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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

身じろぎ

お寺の鐘が鳴っている。なんだかちょっと掠れたような。ちょっと頼りないような。

昨日書いた心と法の具体例みたいな案件が上がっていて驚いた。それにしてもSNSは、という感じはする。「名誉毀損」の重みって、とも思う。例えば慰謝料請求とかの場合、関係のプロセスで相手と直接コミュニケートできない状態だからと本人に請求するのではなく会社にとかしてしまったら逆に名誉毀損で訴えられる場合があるわけでしょう。どっちにしてもお金以外の解決は見込めないし。法って本当にうまくできてると思う。心の問題として考えるととても残酷とも思う。

「権力をいかに見定めるかによって女が被害者にも、加害者にも、抵抗者にも、抑圧者にもなりうることを示してみせた」

もろさわようこ『新編 おんなの戦後史』(ちくま文庫)の解説で斎藤真理子が書いている言葉だ。本当に女の位置ってこういうことなんだと思う。この本の刊行イベントでの話も興味深く関連の本も読んだ。今年はジェンダーに関する本をたくさん読んだ気がする。内容はあまり覚えていないが多く読むとさっき読んで納得していたあの説にはこういう背景とか反論があるのかとか知れるからそんな偏った取り入れにはならずにすんでいるのではないかと思う。きちんと後から使えるように読めばよかったと今は思うが、日々の幸福と苦悩をまずはじっと自分の中にとどめるための無意識的努力だったと思う。表現するならSNSなどではなく直接相手にと思っても自分自身の抑圧と相手からのさまざまな水準の圧力で言葉にできないという体験も多くした。いまだに「身じろぎできない」体験をするんだと自分でも驚くほどダメージも受けた。「身じろぎ」という言葉も斎藤真理子が取り上げたもろさわようこの言葉だ。「相手あること」については「あれはなんだったんだろう」という題名で書いた文章で何度か触れたと思う。あれはなんだったんだろうという問いは自分のこととなればたとえ事実を周知したとしてもなんの答えも得られない。

「みんなはどうしているのか」仕事でもよく聞く言葉だ。でも二者関係を第三者に開くことは問い自体を別のものに変えてしまうだろう。みんなではなくあなたであり私だ。もうそこに相手はいなくても「相手あること」なのであり引き受けるのは私でありあなただ。あまりに苦しいけど迫害的にならずそのせいで攻撃的にもならず耐える必要がある。構造の問題がすでにあるのは明確でも「名誉毀損」という法的判断は両者に同様に適用されるのが現状であることを思えば「賢く」動く必要がある。それについて考える自由は奪われていないのだから。

「行動」ではなく「言葉」で、というのは精神分析の基本だが言葉にしたら行動化への衝迫に駆り立てられるのもまたよくあることだ。どこまでとどまれるだろう。そして再び「身じろぎ」から始めることはできるだろうか。

今日も一日。実際にはもういない「相手」が残した問いに沈みながらであったとしても。

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精神分析、本

超省エネの日々(行動とか構造とか選択とか)

おはよー。ダラダラした気持ちでやらねばらならないことに使う部分だけ動かしている。超省エネの日々。元々ダラダラ人間だけど、と言いたくなるのって村田沙耶香『コンビニ人間』のBBCバージョンを聞いてるからだね。何かを形にし続けなければいけない人は省エネが苦手な人が多いように思う。「評価なんて」と言いつつ自分が自分に対して一番厳しいことに気づいていなかったりする。ナルシシズムといえばそうだけどそういったところで多かれ少なかれ誰にでもある部分だしね。ただそうなると自分の不全感や苛立ちを身近な人にぶつけたり、その罪悪感をどうにかするために別の誰かをお世話したり、いい部分だけ見てくれる人に愛してもらったり・・。人間って常に自分の欲望を巡って他人に何かしている感じがありますね。だから日々の生活を過ごしながら、週何回もカウチの上で一定時間自分の中の対象を相手にし続ける精神分析は有効(雑な結びつけ)。私はどんなにダメージを受けているときでも精神分析のことだけは考えていられるのだけどその程度には身についてるのかね。だから鏡見ながら自分を解剖するみたいに「あー、これか、いたたっ」となってる。痛くて辛くて苦しくて目背けたり暴れそうになってもどこか冷静に動く部分が保たれている。それでも多分行動したらまずいことが起きるだろうとも思う。相手あることは推測を常に超えてズレがすごいし、大抵はそういうズレに耐えられない。悪いことに最初から非対称な関係だと「対話」どころか圧力で隙間なくして従わせるほうに行きがち。大きい声で言われたりするだけでもそうなる。内容のことだけではない。自分のことだってわからないのに相手のことなんてそう簡単にわかるはずないだろう、と思うけど「知る」という方向にいかない。で、拗れて法的な問題にせざるを得なくなったりする場合もある。そうなると省エネとかいってられないし、そうしかできないから省エネと言ってる可能性もあるとしても慣れないことに頭も体力も時間も使わなくちゃいけなくなって本当に大変なことになる。だからそうならないように、あるいは自分からしてしまわないように自分を相手に観察を続け自分と対話し続ける場所って大事。自分に対して慎重になれる。パフォーマンスは悪くなるけど結果的に現実の複数の対象を守ったりもする。愛憎がスプリットしてしまう行動は避けたいでしょう、誰だって本来は。耐えられないからそうなりがちだけど。

upしないまま仕事してしまった。最近やったと思ってできていないことが多い。この前もさー、というのはさておき、心と法の関係はそれこそ超自我とかいう心の水準と行動の水準では全く異なるので判断や選択は簡単じゃないはずなんだけど今ってすごくお気軽にされるから怖いなあと思う。「晒せばいい」とかいう心性とか。自分が晒される可能性に関してはどう思ってるのかなと不思議に思う。そういうことを言える人の中にはすごい物知りで味方も多い人もいるわけだけどそういう人は「勝てる!」って感じなのかな。人間関係は戦いではないけど(これ書くの何度目だろう)。女性が弱いわけだ。こういう構造からは逃れられない歴史があるものね。そんななか女一人で戦うリスクをとることの大変さときたら。彼女たちがそれにかけた時間とエネルギーを思うといたたまれない。でもそんなこと言ってないで彼らが戦ってよかったと思えて再び似たような負担を経験しないですむように、もう彼女たちが孤独を体験しなくてすむように女も男も協力していくことなんだろうけど今日もまた別の被害者が出て立ち上がれる人は立ち上がってみんなひとりで泣いてという現実を想像するのもたやすい。こういう個人のものすごい負担を通じて少しずつ変化してきたのが現在でこれからもこうやって進むしかないのかな。戦いたくなどない。戦うなら賢く。賢くない場合はどうしたら?職種や組織に守られていない場合は?黙ってるしかないのかな。女性がはまりこんでいる構造について普段づかいで考えられる本として脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書)はいいかも。そういう背景にある構造を忘れて個人的なこととして処理されそうなときに読むと軌道修正してくれるかもしれない。歴史上の女性たちのエピソードも面白いから読みやすいし。法律では大抵はそれが公にされることで不都合を被る方に選択権があるはずなんだけどそれも危うい。日常でも「選択の問題なんだから好き好きでいいんじゃない?」という人もあるけど「選択」って高度に知的な行為だと思うから結局守られないことの方が多いと思ってる。やっぱり強者と弱者にわかれてしまうというか。あーなんか省エネで書いていると話が飛ぶというか具体例書くエネルギーがないからすっ飛ばしちゃってる。頭の中で色々やってないで地道になんとかしましょう。今日は鳥さんをとりにいきましょう。あとでインスタに載せましょう。鳥はかわいいです。

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読書

『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』のことなど

乾燥がすごいですね。今朝の散歩道は雨にしっとり濡れたすごく濃い色の落ち葉が敷き詰められていてきれいでしたけど。加湿器を出さないと、と毎日思うのにまだ出していません。喉がやられてしまう前に今日こそださねば。すぐに出せる場所にあるのにどうして小さい怠惰を積み重ねてしまうのかしら、人間って。じゃないか、私ですね。

先日、山本文緒『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』を読みました。「闘病記ではなくて逃病記だなあ」と著者は書いておられるけどこちらが「どうか逃げ切って」と願うような同一化を生じさせる記述はなかったように思います。

「逃げても逃げても、やがて追いつかれることを知ってはいるけれど、自分から病の中に入っていこうとは決して思わない。 」

本当にそうでした。自分の感触を観察し続けるだけでなくそれをこんなに感情の振れ幅の少ない文章におさめられることに作家の凄みを感じます。

同年代の友だちも読んだといっていました。私たちも自分の死に際してやっておくべきことを意識する年齢になりました。コロナはそれに拍車をかけました。私の場合はシンプルで持ち物もいらない仕事ですしプライベートもシンプルなのでそんなにすべきことがあるわけではなく出会いを大切にすることくらいですけどそれすら難しく打ちのめされたりしますね、生きてると。

「私も頭が割れそうなくらい悲しいのにアマゾンの領収書を印刷した。それが生きるということ。

人間って…。どうしてこんなになっちゃうのか、どうしてこんなことができちゃうのか、悲しくて切なくて苦しくて死にたい時には死ねないのに願ってもないのに死んでしまったりする。自分ではわからない自分ばかり。

この日記の最後の日の文章はとくにこのご夫妻をご存知の方にはものすごいいたわりなのだろうなあと感じながら泣きました。

人間って、と思いながら自分を人体実験の被験者のように観察を続けていると複数の自分を感じます。「いずれ死ぬのだから」だから?身体が動かなくなったら地道にしてきた準備も形にできないでしょう。では急ぐか。それも躊躇します。「今日死んだらどうするの?」それだったら苦しみもそこまでともう何もしなくてよくて楽かもしれません。が、死については誰も何もしりえません。

山本文緒さんは宣告された余命よりも長く生きました。日々を書きつけることが彼女の生をどのくらい膨らましたかわかりません。でもそのいたわりの深さは身近な人や読者を守るのでしょう。眠っては起きる。眠っても起きる。その繰り返しを今日も、たぶん明日も私たちが続けられるように。

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精神分析

「嫌われたくない」

早朝からコーヒーをこぼしてしまった。あーあ。わりとよくあるからそんなに残念でもないけど火傷しなくてよかった。小学校一年生のとき、ひとりでパンを焼こうとトースターで火傷した。当時から背も低く不器用だった私にとっては大きな冒険だっただろう。何度も思い出していた出来事なのに今はだいぶ薄れている。びっくりして痛くてでも少し誇らしかった。ような気がする。今もうっすらと跡があるけど当時はプクッと赤く膨れててその後もちっこいミミズがいるみたいになってた。こんなに薄くなるとは思わなかった。

トースターって種類はいくつかあれど昔からあまり変わらない。黒電話みたいに「何これ」とならずに今も残ってる。この前、小学生がCDプレイヤーを使うのに戸惑っているのもみた。という私はとても久しぶりにCDを買いにTSUTAYAへ行った。頼まれたはいいがどこを探したらいいかわからない。「ユ」のところをみたけどない。え?メジャーな人だよね。配信だけとか?頼まれたんだからそんなことないよね。果たしてこの名前はこの読み方であっているのか、など海外旅行かタイムトラベルかみたいな気持ちで狼狽えていた。お店の人に聞くにも「さん」づけにすべきかとかで悩んでしまった。思い切って「優里のCDありますか」と聞いてみたら「あ、優里さんですね」とあっさり「さん」づけだった。でも店員さんもさっき私が探した場所で「あれ?」となっていて名前が書いてある仕切りが無くなっちゃってるけどここに何枚かと教えてくれた。買えたー。よかった。私は今apple musicで優里さんの「ドライフラワー」を聴き始めた。

色々やってたらもうこんな時間。そうそう「嫌われたくない」「いい人でいたい」「みんなに好かれていたい」という人がいるじゃない?ということを書こうと思ったのだった。状況も不安の質も色々違うから一概には言えないけれどスプリットによってそれが成立してしまう場合について書いておこう。

「嫌われたくない」。これだけいろんな人がいるのだからなかなか難しいのでは、と誰でもわかりそうなものというかわかっちゃいるがということだと思うけど、

自分が不快な思いをしたくない→不快な思いをさせる人は嫌い→自分が嫌いなアイツは自分のことを嫌っている→嫌われたくないから排除→自分は誰も嫌ってないし、誰にも嫌われてない(スッキリ。次行こう。)、という場合がある。

女性が力を持つことを嫌う男性の態度にも近いものがあるかも。排除された側の「人をなんだと思ってるんでしょう」という怒りと悲しみの表明がフェミニストたちの運動でもあるのでしょう。フェミニストでなくてもひとりひとりが排除や差別の歴史を抱えていることは間違いないと私は思う。人を人とも思えない人たちだってそうだからこそこうなのかもしれない。でもだったらそれを繰り返すのではない方法で、と毎日頭痛とともに考え続けている。というか考えると頭痛がする。難しくて。でもパッと誰かの名言当てはめてわかったふりしても仕方ないから別の知的能力を使わないと。なくてもあるかもと信じないと。適応という意味では成功しててすでに「強者」である人がそういう心の構造を持っている場合、伴侶もそれ以外のパートナーもフレンドも取り巻きもいたりするから勝ち目はないと思うかも。でも人間関係って戦いではないから。そういう人たちはわりとすぐ戦いの言葉使うけど。子ども向けに攻略本とか出したくなる心性もそんな感じ?たとえそれが人間の本性だったりしたとしても本性とか本質語る前に言葉と行動。実際に特定の相手に言われたことされたことで怒ったり悲しんだり長期間ひどく苦しんだりするのだから、お互いに。

好き嫌いなんてすぐに反転する。好きだったり嫌いだったりする。ぐちゃぐちゃしたものを抱えて毎日やっていくのは辛いけれどとどまる。そうすれば薄くなったり濃くなったり出来事が意味を変えていくことに気づく。それを観察しよう。

東京は今は雨なの。午後は晴れるみたい。きっとお昼に外に出る頃には靴がキュッキュッていう。なんとかやりましょう、今日も。

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精神分析

ひとりではなく

臨床経験5年以上の方を対象にいくつかの小グループを運営している。内容は事例検討会と読書会。同じメンバーで継続しているせいか議論がどんどん深くなっている。それぞれが自分の言葉で自分のやっていることについて語るのはとても難しい。他のメンバーに照らし返される中で自分が言っていることとやっていることの乖離に気づくのは痛みも伴う。一方、他者といるというのはそういうことであり患者が体験する痛みを体験的に知るにも良い機会だしこの仕事には必要だろう。

妙木浩之『初回面接入門 心理力動フォーミュレーション』(岩崎学術出版社)をテキストとするグループでは実際の初回面接を記録を用いて定式化し、その後に初回面接とはなにか、そこで必要なことはなにかについてグループで話し合う。

自分は誰のために何をしようとしているのか。その現場でどのような症状や病理や状況を持つ方と何を目的として会っていこうとしているのか、それは現在自分が持ちうる資源でできることなのか。常にバウンダリーと有限性を意識している。

ファンやビジネスパートナーという言葉で非対称な関係を別の関係にうやむやに持ち込むように臨床家が患者を使用することはあってはならない。それぞれがそれぞれの生活をしながらこの仕事をしている。そこにはバウンダリーがありできることは限られている。そんな当たり前のことを都合のいい理由で乗り越えたふりをすることは二者関係ではたやすく、ちょっとの逸脱として見て見ぬ振りをすることも簡単にできるだろう。ただそれはわかりづらくても確かに搾取である場合が多く当人たちが気持ちよければいいという話ではない。本人たちもお互いが気持ちいい間は外側から何を言われても被害的になるかナルシスティックに二者関係のふりをした自分自分(一者関係)に安住するかになりがちだが、グループで複数の眼差しに照らし返されることで回復できる自我(大雑把に使うが)もある。治療者が心理療法を受けることが当たり前になってほしいが(頼ることの難しさも実感できる場がないとわからないものだから)そこで第三者性を内面化するには時間がかかるので実際の第三者にと思うしそのためにグループは有効だと思う。

わかりやすく非対称の関係から始まる関係には思うことが多い。破局的な何かを体験したとしても、相手に「そんなつもりはなかった」とあっという間にそれをなかったことにされることもしばしばだ。唖然とする。それでもそうされたならなおさら立ち止まる必要がある。考え続けなければ繰り返すだけだ。その場合もひとりではなく誰かとと思うがそこもまた同じ関係である可能性もあるだろう。リスクは常にある。それでも自尊心を簡単に売り渡すことのない自分でいられたらいずれ、という希望のもとに今日も、と思う。

今日は火曜日、と書いてしまったが月曜日か。早速ダメダメな感じだがなんとか。みんなはどうだろう。とりあえず無事に一日を過ごせますように。風邪とかコロナとか用心しましょうね。

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精神分析 読書

脳世界

今朝は山梨の信玄餅で有名なお店「桔梗屋」のお菓子色々をもらったのでそこから黒蜜カステラをいただきました。ちょうどよい甘さで美味しかった。空のピンクもとてもきれいでした。

