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海、夢、堀本裕樹『海辺の俳人』

あっという間に一時間。若い頃は家族に気を遣われるほど寝起きが悪かったのに今は目覚ましもかけず空が明るくなる頃にはぱちっと目が覚める。家族に気を遣われるほど、と書いたがただ私がぐったりしているのを放っておいてくれただけで、あ、それが気を遣ってくれたということか。週末は大きいものを洗濯して天気予報を信じてしっかり洗濯バサミで止めて外に干したまま出かけた。我が家のベランダは風も強い。信頼って大事だ。夜帰ってくると全部しっかり乾いていた。

久しぶりに海をみた。仕事を終え電車に乗った。沿線で大きなトラブルが起きていたようだったが私の乗る区間には影響がないようだった。一番早く出発する電車に乗ったからそれが遅延していたのかどうなのかもよくわからない。海辺の街の本屋さんに行くついでにぼんやり歩いていると小道から海が見えた。ビーチへ向かう道とは逆方向へ来たつもりだったからうわあっとなった。海なし県育ちなせいかいつになっても海を見ると衝撃を受けてしまう。こっちからもいけるのかもしれない。大通りを歩いた。ふと前の方に親子3人組が現れた。そこに道があるのか。すれ違ったときはお天気の話をしていたようだったが地元の人ではないようだった。休日の役所の前を通り小さな道を見つけた。ドキドキしながら進む。見えた!小道の先に。海が。その道は直接ビーチに出る道ではなかった。

なぜかここまで書いて寝ていた。夢を見ていた。小さな女の子二人がキックボードで渋谷西武の前のような道を人混みをすり抜けて走っていく。車道側に呼び寄せ私たち大人たちの間を走るようにいう。子供たちはキックボードを捨て今度は元気いっぱいに走り出す。私たちも追いかける。飛ぶように走る彼らを妖精のようだと思う。私は大人になった彼女たちを知っている。時折振り向く彼らと言葉を交わす。夢から覚めた。可愛らしく幸せな夢。いつの間に眠りに落ちたのだろう。腿の上のPCは今日は暑くなっていない。扇風機をようやく出して電源を入れた。もっと早く出せばよかったと思うが毎年のことだ。

俳人、堀本裕樹の初エッセイ集『海辺の俳人』のいくつかのエピソードにも影響を受けたのだろう。先日、幻冬舎から出版されたこの本は私の周りでは連載時から話題だった。堀本さんの好奇心とユーモアと小さな発見と豊かな文学的知識に満ちた海辺での生活がモノローグからダイアローグに変わっていく様子は各エッセイの最後に添えられる即興俳句にも見ることができる。その変化は堀本さんを師とするプチ俳人たちの心をざわつかせたりもしたようだった。私は連載を読んでいなかったが彼らの話を定期的に聞いていた。懐かしい。コロナ禍、オンラインで顔も知らない人たちとそんな話をしていたのだ。つまりこのエッセイはパンデミック直前からコロナ禍に書かれたということ。情緒豊かに予測できない日々を送りながら世界を17音に圧縮していく。それと同時に先生に見てもらうためにやってくる数えきれない17音を読み取る。取り上げなかったからといって落胆する必要はない。また淡々と作り続けるだけだ、と堀本さんは言っていた。評価のために表現をしているわけではないのだからそれはその通りだ。コロナ禍に生まれた娘や家族に対する文章を読めば堀本先生の師としての魅力も十分に伝わることだろう。俳句には全く関心のない人にも広く届いてほしい一冊だ。

また近いうちに海へいこう。知らない街の知らない道を目的もなく歩こう。とりあえず今日も一日。今日は7月31日?ああ。31日。がんばろ・・。

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島とか出会いとか

毎日暑い暑い以外の記憶がない。二度寝する合間に洗濯はした。そういえば昨日も月がスッキリ輝いていて「きれい!」とみあげた。目線を上げたら「この木はオリーブ?」とオリーブに気づいた。オリーブといえば小豆島だけど小豆島には本当にたくさんのオリーブが植えられている。木の名前を知らなくても「これはオリーブ!これも!」と堂々と言える素敵な島です。小豆島は醤油造りも有名。私が料理に使う二大調味料はオリーブオイルと醤油なのでありがたい島でもありますね。自転車でいろんな道を走った。地区によって雰囲気が違って楽しかったな、小豆島。

長期休みになると2泊か3泊でいろんな土地へ行くのだけど一応日本の有名な都市は回ったので最近は行くなら島かな、ということで最近だと(といってもコロナ以前)しまなみ海道の島々、淡路島とかにいった。この夏は地続きのところへ行くけど色々行きたいな、島。30年くらい前に行った式根島が楽しすぎたせいで島への憧れが作られたのかもしれない。写真部の合宿らしき集団と同じ宿だった。部屋に鍵はなくお刺身は美味しすぎた。式根島はシマアジの養殖で有名だ。私たちは写真部のちょうどよい被写体だったらしく恥ずかしそうに許可を取りにきたり夜になると花火を分けてくれたりかわいい人たちだった。式根の地図に載っている道はほとんど全て歩いた。人が通った形跡がない道を蜘蛛の巣を祓いつつ、蛇に驚きつつ進んだところに突如ひらけるのが唐人津城。つい東尋坊と間違ってしまうがここには誰もいなかった。ただただ荒涼とした絶景。ここから落ちたら誰にも見つけてもらえないねといいながら海を眺めていると心静かになった。旅に出るとそういう瞬間が増える。これまでの道のりを全く読めないこれからを思い出すでも思いを馳せるでもなくなんとなく感じる。

好きな作家のご家族と話しながらパートナーへの敬意を感じた。数年前にあの席で一緒だったと言われるまではじめましてみたいな感じで話してしまっていたが色々思い出した。ただただ楽しく喋ってしまった。前もそうだったよ、そういえば。親世代の方との素敵な出会いもあった。私が住む街に息子さんが暮らしていたことがあるそうでとても嬉しそうな素敵な笑顔で色々聞いてくれた。その地域の図書館員の方の工夫も教えてくれてその方とも会えた。特に約束もせずたまたま会ったから話すような関係もいい。

今日はどんな一日になるかな。とりあえずすでに暑い。どうぞお大事にお元気で。

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精神分析

ブックレビューエッセイを読むなど。

鳥がよく鳴いている。元気ってことかな。生きてるってことではある。昨晩の帰り道、大きな木から大きく長くジーって聞こえてピタッとやんだ。思わず見あげた。こんなに木があってもそのひと声だけで夜は静かだった。毎朝毎朝蝉がジュワジュワいってると思いながら歩いているけど転がってるのをみるとほとんどメカだなと思う。それと比べると鳥たちの声の主張豊かなこと。なにかな。私にはわからないけど元気ならいいね。

作って冷やしておいた麦茶を今朝も飲む。花火柄のコップで。黒い液体を入れたらもっと夜空の花火っぽい感じになるだろうけどアイスコーヒーくらいが限界かしら、黒に近い飲み物って。麦茶みたいな空の色のときってあるよね。これは何か起きるのでは、というような不穏な空のとき。今日はどうかな。とりあえず暑いだろう、ということはわかるけど。花火はきれいね。

昔つきあっていた人に誘われたけど行列で入れなかった店にはじめて行った。朝は行列はなかった。モーニングセットを食べた。アイスコーヒーと。おいしくなかった。たいていのものをおいしくないとは思わないのだけどここのはおいしくなかった。行列の目当ては多分パフェ。長居してそうな常連も多そうだからそれで混むというのもあるのかな。おいしくなくて安心した。うまくいかなかったわけだ。その人はいつも「話題」を探し振りまくのが得意だった。

昨晩、ポストを開けるとIPAジャーナルが届いていた。ここですでに何度か書いた米国の精神分析家オグデンの一番新しい本の書評が載っている!しかも書いているのはMichael Parsons、すぐに読み始めた。長い。IPAジャーナルの書評はこんなに長く書いていいものなのか、と思って見直したらブックレビューエッセイだった。

精神分析における読むこと、書くことに対するオリジナリティあふれる探索にますます磨きをかける本書の書誌情報はこちら。

Coming to Life in the Consulting Room: Toward a New Analitic Sensibility, Thomas H. Ogden, London and New York, Routledge, 2022, 175pp., £29.99, ISBN: 978-1-032-13264-8

組織から比較的自由な立場で精神分析臨床を続けながら論文や小説を書くオグデンの患者理解は深い。昨日も書いたがそれは理解を超えたところのなにかで存在に関することだ。彼らがいかに自分を存在させることに苦労しているか、それは思わず出る言葉以外で掴むことはなかなか難しいのではないか、というのは私の実感だが私はそれを書くことでしか前に進めないのだろう、オグデンに従えば。

28度設定だと少し動くと暑い。無理せず、とかいっているうちに色々大変なことになっているができない無理はできないからこのままいこう。皆さんもどうぞご無事でご安全に。

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精神分析

日々とか仕事とか

まだ朝の光とはいえ陽射しが強い。明け方の空はもっと弱々しい感じでほんのりピンクがきれいだった。オフィスのそばの銀杏の緑の濃さに迫力を感じながら歩いていたら黄色い葉っぱがパラっと落ちてきた。秋?まだ子どもの葉っぱみたい。見上げた葉の密集ぶりに全く日の当たらない部分ができてしまうからかななどと思った。季節の花々が次々に咲く新宿中央公園でもこの時期はこぞって目をひいていた花々から水が抜け色が失われていく。陽射しにどんどん色を濃くしていく緑の中やそばでもいろんなことが起きている。

同じ曜日、同じ時間にやってくる人たちの話を聞き続ける毎日。人って理解するとかされるとかいう対象ではないと感じる。なんというかそんなこと無理というか。最初はまだ理解するされるの世界にいるというかそうじゃないとどうしていいかわからないからそこに自分をとどめておく感じだけどその人を理解するために二人で協力しようとするとすごい断絶や距離が明らかになることもあれば「あぁ」と二人で同時に同じような感触を掴むこともある。たとえば「みんな死ねばいいのに」という言葉が思わずでたとしたら「みんなって」と聞く人もいるかもしれないけどその時点でその憎しみの向けようのなさを失っていることを知る二人の間での思わずの言葉には反応よりも沈黙。持ち堪えることを二人でする。しつづける。何か別の思考が生じるまでお互いに身を委ねつつ。精神分析の場合、技法っていったってものすごいシンプルで設定と約束事が守られていればあとは延々同じことを続けるだけ。今年はラカン派ではないフランス精神分析の勉強会に出ているがフランスではカウチの使用や頻度は設定の一部ではなるが大きな位置を占めるわけではなく自由連想が精神分析を基礎づけていると考えているらしいと聞いた。たしかにフランスの精神分析の辞典や教科書をみるとカウチで高頻度ということより自由連想をするということで精神分析は定義づけられている。カウチ、高頻度は自由連想という困難な作業を支えていく環境として重要なのだろう。環境あってこその対象の使用というのはウィニコットの理解を借りると実感しやすい。

