カテゴリー
未分類

日々と

小田急線鶴川駅そばのビルのエレベーターホールから駅の向こう側をみやると輝くように紅葉する木に気づく。ほかの木々も紅葉しているはずなのだがこの一本は魔法をかけたように輝く。私がエレベーターに乗る夕暮れどきは特に。だから私も気づけたのだろう。このビルに通い始めてから10年以上経つがいつ頃気づいたのかはわからない。鶴川は駅を出てすぐに坂道になる。つまり山なので川沿いと山道をよく散歩した。当時は週二日通っていたからお昼を買って散歩に出かけ気持ちのいい場所を探して食べた。川沿いには桜も見事で、そこを通学路とする大学生たちの変化も季節の変化と連動していて楽しかった。坂を登っているうちにいつの間にか人の家の敷地に入っていて呼び止められたこともあった。あの辺は境界が曖昧だ。白洲次郎と白洲正子が移り住んだ「武相荘」も最寄りは鶴川駅になる。正子さんの器とか持ち物が素晴らしかった記憶がある。また行きたい。本を何冊か持っていたはずだが私のではなく母のだったかもしれない。

身体が動くなってしまわないようにどうにかこうにか立ち上がる毎日。ここまで生きていればそれぞれの工夫があるだろう。こういうときそこそこダメでよかったと思う。勉強は平均的だと思うが私は「バカじゃないの?」「あたまおかしい」と本気で呆れられてしまうことをしでかすことが多い。言い方はどうかと思うけどそういいたくなるくらいなことをしでかすのだ。自分でもどうかしてると思う。私なりには理由があるのだけどそれも「なんでそうなるの」ということなので説明しない方が無難。でもこれが心身を救ってもいる。考えれば考えるほど起き上がれなくなる、立ち上がれなくなる。根っこが音を立てて生え始めそうになるのを感じる。まずいまずいまずいと気持ちばかり焦って身体に力が入らなくなっていく。そんなときに「わたしごときが」という開き直りがやってくる。わたしごときが考えたところでこれを脱することはできない。考えるな、感じろ、ではなく、考えるな、ひたすら無心にいつものことだけしろ、である。動けない自分のことなど忘れる。私は今日も起きた。私は今日も仕事にいく。ただそれだけ。ロボットになる。それが成功して無事に一日を終えてこんな時間を迎える頃には朝とは違ってこんなことまでできてしまう。これがもうちょっと賢かったらできなかったかもしれない。考えが緻密になってしまったら変なネットワークができちゃってでも大抵そういうときのそれってエッシャーの絵か出口塞がれた巨大迷路みたいないものなので考えることはできるのに出口塞がれてることとかシンプルな可能性に気づけなかったりするのでは?緻密じゃないからわからないけれど。まあともかくいつも抜け道探してたりサボり方考えてたり「あたまおかしい」とたまに言われてたりするくらいでも大丈夫なのだ。むしろだからこそ生きていける今日だってあるのだ。とか書いているが何かが変わったわけではない。明日も明後日もずっと先もこうなるかもしれない。が、それだっていろいろあるのは当たり前のこと。考えない。考えられるときに考える。みんなの今日はどうだったかな。魔法なんてないけど魔法みたいな景色と出会えた人もいるかしら。ほんと嫌になっちゃうことも多いけどよく眠れるといいですね。また明日。また明後日。なんとか出会っていきましょうね、日々と。

カテゴリー
うそもほんとも。

作り話の先へ

「彼女が言ってることが本当なら」

なんだその前置き。「あなたのいうことが本当なら」と何食わぬ顔で返したら空気が変わった。そのまま続けた。

これは作り話なんだけど、あ、これは本当。え?ああ、本当なのはこれが作り話ってこと。

噛み合わない。もう苛立ってる。チイサーイと心の中で小さく呟く。今夜もSNSで重いだの見切ってやるだの軽薄な調子で呟かれるのを目にするのね。あーだるい。ミュートしとこう。

さて、そろそろ始まる投げやりな雑談。

そのツイート知ってます。その人のこと教えたの私ですから。全然興味なかったの忘れてるね、きっと。曜日決めて食事いかないとどの子とどこ行ったかこんがらがっちゃうくらいだし。私も写真あげておけばよかった。

あなたの友達が心配して連絡くれたんだよ。だから私も心配になっていったのに逆ギレ。この前のあれはすごかった。怖がらせれば黙るよね、人は、ふつう。こういうことももう口に出せないもの。

え?今日もするの?投げやりな雑談に一生懸命つきあったのに。まあいいけど、こんな日もあるから。本当はこれがいちばんやむ原因だけど。わからないよね、そんなこと。いってないもの。

今夜も延々とありがちな作り話。こんなのはパターンになってほしくないがパターンとしていくらでも書ける。小説を書ける人はこれに背景も奥行きも加えて本当の話にできる。いいな。そしたらエンディングも変えられるかな。ありきたりなやりとりに私たちを持ち込みたいな。別の世界にいきたいの。とかいってるうちはだめですよね。やるならまじめにやれ、ときっといわれてしまう。でも私は小説家になれない。だから話を聞きましょう。話されるままに。それがお仕事。書ける人たちを尊敬してる。応援してる。どうぞよろしく。私たちを助けて、こんな作り話から。協力できますように。

カテゴリー
うそもほんとも。

昨晩の分

ネットに強い知り合いが思い通りの展開に喜んでいた。やってること相当ダメだと思うのだけどこういう快楽もあるのかと興味深かった。でも普通にそういうの怖いからやめてと伝えた。だって傷ついてるのにさらに嫌なことされてゲーム的な扱い受けてるんだよ。それは真剣に抵抗すべきでしょ。そこまでされてるのに軽口叩いているみたいで痛々しい。実際ひとりになるとほとんど発狂しそうになるって言ってたではないか。今までのことがあるからそんな簡単に手放せないのはわかるけど。そんな相手を選ばなければ、ということに尽きるけどもう取り消せない。だからといって思春期的なやり方で自分を正当化しつつ欲望だけ叶えたいみたいな心性に振り回されるのはおかしいと伝えた。あなたがそういうことを平気で言える相手でよかった。むかつくんだって。すごくわかるよ。本当に正当に裁かれるといいね。もう少し時間をかけよう。あなたのやり方は効果はあるけどあなた自身も傷つけるからやめとこうね。

いろんなことをネタにして小説にするっていうのはいいと思う。私はできないけどその人はすでに書いているから余裕でしょう。

いいなあ。私はひたすら悶々と苦しんでそれがどうなっていくのか自分で観察していくだけだな。小説にするというのはまた別の作業だものね、わからないけど。まあ、淡々と生きるために普通に寝よう、

と思って寝たばかりだけどもう起きねばな時間になった。昨日も公開しわすれた。あとでまた書くかな。その前に資料作ろう。そういうわけで何も進んでいないの。みんなは元気ですか。そうでもないかな。この前ね、と書きたくなってしまったけど資料資料。とりあえずまたね。

カテゴリー
精神分析、本

ぼんやり。ハンナ先生の講義関連も少し。

道路が雨に濡れている気がした。音で。南側の大きな窓から空をみようと思ったのにお湯を沸かして戻ってきてしまった。こういうことはすぐに忘れてしまうのだから耐え難いやりとりも早く忘れてほしい。iphoneで天気をみた。☀️マーク。お湯沸いたかな。コーヒー。今朝はお菓子が豊富にあるけどどうしようかな。ここ数日果物を切らしてしまっている。何がほしかったのか帰ってきてから気づくのだ。ぼんやりしすぎている。悲しい。

あーメモ帳をばら撒いてしまった。どうせ見返さないのだから捨てておけばよかった。拾うときに見返すか。そのために落ちたのか。

先日、英国精神分析協会 Fellow、Brent Centre for young peopleのMs. Hannah Solemani先生のレクチャーを受けた。ハイブリッドで現地参加は二人だけだったので直接お話できた。Brentセンターは個人がチャリティーによって立ち上げたのに今は政府の助成金も受けながら無料で子どもの心理療法を行ったり、セラピストを学校に派遣したりしているらしい。ロンドン北西部という比較的貧しい地域の子どもたちのために立ち上げたといっていた気がする。どうやってそういう良い循環を作り出しのだろう。

Hannah先生は素敵な人でhusbandといらしていた。海外からこられる先生はパートナーが同席していることが多い。専門が異なるのにじっと話を聞いている。今回はBrent Centreについての補足をHannah先生にそっとメモで渡しgood pointというようなことを言われていた。とても静かでスマートな佇まいだった。

以前、同性愛者の精神分析についてどこの国からか忘れてしまったが分析家の先生がいらしたときにその原稿の翻訳を担当したことがあった。論文を読んでいるときには特に何も思わなかったが当日先生がパートナーである同性の方と親密そうに話しているのをみて論文の重みは増した。精神分析は性、つまりカップルについて考えることなので当然か。

内容は思春期の精神分析についてだった。久しぶりにこの領域の知見に触れた気がした。私も思春期の患者と長く仕事をしているが改めて学ぶとこの時期の特殊さに驚かされる。投影同一化のバリエーションについて意見した。忘れずに考え続けられたらいいと思う。

と書いてみたが頭がひどくぼんやりしている。そういえばさっき洗濯が終わった音楽が聞こえたかもしれない。今日もみたくないものをみては差し込まれるような痛みにじっと耐えながら過ごすのだろう。もちろんそんなことばかりでもないだろう。

みなさんもどうぞご無事で。昨日は立冬でしたよ。暖かくしてお過ごしくださいね。

ちなみにハンナ先生おすすめの本はこちら。

Inside Lives 

Psychoanalysis and the Growth of the Personality

By Margot Waddell

カテゴリー
うそもほんとも。

作り話

全部作り話なんだけど、と本当に作り話をした。そのつもりが全部本当のことと受け取られていた。自分でもそんな気がしてきた。「それ言ったのあなたじゃないですよ。」と会話を再現してくれた。会話分析っていうの?そういうのもしてくれた。「受け手はここで意図的にずらしているか混乱してずれているんです。」でももうそんなのはどうでもよかった。言ったのは絶対私なんだ。そのつもりがなくてもその人がそういうのだからそうなんだ。

こういう余計なことしたがるのは絶対あいつだろうと確かめたらやっぱりそうで驚いた。ほんとにいつも期待を裏切らない。ほんとにほんとに人の気持ちはわからないのに期待に応える力は抜群。身体さえ丈夫なら(これまで怪我や病気はしたことがないそう)このままうまくやっていける。定点観測の場合。それでいい。こっちの人たちにとってはひどくうんざりで鬱々させられるけどそういうのは確かにありだ。大ありだ。もう若くもない。賢い人が賢く生きることにこちらが耐えねばならない。変わるべきはこちらだ。

これはあれだな、カーリングの戦い方だ。と一瞬思ったけどカーリングのことよくわかっていなかった。一石を投じる。勝敗の行方を大きく左右する一石を。というか私は戦ってなどいなかった。勝手に戦闘体勢になって巻き込むのやめてほしい。私が馬鹿で私がとんでもない意地悪で私の言葉はいつもおかしくてあなたを怒らせて当然なのでしょう。最初から愛情と勘違いしてどうにかこうにか一緒に、と願ったところから間違っていたのでしょう。

こちらがどんなに苦しかろうと眠れなかろうと涙が枯れてしまおうとその人には関係ない。責任を取るようなポジションにもいない。育てている人もいない。関わる側にとってもいいとこどりをしやすい。傷つきは相手におまかせして上手に賢く生きている。そんな人でも(だから?)親密な関係を築くことは難しい、ということを人間関係に苦しむ人たちは知ってもいいかもしれない。あなたのように切実に個人との関係を求めなくてもそっちより世界といって活躍できる人たちもいることを。この場合、世界から都合の悪い個人は引き算されているかもしれないけど。そうなりたいんですか?なりたくないです。というやりとりになるかもしれないけど。あり方は自由。関わればいろんなことが起きるだけ。元気が出たり死にたくなったりいろんな風になってしまうだけ。

全部作り話。出来事はそのための道具。そんなことを思いながら時々泣くような夜。(公開し忘れたので朝)。

カテゴリー
うそもほんとも。

通じた。美味しかった

靖国通りから新宿御苑に続く真っ直ぐな道には私が普段接しない文化のお店があり興味深くそっと覗き見しながら歩いた。赤い実をつけたハナミズキが紅葉していた。「児童館のそばのあの道も今きれいだよ」と教えてくれた。長らく通っていない。そうなんだ。すでに紅葉のピークを体験してしまったので新宿御苑の緑がまだ濃く見えた。

下北沢でよく行っていたビルが取り壊された。開発が進む下北沢から親しんでいた店がどんどん消えていく、かといえばそうでもなくたまたまだが私が通っていた店はそこそこ残っている。ただそのビルに入っていた店はビルごとなくなった。トイレもビルの共用のような古い店だったが若い頃に友人が連れていってくれて以来私もいろんな人と一緒に行った。その店が新宿にあった。チェーン店だから別の街にもあるのは知っていた。

「あの真っ直ぐに続く道なら何かあるかな」と大体真っ直ぐな道ばかりの土地で言っても柔らかく受け取ってもらえた。親密な関係ならそれが普通だと思う。通じないことも通じることも一緒に繰り返しながら通じる通じないではなく相手のあり方を受け入れていく。拒否的で高圧的に正確さを求められびくつき頭痛と不眠が続いていた日々がもっともっと遠くにいけばいいね。たくさんの味方や他人の呟きを上手に使って小さな意地悪を続けてしまうその人も身近で本当に想ってくれる誰かにキャパ捌けるようになったらいいね。

とても好きで大切にしたくてもでも自分を失うのも嫌で一生懸命話を聞き観察してきただけなのにそうやってわかられることが自分の悪いところ暴かれてるみたいで嫌だったんだって。自分のほしいものだけほしかったんだって。あなたも大変な時期だったからどこかで気づいていたのに誤魔化しちゃったって言ってたでしょ。でもそれはその人があなたの時間や歴史を大切にしなかった理由にはならない。反省すべきはあなただっていまだに言いたいみたいだけどもう放っておこう。そういう形で利用されるのはやめよう。向こうだって言いたいことがあるなら普通に言ってくればいいだけ。私たちよりはるかに上手に言語化できるはずなんだから。なんか私たちっていつも同じ失敗してる気もするね。でも若い頃に比べたら上手になったんじゃないかな。今度こそ自分の時間と労力を差し出す相手や場所を間違えたくないよね。またやるかもだけどさ。大丈夫、みんなわかってるから。そうなったらまたすぐ集まろう。みんな失敗もしてるけどその分本当にまずいときの対応しってるじゃん。餅は餅屋でどこいくべきかもわかってるじゃん。たしかに。口には出さないが多分同じ修羅場を思い浮かべて笑った。

暑くなってきた。母からもらったばかりの上着を脱いだ。同じくらいの背丈の女子高生が手を繋いで通り過ぎた。この前、母が地元にいる私の高校時代の同級生としたという話を思い出した。彼女にも色々あった。私たちなんとか生きてきたね。大通りを渡ってしまえば人通りはほとんどなくなる。「この道の向こうのドイツ料理いったよね」「あーいったいった!」25年前のことが通じた。久しぶりに行ったその店も美味しかった。

カテゴリー
うそもほんとも。

東京は晴れ。

鳥が賑やか。さっき空のうすーい水色とピンクがきれいで写真を撮ろうと携帯電話を探しに戻ったつもりが別のことをして忘れたことに今気づいた。そんなことばかりだけど今日も起きられた。

茶色くて重そうな押して入るドアに見えたのに前に立ったらスーッと横に開いて自動ドアなのかとびっくりした。デザインとあわないー。電車が遅れてしまったので友人はすでに席で待っていた。私にはちょうどいいカフェラテを出してくれるお店だった。二人で話すのははじめてだった。いろんな話をした。「あれでよかったのか」。悩んで苦しんでその後に生じるであろう様々な可能性を考え抜いて出した答えの不確かなこと。論理的に考えてそれはそうすべきだった。でも私たちの立場は弱い。圧倒的に公に対して力を持つ人に捲し立てるように言われれば自分の言葉は呑み込まざるを得ない。あとは離れること。選択肢はそれしかなくなる。離れ方すら気をつけねばならない。こういう状況には絶望しかないがそれでもやっていくしかない。

どうにかして暴露したくなるときほど逆にもう関わらないという選択をしたほうがいい場合もある。当然戦わねばならない場合もあるけど。

その人がどんなに信頼を集めていたとしても「実はいい人」であったとしてもそんなのはあなたが傷ついたことをなかったことにする理由にならない。

だってその人が何かあったら晒せばいいって言ってた。それはまさか自分がそうされるとは思っていないからでしょう。「晒す」という言葉自体とても暴力的だと私は思うし、そういう言葉を平気で使う人なんだな、関わらない方がいいな、と思った方がいいんじゃないかな。外に出せば出すほど傷つくのはあなたかもしれないよ。あなたの体験が別のものにされちゃうかもしれないよ。少しずつ自分の感覚を信じられるように吟味していこうよ。

