がれないなら起きたままでという人もいるかもしれない。それでも、それでも、とやっていくのかな、今日も。とりあえず委ねてみようか、というか疲れ切ってそれしかできないかもしれない。どうか今日もご無事で。先のことはわからない。ただそれだけを忘れずに。

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木曽路

宇多田ヒカルに起こされてしまった。せっかく夢を見ていたのに。夢を中断する大音量。実際には大ではなかったのかもしれないが中断に十分な音量だった。といっても稲葉浩志と恋に落ちるとか気持ち悪いハラスメント作家が同じくらい気持ち悪い目に遭うとか起きそうもないことは夢の中でも起きていなかったと思うし他愛もない日常を共に過ごす誰かと他愛もない会話をしているような夢だったのだろう。あっという間に忘れてしまったので夢はいまだに夢の中。

「木曽路はすべて山の中である」

島崎藤村のいう通りだった。これだけ多くの種類の緑と豊かな水に囲まれて過ごすこともないだろう。奈良井宿や妻籠宿、恵那だったらあまり歩けなくなってしまった、でもまだ歩きたい、旅をしたい年寄りを連れてこられるかもしれない。馬籠宿は坂がきつい。私は街道歩きが趣味の人と行ったので妻籠から馬籠までは中山道を歩いた。3時間弱だったか。少し坂がきつい箇所もあるがそれで足を止めるほどではなく所々で休憩できるベンチがある。途中の滝では少し水飛沫を感じられるところまで近づきゴーッという水音をしばらく聞いた。岩場の平らなところでは何か食べたり肩を寄せ合って滝を見上げている人もいた。晴れの予報と山道というほどではないコースという情報に甘えてトレッキングシューズではなく薄底のランニングシューズで行ってしまった。石と湧水のところだけは後悔した。足を守ってくれるはずの靴のせいで慎重になるのはよくない。面倒がらずに二足持っていけばよかった。陽射しは強かったが山の中は涼しかった。普段は耳にしない鳴き声もたくさん聞いた。すぐそばですごく大きな蛙の声が聞こえた。土の色と湧水の光に隠されてしまっているのか珍しい鳴き声に思わず足を止めたカップルと一緒に結構長く鳴き声のする方を見つめたが見つけることができなかった。

旅とは全く関係なく島崎藤村のことを話したばかりだったせいか藤村の親族が教えてくれた藤村の話や記念館の資料がなおさら興味深かった。木曽福島には藤村の姉の嫁ぎ先があり今も高瀬家資料館として子孫によって維持されているのだ。「家」の舞台になった場所である。ちなみに記念館は馬籠宿、藤村が生まれた家の跡地にある。誰が何を話し何が話されず何が残り何が残されないのかということを明智で大正時代の新聞や広告、映像などを見ながら、恵那で大井ダム建設に尽力した福澤桃介について知りながら、地元の人と話しながら考えていた。

もう準備せねば。仕事仕事。しばらく我が家は和菓子天国。木曽路の宿場町は金沢に次ぐ和菓子屋さんの充実ぶり。駅から歩ける範囲にあるからそれぞれの店の個包装のをひとつずつ買ってはベンチを探してお茶と一緒にいただき、食べられないのはバッグに溜めてきた。いっぱい食べたはずなのにいっぱい持ち帰ってこられた。どこのお店もひとつずつしか買わないのにいろんな話をしてくれたり丁寧に対応してくださった。開業してから旅は商いについて学ぶ機会にもなっている。結構シビアな商売を女一人でやっていくこと、もちろん多彩な繋がりに支えられているとはいえなかなか大変なこともあるので個人で商いを営みながら生活をする人たちから力をもらうことは多い。

そうだ、國分功一郎さんがご自身も運動されていた住民投票に関するシンポジウムについてツイートしていた。あれから10年、小平の自然を分断する道路計画が動き出しそうだという。自然の力を目の当たりにするたびにやはりこれは大きな問題なのだと思わざるをえない。本来なら住民の方々がしてきたことを国がやるべきだっただろうに。

なんだか今日はあまりに言葉にならないことが多すぎるな、と書きながら感じる。ここはサラサラと出てくる部分だけさらうように書いているけどその浅さと沈殿していくものの対比を重たく感じる。大井ダムの水深もどんどん浅くなっているらしい。掘っても掘っても溜まっていく。人間って、私って、といつも以上に感じる。とりあえず今日も過ごそう。みんなも元気で。

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精神分析

出会い、仕事

たまたま入った店でなんとなくの会話がはじまる。私はどこへ行っても話しかけられやすい。小さいからだろうと思う。おかげで思いもよらなかった話を聞かせてもらえたりする。ある程度まで受身的に聞くが興味の程度によっては取材態勢に入ることもある。旅に出れば不思議なこと、意外なことがたくさんある。聞かされるまま聞くのも面白いし自分からきいていくのも面白い。

「老舗でね、手広くやってきたわけではないけど地元の人はみんな知ってる。でも先代が病気になって休まなくてはいけなくなってしまって」とお話を聞いたのは酒造会社の人。長く酒造りに関わってきた人のリクルートに成功し店は残ることになったという。たまたま通りがかった小さな倉庫で試飲させてもらった開けたてのお酒はラベルもかっこよくまだ発泡酒のような味わいもあり海外にも日本酒の良さを知ってもらいたいという願いがあるそうだ。様々な緑に囲まれ柔らかな湧き水に恵まれたこの土地のこのおいしさ。説得力があった。移住してまでそこを継ぐ決心をするにはそれなりの勝算が必要だろう。東京でもいずれと話して倉庫を出ると車から夫婦らしき人が降りてきた。背中で聞いたやりとりはそこがすでにその土地に根付いてることを感じさせた。

それにしても話を聞かせてくれたその人は誰だったのだろう。土地の説明がとても魅力的だった。先代の若い親族だろうか。話を聞きながら関係性を掴めることも多いがそのときはわからなかった。

昼に入った蕎麦屋の人とは掛け合いが楽しかった。早めの時間だったがすでに蕎麦が足りないから20分ほどかかるという。全く問題ないので入ってキョロキョロしていたがその人の仕切りのうまさに感動した。そして絶妙に押しが強い。つい相方みたいな反応をしてしまった。みんなで笑った。地元のご老人の居場所にもなっているらしく一度出て行ったのにすぐ戻ってきて話し出す常連っぽい方に「今日はお客さん多いから今度聞く」という。が、通じない、というよりその方には伝えたいことがあるらしい。その場だけ聞いてるとなんのことか全くわからなかったが「わかった、〇〇さんに伝えておけばいいのね」といいその方はニコニコウンウンと頷いてでていった。

駅で荷物を預ってもらったがそこの人も蕎麦屋の人とよく似ていた。押しが強い。そして教示が的確。

直接的に人を相手にする仕事は瞬間の手続きの連続だ。頭で考える時間などないことの方が多い。彼らはそれぞれ達人だった。

その土地で仕事を得たり続けたりしていくことがどれだけ大変かはわからないが決して気楽ではないだろう。選択肢も多くはなさそうだ。でも少なくとも彼らは相手を個人としてきちんとみていた。障害のある人への関わりを見てもそう思った。

今日はどんな人と出会うのだろう。出会っても出会わなくてもいい一日になったらいい。みんなも。

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散歩 精神分析

富士山

富士山が見える駅には「晴れているとこちらから富士山がみえます」とか書かれていることが多い。こちらは晴れていてもあちらがという場合もあるしお空事情は色々だから見えない時もあるし「こんな隙間からこんなきれいに!」と意外な場所から意外な富士山を発見することもある。「富士見」と名付けられた場所にも「昔はここからきれいに富士山が見えました」と書いてあったりする。もちろん今でもきれいにみえる富士見ヶ丘とか富士見台とか富士見町ととかもある。かろうじて富士山が見えるポイントに人々がたまっていることもある。富士山すごい。

春を巻き戻したような土地で桜やハナミズキや藤と出会い直した。毎年季節が進むのが早くなっているように感じる。

今朝は早朝から散歩へ。行ってきます。

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精神分析

GW

鳥の声がじゅわって聞こえる。重なって鳴いてる。今日もあったかそう?昨日は朝寒い!となったけど「暑くないの?」と言われた。十分あったかい格好してた。なんかパソコンの調子が悪いなあ。候補生の会のニュースレターの基盤はできたけどここからなのに。でも原稿もたくさん集まって読み応えあるものができそう。投句の締切は今日か。あー。集める方はできても出す方はダメね。あー。こうして書いていくとやらねばならないのにやっていないことに気づいてしまう。提出期限過ぎてたりして。あとで確認しましょう。これはすぐ書き終わるからね。

1日の終わりにみる動画があるのだけど毎日それがUPされるかどうかはわからないの。それはそれで楽しみだけどUPされてないとやっぱり残念。でもまた明日、と思う。

お笑いのライブに行った。これは私にとってすごく非日常。句友たちはお笑いにすっごく詳しくて私のお笑い情報はほぼ彼らのツイートから成り立っている。芸人さんってただでさえ変わった名前つけてたりするじゃない?それを略されたりするといよいよそれは物?人?というところからになっちゃうけど一度ライブにいくと一気に身近になるね。コロナ前にみたもう顔の筋肉が崩壊するような笑いはなかったけどほんわかしつつすごいリズムのいいショートコントですごい!と思った。また行きたいなー。お笑いは夜遅くまでやってたりするよね、たしか。寄席も行きたい。

今日から連休ですね。みんなはどうやって過ごしますか。はじめての何かをする人もいるかもしれないかな。はじめての場所にいく人は多いかもしれないですね。それが近場でも遠方でも良い出会いや発見があったら嬉しいかもね。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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精神分析

GW,國分功一郎week

GWは國分功一郎weeeek。隙間時間は全部國分さんの本を読むぞ、久しぶりに、と思ったけど『スピノザ 読む人の肖像』(岩波文庫、2022)に苦戦したばかりだった。全部は見られていないけど「國分功一郎の哲学研究室」も購読しているのだった。毎回動画とテキストの二本立て。映像と言葉、見ると読む体験の両方。見て、読んだ範囲では全て面白かったし心動かされた。國分さんの話は巻き戻して(ネット上では巻き戻してとは言わないか)何度も聴きたくなる。早送りも倍速もできない話し方。すごく音や映像にもこだわってその道のプロから教えてもらったり本を読んだりしたとおっしゃっていた。そんなに仕事してるのにこっちもなんてそりゃ体調も崩すよ、という徹底ぶり。たしかに最初に見たとき「おー」と思った。これは新しいなと。You tubeではないのがとてもいいと思った。國分さんはずっと同じテーマを具体的な問題とともに追い続けながらいつも新しい哲学の表現を模索している。こういう実践がまた理論に影響を及ぼすのだろうね。

國分さんの新刊はコロナ禍で行われた東大での2つの講義を収めた本。『目的への抵抗ーシリーズ哲学講和』(新潮社、2023)。すぐに忘れる、すぐになかったことにする、すぐに経験を知的なものへと変換してしまう私たちだから今すぐに読んでおきたい。経験が近いうちにあれこれあった日々を何度も体験し直しそこから考えていく必要がある。

今ちょと眠ってしまった。友達とイベントへいく夢を短時間ながらみていた。夢の中でも「ここで食べられるお菓子」みたいなお菓子のことをスタッフの方に教えてもらい隣にいた人たちにも聞いたばかりのことをもらった地図付きで教えている夢だった。横浜の方のイメージだったな。いつもの自分じゃん。しかし不思議な階段だったな。

そういえば國分さんはデカルトのことがものすごく好きなんだね。『スピノザ 読む人の肖像』とその元になってる博士論文『スピノザの方法』を読みながら思った。國分さんの講義を受けているときはドゥルーズ、スピノザのことは頭に残ったけどデカルトは残っていなかった。國分さんはその時点での考えに至るまでの思考の流れを丁寧に話してくれるから絶対出てきているはずなのに。

