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パウンドケーキ、ボラス“Being a Character”

朝はだいぶ涼しくなってきた。まだ時折アブラゼミの声が聞こえる。鳥たちも元気。この前、近所でオナガが大きな声を出していた。山とは鳥の鳴き声もずいぶん違って聞こえる。

大きなトラックが通り過ぎた。この道を通るのは早朝から長距離を移動するトラックではないと思う。昨日の昼間も秋だなんて嘘だみたいに暑かった。日中の同じような時間にいろんな配送会社の人が汗だくで大きな荷物を走るようにして運んでいるのをみながら大変だね、ありがたいね、と話すことがいつもより多かった気がする、この夏。

季節ごとに届くパウンドケーキ、秋はハーブとスパイスのパウンドケーキと丸子紅茶のパウンドケーキ。この丸子紅茶はとっても美味しくてケーキにしても香りがとてもいい。

また余裕のない平日となり、日曜日に考えていたことがどこかへ行ってしまった。日曜の間にやっておけばよかった。

引用しないと決めたChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)をちょこちょこ読んではいる。文学として魅力的でなんとなく読んでしまう。

例えばBeing a Character: Psychoanalysis and Self ExperienceのIntroductionの冒頭をなんとなく訳すと

>私たちは皆、ある特定の香りが、まるで子ども時代の遠い村から呼びかけてくるかのように感じられる、あの胸を打つ瞬間を知っている。過去へ手を伸ばし、遠い昔の自己体験のエッセンスに触れられるかのように。人生のとても特別な時期に流行した音楽を耳にしても、呼び起こされるのは単なる記憶というより、イメージや感情、身体の鋭敏さに満ちた内的で心的な星座である。たとえ「この匂い、子どもの頃、うちの庭にあった花の匂いだ!」と誰かに言葉で説明しようとしても、内的体験の質感を伝えきることはできない。

みたいな。プルーストやシェイクスピアが偉大なのはもちろん、それを自由に取り込んで精神分析理論と重ね合わせて書く仕方が魅力的。おお、マドレーヌ、とパウンドケーキを食べながらでも喚起される香り。

ちなみにボラスがここで書いているのは、単なる対象としてというより過程として重要性を持つボラスが変形性対象(transfomational object)と呼ぶもののこと。この部分は国際精神分析学会(IPA)が無料で提供しているIREDという事典の日本語版でもすでに訳されている。そこから引用する。

>>Bollas(1987)は、母親が「全体的な対象として幼児にとって人間化される」前は、「母親は変形の領域あるいは源として機能している」と主張した。したがって、「母親は、他者としてまだ十分に同定可能ではないが、変形の過程として経験される。そして、この早期の存在の特徴は、大人としての生活の中で、 対象が変形のシニフィアンとしての機能のために求められる時、対象希求の特定の形式において生き続けている。」(1987)

Bollas の「対象の統合性」については、Bollas(1992, p4)は次のように書いている。これもIntroductionの一部。

>>かなり驚きなのであるが、対象関係論では、個人の投影のコンテ イナーとして見なされている対象のもつ際立った構造にほとんど思考が向けられていない。確かに対象は私たちを持ちこたえてくれる。しかし、十分皮肉なことに、まさに対象が私たちの投影を保持してくれるからこそ、一つ一つの対象の構造的特徴がさらにより重要になってくるのである。と言うのも、再経験の際に、 自身の自然な統合性に従って私たちを処理してくれるコンテイナーに、私たちは、 私たち自身をも預けるのだから。(引用ここまで)

そうそう。対象と環境の関係について表現する際にはここを押さえておきたい。精神分析の事典となるとここしか引用しないけど、このあとのボラスの表現に私はむしろひかれる。次は私の直訳だから間違っているかもだけどメモとして書いておく。ボラスが続けて書くのはこんな感じ。

>たとえば、思春期初期に野球の技に由来する喜びの感情をシューベルトのハ長調交響曲に投影し、同じ週にガールフレンドへのエロティックな反応をサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に投影したとしよう。大人になってこれらの対象に出会えば、そこに蓄積された自己体験が喚起されるだろう。

良き。とか言っていないでやることやりましょう。どうぞ良い一日を。

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機能重視、write&read

東の空がきれいなピンク。昨日も昼間は暑かったけど確実に秋を感じたあとだと気持ちは爽やかでいられる。ある程度根拠のある明るい見通しを持てるだけで生活は大きく変わると思う。

この夏は登山用品が活躍した。あれだけ暑いとやや危険を感じるから機能性重視となり、私の場合、陽射しと汗から皮膚を守ることで皮膚科に行く回数を減らせるので、どうせハイキングもするし、ということでグッズを増やした。今年、購入してよかったな、と思ったのはモンベルのWIC.フィットロングスリーブTシャツ。モンベルは店舗が多いから行きやすいというのもあるけど機能的なものが多いと思う。この前、海辺を長く歩いたときにもダメージを受けずにいられた。一つあるだけで色々楽ちん、みたいなのがいい。結局同じものばかり使っちゃうし。

昨日はせっかくやる気を出したわりに作業は全然進まなかった。メモや書いたものの管理も下手すぎるんだと思う。同じ論文も何度も読んでは忘れてるし、読んだときのインパクトをもっときちんとした形にしておかないと、と何十年思えば実行に移せるのだろう。ツイート程度の量ならいくらでもかけるし、それを積み重ねておけばいいか、と思ったこともあるけど、扱う素材は羅列的に記述できるものではないので、膨らみを持たせながら思考を巡らすにはある程度の量できちんと書かないといけないんだな。わかっちゃいるが。

サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの本を読んでいることは何度も書いているが、今のところ一番新しいWhat Alive Meansの6章に入っているOgden, T. H. (2023) Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysis 104:7-22は2年前に読んでいた。オグデンのクリエイティブ・リーディングシリーズの14作目、ウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデン。この論文の面白いところはここだし、実際、Psycheは脳ではないし、Somaはbodyではないとか分けておくべきものを分けておいたり、内と外の間を安易に分けないという作業が必要な論文なので、write Winnicottは大事。オグデンがこれについて書いているのはこんな感じ。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

よい。これについていくとウィニコットの理解も深まるという仕組み。ただ、ウィニコットを前もってしっかり読んでおくことも必須なので、writeの前にreadかよという感じになるかもしれないけど同時にやるのが大事。というのを私は頭ではわかってるけどこれが私の課題。読むのは好き。書くのがだめ。でも周りの人と会話しているとアイデアは色々浮かぶからまずはそこを書き留めるところからかな。いくつになってもベイビーステップ。とにかくオグデンがcreative readingする論文は大変重要な論文たち。途中までのは一冊の本にまとまっていると思う。

とりあえず良い日曜日を。

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ドラマ、Mac、HOKUSAI、ボラス

夜中、雨の音で目が覚めた。今も結構降っている。ひどくならないといいがほかの地域はどうなんだろう。

今朝は野木亜紀子脚本の「連続ドラマW フェンス」をみていた。昨年映画「ラストマイル」をみて、それを楽しめるように関連ドラマ「アンナチュラル」「MIU404」もみた。どれもおもしろかったけど「ラストマイル」はそういう準備もして、かつ映画館で見たから面白かったという感じかも。昨年だったら友達に勧められてみた篠﨑絵里子脚本(子鹿ゆずる原作、大槻閑人(漫画・作画)「アンメット ある脳外科医の日記」の方がよかったかな。テレビドラマだと女性の脚本家が活躍しているようにみえる。

それにしても私のMacBook AirOSはもうだめかもしれない。Apple Storeに行くと「ヴィンテージ!」と「今はここにこんなのないんですよ」とか嬉しそうに教えてもらえるが高値で引き取ってもらえるわけではなく故障したらしたで「もう部品がないかも」と言われ続けながらなんとか生き延びている。OSはMonterey12.7.6からアップデートできないので入れられないアプリも増えてきた。どうしよう。でもこうやって動くうちは使い続けることは決まっている。

映画『HOKUSAI』監督は橋本一、脚本、橋本一、河原れん、葛飾北斎の青年期を柳楽優弥、老年期を田中泯が演じ、この切替の仕方は大胆ながら自然。大河ドラマ「べらぼう」のおかげで私の中の江戸文化年表の基準となった蔦屋重三郎も登場。阿部寛が静かな迫力(背の高さだけでもインパクトある)があって素敵だった。それにしても田中泯の動きがとにかく素晴らしい。表情も含め、全部が躍動している。鬼滅を見ながらも思ったが筋肉を全部動かせたらいいのに。筋トレしていると驚くが、自分でコントロールしながら使っている筋肉のわずかなこと。それでも少しずつ使い方うまくなっていると思うけど。肩こりとかは全然なくなって美容師さんにも驚かれた。今日は台風のせいだと思うけど身体が変。頭痛には耳くるくるマッサージをした。耳も大事ね。身体はみんな連動して補い合っているはず。そういう部分のひとつひとつに注意を向けられたら器官言語みたいに多義性が上手に伝われる言葉を紡げるのかもしれない。

昨日、クリストファー・ボラスが読めない、ということを書いたが、ボラスの精神分析以外の仕事に目を向けると、あ、なんか読めるかも、という感じになり、少し読み進めた。ボラスのいう
The Evocative Object はウィニコットの移行対象の変形だと思うが、より動的で情動に関わるものらしく、ウィニコットの使うingをくっきりと浮かび上がらせる対象のように思う。ボラスとグリーン、ボラスとオグデンをつなぐのもこういった対象の機能なんだろうな、と思うとなんかわかる気がする、という感じになった。ボラスもオグデンもアメリカにしっかり根ざしているのに英国精神分析に馴染んでいるというところに独特の香りを感じるのかもしれない。英国精神分析は豊かだよね。

ということで今日は台風に気をつけつつ過ごしましょう。

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鬼滅とかボラスとか。

南側の大きな窓を全開にしても風が入ってこない。気温がまだそんなに高くないからいいけど。昨晩は半月がもっと膨らんできれいだったのにベランダからは見えなかった。なぜ半月基準か、といえばその日に月と星の話をしたから。8月の月の暦は1日:上弦 9日:満月 16日:下弦 23日:新月 31日:上弦だった。キッチンの窓からはすごく気持ちのいい風。ありがたい。

深夜、早朝と『鬼滅の刃』を見続け、ようやく追いついた。でも今のところ無限列車編までが一番よかったかな。ここまで見たら『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』も見ないとか、と調べたらまだ混んでるのね。すごい人気だ。“英語字幕版上映”もそろそろ始まるとのこと。

勉強がなかなか進まないから読み慣れてきたオグデンばかり読んでいたけどナルシシズムに関する文献はちょこちょこ読んでいる。ウィニコットとアンドレ・グリーン関連でクリストファー・ボラスもチェックしてるが読みにくい。邦訳はすでに何冊か出ているのだけど私が確認したかったThe Mystery Of Thingsの邦訳『精神分析という経験 事物のミステリー』Dead mother,dead childとWording and telling sexualityが割愛されている。ガーン。

Three Characters: Narcissist, Borderline, Manic Depressive: by Christopher Bollas, Bicester, Oxon, Phoenix Publishing House, 2021もチェックした。

iphoneのメモが煩雑でボラスが書いていること以上に自分の言いたいことがわからないが、キャラクターは「性格」で訳していいのか、とかなんでボーダーラインと躁鬱と「ナルシスト」なの(ナルシシズムじゃなくて)、とか、これって「性格」の類型なの、とかナルシストのところで神話から入るのは大賛成なんだけどエコーの解釈ってこうなの、とか思っていたらしい。


ボラスの思考を詳細に追いたいならStreams of Consciousness: Notebooks 1974–1990とStreams of Consciousness: Notebooks 1991–2024が出たけど、ビオンの自伝と理論を合わせて読むようには読めない気がする。精神分析の文献でさえ追いにくいのだから楽しめなさそう。ビオンの自伝なんて辛くてそういう意味では楽しくはないけど読書体験としてはとても豊かだったが。私に文学的要素が乏しいからボラスを読めないのかなあ。関心領域はものすごく被っていると思うのだけどな。

台風はどうなったか。被害が出ませんように。

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オグデン、習慣を崩す

カーテンも開けず自分が訳したオグデンの文章について考えていた。自分の訳だから怪しいが、オグデンが引用するウィニコットも大矢訳で確認しながら訳していると、この訳はこの方がいいのではないかなあ、と私のくせに思ったりする。これがウィニコットやフロイトでなければひっかからない(そこまで読みこんでいないからひっかかれない)けどこだわって読み続けているものに関してはこうなる。でもこういう作業こそオグデンがいうクリエイティブリーディングなので面白い、が最近の隙間時間は演題に出したい原稿が全く書けないことからの逃避としてその作業に占められている。やった気分になりたいだけ、という感じがして良くない。

こういう逃避癖も治らないが、元々の注意力のなさとか落ち着きのなさに加え、おそらく加齢のせいで、あれどこだっけ、それなんだっけ、これいつのだっけ、やったと思ってたのに、などが増えてきた。なので、というわけでもないが、休み中に会った友人が最近お財布を持たなくなったといっていたのをヒントに習慣を少しずつ変える、というか、ほぼ意識しないで扱えるようになっていたものに対して少しずつ「あれ?」となるポイントを作ることで覚醒する瞬間を増やすということを始めた。最初は私もいつものお財布をもたない、ということをしてみた。案の定、色々困った。でもこの作戦は私にあっているかもしれない、と思った。最低限必要なものを吟味するにもいい機会。自分で自分を騙すみたいな戦略が意味のわからない人もいると思うが、そういうのに引っかかってしまう人もいるのだ。注意と記憶の問題は簡単ではないのだよ。

そうだ、オグデンに戻るけど、私がこだわっているWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”にオグデンが以下のように書いている。


「友情friendshipを私は、部分的には幼少期の遊び経験の観点から考える。孫娘たちとの経験では、彼女たちは私をカーペットに巻くこと(誕生の模倣?)に興味を示し、役割(母親、父親、息子、娘、教師)を割り当てて、私たちに、互いに話し合う親や、教師と話す親や、赤ん坊を世話する親を演じさせる。これは昇華された性的感情の観点から構想されるかもしれないが、それは私が孫娘たちと遊んでいるときに感じることではなく、またウィニコットが自我ー関係性として念頭に置いているものでもない。自我ー関係性ego-relatednessは、「イド関係」
 “id-relationships” すなわち「生のかたちであれ昇華されたものであれ」愛の関係とは区別されるべきである。」

となる。これ最後の「生」を「なま」とルビを振って読ませるのが日本語訳なんだけど、これは昇華との対比だからそのままの、とか未加工のとかじゃダメだったのかなあ、と思ったりする。

と、私がここで注意を向けたのはそこではなくて、オグデンが孫娘と遊んでいる!というところ。オグデンは息子との共著はあるけどあまりパーソナルなこと書かないから珍しいなと思った。でも私が見落としているだけかもしれない。

もうこんな時間。今年はあまりスイカを食べなかったな、と思って秋の果物からスイカに戻ってみたけどいまいちだった。来年はきちんと一番美味しい時期にいただきましょう。

どうぞ良い週末をお過ごしください。

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暦、オグデン、ウィニコット

今朝は冷房をつけず窓を開けたまま。少し蒸し暑いけど風を感じると気持ちいい。ようやく!と思うけどまた暑くなるらしい。でもこうやって季節は先に進んでいく。8月28日から9月1日くらいまで第四十一候「天地始粛 (てんちはじめてさむし)」 。日本の気候も変わった、と心配しているが、七十二候はしっくりきてることにいつも驚いてしまう。

驚いてしまうといえば最近まとめたオグデンのWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”でオグデンが


「ウィニコットが自らの思想を表現するために、フロイトの構造モデル――イド、自我、超自我――の用語を採用するたびに、私はいつも驚かされる。ウィニコット独自の思考は、身体的衝動(イド)、道徳的判断と理想化(超自我)、そして対立する内的要求と外的現実のあいだでバランスを取り統合しようとする努力(自我)から成る“委員会”というメタファーに、新たな次元を加えている。」

と書いている。直訳だとわかりにくいかもしれないけど、私もウィニコットの


「個人的に、私は自我-関連性(ego-relatedness)という言葉を用いるのが好きである。この言葉は、自我生活とでも呼ぶべきものに繰り返し起こる紛糾事態であるイドー関係(id-relationship)という言葉と、かなり明確な対照をなすので好都合なのである。」

にはなんでーと思う。オグデンはウィニコットがこの言葉によって新しい次元を持ちこんだみたいなことを書いたあとに


「ウィニコットの貢献におけるこうした側面を踏まえると、なぜ彼が「自我関連性」と「イド関係性」という用語を用いたのか疑問に思うかもしれない。この問いに対する答えは持ち合わせていないが、ウィニコットにとって重要なのは、「フロイト派」ではない。「真の」精神分析家ではないと非難されることを避けることが重要だったのだろう。メラニー・クラインはフロイト派ではないと非難され、代わりに「クライン派」(この用語は論争的討論(Controversial Discussions)の期間中にアンナ・フロイトによって造語されたと言われている)と呼ばれていた。 クラインは自らの全く異なる死の欲動概念を指すために、フロイトの用語「死の欲動」を用いることで「フロイト派」としての資格を維持しようとしたのかもしれない。ウィニコットも独自の「自己」と「欲望」という用語を使わず「自我」と「イド」という用語を使用している点で、同様のことをしているのかもしれないが、これはあくまで私の推測に過ぎない。」

と書いている。正確な訳は原著をチェックしていただきたいがまあこんなようなことを書いている。

私はこれに対してもなんでーと思う。クラインもウィニコットもフロイトへの忖度はあっただろうけど、ウィニコットの場合、精神分析用語から離れずに自分の言いたいことを言うにはどうしたらいいかということをすごく考えていたからじゃないのかな。ウィニコットは精神分析理論に環境の重要性を持ち込むという大仕事をしながら、何が精神分析であるかをいつも明確にしようとしている。新しいものを持ち込むときに古い理論を雑に踏み荒らしたり用語を適当に使わないということにウィニコットはいつも意識的だったと思う、私がウィニコットを読んできた限りは。

にしてもego-relatednessとid-relationshipという用語は奇妙だなあと思う。どちらもひとりでいるけどお互いそこにいる、というcapacity to be aloneはego-relatednessと関連している。まあ、この論文は短いからオグデンが読み込むみたいにいくらでも深掘りできるというのはある。ウィニコットの場合、発見はいつもこちらに委ねられている。がんばろ。

もう8月も終わる。こんなことをしていては演題を提出できない。でも書けないんだなあ。がんばろ、と自分を励ましつつやってみよう。

なんだか暑くなってきた。良い一日になりますように。

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アンガーマネージメント、時間

暑い。梨が少し蜜がですぎた感じになっていたけど美味しく食べられた。よかった。

昨日、なぜか忘れたけど怒りについて考えていた。今は会社でアンガーマネージメントの研修とか当たり前になっているけど、一定の人に効果があると思う。なんでも一定の人には効果があるとはいえ、「まず落ち着け」みたいに自分に語りかけている人はそれなりにいるわけでそれを認知、思考、感情、行動などの側面から見直したり、自分の状態や対処行動の記録をとったり、相手にブワッと怒りを向ける前に自分に注意を向けてそれがなんであるかを知ったうえで、怒るべきことには怒れるように、そうでない怒りはある程度収められるようにコミュニケーションスキルを考えていくことはかなり有効だ。そのためには時間が必要なので「まず落ち着け」と数秒は耐えることが必要になる。

一緒に住んでいる相手とか物理的な距離を取りにくい相手だと「またか」という失望が加わるし、色々なんとも難しいが、お互い全く違う時間が流れているとか全く常識が違う、ということは当たり前といえば当たり前で、そういうのは時間経過で折り合いがつくものでもないので、あまり理由つけすぎない程度に「まあしかたないか。相手は相手、自分は自分のすべきこと、やりたいことをやろう」と思えたら楽だろう。相手のことを思うことは大事だが、自分を見失うと怒りは相手に向かいやすくなる。まず自分を取り戻す数秒を、という感じか。

時間というのはとても大事だが、人は直線的な時間のみに生きているのではないというのはベルクソンを読めば深められる。読まなくても前に書いた平井靖史さんの本や動画でベルクソンを学べる。

オグデンも“What Alive Means: Psychoanalytic Explorations”の8. Discovering a Personal Life: On Winnicott’s “The Capacity to Be Alone”でそこに触れている。この論文については前も書いたがウィニコットの“The Capacity to Be Alone”はオグデンの”creative readings”シリーズの15番目である。

From the perspective of synchronic time, one would not have to say that the internal environment comes to play the role once played by the external object mother. In- stead, one could conceive of the individual’s past experience of the mother as external object as an impression left on the infant that becomes part of who the infant is (not as an internal object). The concepts of an internal and an external world need not be invoked; instead, one is thinking about past and present experience in relation to who the infant is and is becoming.

