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アンナ・フロイトの仕事とか慶応心理臨床セミナーの思い出とか。

今朝は、東京都稲城市の京王線若葉台駅から少し遠いけどかわいい「お菓子の森もみの樹」さんのマロンフィグを熱いお茶と。マロン味よりフィグ(いちじく)味のほうが強い。いちじく大好きだから嬉しいけど。

10月9日のブログでアンナ・フロイトについて書いていたはずが、子どもの精神分析の歴史になってしまった、と書いた。

アンナ・フロイトの技法論は、今日では古典的なものといえるかもしれない。長年、新訳も出ていない。しかし、初期の子どもの精神分析に関してアンナが非常に重要であることは間違いないし、彼女がフロイトの仕事を継承し、世界の精神分析を牽引する存在だったことも間違いない。

また、彼女の仕事が現在の精神分析から消えてしまったわけではない。彼女が創設した臨床・研究機関を前身とするアンナ・フロイト・センターは、メンタライゼーション研究やその臨床への応用において重要な役割を担ってきた。もちろん、アンナ自身の理論がそのまま現在のメンタライゼーション理論につながっているわけではない。何が継承され、何が変化したのかという問いは、精神分析の歴史を考えるうえで常にもっておきたい。

アンナ・フロイトの貢献は、まずは、自我心理学の発展と防衛機制の整理だろう。『自我と防衛機制』(1936)は基本文献である。しかし、その理論体系全体もそのまま継承されているわけではない。

次に重要なのは、精神分析における発達論を、発達ラインという考え方を通じて体系化したことだろうか。


「正常と異常はスペクトラムである」と、小此木啓吾先生や、馬場禮子先生、深津千賀子先生、中村留貴子先生、佐伯喜和子先生など、慶応にゆかりのある心理の先生方を中心とした、今はなき慶応心理臨床セミナーで、最初に何度も教わった。そこには、環境との相互作用や退行を含めて発達を理解する視点があった。私は慶応心理臨床セミナーで聞く話を、実践としての精神分析と思っていなかった。なんらかの違いを意識していたわけではないが、なぜかそう思っていなかった。今思うと、かなり自我心理学味の強いのセミナーだったと思うし、そういう時代だったと思う。でも、小此木先生がアンナ・フロイトなど錚々たる人たちと知り合いで、その交流の話を聞くのは楽しかった。

子どもの精神分析の技法と制度の確立も、アンナの重要な仕事だろう。慶応心理臨床セミナーでは森さち子先生が子どもの治療に関する講義を担当していたと思う。濱田庸子先生はダニエル・スターンの発達論が中心だったか。女性の先生方も多かったが、小此木味の強い集団だった。海外から帰ってくる先生方も小此木先生が引き入れた人という印象はその頃からあった。そこには登場しない先生方のことはよく知らなかった。数年後、私は実践としての精神分析に申し込んだが(始まらなかったが)、その分析家のことも、そのセミナーで知ったわけではない。セミナーというのは、内容は様々でも、だいたい同じ味付けになるのかもしれない。本とかもそうかな。この人の本にはいつもこの人が同じような賞賛を寄せている、とかしょっちゅう見るものね。お勉強はお勉強としてとても大事だけど、こことは違う世界もいっぱいあるよ、ということも同時に伝えていく必要があるのだろう。

アンナ・フロイトが単独で取り上げられたことはなかった気がする。アンナの技法については精神分析の領域でさまざまな議論があったとしても、子どもの観察、親や環境との協働、治療と教育の関係、臨床家の養成など、彼女が取り組んだ課題は現在にも引き継がれている。単にフロイトの娘ではなく、アンナから始まったことも多いだろう。

と書いていて思い出すのは、セミナーで誰かが森先生に質問をしたときのことである。それに答えたのが丸田先生だった。しかもちょっと怒っていた。それを静かに制したのが森先生だった。

小此木先生の声がでにくくなってからは森先生や貞安先生が代読した。森先生の声はいつもきれいで聞きやすかった。フロイトを代読するアンナの声はどんなだったのだろう。

1930年8月、フロイトはゲーテ賞の授賞式に出席できないこと、そして、アンナが代わりに文章を読むことを書簡に書いている。Sigmund Freud Edition ­ (FE)のウェブサイトでその手紙を確認できる。その中の一文にはこうある。

Die Festgesellschaft wird nichts dadurch verlieren, meine Tochter Anna ist gewiß angenehmer anzuziehen und anzuhören als ich.