以前、必死に頑張ってきたことを褒めてほしい(だけの)人のことを書きました。(だけの)とあえてつけるのは「まさかとは思うけど本当にそうだったんだ」という絶望に近い驚きを相手にもたらすからです。その人は相手が別の気持ちや考えをもった別の人であるということを頭ではよくわかっています。でも内面に興味を持つ、親密になる、ということがどういうことか実はよくわからない。その人は自分の脳世界だけで生きているといってもいいかもしれません。以前「AIっぽい」と書いたのもそういう感じの人のことです。嫌なやつとかでは全然ないのです。AIと同じように人を惹きつける力を持っていることも多いです。私は非常に魅力を感じているので色々読んじゃいますね。そう、彼らも表面的に関わる分にはとっても魅力的でとっても素敵だったりするのだけど親密さを求めるととたんに理解に苦しむことが増えるので特定の関係性を持つ相手のみ相当なアンビバレンスに陥ることが多いです。当人はそういうのが実感としてわからないので面倒なこと厄介なことはうざい重たいしんどいで回避、排除の方向へ行動しがちです。自分の情緒を自由に感じるためのキャパが少ないのでしょうがないので苦しいのはお互い様なのだけどこの苦しさも共有できないので相当なすれ違いが生じます。回避、排除は自分が引きこもったり相手のせいにしたりちょうどよく心配やら賞賛やらしてくれる人を相手役に変えたり行動としては様々な形をとります。相手の気持ちを想像するとかは本当に本当に困難であることを相手の方は思い知り「ああやっぱりそれ(だけの)人だったんだ」と絶望し、魅力を知っているだけに自分のその認識に自分が追いつけない事態になります。今の時代、その人が知性が高くメディアを用いた自己開示が上手な人となるとなおさら外側と目の前のその人のギャップは文字情報として残るのでこちらの情緒的な乖離をもたらします。知りたくもないことが突然目に飛び込んでくるような時代です。もちろん自己開示を上手にするのはかなり大変でそういう意味でも一生懸命を超えて必死さを感じてそうやって愛してもらってきた。できるだけ卑小感を感じないように。だからその部分に少しでも異物が混入するのを感じると怒り(Narcissistic rage by Heinz Kohut)が生じてしまう、というのは専門的にみればわかるのでそういう自分に苦しんでおられる方が精神分析的な治療を求めることはよくあります。ただ変容ということを考えるとそのナルシシズムが傷つく怒りを通過しないわけにいかないので治療状況でも同じようなことが生じたときにお互いがどう持ち堪えるかは重たい課題になります。

村田沙耶香『となりの脳世界』は私も人のそういう部分をとても苦しく感じていた昨年の終わりに出た本ですごく助けられました。年末は年末で「来年とかいらないし」という方もいるでしょうし年末とか関係なく「今日もまた生きたまま起きてしまった」といつもの絶望に苦しんでいる方もおられるでしょう。そういうときにこういう本と出会ってほしいなと思います。私は辛くて辛くて仕方ないときに出たばかりのこの本と本屋さんでたまたま出会うことができました。みなさんの苦しくて死にたい毎日にも少しでも幸運な偶然があったらいいなと思います。ちなみにこの本は文庫ですし、短いエッセイを集めたものなので読む負担も少ないと思います。

「隣の人はどんな世界に住んでいるのだろう。同じ車両の中にいるのに、きっと違う光景を見ているのだろうなあ、といつも想像してしまいます」

「誰かの脳世界を覗くのは、一番身近なトリップだと思います。ちょっと隣の脳まで旅をするような気持ちで、読んでいただけたら」

と村田沙耶香さんは「まえがき」で書いています。年末年始のお休みはまだコロナも心配ですし、外に行かずともこんなショートトリップもいいかもしれないですね。村田さんの書いてくれた脳世界へ。

私たちは映画や小説みたいにわかりやすい「悪」がいる世界に生きていないから愛と憎しみというアンビバレンスに常に引き裂かれるような痛みを感じています。ナルシシズムはその痛みにどっぷりと沈みそこから立ち上がるのではないあり方のひとつです。人と思われていたらモノだったみたいな驚きと絶望を親密さを求める相手にはもたらしがちですが、どれもこれもその人の全体を覆うものではないのもほんとのことでしょう。そうでなければ、私たちがお互いに「そうではない」部分を想定できなければまたあの体験をするのかと怖くてコミュニケーションできなくなってしまうでしょう。

「夫婦や家族のように近い関係ならなおのこと、これからもたくさん、深く、傷つけ合うのです。自分が他人を、家族を傷つける人間だという事実から逃げずに、受け入れましょう。」

紫原明子『大人だって、泣いたらいいよ~紫原さんのお悩み相談室~』152頁からの引用です。

「後ろ指で死ぬわけじゃないし、それもまた一興ですよ。」

これは32頁。「離婚と恋愛編」のなかのひとつ。ちなみにさっきのは「近いから厄介な家族編」のひとつでした。

専門家ではない人の言葉の明るさと力強さは半端ないですね。私たちって患者さんといるときでさえいい人ぶったりしがちだけど紫原さんみたいに自分の感覚と経験を信じて正直であることが自分にも相手にも誠実であることだとはっきりと打ち出していくことはとても大切だと思います。

と私はなんとなくきれいめな感じで書いている気がしないでもないですがどれもこれも簡単ではないですよね。それでも今日も世知辛い現実となんとかやっていきましょうか。朝upし忘れたので歩きながらなんとなく閉じます。またここでお目にかかりましょう。

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精神分析 言葉

共謀とか同一化とか

なんでもいえちゃう言葉で誤魔化されるとその人らしいなと感心するけど笑えない不安が高まっている状況で使われると嫌な気持ちになりますよね。フレンドとかパートナーとか関係を表す言葉は特にいろんな含みがあるので中身をきくと「うわぁ、あの人とのことそんなふうに言っちゃうんだ」とか「あーこの二人はこうやって共謀しているんだなぁ」と思うことも多くないですか。治療関係でも物は言いようみたいになってるときは対象不在だったりするから気をつけないといけないなと思います。誤魔化したり嘘ついたりして自分のことばかり守りたくなっているのがそういう状況だと思うので。なかにはそういう言葉を指摘されると急に怒り出してしまう場合もありますね。それはそれでまた誤魔化しの上書きがはじまっているように感じたりもしますが、こちらも怒られてしまうと怖いし嫌だから「(自分が間違ってるって言われてるみたいで嫌なんだよね。間違いとかではなくて相手のこと考えてないよねってことなんだけど)」といろいろのみこんであちらの機嫌を優先しがちではないですか。特に女性が男性に言われる場合は。相手を優先した結果「それでよし」みたいな感じを醸し出されると本当にうんざりするけど「ごめんね」とか言われるのもうんざりです。受け手の体験としてはどっちにしても黙らされてるわけですから。こういう構造にどう立ち向かっていきましょうね。せめて自分がひどい傷つきをなかったことにしないことが必要でしょうけどひとりでは難しいですよね。そういうときは助け合いましょう、誤魔化さずになんとか踏ん張れるように。攻撃者との同一化という考えが精神分析にはあって「女の敵は女」とかがいい例ですがそうなりやすいのもたしかみたいです。ただ、そう言ったところで特にいいことを生まないのでうまいこと言う能力はなくても自分の痛みや悲しみから行動を立ち上げていけるように助け合えたらいいなと思っています。お互いに。必要なときに。週末もなんとか過ごしましょう。よくお休みになれますように。

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精神分析、本

「ヒステリー研究」を読んだ。

フロイト全集2』(岩波書店)に収められた『ヒステリー研究』はやはり何度読んでも面白い。暫定報告の後、有名なアンナ・Oの「観察1」、病歴AからDへと続くが、GWでは通し番号らしいのでSEがなぜアンナ・Oだけ「観察」と分けたかは謎。今回の読書会では「病歴A エミー・フォン・N夫人」を読んだ。1889年、まだ33歳のフロイトが「催眠下で探求するというブロイアーのやり方(多分カタルシス法)」を用いてみたこの治療の経過報告はかなり詳細でヒステリーと呼ばれた患者の表情や姿勢、仕草まで描写が非常に細やかな描写がされている。ほぼ毎日朝夕の1日2回、サナトリウムに会いにいっていたらしいフロイトと患者のやりとりも私たちが現在症例報告で聞く内容よりもずっとvividで詳細。なので後年、患者の娘が母の治療に関してフロイトに向けた非難にも、それに対して誠実に謝罪と説明を行うフロイトにも共感できる。何が生じていたのかが推測できるから。もちろん治療上の失敗はあってはならないが何が「失敗」となるかはまだその時にはわからない、というのは日常生活における人間関係でも同じだろう。私たちのグループはすでに通しでフロイトを読んでからここに戻ってきているがいずれ書かれる『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)に収められた論文の源としてもこの症例報告は大変貴重で読み直す価値があるだろう。

それにしても私たちが向けている相手への関心というのは特殊なんだなとつくづく思う。SNSで上手に誰かを揶揄し、上手に愚痴って少し離れた場所から中途半端な(ほどよいといえばいいのか?)「ケア」を求めるようなあり方が一般的な今となっては精神分析なんて不要と思われても仕方ない。が、しかし、これによって生きる希望を見出している人も少なからずいることは国際的にこの学問が生き残っている(IPAのサイト参照)ことからも嘘ではないとわかってもらえるだろう。国内ではIPAの精神分析家はこれしかいない(日本精神分析協会のサイト参照)けど日本でも女性の精神分析家が増えてきた。フロイトの症例が示すように「上手に」いろんなことができない人(そんなことしたいともそんなものほしいとも本当は思っていないであろう人)たちが精神分析そのものではなくても精神分析の知見を生かした心理療法を受けにこられてなんとか日々を過ごしているのも本当。

先日、身内が精神病院に入院しているという英語圏の方がお喋りのなかで以前よりはずっとましだけど病気の人に対して社会は優しくないよねというようなことをおっしゃっていた。本当にそうだと思う。障害に対してもそうだ。これだけASDという言葉が一般的になったのに私が長く時間を共にした重度の自閉症の方たちはどこへ?とよく思う。大声をあげたり突発的な動きも多い彼らと一緒に電車に乗っているときの周りの見えていないかのような視線もたまに思い出す。見ないものは見えないもの、見たくないものは見えないもの、というのも今やデフォルトだったりして、と割と身近なところでも思ったりする。どういう風に訴えていけばいいのかな。くだらないと思いつつ小さな戦いは続けていくけど。

『ヒステリー研究』のエミーの症例では患者が精神科病院における治療に対する不安や恐怖を訴える場面がある(74頁)。この問題はいまだに継続しているがフロイトが医者としてこの話に防衛的になることはなく中立的だ。こういうフロイトの姿は別の論文でもみられる。しかしここで重要なのは精神科病院が抱える問題それ自体ではなく、フロイトがこの話を患者から自分への怒りとして聞き取り内省したところだろう。フロイトはこの場面で自分の聞き方が彼女の話を中断させていたことに気づく。そして「こんなやり方では何も得られていない、あらゆる点に関して最後まで彼女の話を傾聴することなしに済ませるわけにはいかないのだ、ということに私は気づく。」と書いている。フロイトは失敗しては気づき、また失敗し、を繰り返す。私たち臨床家は皆そうだろう。それを「失敗」と呼ぶことに躊躇があったとしてもそれを「失敗」と認識することはやはり重要であり患者に対する関わりを硬直化させるわけにはいかない。

さて、今日も一日。たとえ優しくない世界でもいいことあるといいですね。とりあえずいいお天気。暖かくしてお過ごしください。

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読書

なんとなく本のこと。大原千晴『名画の食卓を読み解く』TOLTA『新しい手洗いのために』

三浦哲哉『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を手にとったついでにそのそばに並べてあった大原千晴『名画の食卓を読み解く』(2012、大修館書店)も取り出しておいた。著者は「食文化ヒストリアン、骨董銀器商」ということで2016年まで南青山に『英国骨董おおはら』というお店を構えていたらしい。銀食器の魅力的なこと!この本をなぜ買ったのかは例のごとく覚えていないが表紙よくないですか?「1 一五世紀 フランス王族の宴」の扉絵「ベリー公のいとも華麗なる時祷書(1月)」(ランブール兄弟、1413-1489ごろ)とのこと。この本はまずここに描かれた食卓を読み解くところから始まる。この絵って羊皮紙に描かれてるんだって。前に山本貴光さんが八木健治『羊皮紙のすべて』(青土社)を紹介していらいてそれ以来注意が向くようになってしまった。

さて、この本、16世紀中期フランドル農民、英国中世修道士、紀元前4世紀末古代エトルリア、16世紀フェラーラ候家などなど21に及ぶ様々な時代、様々な国の食文化の歴史を通じて語られる内容の幅広さに驚く。それこそいろんな食事が並べられた食卓みたい。各章の扉絵をどう読み解くかも含めてとても興味深いな、と改めてパラパラ。

今だったら「3 食卓で手を洗う」とかから読んでもいいかも。もうすっかり当たり前になったこの習慣、と書きたいところだけど食卓では手を洗わないよね。「欧州貴族の宴席では、中世以来一七世紀中頃まで、多少儀式的な色彩を帯びながらも、これが当然のこととして行われてきました」とのこと。そしてこの章の扉絵は「バイユーのタペストリー」の一部分。ここでみられます。ひえー、全長70メートル。絵巻物みたいにしてしまってあったのかな。わからないけどウィキペディアによると「バイユーのタペストリー(仏: Tapisserie de Bayeux)は、1066年のノルマンディー公ギョーム2世(後のウィリアム征服王)によるイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)の物語を、亜麻で作った薄布(リネン)に刺繍によって描いた刺繍画」とのこと。すごすぎる。この本では「ウィリアム征服王と異父弟バイヨー司教オドのテーブルで手拭きの布を手に、水の入った容器を捧げ持つ家臣」の部分が取り上げられています。このながーいタペストリーからこの部分を取り出したのもすごい。本文にはタペストリーの説明はないのだけど料理を指先でつまんで食べていたこの時代、この役職は非常に重要で花形だったそう。ウィンブルドンで女子の優勝選手に手渡されるのも銀の水盤!そしてこの習慣がどこから生まれたか。そこにはやはりキリスト教徒の関連があるのですね。なにげなく行うようになった日々の習慣も歴史を遡れば「やりなさいって言われたから」という類のものではないということかもね。

となるとTOLTA『新しい手洗いのために』(2021、素粒社)も思い出す。TOLTAは世田谷文化学館でやっている「月に吠えよ、萩原朔太郎展」でもとても面白い試みをしていましたよ。

なんとなく本のことを書いてしまった。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

簡単ではない

明るい。バタバタ動いていると暑いくらい。暖房つけてるからだけど。冷たくて脅すような言葉にゾッとした。そのときの感覚が繰り返し襲ってきて眠れない。悪意やなにやらをこちらに押し付け身軽になった人の軽薄な喋りを今日も聞かねばならない。ミュートにしても何をしてもあの声が離れない。ああ、今日も生きたまま朝を迎えてしまった、と絶望しながら始まるような朝でもとりあえずはじまった。いろんな朝がある、きっと。おはようございます。

私はとりあえず朝から拙い英語を久しぶりに喋った。母国語でも通じないことが前提だと思っているけど通じない体験をもっとした方がいいように思った。通じると信じている人には「なんでわかんないの」という顔をされることもある。ため息だってつかれてしまうこともある。ついてしまう場合もあるけど。カルチャーショックとか「文化が違う」とか言う人もいる。ちなみに私はこの表現が苦手。あなたのカルチャーって?文化って?と思う。

簡単に判断しない。勝手に自分流に受け取らない。でもそうしかできない。だから傷つき傷つけあう。そんなつもりはなかった、と言いながら。大事なのはそうであっても自分の拙い言葉でもなんとか表現してみようとする意志とそのためのエネルギーかもしれない。ただ多くの場合、通じない事態が生じるときは何を言っても通じない事態、つまり相手がもう言葉を受け取ることを拒否している事態なので愛情と呼ばなくても相手を想う気持ちがない場合はもう無理かもしれない。「もうおまえにさく時間もエネルギーなどない」とかはっきり言ってくれた方がまだ楽だったりする場合もある。

謝るまでは許さないという態度を維持する人が謝ったらころっと態度を変えていうあの一言、その直後に平然と振る舞う軽口や笑顔、多くの女性が経験している気持ち悪さと絶望。こんなに長く苦しく情けない時期が続くなら最初から会いたくなかった、と思っても会ってしまった事実は消せない。悲しくて寂しくて虚しくて眠れなくて幸福と思えた瞬間がすべて「あれはなんだったんだろう」に変わってしまう。唖然とし思考停止が続く。相手あることをそう簡単に片付けることはできない。特に受け手の側は。こういうリスクを承知のうえで私たちは繰り返す。愚かかもしれない。それでもそういうものなのだろう。

だからこそと言わなくても専門的な仕事では当たり前のことだが精神分析みたいに頻繁に長い期間会い続けていく方法にはこの最初のアセスメントが本当に大事。お互いに。終わるときも終わりにすることについて話しあう期間を治療者側は提示する。それを受けるか受けないかは患者次第。とにかくどちらかがコミュニケーションを断つようなことにならないように注意する。様々な手法は現実の人間関係で起きていることを詳細に吟味し積み上げていくところから生まれてきた。簡単ではない。

インドの女性の精神分析家と話したことでいろいろ考えたのだけどそれはまた今度。

(upし忘れてた。今日はもう始まってる。みんなはどうかな。良いこともありますように!)

