あとSNSにポストしたけどこっちにもメモしておこう。ケイト・バロウズ編集の『自閉症スペクトラムの臨床』は子どもと大人両方の自閉的側面が事例とともに広く記述されている本でとてもよくて、昨日は序章にしか出てこないBianca Lechevalierの論文を少しチェックした。邦訳だとレケバリエと訳されているけどルシュヴァリエじゃないかなと思った。この人の講演とか音声がないので確認できないのだけどフランスの神経学者としてマーク・ソームズと一緒に書いたものもあるらしいのでたくさん出ているソームズの動画をチェックすればLechevalierの名前も出てくるかもしれない。名前はできるだけそれに近い日本語にしたいと十川幸司先生が言っていた。大事だと思う。この本で参照されている。論文は二本あって、一つは2003 The 7th Annual International Frances Tustin Memorial Prize “Autistic Enclaves in the Dynamics of Adult Psychoanalysis by Bianca Lechevalier-Haim, M.D. of Caen, France。受賞論文もここから読める。最後にクラリッセ・ニコイツキー. Clarisse Nicoïdskiの詩が引用されていてそれがとても硬質で繊細な痛みと混乱を表現していて自閉的な世界の描写は厚みよりもこの感じになってしまうな、と辛かった。
この前、ドイツ精神分析協会(DPV)の精神分析家、Bohleber,W.が紹介するアルフレッド・ロレンツァーの論文について少し書いた。そこで紹介されていた論文はLorenzer, A. (2016) Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy. International Journal of Psychoanalysis 97:1399-1414。私の設定でもPEPで読めた。最初に検索したつもりだったのに。自分がなにを考えてその論文にたどり着いたかは私にとって大事なのだけどすぐに忘れてしまうから最初の目的とずれた方向で勉強してしまっていたりする。今回もそれで検索ワードを間違ったのかもしれない。それはそれでいい面もあるけどやるべきことがあるときは本当に時間がなくなるのでいけない。自分のこういうところに不便さを感じる。さて、ロレンツァーのこの論文は英訳が2016年。訳者はPhilip Slotkinという人。元の論文はZeitschrift für Psychoanalyse und ihre Anwendungen, 37:97-115 (1983).ロレンツァーは2002年に亡くなっている。原著はボルバーの論文から私が読み取ったものとはずいぶん違った。巻き込まれることについての記述なんだという印象は変わらないが、症例の提示はないにもかかわらず著者の臨床態度がなんとなく伝わってくるような論文で、理論化に説得力があって、隙間時間を全部使って読んでしまった。著者は最初に語表象と物表象をどう扱うかを示して「物表象とは、(いまだ言語に基づかない)相互作用の記憶痕跡――すなわち、経験された行為の沈殿物であり、未来の行為のモデルである」という。そして「治療者が患者の「遊び」に参加することを基礎として、患者によって提供されるすべての素材を、夢解釈に類似したアプローチによって扱う場面的理解(scenic understanding)は、無意識への王道(royal road)なのである。」という。そして「この方法と対象の「言語ベース」の性質は、精神分析の根本的特性であると同時に、根本的問題でもある。というのも、精神分析における認識対象が無意識であるという事実は、次のような奇妙なパラドクスを生み出すからである。すなわち、精神分析は、言語の外部にあるものを、言語に基づく手段によって探究しようとする、言い換えれば、理解しえないものを理解しようとするのである。」と精神分析が逃れようのない問題を確認しつつ、主にフロイトの著作を引用しながらそのメタサイコロジーを部分的に更新していく。
ボルバーのIntroduction to Hermann Argelander’s paper ‘The scenic function of the ego and its role in symptom and character formation’、ヘルマン・アルゲランダー論文「自我の場面的機能と、それが症状および性格形成に果たす役割」(Argelander, 1970)への序論、と訳せばいいのかな。