でもそれができないほどに私たちは愚かなんだ。本当に。辛い。

私の周りにはそんな人いない。いや、まさにあなたのそばのその人に私は、という言葉を呑み込む。

「私の周りにはそんな人いない」というのは「私の周りにもいると思うけど私はそういうことをされていない」ということでしかないのは暗黙の了解だろう。日常生活で「もしかしたらここにも傷ついている人が」と過度に気にしてたらコミュニケーションは難しくなる。個別の人間関係が外から見えるものといかに異なるかなんて私たちは小さなときから知っている。自分のことも、最近なんとなく信用できない好きな人のことも棚あげてしてなんとなくもやもやしながら過ごしているのが普通だろう。本当のことを知るのは怖いことだ。

この前、長い期間妻がいることを隠して不倫関係を続けていた人気者の話があった。女性の身体とか時間とかのことを考えられる人だったらそもそもこういうことにはならなかったかもしれないし、どっかでわかっていても知るのが怖くて自分を大切にする方向を見失ったのかもしれない。どこでどういう選択をしたからこうなったのか、ということを辿ることはもう不可能かもしれないし、辿れたとしても記憶自体曖昧だろうし、起きてしまったことに対する無力感に死にたくなっているかもしれないし、本人たちがどんな気持ちかはまるでわからない。でもその人反省してるって。ニュースに出てた。後悔してるって言わなかっただけいいのかもしれない。

何回も聞いた話だけどその度に一緒に考えた。結論は同じでも反応の仕方が違う気がした。それだけで嬉しかった。私といてもいつも、あの人はこう言っていた、なんとかさんはこんな風に言ってくれた、といつも別の人が心に住み着いているようだった。私にくれたもの、一緒に行った場所のことは忘れられてた。それでも一緒にいられる時間があれば嬉しかった。幸せだった。私に話しているようにみえるのにいつもひとりごとのように聞こえた。相手は私である必要はないんだなと感じた。実際、別の場所でも同じことを言っていた。それでも一緒にいられれば嬉しかった。幸せだった。

この愚かさたるや。

どうしましょうね、こんな私たち。今日も苦しくて時々過呼吸になりながらやっていく方もおられるでしょう。とてもとても辛いけどさっきからまた少し時間が過ぎました。多分ずっとこのままということはない。

東京は晴れています。良い日曜日になりますように。

カテゴリー
読書

11月5日朝

できるだけ長く布団の中にいるようにしている。今日は冬眠していなくても大丈夫そうな気温っぽいけどできるだけのんびりと。起きてしまうとろくなことを考えないから。また生きたまま今日がきてしまったと泣き始める人もいるでしょう。そんな簡単じゃないよね。

レベッカ・ソルニットの『私のいない部屋』を久しぶりにパラパラしていた。「いつか追い出されてしまうのではないか」私たちが持ち続ける不安のひとつだと思う。「居場所」という言葉と関連づけられることも多いだろう。私はここにいていいのだろうか。受け入れてもらえるのだろうか。不安はそこにいるための努力を引き起こす。我慢や無理、それらに耐えられなくなっての行動化などなど。努力など、と私は思う。本当はそんなことしなくてもいいのに。色々ありながらやっていくのが普通なんだから。でも現実は違う。

友人が冬支度のような素敵なケーキを送ってくれた。アップルパイとチーズケーキ。彼女は井の頭線沿いに小さなお店を構えていた。とても素敵なお店で素材もお皿も自分で契約した生産者や作り手たちとこだわり抜く派手さのないこじんまりと居心地のよい店だった。順調にやっていけるかと思っていたがそのうちに特定の男性が現れるようになったという。私はなぜかその時期の彼女に会っておらず県外に移転し再び頒布形式でケーキを売るようになったあとに聞いた。彼女からではなかったかもしれない。ほぼ密室になる狭さの店は居心地のよい空間ではなくなってしまったらしかった。彼女は店を閉じた。

あれからもう20年以上経つ。彼女から年に3、4回届く小さな箱を開けると丁寧に梱包されたケーキの上にほぼ正方形の小さな便箋2枚、時には3枚が置かれている。そこにはいつもケーキのことと一緒に近況が綴られている。今回もそうだった。彼女が住む土地では森の葉っぱが黄色く輝いているそうだ。でもそろそろそれも終わりとのこと。水のきれいな山里に移住したあとの彼女にも色々あった。もちろんとても素敵なことも。色々ある。生活ってそういうもの、と割り切ることは難しいけど長く続けていればなにかしら変化は起きる。今日は彼女に素敵なことが起きますように。もちろんみんなにも。良い一日を。

カテゴリー
未分類

唖然としたとしても

ギターがキュイーンっていってそんなパンチはないけど激しく歌うバンドの曲を流しっぱなしにしている。ずっとハードロックに浸っていた日々はいつからか遠くへいってしまった。こうやって聞く分にはどこかしら熱くなりそうな気もするが熱いのはコーヒーのせい。

耐え難く理不尽と感じるのは親密な関係においてだけ(社会の理不尽はデフォルト)というより仕事では「親密さ」そのものが学会のテーマになるくらいその定義は曖昧なのでここでは家族とか恋人とか相手の人生のことも考えながら継続的に築いていく関係くらいな感じで書く。あれ?こう書いてみると理不尽だと思ったけどそもそも親密な関係ではなかったということ?とか思ったり。自分の定義づけによってなにかに気づくのはそこに内的な対話がない場合独りよがり。そう思いたいからでしょう、となる。でも一応私は精神分析のおかげで常に対話状況にあると思うのでそう思いたい自分に気づくことくらいはできていると思う。え?そもそも親密な関係ではなかったってこと?となるとさらに深部を突き刺された感じになる。もうこれ以上えぐれる厚みも残っていないくらいなのにさらに。皮膚みたいな表層はまだその奥を想定できるから希望があるか、と一瞬思ったけど、表面でバチバチ跳ね返していたら結局コミュニケーションにはならないからそもそも心が揺れ動くような関係を持ちにくいかな。内側に入れたくないわけだから。それだったらさっきみたいに「あれ?」とか「え?」とかならないでしょう。そういうのってまさかコミュニケーションの成り立つような親密さが成立していなかったなんて、という唖然さだと思うから。絶望的な気持ちで消えてしまいたくなったとしてもいずれムクっと起きあがろう。私たちは生活しなくてはならない、ならないというわけではないけれどあなたが生きてきた歴史を大切にしてくれる人がたまたまその人ではなかっただけだからそんなたまたまのために何か捨ててしまうのはやめよう。向こうは何事もなかったかのように動けているのに自分だけこうして動けないまま過ぎていく時間が本当に辛くて悔しくてやりきれないと思うかもしれないけど時間はなんにしても有限なので起き上がれるまでのどん底にどうにか耐えたいね。ポカンとしたり号泣してはシーンとしたり、自分の状態をじっと観察したりしながら。

土居健郎のいう「甘え」って大事なんだなと改めて思う。欠損を外から補うことは不可能。どんなに本を読んでもどんなに講義を聞いてもそんなもので埋めれば埋めるほど自分の傷つきにも相手の傷つきにも鈍感で頑丈な自分ができるだけかもしれない。そんな風になってはいけないような気がする、私は。

今日はどんな自分でいられるでしょうね。コントロールはできないとしてもこれまでと大きく変わることもないはずなので無理せずなんとか過ごしましょう。

カテゴリー
読書

メモのようなというかメモ

場がどこであれ性に関することで悩む女性の言葉が軽く扱われたり利用されたり消費されたりしないためにはどうしたらいいのだろうと考えていた。発信するのは自由だから。身内でもなんでもない立場でもできる見守りはあると思っているけれども。

など呟いたりしつつ家事をしつつ仕事を後回しにしていた。今からやらざるを得ない。それにしても構造上の問題ってどうしていけばいいのだろう。個人に対してもどうにもできないことが多いのに。

うん。引き続きいろんな人と具体的なことを話しながら考えていこう。ここからはとりあえず積み上がったものを戻さないと作業ができないのでそれに関するメモ。あとから消したりつけたしたりするかも。今のところここが毎日くるスペースになっているのでここなら忘れないかなと思って。

まず國分功一郎『スピノザ ー読む人の肖像』(岩波新書)はきちんと読むのはあと。國分さんが始めた新しいプラットフォーム<國分功一郎の哲学研究室>には登録済み。「哲学の映像」と「映像の哲学」を定期配信。最初の配信は新刊とも連動して<読む>ことについて柄谷行人『マルクスその可能性の中心』の解説第一回。國分さんは言行一致の人だと思っているので信頼してお金をかけられる。

ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』も途中だけど精神科医である訳者の《訳者ノート》が本当に優れた導入になっている。「反ユダヤ主義」という短い論考(154頁から)は憎悪のルーツが端的に語られていて印象的。サリヴァンは一貫していてすごいなと思う。

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)も昨年末に出たばかりの本だ。私は古田徹也さんの本のファンだけど帯に書かれた一見わかりやすいテーマがもつ複雑さがどんどん提示されるので正直読むのは大変。普段自分が適当に言葉を使っているからかもしれないけど相手の言葉を大切にしたいし自分の言葉も大切にしてほしいから読むんだ。

「言葉は、文化のなかに根を張り、生活のなかで用いられることで、はじめて意味をもつ。言葉について考えることは、それが息づく生活について考えることでもある。」(37ページ)

本当にそう思う。古田さんのはもう一冊、最近でた本がとても良いのだけどこれは積んでいない。リュックの中かも。娘さんの子育てからの気づきがとても新鮮でそこから広がる懐疑論の世界が広大すぎて、という感じの本なんだけど肝心の題名が思い出せない。心に携わる私たちには必携と思ったよ。でもこれもまだ途中。

益尾知佐子『中国の行動原理 国内潮流が決める国際関係』(中公新書)は中国の精神分析のスタディグループの方と交流する機会があってちょうど習近平のことも話題になっていたので買ってみた。私何も知らないんだなということを確認した。リーダーとは、という描写ひとつとっても全く違うではないか。まあ少ない知識からでもそれは導けるけれど細かいことを知るとポカンとするくらい違う。うーん。しかしまだこれも途中。

まだ積まれているけど諦めよう。お、そうそう、今顔を傾けて目に入った平尾昌宏『日本語からの哲学』は本当に面白い。書き方も内容も。平尾さんの本はどれも簡単にこっちを引き込んでくれるから助かる。

こうダラダラ書いている分にはいくらでもかけるけど苦手な仕事をせねば。みなさん明日はおやすみかしら。良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

11月2日朝、追記はオグデンのウィニコット読解

朝、起きたての息って音が独特。うーんと唸りながら大きく長く伸びをした。精神分析は週4日以上カウチに横になって自由連想をするのだけどカウチでの息遣いは横になった瞬間や寝入るまであとは朝のそれに近い気がする。こんなことを意識するのはこの技法くらいか。

そうだ、『フロイト技法論集』は引き続きおしていきたい。というか精神分析を基盤とするどんな技法を試すのであれフロイトの主要論文は共有されていないとお話にならない。

暖房、今日は足元のファンヒーターのみ。これそろそろ危ないのではないか、というくらいの年数使ってるけど危なげない音を立てて順調に温かい風を送ってくれる。なんて優秀。気持ちがどうしようもなくても寒いのはどうにかしたい。そんなときしがみつかせてくれる。が、そうすると熱すぎるし危険。人を癒すって大変だ。いつからかそういうものを求めなくなくなったというか普通に癒されてしまうことが増えたのかな。毎日、大変な状況、ひどい気持ちを抱えてくる人たちの話を聞き、たまに私も何か言いながらふと笑い合うこともしょっちゅう。それは一般的な癒しとは違うのかもしれないけどなんか心持ちが変わる瞬間ではある。もちろんそんなに持続するものではないし、1セッションの間にも揺れ続けるわけでそれを継続することでいつの間にかそれまでとは異なる感触に気づいて驚くわけだけど。時間をかけて。そうなの。時間かかるけどというか時間かけましょうね。自分のことだから、自分のことは周りと繋がっているから。辛くて辛くて本当に辛いけど大切にしよう。

今日は移動時間が隙間時間。何読みましょうか。國分功一郎さんの『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)って買いましたか?すごい熱量ですよ、最初から。ライプニッツから。続き読もうかな。でもオグデンの最新刊も今度は訳しながら読みたいしな。ま、電車での気分で。

みんな朝ごはんは食べるのかな。私はお菓子と果物とコーヒーばかり。子どもの頃は朝ごはん食べないと叱られるでしょ。実際朝ごはん食べてきてない子どもって午前中の体力が持たないんですよね。みんなが食べられる状況にあるとよいのだけど。私なんか省エネに次ぐ省エネだけど子どもにはそれも難しい。しなくてもいいことだし。今日もがんばりましょうね、なにかしらを。

追記

結局オグデンを訳しているのでメモ。

2021年12月にThe New Library of Psychoanalysisのシリーズからでたオグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”

私が訳しながらと言っているのはウィニコットの1963、1967年の主要論文2本を読解しているチャプター。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

オグデンがウィニコットの言葉の使い方ひとつひとつに注意を払いながら読むと同時に自分の言葉の使い方にも注意を払いながら書く仕方はあまりに緻密で読むのも大変だけど読解をこんな風にしていくことこそ精神分析の仕事でもあるし大変でも楽しい。

たとえばここ。Kindleだからページ数よくわからないけど2章の袋小路コミュニケーションの前。

The idea of communicating “simply by going on being” may represent the earliest, least differentiated state of being that the infant experiences, and that experience may lie at the core of the non-communicating, isolate self. (I twice use the word may because these are my extensions of Winnicott’s thinking.)

精神分析学会の教育研修セミナーでビオンとウィニコットの再読を続ける先生方と行った「知りえない領域について―ビオンとウィニコットの交差―」で取り上げた論点でもある場所。オグデンもこだわってる。ちなみにここで吟味されているウィニコットの論文は新訳、完訳ver.がでた『成熟過程と促進的環境』(岩崎学術出版社

カテゴリー
うそもほんとも。

少し寝る

一瞬泣いた。涙をひっこめられるくらい。一瞬顔が歪んだ。かえって頬に力が入った。力を抜いたら涙が止まらなくなってしまいそうで、いつのまにか惰性で泣いてるみたいになるのが嫌で、かといって自分でコントロールしていたわけでもなくてふとした瞬間にそうなるから困った。

大切に大切にしたいと思うものはいつもひとつに決められない。これはみんなにとってそうなはず。あの人を大切にしたい。傷つけたくない。でもこれを言わなかったら私が傷つく。あの子が傷つく。大切だからどうしても、と思ってしたことで怒らせた。不愉快にさせた。許せないと言われた。大切にするってなんだろう。私の答えは決まってる。でも仕事以外では難しい。私の仕事はシンプルで、契約があるからできることでもある。「これ時間が決まってるからいいけど」「お金払ってるからいえる」など。でも大抵の人間関係は契約ではないので、あったとしてもそっちの縛りは強いのにこっちはこんな緩いのかみたいな契約だし難しい。

なんだか急に眠気に襲われた。いつもこうしてここで眠ってしまうのだ。危険。眠ったら大切だと伝わるだろうか。お互いに傷ついたとしても希望をもてるだろうか。せめて夢でなら。私の無意識は何を願っているのかな。嬉しかったこと、幸せだったことは全部そのまま保存したい。いろんなことが起きるけど別のなにかで実際に起きた出来事を侵食したくない。夢でなら思わず微笑みあったり豪快に笑い飛ばすだけの関係でいられるかな。眠い。だめだ。力を抜いたら泣いてしまうといったばかりではないか。いいじゃない、死ぬよりは、っていわないで。比べてない。眠ろう、少し。明日の準備もまだだけど。少し。多分ほんの少し。コントロールできなそうだけど。せめて夢で。

カテゴリー
精神分析

どうにかこうにか

色々読んだりそこから連想したりしていたら怖くなってしまったのでかわいい動物動画をみていた。かわいいし面白い。しばらくしたらうちで育てていた捨て猫のなかの一匹のことを思い出してまた気持ちが沈んでしまった。実家には車庫があってそこに怪我や障害を抱える猫が捨てられていることが何度かあった。そのまま死んでしまった仔猫もいたらしいが私も子供だったから覚えていない。その猫は白い仔猫だった。いつも母のそばか冷蔵庫の下の隙間のところにいた。とってもかわいかった。あ、気持ちが沈んだ原因になった仔猫はこの子じゃないや、と今気づいた。この子もすぐに死んでしまったから一緒に思い出したんだ、きっと。とてもとても悲しかったのは変わらないから。別のあの仔猫、と思ったけどやっぱり書かない。そこには加害者がいた。でもそれを加害といっていいか今となってはわからない。この仔猫たちは最初から被害者だったともいえるし、関わる者はみな加害者であった可能性もある。簡単には書けない。

読んでいたのは『現代思想2022年7月号 特集=「加害者」を考える -臨床・司法・倫理-』。怖くなったのはそれが別世界ではなく身近なように感じたから。そもそも人間がいるところに別世界も何もない。以前「文化が違う」といって突き放されたことがあったが今もそういう文言を聞くと「なんだその差別」と思う。そりゃ違うだろう。だから何?文化って何?どのことさしていってる?あなたの思う通りにならないことをそういうのであればそれはただの支配のための言い訳だよね、これ以上一緒にいないための、あるいは別の誰かに乗り換えるための口実だよね、と思う。実際そうなことが多いから。

