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精神分析

誤解

精神分析は誤解されている、と思うことは確かにある。大学院とかで精神分析について勉強した臨床家に対してだってそう感じることがある。それはそれをそれとして体験していないからだ、ということもできるかもしれない。だって体験してなければどんな風にでも語れるから。

小さい頃は月に兎が住んでいた。大きくなったらなりたいものになれるはずだった。いつか王子様が、が歌だなんて知らなかった。

体験してないものを体験として語ることはできない。それはそうとして、誤解されるのはだからなのか?私はそれはフロイトのせいだと思う、クラインのせいだと思う、ラカンのせいだと、ウィニコットのせいだと 、ビオンのせいだと思う。日本だったら古澤平作のせいかも、土居健郎のせいかも、小此木啓吾のせいかもしれない。つまり多分、それは精神分析がそもそもこころなんてものをガチで相手にしはじめたところから始まっている。誤解するこころ、錯覚するこころ、自分を欺くこころ、みたくないものは本当に見えなくなるこころ、それは必ず二者の現象として現れる。ひとりだったら現れないかもしれないけどひとりという状態こそ不可能中の不可能。私たちは他者から逃れることはできない。

精神分析の書物は確かに高度に知的だけれど、精神分析臨床は「頭ではわかってた」とか「知っていたはずなのに」と愕然とすることばかり。しかもそれは一度ではなくて同じことに対して何度も何度も起きたりする。このプロセスは辛くて苦しい。自分が見てきたもの、聞いてきたもの、信じてきたもの、それって一体なんだったんだろう、と思う瞬間もたくさん訪れる。いっぱい泣いたり怒ったりして、疲れて眠って、起きてはまた泣いたり怒ったりして、また眠って、というような日々を繰り返すうちに時々打ちひしがれていない自分を発見する。あれ?と昨日より少しだけ自由で呑気な自分を発見する。

精神分析家はこの作業がその人にとってどれだけの苦闘か、一足早く体験している。だからこそ毎日のように同じ時間、同じ場所にいる。それが患者のニードだと気づいてる。その先に訪れるものを希望と呼んでひたすらそばにいる。お互いに大変な困難だけどこういうことでしかどうにもできないこころを想定したのが精神分析だ。誤解もされるわけだ、と私は思う。

机上にも本の中にもないもの、ボルヘスがいうようにそれはそれとしか言いようのないもの、それを二人で発見していくプロセスがこれ、私はそう思って訓練している。それすら誤解かもしれないけれどそれは誰にもわからないというのがいつもの答え。そんな風に思う。

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精神分析

言わずと知れた

「萩の月、食べる?」「うん、萩の月じゃないけどね」

という会話をしたことがありますか。では、萩の月を口にしたことはありますか。これは多くの方があると思います。言わずと知れた(ですよね?)仙台の銘菓です。

長期休みのあとは、非常勤で行っている職場に様々な土地のお菓子が集まります。そこには必ず、でもありませんが、「萩の月」と似たお菓子が登場します。私の地元にもあります。どれも微妙に味が違いますがふんわりしていて美味しいです。でも多分それらのお菓子の名前を使って冒頭にあげた会話は成立しません。そもそも今年は各地のお菓子と出会う機会自体が減りそうですが。

「フロイトという人をご存知ですか」と看護学校の学生に聞くと大抵の人は名前だけは知っています。でも「ウィニコットという人を知っていますか」と聞くとその割合はガクッと下がります。ウィニコットが生まれ育ったイギリスでは事情は異なるかもしれません。萩の月に似たお菓子だってその土地では萩の月以上に知られている可能性が高いですから。

「明後日17日は秋櫻子忌です」と言われたらどうでしょう。私は「そうなのですね!」となります。なぜなら秋桜子忌というのは季語だから。ご存知ない方は秋櫻子って何?人?という感じかもしれません。

水原秋櫻子、1892年から1981年まで生きた俳人です。高浜虚子(こちらはご存知でしょう)に師事し(後に訣別)「馬酔木」を主宰しました。秋櫻子忌は喜雨亭忌、群青忌、紫陽花忌ともいいます。こうして見ると、秋櫻子を知らなくてもこの季節に亡くなった方の忌日なのね、とわかりますね。美しい季語です。

「萩の月」に似たお菓子をおめざ(大人には使わないかな)にしながら思ったことから今日ははじめてみました。自由連想というものでしょうか。今朝は自分が好きなものばかり登場してくれました。

月山の見ゆと芋煮てあそびけり 水原秋櫻子

9月20日に予知されていた「日本一の芋煮会フェスティバル」は新型コロナウィルス感染症の影響を鑑み中止だそうです。今は言わずと知れたコロナウィルスかもしれませんがいつからかそれも忘れられていくのかもしれません。それがいいように思います。

終息し忘れられていくもの、消費されても失われないもの、亡くなってなお生き続ける人、先のことは誰にもわかりませんがとりあえず今日も朝は来たのでした。

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<女性>という言葉

昨日、パラパラと『臨床心理学』(金剛出版)という雑誌をめくっていた。2003年発行のものだ。松木邦裕先生が「私説 対象関係論的心理療法入門」の連載をしていたのはこの時期だったか、など思いながらふと目を止めたのは「女性の発達臨床心理学」という平木典子先生の論考。これは5人の女性の臨床心理士(医師もかも)がそれぞれの観点から女性に関する問題を取り上げた連載のようだった。ようだった、というほどに内容はうろ覚えなのだが、あれから20年近く経つ今も私たちは「女性の」という言葉をあえて使う必要がある社会に生きている。