オグデンがいっているのは、ウィニコットは直線的(diachronic)に外的対象である母親が内的環境の役割を果たすようなる、というような書き方をしているが、共時的(synchronic)に母とともにあった経験のimpressionsが、乳児の存在を構成していると考えた方がいいのではないか、ということらしい。その方がウィニコットの “actually to be alone” に含まれる逆説を活かせるのではないかと。

うーん。わかる。すごくわかる。対象と環境の関係は本当にどう書いていけばいいのだろうねえ。6月の協会の大会でもそこに焦点化したものを発表したけどオグデンは引用しなかったな。いまいちついていけていなかったからウィニコットのことばかりになった。creative reading続けたい。

今日もあっつい。気をつけて過ごしましょう。

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声明、バトラー、寄付など。

空がグレーだけど曇っているわけでもない。東の空がここからは見えないだけ。すでに暑くて大きな窓を開けてすぐに閉めた。

昨日はガザに関する声明を出している心理職などのウェブサイトを見ていた。今日もイスラエル軍はガザへの攻撃をやめない。国連からの非難にも聞く耳を持たないだろう。

声明はAPA、Division 48 of the American Psychological Association、The International Pediatric Association (IPA) など。各国の心理職団体も。APAの声明は参照している文献が多い。日本の本だったら何を参照するだろう。私は日本の関わりも示す早尾貴紀さんの本とかかな。

私は精神分析家なので精神分析実践を行う理論家たちの論文や著作からさらさら引用できたらいいのだが、哲学者の文章の方がそれをしやすい。素人の強みによるつまみ食いが発揮されているのだろうと思う。昨日も精神分析のことを考えていたのにいつのまにジュディス・バトラーが言っていたことばかり思い浮かべていた。もちろんバトラーはフロイト読解から彼女の概念を導いてもいるので離れてはいないのだが分析状況で話される言葉(考えにいたらないものも含め)の複雑さとのギャップはこちらが埋める必要がある。

バトラーの『非暴力の力』などに書かれている「哀悼可能性」あるいは不可能性、「理解可能intelligible」あるいは不可能、非現実化derealization、そしてそこから締め出される現実、などバトラーが開こうとする可能性はそれが不可能とみなされる、つまり人間としてみなされていない人たちの可能性を示すものである。

まさにガザの子どもたちでは、と思う。精神分析はモーニングワークができる心のスペースの生成に貢献するものなので、すべての喪失は喪に値するという倫理は共有されているはずだと思う。また実践によって、モーニングワークを主体に語る権利と沈黙する権利を保障することも。

自分のしていること、考えていることからできる運動を考えていきたい。

先日、富永京子さんがSNSで、ガザの子どもの写真を見て、いてもたってもいられなくなったから寄付をしたと書いていた。とても共感する。個人にできることはわずかだが寄付という手段は手続きが少ないのでやりやすい。

私も安東量子さんたちのNPO法人福島ダイアログとか瀬尾夏美さんたちの能登半島の地震と豪雨の記録と表現のプラットフォーム「noto records」など少額ながら継続的にいくつか寄付している団体がある。国境なき医師団とかも継続的な寄付とその都度任意で行う寄付と方法も分けられる。

今日も各地で続く目を覆いたくなる状況にせめて目を開いておくこと。少しずつできることを。

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因幡の白うさぎフィナンシェ、Dana論文、オグデン

毎日、空が明るくなる前に起きてしまう。そこからすぐなにかやりたいわけでもないのでカーテンの向こうに強い陽射しを感じるまでは寝ていよう、とぼんやりしていた。ウトウトしてすごく眠ったと思ったがそんなに時間は経っていなかった。そんなのを繰り返しているうちにNHK俳句の時間になったのでテレビをつけた。桃も剥いた。桃もとてもちょうどよく熟していて皮は引っ張るとつるんと向けてどろっとせずにきれいな形に切れた。果物の水分って贅沢。美味しかった。食べたらまた眠くなった。コーヒーをいれよう。寿製菓の「白ウサギフィナンシェ」をお茶菓子にしよう。有名な「因幡の白うさぎ」の洋菓子バージョン。「古事記」の神話「因幡の白兎」は有名だけど、この夏、その神様が祀られている白兎神社に行ったの。鳥取駅からバスで行けるのだけどそのバスだとその後の行程を考えたとき、白兎神社にいられる時間が短くなってしまうからちょうど出るところだった山陰本線で無人駅の末恒駅で降りて30分くらい歩いていった。おかげで結構時間が取れたし、面白い神社だった!地元の人って様子の方がひとり、またひとりと兎いっぱいの小さな神社に参拝に訪れていて、私がみたのはみなさん割と年配の男性ばかりだったのも興味深かった。

さてさて勉強のメモをしておこう。

昨晩は、Dana Birksted-Breen ”The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”に収めれている6 PHALLUS, PENIS AND MENTAL SPACEを読んだ。少し前に準備したのですっかり忘れていたがみんなと話しているうちにDanaはこういうことを言いたいのだろうと考えていたことが口から出た。思い出せなくても話しているうちに出てきてそうそうそうだったとなることは多い。この人の論文は膨大な理論的裏付けがあるので、それらの歴史的変遷をこちらが踏まえている必要がある。勉強勉強。

が、今の頭の中はオグデンとそれにヒントをもらいつつ深めるウィニコット。特にウィニコットのgoing on beingについて。これは胎児の状態といえるが、ウィニコットは生まれてまもなくの状態もその延長と考えているのだろう。ウィニコットはこの特別な時期における母親と胎児の体験を彼らの時間感覚で書いているのだと思う。

オグデンThomas H. Ogdenは、サンフランシスコで開業している精神分析家。今のところ、彼の一番新しい著書、What Alive Meansもだいぶ読み進めた。次回、アプライしたい演題に向けて再読したのは7 Transformations at the dawn of verbal language。オグデンがこの章の後半で引用するヘレン・ケラーのThe Story of My Life(1903)はヘレンがサリヴァン先生との間で、前言語的な記号の世界から言語的に象徴化された世界に開かれるプロセスを描いている。言葉によってヘレンの時間がそれまでとは異なる感覚で大きく動き出す瞬間ともいえるだろう。書いてあるのはこんな感じ。

With the acquisition of verbally symbolic language, there developed a new way of experiencing, a new way of coming into being, and a new way of being alive. Emotions that she had not previously been able to feel-repentance and sorrow and love-Helen became able to experience. It is not that these feelings were latent and were waiting to be unearthed. This is emphatically not the case.

These feelings were created for the first time when Keller entered the world of experience verbally symbolized. “Everything had a name, and each name gave birth to a new thought… every object which I touched seemed to quiver with life.” Names are not simply designations for feelings and things, they are ideas about feelings and people and things. Language gives rise to a qualitatively different realm of experience, a realm in which one is both subject and object, one is able to think of oneself thinking, one is alive to levels of meaning, range of emotion, complexity of feeling, and forms of experiencing not previously attainable.

「言語的な象徴言語(verbally symbolic language)を獲得することで、まったく新しい経験の仕方、新しい存在の仕方、そして新しい生のあり方が生まれた。ヘレンは、それまで感じることができなかった感情――悔恨、悲しみ、愛――をはじめて経験できるようになったのである。だが、これらの感情がもともと心の奥に潜んでいて、掘り起こされるのを待っていたわけではない。断じてそうではない。これらの感情は、ケラーが言語によって象徴化された経験の世界に足を踏み入れたとき、初めて創造されたのである。「すべての物には名前があり、それぞれの名前が新しい思考を生み出した……私が触れたすべての物が、生命の震えを帯びているように見えた」。名前は、単に感情や物のラベルではない。それは感情や人や物についての思考そのものである。言語は、質的に異なる経験の領域を生み出す。その領域では、人は主体であり対象であり、自分自身を考えることができる存在であり、意味のレベル、感情の幅、感情の複雑さ、そしてこれまで到達できなかった経験の形態を生きることができる。」

直訳だけど。

この記述の前にオグデンの分析的第三者の記述があって、病理的な分析的第三者Pathological forms of the analytic third (“the subjugating third” (Ogden, 1996))が出てくるのだけどここは保留。the analytic thirdってこういう形態変化するものではなくてもっとニュートラルな概念として登場したのではなかったっけ、と思ったから。あとで確認。

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梨とかビオンとか。

この前、果物をたくさんもらった。美味しそうな梨もたくさん入っていてとても嬉しかったが、そのひとつのヘタのところに蜜が溜まりはじめた。二十世紀梨を買ったときに30分くらい前に冷蔵庫に入れて、冷やしすぎないほうが美味しいから、と言われたのを思い出し、一日キッチンに置いておいたらどうやら高温多湿にやられたらしい。猛暑でこういう症状が出る梨が増えているとのこと。難しいな。気候変動、怖い。

精神分析は精神分析で、精神分析家は精神分析家で、個別性は精神分析の内側で発揮されているものだからなあ、とか考えながら本を読んでいた。

たとえば日本の精神分析家に松木邦裕先生がいるけど松木先生といえばビオンみたいな印象が今の人たちにはあるかもしれないけど(少し前は松木先生といえばクラインみたいな印象があった人も多いと思うけど)『パーソナル精神分析事典』(2021、金剛出版)とか読んでいると先生はただ精神分析と生きてきたんだなって思わされる。ビオンだって福本先生が監訳したり訳したりしているビオン全集の自伝とか二人目の妻、フランチェスカによる回顧録とか読むと特定の分析家どうこうではなくて精神分析にワイルドに自分の人生賭けてる感じがして変なお行儀の良さとか変な皮肉っぽさみたいなものがないのがすごくいいし、精神分析ってそういう自由をくれるよね、と思う。ビオンがクラインの分析を受けていたから、とかそういう話はまた全然別の話だと思う。精神分析は「そういうのどうでもよくね?」みたいな領域を増やしていく効果はあると思う。もちろんそうあるにはままならない環境というのもあってビオンはカリフォルニアに行っちゃったし、それでも自分が探しているものがあるんだよ、と朝ドラあんぱんみたいなことを思ったりもする。

誰がどうしたどうされたとか、誰は誰々のどうでとかこうでとかを明確にするのはそれを超えていくためで、いつまでも同じところに留まるためではない。精神分析は自分が変化する必要性、必然性を感じられれば役立つと思うけど誰かを変えたい場合は役立たない。自分の場合も「変わらねば」とかではなくて。

こんなことを思ったのはオグデンを読んで、ビオンを読むと、オグデンの違和感を感じてしまい、なんでかな、と探ることがややきついからなんだけど。ビオンは言われるほどわけわからないことは言っていない。抽象度が高いから難しいだけで。オグデンの最新作はこれまでみたいな事例の説得力がない感じがして、同時に読んでいるビオンに対するオグデンの読解もいまいちピンとこない。なんでなんだろう。難しい。

「私は、分析者が解釈を与えるために必要とされる作業をなしたと信じる権利があるのは、彼が二つの相ー「忍耐」と「安心」ーを経た場合に限る、と考える。」

とビオンが「変形された容器と内容(Container and Contained Transformed)」(1970).Attention and Interpretation: A Scientific Approach to Insight in Psycho-Analysis and Groups,2:106-124で書いている通り、こういう作業にも「忍耐」と「安心」必須。つまりネガティブケイパビリティ。

この論文の日本語訳は、『りぶらりあ選書 精神分析の方法 II〈セブン・サーヴァンツ〉』(法政大学出版局)の第4部 「注意と解釈」「第12章 変形された容器と内容」

あるいは2024年に翻訳された全16巻(著作15冊+索引)からなるThe Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.の第15巻、福本修先生による全訳『ウィルフレッド・ビオン未刊行著作集』の付録C、編者クリス・モーソンによる「破局的変化」と「変形された容器と内容」:比較研究。Appendix B: ‘Catastrophic Change’ and ‘Container and Contained Transformed’: a comparison, by Chris Mawson

この15巻の邦訳も薄いけど内容は濃い。フランチェスカによる付録A 私たちの人生の日々(フランチェスカ・ビオン)
Appendix A: The Days of Our Lives (1994), by Francesca Bionはビオンの人となりと仕事がすっきりと、しかしずっしりと書かれている。

メモになってしまった。

さっき、ベランダに出たら蒸し暑さを残した涼しさ、つまり秋を感じた。ぼんやりしていたら大きな羽音が頭を掠めていった。人生ではなく蝉生に思いを馳せるでもなく慌てて部屋に戻った。屋内の方が蒸し蒸しする。私は今日はやや憂鬱。仕事の合間に歯医者に行くから。嫌だ。怖い。毎回無心になることを心がけるがなかなか難しい。でも仕方ない。歯も大切にしないとね。

良い一日になりますように。

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精神分析 精神分析、本 読書

河合隼雄とか精神分析とか。

8月。カレンダーをめくろう。外が白い。曇ってる。雨が降るのかな。昨日は朝は風を感じなかったけど昼間は感じた。ちょっと遠回りして久しぶりの図書館に行ったけど以前のウェルカムさは全くなく管理されている感じが居心地悪くいろんな本の背表紙だけ眺めて出た。

私は児童文学も専攻のひとつだったので図書館に行けばその棚もチェックするが、河合隼雄はそこにもいた。そもそも私が河合隼雄と出会ったのは実家の書棚にあった昔話とか子供に関する本を通じてだった。織田先生や河合俊雄先生たちに教えていただきにユング派のセミナーに出ていた頃も心理職としての河合先生が話題にあがることはあまりなかったし、実際、臨床心理士の集まりでもその場でフルートを披露された先生のことしか覚えていない。児童文化学科発達心理学専攻だった私にとって河合先生は臨床の先生というより子供のこころの先生だったらしい。精神分析を学び始めてからは精神分析は小此木先生、ユング派は河合先生という感じでその対話本などは読んでいたが、実践としてビビッドで、実際に教わりにいったのは精神分析だったら藤山先生たちの世代、ユング派だったら俊雄先生とかの世代だった。毎週木曜日、慶応心理臨床セミナーに私が通っていた頃はまだ小此木先生がいらしたので河合先生よりはずっと身近だが、精神分析かユング派かとか技法の違いでいったら、私はそのほかに家族療法も短期療法も動作法も学びに行っていたから、京大出身の仲間たちが語る河合隼雄の影響力はいまいちピンとこないし、小此木先生も特別感はない。長谷川啓三先生について名古屋に通おうとしていたし。一回だけいってすごく興味深かったけど続けたら精神分析にかけたのと同じくらいの費用がかかったかもしれない。何かのオタクになるとお金がかかる。

先生たちもそれぞれオタクだったと思う。精神分析を受ける人は少ないけどある程度オタク気質がある人たちなんだと思う。それに集中することで強いられる負担を負担と感じるしかたが独特だと思うし、精神分析はさらにメタというか、他者と共にいようとする、あるいはそこで痛みを感じる自分の心、というふうに対象が自分(=他者)になるし、自分の可動域は自分で思っているよりずっと広いか、複雑。なので痛みと不快さにまみれすごく苦しくて本当に辛くてもなんとか探求を続けられる面白さがある。私はあった。最後には「これが“遊ぶということ”か」とかなりの自由と面白さを実感できるようになったのと訓練ケースが訓練として認められたのが重なり(連動しているからだけど)分析家になる少し前に分析を終えた。今となれば何を選択しても同じ結果になったかもしれないけど、私が身をもって知っているのは精神分析だけなのでそれを生業にできてよかった。一途にオタクをやってきた。使えるものはなんでも使って、ということができる人はいいけど、私の場合は結局こんがらがって「やっぱり基礎からだな」と何度もスタート地点に戻ることになるから探求をやめないやり方が自分にあっていたんだと思う。それぞれ自分は何がしたいのか、ということに尽きるけどそれが本当にやりたいことなのかを模索するのも必要だったりするからややこしいね。

もらった温室みかんがちょうどよく甘酸っぱい。今日は金曜日。天気予報はやっぱり雨。がんばろー。

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お菓子 テレビ 精神分析、本

言葉とかお土産とか。

出かける前に少し洗濯物を外に干そう、と思って窓を開けた。風がない?風はどこ?暑いけどまだ風があるから助かるよね、という話をしたばかりなのに。今日は木曜日。そして明日は8月、と書きながら驚く。もう8月。