昨日はドイツ精神分析学会(DPV)の精神分析家Bohleber, W.の2016年の論文、Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’.を読んだと書いた。アルフレッド・ロレンツァー論文「精神分析的治療における言語、生活実践、場面的理解」の紹介でいいのかな。ここに書いてあることをざっと書いておく。正確な翻訳ではないので原典をご参照あれ。これはロレンツァーの1983年の論考の再録と展開のよう。1922年生まれのロレンツァーはエルンスト・クレッチマーのもとで精神科医として訓練を受けた。無意識の「場面的理解(szenisches Verstehen)」を中心に据えた、新たな精神分析メタ理論を構築した。シュトゥットガルト精神療法研究所およびハイデルベルク大学アレクサンダー・ミッチャーリッヒの心身医学クリニックで精神分析訓練を修了し、その後、ミッチャーリッヒが所長を務めていたフランクフルトのジークムント・フロイト研究所で勤務した。これはBohleberが2013年のIPAジャーナルで紹介している同じくDPVのヘルマン・アルゲランダー(1920ー2004)の経歴とほぼ同じ。ロレンツァーはドイツ精神分析学会(DPV)の訓練分析家であり、1971年にブレーメン大学社会心理学教授、1974年にはフランクフルト大学社会学部に移り、社会化理論の講座を担当した。1991年、病を理由に研究・臨床活動を退き、2002年に死去。
ロレンツァーは1965〜70年にかけて、外傷性神経症、強制収容所生存者のトラウマ、戦争外傷についても独自の研究を行っていたが、その後、主たる関心を精神分析的知の対象・方法・科学的地位へと移した。 1960年代には、ユルゲン・ハーバーマスによる「精神分析=内省の科学」という立場と格闘するが、ロレンツァーはそれとは異なり、精神分析のプラクシス(分析家が実際に何をしているか)を議論の出発点とした。彼は精神分析がそれをどのように理解しているかよりも「分析家が何をしているか」を基盤にメタ理論を構築した。彼の基本命題は、精神分析とは言語の変容に関わる営みであり、それは表象representativesの象徴化/脱象徴化の過程という象徴理論の文脈で理解される、というものである。このメタ理論は次第に異なる象徴形成の平面に位置する相互作用形式」という概念へと展開されていく。ロレンツァーにとって精神分析は、自然科学と解釈学の中間に位置する独自の科学であり、後年彼はそれを「身体の解釈学hermeneutics of the body」と呼んだ。フロイトは精神分析を自然科学の領域に属するものと見なしていたが、彼自身は――暗黙のうちにではあるが、決定的な仕方で――自然科学と文化諸科学とのあいだの境界を廃し、新たな科学のパラダイムを打ち立てた。ロレンツァーにとって、「フロイトへの回帰(Back to Freud)」というスローガンは、自我心理学者たちとは異なり、メタ心理学的立場および欲動理論への回帰を意味する。精神分析の生理学的基盤を保持しつつも、彼はフロイトのいうところの「素朴な生物学主義」とは対照的に、欲動の心身的構造を社会的過程の産物として構想することに関心を向けている。この目的のために、彼は相互作用形式(form of interaction)という基礎概念を展開する。
非表象領域での出来事をどう記述するかという課題がずっとあるわけで(私のというより現代精神分析のかもしれない)、ウィニコット(イギリス)のネガティブ、ビオン(イギリス)の原初思考、アンドレ・グリーンを通じてのボテラ夫妻(フランス)の形象可能性、オラニエ(フランス)のピクトグラム、今回はバロス(ブラジル)の情動的ピクトグラムと読んでいきつつあれこれ考えていた。それでも書き物に用いた臨床素材について記述するにはまだなにか足りないと思っているところに今回出会ったのがドイツの精神分析家、Bohleber, W. (2016) Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’. International Journal of Psychoanalysis 97:1393-1398。2020年9月のIPA Off the Couch、Episode 66: Otherness, Anti-Semitism and Psychoanalysis with Dr. Werner Bohleberで声を聴くこともできる。2007年のSigourney Award Winnerでそこでの紹介を訳すとこんな感じ。