大学では女性であることで大変苦労されてきた先生に指導を受けた。といっても私の大学はゼミ間、専攻間の境界が緩く、たくさんの先生に大変お世話になった。「結婚して、出産しても仕事を続けなさい」と先生は言っていた。先生はフェミニストではあったけど、たまに見かけるような男性との比較において結果的に男性と対立するような話し方は一切されなかった。「強い女性」というイメージはあったが(平木先生も同様)それも男性との比較というより先生ご自身の学問に対する情熱や私たち後進をしっかりと包みこんでくださる態度から生じるものだった。

あれから20年以上経つ今も、私は女性であることに時折不自由を感じながら(もちろんそれをもたらすのは男性とは限らない)、臨床でも生活でも女性ならではの問題と出会い続けている。彼らが抱える困難は少し引いたところから見ればどれもこれも大抵の女性は体験していなくても理解はできるような問題ばかりかもしれない。でも臨床場面、特に精神分析的臨床におけるそれはあまりに個別的で、「その人の」あるいは「私たち二人の」固有の問題にほかならない。こころの世界に「よくある話」はひとつもない。

最近『野蛮の言説 差別と排除の精神史』中村隆之 著(春陽堂ライブラリー)という本を読んでいる。講義形式で読みやすい。そこではフーコーがいう意味での「言説」概念を用いて、自己とは異なる他者を表象する言葉がどのように生まれてきたかについて丁寧に議論が展開されている。私は「野蛮」を「女性」に置き換えて考えた場合、男性/女性の分割線の根拠は何か、ということについて少し考えていた。著者は「<野蛮>の表象は言語によって構築されてきたものだ」という立場をとる。

精神分析場面における患者の言語が、治療者との間主体的交流の場におかれることで新たな表象を得るプロセスを考えると、精神分析はそれまで数え切れないほどに引かれた分割線を薄める方向を向いているのではないか、と私は考えている。それは自分の臨床を「女性」という言葉で語ることを難しくさせる。同時に女性であることは私から離れることのない事実の説明でもあるので考え続けることをやめることもできない。

言葉、言説が生じるプロセス、もし何かを考えるなら私はいつもそこに立ち帰ることを余儀なくされるのだろうと思った。

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外寝

終便の出し桟橋に外寝人 花田喜佐子

兼題は外寝と火取虫。パッとキャンプが思い浮かんだのは日常でこういう景色がすでに失われているせいかもしれない。

以前、子育て支援のNPOの理事をしていた。地域の子供会や自閉症児親の会など様々な団体と連携してインクルシーブな場所づくり(今思うと目標が大きすぎてちょっと恥ずかしい)を目指して活動していた。私以外の理事はみんなその地域で育った仲間たちで、NPOの活動には彼らを小さな頃から知る親世代から彼ら自身の子供も含む世代まで本当にたくさんの方が協力してくれた。私もその地域にいくと車から名前を呼ばれたり、道で出会ってお話ししたり、今住んでいる東京の小さな町でも体験しない身近な人間関係がそこにはあった。

いつもなら8月のキャンプにむけて大忙しの時期だ。私は主に障害(主に自閉症)を持つ子どもたちが2泊3日のキャンプで安全に楽しく過ごせるように様々な準備をする担当だった。キャンプも後半になれば同じ班の子供たちがその子の障害の特徴を掴んできて(子供はそういうのが直感的で早い)上手に関わりあうので初日のような緊張感はなく、感心、安心したものだった。

夜は真っ暗になることを子供たちは意外と知らない(だから懐中電灯必携ということがピンときていない)、トイレで大きな火取虫に声をあげて出てきて、今度は数人で連れ立っていってみんなでキャーキャー言う(そして少し慣れる)。時折暗闇に響く声、テントから聞こえるヒソヒソ声。夜中見回りにいくとさらに声を潜める様子が伝わってくる。ああいう場所にいると自分が動物であることを思い出す。五感がいつもより研ぎ澄まされる。

ずいぶん長く毎夏の行事としてやってきたが、今年だったらできなかっただろう。

テントの中が暑くて外にベッドを置いて寝る人もいる。夜のキャンプ場は食糧を求めて野犬が現れたりもして怖いこともあるが、とても静かだ。大人たちも小さめの声で話す。普段はしないような話もする。ベタつく身体を濡らしたタオルで拭くと風をひんやりと感じる。

夏の季語「外寝」で一句作ろうとすると、キャンプかホームレスの人の姿を思い浮かべることはできるがそれ以外は難しい、と話し合った。最近の句会での話。それぞれの句をみんなで鑑賞し、そこから見えてくる景色を話し合う。冒頭の句は外寝にはこんな句もある、と仲間の一人が紹介してくれた一句だ。話の流れと読み方の間違いのせいでみんなが間違った方の景色を思い浮かべて大笑い。文字と音が生み出す景にはそんなこともあるから面白い。時代が変わればまた異なる景が見えるかもしれない。

「外寝」、ワイルドだけど自然の行為な気もする。東京にいるからなおさらかもしれないけど、道路にも公園にも様々な規制があって自然に腰をおろせる場所も減った。私のオフィスのそばにある緑豊かな新宿中央公園も工事中だ。古ぼけたベンチにみんな少しずつ離れて座り各々好きなことをする時間はいつまで守られるのだろう。公園のお隣にそびえたつ都庁では三密禁止だが、ここでは自然と守られてきたことだ。空間があれば自然とそうなる。