國分さんは実践を大切にしてくれる(精神分析実践のことも)哲学者でご自身も本当に大きな実践をされてきた。私が國分さんのことを知った道路問題についてはこちらの本にまとめられている。『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎、2013)。私が理事をしていたNPOで國分さんをお呼びしてお話聞いたとき、私ははじめてその地域(千葉県松戸市)も似たような問題を抱えていたことを知った。それまでずっと一緒に活動してきた地域のことなのに聞いたことがなかった。こうして許可なく自分たちの私有財産が侵害される怒りややるせなさについて語る機会があってよかった。民主主義的な決定とは何か。そこに本当にプロセスなんてあっただろうかなど『近代政治哲学 ー自然・主権・行政』(筑摩書房、2015)と合わせて読むのがおすすめです。

ということで久々にお会いしたい國分さんのご著書からまずは、ということでなんとなく書いてみました。もう西の窓も明るい。大きな窓の方はどうかな。チョコは部屋に置きっぱなし。まだ溶ける季節ではない。塩山の和菓子と洋菓子風和菓子の2種類を半分ずついただくことにしましょう。明日からまた連休ですね。まとめてお休みをお取りの方もそうでない方もどうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

消費、礼、花すること

紅茶美味しい。とってもいい香り。東の窓は明るくなってきたけど西の前はまだね。鳥は明るい方から鳴き始めるのね。暗くなったら寝て明るくなったら起きる。ここが明るすぎない街でよかった。

中島隆博先生がマルクス・ガブリエルと対談した本のなかで、なんていう本だっけ。そう『全体主義の克服』。調べました。集英社新書から2020年夏にでた本。すでにパンデミックについても語られていました。この期間、コロナとは関係なく亡くなった知人が数人いるけど「関係なく」なんて簡単にいえないのかもしれない。そうだ、中島隆博先生がその本の中で「花」について語っているところがあるの。どこだろう。あった。思ったより後半194ページ。全251ページの本なの。中島先生がそこで「中国語の「花」は動詞でもあり、何かを消費するという意味があります。中国語の「花時間」は時間を消費するという意味になります。」と書いているの。下北沢にVoleur de Fleur「花泥棒」という喫茶店があるのだけど時間泥棒という意味でもとれるね。私が下北沢に通っていた頃からずーっとあるんじゃないかな、あの喫茶店。素敵な名前で全然悪い意味とは思わないけどこの「花」に含まれる「消費」はその言葉のイメージ通り基本的には悪い意味なんだって。でもアリストテレス哲学が提示する「エネルゲイア」(現実活動態、「キーネーシス(運動)」と対比されるもの)というのは種子から開花へのプロセスで「エネルゲイアの状態になる花は、結果的に実を結ぶことがあるにせよ、定められた目的のために咲いているわけではありません」。理由も根拠も目的もなし。でも咲く。そして朽ちる。消費ってなんだろう。倫理的な消費ってありうるかしら。中島先生は倫理と弱い規範である「礼」を結びつける。「人間的に花すること(human flowering)」ってどんなだろう。状況依存的なもの、つまり偶然的な出来事を受け入れていくプロセスと理解しているけど。常にあるのは結果ではなくプロセスだとも。國分功一郎さんは『暇と退屈の倫理学』の中で「消費」と「浪費」を区別したよね。GWは國分功一郎×柄谷行人読書週間として色々読んでる。柄谷行人の新著『力と交換様式』(岩波書店)をしばらく前にもらったからそれを読もうと思っていたのだけど見当たらなくて。どこへ置いたのかな。まあいいかと國分さんが取り上げていた柄谷の昔の本を読んだりしていた。それでパンデミックのこととか気候変動のこととか空とか花とか法則性とか複数性についてバラバラと思い浮かんでとりあえず思い浮かんで残っているものがホワホワとつながって中島先生の言葉を思い出したのね、多分。

チューリップで有名な公園へ行った。すでに花は咲き終え切り取られていたけどとてもたくさんの茎と葉が残っていて色はわからないけどそこにあったであろう景色を想像させてくれた。チューリップのあとにはたくさんのポピー、ネモフィラ、シロツメクサ、それらを取り囲むいろんな緑の木々、春から夏へ少しずつ季節は動いてる。春とか夏とか名付けること自体も大事だったんだよね、きっと。どうするのかな、私たち。どうなるのかな、私たち。國分さんや中島先生の本を読むと無自覚でいないことで体験される切迫感も感じるけどそれを否認せずそこにいつづける仕方も教わっているような気分になるんだ。今日は月曜日。5月になっちゃった。どうぞご無事で。お元気で。

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精神分析

雨、卓球、防砂林

やっぱり雨やまないよね。あーあ。鳥は鳴いてる。雨でもいつも通り。人間は雨で予定を変えたりするのだけど鳥たちはどんなですか?

久しぶりに卓球をした。ほめられた。スタミナがあるという褒め言葉が嬉しかったことが新鮮だった。そんなもんとっくになくしてたかと思ってた。結構上手だったので習いたい。すぐこうなる。バドミントン部のとき、コーチにまともなフォームを教えてもらってからしばらく全く打てなかったのでやるなら最初から正しいフォームでやりたい。精神分析も結局同じなんだろうな。私はオーソドックスな形をまずは身につけることを大事だと思っているのだろう。

以前、多分青森のホテルに泊まったとき、卓球ルームがあり、というか当時は卓球台を求めて宿を探していた時期かもしれない。そこはすごかった。選手みたいな格好をした娘が父にコーチされてたりやたら上手い人が多くて卓球リーグ上位校の部活に紛れ込んでしまったみたいだった。楽しかったなあ。

今、お家みたいな宿の卓球台を思い出したのだけどあれはどこだったのだろう。萩かな。あれはどこだったのだろうと何度も思い出す宿で聞けば「ああそうだった」となるのにこうして毎回忘れる。また「ああそうだ」となろう。そのうち聞いても「そうだっけ?」とかなるのだろうから。

海に近い道路には防砂林らしき高過ぎない木が立ち並んでいた。あれはなんだったんだろう。地面の方は野趣溢れるムラサキツメクサたち、あの白い花はオオデマリ?オオデマリは低木だと思うのだけどあの高さまで行かない?低木って何メールまでを「低」とするの?これもあとで聞くか調べるかしましょう。そのときは一緒にいる人もわからなくてただただそれらの野性味に驚いていた。花や木をみていると「これってあのときのあの子?」みたいな驚きがたくさんある。人間と違って逆順もあるしね。逆というか生まれ変わり。循環。人間も私が死んでもどこかで次が生まれてると考えれば循環。少子化は深刻な問題よね。

今朝は再びお菓子天国の我が家。再び塩山の和菓子屋さんのお菓子。嬉しいな。外の風の音が安定しないなあ。風の音が安定するなんてことないか。常に強弱あるものね。雨でもいいけど風は嫌だなあ。まあ美味しい緑茶をいれてのんびりお菓子食べることからはじめましょうかね。みなさんもどうぞお気をつけてお過ごしください。

あとこちらは雑文ブログですが、オフィスのウェブサイトも更新しました。よろしくお願いいたします。

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精神分析

習慣とか

カラスが鳴いて小さな鳥たちが鳴きはじめる、という順番に思えるのだけど違うのかな。なんかいつもと違う感じの鳴き声が聞こえるけどどなたかしら。

以前その地域で間借りして面接をしていた頃、隙間時間によく行っていたビルへ久しぶりにいった。かわいいものがたくさんでウキウキした。オフィスのある初台になんの不足も感じないけどインスタで目にするようなものたちが実際に並んでいるとどれもこれも目新しくはじめて東京に出てきたような・・・と思わず書いたけどはじめてはどうだったかな。当時、群馬から東京入りするというのはまずは上野駅に到着するということであり、そこからお茶の水へというのが私のはじめての東京。家族でなら毎年後楽園に野球にきてたから水道橋だけど。3月に千代田区のギャラリーへ行ったついでによく泊まったホテルのあたりを歩いた。当時私が少しドキドキしながらした寄り道の距離の短いこと!知らない道を延々と走っても見晴らしがよく、少しのランドマークで戻ってこられた田舎とは違う景色に警戒していたのだろう。立ち並ぶ高めの建物に挟まれた道路、つまりは普通の住宅街の道だが、とまで書いて携帯をいじったらそのまま『ゴリラ裁判の日』を読んでしまっていた。著者は須藤古都離、ことりさんって読むのかな。講談社から。はじめての東京がいつのまにか最も長く住んでいる場所に変わったがいまだにキョロキョロして過ごしている。群馬と比べると視界が狭いのだ、やはり。視線が「その先」を見ることができない。老眼も進んでいて本を読むのも苦痛だがこうしてなんとなく読み始め気づいたら読み耽っているのは習慣だからだろう。東京は変化が大きく習慣は個人のものな気がするが田舎はまず自然に規定されるものとしてあるような気がする。久しぶりに寄ったビルは上の方の階にはあまり人はいない。ギャラリーも無料なのに誰もいなかった。フラッとよると受付の人にわりと遠くから挨拶をされたのでお辞儀をかえした。眺めながらそこに置いてあるものたちの関連性を考えていたらしく、いまやすぐそばにいる受付の人の視線を受けて尋ねてみた。この距離でそんなふうにみられたら言葉で距離をとるかそそくさと出ていくかしかないが私は言葉で。これとそれには関係がなかった。びっくりと納得と。なぜそうなっているかといえば、という説明を聞いてはじめて知ったのはギャラリーの運営をする会社のこと。そうか、どの建物にも管理者がいるもんね、など展示の中身よりも箱に関するお話を色々伺って「もっとゆっくり手に取って」と言われたが時間調整で少し寄っただけだったのでお礼を言って次の場所へ向かった。本の話はやはり盛り上がるな。

今日は何を食べようかな。耐え難い苦痛や行動化への衝動から身を守ってくれるものがあるとしたらその一つはやはり「習慣」だろう。外に光が増えてきた。今日は一日お天気なのかな。みんなはおやすみ?おやすみの人もそうでない人もどうぞよい一日をお過ごしください。

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精神分析

塞ぐことなどできないし。

真っ暗。というのは外のこと。外に出たらでたで真っ暗ではないのだろうけど。コロナに振り回される生活を送ってきた人もコロナ禍であろうと以降であろうと変わらず人の心と体をもてあそんでいた人も同じように自由や倫理や生活について語ってお金をもらえるのが世の中。戦争を教えない教育になるわけだ。この人はこんなこと言ってるけど本当はそんな生活していないどころか他人の身体傷つけて他人の生活脅かすような人だけどね、ということを日々の生活から学んでいる子供も大人も多いから救いがないけどなんでも明るくポジティブに語ることが大事だもんね、「前を向こう」だっけ?私は全然そう思わないけどそうでもしないと辛すぎるのもまた事実でしょう。起きたこともそれに伴う気持ちもただそのまま言い伝え続けることをしようとしても辛すぎてできないものね。平然と棚上げし忘れることができる人の実際を伴わない自分語りが耳障りいいのは当たり前。当事者にならないですむから。もちろんそういう人がいる一方で当事者はいるわけだけれど。マスクをしてもサングラスをしてもノイズキャンセリングのイヤホンをしてもオイディプスみたいに目を突き刺しても目も耳も心も塞ぐことなどできないなかなんとか生きてきた人たちと毎日毎日会って話を聞いている。怒りや悲しみに耐え難い雰囲気になることもある。一緒に笑うこともある。沈黙のままなこともある。口を開いたら何が起きるかわかってる、反復を恐れる。実際似たようなことは起きる。それでも時間がくればお金の受け渡しをして別れる。そしてまた会う。それでも人を喰い物にしてと言われることもある。実際喰い物にされた経験があるひとは特にそう思うだろう。人って平気で嘘をつくし、喰い物にしといて喰われたお前が悪いこんなまずいとわかっていれば喰ってなどいなかったお前なんか喰ったと思うと後悔しかない、とか言える人がいる生活を生きざるをえない場合もあるのだから。単に快不快で生きてるだけではと言いたくなってもだとしたらどうしてそうなったということを考える。因果関係を探すというより事実の描写を積み重ねていく。今ここを反復を共にする場として立ち上げていく。外側からわかったようなことをいうことが必要な局面もあれど大抵はそんなお気楽さは求められていない。現場にいるってそういうこと。葛藤なき快不快原理で生きる「賢い」消費者にならないように、戦争だってそのまま語り継いでいけるようにと願うけどどうしてもそうなってしまったりする毎日。自分のことがもっとも疑わしいからこそ目の前の人間関係にとどまる。感じたり考える力を奪われる出来事に本当に死んでしまうことのないように切実さに開かれる誠実さを。それを支えてくれる環境を、と願う。

