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精神分析

北杜市、シャトレーゼ、環境。

今日は虫も鳥も遠い。PC前にきたのが遅かったからか。ハーブのパウンドケーキをハーブティーと。どちらもとても優しい味。ケーキ職人の友人が暮らす山梨県北杜市で今週末だかいつだか何かのイベントに参加すると大学のときの友人が言っていた。詩とか本のイベントかな。ほかにも知り合いが北杜市のイベントに出ると話していた。みんなが知らずに同じ場所で出会っていたりするのかな、と思いながら聞いていた。北杜市が合併する前、不登校の子どもたちと廃校になった小学校で長期休みを過ごしていた頃、みんなを連れてシャトレーゼのアイス工場へ行った。工場見学はとても楽しくてみんな食べ放題のアイスを競い合って持ち帰ろうとしていた。すぐ溶けるってわかってるのに。さっきウェブサイトを見たらこれまでの工場見学はコロナ禍の2020年に休止し、2022年4月に再開中止の発表。その後は有料の体感ツアーという形で見学は再開された様子。食べ放題はないらしい。もう25年以上前のことだがみんなが嬉しそうに楽しそうにそこにいられるような場を作ってくれたことに感謝。今でも話題にするほど楽しい時間だった。

シャトレーゼは私が子どもの頃にできたのだと思う。どういう出会いだったか忘れたけれど小さな衝撃のようなものを受けたのを覚えている。田舎の子供が知っていたアイスとは違うというよりも多分私が驚いたのはその売り方だったような気がする。今はシャトレーゼは素敵なケーキ屋さんのような店舗ももっていてそれを見たときにも驚いた。この変化に対する大きくはないがそれなりに何かを考えさせる驚きをうまく表現することができないが別の文化と出会ったような感じだったのかもしれない。

違う文化といえば、先日、外国からきた訓練分析家資格を持つ精神分析家と話す機会があった。そこでオーストラリア精神分析協会のトレーニングシステムの話を聞いた。精神分析家になるためには訓練を受けなければいけないがその訓練を受けている人たちを候補生candidateと呼ぶ。私もその一人だ。

日本精神分析協会は東京支部、福岡支部の二つがあるのだが、オーストラリア精神分協会にはシドニー支部Sydney Branch 、メルボルン支部Melbourne Branch、アデレード支部Adelaide Branchの3つの支部がある。

そこでは、
the candidates of the three different Branches of the Society meet interstate three times per year to share their clinical and theoretical experiences.

ということでin personで年に3回、州を超えて3支部の候補生が一同に会する機会があるという。精神分析の訓練は組織によって違いがあるとはいえかなりハードだ。そんななかこういう機会が候補生たちに対して設定されているのはとても心強い。

人はそれぞれ少しずつだが大きく異なる文化を持つ。日々、多くの人のこころの動きに細やかに出会っていくためには異なる文化に対する自分のあり方を常に内省し、変化させていく必要がある。そのためにはそういう違いをたくさん体験していくしかない。同じ場所でも別のしかたで立つために訓練を続けている今、環境側の整備も同時に必要だ。いまだcandidateとはいえ普段は教える立場でもある。次世代に向けて何ができるかも自分が訓練でどう変われるかにかかっているのだろう。

シャトレーゼに一緒に行った彼らとも本当にいろんなことがあった。今思えば私たちはそれほど歳が離れていなかった。元気だろうか。私のできなさを笑いからかいそれでも頼ってくれたりもした。感謝。私たちはみんな違うけどみんな似たようなものでもある。大学のときの友達とは会うたび「変わらないねー!」だが彼らからはすごく老けたと言われるだろう。現実、そうなのだ。同じか違うかより変われるかどうか。今日はどんな感じだろう。慌ただしいがなんとかやろう。みなさんもどうぞ良い1週間を。

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精神分析

言葉。

洗濯機が回る音。いや、洗濯機を回す音?洗濯槽が回る音?洗濯槽も洗濯機の一部だからやっぱり洗濯機が回る音?元に戻ってくるまでのくるりんくるりん。言葉が醸し出す空間をくるりんくるりん。

「でもなんかそういうふうに言いたくないんだよなぁ」「なんで(笑)」言葉を使うというのはそこに含まれる命令に従うことだから?ピクトグラムだってそう。なんでそのマークのある方へ入らなくちゃいけないの?なんで三つしかない丸の色で止まったり進んだりしなくちゃいけないのさ、といって赤信号を渡ったら死んでしまうこともある。それはそれで縛られちゃってる。私は赤信号を突っ切って走ってきた車に轢かれそうになったことがあるが自分が間違ったのかと混乱した。その後、赤信号を突っ切っている車を数回見つけて「そういう場合もある」ということを確認したが。

言葉はずっと遊ばせておくと遊ばなくなってくる。楽しくてはじめた遊びがそのうち捕まるような悪さになっているなんてこともある。精神分析は言葉遊びというよりは言葉が遊ぶ生き生きした感じが好きなのであって患者のそれを大切にしたい治療法なのだと私は思っている。そしてその遊びは抑圧という心の動きを細かに想定してこそ成立する。抑圧されたものに気づくプロセスには痛みが伴う。自分ひとりの言葉がそうではなくなるから。押さえつけられているように感じるから。好きに話させてもらえない。ごまかしていては伝わらない。小さい子が叱られたときに大きな声で言ってはいけない言葉を何度も何度も繰り返して親の言葉を遮る。あれは悲痛な叫びだ。言葉で縛るのはやめてよ、と。自分は自分を大切に閉じ込めていたいんだ、という言葉が相手に通じるとわかると少し相手が自分に入ってくる。そして長い時間をかけて他人がいても言葉が遊ぶようになってくる。むしろ他人がいたほうが言葉が自由と感じたり。抑圧は治療者の言葉(非言語を含む)が患者の心を、という流れだけではなく患者の言葉(非言語を含む)が治療者の心を、という流れもある。陣初期のコンピューターで陣取りゲームをやったことがある。あんなシンプルではないがいつの間にか自分の陣地が減っているような感覚、それを取り戻そうという動き、いろんなことが二人の間に生じる。「コミュニケーションが成立しない」と言って切り捨てるのは簡単そうで簡単ではないから何度もそう思いながらずっと一緒にいたりもする。争いも消えないが仲直りの機会も残り続ける。コミュニケーションをしたいかどうかは重要だが。

たくさん言葉を聞いてたくさん言葉を使った後にひとりになる。別の音が聞こえてくる。別の言葉が生まれてくる。昔やった言葉のひとりあそび。最近は遊ばなくなった言葉と短時間戯れるように過ごす。言葉を使うことはとても疲れる。別のものに気づく余裕をなくすこともある。精神分析は毎日のように会うけど会わない時間の方がずっと多い。そのことがいかに重要か。音楽も聴き続けない。邪魔が入る。電源を落とす。それを聞いていないときに聞こえてくる音にノル。今日も一日。

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精神分析

「地続き」にしない

お湯を沸かして残りのカポナータを温めてゴミ捨てにいった。涼しい。昨晩はタオルケットでは寒いくらいだった。雨は上がっていたが湿気がすごい。鈴虫。通りにはまだ誰もいなかったが家の中で人々が起きているような気配があった。今日は隣の家の窓が開いていない。土曜日だから少しゆっくりなのだろうか。ゴミ箱はすでに結構いっぱいだった。開け放したままの玄関に戻って昨日面倒で捨てなかった除湿器の水を捨てた。いっぱいになっていない。しょっちゅうかけていたからか。でも表示は湿度76%。この数字の方が溜まった水の量よりリアルなはずもないが体感はこっちに近い。空気はどれだけ水を閉じこめておけるのだろう。溢れてこぼれ落ちたものが雨か。メタファーとしても涙と近い。再び除湿器をONにした。「ワイド」「4時間」、あといくつか設定があったが変えるのはタイマーくらいだから忘れてしまった。

なにもする気がするせずただ眠れなかったというだけの寝不足をなんとか取り戻した。元々睡眠時間は長くない。どこでも眠れるからだろうか。昔は電車のドアの隅っこに立ったままガクンってなることも多かった。見かねて席を譲ってくれた人もいた。年上の人だった。「ベッドで寝なさい」と言ってもらえるのは子どもだけか。大人になってもそういう部分は子どものときのままという人もいるか。そうやって親と子供みたいなパターンになっていくこともあるのかもしれない。自分の性質の強い部分を強化する相手は対象として選択されやすいだろうから。

先日、音楽評論家の方にこのブログを引用されてびっくりしてしまった。閲覧数が平均より増えるとなのかなんなのかわからないのだけど通知がくるのだ。「読まれてます!」という通知はnoteだったか。いろんなところに書き散らしているのでそれぞれの文言を忘れてしまった。引用はその方の記事について書いたからに違いないけどその人のだから、と辿ってきた方々にこんな文章でなんだか申し訳ない気もした。きちんと考えて書くような文章は公にしない文章の方が多い。考えたからといって大した文章が書けるわけでもないが姿勢として。考えるでもなければ溢れてくるとか?というわけでもない。キーボードに手を置いて起きたばかりのことを書き始めると自然に浮かんでくる他愛もないことを書いているだけだから時間切れで突然終えてしまうことも多い。でもその人の記事がとてもよかったということが伝わったのならそれはそれでよかった。そういえば昨日はすごく久しぶりにブログを書かなかったな、と思ったら書いていた。寝ていなかったから時間軸が狂ったのかもしれない。

少し前に『中央公論』2022年10月号掲載の大山顕さんの文章を読んだ。漫画『東東京区区』のかつしかけいたさんが写真の色づけに関して紹介していた。

寝なかったその日にベッドで一瞬見た夢がカラーでも白黒でもなかった気がしたのとインスタで結構見かけるモノクロのポラロイド写真の数枚が重なって思い浮かび、写真の色づけに連想が飛んだ。

大山顕さんは写真家だ。記事はネットで途中まで読めるが私は全文を読みたかったのでKindle Unlimitedで読んだ。「戦前・戦争写真のカラー化は何を見えなくしたのか――色づけが生み出すスペクタクル」という記事である。写真に残された記憶を色付けによって現在の自分たちと「地続き」「身近」にすることについて彼はこう書く。

ー「地続き」「身近」にしないことの重要性があるのではないか。自分に引き寄せて感じたり考えたりすることは、いつでも良いことなのだろうか。遠く隔たったことを、そのままにして考え続けていくことが重要な場合もあるのではないか。そうでなければ、「当事者」が最も「正しく」なってしまう。ー

夢はどちらにでもになりうる。見たのは眠っている自分だけで最初から「正しく」などありようがない。

触感が強く残った一瞬の夢だった。精神分析状況は夢見と覚醒を行き来する場だ。今日はひたすら覚醒している必要がある時間があり言葉を信じて使う必要もある。勝手に自分たちと「地続き」にしない。私はそれを心がける。

窓を開けているとやはり少し寒いくらい。気温の急激な変化に体調を崩す人も多いだろう。どうかお大事に。良い週末を。

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雨。資源。

雨がいろんなところを叩く音が聞こえる。鈴虫も鳴いているけどいつもみたいにきれいに声が響かない。その場所から動けないのかな。それとも動いてそこにやってきたのかな。

「娘は絶対日本から出させる」「力のある女性は日本から出た方がいい」というような言葉をよく耳にするようになった。切迫感のあるメッセージだと思う。頭はいいらしいが幼児的な快楽優先の男性に気持ち悪さを感じながら戦ってきてくれた力ある女性たちの危機感は大きい。互いに甘えあってwin-winの世界にいる男女もたくさんいるがそれは多くの場合部分的な関わりなので、子供がいたり、普通に第三者的な視点を持っている人なら遅かれ早かれ自分と向き合わざるをえなくなる。このままでいいのか、と。いつまでも子供でいられる立場の人は永遠少女とか少年でいることに満足を見出す余裕もあるかもしれないからそれはそれ。でも永遠少女やお勉強はできて自分のダメさもふざけながら上手に自己開示できている男性に「ほんとそういうところが・・」なんて真顔で言おうものなら引きつった笑いか小さな舌打ちとともに不機嫌になって急に相手を見下した態度をとる人は多いわけで、戦う女性たちはそのあまりに薄っぺらい正体に怒りを通り越してヤバさを感じるのだろう。コミュニケーションが成立しないという判断のもと「こんなところにはいてはダメだ」あるいは「いさせてはダメだ」と。たしかに。「いさせてはダメ」というのは実際に守るべき相手に対して思うことでもあるし、自分の尊厳なるものに対してもだろう。一方、尊厳は守りたいが、たいして力のない私はここにいるしかない、というか与えられた場所でどんな工夫ができるかを考えることをまずするかもしれない。怒りに打ち震えたり吐き気と涙でぐちゃぐちゃになったり、何も手につかずここから動けないという状態になってもそういう自分をぼんやり観察する。そういう時はぼんやりか極端かのどっちかにならざるをえないから眠れないときみたいな少し変になった頭と身体で観察を続ける。狂った世界ではこちらも少なからず狂うこともを許容しないと知らないうちに迎合して本当に心が死にそうな気がする。だからぎりぎりのところに留まる。自分の資源があまりない場合は相当な切迫感がないと行動の判断って難しいけど心が壊れてしまうと死を行動と勘違いしてしまうこともあるから本当に危険。なのでひとりではなく専門家か、普通に思いやりのある人と。彼らが変わることは偶然何か起きないかぎり多分期待できない。自分が変わることも一人では多分相当難しい。だからまるで知らない人(繰り返すけど専門家か、普通に思いやりのある人、あと常識のある人)に相談してみるのもいいと思う。相手や世界に対するあれこれを吐き出しつつそこで反復される自分の心のありように目を向けてみる。それはときとしてこの国から離れたくなるくらい気持ち悪かったその人たちよりもずっと不快なものとの出会いになるかもしれない。でも他人のものより自分のものの方が取り扱いは安全にできる。ときに自分を傷つけたり誰かを傷つけたくなることもあるだろうけどどうにかして持ち堪える力も同時に芽生えていく。そういう心の変容って本当にあるから自分にはそんな力ないし、と本当はすごく気持ち悪いのに気持ちよくしてあげなくて大丈夫、と言いたい。そしてそんなこと言わなくてもいい日がくると願いたい。今はとても無理だけど。なんとか生き延びよう。そうだ、前の職場の人とごはん食べにいく日程決めなければ(=こういうのもありがたい資源)。

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「サイダーのように言葉が湧き上がる」とか寒立馬の作品とか。

「フライングドッグ」の設立10周年記念作品『サイダーのように言葉が湧き上がる』をNetflixで見た。2020年5月の公開予定がコロナで延期され、2021年7月に公開された映画だそうだ。

俳句をやっている友人が「高校生の俳句は本当に高校生が作ってて大人のは黒瀬珂瀾という人が作ってるんだって。よかったよ」と教えてくれた。二人の高校生が出会うまでのオープニングがとてもカラフル。誰かを想うことで防御一方だった過敏さを超えていく二人と彼らを取り巻く人たちの優しさの描写がシンプル。ところどころスマホに打ち込まれる俳句が意外なほどパワフル。

よい映画だった。

台風が近づいているのか。移動に支障が出たら嫌だがなにより被害が出なければよいが。

映像作家の小田香さんという人が、青森県の下北半島で寒立馬を題材に監督作品を作っているという。「かんだちめ」と読む。朝日新聞デジタルの記事で読んだ。小田香さんは大島渚賞の第1回受賞者とのこと。坂本龍一が強く推したそうだ。8月初旬に巡ったばかりの下北半島、下北半島に住むガイドさんがこれまで扇風機しか使ったことがないのに今年はエアコンを導入せざるをえなかったというこの夏の炎天下、のんびりとたくさん歩きながらいろんなことを感じた。この作品はぜひ見たい。その記事に小田香監督が寒立馬を撮影する写真が載っていたがちょうど私たちが行った頃のだった。すぐそばに津軽海峡と太平洋が広がり、それを分ける位置に真っ白な尻屋崎灯台が立つ。国の重要文化財であり日本の灯台50選に選ばれているとのこと。

さて、記事には

「放牧中の寒立馬はかつて、身近で見ることができたが、人が馬に蹴られたり突かれたりするトラブルが相次ぎ、柵越しにしか見られなくなった。」

と書いてあるが、どうやらペットを連れた人とのトラブルもあったらしい、と現地で聞いた。動物と人間の関係は難しい。

そういえばこれは先日ここで文句めいたことを書いた青森県立美術館のプロジェクトの一環だそうだ。素晴らしい活動だと思う。

忘れないようにここにメモしてしまうけどそれが小さなアザであろうと小さな裂き傷であろうと心踏み躙られる体験と重なればその傷自体が消えても痛みは消えることはない。ただ変化はする。単純に薄くなるとか、いずれ消えていく、とかではなく、景色でも人でも外とのなんらかとの関わりにおいて心がふと軽くなったりほっこりすることがある。逆に急に吐き気を催したり突然涙が止まらなくなることもある。そうなることはわかっていてもそうなるときはそうなってからでないとわからない。「またか」と思うのはそうなってからだ。そのときに思い出せるのが心を支えるなにかの方であることをいつも願う。その「なにか」が直接的な関わりだけではなく外からふとやってくるものであることも確認したい。

さてさて、今日はどんな1日になることやら。なんとかはじめましょうか。

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博物館とか美術館とか。

紅茶とフロランタンと粉砂糖のかかった丸いホロホロしたクッキー。名前を忘れてしまった。昨日、緑道を歩いていたらアゲハがフワフワよりも速いスピードで横切っていった。名前のわからない葉っぱのそばをこれまた結構なスピードで舞い降りたり浮かび上がったりしていた。花はないのに何を探してるんだろう。私は少しずつ近づきなかなか写真に収まってくれないアゲハを何回も撮った。きれいに写せたのも数枚あった。アオスジアゲハ。少し光沢のある水色の小さな四角が帯状の模様を作っていてとてもきれい。我が家の小さな花壇の山椒は最初はアゲハの幼虫に食われてばかりだったがいまや時々切り落とさなければならないくらい立派な枝を伸ばしている。どこが転機だったのだろう。花壇にアゲハがやってくると「むしろ今は食べ放題ですよ、ぜひ食べて」と心の中で伝える。料理で使う山椒の葉なんてほんと数枚だから。箱根登山鉄道 「入生田」駅からすぐのところに神奈川県立生命の星・地球博物館がある。以前ここで見た蝶の標本が素晴らしかった気がする。蝶のすごい標本というのは全国回っている間にいくつか見た気がするが多分私がこういうときに思い浮かべているのはこの博物館のだ。河口湖でもそういう展示があったかもしれない。とても心に残っている博物館なのでまた行きたい。今ならもっと違う楽しみ方もできそう。当時よりきちんと観察する力が身についたと思うから。いろんなところへいっていろんな人と話していると「ほらここ」と言われ何かをきちんと見る機会が多い。自分では気づかなかった部分に目を向けさせてもらえる体験はその後の自分の目の力になる、思い出と共に。