「式典の参列者は、それによって何も失うことはないでしょう。娘のアンナは、私よりも見ていても聞いていても、きっと心地よいでしょうから。」という意味らしい。この時期のフロイトの身なりや話し方はどんなだったのだろう。

さて、アンナの発達論については、以下の文献で、MayesとCohen(1996)が現代の発達研究との関係から再評価している。彼らはアンナの発達論を、単純な段階論としてではなく、進行と退行、生物学的成熟と環境との相互作用などを含むものとして、現代の発達研究との関係から検討しているようである。

Mayes, L. C., & Cohen, D. J. (1996). Anna Freud and developmental psychoanalytic psychology. The Psychoanalytic Study of the Child, 51(1), 117–141.

ちなみに、アンナ・フロイトの仕事を現代に継承する重要な機関といえばアンナ・フロイト・センターである。アンナが創設したハムステッドの児童臨床・養成機関を前身とするアンナ・フロイト・センターは、Peter Fonagy、Mary Targetらによるメンタライゼーション研究の重要な拠点になり、現在もMBTの研究・教育・臨床家養成を行っている。メンタライゼーション理論の発展に大きく貢献したPeter Fonagyが、長年CEOを務めたアンナ・フロイト・センターとの関わりを自ら語ったインタビューもある。

Doward, J., & Hall, S. (2019, April 27). “Therapy saved a refugee child. Fifty years on, he’s leading a mental health revolution.” The Guardian.

https://www.theguardian.com/society/2019/apr/27/peter-fonagy-refugee-child-psychologist-anna-freud-centre

Fonagyは英国精神分析協会の精神分析家であり、精神分析の世界のみならず、心理臨床やメンタルヘルスの領域でも国際的に大きな影響力をもっている。メンタライゼーションが日本に導入されたのは何年、何十年前だっただろうか。野口英世記念館で行なわれたMBTに関する講義にいったことがある。今では訓練分析家である先生方も参加されていた。岡野憲一郎先生の質問が興味深かったが内容を忘れてしまった。

メンタライゼーションに関しては、ここ数年、日本でも多くの書籍がでているので、正確な情報はそちらでチェックしてみてほしい。

私が最初に読んだFonagyの本は、遠藤利彦先生と北山修先生が監訳した『愛着理論と精神分析』(誠信書房、2008)だったと思う。だから、講義に行ったのもその頃だったのだろう。原著は2001年刊行だから、もう四半世紀前の本である。それは、愛着理論と精神分析という、別々の方向に発展してきた研究を結びつけようとする仕事だった。ここ数年、日本でもMBTの公認の資格を持つ人が増えてきた。先述した通り、書籍も増えてきた。私が、慶応心理臨床セミナーにでていたのは2000年頃で、そこでなんども聞いてきたアンナ・フロイトの仕事を今になってなんとなく思い返したのは、こういう動向と無関係ではないのだろう。振り返ってみてなんとなく思うだけではあるが。

今朝は、アンナのことに触れてからヘルムートのことを詳しく書きたかったのに、もう時間がない。書き始めると色々思い出話も書いてしまうからすぐ時間切れになる。色々懐かしいなあ。当時、切れ味鋭く、精神分析の未来を語っていた先生方ももうだいぶ高齢になってきた。日本の精神分析の歴史についてもっと教えていただきたいことがたくさんある、というか、できるだけいろんな側面からご自身が体験された精神分析の歴史を残していっていただけたらと思う。

今日もそれはそれで歴史の一部。一ページまで行かなくても句読点くらいかな。句読点大事。どうぞ良い一日をお過ごしください。

Mayes, L. C., & Cohen, D. J. (1996). Anna Freud and developmental psychoanalytic psychology. The Psychoanalytic Study of the Child, 51(1), 117–141.
https://doi.org/10.1080/00797308.1996.11822424

Fonagy, P. (2001). Attachment Theory and Psychoanalysis. New York: Other Press.