早朝、昨晩掃いた玄関前の葉っぱをゴミ袋に入れたり結構前に枝切り鋏で落としておいた山椒の木の枝をもっと細かくしてゴミ袋に入れたりしていたら蚊に刺された。こんな格好してたら当然刺されるとわかっていたが玄関を入ればすぐ置いてある虫除けをしなかった。痒い。辛い。昨晩、ひっくり返っていた蝉にほうきが触れたらジジジっていったからまだ生きてると思って今朝まで放置していた。今朝はもう動かなくなっていた。

猛暑猛暑。今日も気をつけていきましょう。

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精神分析、本

関わったら見守る

麦茶をゴクゴク。水分!でもあまり減らない。けどまた作った。水分とっていきましょう。さっき窓を開けたけどあまり風を感じず閉めて冷房をつけた。滑る窓だから気をつけながら。ベランダに一歩でもでれば風を感じたかもしれない。風の通り道に立てるかどうかはその一歩の違いが大きいときもある。まあいい。今朝も早くから仕事だ。

嘘つきな愚痴り上手って言葉、なんか変かもと思いつつ使った。嘘つき「で」愚痴り上手でもいいのだろうけど嘘ついて人傷つけておいてなに上手につらがっちゃってんの、という意味であれば前者の方がしっくりくる気がする。言葉は感覚の問題だけど調べていくと意外と本質的な差異にもとづいた判断してたりもするから無意識ってすごい。

先日、『「日本に性教育はなかった」と言う前に
ブームとバッシングのあいだで考える
』堀川修平著(柏書房)刊行記念イベント、松岡宗嗣×堀川修平「性教育から考えるバッシングの過去・現在」をアーカイブ視聴した。性教育の歴史や実態を知るうえで大変勉強になったがこういうのは内容よりもなぜそれらをあえて言っていく必要があるのかという当事者やそれに関わる人たちの切迫感を受け取ることで学び続けることが大事なんだなと思った。すぐに「自分とは関係ない」という態度をとりがちな私たちという指摘を聞き流してはいけない。みんな関係あるのだから。一度関心を向けたならその先を見届けよう。見たくないものは見ないことができてしまう私たちだからこそ。自分が嘘つきであることだってすぐに忘れてしまう私たちだからこそ。いやもちろん「そんなつもりはない」のだけれど。

眠い。今朝も早くから仕事。月末事務仕事もイヤイヤやろう。今日は木曜日。

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精神分析

Reading Freud’s Patients Memoir, Narrative and the Analysandなどに関するメモ

COURRiER Japonのフロイトに関する記事の原文が読みたいな、と思っていたら山本貴光さんがくっつけてくれた記事を見つけた、と以前Twitterに書いた。そのメモをまとめておく。

ハアレツ紙(イスラエルの有力紙)に掲載された記事(英語版)はこれ。

Ofer Advert, “Angry Outbursts and Erotic Insinuation: What Freud Was Really Like”(2021.08.05)

https://haaretz.com/world-news/.premium.MAGAZINE-angry-outbursts-and-erotic-insinuation-what-freud-was-really-like-1.10089349

記者のOfer Aderetも取材されたReading Freud’s Patients Memoir, Narrative and the Analysandの著者アナト・ツール・マハレルもおそらくフロイトと同じくユダヤ人の歴史を共有していると思いつつKindleでこの本を読んだ。

この本に出てくるフロイトの患者たちはフロイトの伝記などにも登場するがこちらが読みやすいかも。

『フロイト : 視野の暗点』 Breger, Louis著,里文出版

患者の体験を通じてフロイトの精神分析実践を垣間見ることができる本で最近書かれたのがThe History of Psychoanalysis Series,のAnat Tzur MahalelのReading Freud’s PatientsMemoir, Narrative and the Analysand(Routledge, 2020)である。この本はWinner of the 2021 ABAPsa Book Prize Awardを獲得している。

それ以前だとBeate Lohser&Peter M. Newtonの”Unorthodox Freud The View from the Couch”しかなかったそうだ。高価な本だが試し読みができる。

https://www.guilford.com/books/Unorthodox-Freud/Lohser-Newton/9781572301283/reviews?utm_medium=social&utm_campaign=share-widget&utm_source=twitter.com

ちなみに『心の革命  精神分析の創造』(みすず書房)のジョージ・マカーリがこのLohser&Newtonの本のレビューをIPAジャーナル(1997)に書いているが、翌年には著者のPeter Newtonがこのレビューを a careless review だとして”Dear Sir,”で始まる文章を寄せていり。書いていることとやっていることが違うのでは問題、に対する読者の誤解に対する懸念、というか「ドイツ語でフロイトを読める私たちとしては」とストレイチー訳を批判しつつ書かれた手紙(?)は興味深い。

一方、Anat Tzur Mahalelは文芸批評の手法を取り、回想録の別の読み方を提供してくれル。

この本の「シリーズ編者による序文」はPeter L. Rudnytsky。フロイトが息子のように愛した精神分析家フェレンツィの『臨床日記』を重ねながらの紹介にしみじみした。https://www.msz.co.jp/book/detail/08695/

これまで患者の書き物は分析家のそれより周辺的な扱いを受けてきたがAnat Tzur Mahalelは患者の回想録を「精神分析文学」として文芸批評の対象とし、The author-analysandsたちを個別の患者というより「フロイトの患者」というグループとして扱う。

精神分析実践は、「メジャーな言語」に束縛されたマイノリティである自分が「ある言語の内において、その言語の外に出る」ことといえる。著者は序文でドゥルーズとガタリが見出した「マイナー文学」を引用し、フロイトの患者による回想録もそれとして理解することの意義を記す。

cf.1.叢書・ウニベルシタス 1068『カフカ マイナー文学のために〈新訳〉』      2.ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ著, 宇野 邦一訳『ドゥルーズキーワード89』 堀 千晶&芳川 泰久(著) せりか書房

著者がドゥルーズ&ガタリ『カフカ マイナー文学のために』から引用するのはここ。

「穴を掘る犬のように、巣穴を作る鼠のように書くこと。そのために自分自身の未開の地点、自分自身の方言、自分だけの第三世界、自分だけの砂漠を見出すこと」

ー第3章「マイナー文学とは何か」33頁

引用はされていないけれどここも大事かと。

「マイナー文学の三つの特性とは、言語の脱領土化、個人的な事項がじかに政治的事項につながるということ、言表行為の集団的アレンジメントである。」

「偉大なもの、革命的なものは、ただマイナーなものだけである。」

ー第3章「マイナー文学とは何か」

アナト・ツール・マハレルの本では当然オグデンも登場する。聞くこと、書くこと、夢見ることについて考えるときには必ず引用される論文はこちら。邦訳も出ているはず。

Ogden, T. H.

 “A Question of Voice in Poetry and Psychoanalysis.” Psychoanalytic Quarterly 67, 426–448. (1998).

The History of Psychoanalysis Seriesといえばこの本もそう。

『アタッチメントと親子関係 ーボウルビィの臨床セミナー』(金剛出版) ボウルビィ著  バッチガルッピ編  筒井亮太訳 のなかでボウルビィも言っている。

「患者の報告する実体験に敬意を払うこと、それがきわめて大切だと思います」

ミラノ・セミナーでの言葉だ。

Series EditorsはBrett KahrとPeter L. Rudnytsky。「シリーズ編者による序文」でブレット・カーも引用している箇所だ。

https://routledge.com/The-Milan-Seminar-Clinical-Applications-of-Attachment-Theory/Bowlby-Bacciagaluppi/p/book/9781780491677

https://kongoshuppan.co.jp/smp/book/b587826.html

さて、最初に登場するのはアメリカの精神科医、Joseph Wortis

02. Fragments of an Analysis with Freud by Joseph Wortis: Criticism and Longing

フロイトの被分析者の体験談の多くは1970年代にでている。しかしWortisは分析が終わって5年後、フロイトが亡くなって数ヶ月に早くも回想録を書いた。

この題名はもちろん「あるヒステリー分析の断片」(1905)=症例「ドーラ」と関連している。

患者が体験を早急に第三者に開きたくなるのには理由がある。端的にいえば、彼にとってフロイトとの分析がbad analysisだったからだろう。

しかしそれを「書く」行為が明らかにしたのは単に精神分析がもつ限界だけではなかった。常にongoing であること、著者は、この本であとから登場してくるH.D.の体験を素材に無時間性に関する学術論文も書いているが、そこでの議論とも通じるように思う。

ジョセフ・ウォルティスの『フロイト体験 ーある精神科医の分析の記録』(1989,岩崎学術出版社)は前田重治先生監訳。前田先生は東京で分析を受けていたときに古澤平作先生に本書を紹介されたと「解説」で書いている。

前田重治先生はご自身の体験も本にされているし、おすすめしたいご著書はたくさんあるけどきたやまおさむの歌を知っている人なら誰でも楽しめるのはこれかも。

→「良い加減に生きる 歌いながら考える深層心理』(2019, 講談社現代新書)著:きたやまおさむ&前田重治

前田重治先生の『「芸」に学ぶ心理面接法 初心者のための心覚え』(誠信書房)も。

ジョセフ・ウォルティス『フロイト体験 ーある精神科医の分析の記録』の次にminor textとして取り上げられるのはS.ブラントン『フロイトとの日々ー教育分析の記録』(日本教文社、馬場謙一訳)。

03. Diary of My Analysis with Sigmund Freud by Smiley Blanton: From a Deadlock of Silence to the Act of Writing 

ブラントンの回顧録は妻のマーガレットにより編纂されたもの。この本をざっと読みながら元の回顧録や症例研究にあたるなかで精神分析体験に第三者が関わることのリスクについても考えさせられるだろう。ブラントンのこの本も前田先生の覚え書も目を逸らしつつ読む感じになってしまった。

 ちなみに前も書いたがOgden,T.H.の関連論文と翻訳本もメモ。

 “On Psychoanalytic Writing.” International Journal of Psychoanalysis 86, 15–29. (2005).

“Reading Harold Searles.” In Rediscovering Psychoanalysis: Thinking and Dreaming, Learning and Forgetting. London and New York, NY: Routledge, 133–153.(2009).