思い出といえば青森県立美術館はとてもまわりにくかった。最初から館内が複雑でまわりにくいと言われていちいち案内されるのだが、この案内のせいでまわりにくかった。美術館の設計がどうであれ私は一度入ったら自由にまわりたい。次はあっち今度はこっちあれれどこ行くんですかこれはこっちいやいやお手洗いへあああちらへあれれこちらはご覧になりましたか今お手洗いへ行ってきてはいはいそうですかこっちはご覧になりましたかはいさっきあそうですかなど今やっている「生誕120年 棟方志功 メイイキング・オブ・ムナカタ」は十分に楽しみつつも疲れてしまった。あまりの声の指示の多さに途中からはイライラもしてしまった。どうして簡単な地図と矢印とか視覚情報ではいけないのか。点字だってあっただろうか。美術館では視覚優位になっているので聴覚情報とバランスが悪いと疲れるのだろう、と今思った。余裕があるとこういうことも考えられるがあのときは疲れきった。そのあとに奈良美智の「あおもり犬」へ向かおうとしたらここからだとすぐそこなのにそこのドアは配慮の必要な人用だから、と一度外へ出て階段を登って、と疲労とイライラに少し拍車がかかった。こちらがこれだけ動きにくいとなると障害のある人とか妊婦さんとかにも全然使いにくいのではないか。人の声での指示はできるだけ少ない動線づくりというのが重要なのでは、と保育園でいうようなことを思いながら歩く。いた。あおもり犬。でかいのはわかっていたがかわいい。このおかげで元気を取り戻したがいやはや、自由度大事。

それにしてにも以前青森にきたときに三内丸山遺跡はいったのに青森県立美術館にはいった覚えがない。時間はあったと思うのだけど。すぐそばだし。まあ一度は行けてよかった。八戸市美術館は真逆でとてもオープンな空間で作家との距離も近くその時やっていた展示も非常に印象的だった。また行きたい。八戸ブックセンターでは行政の人とたくさんお話できたし楽しかったな。

しまった、もうこんな時間。いかねば。どうぞ良い1日を。

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林芙美子「漣波」、リモコン、寿命

遅い時間のごはんが消化されない。アタリマエジャ。ソリャソウダ。ごはんを食べたあとまた林芙美子『トランク 林芙美子大陸小説集』(中公文庫)をパラパラした。やっぱり面白い。芙美子は4本の連載を書きながら突然死んだ。今回の文庫にはその中のひとつ「漣波ーある女の手記」が収められている。1951年、芙美子が死んだ年に中央公論社から「漣波ー或る女の手記,女家族,菊尾花(新方丈記)」を収めた『漣波』が出ておりそのあとがきを書いたのは川端康成だった。今回の文庫『トランク』にはそれが付録として収録されている。「漣波ーある女の手記」は手記なので一人称で書かれており「三十歳を越えた私は、十七歳の、あの時から、まるで一呼吸(ひといき)で現在になったような気がしてなりません。」と十七歳のときに女中としてパリで体験した出来事がとても無垢ぶった様子で書かれていて大層面白い。気持ちが昂ったり急に冷めたりうっとりしたり意地悪な気持ちになったり男性との関係で経験する体温の変化を十七歳ならではの無邪気さでなんとなく大袈裟に描写しているのがとてもかわいい。最後に(絶筆)とあるのでこれが未完であるとわかるが書かれなければこの余韻のまま何も気づかないかもしれない。

今朝はすでに暑い。エアコンをつけた。西の窓の左後ろの方でカラスが一声鳴いたあと少し早いリズムで何度か鳴いた。

昨日、とうとうエアコンのリモコン(なんでも「コン」だな)に何も表示されなくなりついに運転を切ることができなくなった。電池を変えよう変えようと思っていたのだが小さなリモコンの動かせる部分を全て(と言ってもスムーズに動くのは1箇所のみだが)動かしても電池を入れる場所がわからず変えていなかった。でも今回ばかりはまずい。消さないで出かけられない。こんなときこそインターネット(久しぶりにきちんと言った)。「ナショナル」と品番を入れて検索。「ナショナル」は2008年にブランド名として廃止されたが私がここに住んで15年くらいだからナショナル最後の世代のエアコンということになるか。やはり世界をつなぐインターネット。同じように困る人はやはりいるらしくすぐに動画が見つかった。なんてことはない。私が何度も滑らせていたカバーの下の方をねじるようにして力を入れて開ければよいだけだった。おかげで「運転 切/入」を押したらピッと消えてくれて出かけることができた。消したら急に鈴虫の声が聞こえ始めた。そういえば冷房をつける前もすごく鳴いていた。同じ鈴虫だろうか。ずっとそこにいたの?私ここにきて15年くらいなんだけどみんなは?検索。鈴虫は卵が孵化してから約4ヶ月、成虫の寿命は約1、2ヶ月しかないそう。「人の手で大切に育てたとしても冬は越せないため、」と読んで悲しくなっていたら「次の年も飼育を楽しむには産卵・繁殖させる必要があります。」と続いていた。Oh…。

今日やるべき事務作業や翻訳作業の資料はひとつのファイルに入れた。分けるとあっという間にどこかへ分散してしまうことがわかったから(何回もやってるけど)「2006世界バスケ日本開催!」と大きく書いてあるファイルに入れた。どこかでもらったのだろう。中学時代バスケ部だった私は一時バスケ観戦もよくしていたから。今回の「FIBAワールドカップ2023」は日本すごかった。前回日本で開催したのが2006年だからこのファイルもこの家にきた頃のものか。ものは大雑把な時計代わり。私は物持ちが良すぎるから時計としてはどんどん大雑把な機能しか果たせなっていくものたちだけどそれぞれの寿命をなんとか生きましょうかね。

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お菓子、クリップ

キッチンの窓を開けたら珍しく鳩の声が一番最初に聞こえた。今は西の窓の向こうで鈴虫が鳴いている。あ,鳴かなくなった。鳥たちがガヤガヤとなにか言っている。どんなことがやりとりされているのだろう。やりとりとは限らないか。人間には思いもよらない何かがたくさんあるのだろう。

今朝は友人の手作りフロランタン。吉祥寺の小さなお店を閉じてから何年経つのだろう。オンラインにお店を出すわけでもなく、季節ごとにケーキと焼き菓子セットを届けてくれる形式。山梨県北杜市から。その人のこだわりにきちんと答えてくれる土地なのだろう。引っ越してからもうだいぶ経つ。小さな段ボール箱を開けるといつもの小さな紙にその人の書いた字が見えた。栗の実のことも書いてあった。「竹のクリップはプレゼントです」とある。箱の中をみるとクシャッとされた薄ピンクの硬めの紙に守られたいつもの蝋引き袋がある。蝋引き袋というのを私はそれまで知らなかった。おしゃれで機能的。袋はいつもはない細長い竹のピンで留められていた。そっと外す。口はとても小さく挟む力はほとんどない。端っこを押して開く仕組みでもない。挟むというより留めたいものをそっと差し込むようにする。いざ挟むと結構しっかりしている。ゼムクリップよりもずっと繊細にみえるけど竹は強い。ケーキの紹介文が書いてある和紙のような紙を差し込んでその確かさを頼もしく思った。その人みたい。竹のクリップは竹細工職人さんに作っていただいたとのこと。嬉しい。フロランタン、とっても美味しかった。少しずつ大切にいただこう。

今日はいつもの仕事の前にあれこれやっておかねばならないことがたくさん。困った。いつも困っている。とりあえずやろう。夜中より雨の音が弱まっていると思うのだけど今日は一日雨なのだろうか。雨は大事。いい音。どうか静かに降ってくれますように。自然に対しては願うばかり。

月曜日、なんとかはじめよう。

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おばあちゃん

「うん?三日」と思う。昨日は「うん?二日?」と思った。一昨日は「(略)」と思ったがいよいよ〆切日だ。毎月毎月誰も見ていないのに声も出さずこんなことを繰り返している。「ちっ、暦なんかあるから、グレゴリウスめっ」とか思っても〆切は遠ざからない。というか暦って多分ないと困る。毎月毎月ほぼ同じように数字で区切ってもらえるからかろうじて〆切だって思い出せるわけだ。これが1ヶ月40日とかだとちょっと感覚狂うかもしれない。40人学級より30人学級の方が運営はうまくいくはずだ。何月が31日まであるんだっけ、と小学生のとき、友達が指で確認していてめっぽうかっこよかった。私も真似したが山と谷、どっちが30日でどっちが31日かを忘れてしまったりそもそも最初の手の形が違ったりする。しかもチョンチョンって2回やって折り返さなければならない。難易度が高い。なので結局「8月は31日まで」というのを基準にあとは大体変わりばんこと覚えていた。私の誕生日を祖母は死ぬまで「8月31日」と思っていて毎年「亜美ちゃん、8月31日、お誕生日おめでとう」とお手紙とお小遣いをくれた。おばあちゃん、私の誕生日は30日だよ、といつもほっこりした。

そうそう、おばあちゃん、と祖母に向けてお話したくなるがBack to realityの声が聞こえる

そうそう、おばあちゃん、昨日ね、友達がとっても美味しいお店に連れていってくれたの。前菜がシャインマスカットといちじくと生ハムだったの。すごいでしょ。最高でしょ。夏に青森に行ったんだけどね、その話とかしながらなんとなく群馬の話も出たの。そしたらシェフが「生ハムは群馬のですよ」って。そー、びっくりでしょ。向いてるんだって、群馬、生ハムに。あのからっ風が。あの冷たい乾燥した風が生ハムの熟成にいいんだって。前髪は凍るし肌は粉吹いちゃうしいいことなんてないと思ってたのにね。「からっ風、いいとこあるじゃん」って思わずいっちゃったよ。

あ、天の声を無視してしまった。Back to reality.あなたは9月は本当にまずいよ。がんばりなさい。あぁ、おばあちゃん、私こんな歳になったけどまだこんななんだけどなんとかやってるよ。おばあちゃんは元気かな。なんで死んだ人にそう思っちゃうんだろ。私の記憶の中で彼らがみんな元気でいてくれたらいいなと思うからかな。また話そう。今日も元気でね。

おばあちゃんといえば

Woman’s Best 13 韓国女性文学シリーズ10​『私のおばあちゃんへ』나의 할머니에게

ユン・ソンヒ、ペク・スリン、カン・ファギル、ソン・ボミ、チェ・ウンミ、ソン・ウォンピョン 著​ / 橋本智保 訳

はとてもよかった。

私も着々とおばあちゃんに向かっている。戦争を知っている祖父母は長生きした。その時代に生きるってどんな感じだったんだろう。うん。やっぱりまた話そう。なんらかの形で。岸政彦さんたちの本とか生活史の本もたくさん出てきた。私も聞こう、話を。

みなさんもどうぞお元気で。

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『デオナール アジア最大最古のごみ山 くず拾いたちの愛と哀しみの物語』(柏書房)を読みはじめた。

よく寝たと思ったけどそんなに時間は経っていなかった。

人の身体を傷つけて心を踏みにじった人がしんどいしんどい言いながら嘘ついたままやりたいことやって偉そうに人間ってこういうものみたいにいっていると唖然とする。嘘、しない。そういう人だから。「知性」も自分の暴力的な関わりをなかったことにして突き進むために利用するならそんなのなかったほうがよかったのでは、と思うけど、そんなこと知らない人には大層役に立っていたりもするのだから大きなお世話だろう。見えないところでなされる暴力が裁かれることは少ない。自分の快楽に忠実な人が起こす様々な事件も事件にならなければなんにも問われない。事件になっても関わっていなければ心壊されることもない。そんな安全がほしい?ほしいだろう。それが人間。なのか?疲れる。胃が痛い。

昨日は金曜日の仕事をしていたのにどこかで土曜日だと思って病院に行きそびれた。朝の予定を間違えたからだろう。不注意な人間にはよくあることだ。辻褄を合わせようとするから。一度間違って「あれ?」と思う。特にトラブルにならなければすぐに忘れる。でもどこかで最初間違えたときのモードが残っている。それがどこかに出てしまう。気をつけててもそういうことは起きる。完全に忘れるのも問題だがそれこそ不可能なことだ。困った。胃が痛い。

『デオナール アジア最大最古のごみ山 くず拾いたちの愛と哀しみの物語』ソーミャ ロイ 著/山田 美明 訳(柏書房)を読みはじめた。発売前、柏書房のnoteに公開されていた冒頭を読んだときにすでに言葉を失った。巨大なごみ山に捨てられた大きなガラスびん。そこに詰め込まれた臍の緒がつながったままの三つ子の赤ん坊。それをそっと抱きかかえ埋葬したのはそんなごみ山に暮らす子どもたちだった。これはノンフィクションである。ムンバイを拠点とするジャーナリスト、ソーミャ・ロイが2013年に出会ったゴミの山、デオテールごみ集積所を8年以上にわたり調査、インタビューをしてきた記録だ。物語はデオテールごみ集積所でくず拾いをしながら暮らすコミュニティ、特に大人になる一歩手前、18歳になろうとするファルザーナー・アリ・シェイクを中心に進む。

また読み耽ってしまった。今日も無事に過ごそう。

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音楽

柳樂光隆のnoteを読んだ。

穏やかな朝。鳥たちは元気だろうか。蝉や鈴虫の音に気を取られていた。もちろん毎日姿をみているのは鳥が一番多いのだけど耳が拾うのが。

柳樂光隆のnote更新のメールがきた。先日、Rolling Stoneに公開されたジャズハープのブランディー・ヤンガーへのインタビュー記事がとてもよくてnote 「review is a diary」に課金した。オンラインの記事に課金することはほとんどないのだが哲学者の千葉雅也、ノンフィクション作家の高橋ユキの文章にはしている。それぞれリサーチもすごいし対象に対して真摯、誠実な書き方はお金を払ってでもというよりお金を払って読んで大切にしていきたい。

今回の柳樂光隆のnoteは「about SF JAZZ COLLECTIVE:21世紀LAジャズの拠点(6,800字)」。

“「SFジャズ」はアメリカでのジャズの普及と発展に貢献してきた団体で、コンサートの企画から、LAの子供から大人、プロを目指す若者からジャズに興味を持ち始めたリスナーまで、様々な人たちに向けてジャズに触れる機会とジャズを学べる環境を提供してきた。それらの多くは前述のSFジャズ・センターで行われている。”

ということなのだがその活動がすごい。ときめく。6800文字ぎっしりその魅力でいっぱいなのだが引用されているたくさんの音源も素晴らしい。こんなふうに書ける柳樂光隆も教育者として優れているのだろう。ジャズを学ぶことはアメリカの歴史や社会状況やそれが生まれた土地について学ぶことでもある。だからこそ適切でエキサイティングな教科書が必要だしそれを実践で見せてくれる先達が必要だ。ああ、なんて羨ましい!と思うがこの記事から学んだそのエッセンスを自分の仕事に活かすことならできなくはない。毎日慌ただしくて読んだり書いたりする時間がないが音源がたくさんあるとそれを聞きながら移動したりもできるから本当にありがたい。

今日も無事に夜を迎えらえるように陽射しの中へ出かけよう。子どもたちも夏休みが終わってしまったね。早く学校に行きたかった子もまだまだどこにも出かけたくない子もみんなみんなとりあえず無事に一日をすごせますように。

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精神分析

心の作用

今日もいいお天気らしい。暑くなりそうなのだけどもう「暑」という字は使いたくない。暦のほうに寄せているわけでもないけど最近は朝は冷たい麦茶と温かい紅茶を両方いれる。そして最初に飲むのは温かい方。身体的には起きたらまず冷たい水を一杯、とかいうから冷たい麦茶の方が喜ぼれるのかもしれないが私の身体はもう秋仕様らしい。それにこれまでだって「身体にいい」生活にこだわってきてもいない。大体いろんなお菓子に喜ぶ日々をやめるなんてできない。いつまでも喜べる身体でいられるために健康に気をつけるんだよ、と言われたとしてもそこまで身体に悪いことしているわけでもない。弱い胃腸を信じられるところまで信じたい。

自傷行為は自分の身体へのチャレンジだと思う。自分は自分にどこまで耐えうるか確かめるための。嗜癖という苦痛な快が和らげてくれる瞬間を少しでも引き伸ばしながらなんとか生きようとする心の作用。

誰にもいえない状況で傷つけられた体験を声にしようとするとき、そこには大きな痛みと恐れが伴う。「また傷つくだけだよ」「だったら言わなければいいじゃない」と制止がかかる。「それだって自傷行為みたいなもんなんだからやめなよ」と。そうだろうか。自傷の日々から逃れたくて、他害の恐れからできるだけ遠くにいきたくて自分のこころを守ろうとする行為が?立場を利用して人の性を軽く、乱暴に扱う人に対してもの言いつづけることが?もっと痛い想いするのだから、あるいはもっと絶望が深まるのだから、と制止してくる声は平然と嘘をつきながら人を傷つけた歴史を黒歴史としてヘラヘラと処理するような、あるいは記録がない、証拠がない、と言い続ける加害者に寄り添う声なのだろう。

みみをすます。自分の。他人の。他人から向けられた自分への。痛みと生きることのいたしかたなさを簡単に「しかたない」と言わないために、粘り強くそこにいつづけるためになんらかの工夫を。

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精神分析

ブルース・フィンク『精神分析技法の基礎』をパラパラするなど。

ベランダにハンガーにかけたバスタオルなどを干した。いいお天気。部屋に入ったらベランダの風はついてきてくれなかった。なんでなんだろう。外だと気持ちよく感じた風は確かに「吹いている」のに。窓は開けたままなのに。

