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うそもほんとも。 精神分析

進化?

なかなか明るくならない。冬ですね。

「もういい」と苛立ったため息をつかれた。3回でわからないといつもこうなる。「表」では聞き上手おしゃべり上手の懇切丁寧な超いい人なのになんで。あれは伴侶との「生活」のためだから。中途半端な相手のことは好きなときに好きなように使って捨ててしまえばいい。なるほど。「伴侶」のことも似たような扱いに見えるけどそんな分類があったのね。契約って大事だものね。AIっぽいなとずっと思っていたけどどこまでいってもそんな感じだなあ。最後は「中途半端」を愛せないAIの限界をみた。

ナンパの仕方もいつも同じ。言葉、絵文字や記号まで。使う店もいつでも誰にでも。集団だとうまくいかないからひとりの場所へすっと入りこむ。そういうのを求めている人を上手に判別する。もちろん面倒になったらAI的に「適切な」理由をつけて脱出。まだ複雑さには対応できない。失敗ヴァージョンと成功ヴァージョンの両方をみた。「失敗」といっても気にしない。全てはアルゴリズム。運が悪いとこうなる。相手が悪いとこうなる。あるいはこういうときだけ「人間コワイ」となるし、せっかく提供してあげようとした「ケア」を「拒否」されたとかなるし。困ったものね。でもなんにしてもこちらがダメならあちらへ。それだけ。「気持ち」って幻想でしょ。

魚かなんかだと思われてるな、と感じながら魚に失礼だな、と思った。絶対に異なる生物だったと思う、遺伝子的に。あなたはAI、私は魚かなんか。私は一応平均寿命を想定した有限性を生きているのでいろんな気持ちに耐えられるというか生きてるっていうのは一応耐えているってことだと思う。なのでコミュニケーションを有効だと思ってる。そしてものすごく死にたくてもそう簡単に死なない。事故とかであっけなく死ぬことはあるかもしれないけどそれも私にはどうにもできない。そういうのも有限性。あなたの場合は有限というよりこっちは限界、ではあっちの限界へ、そんなわけで基本的に無限が前提。違う世界を生きているのね。同じかと思ってた。

結婚詐欺とかも相手がAIだとわかったら「そっかー、ならしかたないね」って時代がくるのかな。というかそういうことを言えてしまう人は確実に増えていると思う。こういうのって進化?精神分析的にはあらたな防衛の登場とかいったらやっぱり「古い」という矢印の方へ振り分けられるよね。でも人間の寿命を考えたら古いも新しいもという気がする。とりあえず今日も一日。

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あれはなんだったんだろう

願うことが罪だった

思うだけなら自由、とよく話す。「自信がない」と言われれば「自信があるって何」という。「そんなつもりはなかった」「それはそうでしょう。自分でわかっていることだったらこんなところいらないわけだし」。

あー人間ってめんどくさい。人間以降を想定しつつ実際にやっていることの浅はかさ。それを愛せるときも死んでしまいたくなるときもある。

あ、寺の森の鳥たちが飛び立つ時間だ。すごい声。空の一部を黒い模様が移動しては消え、また現れを繰り返す様子をみているときは内と外が反転しているような感じになりませんか。心に空を抱えこむように。ルネ・マグリットの絵のように。

相変わらず「あれはなんだったんだろう」に囚われつつも鳥と空までの手が届かぬ距離、つかず離れずの関係に別の可能性を描こうとしているのかもしれない、無意識的に。わからなさに慣れ衝動をこなそうと頭痛と不眠に悩まされた日々を無理に学びに変えることはしないでもいいけれど。「ただ一緒に」そう願うことが罪だったなんて思いたくない。そんなつもりはなかったんだから。それがあなたを傷つけたと言われれば申し訳なかったというしかないけれど。また沈み込んでいってしまう。

動かねば。みんなはどうかな。もう動けたかな。それともちょっとのんびりできそうでしょうか。それぞれなんとか過ごしましょう。今週も一日一日。

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ダメな人たち

少し前にガラの悪い人と遭遇する率の高い居酒屋さんへ行った。最後に来たのはコロナ以前か。私もこの地域に住んで長いので働き者のお兄さんは結構なおじさんになっていたし、店長は新しいパートナーを得たようだった。「ちょっと待ってて、すぐ席あけるから」とその人に言われて「なんかメニューがきれいになった?」とか話しながら待っていた。下へ降りていくと酔っ払いの大きな声が聞こえた。「女なんかいらねーんだよ!」。もちろん私に向けられたものではない、と思う。「おー、ガラの悪い人いた」と特に気にせず「これ前からこうだっけ」といつも通り曖昧な記憶で久しぶりの店を楽しんでいた。店でかかっている曲とは全く違う曲を歌い出したその人はしばらくするとトイレにたった。いやたてなかった。酔いすぎ。さっきあなたが歌っていた曲からすると同世代ねと思いつつこっちに倒れこんでこないでねと願った。同世代らしき彼らの顔をみて私も歳とったなあと思った。懐かしい歌謡曲だったから頭の中ではみんな若返っていたのが彼らの顔を見たら一気に現実に戻された。立てない彼にどつかれながら細身の若い男性が「すいやせんっ」と私たちにペコペコしながらニコニコした。ドラマみたい。私はその前から彼らの噛み合わない会話がおかしくてしかたなかったのでずっと背中を向けて笑っていたが、今この瞬間は私たちの横を彼が無事に通り抜けてくれることだけを願った。彼がなんとかトイレに入った後も若者がわざと中の彼を煽り、席に残っていた決して私と目を合わせない強面だけどシャイな男性(この感じもドラマみたい)に叱られていた。昔だったらなんとなく会話をはじめた雰囲気だったが今はコロナもあるしエネルギーはないしでクールにふるまった(つもり)。しばらく経って若者の煽りにも反応できないほどだった彼は無事に出てきて再び重たそうに抱えられながら恥ずかしそうにこっちをみた。私もにっこりした。この感じ懐かしいなあ。単純であからさまで品の悪い言葉遣いで賢さのかけらもない。直接話していないのに交流が生まれた。私は彼らの言葉や態度にゲラゲラ笑ったりクールぶったりした。その後も酔っ払いたちはさらに酒に呑まれていたが店長のパートナーらしき彼女が降りてきて威勢よくテンポ良く対応してくれている間に店を出た。大きな声で呼び止めるような人たちではなかったけど最後に目の合わない彼と目が合った。恥ずかしそうに笑う彼に会釈をした。いい夜だった。もう何も考えたくない。何もしたくない。すべてどうでもいい。意識していなかったがそういうときにこういう店に導かれてしまうんだね、きっと。ダメな時はダメ。でもダメばかりでもない。ひとりになれば泣いてばかりでもさっきあんなに笑ったじゃん。そういうのがあればきっといずれなんとかなる。いつになるかはわからないし何度も嫌な目にあったり苦しいのが続くかもだけどこういう世界も存在すること自体に救われる。救い?わからないけど。お互いダメな感じだけどなんとかね。そう思った。

(upするのを忘れてた)

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精神分析、本

ため息まじり

寝不足のままファミレスで作業。日曜朝のファミレス、この時間は男性のひとり客ばかり。とても静か。自分で特別感出していかないとやってられない。

そういえばさっき上から何か降ってきたからきゃーっと思ったけど髪にもリュックの表面にもなんの痕跡もない。リュックを前に抱えて中途半端にあけておいたから中に何か入ってしまったのかな。きゃー。何か中で育ってしまったりしないでね。

鳩が鳴いてるなあと思いながらうちのそばの角を曲がったら真正面から別の鳩が羽広げてきてびっくりした。ちょうど角のおうちの木に留まろうとしているところだったのだけどなんか迷っちゃたみたいで一度留まろうとしたのにバサバサって変な感じにまた飛び上がってそばの別の木に留まった。ああいう判断ってどうやってされてるんだろう。というか真正面から鳥が羽を広げた姿みるのって結構インパクトあるよね。

その後に上から何か落ちてきたら鳩の落とし物とかよく書かれているものかと思うじゃん。あー。中も大丈夫だと思うのだけどだったらなおさらあれはなんだったんだろう。

少し前に中年男性が要求するケアについて「ほんとそう」と思うツイートを見かけたのだけど、一生懸命ものや時間を与えて時にはちょっと手も出したりして愛情めいた関係を築いてそれを社会的評価に変えている同世代の中年の商品にはお金が回らない世の中になればいいなと思う、特にそれが男性の場合。女ひとりで開業している身なので現実的な言い方になりますが。構造上の問題に上手に乗っかってまるでフェミニストかのように振る舞うことが上手な人も身近にいるけど「そういうのいいかげんやめたら」と言いたい。色々くれてなんでも教えてくれる賢くて優しい人たちだったりするととても言いにくい場合もあるけど言うこともある。それとこれとは別というかそんなものより、と。でもすでにビジネス絡めながらそういう人と依存関係築いてきた女性たちは自らが中年になってもそういうこと言わないでむしろ言う方のことを「あなたにそんなこと言うなんてひどい」みたいなメッセージ送ってたりするから「うん?お連れ合い?いや、だったらそんな甘めのこと言わないか」とか「社会なんて変わらないっすよね」となるのも無理はない。私は「この人たちって」と個人に対して思うほうだけど。それ以前に言われたくないこと言われるとすぐ怒ってしまう人とはコミュニケーション自体が難しいし。うーん。それに比べて患者さんたちは誠実だなと思うことが多い。切迫した問題があって、自分のことを考えざるを得ないからというのもあると思うけど素因の違いもあるのかな。ほんといろいろ難しすぎてまいるけどそういうの考えること自体も仕事だからまいりながらやりましょうかね。

先日プレシアドの『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(法政大学出版)のことを書いたときに名前を出したヴィルジニー・デパントの『キングコング・セオリー』(柏書房)みたいな書き方ができたらいいけどできないので読んでほしい。関係ないけど私は柏書房の本に好きなのが多い。女性や弱者への一貫した眼差しを感じる本を色々読んだからかな。

フロイトの『夢解釈』にはものすごくたくさんの夢の例が出てくるのだけどフロイトが理論を確立するための素材としてそれを使用しているからとはいえ生理や妊娠、中絶、同性愛などに対する記述は中立的という話になった。少なくともたやすく価値判断を混ぜ込むことをしていない。そうだ、土居健郎が価値判断について書いているところについても書こうと思っていたのに数年が立ってしまった気がする。まあいずれ。フロイトは権威的、家父長的な部分ばかり取り上げられてしまうけれどその後の技法論に繋がる中立性の萌芽はこういうところにあるのか、とかもわかるからフロイトも読んでほしいよね、精神分析を批判したり同じ名前で別のことをしようとするのであれば、という話もした。

京大の坂田昌嗣さんが昨年の短期力動療法の勉強会がらみで短期力動的心理療法(short-term psychodynamic psychotherapy:STPP)の実証研究の論文を教えてくれたけど n = 482, combined(STPP + antidepressants) n = 238, antidepressants: n = 244だもの。積み上げが違う。これまでの研究も遡ってみたけど実際にSTPPを長く実践してきている人たちの研究みたいだし。たとえばDr E. Driessenの業績

STPPは精神分析の理論を部分的に使用しながら患者のニーズに合わせて発展してきた技法だけどpsychodynamicという言葉を使っているわけでそのほうが幅広い臨床家に届くよね。これ力動系アプローチなのに反応があるのはCBTの人たちからというのも今の状況だとそうなるか、と思ったりもした、とかいう話もした。とりあえずこういうことをざっくばらんにかつ細やかに話し合える場づくりはしているつもりだから維持するためにもなんとかやっていかないとだなあ。ため息混じりの日曜日。でもまだ朝。みんなにいいことありますように。

cf.

短期力動的心理療法に関する本や文献についてはオフィスのWebサイトに書きました。ちなみに勉強会当日のテキストは


ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
妙木 浩之『初回面接入門―心理力動フォーミュレーション』(2010,岩崎学術出版社)
でした。

妙木浩之監修『実践 力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト』(2022年、岩崎学術出版社)も加えておきます。

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仕事 言葉

どんな一日、どんな言葉

公に向けた仕事ができる人の特権、というのを「加害」「被害」の関連で読んだ。今回は本を書く人が特定の相手を傷つけたという事態。相手あることを事実として書くのにその言い方は、と最低限必要と思われる著者の想像力に基づいた配慮がなかったらしい。一方、そういうのを平然としないでいられる人の言葉だから一部の人に「ウケる」というのもあるのだろう。「相手」の苦痛は計り知れない。DVやいろんな中毒について考えるときにも同じ問題がある。人は発信せざるをえない。誰もが苦しい。特にものを書く仕事の人はそれで生活しているから書かざるをえないというもあるだろう。なんにしても「相手」あることをどう考えるかというのは人として一般的に持っていると想定される心的機能をどの程度使えるかということでもある。機能不全を起こしていても公に向けて書いて人気者になったり信頼を集めたりすることはできる。だったらむしろAIの方が、とか。

少し前に私は女が傷つきについて書くとき、まずは、主観的一方的に書く必要があると思うというようなことを書いた。書くのが仕事の人は別だろう。個人的な語りの場合だ。女性は構造上の問題に囚われ自分の言葉を奪われやすい。もちろん女性に限らず構造上の問題にがんじがらめになることはあるのでその場合も同様。私の仕事はそういう語りが可能になる場を提供しているのだと思う。外で話したら何回でも何重にも傷つく可能性がある思いや考えを言葉にしてみる。その手助けをする。これはこれで本当に難しいが大切なことだ。

切りつけるような言葉を言った相手が次の瞬間には多くのフォロワーをもつSNSで軽薄な言葉を使用しているのを目にする、そういう時代でもある。言葉の使用はどんどん残酷になり見えない分断の種をまいていると感じる。特定の相手にとってはその人はそういう人だとわかっていてもよくそんなことが平然とできるなという理解できなさにずっと苦しむ事態でもあるだろう。そのせいで起き上がれず何もできないのに相手の活躍を目にしなくてはならない、ますます苦しい、ということもあるだろう。当たり前だが個人的な関係は外からは見えない。個人的な状況と文脈を考えれば明らかに自分に向けられた揶揄にたくさんの♡や「いいね」がつくのを目にすることもある。「自分のことをいわれてると思ったんですか」と言われてしまえば黙るしかないかもしれない。でもまぁそれでも「ああまたこれか。直接的に相手がわかる形でされるよりはましか、この人いつもこうだし」と「〜よりまし」「いつもこうだから仕方ない」という方法で怒りや衝動を抑えこむ場合も多いだろう。そうして何十年も経ってからカウンセリングに訪れることもある。怒りを向けるべき相手が事故で亡くなったり病気にかかったりすることが契機になることもある。「どうしてもっと早く」と周りは思っても外からは見えないことの方が世の中には多い。そんな簡単ではないのだ。むしろ簡単に切り替えられてしまうのを目にすることで動けずに時間が経ってしまうことだってあるのだ。

今日はどうだろう。どんな言葉を受け取り、どんな言葉を使うだろう。動けない人たちに向けて言葉にならない人たちに向けて私は仕事をする。そのために私は私のこともどうにかしようとしているつもりだけどどうなのかな。難しいですね。東京は雨のち晴れですって。みんなの場所はどうだろう。がんばろうね、ただ耐えるだけの時間と感じているかもしれないけれどなんとなく誰にともなく。

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読書

入口に立つ

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)を読んでいた。本屋でロシアとウクライナという文字を見つければとりあえず手に取る。そんな年になった。たとえばリュドミラ・ウリツカヤ著 、前田和泉訳『緑の天幕』(新潮社)、そういえばあの本もこの本も始まりには「それん」崩壊があった。子供の体験と大人の体験の仕方は異なる。私の最初の「世界的ニュースの記憶」はなんだろう。覚えていない。

奈倉有里さんは文学研究者であり翻訳家だそうだ。この本は著者と新しい言語との出会いの描写から始まる。好奇心と喜びに溢れたコンパクトでスピード感ある記述は子どもの遊びを見守っているようで最初から楽しい。ソ連崩壊は世界的大ニュースだった。世界は少しずつ変わり私たちの生活はその影響を受ける。それは子どもたちにとっても同じことだ。人間と世界、最近はそこにAIを含まないわけにいかないが、それらについて書かれた大人たちの本に知的好奇心は揺さぶられてもこういう楽しさや切なさはない。冷蔵庫が三種の神器と呼ばれていたのは私の親が子供の頃だと思うが子供にはそこが世界への入口となったりする。タンスの引き出し、押入れの中、子供が世界と出会う場所は生活にある。今自分が現実の他者と生きている場所から喜びとともに世界と出会う、著者はその達人だ。人の話を聴くのが大好き、本を読み出したら夢中になってスープを火にかけていたのを忘れる。「人と人を分断する」言葉ではなく「つなぐ」言葉を、と願う著者の短いエピソード、長くてもそう長くはないエピソードの数々に忘れていた感覚を呼び起こされる。その感覚で世界を見直す。一色に見えていたそこはそれだけではなかったかもしれない。苦しみがちな毎日をなんとか生きる私たちだけど向かうのは出口だけではないのだろう。子供の頃だったら開けたくなったかもしれない扉、入ってみたくなったかもしれない暗闇、一緒にならいけると思えたかもしれないあそこ。もうすっかり勇気もやる気も乏しくなってきた気がする。それでもそんな入り口の前にいつの間にか再び立たされるだろう。いろんなことは繰り返される。それぞれのしかたでなんとか今日も。

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言葉

「幸福」

ミナ ペルホネン(minä perhonen)の皆川明の文章を読みながら「幸福」という言葉をずるいと感じた。その文章自体は一見すればごく当たり前に大切な、でも大抵の場合は困難な関係を記述したものだった。まだどうしても立ち上がる力が出ない身体にはさらに重たく感じた。

幸福という言葉はずるい。頭痛がひどくなる。差異をうやむやにしたりいつでも反転可能な状態にしておけるこういう言葉にはなすすべなしと感じる。しかし実際幸福というのはそういうもののようにも感じる。取り巻く状況も最悪で、心身の状態も最悪で、私たちの関係も最悪なように思えるのに会い続ける中で時折訪れるあの感じ、そこだけふと明るく温かくなるような一瞬、あれは多分幸福な瞬間だ。でもすぐに消える。やっぱり幻だったという絶望と引き換えに。

会い続けるのが条件。そのためには幸福を感じられることが条件。無限ループ。断ち切るか継続にかけるかはその人次第だと思うがそれだっていつだって「そんなつもりはなかった」という言葉で無効化できる。時間って?責任って?愛情って?そしてやっぱり幸せって?