キャンプでは一日目の夜は子供も大人も遅くまで起きているが、二日目の夜はみんなぐっすり。火取虫にも恐々しながらも声を上げない。願わくば、ウィルスや自然災害とは別の形でこんな風に自然と共にいる時間をもちたい。俳句のようになんでもない景色を大切にしたい。

キャンプ三日目の朝のみんなは不思議とマイペースで良い感じ。句会のあとの私たちも良い感じだ。感覚を使い、こころを開き、言葉にしようと試みる。日常は気づかないうちにどんどん窮屈になっているのかもしれない。本当は適応などしないほうがいい場所もあるのかもしれない。

月曜日、東京の日常が始まった。

みんながマスクをつけた満員電車はちょっと異様。マスクの下で考えていることは多様に違いないけど。

外寝人生きてをるかといぶかりぬ  下村梅子

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精神分析、本

「美しい日本の私」

今日は日曜日。ここは日本。日本の私。日本の言葉。日本の精神分析、について考えていた。

「日本」という言葉を意識したのは川端康成のノーベル文学賞受賞講演「美しい日本の私」を題材にした授業を受けた時だったりして、とふと思った。殊更「日本」という言葉を使う必要がなかった子供時代を過ごしたのは平和なことかもしれない。

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり 

川端康成の「美しい日本の私」の講演の冒頭に引用された道元禅師の歌である。川端はこの講演で多くの歌や禅語を引用して、日本の自然や日本人の心について話した。

授業では「美しい」は「日本」にかかっているのか「私」にかかっているのかと問われた気がする。どちらにもというか別々にできないということをむしろ川端は言っているのではないか、と答えたのか今思っただけなのかはともかく「日本の」という言葉を使うと不思議とそのものの独自性が際立つように感じるのは私がその中でそれとして生きてきたからか。

問へば言ふ問はねば言はぬ達磨どの心の内になにかあるべき 心とはいかなるものを言ふならん墨絵に書きし松風の音

これも川端が引用した一休の歌である。

心という形にならないものが姿を現す場所、そこで感じる私という実在、今生きている場所で生きることは致し方ないということでなく、私たちがそこで世界の息吹を感じることがその場所を豊かにしていく。私たちひとりひとりのユニークさが世界の独自性を保っていく。分断でもなく排除でもない仕方で。そんなことを思った。

日々是好日。今日は日曜日。

大雨で亡くなられた方々、失われた風景を思うと言葉もない。これ以上、被害が広がらないことを祈って。

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精神分析、本

胡蝶の夢

朝、お湯を沸かす。沸騰する直前の勢いはラストスパートって感じでいいですね。お寺の鐘が6時を告げました。どこかの部屋で目覚まし時計がなっています。なかなか起きられない人のようです。

「寝ているときに見る夢がどれだけ重要であるかは、よく知られた胡蝶の夢というイメージに極まっている」とは『世界哲学史』「中国の諸子百家における世界と魂」の中島隆博の言葉。

「胡蝶の夢」ご存知でしょうか。

「かつて荘周が夢を見て蝶となった。ヒラヒラと飛び、蝶であった。自ら楽しんで、心ゆくものであった。荘周であるとはわからなかった。突然目覚めると、ハッとして荘周であった。荘周が夢を見て蝶となったのか、蝶が夢を見て荘周となったのはわからない。しかし、荘周と蝶には必ず区分があるはずである。だから、これを物化というのである。」

『荘子』斉物論からの引用です。

自他が融合した万物一体の世界が目指されているのではなく、「荘周と蝶には必ず区分があるはずである」として「物化」という政治的、倫理的、経済的な体制と利益に向かって整序されない変化、つまり世界の変容が考えられている、と中島は書いています。

「荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とそのあるモーメントにおいて絶対的に自己充足的に存在し、他の立場には無関心である。それにもかかわらず、他方で、その「性」という生のあり方が変容し、他なるものに化し、その世界そのものも変容する」。このような事態を物化というとのこと。

充足で変容が止まるわけではないようです。「万物斉同」という同一性の問題ではないようです。真実の世界があるわけでもないようです。複数の視点というお話とも違うようです。

この考え方には希望を感じます。「まさにこれである時には、あれは知らない」という原則のもと、充足していても、根本的な変容が起き、新しい別の世界が立ち現れる・・・・

ここには私たちが個人と個人の関係性を考えるための別の思考があるようです。生のあり方を基礎づけ、構成するものは何でしょうか。

「一生行い続けるに値する言葉は何でしょうか」。孔子が答える。「それは恕(思いやり)だ。自分がされたくないことは人にもしてはならない」。(『論語』衛霊公)

「他者とともにしか、わたしや世界のあり方が人間的になっていくことは考えられない」のです。「あらかじめ規定されたわたしや世界のあり方」などないのです。「交流の結節点」としての自己。

