フェレンツィは1873年ハンガリーに生まれた精神分析家でユング(1875年生)と同世代だ。二人ともフロイトとの人間関係から語られることが多いが、その臨床とそこから導かれた理論はオリジナリティに溢れておりフロイトの理論にも影響を与え(「とりいれ」という用語はフェレンツィから、など)どちらも精神分析の限界を考えるときに特別な視点を提示している。日本で精神分析を学ぶ人が一番読んでいるフェレンツィの論文は「大人と子どもの間の言葉の混乱──やさしさの言葉と情熱の言葉」(1933)だろうか。これは森先生たちが訳されたフェレンツィ『精神分析への最後の貢献ーフェレンツィ後期著作集』に収められている。この本はそれまで断片でしか紹介されてこなかったフェレンツィの後期の思索を追える一冊で、フェレンツィが死の前年まで書いていた『臨床日記【新装版】』と一緒に読まれるとよいかもしれない。こちらも森先生の翻訳だ。フェレンツィは当時の精神分析の世界では受け入れがたかった心的外傷についての理解を広めた。この頃の精神分析については『心の革命 精神分析の創造』(REVOLUTION IN MIND) ジョージ・マカーリ著、遠藤不比人訳(2020.みすず書房)も参考になる。
中身について書こうと思っていたのに思い出話を書いてしまったらまあいいかという気分だな。みすず書房のサイトとかをご覧くださいね。フォーカシングの背景をなすジェンドリンの哲学が詳細に書かれているから。私はもう技法としてフォーカシングを学ぶ余裕はないけれどどの技法もその技法がどうやって生じてきたかを学ぶことはこうやってしていくと思う。ジェンドリンは体験と体験過程(ing系が大事ということ)を分けてフェルトセンス、IOFI(instance of itself)という普遍原理を想定し意味創造プロセスを理論化しようとした人なのだと思う。それは人間だけではなく生命体全体の進化に関する心理学でもあった(雑すぎるので興味がある方は本をお読みくださいね)。インタラクションファーストであるのに言葉を持つゆえの不自由さを持つ人間の知覚以前の場を身体に見出してそこで暗示されているfelt meaningに触れていくことが新たな意味の想像へ繋がるという身体とシンボルの橋渡し的なことをジェンドリンは考えていたのかな、というのが私の単純な理解。とにかく知覚以前を「暗示性」という言葉で明示していきたいという感じ?そうそう、翻訳の副題「暗示性の哲学」なんだけど本文中では暗示はインプライとカタカナで表現されている箇所が多いのも印象的でした、とかいってパラパラ読みだからあくまで今のところの印象。