昨日は真冬のようだった。今日の光は溢れんばかり。日々は続く。空。見上げるしかない。包まれるしかない。心身への影響も回避できない。一喜一憂。これまでだってそうだった。

「100年後を想う活動」、ミナの理念。憧れのブランドは着るには身近ではないけれど作品としても追っている。ひとつひとつの手作業に潜む記憶。それを無意識的に受け継いでいくこと、離れても纏うことでじっと感じる、そうしたいしたくない以前に。そんな行為を幸福と感じられたら。今日もなんとか。

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精神分析、本

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』を読んでいた。

ポール・B・プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(藤本一勇訳、法政大学出版局)を読み始めた、というかほぼ読んだ。文庫より少し大きいB6型判、講演のための発表原稿だがその内容ゆえに当日はこの4分の1しか読むことができなかっただそうだ。著者はインターネット上にすでにいい加減な形で拡散されている講演の断片ではなく、全体を分かち合うために本書を書いたという。それでもとてもコンパクトな本だ。9月に同じ訳者、同じ出版社から出た『カウンターセックス宣言』と併せて読むのもよいかもしれない。

まず、扉の謝辞に目が留まった。感謝を捧げられているのはヴィルジニー・デパント。『キングコング・セオリー』(柏書房)が話題になった著者だ。プレシアドとの関係は訳注に書いてある。

この本は「フランスの<フロイトの大義>学派を前にした、一人のトランス男性のノンバイナリーな身体による講演」の記録であり、ジュディス・バトラーに捧げられた一冊でもある。

2019年<フロイトの大義>学派、つまりラカン派が開催した「精神分析における女性たち」をテーマにした国際大会で行われたこの講演、聴衆は3500人、ラカン派に属する臨床医や大学人が対象だったようだ。日本の精神分析学会のような感じか。

著者は哲学者でありトランス・クィアの活動家だという。

「精神分析がそれを用いて仕事をしている性差の体制は、自然でもなければ象徴的な秩序でもなく、身体に関する一つの政治的認識論であり、そうしたものとして歴史的なものであり、変化するものだということです」(53頁)

「訳者あとがき」で書かれているように著者が「フロイトやラカンの精神分析理論をかなり単純化しているきらいは否めない」が、精神分析における「性差のパラダイムと家父長制的ー植民地主義的な体制とが振るう認識論的な暴力」(95頁)はこれまでもこれからもずっと批判の対象になるべきテーマであり、以前も書いたようにそこに最初に鋭く切り込んだのは「女性」分析家たちだった。とはいえ精神分析の訓練を受け、実践をし、その内部にいる私たちがこの講演の実際の聴衆のように居心地の悪さを感じた、感じない、その内容に賛成、反対とか、あるいは自分は女だから、男だからとかいう水準で反応したらそれこそ変わる気のない精神分析ということになるだろう。私たちが著者の戦略的かつ勇気ある提案に応答するためには患者との臨床体験をもとに慎重に言葉を使用していく必要がある。精神分析は個別の欲望のあり方に注意を向ける独特の学問であり実践である。「〜すべき」が外側からではなく自分の尊厳と関連づけたところで語られ実践されるように支援していく、その姿勢は分析家個人にも向けられるべきであり、たやすく手離せないものや言葉があるのならそれは何か、何故か、と考え続けることが大切なのだろう。

今は何かが普遍的になる時代ではない。どうなるかわからない、そういう時代だ。いや今がというわけではないか。ナチスの侵攻による大量の精神分析家の亡命によって協力せざるをえなくなった主にアメリカ、イギリスの精神分析家たち、それによって大論争もまきおこり、精神分析における政治的な状況も変化した。フロイトだってまさか姉たちをガス室で殺され、自分がロンドンで死ぬとは思っていなかっただろう。

予言の書という言葉を聞くが内容は知らない。まさかこんなことになるとは。夢にも思っていなかった。これからもそんなことの連続だということだけは予言できるかもしれない。一貫した思考など、一貫したあり方など、と私は思う。変化を厭わないがそれに伴う揺れやぶれに持ち堪えるのは苦しい。でもだから一緒にいる。自分を思うことが相手を思うことと離れすぎてしまいませんように。今日もそんなことを願いつつ。

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あれはなんだったんだろう

ぶりかえす

この状態、いつまで続くんだろう、と思いつつとりあえず外へでる。生活をしなくてはならない。何度も何度も急にぶり返す痛みと混乱。高熱のときみたいだ。とても笑える状態ではないが「なんだ、これ」と自分なのに自分ではどうにもできない状態に自嘲気味にならざるをえない。あれはなんだったんだろう。囚われては苦しむ。相手を変えるだけで、何らかの形でぶつけるだけで楽になれる人もいるのは知っているが私は違うからとどまるしかない。

思考停止。やるべきは仕事。生活。そういう状態の人たちへ。

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精神分析、本

昨日はウィニコットフォーラムだった

関西の友人から羨ましい写真が送られてきた。え、東京にきてるの?と一瞬思ったけど違う、東京の友人が向こうへ行ってるのだ。女性の精神分析家が書いたフェミニズム関連の論文を女が読むonlineの会の友達(その後延々おしゃべりもする)。そしてなぜ東京の彼女は向こうへ?そうか、ウィニコットフォーラムがあったのか。私は週末も仕事をしているので精神分析学会以外は役割がないかぎり参加していないけれどいけばよかった。ウィニコットフォーラムも去年はオンラインだったもんね。現地開催、よかったよかった。あ、そうだ。『ピグル』(金剛出版)の読書会の記録もしておかねば。

それにしてもこれは完全に羨ましがらせる写真ではないか。いいなーいいなー(と送った)。でもよかった。個別には会えていてもなかなかみんなで会えなかったものね。素敵なお知らせも聞けた。少しずつ別の場所へ。励まされる。

今朝はぼんやり植物と進化のことを考えていた。今日は雨か。あの木々や花々や実たちはどんな風に過ごしているのだろう。あまりに多様なあり方には出会うたび驚くばかり。小石川植物園にはニュートンの生家にあった木の枝を接木した「ニュートンのリンゴ」、メンデルの実験室から分株してきた「メンデルのブドウ」がある。私はそのメンデルの法則にはそぐわない食虫植物をはじめて出会ったときから愛している。植物が昆虫を食べるだと?神への冒涜では?と言った人がいたとかいないとか。ダーウィンがone of the most wonderful [plants]in the worldといったのはハエトリソウ Flytrapという食虫植物。個人的にはマイナーな異端児同士、ひっそり仲良くしていきたい。

フロイトもウィニコットも愛したダーウィン。ウィニコットは高校時代にはまったという。ウィニコットがダーウィンにどう影響を受けたかはいろんな人が触れていたと思うのでそのうちまとめたい(気持ちだけは)。

関連して思い出したが、学会のセミナーで私はウィニコットを引用した先生にその先も引用する必要を言ってみた。

ウィニコットは書いた。

引用はA Primary State of Being: Pre-Primitive Stages from Volume 11 of The Collected Works covers The Piggle (1971) and Human Nature (1988)、邦訳は『人間の本性 ウィニコットの講義録』(2004、誠信書房)から「第5章 存在の原初的状態:前原始的段階」。

「個々の人間存在は無機的なものから現れた有機的なものであるが、時がくれば無機的な状態に戻るものだ」

Each individual human being emerges as organic matter out of inorganic matter, and in due time returns to the inorganic state.

私はこの文章には続きがあると言ってみた。

ウィニコットは括弧付きの文章を続けた。

「(しかしながら、これも本当は正しくない。なぜならば、人間は卵から発達するのであるが、その卵には、何十億年も前に無機物から有機物が生じたとき以来受精してきた先祖のすべての卵以来、現在に至るまでの経緯があるからである)」

(Even this is not true altogether since the individual develops from the ovum which has a prehistory in all the ancestral ova fertilised since the original emergence of organic matter from inorganic several million million years ago)

私はここには親から子へと連綿と受け継がれてきた歴史があり、決して無機的な状態に戻ることはないということも同時に言っていると思うので、とウィニコットのパラドキシカルな書き方と併せて話した。

・・・ここまで書いて寝ていた。まずい。もう行かねば。みなさんも雨の道をどうぞお気をつけて。午後は晴れるって聞きました。でも寒いから体調にもくれぐれもお気をつけて。今週もなんとか過ごしましょう。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「あれはなんだったんだろう」

ゲンロン友の会のグッズを開封したままリビングのテーブルにおいておいたのをようやくきちんと見た。東浩紀の言葉が書かれた手拭いつき。勢いある。「ゲンロン友の声セレクション」はいくつかすでに読んだものもあるが書き下ろしもある。

久々にみるというか流しているNHK俳句はゲストはピアニストの金子三勇士。なんだか立派な名前だ。選者は星野高士。池内友次郎という俳人がいるのか。おお虚子の次男で音楽家なのか。星野高士からすると?大叔父とかいうのかしら。わからない。

流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子

に曲をつけたのか。かな?きちんと見ていない割にそっちに引っ張られる。あ、洗濯物ができた。洗濯物ができた、っていう?干してきた。今日は雨が降るんでしょ。乾燥してるから少しありがたい。まだ空に水色が見えるし鳥も元気に鳴いている。雨でも同じ景色は見えるし同じ音は聞こえるか。コーヒーは冷めてしまった。

3日連続「あれはなんだったんだろう」という題で書いた。一緒にいる間は気づかないふりをしていた不安や疑惑。実際の傷のことも書いた。あの日のあれ、あれはなんだったんだろう、といくつかの場面を切り取った。

どうにもならない気持ちをどうにかするために私たちはなんらかのアクションを起こす。

東浩紀はゲンロン友の会特典の手ぬぐいに「対話は時間こそが本質で、心を開くことは最大の贅沢」と書いている。本当にそうだと思う。「なのだけど」と東は続ける。時代のせいなのだろうか。それもあるだろう。

Netflixで「天気の子」やってる。いかん、また注意がそれてしまった。テレビで見るとすぐに注意が逸れてしまう。普段テレビは全く見ないのに。

「僕と彼女だけが知っている」そう。二人だけが知っている。「あの日みたことは全部夢だったんじゃないか。でも夢じゃないんだ」そう。夢じゃない。

だから「あれはなんだったんだろう」と問い続けることになる。夢だって「あの夢はなんだったんだろう」となるだろう。だって夢を見ているのは自分で結局自分の体験と切り離すことはできないのだから。

新聞や雑誌の相談欄をみてげんなりすることがある。「それはモラハラです」「それはセクハラです」というあなたはどなたと思う。こういう投稿欄はそういうものだとわかってはいる。相談してきた人に「寄り添う」ものだ。(「女が女の話を聞く」ことの意義と関連づけて考えている)

あれはなんだったんだろう。そう考え続けること、相手はもう実際の対話相手としてそこにはいない。それでもあのときの違和感、あのときの不安、あのときの恥じらい、あのときの喜び、あのときの悲しみに囚われている自分を否認しない。無理せずにさっぱりできるならいいが、無理してまでもう過ぎたこと、終わったことにしない。実際にあの人がいてもあんなにくっついていても言えなかったことばかりだったではないか。思えば思うほど言葉を使うのが下手になる。不自由になる。涙を堪えることが増える。怒りを溜め込みやすくなる。だから会わない時間こそ重要だった。あれはなんだったんだろう。ただただ大好きだっただけなのに。この年齢からの先なんてそんな長くない。一緒に乗り越えていけるかと思ってた。そんな勘違いもすでに笑えたとしても悲しい気持ちを忘れない。

あれがなんだったのか、答えがほしいわけではない。そんなものはないと知っている。お互いのことだ。外からはわからない。二人のことだ。それでも今の私には私からしか書けない、という以前に私は女が何かを書くときはまずは一方的に主観的に書く必要があると思っている。「ひどいことを言ってきたのはみんな女」とか女が男に相談しながら男との依存関係をうやむやに作っていくあの感じからはとりあえず距離をおきたい。私たちのすれ違いは単に個人的な事情によるものではない。最初からある構造上の問題。それを意識しながら別の誰かや誰かとの話と混ぜこぜにした嘘ほんと話に仕立てながらあなたに感じた「あれはなんだったんだろう」を考えては書く。対話は断たれた、としてもこれも対話なのだろう。あのときのあなたとの。あのときの私たちとの。むしろ逃れようのない。

精神分析は連日カウチで自由連想をおこなう技法だ。「自由」に連想などできないことを思い知りながら徐々に「あれはなんだったんだろう」と出来事を眺める心持ちになる。そこまでがひどく長い。私たちが「あれはなんだったんだろう」と思うとき「あれ」は結構昔のことだったりするように。

対象と距離をとって眺めるということの難しさは投影同一化といわれる現象に最もよく現れる。私たちはすぐに自分と相手との区別をうやむやにする。その上で自分は正しい、間違っていないと言いたがる。「そんなつもりはなかった」という言葉の空虚なこと。ただ裁くのは法の仕事だ。私たちの仕事ではない。

「いい悪いの話はしていない。」「正しい間違っているの話はしていない。」時折そう伝えながら、巻き込まれ区別を失っては取り戻すことを繰り返す。そうこうしているうちに「今こうしている私たちってなんなんだろう」となる。あのときもこのときもこうだった。これってあのときのあれと同じでは、とさらに別の「あのときのあれ」が出てくる。出来事は自分のものだけでもなくあの人とのものだけでもなくさらに別の誰かとのものになる。いくつもの場面が重なりパターンがみえてくる。

私の気持ち、私たちだけの秘密、そういえばあのときのあの人とも。あれはなんだったんだろう、ぼんやり時間をかけていくことが別の地平を開いていく。その体験を知っていれば耐えうることはたくさんある。死なない程度には、ということかもしれないけど。この辺の基準は人それぞれだと思うが精神分析であえていうとしたら「今よりはまし」というものだろう。こういう現実的なところに私は助けられているし、これだったら役に立つ人もいるだろうと思っている。強い思いこみや空想で何かに到達したり切り拓いたりしていける人もいると思うが地道に今の自分を確かめることで、というのも悪くない。よって私は今日も悶々とする。あれはなんだったんだろう、と沈みこみながら。今日のお天気もちょうどそんな感じかな。みんなはどうだろう。元気でいてくださいね。

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あれはなんだったんだろう

あれはなんだったんだろう3

あれはなんだったんだろう。なにもいっていないのに「しかたない」が語尾につくようになった。なんだかもうこの人にはなにをいっても同じような言葉にしか聞こえないんだなと思った。とても悲しかったしなんだか怖かった。それなのに身体だけは触るんだ。そんなこと何度も言わないだろう、ということをまた言われた。触った相手が誰かももう覚えていないみたい。あれはなんだったんだろう。もう死にたい。

そうつぶやいたらその人は「そんなつもりはなかった」といい、私に「そんなつもりはないというだろうけど」と黙らせながら責めるだろう。私は身体にも傷を負ったこともいえないまま謝罪するだろう。それにこんな小さな痣を傷とは言わない、あの人は。

先日「社会的な死」という言葉を聞いた。死はいろんなところに訪れる。社会的な評価が高い人が彼女にしたこと、裁きを受けてなお平然と取り巻きとと共に姿をみせること、社会的に死なない男性たちに女性たちが蝕まれていく様子を描写することは難しくない。それでも実際のそれはあまりに個別的で複雑でどこかに書かれることはない。そんな体験をもう長い間聞き続けている。途中、たくさんの本を読む時期があるかもしれない。知識が助けてくれる部分は確かにあるだろう。

優しくて怖いその人も知識人だった。戦うために読んでいたのかもしれない。曖昧な立場を利用して戦わずして勝つみたいなことを繰り返している人だった。加害と被害を反転させる伏線を引き続ける人だった。いつでもきれいに回収できるように周りに甘え甘やかすことを怠らなかった。そうやって必死に生きていることを満足させる形で褒めてあげなくてはいけなかったみたい。私はそのために生きているのではないのだけど。いろんなことは「しかたない」んだって。