フォナギー,P.(2008)『愛着理論と精神分析』遠藤利彦・北山修監訳、誠信書房。

Doward, J., & Hall, S. (2019, April 27). Therapy saved a refugee child. Fifty years on, he’s leading a mental health revolution. The Guardian.
https://www.theguardian.com/society/2019/apr/27/peter-fonagy-refugee-child-psychologist-anna-freud-centre

Freud, S. (1930). Antwort Sigm. Freuds an Dr. Alfons Paquet. Die psychoanalytische Bewegung, 2(5), 419.
Sigmund Freud Edition(デジタル版)
https://www.freudedition.net/werke/antwort-sigm-freuds-dr-alfons-paquet/druckschrift

八ヶ岳を一望できる茅野市。移動はかわいいメルヘン街道バスで。
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河合隼雄とか精神分析とか。

8月。カレンダーをめくろう。外が白い。曇ってる。雨が降るのかな。昨日は朝は風を感じなかったけど昼間は感じた。ちょっと遠回りして久しぶりの図書館に行ったけど以前のウェルカムさは全くなく管理されている感じが居心地悪くいろんな本の背表紙だけ眺めて出た。

私は児童文学も専攻のひとつだったので図書館に行けばその棚もチェックするが、河合隼雄はそこにもいた。そもそも私が河合隼雄と出会ったのは実家の書棚にあった昔話とか子供に関する本を通じてだった。織田先生や河合俊雄先生たちに教えていただきにユング派のセミナーに出ていた頃も心理職としての河合先生が話題にあがることはあまりなかったし、実際、臨床心理士の集まりでもその場でフルートを披露された先生のことしか覚えていない。児童文化学科発達心理学専攻だった私にとって河合先生は臨床の先生というより子供のこころの先生だったらしい。精神分析を学び始めてからは精神分析は小此木先生、ユング派は河合先生という感じでその対話本などは読んでいたが、実践としてビビッドで、実際に教わりにいったのは精神分析だったら藤山先生たちの世代、ユング派だったら俊雄先生とかの世代だった。毎週木曜日、慶応心理臨床セミナーに私が通っていた頃はまだ小此木先生がいらしたので河合先生よりはずっと身近だが、精神分析かユング派かとか技法の違いでいったら、私はそのほかに家族療法も短期療法も動作法も学びに行っていたから、京大出身の仲間たちが語る河合隼雄の影響力はいまいちピンとこないし、小此木先生も特別感はない。長谷川啓三先生について名古屋に通おうとしていたし。一回だけいってすごく興味深かったけど続けたら精神分析にかけたのと同じくらいの費用がかかったかもしれない。何かのオタクになるとお金がかかる。

先生たちもそれぞれオタクだったと思う。精神分析を受ける人は少ないけどある程度オタク気質がある人たちなんだと思う。それに集中することで強いられる負担を負担と感じるしかたが独特だと思うし、精神分析はさらにメタというか、他者と共にいようとする、あるいはそこで痛みを感じる自分の心、というふうに対象が自分(=他者)になるし、自分の可動域は自分で思っているよりずっと広いか、複雑。なので痛みと不快さにまみれすごく苦しくて本当に辛くてもなんとか探求を続けられる面白さがある。私はあった。最後には「これが“遊ぶということ”か」とかなりの自由と面白さを実感できるようになったのと訓練ケースが訓練として認められたのが重なり(連動しているからだけど)分析家になる少し前に分析を終えた。今となれば何を選択しても同じ結果になったかもしれないけど、私が身をもって知っているのは精神分析だけなのでそれを生業にできてよかった。一途にオタクをやってきた。使えるものはなんでも使って、ということができる人はいいけど、私の場合は結局こんがらがって「やっぱり基礎からだな」と何度もスタート地点に戻ることになるから探求をやめないやり方が自分にあっていたんだと思う。それぞれ自分は何がしたいのか、ということに尽きるけどそれが本当にやりたいことなのかを模索するのも必要だったりするからややこしいね。