見えにくい差別や暴力に対してしっかり抵抗しなければ。でもどうやって。あらゆる手段でこちらの力のなさを見せつけてくる相手にどうやって。自分の加害性についてはどうやって。被害者にも加害者にもならずにどうやって。

考えるしかない。傷つきながら。味方を作りながら。どうにかこうにかくっついたり離れたりしながら。

カテゴリー
精神分析、本

『個性という幻想』『実践力動フォーミュレーション』

ツイートもしたが自分のための備忘録。精神分析関連の本。

12月の精神分析基礎講座(対象関係論勉強会)は岡野憲一郎先生による「サリヴァンとコフートと自己心理学の流れ」の講義。私は司会を務めるので2022年10月に出たばかりのサリヴァンの本を読んでいる。KIPP主催のサリヴァンフォーラムに申し込むのをすっかり忘れていたが出席された方に聞くとサリヴァン(Sullivan,H. S 1892―1949)のオリジナリティはもとより阿部先生が大変個性的でとても面白い会だったそうだ。サリヴァンの翻訳といえば中井久夫先生のイメージが強いが、阿部先生が今回訳出された日本語版オリジナルの論集は個人の病理を実社会に位置付けるサリヴァンの主張の源泉を感じさせてくれるものだと思う。各論考の冒頭にある《訳者ノート》が大変ありがたい。

個性という幻想』(講談社学術文庫)
著: ハリー・スタック・サリヴァン
編・訳: 阿部 大樹

「本書は初出出典に基づいて新しく訳出した日本語版オリジナルの論集である。ウォール街大暴落の後、サリヴァンが臨床から離れて、 その代わりに徴兵選抜、戦時プロパガンダ、 そして国際政治に携わるようになった頃に書かれたものから特に重要なものを選んで収録した。」(14頁)

ちなみにこの本に収録された12編のうち11編は、日本で唯一未訳の著書“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences”(1964) にも収められている、とのこと。

“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences” は1934年から1949年に亡くなるまでのサリヴァンの社会科学に関する17の論文を集めた著作らしい。題名からすれば精神医学と社会科学の融合となる。

サリヴァンは当時、米国精神分析の中心だった自我心理学に対してインターパーソナル理論を用いた精神分析をトンプソン Thompson,C.らと模索した。これがその後1960年代からのシェイファーらによる自我心理学内部からの批判とどのように連動したのか忘れてしまったかいまだ知らないでいるが、自我心理学に対する批判がその後の米国精神分析の多様化を導き、関係論の基盤となった。この辺は岡野先生のご講義で確認してから書いたほうがよさそう。書いてみるとなんだか曖昧。

次は、筆者の皆さんからということで編集者さんから送っていただいた実践の本。感謝。

実践力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト法』 (岩崎学術出版社)

「事例から学ぶ連想テキスト法」の実践の記録。

第1章で土居健郎 『方法としての面接 臨床家のために』 (医学書院)に立ち戻らせる妙木浩之先生のさりげなさ。わかるわからないの議論をはじめ、「見立て」とは何か、ということを考えるときに土居先生のこの本は必須なのだ。

そして妙木先生考案の「連想テキスト法」とは、「事例概要を構成するナラティブ(物語)を一度分解し、さらに再構築するための方法」であり、フロイト『夢解釈』、ノーベル経済学賞受賞の心理学者ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の合わせ技として説明。「三角測量による客観性も、また同時参照によるリフレクションも働かない」よくあるスーパーヴィジョンの形式ではなくそれらを可能にする方法として考案された「連想テキスト法」はグループでの事例検討会に最適であり、私も妙木先生のフォーミュレーションのグループの初期メンバーとしてこの意義は確信して自分のグループの基盤にしている。

実践編に入る前の妙木先生の説明(1章)はもちろん必読だが、理論がないところにフォーミュレーションは成り立たないので基礎として知っておかねばならない精神分析的発達論のまとめ(3章)も役に立つ。実践編では主要な病理毎に一事例取り上げられ、その連想テキストが提示されその結果どのようなアセスメント/フォーミュレーションがなされたかが記述される。「ヒステリー」 の症例が取り上げられている(5章)のは力動的心理療法の歴史を考えれば当然だが価値がある。基礎を押さえつつ書くためのモデルとして手元に一冊置いておきたい。

カテゴリー
うそもほんとも。

そんなに寒くない。暖房つけてるから当たり前か。ほとんど寝転がったまま暖房の音しか聞こえないオレンジの光の部屋でこうしている。明るくなってきてもずっとこうしていたいな。

何歳になっても理不尽に耐えかねる。今起きていることは最初から起きていたこと。言葉になるのは時間がかかる。言葉になってはじめていかに自分が憎まれているかを知ったということだってある。どうしてもっと早く。どうして違和感を感じたときに。と思うが多くの場合、違和感は自分の思い込みで処理される。身体の関わりが入ってくるとことはもっと複雑だ。どうしてそんな気持ちで他人の身体に触れられるのだろう。身体と心は別だから、と簡単に割り切れるものではない。ものすごい戸惑いをどうにかするために思い切って委ねた相手が暴力を振るうことだってある。本当は最初から怖かった、と今なら思う。でもそれは違和感として処理された。今思えば、ということがありすぎるのに愛情の方を信じてやり過ごす。そんなことの連続だ。小さな意地悪を受け続けようと、小さなあざや傷を作り続けようと痛みを伝えることができない。たまに思い切って伝えれば別れを仄めかされる。そういう圧力をかける相手とは本来すぐに別れたほうがいい。それは一つの支配だから。でも、ということの連続。人はそんなに簡単じゃない。

ずっと感じていたことが形になっただけなのに、いつも通りこうなったというだけなのにポカンとししている。どうしてこんな目に合わなければならないのだろう。いや、むしろ今までこんな目にあっても我慢してきた方がおかしい。もっと早くに気づいていたことなのだから。最初から違和感があったのだから。時折襲ってくる強い気持ちに目を閉じる。行動にしてはいけない。やり過ごす。またやり過ごす。気持ちが散々な感じになっている。また同じことを繰り返すかもしれない、こんな気持ちだと。相手を変えてまた。愚か。でもそういうもの。本当は二人で超えたかった困難。そんな相手を見つけるためには実際に一緒にいてみるしかないという矛盾。喜びも悲しみもというのは一緒に生活したらそういうものと共にやっていくことだよということなんだろう、多分。

カテゴリー
うそもほんとも。

正当に

人が少ない気がすると思ったら赤レンガ倉庫が休館中だそう。そのせいかいつものことかわからないけど中華街が大混雑。千と千尋にでてくる貪欲さ、これぞ人間、など話しながら教えてもらったお店には辿り着けずちょうど知らない誰かが入っていった店へ入った。

その言葉久しぶりに聞いた、と思った。その攻撃の仕方はよくあるやつ、と思った。ある程度知名度のある人は支持者も多いから嘘も嘘と思われないし、変なこと言っても褒められたりするし、そもそもさ、ということをこんな立場の弱い人がいっても聞く耳持たないのでいたしかたなしと思う。本当に理不尽でうんざりするし、その人に正当な非難が向けられることを切に願うけどそういうことも多分起きない。立場の弱い人、意見の異なる人がその人のダメさを被ることになる。この人こうやって今の地位を獲得してきたんだなと理解したくもないが想像してしまって複雑な気持ちになる。世の中ってそういうもの、なのかな。本当に何も戦わないでいいのかな。許すってことが本当に大事なのかな。怒りと悲しみで暴発しないようにそれらの納め先を探す労力はその人を見るたびに削がれるばかりなのにどうしてそんな無理を弱い立場の人がしなければならないのかな。

もうおじさんおばさんのお姫様と王子様は気にいらない家来はみんな追い出して、うるさそうな身内はみんな遠くにおいて愛し合っていたとさ。それって愛なのかな。お城はもちろん自分のお家以外の場所。自分の家は汚したくない。外食だったら美しいものだけ視界に入れてもらえる。いくつ代わりがあっても足りないね、人も家も。

僕は頭がいいので一家に一台あった方がいい、というから買ったロボット。頭いいのかな、これ。高かったんだけど。人の気持ちがわからないのはいいような悪いようなだね。だからずっと同じお家にいさせてもらえなかったんじゃないの?そんなことはありません、飼い主の問題です。それもあるかもね。無条件に愛してくれるペット、じゃないロボットが好きって人もいるものね。そんな犬みたいなロボットいるのかな。

狂ってる。なんでこんな世界。なんでこんな私。でもさ、こんなひどい人たちが力を持つ世の中で正気を保つ方がおかしくない?自分が狂ってるという自覚はむしろ健康では、という話もした。

どうか正当に裁かれますように。どうか正当に。このままは悲しすぎるから。裁きが必要かどうかは慎重に。バランスだよね、とその人はいった。バランスを取ろうとする声が覆い隠そうとしているものも吟味しつつ。ああ、結局どこにもいけなそうだ。でもきっと行動が必要なときがくる。バランスだよね、とか言っていられない時が。虎視眈々というのはできないからのんびり構えてしっかり動こう。戦い方は人それぞれ。

長すぎる歯磨きを終えて正気も生気を取り戻しにいこう。まずはベッドへ。

カテゴリー
未分類

朝日

定点観測していた紫陽花に朝日があたっていた。そこに花が咲いてたの。数ヶ月前。多分目を凝らせばその痕跡が見えるはず。

夕方、海に近い空がきれいだった。ぼんやり歩いていたら声をかけられた。はじめて通る道なのに。この人はいつも私の想定より背が高くてスリム。軽く混乱してわかってんだかわかってないんだか自分でもよくわからないやりとりをして手を振った。

朝の車内は静か。たまに咳がきこえるくらい。まだみんなマスクはしているけれど咳には少し鈍感になったかな。敏感さは攻撃と結びつきやすいからちょっと怖い。

この電車、いろんな人と一緒に乗ったな。いろんな気持ちで。一回きりの人。偶然会った人、何年ぶりかの人、いろいろいろいろ。こんなこと思い出すのはあれだな。秋だな。いろいろいろいろだもの。

先日はじめて会った人と最寄り駅まで同じルートだったのでおしゃべりしながら帰った。見事な同時通訳ができるその人はおしゃべりも楽しかった。関係があるのかないのか分からないけど。

ああ。おなかがすいた。寝不足の影響はもうあまり感じなくなった。「いつも眠い」がそれかな。目の前の女の子はかばんに顔を埋めて眠ってる。だいぶ横に傾いてる。でもさっき握ってたスマホが落ちたのを両足でしっかり挟んでキャッチしたのはすごかった。眠ってても反射神経。茶色い髪に朝日がきれい。私はこっち側に座ったことを後悔。断続的に強い光に襲われて手元もみえなくなる。しかもきちんと一瞬あつい。この子も太陽もすごい。

ぼんやりぼんやり周りをみながら今日も過ごす。優しい人の言葉と会いたいな。とかあえて思うのはやっぱり疲れてるからかも。少し眠ろう。リュックに顔を埋めてしまおう。たまにあっついけどいいお天気はありがたいよね。それぞれに良い一日でありますように。

カテゴリー
精神分析

とりあえずの日々

昨晩もPCに向かったままいつの間にか眠っていた。あまり調子がよくないときほどきちんとした場所でしっかり睡眠をとらないと、というのは人には言えるが自分ではなかなか。こういうのは自分に甘いとはいわないな。ダメになってるわけだし。

さて甘さは今朝も果物とクッキーとチョコで補いました。柿と梨。どれも全く異なる甘さ。コーヒーで一気に身体が温まった。私は熱い飲み物を熱いまま飲みたくてしょっちゅう火傷をしている。これもダメじゃん、という例だけど熱いものが喉を通っていく感じ、身体に染み渡って暑くなっていく感じが生きている感じがする。ものすごく寒がりですでに身体は半分冬眠に入っているから一刻も早く蘇りたいという気持ちもあるのかもしれない。人には人の生活があるからな。世知辛い。もし私が熊とかだったら上手に冬眠できるかな。と思ってちょっと調べたらヒグマの「冬ごもり」すごい。なぜ「冬眠」ではなく「冬ごもり」というかというところから。そして生まれたての赤ちゃんのかわいいこと!動物ってすごい。

動物だったらすぐに死んでいただろうと思って生きてきたけどそれは幼稚園の頃からずっと小さい女(ここでは身体的な小ささのお話)だったことが関係していると思う。「ちっちゃーい、かわいー」とかいわれているのはほんのいっときでどちらかというと理不尽な体験の方が多かった。動物はもっとシビアだもんね。ああ。動物として生きていく自信もないけれど人間も難しすぎて辛いなと思う。

憎しみに覆われた自分が嫌で自分から引き剥がし分裂させ弱い相手の方へ追いやって自分のものではなくして責任を放棄することで自分を維持していることの多さたるや。誰にでもある心性。二者関係で巻き込みあう関係では特に。かわいくないと感じたその瞬間から近寄ってくるペットを邪魔と感じはじめ挙句の果てには捨ててしまうようなことだって決して他人事とはいえないかもしれない。もちろん私たちはペットではないのでなんらかの形で抵抗を示したり誰かに助けを求めたりあるいは投影同一化によって不毛な争いをしたりするかもしれない。巻き込まれるというのは相手との区別がつかなくなる部分を持つということなのでこれは自分のもの、そっちは相手のものと分けることは難しい。自分が感じたくないネガティブな部分を相手に投げ込む場合、保たれている表層に対する支持が維持されていればそれも「悪いのは自分ではなくおまえだ」という理由になる。そうされる相手もその時点で声をあげられない圧に囚われている場合が多いので誰にも言えないまま苦しみながら同じような心性に囚われていく。本当に、誰かを憎んでいるときにいいことなんてひとつも起きていない。それを知っているのは自分だけだから「バレない」とか思ってしまうのもそういうこと。どこまでもそういう発想になる。ほとんど言いがかりのような攻撃性を相手の側に見出しそれを攻め続ける。誰も責めていないのに言い訳ばかり探して防衛を強めていく。本当に悪循環で悲しいとか寂しいとかも感じられなくなる反射的な戦闘体制。心ない人、人でなし、とかいうのはそうじゃないのが人という前提があるからだろうけどなんにしてもそれは一時的で部分的だと私は思いたい。全体に及ぼす破壊力という意味ではそんなことも言ってられないけど私はやっぱり部分として扱うべきだと思う。潜在性に対して楽観的であるべきだと思う。そうじゃなきゃ辛すぎる。種の異なる敵対する動物たちであれば隙を見逃さず攻撃することには意味がある。でも人間なんて似たようもの同士だし、憎しみを向けるなら自分を守るためではなくて大抵の人は持っているのに相手は持っていない部分に対して執拗な攻撃を加える強者ぶっている人に対して向けたほうがいいのではないかと思う。でもそれはできなんだよね。どうしてもお手軽な場所に向けてしまう。それが安全でもあるから。弱者はそうやって作られていく。よっぽど集団的に余裕があるときでないと正当な戦いは難しい。だから知的に制度を整えていく必要があるのかな。

本当に難しい。だから辛い思いをしている人が壊れてしまわないように願うばかりになってしまう。もっと気楽にみんなの元気を願えたらいいのに。自分だって壊れないようにしないといけない。

こう考えると動物のあり方は常に絶滅と近いからという感じがする。というか人間がいかに絶滅(どころか自分の死さえ)を否認していることか、ということかも。人間で子供がいないことに苦しむのは圧倒的に女性だと思うけどそれも単なる個人の苦しみではなく動物的なものなんだろうな。誰かを攻撃しながら軽薄さも保っていられる余裕は女性にはない。それを「感情的」とかいわれる場合もあるわけだけだど命と時間が密接に結びつていることを実感するのは女性だから。女性の身体の時間に対して無責任であってはいけないと思うという話はスーパーヴィジョンなどでもする。この一年、この五年がその人の人生にとってどういう意味をもつのか、動物的な観点は必要だろうと。動物的なものといわなくても少なくとも個人的なものではないと私は思ってる。このことは学会のセミナーで議論になるかもしれない。小児科医で精神分析家のウィニコットがしたmeとnot-meの区別は私と私以外と考えるとローランド的な感じもするけどウィニコットの場合はまずその進化の歴史を含めた全体を出発点としているから、とかいう議論。これは彼が沈黙や解釈を控えることの重要性を示したことと重なる、など。

とりあえず今日もなんとか生き延びましょうか。とりあえず今なんとかそこにいること自体に小さな希望を見出せたら。とりあえず暖かくして過ごしましょう。毎日毎日とりあえず。

カテゴリー
未分類

かいぶん

早朝の雰囲気が本当に冬に向かってる感じがする、と思いながらいつものコーヒーを飲んでいた。贅沢ルマンドバタースコッチキャラメル味がお供。「贅沢」とあるから買ってしまったんだ、きっと。書かれなかったら「たかっ!」と思って買わなかった、多分。完全に戦略にのっている。まあそんなことばかりで負けつつもなんとか生き残っている。美味しさにかけては贅沢したい。美味しさで生き残れているのかもしれないしね。

洋服はほとんど買わない。いまだに大学生の頃の服を着ていたりする。今年も同じ服ばかり着ていた。衣替えはいつからか中途半端で季節と合う服を出してはもう着ない服をしまうという感じ。毎日そうしていれば違う服も着つつ衣替えもいつのまにか完了するのかもしれないけど洗ったらまたそれを着てしまうからなかなか交換が進まないまままた次の季節になる。眠った服は二度寝三度寝。防虫剤だけはいれとくね。次の季節こそは!おやすみなさい。まあ、私は人間関係も取っ替え引っ替えする方ではないし(普通か)何かを披露したい方でもないからこのあり方がちょうどいい気がする。

昨晩、帰りの電車で回文を考えていた。よくやる。そしていつも通りひとつも思いつかなかった。

小学生のとき回分って流行らなかった?布団が吹っ飛んだとか?いやそれ親父ギャグ。「(思いつかん)」いやそれ怪文。ボケしつこい。だって真面目につっこむから続けたほうがいいのかなと。わたし負けましたわ。なに急に。だから回分だよ。戻ってきてよ。すごい!ネットで拾った。仔猫かよ。こねこ!