私の体験でありあなたの体験でもあるこれらはどれもこれもしかたなくはない。あれはなんだったんだろうね、本当に。眠れずに問いつづける空虚さは耐えがたい。死にたい。それしか浮かんでこなくなる。その間にも社会的立場を利用したやり取りをあなたは目にしつづける。死にたい。それはそうでしょう。でも今日もなんとか目を開けよう。世界は残酷だけど見えるところから見ていこう。いつか「死にたい」が「あれはなんだったんだろう」になりなんらかの答えが私たちのこれからを助けてくれますように。

刺繍で作品を紡ぎつづける沖潤子さんの娘さんとのエピソードが素敵だったので写真載せておきます。Instagramに他の作品も載せようかな。よろしければ。

沖潤子

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あれはなんだったんだろう 精神分析

あれはなんだったんだろう2

あれはなんだったんだろう。どうして最初から身体に触れようとしてきたのだろう。気づかないふりをした。気のせいだと思うようにした。でも違った。なんの言葉もなかった。ただ触ってただ離れた。どうしていいかわからなかった。嫌ではなかった。あれはなんだったんだろう。戸惑った。どうにか処理しようとした。「嫌ではない」という感触に集中しようとした。普通に考えれば「嫌ではない」は嫌の反対を「好」とすると「好きでもない」のだ。吟味したほうがよさそうなものだがこの曖昧さに賭けてしまった。この場合「後悔」という言葉はどちらかというとこちら用の言葉だと思うが投げやりな謝罪と共に向こうから言われた。「あれはなんだったんだろう」と考え続けることになる状況がまた加わった。

外からは見えないとはいえ、恋や暴力や愛が混じり合ってしまうことはよくある、ということを皆さんご存知だろう。行為と概念の結びつきなんて、ということかもしれない。「最初は全然気づかなかった」「付き合ってるときはわからなかった」という言葉もよく聞くだろう。

精神分析を体験した人は実感できると思うが、反復強迫が転移状況において解釈されるうちに初期の傷の想起がもたらされることが多い。最初にあげたような状況も「そういえば」と全く気づいていなかったわけではなかったこととして語り直される。ただそのときに意識することは不可能だったことに変わりないし、従ってそれが自分にとってどういう結果をもたらしそうかという見通しを立てられるはずもない。だから深く傷つくことや「あれはなんだったんだろう」と苦悩することに変わりはない。マニュアル的に予防したり状況を上書きすることはできない。そんなに簡単ではないからもし想起と語り直しの精神分析を必要とするならばそれは時間がかかる。ただ、今のまま、そこにとどまらないでいるために、というポジティブな動機を持つ時間にはなるだろう。生きていかなければならないならそれは必要なことだし、精神分析はそこになら貢献できる。相手と距離をとったとしても法的な対処をしたとしても苦しみが終わるわけでない。そのプロセスにおいてさらなる傷つきを重ねることだって多い。相手がいなくなったとしても起きたことが消えるわけではないので同じことだ。それでも人はなんらかの対処をする。少しでも区切りをつけることでなんとか生きていくためだ。でもそれはひとりではとても難しい。

私に話したことも私にくれたもののことも忘れていた。

以前こんな例を挙げた。忘れてしまう人はいいね、とB’zの歌詞を少し変えて呟く。あれは「途中の人はいいね」だったか。一緒にいるときからそんなだったら離れてしまえばあっという間に、ということだってある。そんな姿を見るのもまたひどく理不尽で嫌な思いをするだろうが責めることも意地悪もいくらでもできるうえにエスカレートしやすいので安易な方へはいかない方がいい。

あれはなんだったんだろう。今日も似たようなことを別の相手と繰り返しているであろう彼らに聞いてもわからないだろう。ましてやすぐにあなたを自在に消去して別のものに置き換えることができる相手には。いまどきのカメラみたいだ。写真という文化も変わっていくのだろうね、というのはまた別の話。欲望や衝動はさまざまな形をとる。従って防衛も様々、ということ。

それにしても「後悔」か。乾いた笑いが生じそうになるがそうやってごまかすこともしないほうがいいのだろう。歴史と偶然性、どちらも大切にするから長く愛することができる、と思ってやってきた。これからもそうありたいと思う。その確認だけでいい。

それにしてもただでさえこの乾燥。辛い。セルフケアという言葉を聞くようになったがどうなんだろ。私は「セルフ」とつく言葉もあまり信じていないような気がする。精神分析でもその位置付けは論じる人ごとにいちいち細かい定義づけが必要になる。それはともかく今日もめんどくさいことはめんどくさいこととして無理せず取り組みましょう。

(急いでいたからテキトーに終わらせてしまったうえにupするのを忘れていた。すでに結構仕事した気がする。東京蚤の市にいきたい。いいお天気でよかったですね。)

石蕗の花(冬の季語)

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

あれはなんだったんだろう

早朝。こんな時間にこんなところにいる。ほとんど奇行だ。いや紀行だ。

朝から散財。はじめてホームの自販機でルマンドを買った。はじめてタッチパネル式の自販機で温かいペットボトルのルイボスティーも買った。一回乗り換えるルートではなく10分くらい長くかかるが乗り換えなしのルートのグリーン車で。

大丈夫。仕事にはまにあう。

嘘っぽいほんとの話とかほんとっぽい嘘とかをこうして書きつけて今日もなんとかやっていくんだ。

どうにもならない気持ちをどうにかするため、起きたこと、感じたこと、考えたことを最初から反芻している。

あの日のあのこと、あれはなんだったんだろう、ということをずっと。

そのためには移動が必要だった。生きながら蝕まれる。戻ってこられますように。

言語も身体感覚も会えない時間にこそ大切にされるべきものと思っていた。会えたときとの喜びはその想像力ゆえと。いないけどそばにいる、大丈夫、と思えた時間は短かった。難しいものだ。苦しくて眠れない日々にも慣れると思っていた。お互い無理をしたのだろう。

対話は難しかった。「対話」って言葉嘘っぽくて嫌いだけど。それはともかくこんな独特の受け身さに出会ったことはないと感じながら私も受け身でいた。慎重に自分の感触を確かめてもいた。すぐにそんな感覚狂ったけど。セクシュアリティから逃れられない人間の愚かさ。

今ならなぜその受身的な態度がその人にとって必要だったかわかる気がする。最初からもっとも謎だったこと。好きな人を観察するときの特殊な状態に流されないように。こういうところがおかしいのかも。歴史を知ればわかる気がしていたし今ならわかる気がする。私のことを相手はほとんど知らない。ある部分をのぞいてなにもきかれていないから。きかれたのはもっとも正直に答えられないことだった。だからかどうかわからないけど嘘をついた。全体を知ろうとしてほしかった。聞かずに想像してほしかった。そんなのは大抵無理だって知ってるけどそこを超えていかないと、といまさら熱い。いまさら。だからこんなとこにいるのだ。思い出そう。

話をきき、それについて話すのはなんだかひどく幸せだった。もっともっと聞きたいこともいいたいこともたくさんあった。でも大雑把でものわかりの悪いまま反応してしまう私はいい聞き役になれなかった。ため息も苛立ちも寂しかったけど圧をかけられるのも嫌だった。それでも一緒にいる間はまだ少し安心できた。

人は誰でも自分にちょうどよい刺激を与えてくれる人が好きなんだなと実感した。優先順位は変わっていく。私はそういうタイプではないけれど。ペットなら言葉使わないから一緒にいられたかもしれない。人だってどうにかなると思い込んでいたわけでもないけどどうにかしようとがんばるのが普通かと思っていた。間抜けだ。人は多くの場合変わらないって知ってたはずなのに。間抜けな私は対話すればどうにかなると思っていたけどそもそもそれをしてもらえないという事態が起こることを想定していなかった。楽観的だな馬鹿だな間抜けだなもういやだ。全部夢だけど。夢じゃないけど。ひどく眠い。

「抱っこしておとしゃん」と繰り返す声が聞こえる。「エレベーター乗り行くの」「工事みにいくの」両親が小さく笑う声が聞こえる。あの手この手でがんばる女の子。無力ではないね。素直に正直に手を伸ばすこと大事だね。たくさん抱っこしてもらえますように。みんな良い一日でありますように。

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写真

写真から

徒然に写真を撮るのが好きだ。あまりこだわらず適当にシャッターを切る。スマホだからシャッターを切るとは言わないか。

コミュニケーションを自分からたった人が外では自分からコミュニケーションしましょうと誘っている。コミュニケーション様式という言葉がよくわからないがしたい人としたいというのは普通かもしれないし常に次に開かれておきたいということかもしれない。そういう価値を自分に見出せる人は強い。断たれたほうはすでに言葉を使う気力を奪われ思考停止にさせられ知らないものと繋がるのが怖くなっているので体験する世界にはもっとずれが生じる。私はそういう人とたくさん会ってきているのでそのメカニズムには馴染みがある。累積的な傷つきから逃れるためにはまずは距離を取ることが大切だが、今の時代、これが本当に難しい。体験からもよくわかる。

家をなくした女性をさらに殴り殺すような人もいる。コミュニケーションなどしたこともない相手を。力ある人はますます強く、言葉足らずな人はますます孤独になっていく。そういう現実に対して実際に何かをしてくれるわけではないのだね、力ある人たちは、口では他人のことを「じゃあ何ができるんだ」とかいうわりに、とかいったら即座に返ってくる言葉もまた達者に部分をあげつらい追い詰める戦いの言葉ばかりで修復へと向かうはずもない。「こちらから言わせれば」と思ったとしても痛みを知っている人はそれ以上巻き込まれてはいけない。自分を傷つけそうな人たちの気持ちなど、という彼らにはみえない、あるいはみたくない人たちの方へ向き直さねば。彼らはいう。「人生何が起きるかわからない。そういうものだ。」と。それだって笑えないが笑うしかない。「自分で作り上げた王国から何か言われても」などといってはいけない。「王様は裸だ」といっていいのは子供だけだけど彼らのこころにそういう子供は住み着いていない。いくつになっても自分の成長が大事ともいえる。それでもこれからも彼らは口ではいいことをいうだろう。そしてまた味方を増やしていくだろう。お金にもなるだろう。そういう乖離に傷つけられてきたわけだがそれはそれ。この溝は埋まらないしコミュニケーションをたたれたらそんな機会もない。うまくできている。こういうのを戦いの言葉でいうならなんていう?彼らは反射的に答えるだろう。私は答えない。これは戦いだったっけ。昨日も書いたけどそこに戻る。

最近の写真展は写真撮影が許可されている場所が多いのだが、それって「写り込み」「多重性」についての考察を促すよね、ということを考えていたのだが笹塚のバス停でひとりの女性が殺された事件の写真に影響された。悲しいことがいつもよりずっと少しですむ今日でありますように。

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うそもほんとも。

長い年月をかけて絶対的に信じられるものを得た気がした。ずっとそばにいつづけることで。これだけは言わない、一方のせいにしないという誓いと共に。どうにでも見えるし結局わからないことだからといって忍耐強く関われればいいが実際には難しい。ただ、本当にどうにもならないことを誰のせいにもしようがない。むしろその事実が苦しくて何年にもわたって苦しみ、行き場のない怒りをぶつけることがあってもその切なさややるせなさを共有することで再び愛しあえた気がした。大抵のことは二人だけのことではない。たまたま出会った私たちがお互いを大切にすること、それが社会的にどんな関係であろうと憎しみや衝動は相手に引き起こされた自分のそれであり変わるべきは自分だ、そう認識することが歴史を捻じ曲げない術のように思えた。

そう思えば、罪人のように扱われるならそれはそうなのだろう。相手にも相手あることを思えばそれ以上言い募ることはできなかった。私たちは二人だけで生きているわけではない。愛情がいつのまにか戦いの言葉で語られるものに変容していたことに気づいてはいた。でも気づかないふりをした。私にはそうではなかったのだからそれに合わせる必要もないはずだった。でも否認を続けた。私が悪いというのならそうなのだろう。本来は一方的ではないはずの、十分なプロセスを経たうえでなされる死刑宣告のような言葉ももう受け入れざるをえない。一度されたら逃れようもない。そう思ってせめてひっそりとと身を隠すように暮らしている人は少なくない。戦うことが全てではない。私が悪いのだ、と思い続けることで保てる部分もある。

悪いのはあなただ。あなたを責めて数時間後には別の場所でわかりやすく「愛」を振り撒いている相手に死にたくなったとしても死なないことが大切だろう。声をあげるなら勝ちにいかねばならない。もしそう思うならなおさらそんな状態で戦うべきではないと私は思う。そもそもこれは戦いなのだろうか。常にそこに戻る。そうやってやり過ごす。時間が一番の薬、昔から語り継がれてそうな優しい言葉を信じて眠れない夜に目を閉じる。まずはそこからかもしれない。

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趣味

とりあえず

今回は投句しないことにした。いつもは「投句することに意義がある」と大慌てで作った10句を速達で送っていたけれど。

と書き出してみたけれど保育園にいかなければ。そこにいけばどうにかなる。「きちゃえば全然元気なんです」登校しぶりの子どもの状態か。私は学校にもいかずバイトばかりしていたし「きちゃえば元気」な子どもの状態はわかるようでわからない。

とりあえず動かねば。

(何時間たったかな)

とりあえず動くことに成功し、いってしまえば仕事きっちり(したと思う。子どもたちかわいい。先生方がんばっておられる。)、今日は昼間に時間をとりやすい月曜日ではないかと神保町へ。

目的は大学時代からの友人のやたみほさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展「アミエとキリエ」。場所は神保町の大きめの通りに面したブックハウスカフェ。子どもの本の専門店、ということでぐるっと見わたすだけでも楽しい気持ちになりました。小さなギャラリー的スペースもいちいち魅力的。今度じっくりめぐりたい。突然の訪問にも関わらずやたさんもちょうどカフェにいらして近況報告。この前、時間があいたときに「今ならいける!」といつもと違う電車に乗ったはいいが神谷町と間違っており結局いけなかった。でもそのときはやたさんもこられない日だったからラッキー。同じくやた作品ファンの店長さんもいらしてお話できました。イロキリエ作家、松本奈緒美さんの作品(特に鳥!)もとても素敵でみんな連れて帰りたいと思ったのですがすでに売約済の赤いシールが。でも私もお気に入りの鳥さんと出会えました。展示の期間が終わったらお引き取りするの。楽しみです。大きな本屋さんのとても小さなスペースに手作りのぬくもりというか、超絶不器用の私には信じがたい技術と労力があふれていてほんとすごいと改めて思いました。超絶器用といえばやたさん、松本さんはもちろん、山本貴光さんや國分功一郎さんが紹介している『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)を思い出しますね。最近読み始めました。久しぶりに漫画を読むのと老眼が進んでいて読みづらいなと思っていたのですが、とても面白い。山本さんは『世界を変えた書物』(著:山本貴光 編:橋本麻里)の紀伊國屋書店新宿本店限定特典のリーフレットのなかで「もしもその科学の知識や技術がなかったら・・・・・・」というところでこの漫画に触れておられます。このリーフレット自体もとてもおすすめ。「思いやりってなに?」という方にもぜひ手に入れていただきたい。山本さんの文章自体にそれを感じられると思う。國分さんの最近のお仕事『スピノザ 読む人の肖像』『國分功一郎の哲学研究室』にも丁寧に地道に長く関わっていくことの価値を教えてもらっているしみなさんに感謝。「とりあえず」の毎日でもなんとかね、と思えますように。この後もがんばりましょう。

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日曜日

薬を飲み忘れた、とPCの隣においたプーさんの陶器の入れ物(なんのお菓子が入っていたんだっけな)をみてきづいた。昨日PCに向かわなかったせいだろう。飲み忘れないようにそこに置いてあるのにそこに行かなければ忘れるよねえ(忘れるのか?)。何もやりたくないときは多分やらなくていい、むしろやらないほうがいいときなんだ、と必要な連絡が直前になってしまった。みなさん、OKしてくれたけど。すいません・・。教え子が無事に出産したという連絡もくれた。本当におめでとう。

この前、赤ちゃんのときからよく知っている子どもに「将来の夢」を当てさせられた。大体わかるので3回目くらいで当たった。が「えー、まだそれ系の夢なのか!」と驚きもした。「もうひとつある」という。それも大体わかるので1回目から「惜しい!」と言われた。が正解に辿り着くまでには少し時間がかかった。近接領域が多い。聞けば「あー、確かにずっと描いてたものね」と納得だったが。とにかく表現する仕事につきたいらしい。

健やかで羨ましい。どんな夢でも叶えばいいな。これからまだまだ生きていかねばならないはずのこの子たちの未来がせめて安全でありますように、と願わねばならないような社会は本当によくない。私なんかはどんな辛かろうが苦しかろうがもう残された年月のことを考える年齢だからいいけど。

ランチもいいけど散歩がしたいというのでなんでもいい私はついていった。ただただ受け身でいることである局面をやり過ごすのも悪くない。読書するエネルギーはないけど映画なら座ってるだけ植物園なら歩くだけで驚いたりできる。でも投句締切が重なっている。どうしよう。まあ無理せずできる範囲でやる以外ないよね。できないものはできない。