さてさて、昨今、加害と被害という用語で様々な出来事が語られるが、精神分析でいば、加害性はウィニコットのいう侵襲性だろう。そしてグッドイナフな母親には「なる」プロセスが含まれるとすれば、それがまだできない母子の最早期の関係は加害者と被害者だろうか。そんなはずはなく、被害と加害の関係はそんなに簡単ではないのでそれらの用語も簡単に用いるべきではもちろんない。強い言葉を使うなら『被害と加害のフェミニズム #MeToo以降を展望する』とかある程度勉強してから、という時代だろう、今は。言葉はどんなときでも人の自由を拘束するためではなく広げるために使えるようにしたい。言葉が拘束として働きやすいのは人の心がそういうふうに作動しやすいからなわけだけどそれを超えていくのも言葉だと考える仕事についているのできちんと勉強しよっ、と改めて思った。

これは「いいお母さん」とはなにか、みたいな話でもある。『精神病者の魂への道』の著者、シュビング夫人で知られるゲルトルート・シュヴィングは古澤平作のスーパーヴァイザーであるパウル・フェダーンの分析を受けていた。小此木啓吾が書いているが、彼女は精神分析によって「自分の中の救済的なコンプレックスを治療することで、自分自身の内部にあった激しいエディプス的な葛藤とかを洞察した」。その結果、「献身的に子どもをかわいがるお母さん」から「本当の意味での、距離のある、人格と人格としての母と子の愛情、真の母性愛というものに成長した」そうだ。小此木啓吾は阿闍世の話とそれをつなげている。こういう話をどのくらい複雑に考えられるかということが大事。どっちがいいとかそういう話ではない。少なくとも相手を「いい」か「悪い」かを決めるのは自分ではない。

福島県二本松市岳温泉のお土産がたくさん。「だけ」温泉って読むのね。ウェブサイトを訪ねたら最初に映し出されたのが包装紙みたいでかわいかった。楽しそう。安達太良山に登ったあとに日帰り湯する人も多そう。お土産は「玉川屋」さんの名物「くろがね焼」とか「あだたら 湯ふもと岳」とか。これはクッキーかな。原材料に黒糖、バター、パンプキン、アーモンド、シナモンとあるだけで絶対に美味しい、という予感がする。包装紙もわしっぽくてきれい。あと「桜坂」。これは果実餡とある。包み紙の上からだとふんわりした感じ。なんだろう。楽しみ。桜坂って名所があるのね。

「桜坂」というと福山雅治の「桜坂」を思い出す世代なんだけどあれは何年だろう。『未来日記V』のテーマソングだった。

♪君よずっと幸せに 風にそっと歌うよ ♫♪ 愛は今も 愛のままで♪

私の未来の時間は当時より具体的に短くなったけど今日もがんばろう。今日は木曜日。7月は今日まで。何度も確認が必要なのは加齢のせいではなく不注意のせい。色々あってもなんとかやろう。良い一日になりますように。

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精神分析、本

「剥奪」、沖縄

 静かな朝。昨日の夕焼けがとてもきれいだった。細い月もスッキリと明るくて空ではどんな色でも自由に存在できる。というか存在って自由とセットだし。のはずだし。

子どもの心理療法の本をパラパラしていて久しぶりにメアリー・ボストン(Mary Boston)とロレーヌ・スザー(Rolene Szur)編の『被虐待児の精神分析的心理療法』を手に取った。

1980年代の英国、タヴィストッククリニックのワークショップでの事例に基づいた議論と調査研究を形にした一冊。この領域は、精神科医、ソーシャルワーカー、心理士、教育療法士、児童心理療法士など多職種の連携が特に必要な領域であり、心理士も日本の心理士とは異なり、心理検査をとる心理士、心理療法を提供する心理士など、役割分担がしっかりしている。

原題はPSYCHOTHERAPY WITH SEVERELY DEPRIVED CHILDRENで「虐待」という言葉は入っていないが日本の読者に合わせて変えたというようなことを訳者あとがきで平井先生が書かれていたように思う(要確認)。でもだとしたらどうなのだろう。Deprivedはやっぱり「剥奪」で訳した方がいいのではないか。

私は大学時代、はじめて「臨床」のイメージを持ったのは繁田進先生の授業だった。ボウルビィがいる時代にタヴィストックで学んできた繁田先生がビデオを見せながらしてくれた子供たちの話は強烈だったけど繁田先生は彼らの状況をとても悲しそうに、でも彼らのことをとても愛おしいという様子で話された。あれを見て臨床を志した人は多かったと思う。実際に臨床心理士になった人はそんなに多くない時代だったけど。私はそこで「ホスピタリズム」「マターナル・デブリベーション」という言葉に特に馴染んでいた。

自分の臨床経験も長くなってきて、赤ちゃんから大人まで会う生活をずっと続けてきたなかでこの本を読むと、当時聞いた話がとても身近な問題として迫ってくる。

この本に出てくる子どもたちは悲しいことに多くの場合、実際、背景に虐待があるのだが、それよりも施設や里親を含む彼らが育つための環境を剥奪されてきた、あるいは剥奪されがちな子どもたちという観点がメインで、心的スペースを作り出す環境とは、ということが模索されていると思う。なのでその程度がseverelyであることがどういうことかも含め、deprivedをそのまま訳した方がいいのでは、と思った。施設での臨床をしている方に関わらず、子どもの福祉、子どもの環境というのは大人が常に考える必要があることなので、良い悪いの議論ではなく、どのようにすることができたのか、という思考を止めないためにはこういう本を時折開くのは大切だなと思った。

NHK「あさイチ」妻夫木聡がゆく もっと知りたい沖縄 戦後80年特別企画を見た。2024ー2025の年末年始は沖縄で過ごしたがあまりに久しぶりの沖縄だったので佐喜眞美術館まで足を伸ばせなかった。行くべきところがありすぎるが次回こそは。「いい人もいる」といえばなんだってそう。「悪い人もいる」だって同じくらいそう。「だから?」「だったら?」ということなのだと思う。沖縄のことももっと知りたいし知る必要がある。

大きな洗濯物を干した。今「洗濯」が「選択」って変換されて「大きな選択をした」みたいな感じになったがどちらも大変だ。スッキリ乾けばいいな。

今日は火曜日。毎日少しずつ混乱するから確認して戻していかないと。ああ、暑そう。熱中症に気をつけて過ごしましょう。

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Netflix 精神分析、本

夏の朝、象徴、『W・R・ビオン全集』自伝2巻。

早朝からカビ取りスプレーを使い、窓を全開にしたら生ぬるい風が入ってきた。こういうスプレーは自分もやられてしまうので大変だ。

新宿中央公園のセミたちも本格的に鳴いている。結界を張るかのように鳴いているせいか日中は人が少ない。まあ、暑すぎるということだけれど。

今朝は能登のお米でごはん。2年続けて七尾線に乗った。七尾線は石川県の津幡駅から和倉温泉駅までをつなぐ路線で能登半島の田園風景を満喫できる。GWの車窓には空を映す水田がずっと続いていた。ずっときれいだから同じようで少し違う写真がたくさん撮れた。

最近、夏のフルーツを色々もらった。今朝は「サマーエンジェル」というすももの一種を食べてみた。山梨県オリジナルとして「ソルダム」と「ケルシー」を交配して育成したとのこと。酸っぱさも甘さもちょうどいい。夏はこういうサッパリしたのがいい。

『鬼滅の刃』の映画が話題。無限列車編以降追えていないけど、話題になると見たくなる。主人公がいい子すぎるところに最初からあまり乗れていなかったが見たら見たで止まらなくなる多彩さがある。この前、同業の先生たちとNetflix話をしたが、それぞれすごくよく見ている。実はわたしたち暇なのでは、と思うほどだが、単に睡眠時間が少なくなっていたり、そのための時間確保や体調管理に務めているという話でもありその話も面白かった。楽しむためのいろんな管理は大事。

私は最近思うところがあり、というか相変わらず日本でいう15年戦争を入り口に色々みたり読んだりしていて、そのひとつに当然マンハッタン計画もあり、そういえば『オッペンハイマー』をまだみていないな、と思った。とりあえずすぐにみられるクリストファー・ノーラン監督のものということでDark Knight Trilogyを見直そうと『バッドマン・ビギンズ』を再生。このお母さんってジブリに出てくる夫のそばにはいるがちょっと子供と距離のあるお母さんみたいと思ったり、子供のトラウマを父と母が共有しないことで父子の物語にして執事に母性を担わせたのは男社会の映画として面白いな、とか適当なことを思いながらみているが、本当に断片しか覚えていないものだな。映画も本も本当に覚えていられない。だから何度も見たり読んだりする、ともいう。主人公が自ら「象徴」になろうとする話って日本のアニメでも色々あると思うのだけど「俺はなる!」みたいな感じでなるものではないよね、「象徴」って。

精神分析は象徴をめぐるあれこれを扱う学問だけど、特定の誰かが象徴として機能している学問ではないと思う。「祖」と呼べる人が数人いるだけで。その一人であるビオンの精神分析家以前(生い立ち、第一次世界大戦)と精神分析家にならんとするプロセス(第二次世界大戦を経てクラインと出会うなど)をビオンの嘘のない言葉で読めるのが『WR・ビオン全集』(著作15冊+索引)The Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. (2014)の第1、2巻。これまでもビオンをたくさん訳されている福本修先生の監訳。訳者はそれぞれドイツ、イギリスの文化に馴染んでいる方々で注釈もとてもありがたい。戦争のあれこれに触れ続けているのは今、世界がそういう状態だからというのもあるけれど、フロイトをはじめとするユダヤ人分析家とナチスの関係に対する関心が強いから。あとはこのビオンの戦争体験。すでに色々なところで話されていることだとは思うが、ビオンの言葉を断片ではなく追うことでビオンの理論の背景がいかに困難が多く、かたそうなのにものすごく豊かな思考がそれらをいかに言語化してきたか、ということ自体に胸を打たれる。高いけど全集の全訳というのは本当に価値があるので(絶対自分でできないから)チェックしてみてほしい。

WR・ビオン全集』(著作15冊+索引)

The Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.

第一巻

長い週末 1897-1919』(The Long Weekend 1897-1919: Part of a Life)

第二巻

『我が罪を唱えさせよ 人生のもう一つの部分』(All My Sins Remembered: Another Part of a Life

『天才の別の側面 家族書簡』The Other Side of Genius: Family Letters

第ニ巻の邦訳にはビオンの息子ジュリアンが父ビオンのことを書いている。福本先生が寄稿をお願いして引き受けてくださったらしい。ジュリアン・ビオンはthe Professor of Intensive Care Medicine at the University of Birminghamということでバーミンガム大学の集中治療医学の教授で、その分野の様々な会の長を務めたり数多くの賞を受賞されている。第二巻は妻とジュリアンたち子どもらへの父ビオンからの手紙も収められているが、一人の息子として父ビオンを語るジュリアン先生の文章もミルトンの引用もとても素敵だった。いろんなことを感じたり考えたりしながらビオンを読んでいけそう、と思った。ビオンもフロイト同様、徹底して精神分析家であり、良き父親だったらしい。ビオンの書き方はフロイトとは全然違うけど(対象も目的も違うから当たり前だけど)とても読む価値ありの二冊だと思う。

今日も暑そう。熱中症ってあっという間になるから気をつけましょうね。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

日曜日、アンドレ・グリーンを読んだり。

いつもの散歩道の木々はぐんぐん伸びる一方、頻繁に剪定をしてくれている地域の方を見かけるようになった。花の時期を追えてきられずに伸び続けていたらこの道は家々を押し退けて森になるのだろうか。我が家の一畳花壇も放っておくと山椒の木がどんどん伸びていってしまうので昨年きれいにしてもらった。自分で切る道具だと太刀打ちできない太さになってしまった。枝を切るというのはかなり力がいる作業で腰もやられる。なのに黙々とやってくださる人には頭が下がる。挨拶しかしていないけどお礼の気持ち。

休みの日が休みでなくても何か休みらしいことがしたい、といつも思っている。休みが普通に休みだったら一日中家でゴロゴロする可能性が高いので用事が入っているのは外に出るモチベーションにはなる。しかもこの時期は暑いので暑い時間は中にいて早朝と夜に出かけるというのも健康的、ということで、用事が終わって涼しくなってから紹介してもらったカフェに行った。「ここを紹介したかった」と地元の人がいうカフェは地元の比較的若い方の居場所という雰囲気もあり、お値段も高くなく(今って高すぎるでしょ)素敵な紅茶もたくさんあった。紅茶はいただかなかったけど別の機会にも行ってみよう。そういえば、私がお世話になってきた商店街からまた馴染みの店がなくなる。長いお付き合いだからこの前フラっと挨拶に行った。お互いにお礼を言い合った。寂しい。


昨日はアンドレ・グリーンの1982年の論文Après-coup, the archaicを読んだ。英訳された論文7本が納められたThe Frudian Matrix of André Greenの第一章に入っている。担当された方は原著から訳してくれていた。この本は前にも書いたがHoward B. Levineによるイントロダクションがとても参考になる。グリーンの書き方は非常に難解なので、その仕事全体を見渡せる地図がないと自分の少ない知識と体験に寄せて読みがち。わからないものほどわからないことに耐える力が必要で、わからないことを「なんかわかる」みたいにしてしまうならこんな難しい論文に取り組む必要は特になくてしっかり基礎がわかる論文を読んだ方がいいだろうから耐えながら読んでいる。私にとってアンドレ・グリーンを読む意味はフロイトとウィニコットを何度も読み込むためなので好きなことの探求という目的があるという意味では耐えやすい。

この本は完全な年代順ではないが目次はこんな感じ。結構幅があるが俯瞰するにはそれがいいのだと思う。

1. Aprés-Coup, The Archaic(1982)

2. The Double Limit(1982)

3. The Silence of the Psychoanalyst(1979)

4. The Capacity for Reverie and the Etiological Myth(1987)

5. Language Within The General Theory of Representation(1997)

6. The Psychoanalytic Frame: Its Internalization By The Analyst And Its Application In Practice(1997)

7. Dismembering the Countertransference. What We Have Gained and Lost With the Extension of the Countertransference(1997)

第1章、第2章はグリーンの頭にある病理は境界例なので
“Les états limites -Nouveau paradigme pour la psychanalyse?”=『フランス精神分析における境界性の問題 フロイトのメタサイコロジーの再考を通して』でアンドレ・グリーンの境界例概念を確認しながら読むのもいいと思う。フランス精神分析の診断基準は独特で、境界例についてもっとも貢献したがのグリーン。基盤はナルシシズム。

グリーンを読むときに一番面白いのはフロイトとの対話。「終わりのある分析と終わりのない分析」(1937)をもう一度読もう、と本を探したらなかった。オフィスにあるんだな。岩崎学術出版社から出ている『フロイト技法論集』と『フロイト症例論集2』はもうボロボロだから読み込んだご褒美にもう一冊ずつ買おうかな。PDF化するのがいいのだろうけどどうやればいいかよくわからないし、紙の方が使いやすいからなあ。うーん。

今日はのんびりしてしまった。台風どうなるのだろう。場所によって全然様子が違うだろうから読めないけどある程度の見通しを持って動ける程度でありますように。どうぞよい一日をお過ごしください。

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Netflix 映像 映画 精神分析、本

Netflix『リディア・ポエットの法律』、館直彦『ウィニコットの臨床』

今朝も風がない。そういえば昨日は急に大粒の雨のが降ったり、何事もなかったかのように晴れたり変なお天気だった。日本の気候は変わってしまったのだろう、など話した。同じ日本でもすでに様々ということもいろんな土地に行くと知ることではあるけれど。奄美大島で出会ったスコールを思い出した。地元の人も呆れたように空を見ていた。

コロナ禍にNetflixに入会しなんでもかんでもみていたことも思い出になりつつある。本当はこの時期に起きたことをもっと詳細に語り合った方がいいと思うが・・・。私はコロナ禍でもそれほど変わらない生活を送れていたが、配信で映像を見るのが当たり前になったのはその頃からだ。といってもNetflix以外に手を広げることもなく(間違って入ってしまったAmazonプライムをもったいないから少し使ったことはある。あの誘導システムやめてほしい。)ちょっとした時間に断続的にみているものも多い。映画は断続的にみても面白度が下がるのでドラマシリーズを見ることが多い。あとアニメ。最近だと『リディア・ポエットの法律』という実話ベースの作品が面白かった。1885年生まれのイタリア人初の女性弁護士がモデル。『虎に翼」みたいでしょ。舞台はトリノ。ひどい話だが、リディアは女であるという理由で弁護士資格を剥奪される。冒頭からなんなんこいつらと怒りが湧くが、諦めないリディアが兄の助手として活躍しつつ自分の権利も取り戻していくような話なのだと思う。シーズン2まであるとのことだがまだ1の途中。兄の助手としてというあたりはエノーラ・ホームズっぽい。実話では弁護士資格を取り戻したのはなんと60歳を過ぎてからとのこと。ひどい。よく諦めずに戦ってくれた。

それにしても映像技術の進歩の速さよ。エジソン、リュミエール兄弟、情景からストーリー、トーキーからカラー、特殊効果、CG、SFXっていうのかな、あとVFX、ゴジラとかの特撮というのは特殊効果を使った撮影、という意味でいいのかな。私みたいな高校時代の写真部、つまり静止画像で満足している人でもこれらはすでに自然に触れていた技術だった。私はVHS時代の子どもだった。

ちなみに『映画が恋したフロイト』の著者、岡田温司先生は1954年生まれ。学生のときにリアルタイムでみたものをDVDで見直してきた世代。今なら配信でご覧になっていると思う。なんにしてもデジタル技術の発達に遅れることなく論考を発表しつづける情熱がすごい。

先週末の精神分析的心理療法フォーラムのシンポジウムでは舘直彦先生ともご一緒させていただいた。数年前に精神分析学会の教育研修セミナーで討論を務めたときにはじめてお会いして以来。今回、会場で「はじめまして」のご挨拶をする先生方ばかりとご一緒だったので少しでも知っているお顔があって安心した。もっともウィニコットの仕事をわかりやすく咀嚼してご著書を出されてきた館先生のお仕事は以前から身近だった。

シンポジウムでお会いしたときに2023年に出版されたきれいな水色の本『ウィニコットの臨床 症例との対話から生まれる「あること」の精神分析』をいただいた。2013年に出版された赤い本『ウィニコットを学ぶ 対話することと創造すること』とセットで持っておきたい一冊である。私は水色の本もすでに読んでいたけど著者の先生からいただける本は特別なのでありがたく頂戴した。

私がこの本で一番いいと思っているのは「第6章 Winnicottの治療論」。取り上げられている論文が「精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1954)」なのがいい。詳しくはまた今度。今日もがんばりましょう。