今日という時間も新しい別の世界を立ち上げることにつながっているのでしょうか。

目覚まし時計はまだ鳴っています。お仕事間に合うのかしら。それとも止め忘れかしら。「今日も一日頑張りましょう。ご安全に」(朝ドラ「ひよっこ」から)。

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もちもの

スクールカウンセラー(SC)をしていた頃、保護者や生徒、教員向けのお便りを書くのが好きだった。ここで書くノリとそれは似ている。

歳のせいか、患者さんや自分との精神分析的作業のせいか、自分の持ちもので何かをすることが楽になった。ないものはない、ということに対して悪あがきしなくなった。自分に対して「もっと何かあるはず」と思うのも素敵なことだけど、今は自分の持ちものをこうして使ってみることで何かしら見出せたら嬉しいな、という感じ。朝のバタバタの中でこうしてサラサラと書くことは自分の少ない持ち物をフルレンジで使うためのウォーミングアップみたいなものだ。というのは今思いついただけだけど書いてみるといよいよそんなつもりになってくる。特に何も考えずたまった言葉をカラダ全体に行き渡らせるように循環させる。私にとってこれを書くことはそんな作業なのだろう。

精神分析は治療者の方も精神分析(週4日以上、カウチ で自由連想)を受けることが訓練の基本なのだけど、それは身ひとつでやっているからだと思う。認知行動療法みたいに二人をつなぐツールがあるわけではないし、療育みたいに教材も使わなないし、短期療法みたいに言葉を使った戦略があるわけでもない。

ただ聞くことsimply listen、フロイトの技法論集にある言葉だ。必要な持ちものはこころと身体。それで全部。オリンパスの宣伝文句を思い浮かべる。ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ。

だからトレーニングをする。こちらが患者さんに提供するものを患者さんがどう体験するか、そこにできる限り開かれた状態でいるために、自分も精神分析を受けて十分に自分のこころを身体に染み渡らせ、自分の中で異物感がなくなるほどに馴染ませておく。患者さんが使える存在であるように。

自分の持ちものなのに私たちのこころと身体は傷つきやすいしコントロールが難しいことが多い。一方で傷ついても放っておけるくらいの防衛機制も持っている。現実を認識する一方で否認するこころ、そして小さな傷なら手当てを必要としない身体を持っている。フロイトの遺稿「防衛過程における自我分裂」で書かれた「自我の裂け目」を思い起こす(画像はこの論文が入っている『フロイト全集22』から)。

こころと身体、セットで存在するそれが何をどう受け取ったり反応したりするのか、週4日、分析家のそばで横になって連想するということはどういうことか、人と一緒にいるというのはどんな感じか、自分は本当は何を考えているのか、これらは全部受けてみなければわからない。受けてみてもわからないかもしれない。わからないことがわかる体験も体験なくして成立しない。

自分が食べたこともないものを「おいしいから食べてみて」とはいえない。だから「こんなのがあるけどどうかしら」といえるようにトレーニングする。しかもこの技法って答えを出すことを目的にしていないから、どちらかというと「まぁ悪くないな、私は結構好きだな」というものを作るプロセスを共に歩むということをやっている感じなので、提供者側がその意義を十分に知っておかないと不味いことになる可能性がある。身ひとつでお金をいただくということは簡単ではない。

ということでウォーミングアップ終了。今日の自分はどれだけ使える自分になっているかもやってみないとわからない。とりあえず日常をはじめよう。

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日めくり

昨晩、オフィスを出るときに日めくりをめくってきた。
今日は8日だったか、と。
書類とかには7月8日って書いたのだから知っていたに違いないけど日めくりをめくる時に思う「8日か」の意味は違う。

「もう7月かぁ」と思いませんでしたか、8日前頃。そういう感じ。日めくりをめくることは過ぎていく時間に一旦切れ目をいれる儀式なのです(私には)。

昨日の日めくりの俳句。

重信忌墓は心の中にあり 高橋龍

7月8日は高柳重信の忌日だ。「俳句を多行形式で書くことを開拓実践、独自の俳句評論を展開、すぐれた時評眼をもった俳人でした」と日めくりには書いてある。

墓は心の中にあり、どういうことだろう。誰の墓だろう。自分の?大切な誰かの?高橋龍は高柳重信に師事した。

私は生誕何周年より没後何年の方が好きだ。昨年は土居健郎が死んで10年、ということで土居の本を少しずつ読み直した。直接的に指導を受けたことがない私にとって土居先生の墓は彼の言葉だ。私は彼の言葉を彼に師事した先生方から間接的に受け取ってきた。先生方の中で土居先生は生きている。墓は心の中にあり、というのはそういうことかもしれない。先生方は土居先生と生きた時間を心で弔い続けており、私はそこでの対話を聞かせてもらっているのかもしれない。

今年出版された『日本の最終講義』という錚々たる顔ぶれが集められたこの本にも土居先生がいる。「人間理解の方法――「わかる」と「わからない」」という題の講義だ。医学でも精神分析でも哲学でも心理学でも「方法」は常に問い直される。講義という方法での最後を終える先生方にとって最終講義は一区切り。土居先生はシェークスピア『お気に召すまま』を引用して講義を終えられた。この世はすべて舞台。自分も東京大学という舞台から降りる、と。「いい医者になってください」と。

私たちは心の中に誰かの死を抱え込んで生きている。きっと私たちが命をつなぐ無意識的な方法がそれなのだろう。弔うことは対話すること。私は小倉先生から「育て直し」という言葉を知り、精神分析によって「生き直す」という言葉を実感している。

墓は心の中にあり。今日は7月9日。雨。今夜、日めくりをめくる時、私は何を思うのだろう。警戒が続く地域の皆さんのご無事をお祈りします。

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紫陽花

紫陽花が徐々に存在感を消していくのをなんとなく見守っている。
上手。咲くときも少しずつ色づいていつのまにか景色を変えてしまう。
その変わった景色すらもともとそうでした、みたいな感じだし。