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精神分析

チョコ、同一化、四月は三十日まで。

夜中にチョコ。いつも遅くまで仕事してるから夜ごはんも遅い。なのでおなかが空いているわけではない。でもね、甘いものは別。うちでの作業には常に必要、ということで暗いキッチンで冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中はいつも明るい。閉めると再び暗くなるのでしょう?どーもどーも。ありがとう。起こしてごめんね。おやすみなさい。今日は朝食べたいお菓子がないことを知っている。さっき目を覚ましてぬくぬくしながら最初に思ったのはそのこと。また夢を忘れてしまった。おみやげのお菓子も尽きてしまった。いや、ある。もったいなくて開けていないドライフルーツが。ドライフルーツって苦手だったんだけど紅茶屋さんとかのをもらうと美味しい!ってなる。その紅茶屋さんのをもらった。でももったいない。あと1,2時間後、果たして私はそれを開ける決心をするのでしょうか。

何もないなあ、とか思いながらも冷蔵庫を開けるのはそこにいつもチョコがあるから。特にGODIVA。1年に2、3回海外から帰ってくる親戚がいつも定番GODIVA+何かをくれたり、友人がカルディで珍しいものがあったからとくれたり、チョコはちょこちょこもらうから結果的に常備。朝はチョコ♪チョコチョコ♪とはならないけどまだ暗いうちの一粒はいいかも、と上品な並びから一粒とる。それにしても「朝はパン!パン、パ、パン♪」みたいに[m] [n][ŋ]か、あるいは[ɔː]みたいな音がないとこのリズムとるの難しいのかな。チョコの「コ」は跳ねる感じも伸びる感じがないしね。朝のお菓子は半分に切ることが多いのだけど夜明け以前にいただくチョコをちょこっとかじってみる。あれ?切れない。キャラメルか。手を口元から離してみると断面が2層になっている。キャラメルとなんだ?ココア?色が違う。お菓子は断面をみて感動することが多い。チョコはあまり包丁で切らないけどキャラメルだと切りにくかっただろうな。口の中をしばらく甘くして楽しんだらノンカフェインのレモンティー。世の中には本当にいろんな飲み物があるね。

そうだ。先日個人での開業を考えている昔からの友人がオフィスに見学に来てくれたときも街の素敵なお菓子屋さんのチョコをくれた。色や形も繊細でかわいくてとっても上品な甘味だった!こちらももったいないので少しずつ少しずつ。Merci! 久しぶりにいろんな話をゆっくりできて嬉しかった。Chocolatierにもメルシー。美味しすぎるから大切にいただきますね。カフェもあるらしいので行ってみよう。

またお菓子のことばかり書いてしまった。昨日、ある食べ物ツイートをみてフロイトが記述したいくつかの同一化の型を思い出していた。唐揚げ大好きな小さい子が「大きくなったら唐揚げになる」と言ったりする段階があるけど、「あーこの人はこういうものを食べてその欲望のまま振る舞っているわけか。身体には不健康で欲望に忠実という意味では精神分析的には健康、いや行動化はどうだろう」とか。以前セミナーで同一化について話すときにまとめた資料をあげておこうとパソコンのなかを探したけどなかった。なぜー。そういうの多いのだけど整理が悪いのがいけないのよね。もっと工夫しないとなんだろうけどフォルダ作ってもそこに入れるのを忘れちゃったりするからだめね。

昨年の学会で指定討論したものを原稿にしないといけない。後期ビオンと後期ウィニコットから学んだことについて。私は主にウィニコットの側からan incommunicado/isolate self that is non-communicatingのことを。勉強しなおさないと。

あーまた四月中にやらねばならないことを忘れていた。今思い出した。四月って何日まで?三十日か。そりゃそうか。あー。なんとかなりますように。今ここにいる気がしないやる気ある自分が戻ってきてくれますように。そんなときがあったかどうか覚えていないけどきっといる。きっとくる。きてください。みんなはどうかな。今日は雨靴じゃなくても平気みたい。もう明るくなってきた。鳥たちもおはよー。もうすぐ立夏だ。気温も気圧も身体にくるけどお大事に過ごしてくださいね。

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俳句 写真 散歩

花々

行き慣れた家をピンポンした。門からお庭をのぞいたら見慣れないきれいな花がスラッと長く立つ枝に散らされたように咲いていた。人が出てきた。飯能で見つけた「食べる甘酒」を渡しながらこのお花って前からあったかという話をする。おとうさんといっしょに買った苗で昨年は花が咲かなかったという。だから気づかなかったのか。しかもどうだんつつじだという。え、私が知っているどうだんつつじはいつもの散歩道で見る茂みのようなものなのにこんなにすっと背高く咲くものなのか。きれいなピンク。お庭はほかにもこの時期のお花が美しく咲いていた。あやめ?ジャーマンアイリスって言うんだって。ドイツのあやめか。よくわからないのだけどこっちにも似たようなのが咲いていたのよ。へえ、あっちのは?などおしゃべりをして別れた。「おとうさん」は昨年一月に亡くなった。元気そうでよかった。

「どうだんつつじ」と打ったら「灯台躑躅」と出た。打ち間違えたともう一度打ったら自動変換の候補に「満点星」ともでた。あれ?なんで?また打ち直したらまた同じのがでた。これ、どちらも「どうだんつつじ」と読むそうだ。「満点星」でそう読ませるのはなかなか難易度高いが散らされたように咲く花が空に散らばる星々に似ているということだろうか。wikipediaには

「「ドウダン」は、枝分かれしている様子が昔、夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じたもの。満天星の表記は本種の中国語名の表記をそのまま引用し和名のドウダンツツジの読みを充てたもの。」

と書いてあった。そうなのか。お花をラテン語の学名で見ることは多いが中国語名を意識してみるのも面白いかもしれない。深夜、少しだけ片付いた床でむくみのひどい足を伸ばしながら『花のことば辞典』(講談社学術文庫)を見ていた。また片付け途中でみつけてしまった。古田徹也さんがどの本か忘れてしまったが言葉の本のどれかを出されたときに選書リストにあげていた本だ。文庫サイズの辞典はありがたい。その頃は毎日意識しなくても感じられる風や雲の方に注意が向いていてこちらも古田さんの選書で知った『風と雲のことば辞典』をパラパラすることはあったが花の辞典の方はあまり見ていなかった。パラパラ。俳句だ。

「花は夏・秋・冬にも咲くが、ただ「花」といえば、桜に敬意を著して春の季語である。」

下の4句が並べられていた。

花の雲金は上野か浅草か 芭蕉

草越しに江戸も見えけり花の山 一茶

花更けて北斗の杓の俯伏せる 山口誓子

人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太

たしかに。見えてくるのは桜、ですよね。そう聞いたからそう見えるだけかな。北斗七星の三つ星を杓に見立てるとは知らなかった。「暦生活」のサイトにわかりやすく書いてあった。

「アイリス」が「あ行」の最初のページに載っている。「アヤメ科アヤメ属の栽培多年草」と。うちの花壇にも植えてみようかな。紫のお花は梅雨に向けての構えをしっとりと作ってくれる。すぐに咲かなくても次の年に咲くかもしれない。

携帯電話には花の写真がたくさん。あっという間に日が過ぎるのでこういうサイトに使おうかと思った頃にはもうその花は枯れ落ちていたりする。季節はめぐる。外は雨の音。さっき南側の大きな窓からのぞいたときは降っているように見えなかったのに。今日は一日雨みたい。写真を撮る余裕はなくてもたくさんの木や花に出会うでしょう。辛いことも悲しいこともたくさんだけど紛らわしながらなんとか過ごしましょうか。どうぞご無事で。ご無理なく。

明治神宮
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精神分析、本

漫画、フロイト、オグデン

昨晩は大正ロマン関連を色々チェック。旅に出るから。袴で街をそぞろ歩きしたい。今朝は吉田戦車『伝染るんです。』をパラパラ。少しずつ積み上げられた本と論文の整理をせねばと単に別の場所に移動させるようなことをしているときに見つけてしまった。ちっこい文庫。『はいからさんが通る』ではなくこっちを見つけてしまった。これ帯もつけっぱなしにしてたんだ。1巻「読んだらキケン!』2巻『不条理来襲』3巻『枠組み破壊』4巻『爆発的伝染力』5巻『非常識の完結』。『伝染るんです。』なんだから4巻のはどうかな。まあ大きなお世話かな。今こんなことしてる場合じゃいないんだよー(泣)。でも面白いよー。それにしても部屋がひどいことになっている。

Reading Freudも事例検討グループも始まったからインプットを増やしていかないとなのに別のことばかり調べてしまう。英語論文とか最近ちょっとしか読んでないからめちゃくちゃ読むの遅くなってるし。そんな賢いわけではないのだから真面目にやらないとなのにね。あー、吉田戦車とか大和和紀天才。フロイトと同じくらい読むべきものたちと思う。

一応、私が読書会でいつも言っているフロイトの書き方に意識を向けることについて話すためにオグデンの2002年の論文を再読したのであげておこう。これはオグデンの単著に入っていただろうか。訳されていないけど誰かが編集している本に入っていることは知っているけど書名を忘れてしまった。漫画読んでないでこちらをチェックしないとね。

Ogden, T. H. (2002) A New Reading of the Origins of Object-Relations Theory. International Journal of Psychoanalysis 83:767-782

The author presents a reading of Freud’s ‘Mourning and melancholia’ ということでフロイト全集14の『喪とメランコリー』をオグデンが再読。この論文は対象関係論のはじまりと言われている論文。これは十川幸司訳の『メタサイコロジー論』にも収録されているからそっちで読むといいかも。フロイトが短期間で一気に書き上げたというメタサイコロジー論文の中でも最重要。

オグデンが重要と考えるのはvoice。太字は私が太くしました。

the way he was thinking/writing in this watershed paper.

オグデンはのちに‘object-relations theory’(対象関係論)と呼ばれる心の改訂モデルの背景にあるフロイトの考えを以下に要約。

(1) the idea that the unconscious is organised to a significant degree around stable internal object relations between paired split-off parts of the ego

(2) the notion that psychic pain may be defended against by means of the replacement of an external object relationship by an unconscious, fantasied internal object relationship

(3) the idea that pathological bonds of love mixed with hate are among the strongest ties that bind internal objects to one another in a state of mutual captivity

(4) the notion that the psychopathology of internal object relations often involves the use of omnipotent thinking to a degree that cuts off the dialogue between the unconscious internal object world and the world of actual experience with real external objects

(5) the idea that ambivalence in relations between unconscious internal objects involves not only the conflict of love and hate, but also the conflict between the wish to continue to be alive in one’s object relationships and the wish to be at one with one’s dead internal objects.

要約だけだとまあそれもそうかという感じかも。症例の話がないとということで興味のある方は本文も読んでみてください。

ちなみにオグデンは下に書くフロイトの論文の終わりの部分を引用して患者の実際の生活に根ざしていないと精神分析もthe self-imprisoned melancholic who survives in a timeless, deathless (and yet deadened and deadening) internal object worldと変わらないよ、ということでこの論文を閉じています。

Freud closes the paper with a voice of genuine humility, breaking off his enquiry mid-thought:

—But here once again, it will be well to call a halt and to postpone any further explanation of mania … As we already know, the interdependence of the complicated problems of the mind forces us to break off every enquiry it is completed—till the outcome of some other enquiry can come to its assistance .