私にとっては特別だった時間、私にとっては当たり前に生じる気持ち、なんでもかんでも「私にとっては」は独りよがりかな。色々あるのは当たり前。だから時間をかける。たくさん話す。失敗もいっぱいするけどいっぱい大切にする。それがたとえ私にとっては耐え難いとしても耐えうるものだからそうしてきた。この仕事はその最たるものだと思う。双方にとって。独りよがりかな。

日曜に仕事を入れることについてイギリスの精神分析家に指摘されたことを思い出した。色々考えさせらるねえ、といってまた同じ生活を続けてしまうのかしら。

今日は雨降るのかな。東京の周りの県はみんな雨マークと聞いたけどそうなの?一応靴だけ雨用にしていこうかな。乾燥してるから少しは降ってくれたほうがいいのかも。あったかくして過ごしましょうね。良い日曜日を。

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俳句 映画 趣味

居酒屋。映画『冬の旅』。

「はい、南蛮」カウンター越しにあまりに自然に渡されたのでつい受け取ってしまった。「南蛮、ここじゃないと思う」というと「すいませーん」とホール係の女性がすぐに受け取りにきてくれた。耳が遠くなったなと感じていた。彼は間違いを正す方だった。常連客との雑談が増え目つきの鋭さがなくなってきたように感じていた。心配なんだ。安くておいしくて通い続けてる。コロナの間はテイクアウト用のおばんざいセットを出していた。これも店で楽しめる以上に多彩なおばんざいばかりで真似して作るのも楽しかった。ビニール袋には入らない大きな正方形の箱を平に持たなければならないので風呂敷に包んでくれていた。店が再開してから再び通うようになった。大体決まった曜日に行くがいつもいつも会う人は特にいない。でも大体の常連には会っていると思う。何度も目だけ合わせて話したことのない人も若い頃から通っているらしきお酒大好きな人もみんなひとり。「ありがとうございました」包丁を握りながらクリッとしたつぶらな瞳でしっかりこちらをみて送り出してくれた。長生きしてくださいね。店長の息子たちもそれぞれに店を出して味を受け継ぐ人はいるし彼らの店も大好きだけど私はこの小さな居酒屋が一番好き。まだまだお願いいたします。

今日は七十二候でいう「地始凍(ちはじめてこおる)」。小春日和に安心しつつ少しずつ大地も冬支度。

凍てつく大地で若い女性が死んだ。とてもかわいい寝顔と同じ死顔で。

アニエス・ヴァルダ「冬の旅」の話。楽がしたい、自由に生きたい、それが何を意味するかなんてどうでもいいのだろう。他人がそれをなんと言おうとそれが求めうるものである限り彼女は歩き続ける。ヒッチハイクで移動しては薄っぺらいテントで眠る。大きなリュックと臭気に塗れながら。汚い女と言われながらも出会う人たちを魅了し水や食糧、仕事と居場所をえる彼女の求め方は最低限のそれで相手のケアや憧れを引き出すのはすでに大人になった彼らが失ったあるいは得られなかったものを彼女に見出すかららしい。一方、彼女の在り方そのものが喪失の結果のようにも見え、これ以上の喪失を拒むもののように感じられた。それゆえ彼女は繋がりとどまることに対して受け身でしかいられない。彼女が追い出される場面で放った言葉がまさに今の私が使いたかった言葉で心に残ったのだが記憶に残っていない。まさにそう言ってやりたい、そんな言葉だったが言う機会も同時に失っているので思い出す必要もない。彼女の怒りが突発的に表現される場面には少し安心した。彼女の名前のイニシャルが貼り付けられた肩掛けバッグのスクールガールっぽさがその年齢の危うさに対するこちらの親心を掻き立てたのかもしれない。私もまたすでに失っている側のひとりで彼女のような頑固さや意地や必ず再び歩き出す力は持っていない。彼女に対する無力は今は世界に対するそれのような気もするが、凍てつく大地で寒くて眠れずママと口にする、もしくは倒れたまま死んでいくような厳しい環境にもない。

もう行かねば。放浪ではない日常をなんとか今日も。

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めんどう

SNSをみてると「めんどくさい」と思うことが多いけど直接人と会っているときにはあまり思わないな、と思ったけど思いますね、強烈に。あまりに別物で忘れてた。

今その違いについて頭の中では吟味してるけど書き言葉にするのめんどくさいから書かない。この場合のめんどくささはたいしたことないけどすでに燃料切れ。

眠れないから夏物でもたたむかとだしてみたけど結局積まれている。だしてしまったからにはいずれやらねばだけどまあいいか。まあいいか、と思えることはめんどくさくない。

映画に行く予定なんだけどその映画館久しぶり。大抵の映画館は久しぶりだけど。最後の回を見てアフタートークをきいて深夜にそこをでた。駅まで少し遠いけど余韻が心地よかった。冬だったかな。夏の身軽な服装ではなかった気がする。今回は昼間だからインスタで見かけたお店でランチしたい。

そのためには何があろうと着々とやるべきことをせねば。こういうときこそ少し前だったらめんどくさいと思ったような気がする。今はただ粛粛と、と思う。

好きな人と会うときみたいなかんじ。一日の仕事を終えて疲れ切っていても実際会えればそんなことは忘れてしまう。ずっと聞いていたいし会話がしたい、ってなる。好きの力は強い、という話をそういえばしたばかり。反転すれば苦しくて眠れない日々のもとにもなるけどむしろそれがめんどくさくなってきたらいい感じかも?時間がかかりそうだけど。

静かに自分の感触を追う。押し付けられても奪われかけても抵抗はあと。じっとじっと。言い聞かせるように。こういうのはたまにめんどくさいけどあとからめんどくさいことになるよりはまし。そう言い聞かせる。

簡単ではない。本来的に生きるのってめんどくさい、とは思わないけど。あくびがでた。少し休もう。

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日々と

小田急線鶴川駅そばのビルのエレベーターホールから駅の向こう側をみやると輝くように紅葉する木に気づく。ほかの木々も紅葉しているはずなのだがこの一本は魔法をかけたように輝く。私がエレベーターに乗る夕暮れどきは特に。だから私も気づけたのだろう。このビルに通い始めてから10年以上経つがいつ頃気づいたのかはわからない。鶴川は駅を出てすぐに坂道になる。つまり山なので川沿いと山道をよく散歩した。当時は週二日通っていたからお昼を買って散歩に出かけ気持ちのいい場所を探して食べた。川沿いには桜も見事で、そこを通学路とする大学生たちの変化も季節の変化と連動していて楽しかった。坂を登っているうちにいつの間にか人の家の敷地に入っていて呼び止められたこともあった。あの辺は境界が曖昧だ。白洲次郎と白洲正子が移り住んだ「武相荘」も最寄りは鶴川駅になる。正子さんの器とか持ち物が素晴らしかった記憶がある。また行きたい。本を何冊か持っていたはずだが私のではなく母のだったかもしれない。

身体が動くなってしまわないようにどうにかこうにか立ち上がる毎日。ここまで生きていればそれぞれの工夫があるだろう。こういうときそこそこダメでよかったと思う。勉強は平均的だと思うが私は「バカじゃないの?」「あたまおかしい」と本気で呆れられてしまうことをしでかすことが多い。言い方はどうかと思うけどそういいたくなるくらいなことをしでかすのだ。自分でもどうかしてると思う。私なりには理由があるのだけどそれも「なんでそうなるの」ということなので説明しない方が無難。でもこれが心身を救ってもいる。考えれば考えるほど起き上がれなくなる、立ち上がれなくなる。根っこが音を立てて生え始めそうになるのを感じる。まずいまずいまずいと気持ちばかり焦って身体に力が入らなくなっていく。そんなときに「わたしごときが」という開き直りがやってくる。わたしごときが考えたところでこれを脱することはできない。考えるな、感じろ、ではなく、考えるな、ひたすら無心にいつものことだけしろ、である。動けない自分のことなど忘れる。私は今日も起きた。私は今日も仕事にいく。ただそれだけ。ロボットになる。それが成功して無事に一日を終えてこんな時間を迎える頃には朝とは違ってこんなことまでできてしまう。これがもうちょっと賢かったらできなかったかもしれない。考えが緻密になってしまったら変なネットワークができちゃってでも大抵そういうときのそれってエッシャーの絵か出口塞がれた巨大迷路みたいないものなので考えることはできるのに出口塞がれてることとかシンプルな可能性に気づけなかったりするのでは?緻密じゃないからわからないけれど。まあともかくいつも抜け道探してたりサボり方考えてたり「あたまおかしい」とたまに言われてたりするくらいでも大丈夫なのだ。むしろだからこそ生きていける今日だってあるのだ。とか書いているが何かが変わったわけではない。明日も明後日もずっと先もこうなるかもしれない。が、それだっていろいろあるのは当たり前のこと。考えない。考えられるときに考える。みんなの今日はどうだったかな。魔法なんてないけど魔法みたいな景色と出会えた人もいるかしら。ほんと嫌になっちゃうことも多いけどよく眠れるといいですね。また明日。また明後日。なんとか出会っていきましょうね、日々と。

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うそもほんとも。

作り話の先へ

「彼女が言ってることが本当なら」

なんだその前置き。「あなたのいうことが本当なら」と何食わぬ顔で返したら空気が変わった。そのまま続けた。

これは作り話なんだけど、あ、これは本当。え?ああ、本当なのはこれが作り話ってこと。

噛み合わない。もう苛立ってる。チイサーイと心の中で小さく呟く。今夜もSNSで重いだの見切ってやるだの軽薄な調子で呟かれるのを目にするのね。あーだるい。ミュートしとこう。

さて、そろそろ始まる投げやりな雑談。

そのツイート知ってます。その人のこと教えたの私ですから。全然興味なかったの忘れてるね、きっと。曜日決めて食事いかないとどの子とどこ行ったかこんがらがっちゃうくらいだし。私も写真あげておけばよかった。

あなたの友達が心配して連絡くれたんだよ。だから私も心配になっていったのに逆ギレ。この前のあれはすごかった。怖がらせれば黙るよね、人は、ふつう。こういうことももう口に出せないもの。

え?今日もするの?投げやりな雑談に一生懸命つきあったのに。まあいいけど、こんな日もあるから。本当はこれがいちばんやむ原因だけど。わからないよね、そんなこと。いってないもの。

今夜も延々とありがちな作り話。こんなのはパターンになってほしくないがパターンとしていくらでも書ける。小説を書ける人はこれに背景も奥行きも加えて本当の話にできる。いいな。そしたらエンディングも変えられるかな。ありきたりなやりとりに私たちを持ち込みたいな。別の世界にいきたいの。とかいってるうちはだめですよね。やるならまじめにやれ、ときっといわれてしまう。でも私は小説家になれない。だから話を聞きましょう。話されるままに。それがお仕事。書ける人たちを尊敬してる。応援してる。どうぞよろしく。私たちを助けて、こんな作り話から。協力できますように。

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うそもほんとも。

昨晩の分

ネットに強い知り合いが思い通りの展開に喜んでいた。やってること相当ダメだと思うのだけどこういう快楽もあるのかと興味深かった。でも普通にそういうの怖いからやめてと伝えた。だって傷ついてるのにさらに嫌なことされてゲーム的な扱い受けてるんだよ。それは真剣に抵抗すべきでしょ。そこまでされてるのに軽口叩いているみたいで痛々しい。実際ひとりになるとほとんど発狂しそうになるって言ってたではないか。今までのことがあるからそんな簡単に手放せないのはわかるけど。そんな相手を選ばなければ、ということに尽きるけどもう取り消せない。だからといって思春期的なやり方で自分を正当化しつつ欲望だけ叶えたいみたいな心性に振り回されるのはおかしいと伝えた。あなたがそういうことを平気で言える相手でよかった。むかつくんだって。すごくわかるよ。本当に正当に裁かれるといいね。もう少し時間をかけよう。あなたのやり方は効果はあるけどあなた自身も傷つけるからやめとこうね。

いろんなことをネタにして小説にするっていうのはいいと思う。私はできないけどその人はすでに書いているから余裕でしょう。

いいなあ。私はひたすら悶々と苦しんでそれがどうなっていくのか自分で観察していくだけだな。小説にするというのはまた別の作業だものね、わからないけど。まあ、淡々と生きるために普通に寝よう、

と思って寝たばかりだけどもう起きねばな時間になった。昨日も公開しわすれた。あとでまた書くかな。その前に資料作ろう。そういうわけで何も進んでいないの。みんなは元気ですか。そうでもないかな。この前ね、と書きたくなってしまったけど資料資料。とりあえずまたね。

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精神分析、本

ぼんやり。ハンナ先生の講義関連も少し。

道路が雨に濡れている気がした。音で。南側の大きな窓から空をみようと思ったのにお湯を沸かして戻ってきてしまった。こういうことはすぐに忘れてしまうのだから耐え難いやりとりも早く忘れてほしい。iphoneで天気をみた。☀️マーク。お湯沸いたかな。コーヒー。今朝はお菓子が豊富にあるけどどうしようかな。ここ数日果物を切らしてしまっている。何がほしかったのか帰ってきてから気づくのだ。ぼんやりしすぎている。悲しい。

あーメモ帳をばら撒いてしまった。どうせ見返さないのだから捨てておけばよかった。拾うときに見返すか。そのために落ちたのか。

先日、英国精神分析協会 Fellow、Brent Centre for young peopleのMs. Hannah Solemani先生のレクチャーを受けた。ハイブリッドで現地参加は二人だけだったので直接お話できた。Brentセンターは個人がチャリティーによって立ち上げたのに今は政府の助成金も受けながら無料で子どもの心理療法を行ったり、セラピストを学校に派遣したりしているらしい。ロンドン北西部という比較的貧しい地域の子どもたちのために立ち上げたといっていた気がする。どうやってそういう良い循環を作り出しのだろう。

Hannah先生は素敵な人でhusbandといらしていた。海外からこられる先生はパートナーが同席していることが多い。専門が異なるのにじっと話を聞いている。今回はBrent Centreについての補足をHannah先生にそっとメモで渡しgood pointというようなことを言われていた。とても静かでスマートな佇まいだった。

以前、同性愛者の精神分析についてどこの国からか忘れてしまったが分析家の先生がいらしたときにその原稿の翻訳を担当したことがあった。論文を読んでいるときには特に何も思わなかったが当日先生がパートナーである同性の方と親密そうに話しているのをみて論文の重みは増した。精神分析は性、つまりカップルについて考えることなので当然か。

内容は思春期の精神分析についてだった。久しぶりにこの領域の知見に触れた気がした。私も思春期の患者と長く仕事をしているが改めて学ぶとこの時期の特殊さに驚かされる。投影同一化のバリエーションについて意見した。忘れずに考え続けられたらいいと思う。

と書いてみたが頭がひどくぼんやりしている。そういえばさっき洗濯が終わった音楽が聞こえたかもしれない。今日もみたくないものをみては差し込まれるような痛みにじっと耐えながら過ごすのだろう。もちろんそんなことばかりでもないだろう。

みなさんもどうぞご無事で。昨日は立冬でしたよ。暖かくしてお過ごしくださいね。

ちなみにハンナ先生おすすめの本はこちら。

Inside Lives 

Psychoanalysis and the Growth of the Personality

By Margot Waddell

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うそもほんとも。

作り話

全部作り話なんだけど、と本当に作り話をした。そのつもりが全部本当のことと受け取られていた。自分でもそんな気がしてきた。「それ言ったのあなたじゃないですよ。」と会話を再現してくれた。会話分析っていうの?そういうのもしてくれた。「受け手はここで意図的にずらしているか混乱してずれているんです。」でももうそんなのはどうでもよかった。言ったのは絶対私なんだ。そのつもりがなくてもその人がそういうのだからそうなんだ。

こういう余計なことしたがるのは絶対あいつだろうと確かめたらやっぱりそうで驚いた。ほんとにいつも期待を裏切らない。ほんとにほんとに人の気持ちはわからないのに期待に応える力は抜群。身体さえ丈夫なら(これまで怪我や病気はしたことがないそう)このままうまくやっていける。定点観測の場合。それでいい。こっちの人たちにとってはひどくうんざりで鬱々させられるけどそういうのは確かにありだ。大ありだ。もう若くもない。賢い人が賢く生きることにこちらが耐えねばならない。変わるべきはこちらだ。

これはあれだな、カーリングの戦い方だ。と一瞬思ったけどカーリングのことよくわかっていなかった。一石を投じる。勝敗の行方を大きく左右する一石を。というか私は戦ってなどいなかった。勝手に戦闘体勢になって巻き込むのやめてほしい。私が馬鹿で私がとんでもない意地悪で私の言葉はいつもおかしくてあなたを怒らせて当然なのでしょう。最初から愛情と勘違いしてどうにかこうにか一緒に、と願ったところから間違っていたのでしょう。

こちらがどんなに苦しかろうと眠れなかろうと涙が枯れてしまおうとその人には関係ない。責任を取るようなポジションにもいない。育てている人もいない。関わる側にとってもいいとこどりをしやすい。傷つきは相手におまかせして上手に賢く生きている。そんな人でも(だから?)親密な関係を築くことは難しい、ということを人間関係に苦しむ人たちは知ってもいいかもしれない。あなたのように切実に個人との関係を求めなくてもそっちより世界といって活躍できる人たちもいることを。この場合、世界から都合の悪い個人は引き算されているかもしれないけど。そうなりたいんですか?なりたくないです。というやりとりになるかもしれないけど。あり方は自由。関わればいろんなことが起きるだけ。元気が出たり死にたくなったりいろんな風になってしまうだけ。