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「柔らかな舞台」のこと&追記

色々大変なのは変わらないけど昨晩はひどかった。寒すぎた。今朝は無事にご自身の畑(でいいのかな)で採れたというキウイもいただけたしなんとかいけそう。

忘れないように、という話を書いたけど忘れないようにしなくても忘れられない部分が人を苦しめる。フラッシュバックとは異なってもトラウマに関する病名がつかなくても苦しいものは苦しい。動けなくもなる。思考できない部分にものすごく消耗する。どうしても目にしてしまう状況で小さく積み重なっていく新たな傷つきとこれまでを切り離すには助けがいるが言葉にすることも難しいだろう。とりあえず一緒にいてもらうことが一番安全だったりする。

先日、東京都現代美術館へオランダの現代美術を代表するウェンデリン・ファン・オルデンボルフのアジア初となる(と書いてあったと思う)個展『柔らかな舞台』へいった。
植民地とフェミニズムがメインテーマだと思うが、よくある「対話」におさめない複数の共同作業の交差や重なり合いのなかで問いかけるような映像と配置がとてもよかった。写真が好きな私は「撮影」という手法自体に興味があるのでチェックしたい作家になった。映像作品を全部見るのに時間がたりずどれも中途半端になったがそのためにウェルカムバック券というのも用意されていて一応いただいてきた。期日中にまた行けるといいな。

いつも以上に頭が働かないなあ。みんなはどうかな。ため息つきつつ休みつつなんとかやれたらいいですね。ブアイブアイ(身内で「バイバイ」をいうときこう言っていた時期がある)。

ー数時間後の追記ー

メモなんだけどウェンデリン・ファン・オルデンボルフの作品を見ながら映画批評家の三浦哲哉さんの『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を思い出した。この本の問いは

「映像が動く。ただそれだけのこと(傍点)にただならぬ感動を覚えるまなざしがあるとすれば、それは具体的にどのようなものか」

というものだ。アンドレ・バザンによるリアリズムの定式化を検討するところから始まるこの本は映画の「直接的な力」を「リアル」という言葉ではなく「自動性automaticité,automatisme」の概念によって定義しなおそうとする。ちなみに本書の『映画とは何か』という書名はバザンがその遺書の題名として掲げた問いだそうだ。

まだ実家にいた頃、父の書斎には夥しい数の「β」がありたくさんの映画を見たがあまり記憶にない。フランス現代思想の講義(主にドゥルーズ)にも色々と出たがこちらもあまり記憶にない。よって私はフランス映画にもフランス現代思想にも詳しくないのだがこの本がそういう人にとっても興味深く読める理由は先述した問いに力があるからだと思う。2014年刊行のパラパラした記憶しかなかったこの本を映画でもないこの個展で想起し再び手に取るとは思わなかった。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの展示では最初壁にかかったイヤホンをとってから進む。入り口からどちらの方向へいっても構わないがおそらく大体の人は時計回りに、しかも入ってすぐに聞こえてくる対話に注意を向けるだろう。そしてなんとなく椅子に座り彼らの話を聞き始めるだろう。まるで外側から参加するように。そこから反対側をみると別の映像が流れている。しかもそちらは音声が聞こえない。そちらへ周りイヤホンジャックを挿せばいいのかと気づくまでに時間がかかった。字幕で内容に気を取られたのと別の画面に伴う音声で音を補えてしまっていたせいだろう。というのは私の場合で、この展覧会はおそらくはじまりから体験の仕方はかなり多様になるだろうし、そういう風に構成されているように感じた。内容に注意がいく人もいれば、映像のなかで起きていることに目が向く人もいるだろう。私は映像のなかのカメラマンにも折り重なる眼差しを意識したし、どこからどんな風に見えるのかどんな風に聞こえるのかを試してみたりもした。自分の動きによって同じものが別のものに見えてくるのは映像作品の配置だけではない。田舎の水族館のような構成だと思ったのは雨が降っていたせいもあるかもしれない。自分のまなざしが揺れる。変わる。そのうちに委ねている。

そうそう、この展覧館のチラシをパッとみたときに言葉の意味を壊すというようなことが書いてあった気がしたのだがそれは暮田真名さんが展開している川柳のようだなと思った。暮田さんは以前『文學界』に「川柳は人の話を聞かない」という文章を寄せている。私は川柳のことも暮田さんの以外はよく知らないのだけど映像に対してはこういうちょっとトンがった態度はとりにくいように感じている。映像は背景と奥行きが勝手に仕事をしてくれてしまう感じがするし、常に何かが後回しになったりどこかへ忘れ去られたりしてでもはっきりと目に入れているものもあるので複数の対話を背中に聞きながら話しているような状態に近い、という点で今回の映像のなかの、そしてそれを体験する私の状態と近い気がする。

特に何を書きたいとかでもなく思い出したことを書き連ねてしまったらなんか長くなってきてしまったのでこの辺で。ぶあいぶあい。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

そうでもしなければ

サッカー、後半寝落ちして結果が決まったときの音声で起きた。途中何度か目を開けてそのたびに見たばかりの夢を忘れた。

今朝、ハンセン病患者に対する人権侵害のニュースをみた。する側される側のどちらでもありえた、そして対象が異なれば今まさにあるいはこれからもありうる人権侵害や差別の当事者としての自分を意識する。「ケア」に関する様々な言説にうんざりしがちだがそれは精神科医療の枠組みに入る以前から病気を生きる人たちが身近だったからだろう。「病気」という言葉も知らなかった。

ここでは自分の体験とも離れずかつ他者とも共有したり話し合ったりしやすい男女関係における「あれはなんだったんだろう」を書くことが多い。もちろん描写にはうそもほんとも混ぜ込んでいる。「ほんと」のことなんてものすごく複雑でどう書いたとしても想像が届かないものなのでほとんどうそともいえるが。あれはなんだったんだろう。長く続いている多くの友人関係やだいぶ長くなってきた臨床経験でもそのプロセスに激しい怒りを、そしてその起源に強い空虚を含む問いが皆無というケースは少なかった、というかあっただろうか。もちろん私の臨床は精神分析理論が基盤であり設定もそれに向けてなされているのでそのような問いが生じるのは必然であるのかもしれない。

などと専門的なことを持ち出そうとしなくても基盤となる身体に大きな非対称をもつヒトのセクシュアルな関係がお互いを不安定にすることは大方の人にとって実感を伴った理解が可能だろう。そしてそれが第三者の否認にあいやすいことも体験的に共有できるだろう。自分でだって認めたくないのだから。特に女性の場合は主張の仕方に工夫がいるということもしょっちゅう言っている。通常の関係よりも暴力性が作動しやすい関係をあえて精神分析理論からみるなら否認と投影同一化の機制で考えるかもしれない。

私は精神分析において患者でもあるので自分の病理ともずっと付き合い続けている。だから第三者的に書いたり誰かの言葉を簡単に使うことは避けたい。上手にそれができる知性がないともいえるがその人の言葉はその人のものなので、と思うし私の言葉もそうやって扱ってほしいと願ってきた。また知性化によって体験を遠ざけてはまた同じことが起きるだけだと考える精神分析に同意して時間とお金をかけ続けているのでもしそれを自分がするとしたらそれはどうしても自分の方が変わるのは嫌というナルシスティックな部分による防衛だろうと考える。私の立場と能力でできることはつたなくても体験を言葉にしつづけてなかったことにしないということだけなのだろう。とどまらずコミュニケーションもせず被害感で記憶も出来事も塗り替えていくような事態に私は警戒したい。それで保たれる健康も保ちたい関係もあるだろうから「あくまで私の場合は」という話。正直自分の記憶だってどんどん上書きされていく。正直薄れてもいく。そうじゃないと辛すぎる。死にたい死にたいしか出てこなくなるかもしれない。でもだからこそ思い出す。これまでそうやってなんとなく曖昧にされ繰り返されてきた侵害や暴力のことを。いえずにきた不安や恐れのことを。記憶しつづけることは想起しつづけずっとその内側に居続けることだ。忘れてしまった方が楽だろう。距離をとったほうが楽だろう。でもだから女性たちはずっと怒り続けてこなければならなかったのではないか。そうでもしなければ忘れられてしまう、自分でも忘れてしまう、そうしたら社会が私を差別する以前に私が自分で自分を葬り去ったことにならないだろうか。そんな私は同じ体験をしている人たちに害を加える側になっても気づかないのではないか。変わらない変わらないと嘆き怒っていた構造に自ら取り込まれていくことに抵抗したい。どうしたって自動的に絡め取られているとはいえ。「害」ってなんだろうということだって引き続き考え続ける必要があるのだろう。

さてそろそろ行かねば。はじめてきたこのファミレスは静かだった。朝のファミレスは大体静かなイメージがあるからこういうものなのか。私がやたら着こんでいるせいか「この席が一番暖かい」という席へ案内してくれた。電車は早朝から混んでいて苛立った人たちも多かった。久しぶりの駅を降り時間を過ごせる場所を探したが見当たらない。東京なのにと思いつつ歩いていたらここがあった。

今日は火曜日。こうして曜日を呟いておかないと色々忘れそう。なんかいいことあるといいね、大雑把だけど。

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うそもほんとも。

神泉

寒い。「昨日は寒かったよね」と話したのは昨日。今日はまたとても寒いらしい。しかも雨も降るって。つらい。寒ツラ。雨ツラ。雨寒ツラ。「居るツラ」を定着させた東畑さんの言語感覚。「つらい」ではなくて「しんどい」とかだとリズム悪いものね。「つらい」と「しんどい」だと身体感覚もだいぶ違う気がするから比べるものでもないか。

先日、神泉の店へ行った。久しぶりに。

色々書いたけど削除。素朴な優しさに触れれば重たく疼き続ける部分にまた気づいてしまうみたいなことを具体的に書いた。そして消した。

神泉は渋谷のお隣の美味しいお店とラブホテルが上手に隣り合う街。儚い関係を結べる街。東電OL殺人事件があったアパートもまだあると教えてもらった。どう生きたところでどう書かれたところで、など。

人はひとりでは何もできないというのも本当。そのために誰かをひとりにしているのも本当。それどころかあっという間に最初からいなかった人みたいに扱えるのも、別の誰かで補填して「ひとりでは何も」とか言ってわかりやすく愛(?)や共感を集めたりするのも本当。本人は本当にそう思って感謝すらしてて「わたしたちみんなで」と素朴な優しさで支え合っていると信じてるのも本当。トータルの言動からすると嘘っぽいけど部分だけ切りとればすごく本当。消えてくれた人にも感謝するかな。自分で消しちゃったからもうなにかの対象でさえないか。

そういえば石田月美『ウツ婚‼︎ー死にたい私が生き延びるための婚活』(晶文社)が漫画(石田月美/磋藤にゅすけ)になったらしい。具体的なスキルはいろんな苦しみの描写でもある。

寒い。昨日はとても丁寧なお仕事を堪能して気持ちは暖かった。友人は早朝から海へ向かうといっていた。やっぱり水温があがってるらしい。寿司もサーフィンも水温の影響を受ける。「害」って誰にとってだろう。住みやすい社会、生きやすい世の中ってどんな?生き延びるって結構大変。今日もなんとか。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

無駄ってなんだったんだろう

「あれはなんだったんだろう」の時間は「余裕」があるときにやってくる。睡眠時間はそのための「余裕」ではないはずだけれど追い詰められる時間が長ければそんな変な認識にもなってくる。


「無駄な時間をありがとう」といわれた。曖昧に笑った。心が曇った。心があるとしたらの話だけど。なんの余韻も言葉もなくひきはがされることには結局慣れなかった。言葉や仕草の乖離やわからなさを埋めるのに消耗した。そういえば「無駄」って國分功一郎さんや藤原麻里菜さんにいわれたならうれしかったかも。そういうつもりだったのかな。誰かの真似が多くてよくわからなかった。どうにかこうにか大好きな気持ちと折り合いをつけようとしているうちにもいろんなところが裂けていった。傷口がふさがる間もなく。何か答えれば馬鹿にしたように首を傾げられたりため息つかれたり不機嫌になられたりした。最初はからかわれてるのかと思って情けない気持ちで笑ったりしてたけどだんだん怖くなった。「あれのこと?」といったら「わかってるじゃん」とうんざりされた。え?普通に考えたらわからないからわかろうと思っただけなのだけど。同じスピードで処理できないよ、あなたが見下すとおり馬鹿なんだから。体調が悪いことも増えて病院へ行く時間も増えた。体調が悪い、今日は病院、と伝えてみたけど思った通りお決まりの愚痴が返ってくるだけだった。SNS との乖離がすごすぎてこっちを信じていたけどそっちがほんとだったみたいでびっくりした。ほんとあれはなんだったんだろう。唖然としつづけている。文字情報のない世界に生まれたかった。あれはなんだと問わなくてもいいように。


そう、言葉は怖い。相手がどんどんなかったことにできるのは言葉のせい。だから逆に言葉でそれを大切に保存していく。いずれ戦うならそのために。一方的に戦いの言葉にされた気持ちを取り戻すならそのために。

それではそんなこんなでも良い日曜日を。

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短詩 趣味

短詩とか編みメーションとか。

眠い、寒い、しか言わなくなる季節がやってきました。そして今日締切のこれらもどうしましょう。というか(といって目を逸らしちゃだめ)「寒い」だけがこの季節特有ですね(逸れた)。「眠い」は俳句の季語で考えれば春ですものね。「春なのに」があれば「冬なのに」もあると。お別れも季節問わずありますし。中島みゆきの曲のことです。「春なのにーお別れですーかー♪」なんか♪マーク書くとご機嫌な曲みたいだけど多分まだ東京が遠かった頃の切ない歌です。

昨日は歌人の絹川柊佳さんがネットプリントで出されていた短歌6首を何度も声に出して読みました。恋することと死ぬことみたいなお互いに内包し合う分かち難い感覚の配分が絶妙でした。高校生や大学生にご親戚がいる方はぜひ絹川さんの歌集『短歌になりたい』(短歌研究社)を贈ってあげてください。その時期ならではのモヤモヤや不安や痛みが幅広い素材と共にどこかあっけらかんと歌われています。毎日死にたいと言いながらなんだかんだ生きている大人の私たちにもよいかもしれません。

絹川さんのことを教えてくれたのは、今年8月に心理士(師)対象のイベント講師にいらしてくださった川柳人の暮田真名さんです。同期でおられるのだったか、絹川さんの才能に驚嘆したとおっしゃって勧めてくださいました。

暮田真名さんはますますご活躍の場を広げておられるようでお話ししていると親のような気持ちになる世代の私もなんだか嬉しいです。先日は絹川さんのネットプリントと一緒に、暮田さんと俳人の斎藤志歩さん、歌人の榊原紘さんの短詩集団による「砕氷船」も入手してきました。斉藤志歩さんの第一句集『水と茶』(左右社)が刊行されたので「斉藤さんおめでとう号」でした。ほんと才能もすごいけど楽しいみなさんで短詩の未来は明るそうです。

編みメーション作家のやたみほさんの作品と共に写真を載せておきます。やたさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展が11月いっぱい神保町にある子供の本専門店ブックハウスカフェで開催されていたのですがそれについてはもう書きましたっけ。忘れてしまいましたが小さなスペースにとっても緻密でかわいい世界が広がっていてうわぁとなりました。松本さんのきれいな小鳥さんをお引き取りにあがらねば。オフィスにお迎えするのです。ブックハウスカフェはカフェもゆったりしているので絵本好きの方には特にお勧めです。

はあ、それにしても寒いですねえ。東京はこれから晴れるみたいです。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

絹川柊佳,「砕氷船」,やたみほ
イロキリエ作家,松本奈緒美
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うそもほんとも。

寒い。

ペットに対して優しい夫を「お父さん」と呼ぶけど自分のことを「お母さん」とは言わない人だった。子供のいないその人は女性の怒りや苦しみに共感的で夫はペットにだけは共感できる人だといっていた。もうそのペットはいないけどふたりは一応今も一緒にいる。嘘も本当も色々だ。と昨日も書いた。お互いに積み重ねる水準の違う嘘。生きているか死んでいるかより重要なのは一緒にいた時間の長さなのかもしれない。みなかったことはなかったこと。嘘も知っていたけどこういうのはじめてじゃないから。その人は笑った。そして時間をかけて築いた奇妙なシスターフッド。今日ももろもろなかったことにしてわかりやすく優しさをふりまく人にうんざりしたため息をそっとつきながら。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

うまくできてる。

書いては消し、ということをわざと繰り返す。ここでそれをすると「間違って」公開してしまう場合があるのでここではなくて。「相手」あることに対しては相当に相当に慎重にならざるをえない。人ってうまくできてる、と思う。それを「支え合い」と呼んでいた時期もあった、といえるほどに移ろいやすい人間関係。「一年あっという間」と感じられるように寿命を短いと思えればこんな苦しみなんて、と思えていいのかもしれない。でもそんな簡単じゃない(これまで何回この文章を使っただろう)。また「あれはなんだったんだろう」の時間がはじまる。

といっても疑問にのみこまれているばかりではない。まるで実験対象のようにされた時間を今度は自分が調査対象にしている。知ることでどうにかしたい。そうでもしないと「間違って」色々してしまいそうだ。人ってうまくできてる。でも直接的に関わりのない誰かを傷つけないためにその理性は必要だ。本当に悲しいことに。こういうのも「ケア」について語るときの困難と通じている。

さて、あれはなんだったんだろう。どうしてあんなことが可能だったのだろう。

たとえば「気持ちいい?」ときかれて頷いてしまうとき、それが全くの嘘の場合、言われればそうかもしれないという場合、そんなことないけど相手を気持ちよくさせたい、あるいは怒らせたくないのでという場合、なんとかの場合なんとかの場合といくらでも答えはあるだろう。嘘にも本当にも色々ある。

精神分析では去勢と倒錯は常に中心となる概念だが、実際の性器とこころの関係は恐ろしく複雑で言葉がそれをどういう形で記述してくれるかがその人の人生を変えたりもする。ましてや実際の接触がある場合、男女の場合だったら非対称性は否認できないものとしてそこにあるし、同性同士の場合でも差異は何気なく気にされつづけそれが言葉や身体の力の使用に影響を与えたりもする。

などなど。もう行かねば。ネバということはないのだけど仕事までにしたいことがあるのだ。自分や相手や見知らぬ誰かの欲望とどう関わるか。答えはひとつではない、と思えることも「ケア」の基盤だろう。あなたがどうにかしてしまいたい相手にも「相手」がいる。だから答えはひとつではありえない。常にそれがすべてではないのだから。人ってうまくできている。本当に苦しく悲しいことに。

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写真

マン·レイとか。

まだ暗いですね、と思っていたけど明るくなってきましたね。ずっと暗いままということはない国に住んでるんだなあ。白夜とかも体験してみたいけど寒い地域なんだよね。極夜というのでも真っ暗ではないのかな。空ってほんとみてて飽きない、とかいっている間にどんどん時間が過ぎていく。しんどいけど動かねば。

いろんなことが起きていますね。思うことはたくさんあれどそういうときこそじっとと思う。自分のことではないことを簡単に利用しない。直接向かってくるモノに思考停止にならないようにどうにか持ち堪えてからなんとか出す言葉は拙くて受け取ってもらいにくいかもしれないけれど(インパクトばかり強くなりがち)たやすく誰かの言葉にのっかったり断片的に発散したりしていつのまにか自分のほしい言葉ばかり求めてたみたいになるのは思考停止と変わらないように思うから。いろんな話をして違いを感じることでネガティブな衝動に突き動かされるかもしれないけれど違うのは当たり前なんだからそこにとどまって時々行動化しながらも内省しているうちにでてくる相手への気持ちを諦めずに言葉にしていく、そして相手のそれも受け取るという関係を築いていけたらいいのだけど。

神奈川県立近代美術館葉山館で開催中の『マン・レイと女性たち Man Ray and the Women』をどうしても観たくてポカンとあいた午前中に突然行ってきた。素晴らしかった。ほとんど貸切のお部屋をゆっくり巡り最後の展示室にいく頃にはため息がでたりニコニコしてしまったり豊かな気持ちになった。マン・レイが愛した女性たちとの軌跡にはシンプルに「愛されるって本当に素敵」と思った。双方が対等にそれぞれの人生の一時期を愛し合って過ごし心が離れ別れ傷ついても別の関係を続けていく、結局ずっと支えあってる、そういうのってきちんと愛し合った結果でしょう?いいなあ。政治、戦争、亡命、個人ではどうにもならない時代を生きた人たちを魅力的に描き、写し、オブジェに仕立てていくマン・レイの作品はこんなにもよかったっけ。ここでの女性たちはセクシュアリティをあまり感じさせない。見られる対象としてではなく個人の親密な関係ならではの眼差しを十分に感じさせてくれる展示だったと思う。

はあ。海もよかったよ。空と区別なく。サーファーがありんこみたいだった。またどこかいきたい。とりあえず今日もなんとか。

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うそもほんとも。 精神分析

進化?