オグデンの著作で訳されているのは多分これらです。

2冊目『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』5冊目『もの思いと解釈』6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』

Rediscovering Psychoanalysis  Thinking and Dreaming, Learning and Forgetting→『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳、 木立の文庫) 

The New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊も出た。それについてはすでに書いた

このシリーズはクライン派の本は結構訳されていると思う。独立学派は昨年でたハロルド・スチュワートと同じくスチュワートが書いた『バリント入門』。

以上メモ。関連の本を読んでいるのでこちらに付け足すかも。

資料作るの忘れてこんなことしてしまった。作ろう。

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精神分析

身体、環境

昨晩のベランダも気持ちよかった。今朝も気持ちいい。冷房もつけていない。これから暑くなるのだろうけど。麦茶を作っておく季節にもなった。出かけるまでに冷まして冷蔵庫に入れないといけないけど時間がない時にはたくさんの保冷剤を巻き付けるようにして冷やす。ある映画でカエルがたくさんよじのぼって身体を埋め尽くしていく場面を見たけどあんな感じ、でもないな。今ちょっと思い出しただけ。両生類というのは不思議な生き物だよね。私たちも本来そんな感じなんだろうけど。昨日世界水泳に出るような人の身体の特徴についても聞いてやっぱり生まれ持った身体が違うんだなあと思った。

精神分析家のウィニコットは環境も遺伝だと言ったのだけど、これってこれだけ書くと「えー」と思うと思う。説明されれば「ふーん、そうなのかあ」と思うのだけど、と書きながらここでは詳細書かないけど(本がそばにないので私の説明ではさらに曖昧になる可能性がある)どうして誤解されないそうな言葉でそういうこといったんだろ、と思ったりする。こうやって引っかかる人が出てきて「どういうこと?」って探索するからいいのかな。かまってちゃんパターンとは違うんだと思う。ウィニコットはgood enoughな注意を向けることを前提にしている人だから。かまってちゃんパターンはその注意の不足が前提にある。

寝不足なわりに何も進んでいないしもうだめだー。と毎日なってるけど今日も始めましょう。今日は火曜日(確認)。

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仕事

大暑、すもも

昨晩は久しぶりにベランダでゆっくりした。少し冷えるくらいの風は部屋に入ってしまうとあまり感じられずまた外に出た。昨日は暮れゆく空をキレイキレイ言いながら帰ってきたが夜の青もとてもきれいで西の空には弓形の月が爽やかに光っていた。とても気持ちよかった。昨日7月23日は二十四節気でいう大暑。一年で最も暑さが厳しくなる頃。8月7日頃までをそういうがその後も暑いは暑いだろう。ふと「あ、秋の風だ」「秋の空だ」と感じる日も遠くはないのだろうけど。昨日はあまり間をおかず二つのグループの事例検討会をしていたので外に出たのは夕方だった。歩いて新宿に出ると浴衣の人もちらほら。私のオフィスからは神宮球場の花火が見える。この時期はヤクルトスワローズ主催試合の5回裏が終了すると花火が上がる。たいていは音を聞くのみだけどこの前はグループのみんなに見せることができた。思わず大きな声をあげていた。夏だ。

7月20日にはすももをもらった。その日は府中の大國魂神社の『すもも祭』だったそうだ。11世紀半ば、朝廷から派遣された源頼義、義家父子が、奥州安倍氏平定(前九年の役)に向かう途中、大國魂神社に戦勝祈願、戦勝御礼詣りをした際の神饌の一つが李子(すもも)だったとのこと。そこからすもも市がたつようになったそうだ。赤い網に入った少し緑がかったすももは2、3日常温でということだった。もういいかなと冷蔵庫に入れて今朝いただいた。すもも、久しぶり。千歳烏山に住んでいた頃、八百屋さんで「すももだー」と喜んでいたらソルダムという品種を教えてもらってその素敵な名前にも盛り上がって買って帰った。今日いただいたすもももソルダムだそうだ。皮が少し厚かったので剥いた。飴細工のような艶やさと赤ともオレンジともいえないような美しい色に感激。かぶりついたときの絶妙の酸っぱさも懐かしい感じで子供の頃を思い出した。

昨日はとても丁寧な議論ができた。現場の「慣習」として意識していないことも外の目を借りればその違和感に気づける。環境と対象の使用についても話した。外からは見えないその人の痛みや苦しみがどんなものか、それがどうなることが「良い」のか。終わりのない問いばかり。だからこそ話し合う。その時点ではそういう感じなんだ、ということの積み重ね。今日も一日。

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精神分析、本

『まんが親』、フロイト技法論集から「勧め」論文。

おなかが気持ち悪い。おなかすいてないのに食べたのがいけない。すいてないなら食べなければいいのだけど食べないわけにもいかないのよね。食べてる間はおいしいし。あとでこうなるのもわかってるけど。

昨晩も今朝も吉田戦車の『まんが親』を読みながら時折声を出して笑っている。ほんとこどもあるあるで面白いんだけどさすが漫画家は子育てに苦労しながらも子供の言動をメモしてネタにしてるのね。面白いと思ったものを掴むのがうまいからこっちも面白いけど「え?そこ?」みたいなことを書く人がいたらいたらで面白いかもしれない。が、子供の言動こそが「え?そこ?」に満ち溢れているからどこを拾ってもあるあるとして面白いのかもしれない。大人はつまんねーな、と言ったところでおれも大人だし、というか相当大人。若くはないが私よりはずっと若いみなさんに教える立場になってからもそこそこの年数が経つが一方でまだ訓練途上でもある。分析、スーパーヴィジョン、セミナーの三本立て。そして毎月のミーティング。セミナーはもう規定時間数は修了しているが勉強に終わりなしなので今も参加することもある。先生方の教え方からも学ばないといけない。

昨晩は私が主催するReading Freudで『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)の「治療の開始について(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)」(1913)を読んだ。先月読んだ「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)の続きとして読める。「精神分析を実践する医師への勧め」の22−23頁でフロイトは患者に自由連想を要求する精神分析を実践する医師であるならば患者と同じように以下のような態度を維持する必要がありますよ、ということを書いている。単なる技法の羅列ではなく、これこれこうするならばこれだってそうなのだからこれこれこういうふうにすべきでしょう、みたいな書き方をフロイトはよくしていると思う。説得力がある。

「単に何か特別のことに注意を向けることなく、耳にするすべてに対して(私が以前に名付けたものと)同様の「平等に漂う注意」を維持することである。」

「すべてに等しく注意を向けるという規則が、批判や選択なく思いついたことをすべて話さなければならないという患者への要求に対する必然的な対応物であることはわかることだろう。」

「医師に対する規則は、次のように表現することができるだろう。「自分の注意能力に対してあらゆる意識的な影響を差し控え、自分の『無意識的記憶』に完全に身をゆだねるべきである」。あるいは純粋に技法的に表現するならばそれは「やるべきことはただ聞くことであり、何であれ覚えているかどうかに煩わされるべきではない。」

など。これに続いて記録をとらないことの勧めも理由つきで書かれている。そして私が最も好きな一文もそこに。

「一方、最もうまくいくのは、言ってみれば、視野に何の目的も置かずに進んでいき、そのどんな新たな展開に対しても驚きに捕まってしまうことを自分に許し、常に何の先入観ももたずに開かれたこころで向き合う症例である。分析家にとっての正しいふるまいとは、必要に応じてひとつの心的態度からもう一方の心的態度へと揺れ動き、分析中の症例については思弁や思案にふけることを避け、分析が終結した後にはじめて、得られた素材を統合的な思考過程にゆだねることにある。」

この論考の後半は分析を行なう人は自分も分析を受けるべきだということがいくつかの観点から書かれている。

「他の人に分析を行おうとする者は全員、あらかじめ自分自身が専門的知識をもつ人に分析を受けるべきである」

「自分自身のこころのなかに隠されたものを知るようになるという目的が、はるかにより素早くより少ない感情的犠牲で達成できるだけではない。書物から学んだり講義に参加したりすることでは決して得られないような印象と確信とが、自分自身とのつながりにおいて得られるのである。」

など。21頁から33頁、全部で21段落。コンパクトだ。

昨日読んだ「治療の開始について(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)」(1913)は35頁から61頁、全45段落。前の「勧め」論考の2倍近く頁を割いて「さらなる勧め」をフロイトはする。

こちらは「治療の開始について」とあるように分析を実践する医師の基本的な態度というよりは初回面接や治療初期の段階における設定や患者も疑問に思うであろう事柄(お金や時間)に対する態度について詳細に書かれている。まさに今日、私がグループで中堅のみなさんと話し合う事柄だ。

そろそろNHK俳句の時間だから細かく書かないけど「まずこれ読んで」と言いたい。

それではどうぞよい一日を。

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朝、読書、漫画

お隣のガラガラが聞こえた。朝には朝のパターンがある。ソファで断続的に寝る起きるを繰り返してしまった。全然朝という感じがしない。身体が昨日の夜のまんまという感じ。リズムを崩すとパターンも崩れる。夏休みに一気に体調崩さないように(ありがち)用心せねば。健やかな毎日を送りたいのさ。

今週は芥川賞、直木賞が話題になるなか寺山修司を読んでいた。大雑把に言えば思春期に俳句、その後に短歌、その後演劇、と表現の場を変えていった寺山修司。個人的な興味は彼の演劇にあるが作品として強烈なのはやはり短歌。『寺山修司全歌集』の後半は特に圧倒される。それにしてもこの人も母に対する想いの強さのハンパなきこと。この人「も」と書いたのは宮崎駿の『君たちはどう生きるか』をみて宮崎駿にもそう感じたから。この題名、覚えられないんだなあ。誰かと話すとき直されてばかり。今もきちんと書かなければと確かめるために「なぜ君は生きるのか」で検索してしまった。重なってはいるけど全然違った。別の本が検索結果に表示された。でも「なぜ君は生きるのか ジブリ」で検索したら「君たちはどう生きるか」が出てきた。よかった。映画もとてもよかった。冒頭、主人公が走るシーンが一番好き。もう最初から母への想いに貫かれているように感じた。感動はそこからというわけではなくこれまでのどのジブリ作品にも描かれてきた疾走シーンと違って今回は死にゆくものの生命の力をすごく感じてものすごく感動した。昔話の王道ともいえる仕組みも散りばめられていてとても楽しくもあった。それにしてもジブリ作品に出てくる料理はいつもなんて美味しそうなんだろう。特にパン。あのパンとバターが食べたいよー。

子供たちはもう夏休み。親たちは大変だ。みんなで子供を見る仕組みができたらいいなと思う。私はNPOで活動していたときにそういう環境が普通にあることを知ってその結果赤ちゃんの頃から知っている子供がたくさんいる。余裕があると成長って面白いと思えるけど親だけで見ていたらルーティンを確保するので一杯一杯だろう。うーん。実用的な助けにはならないけど吉田戦車の『まんが親』を子育て中のみなさんに贈ってあげたりするのはいいかもしれない。ここだけ抜いてもわかりにくいかもだけど「超正しい子供理由!」とかすごく共感できるエピソードばかりだから。

大人も子供もそれぞれ色々あるけどとりあえず無事に過ごそう。良い週末を!