全部作り話。出来事はそのための道具。そんなことを思いながら時々泣くような夜。(公開し忘れたので朝)。

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通じた。美味しかった

靖国通りから新宿御苑に続く真っ直ぐな道には私が普段接しない文化のお店があり興味深くそっと覗き見しながら歩いた。赤い実をつけたハナミズキが紅葉していた。「児童館のそばのあの道も今きれいだよ」と教えてくれた。長らく通っていない。そうなんだ。すでに紅葉のピークを体験してしまったので新宿御苑の緑がまだ濃く見えた。

下北沢でよく行っていたビルが取り壊された。開発が進む下北沢から親しんでいた店がどんどん消えていく、かといえばそうでもなくたまたまだが私が通っていた店はそこそこ残っている。ただそのビルに入っていた店はビルごとなくなった。トイレもビルの共用のような古い店だったが若い頃に友人が連れていってくれて以来私もいろんな人と一緒に行った。その店が新宿にあった。チェーン店だから別の街にもあるのは知っていた。

「あの真っ直ぐに続く道なら何かあるかな」と大体真っ直ぐな道ばかりの土地で言っても柔らかく受け取ってもらえた。親密な関係ならそれが普通だと思う。通じないことも通じることも一緒に繰り返しながら通じる通じないではなく相手のあり方を受け入れていく。拒否的で高圧的に正確さを求められびくつき頭痛と不眠が続いていた日々がもっともっと遠くにいけばいいね。たくさんの味方や他人の呟きを上手に使って小さな意地悪を続けてしまうその人も身近で本当に想ってくれる誰かにキャパ捌けるようになったらいいね。

とても好きで大切にしたくてもでも自分を失うのも嫌で一生懸命話を聞き観察してきただけなのにそうやってわかられることが自分の悪いところ暴かれてるみたいで嫌だったんだって。自分のほしいものだけほしかったんだって。あなたも大変な時期だったからどこかで気づいていたのに誤魔化しちゃったって言ってたでしょ。でもそれはその人があなたの時間や歴史を大切にしなかった理由にはならない。反省すべきはあなただっていまだに言いたいみたいだけどもう放っておこう。そういう形で利用されるのはやめよう。向こうだって言いたいことがあるなら普通に言ってくればいいだけ。私たちよりはるかに上手に言語化できるはずなんだから。なんか私たちっていつも同じ失敗してる気もするね。でも若い頃に比べたら上手になったんじゃないかな。今度こそ自分の時間と労力を差し出す相手や場所を間違えたくないよね。またやるかもだけどさ。大丈夫、みんなわかってるから。そうなったらまたすぐ集まろう。みんな失敗もしてるけどその分本当にまずいときの対応しってるじゃん。餅は餅屋でどこいくべきかもわかってるじゃん。たしかに。口には出さないが多分同じ修羅場を思い浮かべて笑った。

暑くなってきた。母からもらったばかりの上着を脱いだ。同じくらいの背丈の女子高生が手を繋いで通り過ぎた。この前、母が地元にいる私の高校時代の同級生としたという話を思い出した。彼女にも色々あった。私たちなんとか生きてきたね。大通りを渡ってしまえば人通りはほとんどなくなる。「この道の向こうのドイツ料理いったよね」「あーいったいった!」25年前のことが通じた。久しぶりに行ったその店も美味しかった。

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うそもほんとも。

東京は晴れ。

鳥が賑やか。さっき空のうすーい水色とピンクがきれいで写真を撮ろうと携帯電話を探しに戻ったつもりが別のことをして忘れたことに今気づいた。そんなことばかりだけど今日も起きられた。

茶色くて重そうな押して入るドアに見えたのに前に立ったらスーッと横に開いて自動ドアなのかとびっくりした。デザインとあわないー。電車が遅れてしまったので友人はすでに席で待っていた。私にはちょうどいいカフェラテを出してくれるお店だった。二人で話すのははじめてだった。いろんな話をした。「あれでよかったのか」。悩んで苦しんでその後に生じるであろう様々な可能性を考え抜いて出した答えの不確かなこと。論理的に考えてそれはそうすべきだった。でも私たちの立場は弱い。圧倒的に公に対して力を持つ人に捲し立てるように言われれば自分の言葉は呑み込まざるを得ない。あとは離れること。選択肢はそれしかなくなる。離れ方すら気をつけねばならない。こういう状況には絶望しかないがそれでもやっていくしかない。

どうにかして暴露したくなるときほど逆にもう関わらないという選択をしたほうがいい場合もある。当然戦わねばならない場合もあるけど。

その人がどんなに信頼を集めていたとしても「実はいい人」であったとしてもそんなのはあなたが傷ついたことをなかったことにする理由にならない。

だってその人が何かあったら晒せばいいって言ってた。それはまさか自分がそうされるとは思っていないからでしょう。「晒す」という言葉自体とても暴力的だと私は思うし、そういう言葉を平気で使う人なんだな、関わらない方がいいな、と思った方がいいんじゃないかな。外に出せば出すほど傷つくのはあなたかもしれないよ。あなたの体験が別のものにされちゃうかもしれないよ。少しずつ自分の感覚を信じられるように吟味していこうよ。

でもそれができないほどに私たちは愚かなんだ。本当に。辛い。

私の周りにはそんな人いない。いや、まさにあなたのそばのその人に私は、という言葉を呑み込む。

「私の周りにはそんな人いない」というのは「私の周りにもいると思うけど私はそういうことをされていない」ということでしかないのは暗黙の了解だろう。日常生活で「もしかしたらここにも傷ついている人が」と過度に気にしてたらコミュニケーションは難しくなる。個別の人間関係が外から見えるものといかに異なるかなんて私たちは小さなときから知っている。自分のことも、最近なんとなく信用できない好きな人のことも棚あげてしてなんとなくもやもやしながら過ごしているのが普通だろう。本当のことを知るのは怖いことだ。

この前、長い期間妻がいることを隠して不倫関係を続けていた人気者の話があった。女性の身体とか時間とかのことを考えられる人だったらそもそもこういうことにはならなかったかもしれないし、どっかでわかっていても知るのが怖くて自分を大切にする方向を見失ったのかもしれない。どこでどういう選択をしたからこうなったのか、ということを辿ることはもう不可能かもしれないし、辿れたとしても記憶自体曖昧だろうし、起きてしまったことに対する無力感に死にたくなっているかもしれないし、本人たちがどんな気持ちかはまるでわからない。でもその人反省してるって。ニュースに出てた。後悔してるって言わなかっただけいいのかもしれない。

何回も聞いた話だけどその度に一緒に考えた。結論は同じでも反応の仕方が違う気がした。それだけで嬉しかった。私といてもいつも、あの人はこう言っていた、なんとかさんはこんな風に言ってくれた、といつも別の人が心に住み着いているようだった。私にくれたもの、一緒に行った場所のことは忘れられてた。それでも一緒にいられる時間があれば嬉しかった。幸せだった。私に話しているようにみえるのにいつもひとりごとのように聞こえた。相手は私である必要はないんだなと感じた。実際、別の場所でも同じことを言っていた。それでも一緒にいられれば嬉しかった。幸せだった。

この愚かさたるや。

どうしましょうね、こんな私たち。今日も苦しくて時々過呼吸になりながらやっていく方もおられるでしょう。とてもとても辛いけどさっきからまた少し時間が過ぎました。多分ずっとこのままということはない。

東京は晴れています。良い日曜日になりますように。

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読書

11月5日朝

できるだけ長く布団の中にいるようにしている。今日は冬眠していなくても大丈夫そうな気温っぽいけどできるだけのんびりと。起きてしまうとろくなことを考えないから。また生きたまま今日がきてしまったと泣き始める人もいるでしょう。そんな簡単じゃないよね。

レベッカ・ソルニットの『私のいない部屋』を久しぶりにパラパラしていた。「いつか追い出されてしまうのではないか」私たちが持ち続ける不安のひとつだと思う。「居場所」という言葉と関連づけられることも多いだろう。私はここにいていいのだろうか。受け入れてもらえるのだろうか。不安はそこにいるための努力を引き起こす。我慢や無理、それらに耐えられなくなっての行動化などなど。努力など、と私は思う。本当はそんなことしなくてもいいのに。色々ありながらやっていくのが普通なんだから。でも現実は違う。

友人が冬支度のような素敵なケーキを送ってくれた。アップルパイとチーズケーキ。彼女は井の頭線沿いに小さなお店を構えていた。とても素敵なお店で素材もお皿も自分で契約した生産者や作り手たちとこだわり抜く派手さのないこじんまりと居心地のよい店だった。順調にやっていけるかと思っていたがそのうちに特定の男性が現れるようになったという。私はなぜかその時期の彼女に会っておらず県外に移転し再び頒布形式でケーキを売るようになったあとに聞いた。彼女からではなかったかもしれない。ほぼ密室になる狭さの店は居心地のよい空間ではなくなってしまったらしかった。彼女は店を閉じた。

あれからもう20年以上経つ。彼女から年に3、4回届く小さな箱を開けると丁寧に梱包されたケーキの上にほぼ正方形の小さな便箋2枚、時には3枚が置かれている。そこにはいつもケーキのことと一緒に近況が綴られている。今回もそうだった。彼女が住む土地では森の葉っぱが黄色く輝いているそうだ。でもそろそろそれも終わりとのこと。水のきれいな山里に移住したあとの彼女にも色々あった。もちろんとても素敵なことも。色々ある。生活ってそういうもの、と割り切ることは難しいけど長く続けていればなにかしら変化は起きる。今日は彼女に素敵なことが起きますように。もちろんみんなにも。良い一日を。

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唖然としたとしても

ギターがキュイーンっていってそんなパンチはないけど激しく歌うバンドの曲を流しっぱなしにしている。ずっとハードロックに浸っていた日々はいつからか遠くへいってしまった。こうやって聞く分にはどこかしら熱くなりそうな気もするが熱いのはコーヒーのせい。

耐え難く理不尽と感じるのは親密な関係においてだけ(社会の理不尽はデフォルト)というより仕事では「親密さ」そのものが学会のテーマになるくらいその定義は曖昧なのでここでは家族とか恋人とか相手の人生のことも考えながら継続的に築いていく関係くらいな感じで書く。あれ?こう書いてみると理不尽だと思ったけどそもそも親密な関係ではなかったということ?とか思ったり。自分の定義づけによってなにかに気づくのはそこに内的な対話がない場合独りよがり。そう思いたいからでしょう、となる。でも一応私は精神分析のおかげで常に対話状況にあると思うのでそう思いたい自分に気づくことくらいはできていると思う。え?そもそも親密な関係ではなかったってこと?となるとさらに深部を突き刺された感じになる。もうこれ以上えぐれる厚みも残っていないくらいなのにさらに。皮膚みたいな表層はまだその奥を想定できるから希望があるか、と一瞬思ったけど、表面でバチバチ跳ね返していたら結局コミュニケーションにはならないからそもそも心が揺れ動くような関係を持ちにくいかな。内側に入れたくないわけだから。それだったらさっきみたいに「あれ?」とか「え?」とかならないでしょう。そういうのってまさかコミュニケーションの成り立つような親密さが成立していなかったなんて、という唖然さだと思うから。絶望的な気持ちで消えてしまいたくなったとしてもいずれムクっと起きあがろう。私たちは生活しなくてはならない、ならないというわけではないけれどあなたが生きてきた歴史を大切にしてくれる人がたまたまその人ではなかっただけだからそんなたまたまのために何か捨ててしまうのはやめよう。向こうは何事もなかったかのように動けているのに自分だけこうして動けないまま過ぎていく時間が本当に辛くて悔しくてやりきれないと思うかもしれないけど時間はなんにしても有限なので起き上がれるまでのどん底にどうにか耐えたいね。ポカンとしたり号泣してはシーンとしたり、自分の状態をじっと観察したりしながら。

土居健郎のいう「甘え」って大事なんだなと改めて思う。欠損を外から補うことは不可能。どんなに本を読んでもどんなに講義を聞いてもそんなもので埋めれば埋めるほど自分の傷つきにも相手の傷つきにも鈍感で頑丈な自分ができるだけかもしれない。そんな風になってはいけないような気がする、私は。

今日はどんな自分でいられるでしょうね。コントロールはできないとしてもこれまでと大きく変わることもないはずなので無理せずなんとか過ごしましょう。

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読書

メモのようなというかメモ

場がどこであれ性に関することで悩む女性の言葉が軽く扱われたり利用されたり消費されたりしないためにはどうしたらいいのだろうと考えていた。発信するのは自由だから。身内でもなんでもない立場でもできる見守りはあると思っているけれども。

など呟いたりしつつ家事をしつつ仕事を後回しにしていた。今からやらざるを得ない。それにしても構造上の問題ってどうしていけばいいのだろう。個人に対してもどうにもできないことが多いのに。

うん。引き続きいろんな人と具体的なことを話しながら考えていこう。ここからはとりあえず積み上がったものを戻さないと作業ができないのでそれに関するメモ。あとから消したりつけたしたりするかも。今のところここが毎日くるスペースになっているのでここなら忘れないかなと思って。

まず國分功一郎『スピノザ ー読む人の肖像』(岩波新書)はきちんと読むのはあと。國分さんが始めた新しいプラットフォーム<國分功一郎の哲学研究室>には登録済み。「哲学の映像」と「映像の哲学」を定期配信。最初の配信は新刊とも連動して<読む>ことについて柄谷行人『マルクスその可能性の中心』の解説第一回。國分さんは言行一致の人だと思っているので信頼してお金をかけられる。

ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』も途中だけど精神科医である訳者の《訳者ノート》が本当に優れた導入になっている。「反ユダヤ主義」という短い論考(154頁から)は憎悪のルーツが端的に語られていて印象的。サリヴァンは一貫していてすごいなと思う。

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)も昨年末に出たばかりの本だ。私は古田徹也さんの本のファンだけど帯に書かれた一見わかりやすいテーマがもつ複雑さがどんどん提示されるので正直読むのは大変。普段自分が適当に言葉を使っているからかもしれないけど相手の言葉を大切にしたいし自分の言葉も大切にしてほしいから読むんだ。

「言葉は、文化のなかに根を張り、生活のなかで用いられることで、はじめて意味をもつ。言葉について考えることは、それが息づく生活について考えることでもある。」(37ページ)

本当にそう思う。古田さんのはもう一冊、最近でた本がとても良いのだけどこれは積んでいない。リュックの中かも。娘さんの子育てからの気づきがとても新鮮でそこから広がる懐疑論の世界が広大すぎて、という感じの本なんだけど肝心の題名が思い出せない。心に携わる私たちには必携と思ったよ。でもこれもまだ途中。

益尾知佐子『中国の行動原理 国内潮流が決める国際関係』(中公新書)は中国の精神分析のスタディグループの方と交流する機会があってちょうど習近平のことも話題になっていたので買ってみた。私何も知らないんだなということを確認した。リーダーとは、という描写ひとつとっても全く違うではないか。まあ少ない知識からでもそれは導けるけれど細かいことを知るとポカンとするくらい違う。うーん。しかしまだこれも途中。

まだ積まれているけど諦めよう。お、そうそう、今顔を傾けて目に入った平尾昌宏『日本語からの哲学』は本当に面白い。書き方も内容も。平尾さんの本はどれも簡単にこっちを引き込んでくれるから助かる。

こうダラダラ書いている分にはいくらでもかけるけど苦手な仕事をせねば。みなさん明日はおやすみかしら。良い一日になりますように。

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精神分析 精神分析、本

11月2日朝、追記はオグデンのウィニコット読解

朝、起きたての息って音が独特。うーんと唸りながら大きく長く伸びをした。精神分析は週4日以上カウチに横になって自由連想をするのだけどカウチでの息遣いは横になった瞬間や寝入るまであとは朝のそれに近い気がする。こんなことを意識するのはこの技法くらいか。

そうだ、『フロイト技法論集』は引き続きおしていきたい。というか精神分析を基盤とするどんな技法を試すのであれフロイトの主要論文は共有されていないとお話にならない。

暖房、今日は足元のファンヒーターのみ。これそろそろ危ないのではないか、というくらいの年数使ってるけど危なげない音を立てて順調に温かい風を送ってくれる。なんて優秀。気持ちがどうしようもなくても寒いのはどうにかしたい。そんなときしがみつかせてくれる。が、そうすると熱すぎるし危険。人を癒すって大変だ。いつからかそういうものを求めなくなくなったというか普通に癒されてしまうことが増えたのかな。毎日、大変な状況、ひどい気持ちを抱えてくる人たちの話を聞き、たまに私も何か言いながらふと笑い合うこともしょっちゅう。それは一般的な癒しとは違うのかもしれないけどなんか心持ちが変わる瞬間ではある。もちろんそんなに持続するものではないし、1セッションの間にも揺れ続けるわけでそれを継続することでいつの間にかそれまでとは異なる感触に気づいて驚くわけだけど。時間をかけて。そうなの。時間かかるけどというか時間かけましょうね。自分のことだから、自分のことは周りと繋がっているから。辛くて辛くて本当に辛いけど大切にしよう。

今日は移動時間が隙間時間。何読みましょうか。國分功一郎さんの『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)って買いましたか?すごい熱量ですよ、最初から。ライプニッツから。続き読もうかな。でもオグデンの最新刊も今度は訳しながら読みたいしな。ま、電車での気分で。

みんな朝ごはんは食べるのかな。私はお菓子と果物とコーヒーばかり。子どもの頃は朝ごはん食べないと叱られるでしょ。実際朝ごはん食べてきてない子どもって午前中の体力が持たないんですよね。みんなが食べられる状況にあるとよいのだけど。私なんか省エネに次ぐ省エネだけど子どもにはそれも難しい。しなくてもいいことだし。今日もがんばりましょうね、なにかしらを。

追記

結局オグデンを訳しているのでメモ。

2021年12月にThe New Library of Psychoanalysisのシリーズからでたオグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”

私が訳しながらと言っているのはウィニコットの1963、1967年の主要論文2本を読解しているチャプター。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

オグデンがウィニコットの言葉の使い方ひとつひとつに注意を払いながら読むと同時に自分の言葉の使い方にも注意を払いながら書く仕方はあまりに緻密で読むのも大変だけど読解をこんな風にしていくことこそ精神分析の仕事でもあるし大変でも楽しい。

たとえばここ。Kindleだからページ数よくわからないけど2章の袋小路コミュニケーションの前。

The idea of communicating “simply by going on being” may represent the earliest, least differentiated state of being that the infant experiences, and that experience may lie at the core of the non-communicating, isolate self. (I twice use the word may because these are my extensions of Winnicott’s thinking.)