IPAの精神分析家になって、世界中の精神分析家と精神分析を取り巻く環境が身近になって、そこには常に戦争が関わってきたし、現在もそうであることを実感するようになった。IPAの中にも当然分断があり、議論も対話の場はあるがそこでの困難もきく。日本には日本の課題もあるが、世界に目を向ければもう少し別の対話が可能というか必要ではないか、と思いつつ、自分が属する場所は大事なのでそこにいる。組織に入り、国際的な学会にでることで世界の精神分析家が背負ってきたものの重みは増した。本の読み方も変わった。創始者フロイトがユダヤ人であることはもちろん、ナチズムによって亡命を余儀なくされた多くの分析家の移動によって精神分析は多様になったが、移動しなかった、もしくは戻ってきたら、あるいは母国にいながら沈黙を守る必要があった精神分析家たちもいる。ドイツの分析家たちがまさにそうかもしれない、など考えながら読んでいたら同じBohleber W. (2013)が間主観性について The Concept of Intersubjectivity in Psychoanalysis: Taking Critical Stockという論文も書いており、これはまだ途中だが、大変よくまとまっているので参照していきたい。
今朝はなんとなくAndré GreenのClinical Thought/POUR INTRODUIRE LA PENSEE CLINIQUEの試し読みを読んでいた。これ英訳がないのに、なぜ英語の題が併記なのだろう。実は英語訳あるのかな。この前ここにも少し訳を載せた Green, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71. と似たような内容がこの本には載っていそう。「臨床的思考」という用語でその他の思考との違いを明確にしていく感じかな。前提として精神分析の特異性が語られている様子。たとえばこんなところから。
昨日は事例検討会もミーティングもあり私なりに頭を使って疲れた。先日MacのPagesで訳したアンドレ・グリーンのGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understanding. Fort Da, 8:58-71.をWordファイルにしてOneDriveに保存してからWindowsパソコンで開こうとしたら見当たらず。ほかのファイルも破損しているから開けないとかいう表示がでた。私はこんなに長くMacでOneDriveを使ってきて、なんどか同じ事態になっているのになんとかなってきてしまったことでなにもしてこなかったのだな、とMacとのさよならが近づいてきている今になって反省してちょっと調べたらすぐ対処方法がでてきた。対処方法以前の私のわかってなさの問題という気もしたがとりあえずよかった。このMacがまだ新しかったころにOfficeをインストールしたのだけど相性が悪かったのかフリーズしてばかりでapplestoreでもそういわれるばかりだったのでpagesばかり使ってきてしまったのだ。学会発表とか原稿でWordファイルを求められるときはオフィスにあるWindowsのパソコンに送って手直して出していた。すると文字数が結構変わってしまったりして、常に時間も文字数もぎりぎりで書いているので大慌てということもよくあった。にもかかわらず、と話ですね。Macとはお別れしがたいたけどそういうめんどくさいことがないようにWindowsのパソコンを買ったし、作業はそちらに統一していかないと。
昨日、使用したのはANDRÉ GREEN “Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)の英訳版。NEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊で “The Fabric of Affect in the Psychoanalytic Discourse” 。これも英訳はAlan Sheridan。情動の観点からフロイトの著作を簡潔に紐解く手捌きは鮮やかで、今回は『草稿G』(1895) 『心理学草案』(1895)について書かれている箇所を読んだ。『草稿G』については前にもここで書いたがメランコリーについて書かれたもので『喪とメランコリー』を読む際は参照してもいいと思う。『心理学草案』についてアンドレ・グリーンはこう書いている。
さらに、なにのために読もうとしたのか忘れたが昨日はなんとなくGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understandingも読んだ。そしたら私がここでたまにぼやいているようなことがきちんと精神分析の危機として書かれていた。書くならこのくらいの熱量で書かないといけないのね、と思いながら読んだ。
But what is really interesting about the possible connection between the two is the fact that, in spite of the obvious similarity between his thinking and Zen Buddhism, Morita disclaimed any special connection between the two.