私たちってなにかを指摘されると「生まれつきです」とか「まえからです」とか言いたがると思うのだけど自分とひとだと見え方って違うものですよね。
ひとからしか見えない自分がいる。だから他者が必要、ともいう。
たぶん、危機管理的にも。

昨日、小倉清先生の本について書いたけど、そこに登場する子どもや親ごさんってその時代の日本の現れでもあるんだな、と思った。
小倉先生はそういう背景もきちんと書いてくれている。
ウィニコットも『ピグル』でマザーグースとか共有された母国語、母国の文化を十分に意識して治療過程を描写した。

自分が生まれ育った場所から再びはじめてみること、そこには傷つきの記憶もあたたかな記憶もあると思う。何か一色で気持ちが覆われてしまうときは記憶のなかにグラデーションを探す。紫陽花みたいな微細な違いが自分のこころを彩っている可能性って誰にでもあるような気がする。

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小倉清先生

小倉清という精神科医をご存知だろうか。私の世界では大変有名な1932年和歌山県生まれの子どもの精神科の先生である。俳人の堀本裕樹先生も和歌山県出身、パンダの彩浜ちゃんがいるのも和歌山県、熊野古道はもちろん和歌山県。良いところですよ、とっても。学歴や職歴も大事かもだけどどこで生まれ育ったかって大事よね、と思うのも私の臨床初期には小倉先生のような医師との出会いがあったせいかもしれない。

社会人になったばかりの頃、教育相談室の仲間と小倉先生の勉強会に出ていた。眼光鋭く、というか多分眼鏡の上からこちらを見る目線がしっかりしているだけなんだけど、ニコニコ笑いながらのんびりした態度で本質的なことをついてこられるので結構人数のいたその部屋は割と緊張感が漂っていた。病院内でやっていたので途中小倉先生の患者さんが突然入ってこられてしばらく座っておられたこともあったが、その時の小倉先生の眼差しはとてもあたたかかった。なのでやっぱり勉強会中の先生の目は鋭かったのかも。小倉先生はたくさんの子どもの患者と私たち専門職を育ててこられた。今もこうしてお世話になるとは当時は思い描いてもいなかった。(小倉先生は日本精神分析協会の精神分析家でもあるので、精神分析家候補生である私たちの訓練を支えてくださっている。)

その小倉先生にはすでに著作集が出ている。そこに掲載されている小倉先生が事例提供者で小此木啓吾先生が助言者の事例検討会(『小倉清著作集 別巻1  児童精神科ケース集』に収録)は大変面白い。そういう時代もあったのだな、という感想がまず最初に来るが。小此木先生が亡くなってから17年?土居先生が亡くなって11年。そうそう、7月5日が土居先生の命日だったので「甘えの構造」などをパラパラしてるときにそういえば、と久々に手に取ったのが小倉先生の本だったのでこういうこと書いているのだけど。

その小倉先生は『子どものこころ その成り立ちをたどる』の中で赤ちゃんが自分の身体で遊ぶことの大切さを書いておられる。

「結論からいえば、要するに赤ちゃんはそうやって自分自身を知ろうとしているのである。さまざまな物にふれたりしながら、それらと自分自身との対比の中で自らに眼を向ける。手の指はそれだけのものではなく、自分の一部であるという認識が身について、その上で自分を知ろうとしているのである。 この時期より前では自分と自分でないものの区別ははっきりしていなかったものが、ここにきて、自分自身のものという感覚がよりはっきりしてきて、身体を知ることになる。」

 たくさんの子どもの苦痛や困難、そして成長をみてこられた先生の言葉はこうやって細やかで、赤ちゃんの手や眼、身体の動き全体が連動して外界を発見し、自分となじませていくやり方を教えてくれる。

 若い頃、あの勉強会で緊張を乗り越えてもっと色々教えていただけばよかったかも。当時はまだ自分も社会に出たばかりで赤ちゃんのようだったし。と思うけど結局その後精神分析の世界に入って訓練を続けているわけだから私はいまだに自分の中の赤ちゃんのこころを使って色々考えているのだろう。こんな歳になってもまだお世話されているとは・・。親にとって子どもはいつまでも子ども。少しずつ大人になって親になる。心理面でいえばいつからもいつまでもないだろう。重なり合い、分離しあい、親子はその形式をつなぎ個別のこころを育てあっていく。

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瓜番

夜、オンラインで「瓜番」という季語を使った句について話しあった。

夏の季語だ。

たかが4音のこの季語だが、17音のうち4音と考えると全体の約3分の1なので、その影響は大きいことが容易に想像がつくだろう。俳句は季語の選び方、置き方がとても重要なのだ。

俳句には「一物仕立て(いちぶつじたて)」という言葉があり、これはそのままひとつの題材だけで一句作ることを言う。一方「取り合わせ」「配合」とは季語のほかにもうひとつの材料を用いて作ることである。この時取り合わせた二物に飛躍が大きいと「二物衝撃」といって読む側につよいインパクトを与える。

万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

などがそれである。万緑といえばこの句というくらいの有名句である。見渡す限りの緑と赤ちゃんの小さな白い歯。今、歯と葉を誤変換したがここにも繋がりがあったか。

生後半年を過ぎて表情も豊かになり、さかんに声をあげて何かを伝えようとする子どもの口元に見えはじめた白いもの。最初に生えるのは下の前歯だ。生命とはなんと不思議で素晴らしいものか、と感じる瞬間が切り取られているようである。