精神分析学会の教育研修セミナーでビオンとウィニコットの再読を続ける先生方と行った「知りえない領域について―ビオンとウィニコットの交差―」で取り上げた論点でもある場所。オグデンもこだわってる。ちなみにここで吟味されているウィニコットの論文は新訳、完訳ver.がでた『成熟過程と促進的環境』(岩崎学術出版社

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うそもほんとも。

少し寝る

一瞬泣いた。涙をひっこめられるくらい。一瞬顔が歪んだ。かえって頬に力が入った。力を抜いたら涙が止まらなくなってしまいそうで、いつのまにか惰性で泣いてるみたいになるのが嫌で、かといって自分でコントロールしていたわけでもなくてふとした瞬間にそうなるから困った。

大切に大切にしたいと思うものはいつもひとつに決められない。これはみんなにとってそうなはず。あの人を大切にしたい。傷つけたくない。でもこれを言わなかったら私が傷つく。あの子が傷つく。大切だからどうしても、と思ってしたことで怒らせた。不愉快にさせた。許せないと言われた。大切にするってなんだろう。私の答えは決まってる。でも仕事以外では難しい。私の仕事はシンプルで、契約があるからできることでもある。「これ時間が決まってるからいいけど」「お金払ってるからいえる」など。でも大抵の人間関係は契約ではないので、あったとしてもそっちの縛りは強いのにこっちはこんな緩いのかみたいな契約だし難しい。

なんだか急に眠気に襲われた。いつもこうしてここで眠ってしまうのだ。危険。眠ったら大切だと伝わるだろうか。お互いに傷ついたとしても希望をもてるだろうか。せめて夢でなら。私の無意識は何を願っているのかな。嬉しかったこと、幸せだったことは全部そのまま保存したい。いろんなことが起きるけど別のなにかで実際に起きた出来事を侵食したくない。夢でなら思わず微笑みあったり豪快に笑い飛ばすだけの関係でいられるかな。眠い。だめだ。力を抜いたら泣いてしまうといったばかりではないか。いいじゃない、死ぬよりは、っていわないで。比べてない。眠ろう、少し。明日の準備もまだだけど。少し。多分ほんの少し。コントロールできなそうだけど。せめて夢で。

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精神分析

どうにかこうにか

色々読んだりそこから連想したりしていたら怖くなってしまったのでかわいい動物動画をみていた。かわいいし面白い。しばらくしたらうちで育てていた捨て猫のなかの一匹のことを思い出してまた気持ちが沈んでしまった。実家には車庫があってそこに怪我や障害を抱える猫が捨てられていることが何度かあった。そのまま死んでしまった仔猫もいたらしいが私も子供だったから覚えていない。その猫は白い仔猫だった。いつも母のそばか冷蔵庫の下の隙間のところにいた。とってもかわいかった。あ、気持ちが沈んだ原因になった仔猫はこの子じゃないや、と今気づいた。この子もすぐに死んでしまったから一緒に思い出したんだ、きっと。とてもとても悲しかったのは変わらないから。別のあの仔猫、と思ったけどやっぱり書かない。そこには加害者がいた。でもそれを加害といっていいか今となってはわからない。この仔猫たちは最初から被害者だったともいえるし、関わる者はみな加害者であった可能性もある。簡単には書けない。

読んでいたのは『現代思想2022年7月号 特集=「加害者」を考える -臨床・司法・倫理-』。怖くなったのはそれが別世界ではなく身近なように感じたから。そもそも人間がいるところに別世界も何もない。以前「文化が違う」といって突き放されたことがあったが今もそういう文言を聞くと「なんだその差別」と思う。そりゃ違うだろう。だから何?文化って何?どのことさしていってる?あなたの思う通りにならないことをそういうのであればそれはただの支配のための言い訳だよね、これ以上一緒にいないための、あるいは別の誰かに乗り換えるための口実だよね、と思う。実際そうなことが多いから。

見えにくい差別や暴力に対してしっかり抵抗しなければ。でもどうやって。あらゆる手段でこちらの力のなさを見せつけてくる相手にどうやって。自分の加害性についてはどうやって。被害者にも加害者にもならずにどうやって。

考えるしかない。傷つきながら。味方を作りながら。どうにかこうにかくっついたり離れたりしながら。

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精神分析、本

『個性という幻想』『実践力動フォーミュレーション』

ツイートもしたが自分のための備忘録。精神分析関連の本。

12月の精神分析基礎講座(対象関係論勉強会)は岡野憲一郎先生による「サリヴァンとコフートと自己心理学の流れ」の講義。私は司会を務めるので2022年10月に出たばかりのサリヴァンの本を読んでいる。KIPP主催のサリヴァンフォーラムに申し込むのをすっかり忘れていたが出席された方に聞くとサリヴァン(Sullivan,H. S 1892―1949)のオリジナリティはもとより阿部先生が大変個性的でとても面白い会だったそうだ。サリヴァンの翻訳といえば中井久夫先生のイメージが強いが、阿部先生が今回訳出された日本語版オリジナルの論集は個人の病理を実社会に位置付けるサリヴァンの主張の源泉を感じさせてくれるものだと思う。各論考の冒頭にある《訳者ノート》が大変ありがたい。

個性という幻想』(講談社学術文庫)
著: ハリー・スタック・サリヴァン
編・訳: 阿部 大樹

「本書は初出出典に基づいて新しく訳出した日本語版オリジナルの論集である。ウォール街大暴落の後、サリヴァンが臨床から離れて、 その代わりに徴兵選抜、戦時プロパガンダ、 そして国際政治に携わるようになった頃に書かれたものから特に重要なものを選んで収録した。」(14頁)

ちなみにこの本に収録された12編のうち11編は、日本で唯一未訳の著書“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences”(1964) にも収められている、とのこと。

“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences” は1934年から1949年に亡くなるまでのサリヴァンの社会科学に関する17の論文を集めた著作らしい。題名からすれば精神医学と社会科学の融合となる。

サリヴァンは当時、米国精神分析の中心だった自我心理学に対してインターパーソナル理論を用いた精神分析をトンプソン Thompson,C.らと模索した。これがその後1960年代からのシェイファーらによる自我心理学内部からの批判とどのように連動したのか忘れてしまったかいまだ知らないでいるが、自我心理学に対する批判がその後の米国精神分析の多様化を導き、関係論の基盤となった。この辺は岡野先生のご講義で確認してから書いたほうがよさそう。書いてみるとなんだか曖昧。

次は、筆者の皆さんからということで編集者さんから送っていただいた実践の本。感謝。

実践力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト法』 (岩崎学術出版社)

「事例から学ぶ連想テキスト法」の実践の記録。

第1章で土居健郎 『方法としての面接 臨床家のために』 (医学書院)に立ち戻らせる妙木浩之先生のさりげなさ。わかるわからないの議論をはじめ、「見立て」とは何か、ということを考えるときに土居先生のこの本は必須なのだ。

そして妙木先生考案の「連想テキスト法」とは、「事例概要を構成するナラティブ(物語)を一度分解し、さらに再構築するための方法」であり、フロイト『夢解釈』、ノーベル経済学賞受賞の心理学者ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の合わせ技として説明。「三角測量による客観性も、また同時参照によるリフレクションも働かない」よくあるスーパーヴィジョンの形式ではなくそれらを可能にする方法として考案された「連想テキスト法」はグループでの事例検討会に最適であり、私も妙木先生のフォーミュレーションのグループの初期メンバーとしてこの意義は確信して自分のグループの基盤にしている。

実践編に入る前の妙木先生の説明(1章)はもちろん必読だが、理論がないところにフォーミュレーションは成り立たないので基礎として知っておかねばならない精神分析的発達論のまとめ(3章)も役に立つ。実践編では主要な病理毎に一事例取り上げられ、その連想テキストが提示されその結果どのようなアセスメント/フォーミュレーションがなされたかが記述される。「ヒステリー」 の症例が取り上げられている(5章)のは力動的心理療法の歴史を考えれば当然だが価値がある。基礎を押さえつつ書くためのモデルとして手元に一冊置いておきたい。

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うそもほんとも。

そんなに寒くない。暖房つけてるから当たり前か。ほとんど寝転がったまま暖房の音しか聞こえないオレンジの光の部屋でこうしている。明るくなってきてもずっとこうしていたいな。

何歳になっても理不尽に耐えかねる。今起きていることは最初から起きていたこと。言葉になるのは時間がかかる。言葉になってはじめていかに自分が憎まれているかを知ったということだってある。どうしてもっと早く。どうして違和感を感じたときに。と思うが多くの場合、違和感は自分の思い込みで処理される。身体の関わりが入ってくるとことはもっと複雑だ。どうしてそんな気持ちで他人の身体に触れられるのだろう。身体と心は別だから、と簡単に割り切れるものではない。ものすごい戸惑いをどうにかするために思い切って委ねた相手が暴力を振るうことだってある。本当は最初から怖かった、と今なら思う。でもそれは違和感として処理された。今思えば、ということがありすぎるのに愛情の方を信じてやり過ごす。そんなことの連続だ。小さな意地悪を受け続けようと、小さなあざや傷を作り続けようと痛みを伝えることができない。たまに思い切って伝えれば別れを仄めかされる。そういう圧力をかける相手とは本来すぐに別れたほうがいい。それは一つの支配だから。でも、ということの連続。人はそんなに簡単じゃない。

ずっと感じていたことが形になっただけなのに、いつも通りこうなったというだけなのにポカンとししている。どうしてこんな目に合わなければならないのだろう。いや、むしろ今までこんな目にあっても我慢してきた方がおかしい。もっと早くに気づいていたことなのだから。最初から違和感があったのだから。時折襲ってくる強い気持ちに目を閉じる。行動にしてはいけない。やり過ごす。またやり過ごす。気持ちが散々な感じになっている。また同じことを繰り返すかもしれない、こんな気持ちだと。相手を変えてまた。愚か。でもそういうもの。本当は二人で超えたかった困難。そんな相手を見つけるためには実際に一緒にいてみるしかないという矛盾。喜びも悲しみもというのは一緒に生活したらそういうものと共にやっていくことだよということなんだろう、多分。

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うそもほんとも。

正当に

人が少ない気がすると思ったら赤レンガ倉庫が休館中だそう。そのせいかいつものことかわからないけど中華街が大混雑。千と千尋にでてくる貪欲さ、これぞ人間、など話しながら教えてもらったお店には辿り着けずちょうど知らない誰かが入っていった店へ入った。

その言葉久しぶりに聞いた、と思った。その攻撃の仕方はよくあるやつ、と思った。ある程度知名度のある人は支持者も多いから嘘も嘘と思われないし、変なこと言っても褒められたりするし、そもそもさ、ということをこんな立場の弱い人がいっても聞く耳持たないのでいたしかたなしと思う。本当に理不尽でうんざりするし、その人に正当な非難が向けられることを切に願うけどそういうことも多分起きない。立場の弱い人、意見の異なる人がその人のダメさを被ることになる。この人こうやって今の地位を獲得してきたんだなと理解したくもないが想像してしまって複雑な気持ちになる。世の中ってそういうもの、なのかな。本当に何も戦わないでいいのかな。許すってことが本当に大事なのかな。怒りと悲しみで暴発しないようにそれらの納め先を探す労力はその人を見るたびに削がれるばかりなのにどうしてそんな無理を弱い立場の人がしなければならないのかな。

もうおじさんおばさんのお姫様と王子様は気にいらない家来はみんな追い出して、うるさそうな身内はみんな遠くにおいて愛し合っていたとさ。それって愛なのかな。お城はもちろん自分のお家以外の場所。自分の家は汚したくない。外食だったら美しいものだけ視界に入れてもらえる。いくつ代わりがあっても足りないね、人も家も。

僕は頭がいいので一家に一台あった方がいい、というから買ったロボット。頭いいのかな、これ。高かったんだけど。人の気持ちがわからないのはいいような悪いようなだね。だからずっと同じお家にいさせてもらえなかったんじゃないの?そんなことはありません、飼い主の問題です。それもあるかもね。無条件に愛してくれるペット、じゃないロボットが好きって人もいるものね。そんな犬みたいなロボットいるのかな。

狂ってる。なんでこんな世界。なんでこんな私。でもさ、こんなひどい人たちが力を持つ世の中で正気を保つ方がおかしくない?自分が狂ってるという自覚はむしろ健康では、という話もした。

どうか正当に裁かれますように。どうか正当に。このままは悲しすぎるから。裁きが必要かどうかは慎重に。バランスだよね、とその人はいった。バランスを取ろうとする声が覆い隠そうとしているものも吟味しつつ。ああ、結局どこにもいけなそうだ。でもきっと行動が必要なときがくる。バランスだよね、とか言っていられない時が。虎視眈々というのはできないからのんびり構えてしっかり動こう。戦い方は人それぞれ。

長すぎる歯磨きを終えて正気も生気を取り戻しにいこう。まずはベッドへ。

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朝日

定点観測していた紫陽花に朝日があたっていた。そこに花が咲いてたの。数ヶ月前。多分目を凝らせばその痕跡が見えるはず。

夕方、海に近い空がきれいだった。ぼんやり歩いていたら声をかけられた。はじめて通る道なのに。この人はいつも私の想定より背が高くてスリム。軽く混乱してわかってんだかわかってないんだか自分でもよくわからないやりとりをして手を振った。

朝の車内は静か。たまに咳がきこえるくらい。まだみんなマスクはしているけれど咳には少し鈍感になったかな。敏感さは攻撃と結びつきやすいからちょっと怖い。

この電車、いろんな人と一緒に乗ったな。いろんな気持ちで。一回きりの人。偶然会った人、何年ぶりかの人、いろいろいろいろ。こんなこと思い出すのはあれだな。秋だな。いろいろいろいろだもの。

先日はじめて会った人と最寄り駅まで同じルートだったのでおしゃべりしながら帰った。見事な同時通訳ができるその人はおしゃべりも楽しかった。関係があるのかないのか分からないけど。

ああ。おなかがすいた。寝不足の影響はもうあまり感じなくなった。「いつも眠い」がそれかな。目の前の女の子はかばんに顔を埋めて眠ってる。だいぶ横に傾いてる。でもさっき握ってたスマホが落ちたのを両足でしっかり挟んでキャッチしたのはすごかった。眠ってても反射神経。茶色い髪に朝日がきれい。私はこっち側に座ったことを後悔。断続的に強い光に襲われて手元もみえなくなる。しかもきちんと一瞬あつい。この子も太陽もすごい。

ぼんやりぼんやり周りをみながら今日も過ごす。優しい人の言葉と会いたいな。とかあえて思うのはやっぱり疲れてるからかも。少し眠ろう。リュックに顔を埋めてしまおう。たまにあっついけどいいお天気はありがたいよね。それぞれに良い一日でありますように。

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とりあえずの日々

昨晩もPCに向かったままいつの間にか眠っていた。あまり調子がよくないときほどきちんとした場所でしっかり睡眠をとらないと、というのは人には言えるが自分ではなかなか。こういうのは自分に甘いとはいわないな。ダメになってるわけだし。

さて甘さは今朝も果物とクッキーとチョコで補いました。柿と梨。どれも全く異なる甘さ。コーヒーで一気に身体が温まった。私は熱い飲み物を熱いまま飲みたくてしょっちゅう火傷をしている。これもダメじゃん、という例だけど熱いものが喉を通っていく感じ、身体に染み渡って暑くなっていく感じが生きている感じがする。ものすごく寒がりですでに身体は半分冬眠に入っているから一刻も早く蘇りたいという気持ちもあるのかもしれない。人には人の生活があるからな。世知辛い。もし私が熊とかだったら上手に冬眠できるかな。と思ってちょっと調べたらヒグマの「冬ごもり」すごい。なぜ「冬眠」ではなく「冬ごもり」というかというところから。そして生まれたての赤ちゃんのかわいいこと!動物ってすごい。