なかなか明るくならない。冬ですね。

「もういい」と苛立ったため息をつかれた。3回でわからないといつもこうなる。「表」では聞き上手おしゃべり上手の懇切丁寧な超いい人なのになんで。あれは伴侶との「生活」のためだから。中途半端な相手のことは好きなときに好きなように使って捨ててしまえばいい。なるほど。「伴侶」のことも似たような扱いに見えるけどそんな分類があったのね。契約って大事だものね。AIっぽいなとずっと思っていたけどどこまでいってもそんな感じだなあ。最後は「中途半端」を愛せないAIの限界をみた。

ナンパの仕方もいつも同じ。言葉、絵文字や記号まで。使う店もいつでも誰にでも。集団だとうまくいかないからひとりの場所へすっと入りこむ。そういうのを求めている人を上手に判別する。もちろん面倒になったらAI的に「適切な」理由をつけて脱出。まだ複雑さには対応できない。失敗ヴァージョンと成功ヴァージョンの両方をみた。「失敗」といっても気にしない。全てはアルゴリズム。運が悪いとこうなる。相手が悪いとこうなる。あるいはこういうときだけ「人間コワイ」となるし、せっかく提供してあげようとした「ケア」を「拒否」されたとかなるし。困ったものね。でもなんにしてもこちらがダメならあちらへ。それだけ。「気持ち」って幻想でしょ。

魚かなんかだと思われてるな、と感じながら魚に失礼だな、と思った。絶対に異なる生物だったと思う、遺伝子的に。あなたはAI、私は魚かなんか。私は一応平均寿命を想定した有限性を生きているのでいろんな気持ちに耐えられるというか生きてるっていうのは一応耐えているってことだと思う。なのでコミュニケーションを有効だと思ってる。そしてものすごく死にたくてもそう簡単に死なない。事故とかであっけなく死ぬことはあるかもしれないけどそれも私にはどうにもできない。そういうのも有限性。あなたの場合は有限というよりこっちは限界、ではあっちの限界へ、そんなわけで基本的に無限が前提。違う世界を生きているのね。同じかと思ってた。

結婚詐欺とかも相手がAIだとわかったら「そっかー、ならしかたないね」って時代がくるのかな。というかそういうことを言えてしまう人は確実に増えていると思う。こういうのって進化?精神分析的にはあらたな防衛の登場とかいったらやっぱり「古い」という矢印の方へ振り分けられるよね。でも人間の寿命を考えたら古いも新しいもという気がする。とりあえず今日も一日。

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あれはなんだったんだろう

願うことが罪だった

思うだけなら自由、とよく話す。「自信がない」と言われれば「自信があるって何」という。「そんなつもりはなかった」「それはそうでしょう。自分でわかっていることだったらこんなところいらないわけだし」。

あー人間ってめんどくさい。人間以降を想定しつつ実際にやっていることの浅はかさ。それを愛せるときも死んでしまいたくなるときもある。

あ、寺の森の鳥たちが飛び立つ時間だ。すごい声。空の一部を黒い模様が移動しては消え、また現れを繰り返す様子をみているときは内と外が反転しているような感じになりませんか。心に空を抱えこむように。ルネ・マグリットの絵のように。

相変わらず「あれはなんだったんだろう」に囚われつつも鳥と空までの手が届かぬ距離、つかず離れずの関係に別の可能性を描こうとしているのかもしれない、無意識的に。わからなさに慣れ衝動をこなそうと頭痛と不眠に悩まされた日々を無理に学びに変えることはしないでもいいけれど。「ただ一緒に」そう願うことが罪だったなんて思いたくない。そんなつもりはなかったんだから。それがあなたを傷つけたと言われれば申し訳なかったというしかないけれど。また沈み込んでいってしまう。

動かねば。みんなはどうかな。もう動けたかな。それともちょっとのんびりできそうでしょうか。それぞれなんとか過ごしましょう。今週も一日一日。

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ダメな人たち

少し前にガラの悪い人と遭遇する率の高い居酒屋さんへ行った。最後に来たのはコロナ以前か。私もこの地域に住んで長いので働き者のお兄さんは結構なおじさんになっていたし、店長は新しいパートナーを得たようだった。「ちょっと待ってて、すぐ席あけるから」とその人に言われて「なんかメニューがきれいになった?」とか話しながら待っていた。下へ降りていくと酔っ払いの大きな声が聞こえた。「女なんかいらねーんだよ!」。もちろん私に向けられたものではない、と思う。「おー、ガラの悪い人いた」と特に気にせず「これ前からこうだっけ」といつも通り曖昧な記憶で久しぶりの店を楽しんでいた。店でかかっている曲とは全く違う曲を歌い出したその人はしばらくするとトイレにたった。いやたてなかった。酔いすぎ。さっきあなたが歌っていた曲からすると同世代ねと思いつつこっちに倒れこんでこないでねと願った。同世代らしき彼らの顔をみて私も歳とったなあと思った。懐かしい歌謡曲だったから頭の中ではみんな若返っていたのが彼らの顔を見たら一気に現実に戻された。立てない彼にどつかれながら細身の若い男性が「すいやせんっ」と私たちにペコペコしながらニコニコした。ドラマみたい。私はその前から彼らの噛み合わない会話がおかしくてしかたなかったのでずっと背中を向けて笑っていたが、今この瞬間は私たちの横を彼が無事に通り抜けてくれることだけを願った。彼がなんとかトイレに入った後も若者がわざと中の彼を煽り、席に残っていた決して私と目を合わせない強面だけどシャイな男性(この感じもドラマみたい)に叱られていた。昔だったらなんとなく会話をはじめた雰囲気だったが今はコロナもあるしエネルギーはないしでクールにふるまった(つもり)。しばらく経って若者の煽りにも反応できないほどだった彼は無事に出てきて再び重たそうに抱えられながら恥ずかしそうにこっちをみた。私もにっこりした。この感じ懐かしいなあ。単純であからさまで品の悪い言葉遣いで賢さのかけらもない。直接話していないのに交流が生まれた。私は彼らの言葉や態度にゲラゲラ笑ったりクールぶったりした。その後も酔っ払いたちはさらに酒に呑まれていたが店長のパートナーらしき彼女が降りてきて威勢よくテンポ良く対応してくれている間に店を出た。大きな声で呼び止めるような人たちではなかったけど最後に目の合わない彼と目が合った。恥ずかしそうに笑う彼に会釈をした。いい夜だった。もう何も考えたくない。何もしたくない。すべてどうでもいい。意識していなかったがそういうときにこういう店に導かれてしまうんだね、きっと。ダメな時はダメ。でもダメばかりでもない。ひとりになれば泣いてばかりでもさっきあんなに笑ったじゃん。そういうのがあればきっといずれなんとかなる。いつになるかはわからないし何度も嫌な目にあったり苦しいのが続くかもだけどこういう世界も存在すること自体に救われる。救い?わからないけど。お互いダメな感じだけどなんとかね。そう思った。

(upするのを忘れてた)

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精神分析、本

ため息まじり

寝不足のままファミレスで作業。日曜朝のファミレス、この時間は男性のひとり客ばかり。とても静か。自分で特別感出していかないとやってられない。

そういえばさっき上から何か降ってきたからきゃーっと思ったけど髪にもリュックの表面にもなんの痕跡もない。リュックを前に抱えて中途半端にあけておいたから中に何か入ってしまったのかな。きゃー。何か中で育ってしまったりしないでね。

鳩が鳴いてるなあと思いながらうちのそばの角を曲がったら真正面から別の鳩が羽広げてきてびっくりした。ちょうど角のおうちの木に留まろうとしているところだったのだけどなんか迷っちゃたみたいで一度留まろうとしたのにバサバサって変な感じにまた飛び上がってそばの別の木に留まった。ああいう判断ってどうやってされてるんだろう。というか真正面から鳥が羽を広げた姿みるのって結構インパクトあるよね。

その後に上から何か落ちてきたら鳩の落とし物とかよく書かれているものかと思うじゃん。あー。中も大丈夫だと思うのだけどだったらなおさらあれはなんだったんだろう。

少し前に中年男性が要求するケアについて「ほんとそう」と思うツイートを見かけたのだけど、一生懸命ものや時間を与えて時にはちょっと手も出したりして愛情めいた関係を築いてそれを社会的評価に変えている同世代の中年の商品にはお金が回らない世の中になればいいなと思う、特にそれが男性の場合。女ひとりで開業している身なので現実的な言い方になりますが。構造上の問題に上手に乗っかってまるでフェミニストかのように振る舞うことが上手な人も身近にいるけど「そういうのいいかげんやめたら」と言いたい。色々くれてなんでも教えてくれる賢くて優しい人たちだったりするととても言いにくい場合もあるけど言うこともある。それとこれとは別というかそんなものより、と。でもすでにビジネス絡めながらそういう人と依存関係築いてきた女性たちは自らが中年になってもそういうこと言わないでむしろ言う方のことを「あなたにそんなこと言うなんてひどい」みたいなメッセージ送ってたりするから「うん?お連れ合い?いや、だったらそんな甘めのこと言わないか」とか「社会なんて変わらないっすよね」となるのも無理はない。私は「この人たちって」と個人に対して思うほうだけど。それ以前に言われたくないこと言われるとすぐ怒ってしまう人とはコミュニケーション自体が難しいし。うーん。それに比べて患者さんたちは誠実だなと思うことが多い。切迫した問題があって、自分のことを考えざるを得ないからというのもあると思うけど素因の違いもあるのかな。ほんといろいろ難しすぎてまいるけどそういうの考えること自体も仕事だからまいりながらやりましょうかね。

先日プレシアドの『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(法政大学出版)のことを書いたときに名前を出したヴィルジニー・デパントの『キングコング・セオリー』(柏書房)みたいな書き方ができたらいいけどできないので読んでほしい。関係ないけど私は柏書房の本に好きなのが多い。女性や弱者への一貫した眼差しを感じる本を色々読んだからかな。

フロイトの『夢解釈』にはものすごくたくさんの夢の例が出てくるのだけどフロイトが理論を確立するための素材としてそれを使用しているからとはいえ生理や妊娠、中絶、同性愛などに対する記述は中立的という話になった。少なくともたやすく価値判断を混ぜ込むことをしていない。そうだ、土居健郎が価値判断について書いているところについても書こうと思っていたのに数年が立ってしまった気がする。まあいずれ。フロイトは権威的、家父長的な部分ばかり取り上げられてしまうけれどその後の技法論に繋がる中立性の萌芽はこういうところにあるのか、とかもわかるからフロイトも読んでほしいよね、精神分析を批判したり同じ名前で別のことをしようとするのであれば、という話もした。

京大の坂田昌嗣さんが昨年の短期力動療法の勉強会がらみで短期力動的心理療法(short-term psychodynamic psychotherapy:STPP)の実証研究の論文を教えてくれたけど n = 482, combined(STPP + antidepressants) n = 238, antidepressants: n = 244だもの。積み上げが違う。これまでの研究も遡ってみたけど実際にSTPPを長く実践してきている人たちの研究みたいだし。たとえばDr E. Driessenの業績

STPPは精神分析の理論を部分的に使用しながら患者のニーズに合わせて発展してきた技法だけどpsychodynamicという言葉を使っているわけでそのほうが幅広い臨床家に届くよね。これ力動系アプローチなのに反応があるのはCBTの人たちからというのも今の状況だとそうなるか、と思ったりもした、とかいう話もした。とりあえずこういうことをざっくばらんにかつ細やかに話し合える場づくりはしているつもりだから維持するためにもなんとかやっていかないとだなあ。ため息混じりの日曜日。でもまだ朝。みんなにいいことありますように。

cf.

短期力動的心理療法に関する本や文献についてはオフィスのWebサイトに書きました。ちなみに勉強会当日のテキストは


ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
妙木 浩之『初回面接入門―心理力動フォーミュレーション』(2010,岩崎学術出版社)
でした。

妙木浩之監修『実践 力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト』(2022年、岩崎学術出版社)も加えておきます。

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仕事 言葉

どんな一日、どんな言葉

公に向けた仕事ができる人の特権、というのを「加害」「被害」の関連で読んだ。今回は本を書く人が特定の相手を傷つけたという事態。相手あることを事実として書くのにその言い方は、と最低限必要と思われる著者の想像力に基づいた配慮がなかったらしい。一方、そういうのを平然としないでいられる人の言葉だから一部の人に「ウケる」というのもあるのだろう。「相手」の苦痛は計り知れない。DVやいろんな中毒について考えるときにも同じ問題がある。人は発信せざるをえない。誰もが苦しい。特にものを書く仕事の人はそれで生活しているから書かざるをえないというもあるだろう。なんにしても「相手」あることをどう考えるかというのは人として一般的に持っていると想定される心的機能をどの程度使えるかということでもある。機能不全を起こしていても公に向けて書いて人気者になったり信頼を集めたりすることはできる。だったらむしろAIの方が、とか。

少し前に私は女が傷つきについて書くとき、まずは、主観的一方的に書く必要があると思うというようなことを書いた。書くのが仕事の人は別だろう。個人的な語りの場合だ。女性は構造上の問題に囚われ自分の言葉を奪われやすい。もちろん女性に限らず構造上の問題にがんじがらめになることはあるのでその場合も同様。私の仕事はそういう語りが可能になる場を提供しているのだと思う。外で話したら何回でも何重にも傷つく可能性がある思いや考えを言葉にしてみる。その手助けをする。これはこれで本当に難しいが大切なことだ。

切りつけるような言葉を言った相手が次の瞬間には多くのフォロワーをもつSNSで軽薄な言葉を使用しているのを目にする、そういう時代でもある。言葉の使用はどんどん残酷になり見えない分断の種をまいていると感じる。特定の相手にとってはその人はそういう人だとわかっていてもよくそんなことが平然とできるなという理解できなさにずっと苦しむ事態でもあるだろう。そのせいで起き上がれず何もできないのに相手の活躍を目にしなくてはならない、ますます苦しい、ということもあるだろう。当たり前だが個人的な関係は外からは見えない。個人的な状況と文脈を考えれば明らかに自分に向けられた揶揄にたくさんの♡や「いいね」がつくのを目にすることもある。「自分のことをいわれてると思ったんですか」と言われてしまえば黙るしかないかもしれない。でもまぁそれでも「ああまたこれか。直接的に相手がわかる形でされるよりはましか、この人いつもこうだし」と「〜よりまし」「いつもこうだから仕方ない」という方法で怒りや衝動を抑えこむ場合も多いだろう。そうして何十年も経ってからカウンセリングに訪れることもある。怒りを向けるべき相手が事故で亡くなったり病気にかかったりすることが契機になることもある。「どうしてもっと早く」と周りは思っても外からは見えないことの方が世の中には多い。そんな簡単ではないのだ。むしろ簡単に切り替えられてしまうのを目にすることで動けずに時間が経ってしまうことだってあるのだ。

今日はどうだろう。どんな言葉を受け取り、どんな言葉を使うだろう。動けない人たちに向けて言葉にならない人たちに向けて私は仕事をする。そのために私は私のこともどうにかしようとしているつもりだけどどうなのかな。難しいですね。東京は雨のち晴れですって。みんなの場所はどうだろう。がんばろうね、ただ耐えるだけの時間と感じているかもしれないけれどなんとなく誰にともなく。

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読書

入口に立つ

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)を読んでいた。本屋でロシアとウクライナという文字を見つければとりあえず手に取る。そんな年になった。たとえばリュドミラ・ウリツカヤ著 、前田和泉訳『緑の天幕』(新潮社)、そういえばあの本もこの本も始まりには「それん」崩壊があった。子供の体験と大人の体験の仕方は異なる。私の最初の「世界的ニュースの記憶」はなんだろう。覚えていない。

奈倉有里さんは文学研究者であり翻訳家だそうだ。この本は著者と新しい言語との出会いの描写から始まる。好奇心と喜びに溢れたコンパクトでスピード感ある記述は子どもの遊びを見守っているようで最初から楽しい。ソ連崩壊は世界的大ニュースだった。世界は少しずつ変わり私たちの生活はその影響を受ける。それは子どもたちにとっても同じことだ。人間と世界、最近はそこにAIを含まないわけにいかないが、それらについて書かれた大人たちの本に知的好奇心は揺さぶられてもこういう楽しさや切なさはない。冷蔵庫が三種の神器と呼ばれていたのは私の親が子供の頃だと思うが子供にはそこが世界への入口となったりする。タンスの引き出し、押入れの中、子供が世界と出会う場所は生活にある。今自分が現実の他者と生きている場所から喜びとともに世界と出会う、著者はその達人だ。人の話を聴くのが大好き、本を読み出したら夢中になってスープを火にかけていたのを忘れる。「人と人を分断する」言葉ではなく「つなぐ」言葉を、と願う著者の短いエピソード、長くてもそう長くはないエピソードの数々に忘れていた感覚を呼び起こされる。その感覚で世界を見直す。一色に見えていたそこはそれだけではなかったかもしれない。苦しみがちな毎日をなんとか生きる私たちだけど向かうのは出口だけではないのだろう。子供の頃だったら開けたくなったかもしれない扉、入ってみたくなったかもしれない暗闇、一緒にならいけると思えたかもしれないあそこ。もうすっかり勇気もやる気も乏しくなってきた気がする。それでもそんな入り口の前にいつの間にか再び立たされるだろう。いろんなことは繰り返される。それぞれのしかたでなんとか今日も。

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言葉

「幸福」

ミナ ペルホネン(minä perhonen)の皆川明の文章を読みながら「幸福」という言葉をずるいと感じた。その文章自体は一見すればごく当たり前に大切な、でも大抵の場合は困難な関係を記述したものだった。まだどうしても立ち上がる力が出ない身体にはさらに重たく感じた。

幸福という言葉はずるい。頭痛がひどくなる。差異をうやむやにしたりいつでも反転可能な状態にしておけるこういう言葉にはなすすべなしと感じる。しかし実際幸福というのはそういうもののようにも感じる。取り巻く状況も最悪で、心身の状態も最悪で、私たちの関係も最悪なように思えるのに会い続ける中で時折訪れるあの感じ、そこだけふと明るく温かくなるような一瞬、あれは多分幸福な瞬間だ。でもすぐに消える。やっぱり幻だったという絶望と引き換えに。

会い続けるのが条件。そのためには幸福を感じられることが条件。無限ループ。断ち切るか継続にかけるかはその人次第だと思うがそれだっていつだって「そんなつもりはなかった」という言葉で無効化できる。時間って?責任って?愛情って?そしてやっぱり幸せって?