みたいな会話を脳内で繰り広げながら考えたが無理だった。電車に乗る時間がもっと長ければ。いやそんなことはない。回文は手強いぞ。

村上春樹作、友沢ミミヨ絵『またたび浴びたタマ』という小さくてとっても素敵な回文絵本(というのかな)を密かにオフィスにおいていて時々めくっては喜んでいる。

えー、どっちから読んでも同じだったの?えー、私たち逆から読んでただけってこと?漢字が違うと感じ方変わるよね。という感じで今日も多様なコミュニケーションに対して寛容でありたい。

あー回文思いつかないかな。朝の通勤電車でもやろう。お時間ある方はぜひ。できないのが普通(当社比)だからできなくてもストレス溜めないでね。別のことでもきっと色々あるでしょうから。なんとか過ごしましょう。

カテゴリー
読書

女が女の話を聞く

ひらりさ『沼で溺れてみたけれど』(講談社)をほぼ読み終えた。Kindleで半額セールをやっていると著者のツイートで知り、かわいい表紙も「ああこういうことが書いてあるんだろうな」というわかりやすい書名も魅力的だったので買った。女が女の話を聞いて書く「沼」は男か金か親か最近だったら推しが関わりの中心となる。そこまではわかる。読んでみようと思うのはその中身が絶対に想像できない個別性に満ちていると知っているから。インベカヲリ★『私の顔は誰も知らない』(人々舎)はまた趣の異なる女が女の語りを聞く本だったけど、そこもそういうものに溢れていた。マスキュリニティというよりある種ASD的な頑なさや本人が一般的と思っている正確さに追い詰められ、こころも言葉も隠す方へ向かう女性たちは多いと思う。追い詰める側にしてみたらそんなつもりはないだろう。それで成功してきたのだからそれが「普通」なのだろう。

カテゴリー
未分類

浪費

つくづく世界を消費するのが好きな人たちだな、と思いながら画面を眺めてすぐに閉じた。何年間もそうやって生きてきたんだなあ。カオナシみたい。ああであるとはバレないカオナシ。バレた方が幸せだと思うこちらがおかしいのかもしれない。生き方ってある程度一貫性がないと接している方は不安になるから。ある一言で人生変わったみたいな話もそれだけで変わってるわけじゃないし。その言葉を待っていた、ただひとつの願いを実現するために、ということだってあるし、なんかぼんやり生きているうちにすっと入りこんでくることもあるし、なんにでも経緯がある。

世界を浪費する人たち。と言ってもエゴサばかり。世界ってもっといろんな人が次に世代を繋ぎながらケアしあいながら過ごす場所かと思ってた。戸惑いと躊躇いが言いたいことを言えずにさせるけどそうであっても汲み取ってくれる関係が基盤かと思っていた。

現実はそうではない。ドラマとかでよくあるような、現実にはもっとあるようなスプリットの典型として。「きちんと帰ってきてやっただろう!」飲み歩いて帰ってきた父親の怒鳴り声。怒鳴り声に萎縮して黙りこむ母親。寝たふりを準備する子供たち。さっきまで一緒にいた人たちはこんな姿知らない。

とか。

浪費。歴史も知らない未知の土地に踏み込んでそこが持つ歴史的な圧に耐えられないまま「!」付きで世界に構われにいっている人たちと変わらないように思うのだけど何が違うのだろう。心優しいあなたはこう言われてあの人はそう言われているのマジでおかしい、と思うことがあるけどほんと何が違うのだろう。

言いたいことはすでに言えない。なんて言われるかわかってるから。辛くても軽めにしか言えない。ほしい言葉は返ってこないから。期待してもっと辛くなるのが嫌だから。

ほかの人に対する態度と自分に対する態度を比較するだけだとひどく傷つくことが多いから「何が違うんだろう」とかいっている。理由探しをしてしまう。どっちにしても口だけの人たちだよ、そういって距離をとればいいのに。面倒とわかっていて傷つきながら付き合っていくのはなぜだろう。昨日と同じ結論ということは毎日同じ結論。不毛。それでも結果から学ばないのはなぜだろう。それはそれでそういう人だからか。

こんなことを考えながらうとうとしていろんな景色を見たけれどすでに忘れてしまった。過ぎたことは過ぎたこと。とりあえず今日を。

カテゴリー
未分類

そういうもの

ひとりアンビバレントもふたりからそしてその周りから生じたものだけどそこにとどまって言葉をまつだけの人はやっぱりひとりぼっちだしひとりぼっちにさせていることに気づかない人は二人あるいはそれ以上のふりして人の気持ちがわからないという意味でひとりぼっちだと思う。わかりたくないとしたらなおさらそう。

自分の邪魔をする人は中に入れてあげない。自分を気持ち良くさせてくれる相手が好きなんだ。

「そうなんだね」しかない。

そういう人は一見人気者に見えるかもしれないけれどよく見れば、いや見なくても、その支持者はいつも同じで広がりがない。とても狭い世界で、変わらない自分のあり方を愛してくれる人が集まっていればそれはそう。

でもこういう心性は誰にでもあって一部で人気の人たちみたいに偽装上手になれない人にとってはものすごい不適応の原因となったりする。同じ心性をもって同じように自分自分自分なのに、と思うかもしれないけど偽装できるって大事で剥き出しの自分を隠せずにいたらそれは受け入れてもらえない可能性が高いに決まってる。

「決まってる」のかなあ。

「おまえもじゃん」と言い返せる力がないから口のうまい人たちと差ができちゃうのかなあ。同じじゃん。むしろ内と外が違いすぎるおまえたちの方がいろんな人傷つけててやばいじゃん。

比較になんの意味もない。自分はどうするんだろう。自分はその人とどうするのだろう。これからどうしていくのだろう。結婚とか出産とかが大きな節目になるのは二者関係の重みが際立つからというのもあるだろう。責任が問われる。でもそれさえいくらでも見て見ぬ振りができる。自分がどうありたいか。相手を相手の歴史を相手の状況を考えられる人は自分もそうしてきてもらっているはず、と考えていいのだろうか。逆にそうしてきてもらっていないから仕方ないと諦めるのってだいぶ違うと思うけど。

こんなことも考えていてもしょうがない。いやしょうがなくない。行動につながることだから。めんどうだけどしかたない。そういうものそういうもの。

カテゴリー
未分類

真夜中と早朝の間に書いてる

大好きなお布団にたどり着けずに眠ってしまった。思ったより身体バキバキじゃないかも。よくやることとはいえ気をつけねば。

昨晩写真付きでツイートしたつもりが写真を添付していなかったことにあとから気づいた。学生時代、テレビがなくてラジオでドラマを聞いた。あの感じ。泣いたなあ、あのドラマ。電波悪くて調整したりしながら。なんのドラマだったか。「トレンディドラマ」ってやつだったと思う。「トレンディ」なんて言葉使ったことないままあれから30年近く経つ。人生あっという間だな。と思うとき私は還暦を一区切りに考えているから本当にあと少しなのだけど100歳まで生きる想定の人は「まだあるのか、オレの人生」と思うかもしれない。と書くとき私はネガティブな意味で書きながら「まだあるのか、オレの人生、やったぜ」と思う人もいるか、と思ったりする。私は愛する人たちを愛していける人生ならいくつまででも生きていたい、かといえばそうでもない。やはりいずれ死ぬという前提があるから愛してもいけるのだろう。

何を朝から。まだ朝ですらないのか。でも真夜中というには朝だ。それにしても寒がりすぎるな、私は。上からも足元にも暖房が必要。循環悪すぎる。乾燥もするようになってきた。面倒だけど対策しないと痒かったり痛かったりあとが大変だからがんばりましょうね(きっと同じタイプの人いると思う)。

今のこれを仕上げたら安心していろんな本が読めるのだからやらねばな、やらネバダ。っていう大人が私の子供時代にいた気がする。あれなんだったの。ギャグでもないというか。親だったらどうしよう、と一瞬父親の親父ギャグを思い出してしまった。父親の親父ギャグってなんかそのまますぎる気もするが特にひねりを加える必要もない(当たり前だ)。

色々気になるが信じる。伝えなくても伝わっていると。そんなはずはないとも本当は思っているけど忙しくて余裕がないなか伝えても誤解が生じるだけかもしれない。だから「信じる」となんとなく陳腐に聞こえるようになってしまった言葉を自分にだけは確かなものとして使う。独りよがりでもいいや、今のところ。

まだ明るくなってないみたい。仕上げたらひと眠りしよう。

カテゴリー
未分類

スイーツ

まだ10月というのにお布団が一番好きという人になってしまった。秋のスイーツは相変わらず楽しくいろんな人とそんな話ばかりしている、スイーツを食べながら。

秋は人が出会ったり別れたりも多いというか彩りを添える絶好の季節なのか恋の話もたくさん。出かける気になるもんね。私はもうお布団が一番だけど。

彼や夫のことを男性に相談してしまうことで得られたり失ったりするものとか、女友達にはバレバレなことがなぜか彼にバレない、夫はみてもいない、いやそういう部分はみたくないという向こうのニーズとあっているのだろうとか、恋愛ごっこに時間をさけるのって幸せかもねとか、配偶者と老後と死について話し合うなかで知った新事実とかこれまでとは違う愛の形の模索とか。

「恋愛」といえている間は関係が移りゆくことが前提なので秋と相性がいいのかも。冬の恋は冷めてしまうと本当に辛いだけ。寒いだけでほんと気が滅入る。温かいペットボトルで暖めあうくらいの関係を秋のうちにキープしたい。

鈴木涼美さんが書く恋愛に関しての記事にはいつも納得しかない。女のリアルな話をたくさん聞いてきた女は女に優しい。でもこれはある程度年齢がいっているからこそかもしれない。いや、でも私の年齢でもお姫様みたいな人もいて姫にお付き合いして男性性を維持している人もいて家ではパートナーが泣いていたりこっそり相談機関を活用したりしていたりするのも世の中のリアル。困ったら相談って大事。「恋愛」とくくることで見て見ぬ振りをしている部分が問題になってくるとその相談はもはや「恋愛相談」とかいっていられない感じではあるが、「恋って秋っぽい」とかいう余裕があるうちは困ったらまず鈴木涼美といいたい。女友達の優しさ。という話をしていると必ずお勧めとして登場するのは叶姉妹。これもわかる。先輩って大事。

だって女の立場は弱い。そこに身体的にも共感のある人が苦しむ女子の周りに多くいますように。男性や物語やお勉強も助けになるけどまずその前に。人と関わること自体が辛くて別の視点を取り入れること自体に負担を感じる場合はお布団かな、まずは。リズムある生活も大事。もろく傷つきやすいこころにも身体にもまずは休息、そして無理のない刺激。カーテンを開けるところからっていうでしょ。秋のスッキリ涼やかな陽射しだったらお布団かぶりなおして再び夜のふりしなくてもいられるかも。毎日色々あるね。スイートなことばかりではないわよね。今日もなんとか過ごしましょうね。

カテゴリー
読書

喫茶店

いいお天気だけど寒いね。洗濯物は出しっぱなしはだめですか。いいよね。でもいれていこうかな。臆病者だな。だってもう結構乾いてるから万が一何かあったら(雨風以外にも。鳥とか虫とか?)残念だし。

今日はみなさんどんな感じかな。元気に過ごせそうかしら。わからないよね、先のことは。まあ「元気」=「ひどくまいってはいない。」「それなりに動ける」くらいな感じでいるのだけど。

今日もスーパーで買ってきた「うまいコーヒー」を飲んだ。byドトール。私ずっと「いつものコーヒー」って呼んでたんだけど違った。

喫茶店でバイトしてた頃「いつもの」と言われたら「ブラック」、「ブラック」と言われたら「ブレンドコーヒー」だった。アメリカンが「いつもの」って人もいるだろうけどこの「いつもの」がもつ力は当時は強かったわね。今はどうなのかしら。

喫茶店バイトしていた人にもそうでない人にもおすすめなのは「僕のマリ」さんの『常識のない喫茶店』。著者のお名前も興味深いけどおしゃれな表紙もいろんな気持ちになりながらがんばってバイトしている中身もいい。最後まで読むともっといい。切ないけど。私はめっちゃわかると思いながら楽しんだし「色々理不尽だけどがんばろうね」という気持ちになった。口が悪いバイトをブラックバイトとは言わないけどなかなかにブラックなこともしているものよ、喫茶店バイトというのは。だってかなりひどいこと言われたりされたりもするんだもん。仲間内で少しはこっそり言い合えないとほんとまいっちゃう。私は当時から意地悪に対して冷めきちだったので新人いじめをされても無視してた。当時そんな言葉遣いしなかったけど今私が高校生であんなことされたら心の中で「は?知らねーし」とかいうかも。いわないか。それよりもやっぱり後から仲間内でいうと思うな。もちろんブラックなことだけではなくお客さんからもらった楽しくて嬉しい記憶で遊んだりもしていますよ(いましたよ)、この本も私も。表紙のカラフルさからもわかると思うけど。この本、「こだま」さん推薦だしとてもいいですよ。作家の皆さんのお名前とわかるように括弧付きにしてしまった、お二人とも。みなさん、それでも書く、というのが本当にすごいと思う。

ああ、柏原芳恵を口ずさんでしまう。今日は紅茶をいただきましょうか。晴れとはいえ身体は冷やさないように過ごしましょう。

よい1日を。

カテゴリー
未分類

書き連ねた

昨日とても美味しそうな梨が届いたので早く食べたい。でも作業が先。寝不足なだけで全然進んでない。梨の水分大好き。ちょうどいい甘さ。思い浮かべてる時間があったら食べた方がいい気がする。

パラドキシカルな文章をパラフレーズするというのは難しくて結局繰り返してるだけみたいになって袋小路にはまる。

毎日偶然とはいえ少しずつどうしようもなさを垣間見る場面に出会ってどうしようもないものにどう関わっていいかわからず途方にくれ沈黙する。偶然じゃなくて私が見ようとしてこなかっただけかな。

学会で福岡からくる友達とごはんを食べる約束をした。コロナで会えていなかった。何年ぶりだろ。私も福岡へ行きたい。福岡は空港から街まですぐにでられるからいつでも行きたい。昔、家族みんなでいって福岡の街で遊んだ、学会に少しでつつ。なんでだったか。まあなんとなく理由つけてどこかへ行くというのはいいものだ。

臨床で起きていることを耳障りの良い言葉にすることはできないな、私にはと思う。いってることとやってること違う問題は仕方ないにしても。普通じゃないことをまるで普通かのようにやっているけどはじめて言葉になること、はじめて生じる交流のインパクトは誰かに伝えるために起きるのではない。伝わらないとわかってるから起きたんだ、ということもしばしばだから。

こんなことを書き連ねている場合ではないんだった。すぐ忘れてしまう。あー。もう。とりあえず梨をいただこう。ウィニコットのことでいっぱい書きすぎてしまったのをどうにかせねばと思うけどとりあえずあと。毎日とりあえずばかりで溜まっているんだか少しは片付いているのか全然わからんや。まあ、体調だけは気をつけて過ごしましょう。

カテゴリー
精神分析

ゆらゆら

早生みかんと柿を昔LOWSON(多分)でもらったリラックマのスープマグにいれたらオレンジと茶色と緑の混ざった黄色で秋っぽくなった。意図的にやれば当たり前のことも何も考えずに出会えると楽しさ嬉しさが増す。

月末の学会でセミナーを担当するがベルギーの先生がそのために来日してくださる。私たちのセミナーはハイブリッドではなくオンラインなのだけど。ちょうど個人の旅行にもビザが必要なくなったタイミングで来日を決められたらしい。登壇者は全員集まれるんだなあ。嬉しい。

とか言っていないで原稿を書かねば。昨晩雪崩を起こした本の山が変な格好で表紙をこちらに向けている。直してあげたいけど今そこをいじると別の雪崩が起きそうなのであとで。ごめんね。