オグデンは少しだけ省略してしまっているので十川訳の方からこの部分を引用しておきます。
「しかし、ここでは再び立ち止まり、まずは身体的苦痛、それからその苦痛と類似した心的な苦痛の持つ経済論的な性質への新たな理解が得られるまで、マニーについてのさらなる解明は延期するのが適切だろう。周知のように、錯綜した心的な問題は相互に関連しているため、他の研究成果を役立てられるようになるまで、このような研究は不完全なまま中断せざるをえないのである。」

これぞフロイトの書き方という感じがする。フロイトには常に次へ継続するための中断がある。実際、ここに書かれたことは継続的に探究され別の論文に書かれています。フロイトを読み始めるとこうやって読み続けることが必要になってしまうことをみんな無意識的に知っていて敬遠してしまうのかな。ここに書いてあることがよく掴めなくてもまた出てくるから大丈夫、ということを私はよく言うけど。精神分析みたいな心の探求は時間がかかってしまうのですよ、反復につぐ反復を扱うから。まずは反復を認識するところから時間がかかるし。うーん。体験と結びつくと多分かなり読みやすくなるのだけど読むために体験するわけではないしね。精神分析を体験するのはフロイト全集を買うよりもお金もかかるしそう簡単におすすめできるものでもないし。うーん。悩ましいですね。とりあえず読んでいきましょう。

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精神分析

Reading Freud、初回面接検討グループ

ふー。身体がバキバキ。顔が腫れてる。昨晩は少し冷えましたね。もう24日。困りました、といいつつ隙間時間は散歩電車散歩の日々です。

私主宰のReading Freudは新規メンバーを2人お迎えして4人で始まりました。5人でやろうかと思ったけど私のオフィスのサイズ的にも進行的にも4人がちょうどいいみたい。ウィニコットやクラインは読んでいるけどフロイトは…という人はそれなりにいるみたいでたしかにあまり読んだことがない人がフロイトを読む様子をみているとフロイトの書き方も書いていることも難しいのかもしれないとも思うけど読み方のせいもあるかもしれない。フロイトは精神分析の創始者なので自分がしていることを科学として基礎づけるために多彩な先行研究を引用しつつ「こんなことは誰々も誰々も誰々も言っていて自分はこの人のを採用するけどそれでもそれだけだと十分じゃなくてと」と論破しつつ臨床体験を構成するものを探求していくことを自分の理論に対してもずーっとやり続けるから『夢解釈』なんて20年にもわたって加筆修正が続けられている。最初は何言っているかちんぷんかんぷんでもあまり構えずに学会発表を聞くくらいの感じで聞くように読めるといいかもしれない。学会だとどんな難しいこと言われてても本を閉じるように出ていっちゃったりしないでしょう。まずはその場でフロイトの言葉を体験し続けること。このグループは1パラグラフずつ順番に音読していくものなので他人の声で聞くという体験ができるわけだしね。がんばろ。

初回面接を検討するグループは3人グループ×2。昨年度と同じメンバーで。みなさん初心者ではないので基礎的な型は身についているわけだけどどうして自分がそれをしているのかに対してあまり意識を向けていなかったりする。なのでそこを検討しつつ型がなぜ型として成立しているかに立ち戻る。自分がやっていることをメタでみるって本当に難しいけどグループでやると自分では到底気づかなかったことに気づいて驚いたりその驚くということがどういう体験なのかも身をもって吟味できるし楽しいですよね。

さてさて身体も温まってきたことだし今朝は何をいただきましょうか。かわいいういろうのお土産がまだあった気がする。眠くて眠くて眠いけどなんとかしましょう。みなさんの色々もなんとかなりますように。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 散歩

女王様のおやつ、工場見学、消しゴムマジック

今朝は群馬県高崎市に工場があるガトーフェスタハラダの群馬限定ラスク「グーテ・デ・レーヌ キャラメルショコラ」をいただきます。高崎市にある珈琲屋さんのコーヒーと。さて女王様のおやつ、とのこと。なるほど。ゴージャスな作り。なんでこれが群馬限定販売なのかな。普通のグーテ・デ・レーヌもあるんだね。レーズンサンドと合わせてるんだ!美味しそう。ぐんまちゃんのイラストが描いてあるわけでもないしなぜだ?まんまと買ってしまったではないか。おいしいからいいけどさ。ここは工場見学にいくと生ラスクも試食させてもらえるの。これがとっても美味しかった。生ラスクって言い方でいいのかしら。まだ少し柔らかくて表面にお砂糖だっけな、それをその場で炙ってくれてすぐいただけるのです。飲み物つきでいただけるスペースもきちんとあるし。県民としてはこんな田舎へ誰がくるのだろう(私は行くよ)と出かけた工場見学だったのに混んでたー。特にショップ。工場をまじまじと見学しているのはわたしたちくらいだったけどね。工場見学ってとても面白い。小学生の時に行った前橋市六供の清掃工場と下水処理場の中身は覚えていないけど温水プールとのセットでその仕組みとか感動した。あの辺は遺跡も多くて古墳みたいなところも行ったな。あとから国立中学附属の小学校はバスで行くんだよ、と聞いたけど確かに私の通っていた公立小学校は子供の足では遠いだろうと今なら思うほどの距離を歩かせていた気がする。ああいう「付属は」みたいな言い方って面白いし変。群馬のお受験なんてそこくらいだものね、受験に対する意識が低い学校でもそういう言葉だけはなんとなく使うようになるのだから面白い。

昨日も寝不足のままうつぶせで倒れこんでいたから顔が変。見慣れない顔になってる。出来事をまるでなかったことにして平然と軽薄でいられるのはなぜかということをここ半年くらいずっと考えているのだけど精神分析のセッションでは瞬間的にでも長期的にでも生じる状態。意識化ということが強調されがちだけど無意識化のプロセスだと思っている。精神分析場面でなくてもDVやハラスメント事案の多くにそういうのって見られるでしょう。そんなことしておいてよくそんなこと言えるよなってやつ。向こうはこっちにそう言わせない圧力をもって「自分のしていることがわかってるのか」とかいってきたりするから怖くて何も言えなくなってしまったり悪循環。誰かを喰い物にしてただの排泄物にしたり詐欺みたいな行動に役立てたりなんにしても「もの」扱いしてしまう心性は相手がいない状態、つまりナルシシズムの文脈が一番語りやすいと思う。相手がいないから平然と相手に押しつけて自分だけさっぱりしてしまう心性。相手のことを人として見てればそんなことはできないと思うのだけどなかなか。最近、写真の編集で「消しゴムマジック」ってあるでしょう。あれを人間関係でやってる感じといえばいいのかな。むしろああいうのは人間の性質がテクノロジー化したともいえるのか。DMとかと同じで一方が消してももう一方のは消せないし、オンラインからはほぼ永遠に相手はいなくならないのでそういうマジックを気楽に使わない方は苦しい。使えない方がいいけどね、魔法的なことは。ドラえもん的なことは。アンパンマン的なことは。万能感はケアとセットならともかく、と思うけど、自分のいったこと、したことは棚上げどころかマジックで一括消去してケアとか環境型セクシュアルハラスメントについて語って賞賛と共感を得てしまう「いい人」でいるとかいう場合もあるでしょ。それってどうなんだろう。そうなりたいわけではない人でも相手を部分的に利用したくなるときはあると思うけど怖さや理不尽さが強烈な場合は問題にしていかないと。自分のせいにすることでなくしてしまわないように。今日もみんなで考えられたらいいですね。

先日、神代植物公園へいったら藤が満開でした。バラ園のバラの蕾もいっぱい。ハンカチの木の花も満開。緑はすでに少しずつ濃くなってきています。少しずつ少しずつ。

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精神分析

不器用、忘れっぽさ、優しい人

緑茶、友達がくれた紅茶、いつものコーヒー、特別なコーヒー、普通のリプトンはもうなくなってたんだ、そういえば。急に商品名を書いてしまった。個包装になっていない紅茶がいっぱい入ってるお得なパックみたいなあれ。最近紅茶をいただくことが続いていたから忘れていた、なくなっていたの。洗濯物をまず干さねばなるまい。その前にコーンスープ。今日はあまり飲みたいものがなくて粉末にお湯を注いで15秒だっけ、混ぜるだけのコーンスープ。粉の入ったパックとパックを切り離すとき点線を変な方向へ引っ張らないように注意せねば。不器用な人はほんと小さなことに意識向けなくてはなのですね、こうやって。私はいつも混ぜ方が適当なのだけどカップの底に残る小さくでろんとしたダマも好きだから敢えてってこともあるかもね。そんなに意識してやってるわけではないから個人的には怪我の功名。不器用さ、適当さにため息つかれたり呆れた顔されたり悪意と受け取られたりすると本当に悲しいけどそう受け取ってしまう人には人の事情や性質が、とも思う。でもやっぱりとっても悲しくなるし気をつけなくちゃって方に注意が向いちゃって余計に「失敗」しちゃったりまた冷たい視線向けられたりほんと一瞬一瞬負担が増えても曖昧に笑うしかできなかったりそういう雰囲気をどうにかしようとしてさらに空回りしたり悪循環ってちょっとしたことで始まって加速するから本当に難しいよね。小さい子が叱られているときに周りに注意が向いちゃって「こっちみて!」って怒られている場面に出くわしたりするとそれ以上注意がそれないようにこっちがそっちに注意を向けないようにするとかしちゃうもの。お互い辛いでしょう、怒る方ももう止まらなくなってしまうのだろうから。

涼しい風がスーって入ってくる。時折ギュンって風が渦巻くような音が聞こえる。今日のお天気はどうかしら。昨晩は帰り道少し雨に降られてしまった。朝、電車の電光掲示板っていうのかな。車内で天気予報が出るじゃないですか、あれで新宿は夜は雨のマークでもっとも雨に弱いスニーカーを履いてきてしまったよ、でも帰り道ならまあいいか、と思ったのだけど予報自体を忘れていた。オフィスに傘をとりに戻るのも面倒だから小走りで駅へ。電車に乗ってうちがある駅へ着く頃にはやんでいたのでした。何粒かあたった気はするけど。

昨日、日記を書いた。色々忘れてしまうので記録しておこうと思って書き出したら日記になった。ipad miniのカバーを買わねば。もう結構ボロボロ。日記を思い出したら買わねばならないものを思い出した。これもずっと頭にあるのに忘れてしまうのよね、何度も思い出すんだけどお店を通り過ぎるときには忘れてるの。変なの。私が?私か。日記にもこんなこと書いてある。

“電池単4を買うこと。このキーボードのために。電池のサイズが1と3以外よくわからない。4も結構使う、こうして書いてみると。今忘れないうちにと思って書いたがSlackに新しい方達を招待するのもこのブルートゥースキーボードに慣れるためにやっておくべきだろうか。このキーボードのための電池。もう一つのキーボードは電池式じゃないけど充電が完了すれば使えるようになるだろうか。どうしてこの二つを買ったんだっけ。多分ipad miniのためにネットでしらべてAmazonで買ったのだけどBluetoothって何という状態だったか今日ようやく使ってあげられたことになる。多分Wi-Fi環境が整っていなかったから使いづらかったのだろう。”

これは日記なのか?忘れ物をしないために色々書きつけているだけに見える。今載せちゃったっけど公開するものでもないからブルートゥースとかカタカタで書いてるね。二度目は自動変換に気づいたから変換したのだけど最初は気づく前に確定しちゃったの。でもキーボードが無駄にならなくてよかった。