昨日は真冬のようだった。今日の光は溢れんばかり。日々は続く。空。見上げるしかない。包まれるしかない。心身への影響も回避できない。一喜一憂。これまでだってそうだった。

「100年後を想う活動」、ミナの理念。憧れのブランドは着るには身近ではないけれど作品としても追っている。ひとつひとつの手作業に潜む記憶。それを無意識的に受け継いでいくこと、離れても纏うことでじっと感じる、そうしたいしたくない以前に。そんな行為を幸福と感じられたら。今日もなんとか。

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精神分析、本

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』を読んでいた。

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(藤本一勇訳、法政大学出版局)を読み始めた、というかほぼ読んだ。文庫より少し大きいB6型判、講演のための発表原稿だがその内容ゆえに当日はこの4分の1しか読むことができなかっただそうだ。著者はインターネット上にすでにいい加減な形で拡散されている講演の断片ではなく、全体を分かち合うために本書を書いたという。それでもとてもコンパクトな本だ。9月に同じ訳者、同じ出版社から出た『カウンターセックス宣言』と併せて読むのもよいかもしれない。

まず、扉の謝辞に目が留まった。感謝を捧げられているのはヴィルジニー・デパント。『キングコング・セオリー』(柏書房)が話題になった著者だ。プレシアドとの関係は訳注に書いてある。

この本は「フランスの<フロイトの大義>学派を前にした、一人のトランス男性のノンバイナリーな身体による講演」の記録であり、ジュディス・バトラーに捧げられた一冊でもある。

2019年<フロイトの大義>学派、つまりラカン派が開催した「精神分析における女性たち」をテーマにした国際大会で行われたこの講演、聴衆は3500人、ラカン派に属する臨床医や大学人が対象だったようだ。日本の精神分析学会のような感じか。

著者は哲学者でありトランス・クィアの活動家だという。

「精神分析がそれを用いて仕事をしている性差の体制は、自然でもなければ象徴的な秩序でもなく、身体に関する一つの政治的認識論であり、そうしたものとして歴史的なものであり、変化するものだということです」(53頁)

「訳者あとがき」で書かれているように著者が「フロイトやラカンの精神分析理論をかなり単純化しているきらいは否めない」が、精神分析における「性差のパラダイムと家父長制的ー植民地主義的な体制とが振るう認識論的な暴力」(95頁)はこれまでもこれからもずっと批判の対象になるべきテーマであり、以前も書いたようにそこに最初に鋭く切り込んだのは「女性」分析家たちだった。とはいえ精神分析の訓練を受け、実践をし、その内部にいる私たちがこの講演の実際の聴衆のように居心地の悪さを感じた、感じない、その内容に賛成、反対とか、あるいは自分は女だから、男だからとかいう水準で反応したらそれこそ変わる気のない精神分析ということになるだろう。私たちが著者の戦略的かつ勇気ある提案に応答するためには患者との臨床体験をもとに慎重に言葉を使用していく必要がある。精神分析は個別の欲望のあり方に注意を向ける独特の学問であり実践である。「〜すべき」が外側からではなく自分の尊厳と関連づけたところで語られ実践されるように支援していく、その姿勢は分析家個人にも向けられるべきであり、たやすく手離せないものや言葉があるのならそれは何か、何故か、と考え続けることが大切なのだろう。

今は何かが普遍的になる時代ではない。どうなるかわからない、そういう時代だ。いや今がというわけではないか。ナチスの侵攻による大量の精神分析家の亡命によって協力せざるをえなくなった主にアメリカ、イギリスの精神分析家たち、それによって大論争もまきおこり、精神分析における政治的な状況も変化した。フロイトだってまさか姉たちをガス室で殺され、自分がロンドンで死ぬとは思っていなかっただろう。

予言の書という言葉を聞くが内容は知らない。まさかこんなことになるとは。夢にも思っていなかった。これからもそんなことの連続だということだけは予言できるかもしれない。一貫した思考など、一貫したあり方など、と私は思う。変化を厭わないがそれに伴う揺れやぶれに持ち堪えるのは苦しい。でもだから一緒にいる。自分を思うことが相手を思うことと離れすぎてしまいませんように。今日もそんなことを願いつつ。

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あれはなんだったんだろう

ぶりかえす

この状態、いつまで続くんだろう、と思いつつとりあえず外へでる。生活をしなくてはならない。何度も何度も急にぶり返す痛みと混乱。高熱のときみたいだ。とても笑える状態ではないが「なんだ、これ」と自分なのに自分ではどうにもできない状態に自嘲気味にならざるをえない。あれはなんだったんだろう。囚われては苦しむ。相手を変えるだけで、何らかの形でぶつけるだけで楽になれる人もいるのは知っているが私は違うからとどまるしかない。

思考停止。やるべきは仕事。生活。そういう状態の人たちへ。

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精神分析、本

昨日はウィニコットフォーラムだった

関西の友人から羨ましい写真が送られてきた。え、東京にきてるの?と一瞬思ったけど違う、東京の友人が向こうへ行ってるのだ。女性の精神分析家が書いたフェミニズム関連の論文を女が読むonlineの会の友達(その後延々おしゃべりもする)。そしてなぜ東京の彼女は向こうへ?そうか、ウィニコットフォーラムがあったのか。私は週末も仕事をしているので精神分析学会以外は役割がないかぎり参加していないけれどいけばよかった。ウィニコットフォーラムも去年はオンラインだったもんね。現地開催、よかったよかった。あ、そうだ。『ピグル』(金剛出版)の読書会の記録もしておかねば。

それにしてもこれは完全に羨ましがらせる写真ではないか。いいなーいいなー(と送った)。でもよかった。個別には会えていてもなかなかみんなで会えなかったものね。素敵なお知らせも聞けた。少しずつ別の場所へ。励まされる。

今朝はぼんやり植物と進化のことを考えていた。今日は雨か。あの木々や花々や実たちはどんな風に過ごしているのだろう。あまりに多様なあり方には出会うたび驚くばかり。小石川植物園にはニュートンの生家にあった木の枝を接木した「ニュートンのリンゴ」、メンデルの実験室から分株してきた「メンデルのブドウ」がある。私はそのメンデルの法則にはそぐわない食虫植物をはじめて出会ったときから愛している。植物が昆虫を食べるだと?神への冒涜では?と言った人がいたとかいないとか。ダーウィンがone of the most wonderful [plants]in the worldといったのはハエトリソウ Flytrapという食虫植物。個人的にはマイナーな異端児同士、ひっそり仲良くしていきたい。

フロイトもウィニコットも愛したダーウィン。ウィニコットは高校時代にはまったという。ウィニコットがダーウィンにどう影響を受けたかはいろんな人が触れていたと思うのでそのうちまとめたい(気持ちだけは)。

関連して思い出したが、学会のセミナーで私はウィニコットを引用した先生にその先も引用する必要を言ってみた。

ウィニコットは書いた。

引用はA Primary State of Being: Pre-Primitive Stages from Volume 11 of The Collected Works covers The Piggle (1971) and Human Nature (1988)、邦訳は『人間の本性 ウィニコットの講義録』(2004、誠信書房)から「第5章 存在の原初的状態:前原始的段階」。

「個々の人間存在は無機的なものから現れた有機的なものであるが、時がくれば無機的な状態に戻るものだ」

Each individual human being emerges as organic matter out of inorganic matter, and in due time returns to the inorganic state.

私はこの文章には続きがあると言ってみた。

ウィニコットは括弧付きの文章を続けた。

「(しかしながら、これも本当は正しくない。なぜならば、人間は卵から発達するのであるが、その卵には、何十億年も前に無機物から有機物が生じたとき以来受精してきた先祖のすべての卵以来、現在に至るまでの経緯があるからである)」

(Even this is not true altogether since the individual develops from the ovum which has a prehistory in all the ancestral ova fertilised since the original emergence of organic matter from inorganic several million million years ago)

私はここには親から子へと連綿と受け継がれてきた歴史があり、決して無機的な状態に戻ることはないということも同時に言っていると思うので、とウィニコットのパラドキシカルな書き方と併せて話した。

・・・ここまで書いて寝ていた。まずい。もう行かねば。みなさんも雨の道をどうぞお気をつけて。午後は晴れるって聞きました。でも寒いから体調にもくれぐれもお気をつけて。今週もなんとか過ごしましょう。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「あれはなんだったんだろう」

ゲンロン友の会のグッズを開封したままリビングのテーブルにおいておいたのをようやくきちんと見た。東浩紀の言葉が書かれた手拭いつき。勢いある。「ゲンロン友の声セレクション」はいくつかすでに読んだものもあるが書き下ろしもある。

久々にみるというか流しているNHK俳句はゲストはピアニストの金子三勇士。なんだか立派な名前だ。選者は星野高士。池内友次郎という俳人がいるのか。おお虚子の次男で音楽家なのか。星野高士からすると?大叔父とかいうのかしら。わからない。

流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子

に曲をつけたのか。かな?きちんと見ていない割にそっちに引っ張られる。あ、洗濯物ができた。洗濯物ができた、っていう?干してきた。今日は雨が降るんでしょ。乾燥してるから少しありがたい。まだ空に水色が見えるし鳥も元気に鳴いている。雨でも同じ景色は見えるし同じ音は聞こえるか。コーヒーは冷めてしまった。

3日連続「あれはなんだったんだろう」という題で書いた。一緒にいる間は気づかないふりをしていた不安や疑惑。実際の傷のことも書いた。あの日のあれ、あれはなんだったんだろう、といくつかの場面を切り取った。

どうにもならない気持ちをどうにかするために私たちはなんらかのアクションを起こす。

東浩紀はゲンロン友の会特典の手ぬぐいに「対話は時間こそが本質で、心を開くことは最大の贅沢」と書いている。本当にそうだと思う。「なのだけど」と東は続ける。時代のせいなのだろうか。それもあるだろう。

Netflixで「天気の子」やってる。いかん、また注意がそれてしまった。テレビで見るとすぐに注意が逸れてしまう。普段テレビは全く見ないのに。

「僕と彼女だけが知っている」そう。二人だけが知っている。「あの日みたことは全部夢だったんじゃないか。でも夢じゃないんだ」そう。夢じゃない。

だから「あれはなんだったんだろう」と問い続けることになる。夢だって「あの夢はなんだったんだろう」となるだろう。だって夢を見ているのは自分で結局自分の体験と切り離すことはできないのだから。

新聞や雑誌の相談欄をみてげんなりすることがある。「それはモラハラです」「それはセクハラです」というあなたはどなたと思う。こういう投稿欄はそういうものだとわかってはいる。相談してきた人に「寄り添う」ものだ。(「女が女の話を聞く」ことの意義と関連づけて考えている)

あれはなんだったんだろう。そう考え続けること、相手はもう実際の対話相手としてそこにはいない。それでもあのときの違和感、あのときの不安、あのときの恥じらい、あのときの喜び、あのときの悲しみに囚われている自分を否認しない。無理せずにさっぱりできるならいいが、無理してまでもう過ぎたこと、終わったことにしない。実際にあの人がいてもあんなにくっついていても言えなかったことばかりだったではないか。思えば思うほど言葉を使うのが下手になる。不自由になる。涙を堪えることが増える。怒りを溜め込みやすくなる。だから会わない時間こそ重要だった。あれはなんだったんだろう。ただただ大好きだっただけなのに。この年齢からの先なんてそんな長くない。一緒に乗り越えていけるかと思ってた。そんな勘違いもすでに笑えたとしても悲しい気持ちを忘れない。

あれがなんだったのか、答えがほしいわけではない。そんなものはないと知っている。お互いのことだ。外からはわからない。二人のことだ。それでも今の私には私からしか書けない、という以前に私は女が何かを書くときはまずは一方的に主観的に書く必要があると思っている。「ひどいことを言ってきたのはみんな女」とか女が男に相談しながら男との依存関係をうやむやに作っていくあの感じからはとりあえず距離をおきたい。私たちのすれ違いは単に個人的な事情によるものではない。最初からある構造上の問題。それを意識しながら別の誰かや誰かとの話と混ぜこぜにした嘘ほんと話に仕立てながらあなたに感じた「あれはなんだったんだろう」を考えては書く。対話は断たれた、としてもこれも対話なのだろう。あのときのあなたとの。あのときの私たちとの。むしろ逃れようのない。

精神分析は連日カウチで自由連想をおこなう技法だ。「自由」に連想などできないことを思い知りながら徐々に「あれはなんだったんだろう」と出来事を眺める心持ちになる。そこまでがひどく長い。私たちが「あれはなんだったんだろう」と思うとき「あれ」は結構昔のことだったりするように。

対象と距離をとって眺めるということの難しさは投影同一化といわれる現象に最もよく現れる。私たちはすぐに自分と相手との区別をうやむやにする。その上で自分は正しい、間違っていないと言いたがる。「そんなつもりはなかった」という言葉の空虚なこと。ただ裁くのは法の仕事だ。私たちの仕事ではない。

「いい悪いの話はしていない。」「正しい間違っているの話はしていない。」時折そう伝えながら、巻き込まれ区別を失っては取り戻すことを繰り返す。そうこうしているうちに「今こうしている私たちってなんなんだろう」となる。あのときもこのときもこうだった。これってあのときのあれと同じでは、とさらに別の「あのときのあれ」が出てくる。出来事は自分のものだけでもなくあの人とのものだけでもなくさらに別の誰かとのものになる。いくつもの場面が重なりパターンがみえてくる。

私の気持ち、私たちだけの秘密、そういえばあのときのあの人とも。あれはなんだったんだろう、ぼんやり時間をかけていくことが別の地平を開いていく。その体験を知っていれば耐えうることはたくさんある。死なない程度には、ということかもしれないけど。この辺の基準は人それぞれだと思うが精神分析であえていうとしたら「今よりはまし」というものだろう。こういう現実的なところに私は助けられているし、これだったら役に立つ人もいるだろうと思っている。強い思いこみや空想で何かに到達したり切り拓いたりしていける人もいると思うが地道に今の自分を確かめることで、というのも悪くない。よって私は今日も悶々とする。あれはなんだったんだろう、と沈みこみながら。今日のお天気もちょうどそんな感じかな。みんなはどうだろう。元気でいてくださいね。

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あれはなんだったんだろう

あれはなんだったんだろう3

あれはなんだったんだろう。なにもいっていないのに「しかたない」が語尾につくようになった。なんだかもうこの人にはなにをいっても同じような言葉にしか聞こえないんだなと思った。とても悲しかったしなんだか怖かった。それなのに身体だけは触るんだ。そんなこと何度も言わないだろう、ということをまた言われた。触った相手が誰かももう覚えていないみたい。あれはなんだったんだろう。もう死にたい。

そうつぶやいたらその人は「そんなつもりはなかった」といい、私に「そんなつもりはないというだろうけど」と黙らせながら責めるだろう。私は身体にも傷を負ったこともいえないまま謝罪するだろう。それにこんな小さな痣を傷とは言わない、あの人は。

先日「社会的な死」という言葉を聞いた。死はいろんなところに訪れる。社会的な評価が高い人が彼女にしたこと、裁きを受けてなお平然と取り巻きとと共に姿をみせること、社会的に死なない男性たちに女性たちが蝕まれていく様子を描写することは難しくない。それでも実際のそれはあまりに個別的で複雑でどこかに書かれることはない。そんな体験をもう長い間聞き続けている。途中、たくさんの本を読む時期があるかもしれない。知識が助けてくれる部分は確かにあるだろう。

優しくて怖いその人も知識人だった。戦うために読んでいたのかもしれない。曖昧な立場を利用して戦わずして勝つみたいなことを繰り返している人だった。加害と被害を反転させる伏線を引き続ける人だった。いつでもきれいに回収できるように周りに甘え甘やかすことを怠らなかった。そうやって必死に生きていることを満足させる形で褒めてあげなくてはいけなかったみたい。私はそのために生きているのではないのだけど。いろんなことは「しかたない」んだって。

私の体験でありあなたの体験でもあるこれらはどれもこれもしかたなくはない。あれはなんだったんだろうね、本当に。眠れずに問いつづける空虚さは耐えがたい。死にたい。それしか浮かんでこなくなる。その間にも社会的立場を利用したやり取りをあなたは目にしつづける。死にたい。それはそうでしょう。でも今日もなんとか目を開けよう。世界は残酷だけど見えるところから見ていこう。いつか「死にたい」が「あれはなんだったんだろう」になりなんらかの答えが私たちのこれからを助けてくれますように。