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散歩 精神分析、本

築地、岡田温司『映画が恋したフロイト』

朝は目が見えにくい。なんでだろう。夜の間、リラックスしすぎてピント合わせる緊張感を取り戻すのに時間がかかるとか。わからん。不便だ。朝が一番捗るのに。

まだあまり暑くない。エアコンもまだつけなくて平気。冷たい麦茶で喉を潤す。

昨日は仕事が午前中だけだったので用事がてら築地市場へ寄ってみた。すごく久しぶり。今は築地は場外市場しかなく場内市場の跡地は大掛かりな再開発が計画されている。どうしたいんだ、東京。浜離宮の生態系に影響したりしないのだろうか。築地は場内の魚がし横丁に数回行ったことがあるがそれも場内市場が豊洲に移るずっと前のこと。場外は2度目かも。前は連れていってもらったのでいいものを食べたが今回は普通に歩いて抜けただけ。小道を覗くといろんな店がぎっしり。こんな感じだったっけ。外国の人がいっぱい。ほとんどの店が英語の案内を出していた。日曜は卸売市場が休みだからいろんな店がまとまって入っているビルは閉まっていた。ここなら一人でも気楽に入れそうだから今度きてみたい。オフィスからなら京王新線→大江戸線利用。生ものを出している店はこの気温で大変だろうなあと思ったけどずっと前からやってきたことだから大丈夫かどうかは感覚で判断できるのだろう。買って帰る人もそういうとこ気をつけるの上手なんだろうなあ。私も保冷バッグとか一応使ってるけどできるだけ無難にと思うからこの時期は生ものはほとんど買わない。築地場外市場の場合、そこで食べるのを楽しみにしている人が多いのだろうし。昨日は日差しが強かったが日傘をさすのも憚られる混雑が遠くからでもわかった。散策してみようと小道を覗いてみたけど人混みに気圧されてあっさり表通り(?)に退散。スッキリした東銀座の方へ向かってしまったが、せっかくきたのにこれではいかん、と戻り、小道探索。歌人の大森静佳さんが朝日新聞デジタルに寄せていた大阪・関西万博をめぐる短歌とエッセーを思い出し、私も気持ちだけはあんなふうに観光地と触れたいと思い直し戻るとさっきとは別の景色に見えた。この前、知らない土地を急ぎ足で歩いているときも帰りはきっとこの景色は違うふうに見えるからランドマークを覚えておかないと迷うかも、と一本道なのに心配したのを思い出す。

いろんな国の人。いろんな食べ物。いろんな言葉。市場は休みでもここは活気があった。築地本願寺にもはじめて行った。荻窪の荻外荘を設計した伊東忠太(1867-1954)の設計。荻外荘は入澤達吉の別邸だったが、今では近衞文麿が自決した書斎が有名だろう。場所の違いがあるとはいえ、同じ人が築地本願寺の図案も書いているとは。築地場外市場とはまるで真逆のどーんと広い外観にも驚いたがそのエキゾチックな雰囲気にもあんぐりした。いろんなところに動物がいるのには和んだ。内部も天井が高くすごく広い。法要をライブ配信するセットも整っていて寺の世界も色々だな、と思った。寺婚のパンフレットもあった。別の建物にはカフェやショップもあって昨日はたくさんの人が並んでいた。おいしそうだった。小さなショップには数珠とか築地本願寺と書かれたお菓子とかが売っていた。大きな寺にはこういうのあるものなのね。そこを通り抜けるとすぐ地下鉄日比谷線築地駅。納骨堂も駅直結なのか、とびっくりした。こういうのって東京メトロと浄土真宗が話し合ってそうするものなのかな。正門の近くには大きな鉢に蓮が伸びていて一輪だけ咲いていた。連日見られたねえ、と思いながら写真を撮ろうとしたけど一輪しか咲いていないからじっくり写真を撮っている人がいて私は適当にシャッターを切った。

岡田温司先生からいただいた『映画が恋したフロイト』(人文書院)を読み始めた。フロイトがハリウッドからのオファーを断った話は有名だけどこの本もそこから始まっている。これまでの映画の本は映画タイトルの索引(膨大でびっくりする)があったと思うのだけどこの本にそれはない。内容はいつも通りすごく読みやすくて面白い。映画に詳しくなくても、精神分析に詳しくなくてもエンタメとして読めると思う。岡田先生はものすごく多作だが、この本でも最近話題になったばかりの本や映画も引用されていて移り変わりの早い時代に過去を繋ぎ止めておく力がすごい。精神分析家としても人文学の専門家がこういう仕事をしてくださることは本当にありがたいし、写真好きとしても映像の歴史と精神分析が重ねられているだけで楽しい。特に第1章は週末の精神分析的心理療法フォーラムでの私たちのシンポジウムでお話しされたことと重なっているのでご参加された方にはぜひ読んでほしい。映画でもこういうことが言えるのか、って楽しめると思う。チャップリンの作品をめぐるフロイト先生の態度もコンパクトに書かれているのにすごく面白い。精神分析理論は単独だと難しく感じるかもしれないけれどフロイトが日常生活における失敗から色々言っているように生活と密着したものだし、夢と映像って極めて関係が近い。今、オンラインで動くフロイトをみられるのも映像技術があってこそ。なんでもかんでも映像になる現代にこのワクワクを取り戻すのは難しいかもしれないけれどこういう本を読むことによってそれは可能。少し遡れば感じることのできるワクワクをみなさんもぜひ。

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岡田温司『フロイトのイタリア』、エドアルド・ウェイス

蒸し暑くない。カーテンを開けた。窓も開けた。風はない。かりんとう饅頭をトースターで温めた。カリカリ。冷たい麦茶と。昨晩はひどく喉が乾いた。

岡田温司『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』は、フロイトがイタリアに強く憧れつつもなかなか近づけず少しずつしか距離を縮められない様子が生き生きと描かれている。フロイトが自らの強迫的なところをどうにもできずに困っている様子も面白い。すごくいい本。フロイトにこんな風に愛を向けている人をみると私は嬉しくなってしまう。

イタリアの精神分析家といえばBolognini(イタリア人として初めてIPA会長になった人), Bonaminio, Chianese, Civitarese, Ferroなどがウィニコットやビオンの仕事を受け継ぐ分析家として有名だけど、フロイトと直接関係していたり、その国の初期の精神分析を担った人というのはどの国でも大事。

イタリアの場合、精神分析の始まりはフロイトの分析を受けウィーン精神分析協会の会員になったEdoardo Weiss(1889-1970)と初代イタリア精神分析協会会長のMarco Levi- Bianchiniに位置付けていいと思う。この二人も日本の精神分析の祖である矢部八重吉と丸井清泰のようにフロイトの著作の翻訳権をめぐって一悶着起こしている。導入期は誰が彼を伝達するのか、という問題はありふれているのかもしれないが、イタリアの場合、フロイトに忠実だったウェイスが果たした役割の方が大きそうだ。

イタリアの精神分析の歴史や主な分析家の知見などはReading Italian Psychoanalysis Edited By Franco Borgogno, Alberto Luchetti, Luisa Marino Coe(2016)に詳しいのはわかっていてるのだけど高価なので、私は出版社ウェブサイトの情報からpepやIREDなどで深掘りしている。イタリア精神分析協会のウェブサイトも自動翻訳を使いつつ参照しているが、重たいのか表示が遅く上手に使えない。

岡田温司先生は『フロイトのイタリア』の最終章「イタリアのフロイト」でフロイトがイタリアへ踏み出す一歩となった町、トリエステのユダヤ人たちを取り上げている。そこには先述したイタリアで最初の精神分析家エドアルド・ウェイス(Edoardo Weiss)も登場する。ウェイスもまたユダヤ人だった。ポール・ローゼン(Paul Roazen)がウェイスの伝記を書いているのでウェイスのことを知りたい方はそちらをチェックしてほしいが、ウェイスとイタリアの精神分析受容に関しては岡田先生のこの章をチェックしてほしい。

私はイタリアに限らず、芸術や文化のことはすごく断片的にしか知らないが、この章を読んでこの時期のトリエステの精神分析サークルの豊かさにウキウキした。私でも知っている人がたくさん。トリエステってよく聞くよなぁ、と思っていたのだけど須賀敦子で身近だったのか、とこの本で気づいた。

須賀敦子が翻訳したり引用したりしたイタリアの詩人、ウンベルト・サバも1920年代にウェイスの分析を受けていたそうだ。へー。須賀敦子が訳したサバの詩集も読みたい。

先日、坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』を読んでいる(すごくいい)と書いたが、そのときに思い出していた『コルシア書店の仲間たち』も須賀敦子。本つながりで響き合っていたわけではなく、トリエステと須賀敦子が響き合っていたのか。

さて、エドアルド・ウェイスはイタリア精神分析の祖ではあるが、イタリアにずっとはいられなかった。1931年、ファシスト党への入党を拒否してローマへ、1938年、人種法布告。翌年1939年、ウェイスは家族と共にシカゴに渡り、そこで死んだ。アメリカではポール・フェダーンの論文の編集など自我心理学の領域で重要な役割を果たしている。ちなみ日本でhttps://www.koubundou.co.jp/book/b156627.html、でいいのかな。

ウェイス編集のフェダーンの本はこちら。

FedernP. (1952). Ego psychology and the psychoses. (EWeiss ed.) New York: Basic Books. German edition, 1956Italian edition1976

IREDには「Edoardo Weiss (1925)と Marjorie Brierley (1944)により「投影同一化」という用語は以前より使用されていたが、その概念を定式したこと、そして 対象への侵入する万能的な空想に対応させたのは、Melanie Klein の貢献とされている。」ともあった。

とにかくもかくにもイタリア精神分析はその後も豊かな発展を遂げています、ムッシューじゃなくてシニョーレ?もう戦争はいやだ。精神分析は戦争のおかげで発展してきたわけじゃない。戦争のせいで多くの患者も分析家も死んだ。生きてこそなのに。いろんな国の攻撃が今すぐ止みますように。

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精神分析、本

ヒヨドリ、引用、松木邦裕『パーソナル精神分析事典』

洗濯物を干しながら鳥が鋭く鳴くのを聞いた。ヒヨドリだ。ヒヨドリの赤いほっぺをきちんと見たいが下から眺めてばかりだからいつもシルエット。カラスも遠くで大きな声で鳴いている。昨日、ゴミ捨て場の花壇に大きなカラスがとまってキョロキョロしてた。私が真横を通っても何も気にしていなかった。そのキョロキョロに意味はあるのだろうか。カラスはペアで見ることが多いからもう一羽を探したけどいなかった。その日はソロだったのか。今週末に向けて準備しなくてはいけないものがあとひとつになった。ほかにもあるのかもしれないが覚えている範囲では。

溜まりに溜まった資料を片付けなくてはと手に取ったら読み始めてしまうといういつものことを始めてしまった。2005年9月の『現代思想』(青土社)「特集=女はどこにいるのか」の岡野八代「繕いのフェミニズムへ 」の後半。今度、私が発表しようとしていることと近い。私はジェシカ・ベンジャミンもカントも引用しないけど。カントはこんな感じで読めるのか、と学びつつ、この論稿での引用、参照のされ方って精神分析が批判されるときの言葉の使い方と似ているなと思った。二元論を超えることが二元論を際立たせることもあるから受け取り手とともに考え続けることが実現されないと結局対立みたいになりがち。こういう場合、必要なのは発信側がより頑張ることではなくて受け取る側がいろんな可能性に開かれていることだと思う。自分が欲しいものを受け取れなかったらつまらないとかわからないとか別のもの出せ、とか簡単に言わない受け取り手でいたい。自分の方でできることだってたくさんあるし。第三者からみたら二人は鏡に見えるけど、みたいなことはたくさんあるのだから視線の先をぼんやりみたり聞き流しながら捉えたりすることができたらいい。覚醒と夢想。ビオンはやはりすごい。

ビオンといえばこの前、精神分析家の松木邦裕先生の『パーソナル精神分析事典』をパラパラしたのだけどとても面白かった。それこそ松木先生のパーソナルな部分がちょこちょこ読めるのが面白い。こういう本読んでるんだ、とか。あとはビオンの箇所。松木先生のビオンに対する講義はたくさん聞いているので慣れていて読みやすいというのもあるけどこんな簡潔に書くまでにどれだけの咀嚼が、と尊敬の念が深まった。いいなあ。私もフロイトとウィニコットを少しずつでいいから深めたいな。少しずつとか言っているとああやってまとめることは全然できないから教えるなかで生かしていけばいいかな。

朝起きてすぐ家事をしていたら暑くなって半袖になったのに今寒い。ヒヨドリがまた近くで鳴いている。昨日は寄り道をする時間がなかったので今日はしたい。どうぞ良い一日を。

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精神分析 精神分析、本

Reading Freudなど。

雨が少し降っている。昨晩は急に寒くなって今朝起きたときはくしゃみがたくさん出た。今は落ち着いた。最近、いろんなものに対するアレルギー反応みたいのが増えた気がする。アレルギーは色々蓄積なんだろうから(違う?)この歳までそんなに出なかったことがラッキーだったのかもしれない。

風邪をひいたり怪我をしたり何かしらの症状を出すとその状態をすごく観察するようになった。観察とは言わないか。たとえば喉が痛かったらどこのどのへんかどうなのか、それがどう変わっていくのかをすごく細かく感じようとするようになった。人の身体ってどうなってるの、という興味は小学校低学年の時はすごくて図鑑ばかり見ていたが今は病気の側から色々知りたいと思うようになっている。

昨晩、Reading Freudで『心理学草案』の第一部の続きを読んだ。ニューロンの興奮量の話はニューロンになりきりたかったがフロイトの時代のフロイトが使用している「ニューロン」というのは今とは違うからフロイトが描いた図の中に入り込もうとしても今どきのニューロンさんにしかなれない。どっちにしても自分は人としてしか登場できない。まあ、フロイトが描き出そうとしている世界も人のことであるんだけどフロイトの基盤にはヤツメウナギとかザリガニとかいるわけだし。ヤツメウナギは脊髄神経の研究、ウナギは生殖器、ザリガニが神経細胞の研究だったのだったかな。だからニューロンまで遡っちゃったのかな。科学的であるためにはそれじゃなくてもよかったんだろうけど、とりあえず私も動物とシームレスに人間を見たい。

最近、鹿の赤ちゃんが産まれたという画像が流れてきてじっくり見ているのだけど生まれたての赤ちゃんが脚ガクガクさせながら立ち上がって親に舐めてきれいにしてもらうときもバタンって倒れないで立ててたり、親にくっついて歩いているうちに別の鹿を親みたいにしていて本当の親が迎えにきたり色々しているのをじっと見てるとせめて動物の感覚を知りたいと思ったりするんだよね、など話した。母鹿の方は子供を匂いでわかるらしい。羊膜も胎盤も食べちゃってるわけだからなんかすごく子の識別能力高そう。子供の方は母のお腹にいたわりにまだぼんやりな感じ。ものすごいスピードで組織化されている部分とそうでない部分があるんだろうな。

『心理学草案』は第二部で人の形をとったエマが登場。楽しみ。今日は事例検討グループ。色々追いついていないががんばれたらいいなあ。どうぞ良い1日を。

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散歩 精神分析、本

ビオンの論文とか辞典とか、シモツケとか。

ひんやり。昨日は半袖でいる時間が長かった。オフィスも蒸し暑くて除湿運転をつけたり消したりした。夜、外に出たら寒かった。道ゆく人は半袖の人が多かった。私は寒さ対策だけは怠らないのでしっかり上着を着込んでいた。冷房の時期でまたすぐに喉がやられそう。もうすぐ学術大会で色々喋る必要があるけど大丈夫かしら。健康になりたい。

昨晩、クリス・モーソン編の『W・R・ビオンの三論文』(岩崎学術出版社)を読んでいた。原著は“Three Papers of W.R. Bion” Edited by Chris Mawson, Routledge, 2018.。翻訳は福本修先生。各論文に編者であるクリス・モーソンの「編集後記」がついている。これが大変興味深い。クリス・モーソンは『W・R・ビオン全集』の編者でもある。福本先生の補遺も「あとがきに代えて」ということでついている。ビオンもだいぶ読み慣れたせいか、そんな新しいことが書いてあるとは思わなくなった。身近な先生のお話を繰り返し聞いている感じ。これは講演録で、原稿なしでビオンが話したものを書き起こしたもの。話すことと書くことの違いはすごくあると思う。講演や講義でのビオンはどっか苛立っているようでもあり、なんかイキイキしていていて好き。キーツのNegative capabilityがかなりしっかり取り上げられているからビオンのこれを引用する人は絶対読むといいよ。『注意と解釈』と一緒に。三論文の方はコンパクトな本ですぐに読めるし、なんて20年前は全然思わなかったと思う。意味がわからないままみんなでうちで読み合わせとかした。その後たくさん解説書も訳されたし、今は本当になんでも学びやすい状況でいい。一方、というわけでもないが、ラファエル・E, ロベス・コルボの『ビオン事典』(金剛出版)は使いづらい。事典なのに索引がない。これ原著からそうなのかなあ。翻訳されたものをあいうえお順で並べているわけだから英語つきの索引は欲しかったなあ。索引ないからパラパラめくっていたら「原始ー現実対象」Prote-real objectの項目に「生気あるものと生気ないものとの違い」p95を参照と書いてあった。これ一つの項目になっているんだ、と思ってパラパラ。142ページに登場。ビオンのAnimateを「生気あるもの」と訳しているのね。ウィニコットのAlivenessとはだいぶ違う。こうやって使用しながら自分で索引作っていくのがいいかもしれない。

毎日少し先の駅まで遠回りしてお花を眺めてる。紫陽花がどんどん色づいていく道とまだまだ緑一色の道と。新宿中央公園は紫陽花の道があるけどそこはまだまだな感じだったな。亀たちは元気だった。相変わらず工事中で「私が愛でていたあの木はどこ?」とやや夢遊病のように木を探す気持ちもなるが季節の移り変わりを花々で知れるのは素敵なことだと思う。シモツケの咲く前がとても可愛くてたくさん写真を撮った。仁丹みたいな状態の時が一番好き。

今日はどんな一日になるかな。良いことありますように。

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お菓子 精神分析、本

モーセとか榎美沙子とか。

雨は降っていない。でも空はグレー。これから晴れるのかな。気温が落ち着いてて嬉しい。厚手のなにかを着ていれば何も羽織る必要のない気温。最近、半袖の人も見かけるけど私はまだ結構厚いのも着てしまう。

今朝は金沢駅で買った「福うさぎ 能登産かぼちゃ味」。少ししゃりってしてたかも。小さいかわいいピンクのうさぎさん。うさぎは耳が長くて目が赤いという特徴があるからわかりやすい。月にいるのがうさぎなのも見立てやすかったからかもね、と思ったけど外国だとまた違うか。