もらった温室みかんがちょうどよく甘酸っぱい。今日は金曜日。天気予報はやっぱり雨。がんばろー。

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お菓子 テレビ 精神分析、本

言葉とかお土産とか。

出かける前に少し洗濯物を外に干そう、と思って窓を開けた。風がない?風はどこ?暑いけどまだ風があるから助かるよね、という話をしたばかりなのに。今日は木曜日。そして明日は8月、と書きながら驚く。もう8月。

さてさて、昨今、加害と被害という用語で様々な出来事が語られるが、精神分析でいば、加害性はウィニコットのいう侵襲性だろう。そしてグッドイナフな母親には「なる」プロセスが含まれるとすれば、それがまだできない母子の最早期の関係は加害者と被害者だろうか。そんなはずはなく、被害と加害の関係はそんなに簡単ではないのでそれらの用語も簡単に用いるべきではもちろんない。強い言葉を使うなら『被害と加害のフェミニズム #MeToo以降を展望する』とかある程度勉強してから、という時代だろう、今は。言葉はどんなときでも人の自由を拘束するためではなく広げるために使えるようにしたい。言葉が拘束として働きやすいのは人の心がそういうふうに作動しやすいからなわけだけどそれを超えていくのも言葉だと考える仕事についているのできちんと勉強しよっ、と改めて思った。

これは「いいお母さん」とはなにか、みたいな話でもある。『精神病者の魂への道』の著者、シュビング夫人で知られるゲルトルート・シュヴィングは古澤平作のスーパーヴァイザーであるパウル・フェダーンの分析を受けていた。小此木啓吾が書いているが、彼女は精神分析によって「自分の中の救済的なコンプレックスを治療することで、自分自身の内部にあった激しいエディプス的な葛藤とかを洞察した」。その結果、「献身的に子どもをかわいがるお母さん」から「本当の意味での、距離のある、人格と人格としての母と子の愛情、真の母性愛というものに成長した」そうだ。小此木啓吾は阿闍世の話とそれをつなげている。こういう話をどのくらい複雑に考えられるかということが大事。どっちがいいとかそういう話ではない。少なくとも相手を「いい」か「悪い」かを決めるのは自分ではない。

福島県二本松市岳温泉のお土産がたくさん。「だけ」温泉って読むのね。ウェブサイトを訪ねたら最初に映し出されたのが包装紙みたいでかわいかった。楽しそう。安達太良山に登ったあとに日帰り湯する人も多そう。お土産は「玉川屋」さんの名物「くろがね焼」とか「あだたら 湯ふもと岳」とか。これはクッキーかな。原材料に黒糖、バター、パンプキン、アーモンド、シナモンとあるだけで絶対に美味しい、という予感がする。包装紙もわしっぽくてきれい。あと「桜坂」。これは果実餡とある。包み紙の上からだとふんわりした感じ。なんだろう。楽しみ。桜坂って名所があるのね。

「桜坂」というと福山雅治の「桜坂」を思い出す世代なんだけどあれは何年だろう。『未来日記V』のテーマソングだった。

♪君よずっと幸せに 風にそっと歌うよ ♫♪ 愛は今も 愛のままで♪

私の未来の時間は当時より具体的に短くなったけど今日もがんばろう。今日は木曜日。7月は今日まで。何度も確認が必要なのは加齢のせいではなく不注意のせい。色々あってもなんとかやろう。良い一日になりますように。

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哲学 精神分析 読書

ベルクソン、フロイト

早朝、窓を開けたら一番きれいな色をしているときの光に会えた。ただの強い日差しに変わってしまう前の爽やかなピンク色。昨日はそんなに汗をかかなかった。外に出るたびに「あぢぃ」となっていたけど長時間でていることがなかったからかな。熱中症にならないようにせねば。水分水分。