刺繍で作品を紡ぎつづける沖潤子さんの娘さんとのエピソードが素敵だったので写真載せておきます。Instagramに他の作品も載せようかな。よろしければ。

沖潤子

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あれはなんだったんだろう 精神分析

あれはなんだったんだろう2

あれはなんだったんだろう。どうして最初から身体に触れようとしてきたのだろう。気づかないふりをした。気のせいだと思うようにした。でも違った。なんの言葉もなかった。ただ触ってただ離れた。どうしていいかわからなかった。嫌ではなかった。あれはなんだったんだろう。戸惑った。どうにか処理しようとした。「嫌ではない」という感触に集中しようとした。普通に考えれば「嫌ではない」は嫌の反対を「好」とすると「好きでもない」のだ。吟味したほうがよさそうなものだがこの曖昧さに賭けてしまった。この場合「後悔」という言葉はどちらかというとこちら用の言葉だと思うが投げやりな謝罪と共に向こうから言われた。「あれはなんだったんだろう」と考え続けることになる状況がまた加わった。

外からは見えないとはいえ、恋や暴力や愛が混じり合ってしまうことはよくある、ということを皆さんご存知だろう。行為と概念の結びつきなんて、ということかもしれない。「最初は全然気づかなかった」「付き合ってるときはわからなかった」という言葉もよく聞くだろう。

精神分析を体験した人は実感できると思うが、反復強迫が転移状況において解釈されるうちに初期の傷の想起がもたらされることが多い。最初にあげたような状況も「そういえば」と全く気づいていなかったわけではなかったこととして語り直される。ただそのときに意識することは不可能だったことに変わりないし、従ってそれが自分にとってどういう結果をもたらしそうかという見通しを立てられるはずもない。だから深く傷つくことや「あれはなんだったんだろう」と苦悩することに変わりはない。マニュアル的に予防したり状況を上書きすることはできない。そんなに簡単ではないからもし想起と語り直しの精神分析を必要とするならばそれは時間がかかる。ただ、今のまま、そこにとどまらないでいるために、というポジティブな動機を持つ時間にはなるだろう。生きていかなければならないならそれは必要なことだし、精神分析はそこになら貢献できる。相手と距離をとったとしても法的な対処をしたとしても苦しみが終わるわけでない。そのプロセスにおいてさらなる傷つきを重ねることだって多い。相手がいなくなったとしても起きたことが消えるわけではないので同じことだ。それでも人はなんらかの対処をする。少しでも区切りをつけることでなんとか生きていくためだ。でもそれはひとりではとても難しい。

私に話したことも私にくれたもののことも忘れていた。

以前こんな例を挙げた。忘れてしまう人はいいね、とB’zの歌詞を少し変えて呟く。あれは「途中の人はいいね」だったか。一緒にいるときからそんなだったら離れてしまえばあっという間に、ということだってある。そんな姿を見るのもまたひどく理不尽で嫌な思いをするだろうが責めることも意地悪もいくらでもできるうえにエスカレートしやすいので安易な方へはいかない方がいい。

あれはなんだったんだろう。今日も似たようなことを別の相手と繰り返しているであろう彼らに聞いてもわからないだろう。ましてやすぐにあなたを自在に消去して別のものに置き換えることができる相手には。いまどきのカメラみたいだ。写真という文化も変わっていくのだろうね、というのはまた別の話。欲望や衝動はさまざまな形をとる。従って防衛も様々、ということ。

それにしても「後悔」か。乾いた笑いが生じそうになるがそうやってごまかすこともしないほうがいいのだろう。歴史と偶然性、どちらも大切にするから長く愛することができる、と思ってやってきた。これからもそうありたいと思う。その確認だけでいい。

それにしてもただでさえこの乾燥。辛い。セルフケアという言葉を聞くようになったがどうなんだろ。私は「セルフ」とつく言葉もあまり信じていないような気がする。精神分析でもその位置付けは論じる人ごとにいちいち細かい定義づけが必要になる。それはともかく今日もめんどくさいことはめんどくさいこととして無理せず取り組みましょう。

(急いでいたからテキトーに終わらせてしまったうえにupするのを忘れていた。すでに結構仕事した気がする。東京蚤の市にいきたい。いいお天気でよかったですね。)

石蕗の花(冬の季語)

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

あれはなんだったんだろう

早朝。こんな時間にこんなところにいる。ほとんど奇行だ。いや紀行だ。

朝から散財。はじめてホームの自販機でルマンドを買った。はじめてタッチパネル式の自販機で温かいペットボトルのルイボスティーも買った。一回乗り換えるルートではなく10分くらい長くかかるが乗り換えなしのルートのグリーン車で。

大丈夫。仕事にはまにあう。

嘘っぽいほんとの話とかほんとっぽい嘘とかをこうして書きつけて今日もなんとかやっていくんだ。

どうにもならない気持ちをどうにかするため、起きたこと、感じたこと、考えたことを最初から反芻している。

あの日のあのこと、あれはなんだったんだろう、ということをずっと。

そのためには移動が必要だった。生きながら蝕まれる。戻ってこられますように。

言語も身体感覚も会えない時間にこそ大切にされるべきものと思っていた。会えたときとの喜びはその想像力ゆえと。いないけどそばにいる、大丈夫、と思えた時間は短かった。難しいものだ。苦しくて眠れない日々にも慣れると思っていた。お互い無理をしたのだろう。

対話は難しかった。「対話」って言葉嘘っぽくて嫌いだけど。それはともかくこんな独特の受け身さに出会ったことはないと感じながら私も受け身でいた。慎重に自分の感触を確かめてもいた。すぐにそんな感覚狂ったけど。セクシュアリティから逃れられない人間の愚かさ。

今ならなぜその受身的な態度がその人にとって必要だったかわかる気がする。最初からもっとも謎だったこと。好きな人を観察するときの特殊な状態に流されないように。こういうところがおかしいのかも。歴史を知ればわかる気がしていたし今ならわかる気がする。私のことを相手はほとんど知らない。ある部分をのぞいてなにもきかれていないから。きかれたのはもっとも正直に答えられないことだった。だからかどうかわからないけど嘘をついた。全体を知ろうとしてほしかった。聞かずに想像してほしかった。そんなのは大抵無理だって知ってるけどそこを超えていかないと、といまさら熱い。いまさら。だからこんなとこにいるのだ。思い出そう。

話をきき、それについて話すのはなんだかひどく幸せだった。もっともっと聞きたいこともいいたいこともたくさんあった。でも大雑把でものわかりの悪いまま反応してしまう私はいい聞き役になれなかった。ため息も苛立ちも寂しかったけど圧をかけられるのも嫌だった。それでも一緒にいる間はまだ少し安心できた。

人は誰でも自分にちょうどよい刺激を与えてくれる人が好きなんだなと実感した。優先順位は変わっていく。私はそういうタイプではないけれど。ペットなら言葉使わないから一緒にいられたかもしれない。人だってどうにかなると思い込んでいたわけでもないけどどうにかしようとがんばるのが普通かと思っていた。間抜けだ。人は多くの場合変わらないって知ってたはずなのに。間抜けな私は対話すればどうにかなると思っていたけどそもそもそれをしてもらえないという事態が起こることを想定していなかった。楽観的だな馬鹿だな間抜けだなもういやだ。全部夢だけど。夢じゃないけど。ひどく眠い。

「抱っこしておとしゃん」と繰り返す声が聞こえる。「エレベーター乗り行くの」「工事みにいくの」両親が小さく笑う声が聞こえる。あの手この手でがんばる女の子。無力ではないね。素直に正直に手を伸ばすこと大事だね。たくさん抱っこしてもらえますように。みんな良い一日でありますように。

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写真

写真から

徒然に写真を撮るのが好きだ。あまりこだわらず適当にシャッターを切る。スマホだからシャッターを切るとは言わないか。

コミュニケーションを自分からたった人が外では自分からコミュニケーションしましょうと誘っている。コミュニケーション様式という言葉がよくわからないがしたい人としたいというのは普通かもしれないし常に次に開かれておきたいということかもしれない。そういう価値を自分に見出せる人は強い。断たれたほうはすでに言葉を使う気力を奪われ思考停止にさせられ知らないものと繋がるのが怖くなっているので体験する世界にはもっとずれが生じる。私はそういう人とたくさん会ってきているのでそのメカニズムには馴染みがある。累積的な傷つきから逃れるためにはまずは距離を取ることが大切だが、今の時代、これが本当に難しい。体験からもよくわかる。

家をなくした女性をさらに殴り殺すような人もいる。コミュニケーションなどしたこともない相手を。力ある人はますます強く、言葉足らずな人はますます孤独になっていく。そういう現実に対して実際に何かをしてくれるわけではないのだね、力ある人たちは、口では他人のことを「じゃあ何ができるんだ」とかいうわりに、とかいったら即座に返ってくる言葉もまた達者に部分をあげつらい追い詰める戦いの言葉ばかりで修復へと向かうはずもない。「こちらから言わせれば」と思ったとしても痛みを知っている人はそれ以上巻き込まれてはいけない。自分を傷つけそうな人たちの気持ちなど、という彼らにはみえない、あるいはみたくない人たちの方へ向き直さねば。彼らはいう。「人生何が起きるかわからない。そういうものだ。」と。それだって笑えないが笑うしかない。「自分で作り上げた王国から何か言われても」などといってはいけない。「王様は裸だ」といっていいのは子供だけだけど彼らのこころにそういう子供は住み着いていない。いくつになっても自分の成長が大事ともいえる。それでもこれからも彼らは口ではいいことをいうだろう。そしてまた味方を増やしていくだろう。お金にもなるだろう。そういう乖離に傷つけられてきたわけだがそれはそれ。この溝は埋まらないしコミュニケーションをたたれたらそんな機会もない。うまくできている。こういうのを戦いの言葉でいうならなんていう?彼らは反射的に答えるだろう。私は答えない。これは戦いだったっけ。昨日も書いたけどそこに戻る。

最近の写真展は写真撮影が許可されている場所が多いのだが、それって「写り込み」「多重性」についての考察を促すよね、ということを考えていたのだが笹塚のバス停でひとりの女性が殺された事件の写真に影響された。悲しいことがいつもよりずっと少しですむ今日でありますように。

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うそもほんとも。

長い年月をかけて絶対的に信じられるものを得た気がした。ずっとそばにいつづけることで。これだけは言わない、一方のせいにしないという誓いと共に。どうにでも見えるし結局わからないことだからといって忍耐強く関われればいいが実際には難しい。ただ、本当にどうにもならないことを誰のせいにもしようがない。むしろその事実が苦しくて何年にもわたって苦しみ、行き場のない怒りをぶつけることがあってもその切なさややるせなさを共有することで再び愛しあえた気がした。大抵のことは二人だけのことではない。たまたま出会った私たちがお互いを大切にすること、それが社会的にどんな関係であろうと憎しみや衝動は相手に引き起こされた自分のそれであり変わるべきは自分だ、そう認識することが歴史を捻じ曲げない術のように思えた。

そう思えば、罪人のように扱われるならそれはそうなのだろう。相手にも相手あることを思えばそれ以上言い募ることはできなかった。私たちは二人だけで生きているわけではない。愛情がいつのまにか戦いの言葉で語られるものに変容していたことに気づいてはいた。でも気づかないふりをした。私にはそうではなかったのだからそれに合わせる必要もないはずだった。でも否認を続けた。私が悪いというのならそうなのだろう。本来は一方的ではないはずの、十分なプロセスを経たうえでなされる死刑宣告のような言葉ももう受け入れざるをえない。一度されたら逃れようもない。そう思ってせめてひっそりとと身を隠すように暮らしている人は少なくない。戦うことが全てではない。私が悪いのだ、と思い続けることで保てる部分もある。

悪いのはあなただ。あなたを責めて数時間後には別の場所でわかりやすく「愛」を振り撒いている相手に死にたくなったとしても死なないことが大切だろう。声をあげるなら勝ちにいかねばならない。もしそう思うならなおさらそんな状態で戦うべきではないと私は思う。そもそもこれは戦いなのだろうか。常にそこに戻る。そうやってやり過ごす。時間が一番の薬、昔から語り継がれてそうな優しい言葉を信じて眠れない夜に目を閉じる。まずはそこからかもしれない。

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趣味

とりあえず

今回は投句しないことにした。いつもは「投句することに意義がある」と大慌てで作った10句を速達で送っていたけれど。

と書き出してみたけれど保育園にいかなければ。そこにいけばどうにかなる。「きちゃえば全然元気なんです」登校しぶりの子どもの状態か。私は学校にもいかずバイトばかりしていたし「きちゃえば元気」な子どもの状態はわかるようでわからない。

とりあえず動かねば。

(何時間たったかな)

とりあえず動くことに成功し、いってしまえば仕事きっちり(したと思う。子どもたちかわいい。先生方がんばっておられる。)、今日は昼間に時間をとりやすい月曜日ではないかと神保町へ。

目的は大学時代からの友人のやたみほさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展「アミエとキリエ」。場所は神保町の大きめの通りに面したブックハウスカフェ。子どもの本の専門店、ということでぐるっと見わたすだけでも楽しい気持ちになりました。小さなギャラリー的スペースもいちいち魅力的。今度じっくりめぐりたい。突然の訪問にも関わらずやたさんもちょうどカフェにいらして近況報告。この前、時間があいたときに「今ならいける!」といつもと違う電車に乗ったはいいが神谷町と間違っており結局いけなかった。でもそのときはやたさんもこられない日だったからラッキー。同じくやた作品ファンの店長さんもいらしてお話できました。イロキリエ作家、松本奈緒美さんの作品(特に鳥!)もとても素敵でみんな連れて帰りたいと思ったのですがすでに売約済の赤いシールが。でも私もお気に入りの鳥さんと出会えました。展示の期間が終わったらお引き取りするの。楽しみです。大きな本屋さんのとても小さなスペースに手作りのぬくもりというか、超絶不器用の私には信じがたい技術と労力があふれていてほんとすごいと改めて思いました。超絶器用といえばやたさん、松本さんはもちろん、山本貴光さんや國分功一郎さんが紹介している『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)を思い出しますね。最近読み始めました。久しぶりに漫画を読むのと老眼が進んでいて読みづらいなと思っていたのですが、とても面白い。山本さんは『世界を変えた書物』(著:山本貴光 編:橋本麻里)の紀伊國屋書店新宿本店限定特典のリーフレットのなかで「もしもその科学の知識や技術がなかったら・・・・・・」というところでこの漫画に触れておられます。このリーフレット自体もとてもおすすめ。「思いやりってなに?」という方にもぜひ手に入れていただきたい。山本さんの文章自体にそれを感じられると思う。國分さんの最近のお仕事『スピノザ 読む人の肖像』『國分功一郎の哲学研究室』にも丁寧に地道に長く関わっていくことの価値を教えてもらっているしみなさんに感謝。「とりあえず」の毎日でもなんとかね、と思えますように。この後もがんばりましょう。

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日曜日

薬を飲み忘れた、とPCの隣においたプーさんの陶器の入れ物(なんのお菓子が入っていたんだっけな)をみてきづいた。昨日PCに向かわなかったせいだろう。飲み忘れないようにそこに置いてあるのにそこに行かなければ忘れるよねえ(忘れるのか?)。何もやりたくないときは多分やらなくていい、むしろやらないほうがいいときなんだ、と必要な連絡が直前になってしまった。みなさん、OKしてくれたけど。すいません・・。教え子が無事に出産したという連絡もくれた。本当におめでとう。

この前、赤ちゃんのときからよく知っている子どもに「将来の夢」を当てさせられた。大体わかるので3回目くらいで当たった。が「えー、まだそれ系の夢なのか!」と驚きもした。「もうひとつある」という。それも大体わかるので1回目から「惜しい!」と言われた。が正解に辿り着くまでには少し時間がかかった。近接領域が多い。聞けば「あー、確かにずっと描いてたものね」と納得だったが。とにかく表現する仕事につきたいらしい。

健やかで羨ましい。どんな夢でも叶えばいいな。これからまだまだ生きていかねばならないはずのこの子たちの未来がせめて安全でありますように、と願わねばならないような社会は本当によくない。私なんかはどんな辛かろうが苦しかろうがもう残された年月のことを考える年齢だからいいけど。

ランチもいいけど散歩がしたいというのでなんでもいい私はついていった。ただただ受け身でいることである局面をやり過ごすのも悪くない。読書するエネルギーはないけど映画なら座ってるだけ植物園なら歩くだけで驚いたりできる。でも投句締切が重なっている。どうしよう。まあ無理せずできる範囲でやる以外ないよね。できないものはできない。

私にとっては特別だった時間、私にとっては当たり前に生じる気持ち、なんでもかんでも「私にとっては」は独りよがりかな。色々あるのは当たり前。だから時間をかける。たくさん話す。失敗もいっぱいするけどいっぱい大切にする。それがたとえ私にとっては耐え難いとしても耐えうるものだからそうしてきた。この仕事はその最たるものだと思う。双方にとって。独りよがりかな。

日曜に仕事を入れることについてイギリスの精神分析家に指摘されたことを思い出した。色々考えさせらるねえ、といってまた同じ生活を続けてしまうのかしら。

今日は雨降るのかな。東京の周りの県はみんな雨マークと聞いたけどそうなの?一応靴だけ雨用にしていこうかな。乾燥してるから少しは降ってくれたほうがいいのかも。あったかくして過ごしましょうね。良い日曜日を。

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居酒屋。映画『冬の旅』。

「はい、南蛮」カウンター越しにあまりに自然に渡されたのでつい受け取ってしまった。「南蛮、ここじゃないと思う」というと「すいませーん」とホール係の女性がすぐに受け取りにきてくれた。耳が遠くなったなと感じていた。彼は間違いを正す方だった。常連客との雑談が増え目つきの鋭さがなくなってきたように感じていた。心配なんだ。安くておいしくて通い続けてる。コロナの間はテイクアウト用のおばんざいセットを出していた。これも店で楽しめる以上に多彩なおばんざいばかりで真似して作るのも楽しかった。ビニール袋には入らない大きな正方形の箱を平に持たなければならないので風呂敷に包んでくれていた。店が再開してから再び通うようになった。大体決まった曜日に行くがいつもいつも会う人は特にいない。でも大体の常連には会っていると思う。何度も目だけ合わせて話したことのない人も若い頃から通っているらしきお酒大好きな人もみんなひとり。「ありがとうございました」包丁を握りながらクリッとしたつぶらな瞳でしっかりこちらをみて送り出してくれた。長生きしてくださいね。店長の息子たちもそれぞれに店を出して味を受け継ぐ人はいるし彼らの店も大好きだけど私はこの小さな居酒屋が一番好き。まだまだお願いいたします。