「生命力」という言葉を使わなくてもその瞬間を切り取るだけでそれが伝わる。赤ちゃんに対しては特にそういう発見が多い。その細やかな視線は赤ちゃんが生きるために必要なもので小さな変化は赤ちゃんにとっては大きな変化だ。季語が17音に占める存在感と同様に。

私たちは本当はそんな変化の積み重ねで生きている。「こんなことして何が変わるの」「もうここまできたら変わらない」と思うとき、私たちは変化に気づくゆとりがなく、あまり元気がないときかもしれない。

瓜番というのは、瓜の熟す頃、夜盗みにくる者を防ぐための番人で、小屋の中で番をする。昔は瓜が夏の代表的な食品で上等のものだったので、こうしたことが行われた、と平井照敏編『新歳時記』に書いてある。

大事なもの、重要なもの、代表的なもの、どれも移ろいやすいかもしれない。でも俳句が伝えるように私たちはただ生きているだけでかなりの部分、いやむしろ、生きていることそれ自体がかなり大事なんだと、私は思っている。

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people people

people peopleはpower peopleより楽しそうだ。音だけ聞くと救急車みたいで、緊急事態に対応できないのだけど、この仕事、とは思うけど。

『患者から学ぶ ウィニコットとビオンの臨床応用』(松木邦裕訳、原題はOn Learning from the Patient (1985))などで有名なパトリック・ケースメント。英国精神分析協会の精神分析家である。彼は神学、ソーシャルワーク、そして精神分析の専門家でもある。英国ではソーシャルワーカーから分析家というコースはそれほど珍しいことではない、と訳者あとがきで松木先生が書いている。

その彼が心理療法家としてB.A.Pでのトレーニングを終え、さらに精神分析家になるためにインスティチュートでトレーニングを受け始めた頃、ソーシャルワーク関連で好条件の仕事を提示された。彼はアプライするかどうか迷ったらしい。その選択を助けてもらった言葉がこれ。彼は結局アプライせず、精神分析家になるための訓練を選んだ。

There are two kinds of people: ‘power people’ and ‘people people’. I, Patrick, am a power person and I’m looking for another power person to work alongside me. You, Patrick, are a people person so I will not be short listing you for this job.” That was very clear and a most useful comment. I didn’t apply.

たしかケースメントの自伝。Growing Up? A Journey with Laughterを読んだときにメモしたのだと思う。非常に優れた臨床家であるケースメントにもこんな面が・・とちょっとひく(私はひいた)ようなエピソードもあって面白い。人はこうだから面白い。A Journey with Laughterという副題だし。

でももしかしたらLearning Along the Way: Further Reflections on Psychoanalysis and Psychotherapyのほうかも。これは翻訳がでる予定だから見てみるといいかも。

うん、ピーポーピーポー、この仕事は確かに緊急事態に駆けつけることは難しいのだけど、「ここがある」ということで日々の緊急事態を持ち堪えている患者さんは多い。身ひとつというがそこにこころを住まわせること、こころに共にいてくれる人を育むこと、people peopleであること。精神分析の仕事のひとつなんだと思う。

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『フロイト技法論集』より

精神分析において「最もうまくいくのは、言ってみれば、視野に何の目的も置かずに進んでいき、そのどんな新たな展開に対しても驚きに捕まってしまうことを自分に許し、常に何の先入観ももたずに開かれたこころで向き合う症例である。」ーフロイト「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)

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被災地を想う

こんな時だからだろうか。以前の写真を見つけたような感じで被災地を想った。その土地が被災して間もなく訪れた場所を特に思い出す。東日本大震災後の福島、石巻、南三陸、西日本豪雨後のしまなみ海道。
様々な光景をみた。横倒しになった家の前でバラバラに散らばって水に濡れた写真や年賀状も見た。

私は、人も景色も変わった直後の姿しか知らない。その土地で出会った彼らも当時はまだそれがどんな変化だったか語る言葉もなかったように思う。まだ渦中だった。変化ではなくてその日のことを詳細に教えてくれた方もいらした。

今はどうなっているだろう。新型コロナが覆い隠してしまったのは「春」という言葉だけでなかった。あの日から長い間、語りえぬ言葉を胸になんとか生きてこられた方もいるかもしれない。春なんてすでに失っていたことを改めて思い出した方もいるかもしれない。

たまたま名前がついた季節がめぐる。聞きたくない言葉、見たくない景色、これ以上はもう、と思っても私たちにはコントロールすることができることとできないことがある。

かなり困難が伴うとしても私たちに考えうることがあるとすればそれは私たちのありようではないだろうか。今日はこの本のことも思い出した。東京から南相馬市に移住され、メンタルクリニックを立ち上げられた精神科医、堀有伸先生のご著書『荒野の精神医学 福島原発事故と日本的ナルシシズム』(遠見書房、2019)。今だからなお読まれてほしい一冊である。

都知事選間近。東京のあり方は被災地と無関係のはずがない。たとえ移動制限があったとしても人は移動する。メディアもある。見て見ぬふりなど不可能だしすべきでもない。

季節はめぐる。今日は雨。いつもなら夏休みが始まる頃には梅雨も明ける。今年は「夏休み」というものはいつも通りあるのだろうか。先のことはわからない。本当はいつだってそのはずだけど。