ここでも何度か書いている平井靖史さんの『世界は時間でできている -ベルクソン時間哲学入門-』が昨日3歳になったそう。ベルクソンに関してはこれと『ベルクソン思想の現在』檜垣立哉、平井靖史、平賀裕貴、藤田尚志、米田翼が私の愛読書となっている。2022年のベルクソン研究者たちの盛り上がりはすごく楽しそうで、そのネットワーク作りをしている平井さんの仕事ぶりも魅力的で私もようやく門前にとどまることができた。

アンリ・ベルクソンとフロイトは同時代を生きて神経学に同じような関心を向けながら心について考えていたにもかかわらず接点がなかった。ジャン=リュック・ジリボンがベルクソンの『笑い』とフロイトの『不気味なもの』を並べて読解することで見出した「不気味な笑い」という論考が2016年に平凡社ライブラリーから『笑い/不気味なもの』としてでており、二人をつなげる試みはなかったわけではない。ベルクソンに魅力を感じながらも長い間近づけなかった私もとりあえずこの本は買っていた。

日本の精神分析でいえば、小此木啓吾が哲学少年としてベルクソンを読みこむだけでなく、フロイトが導入した失認agnosieなど神経学的な問題に臨床で関わる中でベルクソンの『創造的進化』に影響を受けた学者たちも参照しながら自我発達理論と発達神経生物学の延長として精神分析における自我心理学の発展について述べている。小此木先生が見出した日本の若い(当時)医者や心理士は私たちに精神分析と精神分析的なものをごっちゃにしたままとはいえ、海外の最新の知見はもちろん、ご自身の臨床に基づいた精神分析的思考をたくさん教えてくださった。私はその世代に直接、精神分析やスーパーヴィジョンを受けてきた世代なので、小此木先生の批判されるべきところも知っているが、小此木先生の仕事に戻れば、精神分析を学際的な領域として楽しめることも知っている。今「自我心理学」と聞いたときに神経学からの発展として話す人は少ないように思うので、私は私の世代で言えることを幅広い視野から次の世代に伝えていければいいなと思う。

最近はビオンの自伝に感動したのでそればかり話している気がするが。今日はフロイト『心理学草案』。せめてここまで戻る場を作れてよかった。

今日も暑そう。気をつけながらがんばりましょう。

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精神分析、本

精神分析基礎講座関連メモ

電子レンジが壊れたのでトースター生活。朝はパン♪のつもりでいつものコーヒーより少しいいドリップコーヒーにしてみてるけどいつもお菓子が豊富にあるので大体朝はそれらとコーヒー。空がきれい。

先日、月一回の対象関係論勉強会(精神分析基礎講座)で午前に岡野憲一郎先生がサリヴァンとコフートを、午後に妙木浩之先生がエリクソンを中心とした米国自我心理学の流れをお話しくださった。以前、この講義を聞いてから考えようと曖昧に放っておいた米国精神分析の流れが非常によくわかった。そういえば、とすごく久しぶりに岡野憲一郎先生のブログをみてみたら講義当日もそれまで通り脳科学関連のことを書いていらした。岡野先生とはじめて個人的に言葉を交わしてから20年近く経つが当時から私は「先生の得意分野は脳科学」といっていたからずっと精神分析と脳科学の知見を関連づけた論考や本を出し続けているわけで、その下書きのような感じでブログもずーっと書いておられる。私のこんな徒然日記とは違って読めば学べる毎日更新の教科書みたいな水準をきっとサラサラと。今回の講義はサリヴァンの理論にあまり踏み込まなかったので基礎を満遍なく学びたい受講生には物足りなかったかもしれないがサリヴァンの特異性は知っておくべきことと思うので詳しく教えていただけて良かったのではないだろうか。中井久夫のように著名な先生が訳したからサリヴァンもメジャーというわけではなく、ある意味彼はマイノリティを生き抜き自分が何度かの大きな危機を生き延びた体験をそのまま理論に生かし、独自の実践機関を立ち上げてきた。中井先生もそういうところおありだけど。統合失調症が持つ「希望」の部分もしっかり理解するにはサリヴァンの治療論は必読な気がする。