今日は七十二候でいう「地始凍(ちはじめてこおる)」。小春日和に安心しつつ少しずつ大地も冬支度。

凍てつく大地で若い女性が死んだ。とてもかわいい寝顔と同じ死顔で。

アニエス・ヴァルダ「冬の旅」の話。楽がしたい、自由に生きたい、それが何を意味するかなんてどうでもいいのだろう。他人がそれをなんと言おうとそれが求めうるものである限り彼女は歩き続ける。ヒッチハイクで移動しては薄っぺらいテントで眠る。大きなリュックと臭気に塗れながら。汚い女と言われながらも出会う人たちを魅了し水や食糧、仕事と居場所をえる彼女の求め方は最低限のそれで相手のケアや憧れを引き出すのはすでに大人になった彼らが失ったあるいは得られなかったものを彼女に見出すかららしい。一方、彼女の在り方そのものが喪失の結果のようにも見え、これ以上の喪失を拒むもののように感じられた。それゆえ彼女は繋がりとどまることに対して受け身でしかいられない。彼女が追い出される場面で放った言葉がまさに今の私が使いたかった言葉で心に残ったのだが記憶に残っていない。まさにそう言ってやりたい、そんな言葉だったが言う機会も同時に失っているので思い出す必要もない。彼女の怒りが突発的に表現される場面には少し安心した。彼女の名前のイニシャルが貼り付けられた肩掛けバッグのスクールガールっぽさがその年齢の危うさに対するこちらの親心を掻き立てたのかもしれない。私もまたすでに失っている側のひとりで彼女のような頑固さや意地や必ず再び歩き出す力は持っていない。彼女に対する無力は今は世界に対するそれのような気もするが、凍てつく大地で寒くて眠れずママと口にする、もしくは倒れたまま死んでいくような厳しい環境にもない。

もう行かねば。放浪ではない日常をなんとか今日も。

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めんどう

SNSをみてると「めんどくさい」と思うことが多いけど直接人と会っているときにはあまり思わないな、と思ったけど思いますね、強烈に。あまりに別物で忘れてた。

今その違いについて頭の中では吟味してるけど書き言葉にするのめんどくさいから書かない。この場合のめんどくささはたいしたことないけどすでに燃料切れ。

眠れないから夏物でもたたむかとだしてみたけど結局積まれている。だしてしまったからにはいずれやらねばだけどまあいいか。まあいいか、と思えることはめんどくさくない。

映画に行く予定なんだけどその映画館久しぶり。大抵の映画館は久しぶりだけど。最後の回を見てアフタートークをきいて深夜にそこをでた。駅まで少し遠いけど余韻が心地よかった。冬だったかな。夏の身軽な服装ではなかった気がする。今回は昼間だからインスタで見かけたお店でランチしたい。

そのためには何があろうと着々とやるべきことをせねば。こういうときこそ少し前だったらめんどくさいと思ったような気がする。今はただ粛粛と、と思う。

好きな人と会うときみたいなかんじ。一日の仕事を終えて疲れ切っていても実際会えればそんなことは忘れてしまう。ずっと聞いていたいし会話がしたい、ってなる。好きの力は強い、という話をそういえばしたばかり。反転すれば苦しくて眠れない日々のもとにもなるけどむしろそれがめんどくさくなってきたらいい感じかも?時間がかかりそうだけど。

静かに自分の感触を追う。押し付けられても奪われかけても抵抗はあと。じっとじっと。言い聞かせるように。こういうのはたまにめんどくさいけどあとからめんどくさいことになるよりはまし。そう言い聞かせる。

簡単ではない。本来的に生きるのってめんどくさい、とは思わないけど。あくびがでた。少し休もう。

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日々と

小田急線鶴川駅そばのビルのエレベーターホールから駅の向こう側をみやると輝くように紅葉する木に気づく。ほかの木々も紅葉しているはずなのだがこの一本は魔法をかけたように輝く。私がエレベーターに乗る夕暮れどきは特に。だから私も気づけたのだろう。このビルに通い始めてから10年以上経つがいつ頃気づいたのかはわからない。鶴川は駅を出てすぐに坂道になる。つまり山なので川沿いと山道をよく散歩した。当時は週二日通っていたからお昼を買って散歩に出かけ気持ちのいい場所を探して食べた。川沿いには桜も見事で、そこを通学路とする大学生たちの変化も季節の変化と連動していて楽しかった。坂を登っているうちにいつの間にか人の家の敷地に入っていて呼び止められたこともあった。あの辺は境界が曖昧だ。白洲次郎と白洲正子が移り住んだ「武相荘」も最寄りは鶴川駅になる。正子さんの器とか持ち物が素晴らしかった記憶がある。また行きたい。本を何冊か持っていたはずだが私のではなく母のだったかもしれない。

身体が動くなってしまわないようにどうにかこうにか立ち上がる毎日。ここまで生きていればそれぞれの工夫があるだろう。こういうときそこそこダメでよかったと思う。勉強は平均的だと思うが私は「バカじゃないの?」「あたまおかしい」と本気で呆れられてしまうことをしでかすことが多い。言い方はどうかと思うけどそういいたくなるくらいなことをしでかすのだ。自分でもどうかしてると思う。私なりには理由があるのだけどそれも「なんでそうなるの」ということなので説明しない方が無難。でもこれが心身を救ってもいる。考えれば考えるほど起き上がれなくなる、立ち上がれなくなる。根っこが音を立てて生え始めそうになるのを感じる。まずいまずいまずいと気持ちばかり焦って身体に力が入らなくなっていく。そんなときに「わたしごときが」という開き直りがやってくる。わたしごときが考えたところでこれを脱することはできない。考えるな、感じろ、ではなく、考えるな、ひたすら無心にいつものことだけしろ、である。動けない自分のことなど忘れる。私は今日も起きた。私は今日も仕事にいく。ただそれだけ。ロボットになる。それが成功して無事に一日を終えてこんな時間を迎える頃には朝とは違ってこんなことまでできてしまう。これがもうちょっと賢かったらできなかったかもしれない。考えが緻密になってしまったら変なネットワークができちゃってでも大抵そういうときのそれってエッシャーの絵か出口塞がれた巨大迷路みたいないものなので考えることはできるのに出口塞がれてることとかシンプルな可能性に気づけなかったりするのでは?緻密じゃないからわからないけれど。まあともかくいつも抜け道探してたりサボり方考えてたり「あたまおかしい」とたまに言われてたりするくらいでも大丈夫なのだ。むしろだからこそ生きていける今日だってあるのだ。とか書いているが何かが変わったわけではない。明日も明後日もずっと先もこうなるかもしれない。が、それだっていろいろあるのは当たり前のこと。考えない。考えられるときに考える。みんなの今日はどうだったかな。魔法なんてないけど魔法みたいな景色と出会えた人もいるかしら。ほんと嫌になっちゃうことも多いけどよく眠れるといいですね。また明日。また明後日。なんとか出会っていきましょうね、日々と。

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うそもほんとも。

作り話の先へ

「彼女が言ってることが本当なら」

なんだその前置き。「あなたのいうことが本当なら」と何食わぬ顔で返したら空気が変わった。そのまま続けた。

これは作り話なんだけど、あ、これは本当。え?ああ、本当なのはこれが作り話ってこと。

噛み合わない。もう苛立ってる。チイサーイと心の中で小さく呟く。今夜もSNSで重いだの見切ってやるだの軽薄な調子で呟かれるのを目にするのね。あーだるい。ミュートしとこう。

さて、そろそろ始まる投げやりな雑談。

そのツイート知ってます。その人のこと教えたの私ですから。全然興味なかったの忘れてるね、きっと。曜日決めて食事いかないとどの子とどこ行ったかこんがらがっちゃうくらいだし。私も写真あげておけばよかった。

あなたの友達が心配して連絡くれたんだよ。だから私も心配になっていったのに逆ギレ。この前のあれはすごかった。怖がらせれば黙るよね、人は、ふつう。こういうことももう口に出せないもの。

え?今日もするの?投げやりな雑談に一生懸命つきあったのに。まあいいけど、こんな日もあるから。本当はこれがいちばんやむ原因だけど。わからないよね、そんなこと。いってないもの。

今夜も延々とありがちな作り話。こんなのはパターンになってほしくないがパターンとしていくらでも書ける。小説を書ける人はこれに背景も奥行きも加えて本当の話にできる。いいな。そしたらエンディングも変えられるかな。ありきたりなやりとりに私たちを持ち込みたいな。別の世界にいきたいの。とかいってるうちはだめですよね。やるならまじめにやれ、ときっといわれてしまう。でも私は小説家になれない。だから話を聞きましょう。話されるままに。それがお仕事。書ける人たちを尊敬してる。応援してる。どうぞよろしく。私たちを助けて、こんな作り話から。協力できますように。

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うそもほんとも。

昨晩の分

ネットに強い知り合いが思い通りの展開に喜んでいた。やってること相当ダメだと思うのだけどこういう快楽もあるのかと興味深かった。でも普通にそういうの怖いからやめてと伝えた。だって傷ついてるのにさらに嫌なことされてゲーム的な扱い受けてるんだよ。それは真剣に抵抗すべきでしょ。そこまでされてるのに軽口叩いているみたいで痛々しい。実際ひとりになるとほとんど発狂しそうになるって言ってたではないか。今までのことがあるからそんな簡単に手放せないのはわかるけど。そんな相手を選ばなければ、ということに尽きるけどもう取り消せない。だからといって思春期的なやり方で自分を正当化しつつ欲望だけ叶えたいみたいな心性に振り回されるのはおかしいと伝えた。あなたがそういうことを平気で言える相手でよかった。むかつくんだって。すごくわかるよ。本当に正当に裁かれるといいね。もう少し時間をかけよう。あなたのやり方は効果はあるけどあなた自身も傷つけるからやめとこうね。

いろんなことをネタにして小説にするっていうのはいいと思う。私はできないけどその人はすでに書いているから余裕でしょう。

いいなあ。私はひたすら悶々と苦しんでそれがどうなっていくのか自分で観察していくだけだな。小説にするというのはまた別の作業だものね、わからないけど。まあ、淡々と生きるために普通に寝よう、

と思って寝たばかりだけどもう起きねばな時間になった。昨日も公開しわすれた。あとでまた書くかな。その前に資料作ろう。そういうわけで何も進んでいないの。みんなは元気ですか。そうでもないかな。この前ね、と書きたくなってしまったけど資料資料。とりあえずまたね。

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精神分析、本

ぼんやり。ハンナ先生の講義関連も少し。

道路が雨に濡れている気がした。音で。南側の大きな窓から空をみようと思ったのにお湯を沸かして戻ってきてしまった。こういうことはすぐに忘れてしまうのだから耐え難いやりとりも早く忘れてほしい。iphoneで天気をみた。☀️マーク。お湯沸いたかな。コーヒー。今朝はお菓子が豊富にあるけどどうしようかな。ここ数日果物を切らしてしまっている。何がほしかったのか帰ってきてから気づくのだ。ぼんやりしすぎている。悲しい。

あーメモ帳をばら撒いてしまった。どうせ見返さないのだから捨てておけばよかった。拾うときに見返すか。そのために落ちたのか。

先日、英国精神分析協会 Fellow、Brent Centre for young peopleのMs. Hannah Solemani先生のレクチャーを受けた。ハイブリッドで現地参加は二人だけだったので直接お話できた。Brentセンターは個人がチャリティーによって立ち上げたのに今は政府の助成金も受けながら無料で子どもの心理療法を行ったり、セラピストを学校に派遣したりしているらしい。ロンドン北西部という比較的貧しい地域の子どもたちのために立ち上げたといっていた気がする。どうやってそういう良い循環を作り出しのだろう。

Hannah先生は素敵な人でhusbandといらしていた。海外からこられる先生はパートナーが同席していることが多い。専門が異なるのにじっと話を聞いている。今回はBrent Centreについての補足をHannah先生にそっとメモで渡しgood pointというようなことを言われていた。とても静かでスマートな佇まいだった。

以前、同性愛者の精神分析についてどこの国からか忘れてしまったが分析家の先生がいらしたときにその原稿の翻訳を担当したことがあった。論文を読んでいるときには特に何も思わなかったが当日先生がパートナーである同性の方と親密そうに話しているのをみて論文の重みは増した。精神分析は性、つまりカップルについて考えることなので当然か。

内容は思春期の精神分析についてだった。久しぶりにこの領域の知見に触れた気がした。私も思春期の患者と長く仕事をしているが改めて学ぶとこの時期の特殊さに驚かされる。投影同一化のバリエーションについて意見した。忘れずに考え続けられたらいいと思う。

と書いてみたが頭がひどくぼんやりしている。そういえばさっき洗濯が終わった音楽が聞こえたかもしれない。今日もみたくないものをみては差し込まれるような痛みにじっと耐えながら過ごすのだろう。もちろんそんなことばかりでもないだろう。

みなさんもどうぞご無事で。昨日は立冬でしたよ。暖かくしてお過ごしくださいね。

ちなみにハンナ先生おすすめの本はこちら。

Inside Lives 

Psychoanalysis and the Growth of the Personality

By Margot Waddell

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うそもほんとも。

作り話

全部作り話なんだけど、と本当に作り話をした。そのつもりが全部本当のことと受け取られていた。自分でもそんな気がしてきた。「それ言ったのあなたじゃないですよ。」と会話を再現してくれた。会話分析っていうの?そういうのもしてくれた。「受け手はここで意図的にずらしているか混乱してずれているんです。」でももうそんなのはどうでもよかった。言ったのは絶対私なんだ。そのつもりがなくてもその人がそういうのだからそうなんだ。

こういう余計なことしたがるのは絶対あいつだろうと確かめたらやっぱりそうで驚いた。ほんとにいつも期待を裏切らない。ほんとにほんとに人の気持ちはわからないのに期待に応える力は抜群。身体さえ丈夫なら(これまで怪我や病気はしたことがないそう)このままうまくやっていける。定点観測の場合。それでいい。こっちの人たちにとってはひどくうんざりで鬱々させられるけどそういうのは確かにありだ。大ありだ。もう若くもない。賢い人が賢く生きることにこちらが耐えねばならない。変わるべきはこちらだ。

これはあれだな、カーリングの戦い方だ。と一瞬思ったけどカーリングのことよくわかっていなかった。一石を投じる。勝敗の行方を大きく左右する一石を。というか私は戦ってなどいなかった。勝手に戦闘体勢になって巻き込むのやめてほしい。私が馬鹿で私がとんでもない意地悪で私の言葉はいつもおかしくてあなたを怒らせて当然なのでしょう。最初から愛情と勘違いしてどうにかこうにか一緒に、と願ったところから間違っていたのでしょう。

こちらがどんなに苦しかろうと眠れなかろうと涙が枯れてしまおうとその人には関係ない。責任を取るようなポジションにもいない。育てている人もいない。関わる側にとってもいいとこどりをしやすい。傷つきは相手におまかせして上手に賢く生きている。そんな人でも(だから?)親密な関係を築くことは難しい、ということを人間関係に苦しむ人たちは知ってもいいかもしれない。あなたのように切実に個人との関係を求めなくてもそっちより世界といって活躍できる人たちもいることを。この場合、世界から都合の悪い個人は引き算されているかもしれないけど。そうなりたいんですか?なりたくないです。というやりとりになるかもしれないけど。あり方は自由。関わればいろんなことが起きるだけ。元気が出たり死にたくなったりいろんな風になってしまうだけ。

全部作り話。出来事はそのための道具。そんなことを思いながら時々泣くような夜。(公開し忘れたので朝)。

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うそもほんとも。

通じた。美味しかった

靖国通りから新宿御苑に続く真っ直ぐな道には私が普段接しない文化のお店があり興味深くそっと覗き見しながら歩いた。赤い実をつけたハナミズキが紅葉していた。「児童館のそばのあの道も今きれいだよ」と教えてくれた。長らく通っていない。そうなんだ。すでに紅葉のピークを体験してしまったので新宿御苑の緑がまだ濃く見えた。

下北沢でよく行っていたビルが取り壊された。開発が進む下北沢から親しんでいた店がどんどん消えていく、かといえばそうでもなくたまたまだが私が通っていた店はそこそこ残っている。ただそのビルに入っていた店はビルごとなくなった。トイレもビルの共用のような古い店だったが若い頃に友人が連れていってくれて以来私もいろんな人と一緒に行った。その店が新宿にあった。チェーン店だから別の街にもあるのは知っていた。

「あの真っ直ぐに続く道なら何かあるかな」と大体真っ直ぐな道ばかりの土地で言っても柔らかく受け取ってもらえた。親密な関係ならそれが普通だと思う。通じないことも通じることも一緒に繰り返しながら通じる通じないではなく相手のあり方を受け入れていく。拒否的で高圧的に正確さを求められびくつき頭痛と不眠が続いていた日々がもっともっと遠くにいけばいいね。たくさんの味方や他人の呟きを上手に使って小さな意地悪を続けてしまうその人も身近で本当に想ってくれる誰かにキャパ捌けるようになったらいいね。

とても好きで大切にしたくてもでも自分を失うのも嫌で一生懸命話を聞き観察してきただけなのにそうやってわかられることが自分の悪いところ暴かれてるみたいで嫌だったんだって。自分のほしいものだけほしかったんだって。あなたも大変な時期だったからどこかで気づいていたのに誤魔化しちゃったって言ってたでしょ。でもそれはその人があなたの時間や歴史を大切にしなかった理由にはならない。反省すべきはあなただっていまだに言いたいみたいだけどもう放っておこう。そういう形で利用されるのはやめよう。向こうだって言いたいことがあるなら普通に言ってくればいいだけ。私たちよりはるかに上手に言語化できるはずなんだから。なんか私たちっていつも同じ失敗してる気もするね。でも若い頃に比べたら上手になったんじゃないかな。今度こそ自分の時間と労力を差し出す相手や場所を間違えたくないよね。またやるかもだけどさ。大丈夫、みんなわかってるから。そうなったらまたすぐ集まろう。みんな失敗もしてるけどその分本当にまずいときの対応しってるじゃん。餅は餅屋でどこいくべきかもわかってるじゃん。たしかに。口には出さないが多分同じ修羅場を思い浮かべて笑った。