昨日は武蔵小金井の宮地楽器ホールというところにはじめていった。武蔵小金井は昨年、久しぶりに行ったけど北口しかウロウロしなかった。今回は南口にびっくり。きれい。駅前でなんでも揃う。中央線のこっちの方は駅前が本当いいよね。立川とか国立とかも本当便利。昨日は国立に長く住んでいた現在NY在住の作曲家、挾間美帆 と小金井出身のヴァイオリニスト滝千春のproject《MaNGROVE》Japan Tour 2026の初日へ。弦楽四重奏にコントラバスに挟間美帆のピアノ。ちょうど間に合う時間だったから慌ててとって席は最後列だったけど両脇がいなくてゆったりできてよかった。そういえば挟間美帆はピアノを弾くんだね。元々はピアノで大学入ったんだものね。作曲したり指揮したりする姿ばかり見ていたから意外だった。ピアニストのピアノとは違う良さがあった。そして普段は挟間美帆しかフォローしていないがクラシック界の若手トップスターたちもすごかった。挟間美帆の解説もよかったし、確かにこういう曲を普段クラシックをやっている人たちが弾くってどんな感じなんだろうと思った。楽しそうだけど。クラシックとジャズ、音符と言語の壁を超えて(滝さんがプロコフィエフの音楽に感じたこと)こういうチャレンジがなされ、多くの人を集めている場所にいられてよかった。私よりずっと年上の白髪の女性たちが結構たくさん見にきていてお手洗いの列にいる間、今日のコンサートの充実感を語りつつ、「疲れたでしょうねえ」と演者のみなさんを思いやっていたのもなんかよかった。今日知った人たちの活動、今後もチェックしていこう。チラシとか見てるとリサイタルの仕方とか、その試みがいちいち興味深い。音の細かいことは私にはわからないけど積み上げられた技術をもとに新しいチャレンジがなされていくプロセスを追うのは楽しい。
5月にソウルにいくのでそろそろ色々準備しないといけないのだろうけどハングルをよめないのは結構大変だな、観光には。もちろん情報はたくさんあるけど。一応、精神分析のカンファレンスでいくのでthe Korean Psychoanalytic Center (KPC, formerly KIPSA)について調べたりした。韓国の精神分析環境も色々大変そうだが、34名の会員、 10人の訓練分析家、65名の候補生と日本の協会より勢いがある。良い影響をうけたい。会長のDr. Sun Ju Chungのインタビューを聞いたりもした。今度のthe 5th IPA Asia Pacific Conference in Seoul にも意欲的。それはそうか。良い影響を受けたい(二度目)。30年ぶりくらいのソウル、楽しみたい。
「営む」と意識的に使った、というよりこの言葉を書くたびに注意がそこに向くのは藤山直樹『精神分析という営み』(2003、岩崎学術出版社)を読んでからかも。先日読んだと書いた藤山直樹の最新刊『精神分析の深みへ』(2025、金剛出版)の序章はこの最初の単著における「営み」という言葉の使用を掘り下げ、精神分析を「営んでいる」とはどういうことかが書かれている。「営み」は英語にするとどうなのだろう。著者は最初の本をどう英訳しているのだろう。act, activities, make love to,vividly portray,undertakingなど文脈によって使い分けることができるこの単語だが日本語の「営み」が持つ広がりを私も好ましく感じる。
重力に弱い私は自分の行動がデータとして可視化されるのを目にするだけで酔ってしまうが身体を装置に馴染ませることとか、対象ではなく関係を取り出していく三上晴子の展示は精神分析における視覚、聴覚の使い方とか、障害のある人への身体的関わりを考えさせられる。そこで圏論を学ぼうと思ったわけ(うまく説明できない。よくわかってないから。)。圏論は数学界でもまだ新しいアイデアだと思うけど昨年、加藤文元『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』 (ブルーバックス B 2313)が話題になっていて面白そうと思っていたのだ。
さてアンナをみつつぼんやり“Key Ideas for a Contemporary Psychoanalysis Misrecognition and Recognition of the Unconscious” By Andre Green がどんな本だったかをチェックしていた。2023年12月にも読んでいた時期があったらしいが全く覚えていない。今回は原書のフランス語版にむけて書かれたペレルバーグの書評Jozef-Perelberg, R. (2005) Idées directrices pour une psychanalyse contemporaine d’André Green. Revue française de psychanalyse 69:1247-1261をみつけたのでそれも読みつつ目次を確かめつつ、今読むべきところを探ってみた。フロイトの「否定」論文は何度も読むべきものだけど、その「否定」では表せないだけでなく、精神分析実践ならではの心の動きを示すのがグリーンの「ネガティヴ」という概念だと思う。ネガティブはとらえどころがないからネガティブなのであってそれがwork(作業、仕事)できる心かどうかが精神分析プロセスを追うときの大切な指標になる。心とか主体とかあるんだかないんだかみたいなものを想定せざるをえないのはなんらかの動きを感じるということが起きたとき。ふと感じられる主体が現れるとき。時間が動くのとセット。それまで止まっていた時間が。「あれ?どうして今これ思い出したんだろう」「今ふと思い出しのだけど」と不思議そうに現れる気持ちは過去の出来事とつながっている。「あれなんで泣いているんだろう」とかも。過去は単なる時間ではないのだ。情動とくっついて時間として現れる、のでは?時間に関しては今年はベルクソンに加えてポール・リクールを読みましょう。積んであるからね。あとアガンベン。人は生きていること自体が行為になってしまうから色々難しい。さらに言葉も持ってるからややこしい。今年もそんなめんどくさい自分とつきあっていきまっしょい。