最近、モーセのことを考えていた。モーセについては諸説あるのだろうけど『出エジプト記』のモーセに対して異なる仮説を立てたのがフロイトだ。ユダヤ人であるフロイトは人生の最後に自分の出自について考え抜いて『モーセという男と一神教』(1938)を書いたが、『ミケランジェロのモーセ像』(1914)ですでにモーセについて書いているし、ずっと彫刻のことを考えていたわけでしょう、多分。フロイトの構成の仕事ってモーセが割った十戒の石板を割らなかったフロイトの仕事って感じがする。

私はユダヤ人のこともユダヤ教のこともよくわかっていないけど、本当にどうしてユダヤ人はどこにも行っても迫害の歴史があるのだろう。阿部謹也の『中世の窓から』にも諸説書いてあったと思うけどこれって結局人の心の話になるのではないだろうか。しかしもし殺害を結局は投影として説明されるのであればそれにも納得したくない感じはする。もっと知らないとだな。

昨日は京都大学人文研アカデミー2025 公開シンポジウム 『中ピ連とは何だったか ——榎美沙子とリブの70年代、そして私たちの時代』をオンラインで見た。ラカン派の立木康介さんによる導入から桐野夏生 × 嶋田美子の対談へ。期待通りよかった。質疑応答も頷くことが多く、女って本当に立場弱いな、と悲しくなったりもした。「おまえが決めるな」といいたくなる場面も様々な文脈である。かなり意識して遠くの人でも誰でも意見をいったり参加しやすい環境を作っていかないことには何も変わらないけど、どこもかしこもそこに問題がある。そういう意味でも昨日のシンポジウムはいい場所を作っている気がした。

色々難しいことが多いがとりあえず今日も一日。なんか晴れてきた。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

あれこれ

昨晩は雨だった。夜遅くなるにつれ雨脚が強まる音がしたけれど私が最寄駅に着いた頃はそれほど降っていなかった。気温が高めだったこともあってなんとなく傘もささず歩き始めたら意外と降っていた。傘をさしていない人は朝に持って出なかった人たちか。駅からそれぞれの道へ向かう人たちがあまり傘をさしていないようにみえてそんなに降っていないのかと思ってしまった。たしかに朝は降っていなかったね。先日持っていかれてしまったビニール傘とは違うビニール傘に懲りずに養生テープを巻いて今度は名前を書いた。マジックがあまり出なくて掠れてるけどないよりいいと思う。

この仕事をしていると私たちは何度も何度も同じことを語ってしまうものなんだと実感する。それを失われた愛、叶わなかった愛の対象、つまり母のイメージを求めている、というのは精神分析のデフォルトで、私自身それに対して「またか」と思ったりするが、本当にそうである場合も大変多いのもまた事実だ。本当にそう、というのは患者の語りからして、ということ。精神分析の理論が患者の言葉と接続している限りは、外側から「いつもそれ」と言われようと「そうなんだよ、患者さんが実際にそう言葉にするから」と真剣に考えなければいけない。患者が言っていることをこちらが言わせてるくらいに思われているときもあるが、それも一部は本当だろう。コミュニケーションというのはそうならざるをえない面を持つ。だからこちらが母なり父なり神なりとは異なる言葉を使うことも大事だ。どうしても戻るそのイメージはどんな感じで動いてて、今どんな表情や形をしていますか。繰り返す語りで欲していることはなんだろう。いろんなことは動詞で考える。それは「名詞」ですね、ではなくて。一番ほしいものはそのものとしてはすでに失われているので手に入らない。でもそのイメージなら、ということでそこに拘束される。そのイメージで自分を守ってきた人はそれを手放すことが難しい。分離不安という言葉があるけどあれもどの水準で使っているのかというのは結構ばらつきがある気がしている。だから結局理論的背景がないとその問題について深く考えるということをしていくのは難しいと思うのだけど、そして理論というのはかなり難しいもので、研修とかはそれを自分で深めるためのきっかけに過ぎないのでもし深めたい場合は自分で一生懸命勉強するしかない。

ということを分離不安とは関係なく、昨日IPAジャーナルのThe Interface Functionという論文を読みながら思った。フロイトが『心理学草案』で想定したニューロンの機能である「流れ」、そして相反する作用が生じる場所である「接触障壁」、ビオンが「経験から学ぶこと」で展開した「接触障壁」、つまり「αファンクション」、これらをさらに展開してこの論文の著者らKaracaoğlan, U. & Speckmann, E.はThe Interface Functionを提案しているらしい。差異の創出と情報のやり取りが生じるファンクショナルスペースについては図で説明されている。ざっとしか見てないけれどこれはあまりに「情報」の話ではないか、という気がしているので大事かもしれないと思っている。

昨日の朝ドラ「あんぱん」のたかしとのぶのすれ違いが何かの本にあった描写と似ているんだよなあ、と思って、あ、これだ、と解決した気がしたのだけどそれがなんだったか忘れてしまった。たかしとのぶの場合は見えている部分が違うというすれ違いで2人を使ったスプリットの描写だと思うけど、その本はこうも見えるけどこういうところもあるよねという描写がやや一方的にされ、それを好意的に受け取る読み手がいてという往復書簡の一部だったと思う。そういう場合、対立は起きないけどすれ違いは起きてると思う。フロイトとフリースとかそんな感じ。

今は雨。これから止むらしい、予報では。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本 趣味

木曜日

今日はあまり風がないらしい。昨晩は帰りに少し雨に降られた。最初は一滴二滴という感じで少しずつ降り出した。傘をさす必要のない雨でよかった。靴も雨用ではなかったし、折り畳み傘はリュックの一番下に入っていたから。

久しぶりに喉をやられた。気をつけていても声が出なくなるときがある。昔、5、6人でTDLに行った翌日に掠れた小さな声しか出せなくてスーパーヴァイザーに笑われたことがあった。もうあれから20年くらい経つのか。TDLにも全く行っていない。小さい子がいるおうちのお手伝いとして行ったけどその子ももう大きい。人生あっという間、と思うといつも102歳まで生きた親戚を思い出す。最後の方の移動は車椅子になったけど頭と心は健やかで、亡くなった夫との思い出話を泣きながらし、一緒にどこそこへ行きたかったなどとお話しされる姿を尊敬した。102歳からしたら私はちょうど折り返し地点。うーん。彼女くらい明晰でいられるならそれもいいが多くの場合難しいと思うので長くてもあと30年くらいだろう。となると、急に、あとちょっとではないか、というような気にもなるがやることやっていきましょう。

6月は私が所属する日本精神分析協会の学術大会で発表を二つ。候補生の会向けの講演もある。精神分析家になった人はみんなするやつ。

7月は日本精神分析的心理療法フォーラムという会の大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」に討論者としてお誘いいただいたのでそちらもやらねば。岡田温司先生とご一緒できるのは大変嬉しい。『フロイトのイタリア――旅と芸術と精神分析』を再読したい。フロイトがなぜイタリアを必要としたのか。私たちがちょうど読んでいる『心理学草案』が出た頃にフロイトははじめてイタリアへ行った。フロイトはウィーンが嫌いだ、としょっちゅういっていたそうだが本音ではなかったらしい、息子のマルティンがそう書いていた。そしてフロイトの考古学的才能、美術への強い関心も自分には遺伝しなかったと。うむ。そういうのは遺伝ではないが上質だったり本物そのものに触れる機会が多い環境で育ったことはどこかでいいことにつながっていることだろう。私もいいものが見たいな。今だったら世田谷美術館の横尾忠則展にいきたい。

今日もいい景色にたくさん会えますように。

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精神分析、本

フロイト誕生日

晴れてきた。昨日の朝は雨の中、少しお出かけしてお店に寄ったら養生テープで印をつけておいたビニール傘がなくなっていた。養生テープではダメだったか。

昨日、5月6日はフロイトの誕生日だった。1856年生まれ。どんなお天気の日だったのかしら。そこから2度の世界大戦を経て、終戦間際まで生きるなんて誰も想像していなかった。結婚して子供をもつ、ということだって本当はたり前ではないけれどフロイトは結婚のためのお金が必要で開業して、精神分析というものを立ち上げた。戦争を二度も体験することになるなんて。妹たちがガス室で殺されるなんて。晩年に亡命することになるなんて。それでもフロイトは最後まで書き続けた。フロイトの長男、マルティン・フロイトはフロイト生誕100年の記念行事が終わった頃から『父フロイトとその時代』を書き始め、それは1958年に出版された。マルティンはこの本の冒頭で「しかし、父が天才だったことを否定する人はただの一人もいなかった」と書いている。そして天才を父親に持つ息子の苦労もちょっと書いている。この本はほかの伝記とはかなり違って、笑ったり心配したりする子煩悩なフロイトをたくさん見られる。フロイトが精神分析を作ってくれて私はそれと出会えて人生のかなりの部分を費やすものができて本当に良かったと思う。フロイトが生まれなくて精神分析なんてなかったとしても同じようなことをいう可能性もあるけどそんなこといったら私が生まれない想定もあるので現時点での喜びと感謝をフロイトの墓前に捧げたい。フロイトのお墓は確かロンドン。でも私的にはフロイトのお墓はフロイトの著作たち。残されたものがこれ以上焼かれたり捨てられたりしないように、いや、実際にそうなったとしても残していけるようにみんなで読んでいこう。

小此木先生はとても楽しそうにフロイトのことを話す人だったな、と今ふと思い出した。好きな人の話をするのは楽しいものね。

今日は晴れ。どうぞよい一日を。

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散歩 精神分析、本

雨、Reading Freud初回

明るくなってきたと思ったら一気に部屋がオレンジになった。今日はいいお天気みたい。昨日、ちょっと用事を済ませてバス停に並んだらポツリポツリ。降り始めたな、傘借りておいてよかった、と思っていたらどんどん雨脚が強くなってただ真っ直ぐ立っているだけなのにそこそこ濡れた。バスに乗っている間に雨脚は弱まって降りるときには普通の雨の日と同じだった。でもオペラシティに寄ったら人がいっぱい。突然の雨に傘がなかった人たち。新国立劇場で公演があるときとは全く違う色合い。つまり似たようなスーツの人たちがたくさん。みんなGWとはいえいつも通り仕事してらしたのね。仲間仲間。と知らない人を勝手な仲間意識で労いつつ本屋さんを一周してオフィスに戻った。オペラシティの成城石井にもぶらりとして知覧の紅茶を買ってみたけど結局飲まないまま夜まで仕事をして帰ってきた。本屋さんも成城石井も見ているだけで楽しい。

夜は今年度初回のReading Freudだった。5人の女性たちとフロイト『心理学草案』( 『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』 (岩波書店))を読み始めた。初回ならではの緊張感もちょっとよかった。

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。» p5(388)

刊行する気もないのによくこんなもの書くよなあ、と思うが、それならではの緩さが垣間見られて面白い。理論としてまとめてしまうと重要だけど書き方ほどは面白くない。フロイトの思考プロセスの記述の仕方がフロイトってこういう書き方するよね、と思えるのは楽しい。私たちはすでに情報という概念があり、心的装置というものを手に入れた状態からのスタートだからフロイトとは持ち物が全然違う。フロイトからしたら「ニューロンという概念を手に入れた!」というところか「Dr.STONE」のように一歩ずつ、みんなで。私たちも逆方向から一歩ずつ、みんなで歩み寄ろう。

今日の初回面接の事例検討グループでも記憶、時間、言語について何か言えるかもしれない。いいお天気だから仕事したくないけどがんばりましょ。今日のNHK俳句は斎藤志歩さんも能町みね子さんも出るのでは?楽しみだ。

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お菓子 イベント 精神分析、本

祭りとかReading Freud「心理学草案」準備とか。

窓を開けたら冷たい風。隙間だけ残して閉めた。曇り空。今日もお天気落ち着かないのかしら。

今朝も秩父の菓子処「栗助」さんの銘菓「まつりばやし」。一粒栗入りパイ饅頭。秩父といえば秩父夜祭。京都の祇園祭、飛騨高山祭とともに日本三大曳山祭りのひとつ。春の高山祭しかいったことない。秩父は行こうと思えば行けるから行こう。祇園祭も行こうと思えば行けるがすごい混雑なんでしょう?行くときは京都の人にお付き合いしてほしいな。高山は何回か行っていて京都ほど広くないからたくさん歩くなかでなんとなくの土地勘ができてる。秩父も多分大丈夫。でも京都は何度行ってもどこもかしこも名所で人が多くて、あ、そうか、人の流れが読めないから躊躇するんだ、多分。祭りのときってある程度人の流れがあって、あそこを抜ければ一気に静かになる、みたいなのがあると思うけど祇園祭ってどこ行っても人のうねりがありそうなイメージでビビるのね、多分。でも一度は行きたい。

私のオフィスで月一回やっているReading Freudが今年度も始まる。今年度は『心理学草案』。使用するのは岩波書店『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』の翻訳。参考文献はジェームズ・ストレイチー『フロイト全著作解説』 (北山修監訳・編集 笠井仁/島田凉子他訳、人文書院、2005)とジャン=ミシェル・キノドス『フロイトを読むー年代順に紐解くフロイト 著作』 (福本修監訳、岩崎学術出版社、2013)。今年度は新しいメンバーを迎えてキチキチだけど継続的にフロイトを読んできた人もいるし、それぞれ臨床しながら系統セミナーもこなしてきた人たちだから色々議論できるといいな。そのために勉強していたのだけど以前はこれもビビっていたのか難しい難しいと思っていたけど今は楽しい。その後の理論の展開を知っているからエキサイティングなんだろうね。草案は英語でproject。プロジェクトというと急にイメージが変わりませんか?フロイトのこのプロジェクトは頓挫するけど種まきプロセスとして超重要な局面になった。記憶をどう説明するかって話、とざっくり捉えるとわかりやすさはあるかもしれないけど、私たちはあくまでフロイトの臨床的な視点を忘れないようにしたい。この論文の背景に驚くべき症状を示す患者がいたことを。「草案」に事例は登場しないので『ヒステリー研究』と同時に読むのもいいかもしれない。

というかReading Freudの準備と発表原稿作り、両方しようと思っていたのに勉強しかできなかった。明日は初回面接の事例検討会とかあるけど夜にできる、と思いたい。一度に色々やるのってすごく苦手。最初からひとつ終えたら次、って着々とこなせばいいのだけどメインの仕事(=臨床)以外ではすぐ頭の中が煩雑になって優先順位もわからなくなってしまう。厄介厄介。でもこの厄介な身体と頭でこんな歳までやってきたのだから信頼していなくもない。みんないい一日になりますように。

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散歩 精神分析 精神分析、本

精神分析における観察

きれいな空。さっぱりした朝焼け。昨日の朝は前日の雨風に小さな花たちはみんなうつむきがちだった。あの雨の夜、点字ブロックの向こうにカエルが濡れながら佇んでいた。カエルは夜でもわかる。ゾワっとした。山の蛙には随分慣れてきて鳴き声が聞こえれば探すほどになったがアスファルトの蛙にはまだゾワっとしてしまう。結構大きかった。数年前、いやもっと前になるか、春になると近所の庭や道に大きなヒキガエルが現れた。川が近いから、と言われたがそんなに近いか?ヒキガエルにとってはそんなに近くないのでは?など思ったがその後はどうしたのだろう。先日のも彼らと近い関係だろうか。轢かれたりせず天寿を全うしてほしい。

毎日、花々を愛でながら歩いている。次から次へ咲く彼らの写真を撮る。一日の終わりに眺めると名前をまた忘れている。毎年春がくるたびに調べては忘れる。覚えるという行為をもう少し自覚的にする必要があるかもしれない。今は画像検索でお花の名前は調べやすい。簡単に調べられるから覚える気にならないというわけではない。それ以前からのお話。ならばせめて書いておこう。この二日間で写真に撮ったのはドウダンツツジ、ミツバツツジ、ロボウガラシ、オオキバナカタバミ、トキワガマズミ、マメナシ、サルビア、ジューンベリー、ハナズオウ、などなど。

ようやく6月の精神分析協会の学術大会のパネルの原稿を書き始めた。まだメモ程度だけど一応今月中に書かねばならない。私は、自閉症に想定される原初的なバイセクシュリティなど現代の精神分析が対象とする主体性なき主体においてセクシュアリティが果たすものはなにか、形になる以前のそれについて書いてみようかと思う。書いている途中に全く別のものになるかもしれないが。この概念はDidier Houzelが詳しいので調べたらHouzelはフランスの乳幼児観察についても書いていた。

Infant observation and the French model Didier Houzel ーーThe International Journal of Psychoanalysis: Vol 93 , No 1

Houzelは精神分析の訓練に乳幼児観察が必須と考える立場らしい。私は違うな。HouzelがIPA(国際精神分析学会)所属のフランス精神分析協会と限定しているのはフランスには精神分析の団体が乱立しているから議論が生じている場を明確に示す必要があるからだと思う。イギリスのタヴィストッククリニックのトレーニングで乳幼児観察が必須なのは、そのように全体のシステムが組織化されているからだろう。IPA所属の各国の協会のトレーニングシステムはそれぞれ異なるから乳幼児観察を組み入れるためにはシステム自体の変更も迫られるだろう。そう考えると現時点では優先順位はそんなに高くはないのではないか。日本の協会では、というかIPAでは子供の精神分析に関する訓練システムの確立はこれから。話し合いは行われているけど。私はそれが整ったら子供の精神分析の訓練も受けたい。英語が全然追いつかないからもっと頑張らねばだけど。乳幼児観察自体は乳児がいる状況はそれぞれのこころに様々なものを引き起こすのに十分だし、それを記録に残したりグループ内で言語化したりすることもコミュニケーションの困難や支持的要素に気づく大切な機会だ。それらは精神分析実践において必然的に生じることだし精神分析的であることのイメージを育てるにはいいと思う。それを訓練システムにおいて必須とするかどうかというのはこうした議論が必要なのだろう。

原稿を書き始めると大学所属ではなく臨床中心の生活を送っている女性精神分析家として何が言えるのかな、ということも意識するし、不安にもなるけれどとにかく実践と実感からものを言えるようになりたい。言うだけなら簡単だが患者不在の思弁は精神分析を治療者のためのものに変えていってしまう。いくらマイナーな治療でもそこには患者がいる。フロイトから受け継がれてきた「観察」という姿勢は大切にしたい。

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お菓子 精神分析、本

月、桜、ドゥルーズ、フロイト

やっと晴れた。この週末はどこもお花見で賑わいそう。私は今朝は諏訪大社のお土産、かりんケーキ。びっくりするほどポロポロ。どうしてだ?諏訪大社は一昨年のGWに行った。諏訪湖の夕陽がとてもきれいだった。

昨晩の帰り道、大きな三日月を見つけた。春の三日月は高度が高くてよく見えるという。それであんな感じだったのか?