しかしわからないことをわからないと伝えることの難しさよ。書き手は伝わると思って書いていることに対してポカンとしたりむむっとなったりする自分が馬鹿なだけではないかと思うが私くらいの人は他にもいるだろうと思い直して勇気を出してわからないと書くわけだ。なかなか苦痛だのう。仕事(私の場合は面接)ではわからないことはわからないといわないとどうにもならないので割とあっさりいうわけだけど二人だけでその人の言葉の使い方に馴染みつつも敏感に注意を向けている関係とは異なるからなあ。

最近は言葉にならないことばかりでなんかもういろんなことは世界におまかせみたいな気分になることも多いのだけど実際委ねるしかないことばかりかも。私も伝わっていると思っていたことが悪意に受け取られたりしたらとても悲しいけどそういうのも相手におまかせ。そう思ってたんだとわかったらそんなことないというしかない。違うものは違う。そうだったらそう思ってしまったんだよ、なぜなら、となるし。拙い言葉でさらに悲しい事態を招いたとしてもできることってそれくらいしかないもの。できない自分を呪っても何もいいことないもの。どうしたって関わるしかないし関われば反応はくるしそうやって近づいたり離れたりとんでもないことが起きたりなんか今日もいつも通り、となったりする。なんか今日もいつも通り、という言い方は何か起きるはずだったのにという感じがあるね。まあわからんから今日も今日とて揺れて揺られて。ゆらゆらしつつがんばりましょ。

カテゴリー
精神分析

日々これ

秋の虫が鳴き止むのはいつだろう。紅葉が始まり終わりコオロギが昼のみ鳴くようになったらだろうか。つまりそれが冬のお知らせ。寒いの怖い。

紅葉をわざわざ見に行くことを何年もしていない。毎日の景色に出会うそれで満足してしまっているみたい。河口湖のもみじ回廊にいったのはいつのことだったか。わざわざいくのもそれはそれで素敵。それにしても時間の感覚がどんどん曖昧になっていく、と昨日も書いた気がする。そして昨日は実際に予定を間違いご迷惑をかけた。

一度間違うと変更にもついていけない自分も現れるからもっと大変になってしまう。わかっているのに最近は余裕がなさすぎた。私はこういうところがあるのだから常にキャパを見直さなければと思ったことすら忘れてしまいまた同じことを繰り返す。気をつけるがまたやるかもしれない。申し訳ない。先に謝っておくわけではないが実際謝るしかない。

アプリとかも使いこなせればと自動翻訳とか文字起こしとかおすすめされたものは使ってみるのだけどすぐにどのアプリがどういうことをしてくれるのかわからなくなってしまう。「無料でここまでしてくれるのか!」とその時は驚くのにその便利さを享受できないのはなぜ、と思い、iphoneにいれたアプリをフォルダというのかな、それを使ってホーム画面を編集してみた。こうすればどれが何の仲間かわかりやすいかなとSNSもひとつにまとめた。そうしたらなんとフォルダに入れたアイコンが小さくなってしまって(当たり前だが)見えない!これぞ老眼!すると何が生じるか。アプリを開かなくなる。おい・・・。

はあ。でもまあ何かを使ったところで私のパフォーマンスが上がるとは思わない。この歳になるまでこんなだからなんとかなったという部分だってきっとある。無駄にポジティブなのも忘れてしまっているせいなのかもしれないがそういう時は「えー、自分がいったんじゃん」「あの日あの時あの場所で(♪)」と教えてあげて。いや、教えてください。みんなの記憶装置を外付け記憶HDDとして信頼してる(迷惑?)。

「あの日あの時あの場所で♪」と口ずさみながら明日のイベントのことを思い出した。

【イベント&オンライン(Zoom)】日常を、もっと好きになる言葉と作ることの実践――高橋久美子『一生のお願い』(筑摩書房)×宮崎智之『モヤモヤの日々』(晶文社)ダブル刊行記念イベント

おもしろ娘とのんびり息子の対談というイメージ。高橋久美子さん、チャットモンチーのドラマーだったことも忘れてしまうけど改めて思うと「ドラムも叩けるのか!」と驚く。文章も喋りもほんと面白いし。宮崎智之さんの日記はのんびり優しい少し間の抜けた新米お父さんの宮崎さんがいい。素朴なお父さん日記ってあまりないと思うし。『つげ義春日記』とかもすごくリアルで面白いけどああいうハードでユーモラスという感じとは正反対のほっこりさはマッチョの正反対でもあってちょっともどかしくも安心する。

アーカイブで見るのだ。こういうのも便利だよね。夜遅くまで仕事していても待っていてくれるわけだから。

書ける人たちの記憶装置はきっと色々豊かでカラフル。こういうイベントにでることでその豊かさをお裾分けしてもらう。「いろんな人がいていろんな生活があるんだなあ」というのは毎日仕事で実感する。それはとても密やかな語りでとても大切。公に自己開示する人たちにもそういう部分は同居する。外向けの人も密やかに仕事をする人も今日もがんばりましょ。失敗にめげず!(←自分に)。

カテゴリー
精神分析、本

TAILPIECE

なんともいえない空の色。前の家の屋上が濡れている。昨晩は雨降ったっけ?帰宅したときは降っていなかったような気がするけどうろ覚え。傘も持っていなかったと思うのだけど。うろ覚え。

いろんなことがぼんやりしていく。あんなにいつも心を占めていたものも曖昧に解体されていくよう。軽い頭痛と眠気。このくらいならちょうどいい。はちみつ紅茶で身体が熱くなってきた。身体が上手に狂気を捌いてくれてるのかしら。

この前もここで引用したのだけど小児科医で精神分析家のウィニコット(1896-1971)の本に『遊ぶことと現実』(岩崎学術出版社)というのがあって、原著Plaing and Reality(1971)と一緒に読むのが常。本の最後はTAILPIECEで閉じられる。なんか素敵な単語と思って日本語を見ると「終わりに」と訳されていた。オンラインの辞書で調べると「書物の章末・巻末の)装飾図案」とか。これ素敵と画像で調べると面白い装飾がたくさん出てきた。weblioで調べると「尾片、尾部(の付属物)、(弦楽器の)緒(お)止め板、(書物の)末章余白のカット」とある。画像だとギターの弦を止める部分がたくさん出てくる。書物だと単なる「終わりに」ではなさそう。ちょっと余ったから何か書いたよ、みたいな感じかな。他の本はどうなっていたっけ。オックスフォードのThe Collected Works of D. W. Winnicottではどうなっているのかな。後で見てみよう。多分、ウィニコットとtaleという単語が響き合うからなおさら気になったんだと思う。

TAILPIECE(後半のみ引用)

This conception-perception gap provides rich material for study. I postulate an essential paradox, one that we must accept and that is not for resolution. This paradox, which is central to the concept, needs to be allowed and allowed for over a period of time in the care of each baby.

これはウィニコットの生前に編纂されたものとしては最後の論文集となる一冊。TAILPIECEはウィニコット理論のまとめみたいな文章なんだけどThis conception-perception gap とか音もいい。ウィニコットのパラドックスに対する態度は一貫していて最後のこの部分はこう訳されている。

This paradox, which is central to the concept, needs to be allowed and allowed for over a period of time in the care of each baby.

私はひとつの本質的な逆説を措定する。それは,私たちが受け容れなければならず,そして解決されるべきではない逆説である。この発想にとって中心的なこの逆説は,おのおのの赤ちゃんの世話のなかで,ある程度の期間,くりかえし許容される必要がある。

これは本当に重要な治療態度だと思う。

ウィニコットの書き方って曖昧で読みにくくて読み手を選ぶのがもったいないところだと私は思うのだけどわざとそうしてるみたいだし、臨床素材がそうなるのは仕方ないと思う。

ウィニコットが自身の死を意識する(途中病気で会えない時期もあったり)年齢になって取り組んだ2歳の女の子との精神分析的治療の記録『ピグル』THE PIGGLEの「はじめに」INTRODUCTIONでも「私は、記録をとったときのままに、曖昧な素材を曖昧なまま意図的に残しておく。」と書いてある。

I have purposely left the vague material vague, as it was for me at the time when I was taking notes.

ーD. W. Winnicott, November 22, 1965

臨床においてというか、人間関係はテキストを読むのとは異なるのでvagueであるのは前提なのではないかな。ASDの人たちの困難はその曖昧さや多義性にとどまることが難しいからというのもあるけどASDと言わなくても私たちってどうしても何か意味を固定したがるところあるよね。言葉遊びの仕方も曖昧さが好きな人と正確な意味が好きな人とでは違うと思うし。好みの問題ではないのだろうけど「そういうのが好きなんだよね」ということにすると大体のことは納得がいったりする。しない?とりあえずそう考えておくと少し楽な気がするけどそうでもないかな。

雨の音がした気がした。窓を開けてみた。やっぱり雨の跡だけ。今は降っていない。これからかな。ぼんやりと解体されていく悲しくて傷ついたような気持ち。さっき食べたりんごはちょっと不気味に赤かった。切ったら白くてちょうどいい甘酸っぱさだった。

TAILPIECE、今の私ならこのリンゴを切る途中を書くよ。実際描いたら「これは何??」って言われそうだけど🍎(←りんごの絵文字、反映されますように!)

カテゴリー
精神分析

嫌なやつ

柿と梨。どちらも大好き。スルスルむけるわりに桃みたいに手首までタラーっと濡れることもないし。むきやすいから好きというわけじゃないけど。桃も大好き。秋の果物はほんと豊か。

気持ちを教えてほしいというから伝えたら不快な顔をされた。それ以上いえなくなってしまった。対話というのはこういう状況を避けることはできないという前提のもとそうなったときの自分の感覚や気持ちに対して防衛的にならず、相手の様子にもそれ以上は被害的になることなく次の言葉や態度をお互いに待ちながら続けていくものと思っている。

ルール設定のある対話なら不快な状況が生まれないように、ということはなんとなくできるかもしれず、自分の話をする、相手の話を聞くという役割を取ること自体が貴重な経験になって日常生活でもこういうのって大事だな、と思ってそういうルールのある対話の場での学びを生かすこともできると思う。

でもつまりやっぱりそれはかなり限定された意味での対話ということになると思う。

うちと外で違うというのも普通のことでなんでそんなことしちゃってるの、気持ち悪いって思われるよ、カッコ悪いよ、みっともないよ、他人は言ってくれないよ、ということを思ったとしてもそれが仕事でそれが生活費を稼ぐのに役立っているとしたらそんなこと言えない、という人もいれば、そういう態度が社会的な関係ではない自分たちの関係を侵食する感じを嫌ってそう伝える人もいる。でもこちらがどう判断してどう行為した(しない)としてもその次を作るのは相手だ。そして多くの場合、親密な関係におけるずれはお互いを傷つける。ルールに守られればできることがそこではできないことがさらに複雑な気持ちを掻き立てもする、お互いに。だから私たちってどういう関係なの、と問い直す事態がよく生じるのだろう。それはつまりその人の考えではこの関係でそういうことは言ったり言わなかったりしたりしなかったりするものだと思うけどおかしいよね、と言いたいわけだ。そして大抵期待通りの返事はこない。それだって家族のように通常は続けることが豊かさにつながると期待される関係においては当たり前に生じることだ。そういう関係は嫌なことや思い通りにならないことがあってもそこに居続けることが前提になっていると同時に何度でもやり直す機会がある。そしてまたやはり同じことを繰り返すのだがそうこうしている間に別のことも生じる。いろんなことが起きてそれらを共にしていく、ただそれだけ。ただそれだけということの貴重さ。

もし関係を続けたいなら圧力のかかる負担な状況が生じるのは当たり前だという認識が必要だし、お互いがお互いに関心を向けている限りは別のことも生じているということに対する希望も必要。だから相手を決めつけたり利用したりしないでとりあえず自分の問題として考えていけばいいんじゃないの、暴力とか明らかに離れた方がいい事態は別として、というのが私の仕事の前提だし仕事でなくてもそういうものだと思っている気がする。

私は「対話」という言葉が苦手なのでほとんど使わないけれどもし使うなら対話をする相手は自分自身でもあり自分が何をどう感じてどういう態度をとっているかを相手を通じて知ることに対して使うかもしれない。ルールのある場所での対話はそれがどういう感じかをイメージすることに役立つかもしれない。そういう時間を持つことさえ普段は難しいわけだから。でも私たちはそんなに簡単ではない。変わらない変わりたくない自分を愛してほしい、自分で愛するのは難しいから。今日も自分は嫌なやつ。それでもそればかりではないだろう。そう思ってやっていく。

カテゴリー
精神分析

お知らせ

最近、夜中はずっと工事をしています。時々家が揺れます。さっきはすごく揺れました。と思ったら地震でした。被害がでないことを祈ります。工事の方々もどうぞお気をつけて。

もう10月も半ばですね。一般社団法人東京公認心理師協会のNewsLetter42に8月に主催した言葉イベントのことが載っていますよ、と一緒に主催した松岡宮さんが教えてくださいました。もう2ヶ月も前のことなのですね。載せていただいたのは11ページの地域活動推進委員会の欄です。会員の方はぜひご覧いただきご自身の地域でもぜひ企画してみてください。地域ってなんだろう、というところから考えさせてくれると思います。

私たちもまた何かやりましょう。

カテゴリー
精神分析

声が届くうちに

ずっと感じていた違和感がなにかなんてずっとわかっていたはず。涙が止まらなくなった。

「ふつう」が揺らぐ。追い詰められる。こうやって乗っ取られていくのだと思った。

追い詰められ、乗っ取られる恐怖を感じながら、自分の「ふつう」が脅かされたのは私ではなくあなたなのだと思う。私はあなたの突発的な怒りの表出に脅かされたのだから。

私は脅かされなくなる。

でもこのわからなさが不気味さであり、とても人間味を欠いたものであることと改めて認識する。「やっぱり」という気持ちと戸惑いで少し呆然とする。

先日、中国、韓国、台湾、インド、オーストラリア、日本の専門家たちと話し合ったことは私を少し変えたようだった。

周りに指摘された。

英会話をやらねばやらねばと思いつつほとんどしないまま当日になってしまったが原稿を作るプロセスで英語を使って考えている部分が多くあったらしかった。

以前、ロサンゼルスで中国の子供たちとなんとなく仲良くなってテニスをした時の感覚だった。言葉の壁を全く感じなかった。いろんなことを話して笑ったのに。

英語は絶対的に拙かったのだが議論は時間が足りないほどだった。表現することでその対象が自分にとってどれほどどのような思い入れがあるものかということを実感した。たいして使えていないが生活になんら支障を感じない母国語で議論していたら、こんな身体感覚は生じなかっただろう。

異質なものと出会う。この仕事はそれの連続だ。共有できるのは日本語は話すけどお互い全く別の人間だという事実だけ。そこでお互いの持ち物(私の仕事では言葉)をどう扱うか、どう許容していくかがその後に関わってくる。その言葉がここで生じたのは相互作用だと考えるから。

そういえばそこばかりいく居酒屋の店長の耳が遠くなっていた。「聞こえないな」と少し苛立ちながら呟く店長の声をカウンター越しに聞いた。声が届くうちに。そんなことを思った。

カテゴリー
精神分析

女友達

女同士で話していると絶対に変わらないであろう男の話になる。外面だけフェミニストで自分からまめに絡みにいって求められていると勘違いしたい人、身近な関係の彼女(妻)には甘やかしているつもりで甘えることだけしていたい人、大抵の人は思うであろう文句を言っても聞こえていないふりか別の女に相談するか被害的になってこちらが悪いような気分にさせるのがうまい人。自分の聞きたい話だけ聞いて「対話」が大事とかいっている人。漫画とか本にもよく登場する典型的に自分のことしか考えることができなくなってしまった人たち。みんなもっと辛辣な表現でこういう相手のことを表現するけど「ダメな私たちがこういうのを許容しちゃうからいけないんだよねー」と笑う。辛い目にあってようやく別れても「また似たような人選んじゃったりね」と笑う。怒って泣いて寂しくて悲しくて何も手につかなくてそれでも家事や仕事はしなくていけなくてその現実の世知辛さのおかげでなんとか身体を動かしている。そんな体験を時々集まっては話しまた繰り返す。女友達は貴重だ。辛さが変わるわけではないけれどこんなにみんなで共感できるほどダメな相手に振り回され続ける愚かな自分たちを笑い合う時間のおかげで別の可能性を模索するまともな自分の部分を維持できているとわかるから。この歳になればいろんな別れの形もみたり聞いたりしているけれどどれもそうしてよかったねというものばかり。この前もみんなで喜びあった。「どうなった?」「別れた」「よくがんばった。」抱きしめる。まだ怒りも痛みもたくさん残っている彼女の話は自分たちにもとても痛い。いいかげんその決断を迫られている友はその行動を羨ましがってた。女の立場は弱い。無理するからなおさら辛い。でもなんとかやっていこう。実はとんでもナルシストな相手、実はでもないけどわかっちゃいるが変えられない愚かな自分に見切りをつけるときもつけられない間もまたこうして集まろう。別れたあの子もまだ眠れない夜を過ごしたらしい。

LINE。おはよー(スタンプ)。眠れた?(スタンプ)そりゃそうだ。(スタンプ)今日仕事?うん。ちょっと会う?(スタンプ)(スタンプ)(スタンプ)