今日は何を忘れるかな。もうね、こう言いたくなるくらい自分に諦めてる。昨日も打ち合わせのあとなくさないスキルとしてバッグインバッグを徹底してリュックに色々戻して立ち上がったあと「あれ?私バッグってひとつでした?」「ひとつひとつ、大丈夫。あるある、そういうの」と言ってもらえて世の中には優しい人だってそれなりにいるから大丈夫よ、と誰にともなく思ったりしたのでした。色々辛いし困ることも多いけどいいこともあるといいですね。今日もどうぞご無事でお過ごしください。

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精神分析

フルーツ、同窓会、フロイト読書会

寝不足。フルーツが胃にしみる、気がする。むしろ歯にしみる。歯医者さんが知覚過敏知覚過敏っていう。いやそうなんだろうけど。今日は朝の隙間時間にパッと打ち合わせに行かなくてはなのだ。指定場所はコメダ珈琲。少ししかいられないのがなんだかもったいないけどお仕事だからしかたない。そこで何かコーヒー的なものを飲むだろうから朝は飲まない。ここ数ヶ月カフェインとりすぎていた気がする。カフェインと頭痛は関係があるのでは、と聞いて、というかカフェインって本来あまりよくないわけだからほどほどにしないとですよね。

大学の学部卒業から25年ということで同窓会がお祝いをしてくれる、と幹事宛に手紙が来た。私は幹事。あー。死ななそうとか冗談で言われながら指名されたけど小中高のどれかも幹事だよ。何もしてないけど。大学のも何もしてこなかったけど友人とやりとりしながらこれを機に集まるかあ、みたいな感じでLINEのオープンチャットを立ち上げた。身近に佐久間一行ファンがいてお笑いライブをオープンチャットでみたりするというから「それって何?」と教えてもらったり、最近PTAでも使っているというから真似をしてみました。みんなすごく協力的であっという間に方々から懐かしいお名前が!嬉しい。大学に勤めている友人は当時の先生方にも声をかけてくれるとのこと。とてもお世話になった東洋先生はお亡くなりになったけど。海外の友人とも連絡がついた。ぼんやりはじめたわりにあっという間に話がまとまりそうで嬉しいしありがたいし楽しみ。

昨晩はアドバイザーとして招いていただいているフロイト読書会があった。遅い時間にみんなよくやる。フロイト全集2=ヒステリー研究。何度読んでも気づきが多い。自分主宰のReading Freudでは技法論集を読むけどそこに繋がる文章がたくさん。昨晩は病歴D エリザーベト・フォン・R嬢のところ。方法としての自由連想に対する確信が芽生え、「抵抗」と用語がはじめてつかわれた部分。あれから100年以上、精神分析を受ける人は日本では数えるくらいしかいないけれどまだ絶滅してませんよ、フロイト先生。不快極まりない自分を他者に見つけ、癒しなどとはほど遠い体験の中で得られるものを名付けることは難しいけど悪くないというかかなりタフな部分が作られていくプロセスにはなる。そういうタフさがみんなに必要かといえばそれはそうでもないかもしれないけれど。傷を生き延びるときには役に立つと思う。

今日のお天気は?くもり?お風呂入る時はまだ暖房使ってるけど部屋の中で半袖でいても大丈夫な季節。今日もなんとかやれたらと思います。みなさんもどうぞご無事で。

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俳句 精神分析

晩春、「ねば」、津山

今朝は昨日に引き続き「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」白餡のほう。包み紙にキラキラの文字で書いてある和歌は同じものでした。昨日はキラキラしてて読みにくかったけど一度読めてしまうと二度目はすんなり。なんでも触れてみるものですね。

ぼんやりしているうちに春も終わってしまいそう。春以前からもう何ヶ月もこんな感じでどうしましょう。すでに晩春ですよ。GW明け5月6日は立夏。立春、雨水、啓蟄、春分、晴明、穀雨、で立夏。

3月を切り抜けたのも嘘みたいだったけど4月はどうなるのかな。あと少ししかない。昨晩もメールの山に埋もれさせたまま忘れてて慌てて提出した書類があったしもうダメかも。こんなことばかり。でもこんなでもやるしかないですね。今月も家賃が払えることに感謝。精神分析がラカン理論のように形骸化してしまわないように実践を続ける場所を維持せねば。候補生の会のニュースレターも作らねば。大抵のことは「ねば」ではないのだけどこれらは「ねば」。

「これはマスト」という表現っていつ頃から使われ始めたの?学生時代は聞いたことなかった気がする。この20年くらい?でもこういう外国語からきたカタカナ用語って意外とすごく昔からあったりするんだよね。明治の文学とか読んでるとしょっちゅう出てくるし。正岡子規の幼名は升(のぼる)なんだけど帝大哲学科に入学する年の三月、同級生に宛てた手紙の署名が「野球」。なんて読ませたかわかりますか?もちろん「ノ・ボール」です。子規の野球愛。俳人の言葉遊び。にしても「ノ・ボール」ってどうなのさ、って突っ込んだかしら手紙をもらった大谷藤次郎(是空)は。是空は美作国西北條郡西苫田村大字山北、今の岡山県津山市の生まれ。津山には小さい頃から何度か行ったことがある。川でお魚とったりお城へ行ったり。何か買ってあげると言われても当時からあまりほしいものもなく赤べこを買ってもらった。赤べこといえば福島だと知ったのは大人になってからだけどいまだに私は赤べこをみると津山に思いがいく。かわいいよね、赤べこ。多分はじめて自分で選んで買った漫画は「キャプテン翼」だけどこれも津山の商店街の本屋さんに子供だけで行ったときに買った。当時「からだのしくみ」の図鑑にもはまっていたな、そういえば。と仕事が積まれていようと、回復できない気持ちを抱えていようと自由連想しながら生きている木曜日の朝です。

みなさんはどうでしょう。東京はいいお天気で暑くなるみたい。梅雨がくる前に傘をささないでお散歩できる時間を楽しみたいな。「ねば」だけはこなしながらなんとかやりましょうかね。どうぞご無事でできたら元気でいらしてくださいね。

ひたむきな薔薇というか下向きに咲く薔薇を下から撮った。

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コミュニケーション 散歩 言葉

菓詩、歌詞、葛藤なき世界

朝は少し冷えますね。すっかり寝不足ですが今朝も山梨県塩山のお土産をいただきます。今回は「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」の抹茶のほう。栗を抹茶餡でくるんであります。今日の断面は素朴できれい。そしてこれもほんのりした甘さで美味しい。ただほろほろ崩れやすいのでご注意あれ。包装紙にはキラキラした文字で和歌みたいのが書いてあるのだけどキラキラしてて読めない。少し暗いところ、でも暗すぎないところで見てみましょう。あ、見えた。

志ほの山  さしでの磯にすむ千鳥  君が御代をば  八千代とぞなく

古今集 詠人しらず

だそうです。ふーん。少し君が代的かな。山梨には磯はないから志ほの山ってどこかしら。一青窈のハナミズキ的でもあるわね。「菓詩処 石井」だものね。どのお菓子にもなんらかの詩とか和歌とかが書いてあるのかしら。あとで白あんの方もみてみましょう。大学生の頃、山梨県身延の方の廃校になった小学校で学校に行かない子たちと一緒に生活するポランティアをしていたので塩山は何回も通っている。桃の花といったら塩山のあの景色を思い浮かべるなあ。農園に降りるなり高齢の方が小さなナイフで手早く桃をむいてくれてその場で美味しい美味しい言いながら食べた。手がぬらぬらになるのも外だと気にならないしね。手をきれいにするというところまで混みでむいてくださっていますし。自然の中でいちじくをとったり鳥兜を「触るな」と言われたり音楽室でバンドで歌ったり騒いだり眠ったりシベリアンハスキー2頭の散歩行ったりウサギを校庭に離して草食べさせたり、烏骨鶏の卵をいただいたり。チーコだっけな。とってもかわいいひよこがどんどん大きくなっていくのにはびっくりしたしなんかどんどん立派になって別の世界へ行ってしまったと感じて悲しんだこともあったな。修羅場ありつつ楽しかったけどあんなことよくやってたな。すごい体力。地元の子たちもよく遊びに来てくれた。ちっちゃい頃からよく遊んでいた子に弟や妹ができてたくさん面倒もみた。彼らは別の世界へとは思わなかったな。当たり前か。チーコの世界はどうなっていたのかなあ。かっこよかった。こっちはカラスが鳴いてるよ。こんなとき「君が御代をば 八千代とぞ」とか「君と好きな人が百年続きますように」とかいう気分になるのね。みんなに幸あれと。

そうそう、この前高崎に行ったばかりだからなおさら思い出したのかもしれないけど高崎市山名町に石碑之路(高崎自然歩道)というハイキングコースがあってそこに万葉集の歌碑がたくさんあるの。寂しくて悲しい歌詞が多くてね、山の中で読むとなおさらジーンときてしまうのですよ。

自分のお気に召さないと葛藤するのがいやだからすぐ別の人で代替、補完してしまうような、人を想う余裕などないというか人を人とも思わない人もいるしそういう人でも本の言葉、他人の言葉とかを上手に借りて葛藤について語ることはできてしまう。でもできたら想うこと、想うがために生じる葛藤から言葉を紡げたらいいのではないか。こっちはポイ捨てしたしこっちには上手く隠せてるしこっちは絶対に味方してくれるしみたいな感じで葛藤なき世界を作り上げることはできてしまうけど。葛藤することが実はいかに難しいかはこの仕事をしてればわかる。してなくても体験から知ってるかも。多くの犯罪と彼らの言葉を知ればその極端な例もわかる。そうでなくてもあんぐりしてしまう言い分もたくさん聞くし巧妙な言い回しもたくさん聞く。嫌ね。辛いね。苦しいね。私はネガティブな方に強く気持ちを揺さぶられたらとりあえずじっとする。時間経過でそれがどう変わっていくか観察する。それから表現する、なんらかの形で。直接的にすることもあればただ黙々と不特定多数の相手にそうするだけのこともある。ある事象に関しては即座にパターンとして表出することもある。俳句や和歌にできる人が羨ましいけど自分が壊れてしまわないためにやることは自分なりの形式でやればいいのだろう。

さあ、今日は水曜日。まだまだですね。なんとかやれたらいいなあ。みんなはどうですか。どうぞご無事でお過ごしくださいね。

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散歩

和菓子、花々

今朝は山梨県甲州市塩山「三省堂」の「一葉懐古」という和菓子。青い桃の実を白餡と黄色い餡でくるんだ甘さ控えめの小さなお菓子。断面もとてもきれいです。

あとは先日高崎駅のお土産売り場で買ってきた珈琲。名前を忘れてしまった。いろんな地元の珈琲屋さんがおしゃれパッケージのドリップコーヒーを売り出していたのでした。若草色の定番っぽい味のにしました。突然決めて向かった群馬県高崎市。若葉がキラキラと美しく、ハナミズキと八重桜が今まさに満開でした。名前を知らない木や花たちもいろんな形や色でとても可愛らしく白雲木という木を知りました。細い枝に穂のように連なる白い花たち。まだ咲き始めらしく蕾がたくさんでしたが満開になると雲みたいになるから白雲木らしいですよ。木には「ハクウンボク」と札がかけられていて私は最初に「ハクウンボウ」と読んでしまったためにそれでインプットされてしまい何度も呼び間違えました。どうしても視覚優位なので漢字を知ってようやく修正がきいた気がします。また間違ったりして、というより忘れてしまいそうだけど。

晴天とはいえ強風に帽子をかぶるのも諦めていた頃、東京の友人から雹のお知らせが。まあ。公園とか神社とかいろんなところでイベントがあったでしょうに。でも東京は雨宿りするところも多いからそれはそれでイベントの一貫?なんて呑気なものではなかった?自然にはなすすべなしなことがたくさんだから大人になっても対処ってその場しのぎばかりで全然うまくならないのだけどみんなそんなことないかしら。雨予報のとき靴だけはしっかり雨用なのに傘を忘れたり基本的なところからできていないから大体のことはそのときはそのときってことになってしまいます。