次に読むアンドレ・グリーンの本をしつこく探していてLa Clinique du négatifはどうかなあと思ったけど英訳もなく、どの論文が入っているかもわからない。André Green Revisited Representation and the Work of the Negative Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine Copyright 2019はグリーンを引用して何か書く場合に非常に参考になりそう。著者はRene Roussillon、Jean-Claude Rolland、Howard B. Levine and Anna Migliozzi、Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky、Fernando Urribarri、Claudio Laks Eizerik, Lucian Falcão and Zelig Liberman、Marie France Brunet、Talya S. Candi and Elias M. da Rocha Barros、Rosine Perelberg 、Francis Baudry。
ペレルバーグのRepetition, Transformations and Après-Coupだけでも読めないかなと思ったけどpepにはなかった。The Controversial Discussions and après-coup(2008)が参考になるかな。
グリーンはまとめる対象ではなく読み続けるべき対象だなと思ったのでLIFE NARCISSISM, DEATH NARCISSISM. André Green 著(Andrew Weller 訳)London/New York: Free Association Books, 2001, 262頁も買ってしまおうなあ、どうしようかなあ、と思ったが洋書は高いのでとりあえず買わない。こんなだとPEPに高い入会金を払って読み放題にしたほうがいいのかもしれない。IJPジャーナルだって全然読めていないものも多いけど自分が探求するものに関してはお金かけどきかも。こういうのも全部年齢、つまり残り時間との相談になる。すくなくとも若い頃よりは先の短さはたしかなわけだから。でも先生方にはまだまだ長生きして対話をつづけてほしいな。わがままだが。
これは1997年7月29日、IPA第40回大会(バルセロナ)W.R.ビオン生誕100周年記念のオープニングレクチャーをもとにしています。なのでビオンの理論の検討がされています。私が先に書いたことはビオンの”I am, therefore I have thoughts without a thinker which demand a mind to think about them!”について考えるグリーンの言説。
Reading Freudで「心理学草案」(1895)を精読したのでその意義を確かめるべくアンドレ・グリーンの論文を準備したのだが、当初使おうと思っていたより論文よりNEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊である“The Fabric of Affect in the Psychoanalytic Discourse”(Routledge, 1999年、Alan Sheridan訳)のほうがそのままフロイトの初期の著作について書いてあるからいいな、と思い訳し始めた。原著は“Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)。いい題。
Meissner, W. W. (2001)による紹介通り「アンドレ・グリーンは、大西洋のこちら側とあちら側のあいだを首尾よく「翻訳」することのできる、数少ないフランスの精神分析家であり思想家の一人である」。本書で「グリーンは議論の中心を、情動概念に対するフロイトの貢献に据え、その検討はフロイトの主要著作のほとんどを網羅することになる。グリーンは、『ヒステリー研究』(1893–1895)や『心理学草案(プロジェクト)』(1895)における初期の定式化から、フロイト晩年の著作に至るまで、フロイトの思想がどのように漸進的に展開していったのかを丹念に跡づけている」。本体より追記が多い本(実際には三分の一らしいけど)という印象で構成は変だが、最初のChapter 1 Affect in Freud’s Work Evolution of the Conception of Affectはとてもいい。フロイトの著作において織り込まれている情動概念に関する思考の展開を以下の段階に区分。
クーパーの場合、設定を転移の場としてAndré Greenのventilated spacesを引用する。この用語は1975年のIPAジャーナルに掲載されたThe Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D.から。