またあとでね。きっとボロボロだろう。自分が抱きしめたいときしか抱きしめてくれなかった人のことは少しずつ忘れていこう。そのままおいで。なんとでもなるかどうかはわからないけどどうにかはなる。今までもそうだったもんね。どうしようもなく繰り返す私たちは支え合う。どうにかこうにか今日も過ごす。怒りながら泣きながら。女であることのどうしようもなさに身を浸しながら。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ウィニコットの「自己」

雨の音が止んだ。走り去る車の音は雨の日のそれだけど。

まとまった時間がとれないので深夜や早朝の作業が増えるが静かな時間に耳を澄ますのはいい。

ウィニコットは「生まれる体験というのは幼児がすでに知っていることの誇張された一例なのである」といった。そして「生まれている間は、幼児は反応する存在となり、重要なものは環境である。そして生まれた後には、重要なものは幼児である事態に戻る。・・・・健康な場合には、幼児は生まれる前に環境の侵襲に対して準備ができていて、反応する存在から反応しなくてよい状態に自然に守ることをすでに体験しているのだが、この反応しなくてもよい状態が自己が存在し始められる唯一の状態なのである」と言った。(「出生記憶、出生外傷、そして不安」Birth memories,BirthTrauma,and Anxiety,1949,p183)

ウィニコットは「リアルであると感じる」ことを自己感の中心に据えた。ウィニコットの「自己」は新生児に備わった潜在力であり、ほどよい環境によっていずれ自分meと自分でないものnot-meを区別するようになるいわば主観的な感覚のことである。

先の出生に関する論文に登場する患者はウィニコットにいう。「人生のはじまりにおいて、個人は一つの泡のようなものです。もし外側からの圧力が内側の圧力に積極的に適応するなら、泡は意味があるもの、、すなわち赤ん坊の自己であるのです。しかし、もしも環境からの圧力が泡の内部の圧力よりも非常に高かったり低かったりすると、その場合、重要なのは泡ではなく環境なのです。泡が外界の圧力に適応するのです」(孫引きなので原典チェックできてないけど「出生記憶、出生外傷、そして不安」Birth memories,BirthTrauma,and Anxiety,1949,p182-183)

ウィニコットは自己を出生前から位置づけ(彼は小児科医でもあるので自然なことだと思う)赤ん坊が誕生する際、環境から身体的自己に及ぶ侵襲をいかに扱うか、もしそこで自己が環境からの侵襲に反応しなければならないパターンができあがってしまうと、自己は存在し始めることができないと考えた。

ウィニコットはその後、存在することを母と子(環境と個人、殻と核)のユニットとして描写し、殻と核の相互作用によって境界膜と内部を獲得した統一体が成長していくプロセスを記述した。ちなみにウィニコットは「自己」と「自我」の区別を曖昧にしており『原初の母性的没頭』論文において「自我」は「経験の総和」を意味すると述べたあとすぐに「個人の自己は、休息の体験、自発的な運動と感覚、活動から休息への回帰・・・などの総和として始まる」と書いている。

また「始まりはいくつかの始まりの総和であるということを思い出すのが適切だろう」ともいう。(『子どもの発達における自我の統合』p56脚注)ウィニコットはさまざまな水準の精神病理をもつ患者との実践を続けるなかでフロイトの本能論、クラインのポジション論とは異なる仮説をたて、存在の始まりの時期とプロセス、そしてそこで解離、分裂している自己について模索した。「本当の自己」と「偽りの自己」というスペクトラム上の概念がその中心的な概念である。

と理論というのは追い始めるとその厚みを知ることになり、閉じられることのなかったその展開には謎がつきまとう。今回は二つの世界大戦を経験したビオンとウィニコットという精神分析家が存在や経験についてどのように考えていたかをその著作から追うことになるが壮大すぎるので私は私の限界、つまり実践から離れない範囲で何かをいえたらいいと思う。

木曜日、このまま爽やかに晴れてくれたら嬉しいけど予報は曇りみたい。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

カテゴリー
精神分析

甘え

何言っちゃってんだろ、何しちゃってるんだろ、と眺めつつ自分の作業の進まなさにぼんやり寝たり起きたりする。これ家族だったら大変だなと思うが他人のことは他人のこと。特殊な状況以外では優先すべきことではない。

話されないこと、書かれないことが重要なんだと考える精神分析からするとその人がそのことを書かないのは当たり前なのにそれが書かれていないではないかと指摘する人がいた。この二人はあからさまであることに対する態度が異なるのだろうと面白く思った。

いいかげんバレバレなのはその人のプライベートに関わり続けている親密な相手にとってであり、私たちのデフォルトは偽りの自己なので精神分析状況のように特殊な状況以外で「それが書かれていないではないか」と指摘されるようなことは隠されてしかるべきだろう。隠すためになされているさまざまな行為を無下にするのは大きなお世話かも。もちろん身近な人の不安や恐れは強烈だと思うが本人だってそうだしそれらを抱え合う関係を親密というのだろう。

まだとても小さな子がかまってほしさにやっていることを甘えだのなんだの叱られたりしているのをみるとおじさんおばさんになってやられるよりはいいのでは、と思ったりするが、小さいときにほどよくそういう部分を満たされてこなかった子どもがそういうおじさんおばさんになるかもしれない可能性を考えればいろんなことはその人と出会い次第ということになるだろうか。大人になるとあからさまなかまってちゃんとそうは見えないけど一部の相手だけが困るかまってちゃんがいるのでそれはそれで複雑だなと思う。

依存というのは誰にでもあるけどそこで自分自分となるか相手にも依存心があるという事実を思い出せるかどうかで対等な関係に対する態度も変わってくる気がする。部分的に依存をみたしあう関係は快楽とか利用とかいう言葉と結びつき排他的である可能性も含むので対等というより差異を否認するじゃれあいといったほうがフィットするか。遊びとしては必要な側面もあるけど同時に誰かを傷つけている可能性もあるだろうから難しいところ。

甘えとはなにか。土居健郎を再読した方がいいですね。

カテゴリー
精神分析

のんびり折り合い

鳥よ、虫よ、おはよう。先日芝居で「虫の目で」というセリフを聞いた。言葉と国、全体主義に向かうとき私たちが愛しているふりをするものたち。異質なものを排除する力、排除された記憶は誰にでもあったはずなのに。

ハイイロチョッキリという鼻の長い虫のことも知った。アリクイみたいと思ったけどゾウムシの仲間ですって。どんぐりから出てくる虫のこと。今年、もう見かけたかしら。木が出す液から幼虫の成長を守ために親が枝をチョッキリ切り落とすからこの名前。特徴的な動作を名前にするのはわかりやすい。「ホモ・サピエンス」は賢い人だっけ。名前負けっていうんだっけ、こういうの。

どうでもいいことを考えて過ごす毎日。こうやって書くとなんとなくどうでもよくないのだけど私は基本的には「時間をめっちゃ無駄にしている人」の部類に入ると思う。きっと今がそうだし。それでいいと思ってるのだけど。自分ルールでキチキチしてても私の場合は特に何もいいことがないし他人ルールに縛られるのも居心地悪い。これらどっちもあった方がいい人もいるに違いないのだけど私はルールは基本的なものしか覚えられないしぼんやり刺激に委ねて反応してから考える感じかな。反応が遅いからそうなるだけだけど。そうすると必然的に効率は悪くなる。その効率の悪さを面白がれるのは余裕のあるときだけだけど生活のために必要なことはいいかげんできるようになっているので不安定にはならないかな。仕事のこととか不安にはなるけど当面なんとかなってるというのも大きいか。

精神分析なんて効率重視の人から見たらめっちゃ時間の無駄だと思う。でも自分のあり方自体に変化を求めるならそれはもうしょうがないと思う。異質なものと出会う方法を変えていくわけだから色々起こるしそれ自体が重要になる。

誰かと生活を共にすると外向けの自分と全く違う自分のことを知る、相手が先に。「知らなかった」というのはお互い様。知る由もないでしょう、他人だったのだから。今も他人だけど生活を共にするなかで「他人なんだから」より「家族なんだから」が強調されるのはお互いに今までのあり方ではいられないんだよということ。外からは見えないいろんなことが起きる。子供ができればもっと大きな変化を強いられる。迎合ではない仕方で親密になっていくことは本当に難しい。だから長年溜め込んで苦しんだりしてしまう。でもそれだって誰のせいともいいがたいから周りにちょこちょここぼしながらもひとりになればずっと苦しかったりする。愛したくて愛されたくてすることが全て裏目に出ている気がする。空回りしている気がする。生活を共にするとひとつひとつの行為が自分の習慣とは異なっているのを見て見ぬふりできないことばかりだし本当に大変。それでも、というのが私たちの愚かさというか幸福というか、やっぱりひとりよりは、と思うところなのではないかな。もともとひとりでは生きていけないところから出発してるから賢くなくてもそういう生き物であることに折り合いをつけて楽しかったり面白かったりする瞬間をもてたらいいと思う。深刻さなのなかにもそういう瞬間はたくさんあるから効率もいいけどのんびりも推奨していきたい気分。今日も色々あるに違いないけどなんとか過ごしましょう。

カテゴリー
精神分析

Isn’t this a boiled egg ?

週末は第一回アジアパシフィックオンラインカンファレンスだった。

参加者は国際精神分析協会(IPA)に関連するオーストラリア精神分析協会、中国スタデイグループ、インド精神分析協会、韓国スタデイグループ、台湾スタデイグループと日本精神分析協会の会員と候補生。

テーマはGender in the Consulting Room and in Culture。Individual paperでは日本、インド、台湾の先生方がこのテーマで発表をしてその後にみんなで議論。

Clinical small Conferenceでは各国の分析家、候補生が6つのグループに振り分けられて国の異なる2人のモデレーターのもと準備されたclinical materialを素材に議論。

India: 07:00- China and Taiwan: 09:30- Japan and Korea: 10:30- Australia: 12:30- という時差のもとスタート。

私はいつもの仕事より遅いスタートだったので景気付け(一日英語使用という苦行に向けて)に行きたかったカフェのモーニングへ行ってみた。そしたらなんとゆで卵が生卵だった。「ゆで卵が生卵だった」を自動翻訳にかけるとThe boiled egg was raw.うむ。ありえない事態になるので言葉足らずは誤解を生みますね。でも実際この事態ありえなくて卵をトントン「うん?」トローリ。面白かったのは一瞬それをありうることとして理解しようとしている自分がいたこと。カフェのモーニングはトーストとサラダとゆで卵が一般的だけど「ここって何かに生卵使うの?」とサラダとか眺めてしまう自分がいた。ごく普通のサラダにみえるのに。というのも入ったときから違和感が多かったのだ。一番は店員さんの独特のペース。The boiled egg was raw.はおしゃれな容器に入って出てきたドレッシングと蜂蜜のことも「これなに??」と勘ぐったあとの出来事だった。蜂蜜大好きなので蜂蜜でよかったけど。いやいつもだったら疑いもせず喜ぶのだけど。

「これってゆで卵ではないんですか」。自動翻訳だとIsn’t this a boiled egg ? 見りゃわかるだろうみたいな話だが見てわからないのが卵だということがわかった。この質問、変だろうと自分でも思ったが思わずこう聞いたら例の店員さんがさすがに普通にびっくりした。安心した。おお、私がおかしいわけではなかった。

あ、私は記念すべき第一回アジアンパシフィックオンラインカンファレンスについて書いていたのだった。お昼が終わってグループに振り分けられたあとに雑談する時間も少しあったからこの話して各国モーニング状況を聞けばよかった。食べ物の話なら英語がよくわからなくても楽しいし。

しかし皆さんよく話す。議論はよい感じで盛り上がり大変勉強になった。グループでの作業はグループメンバーによるところが大きいが、私たちのグループはモデレーターの先生方のマネージメントのおかげで2時間があっという間に過ぎた。

「この病理のこういう状態にある患者さんに通じる言葉は」ということも検討できた。日本語臨床については常々考えているが英語でも同じようなことができて楽しかった。言葉についてはオーストラリアの訓練分析家の先生が中心になってくれた。アジアの先生方も英語圏でトレーニング受けてたり帰国子女だったりして英語が達者な方が多かったけどその人にインパクトを与える言葉を探す作業に含まれる色々を話しあう基盤は精神分析理論にあるので私もなんとかついていけた、気がしている。

今日もちょっと別の角度から言葉について考えることになる。そしてウィニコット再読。先日も書いたがウィニコットの「対象の使用」という考えは言葉を象徴として使える患者かどうかのアセスメントと関わっている。これは病理をどう理解するかということでもある。患者が現実の対象をそれとして認識することが難しいにも関わらず分析家がコミュニケーションをしないことの重要性を理解せずコミュニケーションを促すことは患者にとって侵入的である。ウィニコットは解釈するということは分析家の理解の限界を示すことであるといった。何かをせずにいること、それをできるだけ少ない言葉で語ること、私は「安全」ということを考えるのであれば、精神分析に限らずケアや支援というのはどれもそこを目指せたらいいような気がしている。

お世話になった先生方にお礼のメールをしているがもっとも感謝しているモデレーターの先生方にも書かねば。一番が一番遅くなるというのはよくあることですよね?そんなことないか。

今はインドは何時かな。時差はあれど国は違えどそれぞれの場所でそれぞれの一日をどうぞご無事に。

カテゴリー
精神分析

開業してまもなくだっただろうか、しばらくしてだろうか、いずれにしても5年ほど前に神経麻痺で右手の手首が上がらなくなった。うたた寝をして起きたら手首がだらんとしたままだった。寝ぼけながら混乱していたのだろう。シャワーを浴びた。ものすごく不便だということだけわかった。利き手だ。頭痛もひどかったのでどうしたらよいか病院へ電話したらすぐにくるようにと言われた。脳の異常ではなかった。それだけでとても安心した。血圧は異常に上がっていた。

私は落ち着きがなく怪我をしやすいので自分が怪我をしたときにオフィスまでどう辿り着くかのシミュレーションはなんどもしていた。いつの間にかそうするようになっていた。できるだけ楽に、と思ってのことだがその前に気をつけられる自分になるべきだろう、本来的には。

しかしまさか手首がこんなにだらんとなるとは・・と途方に暮れた。記録が書けない。お箸が持てない。混雑した電車で吊り革をつかめない。シャワーを上手に浴びられない。両利きになっておくべきだった。

ということを句友の句がずらっと並ぶページに鉛筆をあてながら思い出した。右手で追えなくなるかもしれないんだなと思って左手であててみた。景色が変わる。でもすぐにやめてこうしている。どうにかなるか、予防したところで防ぎようもないでしょ。切迫感がないとなかなか・・

うとうとしてしまった。あぶない。圧迫に気をつけないと。

何を思って書いていたんだっけ。忘れてしまった。

聞いたことに答えない、答えてないだけで嘘をついているわけじゃない、小さく情報を操作する、誤解を招くだろうけど嘘は言っていない、誰も傷つけたくない、ほしいものはほしい。そんな人でも深く愛情を向ける対象がいる。それらは全て両立する。人の気持ちがわからないというか分かりたくないのだろう、傷つけているとか気づきたくもないだろうし、優しい自分でいるために、といういつもの見立て。そんなことを考えながら橈骨神経麻痺のこと思い出して書き始めてうとうとしたんだっけ。まあいいか。

この句友はそういう人とは正反対だな。受賞の言葉があまりに素直に自分にも他者にも開かれていて余計な加工が全くされていなくてびっくりした。子育てと一人でされているお仕事で猛烈に忙しくて余計なことを考える暇がないのか、いやそういう問題ではないか。すごい人だ。読んだことのないタイプのいい文章だった。励まされた。

またうとうとしそう。素敵な気持ちのまま休みましょうね。

カテゴリー
精神分析

そのまま

空がとてもきれいだった。ブラインドの隙間から見える色ですぐわかった。ベランダ側の大きな窓を開けるとピンクと水色と白とグレーとがたなびいていた。グラデーションではなくそれぞれの色をきちんと残して。空がきれい、月がきれい、飽きることもなく言い続ける変わらないきれいさ。これはとっても昔から変わらないことなんだろうなあ。いろんな言葉でただ指差しながらただ見上げ汚いの対としてのきれいではなくてただそのままきれいと思える対象はこうして古来からある。戦いの現場へわざわざ出向いてそこが戦場ではないと言い張りたい人はこのただきれいであるということをを知らないのだろう。どうしても汚いがあるはず、そうでなきゃおかしい、と思っているのかもしれない。変わりゆくものにも対応できず変わらないものに驚嘆したり感動したりすることもできずとどまることをせず自分で耐えられない自分のもやもやを投影できる先を探しにわざわざ遠方まで出向く。カメラとか引き連れて。その問題はあなたとは関係ないからだよね。心揺さぶられない場所へ。私たちはそのためならなんでもするよね、意外と。そういう「抵抗」は精神分析ではずっと言われてきた。現実の理不尽に抵抗するのではなくて外側と関わりたくない、正しいのは自分、だから変わりたくない、と関わる前から怖がっている自分をどうにかごまかすために関わりの薄い場所へわざわざ。よく考えれば、いや考えなくてもそこは全然関わりの薄い場所ではないよ。私たちがそうやって負担を押し付けてきた結果でもあるんだよ。その加害性を認識するのは私たちにとってもっとも怖いことかもしれないけれど。