先日、私が主宰するグループの人たちと呑みながら植物に関する超進化論の番組のことを聞きました。ものすごく詳しい人もいるのでとっても興味深く、いかに触れずに手をかけるかということで臨床と同じだねえという話になりました。私は食虫植物を愛しているけど最近はそういう人たちのおかげでいろんな植物の見方が少しわかってきたらしく植物の名前もインプットされやすくなった気がします。あ、そんなことないか。ハクウンボウの修正にも時間がかかるくらいだから。まあそれでも以前よりはね、引き出しの整理の仕方が少しわかった気がするのです。これとこれはこんなに違うのに同じ分類なんだ、どうしてだろう、とかそういうことを聞いたり調べたりするのは楽しいです。いつも見ている木や花もいつの間にか花が咲いてたり枯れてたりするから面白いし。根津美術館のフジと杜若(カキツバタ)のニュースも聞きました。一度か二度この時期に行ったことがあるけれどとってもきれいでした。明治神宮の菖蒲はもう少し後かな。有料になってしまうけどこんな場所にこんなところがと驚かされます。紫の花が増えてくる時期ですね。ということは梅雨も遠くないと。いろんなことが苦しかったり辛かったりするけれどそればかりでもないことに気づける瞬間を掴んでいけるといいですね。痛みや怒りに対して無力無策でもじっと持ち堪えるしかないこともたくさん。今日もなんとか過ごしましょう。

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仕事

隙間勉強(こども)

今年も平均週3時間程度、保育園を巡回して相談をうける仕事に割く。もう10年以上続けてる。園数は徐々に減らしてもらっているけど。0歳から2歳までか、0歳から就学前までの園。こどもをとりまく状況や見立てのための視点は常にアップデートが必要、ということで隙間勉強。Gesell Instituteの研究で子どもの発達自体は以前と大きく変わっていないことがわかったというしエリクソン、ピアジェ、コールバーグの理論もいまだに有効。特に新しく勉強すべきは脳の発達と民族的アイデンティに関することとテクノロジーの影響。ジェンダーの恒常性は6歳で確立するとされているけどそれまでの性の発達が安全な環境でなされているかには特に目配りが必要。大人は子どもよりも明らかに力があることを忘れがちだから。そんなつもりはなかった、悪いこととは思わなかったという人の外側にいるみなかったことなかったことにする大人たちにもなってはいけない。その子の親でなかろうと保育士でなかろうと自分に子供がいなかろうと自分の体験がどんなにつらかろうとやってはいけないことは普通にやってはいけない、それが支持され、当たり前とされる集団を目指すような援助って実はとても難しい。まずは知識の伝達、ということで勉強。

河津桜の実
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精神分析

言葉。現場。

人たらしという言葉を聞いて笑ってしまった。またかと。まるで褒め言葉のように使っているのも面白いなと思った。思いやりもなくコミュニケーションしたい人にだけ開かれている人、身体的な搾取をする人に対してもその言葉は使えるらしい。部分的で個人的な「よさ」を全体に広げてみたいものだけみたいときに起きる言葉のずれや歪み。そういうもんだ、ですまさないために言葉はあると思うが実際はすましていることの方が多い。立ち向かうエネルギーを奪われる言葉に立ち向かうなんて傷が増えるばかりだから。それを防ぐために言い聞かせる。そういうもんだ。そういうもんだ。

かっこ付き「ビジネスパートナーシップ」とホモソ依存が目立つ「ファミリー」のようなグループを抜けて高橋ユキさんのニュースレターのサポートメンバーになった。先日のジャニーズ性加害問題に関する記事のスピードも内容もすごかった。個人でこういう仕事ができる人はそういう依存ではない繋がりをもっているだろうけどお金儲けが上手なのは大抵前者だし実際に現場に出向く人が私は好きらしい。昨晩配信された「いにしえの傍聴記録」を読みながら「ファミリー」とは・・・となった。

かきながら寝ていた。出かけた場所で起きたことについて書こうと思っていたのだけど。眠い。がやることやらねば。今日も現場へ。良い一週間を。

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精神分析

池袋、今井俊介「スカートと風景 Skirt and Scene」@東京オペラシティアートギャラリー

雨の音。久しぶりに夜の埼京線に乗った。新宿から一駅の我慢と思いながら。以前よく使っていた頃のことを考えたらこれくらいの混雑はたいしたことないはずだ。あの頃は自分で立とうとしなくても全方位から押されることで立っていた。身体が部分的に触れ合うくらいの混雑を自分の足で立ちながらあれはあれで変だったのかもと思った。駅の中もすごい人で待ち合わせにみんなが遅れた。私はここが拠点だった頃からパルコ、西武、東武の違いしかわかっていなかったが混雑とわかりにくさの予測はできていたので時間通りに着いた。すぐそばで久しぶりの再会を喜ぶ二人をみて私も楽しくなった。今すごく悲しくて嫌だったことを思い出してしまった。すごく忙しい中、とても貴重でとても大切にしてきた時間に不機嫌に現れるようになった人のこと。ある日はたくさん言葉を呑み込まれて無視されて怖かったしとても寂しかった。コミュニケーションを断ち切られた記憶に突然刺されるようなことはこれからも続くのだろう。それはともかく人が街に戻ってきた。海外からの人も増えている。活気がある。楽しかった。

昨日から東京オペラシティアートギャラリーで今井俊介「スカートと風景 Skirt and Scene」が始まった。ふらりと立ち寄ったらちょうどアーティストトークというのがあると聞いて参加してみた。今井俊介さんご本人が一緒に展示室を周りながら昨日の成り立ちや意図について説明してくれる時間だった。今回の展示の担当キュレーターの瀧上華さんと昨年この展覧会を開催した丸亀市猪熊弦一郎現代美術館のキュレーターの竹崎瑞季さんも案内役として丸亀と東京それぞれの箱の特徴を生かした工夫やそれに伴って今井さんが作った仕掛けなどのお話もしてくださってとても興味深かった。主にストライプで表現される色と形、部分と全体、平面と奥行きを行き来できる発見の多いとてもおしゃれで楽しい展覧会だった。こういうスカートが欲しいと作品をさらに部分的に切り取って写真をたくさん撮った。作品に囲まれさらにそこに飛び込むように楽しんだ。触って揺らしたり潜ったりできる布を境界としても通路としても透かし窓としても体験してみた。離れて置かれているのにその間を色が溢れ出すように埋めてくれるのを感じたりした。竹崎瑞季さんには個人的にも色々教えていただき発見や楽しみを一緒に作品をみながら共有していただけた。とっても特別な時間だった。丸亀でもみたかったな。両方の展示をみたという方もいらして羨ましかった。

さてさて準備準備。ぬかるみや水たまりに気をつけて過ごしましょう。気温は上がるみたいです。重ね着対応かしらね。ふー。ため息も出ちゃうけど動きますよ。またね。

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雨。熊本。

東京は雨。結構降ってるみたい。タイヤが水を巻き込んで走るのが聞こえる。カラスの声はいつも通りよく響く。小さい鳥たちの声はまだ聞こえない。

2016年4月14日と16日、熊本県で大きな地震が起きた。最も被害が大きかった益城町の読み方を知ったのもこのときだった。友人は当時熊本の病院で働いていたという。熊本へ旅したのはいつだっただろう。県民百貨店が閉店したのが2015年だからその少し前だ。どこかへ寄ってから熊本駅に向かったのだろう。完全に夜ではなかった気がするが少し疲れて市電にのってホテルへ向かった。独特の街並みをゆっくり走っている間に元気がでたらしく市電を降りてからそんな遠くないホテルに向かうまでのことを覚えている。バスターミナルを何かと勘違いしたせいでこの旅を思い出すときまずそれを思い出す。今も変わらずあるのだろうか。今確認したらこのときは福岡から佐賀の吉野ヶ里へいき、そこから熊本へいっていた。そうか、だから新鳥栖と鳥栖を熊本だと勘違いしてしまうのだ、いつも。あれは夏だった。吉野ヶ里遺跡で緊急地震速報の大きな音が鳴った。そこで働く人たちとなんだなんだと空を見上げたりした。何分経っても揺れを感じなかった。みんなで笑いあった。緊張が解けると人は笑う。その約2年後、熊本の人たちは大きな地震を体験し、その二日後にも再び大きな揺れを体験した。私たちが見上げた美しい熊本城は特に石垣に大きな被害を受けた。テレビでみて呆然とした。あのとき行った場所は、出会った人たちは無事だったのだろうか。その後も熊本城の復旧の様子は気にかけてきた。その技術の高さに驚かされた。それでも完全復旧の見通しは2052年。私はそれを見ることもないのかもしれない。あの地震で亡くなったのは50人、関連死が218人、豪雨被害関連死が30人、負傷者は2809人だという。避難者数はその何十倍にもなる。県民百貨店の催事場では熊本出身のデザイナーなど作り手の人たちが作品を展示販売していた。作品を間におしゃべりをした。リビングの壁にはそのときに買った作品が飾ってある。東京で演劇の仕事をしていたという人ともおしゃべりをした。共通の知り合いがいることがわかって盛り上がった。彼らも元気だろうか。

雨の音がする。神経痛が痛む。出かけるのが憂鬱だが行かねば。熊本は雨や雷雨か。同じような空の色なのかな。熊本はお買い物も楽しかった。旅先で靴を変えるなんてリスクが高いがもうボロボロだったトレッキングシューズを買って古いのを捨ててもらった。全く問題なく快適に歩けた。素敵な商店街で食事の思い出も色々ある。色々思い出してきたぞ。ありがとう。また行きます。とりあえず今日は仕事行きます。みなさんもどうぞご無事で。ご安全にお過ごしください。

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精神分析

受け止めきれないものたち

「邪悪」という言葉を使いたがる人が本当に邪悪だなと思う出来事があるとポカンとする。わかっていることにポカンとしてしまうのはどう考えても理解不能だからだろうなあ。

TwitterのDMの問題について聞いた。何かに情報を書き込むって怖いことね、こうやって。SNSは公私混同とかバウンダリーに対する意識をうやむやにしやすいツールだし削除してしまえばもろもろなかったことにできる。とはいえ、たとえやりとりを消すことができなくても立場利用してDM悪用して安全そうな顔して近づいて利用や搾取を繰返している人の実態は分析されることはないだろうし立場の弱い人ばかり傷つくことが繰り返されるだろう。特に女を利用する男という構造はなんとでも言い換えできてしまうから。最近立て続けに読んだノンフィクション本でもそう思った。救いがない。

自分の身体の痛い箇所をどうやって説明したらいいのだろう、と一般向けの解剖図など見てみたがやはりよくわからない。痛みの移動もあるからなおさらよくわからない。痛むたびにマジックで印をつけておくとか、と思えるほどの余裕があるうちは大丈夫か。

いつも通る遊歩道のつつじが満開で、この前まで沈丁花が満開だったのになんだか不思議と思う。まるで沈丁花がつつじに置き換わったみたいに道全体がつつじの雰囲気。沈丁花も結構な面積をしめていると思うのだけど。

最近、明治の作家に触れていたので久しぶりに松浦寿輝『明治の表象空間』を読んでいた。鴎外、漱石の文体と対比される樋口一葉などの日本語への意識、大江健三郎作品への言及あたりを。

実体のなさ、あるいは隠蔽や抹消、空虚で軽薄な言葉たちに振り回される毎日を「そんなもんだ」という絶望とともに生きるのは身体にもよくなさそう。受け止めきれないものたちとどう過ごすかというか過ごさざるをえない。苦しいね。辛いね。悲しいね。普通に優しい言葉と出会って行けたらいいですね。

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チョコ、チューリップ、『子規、最後の八年』のこともちょっと。