それにしても疲れた。多分、夏に。あと難しい本に。

ブルース・フィンクの『精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際』を再読した。これは難しくはない。が、パッとしない。電話分析の可能性についての章はカウチでの自由連想を頻度よりも強調するフランスでは特にオリジナリティが高いのだろう。「電話分析に特有の難点」が詳細に書いてあるのもいい。そしてフィンクは高頻度であることを重要であると考えているというか、ラカン派は変動時間セッションを行なったりするので時間に対する感覚は独特なのでその辺の考察はもっとほしい。この本には変動時間セッションを行う分析家が電話分析を行う際の具体的な手続きも書いてある。フィンクくらいになれば直接会いにいける距離にいないがフィンクによるラカン派のセッションを受けたいという患者は多いのだろうからその経験が蓄積されているのだろう。やはり本人が多く体験している臨床事例から書かれたものは思弁的でなくこちらの思考も促される。ラカン理論が臨床としっかり接続していくためにはラカン派ではない私たち実践家もラカンを読んでいく必要がある。フロイトと同時に。現在のフランス精神分析の中心はラカン派でいう「精神病」事例についての議論が盛んだと聞いた。日本の精神分析の遅れも指摘されたが臨床ありきであることを考えればフランスほど精神分析が根付いていないこの国とフランスではまるで異なることが生じるのは当然といえば当然であって遅れているわけでもなかろう。フロイトやラカンへの回帰に基づく理論の更新という点ではその議論が当たり前に盛んなフランスとは比べ物にならないかもしれない。フィンクもこの本に書かれた議論を読むことでラカンを読むインスピレーションを与えたいようだ。たしかにラカン派の本を読むとラカンとフロイト読まねば、となるいい循環は確実にある。

今朝は出雲土産のバウムクーヘンを食べた。昨晩は熱海土産のお饅頭を食べた。お菓子がますます美味しい季節はもう少し後。どちらもとても美味しいけどもっと涼しかったらあっついお茶や紅茶ともっと楽しめそう。秋よ、深まれー。

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色々、境界、尻屋崎

南側の窓をドーンっとならないようにスーッと開け、リビングの大きな窓も同じように慎重にスーッと開け、パタパタ家事をしてから思い出したように東側の窓を開けた。ここの窓はそんなに慎重にならなくても大丈夫。西側はブラインドの向こう。見える空の色が全部違う。きっと土色の空とか月色の空とかもあるのだろう。星色の空は難しそう。どうしても太陽の影響を受けそうだから。海の色だってほんとうに色々で驚く。八月初旬に行った青森県下北半島を囲む海も様々だった。青にもいろんな青があり時間や波の様子でも全く変わる。

本州最北東端の尻屋崎はその先端に尻屋埼灯台がたち、津軽海峡と太平洋の境界地点となっている。灯台は真っ白で美しく、レンガ作りの灯台としては日本一の高さだそうで上ることもできるそうだが今回はちょうど閉館時間を過ぎたところだった。この上からみたらどこまでも続く海とそこにもある境界とそれが見えないことをますます実感しただろう。上らずとも右側に振り向けば草原の寒立馬たちがゆったりと草をはみ、海岸には家族たちが岩場に遊び、西側にはもう少しで沈みそうな夕日とお墓。え、お墓?とバスの出発の時間が近づいていたが少し早足で近づいてみた。遠くから見たよりも近く間に合いそうだったのでもっと近くへ早足で行ってみた。岩場の先には第二進徳丸殉難者の碑が立っており、そのそばにお地蔵さんもいた。この津軽海峡は海難事故が多発する難所だったという。手を合わせてもう一度海をぐるっと見渡しバスへ急いだ。

寒立馬は以前は囲いもなく放牧されていたそうだがペットを連れた観光客となんらかのトラブルがあり柵が設置されたそうだ。宮崎県の都井岬みたいだったのかな、と少し残念だったが激減しているという寒立馬の保護は大切だ。もうそれほど小さくはないが子馬らしき馬が母親らしき馬の首元にひたすら鼻を擦りつけるようにしてやがて乳を吸うようにおなかの方に首をもぐりこませていた。その横でのんびりと佇んでいた馬が突然ドボドボとホースのような尿を放出した。コロナでなくなってしまった日曜日の句会で「尿をにょうと言った人がいたけどしとと読みます」と先生に言われた。「にょう」と読んでしまったのは私で少し恥ずかしかったけどすっかり覚えた。芭蕉が宮城で読んだ句、

蚤虱馬の尿する枕もと 芭蕉

も馬の尿の音のインパクトをよんでいる。

それにしてもこの夏はものすごく日焼けした。炎天下をあれだけ歩けばそりゃそうかという感じだが左腕だけはっきりとTシャツ焼けをしている。最初なんの線かと思ってしまった。身体にも色で境界ができる。境界なんて曖昧なものを無理やり消すことも自ら作り出すこともしたくない。いろんなものはグラデーション。スペクトラムという言葉はなんだか使われすぎな気がする。いろんなものいろんな人、今日も色々色々だ。

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江ノ島へ

横になったまま足にあたる窓からの風を確かめていた。いつもより冷たい風が足に触れながら通り過ぎていく。秋だ。

リビングの窓を開ける。昨晩突然焚いたお香の香りが残っている。これは昔誰かにもらった外国のお香。大きな象が描かれた派手でかわいいパッケージ。いや大きな象かどうかはわからないか。今朝も適当に出しっぱなしにしていた日本の短いお香に火をつけてみた。実家からもらってきたのがたくさんある。ヨガを教えてくれた友達の家に遊びにいったときお香が当たり前のように焚かれていた。引っ越したあとのおうちでも。今は京都にいるその人と京都の自宅そばで会ったときもその人が選んでくれたお店はお香が焚かれていた。二人目の子がまだ赤ちゃんだったか、まだおなかの中だったか忘れてしまったが上の子が誰が何を言っても「チンチン!」とゲラゲラ笑いながら答えるばかりの時期だった。まあそれでもコミュニケーションは何の問題もなく成立していたのだからそれでもいいのかもしれない。いや、よくないか。

週末は精神分析のことしか考えていなかったが江の島にいる人から突然「あみさんもくる?」とメッセージが届いた。なんとなく「いく」と返事してからほんとにいくのかよと思ったが夏の終わりに何か特別なことがあってもいいなと思った。突然の誘いに乗ってそれなりに時間のかかる場所へ行くというのは特別だ。藤沢まで通勤していたのだからすっごく遠いわけではないが当時は仕事があればどこにでもいっていた時期だ。Psychoanalytisches Institut BaselのGerald Personnier先生のセミナーに出たあとフランス語と日本語の区別もつかない(つまりどちらも聞き取れていない)ぼんやりした頭で電車に乗った。乗り換えはしたがずっと座れたので楽ちんだった。Personnier先生は日本にも詳しくて日本語も少しお話になる先生でとても親しみやすくかなり自由にいろんな話ができた。時折先生方がフランス語で盛り上がってしまって完全に置いていかれていたが色々話しているうちにフランス語も聞き取れるような感触になっていた。単に頭が疲れていて知っている単語を拾っていただけなのだが。Personnier先生が谷崎潤一郎の名前を出した。『陰翳礼讃』という言葉を拾ったので(日本語だけど)車内で読んだ。江の島では江の島灯篭というイベントが開催されていた。『陰翳礼讃』じゃん、と思ったのはあとからだ。例によって車内から海が見えただけでひとり密かに身を乗り出しているうちに江ノ島駅に着いた。諏訪神社のお祭りだったそうで半纏姿の人がたくさんいた。コンビニで鎌倉ビールを買って飲みながら江の島へ向かう。島への通路はこちらに戻ってくる人たちもたくさんいたが向かう人もたくさんいた。日は沈んでいたが空はまだ明るかった。いろんな人がいろんなものを食べたり飲んだり並んだり笑ったり喋ったりしている中を歩きながら神社への階段へ向かった。少しずつ暗くなってきた。入り口の瑞心門に影絵のような大きな龍が現れたり深い緑の木がピンクに染められてまるで花が咲いているようだったり照明での演出がとてもきれいだった。道の両脇には影絵灯籠が並べられ幻想的だった。島の上の方にあるサムエル・コッキング苑に着く頃にはもうだいぶ暗くなってきて南国の木々の間をゆっくり歩いた。音楽が聞こえる方へ行くと小さなステージがありひとりでいくつもの楽器を使う人が奏でる音楽の中、たくさんの人がくつろいでいて子どもたちはトランポリンで跳ね続けていた。展望台シーキャンドルに数回エレベーターの順番待ちをして上った。どんどん空は暗くなっていき月がとてもきれいだった。雲に隠れてもこんなに海を照らすものなのか、と感動した。いい夜だった。子どもたちの夏休みももうすぐ終わる。いつまでもトランポリンで跳ね続ける感覚を心に蘇らせながら私は彼らを眺めていた。

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新宿メトロ食堂街、千葉雅也『ツイッター哲学」とか保存保管について。

変な時間に寝たり起きたりしてしまった。一度起きたときに暑かったからリビングに置いてあった扇風機を持ってきてつけた。一番弱い風で首振りの設定にしていたのに、起きたらなんだか喉が痛い。やばい!と喉を温めるためにというか昨日作っておいたからカポナータを温め直して食べる。墨絵の美味しいパンと一緒に。墨絵は今はない新宿の地下街にあった。墨絵自体は店舗を増やしている。なくなったのは新宿メトロ食堂街という地下街だ。追分だんご本舗でよくお土産を買って丸の内線に乗ったりした。そのうちその地下街自体が大好きになってしまっていろんなお店を利用するようになった。墨絵は異彩を放つ高級感で席と席の間隔はとても狭いのにいつも行列ができていた。私も中で数回食事をしたことがあるが利用するのは主にパン屋だった。通りがかりに小さいパンを一つ買って移動しながら食べていた時期もある。今だったらそんなことしないだろう。胃腸が弱いのは今も昔も変わりないが当時はどんなに時間が無くても何かを食べたかったしそういう時間だからこそ食べるものも決まっていた。どこもかしこも変化が激しいが私の移動の中心だった新宿西口は本当に変わった。小田急デパートもハルクだけになり新宿駅全体が枠組み自体を大きく変えようとしている。昨日はオフィスから新宿南口へ向かったらルミネ前の大きな交差点の一角が白い壁に覆われていた。あそこも変わるのか、と信号の反対側からなんとなく写真に収めた。

私は写真部だったわりに保管とか保存をする能力がないらしく、写真でせっかく保存したのにそれをどうやって整理したり保存したらいいのかわからない。わからないというよりはやっていない。SNSで自分が若かった頃の新宿の写真を見つけるといまだにホームなので今はこんな感じだよ、と話しかけたくなるような気分になる。

千葉雅也が2020年に『ツイッター哲学 別のしかたで』(河出文庫)という本を出した(今は文庫化)があれがどれだけ貴重な記録か、と今になって思う。とはいえ千葉雅也はここで哲学をしているのであって記録を提示しているのではない。千葉雅也という哲学者はいつも静かにオリジナリティ溢れるしかたで日常を哲学するしかたを提示してくれる。何度も書いているがいまだ門前とはいえ哲学の世界を私の遊び場にできているのは千葉雅也と國分功一郎のおかげだ。この本についても感想を書くべきだった。写真よりも文章の方が保管がしやすいし。千葉雅也は日本語も美しく情報に対する軽薄さや横柄さもなくとても真摯な書き手だと思う。そういう人がツイッターといういろんなものが渦巻く場所でこういうつぶやきをしていたことが示されるだけでもSNSに対して別のみかたが可能になるだろう。工夫に工夫が重ねられた一冊だ。それにしても「ツイッター」。今もURLがtwitterなのでなんて呼んでもいいのだろうがとりあえずそれは「エックス」に名前を変えた。この本は千葉雅也がカタカナで「ツイッター」と書いているのもいい。

どれもこれも保存保管にまつわるお話。今日は朝からフロイト読書会。これも保存保管にまつわるお話。午後はフランスの精神分析家を交えての勉強会。

みなさんもどうぞよい一日をお過ごしください。

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生き物本、料理本、なぞる。

早朝、ベッドから外を見ると空が少しだけピンクがかってとてもきれいだった。今はすでにグレーと水色の間みたいな色でのっぺり。

昨晩、徳間書店から出ている『スタジオジブリの 生き物がいっぱい』をなんとなく見ていた。友達の犬がテトというのだけどもちろんナウシカから。テトは本当にかわいい。友達の犬もすごくかわいかった。おうちに行く時間があった頃はよく会っていたけどまだ元気なのかしら。聞いてみよう。これ巨神兵もラピュタのロボットも紹介されてるけど「生き物がいっぱい」という言い方だとちょっと雰囲気が違う気がするけど生き物ではあるな、たしかに。コダマとかマックロクロスケはやっぱりかわいい。マックロクロスケって「ススワタリ」という名前がついていたのか。知らなかった。ネコバスも生き物だなあ、そういえば。絶妙な生き物がいっぱいだな、ジブリ。

何年かぶりに調味料ポットを買った。何十年ぶり?グッドデザイン賞のかわいいのを見つけてパッキンがしっかり閉まるのを何度も確認して買った。家で一度洗って乾かしてパッキンを閉めてお砂糖とお塩をそれぞれに入れたのだけどなんか密閉されない。おかしい。お店ではきちんと閉まったのに。付け方はあっている。持ち上げたりして色々と確認するが頼りない感じでしか閉まらない。困る。中のすり切り板のせいか、と思って取り外した。閉まる。うーん。すり切り板の付け方もあっていると思うのだけどなあ。売っていたときはこれはセットされた形ではなかったのだっけ。まあいいか、閉まるなら、とすり切り板を外して利用することにする。多分あってもうまく使えないだろうから。

ゆっくり料理する時間はないけど料理本が好き。随分たくさん持っている。東京に出てくるとき『暮しの手帖版 おそうざい中国料理』と中華鍋を親にもらった。私のは平成九年発行。今は装丁が変わったみたい。これ1、2、とか手順の番号がふってあるのとないのがあるのだけど読み物として楽しいし写真もとても綺麗。素揚げするものが多いから不注意ゆえ揚げ物を避けている私が実際にこの通りに作ることはないのだけど置いておくだけでも素敵なever greenな一冊。揚げ油使わないものをここから作ってみようかな。そういえばこの前、本屋を出たらちょうどお昼の時間になるところでビルのレストラン街に1人の人や3、4人のグループが続々と向かうのが見えた。あまりおなかが空いていなかったけど冷やし中華の看板を見つけて今年一回は食べておかねばと入った。ベーシックな色合いのきれいな盛り付け。麺の量が多くなくて助かった。『暮らしの手帖版 おそうざい中国料理』には「冷麺四題」として「蒸しなす」「揚げ魚とかまぼこ」「えびとトリで」「麻醤麺ふう」のレシピが載っている。文字のフォントも可愛い。「えびとトリで」の「で」がいいしこれ作ろうかな。丁寧なレシピの後に「おそばは、ゆでて水洗いしたてに限りますが、具のとり合わせや分量、タレの味つけ薬味、香辛料には、べつにキマリはありません。お好きなように加減して下さい」とかこだわりと適当をうまく混ぜこんだ文章もいい。「あとがき」は「とと姉ちゃん」のモデルの大橋鎭子。この本の料理を引き受けてくれたシェフ(漢字が打ち出せない)と花森安治のエピソードも書いてある。『暮しの手帖』は実家での生活にずっとあった。八月初旬に訪れた八戸ブックセンターではバックナンバーの表紙がズラーっと並べられたスペースがあり興奮した。母に家事を教わったことはない。こういう素敵な本や美味しい料理や慌ただしい子育てをそばで感じながら育った。環境って、教育ってと考えることが多い仕事だ。自分の体験はほとんど当てにならないが思い出として大切ではある。そう素直に思えるようになったということかもしれない。その気候に持ちうる持ち物で知恵と工夫を書かれた通りに真似てみる。なぞる作業。今日も一日。

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板かりんとう食べたり高橋ユキさんの記事読んだり。

おしゃれ着洗い用洗剤(商品名以外だとなんて言えばいいのだろう)で洗った服たちを外に干した。一番太陽に近い服が光を纏っている。服も日焼けしちゃいそう。陰干しの方がいいのだろうか。でもこの日差しを無駄にするのもイヤ。出かけるまで我慢して、と服に対して思う。

8月初め、浅虫温泉に泊まってブラブラしていたら久慈良餅店という看板を見つけた。地元のお菓子らしい。惹かれた。ホテルの数軒先に店を見つけた。立派。永井久慈良吉餅店という。あとで寄ろうとホテルに戻り翌日浅虫水族館へ行った。そしたら水族館のショップにも久慈良餅が売っていた。出来立てが運び込まれているようだった。地元の連携はほかのシーンでも目にしたが地方では特別なことではないだろう。いや、地方に限ったことではないだろう。私の住む小さな街の商店街でもその店のパンやコーヒーを同じ街の別の店でいただけたりもする。大切なことだ。久慈良餅の賞味期限は製造日入れて7日間と書いてあった。食べたいけどそれなりに重量のある羊羹のような包みで一人分に切ってあるような包装のものはない。お土産にするにしてもみんなに切り分けてすぐに捌けるような職場はないから7日間だと難しいかなど考えながら水族館の帰り道に永井久慈良餅店へ寄った。線路沿いの小さな道の方にも小さな入口があった。作業着のままお店の人が出てきた。迷った挙句、この後の行程も考え久慈良餅を諦め「板かりんとう」というもうひとつの名物を買った。それを今食べている。危険。かりんとうは止まらない。しかも歯が割れやすい私はまた歯医者さんに呆れられてしまう。でも美味しい。なるべくそっと噛む、といってもそっとじゃ噛めないので力を入れる。おせいべいとかかりんとうとか硬いものが噛む歯があるからこそのお菓子なんだから耐えられるはずというか耐えて。どうしてかりんとうってこんなに美味しいのだろう。「板」って珍しい。

しまった。高橋ユキさんの記事を読みふけてしまった。『現代思想』からの抜粋。

「なにとぞ執行猶予を」被害女性は耳と鼻から出血…再犯のDV男をぬか喜びさせない名物裁判官が放った“衝撃の一言” https://bunshun.jp/articles/-/65086

すごい。事件内容もひどいし裁判官もインパクトあるが高橋さんたち傍聴マニアの人たちの視点がとても興味深い。実際に見ている裁判の数が違うから大抵はこうなるものがそうならないときの見方の細やかさや驚きが半端ない。そしてそれを書くのもうまい。