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いろんな部分

この仕事をしていると本当にいろんなこころの状態があってその人たちと会う私にもいろんな部分があるんだな、と気づく。

私の仕事は緊急の対応はできないけど、そんなときに追い詰められたり無理をすることでまいってしまうことが少し減るような、大変だけど考えて持ち堪えることが可能になるようなこころを育てていくお手伝いはできると思う。

時間を体験する仕方が変わる感じかもしれない。突然傷つけられてすごいスピードで去っていたように見えた何かがもう少しスローモーションで見えるようになる体験と言えるかもしれない。

もちろんどんな場合もはじめてみないとわからないので、ここでもやっぱり同じではないか、となることもあるかもしれない。だからなんとも言えないのだけど。

でも、自分にも相手にもいろんな部分がある。だから通じないこともたくさんある。でも通じることもある。とにかくみんないろいろだ。だから比べなくていい。出し方にいいとか悪いとかはあるかもしれないが、心のもちようにいい悪いはないだろう。

そんな考えで、できることを話し合えればと思う。

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異物

「頭が痛い」「お腹が痛い」など痛いと感じているのは自分の身体なのに、それは突然起きるし、理由もわからないし、まるで異物みたい。内側に感じる異物。それはこころでも同じだけど。自分のこころなのに全然わからないとか。無意識とか。

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オグデン『もの想いと解釈 人間的な何かを感じとること』

「耳だよ、それをやるのは。耳だけが本当の書き手で、本当の読み手だ。」(Frost 1914)

オグデンは『もの想いと解釈 人間的な何かを感じとること』(大矢泰士訳.岩崎学術出版社,2006)の第7章「精神分析における言葉の使用について」のなかで、上記のフロストの言葉を引用し考察を加えたプリチャードの「耳のトレーニング」という言葉を引用している。(ややこしい)

オグデンは「分析の言説は、隠喩的な言語を発達させることを分析のペアに求める。その隠喩的な言語とは、ある瞬間において考え、感じ、身体的に体験するということ(つまり、その人に可能な範囲で、人間として生きていること)がどんな感じがするかを反映している響きや意味の創造に適した言語である。」と書いた。

そして分析家は「高圧的な教訓主義を回避するようにしつつ、言語の機微に調律する患者の能力を強化し、また分析の言説のなかで患者自身の思考、感情、知覚などをいっそう十全に捉え/創造するように言語を使う能力を強化する努力」、つまり「耳のトレーニング」という体験を分析で提供する、と述べた。

分析において二人の間で交わされる些細な言葉を分析家の耳がとらえ、ふたりで共にいるための言語を創造しようとする患者の無意識的努力をそこに見出すこと、「どんな感じがするか」という体験を捉え、創造する言語を生かし続けること、分析の頻回の設定はささやかで繊細な作業(耳のトレーニング)の積み重ねのためにあるのかもしれない。

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認知行動療法のセミナーにでた。

コロナ禍でオンラインのセミナーが増え、録画視聴のセミナーも増えたので、なかなか勉強できない認知行動療法のセミナーにでた。

私が病院で働いていた頃はこんなに実践家によるセミナーとかなかったから、患者さんと一緒にベックの本とか読んで、やってみましょうか、という感じでやっていた。

それはそれで役立った方もいらしたし、私の方がよくわかっていないから二人で「・・・・これこう書けばいいのかな・・・困りましたね・・」とかいう感じが役に立った方もいらした。

今回セミナーを受けて改めて色々調べたけど、認知行動療法はツールの充実度がすごい。

模擬面接を見て、活動の記録表が書きにくい場合とかこういう病状だとやらないほうがいいとかこういう場合はこういう認知再構成とか、これが出てれば自分の場合は行動実験などなど具体的に伺えてよかった。何を扱うのか、どのように扱うのか、具体的なエピソードに基づいたアセスメント、ケースフォーミュレーションが大切なのはどの療法でも同じね。あとやっぱり認知行動療法は状況、気分、考えなどを数値化したり可視化するから変化できる自分を感じやすいかもしれないと思ったし、治療者同士が話し合うときに自分のやっていることがどこに向けられているかを共有しやすい印象があった。

なんにしても認知や行動を「ほどよく」していくというのはお互いコツコツやっていくものですね。

今日はもう雨降らないかしら。紫陽花ももうだいぶ色あせてきたけどそれもそうですね、もうすぐ7月です。

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Talking Cure

zoomでの会議が終わった。これまでメールでのやりとりしかしていなかった人たちとオンラインで話すようになったのは面白い。コロナがなければ今まで通りメーリングリストなどでやりとりしていたことだろう。

それにしてもみなさんなんとか元気そうでよかった。

ところで最近、チェーンの薬局や家電量販店やカフェで店員さんとおしゃべりをすることが増えた。コロナ以前と以降では格段の差がある(以前はマニュアル的な話しかしていない)。

フロイトとブロイアーの共著「ヒステリー研究」にTalking Cureという言葉が登場する。精神分析の本質は最初から患者によって語られていた。

私がここで書くように、誰かが手紙を書くように、みたこともあったこともない相手にメールを打つように、書き言葉は話し言葉とはだいぶ違う。

話すこと、今だからこそvividに語れることがあるかもしれないと、コロナ禍における患者との関わりのなかでも感じている。

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線を引く

ウィニコットは線を引く名人だった。舌圧子,スクイグルなど環境という外部を少しずつ安全に導入するためのものの使用がとても上手だった。

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精神分析における愛とセクシュアリティ

精神分析の概念を研究する時間で私が選んだのは「セクシュアリティ」だった。最初は精神分析における「愛」とは、と仲間たちと考えたかったけどある対談を聞いて「フロイトって愛についてはあんまり語ってないの?」と思ったところからなんとなくの調査(上部を拾っただけだけど)を始め、一応こんなことを紹介がてら話したので載せておく。