動物だったらすぐに死んでいただろうと思って生きてきたけどそれは幼稚園の頃からずっと小さい女(ここでは身体的な小ささのお話)だったことが関係していると思う。「ちっちゃーい、かわいー」とかいわれているのはほんのいっときでどちらかというと理不尽な体験の方が多かった。動物はもっとシビアだもんね。ああ。動物として生きていく自信もないけれど人間も難しすぎて辛いなと思う。

憎しみに覆われた自分が嫌で自分から引き剥がし分裂させ弱い相手の方へ追いやって自分のものではなくして責任を放棄することで自分を維持していることの多さたるや。誰にでもある心性。二者関係で巻き込みあう関係では特に。かわいくないと感じたその瞬間から近寄ってくるペットを邪魔と感じはじめ挙句の果てには捨ててしまうようなことだって決して他人事とはいえないかもしれない。もちろん私たちはペットではないのでなんらかの形で抵抗を示したり誰かに助けを求めたりあるいは投影同一化によって不毛な争いをしたりするかもしれない。巻き込まれるというのは相手との区別がつかなくなる部分を持つということなのでこれは自分のもの、そっちは相手のものと分けることは難しい。自分が感じたくないネガティブな部分を相手に投げ込む場合、保たれている表層に対する支持が維持されていればそれも「悪いのは自分ではなくおまえだ」という理由になる。そうされる相手もその時点で声をあげられない圧に囚われている場合が多いので誰にも言えないまま苦しみながら同じような心性に囚われていく。本当に、誰かを憎んでいるときにいいことなんてひとつも起きていない。それを知っているのは自分だけだから「バレない」とか思ってしまうのもそういうこと。どこまでもそういう発想になる。ほとんど言いがかりのような攻撃性を相手の側に見出しそれを攻め続ける。誰も責めていないのに言い訳ばかり探して防衛を強めていく。本当に悪循環で悲しいとか寂しいとかも感じられなくなる反射的な戦闘体制。心ない人、人でなし、とかいうのはそうじゃないのが人という前提があるからだろうけどなんにしてもそれは一時的で部分的だと私は思いたい。全体に及ぼす破壊力という意味ではそんなことも言ってられないけど私はやっぱり部分として扱うべきだと思う。潜在性に対して楽観的であるべきだと思う。そうじゃなきゃ辛すぎる。種の異なる敵対する動物たちであれば隙を見逃さず攻撃することには意味がある。でも人間なんて似たようもの同士だし、憎しみを向けるなら自分を守るためではなくて大抵の人は持っているのに相手は持っていない部分に対して執拗な攻撃を加える強者ぶっている人に対して向けたほうがいいのではないかと思う。でもそれはできなんだよね。どうしてもお手軽な場所に向けてしまう。それが安全でもあるから。弱者はそうやって作られていく。よっぽど集団的に余裕があるときでないと正当な戦いは難しい。だから知的に制度を整えていく必要があるのかな。

本当に難しい。だから辛い思いをしている人が壊れてしまわないように願うばかりになってしまう。もっと気楽にみんなの元気を願えたらいいのに。自分だって壊れないようにしないといけない。

こう考えると動物のあり方は常に絶滅と近いからという感じがする。というか人間がいかに絶滅(どころか自分の死さえ)を否認していることか、ということかも。人間で子供がいないことに苦しむのは圧倒的に女性だと思うけどそれも単なる個人の苦しみではなく動物的なものなんだろうな。誰かを攻撃しながら軽薄さも保っていられる余裕は女性にはない。それを「感情的」とかいわれる場合もあるわけだけだど命と時間が密接に結びつていることを実感するのは女性だから。女性の身体の時間に対して無責任であってはいけないと思うという話はスーパーヴィジョンなどでもする。この一年、この五年がその人の人生にとってどういう意味をもつのか、動物的な観点は必要だろうと。動物的なものといわなくても少なくとも個人的なものではないと私は思ってる。このことは学会のセミナーで議論になるかもしれない。小児科医で精神分析家のウィニコットがしたmeとnot-meの区別は私と私以外と考えるとローランド的な感じもするけどウィニコットの場合はまずその進化の歴史を含めた全体を出発点としているから、とかいう議論。これは彼が沈黙や解釈を控えることの重要性を示したことと重なる、など。

とりあえず今日もなんとか生き延びましょうか。とりあえず今なんとかそこにいること自体に小さな希望を見出せたら。とりあえず暖かくして過ごしましょう。毎日毎日とりあえず。

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かいぶん

早朝の雰囲気が本当に冬に向かってる感じがする、と思いながらいつものコーヒーを飲んでいた。贅沢ルマンドバタースコッチキャラメル味がお供。「贅沢」とあるから買ってしまったんだ、きっと。書かれなかったら「たかっ!」と思って買わなかった、多分。完全に戦略にのっている。まあそんなことばかりで負けつつもなんとか生き残っている。美味しさにかけては贅沢したい。美味しさで生き残れているのかもしれないしね。

洋服はほとんど買わない。いまだに大学生の頃の服を着ていたりする。今年も同じ服ばかり着ていた。衣替えはいつからか中途半端で季節と合う服を出してはもう着ない服をしまうという感じ。毎日そうしていれば違う服も着つつ衣替えもいつのまにか完了するのかもしれないけど洗ったらまたそれを着てしまうからなかなか交換が進まないまままた次の季節になる。眠った服は二度寝三度寝。防虫剤だけはいれとくね。次の季節こそは!おやすみなさい。まあ、私は人間関係も取っ替え引っ替えする方ではないし(普通か)何かを披露したい方でもないからこのあり方がちょうどいい気がする。

昨晩、帰りの電車で回文を考えていた。よくやる。そしていつも通りひとつも思いつかなかった。

小学生のとき回分って流行らなかった?布団が吹っ飛んだとか?いやそれ親父ギャグ。「(思いつかん)」いやそれ怪文。ボケしつこい。だって真面目につっこむから続けたほうがいいのかなと。わたし負けましたわ。なに急に。だから回分だよ。戻ってきてよ。すごい!ネットで拾った。仔猫かよ。こねこ!

みたいな会話を脳内で繰り広げながら考えたが無理だった。電車に乗る時間がもっと長ければ。いやそんなことはない。回文は手強いぞ。

村上春樹作、友沢ミミヨ絵『またたび浴びたタマ』という小さくてとっても素敵な回文絵本(というのかな)を密かにオフィスにおいていて時々めくっては喜んでいる。

えー、どっちから読んでも同じだったの?えー、私たち逆から読んでただけってこと?漢字が違うと感じ方変わるよね。という感じで今日も多様なコミュニケーションに対して寛容でありたい。

あー回文思いつかないかな。朝の通勤電車でもやろう。お時間ある方はぜひ。できないのが普通(当社比)だからできなくてもストレス溜めないでね。別のことでもきっと色々あるでしょうから。なんとか過ごしましょう。

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読書

女が女の話を聞く

ひらりさ『沼で溺れてみたけれど』(講談社)をほぼ読み終えた。Kindleで半額セールをやっていると著者のツイートで知り、かわいい表紙も「ああこういうことが書いてあるんだろうな」というわかりやすい書名も魅力的だったので買った。女が女の話を聞いて書く「沼」は男か金か親か最近だったら推しが関わりの中心となる。そこまではわかる。読んでみようと思うのはその中身が絶対に想像できない個別性に満ちていると知っているから。インベカヲリ★『私の顔は誰も知らない』(人々舎)はまた趣の異なる女が女の語りを聞く本だったけど、そこもそういうものに溢れていた。マスキュリニティというよりある種ASD的な頑なさや本人が一般的と思っている正確さに追い詰められ、こころも言葉も隠す方へ向かう女性たちは多いと思う。追い詰める側にしてみたらそんなつもりはないだろう。それで成功してきたのだからそれが「普通」なのだろう。

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浪費

つくづく世界を消費するのが好きな人たちだな、と思いながら画面を眺めてすぐに閉じた。何年間もそうやって生きてきたんだなあ。カオナシみたい。ああであるとはバレないカオナシ。バレた方が幸せだと思うこちらがおかしいのかもしれない。生き方ってある程度一貫性がないと接している方は不安になるから。ある一言で人生変わったみたいな話もそれだけで変わってるわけじゃないし。その言葉を待っていた、ただひとつの願いを実現するために、ということだってあるし、なんかぼんやり生きているうちにすっと入りこんでくることもあるし、なんにでも経緯がある。

世界を浪費する人たち。と言ってもエゴサばかり。世界ってもっといろんな人が次に世代を繋ぎながらケアしあいながら過ごす場所かと思ってた。戸惑いと躊躇いが言いたいことを言えずにさせるけどそうであっても汲み取ってくれる関係が基盤かと思っていた。

現実はそうではない。ドラマとかでよくあるような、現実にはもっとあるようなスプリットの典型として。「きちんと帰ってきてやっただろう!」飲み歩いて帰ってきた父親の怒鳴り声。怒鳴り声に萎縮して黙りこむ母親。寝たふりを準備する子供たち。さっきまで一緒にいた人たちはこんな姿知らない。

とか。

浪費。歴史も知らない未知の土地に踏み込んでそこが持つ歴史的な圧に耐えられないまま「!」付きで世界に構われにいっている人たちと変わらないように思うのだけど何が違うのだろう。心優しいあなたはこう言われてあの人はそう言われているのマジでおかしい、と思うことがあるけどほんと何が違うのだろう。

言いたいことはすでに言えない。なんて言われるかわかってるから。辛くても軽めにしか言えない。ほしい言葉は返ってこないから。期待してもっと辛くなるのが嫌だから。

ほかの人に対する態度と自分に対する態度を比較するだけだとひどく傷つくことが多いから「何が違うんだろう」とかいっている。理由探しをしてしまう。どっちにしても口だけの人たちだよ、そういって距離をとればいいのに。面倒とわかっていて傷つきながら付き合っていくのはなぜだろう。昨日と同じ結論ということは毎日同じ結論。不毛。それでも結果から学ばないのはなぜだろう。それはそれでそういう人だからか。

こんなことを考えながらうとうとしていろんな景色を見たけれどすでに忘れてしまった。過ぎたことは過ぎたこと。とりあえず今日を。

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そういうもの

ひとりアンビバレントもふたりからそしてその周りから生じたものだけどそこにとどまって言葉をまつだけの人はやっぱりひとりぼっちだしひとりぼっちにさせていることに気づかない人は二人あるいはそれ以上のふりして人の気持ちがわからないという意味でひとりぼっちだと思う。わかりたくないとしたらなおさらそう。

自分の邪魔をする人は中に入れてあげない。自分を気持ち良くさせてくれる相手が好きなんだ。

「そうなんだね」しかない。

そういう人は一見人気者に見えるかもしれないけれどよく見れば、いや見なくても、その支持者はいつも同じで広がりがない。とても狭い世界で、変わらない自分のあり方を愛してくれる人が集まっていればそれはそう。

でもこういう心性は誰にでもあって一部で人気の人たちみたいに偽装上手になれない人にとってはものすごい不適応の原因となったりする。同じ心性をもって同じように自分自分自分なのに、と思うかもしれないけど偽装できるって大事で剥き出しの自分を隠せずにいたらそれは受け入れてもらえない可能性が高いに決まってる。

「決まってる」のかなあ。

「おまえもじゃん」と言い返せる力がないから口のうまい人たちと差ができちゃうのかなあ。同じじゃん。むしろ内と外が違いすぎるおまえたちの方がいろんな人傷つけててやばいじゃん。

比較になんの意味もない。自分はどうするんだろう。自分はその人とどうするのだろう。これからどうしていくのだろう。結婚とか出産とかが大きな節目になるのは二者関係の重みが際立つからというのもあるだろう。責任が問われる。でもそれさえいくらでも見て見ぬ振りができる。自分がどうありたいか。相手を相手の歴史を相手の状況を考えられる人は自分もそうしてきてもらっているはず、と考えていいのだろうか。逆にそうしてきてもらっていないから仕方ないと諦めるのってだいぶ違うと思うけど。

こんなことも考えていてもしょうがない。いやしょうがなくない。行動につながることだから。めんどうだけどしかたない。そういうものそういうもの。

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真夜中と早朝の間に書いてる

大好きなお布団にたどり着けずに眠ってしまった。思ったより身体バキバキじゃないかも。よくやることとはいえ気をつけねば。

昨晩写真付きでツイートしたつもりが写真を添付していなかったことにあとから気づいた。学生時代、テレビがなくてラジオでドラマを聞いた。あの感じ。泣いたなあ、あのドラマ。電波悪くて調整したりしながら。なんのドラマだったか。「トレンディドラマ」ってやつだったと思う。「トレンディ」なんて言葉使ったことないままあれから30年近く経つ。人生あっという間だな。と思うとき私は還暦を一区切りに考えているから本当にあと少しなのだけど100歳まで生きる想定の人は「まだあるのか、オレの人生」と思うかもしれない。と書くとき私はネガティブな意味で書きながら「まだあるのか、オレの人生、やったぜ」と思う人もいるか、と思ったりする。私は愛する人たちを愛していける人生ならいくつまででも生きていたい、かといえばそうでもない。やはりいずれ死ぬという前提があるから愛してもいけるのだろう。

何を朝から。まだ朝ですらないのか。でも真夜中というには朝だ。それにしても寒がりすぎるな、私は。上からも足元にも暖房が必要。循環悪すぎる。乾燥もするようになってきた。面倒だけど対策しないと痒かったり痛かったりあとが大変だからがんばりましょうね(きっと同じタイプの人いると思う)。

今のこれを仕上げたら安心していろんな本が読めるのだからやらねばな、やらネバダ。っていう大人が私の子供時代にいた気がする。あれなんだったの。ギャグでもないというか。親だったらどうしよう、と一瞬父親の親父ギャグを思い出してしまった。父親の親父ギャグってなんかそのまますぎる気もするが特にひねりを加える必要もない(当たり前だ)。

色々気になるが信じる。伝えなくても伝わっていると。そんなはずはないとも本当は思っているけど忙しくて余裕がないなか伝えても誤解が生じるだけかもしれない。だから「信じる」となんとなく陳腐に聞こえるようになってしまった言葉を自分にだけは確かなものとして使う。独りよがりでもいいや、今のところ。

まだ明るくなってないみたい。仕上げたらひと眠りしよう。

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スイーツ

まだ10月というのにお布団が一番好きという人になってしまった。秋のスイーツは相変わらず楽しくいろんな人とそんな話ばかりしている、スイーツを食べながら。

秋は人が出会ったり別れたりも多いというか彩りを添える絶好の季節なのか恋の話もたくさん。出かける気になるもんね。私はもうお布団が一番だけど。

彼や夫のことを男性に相談してしまうことで得られたり失ったりするものとか、女友達にはバレバレなことがなぜか彼にバレない、夫はみてもいない、いやそういう部分はみたくないという向こうのニーズとあっているのだろうとか、恋愛ごっこに時間をさけるのって幸せかもねとか、配偶者と老後と死について話し合うなかで知った新事実とかこれまでとは違う愛の形の模索とか。

「恋愛」といえている間は関係が移りゆくことが前提なので秋と相性がいいのかも。冬の恋は冷めてしまうと本当に辛いだけ。寒いだけでほんと気が滅入る。温かいペットボトルで暖めあうくらいの関係を秋のうちにキープしたい。

鈴木涼美さんが書く恋愛に関しての記事にはいつも納得しかない。女のリアルな話をたくさん聞いてきた女は女に優しい。でもこれはある程度年齢がいっているからこそかもしれない。いや、でも私の年齢でもお姫様みたいな人もいて姫にお付き合いして男性性を維持している人もいて家ではパートナーが泣いていたりこっそり相談機関を活用したりしていたりするのも世の中のリアル。困ったら相談って大事。「恋愛」とくくることで見て見ぬ振りをしている部分が問題になってくるとその相談はもはや「恋愛相談」とかいっていられない感じではあるが、「恋って秋っぽい」とかいう余裕があるうちは困ったらまず鈴木涼美といいたい。女友達の優しさ。という話をしていると必ずお勧めとして登場するのは叶姉妹。これもわかる。先輩って大事。

だって女の立場は弱い。そこに身体的にも共感のある人が苦しむ女子の周りに多くいますように。男性や物語やお勉強も助けになるけどまずその前に。人と関わること自体が辛くて別の視点を取り入れること自体に負担を感じる場合はお布団かな、まずは。リズムある生活も大事。もろく傷つきやすいこころにも身体にもまずは休息、そして無理のない刺激。カーテンを開けるところからっていうでしょ。秋のスッキリ涼やかな陽射しだったらお布団かぶりなおして再び夜のふりしなくてもいられるかも。毎日色々あるね。スイートなことばかりではないわよね。今日もなんとか過ごしましょうね。

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読書

喫茶店

いいお天気だけど寒いね。洗濯物は出しっぱなしはだめですか。いいよね。でもいれていこうかな。臆病者だな。だってもう結構乾いてるから万が一何かあったら(雨風以外にも。鳥とか虫とか?)残念だし。