もう準備しなくては。今日もいろんなことがあるに違いないけどなんとかできるものはなんとかしていきたいものです。どうぞ良い一日を。

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オフィスのビルあるいは駅までの景色

昨日は夜になっても昼間のままの雲が空に残っているかのようだった。夕方、日没直後の月をオフィスのビルから眺めた。一瞬外に出て中に入った。

換気扇をつけると窓がぴったりしまって開かなくなる。気密性が高いというのかもしれないけど給気と排気のバランスが悪いともいえるか。

今日は変な時間に起きてしまった。私が寝た頃に届いたらしいメッセージをスマホで読んだ。紹介した本について嬉しい言葉が書かれていて著者でもないのににっこりした。

朝はまだ静かで車の音も少ない。バタバタする必要もないのに色々してたらフルーツを食べる時間がなくなってしまった。そこにあるのに食べられないとなんだかとても残念な感じがする。自分のせいなのに。

駅までの道に不思議な木があって、ずっと枯木のままでいるのに一気に花が咲く。咲けばメインは桜とわかるのだけど藤とかいろんな花が絡み合ってて一つの塊でいろんな季節感をだしてくる。今も名前がわからないけど知っている実をつけた蔓のような緑が葉っぱの布団から這い出してきたかのように伸びている。

ピンクの芙蓉の花は大きな5枚の花びらをうまい具合に重ならないようにふんわり広げきれいな色のお皿みたいな場所に花柱を突きあげている。芙蓉はふわふわと色んな方向をむいているがひまわりというのはみんな太陽の方向をきちんと向いていて私が虫だったとしても失敗せずに辿り着けそう。お互いに生き延びるために優しい設計でありたいものだ。

余裕がないことを忘れていた。動き出す景色の中へ私もでかけていかねば。まだそれほど気温は高くない。暑さ対策も冷房対策もぬかりなくお大事に。

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きのうのあまだれにみみをすます

オフィスからそう遠くない街を歩いていて、頭よりずっと高いところから地響きするような大きな音がした。雷だ。予報通り。降ってくるかな、と空を見上げる。視界の前方には水色の空に真っ白の大きな雲が浮いているが真上の空はのっぺりしたグレーになっていた。あっ。手の平をひらいて待つ。あれ?降るのか降らないのかはっきりしない空を尻目に私は建物の中へ入った。

夜、また雨を感じた。というか雨の音を。でも身体のどこにも雨が触れた感じがしない。傘をさしたら降っているかどうか確認できるだろう。さっき後ろの人の影だけ見たがその人も傘をさしていなかった。その人はいつの間にかどこかの角を曲がったようだった。そっと手の平を広げた昼間のことを思い出して今度は前方より少し上空に突き出すように腕を伸ばして手を広げてみた。やはり感じない、雨を。結局雨の音を感じるだけで雨に触れないまま駅に着いた。昨日は一日傘を使わなかった、濡れた道路はみたけれど。

東京にも雨が降る。ポツリと地面が濡れたら少し早足になる。部屋に入って窓を開けて外をながめる。世界がどんどん濡れていく。昨日は大きな水溜まりにうつった剪定された夏の紫陽花を撮った。

今朝は昨日より少し明るい。スマホで天気予報のアプリを開いたらしばらくグレーのままだった。もう一度開くと「雨 のち くもり」とでた。雫マークの隣に60%と書いてある。相変わらず気温は高いらしいがそれでもかなり秋めいてきたように感じる。少しぬるくなった冷たい麦茶を飲んで果物を食べた。麦茶が温かいお茶に完全に切りかわる頃はきっと確かに秋だ。朝の果物を楽しみに店先をうろうろする時間も増えるだろう。

さあ、今日も人と会い話を聞く。耳をすます。言葉の水分量はどんなだろう。そしてそれはどんな響きがするだろう。耳をすます。谷川俊太郎の詩を思い出した。「みみをすます」。大好きでオフィスのWebサイトを作ったときに最初に載せた詩。縦書きの詩だし雨のように縦書きで書きたいけど横書きで。冒頭だけ。

みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます

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ウィニコットを読むこと

久しぶりに明るくならない朝。グレーという時点で夜よりはずっと明るいけど。今日は曇時々雨らしい。天気予報のアプリでは雷注意報の⚡️がついている。

朝から晩まで働いて家に着くともうかなり遅いので積み残した作業は朝やるしかない。夜のうちにやっておきたくてもダラダラするばかりで全く進まないので睡眠時間にしたほうがいいとなる。朝の作業はなんの苦もなく機嫌よくできる。

とまで書いて別のことをはじめてしまった。ここは何も考えずに一気に書けることしか書かないのだけどその短時間ですらもたなかったのか、と注意のそれやすさに苦笑する。ちょっと別の部屋へ行った時にちょっと気がかりなことを見つけたからだろう。ついでにスマホで処理水に関する記事を読んでいた。

昨日「ウィニコット「移行対象と移行現象」(1958 )を読み直してウィニコットってモーニングワークについて、つまり抑うつについてどう考えているんだっけと「原初の情緒発達(1945)に戻る。」と書いたhttps://twitter.com/amisoffice1/status/1693397880621662657?s=20

どちらの論文も北山修監訳『小児医学から精神分析へ ウィニコット論文集』(岩崎学術出版社)に収められているが「移行対象と移行現象」は2015年に改訳が出た『改訳 遊ぶことと現実』にも収められているのでそちらで読んだ方がいい。ウィニコットの論文を読むのはフロイトの論文を読むよりもずっと骨が折れる。言葉にできないことを言葉にしようとするときにどんなことが生じるのかを読者に体験させることに関してはウィニコットは成功していると思うが、これを普通に読むだけではほとんど理解ができない。私の主催するReading Freudに出ている人はウィニコットの読書会にも参加しているがこれまで難しくて敬遠してきたフロイトがウィニコットより「読める」ということには同意する。ウィニコットは読者に乳児や乳児とユニットをなす母親に備わっているような創造力を要求する。これがどれだけ骨の折れる作業かは普通に育児を想うだけでわかるだろう、経験者であればなおさら。その大変さが否認されまくって母親に責任を取らせているのが現状だろうけれど。さて、フロイトと異なるのはウィニコットが言葉にしようとしている言葉にできないことは「原初の」状態であり、精神分析状況における二人が体験する非常に激しく厳しい側面であるということだ。「移行対象と移行現象」においてウィニコットはこの論文は「対象というよりも、対象を使用すること」について書かれたものであり、そこに含まれる「逆説」が「受け入れられ、耐えられ、尊重され、そしてそれが解決されないように求めている」と書いている。「対象というよりも、対象を使用すること」に関するさらなる考えはもっと後に展開されることになるがウィニコットがいう「逆説」はこの論文の数年前に書かれた「原初の情緒発達」においてはほとんど精神分析状況、つまり転移状況における愛と憎しみの分かち難さにおいて衝動的に行動しないこと、思考することとして記述されていると思う。ウィニコットはそうとははっきり書かないが精神分析を体験した人ならその状況がいかに耐え難いものかしかし耐え得るものかそして耐える価値のあるものかを知っているだろう。ウィニコットはまだ見ぬそこへ向けて希望を持つという無意識的努力を読者にも要求しているのかもしれないが、ウィニコットの人気はBBCラジオなど一般の人に向けた講演や講義ゆえではないだろうか。もちろんウィニコットの語りが小児科医としての豊富な臨床体験だけでなく精神分析体験に裏付けられているゆえでもあるだろうけれど。ウィニコットを読むためにはフロイトとクラインを読むことが必要だ、というのはウィニコットを読めば読むほど痛感されるものであり簡単に推せる相手ではないことは確からしい。

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土地

なんだかさっぱりしないのでシャワーを浴びた。洗濯もした。麦茶はどうしようかなあ。作ろうかなあ。やっぱりもう身体が冷たいものを求めてないんだな。一応作った。飲んでいるのは暖かい紅茶。美味しい。京都の小さなお餅もほんの少しいただいている。信玄餅そっくり。仙台の「萩の月」と山梨の「信玄餅」はいろんな場所でそっくりさんがいる。どれもそこそこ美味しいけど本家が一番美味しい。黒蜜が好きなんだけどこれはお餅も不思議な味。抹茶が練り込んであるのね。長後の直売所の梨となんとかという紫の葡萄とシャインマスカットもあるのだ。あとでいただきましょう。なんとかという紫の葡萄の名前も確認しましょう。藤沢で働いていたときに知った駅、長後。降りたことあったかな。藤沢はお気に入りのお店が何軒かできて夜の鎌倉に寄って帰ったりしたこともあった。まだそんな時間があったんだな。私は地域に根付いた医療機関で働いてきているからその土地その土地の特徴があって興味深いのだけど藤沢は患者さんのサンダル率が高くて海が近い地域ならではのお話も多くて新鮮だった。その土地ならではの文化というのがあっていろんな仕事のことも教えてもらったなあ。今は都会で仕事してるから農業とか海の話は子供の頃の話として聞くようになった。色々な土地で育って東京に出てきて親や親戚は自分が育った町に暮らしていたり出たり戻ったり色々色々色々な人生がいろんな土地で紡がれる。

青森で突然気候変動や環境問題を強く意識したのは地元の人との話や水族館の資料のおかげだけどその土地の暮らしを構成していたものが穏やかな口調ながら「いつもと違う」といわれるときそれは危機の前兆なんだと思う。直売所の果物や野菜にも変化は出ているのだろう。その土地の人の声には力がある。私は動かされた。こういうことを書きながらずっと頭に浮かんでいるのは福島のこと。安東量子さんのSNSやnoteで福島の人の声を感じているが今発する声が言いたいことを話せているとは限らない。長い時間をかけていろんな状況や感情となんとか折り合いをつけて紡いできた言葉はすでにとても複雑でまとまりのないものだろう。見た目は単純化したりパターン化したりしてしまっているとしても。そこで育ちそこに暮らす人たちの歴史に生じた断絶を想像する力をつけていきたいと思う。

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日曜朝

すごく寝たと思ったのにまだ5時台だった。カーテンの向こうは6時台っぽかったのに。日の出も遅くなってるしこの明るさなら結構な時間では、と寝坊できる喜びを感じていたがいつもと同じだった。この夏は夜の温度調整に成功していると思うのだけど昨晩は少し寝苦しかったのか、逆に快適だったから時間より質ということか。なんとなく残念だけど起きるかといつからか起きるなりスッキリ動けるようになった身体で部屋を出て南側の大きな窓のカーテンは開けずドアを開け閉め開け閉め大きな机に置かれたPCの前に座って冷房を入れる。西側のそこそこ大きな窓のブラインドの向こうに強い光が溢れているけど西だから入ってくることはない。冷房はすぐに効く。首の後ろに風があたるとすぐに冷える。朝日新聞デジタルを読む。Whiteberryの前田有嬉さんはホタテ漁師の人と結婚したのか、メンバーの紹介で。先日、青森の浅虫温泉に行ったがそこでは「むつの海」が再現されており、カゴとかホタテの養殖器材の上に魚がのんびり乗っていて面白かった。サメの下に敷かれている魚もいた。お互い何も気にしていない様子だった。ホタテ漁は養殖と天然の両方に関わっているんだよね、きっと。大変手間と時間のかかる仕事だな、と水族館で学んだ。Whitberryの「夏祭り」は歌詞とかは曖昧だけどカラオケなら歌えると思う。パワフルでいい曲だった。前田有嬉さんは今二人目を妊娠中だが解散後ブランクを経て再び歌の仕事をしているそうだ。あんなふうに歌えるって素晴らしい。

ニューヨークで音楽の仕事をしている身内が帰ってきた。道でばったり会って「帰ってきてたの!」となることがこれまで数回会ったが今回は会う日を決めていた。身内ならではの話をたくさんした、と書きながら私の仕事は身内しか知らないことを身内は知らない形で話されるのを聞く仕事だな、と思った。映画の話もした。宮崎駿の映画についてはじめてたくさん語った。Netflixで見てきたアニメやドラマの話もいっぱいした。モーツァルト・イン・ザ・ジャングルというドラマを教えてくれたが今はNetflixではやっていないようだった。お店の人とも楽しく言葉を交わしながらいろんな日本酒を試すように飲み楽しかった。

今日も「今日こそは」の一日だ。やらねば。熱中症、油断せず気をつけましょう。なんか暑さに慣れてきちゃってる気がしたの、昨日。水分水分。

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日めくりとか思い出とか。

何十年もよく見える目できたのに何歳からだろう、老眼が始まってからは早かった。どんどん見えなくなる。本が読めないのは苦痛だがこれまでそれなりに読んできた本のこともほとんど覚えていないのだから少し不自由がある方が記憶のあり方だって変わるかもしれない。

「あみさんはいい目してるんですよ」と眼科医は大きい声と大きい目で私を見ていうが「いい目」ならなぜ見えないのだ、と聞くのは我慢して小さく愛想良くした。「疲れやすい目だから目薬出しておくね」と言われて薬局で目薬を出してもらった。すっかり忘れていた。今さした。目薬久しぶり。結膜下出血になりやすかったのでその時は忘れずにさしていた。疲れ目だけだと見える症状でもないから薬のことも忘れていた。

色々とLINEでやりとりをしながらごく簡単な書類作業を済ませた。このくらいなら私でも楽にできる。名前を書いて印鑑を押す、みたいな。

時計の電池を変えてもらわねば。自分でボタン電池を買えばいいのだがどこかへ出向くという労力という点では同じなので丁寧に仕事をしてくれる近所の時計屋さんに行きたい。色々教えてくれるのも楽しい。あちらからしたら「だったらすぐに電池変えにきてください」という感じだろうけど。だって置き時計ならいっぱいあるんだもん。だってじゃありません。・・・子供か。

先日、日めくりカレンダーを一気にめくった。

三密にならぬ輪が出来盆踊り 落合水尾 七十二侯:寒蟬鳴(ひぐらしなく)

「三密」という言葉もすでに遠いか。厚生労働省のサイトもなんとなく曖昧に思える。輪にも色々ある。

生身魂ひよこひよこ歩み給ひけり 細川加賀 季語は「生身魂(いきみたま)」

生きているなら歩いてきてくれよ。そうそう、そうやって。昨年亡くなった人の名前を先日恐山で叫ぼうと思ったが忘れた、というかどこでどうしたらいいのかわからなかった。お参りはしたけど。下北半島の人には恐山はとても身近で「死んだらお山(恐山)へ行く」と信じられていて先祖に会いにいく感覚があるとのこと。恐山はもっとおどろおどろしいところかと思ったら視界が閉ざされる場所がほとんどない岩場と湖だった。カラカラ回る風車が少し不気味で炎天下、湖の水際を歩くと硫黄のせいか砂と水が黄色く染まっていた。

敗戦日それからずつと敗戦日 堀田季何

1945年8月15日。私も敗戦日というな、この日のこと。今年は半藤一利を再読した。

人ゐても人ゐなくても赤とんぼ 深見けん二

赤とんぼはまだみてないな。浅虫温泉のある浅虫駅はとても穏やかな陸奥湾をいつまでも望める場所なのだけどお散歩していたらそばにもとんぼ地面にもとんぼ岩場にもとんぼ。全然逃げないからそばからもすぐ横からも真正面からも写真を撮らせてもらいました。今回の旅は浅虫温泉に行きたいというところから選んだのだけど下北半島素晴らしいところだった。その分、原発の問題が大きく感じられた。

旅のことを上司に話した。上司も40年前くらいに行ったということで当時の話とか縄文文化のこととか教えてくれた。旅に出ると一緒に行ったわけでもない人と同じ場所での体験を新鮮な語り口で聞けて楽しい。

さあ、慌ただしい毎日。昨年のこの頃の嫌なことも思い出すけどそれはまた別の場所で別の形にしよう。学ぶのだ、痛みからこそ。囚われながらも別の形へ。

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スイカ、オペラシティはフェスティバル

陽射しが強い。部屋は涼しい。冷たい麦茶。いつまで作ることになるかなあ。気温はまだまだ高いけど冷たい飲み物はもうイナッフって感じだな。朝の手軽な水分のために飲むけど。お菓子とかといただくのは暖かい飲み物の方が合う気がするし。

スイカも食べた。水分いっぱい。カブトムシになった気分。この強い香りに惹かれてくるのかしらね。果物って香り強いねえ、と思うのは私がアリンコに敏感になってるから。匂いの原因を作りたくなくても生活してれば出ちゃうしね。その後、アリンコ出てないけど。カブトムシはどうしてスイカ?と思って調べたらいろんな俗説があるのね。今はカブトムシにスイカは主流じゃないみたい。栄養が足りないって。いろんなこと書いてあったけどネット情報がどれがどのくらいよくわからないから本屋さんに行ったときにチェックしてみよう。

オフィスの最寄駅は初台駅で徒歩5分くらいかな。オペラシティと駅が直結なのだけどオペラシティは昨日から20日(日)までフェスティバル。昨日少し通りかかったら飲食用の椅子とテーブルがたっぷり出ててみんなビール飲んだりしてる中サックスのカルテットがジャズを演奏をしていた。子供たちは自分たちの遊びに夢中で喧嘩して大声で泣いたりすぐに再びキャッキャやってた。まだ夏休み中だものね。外でこういうのがあるといいよね。子供がある程度どっか行っちゃってもこっちの視界も広いからすぐ見つけられるしお互いに自由度が高くなる。そこで音楽。素敵。ソプラノ、アルト、テナー、バリトンの4種類って言ってた気がする。サックス憧れたなあ。ソニー・ロリンズが素敵すぎたから。

ああ、今日こそやらねば、というか本格的にとりかからねば、ということが3つある。色々遮断してがんばりましょう。遮断できなかったら吐き出しながらがんばりましょう。進まなくてはいけない時があるものね。涼しくして水分とってみなさんもお大事に。

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斎藤幸平を読んだり。

4時台でも東の空が明るくなってきた。まだ夜色の方が濃いけれど。日の出はどのくらい遅くなったのだろう、など思うとき、主に日の出と月の様子が気になるときは国立天文台の「今日のこよみ」を見る。さて今日の東京は。あえて東京はというのは旅に出ると日の出の時間の違いをはっきりと感じるからこれまでのそれを意識している。今日の日の出は5:01だそうだ。日の入りは18:29。まだまだ遅い。月は昼と重なって見えない。