少し前にここに、アンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practice by Andre Green French Psychoanalysis、英語版への序文を書いたHoward B. Levineによる説明を書いた。
序文はLimit cases, transformation, and the ordeal of the session: André Green’s extension of Freudian theory。そこにはこう書いてある。
さて、この用語が使われたグリーンのThe Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D.(「分析家、象徴化、そして分析設定における不在」、1975年)はIPA 地域間精神分析百科事典(IRED)日本語版の「設定」の項目でも参照されている。とてもいい論文で、私は幸運なことに勉強会で訳を共有していただいているのでまた読み直そう。ventilatedのところは忘れていたし。ちなみに「設定」に関しての基本論文はBleger J. (1967). Psycho-analysis of the psycho-analytic frame. International Journal of Psychoanalysis 48:511–519. IREDでもそうだが「設定」を論じるなら必ず参照されていると思う。
ちなみに読んでいたのは The psychoanalytic frame: Its internalization by the analyst and its application in practice。クーパーの「設定」とは全く違う「枠組み」のお話。この論文は Contemporary Psychoanalytic Practice(2012,Karnac)とThe Freudian Matrix of André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century(2023, Routledge)の両方に入っているのもややこしい。重要論文だからなのだろうけど。これらはどっちもそんなにややこしくないいい本だと思う。グリーンの好き嫌いだけ知っておけば、難しいけどややこしくはない。
毎日少しずついろんなものを訳しているのでそれを整理しようと思ったら間違ってコピペしたりでかえってわからなくなってしまった。複数のことを同時にできないからあとがどんどん大変になる。落ち着こうと思って読み慣れたオグデン(Thomas Ogden)の最新刊“What Alive Means”(2024、Routledge)のCh6 Like the Belly of a Bird Breathing On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”を読もうとパソコンを開いた。これは2023年Int. J. Psychoanal., (104)(1)に掲載されたもの。オグデンがウィニコットをクリエイティブにリーディングするシリーズのひとつで、14本目と書いてあったと思う。ウィニコットのalivenessを探求しつつ発表もしてきた私には欠かせない論文なのだが、それを精読するオグデンも細やか。私はいまだにたくさん辞書をひかないと英語読めないのだけど(しかも覚えられない)機械翻訳を使いながら読んでも「え、なんでこの言葉使ったの」とひっかかるところがあって、そういうとここそ面白いと知っている。言葉ってきちんとひっかかるようにできてるよね、と思いながらもまたそこに時間がかかるのでいくら時間があっても足りないが、継続してきたことでいろんなつながりがみえてきたのが嬉しい。アンドレ・グリーンを読んでいると宇宙を指さされながらなにか聞かされているような気分になるが、オグデンは「ばけばけ」のおトキちゃんとヘブン先生が怪談を語り、きくという構図と似ている。わからない言語をなんどもなんども聞いているうちに雰囲気で分かってくる感じもいい。ほんとうはなんども聞いているから雰囲気ではなく言葉の要素を理解できるようになるからだけど雰囲気という言葉でふんわりさせるのもいい。いい、いい、言っている場合では全然ないのに月曜日が始まってしまった。なんとかなりますように。とりあえず体調きをつけて過ごそう。みなさんもお大事にお過ごしくださいね。
と書くのは、子供の心理療法について書かなければだからで、昨日は少し書けたが、その数日前に書いたものとの整合性がなくなってしまった。やっぱり途中にオラニエ(Piera Aulagnier)Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementを読んだのがいけなかった。オラニエは最早期の心の生成を複数の水準で描き出そうとしたわけだけど、オラニエの描写する赤ちゃんってクラインの描く赤ちゃんとは別の感じで辛そうなのが辛い。ウィニコットやグリーンは死せる母について書いたけど、オラニエは母の中で死んでいる子供を書いてる感じ。精神病の精神分析の長年の経験がオラニエに心の原初まで遡らせる強いモチベーションを維持させたのだろうけど、ウィニコットの主観的対象と同じく、心の原初を描くにはどこかで何かしらの形を想定する必要がある。そしてそれをあくまでその後に続く運動と連動するものとして捉えながら描く必要がある。事後性の概念はそれに貢献するし、欲動理論もここに役立つ。アンドレ・グリーンはその種まきをたくさんしてくれたと思う。オラニエもラカン発の分析家ではあるが、オラニエが基礎に置くのは身体と欲望。方向性としては母がカッコ付きの「私」を見出すというより、私が母になることで「私」になるという感じか。とか考えていると、そこまで書いていたものに揺さぶりがかかってしまうから書けないんだな。隙間時間にやるのだから別のものは入れずにとりあえず一気に書き上げないといけないのだろうけど。すぐ何考えてたか忘れてしまうし。うーん。賢い人が羨ましいが、そういう不足は継続によって補うのが吉、と思っているのでなんとかがんばりましょう。がんばれますように。