宇多田ヒカルの「普段から〜♪」で何度目かの目覚め。その前から起きていたけどぬくぬくしてた。暖かくなってもお布団の中は気持ちいい。前はNo Lie-Sense(鈴木慶一+ KERA)Kimimoshussegadekiruだったけどジャーンってうるさく始まるからびっくりしてしまっていた。起きるにはいいけど眠りの世界と断絶なく起きるには宇多田ヒカルの方があっている。今はそのままU2が流れている。懐かしい。

カーテンの向こうが明るい。南側の大きな窓のカーテンを開けたときの光を想像しながら寝返りをうって起きた。

コーヒーを入れたはいいけど食べたいお菓子がない。お菓子はあるのだけどどれも好きなお菓子なのだけどそういう気分じゃない。チョコが多いんだな。うーん。ソフトサラダもあるけどこれは夜食べたい。うーん。チョコはチョコでもこの前もらったこれにしてみるか。GRAND Chocolate Snacks Bites RASPBERRY。細長いパッケージの4個入り。フリーズドライのラズベリーがパラパラとまぶされていてかわいい。いただいてみますね。あ、これ4個入りじゃないんだ。大きいチョコがドンドンドンドンって4個入ってるのかと思ったら「枚」で数えるが適当な薄さ。一つの枠に3枚ずつなのね。ドンって大きいチョコより好き。いいじゃんいいじゃん。チョコはちょっとなあとか思ってごめんなさい。おー。粉々のラズベリーがちょうどよくダークチョコの味と混じり合う。美味しい。もう一枚、もう一枚って食べたくなるけどゆっくりゆっくり。すぐ肌に出ちゃうから。細長い箱にスーッと戻しますよ。またあとでね。原産国オランダだって。オランダ、チューリップ?オランダのチューリップも今の季節かな。日本だと砺波チューリップ公園はいいですよ。富山県砺波市ね。昔GWにとなみリューリップフェアに行ったことがあるの。今年も無事に開催されるらしいです。300品種300万本か。先日のつつじもそんな数字じゃなかったかな。すごいね、お花の種類って。植物園とかいくたびに驚くものね。同じ名前で呼んでたけどこんなに種類あるの?って。

オランダは森鴎外が最初に言ったところだっけ。最初に習った語学か。この前森鴎外記念館で学んだはずがもう曖昧。あ、誤字。「言った」だったらオランダ語、「行った」のはどっち?オランダ?ドイツ?森鴎外記念館に行った日は電車で関川夏央『子規、最後の八年』(講談社)を読んでいたの。私が先日特別展で学んだのは「鴎外の食」についてなんだけどこの本でも鴎外が最初に出てくるのは食のこと。

「陸軍の兵食の現状維持を強く主張したのは鴎外森林太郎第二軍兵站軍医部長であった」

日清戦争の時のこと。

「その鴎外を、子規は金州で訪ね、帰国船へ乗るために柳樹屯に移動する明治二十八年五月十日までの一週間、毎日会って俳句について談じた」

って。戦時中の食と俳句。どんな言葉が交わされたのかな。この一週間後、子規は帰国の船中で喀血。五月十八日馬関(下関)に到着、と書いてある。子規は日清戦争には従軍記者として出向いていて金州には句碑もあるんじゃなかったかな。なんでも曖昧だな。あとで調べてみましょう。

この本、28歳(明治二十八年)の発病から35歳で亡くなるまでの子規のことを詳細に知れる本なんだけど序章の「ベースボールの歌」からとてもいいですよ。さあ、もう準備せんと。昨晩は少し雨が降ったみたいね、オフィスにいて気づかなかった。帰る頃には上がってたし。今日はどうかな。このままいいお天気だといいですね。それではみなさんも良い一日を。

追記:wikiから辿ったらここで句碑の写真とそれに至るエピソードも見られた。

金州博物館と正岡子規の句碑 阪急トラピックス大連・旅順・金州4日間の旅2

http://4travel.jp/travelogue/10610504

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精神分析

つつじ、西参道、鴎外の食

昨晩からずっと風の音がすごい。春の嵐はいつまで?東京はもう桜よりもはなみずきよりもつつじの存在感。

根津神社の文京区つつじまつりへ行った。約100種3000株のつつじがあるというつつじ苑。見事だった。根津神社は谷根千散歩のときは寄っているけどこの時期に行ったことがなかったのだろう。こんな華やかな場所があるとは知らなかった。つつじはどうも野生のイメージが強い。私のオフィスから明治神宮や小田急線参宮橋駅に向かう西参道(首都高速4号線の高架下)の植込みは道路側が銀杏、内側がつつじだったのだがあまり整備もされないまま咲く姿が毎年ワイルドで整備すればいいのにと思う一方で好きにやればいいよねと励まされてもいた。昨年からかもっと前からか明治神宮の方からずっと工事が続いており少しずつ甲州街道の方まで整備がされてきてつつじの植込みは全て取り払われ夜も明るく凸凹のないきれいな道路に変わった。先日、ニュースになっていた藤本壮介デザインの真っ白な公共トイレもその一環で作られたのだろうか。街の景色はどんどん変わる。きれいで安全なのも悪くはないが神宮外苑の再開発の見直しのが方が先にすべきことではないだろうか。これについては柏書房のWebマガジンで連載中の西本千尋「まちは言葉でできている」のこちらの記事も参考になる。

つつじの野生味に注意が向くのは目にするのがさつきつつじが多いせいかもしれない。花びらが大きい。こうやって形を整えられたり小さかったりいろんな色だったりその種類の多さを目にするとワイルドさより華やかさが際立つ。つつじとつつじの間を潜りこむように見たのは初めてかもしれない。ふわふわの真っ赤なつつじが作る影まで少し赤い気がした。

根津神社からは先日時間がなくて寄れなかった和菓子屋さんで3種類の柏餅からよもぎもち+つぶあんのを選んで食べながらまた漱石旧居後の猫を愛で、森鴎外記念館へ向かった。今は特別展「鴎外の食」が開催されている。どこかでもらったハガキのおかげで団体料金480円で入れた。私は森茉莉はたくさん読んできたが鴎外はあまり読んでいない。今回は「食」ということで鴎外の子供たち、於菟、茉莉、杏奴、類みんなの文章が読めてよかった。不律も生きていたら父鴎外のことを書いただろうか。それにしても食の話題はどうしてこんなに楽しいのだろう。時代や歴史、国や地域や家によって異なる文化、生活が生き生きと見えてくるのがいいのかもしれない。若いときは夜ごはんをみんなで食べる時間があったから仕事帰りに同僚の家でみんなで飲みながらごはん作ったりそのまま泊まったりして楽しかった。今でも年に一回とかだけどおうちに行けば美味しいものを作ってくれる友達が数人いる。逗子に住んでいる友人のところへいくと山と海に囲まれた街に育った娘さんが色々と案内してくれる。いくたびに大きくなるが数年前、岩場をぴょんぴょんと飛び回りながらおしゃべりを繰り広げる彼女に野生味を感じた。海に落ちやしないかとヒヤヒヤしながらみんなで見守った。近隣の港から上がってきた新鮮な魚を海が見える小さな店で買う。友人の夫がさばいて美味しいものを作ってくれる。きみはいつからいる猫だっけ、など猫に話しかけたり台風のときに家の屋根を壊した大きな木のことを聞いたりする。自然と繋がっている世界だから楽しいのか、食は。生身の人たちと言葉で密に繋がる仕事をしているとその人その人の欲望を知ることになる。それはあまりにそれぞれだけど共にいるために失うもの共にいることでえるものいろんなことに持ち堪えつつやっていくのだろう。

東京は強風が吹き荒れております。せめて雨が降らないといいね。気をつけて過ごしましょう。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「意地悪」とか「ひどい」とか。

まだ薄暗いというか明け方が曇り空なのかこの時間にしては空が黒っぽく感じる。カラスの鳴き声をいつもより大きく感じたせいかもしれない。

坂上から坂下に向かっている途中、二人の間に白いものが落ちた。「鳩?」「カラス?意地悪されたのかな」「意地悪ではないでしょ。移動式トイレだと思われたのでは」どうでもいい話で笑いながら「あ、パン屋さんだ」「このお店いい感じ」と初めての坂道を下った。

トイレットブレストというクライン派の用語がある。精神分析プロセスの描写に使う言葉だ。移動式トイレの発想はその用語を思い起こさせた。

こんな話もある。

「ひどいことしてきたのはみんな女」って言ってた、と中年の男が心配そうに仕事で利害関係のある女に相談された話をした、不倫相手に対して。そういうことを家庭持ち彼氏に愚痴る中年女性に対して大抵の人なら感じそうなことを男も感じたようだったがその女にはそうしたくないようだった。無条件で「サイコー」と言ってくれる女はキープしたかった。男は他人の人生相談に公開でのることがあった。自分の相談は週一で手早く食事をして身体を弄れる相手にした。「誰でもいいわけではない」と言いながら「女にばかりひどいことをされる」という女が自分を心配してくれるLINEを嬉しそうにみせた。週一でその女の満足そうなコメントと共にSNSに映りこむうちに身体だけの女とは別れた。「生活に口出しされたのが嫌だった。意地悪をされているみたいだった」というのが別れた理由だった。

「意地悪」について考える。それぞれがそれぞれの場面でいろんな口調で「意地悪」とか「ひどい」とかいう言葉を使う。排出について。「あの本は誰々と誰々の子どもみたいなものだからね」「どうせ排泄物なんだから好きに言葉にすればいいんだよ」。いろんな水準の排出について。うーん。カラスは意地悪ではない、と思う。人間だって意地悪をしたくてしているのではない、と思いたい。うーん。排出と消化と取り入れ。誰かを都合よく利用するのではないあり方って案外難しいかも?自分だけはそんなことしない、なんてことはないだろうから。まあ、とりあえず今日もはじめましょう。何があってもなくてもとりあえず。

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散歩 読書

新宿中央公園、白州正子、散歩

いいお天気。今日もずっと晴れるかな。週末、オフィスの近くの新宿中央公園はとても混んでいた。ちびっこ広場には何組の親子がいたのだろう。新しい滑り台も子供たちに埋もれていた。大人たちは話しながら遊びながらぼんやりしながら長時間ほとんど立ちっぱなしだろう。子供たちを見守るのも休日の大仕事。大変だ。大混雑のちびっ子広場をパンキッシュな大きな人の後をくっついていくことで無事に抜けフットサルコートを右手に前からくる犬や人を避けながら歩いた。桜色はほとんど見かけなくなりいろんな色のチューリップが咲き誇っていた。チューリップは花びらが大きいから存在感があるけど目線は随分下の方だ。空に伸びる大きな木の新緑の眩しさや都庁の高さに気を取られていたらすぐそばで咲き並ぶチューリップに気がつくのが遅れた。いつもはひとりずつ座れるベンチもカップルや親子とや友達同士か他人同士でいっぱい。春の週末はみんなアクティブで賑やか。子供たちもチューリップみたいだな。新学期だね、クラス替えとかどうだったかな。とりあえず1週間がんばろ。

今日もすこしお散歩する時間がある。最近は読書よりも作家について調べたりゆかりの地を歩くことが多い。暖かくなって身体が動くようになったから。関節の痛みもよくなると嬉しいけど動いているうちはまあいいかとも思う。

私が開院時から長く勤めてきた町田市鶴川のクリニックは4月から大きく耐性が変わった。まだ週2通っていた頃は長いお昼休みにいろんなところを散歩した。駅の両側は川沿いも駅ビル側もすぐに上り坂になるがお花や木々を楽しみながら歩いていると小道に突然小さなカフェが現れたりして楽しい。住宅街に美味しいパン屋さんもある。

鶴川には白洲次郎(1902-1985)と正子(1910ー1998)夫妻が昭和18(1943)年から住んでいた「武相荘」がある。この季節もきっと美しいだろう。駅から遠いのと入場料が高いのが残念だけど丁寧に作られ保存されてきたお庭や陶器や家具に囲まれてしばしそこの住人としてゆったり時の流れを味わう贅沢を時々なするのもいい。

