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精神分析、本

「終わりのある分析と終わりのない分析」

「無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。」
ー『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉雅也著

有限性についてはいつも考えている。わざわざ考えなくてもそのなかに身を置いて日々を過ごしているのだけど。

 フロイトは「終わりのある分析と終わりのない分析」(1937,『フロイト技法論集』所収)において、彼の患者、ウルフマンに対して分析の期限設定を設けたことについて再考している。フロイトは患者から学び続けるという点でも天才だと思う。そのなかでフロイトは「そもそも分析にそのような(自然な)終わりがもたらされる可能性はあるのだろうか」と自問する。そして「分析家と患者が精神分析セッションのために会うのを止めたときに、その分析は終わりである」と一応の答えを出し、「終わっていない分析」と「不完全な分析」を区別する。同時にフロイトは、分析の「終わり」について「分析が続行されたとしてもそれ以上の変化が期待できないほどの広汎にわたる影響を、分析家が患者に対して与えたかどうか」という観点からそれが起こりうる可能性についても検討する。

 フロイトは「できるだけ早い対処」を願っていた初期の患者に対して、主に訓練分析として分析にきていた後年の患者はとは「治療の短縮」は問題にならなかったという。なぜなら彼らの治療の目的は「彼らのなかにある病気の可能性を根本的に枯渇させ、彼らの人格の深く進行する変容をもたらす」ことだったからである。さらに、分析作業によってなされるのは欲動を「飼い馴らすこと」であり「量的要因の優位に終止符を打つ」ことであると言えるかもしれない、と書いた。

 この論文は私に、フロイトに対するフェレンツィのあり方について書きたくなる気持ちも生じさせる。それはまさにフェレンツィが描き出した大人と子どもの構造的な違いとそこで生じる混乱という観点からなのだが、それについてはまた別の機会に書いてみたい。その準備としてひとつ書いておくとしたら、フェレンツィは、分析家が自分の「間違いや失敗」から十分に学んでいること、そして「自分の人格の弱点」を克服していることに分析の終わりはかかっているとして、暗に、というかほぼ明確に自分の分析家であるフロイトの責任を問うた。フロイトも愛弟子フェレンツィの名前を出しつつ、それに応えるようにこの論文を書いた。つまりこれは、精神分析家の資格認定に関する問答でもある。

 さて、フロイトはこの論文の後半、「分析はほとんど、あらかじめ満足のいかない結果となることが確信できる、あの「不可能な」職業の中の第三のもののように見える」と精神分析を教育と政治と並べる。ビオンは精神分析を「思わしくない仕事に最善を尽くすこと」といったが、もとより精神分析は「ありきたりの不幸」(フロイト)を視線の先におくことから出発した。それから長い思索の時間を経てフロイトは欲動を「飼い慣らすこと」にその目的に据えた。私はそこにフロイトの有限性に対する基本的な態度を見てとるし、ウィニコットの理論構築の基盤にも同様のものを感じる。

 欲動を「飼い慣らすこと」。。体験的にはわかる気もするが、精神分析体験は決してそれだけではないという実感もある。それについての考えを促してくれる良書(今のところ最強の一冊かも)が2019年に出版された。十川幸司著『フロイディアン・ステップ』がそれである。

 療育の現場では「スモールステップ」という言葉をよく使うが、私は「ベイビーステップ」という言葉をよく使う。こころの変容は決められた枠組みのなかで小さなステップを患者と分析家がともに踏み続ける時間の記憶の集積だ。それは有限に違いないけれど、いつかたどり着くかどうかさえわからないどこかのなにかへ向けられていることを思えばそれを無限にしておくことも可能だろう。

 全く違うことを書くつもりだったのだけど、千葉雅也氏の言葉から思い浮かんだことを書いてみたらこんな風になった。書くことは不思議の連続だな。

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精神分析

『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』

社会学者の岸政彦さんの著作にであったおかげで社会学の本を読むようになった。研究会で社会学にもいくつかの分類があると教わった。今回はいつも読んでいる領域とは少し違う社会学の本を読んでみた。

『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』中森弘樹(2017,慶應義塾大学出版会)は失踪という事態?出来事?あり方?を通じて、私たちが当然のように大切なものとする「親密な関係」に私たちを繋ぎ止めるものを浮かびあがらせる丁寧な研究の書である。

著者は最初に「死ぬことと消えることはいかなる点で異なるのだろうか」という問いを掲げ、失踪が自殺を代替しうるか、だとしたら失踪に含まれる意味とは、そこにおける他者とは、責任とは、倫理とはということに考えを巡らしていく。第6章 失踪者のライフストーリーでは、<失踪>経験者のライフストーリーが2例取り上げられる。つまり今は失踪していない人たちの言葉を聞くことができる。「自殺中に電話をしてきた友人」という表現なども興味深い。失踪が生と死の中間にあるとシンプルにいうこともできるかもしれない。失踪に至るまで、あるいは失踪中、失踪後という物語を作るとき、そこには親、配偶者、家族、友人、周囲、世間といった他者との関係が自然に立ち現れてくる。

この数ヶ月、コロナが可視化した「他者」や「関係」に対する人の態度は以前からその人に潜在していたあり方だろう。この本は今読むとなおさら逃れようのない他者を感じる。その他者とともに、あるいは別々に(逃れようがないとしても)、どう生きていくのか、そのプロセスに失踪、あるいはそれに近い出来事が生じるとしたら、そのあり方とはいかなるものか、これらの問いに対する社会学者の語りは他者との間にこころを見出そうとする私のような臨床家の語りとは重なるが異なる。だからこそ読んでよかった。臨床家がともすると陥りがちな二者関係の押し付けについて考えるための補助線をもらったと思う。

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精神分析、本

価値判断について少し

『武器としての「資本論」』白井聡著(2020)を読んでいて、そういえば、と思って小此木啓吾や土居健郎の本をパラパラとしてみた。

日本の精神分析家はマルクス主義と精神分析との関連をどう考えているのかな、と知りたくなったから。

というより、今回、新型コロナの影響を受ける臨床心理士の実情を垣間見てやっぱり経済と人権は切り離せない、と大きくいわずとも、お金と人間関係って切り離せない(金の切れ目云々とか)と考えていたら白井氏の本と出会ったわけです。

白井聡氏といえば『永続敗戦論』がとっても面白く、何度かルミネの本屋で立ち読みし、結局買って読んだ。そしてその本屋はコロナと関係ないが、今はもうないのだな。

それはともかく、最近の日本の精神分析家の本でいえば妙木浩之が『心理経済学のすすめ』(1999,新書館)でそれについて触れている。

そういえば、お金=排便→肛門愛やがてエディプスという流れは今、フロイト読書会のグループで読んでいるラットマンのところと重なるから、そっちもそのうち更新しよう。

オフィスのHPに『ある錯覚の未来』について書いたときにも触れたけど土居健郎は「宗教とイデオロギーの間」(『精神療法と精神分析』所収)という論考の中で、精神分析における「価値判断」の問題を棚上げできるかどうかについて論じている。

土居はフロイトが知らず知らずのうちにマルキシズムと同じ過失に陥っていたようだと述べる。そして土居は精神分析家の価値判断について「分析者個人の価値判断は間接的に治療者患者の関係に影響を及ぼすのであるから、分析者の科学至上主義が患者をもその信念に引き込もうとする可能性を、十分考えねばならぬのである。」と書いた。でも面白いのはここからで、というところで時間なのでまた。

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