そしてこの講義まで曖昧にしておいた米国精神分析の歴史については妙木浩之先生の講義が素晴らしかった。妙木先生の資料サイトはこちら。小此木啓吾先生みたいだった。東京国際大学で亡くなった小此木先生の研究室も引き継いだのは妙木先生だものね。小此木先生はアンナ・フロイトやいろんな著名な精神分析家と実際に会話した体験なども交えて世界中の精神分析家の人となりや立ち位置や理論をいろんな視点から教えてくださるものすごい先生だったけど(講義の時は野球をよく聞いていらしたけど)妙木先生は視覚教材を使うのもすごくうまい(岡野先生も)から受講生も情報量に圧倒されながらも混乱はしなかったのではないか。私はかなり整理されたが調べねばということも増えてしまった。エリクソンを中心にした米国の社会保障と貧困の側面からみた精神分析家の移動についての話は興味深かった。ビッグデータ分析については同じく米国の話ということで以前教えてもらった『誰もが嘘をついている〜ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性』(セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ著、酒井泰介訳)も参照した。この本、第2章は「夢判断は正しいか?」だし軽妙な語り口に振り回されながら「データやばい、というか人間やばい」ということを忘れないために読むにはとってもいい本だと思う。

それはともかくエリクソンの発達段階、ライフサイクルの考え方だけではなく、彼が受けた差別や精神分析家としての歴史を見直すことは大切だと思った。先日インドの精神分析の大きな流れにエリクソニアンがいることをインドの精神分析家に教えてもらったがエリクソンが書いた『ガンディーの真理 戦闘的非暴力の起源』(みすず書房)は関係あるのかと妙木先生に伺ってみた。それはわからないということだった。最近、インドのジェンダーとセクシュアリティに関することを調べていて地域差がものすごいと感じていたが技法にエリクソンの相互作用モデルが最も適切な地域というのはあるのかもしれない。また、高校生の時に好きで集めていたノーマン・ロックウェルがエリクソンやロバート・ナイト(ブレンマンが書いているロバート・ナイトの説明はこちら)、マーガレット・ブレンマン(最初の女性分析家,インタビュー動画はこちら)のポートレートを描いていたことを知れたのも嬉しかった。エリクソンとロックウェルの関係についてTwitterに載せたのとは違う記事はこちら。

日本の精神分析はどうなっていくかな。サリヴァンやエリクソンのようにフロイトとは根っこのつながりをあまり持たない独自の方向へ進んでいくのか、それができるだけの強力なパーソナリティと人間関係と機動力と資本を持つ人が現れるのか、それとも地道に忠実にオーソドックスな方法を目の前の患者に合わせて丁寧にカスタマイズしながらやっていくのか、いろんな可能性があるだろう。私は後者だけで精一杯。寒くて辛いけどなんとかやっていこう。みんなもなんとかね。またね。

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「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」1907

なんだか傘を持つのは久しぶりな気がする。

1月の東京は本当によく晴れた。

次世代を担う臨床家がやっているオンラインのフロイト読書会、次回は私がアドバイザー。

読むのはフロイト「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」1907年

Delusions and Dreams in Jensen’s “Gradiva” (1907)

1907年、この頃にフロイトはカール・グスタフ・ユング(1906年に論文集を送付)、マックス・アイティンゴン、カール・アブラハムと出会った。

グラディーヴァ、小説の主人公が熱烈に魅せられて古代レリーフのなかの女性。「歩き方」へのこだわりはとても興味深い。私もいくつかのエピソードを思い出す。

ユングがイェンゼンの小説をフロイトに紹介したことから始まったフロイトの文学研究と芸術論、これはapplied psychoanalysis(応用精神分析)のはじまりでもあった。