花冷え、桜雨など言いながら寒さを凌ぐ数日間だった。季語は豊富なので足りなくなることはないが寒かった。真冬と同じ対策をしながらいうのもなんだが、底冷えしないのはやはり春だよねえ、など話した。私が通っていた小学校の校歌の歌詞には「桜並木」が出てくる。確かに校庭の桜は記憶に残っている。あの頃はちょうど入学式の頃に咲いたと思う。今は春休みの静かな校庭に咲く印象。小学生だった私には葉っぱばかりの桜の下に毛虫が落ちていることに気づいた日から桜は単に愛でたり儚さを思ったりするものではなくなった。高校生のとき、そういう時期に毛虫を自転車で轢いたことがある。轢いた私がいうものではないが、どうしていいかわからずしばらくペダルに足をつけられなかった。轢いたのはタイヤなのでペダルはなんにも関係ないはずなのだが、漕ぐという行為がまずかったのでは、などと思ったのだろうか。わからないが申し訳なかった。我が家の小さい花壇で毎年揚羽の幼虫が育っていくことで少し許してほしい。桜ではなく山椒の葉っぱでだけど。

最近、SNSでドゥルーズがトレンドに上がっていた。生誕100年、没後30年だからか?私は國分功一郎、千葉雅也、江川隆男たちの講義でドゥルーズを学んだけどあれは2013年とか14年とかだと思う。フロイト、ラカンを読めるようになってきたので当時入門書を片手に色々読んだのもいずれ思考を助けてくれるのだろうと思う。精神分析家だからフロイトを読むのは当たり前とはいえ、哲学の本を読むときにフロイトを読んでおいてよかったなあ、と思うことは多い。精神分析が『夢解釈』からだとしたらまだ125年だけど思想としての影響力は絶大。治療としては細々とだけど患者から学び蓄積され続けている知見と別の学問との対話で生まれた思考は私の生活基盤となった。精神分析以外のこともたくさんしているわけだけど毎日精神分析を誰かしらと行っている生活は心理士として色々やっているときとは別のことをやっていると思うし、影響もしあっている。いろんな人や理論と交わり合いながらやっていきたい。

ということで医師、心理士(師)など臨床家の皆さんは6月7日8日の協会の学術大会にぜひいらしてください。日本精神分析協会 第43回 学術大会については日本精神分析協会のウェブサイトをご覧ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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精神分析、本

新年度

新年度が始まりました。雨の中、キャリーバッグをコロコロしながら二列で歩いてくる新入社員らしきみなさん、ランチ場所に困るみなさん、グループで動く姿を見かけるのが多いこの季節、少しずつ人に慣れ、仕事に慣れ、会社に慣れ、街に慣れ、としていくのでしょう。子どもたちはまだ春休み。大学生は大学によるかな。十分、チャージして変化を乗り切れますように。

今日も雨らしい。昨日も本当に寒かったけど猛烈に厚着をして凌いだ。時折風でビニール傘がひっくり返りそうになるのを警戒しながら何度か移動したが周りの人はそんなことにびくともせず上手に風と付き合っていた。私は開いたり閉じたりしていたのに。風に対して傘をさす方向が間違っているのかなと周囲の人を参考にしたけどみんなそんな同じ方に傘を向けているわけではなかった。なんでだろう。ビビりすぎなのかな。

4月からまたグループが始まる。Reading Freudと初回面接を検討するグループ二つ。あとは年度の区切りは特にない個人的な読書会や事例検討会グループいくつかを継続。みんながんばろう。

一番新しいInternational Journal of Psychoanalysisをオンラインで読んでいた。イスラエルとパレスチナの戦争は精神分析協会内部にも葛藤をもたらした。ウルフ会長はじめそれぞれの立場からの論考が掲載されたこの号は緊張感が高い。編集長がそれについて触れていた。戦争でなくても葛藤状況において文章を書くことは自分の立場を表明することでありかなりの緊張が伴う。戦争によって異なる立場になった様々な国の人に対話をもたらすグループを運営してきたイスラエルの精神分析家であるエルリッヒ先生の論文も読んだ。私たちはその国のこと、街のことを何にも知らない、ということを改めて意識した。エルリッヒ先生は日本の精神分析協会における葛藤状況の解決にも協力してくれて昨年と一昨年かな、二回お会いしたことがある。ウルフ先生ともシドニーでお話ししたので知らないことを知ったかぶりしないように知っている先生の言葉から読んだ。ひとごとにしないために。実際ひとごとにしていられる状況でもないのだろう、本当は。実感、の難しさ。

さて、今日は水曜日。火曜日かと思ってしまった。気をつけねば。なんとか乗り切りましょう。

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俳句 精神分析、本

俳句、サラ・コフマン

お天気がイマイチ。昨日は光がいっぱいだった。

NHK俳句は堀田季何さん。「けりをつける」の「けり」って切れ字の「けり」だったのか!句友の名が!すごいなあ。でも私も先日、句会で出した二句両方に特選と佳作をいただいたので、最近の地道な習慣にご褒美をいただいた気分。引き続きがんばろう。

昨日は止まると寝てしまいそうだ、とちょっとカフェに寄って作業を始めたらそこで眠ってしまった。サラ・コフマンのフロイト読解が参考になっているので読んでいるのだけど文章が難解。私の読解力の問題もあるだろうけど、この文章はイマイチではないだろうか。難しい。サラ・コフマンはフロイトの読解方法をフロイトに適用する。フロイトの自己分析に厚みが出る。そしてコフマンは夢と遊び(芸術)を大切にしていると思う。たださすが哲学者。しつこい。エピグラフは

「好ましき事はすべて、三つでやってくる」。ジャン・パウル

あ、読んでいたのは『人はなぜ笑うのか? フロイトと機知』(人文書院)です。ひたすら「三」にこだわっている。精神分析は二を抜け出すための三だけど三を分解していくことも大事。そのためにはこのこだわりも大事か。

今日はどんな一日になるかな。いいことありますように。

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精神分析、本

コレット・ソレールの本など。

毎日、起きるとカーテンの向こうに月を探す。月の位置で大体の時間がわかる。昨晩、少し本読もうかな、と机の前に座ったけど読もうとしている本がラカン派の本だったせいか、ページを開いただけでボケーっと腑抜けていた。このままウトウトするのは目に見えていたので温めておいたお布団に潜りこんであっという間に寝た。遅い夕食が消化されていない感じが気持ち悪かったけど変な格好で寝てしまうより安全だった。

昼間もラカン派分析家のコレット・ソレール(Colette Soler)の 『What Lacan Said About Women: A Psychoanalytic Study 』を読んでいたらぐったりした。フランス語でなく英訳だけど。ある程度ラカン派の言葉に慣れてきたとはいえ、これ賞をとってるんだよね、これラカンに馴染みがないと結構読むの大変だよね、と難儀した。部分的、あるいは表面的には理解できるけど。ソレールはフロイトを独自の仕方で超えていくラカンを女性の側から掘り下げている。pas-toute、La femme n’existe pas.で表現される女性(ファルス享楽ではないJouissance Autreとともに)として女性に例外的な位置を与えたラカンの考えを我々はどこまで押し進めることができているだろうか、というのがソレールの問い。精神分析家の言説を変えるにはフランス精神分析、特にラカン派の勉強が欠かせないことはわかった、という段階の私には困難が多いが勉強しましょう。そうしましょう。

今朝はかわいいイチゴかな。ベリー系の焼き菓子とお茶。ほっこりしました。BGMは挟間美帆のLive LIfe This Day.挟間美帆の仕事も素晴らしい。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

掃除、筋トレ、読書会

暗い。まだ朝とはいえない。昨晩の夕暮れも、月も、とてもきれいだった。梅がたくさん咲く公園に寄って写真を撮ったけれど私が実際にみた夕焼けの色よりずっと明るい写真になってしまった。写真よりきれいよ、と付け加えればいいだけ、といえば、だけ。だって大抵の人は思い出そうとすれば思い出せると思う、あのきれいな色、というかあのきれいさを。

早朝からTHERMOSのマグをきれいにした。THERMOSは何回かいただいたことがありキッチンの棚を掃除していたら放置していたマグがでてきた。大きめで気に入ってたやつ。新しいのがやってくるとこうやって放置されてしまうのだからかわいそう、というか私のマネージメントが悪い。ちょっと台となる椅子が必要だけど振り向けばすぐ開けられる棚なんだから活用すれば忘れないはず。工夫してみましょう。

さて、毎日のタスクは精神分析、俳句、料理。細々とでも真面目に探求する習慣ができた。筋トレは週1は必ずという習慣。週1でも筋力ってきちんとつくのね。まだひとりで懸垂できないけどキレイな姿勢を維持したまま近いことはできるようになった。懸垂ができることが大事なんじゃなくて肩甲骨を上手に鍛えると可動域が増して肩こりもなくなるから辛くないわけ。元々はぎっくり腰にビビってヨガをはじめ、それはとても効果的で、うまく転べるようになったから怪我も減ったのだけど歳とってくるともうちょっと具体的にしっかり各部位の筋肉を鍛えた方がメンテナンスになるな、と思って筋トレをはじめた。プロのトレーナーさんについてもらっているので無駄がない。最初の頃は私の身体どうなっちゃってんの、という感じでできない動きも多く、行くの面倒くさいなと思ったこともあったけど汗をかかない私が汗をかく人に変わってきた気がしたり、身体がヘロヘロになると余計なことを考えなくなったり、重いものを持つときも「あのトレーニングよりはマシ」と思えたり、基本となる部分が色々変化するのでそれはすごくモチベーションになる。ジムに通っていた時期もあるけどヨガ以外はぼんやりストレッチマットで本とかを読んでいてもったいなかった。筋トレの効果は精神分析効果と似ている。自分の可動域を広げる。そのためにはどこを使うのか、何をとりあえず棚上げするのか、など。私はやるからには真面目なので(以前の自分との比較においては)誉めてもらえるのも嬉しい。誉めてもらえる、というか自分で自分に「がんばれ」と言いながらダンベルこなすこともあるし、「さっきよりできた気がする」とちっこい感覚を自分で評価していることも多い。「自己肯定感」が高いというやつか。日常ではこの言葉を使いたくないのだけど筋トレ中の自分のことだけはこの言葉で描写したい。できなくてもめげない。ベイビーステップ上等。この歳になればできなさの方を多く体験してるのだからスマートにできる自分なんて期待していない。思いがけずできちゃったぜ、というときの嬉しさの方が楽しい。

楽しいといえば昨晩の読書会は楽しかった。そのうちもうひとつのブログの方に書くけど、予習しておいたはずなのにその場になったら一体何が書いてあったんだっけ、と全く思い出せずみんなとあれこれ言っていいながら読み直すような感じになってようやく「ああ、そうか、この著者はこういうことが言いたくてこの形式で書いているんだ」となった。みんな精神分析実践をしているから単に知的な理解に留まらないのはとてもいい。今日はまた別の勉強会が午前午後とあるけどがんばりましょ。どうぞ良い一日を。雪の地域のみなさんはどうぞお気をつけて。

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写真 精神分析、本

サバカレー準備、逃避読書

朝。ここ数日は本当に寒くてすぐにベッドに戻ってしまう。

昨日はサバカレーの準備をがんばった。印度カリー子さんが使っているサバ缶は成城石井にあった。ココナッツミルクを探すのに手間取ったがカレールーとかと同じ場所にあった。ココナッツオイルはいろんなオイルの棚にあるけどミルクはいろんなミルクの棚にはない。冷やさなくていいしね。お店の人に聞こうかな、と思ったけど今後も自分で探せるように自力で探した。ということでがんばったような気がしている。

読むべきものが英語だとつい日本語の本を読んでしまう癖がなおらない。逃避癖のひとつ。でも細々と学ぶ中で千葉雅也と國分功一郎の『言葉が消滅する前に』(幻冬舎新書)はクロード・アジェージュの『絶滅していく言語を救うために ことばの死とその再生』(白水社)へのオマージュか?とか思ったり、とっても敬愛する俳人岸本尚毅の『文豪と俳句』(集英社新書)で岸本尚毅の俳句を通じた文豪たちへの眼差しの優しさにじーんときたり、手元にある本たちの読みがアップデート(?)しているのはいいことだ。

図書館でも俳句か哲学の棚にいくことが多い。昔は精神分析の本もそのそばにたくさんあったのにね、と精神分析の書物の少なさを少し嘆きつつもその時間は至福。最近は持っておきたいけど高くて変えないなと思っていたリオタール『言説、形象(ディスクール、フィギュール)』(法政大学出版局、三浦直希訳、合田正人監修、2011)を読んでいた。ここでも取り上げられるフロイトの夢作業、だけではないのだけど哲学者が精神分析を利用する仕方には学ぶことが多い。臨床とはかけ離れるけど内容と形式、欲望と言葉の関係には注意を払い続けることが必要だと思うし。

それにしても今日は花粉をとても感じる。困った。雪国で暮らす友が写真を送ってくれたが大変なことだ・・・。きれい!と素直に思えない年齢になってきた。大変さをたくさん聞くし、冬にも北に旅してた頃に何度も泣きそうになった経験も重ねてきた。そこで生活をしている人たちがよく休める時間とか場所とか協力とか色々あればいいと思う。どうぞ良い一日を。

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お菓子 精神分析、本 趣味

パイ、カレー、読書

朝焼けはまだ。今日は「市ヶ尾パイ」。パイだけどしっかり。硬い。美味しい。

あ、色々していたら空が白くなってきた。日々、時間の使い方を模索しているができたら空に合わせて動きたい。日曜は雨だったが帰り道はやんでもやっとした空に月が浮かんでいた。ここ数日はその月が少しずつ大きくなっていくのを見た。習慣を変えるというよりも作るという感じ。一番はきちんと自炊する時間をとりたい。大体20分くらいで作れるものばかり作ってるけど目指すは印度カリー子さん。カリー子さんはすごい人ですごく運動もするからあれだけ食べられるというのもあるし多分胃腸も丈夫なんだと思う。私は毎日カレーが食べたいというわけではないがあのパワフルで優雅な食事スタイルは見習いたい。三浦哲哉さんの影響もあるが自炊は楽しい。美味しい。昔はあれだけ面倒だったのにね。不思議。まあ、スパイスは増やしたから1週間に1回は印度カリー子レシピから作りたい。サバカレーと無水チキンカレーのレシピは保存してある。

昨晩は週末に読むアンドレ・グリーンの論文に出ていた言語学に関する本を調べようとしていろんな本を引っ張り出したが私が探しているものは全然見当たらず。この領域はすごく幅広いのだなあ。面白い分野というか精神分析理論を細かく検討するために深めたいのだけど理解に時間がかかるから死ぬまでにどのくらい深まるのだろうか。まあ、こういう時間もちょっとずつ読もう。すぐ忘れるのにどうしてこんなに勉強するんだろうねえ、不思議だ。でもどっかで役に立つのだろう。がんばろう。

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精神分析、本

神経精神分析関連の論文や本

明るくなってきた。水色とグレーの間の色はなんていうのだろう。色を表す日本語はとてもたくさんあるからきっとぴったりの言葉があるのだろう。

先日、国際精神分析学会のジャーナルThe International Journal of Psychoanalysis: Vol 105, No 5 (2024)が届いたのでパラパラしていた。この号はMark Solmsによるフロイト全集スタンダードエディション改訂版the Revised Standard Edition of Sigmund Freudの特集で17本の論考が載っている。編集長はFrancis Grier、ゲスト編集長にMark Solms。

先日、フロイト読書会でドラ症例を読んだが参加者のみなさんは文章を読むということ自体がなかなか難しいらしくこの論文についての議論はできなかった。私みたいに精神分析家になるのでもなければフロイトを精読する必要はないと思うが精神分析的にものを考えることとフロイトを読むことが連動していない場合の精神分析的臨床とはなにか、ということをまた考えることになった。人の心は本以上に複雑なものだと思うが。ドラ症例はこのジャーナルの特集でもIfrah Biranという人が取り上げている。RSEの訳者であり神経精神分析という新しい学際領域を立ち上げたマーク・ソームズと関心を共有している様子でパンクセップの感情システムのPLAYを使ってドラ症例を検討するという試みは興味深い。Fragment of an analysis of a case of hysteria – Dora’s case and Freud’s storyという題名が示すのは、ドラ症例を教養小説と読んでみれば、それはフロイト自身の成長物語として読めるのではないかということである。すごく簡単にいえばフロイトはドラを使って自分の物語を書いている、ということである、というかきちんと読んでいないが、ざっと見る限りそんな感じがする。「ニュースピーク」をレンズとして用いているところも興味深く、引用されているDana AmirのPsychoanalysis on the Verge of Language:Clinical Cases on the Edgeは読みたいと思った。

私は神経精神分析に関してはこういう論文や入門書に触れる以外の余裕はないが、いろんな方向から精神分析が別の領域へ広がっていくのはいいことだと思う。

入門書としては

神経精神分析入門 -深層神経心理学への招待-』(カレン・カプラン=ソームズ&マーク・ソームズ著、岸本寛史訳、青土社、2022年)

『ニューロサイコアナリシスへの招待』(岸本寛史編著、誠信書房、2015年)

だろうか。

ソームズ自身がこの分野にどうやって関心を持ちどこを目指しているのかは『意識はどこから生まれてくるのか』(マーク・ソームズ 著、岸本寛史、佐渡忠洋 訳、青土社、2021年)が参考になる。この本はパンクセップに捧げられており、先に挙げた論文を読む上でも参考になる。『神経精神分析入門』は初期のフロイトを理解する場合に特にいいと思うが、ルリヤが中心的に取り上げられているところが気に入っている。大学時代、とても好きだった心理学者がルリヤとヴィゴツキーだった。ロシアの精神分析の発展は彼ら抜きには語れない、と思う。

自分がわかること、知っていることなんて世界のほんの僅かであるということに普通に耐えながら学び、議論できたら楽しい。今日もがんばろう。

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精神分析、本

子どもの場合、IRED、オグデン“What Alive Means”