高校時代、タバコくさい喫茶店でヤンキーの仲間とバイトをしていた。上下スウェットで長い髪を垂らし愛想など全くないゆっこちゃん(仮名、子がつく名前が多い時代だった)の接客はかっこよかった。全然もてなしていないが存在の迫力は全く無駄を生なかった。多動気味の私は歩き方からして落ち着きがなくよく笑われた。でもまあ仕事はそこそこできたので高校卒業できたら(バイト三昧でいつも単位が危なかった)働こうと思っていたけどとりあえず大学に行くことになった。とりあえずで勉強を続ける場を与えてもらえるのは恵まれているのだろう。大学では出会いに恵まれた。それまでも本だけは読んでいたので大学という場所は私にあっていた。季節ごとにいろんな姿をみせる小さな森の図書館でいつも過ごした。ずっとじっと静かに本と。

ゆっこちゃんは幼馴染で怖いことが起きる世界にいたけれど私のことを守ってくれた。「あみはやめときな」全く無駄のない言葉だった。彼女がいえばそれが正しいと思えたしそれは実際に正しかった。

何かをしている人に対して「何もしてないじゃん」と言いたくなる人に「何かしてる感しか出してないじゃん。その人あなたに関係ないのにわざわざさ」といったらどれだけ自分が「良い」ことをしているかを説明してもらえるのだろうか。「何もしていない人ほど言葉でそれを埋めていくんだよ」っていったら黙ってもらえるだろうか。ゆっこちゃんの静けさをあげたい。私もほしい。

空をきれいと思う。好きな人を好きだと思う。怖いものを怖いと思う。汚いものは汚いという。そのままを言葉にしていくなら饒舌さなど必要ないはずだと私は思う。

今日は韓国、台湾、インド、オーストラリアの精神分析家や候補生が集うカンファレンスに参加する。ふだんづかいしていない言語でどこまで表現できるだろうか。できるだけそのまま感じそのままいえたらと思う。

カテゴリー
精神分析

学会シーズンの朝

昨日は雨風が強い時間に移動時間が重なって大変な目にあった。濡れて寒かっただけだけどどっちもつらかった。夜は暖房をつけっぱなしで眠った。起きたら足元が寒い。私は寒がりすぎるけどそれなりの対策してこれだから暖房器具の発展をいつも待ち望んでいる。人間っていろんな姿勢になるから姿勢に応じた暖房があるのね、とこれまでの私の暖房器具体験について書き出してしまいそうだけど書く意味は特にない、まあそれを言ったら毎日書いていること全てに特に意味はない。

学会の発表原稿が揃った。シーズンですね。私は討論のための原稿を作らねばです。発表のひとつが英語なので自動翻訳に助けてもらいながらざっと読んだ。登場する文献は私が好んで引用する文献とほぼ全て重なっているけど「うーん、こう読むか」と思った。私の読み方の間違いか私(と自動翻訳)の翻訳の間違いである可能性があるからどちらもチェックしないとならない。難儀じゃ。

その前にも英語を使わねばならないけど先方からネイティブではない私の不安を和らげてくださる長文メールをいただいた。とっても嬉しかった。でもこれに返信をしなければ・・・なのだった。「・・・」はもちろん「英語で書くのか・・・」である。あ、また「・・・」で終わらせてしまった。言葉にならない気持ちに終わりはない。

さまざまなニュースに思うところはあれど(特に戦う人を嘲笑う戦わずして勝っているつもりの人の心性について)10月はひたすら精神分析。そろそろ待ちくたびれていたウィニコット『情緒発達の精神分析理論』の新訳にして完訳『完訳 成熟過程と促進的環境』(岩崎学術出版社)もようやく登場。学会直前なので私の原稿は古いヴァージョンの翻訳に助けてもらうことになるが大矢泰士先生の翻訳での出版は大変ありがたい。

あ、洗濯物が。チャーラララーチャーラララー♪の音が聞こえた。何度も書いてるけどなんで音楽にする必要があったのか。思わず一緒に口ずさんでしまうけれど。洗濯物を干すモチベーションがそれによって上がるわけでもなかろう。いや、上がるのか。データとかとってたりして。そんなことを言っている場合ではない。干そう(これだけだといろんなものが思い浮かぶね)。そして読もう。書こう。

今日も一日。お天気どうなのかな。とりあえず寒いから風邪とかひかないようにお大事にお過ごしくださいね。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ウィニコット「対象の使用」について

『遊ぶことと現実』に収められた「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」を再読。小児科医で精神分析家のウィニコットが1968年、NY精神分析協会で行った講演が翌年IPAジャーナルに掲載され、こうして書籍にも収められた。ウィニコットのこの講演はアメリカの精神分析家に受け入れられなかったという。ウィニコットはこの論文で「対象と関係すること」という概念と密接に関連する「対象の使用 use of an object」という概念を俎上にのせた。なぜ受け入れられなかったのか。この論文を読めばわかるだろうか。

読む。

ウィニコットはすでに晩年を迎えていたが、近年になってようやくできるようになったこととして解釈を待つことの意義をまず強調する。ウィニコットはフロイトよりもずっと幅広い病態、特に境界例と精神病患者から多くを学んだ。「答えをもっているのは患者であり、患者だけである」という原則のもと、彼は解釈の作業と関係する「分析家を使用する患者の能力」について論じ始める。

彼がいうには、解釈すること(making of interpretations and not about interpretations as such)は自己分析と精神分析を区別するものであるが、それが効果的であるかどうかは「分析家を使用する患者の能力」「分析家を主観的現象の領域の外側に位置づける能力」が関わっている。

ちなみにウィニコットのいう主観的現象とは原初の対象がまだ「私ーでない」(not-me)現象として切り離された「対象」ではなく赤ちゃんが創造した主観的なものである段階の現象である。その段階の授乳では赤ちゃんは母親の乳房からではなく自分自身からのんでいるのであり乳房はまだ分離した対象ではない。

この論文は後期のものであり、主観的現象という用語のようにウィニコット理論における基礎概念はある程度共有されたものとして論じられている。ウィニコットはここで新しい概念である「対象の使用」を既出の概念である「対象と関係すること」との対比で論じようとするが説明は少しずつ慎重になされる。

「対象の使用」とは精神分析場面では「分析家の使用」のことである。分析家は授乳する母親や教える人とは異なり「分析家を使用する患者の能力」を前提としていない。分析家は患者にその能力がない場合はそう認識する必要があるのだ。ウィニコットは精神病状態にある患者にその能力がないことを認識せず漫然と治療を続けた場合にそれが招きうる深刻な事態を記述し「精神分析は生活様式ではない」と断言する。分析家は分析の作業が終われば忘れ去られる存在だからだ。

ウィニコットが「この論文で述べようとしている局面とは、すなわち、自己ーコンテインメントや主観的対象と関係することから離れて、対象の使用の領域に入っていく動きのことであるp121」。ウィニコットは対象と関係することが対象の使用の前提であり「対象は、使用されるためには必ず、投影の集まりではなく共有された現実の一部であるという意味において現実(振り仮名はリアル)でなければならないp122」という。ウィニコットは環境的な要因を排除したがる精神分析家たちに「もう逃げ道はない」という。「分析家は対象の性質を、投影としてではなく、そのもの自体として考慮に入れなければならないのである」。

対象を主体の体験とする対象と関係することから対象を外的現実の一部であるとする対象の使用へという継起は「成熟過程だけによって自動的に生じるものではないp122」。ウィニコットは対象の存在を「ずっとそこにあったという属性の受容という観点からでなければ記述できないp122)という。そしてウィニコット理論の中心的な考えである「移行対象と移行現象の概念における本質的な特徴は、逆説(パラドックス)と逆説の受容である」ことを読者に思い出させる。「その逆説とは、赤ちゃんが対象を創造するけれども、しかし対象はもともとそこにあって、創造されるのを、そして備給された対象になるのを待っていた、というものであるp123」。そして私たちは赤ちゃんに対して「あなたがそれを創り出したの?それとも見つけただけなの?」と尋ねたりしない。

以上がウィニコットが対象を使用する能力について述べるために述べた前置きである。

ウィニコットは高校時代にダーウィンから強い影響を受け、精神分析の訓練に入ってからはフロイト読解はもちろん、クラインとの密な関係においてその理論を消化しつつ、自らの臨床経験に基づいてオリジナルな理論を打ち立ててきた。二人の精神分析家との分析には満足がいかなかったらしい。

ウィニコットは個人と環境の相互作用において個人が環境に適応しようと奮闘するのではなく、発達最早期には環境である母親が「原初の母性的没頭」によって能動的に赤ちゃんに適応しようと奮闘する様子に光を当てた。ウィニコットには精神分析が排除してきた環境としての母親の役割を見過ごすことはできなかった。それは彼が小児科医として多くの親子を見てきたせいもあるだろう。ウィニコットが環境としての母親(=分析家)に対して与えた役割は「主体による破壊を生き残る」ことである。「対象の使用」を俎上にのせたこの論文には対象と関係することから対象を使用することにいたるプロセスで対象が破壊され続けながらもその破壊性を生き残る様子が描写されている。それが共有された現実を創造し、主体はその現実を使用する。これらの循環によって個人は私以外(other-than-me)の本質を主体にフィードバックできるのである、とウィニコットはこの論文の最後で述べている。循環というのは私の言葉だが。

学会でウィニコットの概念について話す必要がある。読むだけなら楽しいのだが・・・・。まあやるしかない、と言い聞かせつつ。

カテゴリー
精神分析

雨やだな。気が重い。頭も重い。だるい。どんよりする。という文字が目に入ってくる朝。私も今日の雨は憂鬱。

後ろめたいことがあるときにしがちな振る舞いについて話していた。隠しておきたいことなんてすぐにバレるのにね、と笑った。相手の気持ちがわからないからどうしていいかわからなくてパターン化しちゃうのかな。色々工夫してるつもりなのかもしれないけどなんでそれでどうにかなると思えるのかな。ほとんどこっち頼みなんだろうから知らないふりしてるけど子供じゃないんだからさ。自分が後ろめたいだけなのに防衛的になられるとこっちが悪いことしてる気分だよね。この前さ、うちの子が嘘ついたの。すぐわかっちゃうんだけどね、こっちには。しばらく知らないふりしててあげたんだけどこれはちょっとというところで言ったんだよね。そしたらすごい怒ってぶってきてさ。ママのためにせっかく隠しておいてあげたのにくらいなこと言って。えー、かわいい。そういうのは小さいうちだよね。こっちは大人だからもううんざりなんだけど私もマゾっぽいところがあるからさ。わかる。ペアの問題だよね。

こういう会話もパターンがあるからいくらでも思いつくし実際にあるわけだけど当人たちはそれぞれ辛いわけでそれをこうして話すことで少しだけ生き延びる。毎日はその連続。今日は特にだるいかもだけどそれぞれ少しずつ生き延びよう。

カテゴリー
精神分析

子供

寒い一日だった。反射的で心ない言葉には心が寒くなる。意図も聞かず勝手な解釈をしてはねつけたくなるときは自分で自分を守らねばならないくらい余裕のないとき。そんなに余裕がないなら休めばいいのにというのは外側からの意見で余裕があると色々考えなくてはいけないことに気づいてそれはそれで嫌な人もいる。薬で眠ってようやく自分の余裕のなさに気づく余裕ができる場合もある。余裕をもつって難しい。

子供に育てられる、というけど子供がいると一番大変なのは自分の都合より相手の都合を優先しないと実際に危険が生じることだと思う。自分の食べ物、自分の睡眠、自分の身体、自分の時間、それまである程度コントロールできていた自分の色々が否応なく奪われたり侵食されたりしていく。もちろんそれは子供のニードへの反応だし、子供にも奪う意図などないけれど気持ちはめちゃくちゃでどろどろになって疲れ切って半分以上発狂したりする。それすらかなり我慢しながらだけれど。ケアの文脈は狂気の文脈でもある。これを体験したからこうなる、というわけではないけれど自分を差し出しながら自分として生きていこうと奮闘する毎日は大変すぎる。たくさんの支えがあればいいと思う。

小児科医で精神分析家のウィニコットは”Mature adults bring vitality to that which is ancient, old and orthodox, by recreating it after destroying it.”というようなことをいった。原著が見当たらずメモしかないけど”the family and emotional maturity”という論文において。まさに子育てを通じて成熟していく大人の体験そのものといえるかもしれない。

ウィニコットは最初の妻との間にも二番目の妻との間にも子供がいなかった。死ぬ間際まで続けた臨床が同じように巻き込まれる体験として子育てと重なる部分はあったかもしれないがウィニコットの場合、何かをしないこと、しなかったことの方へ注意をむけていると思う。

ウィニコットが1968年、NY精神分析協会で行った講演は翌年のIPAジャーナルに掲載された。『遊ぶことと現実』に収められた「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」がそれである。

すでに晩年を迎えたウィニコットのこの講演はアメリカの精神分析家に受け入れられなかったという。ウィニコットはこの論文で「対象と関係すること」という概念と密接に関連する「対象の使用 use of an object」という概念を俎上にのせた。

ウィニコットはそれまでの豊富な精神分析体験から解釈を待つことの意義を強調し、「答えをもっているのは患者であり、患者だけである」という原則のもと「分析家を使用する患者の能力」を見出した。

当時NYの精神分析コミュニティには通じなかったかもしれないが全員が全員そうというわけでもなかっただろう。私は今になってウィニコットのいいたかったことがわかる気がしている、と一気に論文の中身を省いて書きたくなるがもう遅い、時間が。夜中だ。どうかみなさんの夢がなにかしらの仕事をしてくれますように。少し楽に目覚められますうに。

カテゴリー
精神分析

行為

今日はいろんな鳴き声が聞こえるな。秋だな。色とりどり鳥とりどり。

酒井泰斗さんの読書会ツイートが面白い。読書会といってもいろんな活動の中からそれを取り上げて分析してみよう、ということなので彼のメソッドを使用できれば行為分析とは言わないのかな、振る舞い分析は私たちの用語か、なんていうんだろう、さまざまな実践を成立させている論理がわかるという感じかな。

そのためにはまずその行為(としておこう)はなにかというところを分析したい。「あなたの感想でしょ」って言葉は流行ってるの?なんかTLで流れてるのを見たけど。文脈知らないけど、話し合いのときに「質問というより感想です」とかいったりするでしょ。自分でいっててもこれ別に何か応答求めてないや、対立点が特にない、と喋りながら思って「感想です」といったりする。

私もそのうち、訓練が終わったらエスノメソドロジー研究会とか出て勉強したいし読書会も出たいけど時間がない。教え子(子ではないけど)たちにもおすすめしたけど多分まだこういうことの重要性がわかっていないからそんなに必要と思わないだろうなあ。

私はこの技法は有効だと思っているのでツイートを追いつつ準備。ツイート自体に一貫性があるというか内容の繰り返しがあるから少しずつ「あ、こういうことか」と読書という行為に関する知識が増えていく。教え子たちにおすすめするときは酒井さんのWebサイトとかそのまま紹介してしまうとそれだけではだめなんだよね。「一緒に参加しよう」とかならいくと思うのだけど。見通しの立たないことってとっつきにくいのかもしれないけどまずはとっついてみないと見通しを立てる行為を始めることもできないのでそこはなんでも最初の一歩が必要ね。

何かこねくり回して考えるよりも与えられたものに素直に取り組んでみる、あれ、と思ったらチェックして、また戻る。いちいち止まらない、引っかからない。そのまま聞きながら患者の言葉の動きを読んでいく感じが初回面接っぽい。自分の気持ちを動かしたり相手の気持ちを想像したりするのはあと、まずはそのまま聞く、もちろん臨床場面では巻き込みが生じるから読書とは異なる行為だけど行為を分析する仕方は対象はなんであれ変わらないと思う。まあ、私もきちんと勉強してないからこういうのも印象に過ぎないけどね。今後教える立場が増えていってしまうのだろうからいずれしっかりやりましょう。

今日は寒くなるみたいって昨日聞いたから服装気をつけて風邪ひかないようにしましょ。

カテゴリー
精神分析

ふり

どうして「自分は別」と思えるのだろう。それはそう思える環境を作っているから。そういう自分を守ってくれない相手は突き放せばいいだけ。簡単簡単。

簡単?マニックに乗り切れるうちは。その小さな王国の内側で戯れているうちは。

裸だよ、あの人。そんなこといっちゃだめ。ほんとのこというと嫌われるよ。

でもそれって「本質は」とかいうやつでしょ。その人を見てたわけじゃないから気づいたんでしょ。なんでも口にしちゃうのはそれが何であるかなんて気にしていないからっていうのもあるでしょ。ってことはその人が誰だか知っていたらそうは見えなかったかもしれない。わかったふりってよくないことみたいにいわれるけど世界ってそんな確実じゃない。曖昧だもの。わかったふりから始めるしかないんじゃない?