そういえばユング派の候補生ってユングの故郷チューリッヒにいくけど精神分析家候補生はもうそういう場所をもっていない。私は普段も旅するときもひたすら歩くが、私が精神分析に向かって、あるいは精神分析とともに歩いてきた仕方について少し考えた。

この小説の主人公は考古学者。彼の夢と「妄想」。考古学と精神分析、フロイトは文学作品に対しても優れて臨床的な観察力を発揮し、ここに類似性を見出した。

『夢解釈』で明らかにした不安夢の理解以外にも、フロイトは後年探求することになる現象にすでにここで触れている。精神病や倒錯に見られる現実の否認や自我の分裂など。

小此木啓吾先生の熱い語りも思い出すなあ。母を求める青年。小此木先生の同一化力(とはいわないが)はすごかった。

フロイトも面接室のカウチの足側の壁にグラディーヴァのレリーフのレプリカを掛けていたという。

Library of Congressのサイトを探ればいろんな写真も見られるかもだけどグラディーヴァのレリーフは普通に検索すればすぐ見つかる。

私がフロイトの何かを絵や写真で見たいときは鈴木晶『図説 フロイト 精神の考古学者』(河出書房新社)、ピエール・ババン『フロイト 無意識の扉を開く』(小此木啓吾監修、創元社)

フロイトのカウチに横になったら左側のグラディーヴァをぼんやり見ながらいろんなことを連想すると思う。カウチの横の壁には大きな絵がかかってるのだけど、私だったらカウチの横は小さい絵をかけるな。落ちてきたら嫌だし、圧力感じそう。でもフロイトの部屋はものすごくいろんなものがあるから、その一部なら気にならないか。私も賃貸じゃなかったら掛けたい絵がたくさんあるなあ。細々した思い出の品々はたくさん置いてるけど。

この論文もいくつか訳がでている。読書会は岩波書店『フロイト全集』を基盤にしている。今回私は種村季弘訳も参照。

グラディーヴァ/妄想と夢 – 平凡社

Quinodoz, Jean-Michel. Reading Freud (New Library of Psychoanalysis Teaching Series) (p.73).

日本語訳、ジャン−ミシェル・キノドス『フロイトを読む 年代順に紐解くフロイト著作』(福本修監訳、岩崎学術出版社)だとp.77〜も参照。

もっとこの論文について書こうと思ったけど面倒になってしまった。キノドスにも小此木先生の本にも色々書いてあるから私はまた今度にしよう。

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日本の精神分析家の本

日本の精神分析家の数は多くありません。国際精神分析学会(IPA)所属の分析家でいえば1学級ほどの人数で、訓練のための分析を提供する訓練分析家となると数えるほどしかいません。(日本精神分析協会HP参照 http://www.jpas.jp/ja/)

だから精神分析なんて全然身近じゃない、かというとそうでもなく、精神分析家は意外と身近なのです。たとえば土居健郎先生、たとえば小此木啓吾先生、たとえば北山修先生、たとえば、、とあげていけば「あ、この人知ってる」という方は結構おられると思います。

精神分析家の先生方の発信力が強力、というか大変個性的なので、これまた少しずつですが、先生方の本について下記URLのブログでご紹介したいと思います。すでに書いたものもご関心があればどうぞご覧ください。

日本の精神分析家の本(妙木浩之先生)

日本の精神分析家の本(北山修先生、藤山直樹先生)

精神分析の本

ちなみに私は、大好きだった合唱曲、「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者が、この北山修先生だとは全く知りませんでした。

精神分析ってまだあるんだ、と言われることもありますが、精神分析は特殊な設定にみえて、というかそれゆえに、すごく生活に近く、先生方の本に出てくる人たちはみな、私たちが自分自身のなかにもみつけられる部分をお持ちです。あまり難しいことは考えず、できるだけ無意識にしたがって共有していけたらと思います。

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同時性

私は、精神分析家について何か書くとき「日本の」とか「今も実際に会える」とかあえて付け加えたくなります。それは「同時性」というのをとても大切に思うからです。同じ国に生まれて、同じ時代を生きて、同じ学問を愛して、同じ場所をともにするなんてとても特別なことのように思いませんか。