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フロイト読書会など

暑い!と言おうとして「うん?そうでもないか」となるような気温ですね、今日は。表示は30度だけど。あっつい紅茶を飲んでも汗をかきません。代謝の問題だったりして。今日は和菓子処かわはら「横浜銘菓 港の丘」とFIkaのとてもかわいいクッキー。たくさんあったかわはらのお菓子はこれでおしまい。ご馳走様でした。美味しかったです。Fikaのクッキーは箱もとても可愛くていただくととても嬉しい。クッキー好きさんへの贈り物にもはなまる。

昨晩はフロイト読書会のアドバイザーでした。やっぱり最初からしっかり読んでいくと概念の成り立ちの最初から追えるせいか以前読んでいたときよりも緻密だし修正もきく。立ち戻るポイントをいくつも持てるようになると理論を自分仕様に変えてしまう心配は減るから地道って大事よね。精神分析なんて毎日のように延々同じことをやり続けていてひどく不毛な一方でそれを不毛というにはあまりにいろんな作業を自分の見えない部分がしていて反復はただの物語では全くなくなりまさに今ここで治療者と患者が起こす出来事となる。言葉だけではとても表現できない、自分を超えている何かが自分を強く動かすことがあることをお互いに実感する。フロイトは多くの患者との臨床体験において目の前の患者に大きく心揺さぶられただろう。それは「大変だった」「びっくりした」「辛かった」というような感情体験ではなく自然の驚異みたいなもので届かなくとも自分もその一部として探究せざるを得ないことだったのではないか。本当に大きく揺さぶられることがなければここまでのことはできない。言葉でならなんだって言えるがその言葉が実感とどう結びついているかは非常に重要だろう。精神分析の設定もその揺さぶりに持ち堪えるためにある。環境の準備がないところでお互いの生身の感情が動くとしたらそれは暴走しやすいし破壊に繋がりやすい。思いがけないことはどうしても起きてしまうし自然破壊のように環境破壊を繰り返したりもするがなすすべなしにはしない。共存とは何かを考える。そんな感じ。

ビリー・ジョエルが来日するという。16年前の東京ドーム、行きました。アルバムもほとんど持っていたけど意識的にものすごいファンとかではなかった。それだけ聴いてたらファンなのでは、と自分でも思うが意識的にはハードロックバンドに夢中だった。みんな長生き、というのも変な表現だけどこの歳になると死は遠い世界の話ではない。コロナのせいもあるだろうけどまだ生きててくれてたんだ、と思うことは増えた。私のためにではなくても誰のためでもなくてもそう思う。誰かの死について考えようとしてもその人やその人の周りの生について考えるしかないのだけどなんだかいろんな気持ちになりますね。

今日は金曜日。どうぞお大事にお過ごしください。

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読書

かつしかけいた『東東京区区』

部屋は涼しくも暑くもないけどこのルイボスティーを飲んだら暑くなってしまう。飲みたいけどちょっと我慢。フルーツを先にいただいて水分補給しました。もうすでに熱中症っぽい症状に何度かなっているが水分補給って難しいなと思う。水分取ってもずっと暑いところにいたらだめみたいだし意識しているのだけどどっかで注意が足りないのかしら。私は一人だとあまり冷房つけないからそれもいけないのかもしれない。あ、隣のおうちの雨戸がガラガラ音を立ててる。おはようございます。昨日は芥川賞と直木賞の発表直後に本屋さんに行ったのだけど店員さん走ってた。市川沙央さんの『ハンチバック』、受賞おめでとうございます。早速「芥川賞受賞作!」という札がピンで止められていた。「(賞の)発表があったばかりだから」と店員さんは慌ただしく動きながら営業の人に遠くから大きな声で謝っていた。営業の人もなすすべなしという感じで帰っていった。ここの店員さんはとても親切だけど多分そんなにキャパが広くない。聞き慣れた声を聞き、時折走って通り過ぎる店員さんを見送りながら賞の発表があるって大変なことなんだなと思った。

先日から紀伊国屋書店新宿本店で大きく場所をとって紹介されているかつしかけいた『東東京区区』もやっと買えた。noteに書いたけどこの前から紀伊国屋書店に向かう地下道からの入り口が閉鎖されていてこの暑いのに地上を行かなくてはいけないのです。駅から近いけど。閉鎖されているのを忘れてまた地下から行ってしまった。もー。あまり考えず1階、2階、3階をうろうろしていろんな話題の本をみながら「ないなあ」と思って確認したら8階だった。そうか、コミックだものね。コミック売り場ですよね。ありました。サイン本は有人レジで(私はセルフレジ使うの下手だからどんな時も有人レジだけど。友人レジってうっちゃった)とあったから聞いてみたらありました。サラさんのイラストだー。サインと一緒に描いてくれてました。サラはインドネシア人と日本人の両親のもとに足立区で生まれたそう。大学生でイスラーム教徒です。このおはなしはサラさんが葛飾区立石のエチオピアのカフェに立ち寄るところから始まります。そこで出会ったのがカフェを営むエチオピア出身のお母さんと小学生のセラム。二人が道に迷っているときにこれまた偶然葛飾区亀有に住む中学生春太と出会います。お散歩友達になったこの3人が東東京を散策しながらその歴史やそこでの人々の思い出、それぞれの考えと出会っていくこのマンガ、街の描写もリアルでのんびり念入りに散歩したくなりました。東東京、いわゆる下町には馴染みがあるので知っている景色もたくさん。でも全然知らなかったということばかりで(登場人物たちでさえそうでした)とても懐かしく興味深くこの本のルートを休みのお散歩コースにしようとか、句友たちと吟行もいいなとかワクワクしながら読みました。立石図書館、小岩図書館も出てくるし区の図書館やこの地域の学校の図書室に置かれるべき本かも。こうやって自分たちのいる場所、育ってきた場所を知れたらとてもいいと思うのです。

最近ノスタルジックになる本ばかり手に取っている気がするけど自分の体験に沿ってくれる素材があるってありがたいことですよね。外部記憶装置としても本に助けてもらっています。話題になる本ばかりではなくそれぞれがそれぞれに気になった書物と良き出会いをもてますように。涼しいお部屋で隙間読書を楽しめたらいいですね。それでは今日もお気をつけてお過ごしください。

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お菓子 散歩 精神分析

寄り道、新ハムレットオンデマンド配信、カチカチ山

暑い。でも朝はまだ冷房が効くのが早い気がする。今朝のリビングは31度だった。28.5度設定。0.5度ずつ変えられるようになったのっていつからだろう。その差をどのくらい身体がキャッチしてるかわからないけど。

隙間時間に友達とおしゃべりして連れてきてもらった道を戻るのではなく神社のほうへ。あ、通りの名前は知ってる。この通り、この前も見たけど繋がってるってことか、と陽射しを辛がりながら歩く。明らかにこの前通ったばかりみたいな景色だがこれはどっちにいけばいいんだろ、と左へ。あ、いつも突然現れる美術館はここかあ、行くときはのんびり寄り道しながらいくから全然道を覚えない。知っている道なのに知らない感じ。ここはどこだろう、と思ってると間もなく馴染みの景色へ。別の駅から帰りたかったのに降りた駅に戻ってしまった。あーあ。都会は難しいな。美味しそうなお店も見つけたけどまた偶然通りかかるまでは忘れちゃうな、きっと。その時はもっと時間があって偶然お腹も空いていますように。寄りたい。

五戸真理枝さん演出で6月、PARCO劇場で上演された 『新ハムレット〜太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?〜』が今日から7月25日(火)までオンデマンド配信とのこと。劇場なんて遠くて行けなかったよ、みたかったよ、という人はぜひチェックしてみてください。太宰の命日である「桜桃忌」にはすごくかっこよくてすごくうじうじしたハムレットを演じた木村達成とこんな舞台を作ってしまう天才、五戸真理枝のアフタートークショーも収録されているとのこと。舞台の3分の1のお値段です。夏の夜のシェイクスピア、太宰のハムレットはやや暑苦しいけど女たちも魅力的。

太宰といえば河口湖町にカチカチ山(天上山)というのがあってハイキングにもいいしロープウェイでも山頂に行けるのだけど山頂も色々遊べて楽しいの。たぬき茶屋もあるしかわらけ投げもできる。もちろん太宰のカチカチ山の場面を辿れる場所もありますよ。面白いです。

今朝は太宰繋がりで河口湖土産、私的(多分多くの人にとって)No.1のフジヤマクッキー。オンラインでも買えるけど現地からきたそれらは少し山頂の雪が溶けたりしていてそれはそれで趣というもの。今回も美味しいです。

はあ、パソコンあっつい。熱い紅茶も飲んじゃったからあっつい。きれいさっぱりして出かけましょう。でもきっと外に出るなりダランデロンってなって電車でキンキンに冷やされてまたダランデロンってなっての繰り返しだろうけどね。毎日ぐったりしがちやわ。みなさんもどうぞお大事にお過ごしください。

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散歩 読書

カフェ、アイドル、比嘉健二著『特攻服少女と1825日』(小学館)を読み始めた。

暑すぎる日に寒すぎないカフェを探した。土地勘のある場所だから使い勝手のいいカフェの寒さは大体知っている。あそこなら、と思って自動ドアを入ったらさむっ。入った途端にさむっ。やっぱりやめよう。涼みに入ったみたいな感じになった。ならあそこは、とまた少し歩く。え、ここ2階だったんだ、地下だと思ってた、というと2つあるんじゃない?と言われた。なんだその発想は、と思ったらそばに同じ薬局が2つあったからという。なるほど。ほんとなんでこんなそばにね。でもこの薬局、わりと2軒の距離が近いところにあったりするよね。カフェは2階にしかなかった。お互い10年ぶりくらいかもと話しながら大きい4人掛けのテーブルへ。寒くない。やったー。気楽に動きすぎて上着を忘れたのだ。超寒がりの私は定期を忘れても上着は忘れないのに。どこもかしこも寒いでしょ、夏は。週末は外でぼんやりしすぎて熱中症っぽくなってダウンしたけどね。夏生まれなのに全然上手に過ごせない。体調の崩し方も歳とって変わってきてるし困ったもんだ。

遠くでアイドルグループが歌うのを大きいパラソルの下からぼんやり眺めていた。ご当地アイドルとして自分たちで店のプロデュースもしながらいろんなところでライブをしているとのこと。自分たちプロデュースのライブ場所を持っているのはすごいよなあ。小さな野外ステージを降りるなり物販。手売り。遠くてあまりよく見えなかったけど踊りがザ・アイドルという感じで「推しの子」を思い出した。この暑いのにめちゃくちゃ動く。すごい。名前紹介とかもパターンが決まってるよね、グループって。すごいリズム。それに呼応して客席からあがる野太い声。ほお。様式美、といえば比嘉健二著『特攻服少女と1825日』(小学館)をKindleで読み始めた。体調を崩すと活字も読めなくなるがなんとなく読む気になったので安心した。

表紙がすごくいいのはKindleでもわかる。内容は出版社のサイトを見てほしい。ためし読みもできる。暴走族とヤンキー、レディース、田舎の山の麓育ちの私にはとても身近だが今はもうその形式自体古いのだろう。彼らの面子を重んじるあり方や様式美を渋谷センター街に見出すことは難しい。コギャルだってもう昔の話だろう。加害とか被害とかいうわけ方も知らず性愛と暴力に翻弄されるような10代の居場所探しの日々が意外なほどゆったりした時間感覚で著者自身の本作りの歴史と並行して書かれているこの本にひたすらノスタルジックな気持ちになるのは世代ゆえか。体調ゆえか。レディースと名乗ったティーンズたちは大人になっても魅力的だ。そう描かれる。文章に勝手に著者の想いを想像してはやはりノスタルジックな気持ちになった。居場所という言葉も苦手だがこの本にはしっくりくる。しかしまだ途中。