東京の日の出は6時51分。少しずつ早くなる。日の出の前から空は明るくなる。薄明。太陽の力ってすごい。気温は10度を下まわることが増えた。雪国の人たちの知恵が私にはないし、東京の交通機関にもそれはないと思う。なので雪は降らないで春になってほしい。でも子どもたちが喜ぶか。子どもだけのSNSがあったら雪国の子たちも雪をたまにしか見ない子も雪を見たことのない子もどんなことを書くのかな。大人とは全然違うこと書きそう。大人がいつもいっているであろうことを書く場合もあるだろうけど。子どもの心理療法もやってると大人とは全く違うプロセスを観察することになるというか、大人より細かくプロセスを振り返ることを一緒にやっているように感じる。物語が作れる、とかではなくて「あのときは多分」という感じで不確実ながら反復していた何かに対して仮説をたてるのが大人より普通になされやすい。あとしたくないことをしたくないということの罪悪感とか普通に本音を出せるようになる。大人は治療者に会う前からすでにいろんなところで自分を少しずつ失いながらくるからゆっくりゆっくり何度も同じところをぐるぐるしながらそんな自分にもそれをどうにかしてくれない相手にも苛立ったり不平不満を募らせたりしながらで、で、そんな気持ちになるとますます窮屈になって、と相手の反応を自分で思った以上に参照してしまうのかもね。だから言葉から論理的に導かれることを照らし返すだけでも「指摘された!」といやあな気持ちになってしまったりする。指摘されるって自分で気づいていることでも意外なことでも嫌なものなんだよね。というか論理的なことって腹が立つものだよね。私は何よりも論理的であることが大切だと思っているけれど。これは大人もだけど自分のことを気楽に振り返れるようになると論理性は増す。回りくどいことしなくても大丈夫ってなるからじゃないかなと思ってるけど。

国際精神分析学会(IPA)でInter-Regional Encyclopedic Dictionary (IRED) という辞書を作っていて、いろんな国の翻訳チームがそれぞれの国の言葉に翻訳をしている。それぞれ自分の仕事で忙しくしながらこういう作業もしているからすごく大変でようやく校正段階。一年ぶりくらいに見直したけど中身はすごく勉強になる。難しいけど。こういうのが世界中の言語になるってすごいことだと思う。もちろん無償でやってるけど世界中の精神分析家の考えが幅広く引用されているのも魅力。なので校正がんばりましょう。今週中、ってあと1日か・・・。

昨日はその翻訳しながら年末に出たオグデン(T.H. Ogden)の最新刊“What Alive Means Psychoanalytic Explorations”をちょこちょこ読んでしまった。表題論文はウィニコットの可能性空間を「移行対象と移行現象」の論文でいつも通りの細やかさで検討したもの。そのうえで臨床素材を用いて分析の枠組みを変更することの意味を探る論文。明確な考えが書いてあるわけではないけれど枠組みの変更というのは精神分析のプロセスの結果として生じるのでそんな意識的なものではないんだよね。ウィニコットが使うnegativeという言葉も検討されていたけど最近身近なA.グリーンとの比較とかはなかった。参考文献に挙げられてはいたけど別の文脈でだった気がする。ウィニコットを再検討するなら欲動論を持ちこんだほうが曖昧で感覚的な議論から抜け出す道が見えそうな気がするのだけどオグデンはそれはやらない。グリーンはする。それにしてもウィニコットが言っていることは検討しがいがある。オグデンがずーっとそのクリエイティブリーディングをしているのもわかるというかそうせざるを得ない相手だよねえ、ウィニコット。今日も読む時間作ろう。その前にどうにか仕上げたい。その前に寒さをどうにかしたい。体調管理しつつがんばりしょう。

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精神分析、本

シャルリ・エブド襲撃事件、『跳ね返りとトラウマ そばにいるあなたも無傷ではない』

一昨日雨が降って尖っていた空気が変化した。松過ぎ、小正月、女正月、と新年の歳時記はまだ使える。歳時記は春、夏、秋、冬、新年の分類だ。立春は2月3日。先日梅の木を観察しにいった。もう目覚めている様子だった。蝋梅がそろそろ咲くだろう。あのいい香りにまた会える。会えたらいい。枯れ木には小鳥たちが賑やかで冬も楽しそう。

昨晩、ニュースでシャルリ・エブド襲撃事件から10年とやっていた。当日の現場の様子や犠牲者を追悼する式典の映像が流れていた。

2022年『跳ね返りとトラウマ そばにいるあなたも無傷ではない』カミーユ・エマニュエル 著/吉田良子 訳(柏書房)という本がでた。被害者の近親者である著者が体験した「リコシェ」、これが「跳ね返り」という意味だ。

著者カミーユ・エマニュエルの夫リュズは『シャルリ・エブド』の風刺画家だった。わずか数分の差で襲撃を免れたが現場を目撃しPTSDを発症。その夫の苦しみをそばでともにし、パリにもいることができなくなり、著者はどんどん追い詰められていく。「普通に」考えれば彼女の苦しみは想像に余りあるが「被害者」として「認定」されることは当たり前ではなかった。著者は心理療法家に言われた「跳ね返り」という言葉をキーに自分の体験を綴っていく。いわばたたかいの記録である。柏書房のウェブマガジンに精神科医である阿部又一郎が書いた書評がとてもいいのでそちらもぜひ。阿部又一郎はセルジュ・ティスロンの『レジリエンス : こころの回復とはなにか』の訳者でもあり、臨床家、特に精神分析臨床に関心のある方はそちらもお勧めしたい。

痛みは痛みとして苦しみは苦しみとしてそれが何であるかは専門家は追求すべきかもしれないがそうでなければそれらがそのまま受け止められ「普通に」必要なことがなされる毎日でありますように。

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精神分析、本

おしゃべり、翻訳、精神分析の未来。

1月になって本格的に寒い。なのに昨日は汗をかいた。待ち合わせに向かっていたらなんと電車がストップ。慌てて違う路線まで移動して15分遅れで着。新年のご挨拶やらをして美味しそうなメニューから選んでおしゃべり。古き良き時代を知る人として世代の異なる心理職の輪を広げることができてよかった。こういう柔らかく穏やかなおしゃべりの場は人を豊かにする。それにしても私はすっかり一番上の世代になってきた。そして心理職として、精神分析を志したものとして本当に恵まれた時代を生きてきたんだなと思った。もちろんその時代を暗黒と感じる人もいるだろうけど。今年もいろんな人と気楽な機会を作っていきたい。ゆっくりしたあとには電車も無事復旧。事例検討会にも時間通り参加できた。介入の仕方についていろんな意見が出たが私は転移解釈を口にすることは最大限控える。それよりとどまることを必要に思う。継続で会っていれば色々なことが起き色々な気持ちになるのが当たり前だろう。その色々をお互いに体験していくこと自体が効果といえば効果につながっていく。ウィニコットのスクイグルが効果的なのはそれが何に見えようと構わないくらいの緩い線のあっさりしたやりとりが積み重ねられるからだろう。それが部分だろうと全体だろうと構わないわけである。実際そんなのはどっちだってありうるのだから。フランスのラカン派ではないIPAの精神分析家アンドレ・グリーンの文献を訳していたら明け方が近くなっていた。すごく時間がかかってしまった。引用されているフロイトの文章は私も以前メモしておいたところだった。全体の訳ができるにつれてグリーンのこの書き方はフロイトの書き方を真似たりずらしたりしているのかもしれないなと思った。1997年の論文だったと思うが

フロイトの1919年の論考「精神分析療法の道」の

「また、私たちの治療法を大衆を相手に適用するにあたって、分析という純金から直接暗示という銅をたっぷり使った合金を作る必要が生じる公算は大きいでしょう。また、そのときには、戦争神経症の治療の場合のように、催眠による影響が再び用いられもしましょう。しかしながら、たとえこの精神療法が大衆のために形作られ、どのような要素によって組み立てられようとも、その最も効果的で重要な構成部分は確実に、厳密で不偏不党である精神分析から借りてこられたものであり続けるでしょう。」

という箇所はグリーンが精神分析の危機と限界を書いているところと重なる、というかグリーンはこの論文の別の箇所を引用しており当然問題意識の重なりがあってのことだろう。私もいろんな学問と実践を経由して精神分析家になったが常にこれまでの多様な経験を生かしながら精神分析が広く届けられるように考えないといけないのは今年も変わらない。未来を考えるためには希望を持たないと。またおしゃべりの場を設けよう。助けてもらいながらやろう。窓の外に光が溢れ始めている。明日はようやく少し雨マークが出ている。暖かい飲み物と一緒にがんばろう。

(ここは日々のよしなしごとを書き連ねる場なので精神分析にご興味ある方は私のオフィスのウェブサイトをごらんください。)

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精神分析、本

セミナーなど

朝焼けがまだ少し残ってる。今朝もとても静かできれいだった。

昨日は朝から夕方までセミナーだった。仕事の予定がずれたので参加できた。長時間のセミナーに出るのは久しぶり。臨床心理士を更新するのであれば臨床心理士会の研修会にも出ねばならないがそっちはノルマとしてだから辛い。オンラインだと画面を消してはいけないからもっと辛いけど他県にいって受ける余裕はない。2、3月の日曜は少し時間ができるのでそこで受けられる講座を探さねば。あーめんどくさい。昨日のセミナーはウィニコットの治療相談面接についてだったので楽しみにしていた。以前から読んでいる『新版 子どもの治療相談面接』(岩崎学術出版社)だったがきちんと読むのは2年ぶりくらいかも。色々忘れる私がなぜ2年ぶりかもと思うかといえば2年前にウィニコットフォーラムに登壇したときにその準備で参照したから。まだまだ読み方が浅いというかもっと文化的、社会的な事象に開かれていないと浅くなるな、と思った。臨床と理論を接地させることはできつつあるがまだまだ経験不足。うー。どうしたらよいのだ。まあ続けるしかない。

インスタでフォローしているパン屋さんやごはん屋さんやお菓子屋さんがすっかりクリスマスでどれもこれもとてもかわいくて美味しそう。ということで私もコンビニで買ったクリスマスのお菓子をいただいた。紅茶と。我が家の飲み物がずいぶん減ってきた。いつのまにまに。今また言葉遊びが脳内で始まってしまった。そんなことをしている場合ではない。いくぞ。がんばろう。

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「光る君へ」、人それぞれ、メモ

暗い。もうすぐ冬至。この年末感のなさはなんだろう。年末らしきものには色々触れているというのに。先週末あたりから「良いお年を」ということが増えた。今年は知っている範囲でも亡くなった人が多かった気がする。突然と感じつつもはやそんなに遠くに感じない死である。できるだけ息災に暮らしたい。NHK大河ドラマ『光る君へ』でまひろが周明に「息災だったのね」という場面は良かった。長い年月を生き延びたことこそ貴重だ。そんなにきちんと見ていたわけではなかったが刀伊の入寇も最終回も素晴らしかった。倫子が孤独なままでとてもかわいそうだったが彼女の人生はこれからも長く続くと史実が示している。外に出ていい女子がいることさえ知らなかった倫子は戦を知らない公卿たち同様、外をどう評価していいかわからなかっただろう。夫や母親の期待通りに娘たちを入内させたとはいえ娘たちを早くに亡くした。彰子と堅子が二人でいる場面もよかった。ドラマ内で二人は異母姉妹で彰子が道長に「藤式部の娘ゆえ」というような場面があったが、そこにいるあなたの父の娘でもあるがな、と思いながら見た。倫子と道長の娘である彰子だってものすごくしっかり成長したわけでそこには片思いをやめられない道長くんの影響もないとはいえない。一応最高権力者だったわけだし。断片的にしか見ていなくても清少納言「枕草子」大好きな私にはたまらなくいいと思った場面がたくさんあった。キャスティングも最高だった。私の思い描く定子様だった。それにしても戦のない世といっても戦の芽を育んだ世ともいうこともできるわけで何事も自分は無関係というわけにはいかないのだな。辛い。

自分も無関係でいられない事柄は多いので毎日「うーん」と頭を抱える事柄も多いが切り替えはせざるをえないのでする。人はそれぞれ考えて考えて考えたうえで、という場合の時間や質が全く異なるので、その人としては考えに考えを重ねた上での決断なんだろうなあ、と思う一方で、どうして放っておけるものまで放っておかないのかなあ、と思うこともある。私も個人で開業しているため、いろいろなことは自分で管理する側である。なので、他人の状態や情緒に共感したような感じで無意識的欲望を叶えようとする行為は理解できる。しかし、他人の領域は管理できないという当たり前のことを忘れずに動くならば方法として一番無難なのは時間をかけることだと思っている。だから精神分析なんて超地道なことに時間とお金をかける意味を見出しているともいえる。一方、最初に書いたようにそれぞれ時間感覚は異なるので当人が十分に時間をかけた、といえばそれもまたそうなのである。だからといってそういった人に従う必要もないが正当な理由を持って異議申し立てをするかどうかもまた吟味が必要。自分はそこにそんなにエネルギーを割きたかったのか、と。人はそれぞれ囚われるところが違うので同じ目的ではじめたものに対する態度も時折点検する必要がある。簡単なのは全く関係ない友人に「なんでそんなことやってるの?」と問われることかもしれない。中にいるといること自体でなんかやっているような気分になってしまってその目的を忘れてしまうこともある。精神分析のように目的があるかのように振る舞うことに徹底的に抵抗する(私の立場ではそう)あり方を模索する私でも「なんで」と改めて問われて「あれ?なんでだっけ」と立ち止まることだって少なくない。相手が変わることを期待するとか相手を変えることなどできないのにできるかのように振る舞うとか、そういうことが生じる場所に自分は本当にいたいのか?いつのまにか自分もそういうことやる人になっているのではないのか?それにしてもこうして思い浮かべる友よ。きっとあなたたちならあっさり問いかけてくれるだろう、という相手がいることは幸せである。

もうすごく遠いことのような気がするが先月の学会で「ネガティヴ」は「かつてそこにあったはずのもの」と捉えるのはどうだろうと思った、とメモした(ツイートした)。精神分析は空間より時間を問題にしてもいいと思う。頻度とかではなくて、とも。そしてベルクソンを読んでいたが、というかベルクソンを読んでしまったがためにその感触は強くなっている。要するに引っ張られている。勉強が足りないうちはただただ取り入れているので仕方ないがこの勉強は興味深くも結構大変なのでこうやって死んでいくのか、と思いながらやっている。

これはいつ何を見たり読んだり聞いたりして思ったのか忘れたがアンドレ・グリーンの「ネガティブ」とウィニコットの「偽りの自己」が示す非―存在は関連して考えることができるのではないかということもメモした。ウィニコットは「自己」という言葉をあえて曖昧に、中間的に、つまり「逆転移」のように「私たちに従属させて使うことのできる用語」ではないものとして使う。(cf.Winnicott,1960) ウィニコットのこうした努力は見習いたいが彼は何かを説明する仕方が周りくどいというよりただくどい部分があり、曖昧さより明確な主張を感じることも多い。強烈な存在感を示す人が語る非ー存在は儚さにかける気がする、とか大きなお世話だが『子供の治療相談面接』の序文を再読してそう思った次第である。だから彼にはスクイグルが合っていたともいえるやもしれぬ。

さてさて今日も一日寒そうだ。身体大事に過ごしましょう。

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吉野ヶ里、女が読む女の本

空の色が薄い。昨晩は少し雨が降った。雨の予報じゃなかったよね、と話しながらiphoneで天気予報を見るとその時間帯だけ小さな雨マークが雲の上についていた。朝はついていなかったようなので何時間かごとに修正されるのかもしれない。今も少し雨が降っていそうな色の空だけど降っていないみたい。昔の人は空を見るだけでいろんなことが分かったのだろうなあ。尊敬する。佐賀の吉野ヶ里遺跡で緊急地震速報が大きな音で響き渡った時のことを思い出す。「昔の人」「自然」というキーワードで脳が勝手に検索をかけたのだろう。客はほとんどおらずのんびりしていたら突然大きな音がしたのでそこにいた人たちとなんだなんだとなったけど誰も地震を感じずにみんなで笑い合った。彼らも現代人なので彼らだから予知できるはずはないのだが、当時の服装をイメージしたものを着ていたから「この人たちにも予知は難しいのか」と思った。当たり前じゃ。吉野ヶ里は着くまでの道のりが楽しかったな。この電車に乗った、と話したら地元の人にもびっくりされたり。そのくらいローカル線ということ。こっちはよくわからないままやっていることがその土地の人からすると「そういう観光客珍しいよ」みたいなことは結構あってそういわれたこっちが「え、そうなんですか」とびっくりすることも多い。こっちはそれが当たり前なのかと思っているからね。話してみるもんだ。出会ってみるもんだ。

女の精神分析家が書いたものを女の精神分析家たちで読む会をしているがあえてそういう形式でコミュニティを作ることは大切だと思う。特にそれまで家父長的と言われ続けてきた領域においては内側の人が行動していくことをしない限り変化は起きない。外側にたてば家父長制に対して冷笑的で「そうはいっても女もね」とか「そういうものでしょ、誰だって自分が大事なんだから」とか言えるかもしれないが、一つの治療法を持つ文化がそういうことを言っている場合ではないので緩やかにやっていけたらいいと思う。そういえば吉野ヶ里で笑いあったみなさん、全部女性だった。役割分担はそれはそれとして大事。

今日はグループ3つ。全てやることが違う。年末年始の休みに向けてがんばろう。

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12月5日朝

まだ空が真っ暗。ぬくぬくしたままパソコンで作業がしたくてモコモコ動いていたがやっとちょっとしっくりくる姿勢を見つけた。ちょっと考えればもっと早く辿り着いたのではないかという姿勢だが偶然辿り着くのであればそれはそれでいいのだ。全身がぬくぬく。もう動きたくない。

信頼、尊敬する人にお仕事のお願いをしたのだけど、お願いの仕方を間違ったなと思った。お願いした時点ではその内容が曖昧すぎた。自分で作業するうちにやっていただきたいことがだいぶ明確になってきた。気づいてしまえばなんでこんなことわからなかったのだろう、と思うが、そのなんで、に対しても今は仮説がたつ。お願いしてからこれがわかるまでたった二日。イレギュラーな用事でバタバタしたにも関わらず隙間時間をうまく使えたのも大きい。余裕がない方が時間をしっかり使う意識が高まるのかもしれない。今朝はいつも以上に早起きしたから一瞬たりともぬくぬくを手放さないことに無駄な時間を使ってしまったが。今日は木曜日。連日、読まなくてはならないものが多いがすでに読んだことのあるものも含まれるのでちょっと気を抜いている。そして別の本を読んでしまう。