暑くなってきた。母からもらったばかりの上着を脱いだ。同じくらいの背丈の女子高生が手を繋いで通り過ぎた。この前、母が地元にいる私の高校時代の同級生としたという話を思い出した。彼女にも色々あった。私たちなんとか生きてきたね。大通りを渡ってしまえば人通りはほとんどなくなる。「この道の向こうのドイツ料理いったよね」「あーいったいった!」25年前のことが通じた。久しぶりに行ったその店も美味しかった。

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うそもほんとも。

東京は晴れ。

鳥が賑やか。さっき空のうすーい水色とピンクがきれいで写真を撮ろうと携帯電話を探しに戻ったつもりが別のことをして忘れたことに今気づいた。そんなことばかりだけど今日も起きられた。

茶色くて重そうな押して入るドアに見えたのに前に立ったらスーッと横に開いて自動ドアなのかとびっくりした。デザインとあわないー。電車が遅れてしまったので友人はすでに席で待っていた。私にはちょうどいいカフェラテを出してくれるお店だった。二人で話すのははじめてだった。いろんな話をした。「あれでよかったのか」。悩んで苦しんでその後に生じるであろう様々な可能性を考え抜いて出した答えの不確かなこと。論理的に考えてそれはそうすべきだった。でも私たちの立場は弱い。圧倒的に公に対して力を持つ人に捲し立てるように言われれば自分の言葉は呑み込まざるを得ない。あとは離れること。選択肢はそれしかなくなる。離れ方すら気をつけねばならない。こういう状況には絶望しかないがそれでもやっていくしかない。

どうにかして暴露したくなるときほど逆にもう関わらないという選択をしたほうがいい場合もある。当然戦わねばならない場合もあるけど。

その人がどんなに信頼を集めていたとしても「実はいい人」であったとしてもそんなのはあなたが傷ついたことをなかったことにする理由にならない。

だってその人が何かあったら晒せばいいって言ってた。それはまさか自分がそうされるとは思っていないからでしょう。「晒す」という言葉自体とても暴力的だと私は思うし、そういう言葉を平気で使う人なんだな、関わらない方がいいな、と思った方がいいんじゃないかな。外に出せば出すほど傷つくのはあなたかもしれないよ。あなたの体験が別のものにされちゃうかもしれないよ。少しずつ自分の感覚を信じられるように吟味していこうよ。

でもそれができないほどに私たちは愚かなんだ。本当に。辛い。

私の周りにはそんな人いない。いや、まさにあなたのそばのその人に私は、という言葉を呑み込む。

「私の周りにはそんな人いない」というのは「私の周りにもいると思うけど私はそういうことをされていない」ということでしかないのは暗黙の了解だろう。日常生活で「もしかしたらここにも傷ついている人が」と過度に気にしてたらコミュニケーションは難しくなる。個別の人間関係が外から見えるものといかに異なるかなんて私たちは小さなときから知っている。自分のことも、最近なんとなく信用できない好きな人のことも棚あげてしてなんとなくもやもやしながら過ごしているのが普通だろう。本当のことを知るのは怖いことだ。

この前、長い期間妻がいることを隠して不倫関係を続けていた人気者の話があった。女性の身体とか時間とかのことを考えられる人だったらそもそもこういうことにはならなかったかもしれないし、どっかでわかっていても知るのが怖くて自分を大切にする方向を見失ったのかもしれない。どこでどういう選択をしたからこうなったのか、ということを辿ることはもう不可能かもしれないし、辿れたとしても記憶自体曖昧だろうし、起きてしまったことに対する無力感に死にたくなっているかもしれないし、本人たちがどんな気持ちかはまるでわからない。でもその人反省してるって。ニュースに出てた。後悔してるって言わなかっただけいいのかもしれない。

何回も聞いた話だけどその度に一緒に考えた。結論は同じでも反応の仕方が違う気がした。それだけで嬉しかった。私といてもいつも、あの人はこう言っていた、なんとかさんはこんな風に言ってくれた、といつも別の人が心に住み着いているようだった。私にくれたもの、一緒に行った場所のことは忘れられてた。それでも一緒にいられる時間があれば嬉しかった。幸せだった。私に話しているようにみえるのにいつもひとりごとのように聞こえた。相手は私である必要はないんだなと感じた。実際、別の場所でも同じことを言っていた。それでも一緒にいられれば嬉しかった。幸せだった。

この愚かさたるや。

どうしましょうね、こんな私たち。今日も苦しくて時々過呼吸になりながらやっていく方もおられるでしょう。とてもとても辛いけどさっきからまた少し時間が過ぎました。多分ずっとこのままということはない。

東京は晴れています。良い日曜日になりますように。

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11月5日朝

できるだけ長く布団の中にいるようにしている。今日は冬眠していなくても大丈夫そうな気温っぽいけどできるだけのんびりと。起きてしまうとろくなことを考えないから。また生きたまま今日がきてしまったと泣き始める人もいるでしょう。そんな簡単じゃないよね。

レベッカ・ソルニットの『私のいない部屋』を久しぶりにパラパラしていた。「いつか追い出されてしまうのではないか」私たちが持ち続ける不安のひとつだと思う。「居場所」という言葉と関連づけられることも多いだろう。私はここにいていいのだろうか。受け入れてもらえるのだろうか。不安はそこにいるための努力を引き起こす。我慢や無理、それらに耐えられなくなっての行動化などなど。努力など、と私は思う。本当はそんなことしなくてもいいのに。色々ありながらやっていくのが普通なんだから。でも現実は違う。

友人が冬支度のような素敵なケーキを送ってくれた。アップルパイとチーズケーキ。彼女は井の頭線沿いに小さなお店を構えていた。とても素敵なお店で素材もお皿も自分で契約した生産者や作り手たちとこだわり抜く派手さのないこじんまりと居心地のよい店だった。順調にやっていけるかと思っていたがそのうちに特定の男性が現れるようになったという。私はなぜかその時期の彼女に会っておらず県外に移転し再び頒布形式でケーキを売るようになったあとに聞いた。彼女からではなかったかもしれない。ほぼ密室になる狭さの店は居心地のよい空間ではなくなってしまったらしかった。彼女は店を閉じた。

あれからもう20年以上経つ。彼女から年に3、4回届く小さな箱を開けると丁寧に梱包されたケーキの上にほぼ正方形の小さな便箋2枚、時には3枚が置かれている。そこにはいつもケーキのことと一緒に近況が綴られている。今回もそうだった。彼女が住む土地では森の葉っぱが黄色く輝いているそうだ。でもそろそろそれも終わりとのこと。水のきれいな山里に移住したあとの彼女にも色々あった。もちろんとても素敵なことも。色々ある。生活ってそういうもの、と割り切ることは難しいけど長く続けていればなにかしら変化は起きる。今日は彼女に素敵なことが起きますように。もちろんみんなにも。良い一日を。

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唖然としたとしても

ギターがキュイーンっていってそんなパンチはないけど激しく歌うバンドの曲を流しっぱなしにしている。ずっとハードロックに浸っていた日々はいつからか遠くへいってしまった。こうやって聞く分にはどこかしら熱くなりそうな気もするが熱いのはコーヒーのせい。

耐え難く理不尽と感じるのは親密な関係においてだけ(社会の理不尽はデフォルト)というより仕事では「親密さ」そのものが学会のテーマになるくらいその定義は曖昧なのでここでは家族とか恋人とか相手の人生のことも考えながら継続的に築いていく関係くらいな感じで書く。あれ?こう書いてみると理不尽だと思ったけどそもそも親密な関係ではなかったということ?とか思ったり。自分の定義づけによってなにかに気づくのはそこに内的な対話がない場合独りよがり。そう思いたいからでしょう、となる。でも一応私は精神分析のおかげで常に対話状況にあると思うのでそう思いたい自分に気づくことくらいはできていると思う。え?そもそも親密な関係ではなかったってこと?となるとさらに深部を突き刺された感じになる。もうこれ以上えぐれる厚みも残っていないくらいなのにさらに。皮膚みたいな表層はまだその奥を想定できるから希望があるか、と一瞬思ったけど、表面でバチバチ跳ね返していたら結局コミュニケーションにはならないからそもそも心が揺れ動くような関係を持ちにくいかな。内側に入れたくないわけだから。それだったらさっきみたいに「あれ?」とか「え?」とかならないでしょう。そういうのってまさかコミュニケーションの成り立つような親密さが成立していなかったなんて、という唖然さだと思うから。絶望的な気持ちで消えてしまいたくなったとしてもいずれムクっと起きあがろう。私たちは生活しなくてはならない、ならないというわけではないけれどあなたが生きてきた歴史を大切にしてくれる人がたまたまその人ではなかっただけだからそんなたまたまのために何か捨ててしまうのはやめよう。向こうは何事もなかったかのように動けているのに自分だけこうして動けないまま過ぎていく時間が本当に辛くて悔しくてやりきれないと思うかもしれないけど時間はなんにしても有限なので起き上がれるまでのどん底にどうにか耐えたいね。ポカンとしたり号泣してはシーンとしたり、自分の状態をじっと観察したりしながら。

土居健郎のいう「甘え」って大事なんだなと改めて思う。欠損を外から補うことは不可能。どんなに本を読んでもどんなに講義を聞いてもそんなもので埋めれば埋めるほど自分の傷つきにも相手の傷つきにも鈍感で頑丈な自分ができるだけかもしれない。そんな風になってはいけないような気がする、私は。

今日はどんな自分でいられるでしょうね。コントロールはできないとしてもこれまでと大きく変わることもないはずなので無理せずなんとか過ごしましょう。

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メモのようなというかメモ

場がどこであれ性に関することで悩む女性の言葉が軽く扱われたり利用されたり消費されたりしないためにはどうしたらいいのだろうと考えていた。発信するのは自由だから。身内でもなんでもない立場でもできる見守りはあると思っているけれども。

など呟いたりしつつ家事をしつつ仕事を後回しにしていた。今からやらざるを得ない。それにしても構造上の問題ってどうしていけばいいのだろう。個人に対してもどうにもできないことが多いのに。

うん。引き続きいろんな人と具体的なことを話しながら考えていこう。ここからはとりあえず積み上がったものを戻さないと作業ができないのでそれに関するメモ。あとから消したりつけたしたりするかも。今のところここが毎日くるスペースになっているのでここなら忘れないかなと思って。

まず國分功一郎『スピノザ ー読む人の肖像』(岩波新書)はきちんと読むのはあと。國分さんが始めた新しいプラットフォーム<國分功一郎の哲学研究室>には登録済み。「哲学の映像」と「映像の哲学」を定期配信。最初の配信は新刊とも連動して<読む>ことについて柄谷行人『マルクスその可能性の中心』の解説第一回。國分さんは言行一致の人だと思っているので信頼してお金をかけられる。

ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』も途中だけど精神科医である訳者の《訳者ノート》が本当に優れた導入になっている。「反ユダヤ主義」という短い論考(154頁から)は憎悪のルーツが端的に語られていて印象的。サリヴァンは一貫していてすごいなと思う。

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)も昨年末に出たばかりの本だ。私は古田徹也さんの本のファンだけど帯に書かれた一見わかりやすいテーマがもつ複雑さがどんどん提示されるので正直読むのは大変。普段自分が適当に言葉を使っているからかもしれないけど相手の言葉を大切にしたいし自分の言葉も大切にしてほしいから読むんだ。

「言葉は、文化のなかに根を張り、生活のなかで用いられることで、はじめて意味をもつ。言葉について考えることは、それが息づく生活について考えることでもある。」(37ページ)

本当にそう思う。古田さんのはもう一冊、最近でた本がとても良いのだけどこれは積んでいない。リュックの中かも。娘さんの子育てからの気づきがとても新鮮でそこから広がる懐疑論の世界が広大すぎて、という感じの本なんだけど肝心の題名が思い出せない。心に携わる私たちには必携と思ったよ。でもこれもまだ途中。

益尾知佐子『中国の行動原理 国内潮流が決める国際関係』(中公新書)は中国の精神分析のスタディグループの方と交流する機会があってちょうど習近平のことも話題になっていたので買ってみた。私何も知らないんだなということを確認した。リーダーとは、という描写ひとつとっても全く違うではないか。まあ少ない知識からでもそれは導けるけれど細かいことを知るとポカンとするくらい違う。うーん。しかしまだこれも途中。

まだ積まれているけど諦めよう。お、そうそう、今顔を傾けて目に入った平尾昌宏『日本語からの哲学』は本当に面白い。書き方も内容も。平尾さんの本はどれも簡単にこっちを引き込んでくれるから助かる。

こうダラダラ書いている分にはいくらでもかけるけど苦手な仕事をせねば。みなさん明日はおやすみかしら。良い一日になりますように。

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11月2日朝、追記はオグデンのウィニコット読解

朝、起きたての息って音が独特。うーんと唸りながら大きく長く伸びをした。精神分析は週4日以上カウチに横になって自由連想をするのだけどカウチでの息遣いは横になった瞬間や寝入るまであとは朝のそれに近い気がする。こんなことを意識するのはこの技法くらいか。

そうだ、『フロイト技法論集』は引き続きおしていきたい。というか精神分析を基盤とするどんな技法を試すのであれフロイトの主要論文は共有されていないとお話にならない。

暖房、今日は足元のファンヒーターのみ。これそろそろ危ないのではないか、というくらいの年数使ってるけど危なげない音を立てて順調に温かい風を送ってくれる。なんて優秀。気持ちがどうしようもなくても寒いのはどうにかしたい。そんなときしがみつかせてくれる。が、そうすると熱すぎるし危険。人を癒すって大変だ。いつからかそういうものを求めなくなくなったというか普通に癒されてしまうことが増えたのかな。毎日、大変な状況、ひどい気持ちを抱えてくる人たちの話を聞き、たまに私も何か言いながらふと笑い合うこともしょっちゅう。それは一般的な癒しとは違うのかもしれないけどなんか心持ちが変わる瞬間ではある。もちろんそんなに持続するものではないし、1セッションの間にも揺れ続けるわけでそれを継続することでいつの間にかそれまでとは異なる感触に気づいて驚くわけだけど。時間をかけて。そうなの。時間かかるけどというか時間かけましょうね。自分のことだから、自分のことは周りと繋がっているから。辛くて辛くて本当に辛いけど大切にしよう。

今日は移動時間が隙間時間。何読みましょうか。國分功一郎さんの『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)って買いましたか?すごい熱量ですよ、最初から。ライプニッツから。続き読もうかな。でもオグデンの最新刊も今度は訳しながら読みたいしな。ま、電車での気分で。

みんな朝ごはんは食べるのかな。私はお菓子と果物とコーヒーばかり。子どもの頃は朝ごはん食べないと叱られるでしょ。実際朝ごはん食べてきてない子どもって午前中の体力が持たないんですよね。みんなが食べられる状況にあるとよいのだけど。私なんか省エネに次ぐ省エネだけど子どもにはそれも難しい。しなくてもいいことだし。今日もがんばりましょうね、なにかしらを。

追記

結局オグデンを訳しているのでメモ。

2021年12月にThe New Library of Psychoanalysisのシリーズからでたオグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”

私が訳しながらと言っているのはウィニコットの1963、1967年の主要論文2本を読解しているチャプター。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

オグデンがウィニコットの言葉の使い方ひとつひとつに注意を払いながら読むと同時に自分の言葉の使い方にも注意を払いながら書く仕方はあまりに緻密で読むのも大変だけど読解をこんな風にしていくことこそ精神分析の仕事でもあるし大変でも楽しい。

たとえばここ。Kindleだからページ数よくわからないけど2章の袋小路コミュニケーションの前。

The idea of communicating “simply by going on being” may represent the earliest, least differentiated state of being that the infant experiences, and that experience may lie at the core of the non-communicating, isolate self. (I twice use the word may because these are my extensions of Winnicott’s thinking.)

精神分析学会の教育研修セミナーでビオンとウィニコットの再読を続ける先生方と行った「知りえない領域について―ビオンとウィニコットの交差―」で取り上げた論点でもある場所。オグデンもこだわってる。ちなみにここで吟味されているウィニコットの論文は新訳、完訳ver.がでた『成熟過程と促進的環境』(岩崎学術出版社

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うそもほんとも。

少し寝る

一瞬泣いた。涙をひっこめられるくらい。一瞬顔が歪んだ。かえって頬に力が入った。力を抜いたら涙が止まらなくなってしまいそうで、いつのまにか惰性で泣いてるみたいになるのが嫌で、かといって自分でコントロールしていたわけでもなくてふとした瞬間にそうなるから困った。

大切に大切にしたいと思うものはいつもひとつに決められない。これはみんなにとってそうなはず。あの人を大切にしたい。傷つけたくない。でもこれを言わなかったら私が傷つく。あの子が傷つく。大切だからどうしても、と思ってしたことで怒らせた。不愉快にさせた。許せないと言われた。大切にするってなんだろう。私の答えは決まってる。でも仕事以外では難しい。私の仕事はシンプルで、契約があるからできることでもある。「これ時間が決まってるからいいけど」「お金払ってるからいえる」など。でも大抵の人間関係は契約ではないので、あったとしてもそっちの縛りは強いのにこっちはこんな緩いのかみたいな契約だし難しい。

なんだか急に眠気に襲われた。いつもこうしてここで眠ってしまうのだ。危険。眠ったら大切だと伝わるだろうか。お互いに傷ついたとしても希望をもてるだろうか。せめて夢でなら。私の無意識は何を願っているのかな。嬉しかったこと、幸せだったことは全部そのまま保存したい。いろんなことが起きるけど別のなにかで実際に起きた出来事を侵食したくない。夢でなら思わず微笑みあったり豪快に笑い飛ばすだけの関係でいられるかな。眠い。だめだ。力を抜いたら泣いてしまうといったばかりではないか。いいじゃない、死ぬよりは、っていわないで。比べてない。眠ろう、少し。明日の準備もまだだけど。少し。多分ほんの少し。コントロールできなそうだけど。せめて夢で。