今日もすでに暑い。昔の夏の思い出を語ったりしよう、寒すぎないカフェとかで。どうぞお気をつけて。今日は火曜日。忘れないように(忘れそう)。

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コミュニケーション 精神分析 読書

問う

問われることを極度に嫌う人が問いを大切にするのはなぜかという問い。問いって本当に終わりなきもの。一問一答が見えなくしているものについてはこの前のグループでも話し合った。一問一答で問いを狭め仮の答えを欲しがっているとしたらそれはなぜか。こぼれ落ちるものが増えるだけとわかっているのに余計なことをしてしまうのはなぜか。子供といると「なに?」「なんで?」とよく聞かれる。泣き叫ぶ赤ちゃんにこれかなあれかなと何かを提示しても泣かれるばかり。なすすべなしと「うんうん、やだね、泣いちゃうよね」と抱っこしていると指しゃぶりを始めたりさっき拒んだおもちゃを気にするそぶりを見せたり。答えってなんだろう、と問いはいくらでも出てくるが答えってなに?「適応」ってなに?というのもよくある問い。誰に?何に?あなたに?社会に?あなたが社会ってやつ?「逸脱」ってなに?何から?どこから?あなたのルールから?お互いにお互いのこと考えたらそんなに差はできないはずだよね。いろんなことは差異で語ってるんだよね、私たち。みんな違ってみんないい、とか悪いとかではなくてとりあえずみんな違う、ただそこからなんだよね。違う?永遠に問いの型にすることはできるのだけどどっかで答えを決めたいね、仮でいいから、という場合もある。同じ、違うというマッチング課題は具象と抽象の行き来を見ることもできるけどずっとそこでゆらゆらしていられないことってある。朝がきたら仕事行かなくちゃ、学校行かなくちゃ、とか実際それをするかどうかはともかくなんらかの「次」っていつも準備されていてプレシャーをかけてくる。身体を自由に動かせなくなってしまった人と目で話す。これ?こっち?次は?これ?・・・と繰り返す。目の光を追っているような気がしてくる。それがいつの間にか言葉になる。できるだけ言いたいことと近い言葉でありますように。願いながら問い、仮の答えを探し、それを繰り返しなんとなくのまとまりを一緒につくる。言葉にならないものが言葉になっていく。それが正しいか間違いかはともかくとして。「クィア・アイ in Japan!」の印象的なシーンを思い出す。プライベートな関係は外からは見えないもので溢れてる。だからプライベートなわけで自分のあり方に侵入されない場所がないと人は壊れてしまう。ウィニコットのいう「孤立」がありうる場所を。問いの基本は相手がいるということ。=言葉があること。耳が聞こえない親である斎藤陽道さんご夫妻と子供たちの関わりを描く斎藤陽道さん原作のNHK Eテレの手話アニメーション「しゅわわん」で斎藤さんが「好き」という手話の起源を考えるシーンがあった。人はなぜ起源を考えるのだろう。なぜルーツを探るのだろう。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)の著者は流刑地を辿りながら追放された3人が見たであろう「陸の端とその先の果てしない海」を眺める。そして自分がここにいる理由を見出す。「存在するものはすべて、なんらかのかたちで痕跡を残す。(中略)ここでは、ほかの場所では不可能なかたちで、その人たちを取り戻すことができる。」私たちは、相手や別の可能性を想定する問うという行為を言葉以前からしてきた。ウィニコットのいう「孤立」はその源泉なのだろう、ということに仮固定しておく。そして次へ。きっとまたここへ。その繰り返しを問いとともに。今日はお休みの人も多いだろうか。すでに暑いけどどうぞお気をつけて。お大事にお過ごしください。

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散歩

魚の匂い、散歩

リビングへいったら魚くさかった。自動的に南側の大きな窓を開けた。あれ?昨日魚なんて食べてないぞ、とあとから思う。バタバタと家事をして落ち着いてみると魚くさくない。匂いの方に合わせて魚を焼いた気になってしまったが夢の続きだったのかもしれない。夢も覚えていないけれど。

先日ランチをして歌舞伎町から区役所通りに出て鬼王神社で水琴窟の音を聞き小泉八雲記念公園へ。お花の綺麗な小さな公園。今日は小さな通路に食パンが何枚もばら撒かれていた。「誰、こんなに散らかして!」と袋をもった人が片づけにきた。そばで写真を撮っていた人を見上げるとその視線の先には鳩たちが絵みたいに並んでいた。私も写真を撮って角を曲がるととても色白のきれいな人と大きなカメラを持った人が出てきた。松江城の裏にある小泉八雲記念館もまた行きたい。城山公園内には稲荷神社がある。所狭しと狐がいる景色は圧巻だ。八雲の散歩コースだったそうだ。明治通りを渡り戸山公園へ。明るいコープの前を通り高齢の方々数人がぼんやり座る前を通り大きな団地のなかをいく。昭和に戻ったかのような風景はすぐに木々に変わる。箱根山公園は山手線の内側では最高峰の築山。標高は44.6メートル。頂上で風に吹かれた。水遊びを楽しむたくさんの子供たちの声を聞き木々の写真を撮りながら早稲田口へ。早稲田大学の演劇部らしき人たちが本を片手に集まっていた。早稲田駅を通り小道へ。坂が多い。しばらく歩き新宿区立漱石山房記念館へ。夏目漱石が生まれ、亡くなった土地。多くの草稿や装丁を見ることができた。二階の壁には作品の断片がバラバラと展示してありも懐かしく印象深くまた読み直したくなった。一階にはブックカフェもあり漱石が読んだ洋書なども読むことができる。それなりに長居したがもっとゆっくりきたい。猫はかわいい。等身大の漱石人形とお話をしているかのような写真も撮った。本当にお話してみたかった。

なんとなく散歩の記録を書いてしまった。焼いてもいない魚の匂いから頭の中を辿っていたらいつの間にかそうなった。このコースははじめてではないが悪くないな。暑いときは新宿駅西口からバスでくるのもあり。蝉の声を浴び汗もかいたが散歩にはちょうどよい曇り空でありがたかった。今日は日差しも強そうですね。ヒー。気をつけて過ごしましょう。

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読書

読書、学び

どんなに暑くてもあったかいお茶は美味しい。相変わらず長津田の菓子処かわはらのお菓子。今日は「おのたち」。ひらがなのそばに小さく漢字で「お野立」と書いてある。戦時中に天皇陛下が立ち寄ったところということらしいです。だから菊紋みたいなかわいい形なのね。原材料は小麦粉、砂糖、卵、バター、白餡、チーズ。チーズだったのか!良い並びですね。バラバラと並べるだけで美味しいものが出来上がるとわかりますね。

昨日は移動途中に図書館に寄りました。久しぶりに行ったけど冷房がちょうどよくて快適でした。調べ物に行ったのですが結局持っていた本を貪り読む時間になってしまいました。昨晩ツイートしたこちらの二冊。

『帝国の追放者たち』(柏書房)のことは昨日も少し書いたけど同時代をそれぞれの国で生き、故郷(ルビはホーム)から別の見知らぬ土地へ流された3人の人生をたどり、実際にその足取りをたどる紀行文学(っていうんだって)。故郷とかホームシックという言葉なんてあまりに使い古されているように感じていたけど使い古されるほどに捨てきれぬ言葉なんだと感じた。

最近、トランス差別に関わる編集者や作家の方々が本が「間に合わなかった」とそれがその時期に必要だから書かれ出版されたにも関わらず被害を食い止められなかったことを悔やむような言葉を書いていたけど本ってきっと私の仕事と同じで即効性とかないと思う。SNSで「これ読んで勉強して」みたいな言葉がヘイトを吐く人たちに向けて書かれたりするのを見るけど学ぶ気などサラサラないからそういう言葉が吐けるわけだからそういう意味では本って無力でさえある。読んでも都合のいいようにしか解釈しないでしょう、きっと。残念なこと。ものすごい読書家で書評とかいっぱい書ける人でも単純なやりとりを悪意まじりでしか読めない人だっているのもよくあること。急に「それはどこに書いてあるんですか」とか圧かけてきたり。コミュニケーションって文字のやりとりだけではないなんてそれこそ多くの本に書いてあるのでは、と思うけど意外と書いてないのかしら。だとしても書かなくても伝わることってたくさんあるはずだよね、相手を人として扱うならば。学びは結局姿勢の問題なのかも。実際、学びってどこでも可能で『帝国の追放者たち』を読みながら私は在日の人やトランスの人たちのことを想った。それそのものが書いていなくても人の人生から大切なものを奪う人たちの思惑とそこを流されずに(あるいは流されながら)生きようとする人たちの物語として浮かびあがるものは共通する。文庫化された『パチンコ』も日本が朝鮮半島を統治下に置いた年から物語は始まる。場所は釜山の島。ここでも故郷とは、母国とは、という問いを立てざるを得ないがこの本は人物描写が驚くほど繊細で自然に心を重ね揺さぶられてしまうのが一番の特徴だと思う。状況がなんであれ彼らは生きていてその苦悩や優しさに胸打たれる。傍観者になんかなれない。そういう気持ちを起こさせてくれる本は知識とは異なる形で学びを提供してくれている。むしろ知識より生々しい形で直接的に。良い本に出会えてよかったです。

さて今日は土曜日。三連休の方もいらっしゃるでしょう。少し涼しいといいですね。引き続き熱中症には十分お気をつけてお過ごしください。

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精神分析

囚われ、連帯、『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)を読み始めた。

すでにのんびりしてしまった。やらねばいけないことは山ほどあるのにのんびりもできてしまう。人間のキャパを舐めてはいけない。と思いたいが、私たちの心はものすごく何かに囚われやすいことも事実だろう。死に囚われてしまった人に対して反射的に何か言いたくなるときそれは抵抗かもしれない、自分がそれに囚われないための。人は人を使って生き延びているだけかもしれないのに不快さや不安を感じると相手ごと自分から切り離そうとする。「私よく知らないし」とか「え?関係あると思ってたんですか?」みたいな感じで。嘘くさいがそういう人たちも本気だ。それはそれで囚われている。切り離すことなどできない。

私は「連帯」という言葉が苦手だが人は人を使って生き延びている、というか「いかなる人生も自己もひとつの統一体ではないこと(p.15)」を自由と連帯の側面から描写する本と出会った。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)というきれいな青い表紙の本だ。ここには3人の流刑囚が登場する。柏書房のwebマガジン「かしわもち」(note)から引用しよう。ありがたいことにプロローグも公開されているのでそこだけでもぜひ。「ホームシック」についての印象的な記述が本書で著者と辿る流刑囚三人の物語の導入となる。

「本書はある流刑囚三人の物語です。すなわち──フランスによってニューカレドニアへ送られたパリ・コミューンの闘士、ルイーズ・ミシェル(1830-1905)、イギリスによってセントヘレナへ送られたズールー人の王、ディヌズールー・カ・チェツワヨ(1868-1913)、ロシアによってサハリンへ送られたウクライナの人民主義者、レフ・シュテルンベルク(1861-1927)。より大きな自由とホームの理念のために、目の前の自由とホームを犠牲にした者たちの生涯を著者は辿るのです。」