キッチンで冷たい麦茶をグラスに注いだ。昨晩少しずらしておいたつもりの食器が重なり合っていた。乾いた食器はしまってそれらは内側が乾かないので置き方を変えた。もう夜のおかずのことを考えている。夏野菜をを煮るだけでもいいのだがもっとチャチャッとできるものがいい。もう少し涼しくなれば煮込み料理は作っておけばいい。頭の中にはおでんの季節がもう来てしまった。

有名なタナー講義のひとつ『人新世の人間の条件』(ディペシュ・チャクラバルティ著 早川健治訳)を読んだあとはずっと斎藤幸平を読んでいる。チャクラバルティの本についてはnoteになんとなくメモした。今読んでいるのは博士論文が既に文庫化しているのでそれを。『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』(角川ソフィア文庫)。マルクスに関する革新的な論文や書物を表彰するドイッチャー記念賞受賞作。解説はスラヴォイ・ジジェク。博士論文ってすごく難しいのが多いと思うのだけどこれは読める。既に他の著作を読んでいるせいもあるだろう。斎藤幸平は小さな善意によってやってる感を出す欺瞞を嫌い、実践に役立つしっかりした理論の啓蒙を目指しているようで確かに啓蒙される。マルクスすごい、とカジュアルに思えるのも入り口としていいと思う。こういう本を読むと同時に私などは目の前の現実に常に対峙していかねばならない。精神分析はお金がかかるので金持ちの治療法と思われているだろうけどこの年代の平均的な稼ぎ手である私が受けられるくらいではある。精神分析に限らずお金をかけて心理療法を求める人たちの背景にものすごい貧困の事実や過酷な環境があったりすることもたやすく想像できるだろう。たやすくではないかもしれないが想像してみてほしい。過酷なことほど外では語られることはないが生きるために語る場所を求める心の切実さに対して「お金のある人」というような分類をされるとその発想の貧しさに悲しくなる。それを自分の患者に対して言えるだろうか。また、私が知らないだけかもしれないが同じアジアなのに今の日本では触れ得ないような過酷な状況で生きる人たちのことも物語として消費するのではない仕方で知る必要があると思う。8月24日に柏書房から出るソーミャ・ロイ 著/山田美明 訳『デオナール アジア最大最古のごみ山――くず拾いたちの愛と哀しみの物語』は今の読書をただの読書にしない力を持っていそうだとその一部をnoteで読んで思った。

朝の音楽がラジオから流れている。人の声、人の身体、まずはそれらが大切にされることを様々な痛みとともに願う。私の場合は実践として。

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蟻、サービスなど

晴れてるのに前が降っている。これは晴れているとは言わないのか。サーっという雨の音にザーッという車の音。部屋はそれほど涼しくないのに冷房が直接背中に当たるとすぐ寒くなる。すぐに消す。すぐに暑くなる。もういいや。つけない。どうせ外に出たらもっと暑いし。

キッチンの小蟻が何度退治しても出てくる。1匹見つけてしばらく見てるともう1匹みたいな感じで数えられるほどなんだけど。2年くらい前にも出たから蟻退治グッズは買ってあってすぐに対処したけどそれが置いてある場所から堂々と出てくる。なぜ。きれいにしてるんだけどな。というか蟻が出たら嫌だからきれいにしてるのになんなんだ。匂いも私の鼻にはわからないけどするのですか?こんな小さいのに色々優れている。すごい。のかもしれないけどそこはダメです。あなたたちの住処も大事かもしれないけど共存しましょうとはならないのよ、そこでは。うーん。悩ましい。蟻も大変だな。なのかな。

台風7号で鳥取の橋が崩落したのか。ラジオで言っていた。ハワイマウイ島の山火事も今日で1週間か。うーん。自然は難しい。被害が広がりませんように。

さっき食べたお菓子の店の作り手のご家族のブログを見つけた。そのお菓子の名前を入力したら出てきた。思い出してにっこりしてしまった。

どこだろう、この道なんだけど、と歩いていると前方に車が止まって大きな荷物を運び込む人たちが見えた。そこだった。私をみるとみなかったかのように2階へいってしまった。お盆休みでご家族が帰省されたようだった。そのすぐ前に寄った洋菓子屋さんもレジで目の前に立つまでは声をかけても向こうが見るか見ないかにかかっていた。そういう地域なのかな、と全然嫌な感じではなく思った。観光客だとわかるのだろう。でもちょっと待てよ。近所の焼き鳥屋さんもこんな感じだけど受ける印象が全然違う。私結構買ってるのにこっちは結構嫌だし怖い。その人がいるときは勇気を出さないと買えない。美味しいから書うしその人じゃないとサービスしてくれるからとんとんかもだけど。もうかなりお歳で店以外で見かけるともっと高齢に見えるのでお店にはずっと立っててくれるのがいいんだと思う。ずーっとこのスタイルでやっててしかもとても小さい店なのにコロナ禍からかな、待たないと買えなかったりするくらい繁盛しているし実際美味しい。私もタバコ臭いクセの強い喫茶店でバイトしていた頃、お客さんに理不尽な注意をされたりもしたけどどう考えても向こうのほうが態度悪かったし無表情で無視していた。それぞれのあり方があるね。

今日も1日がんばりましょう。こっちは今は雨の音はしません。降ったり止んだりかな。被害のあった地域に少しでも早く多くの実際的なサポートが入りますように。

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2023年8月15日

日が落ちてからの涼しさが戻ってきた。昨日は強い陽射しの中、小さな事務所へ寄ってあれこれ話していたら聞きなれない音がしたけど雨。聞きなれないのは私がその建物に慣れていないのと雨の降り方のせいだった。またしばらく話したり先方が電話をとったりしているうちに雨はすっかり止んで外はオレンジの光でいっぱい。挨拶をして外に出ると来た時よりもずっと強い陽射しで日焼け止めをしていないことを思い出した。しばらく歩くとさっきの雨に濡れた白いお花が大小のたくさんの水玉を光らせていた。これはムクゲみたい。蝶の羽みたいに繊細なのにしっかりした5枚の花弁、白い雌蕊がおしべを突き抜けるようにピンと伸びてる。葉っぱの観察はあまりしなかったけど花の名前を知りたいなら葉っぱもみないとだった。歩きながら目を惹かれたところをスマホにおさめてるだけだったから。雨上がりのお花はきれいで思わず撮ってその直後にはまた空がグレーになって遊歩道を少し先に進んだら同じ花が白黒写真の雰囲気で撮れた。振ったり止んだり止むだけではなく一気に晴れたりと変なお天気だった。ニュースでは続々と新幹線や空の便も運行中止や欠航が発表されはじめた。東京の小さな街の私の駅でも台風による遅延の可能性がアナウンスされていた。どうか被害が大きくなりませんように。

ハワイの山火事も心配でハワイに住む友人にLINEした。友人が住む島でも少し山火事が発生してハイウェイが止まったというがマウイが大変だと心配していた。青森の海の状況や涼しい暮らしを守れなくなった人たちの話を聞いて温暖化に本気でビビって急に人新世と自然災害について色々読みはじめたり周りと話したりしているがハワイの山火事は何が誘因なのだろう。これ以上被害が広がりませんように。地球の本来の状態ってどんななんだろう。「初期状態に戻しますか?」「yes」とキーを叩けばどうにかなるものではないのだから変化からそのずっと前とずっと先を推測しつつ学び続けていくしかないのだろうけど。

ピーピーピーと音がした。慌てた。麦茶を作ろうと思って鍋を火にかけていたのだった。IHだから火にかけるとは言わないか。全部水がなくってしまった、と思って鍋を持ち上げたらまだ水が残っていて慌てたら熱い水がこぼれ自分にも少し飛んできた。危ない。火傷は本当に怖い。気をつけねば。こうやって音で知らせてくれるのはいいけどそのうちこういう音も聞き逃したりなんの音か瞬時に思い出すことができなくなったりするんだろうな、と自分を心配する前に親世代のことも考えないと。今日は終戦日。なんとか生きてきた人たちの語りを聞く機会を大切にしようと思う。

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青森で学んだこととか人新世、公共空間とか。

湿気がひどい。玄関がタプタプしているような感じがして除湿器があるのを思い出した。ワイド、8時間タイマーでかけた。きっともう水がいっぱいになっている。

なのに目が覚めたときにふと冬を思い浮かべた。鰯雲を見た。鈴虫の声を聞いた。もう夏ではない、という感覚がどんどん季節を先に進めている気がする。もう何度も何度も繰り返してきたことだから。それなのに毎年この暑さに慣れることはない。先日、青森県の下北半島を主に回ったがそれまで扇風機しかなかったが慌てて冷房を導入したという話や扇風機しかないからお客さん倒れちゃうから店を閉めてたという話を聞いた。浅虫水族館では今年4月から環境問題やSDGsについて学ぶことができる「アクア学びうむ~豊かな地球を未来に~」が企画展から常設展示に変わった。青森でとれる魚の種類も変わってきているそうだ。人新世(Anthropocene)はまだ既成概念ではないようだが地球環境や気候変動に対する人間の関与は実際どの程度であり、これから関与できるとしたらそれもまたどの程度なのだろう。その土地で主に食べられていたものが変わっていく。それは私たちの身体には確実に影響を与えるだろう。そしてそれは些細なことだろうか。あるいはどのくらい大きなこととして語っていくべきなのだろうか。

まずいなと思ったら一気に離れろ。それはそうだと思う。でも人はなかなかそれができない。最初から誰かに嘘をついて裏切っているような関係であればあるほどそれができない。自分の中ですでに生じている矛盾をどうにかするためには反復が一番手っ取り早い。相手を変えればいいだけだ。それは人からは離れているが状況からはほとんど離れられていない。その状況にある自分に折り合いをつけるために葛藤が生じない方を選ぶ。そしてまた失敗する。

大きな判断を迫られたときほど時間が必要だ。しかし何を「大きい」とするかはその人によって異なるのが大問題ではないだろうか。何が些細で何が大きいのか。そんな大切なことをどうしてそんな簡単に、ということもあればそんな些細なことにいつまでこだわってるのという場合もあるし、そもそも問題の区別なくいつも同じ態度をとり続ける場合もある。安全に時間をかけたいなら問題に対して思いきり逆の方向への舵をとり続けることもまた重要だろう。常に軋轢と分断を作り出しておくことがかえって平和を持続させることもある。動きにくい状況を作り出すというのもまた戦略かもしれない。

さて、SDGs。持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)という場合の持続をどう考えるかという問題もある。誰のための?どんな時間規模で?想定は何世代先まで?

精神分析においては言葉の意味内容よりも形式や文法を重視するがそれらの変化を見ていく必要があるだろうか。あるだろうと私は思っているが。意味内容を問う前に形式と文法を問う。この世界は人間だけのものではないがまず人間、まず自分。でも相手ある自分として。そこに暮らす自分として。別の土地へいけば視点はずれる。昨日、八戸ブックセンターで行政の方が好きだと教えてくれた富山の公共空間に関する本『にぎわいの場 富山グランドプラザ稼働率100%の公共空間の作り方』を紹介した。こうして別の人や別の土地や別の種と触れていけば少しは悩みや痛みは消えるのだろうか。わからない。とりあえず今日を一日。

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投句とか作業とか。

15日〆切の10句ができた。自分で作っておいてよくわからない一句を推敲しようと考えているうちに寝てしまったがなんにしても寝不足だ。いまだ投句することに意義があるというレベルで意欲に欠けているがそれでも投句することに意味があるのだ。そこからしか始まらない。何年もそんなだけど。

スマホをあまり使っていないのにバッテリーがすぐなくなってしまう。バッテリーの交換ってしたことがないのだけどした方がいいのではと言われた。

今日は色々と相談しながら勉強できる日なので少し作業を進めたい。体調も少し回復してきた。ナルシシズムから三者関係が生じる契機、つまり対象を使用しながら思考するための心的空間が生じるまでに治療者と患者で作り出している第3項はなにか。それが作り出される過程で生じる激しい抵抗は治療者が彼らの幻想上の繋がりに現実をもちこもうとするから。人は変わりたくなどない。これまでの自分がどんなに情けなく感じてもそれを感じさせた方に責任はある。そう思いたい。ナルシシズムによって視点を自分からずらすことができない場合、外から何を言われてもそれは全て同じものやこととして扱われる。自己の断片化によって異質な相手が見えてしまうことは彼らにとって侵入としか感じられない。情緒を体験するまでにも時間がかかる。断片化するくらいならどこまでも肥大したい。なかったことにしたい。幻想の空間が現実にとって代わっていく。治療者はその分激しく情緒を揺さぶられる。強力な不毛感もその一つ。ほどよくない環境を再演しながら体験の場を提供し、対象を肥大する自己を保護する環境としてしか捉えたくない彼らの処理の綻びを慌てて塞ぐのではなくその構造を探る。同時にそうされることの痛みを発生論的な解釈で意味づけてしまうことは体験を遠ざけるので避けたい。ナルシシズムは綻びを体験しない魔法として使われているのだからそれに共謀しない。などなど特殊な治療設定で特殊なことが生じる精神分析状況をより詳細に描写していく作業をしなくてはならない。

今日も猛暑日の予報。お盆休みに入っているところも多いだろうか。とりあえず身体第一で過ごそう。今日は美味しいお菓子も届く予定。全部美味しく食べる胃腸にしておかねば。食べて治す方法とかあればいいのに、なんてね。

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まとまらず触れられず語られず

何も考えたくないというよりは何も考えられない日々が続いている気がする。仕事は別。相手がそのときどんな感じなのかに注意を向け続けている私の仕事における思考は普段の思考とは違う。こうやって書き始めれば色々考えているらしいので正確には何も考えられていないわけではないのだがいつも考えていたようなことが全く考えられないというか今までどうしてそんなことを考えていたのだろうということを考えたりする。

精神分析では思い浮かんだことを自分の声で通じなかったり言葉にできなかったりしながらもなんとか言葉にし続ける。そういう設定が自由連想だ。私もその設定のなかでこういう状態に何度も何度もぶつかってきている。だから特に不思議でもなんでもないのだが多分いつもよりその状態を強く意識している。本やセミナーでの言葉より人の話し言葉や行為に触れている時間が長いからかもしれない。まとまらないものに身をひたす時間。

先日、小さな見学ツアーに参加した。私たちは 2人で参加した。あとはみんな 1人だった。

車内はシーンとしていた。私たちはガイドさんの説明にへーっと顔を見合わせたりジェスチャーを交わしたり時折短いやりとりをした。何回かバスを降りてそれぞれのペースで散って所定の時間に戻ってくるのを繰り返した。お昼は階段を上って右のお部屋にお弁当を準備してあると言われた。私が一番先に階段をのぼった。あとから来たみんなはキョロキョロしていた。よくわからないままそれらしい部屋に入ってみた。ビニールの風呂敷に何かが入っているのがみえた。開けたらお弁当だったので続いて入ってきたみんなに配った。そういう係の人みたいに思われていたのか受け渡しがやたらスムーズでおもしろかった。あとからきた人も戸惑っている様子だったので渡した。ポットに冷たい麦茶が用意されていてありがたかった。みんながとってもリラックスしているように感じた。スマホもたいしていじらずほとんど言葉も交わしてないのだけどそれぞれがそのツアーを楽しんでいるようだった。色々な場所ですれ違ったり見かけたりするたびにいい表情をしてた。

ウィニコットは孤立と孤独の違いを強調し誰にも触れえない、触れようとしてはいけない、私の理解からしたら語り得る領域に持ち込んではいけないこころの領域を描写した。ある程度の年齢になり孤独をそれなりに通過したあとに達する領域もあるだろう。彼らの静けさと穏やかさが守られていた時間ゆえの表情だったならいいなと思った。

今日もそれぞれ。

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配慮、葛藤、解体

まだカーテンを開けていない。また胃腸がやられてしまった。悲しい。おいしいものをおいしく食べてるだけなのに。脱水にだけは気をつけて過ごさなければいけない。

体調が悪いと普段考えられるようなことが全く考えられなくなる。自然に体が動いているように見えても実はたくさんの作業をしているんだなとそういう時に感じる。ぎっくり腰になったとき、前から人が来るだけでこんなにも怖いもんなんだと知り自分の痛みに配慮しながら予測できない相手にも対応しなければならないことの困難に意識的になった。だから配慮は圧倒的に配慮する側の想像力が必要なのだろうと思うがひとりのことにエネルギーをさくというのはこれまたものすごく難しい。口ではなんとでもいえるが行動するのはせざるをえないときとなる。そりゃそうだろう。とすると支援や配慮を必要とされる側も自分が欲するものより必要なことを考えることが大事とされたりする。私たちはどちらの立場にもなりうるのだから、と考えるだけでお互いのことも自分のことも思いやりながら行動できたらいいのかもしれないがそういうこと激しい葛藤とともに描写されないとしたら相当まずい気がする。精神分析が高級品にみえるとしたらこの葛藤する力に重きを置くからだと思うがこのナルシシズムの時代、葛藤は必要にも大事にもされなくなりつつあるのだろう。

先日、山車の解体作業の現場を通りがかった。こうやっているのか、ということにも驚いたし多くの人が解体に向けて協力して丁寧に作業するプロセスでいろんな人の表情をみられたのはとても貴重だった。

人を必要とする作業を作り出しながらなにかを繋ぎ残すプロセスに解体という作業が含まれることの意味を考えた。こんな外側から意味を考えることなど作業自体にはまるで無意味だけれど。

今日はあまり動けなさそうだけど安全に過ごしたい。みんなも元気で。

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暑い

暑い!立秋を過ぎてすでに秋を感じるのも事実だが、やはり暑い。いつもと少し目線を変えて歩く道を変えて違う人と話をしているといつもとは全く違う頭の使い方をしていると感じる。

毎日いろんな人と会ってのけぞったりとにかくいろんな気持ちになりながらいろんな話を聞いているはずなのに仕事以外で別の話を聞くとそんな気になるんだからとても不思議だと思う。この仕事は特殊というか人間は変だな。一人一人みんな違うんだから当たり前だがこんなにも異なるものかと毎日毎日感じている気がする。

さっきピングーの話をした。歯を磨くようにいわれてトイレにブラシこすりつけて音だけ立てているシーン。子どもってほんとこういうことやる。私もたまにやってつっこまれる。歯磨きとは別にね。だってめんどくさいこといっぱいあるでしょう。