Elias Mallet Barros(2000)、Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life. 読み始めたと書いたが、関連文献を色々読んでいるうちに誰が何を言っていたのかわからなくなってしまった。バロスのことはジョン・スタイナーがメラニークライントラストのウェブサイトで紹介しているのでそちらを参照。バロスは英国精神分析協会でローゼンフェルドたちから訓練を受け、ジョン・スタイナーたちと仕事をしていた人。その後、ブラジルに帰ってサンパウロ精神分析協会でもIPAでも活躍。クライン派の仕事を南米に紹介した人のひとり影響が強そうだけど、私が今年最も引用したボテラ夫妻、アンドレ・グリーン、アントニーノ・フェッロ、トーマス・オグデンの引用も多い。英国で訓練を受けてきた日本のクライン派の先生方もそうだけどその土地の精神分析文化に馴染んだ人が翻訳によってそれらを伝達してくれることのありがたさたるや。バロスがこの論文で依拠する主たる分析家はAulagnier, Bion, Ferro, GreenそしてKhan。
バロスが参照するピエラ・オラニエ(Aulagnier, P)の1975年の著書 La violence de l’interprétation. Du pictogramme à l’énoncé の英語版The Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementを英語に訳したのはAlan Sheridan。ラカンを英語で読める形にした最初の(エクリはその後フィンクが英語で全訳出したけど)翻訳者。フーコーとかも訳している。オラニエのThe Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementには訳者のノートもあってporte-paroleをword-bearerと訳したのはなぜか、ということなども書いてあった。言葉の字義、精神分析における文脈、著者の造語の傾向、英語圏での誤読の回避などいろんな目配りが必要な仕事。オラニエがどんな人か知らないのだけど概念と言語と精神病の間で生じる緊張をここまで言葉にできるのはものすごいことだと思う。英語にしてくれてありがたい。フランス精神分析の基盤を持つ人に日本語にしてもらえたらもっとありがたい。オラニエもAlan Sheridanの訳注を引用していたし信頼関係があるのだろうな。大変だけど素敵な仕事。
昨日はElias Mallet Barros(2000)、Affect and Pictographic Imageを少し読み始めた。ピクトグラムの論文。精神分析でピクトグラムというとフランスのピエラ・オラニエがオリジナリティを発揮。主著はAulagnier, P. (1975). La violence de l’interprétation. Du pictogramme à l’énoncé Paris: Presses Universitaires de France. 英語版はThe Violence of Interpretation: From Pictogram to Statement, trans. A. Sheridan. New Library of Psychoanalysis. London: Routledge, 2001.これは持っていて部分的に訳してあったのでそっちも参照。本当はオリジナルの概念は用語集や辞書を参照してから中身に取り掛かるのが一番いいと思う。Reading French Psychoanalysis Edited By Dana Birksted-Breen, Sara Flanders, Alain Gibeault(2010)のGlossaryにあるPictogram [pictogramme]もよくまとまっている。昨日はそれを見直そうと思ったのに別の紹介を読んでしまったので時間を取られたLa pensée clinique chez Piera Aulagnier Matinée scientifique de la S.P.R.F. du 11 avril 2015 Conférence de Cathie Silvestre 。2015年4月11日S.P.R.F.(Société Psychanalytique de Recherche et de Formation, Psychoanalytic Society for Training and Research)の会で行われたCathie Silvestreの講演記録。「ピエラ・オーラニエにおける臨床的思考」。これが長くて難しいのだけど結構面白くて一生懸命理解しようと真剣になってしまった。PCの画面に目を近づけすぎてた。近づけなくても老眼鏡のおかげで読めたのだけど目に入れる情報を少なくしないと理解できなかったから。ピクトグラムは人間の心が対象や環境と近づく運動の中で最初に現れる原初的形態といえる。表象なんだけど表象以前という感じ。これも訳したら勉強会で共有しよう。勉強も関心を共にする人たちと協力しながらやると広がりも深まりもあっていい。基本的には孤独な作業だからこそ支えが必要。べらぼうと同じ(余韻に浸っている)。