最初は名前や地名に馴染むのに少し苦労した。異国へ向かうときに最初に生じる言葉の混乱。でもそれも最初だけだろう。まだ読んでいる途中だ、ということで読みたいのであと一冊、すごく力強い本に出会ったけどそのことはまた今度書くことにしよう。

今日はジャスミンアールグレイと生チョコのお菓子をいただいた。治療後の歯が痛いが食べることもやめられない。困った困った。

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精神分析

お菓子、毒、親密さ

今朝は横浜市緑区長津田の老舗和菓子処かわはらの「長津田さやか」をいただいています。なるほど、これはブルーベリーのお味なのですね。私は美味しいとか好きとかはわかるのですが味から原材料を想像するとかが本当に苦手です。柑橘系の何かが入ってるのかな、くらいの曖昧さでならわかるけれども。知って驚いてもう一度食べてなるほどと思うの繰り返しですね。毒見係とかできなそうです。少量の毒だったらすぐには死なないでしょうけどちょっと変な味だぞ、とか判別できないといけないのでしょうか、この係って。映画『ゴッドファーザー3』に出てくるカンノーリを巡るシーンを思い出します。大学生のとき、長期休みは不登校の子どもたちと山中にある廃校になった小学校で一緒に生活をしていました。みんなで校庭から続く山道を散歩していたとき植物博士のスタッフが「触らないで!」と大きな声を上げました。私はそこではじめてそれがトリカブトだと知りました。それまでも見たことはあったでしょう。でも知らなかった。そんなものやことばかりです。

私の主な仕事は特定の相手との親密さと信頼に基づく相互交流ですが親密さと信頼を築くまでが大仕事です。カウチ上で自由連想をすることによって思っても見なかったことを話してしまう、他人になど見せたことのない態度をとってしまう、自分の意識的なコントロールを超えた「思わず〜してしまう」自分と出会うのは苦痛な作業です。よっぽどの切迫感を持って自分の問題として取り組みたい気持ちがないと取り組むのは難しいでしょうし危険もあるでしょう。

最初は聞いてもらえるだけで信頼できた、親密になった気がした。自分でも知らない自分が出てくる、思ってもみなかった反応が返ってくる。不安。不快。世界は自分用にできていない。不快。不安。自分がそこでどんな防衛を使って生き延びてきたかなど暴かれたくない。それはそうせざるをえなかったというだけの話なのに人は「暴かれた」と感じてしまう。最初の親密さは剥がれ落ち別の「近さ」が二人の関係を難しくする。親密ってなんだろう。不信感が渦巻く。言葉が性愛と攻撃性に塗れていることに気づき始める。不安。不快。自分にそんなところがあるはずはない。不快。不安。でも知らないといけない気がする。このままでは自分はまずいかもしれない。想起は続く。不快。不安。抵抗。防衛。反復。いいかげん反復に気づく。防衛がきかなくなる。不快。「こんなはずじゃなかった」「そんなつもりじゃなかった」何を言っても言い訳をしているように感じる。不快。不安ということさえ伝えたくなくなる。何も言いたくない。何も言ってほしくない。それでもここにいて同じことを続けていく。なんで?

親密さってそんな感じではないかと思っています。その人の部分ではなく全体的な個別性に出会うことは当事者であっても難しくましてや他人が、でしょう。判断も行動も速すぎないほうがいい。特に他人のことに関しては。精神分析は判断と行動からは遠い治療だと思います。時間をかけて目的もなくわからないならわからないなりにそんな自分とそれを見ている相手に持ち堪えていく。そういう時間を積み重ねていくことで快原理ではなく思考過程を優位に作動させることができるようになり反射的ではなく時間をかけることができる心のスペースを少しずつ広げていく、そんな治療法です。誰かになにかを無闇に押しつけるのではなく無理や我慢ではなく自分でゆらりゆらりと思考しながら抱えていけますように。困難とわかりつつもそこに価値を見出せますように。

東京は今日は曇り空です。引き続き暑さにお気をつけてお過ごしください。

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子供の調子

冷房を効かせすぎた。しまわずによけておいていただけの羽布団をまた引き寄せてしまった。起きたら身体の半分が熱かった。きちんと閉まって冷房には注意しよう。ただでさえバテてるのに風邪までひきたくない。保育園の子たちがお腹の風邪とかアデノウイルスとかヘルパンギーナとかでお休みしていると聞いたり「今日久しぶりの保育園なんだよね(だから調子が出ないんだよね)」ときいたりするとこんな小さいのにかわいそうにと切なくなる。本人はニコニコ元気でも身体が追いついていないことも多くなんか調子悪そうだなと思ってお熱を測ると37度後半、これから上がるかも、ということは多い。私は主に0歳から3歳までの子供をたくさん見ているのでまだ言葉以前の子たちが多く子供の変化に気づくのは本人より大人だ。傷であればそれがどんなに小さくても(ただでさえどこもかしこも小さい)本人に見えるので指差しで教えてくれることもあるし彼らは絆創膏を貼るのも好き。ケアされてる感じがするのだろうか。剥がれて同じ絆創膏がないと泣いてしまったりも多い。子供の絆創膏ってかわいいのがたくさんあるしね。この時期は熱中症もとても心配。大人も絶対気をつけたほうがいいけど子供は気をつけてあげていてもあっという間になってしまうから本当に油断できない。この時期は気温が高すぎるから保育園ではお散歩に行けないのだけど屋内でも熱中症にはなる。お茶とか飲んでくれない子だとほんとに心配。人間、必要なものを摂取するとは限らないのね。確かに今私が摂取したのは暑くて食べる気がしないとか思いながらも「カントリーマアムチョコまみれ」だし摂取しなくてもいいものは食べたくもないのにつまんじゃったりするし。昨晩のポテチとチーザでおなかきもちわるいし。大人は自己管理ですものね。でも大人だからね。子供は調子崩すと本当に心配。いつもは小さくてもすごく逞しく感じる身体が本当に頼りなくさらに小さく見えてずっと泣いているのをずっと抱っこし続けるしかないこともある。保護者も保育者も気が抜けないうえに心細いだろうし本当に大変。みんな今日もあっついけど元気に過ごすんだよ。子供への心配は尽きないですね。子育てツイートとかいつもいろんな気持ちになりながら眺めています。

あ、なんか結構長く書いてしまった。準備しなくては。精神分析を子育てのメタファーで語ることについてSNSでブレストしていたので保育のこと書いてしまったのかな。ブレストは嘘だな。ブレストしようと思って電車でひとこと書いただけだ。忙しくて自分が何を考えていたかすぐ忘れてしまうからとりあえず書いていること多いけど展開させずに終わっていることも多い。がしかし、今日も忙しい。移動も辛い。ふー。兎にも角にも暑さには気をつけましょう。

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くずきり、失敗、スヌーピー

首の痛みが治らないな。ヘルニアが悪化してるのかな。嫌ね。さっきいただいた抹茶くずきりを半分にしようと思ったら大惨事。大というほどではないけどやや惨事。というか「惨事」だけでも結構な感じね、いざ書いてみると。くずきりってどんなだっけと思いつつも知っているものとしてきちんと思い浮かべなかったのがいけなかった。こういうことは失敗したから思うだけだけど。まず抹茶が入っている小さな袋を開けるところで失敗。横にちょびっと開けるはずが縦に裂けるように開いてしまった。でも抹茶が少し親指にかかった程度で被害は少なかった。幸運。くずきりが水分とともに麺状で出てくるのはわかってた。でも水分量と麺が滑り出てくるスピードに対応できなかった。また少しこぼしてしまった。お盆の上だからよかったけど。抹茶は最初黒蜜かなと思って(抹茶くずきりって書いてあるのに)、とか小さな思い込みを重ねながらぼんやり行動するからこうなる。私みたいに不注意で不器用な人は普通よりも意識的に行動しないと叱られたりこいつ大丈夫かと思われるようなことをしでかすので療育を学んでから気をつけてきたのだけど相変わらずですな。あと怖い人といると失敗する。緊張してさらになんだこいつ感が強くなる(というかそういう感じを醸し出す人だから怖い)。前に私は好きな人だったんだけど向こうはイライライライラしてて(嫌われてたんだろうね)買ってきてくれた小さなお菓子を小袋から手に出してあげるときにこぼしてしまった。怖くて緊張してしまったのね、きっと。というか絶対そうなんだけど好きだったんだよね。とてもとても悲しい思い出。今も思い出すと怖いし悲しい。身体の記憶として残ってしまってる。不注意や不器用がある子どもが失敗しては怒られてさらに失敗を重ねるのってこういうこと。何ができなくても怖がらせるのは良くないよね、という普通のことを思う毎日ですね。

この前、南町田クランベリーパークにあるスヌーピーミュージアムに行った。高校生の時、演劇部がスヌーピーのキャラクターが登場するというかエレベーターに閉じ込められた世界がその世界になりそれぞれがその時間をそのキャラクターで生きるような、いや、全然違うかもしれない、まあでもスヌーピーの主なキャラクターたちが繰り広げる劇をやったのをみた。私の高校の演劇部は強豪校(というのかな)でレベルも高かった。今も、というかコロナ前まではたまに高校演劇も見ていたけどうまさとはなにかと考えさせることが多かった気がする。なんかもうこの年齢の子たちのエネルギーだけで満点じゃん、とやられてしまうときもあればそもそも自分にはできないことをしている時点で「すげー」と思ったりもする。スヌーピーのキャラクターの成り立ちとかシュルツ自身のこととかよく知らなかったのでとても面白かったしアニメーションとかいろんな展示もワクワクしたし、漫画もたくさん展示されていてどれも意外性と深みがあったしすごく楽しかった。漫画だと全部読んでも全然疲れないね。「ライナスの毛布」というのは多くの人に伝わる言葉だよね。そういう引き継がれる言葉が残っている作品ってすごい。写真はライナスのことを好きなチャーリー・ブラウンの妹のサリー。ちゃっかりはっきりしててかわいい。

You play with the cards you’re dealt.. Whatever that means.