正子は永田町生まれで自伝を読むと自分の足でよく動く人だなという印象を受ける。その足取りについていく散歩をするのもいいかもしれない。正子は裕福な家に生まれ自伝を読んでも「うわあ、とってもお金持ちだなあ」と思うのだが両親が付き合っている人物が財閥の人たちだったりするから本人は貧乏な家に生まれたと思いこんでいたというのだから子供の世界というのは面白い。永田町あたりは今はなんだかあんな感じで人の生活を感じにくいが戦前は美しい桜並木のある屋敷町だったという。誰かがこうして書き残してくれているおかげでその土地が最初からこうではなかったと知ることができる。無機質だったり荒地だったりみえる空間に自然や人々の暮らしを見ることができる。さっき書いたように白州正子の文章は彼女が実際に自分の足を使っている感じがよくわかるのでやっぱりついていってみようかな。それにしてもこの前も何かで書いたけど太田道灌ってどこにでもいる印象がある。江戸城作ってるのだから私の行動範囲からしたら当たり前なのかもしれないけど他の県でもよく見かけるからなんか「あーまた会ったね」みたいな気分になる。なんで正子から道灌を思い出したのか。永田町の日枝神社繋がりですね。

自分に見えるものなんてとてもわずかだけどいろんなふうにいろんな人やものに助けてもらいながらなんとかやっていきましょ。まずは今日のお昼までとかちょっとあそこまでとか区切ったりしながらベイビーステップで。

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精神分析

文京区

東京はいいお天気。昨日は降ったり止んだりだったのですよ。久しぶりに都営三田線と南北線に乗った。新宿区のオフィス以外は主に文京区にいました。

春日駅前の文京シビックセンターの展望室で街を一望してから動きたかったけどワクチン接種会場になっていたのでした。高崎市役所だっけな、どこかの展望室に行ったときも展望レストランが会場になっていたので半分側からしかみられなかったことあったな。都庁の展望室も北側のはワクチン接種会場ですよね。まさか展望室をこういうふうに利用する日がくるとは誰も思っていなかっただろうけど。展望室は屋内だけど広場を開いておくというのは大切なことですよね。新宿ごはんプラス と 認定NPO法人もやいは共催で都庁前でお弁当の提供とか相談会とかしてたりするし。colaboの活動の場も奪われないといい。

文京区は樋口一葉ゆかりの地でもあって、本郷菊坂あたりには少女時代を過ごした法眞寺、旧居跡の井戸、貧しくなって頻繁に利用した旧伊勢谷質店とかがある。東大のそばの道を入っていく本郷菊坂へ向かう菊坂通りは菊富士ホテルというのがあったところで多くの文豪が利用したことで有名。歩きながら街灯の柱に書いてある文豪たちの紹介文を読むのも楽しい。この前調べていた石川啄木が亡くなったのも親友の金田一京助が住んでいたのもこの辺。根津・千駄木エリアにも色々ある。夏目漱石旧居跡は「猫の家」ということで猫が二匹いました。日本医科大学のそばです。森鴎外記念館や根津神社つつじまつりにいきたかったのだけど時間もなく雨にも降られまた今度ということに。行ってみたいお店もたくさん見つかったからまたいこう。大好きな小石川植物園もいつもは茗荷谷からいくのだけど今度は白山からいくのもいいなとか地理も少しわかった。よき散歩だった。

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フクロウ、焼き鳥

ベランダ側の大きな窓を少し開けた。まだ少し寒い。ベランダ用のサンダルが隅っこの方に吹き飛ばされていた。昨日の嵐に備えるのを忘れていたよ。すまんね。

Instagramで絶対に欲しいフクロウを見つけた。でも売り物ではないみたい。悲しい。旅先でもフクロウには必ず目が止まり吟味するけど絶対に欲しいとまで思うものにはなかなか出会えない。実際にみたら少しイメージ違うかもしれないかもしれないけどこれは欲しいなあ。金沢か。金沢はこの週末手作りのお店や飲食店が集まってとても素敵なイベントをやるみたい。金沢大好き。はじめて行ったとき和菓子の充実ぶりに天国かと思った。これまでの旅で一番歩き回ったのは金沢かも。一番美味しかったのも金沢かも。絶対もう一度食べたい焼き鳥屋の親子丼も金沢だし。どこも混んでて偶然入った小さな小さなお店だったけどびっくりするくらい美味しかった。今度は夜に呑みにいこう。旅に出ると焼き鳥さんにいくことも多い。そうそう、愛媛の今治市はタオルだけではなくて「今治焼き鳥」というのがあって焼き鳥といっても串に刺して炭火で焼くのではなくて鉄板で焼いてくれるの。そのときは「五味鳥」という有名な店に行った。台風がすぐそばにきていたのだけど街はまだ静かで、店は空いていて翌日の飛行機飛ぶかなと心配しながら美味しくいただいた。その後、一度閉店したらしいのだけどまた場所を変えて開店したみたい。夜の街に雰囲気たっぷりの赤い看板が印象的だったけどそれも同じかしら。

朝から呑み屋のことを書いている。外では鳥たちが元気。朝日もきれい。昨晩は壊れた傘で濡れながら歩いている人も多かったけどすごい風でしたね。大丈夫でしたか?やっと週末ですね。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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読書

春の嵐、土地

昨晩から風が強い。今日は春の嵐とのこと。暖かいだけいいが雨も降るかもなのかな。レインコートを持っていこうかな。でもどこにあるんだっけ。

先日、代官山蔦屋書店で行われた「原爆、原発、風船爆弾――ハンフォードから福島へ/『スティーブ&ボニー』刊行記念 安東量子×竹内公太×山本貴光」というイベントの中で安東量子さんがハンフォードは最初から荒地だったわけではない。先住民などかつては人が住む土地だったのだ、というようなことを話していた。私が高橋ゆきさんのノンフィクションを好きなのも扱われる事件がその土地と大きく関係しているからだが、その土地の歴史を知ることはそこで生じた出来事の見方を変えるように思う。昨日のブログでも土地の名前を並べ立てた。

ウィキペディアでは「ハンフォード・サイト」はこう説明されている。

‘‘ハンフォード・サイト(the Hanford Site)はアメリカ合衆国ワシントン州東南部にある核施設群で、原子爆弾を開発するマンハッタン計画においてプルトニウムの精製が行われた場所である。その後の冷戦期間にも精製作業は続けられた。現在は稼働していないが、一部の原子力専門家から「アメリカで最も有毒な場所」「(事故が)起きるのを待っている、地下のチェルノブイリ」と言われるほど、米国で最大級の放射性廃棄物問題を抱えており、除染作業が続けられている 。””

また「これまでの歴史」として

““ここはコロンビア川、スネーク川、ヤキマ川の合流点に当たり、伝統的にインディアンの諸種族が出会う地点であった。1860年代に、ヨーロッパ人・アメリカ人が入植を始め、リッチランドなどの町が作られた。””

と書かれている。そうなんだね。ここで作られた「ファットマン」がもたらした被害は数字にできる範囲では「死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積6.7 km2、全焼全壊計約1万2,900棟」だという。これもウィキペディアから。

色々なことが思い浮かび繋がっていき暗澹たる気持ちになる。想像するとはそういうことなのだろうと思うし、この暗澹たる気持ちがどこからきているのか自分に問うことでせめてそれに持ち堪えるということが大切なように思う。

昨日読んでいた『RiCE』という雑誌でイタリアンのシェフが引用していたネイティブアメリカンが大事にしているという言葉を思い出す。

““土地のことは七世代先のことを考えよ””

その土地やそこで生きた人々や起きた出来事に対してどのくらいの過去や未来を想像できるだろうか。そうするなかで問い直される現在を自分はどう過ごしていくべきか、べきというのはないとしてしてもどうしていきたいか。すぐに忘れたり忘れられたりすることに「まただ」と感じながら想起される事柄を今度こそ大切にできるだろうか。自分のことも疑わしいが意識的に疑ったところで起きることは起きるだろう。疑うよりも立ち止まること。情報ばかりスピードが速い世界で自分なりに立ち止まること。今日も一日。春の嵐に足元とか傘とか取られてしまわないように気をつけて過ごしましょうね。

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読書

八戸、福島、神保町、渋谷など

今朝は「八戸港のお茶時間」を。日比谷OKUROJIにある青森県八戸圏域のアンテナショップ8base(エイトベース)で素敵なイカの絵に惹かれて書いました。オンラインショップで見ると黒っぽいイカの絵だけど今のパッケージの方が薄茶色で良い気がする。最近はお菓子はみんなバラで買えるから色々試すことができていいですよね。中身はイカの形をしたパイ。「イカスミ入りのクレームダマンドをパイ生地で包んで焼き上げました」とのこと。クレームダマンドってアーモンドクリーム。うん、たしかに。イカスミの味はよくわからなかったけど、そもそもイカスミの味って「黒い、しょっぱい」とか拙い説明しかできない気がする。そんなことないですね。わたくしの語彙力の問題でござるな、きっと。

「わたくし」と書いて今、東京都現代美術館で行われている志賀理江子×竹内公太「さばかれえぬ私(わたくし)へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023受賞記念展」に行かないとなと思いました。竹内さんの作品はこれまでもどこかでみているのですが、先日、代官山蔦屋書店で行われた安東量子さんのご著書『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)刊行記念イベントでお名前を目にして改めてチェックしてみました。ちなみにその日のイベントのテーマは「原爆、原発、風船爆弾――ハンフォードから福島へ」、ゲストは安東さんと同じ福島県いわき市に住む(移住されたそうです)アーティスト竹内公太さん、司会進行は『スティーブ&ボニー』に帯文を寄せられた山本貴光さんでした。短い感想はツイートした通り。たくさん思うことがあったけど安東さんがご著書に書かれた体験や竹内さんが実際の大きさで再現しようと試みた「風船爆弾」のことを立体的にイメージすることができました。竹内さんの作品は風船爆弾と実寸大のインスタレーションということなので体感もできそう。「地面のためいき」という作品だそうです。

昨晩はクラウドファンディングに参加していた堀切克洋さん編集の『神保町に銀漢亭があったころ』(北辰社)も届きました。俳人の伊藤伊那男さん(銀漢俳句会主宰)が脱サラして開店した神保町の居酒屋「銀漢亭」、私も一度だけ行ったことがあります。穏やかで楽しい時間を過ごすことができました。吉田類とも鉢合わせたかったな。コロナ禍で休業したまま閉店したこの店で出会い、語らい、句会をするなどしてきたみなさん130名による寄稿を銀漢同人の堀切克洋さんが編みあげ、味のあるカバーイラストも素敵な一冊となりました。とても早いお仕事でこの本自体がまだあったかい(だけではないかもしれないけど)思い出の数々を語らうきっかけとなりそうな賑やかな一冊です。

渋谷センター街入口の大盛堂書店にも寄ることができました。『つけびの村』『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』(どちらも小学館新書)どちらもとても面白かった高橋ユキさんのノンフィクション本選書フェアに行きたいなと思っていたのです。選書リストをみたら桶川ストーカー殺人事件とか佐世保小六女児同級生殺害事件の本は読んだことがあったけどどれもこれも読みたくなるものばかり。時間がないから慌ててパラパラしたけど迷ってしまって結局、小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』(幻冬舎アウトロー文庫)、永瀬隼介『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫)を購入。まずは『冷酷』の方を読んでいますがこういう取材って本当にエネルギーがいるというかすり減るというか大変そうです。著者の小野一光さんと高橋ユキさんの対談も載っていてこういう取材はこういうところに留意するのかなど勉強にもなりました。人間って、私って、私たちって、とぼんやりしてきてしまいますね、こういう事件のノンフィクション本を読むと。うーん。

今日は木曜日。なんとかやっていきましょう。