今日はみなさんどんな感じかな。元気に過ごせそうかしら。わからないよね、先のことは。まあ「元気」=「ひどくまいってはいない。」「それなりに動ける」くらいな感じでいるのだけど。

今日もスーパーで買ってきた「うまいコーヒー」を飲んだ。byドトール。私ずっと「いつものコーヒー」って呼んでたんだけど違った。

喫茶店でバイトしてた頃「いつもの」と言われたら「ブラック」、「ブラック」と言われたら「ブレンドコーヒー」だった。アメリカンが「いつもの」って人もいるだろうけどこの「いつもの」がもつ力は当時は強かったわね。今はどうなのかしら。

喫茶店バイトしていた人にもそうでない人にもおすすめなのは「僕のマリ」さんの『常識のない喫茶店』。著者のお名前も興味深いけどおしゃれな表紙もいろんな気持ちになりながらがんばってバイトしている中身もいい。最後まで読むともっといい。切ないけど。私はめっちゃわかると思いながら楽しんだし「色々理不尽だけどがんばろうね」という気持ちになった。口が悪いバイトをブラックバイトとは言わないけどなかなかにブラックなこともしているものよ、喫茶店バイトというのは。だってかなりひどいこと言われたりされたりもするんだもん。仲間内で少しはこっそり言い合えないとほんとまいっちゃう。私は当時から意地悪に対して冷めきちだったので新人いじめをされても無視してた。当時そんな言葉遣いしなかったけど今私が高校生であんなことされたら心の中で「は?知らねーし」とかいうかも。いわないか。それよりもやっぱり後から仲間内でいうと思うな。もちろんブラックなことだけではなくお客さんからもらった楽しくて嬉しい記憶で遊んだりもしていますよ(いましたよ)、この本も私も。表紙のカラフルさからもわかると思うけど。この本、「こだま」さん推薦だしとてもいいですよ。作家の皆さんのお名前とわかるように括弧付きにしてしまった、お二人とも。みなさん、それでも書く、というのが本当にすごいと思う。

ああ、柏原芳恵を口ずさんでしまう。今日は紅茶をいただきましょうか。晴れとはいえ身体は冷やさないように過ごしましょう。

よい1日を。

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書き連ねた

昨日とても美味しそうな梨が届いたので早く食べたい。でも作業が先。寝不足なだけで全然進んでない。梨の水分大好き。ちょうどいい甘さ。思い浮かべてる時間があったら食べた方がいい気がする。

パラドキシカルな文章をパラフレーズするというのは難しくて結局繰り返してるだけみたいになって袋小路にはまる。

毎日偶然とはいえ少しずつどうしようもなさを垣間見る場面に出会ってどうしようもないものにどう関わっていいかわからず途方にくれ沈黙する。偶然じゃなくて私が見ようとしてこなかっただけかな。

学会で福岡からくる友達とごはんを食べる約束をした。コロナで会えていなかった。何年ぶりだろ。私も福岡へ行きたい。福岡は空港から街まですぐにでられるからいつでも行きたい。昔、家族みんなでいって福岡の街で遊んだ、学会に少しでつつ。なんでだったか。まあなんとなく理由つけてどこかへ行くというのはいいものだ。

臨床で起きていることを耳障りの良い言葉にすることはできないな、私にはと思う。いってることとやってること違う問題は仕方ないにしても。普通じゃないことをまるで普通かのようにやっているけどはじめて言葉になること、はじめて生じる交流のインパクトは誰かに伝えるために起きるのではない。伝わらないとわかってるから起きたんだ、ということもしばしばだから。

こんなことを書き連ねている場合ではないんだった。すぐ忘れてしまう。あー。もう。とりあえず梨をいただこう。ウィニコットのことでいっぱい書きすぎてしまったのをどうにかせねばと思うけどとりあえずあと。毎日とりあえずばかりで溜まっているんだか少しは片付いているのか全然わからんや。まあ、体調だけは気をつけて過ごしましょう。

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精神分析

ゆらゆら

早生みかんと柿を昔LOWSON(多分)でもらったリラックマのスープマグにいれたらオレンジと茶色と緑の混ざった黄色で秋っぽくなった。意図的にやれば当たり前のことも何も考えずに出会えると楽しさ嬉しさが増す。

月末の学会でセミナーを担当するがベルギーの先生がそのために来日してくださる。私たちのセミナーはハイブリッドではなくオンラインなのだけど。ちょうど個人の旅行にもビザが必要なくなったタイミングで来日を決められたらしい。登壇者は全員集まれるんだなあ。嬉しい。

とか言っていないで原稿を書かねば。昨晩雪崩を起こした本の山が変な格好で表紙をこちらに向けている。直してあげたいけど今そこをいじると別の雪崩が起きそうなのであとで。ごめんね。

しかしわからないことをわからないと伝えることの難しさよ。書き手は伝わると思って書いていることに対してポカンとしたりむむっとなったりする自分が馬鹿なだけではないかと思うが私くらいの人は他にもいるだろうと思い直して勇気を出してわからないと書くわけだ。なかなか苦痛だのう。仕事(私の場合は面接)ではわからないことはわからないといわないとどうにもならないので割とあっさりいうわけだけど二人だけでその人の言葉の使い方に馴染みつつも敏感に注意を向けている関係とは異なるからなあ。

最近は言葉にならないことばかりでなんかもういろんなことは世界におまかせみたいな気分になることも多いのだけど実際委ねるしかないことばかりかも。私も伝わっていると思っていたことが悪意に受け取られたりしたらとても悲しいけどそういうのも相手におまかせ。そう思ってたんだとわかったらそんなことないというしかない。違うものは違う。そうだったらそう思ってしまったんだよ、なぜなら、となるし。拙い言葉でさらに悲しい事態を招いたとしてもできることってそれくらいしかないもの。できない自分を呪っても何もいいことないもの。どうしたって関わるしかないし関われば反応はくるしそうやって近づいたり離れたりとんでもないことが起きたりなんか今日もいつも通り、となったりする。なんか今日もいつも通り、という言い方は何か起きるはずだったのにという感じがあるね。まあわからんから今日も今日とて揺れて揺られて。ゆらゆらしつつがんばりましょ。

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精神分析

日々これ

秋の虫が鳴き止むのはいつだろう。紅葉が始まり終わりコオロギが昼のみ鳴くようになったらだろうか。つまりそれが冬のお知らせ。寒いの怖い。

紅葉をわざわざ見に行くことを何年もしていない。毎日の景色に出会うそれで満足してしまっているみたい。河口湖のもみじ回廊にいったのはいつのことだったか。わざわざいくのもそれはそれで素敵。それにしても時間の感覚がどんどん曖昧になっていく、と昨日も書いた気がする。そして昨日は実際に予定を間違いご迷惑をかけた。

一度間違うと変更にもついていけない自分も現れるからもっと大変になってしまう。わかっているのに最近は余裕がなさすぎた。私はこういうところがあるのだから常にキャパを見直さなければと思ったことすら忘れてしまいまた同じことを繰り返す。気をつけるがまたやるかもしれない。申し訳ない。先に謝っておくわけではないが実際謝るしかない。

アプリとかも使いこなせればと自動翻訳とか文字起こしとかおすすめされたものは使ってみるのだけどすぐにどのアプリがどういうことをしてくれるのかわからなくなってしまう。「無料でここまでしてくれるのか!」とその時は驚くのにその便利さを享受できないのはなぜ、と思い、iphoneにいれたアプリをフォルダというのかな、それを使ってホーム画面を編集してみた。こうすればどれが何の仲間かわかりやすいかなとSNSもひとつにまとめた。そうしたらなんとフォルダに入れたアイコンが小さくなってしまって(当たり前だが)見えない!これぞ老眼!すると何が生じるか。アプリを開かなくなる。おい・・・。

はあ。でもまあ何かを使ったところで私のパフォーマンスが上がるとは思わない。この歳になるまでこんなだからなんとかなったという部分だってきっとある。無駄にポジティブなのも忘れてしまっているせいなのかもしれないがそういう時は「えー、自分がいったんじゃん」「あの日あの時あの場所で(♪)」と教えてあげて。いや、教えてください。みんなの記憶装置を外付け記憶HDDとして信頼してる(迷惑?)。

「あの日あの時あの場所で♪」と口ずさみながら明日のイベントのことを思い出した。

【イベント&オンライン(Zoom)】日常を、もっと好きになる言葉と作ることの実践――高橋久美子『一生のお願い』(筑摩書房)×宮崎智之『モヤモヤの日々』(晶文社)ダブル刊行記念イベント

おもしろ娘とのんびり息子の対談というイメージ。高橋久美子さん、チャットモンチーのドラマーだったことも忘れてしまうけど改めて思うと「ドラムも叩けるのか!」と驚く。文章も喋りもほんと面白いし。宮崎智之さんの日記はのんびり優しい少し間の抜けた新米お父さんの宮崎さんがいい。素朴なお父さん日記ってあまりないと思うし。『つげ義春日記』とかもすごくリアルで面白いけどああいうハードでユーモラスという感じとは正反対のほっこりさはマッチョの正反対でもあってちょっともどかしくも安心する。

アーカイブで見るのだ。こういうのも便利だよね。夜遅くまで仕事していても待っていてくれるわけだから。

書ける人たちの記憶装置はきっと色々豊かでカラフル。こういうイベントにでることでその豊かさをお裾分けしてもらう。「いろんな人がいていろんな生活があるんだなあ」というのは毎日仕事で実感する。それはとても密やかな語りでとても大切。公に自己開示する人たちにもそういう部分は同居する。外向けの人も密やかに仕事をする人も今日もがんばりましょ。失敗にめげず!(←自分に)。

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精神分析、本

TAILPIECE

なんともいえない空の色。前の家の屋上が濡れている。昨晩は雨降ったっけ?帰宅したときは降っていなかったような気がするけどうろ覚え。傘も持っていなかったと思うのだけど。うろ覚え。

いろんなことがぼんやりしていく。あんなにいつも心を占めていたものも曖昧に解体されていくよう。軽い頭痛と眠気。このくらいならちょうどいい。はちみつ紅茶で身体が熱くなってきた。身体が上手に狂気を捌いてくれてるのかしら。

この前もここで引用したのだけど小児科医で精神分析家のウィニコット(1896-1971)の本に『遊ぶことと現実』(岩崎学術出版社)というのがあって、原著Plaing and Reality(1971)と一緒に読むのが常。本の最後はTAILPIECEで閉じられる。なんか素敵な単語と思って日本語を見ると「終わりに」と訳されていた。オンラインの辞書で調べると「書物の章末・巻末の)装飾図案」とか。これ素敵と画像で調べると面白い装飾がたくさん出てきた。weblioで調べると「尾片、尾部(の付属物)、(弦楽器の)緒(お)止め板、(書物の)末章余白のカット」とある。画像だとギターの弦を止める部分がたくさん出てくる。書物だと単なる「終わりに」ではなさそう。ちょっと余ったから何か書いたよ、みたいな感じかな。他の本はどうなっていたっけ。オックスフォードのThe Collected Works of D. W. Winnicottではどうなっているのかな。後で見てみよう。多分、ウィニコットとtaleという単語が響き合うからなおさら気になったんだと思う。

TAILPIECE(後半のみ引用)

This conception-perception gap provides rich material for study. I postulate an essential paradox, one that we must accept and that is not for resolution. This paradox, which is central to the concept, needs to be allowed and allowed for over a period of time in the care of each baby.

これはウィニコットの生前に編纂されたものとしては最後の論文集となる一冊。TAILPIECEはウィニコット理論のまとめみたいな文章なんだけどThis conception-perception gap とか音もいい。ウィニコットのパラドックスに対する態度は一貫していて最後のこの部分はこう訳されている。

This paradox, which is central to the concept, needs to be allowed and allowed for over a period of time in the care of each baby.

私はひとつの本質的な逆説を措定する。それは,私たちが受け容れなければならず,そして解決されるべきではない逆説である。この発想にとって中心的なこの逆説は,おのおのの赤ちゃんの世話のなかで,ある程度の期間,くりかえし許容される必要がある。

これは本当に重要な治療態度だと思う。

ウィニコットの書き方って曖昧で読みにくくて読み手を選ぶのがもったいないところだと私は思うのだけどわざとそうしてるみたいだし、臨床素材がそうなるのは仕方ないと思う。

ウィニコットが自身の死を意識する(途中病気で会えない時期もあったり)年齢になって取り組んだ2歳の女の子との精神分析的治療の記録『ピグル』THE PIGGLEの「はじめに」INTRODUCTIONでも「私は、記録をとったときのままに、曖昧な素材を曖昧なまま意図的に残しておく。」と書いてある。

I have purposely left the vague material vague, as it was for me at the time when I was taking notes.

ーD. W. Winnicott, November 22, 1965

臨床においてというか、人間関係はテキストを読むのとは異なるのでvagueであるのは前提なのではないかな。ASDの人たちの困難はその曖昧さや多義性にとどまることが難しいからというのもあるけどASDと言わなくても私たちってどうしても何か意味を固定したがるところあるよね。言葉遊びの仕方も曖昧さが好きな人と正確な意味が好きな人とでは違うと思うし。好みの問題ではないのだろうけど「そういうのが好きなんだよね」ということにすると大体のことは納得がいったりする。しない?とりあえずそう考えておくと少し楽な気がするけどそうでもないかな。

雨の音がした気がした。窓を開けてみた。やっぱり雨の跡だけ。今は降っていない。これからかな。ぼんやりと解体されていく悲しくて傷ついたような気持ち。さっき食べたりんごはちょっと不気味に赤かった。切ったら白くてちょうどいい甘酸っぱさだった。

TAILPIECE、今の私ならこのリンゴを切る途中を書くよ。実際描いたら「これは何??」って言われそうだけど🍎(←りんごの絵文字、反映されますように!)

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精神分析

嫌なやつ

柿と梨。どちらも大好き。スルスルむけるわりに桃みたいに手首までタラーっと濡れることもないし。むきやすいから好きというわけじゃないけど。桃も大好き。秋の果物はほんと豊か。

気持ちを教えてほしいというから伝えたら不快な顔をされた。それ以上いえなくなってしまった。対話というのはこういう状況を避けることはできないという前提のもとそうなったときの自分の感覚や気持ちに対して防衛的にならず、相手の様子にもそれ以上は被害的になることなく次の言葉や態度をお互いに待ちながら続けていくものと思っている。

ルール設定のある対話なら不快な状況が生まれないように、ということはなんとなくできるかもしれず、自分の話をする、相手の話を聞くという役割を取ること自体が貴重な経験になって日常生活でもこういうのって大事だな、と思ってそういうルールのある対話の場での学びを生かすこともできると思う。

でもつまりやっぱりそれはかなり限定された意味での対話ということになると思う。

うちと外で違うというのも普通のことでなんでそんなことしちゃってるの、気持ち悪いって思われるよ、カッコ悪いよ、みっともないよ、他人は言ってくれないよ、ということを思ったとしてもそれが仕事でそれが生活費を稼ぐのに役立っているとしたらそんなこと言えない、という人もいれば、そういう態度が社会的な関係ではない自分たちの関係を侵食する感じを嫌ってそう伝える人もいる。でもこちらがどう判断してどう行為した(しない)としてもその次を作るのは相手だ。そして多くの場合、親密な関係におけるずれはお互いを傷つける。ルールに守られればできることがそこではできないことがさらに複雑な気持ちを掻き立てもする、お互いに。だから私たちってどういう関係なの、と問い直す事態がよく生じるのだろう。それはつまりその人の考えではこの関係でそういうことは言ったり言わなかったりしたりしなかったりするものだと思うけどおかしいよね、と言いたいわけだ。そして大抵期待通りの返事はこない。それだって家族のように通常は続けることが豊かさにつながると期待される関係においては当たり前に生じることだ。そういう関係は嫌なことや思い通りにならないことがあってもそこに居続けることが前提になっていると同時に何度でもやり直す機会がある。そしてまたやはり同じことを繰り返すのだがそうこうしている間に別のことも生じる。いろんなことが起きてそれらを共にしていく、ただそれだけ。ただそれだけということの貴重さ。

もし関係を続けたいなら圧力のかかる負担な状況が生じるのは当たり前だという認識が必要だし、お互いがお互いに関心を向けている限りは別のことも生じているということに対する希望も必要。だから相手を決めつけたり利用したりしないでとりあえず自分の問題として考えていけばいいんじゃないの、暴力とか明らかに離れた方がいい事態は別として、というのが私の仕事の前提だし仕事でなくてもそういうものだと思っている気がする。

私は「対話」という言葉が苦手なのでほとんど使わないけれどもし使うなら対話をする相手は自分自身でもあり自分が何をどう感じてどういう態度をとっているかを相手を通じて知ることに対して使うかもしれない。ルールのある場所での対話はそれがどういう感じかをイメージすることに役立つかもしれない。そういう時間を持つことさえ普段は難しいわけだから。でも私たちはそんなに簡単ではない。変わらない変わりたくない自分を愛してほしい、自分で愛するのは難しいから。今日も自分は嫌なやつ。それでもそればかりではないだろう。そう思ってやっていく。