スヌーピーの言う通り。火曜日もなんとか過ごしましょう。外はすでにとっても暑そうですよ。どうぞお気をつけて。

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心構えとか

地震で起きた。ネットを見たら福岡佐賀に線状降水帯による雨に対する警報が出ていた。昨年末から年始は佐賀、福岡にいたがどの辺がどうなってしまっているのだろう。佐賀はあまり災害がないと聞いたこともあるがどんな様子なのだろう。どうか被害が広がりませんように。自然に対してはいつもなすすべなしというかなしても予想を超えてくるという推測は立つ。心構え的なものが有効である程度であってくれますように。

「心構え」について昨日の勉強会で話した。余計なことをしないための、相手の言葉を奪わないための何か特定の方法があるわけではない。むしろどうしても生じてしまうその事態を最小限にしていく、というよりその影響を知るためにはそうなっていることを実感を持って認識することから始める必要がある。「頭ではわかる」が実感を伴った理解に変わればそれ自体が心構えになる。技法は模倣できるが心構えは模倣できないから患者との経験から学ぶしかない。というか臨床はその連続でしかない。

今日は頭がモヤモヤしていてすぐにウトウトしてしまう。最近寝ぼけてヒヤヒヤすることも多い。寝るときもエアコンを使用するようになり快適に眠ってはいるけれど。夢で「郷土料理という幻想」について講義をしていたのだが最近吉本隆明の『共同幻想論』を再読していたせいだろうか。食べ物のことばかり考えているからだろうか。郷土料理についても実際に話したか、そういえば。今朝のお菓子は梅のお菓子。梅の実はもうおしまいかな。昨日は銀杏並木の木陰を歩きながらその枝にびっしりと銀杏がなっているのを見て驚いた。いつの間にこんなにたくさんなったのだろう。まだ大きくなるとも聞いた。

今日は月曜日。眠いけどはじめましょう。

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精神分析

ここ数日でいろんな川を渡った。川を渡ると景色が変わる。電車で座って本を読んでいても川にさしかかればわかる。顔をあげる。視界が開ける。しばらくその景色をじっとみる。毎回少し感動する。いつも同じ時間に小田急線で多摩川を渡っていた頃は夕焼けが美しい時間でその変化で季節の移り変わりをはっきりと感じることができた。いちいち感動した。京成線が中川を渡るときの景色も好きだ。スカイツリーのある景色もいいが何もないかのように見える景色もいい。夜東京へ戻るときも川が近くなれば景色が変わるから気づく。遠くに街の灯りが遠ざかっていくのを眺めながらまた感動する。慣れることなく感動するのだから不思議だ。海が視界に入れば毎回身を乗り出してしまうのと同じか。これは私が海なし県育ちだからではないと思う。新幹線で富士山が見えれば車内がなんとなくざわめきシャッターの音が聞こえたりもする。スカイツリーのある景色といえば、かつしかけいた『東東京区区』単行本第1巻発売がもうすぐだ。楽しみ。

中井久夫が亡くなってもうすぐ一年になる。私は1週間の夏休みをとっていて神保町にいた。ランチの店が開くのを待っているときに友人のツイートで知った。中井久夫のそばで働いている人たちや近い世代の先生方から話を聞くことは多かった。私は一度だけ研修会で見たことがあるがそんなに強い印象は残っていない。中井先生がどうというより壇上の先生方の会話は今だったら色々言われるであろう会話だったのは覚えている。まだSNSがそういう使われ方をされていない時代だった。私が中井先生の仕事で一番馴染みがあるのは風景構成法だ。年齢、性別、症状問わず多くの患者さんに描いてもらった。その項目の一つに「川」がある。詳細は書かないが川が風景に及ぼす影響と川の個別性に毎回驚かされた。それが川だとは全くわからないものもあった。目の前で「川」を描いてもらうようにいうのは私なので私にはわかるしその人にとっては間違いなくそれは「川」なのだ。そういう共有もよかった。

それぞれの心に残る景色があるだろう。全国を旅しながら別の季節にきたら全く別の景色を目にするのだろうと想像することもある。美しく広がる草原を「きれい」と言ったら津波で全て流された後だと聞き愕然としたことも思い出す。私の仕事は出来事と景色を見せてもらうように聞く仕事だからこれからもその個別性に驚き続けるのだろう。私が誰かとしたはずの体験も私の中にしまわれたものと相手の中にしまわれたものでは違う。それにとても悲しい想いをしたり回復できない衝撃を受けることもあるけれど差異こそが現実でひとりひとりの体験は絶対に大事だからいろんな気持ちになりながら今日も過ごすのだろう。こういうことってすぐ忘れてしまうこともであるからいちいち驚いたり感動したりするのかもね。

今日も暑そう?まだよくわからないな。屋内でも屋外でも熱中症には気をつけて過ごしましょうね。あと車内の冷房にも。どうぞ良い1日を。

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土曜日、出会い、心

除湿をつけた。窓も少し開けた。エアコンは設定温度に向けて初動がんばってくれるので音がいつもより大きいというか風の音が強い。蝿虎がその下でじっとしている。でもそこじゃ風が当たらないよ。真下すぎる。いいのか、それで。涼んでるわけじゃないのだから。あ、少し動いた。とかしている間にどんどん時間が過ぎていく。あっという間に土曜日だ。

今週はたくさんの人と会った。無事に過ごせただけでも嬉しいし、新しい出会いも集団でイキイキ仕事ができるのもおもしろたのしく普段の仕事のための学びにもなる。イレギュラーな形でしか対応できないが長年続けているものは今後もやっていけたらと思う。

小さいパウンドケーキを半分とフルーツティーをいただいた。部屋もだいぶ除湿されてきた(のか?)。涼しくはなってきた。最近これを書くときはPCを腿の上に置いてダラダラ書いている。腿が熱い。暑い。そして書き始めるとどうしてこう眠くなるのか。

今度の旅ではどんな人に会えるかな、と話した。どこかへいけば誰かと出会う。話す。別れる。そんなことの繰り返しだ、日々は。あえて出会いを求める時期やそれが必要な状況もあるかもしれないが私は大体流されるままやってきた。めんどくさがりなのだろう。自分で強く求めた出会いは精神分析に関するものだけかも。まあ、出会ってしまえば出会い方がその後にものすごく大きな違いを生じさせるかというとそうでもなく起きることはそんなに変わらずひどいことも起きる。そういうのはしかたない。後悔できる類のことでもない。傷つきながら苦しみながらそれでもまた繰り返す、日々を。そしてひどく苦しい気持ちから回復できなくてもそれとは関係ない場所ですごくくだらないことをして笑っていたりもする。笑えない状況でも笑えてしまうのだから人間はすごい。死が間近でもそういうことは生じる。人間は常にon goingだ。こうするときはこういうもの、みたいなものを持っているくせに、パターンを反復しがちなくせに、自分を自分が超えてしまう。誰の力なのかしら。ひとりで生きているのでない以上、自分にはどうしようもない部分が大部分。気持ちを感じるのは自分だから防衛が必要になるのかもしれない。大変なこといっぱいあるもんね。心を守る必要と工夫。

さっき何かの本のことを思い出して書こうと思った瞬間に忘れた。なんだっけ。まあいいか。必要となればまた思い出すだろう。必要ならまた電話かけてくるでしょう、というのと同じ。最近は文字文化だからそういう感覚って薄れているのかもしれないけどね。

というわけで良い土曜日をお過ごしください。

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ポテンシャル

南側の大きな窓を開けて洗濯物を干した。レースのカーテン、さらに洗濯物の向こう、向かい側のマンションのドアが開いて人が出てきた。お互い早うございますね。おはようございます。

重たい障害や疾患のある子どもといるとその限界を頭では分かりつつそのポテンシャルに驚くことが多い。進行性のものであってもそうだ。先日、朝比奈秋の「植物少女」を読んだと書いたが著者は医者だと聞いてなんとなく納得した。日々、病に触れていると注意を向けるところも優先的に使われる言葉も変わってくる。著者は小説を書き始めてから医者の仕事と一旦かなりの距離をとった時期があるらしい。「普通の」人が使う言葉の世界に戻ってくる時間だったのだろうか。「普通」と折り合いをつけた通じる言葉で語られたとしてもその原型が変化することは少ないだろう。精神分析でいえば原光景みたいなものだ。そこは善も悪も幸も不幸もないぐちゃぐちゃとしたどちらかというと暴力的かつ甘美な場だ。つまり性的な場だ。今は「性」と言葉はそういうものとして使われることは少ないように思う。文学作品を読めばそんな性は溢れているというのに。私が進行性の、あるいは回復や治癒の見込みはないといわれる障害や疾患を持つ人に感じるポテンシャルの源泉もそういった意味での性にあると思う。アンドレ・グリーンがラカン、フロイトに回帰しつつウィニコットを中心とするイギリスの精神分析家の理論を踏まえた情動を中心に据える議論を展開しているがそういうものを読むときも性をそのような性として「普通に」捉えることができないと議論はすれ違うばかりのように思う。対象関係論は対人関係のことを扱っていないということもできるがその実感は自分を脅かしつつも生かし続ける性の力を生々しく実感していないと意味を取り違えるかもしれない。その取り違いにさえ無意識という言葉で何かをいうことは可能なわけだが無意識という言葉をゴミ箱的に使うのも違うのでそういうものだとそのままにしておく必要があるのかもしれない。多くの具体的な出来事を思い浮かべながら曖昧なことを書いているがなかったことにしないための行為のひとつだ。今日もなんとかはじめよう。

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本、お菓子、雨

「推しの子神回」ですと?まだアニメ3話目の私についていけるはずのない展開があるのね、きっと。今夜も見よう。

雨ですね。雨の音でどこに何があるかわかったりする。私の場合はすでに目でも見てるから。目の見えない人は耳がその代わりをするらしい。

『聴こえない母に訊きにいく』の五十嵐大さん@daigarashiと『わっしょい!妊婦』の小野美由紀さん@MIYUKI__ONOのTwitterスペース「エッセイを通して社会を描く」を聞き始めた。

聴こえない母に訊きにいく』(柏書房)は最初から泣いてしまった。書かれていない出来事や気持ちがシンプルな文章に染み渡っていて読むと浮かび上がってくるそれらに揺さぶられてしまった。雨の日にピッタリ。母の静けさには迫力さえ感じた。それは耳が聴こえないから、それでも親になったから、という単純な話ではないのだろうと思う。個人の体験は個人だけのものではない以上、語りえないものに溢れてる。この本でいえば父はあまり登場しない。なぜだろう。私の仕事は書かれていないことの方に注意を向ける。そのようなことも含め、ありがちな物語に回収しないように耳を傾けるべき一冊だと思う。『わっしょい!妊婦』はまだ読んでいないけどお二人のお話を聞いているとすごそう。昨日も目の前で妊婦さんたちが3人で話していた。ひとりは明らかに妊婦だとわかったが聞こえてくる話だとこの人も?この人も?と思ったが見た目ではよくわからなかった。妊婦とはそういう状態だということかもしれない。「こんなのが出てくるってすごいことだよね」「ほんとほんと」という会話を聞きながら「こんなのを出せるってすごいことだよ」と思っていた。3人は何度も「〇〇ってすごいことだよね」と言い合っていた。自分のことなのに自分にはわからない、そういうものが神秘として語られるのかもしれないけど妊娠、出産、子育ての現実は神とかいるなら助けてくれよという出来事の連続だからそのすごさに対して全方位からまともな眼差しが向けられたらと願う。

雨が降る。雨が降る。眠気がとれない。お菓子(五日市土産、「里の娘」)は食べた。美味しいお茶も飲んだ。被害の出ている地域は大変だろう。昨日、妊婦さんたちの話を耳にしながら各地の被害状況を見ていた。いろんな場所でいろんなことが起きている。どうぞご無事で。ご安全に。