自分が選んだ本なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、本棚から適当に引っ張り出した本こそまさに今読みたかったもの、ということが多い。昨晩、読んでいたのはアイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』。若くして亡くなったアメリカの政治哲学者。序文を読んで、著者は精神分析の引用をする人なのかと思ったが索引をざっと見る限りフロイトをはじめとした代表的な精神分析家の引用はない。おそらく序文を書いたマーサ・C・ヌスバウムは生前の著者との対話から著者の理論的背景を知っているのだろう。もちろん精神分析が主なものとは思わないが教養として使用していたのではないだろうか、という印象を受けつつ読んでいた。そしてさっき気づいたのだがこの本の終盤337ページに私は線を引いたらしい。今気づけば付箋も貼ってある。いつ読んだのだろう。全く覚えていない。私は買ったら一応パラパラだけはするのでそのまま積んでおくことはしない、とはいえ、こんなにきちんと線を引くほどしっかり読んだ覚えはない。まあ、記憶していなくても何かの積み重ねにはなっているだろうし、思考を助けてくれてもいるだろうからいいけどその手の知力がまるでないのは本当に残念なことだと思う。今日もがんばろう。

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鳥、鼠男、狼男

朝焼けがきれい。鳥の声を聞く前に暖房をつけてしまった。それでかき消されるような声ではないけれど朝を始めるための色々な音に私の耳が慣れるまではひとつひとつの刺激が強い。すぐに馴染むけれども。名古屋で適当に降りた駅近くの川で見た川鵜と白鷺のことを思い出していた。こちらをすごく意識しているかのような白鷺となんにも興味がなさそうな川鵜の対比もとても面白かった。いつまででも見ていたかった、というか結構長い時間眺めていた。途中、橋を渡るカップルが「まだいる!!」と川鵜を指差して大きな声をあげていたから川鵜にとっても長丁場(?)だったのだろう。田中一村も鳥大好きだったが川鵜の絵は見たことがない気がする。赤翡翠とかのインパクトに埋もれているだけかもしれない。尾長や木菟の絵もよかった。上野の展示よりも千葉の展示が何かこう一村への愛とプライドを感じたな。空いてたからのんびり見られたしね。

さて、昨晩深夜の読書は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』(岩崎学術出版社)だった。仕事から帰って一通りのことをするとすでに深夜なのだがなんとなく何かをいつもちょっと読む。専門書以外で読みたい本が山ほどあるが教える仕事もしていると気づいたときにまとめておかないと、ということも多い。ラットマンとウルフマンはフロイトの5大症例のうちの二例である。今年度のReading Freudで精読してきた。特に心的両性性について臨床的な実感と生活者としての実感がこもった議論ができたのはよかった。ちょうどいい感じで読み終わりそうだ。来年度は『心理学草案』に戻るが、その良い準備にもなった。強迫神経症は岩波書店の『フロイト全集3』で「心理学草案」の次に載っている1894年「防衛ー神経精神症」1896年「防衛ー神経精神症再論」においてコンパクトかつ緻密に論じられている。ラットマン(鼠男)とウルフマン(狼男)はその後の精神分析理論の展開を生み出す種となった。ヒステリーの受動性と対比される強迫神経症の能動性とサディズム、肛門性愛という欲動の問題などその後の理論化の大きな流れがここに始まる。

今日は腰が痛い。これはぎっくり腰というより筋肉痛っぽいから安心。ぎっくりの痛みが怖くてメンテナンスしているからね。良い一日になりますように。

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ウィニコットの『子どもの治療相談面接』を読んだり。

空がグレイ。色々心に置いておくにはこのくらいの空がいいのかもしれない。天気予報は晴れらしいのでこんなことを思ったことさえすぐに忘れるかもしれないが。いろんな人との繋がりがあるとここの人たちは今もうひとつ別の場所で起きたばかりのことを何も知らないという当たり前のことをふと思うことがある。知らないことだらけが基本だから自分のことは自分で、というのが大切、と私は思う。言い回しをいくら変えても自分の正しさを手放さないことには何も変わらない。それはイコール間違っている、というわけではないにも関わらず。こちらでいかにも深刻そうな、実際深刻な出来事が生じていても、その場で密かに受け取った全く別の関係からのメッセージに愕然とし心囚われていることもしばしばだ。その場の気分や何かを共有することを強いることはできない。一方、簡単にわかったような顔しないでほしいし、反論されたらすぐ反論、みたいなことが生じる場でも共有を求めたがるのも私たちだろう。自分の思う反応がほしいがために人は自分に没頭しない。人に依存する。それはとても普通のことだ。

精神分析はその人自身が変化を求める限り有効だが、相手がいくら求めたとしてもこちらがそれに協力できないと感じた場合は引き受けることはできない。責任の所在を明らかにし、その多くが自分にあるという話をどっちが言った言わない、あなたのことを思って、自分のせいではない、などの水準でしている間はなかなか難しい。今こうしている自分はもしかしたら、と自分にとってもあり得ないと感じられるけど実はそうかもしれないとも感じる心の動きに直面させられたときに抵抗しつつも取り入れる兆しが見えるかどうかを観察することがアセスメントとなる。

昨日の初回面接を検討するグループでみんなで考えたことを思い浮かべながらウィニコットの依存概念を見直さねばと思って『子どもの治療相談面接』(岩崎学術出版社)を読んでいた。これはスクィグルという描画遊びを使った子どもの初回面接(あるいは、繰り返される初回面接)の記録なんだけど一対一の密な状況を維持することがいかに大事か、そしてそれを邪魔しない保護的な環境がいかに必要か、つまりみんなでその人が一人でいられる設定を作っていくことの価値を問い直される本である。夜も二つのミーティングをこなした後にぼんやり読んでいたのだけど訳者が意図して解説を書かなかったのがとてもよいと思った。私ももう歳なので自分の仕事にもっと没頭したく、最近は、受身的に知識を求めてくる人には別の場所を紹介するようにしている。同じようなことに強い興味を持つ人たちと学術的な議論を深めていきたい気持ちが強い。もちろん私はそれこそ後身のためと思うから。受身的に教えてもらうことが前提となっている人は教えてくれなかった、と言いがちなので(現在、30代後半から40代前半の人たちが「教えてもらえなかった」というのを多く聞いてきた。そのたびに大学ってそういうところなの?と思っていたしそう言ってきた)自分から学びに(私の仕事の場合は臨床実践を含む)いく人たちと作業したい。少なくとも私の世代はそれが普通だったと思う。そういう意味でもこういう本をしっかり読み込んでいくのは楽しい。先人たちの実践と学問的な格闘は凄まじいものがあるのだ。趣味でやる学問なら解説も必要だが自分のやっていることなのだから自分の実践と考えと対峙させながら読む必要があるし、ウィニコットの場合、ウィニコット自身が読者が自由に読むことを推奨している。当然それは好き勝手にということではない、という解説などしたくもないだろう。今はいちいちそういうことをいわないと伝わらないことが多いがウィニコット的な言い回しで読者の自由を許容していくこと、つまりたやすく依存させない工夫が必要なのだろう。そのためにはまず自分、という循環。ということで今日も一日がんばろう。

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精神分析、本

ウルフマン症例

すっかり空が明るい。今朝はのんびり珈琲。あとふわふわのオレンジ味のリトルベル。河口湖チーズケーキガーデンのお特パックに入っていたお菓子。まるっこくてかわいくておいしい。

昨晩のReading Freudは『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』(岩崎学術出版社)の後半、「ある幼児神経症の病歴より」(一九一八[一九一四])(=ウルフマン症例)の「Ⅳ 夢と原光景 Ⅴ 若干の議論」。精神分析は元来夢解釈の作業であり、この症例は戦前、戦中に書かれた最後の症例だと思う、たしか。フロイトの5大症例はこの時期までに出揃い、その後の理論的変遷の種は蒔かれた、という状態。ウルフマンも財産を失うなどして巻き込まれた第一次世界大戦の時期は1910年にできた国際精神分析学会(IPA)にとっても危機だった。フロイトはアドラー、ユングとの葛藤を抱え、1914年の「精神分析運動の歴史のために」(全13)   では 「以下に精神分析運動の歴史について文章を寄せるが、その主観的な性格や、この中で私に課せられる役割について、誰も驚く必要はない。精神分析は、私がつくったものだからである。」と書かざるを得なくなる。たとえユングが会長であっても創始者は自分だ、ということ。ユダヤ人ではないユングを会長にすることで精神分析をそれではないものにしたのはフロイトであり、というか、学術的な問題と情緒的な問題を分けられないのは精神分析の特徴でもあるのでユングはフロイトと離れられてよかったのかもしれない。学術的な話し合いならともかく、とユングも嘆いていたらしいし。さて、ウルフマン症例も世界大戦やこれらの精神分析運動の影響を受けており、今回読んだ「若干の議論」では精神分析家の中に想定される反論に対してあれこれ議論している。しかし、この議論の争点は私が精神分析学会にではじめた頃に大きく取り上げられていた心的現実とは、という問題でもあり、セクシュアリティをどう捉えるかという基本的な問題でもある。現在はこういう根本的な精神分析概念について議論するということが学会では減っているので古典を読み続け海外のジャーナルから文献を探すのが大切。当時生き残ったIPAに所属する私はそういう話を真剣にしたい人たちに橋渡しすべくこういう活動を細々続けよう。今日は初回面接を事例を用いて検討するグループとか3つのグループがある。大変だー。いいお天気だけど寒いいかな。また篭りっきりになりそうだけど冬の間は諦めましょ。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

足指、マゾヒズムの本

まだ暗い。朝焼けはまだ始まらない。洗濯物を干した。ハーブティを淹れた。柿も剥いた。この週も週一筋トレ以外身体をほぼ動かしていないのでふくらはぎのストレッチでもしようかなと思ったら自重でも痛くてすぐにやめた。自重だから痛いのか?足裏が浮きやすいので100円ショップの足指開きパッドを久しぶりにしたらこれもまた痛い。ヨガやっていたときは足指マッサージとかグーパーとか色々して温めてから始めるからだいぶ開くようになってきたのにまた戻ってしまった。パッドを入れる段階でイテテとなる。でも以前は5本指ソックスも痛くてすぐ脱いでしまっていたことを考えるとすごく戻ったわけでもないのかな。こういうのは地道に身体に慣れてもらうしかないのだろうねえ。ちなみに小指が薬指にくっついてしまうのって寝指というそうだ。私は身体が硬いのも問題なのだけどいろんなスポーツ選手のメンテナンスをしているトレーナーさんによるとぐにゃぐにゃで困っているバレリーナさんとかもいるらしい。小学校のとき、友達のバレエの発表会を見にいって私には絶対無理なことをたくさんしていたのにもびっくりだったけどメイクにもっとびっくりした。楽屋で見たから近すぎてなおさらだったのだろう。普段と全く変わってしまう。今だったらバレエ自体をもっと楽しんだりできるのに子供の頃はまだ体験が少ないからというか私の注意力が変だからかメインに注目すべき場所と違うところばかり注意が行ってしまっていた気がする。あの子はもうやめちゃったかな。別の友達は大人になってバレエを始めて「あみちゃんも絶対できるよ」と言ってくれたけどその後の自分を見るに懸垂はできるようになるかもしれないけどバレエはやっぱり無理だったと思うよ。あなたと行った渋谷のチャコットはなくなってしまったよ。私は通りを挟んだ無印良品側のバス停からチャコットが壊されていくプロセスを週2回はみながらその友達に心の中で報告していた。今はもうそのバス停は使わないけど跡地はどうなったのかしら。

空が少し薄くなってきた。でもまだ暗い。雨が降ってるのかな。

今朝はMasochism: Current Psychoanalytic Perspectivesに入っているオットー・カンバーグの論文を読んでいた。昔購読会で読んだけどすっかり忘れている。1993年出版、目次はこれ。いろんな立場の人が書いている。

1. Introduction – Robert A Glick and Donald I. Meyers
2. The Concept of Character: A Historical Review – Robert S. Liebert
3. Sadomasochistic Excitement: Character Disorder and Perversion – Stanley J. Coen
4. Clinical Dimensions of Masochism – Otto F. Kernberg
5. Those Wrecked by Success – Roy Schafer
6. The Analytic Concepts of Masochism: A Reevaluation – Stuart S. Asch
7. The Narcissistic-Masochistic Character – Arnold M. Cooper
8. Masochism and the Repetition Compulsion – John E. Gedo
9. On Masochism: A Theoretical and Clinical Approach – Herbert A. Rosenfeld
10. A Consideration of Treatment Techniques in Relation to the Functions of Masochism – Helen Meyers
11. The Precursors of Masochism: Protomasochism – Eleanor Galenson
12. Adolescent Masochism – Charles A. Sarnolff

翻訳されなかったけど一つの概念について異なる理論的基盤から書かれている本って勉強になる。マゾヒズム(反転するものとしてのサディズム含む)についてもフロイトに遡って考えないとなあ。学会ではナルシシズムに関する発表をしたけどつなげて考えるべき問題ではると思う。夢の報告ではサドマゾ的なものは多く見られるけど日常生活でも治療場面でも扱いづらい問題。もちろん人はその部分だけで生きているということは全くないけど細やかなものを飲み込んでいくあり方ではあると思う。病理となるものは大体そうなのかもしれないけれど。

さてさて11月ももう半分過ぎてしまった。次の課題に取り組まねば。今日も無事に過ごしましょう。

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精神分析、本

中村哲さんの本とかメールとか。

南側の窓を滑らせて開けた。キッチンの窓も開けた。部屋の空気が一気に澄んだ感じになる。グチュッとしちゃうかもともらったキウイはグチュッとした部分はあったけど甘くて美味しかった。白湯。と少し前にもらった河口湖土産の富士山型のクッキー。チョコが練り込んである。今日は抹茶とホワイトチョコ。小さい富士山。美味しくてかわいい。毎晩家では作業をする余裕がないので隙間時間に色々するのだけどそれはそれで余裕がなくミスばかりの原稿を送ってしまった。英語だったから自動翻訳で確認しながらコピペ繰り返している間に文章が抜けたりしていることに後から気づいた。まあ仕方ない。締め切りまでに書いただけよしとしよう。訂正する機会はあるだろう、というかいただこう。隙間時間にちょっと読書してしまうのもこういうミスを増やしているのかも。読書は楽しいからなあ。時々パラパラとできるようにそばに置いている中村哲『思索と行動 「ペシャワール会報」現地活動報告集成 [下]20022019』を昨日もパラパラしていたらすごく泣いてしまった。実情が淡々と書かれる中に染み込んでいる中村さんの考えが真剣で温かくて泣いてしまう。こんなふうに絶望以前に淡々と日々の労働をこなすことが優先な人たちの「ふつうの」思いやりに学ぶ。中村さんのスケッチが好きだ。ここは干上がったような茶色い土地ではないの?という場所が緑いっぱいの場所になっている。中村さんたちと地元の人たちが地道に地道に達成した偉業だ。アフガニスタンは戦争では滅びないだろう、でも渇水で滅びるだろう、という言葉がずしんときた。ちょうどお世話になっている先生からメールが来た。意外で嬉しい共有だった。それを読みながら中村さんのこの言葉を思い出したので引用した。精神分析の世界を引っ張ってきてくれた先生方は色々ありながらもこうやって場所を維持してくれた。それだけでも本当に恵まれている私はその恵みを誰かの環境のために生かしていかなければならない。時折忘れてしまう感謝を胸に今日もがんばろう。

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精神分析、本

夢、バトラー

昨晩の夢をもう忘れてしまった。夢を話し始める患者さんは昨日?今日?昨晩?今朝?と言い換える方が多い。昨晩から今朝にかけて、だとニュースっぽいしね。夢を話す仕方って興味深い。精神分析は映画『マトリックス』にでてくるコードを読むみたいなところあるから内容はほぼ記号なんだけど行為する身体を司っているのも脳なわけで夢ってどういう表象なのかと考えると止まらなくなるからフロイトが『夢解釈』書きたくなるのもわかるよね。

カーテンを開けるのが遅くなって朝焼けを逃した。今日はきれいだったろうなぁ。まだ空が赤みがかっている。気温はカーディガンにジャケット羽織ればちょうどいいかな。あとこの時期用のマフラー。冷え性だから首温めるの大事。

なんか突然ジュディス・バトラーを斜め読みしたのだけどすごく勉強になる。前の斜め読みしかしていない本を再び斜め読みして少しずつ理解を深めている感じなんだけどバトラーは言語の人なんだねえ。言語ではどうにもならない最たるものがSEXだと思うのだけど、ラカンでいえば象徴界における現実界を扱っている感じ。バトラーは政治への影響も及ぼせるほどの思想家(っていうのかな)だからこれが必要ギリギリの言葉という感じもする。何が勉強になるって精神分析をこういうふうに引用すると政治的に届く言説になるんだ、という引用の仕方。私は臨床中心で生きてるからそういう思考と乖離しやすい。身体をどう記述するかという問題でもあるからいずれ精読しよう。とりあえず今日締切の原稿書こう。休息はしっかりとりつつがんばりましょ。

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精神分析、本 音楽

秋空、ジョン・バティステ、書評

曇。空が薄くて高い。のっぺりした感じはない。どこまで行ってもなににも触れることのできない空間がずっと広がっている。大地からはいろんなものが空に向けて伸びているけどほんのほんの一部。すごーく下のほう。人がいる大地に爆弾を落とす飛行機の高さも大したことない。人間のやることなんて大したことないのにどうして人を殺せるのだろう。個人として見ていないからだよね。その人の属性が自分にとって異質だと許せないんだよね。しかもほとんど思いこみで。いろんな鳥の声。雀とカラス以外にも椋鳥とかヒヨドリとかいるのだろうけど声で区別ができない。ジョン・バティステ(Jon Batiste)がグリーンディ(Green Day)のHolidayに合わせてピアノを弾いている映像がインスタで最初に出てきた。すごい。はじめて聞く曲にこんなふうに即興で。彼の声はほんと独特でそれだけで物凄いインパクトある。昔と声の出し方もかなり変わっていると思う。偉大な宗教家のイメージ。繊細なカリスマという気もする。映画『アメリカン・シンフォニー』を見たからかな。

昨日はやっと書評を送ることができた。ラカン派の勉強は大変だった。私はラカン派が批判の対象としがちなIPAの分析家だけど仲良く議論していきたいもんだわ。IPAの分析家が制度に依存してガチで精神分析考えていない感じがいやなんだろうね。そんなことないよー、と言えるようにがんばらないと。感想文のような書評になってしまったけどラカン派をほとんど読んでいない人たちに一緒に読もうという気持ちでは書いたよ。分析協会のほうでも書くものがあるのだけどそっちはこれから。締切間近だからすぐ頭切り替えないとだけど無理でした。ということで敬愛する水村美苗の『大使とその妻』を読んでいた。最初から小さい驚きがたくさんで細やかな描写にいちいち心打たれている。大事に読みたい。やることやりつつ。はあ。がんばりましょ。NHK俳句も見るかな。どうぞ良い日曜日を。