子どもと遊んでるとそんな叱られるようなことしかやらない。子どもはすごい。ものすごくすごいので勝ちにいく。実際の勝ち負けなんて反転しやすいものはどうでもいいが。お互いに真剣に楽しめる体験をたくさんする。大人は色々めんどくさいよ。なんとなくなってしまうものだから引き受けるけどね。

今日もよい一日でありますように。

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季節はめぐる、「大人になる」

キッチンの小さな窓を開ける。網戸に雨粒。鈴虫が鳴いている。ルイボスティーを入れて塩レモンキャンディーを口に入れた。

昨日は新宿中央公園の亀もへばっていた、ように見えた。石にへばりついていたという意味でもへばっていたといえるかもしれないが亀は別にへばりついていたわけではないだろう。もっと余裕がある。ご存知だろうか、彼らの意外な軽やかさを。小亀たちはまだよちよちだが。暑すぎたせいか亀を眺められるベンチにはひとりしか座っていなかった。亀のすぐそばで長時間足を止めている外国語を話すグループが二つあった。見れば見るほど面白いからね、亀。多分どこの国にいても。

立秋だ。この前の鱗雲に秋を感じてしまったが本当にすぐそこにいたのだ。ここからも鈴虫が聞こえる気がするが除湿のモーター音の方が強い。

回復できない傷がどうであろうと季節はめぐる。残酷とか酷いとかいくらいったところで人間の都合で動いているものなんてほとんどないのだ、多分。無力だと分かっているのに生きていたら何かが起きてしまうから起きてもいないことまで想像したりしちゃうのだろう。シンプルに、ミニマムに、なんて無理だ。常に過剰。

ラジオから演歌が流れてきた。紅白でしか聞かないが聞くとうまいなあと思う。私はクラスで歌が下手な人と認識されていた程度に歌が下手(つまりかなり。合唱コンのせい。)なのだが先日数年ぶりに短時間カラオケにつきあった。小さい頃から失敗だらけの私は何かが下手であることをほとんど気にしないので(エアロビとかも。)気にせず歌った。おまけに記憶力もない。あれだけ口ずさんだaikoのカブトムシ。出だしを忘れるとは。助けてもらった。若い子の歌はほとんど知らなかったが本人のライブ映像が流れて歌とダンスのうまさにびっくり。ノリノリだった(古いか)、私が。下手でもなんでも音楽は身体にも心にもいい。先日立ち寄ったビルの踊り場で高校か大学の吹奏楽部かオーケストラ部が演奏をしていた。なんともいえないヘタウマさで大変好感をもった。弾けるだけすごいとか私レベルと比べているわけでは全くない。音楽には力があるのだ。もう中学生の子が保育園に入る前に熱唱していたアナ雪を思い出した。あれも素晴らしかった。

保育園で誰かが歌い出すとみんなが歌い出す。お隣のクラスの子も。まだ不明瞭な言葉で。全身の動きだけで歌っている子もいる。こういう姿に希望を見いだすことができないなら一体何に、という気さえする。

彼らはこんな社会で大人になっていかなくてはいけないのか。大変なことだ。これだけ子供のままでいられる社会でどうやって大人になれというのか。世代を繋ぐことを真剣に考える機会は減るばかりではないか。ただ「大人になる」ってなんだろう。私にとってそれはエディプスコンプレックスについて考えることだ。フロイトが近親姦と殺人という激しい言葉の世界を理論の中心に据えた意味を考える。

とりあえず動こう。やることやらねば。

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不義理、セクシュアリティ、土産

こんな朝早いのにゴミ捨て場にはすでにゴミが。私も色々捨てた。今朝は風がない。向こうのほうの曲がり角にグレーの
Tシャツを着た人が見えた。家の前の道路はすでに灼けたような疲れたような様子だった。

戻ってきた。机の上に今年も使わなかった暑中見舞いのハガキを見つけた。不義理をして申し訳ございません。唸る。いろんな申し訳なさを思い出してしまった。絶対思い出せていない不義理もある。申し訳ございませんの宛先さえ不明。というかこんな不真面目だったりファンシーな暑中見舞いのハガキを溜め込んでいたなんて・・・。私そんな人だったっけ、と思う。不真面目ではあるかもしれないがファンシーではない。そのときは相手に合わせて準備してるからそうなっているに違いないけど出してないのでは意味がない。唸るしかない。

しまった、今目に入ったファイル、この連絡もせねば・・・。あれもこれも先方がすでにお盆休みに入ってしまっていたらどうしよう。ありうる。私は休みに入ったら遊びもするけどそれはそれで溜め込んだ仕事もする。毎度そんな状況だけどこういう休みがないと色々片付かないからやっぱり休みはありがたい。

ちょっと思い出したからメモ的に書くけど精神分析体験はなくとも(あるほうが特殊だろう)精神分析理論を用いた治療的アプローチに力動的精神療法というのがあって私がスーパーヴィジョンをしている臨床家は自分が患者になったことはなくとも力動的にものを考えられるセラピストになりたい人がほとんどである。そこで私がどの人にも基本として立ち返るように促すのはアセスメントと理論の基礎の基礎。つまり不安、抑圧、抵抗。私たちの職種のところにくるからには何か困ったことがあるわけだが、心のことは物を修理するのとは異なり本人にもどこがどうなっているのか説明することが難しかったり困っていることほど言葉にはしにくいものだったりする。誰かに話すという行為は推奨されがちだが自分のことを話すのはそんなに簡単ではないということを前提にすべきだろう。精神分析はこの、言葉にすることの不安にものすごくコミットしている。なぜか。性を人生の組織化の基本に置くからだ。『ヒステリー研究』の時にはフロイトはすでにそれを確信しブロイアーと袂を分かった。性は抑圧され抵抗にであうものである。人に話せばそれまでの関係における心の動きが相手を変えても反復され性欲動に突き動かされた不安が蠢く。今後子供が大人のsexによって生まれるものでなくなったとしても性欲動を生欲動と同義と見なすことはできるだろう。セクシュアリティはsexそのものを表すわけではない。『ヒステリー研究」におけるフロイトの確信は患者との間に生じる特殊な出来事を体験したからだ。この体験を説明する概念の中心にセクシュアリティを置いたのはそれ以外にこの強力な力のありかを見つけられなかっただろう。精神分析家はそこに抑圧された願望や空想を見出し、それらが投影同一化や再演を通じて治療者に伝達されると考えるのだ。

さて、欲動の動きは他者との境界をめぐって生じた不安と恐怖やそれらを伴う症状を形成する。ウィニコット的にいえば子供と取り入れの対象となる大人の攻撃とは異なる侵入をめぐる攻防の問題である。そこで生じる不安はどこから切り離されても(切り離すことのできないという苦しみも含む)生き延びなくてはならないという実際的な問題とタブーとの関連で何重にも抑圧される。人が人と関わって生きざるを得ないということは個人に最早期からかなりの負担を強いている。その前提があるからこそ精神分析はみたいと言いつつみようとしない、あるいはみたくないという患者や異質なものを攻撃と感じるという患者の態度も当たり前のものとしてその複雑さそのものを見据えていく。難しいのは治療者もそのような心を持っていることであり治療者自身が治療を受ける必要性はここにある。患者に要求することを自分にも求めるのは当たり前だろう、というフロイトの態度も一貫性がある。患者の目的はそれぞれに異なり出会ってみてから何を求めていたのかを知ることが多い。というか精神分析を求める人は無意識に駆動されていると思われ、それが言葉になっていくのは常に事後である。そう考えるからこそ今目の前で話されている言葉を聞くことはどういうことか、という問いは問われ続け、いまだに精神分析の技法論の中心的な問いでありうるのだろう。

という理解のもと、今日もいろんな人と会う。

さあ、腹ごしらえをしなければ。おなかがすいた。最近は東海道五十三次の49番目の宿場である滋賀県甲賀市の「土山宿」のお土産や飯田橋にある青森のアンテナショップのお土産をいただいていた。土山はお茶も有名とのことでかわいいパッケージに入ったお茶ももらったがかわいくて開けられない。青森のお菓子は食べ慣れている。全国的に有名なものもいくつかあるから青森で惚れ込んだお菓子をこちらでも買うことができる。アンテナショップならなおさら。素敵なことだ。旅に出たらそうやって旅時間を長引かせたりもしたいから。今日も暑そう。気をつけて過ごそう。

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東京公認心理師協会地域活動など。

今朝も暑そうなのでカーテンを開けていない。昨日は東京公認心理師協会の地域活動の助成を受けて「コロナ禍を振り返る」というイベントを行った。臨床心理士、公認心理師の交流を図っての企画で昨年から始めた。私と松岡宮さん(芸名)という車掌の制服を着てあまり他の人には書けない詩を歌う日本最高峰ランクの学歴を持つ才媛との企画だ。ただ松岡さんの能力をもってしても「有名」とは程遠い私たちであり、こういう素朴な企画は今の業界にはほとんど必要とされないので(教科書や規約的には義務みたいな領域の話なのだが)人が集まらないことを見越してはいた。しかし部屋代と交通費を出していただく以上、できる広報はがんばった、が元々SNSのフォロワーも少ないし広報力は私たちにはない。個人的にはこういうのはとりあえず立ち上げておくことが大事だと思っている。二人以上でやれば成立はするので松岡さんともとりあえず会えるの嬉しいね、ということで今回もやった。NPOでたくさんの子どもたちとボランティアを連れて毎夏キャンプへ行っていた。それも本当に小さなグループから始まったものだった。今はそのNPOは解散したが地域の保育園としてその名を残し繋がりは続いている。その保育園も無認可の本当に小さなお部屋ではじまった。今は第2保育園も持つ認可保育園だ。私はNPOの初期から自閉症の子どもや親の会との関わりや広報の担当でずっと関わってきた。保育園では巡回相談と集団へのコンサルテーションで今もお世話になっている。最初の頃のままでも特によかったのだと思う。でもニーズに応えていく必要もあった。今はたくさんの人を前に話をするようになったが知らない保育士も増えた。小さくても大きくてもいろんなことは起きるのだ。どちらがいいとか悪いとかの基準はない。見るところを変えれば評価は変わる。これだけの数の臨床心理士と公認心理師がいるのだからいろんな人がいろんなことをすればいいのだ、という話も昨日はした。一人の人にできることは限られているし、一人の人だっていろんなことをしている人もいるわけだからそういう意味では寛容であれ、自分にも他人にも、ということが普通に大事だろう。動けば失敗はどうしても起きる、でも試行錯誤していくしかない。相手ある仕事なのだから試行錯誤自体を止めるわけにはいかない。一方、誰かの何かに寄りかかって自律的に動くことを回避しているようにみえる人たちのことも話した。私はもうだいぶ上の世代になってきたので30代40代前半の人たちが巻き込まれがちな関係からはいつの間にか遠くなってしまい下の世代から話を聞くのみだがそういう時期も皆通るものだ。とにかくいろんな人がいていろんな方法がある。今回も試行錯誤のひとつだった。テーマは「コロナ禍を振り返る」だったがコロナの影響で参加できない方もいらして「やっぱりまだ終わっていない」と思った。この企画を出したときに「振り返るがまとめない」ということも書いた。これほどの事態を誰もが当事者として体験したわけだがまだ完全に収束していなくてもこうやって忘れられていく。だからこそ言葉で共有しておく必要があるのだろう。公認心理師協会の地域活動推進委員の先生方もいらしてくださって地域交流が盛んだった頃の牧歌的な時代の話もできて嬉しかった。私はいまだに昔働いていた地域から呼んでもらっているがその地域に親しめているのは当時同じ地域で苦労を共にしていた同業者との地域会のおかげだった。今はコロナでオンラインになったこともありあまり機能していない地域もあるらしく、地域支援という視点が持つ多様な可能性が見失われつつあるのかもしれない。

会が終わり、参加してくれた人とその街で長くやってきたような喫茶店でランチをしながらおしゃべりをした。そんなふうに話せることはほとんどないのでとても楽しかった。

夕方、突然雨が降り出した。そういえばランチをした喫茶店からも一気に降り何事もなかったかのように晴れた空をみた。晴雨兼用だと信じている折りたたみ傘を持っていた。電車の中から白い雲が沸き立つように空を覆っていて驚いた。その空に旅先のことを思い出してその話をした。

別の街に出るとまたポツポツと雨を感じた。祭りの後の提灯が商店街に揺れていた。空は強い光と水色と黒でいろんな様子になっていた。空が明るいほうへ歩き出してもすぐに黒い雲に追いつかれてしまった。寺の境内や出版社の倉庫前で雨宿りを繰り返しながら細い糸のような雨やあっという間にできた水溜まりを風が動かすのを見ていた。歩いてはどこかへ入り、あまり上手くないが好ましい演奏を聴いたり突然振る舞い酒を振る舞われたりちょっと寄った店でサッカーのいくつかのシーンにみんなで盛り上がったりしているうちに空は安定したようだった。夜までずっと風が気持ちよかった。いつも通り月を探したが昨晩は見つけることができなかった。

今日も一日長い。朝は少しゆっくりだけどもう準備しなくては。夏の疲れが出る時期だと思う。休息をたくさんとりつつ過ごせますように。

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月、蝉、鈴虫

満月を過ぎてから急に月の出が遅くなった気がする。そんなはずはないのだが夜オフィスを出て「月どこかな」と探すと「え、まだそこ?」みたいな低さに大きい月を見つけてびっくりした。その日から月探しが楽しく月を見つけると「お、今日ものぼってきたね」とほくそ笑んでしまう。毎日月と待ち合わせ。今日の月は寝待月。月南中時は3時21分だからみんな寝てるものね。寝て待て寝て待て。「果報は寝て待て」も月の満ち欠けと関係していたのかしら。空が明るくなってもまだ見えるだろう。ゆっくり休んでいて大丈夫。日曜日だもの。

南側の大きな窓をそっと開けて南の空高くに浮かぶ月を見上げる。帰り道にみた月よりずいぶん小さくてすっかり遠い存在になってしまったみたい。鈴虫だ。真っ暗になりきれない住宅街のどこかから響いてくる。秋か。日中ものすごい陽射しを浴びながら蝉の声を秋っぽく感じていた。さすがにこの炎天下、子供を遊ばせるのは危険、ということなのかいつもは週末子供とその親で詰め尽くされている広場は空いていた。芝生広場も熱すぎるのか寝転がる人もいなかった。水場は盛況のようだったが外から見えないようになっているので雰囲気だけ感じた。咲き終えた花々が剪定され少し寂しくなった花壇の間を歩きながら蝉の声に包まれた。見上げても姿は見えない。単体と集団では音量だけではなく聞こえ方も異なる気がするが全体の音量は落ちた気がした。数日前、朝の鱗雲に「うわ、秋?」と驚いてから暑い暑いいいながらもどこかで秋を感じてたし探してもいた。鈴虫って秋の季語だけど結構夏の間から鳴くんだよね、かき消されやすいだけで。

今日もいろんな人の声を聞こう。

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8月、ルンバ、我が家にいた犬

今週は1日1日が長い気がする。7月はあまり記憶に残らないほどあっさり過ぎてしまった。それにしても今朝は暑い。涼しい寝室から出るのが嫌で起きるのが遅くなってしまった。リビングの冷房が今強い風の音を立ててがんばってくれている。一度起きたときにつけておけばよかった。よく冷えた麦茶が美味しい。

とちょっと家事をしている間に部屋が冷えてきた。ありがとさん、冷房さん。思わず話しかけてしまう家電の代表といえばルンバだろう。ロボット掃除機ルンバ。私たちは「ロボット」というものはその姿形がどうであれ人の言葉を理解できる存在としてみなしているに違いない。いやそうでもないかもしれない。まあ何はともあれこの場合言葉が通じようが通じまいが関係ないのだ。「あらあらそっちにいくとぶつかっちゃうわよ、ほらいったでしょ、こっちこっち」といったところで別にこちらの言葉をきいて彼らが動いているわけではなく向こうの特性をキャッチしてるこちらが動きを予測して言葉を与えているだけなのだが噛み合っているようにみせることは可能だ。コントみたいなものだ。かな?犬に話しかけるのとはだいぶ違う。犬はかなり通じてしまう、らしい。我が家にいた犬は世の犬を飼う人たちがいうほど通じていなかった気がするが散歩に行く様子を嗅ぎ取るとよくわからない動きで興奮する姿は欲しいものを買ってもらえるときいて飛び跳ねる子供のようだった、気がする。私も犬と一緒に大きくなってきたから子供のようなものとかいうのはなんだか烏滸がましいが(そうなのか?)。だって我が家にいた犬(メスの方)はとっても高貴な感じがしたもの。オスのゴロウに対してもピシャッとやる時はやってたし彼犬が最初に子供を産んだときに近寄った私の手を思わず噛んでしまいすぐに申し訳なさそうにした顔も忘れられない。ごめんね、赤ちゃんいて気が張ってるところに、と私は泣いた。二人で泣いているような気分だった。赤ちゃんはいつも庭の見えないところで産みおとされ、なぜか母はいつもその場所をすぐに見つけ安全な場所に移動しみんなで子育てを見守った。子犬たちも本当に本当にかわいかったが彼らを産んだ彼犬が特別だった。

は、私は朝から何を書いているのか。我が家にいた犬のことを語り出すと止まらない。大変大変、準備何もしてない。

あっついよ。今週末はいろんなところでお祭りがある。明日はイベント。心理士(師)の人いっぱいきてねー、ハイブリッドだから涼しい場所で美味しくしながら。

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子供、大人、親子など。

何も設定を変えたりしていないのだけど除湿がちょうどよく効いてくれた。よく眠れた。私の睡眠時間はとても短いけれどこの「よく眠れた」という感覚はなんだか充実していていい。だいぶ疲れていたせいもあるのだろう。