 たとえば私は、土居健郎先生とは同じ会場にいたことはあるけれど言葉を交わしたことはありませんし、土居先生の考え方やお人柄などはひとづてや本でしか聞いたことがありません。一方、小此木先生以降の東京の先生方にはご指導をいただいてもきましたし、日本精神分析協会の先生方は特に身近に感じています。だからといって土居先生は遠く感じるということではなく、実際にお会いできたことで遠くは感じないのです。

 私より若い世代の方にとって、小此木先生や土居先生は等しく遠いレジェンドのように感じられることもあるようですが、「実際に同時にここにいた」という事実、そして実際にその場で私が受けたインパクト、それは知らない相手に対して自分勝手に言葉を繰り出すことを難しくします。だから知ろうとする、対話を試みる。フロイトを読むのもそのためです。

 それに、過去の過ちを繰り返してならない、とばかりになされる試みがその過去にすでになされていたことを知ることもしばしばで、そんなときも知るのは自分の無知でしかありません。若いときにはそれこそ若さだからいいと思いますがもうそろそろそういうのはいいかな、という感じがしています。多分、またやるけど。

 同時というのは過去、現在、未来、という直線的な時間軸を超えていく概念だと私は思います。精神分析でいう「今ここ」が単純に「あのときそこで」と対比できないように、それは今より前も今より後も含みこむ生成されつつある時間なのだと思います。だから、私の中で生き続けている実際に同時にここにいた人たちをとても大切に思うのです。

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出自

小此木啓吾先生の古希とフロイトの誕生日を祝う学術集会が収められた『精神分析のすすめ』(2003、創元社)という本は冒頭に三浦岱栄先生(小此木先生が慶應の精神科に入局したとき(昭和30年、1955)の教授、『神経病診断治療学』の著者)との激しい葛藤が綴られている。ものすごく高度な戦いで、その中で「僕は精神分析に負けた!」といえる三浦先生がすごいなと思った、とTwitterで書いた。

本当にそう思う。「第一部 各研究の個人史的背景と次世代へ」と名付けられたこの最初のセクション「神経学との出会いー三浦岱栄先生と」でこのエピソードを話す小此木先生の討論者が狩野力八郎先生で、もうお二人ともいらっしゃらない。

小此木先生が書かれた何冊もの本、遅筆だったといわれる狩野先生の著作集、そして日本の内と外を橋渡しした土居健郎先生、北山修先生の著作などは精神分析は精神分析でも「日本の」精神分析について深く考えさせられる書き方がされている。

精神分析がクライン、ウィニコット、ビオンによって母子のメタファーを用いることでその潜在力を開花させたように、私たちも何かと出会うとき、自分という存在、自分の考えの由来を早期のできごとから探らざるを得ない、わけではないかもしれないが何かを人に伝えようとするときその基盤となった個人史に言及する人は多い。

出自を知る。多くの文学が描いてきたようにそれは類型化されるものではない。生まれることの理不尽を、生きることの理不尽を、私たちは感じながらどうにか生きている。自分とは違う誰かとの出会いがいかに生を揺さぶるとしても、その生を規定されたものとして諦めることなく、その潜在力を信じたい。

様々な報道を目にしてふとそんなことを思った。

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伝言

1990年、小此木啓吾先生の日本精神分析学会第36回大会会長講演「わがフロイト像」から引用です。全文は『精神分析のすすめ』(創元社)で読むことができます。

「むすびのメッセージとして、会員諸氏に次の言葉をお贈りします。『フロイド先生に常に初対面して下さい』この言葉は、古澤平作先生から私が、先生自身が熟読した独文の『精神分析入門』をいただいたときに、先生がその表紙に書いてくださった言葉です。このメッセージを、今度は私からみなさまにお贈りしたいと思います。」

はい。受け取りました。これなら私でも覚えられる。伝言ゲームでもたぶんずっと後ろまで正確に伝わるはず。でも「初対面」というのが大事だからそれが「対面」になっちゃったら残念。意識しておこう。