覚えてる。あなたがはじめてお城の絵を書いたときのこと。囚われたとはいわないけどそう見えたお姫様のこと。家も定まらない、親も定まらない、この世界のどこに定点を見つければ?どこからスタートすれば?あなたの書いたお城には大きな門があった。「囚われたほうが幸せじゃないの?」あなたは言った。

自分はあんな人たちとは違う。そうかもね。そしてそうじゃないかもね。自分は特別ではないけどそういう奴らとは別?そうかもね。そしてそうじゃないかもね。正直どっちでもいい。どうして比べる必要が?堂々と誰かを好きになって堂々と誰かを突き放せば?そういう奴らと違うのならきっと大丈夫だよ。その罪悪感に耐えられずなにやら曖昧なものをまとってしまうのも私たちだし。

あなたが私に向けた敵意。「お前に何がわかる」。わからない。あなたが私を他の大人とは違うと認識した途端あなたの怒りは強まった。「あの人、裸だ」そういえなくなった。無邪気さは特定の対象として見ていなかったから。環境は自分で作れると思っていたから。

空想。現実。夢。現実。現実がいつも少しだけ優勢。今夜はどんな夢をみるのかな。今日を消すことも明日を消すこともできないけれど。

カテゴリー
精神分析

三日月

夜遅くまで「心を無にしてがんばるんだ」と書類を作っていた。「心を無に」は全くできなかったけれどある人のデータ整理の仕方を真似したいなと思っていたら全く別の形式なのになんとなくうまくいっていつもの半分くらいの時間でできた。帰り道、坂道の向こう、西の空に大きな三日月が出ていた。「三日月なのに大きいなあ」と思ってから「三日月でも大きいか」と前の晩と同じことを思った。

今朝は秋川渓谷のおみやげのおやきを食べている。トースターで温めてカリカリ。つぶあんとカボチャ餡を半分ずつ。秋だねえ。秋川渓谷だけに。私は学生時代、檜原村の施設で重度の自閉症の人たちと週末を過ごしていたのであの辺は懐かしい。彼らは私と同年代の人が多く、当時は20代。女性はひとりだけだった。彼らとドライブして温泉のお土産さんに入ったことはあるけど温泉にはいったことがない、そういえば。温泉は難しかっただろうなあ。彼女との入浴は私が担当していたのであれこれ思い出す。大パニックも彼女の鼻歌を真似してなんとなく穏やかな時間を過ごしたのも懐かしい。山の中をよく散歩した。迷ったときも地元の人が助けてくれた。地元の人はここの施設の人たちだと知っていてくれたので彼らがパニックを起こすこともなかった。食べ物が導く記憶はなんとなくいい感じだな。一方、重度の障害者に注目が集まるのはよくないニュースの時が多く、そこにどんな人たちがいて何がされているかは知られていない領域だ。毎日ひっそりと暮らす彼らや彼らと過ごす職員さんたちへのサポートに関する研究と実践が積み重ねられていくことを強く願う。

今晩も三日月が沈むまでには帰れるだろう。週末は英語を話さなければならなくてこんなのでマジでどうするのと思っていたけれど同じグループに仲間が振り分けられていてとっても安心した。彼らが通訳してくれるわけではないけれどいてくれるだけで嬉しい。

今日もいろんな思い出や気持ちを支えにがんばりましょうかね。東京は爽やかないいお天気ですよー。遠くのみんなも元気でね。あ、遠くの人にお返事するのを忘れていた。今思い出しました。こういうこともあるけどなんとかやりましょ。

カテゴリー
精神分析

いくつになっても

ふぞろいみかん、ちょっと味がうすい。この時期のみかんはみんな早生みかんっていうのかな。保育園の早生まれの子たちは今日も元気かな。きみたちが大人になる頃には私はもうおばあちゃん、というかすでに保育士の母、きみたちの祖母みたいな感じで保育園にいるけど、今日もみんなのこと考えますね、みんなで。

先生たちは誰が泣いているか遠くからでもわかる。「○○ちゃんだ」私もあゝあの子か、と小さくてパワフルなあの子を思い出す。「この時間は一度電池切れになっちゃうんですよね」そうかそうか。3月生まれだしね、と思う。その子のお兄ちゃんのことも思い出す。あの頃はまだあなたは生まれてなかったね。話しながらその子のいる部屋へいくと保育士に抱っこされて指しゃぶりをはじめてた。眠いね。

みんなこんな小さいのに自分がしたいこといっぱい止められたりできない時もあるだろうけどそれはまだみんながこんな小さいからでもあるんだ。でもまだわけわからないよね、泣いたり怒ったりしちゃうよね、ごめんね。こっちも大人のやってることが本当にきみたちに必要かどうか考えるからとりあえずトライしてみてね、なんでも。大人になっても泣いたり怒ったりすると負担がられたりするからわかる気がするよ、みんなの気持ち。嫌だよね。負担だろうけどなんでそうなっているのか考えてほしいよね。私もこの歳になっても愛情というものがよくわからないけれど突き放されず特別に大切にしてもらえる体験ってこの世知辛く理不尽な世界でもうダメかもしれないと思ったときにきっと助けてくれる。私たち大人ががんばることだよね。

あれは2010年、震災前。あの子のお兄ちゃんもまだ生まれていなかった。震災はいつからかこうしてその前その後の目安となったがあれからずいぶん時間が過ぎた。

愛情のようなものをめぐってどう考えていいかわからなくてでもそれに囚われている場合ではなくてでもどうにもできずにいたとき、その頃のことを思い出した。思いが通じたようなあの日のこと。今はとても穏やかに笑いあう私たちだけの時間。どんなにもやもやしても相手は変わらないだろう、変えていくならお互いに。でも本人が困っていない限り変わる必要はないのだから、とぐるぐる考えながらいずれくるなんらかの諦めに向かう。当時すでに若くはなかったが私は人というものをよくわかっていなかった。今もわからないけど当時よりはずっとよくわかる。いろんな人に教えてもらってきた。今だったらできると思うことを本当にできるかどうかといったら相当怪しいけど。まあそんなもんだ、くらいには思うようになった。

あの漫画はなんだっけ。題名が思い出せないけど密やかで静かなやりとりをすることももうないけれど幻滅し傷つけあった日々もこえた。大切に想い想われることの積み重ねのなかにあなたもいた。変われる私たちでよかった。

でもまた同じこと繰り返してるよ、と苦笑いする。森を抜けて高速を見上げ地下道へ。私たちだけの時間。言葉にすればよかった。でもできなかった。でもありがとう、出てきてくれて。こういうのは記憶力じゃないんだね。

「先生は無意識が助けてくれるってよくいうけどなんか今日少しわかった気がしました」と言われた。文脈ないと怪しい言葉だけど分析コミュニティでの会話。うん。こんな感じの想起もそう。分析受けはじめてからしばらくは「無意識怖い」だったんだけどね。今はあるかないかわからないけどなにかがんばるより無理ないし委ねたほうが安全って思う。自分が一番信用できないってことあるもの。こうして変に色々考えたり自分に向かないこといっぱいしちゃうんだけどね、いまだに。「まあそんなもんだよ」とあなたはいうに違いなくて私もそう思う。どうなることやらなんだよ。悲しくて苦しくて辛いんだ。でもこれもあなたと経験してきたこと。いろんな人と経験してきたこと。なんとかなるよね、なんとかなってきたから。

はああ。大人になっても泣いたり怒ったりするんだよ。でももう大人だから自分で考えないといけないことも多くてさ。結構大変だけどお互いがんばろう。できるだけみんなが無理をせずほしいものをほしい、得られないとしても願うこと、諦めること、でも別の何かが得られたりすること、そういう体験を積み重ねていけることを願うしできることをするね、みんなで。

カテゴリー
精神分析

いろんな一日

思いがけず伝わってしまった。「えーわかってくれるの!?」と思ってしまった。もちろん嬉しかったが、なぜということを考えてしまうのがこの仕事、多分。

私の描写のどの文脈が共有されたんだ、と振り返ってみる。今回はいつもは生じにくい少し離れた人が自然にやりとりに参加する場面もみられた。たしかにいくつかの準備的な要素が思い当たる。

精神分析的心理療法において転移の文脈が動き出す前、多少は動いてるとしてもそれが優勢になる前になされる初回面接をエスノメソドロジーを用いて検討することは初心者を教えるときに有効なのではないかとお世話になっている先生に話した。先生は「ありかもね」といった。私は酒井泰斗さんがいろんなところで紹介しているものを読んでいるだけなので時間ができたら勉強したいと思うがなかなか難しい。

でも多分説明に有効だ。私の理解する限り、エスノメソドロジーは現象を部分や個人のものとしない。普通に考えれば当たり前じゃないかという話なのだがこちらとあちらを相互独立的ではないものとして記述するのはなかなか難しいのだ(なかなか難しいことばかりだな)。

しかしちょっと考える。どうして人間ってこうやって情報処理したくなってしまうのかしら。なんでわかりたくなっちゃうのかな。そうしようとすれば必ず自分ルールを持ち込むことになるからきちんと勉強してからのほうがいいのに。言い換えをするってそういうことだと思うし。でもまあそういうわかっていないくせにという前提のもとに書こう。

ちょうど今日話していたのだけど「それってこういうこと?」というのだって文脈からなにかとりだしたつもりで埋め込まれにいってる側面があるわけでなにかを明確にするためだけの作業ではない。次への準備的な作業でもある。そういう構造を知っておくことは初回面接に役立つのではと考えている。臨床の場合は症状や病理を伴う相手との相互作用だからその見立てと並行したフォーミュレーションになる。するとかなりパターン化された作業とそうでない作業の両方ということになるか。こうやってあれこれ文脈とか構造とか意識すると「あー、そこだとそうなるかも」とかいう一言に含まれるものが次を作ったりもする。終わりなき作業をどこで区切るかという話も出てくるわけだ。面接の場合だと時間ですかね。

今書いたのはどちらもアクションを起こしている場合の相互作用だけどそうでないものもある。

横断歩道の向こうで怒鳴り声があがってみんながそっちを振り向いた。私も。そこに一台の自転車が猛スピードでやってきた。私のほうへ。動けずにいる私に自転車の人は「どけよ!」とどなり私にぶつかるようにして電話を手にし「もしもし!!」と怒鳴り声をあげながら走り去っていった。あっという間の出来事で私は顔色を変える余裕もなかったのか落ち着いたような変な気持ちでいた。そばの男性が気にした様子で私をみていた。

こういうときはもう文脈とか構造とか考えられるって余裕があるってことだよね、男の人はいいな、とか思ってしまったりする。一気に気持ちがちぢこまってしまう。女性の被害という問題を記述するときってどんなだろう、というさっきまでの感じで考えられたらいいのだろうけどそんな力はどこかへいってしまう。とりあえず仕事だけはしよう、とりあえず家事だけはしよう、とこれ以上できることが狭まらないようにとなってしまう。「わかってもらえてうれしい」という気持ちもどこかへいってしまう。今はこうして思い出せたけど。

勉強、仕事、遊び、食事、睡眠、一日の間にはいろんなことがあったりなかったりして感じ方も一気に変わったり変わらなかったりして何も意識せず過ぎている日もあれば眠れずに忘れることもできず引きずり続ける出来事もあったりする。人間って難しい。生きてくって難しい。みんな今日はどうだったんだろう。このあともまだまだ長いという人もいいことあったからこのまま寝てしまいたいという人もまた明日かどうかはわからないけどまたね、という気持ち。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ウィニコットの言葉

あくびばかりしている。外は明るい。麦茶が減らなくなってきた。水分を意識してとらないといけない季節。

昨日は日本精神分析協会の定例のミーティングがあった。世界中の精神分析協会がそういうことをやっている。

定期的に会うというのは大切なことでそれで足りなければ臨時で会を開催することになる。

たまたま手元にあったジョージ・マカーリ『心の革命』(みすず書房)をぼんやり読んでいた。

多くを破壊され追放され失いながらも死ななかった精神分析の戦後についてこの本は詳しい。

戦争による大量の亡命は精神分析の地政学に変化をもたらした。

英国精神分析協会ではウィーンとロンドン、つまりフロイト(アンナ・フロイト)とクラインをめぐる大論争へと発展した。

その結果、英国精神分析協会における訓練は3つのグループによってなされることになった。

精神分析のコミュニティとは、科学的自由とは、という問題は日本で精神分析的な臨床を試みる人たちの間でもアクチュアルだろう。

さて、この論争の詳細はThe New Library of Psychoanalysisシリーズの一冊”The Freud-Klein Controversies 1941-45” Edited By Pearl King, Riccardo Steiner(1991)に全て書いてある。大著。

『心の革命』にも引用されているこの大論争におけるウィニコットの発言は印象的だ。

1942年3月11日、The Second Extraordinary Business Meeting(第2回臨時総会)においてウィニコットは単にフロイトを信奉するのではなく科学的であることの重要性を

Freud would not have wished us to limit our search for truth,

フロイト教授は「真実の探究の幅を狭く」したかったわけではない、(652頁)という言葉で示した。

この日の議長はDr.アーネスト・ジョーンズ、出席者は以下の25名である。

Dr Glover, Mrs Klein, Dr Rickman, Mrs Riviere, Mrs Isaacs, Dr M. Schmideberg, Dr Wilson, Dr Friedlander, Dr W.Hoffer, Dr Weiss, Dr Herford, Miss Freud, Mrs Burlingham, Miss Low, Mrs H. Hoffer, Dr Lantos, Mrs Ruben, Dr Franklin, Mr W.Schmideberg, Dr Winnicott, Miss Sharpe, Dr Gillespie, Dr Thorner, Dr Heimann

錚々たるメンバーがどんな立ち位置から何をいったのかを追うのは興味深い。歴史は重要だ。記録も大切だ。

ウィニコットはこの発言の冒頭、I implied that the present chaotic state would be healthier than order resulting from any agency other than pursuing a scientifc aim. といっている。

そして科学的な目的とは何か、についてこう説明する。

What is this scientific aim? The scientific aim is to find out more and more of the truth, I was going to say, to seek fearlessly, but the question of fear and fearlessness must be left out of the definition. We as analysts should know better than most that some fear of truth is inevitable. Playing the scientist can be quite a good game, but being a scientist is hard,.

クラインはこの発言に賛同した。ウィニコットはクラインに師事したからそれを擁護するのは当然と思われるかもしれないがウィニコットはインディぺンデントであり誰かを信奉するよりも自らの臨床体験から精神分析を科学的に探求した人だった。だからフロイト信奉者よりもクラインを支持すると同時に二つに分裂しそうな協会にカオスであることの重要性、真実に対する恐れは避けがたいが探究を続けなくてはならないと語りかけ第三の立場として機能した。ウィニコットの発言を受け、クラインもフロイトを引用してこういった、と続けて書いていきたいがまた今度。

今日もカオスかもしれないがそれぞれの場所でどうぞご無事に。こっちはカラスが大きな声でなきながら通り過ぎましたよ。飛べない私たちは地道にいきましょ。良い日曜日を。

カテゴリー
精神分析

めんどくさい

久しぶりに顔をみて変な一時停止をしてしまった。「あれ?髪伸びた?」「みんなにいわれる」髪は伸びるものなので変な会話だがこういう会話をした。近況報告といってもお互いほぼずっと仕事をしているだけだから「特に変わらないね」「そうだよね」。日本やばくないかなどといいながら、そもそも自分たちの年代でこれってやばくないか、という話をいくつもした。主に男女関係の。「それは私たち的にはひくよね」「うわー、熱い、若い」「自分から拗らせにいってるね、それは」とかいうところの基準が同じで安心した。

私たちの会話は若い頃と比べて「うわ、めんどくさ」という言葉が増えたと思う。私たちの優先順位と私たちが「めんどくさ」と感じるものや人の優先順位は異なる。そのめんどくさい相手や事態にどのくらいエネルギーをさくかという類の話をよくしている気がする。「我が子ならともかく大人の甘えは時々すごくめんどくさいよね、余裕があるときはいいけど」など。

短時間だったけど話せてよかった。「やっぱり直接話さないとね」とたくさん笑ってたくさん手を振って別れた。慌ただしくて美味しいお茶を残してきてしまったけど楽しかった。それにしても直接あっているときの情報量はすごい、と実感する。またすぐに会いたいけどまたしばらく会えない。大人になると一年に一回会えれば会っているほうとなったりするけどどんな頻度でも実際に会って話す機会がこの先もずっとあるといいな。いつ何が起きて会えなくなってしまうかわからないけど。というか同年代の私たちはもう老後を意識した語りをするようになっていた、そういえば。お互い一人だけで営んでいるこの仕事をいつまで続けることができるんだろう、という不安もあるがそれを共有する相手がいるのは幸せなことだろう。

10月は発表が多い。準備は常に不足している。以前だったらもっと焦ったであろうことに「これぞ身の丈いつものこと」と落ち着いてはいるがやばいかもしれん。今日から明日からがんばろう。でも発表が多いということは会う人も多いということ。それは楽しみ。久々にオンラインではない句会はちょっと変わったメンバーで別のアルゴリズムができそう。

しょっちゅう書いてるけど何があっても回復しよう。時間をかけよう。めんどくさいけど落ちても落ちても少しずつ少しずつ。