最近、ネットで筋ジスなど進行性の疾患や移植に関するニュースを読むことが多かった。子供の場合、どうしても動きの中心は親になる。病気や医療状況について知ることも大事だが、「家族」というものがなぜ必要だったかということについても考えさせられる。これまで多くの夫婦の馴れ初めや家族の成り立ちを聞いたり、実家を出たりいろんな形式の結婚をしたりする人生のプロセスに立ち会ったりしてきたが「子供」という存在が人の移動にどう影響していくかということは常に考えている気がする。長年保育園でたくさんの子どもたちを見続けていれば小さな彼らの移動能力に限りがあるだけではなく、彼らがいかに大人の都合で簡単に移動させられるかということもよくわかっている。コロナ禍では特に過酷だった。多くの子供が転園、転居を余儀なくされた。もちろんこれらは大人にとっても大きな決断を必要とした。子供がいる場合とそうでない場合、周りの大人たちの動きはどう異なるだろうか。身体的な動きでさえお互いの心身の状態に影響を受ける状況で生き延びるためには大人と子供はセットとして存在する必要がある。その始まりやプロセスに性的なもの、欲動という概念で説明されるものを常に想定しながら考えている私にとって親と子という状況で生じる出来事にそうあるべきものなどというものはないように思える。彼らそれぞれの今を運や運命で語るのも外からは簡単だろう。ただもし彼らの困難に対して何かできることをと考えるならそういう外側からの言葉は慰めになることはあっても具体的な行動には結びつきにくいのではないか。人間に内在するものがどう自分や関係を動かしているかを詳細に吟味し手に届く形が表れてきたときにそれとどう関わるか、それはひとつひとつとても大きな出来事なんだということをせめて覚えておく。そんなことを考えていた。

こういうことはそれこそ吟味して書く必要があることなので別の場所に書くがとりあえず感覚的に書けるところだけ書いた。とりあえず今日も長い。なんとかはじめよう。

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ブラインド、候補生、責任

冷房が効きすぎないようにドアをほんの少し開けておく。ほんの一筋なのに朝日が眩しい。ドアを出てドアを閉めた。リビングのブラインドはいつからか反対向きにできなくなってしまった。だから完全に陽射しを遮ることはできない。間取り的にそんなに不便はないがこの夏の間だけは「閉まらないかなあ」と何度もブラインドの紐を引っ張ってしまう。引っ張りすぎて動かなくなったのかもしれないがもう何年にもなるから記憶がない。

外に出すことはない仕事ばかりしているけど日々工夫しながら静かに格闘している、お互いに。臨床家としてはもう結構なキャリアになってきて教える立場にもいるが精神分析の世界ではまだ候補生だ。候補生になるにも分析受けたり面接受けたり要件を満たさなければならなかったし(なによりお金と時間を準備しなくてはならないとがんばっていたが今だったらそれはやりながらでなんとかなると知っている)2016年に登録されてもう7年。生活を送りながら訓練をすることは大変でしょう、と言われるけれど精神分析の世界はリズミカルなのではじめてしまえば忙しいだけでむしろ手厚い環境の中でいまだにこれだけの新しい体験ができるなんてすごいことだと思っている。訓練を重ねれば重ねるほど驚きは増える。ただ身体に対する不安は増えた。最近なにはともあれ感覚器官が衰えないうちにやってみてもいいのでは、そんなにやりたいのであれば、というアドバイスをしたりもする。基本的なことは大事だ、という認識に常に立ち返るための訓練としてその行き着く先は身体ということか、とかくと大袈裟だけどみんなそこそこのキャリアを積んでから候補生になるので精神分析家になる頃には自分に残された時間というものを意識せざるを得ないと思う。実際、子どもたちの成長や健康の話ばかりしている。精神分析家になれたとしても訓練分析家になるまでにはまた色々積み重ねていかなくてはならない。それもとりあえず生きて目や耳が使えることが大事。多くは必要ないが必要な事柄はある。

なので、もう子供ではないので、親世代に何か責任を求めるようなことはしない。環境のせいにすることがどういうことかということも精神分析を患者としても治療者としても体験することで実感できてきた。法的な責任を除いては責任というのは権利として自分の側にあると思う。立場が危うくなるとしてもそんなことわかってて身体を張って行動しているとエアリプのようにあの手この手で攻撃を受けたりもするが自分の責任で動いているのだから煩わしさはあれど大切にしていることが揺らぐことはそんなにない。責任を持つという権利を行使することを見守ってくれる環境を知っているから言えることではあるけれど。

環境と対象の使用について、直線的な歴史を自分の体験としての歴史に書き換えていくことについて毎日考えている。

今日も朝から晩まで長い。昨晩、友達が月に感動していた頃、オフィスの窓からはまだ月は見えなかった。仕事を終えて窓の外をみたらとても明るく丸い月がすっきりと浮かんでいた。今日も見えるだろうか。どうぞそれぞれに良い一日を。熱中症に気をつけて。

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夏休み、雷雨、Mahalel, A. T. (2023)を読むなど。

昨晩はクーラーをつけずに南側の大きな窓を半分だけ開けていた。網戸がついているのが半分だから。月がきれい月がきれいと毎日言いながら帰ってきているが昨日もいよいよ満月らしく月の写真をあげている人がたくさんいた。私も。一昨日は一昨日の朝の空の写真をあげている人がたくさんいた。私も。陽射しは強いのに鱗雲に「秋になっちゃった!」と何回もシャッターを切った。とりたい方向をむくとどうしても太陽が目に入ってしまいしばらく目がぼやけていた。いけない。今朝はまだカーテンを開けていない。蝉の声がクーラーの音の向こう、カーテンの向こうに聞こえる。ああ、逗子に行きたいな。逗子の岩場をぴょんぴょんどんどん進む子どもを何かあったら自分が殺されるよー、と私にいいながら友は声かけをしていた。子はとても人間らしかった。海沿いの食堂の駐車場でワカメを買い、小さな市場で魚を買った。帰れば父親が捌いてくれる。海で育つというのはこんな感じなのかと山育ちの私には眩しかった。その子ももう中学生。海を見下ろす山のお家に遊びに行きたい。葉山の美術館も行きたい。彼らのおかげで逗子葉山はとても身近になった。鎌倉へ歩いていく道もわかる。子どもたちが夏休みに入ってから自分はいつも通り毎日朝から晩まで仕事しているのにどこかへいくことばかり考えている。気持ちだけ夏休みでなんだか得した気分だ。今年はいろんなお祭りも久しぶりの開催となる。仕事で阿佐ヶ谷へ行ったら8月4日から始まる阿佐ヶ谷七夕まつりの準備が始まっていた。大きな吹き流しがしゃらしゃらと音を立てるなか小さな赤ちゃんを抱っこしたお母さんが「サラサラいってるねえ」と話しかけながら通り過ぎていった。当日はとても混雑するだろうけど準備期間の朝もいい。長く通っている街なのにこんな光景ははじめてだったかもしれない。開催期間中に少しだけでも寄りたい。

昨日はIPAジャーナルのおすすめ記事を教えてくれるメールに先日ここでも取り上げたアナト・ツール・マハレルの名前を見つけた。早速読み始めた。フロイトの夢思考とベンヤミンの弁証法的イメージとDenkbildを再検討しながらそれらが表象不可能な表象をどう書き出しうる(表現ではなく)か、つまりトラウマの歴史を追憶するための空間を作り出すことは可能かという問題意識のもとに書かれた論文らしい。ここではフロイトとベンヤミンの後期の著作をナチスの台頭に直面したヨーロッパのユダヤ人知識人の文脈で取り上げられており素材となるのはフロイトのlast Moorish kingとBenjaminのangel of historyである。経験を言葉にしていくことと歴史を構築していくことは常に表象不可能なものとの格闘だ。そのための視点のひとつを提示してくれる良い論文だと思う。

Mahalel, A. T. (2023) The Visual Image and the Denkbild: Sigmund Freud and Walter Benjamin on History and Remembrance. International Journal of Psychoanalysis 104:527-545

昨日は突然のものすごい雷雨の中避難場所として入ったカフェで「一つだけ空いている」と通してくれた席で一気に読んだが目が一気に悪くなっているので文字を読むのは苦痛だ。あのくらいの異変が環境側に起きていたからこそ安定を図るために身体が何かしなくてはと動いてくれたのかもしれない。自分のことなのにままならぬことよ。空が再び明るくなってからカフェは一気に空いた。

おなかが空いた。今日はどこのお土産だったか。葛餅があるのだ。紅茶入れちゃったけどお茶ももらったんだった。せっかくだから入れ直すかな。でもお茶のパック開けるのもったいないなとかいっていないで資料の手直しと印刷をせねば。あー、ということで8月2日。なんとか過ごしましょう。

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「なが餅」、「心配ご無用」とか。

昨晩の雷はすごかったですね。窓の外が瞬間的に真っ白に光って白とオレンジを基調とした我が家のカーテンの色がそのときだけ消えていました。そして向こうの空というものを感じさせるあの音。雷のときはただただ広がっているかのような空に位置や距離を感じます。空が光って何秒であの音がくる。身を潜めるようにして数えながら待つ。少しずつ近づいてくる地響きのような音が向こうの空から。そして落ちる、どこかに。上毛三山(赤城、榛名、妙義)に囲まれて育った人は夏の雷の威力をご存知のことでしょう。昨日、群馬県は雷に強風に雹までふったそうです。東京の雷はカーテンの中まで入ってくるような感じはせず内側の私はいつの間にか眠っていました。

今朝は三重県四日市市のお土産「なが餅」をいただきました。7枚入り。こんな名前なのに日持ちはしないとのことで開けてみると薄っぺらくて長くて白いお餅が折り重なっていました。こんなに薄いのにきれいに餡が入っていてすごい。創業天文拾九年とのこと。まさに長持ち。お日持ちの短さはペロって食べられちゃうから心配ご無用でした。

「心配ご無用」といえば・・・。親密だったはずの相手から適当に扱われると感じるととても辛いですよね。例えば、元々誰との関係でもどこかルーズな人とは知っていましたが仕事も公私混同で信頼関係を崩す方にいっているように見えたので心配したらまた圧をかけて黙らせる雰囲気の言葉が返ってきました。またか、と怖いし面倒だったので「心配ご無用ですね」といったら「心配ないなんていいましたか」とさらに圧をかけられました。どうしていつもそういうふうに追いつめる言い方や態度になるのだろう、平然と嘘をついているのはあなたなのに、と思いつつなんとかきつい仕事もこなしました。相談などできるはずはありませんでした。その人が「しんどい」と書けばSNSではたくさんの味方が心配してくれました。いつも無条件に味方してくれるビジネスパートナーと外で美味しく楽しく過ごしているようでした。一方でこちらには関わったこと自体を「後悔しています」と言いながら圧をかける言葉を使い続けていました。「賢人」と言われる人でも心ない言葉の使用や身体への雑な関わりは普通にあります。外から見えるものではありません。こんな例は身近にたくさんあることでしょう。外での優秀で素敵な振る舞いと思いやりのない暴力的な言動は両立するということは今やだいぶ一般的な知識になりつつあります。なのになくなりません。傷ついた心身の回復は遅れます。そういう人たちは絶対に変わらないんだということを見せつけられながら立ち上がらなくてはいけないからです。現実を否認できる人、言葉だけは巧みに扱える人、社会的にはそういう人の方が強いというのは世の常です。男でも女でも。「そうなりたいんですか」と聞けばみんな「なりたくない」というのに不思議なものです。今日はどう生きていきましょうか。朝がこなければいいと願いながらいつの間にか眠ってしまった人の絶望はなかなか知られることはないでしょう。助けになるのは人だけではないというかむしろ言葉のいらない世界かもしれません。この暑さと折り合いをつける方が難しいですよ、という人もいるかもしれません。それならそれは本当にそうだから一緒に笑えそうです。どうか今日もそれぞれになにかしらに支えられて一日を過ごせますように。

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海、夢、堀本裕樹『海辺の俳人』

あっという間に一時間。若い頃は家族に気を遣われるほど寝起きが悪かったのに今は目覚ましもかけず空が明るくなる頃にはぱちっと目が覚める。家族に気を遣われるほど、と書いたがただ私がぐったりしているのを放っておいてくれただけで、あ、それが気を遣ってくれたということか。週末は大きいものを洗濯して天気予報を信じてしっかり洗濯バサミで止めて外に干したまま出かけた。我が家のベランダは風も強い。信頼って大事だ。夜帰ってくると全部しっかり乾いていた。

久しぶりに海をみた。仕事を終え電車に乗った。沿線で大きなトラブルが起きていたようだったが私の乗る区間には影響がないようだった。一番早く出発する電車に乗ったからそれが遅延していたのかどうなのかもよくわからない。海辺の街の本屋さんに行くついでにぼんやり歩いていると小道から海が見えた。ビーチへ向かう道とは逆方向へ来たつもりだったからうわあっとなった。海なし県育ちなせいかいつになっても海を見ると衝撃を受けてしまう。こっちからもいけるのかもしれない。大通りを歩いた。ふと前の方に親子3人組が現れた。そこに道があるのか。すれ違ったときはお天気の話をしていたようだったが地元の人ではないようだった。休日の役所の前を通り小さな道を見つけた。ドキドキしながら進む。見えた!小道の先に。海が。その道は直接ビーチに出る道ではなかった。

なぜかここまで書いて寝ていた。夢を見ていた。小さな女の子二人がキックボードで渋谷西武の前のような道を人混みをすり抜けて走っていく。車道側に呼び寄せ私たち大人たちの間を走るようにいう。子供たちはキックボードを捨て今度は元気いっぱいに走り出す。私たちも追いかける。飛ぶように走る彼らを妖精のようだと思う。私は大人になった彼女たちを知っている。時折振り向く彼らと言葉を交わす。夢から覚めた。可愛らしく幸せな夢。いつの間に眠りに落ちたのだろう。腿の上のPCは今日は暑くなっていない。扇風機をようやく出して電源を入れた。もっと早く出せばよかったと思うが毎年のことだ。

俳人、堀本裕樹の初エッセイ集『海辺の俳人』のいくつかのエピソードにも影響を受けたのだろう。先日、幻冬舎から出版されたこの本は私の周りでは連載時から話題だった。堀本さんの好奇心とユーモアと小さな発見と豊かな文学的知識に満ちた海辺での生活がモノローグからダイアローグに変わっていく様子は各エッセイの最後に添えられる即興俳句にも見ることができる。その変化は堀本さんを師とするプチ俳人たちの心をざわつかせたりもしたようだった。私は連載を読んでいなかったが彼らの話を定期的に聞いていた。懐かしい。コロナ禍、オンラインで顔も知らない人たちとそんな話をしていたのだ。つまりこのエッセイはパンデミック直前からコロナ禍に書かれたということ。情緒豊かに予測できない日々を送りながら世界を17音に圧縮していく。それと同時に先生に見てもらうためにやってくる数えきれない17音を読み取る。取り上げなかったからといって落胆する必要はない。また淡々と作り続けるだけだ、と堀本さんは言っていた。評価のために表現をしているわけではないのだからそれはその通りだ。コロナ禍に生まれた娘や家族に対する文章を読めば堀本先生の師としての魅力も十分に伝わることだろう。俳句には全く関心のない人にも広く届いてほしい一冊だ。

また近いうちに海へいこう。知らない街の知らない道を目的もなく歩こう。とりあえず今日も一日。今日は7月31日?ああ。31日。がんばろ・・。

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島とか出会いとか

毎日暑い暑い以外の記憶がない。二度寝する合間に洗濯はした。そういえば昨日も月がスッキリ輝いていて「きれい!」とみあげた。目線を上げたら「この木はオリーブ?」とオリーブに気づいた。オリーブといえば小豆島だけど小豆島には本当にたくさんのオリーブが植えられている。木の名前を知らなくても「これはオリーブ!これも!」と堂々と言える素敵な島です。小豆島は醤油造りも有名。私が料理に使う二大調味料はオリーブオイルと醤油なのでありがたい島でもありますね。自転車でいろんな道を走った。地区によって雰囲気が違って楽しかったな、小豆島。

長期休みになると2泊か3泊でいろんな土地へ行くのだけど一応日本の有名な都市は回ったので最近は行くなら島かな、ということで最近だと(といってもコロナ以前)しまなみ海道の島々、淡路島とかにいった。この夏は地続きのところへ行くけど色々行きたいな、島。30年くらい前に行った式根島が楽しすぎたせいで島への憧れが作られたのかもしれない。写真部の合宿らしき集団と同じ宿だった。部屋に鍵はなくお刺身は美味しすぎた。式根島はシマアジの養殖で有名だ。私たちは写真部のちょうどよい被写体だったらしく恥ずかしそうに許可を取りにきたり夜になると花火を分けてくれたりかわいい人たちだった。式根の地図に載っている道はほとんど全て歩いた。人が通った形跡がない道を蜘蛛の巣を祓いつつ、蛇に驚きつつ進んだところに突如ひらけるのが唐人津城。つい東尋坊と間違ってしまうがここには誰もいなかった。ただただ荒涼とした絶景。ここから落ちたら誰にも見つけてもらえないねといいながら海を眺めていると心静かになった。旅に出るとそういう瞬間が増える。これまでの道のりを全く読めないこれからを思い出すでも思いを馳せるでもなくなんとなく感じる。

好きな作家のご家族と話しながらパートナーへの敬意を感じた。数年前にあの席で一緒だったと言われるまではじめましてみたいな感じで話してしまっていたが色々思い出した。ただただ楽しく喋ってしまった。前もそうだったよ、そういえば。親世代の方との素敵な出会いもあった。私が住む街に息子さんが暮らしていたことがあるそうでとても嬉しそうな素敵な笑顔で色々聞いてくれた。その地域の図書館員の方の工夫も教えてくれてその方とも会えた。特に約束もせずたまたま会ったから話すような関係もいい。

今日はどんな一日になるかな。とりあえずすでに暑い。どうぞお大事にお元気で。

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ブックレビューエッセイを読むなど。

鳥がよく鳴いている。元気ってことかな。生きてるってことではある。昨晩の帰り道、大きな木から大きく長くジーって聞こえてピタッとやんだ。思わず見あげた。こんなに木があってもそのひと声だけで夜は静かだった。毎朝毎朝蝉がジュワジュワいってると思いながら歩いているけど転がってるのをみるとほとんどメカだなと思う。それと比べると鳥たちの声の主張豊かなこと。なにかな。私にはわからないけど元気ならいいね。

作って冷やしておいた麦茶を今朝も飲む。花火柄のコップで。黒い液体を入れたらもっと夜空の花火っぽい感じになるだろうけどアイスコーヒーくらいが限界かしら、黒に近い飲み物って。麦茶みたいな空の色のときってあるよね。これは何か起きるのでは、というような不穏な空のとき。今日はどうかな。とりあえず暑いだろう、ということはわかるけど。花火はきれいね。