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ネットワーク、注意、暮田真名「うわの空のすすめ」

今朝も風が気持ちいい。台風とか天候の乱れの予兆ではないよね、と天気予報を見る。九州に大雨の予報、土砂災害に厳重警戒とのこと。こういうとき無事かどうか連絡せずとも知れるのがTwitterだったのだけど今後どうなるのかな。私は東日本大震災のときにTwitterをはじめた。震災後すぐの5月にNPOで被災地へ行きその活動をつなげていくためだった。阪神・淡路大震災のときは関西に友達がたくさんいた時期だった。グループでの付き合いだったからネットワークができていたのはよかったが当時Twitterがあったら何がどう違っただろう、と考えることはある。九州は土砂災害の被害が多く地盤も緩んでいるところが多いだろう。毎回九州に大雨というニュースを見聞きすると旅で行ったときに目にした水害の痕を思い出す。どうか被害が生じませんように。

今週はイレギュラーなことが多いので少し気を張っている。心配は主に体調面だが。常に慌ただしいので自分の状態から気を逸らしておけるのは悪くない。囚われる暇があると余計に気になってしまうということもある。逆に痛みが強いときなどはその痛みがどんな感じかをつかむために集中することがある。これまでとどう違うのか、違わないのかをつかむべく。状態としては結構大変でもその後の回復を予測できるときがあるから。

昨晩は除湿も冷房もつけずに南側の大きな窓を開けていた。風が気持ちよく月がとてもきれいだった。見えたものをシンプルに言葉に置き換えていく俳句、そこに情緒が加わる短歌、景色よりも言葉の意味よりも言葉の並びや音が何かを醸し出してくる川柳、これらを短詩と括ることができるがそれぞれの違いは興味深い。

6月30日に川柳人の暮田真名さんの電子書籍が発売された。「次世代の教科書」シリーズ編集部による暮田真名さんへのインタビューをまとめた「うわの空のすすめ」(金風舎)。題名からして暮田さんらしい。昨夏、臨床心理士、公認心理師向けのイベントにゲスト講師としていらしていただいてから仲良くしているが経験に対して素直かつ貪欲なのが面白く魅力的。若さだけが理由ではないだろう。

「私にとって川柳との出会いは、自己否定の堂々巡りを断ち切る鋏のようなものでした」

と暮田さんは冒頭に書いている。高校生や大学生には特に響くであろう言葉も多い。私は暮田さんがどのように言葉を拾っているかに最初から興味があったのでそれについても話されていてさらに関心を深めた。精神分析は視覚も聴覚も普段とはだいぶ異なる注意のもとに使っている。フロイトはそれを「平等に漂う注意」といった。今日もぼんやりとなにかを待つようにやっていこう。短詩仲間とのオープンチャットも作った。ようこそ、いらっしゃいませ、おいでなさいませ、とお出迎えするときみたいに言葉を迎えられたらいいなと思う。

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ユヌクレ、南信州、ヤキフェス?

北側の小さな窓からスーッと風が入り込んできた。南側の大きな窓を開けたときには感じなかったのに。今朝はユヌクレさんのバターサンドを半分。大人気のパン屋さんはコロナ禍でオンラインショップに切り替えたまま南信州へお引越しされるとのこと。南信州ってどこ?おお、長野の南か。静岡側。そりゃそうか。南信州だもんね。飯田市が一番大きいみたい。人口は172,921人(2008年1月現在)とウィキペディアから。今は2023年、その後の人口はどうなっているのかしらと調べたら96,507人(2023年6月)。こんな減ってるの!?と思ったけど前者は南信州地域の人口。私が調べたのは飯田市のみでした。びっくらした。私の友人も長野に引っ越して商売をしているけど南信州ではない。長野は広いからなあ。色々いってるけど南信州かあ、いったことないと思うなあ。飯田って日本一の焼肉街なんだって。行きたい。朝はユヌクレ、たくさん歩いてお昼はそば、夜は焼肉というコースで。「焼来肉ロックフェス」ってなに!?楽しそう。日本一長い鉄板で焼肉?ギネスに挑戦?あ、世界一か。ギネスだもんね。すごい。楽しそう。流しそうめん的発想かな。あれも「世界一長い」ってあったよね。世界一小さな鉄板だと味がわからなくなっちゃうし、そうめんも流れてもらうにはそうめん以上の長さが必要だし食べ物で競われるのは長さの長い方とか大きさの大きい方なのかな。モノだとどれだけちっこくできるかも競うよね。スプーンおばさんとかアリスは本人の制御を超えているし競ってないなぁ。焼來肉ロックフェスは今月22日と23日か。昨年もやったのね。2021年は中止、2020年は配信。今年はどのフェスも復活かな。色々行けるように体調気をつけないとですね。なんでも食べられる胃腸がほしいです。胃腸が悪いとずっと眠いし好きなものを我慢しなくてはいけないのは悲しいですから。我慢できなくて半分食べちゃったけど、バターサンド。このあと気をつけましょう。火曜日もどうにかこうにか過ごせますように。

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回復、時間感覚

さっきベランダに出たら鳥の鋭い声がした。よく聞く声なんだけどお名前が相変わらずわかりませぬ。でもいつもこんなにずっとは鳴いていない気がする。あまり風もないけど気温も高すぎない様子。でも部屋に入ってもカーテンを開けなかった。冷房の効果を気にする程度には外は夏だもの。数少ないお休みをすっかり体調回復に使ってしまったけど痛がりながら寝っ転がりながらかき氷やあんみつ食べにいきたいとかやりとりしてた。機能が衰えると欲望の健全さを感じますね、普段は困ったもん扱いの欲望さんにも。もちろん欲望によって破滅(しっくりこない言葉だけど)することもあるけれど。身体の痛みやだるさって本人にしかわからないし死もいつおとずれるかわからないんだな、ということは実感を持って知るようになりつつあるけど実際に起こることについては全然知らない。自らの死が間近なことを予測しながらSNSに「これが最後になるかも」と言葉を残す人もいるしまだ幼い我が子が重度の障害を抱えつつ生きた軌跡を残すご家族もいる。今私が思い浮かべた子はすでに亡くなっているので過去形にしたけど存在を確かめるためにSNSを利用している人も少なくないように思う。赤ちゃんの頃から何度も手術を繰り返していた子が小学生になったと知りお祝いをいうことができたのもSNSのおかげだった。動くこともままならないまま限られた人たちと日々を過ごしていると、と色々書いたけど消した。ものすごく大変なことだ。漫画『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)で突然石になってから復活する日までの時間を主人公が数えながら持ち堪えていたが孤独や狂気から辛うじて身を守る手段のひとつが時間感覚を維持するということなのかもしれない。トラウマは時間感覚を破壊する側面を持つがその場合SNSはさらなる外傷と関係してくるかもしれない。断片化されたこころに断片的な言葉の取り入れは困難である場合が多いだろうから。また眠くなってきてしまった。どうなることやらだが委ねられるだけ委ねよう。また1週間がんばれたらいいね。

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観たり読んだり。

まだそんなに気温高くないですね。鳥たちの声は聞こえません。なぜなら早朝からNetflixを見ているから。きっと今日も鳥たちは元気。「離婚しようよ!」はとてもおもしろかった。特に5話までが。今は「バーレスク」。朝から観るものでもないかもだが観たかったんだ。クリスティーナ・アギレラ大好き。楽屋でのDon’t touch my stuff!というセリフに反応してしまった。ケンブリッジに6週間いった時に寮で2週間同室だったコロンビアの子に私が圧を込めていったセリフ。Shit!なことが多かったぜ。一度本気でキレたら部屋に寄り付かなかくなったけど。不良少女たちみたいな雰囲気で妹分のような子たちはかわいかったし仲良くしてたんだけどな。腹たつ。私も相当やばいと思われたみたいだけど知らんがな、仕掛けたのそっちやろ、とまだ元気な20代でした。今でも同じことされたら同じことする気がするけど。戦略なんて増やしたくないしね。しかしシェールもかっこいいな。

『新潮』7月号で朝比奈秋「植物少女」を読んだ。これまでにない母と娘の関係を見せられた気がして深いため息をついてしばしぼんやりした。「離婚しようよ!」で「生きているのか死んでいるのかわからない」というセリフがあった。生き「ている」ことを主人公たち以外の人物からも見せつけられた。意志ってなんだろう。

今日も見たり読んだり出かけたりしよう。言葉にならないことが多いな、なんだか。どうぞ良い一日を。

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肉まん、ボロ市、『ねこたちの夜』

ほっかほかの肉まん。蒸した方がしっとりするけど今朝は電子レンジ。加減が難しいですよね、こういうのって。書いてある通りやってもあちちって火傷しちゃうこともあるし。とっても美味しい鹿港があるあたりは12月と1月に2回開かれる「世田谷ボロ市」で有名。駅だと東急世田谷線上町、世田谷、松陰神社あたり。コロナ禍のボロ市ってどんなだったか・・・。今年はすごく盛り上がっていました。普段見たこともない、使い方もわからない雑貨を眺めたりお話聞いたりちょこちょこ歩き食べしたり。アンジュというレアチーズケーキが特に美味しいプラチノというケーキ屋さんが出すココアがこの寒い時期にぴったり!あー、早く冬が来ないかなあ、とは全然思わないけど毎年行きたくなる伝統行事です。世田谷通りは美味しいお店も多いしお散歩にもピッタリ。馬事公苑のそばには古井由吉も住んでいた。馬事公苑もオリンピックで使うために閉園となってすっかり変わってしまった。というか新しくなってから行っていない。とってもいいところで世田谷まつりか何かのときに偶然友達家族に会ってまだ5歳の子とじゃんけんしたのは何年前かな。もう中学生だから約10年前か。生まれる前から知ってるんだよー、なんてその子は知らないし子供は子供の大変さがあるに違いないけど意外といろんな大人があれこれ考えながら見守ってるものよ、うざいだろうからあえてそんなこと言わないだけで。また何かのお祭りで偶然会いたい。夏祭りの貼り紙もそろそろ見かけるのではないかしら。7月ですね。いまそばにある総合俳句誌「俳壇」は4月号だけど。本はこんな夏の朝でもあっという間に全く別の時間、別の季節、別の場所に連れていってくれる。友達のさわださちこさんの最初の詩集『ねこたちの夜』も昨晩見つけた。ここにいたのね、猫さんたち、という感じの表紙は編みメーション作家のやたみほさんによるもの。この詩集は三越左千夫少年詩賞を受賞されています。

てぶくろのはんたいは?

っていうから

こたえたら

ろっかいぶたれた

くやしくて

いいつけたら

「わるい おにいちゃんねえ」

おかあさん わらった

へんだな わたしも

おこりたいけど わらっちゃう

てぶくろ

ろくぶて

そうか

うーん

ー『ねこたちの夜』(2012、出版ワークス)

また冬を取り上げてしまった。まだ、というより今日から7月というのに。ろくぶて、懐かしい。あれはなんだったんだろう。きちんと6回ぶたれてたよね、大体の人は。123456!って早口でいう相手に。なんだったんだろう・・・。今日はもういいかげんにしてくれよ案件もある。ろくぶてに笑いながら腹を立ててた頃が懐かしいわ。ぶち返すにも微妙な感じあるしね。たしかに。ここまできたら最後まで丁寧に緻密にやりましょ。

暑さからも冷房からもちょうどよく距離とってがんばりましょ。