昔つきあっていた人に誘われたけど行列で入れなかった店にはじめて行った。朝は行列はなかった。モーニングセットを食べた。アイスコーヒーと。おいしくなかった。たいていのものをおいしくないとは思わないのだけどここのはおいしくなかった。行列の目当ては多分パフェ。長居してそうな常連も多そうだからそれで混むというのもあるのかな。おいしくなくて安心した。うまくいかなかったわけだ。その人はいつも「話題」を探し振りまくのが得意だった。

昨晩、ポストを開けるとIPAジャーナルが届いていた。ここですでに何度か書いた米国の精神分析家オグデンの一番新しい本の書評が載っている!しかも書いているのはMichael Parsons、すぐに読み始めた。長い。IPAジャーナルの書評はこんなに長く書いていいものなのか、と思って見直したらブックレビューエッセイだった。

精神分析における読むこと、書くことに対するオリジナリティあふれる探索にますます磨きをかける本書の書誌情報はこちら。

Coming to Life in the Consulting Room: Toward a New Analitic Sensibility, Thomas H. Ogden, London and New York, Routledge, 2022, 175pp., £29.99, ISBN: 978-1-032-13264-8

組織から比較的自由な立場で精神分析臨床を続けながら論文や小説を書くオグデンの患者理解は深い。昨日も書いたがそれは理解を超えたところのなにかで存在に関することだ。彼らがいかに自分を存在させることに苦労しているか、それは思わず出る言葉以外で掴むことはなかなか難しいのではないか、というのは私の実感だが私はそれを書くことでしか前に進めないのだろう、オグデンに従えば。

28度設定だと少し動くと暑い。無理せず、とかいっているうちに色々大変なことになっているができない無理はできないからこのままいこう。皆さんもどうぞご無事でご安全に。

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精神分析

日々とか仕事とか

まだ朝の光とはいえ陽射しが強い。明け方の空はもっと弱々しい感じでほんのりピンクがきれいだった。オフィスのそばの銀杏の緑の濃さに迫力を感じながら歩いていたら黄色い葉っぱがパラっと落ちてきた。秋?まだ子どもの葉っぱみたい。見上げた葉の密集ぶりに全く日の当たらない部分ができてしまうからかななどと思った。季節の花々が次々に咲く新宿中央公園でもこの時期はこぞって目をひいていた花々から水が抜け色が失われていく。陽射しにどんどん色を濃くしていく緑の中やそばでもいろんなことが起きている。

同じ曜日、同じ時間にやってくる人たちの話を聞き続ける毎日。人って理解するとかされるとかいう対象ではないと感じる。なんというかそんなこと無理というか。最初はまだ理解するされるの世界にいるというかそうじゃないとどうしていいかわからないからそこに自分をとどめておく感じだけどその人を理解するために二人で協力しようとするとすごい断絶や距離が明らかになることもあれば「あぁ」と二人で同時に同じような感触を掴むこともある。たとえば「みんな死ねばいいのに」という言葉が思わずでたとしたら「みんなって」と聞く人もいるかもしれないけどその時点でその憎しみの向けようのなさを失っていることを知る二人の間での思わずの言葉には反応よりも沈黙。持ち堪えることを二人でする。しつづける。何か別の思考が生じるまでお互いに身を委ねつつ。精神分析の場合、技法っていったってものすごいシンプルで設定と約束事が守られていればあとは延々同じことを続けるだけ。今年はラカン派ではないフランス精神分析の勉強会に出ているがフランスではカウチの使用や頻度は設定の一部ではなるが大きな位置を占めるわけではなく自由連想が精神分析を基礎づけていると考えているらしいと聞いた。たしかにフランスの精神分析の辞典や教科書をみるとカウチで高頻度ということより自由連想をするということで精神分析は定義づけられている。カウチ、高頻度は自由連想という困難な作業を支えていく環境として重要なのだろう。環境あってこその対象の使用というのはウィニコットの理解を借りると実感しやすい。

早朝、昨晩掃いた玄関前の葉っぱをゴミ袋に入れたり結構前に枝切り鋏で落としておいた山椒の木の枝をもっと細かくしてゴミ袋に入れたりしていたら蚊に刺された。こんな格好してたら当然刺されるとわかっていたが玄関を入ればすぐ置いてある虫除けをしなかった。痒い。辛い。昨晩、ひっくり返っていた蝉にほうきが触れたらジジジっていったからまだ生きてると思って今朝まで放置していた。今朝はもう動かなくなっていた。

猛暑猛暑。今日も気をつけていきましょう。

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精神分析、本

関わったら見守る

麦茶をゴクゴク。水分!でもあまり減らない。けどまた作った。水分とっていきましょう。さっき窓を開けたけどあまり風を感じず閉めて冷房をつけた。滑る窓だから気をつけながら。ベランダに一歩でもでれば風を感じたかもしれない。風の通り道に立てるかどうかはその一歩の違いが大きいときもある。まあいい。今朝も早くから仕事だ。

嘘つきな愚痴り上手って言葉、なんか変かもと思いつつ使った。嘘つき「で」愚痴り上手でもいいのだろうけど嘘ついて人傷つけておいてなに上手につらがっちゃってんの、という意味であれば前者の方がしっくりくる気がする。言葉は感覚の問題だけど調べていくと意外と本質的な差異にもとづいた判断してたりもするから無意識ってすごい。

先日、『「日本に性教育はなかった」と言う前に
ブームとバッシングのあいだで考える
』堀川修平著(柏書房)刊行記念イベント、松岡宗嗣×堀川修平「性教育から考えるバッシングの過去・現在」をアーカイブ視聴した。性教育の歴史や実態を知るうえで大変勉強になったがこういうのは内容よりもなぜそれらをあえて言っていく必要があるのかという当事者やそれに関わる人たちの切迫感を受け取ることで学び続けることが大事なんだなと思った。すぐに「自分とは関係ない」という態度をとりがちな私たちという指摘を聞き流してはいけない。みんな関係あるのだから。一度関心を向けたならその先を見届けよう。見たくないものは見ないことができてしまう私たちだからこそ。自分が嘘つきであることだってすぐに忘れてしまう私たちだからこそ。いやもちろん「そんなつもりはない」のだけれど。

眠い。今朝も早くから仕事。月末事務仕事もイヤイヤやろう。今日は木曜日。

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Reading Freud’s Patients Memoir, Narrative and the Analysandなどに関するメモ

COURRiER Japonのフロイトに関する記事の原文が読みたいな、と思っていたら山本貴光さんがくっつけてくれた記事を見つけた、と以前Twitterに書いた。そのメモをまとめておく。

ハアレツ紙(イスラエルの有力紙)に掲載された記事(英語版)はこれ。

Ofer Advert, “Angry Outbursts and Erotic Insinuation: What Freud Was Really Like”(2021.08.05)

https://haaretz.com/world-news/.premium.MAGAZINE-angry-outbursts-and-erotic-insinuation-what-freud-was-really-like-1.10089349

記者のOfer Aderetも取材されたReading Freud’s Patients Memoir, Narrative and the Analysandの著者アナト・ツール・マハレルもおそらくフロイトと同じくユダヤ人の歴史を共有していると思いつつKindleでこの本を読んだ。

この本に出てくるフロイトの患者たちはフロイトの伝記などにも登場するがこちらが読みやすいかも。

『フロイト : 視野の暗点』 Breger, Louis著,里文出版

患者の体験を通じてフロイトの精神分析実践を垣間見ることができる本で最近書かれたのがThe History of Psychoanalysis Series,のAnat Tzur MahalelのReading Freud’s PatientsMemoir, Narrative and the Analysand(Routledge, 2020)である。この本はWinner of the 2021 ABAPsa Book Prize Awardを獲得している。

それ以前だとBeate Lohser&Peter M. Newtonの”Unorthodox Freud The View from the Couch”しかなかったそうだ。高価な本だが試し読みができる。

https://www.guilford.com/books/Unorthodox-Freud/Lohser-Newton/9781572301283/reviews?utm_medium=social&utm_campaign=share-widget&utm_source=twitter.com

ちなみに『心の革命  精神分析の創造』(みすず書房)のジョージ・マカーリがこのLohser&Newtonの本のレビューをIPAジャーナル(1997)に書いているが、翌年には著者のPeter Newtonがこのレビューを a careless review だとして”Dear Sir,”で始まる文章を寄せていり。書いていることとやっていることが違うのでは問題、に対する読者の誤解に対する懸念、というか「ドイツ語でフロイトを読める私たちとしては」とストレイチー訳を批判しつつ書かれた手紙(?)は興味深い。

一方、Anat Tzur Mahalelは文芸批評の手法を取り、回想録の別の読み方を提供してくれル。

この本の「シリーズ編者による序文」はPeter L. Rudnytsky。フロイトが息子のように愛した精神分析家フェレンツィの『臨床日記』を重ねながらの紹介にしみじみした。https://www.msz.co.jp/book/detail/08695/

これまで患者の書き物は分析家のそれより周辺的な扱いを受けてきたがAnat Tzur Mahalelは患者の回想録を「精神分析文学」として文芸批評の対象とし、The author-analysandsたちを個別の患者というより「フロイトの患者」というグループとして扱う。

精神分析実践は、「メジャーな言語」に束縛されたマイノリティである自分が「ある言語の内において、その言語の外に出る」ことといえる。著者は序文でドゥルーズとガタリが見出した「マイナー文学」を引用し、フロイトの患者による回想録もそれとして理解することの意義を記す。

cf.1.叢書・ウニベルシタス 1068『カフカ マイナー文学のために〈新訳〉』      2.ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ著, 宇野 邦一訳『ドゥルーズキーワード89』 堀 千晶&芳川 泰久(著) せりか書房

著者がドゥルーズ&ガタリ『カフカ マイナー文学のために』から引用するのはここ。

「穴を掘る犬のように、巣穴を作る鼠のように書くこと。そのために自分自身の未開の地点、自分自身の方言、自分だけの第三世界、自分だけの砂漠を見出すこと」

ー第3章「マイナー文学とは何か」33頁

引用はされていないけれどここも大事かと。

「マイナー文学の三つの特性とは、言語の脱領土化、個人的な事項がじかに政治的事項につながるということ、言表行為の集団的アレンジメントである。」

「偉大なもの、革命的なものは、ただマイナーなものだけである。」

ー第3章「マイナー文学とは何か」

アナト・ツール・マハレルの本では当然オグデンも登場する。聞くこと、書くこと、夢見ることについて考えるときには必ず引用される論文はこちら。邦訳も出ているはず。

Ogden, T. H.

 “A Question of Voice in Poetry and Psychoanalysis.” Psychoanalytic Quarterly 67, 426–448. (1998).

The History of Psychoanalysis Seriesといえばこの本もそう。

『アタッチメントと親子関係 ーボウルビィの臨床セミナー』(金剛出版) ボウルビィ著  バッチガルッピ編  筒井亮太訳 のなかでボウルビィも言っている。

「患者の報告する実体験に敬意を払うこと、それがきわめて大切だと思います」

ミラノ・セミナーでの言葉だ。

Series EditorsはBrett KahrとPeter L. Rudnytsky。「シリーズ編者による序文」でブレット・カーも引用している箇所だ。

https://routledge.com/The-Milan-Seminar-Clinical-Applications-of-Attachment-Theory/Bowlby-Bacciagaluppi/p/book/9781780491677

https://kongoshuppan.co.jp/smp/book/b587826.html

さて、最初に登場するのはアメリカの精神科医、Joseph Wortis

02. Fragments of an Analysis with Freud by Joseph Wortis: Criticism and Longing

フロイトの被分析者の体験談の多くは1970年代にでている。しかしWortisは分析が終わって5年後、フロイトが亡くなって数ヶ月に早くも回想録を書いた。

この題名はもちろん「あるヒステリー分析の断片」(1905)=症例「ドーラ」と関連している。

患者が体験を早急に第三者に開きたくなるのには理由がある。端的にいえば、彼にとってフロイトとの分析がbad analysisだったからだろう。

しかしそれを「書く」行為が明らかにしたのは単に精神分析がもつ限界だけではなかった。常にongoing であること、著者は、この本であとから登場してくるH.D.の体験を素材に無時間性に関する学術論文も書いているが、そこでの議論とも通じるように思う。

ジョセフ・ウォルティスの『フロイト体験 ーある精神科医の分析の記録』(1989,岩崎学術出版社)は前田重治先生監訳。前田先生は東京で分析を受けていたときに古澤平作先生に本書を紹介されたと「解説」で書いている。

前田重治先生はご自身の体験も本にされているし、おすすめしたいご著書はたくさんあるけどきたやまおさむの歌を知っている人なら誰でも楽しめるのはこれかも。

→「良い加減に生きる 歌いながら考える深層心理』(2019, 講談社現代新書)著:きたやまおさむ&前田重治

前田重治先生の『「芸」に学ぶ心理面接法 初心者のための心覚え』(誠信書房)も。

ジョセフ・ウォルティス『フロイト体験 ーある精神科医の分析の記録』の次にminor textとして取り上げられるのはS.ブラントン『フロイトとの日々ー教育分析の記録』(日本教文社、馬場謙一訳)。

03. Diary of My Analysis with Sigmund Freud by Smiley Blanton: From a Deadlock of Silence to the Act of Writing 

ブラントンの回顧録は妻のマーガレットにより編纂されたもの。この本をざっと読みながら元の回顧録や症例研究にあたるなかで精神分析体験に第三者が関わることのリスクについても考えさせられるだろう。ブラントンのこの本も前田先生の覚え書も目を逸らしつつ読む感じになってしまった。

 ちなみに前も書いたがOgden,T.H.の関連論文と翻訳本もメモ。

 “On Psychoanalytic Writing.” International Journal of Psychoanalysis 86, 15–29. (2005).

“Reading Harold Searles.” In Rediscovering Psychoanalysis: Thinking and Dreaming, Learning and Forgetting. London and New York, NY: Routledge, 133–153.(2009).

オグデンの著作で訳されているのは多分これらです。

2冊目『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』5冊目『もの思いと解釈』6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』

Rediscovering Psychoanalysis  Thinking and Dreaming, Learning and Forgetting→『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳、 木立の文庫) 

The New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊も出た。それについてはすでに書いた

このシリーズはクライン派の本は結構訳されていると思う。独立学派は昨年でたハロルド・スチュワートと同じくスチュワートが書いた『バリント入門』。

以上メモ。関連の本を読んでいるのでこちらに付け足すかも。

資料作るの忘れてこんなことしてしまった。作ろう。

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精神分析

身体、環境

昨晩のベランダも気持ちよかった。今朝も気持ちいい。冷房もつけていない。これから暑くなるのだろうけど。麦茶を作っておく季節にもなった。出かけるまでに冷まして冷蔵庫に入れないといけないけど時間がない時にはたくさんの保冷剤を巻き付けるようにして冷やす。ある映画でカエルがたくさんよじのぼって身体を埋め尽くしていく場面を見たけどあんな感じ、でもないな。今ちょっと思い出しただけ。両生類というのは不思議な生き物だよね。私たちも本来そんな感じなんだろうけど。昨日世界水泳に出るような人の身体の特徴についても聞いてやっぱり生まれ持った身体が違うんだなあと思った。

精神分析家のウィニコットは環境も遺伝だと言ったのだけど、これってこれだけ書くと「えー」と思うと思う。説明されれば「ふーん、そうなのかあ」と思うのだけど、と書きながらここでは詳細書かないけど(本がそばにないので私の説明ではさらに曖昧になる可能性がある)どうして誤解されないそうな言葉でそういうこといったんだろ、と思ったりする。こうやって引っかかる人が出てきて「どういうこと?」って探索するからいいのかな。かまってちゃんパターンとは違うんだと思う。ウィニコットはgood enoughな注意を向けることを前提にしている人だから。かまってちゃんパターンはその注意の不足が前提にある。

寝不足なわりに何も進んでいないしもうだめだー。と毎日なってるけど今日も始めましょう。今日は火曜日(確認)。

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仕事

大暑、すもも

昨晩は久しぶりにベランダでゆっくりした。少し冷えるくらいの風は部屋に入ってしまうとあまり感じられずまた外に出た。昨日は暮れゆく空をキレイキレイ言いながら帰ってきたが夜の青もとてもきれいで西の空には弓形の月が爽やかに光っていた。とても気持ちよかった。昨日7月23日は二十四節気でいう大暑。一年で最も暑さが厳しくなる頃。8月7日頃までをそういうがその後も暑いは暑いだろう。ふと「あ、秋の風だ」「秋の空だ」と感じる日も遠くはないのだろうけど。昨日はあまり間をおかず二つのグループの事例検討会をしていたので外に出たのは夕方だった。歩いて新宿に出ると浴衣の人もちらほら。私のオフィスからは神宮球場の花火が見える。この時期はヤクルトスワローズ主催試合の5回裏が終了すると花火が上がる。たいていは音を聞くのみだけどこの前はグループのみんなに見せることができた。思わず大きな声をあげていた。夏だ。

7月20日にはすももをもらった。その日は府中の大國魂神社の『すもも祭』だったそうだ。11世紀半ば、朝廷から派遣された源頼義、義家父子が、奥州安倍氏平定(前九年の役)に向かう途中、大國魂神社に戦勝祈願、戦勝御礼詣りをした際の神饌の一つが李子(すもも)だったとのこと。そこからすもも市がたつようになったそうだ。赤い網に入った少し緑がかったすももは2、3日常温でということだった。もういいかなと冷蔵庫に入れて今朝いただいた。すもも、久しぶり。千歳烏山に住んでいた頃、八百屋さんで「すももだー」と喜んでいたらソルダムという品種を教えてもらってその素敵な名前にも盛り上がって買って帰った。今日いただいたすもももソルダムだそうだ。皮が少し厚かったので剥いた。飴細工のような艶やさと赤ともオレンジともいえないような美しい色に感激。かぶりついたときの絶妙の酸っぱさも懐かしい感じで子供の頃を思い出した。

昨日はとても丁寧な議論ができた。現場の「慣習」として意識していないことも外の目を借りればその違和感に気づける。環境と対象の使用についても話した。外からは見えないその人の痛みや苦しみがどんなものか、それがどうなることが「良い」のか。終わりのない問いばかり。だからこそ話し合う。その時点ではそういう感じなんだ、ということの積み重ね。今日も一日。