十川先生の本に関連した記事はこちらに。https://aminooffice.wordpress.com/2021/01/01/『フロイディアン・ステップ』/

 精神分析家の十川幸司は『フロイディアン・ステップ』(2019,みすず書房)の刊行記念対談において「フロイトは性の偉大な理論家ではあったけども、愛の理論家ではなかった。彼は愛の背後に、必ずリビードの働きを見て取る。・・・フロイトの(唯一の)愛の理論は、「欲動と欲動の運命」(1915)の最後の部分で論じた、愛する―憎む―無関心という三つの感情の相互関係の分析です。このさいにも、フロイトはこの三つの感情を性欲動との関連で捉えようとしている。フロイトにおいては重要なのは、やはり欲動であって、愛ではない。・・一方、ラカンは愛の偉大な理論家です。」と言った。

 私はここで「へー、そうなんだ」となった。

 一方、その対談の相手であった立木康介は『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』(2016,水声社)のなかで「フロイトがそれを創造して以来、精神分析とは愛についての言説である。」と述べた。そして、ラカンがセミネール「アンコール」で述べた「愛について語ること、精神分析の言説においてなされるのはそれだけだ」を引用し、「話す主体の心の病はすべて「愛の病」である」といった。つまり、エディプスコンプレックスは最初に経験される愛の挫折であり、ヒステリーは自らの欲望の満足を放棄しても、他者が自分を欲望し続けるように策を凝らす。そして強迫神経症は自らの欲望とあからさまに衝突する義務や志向で日常生活を埋め尽くすことで、愛する対象に到達するのを無限に先延ばしする。一方、愛の挫折を本当には経験したことがなく、欲望のプログラミングによってその挫折の予感から身を守り続ける主体の構造が、フロイト的な意味での「倒錯」であると。


 それではフロイトは、ということで『フロイト全集別巻』の索引をみると(というか別巻は総索引、年表、主要術語訳語対照表なのだが)愛、性愛、恋着という愛にまつわる用語が多く使用されていることがわかる。「愛」という項目は総索引の最初の項目であるところもなんだか良い。そして「愛情生活/性愛生活」と一緒くたにされているところを見るとやはり十川がいうようにフロイトはラカンのいう「愛」というよりは「性」の理論家だったのかもしれない。ためしに「愛」の中でも最初にあげられている「愛情生活/性愛生活」がフロイト全集のどの論文に出てくるかをみてみよう。

フロイト全集 別巻より
⑤夢解釈⑥ドーラ、性理論三篇(性的異常、幼児性欲、思春期の形態変化)⑦日常生活の精神病理学にむけて(決定論、偶然を信じること、迷信、様々な観点)⑨『グラディーヴァ』、精神分析について、子供の性教育にむけて⑩鼠男 11、レオナルド・ダ・ヴィンチ、男性における対象選択のある特殊な型について 12、転移の力動論にむけて、性愛生活が誰からも貶められることについて 13、ナルシシズムの導入にむけて、子供のついた二つの嘘、精神分析への関心、転移性恋愛についての見解 14、狼男、戦争と死についての時評、転移神経症展望、欲動転換、特に肛門性愛の欲動変換について 15、精神分析入門講義(人間の性生活、リビード理論とナルシシズム)16、処女性のタブー、「子供がぶたれる」、『宗教心理学の諸問題」第一部「儀礼」への序文 17、快原理の彼岸、集団心理学と自我分析(恋着と催眠状態)、女性同性愛の一事例の心的成因について、嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的規制について 18、「精神分析」と「リビード理論」19、素人分析の問題、フェティシズム、ドストエフスキーと父親殺し 20、文化の中の居心地悪さ、1930年ゲーテ賞、リビード的な類型について、女性の性について 22、精神分析概説(性的機能の発達)

 ざっとこんな感じである。確かにフロイトの愛は。。。幅広い。

 ラカンは、フロイトが「欲動と欲動の運命」(1915,『メタサイコロジー論』所収)において「むしろ愛を全体的な性的傾向の表現とみなしたいのだが、それでもやはり問題は解決しない」と述べたことを重視した。それに対して立木は先にあげた著書で「ラカンの「性関係はない」というテーゼですら、愛の問題に終止符を打つには十分ではなく、このテーゼが愛について意味しうるのは、せいぜい、愛の成就は性関係の充足という形を取らない、ということでしかない。反対に、愛が性関係の不在を補填する可能性は、おそらく常に開かれている」と述べた。その行方は著書を読んでいただくとして、私はやはり、フロイトの愛について考えるとき、彼がその本性を見出したというセクシュアリティに注目したい。なぜならフロイトのテキストにおいて、セクシュアリティは、異性あるいは同性を対象とし、セックスを目標とした本能行動であるだけでは決してなく、精神分析におけるそれは、人間のこころの組織化の中心をなすものであるからである。したがって、その概念の射程の広さとその使用について確認しておくことには意味があると考えるからである。

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精神分析、本

「終わりのある分析と終わりのない分析」

「無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。」
ー『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉雅也著

有限性についてはいつも考えている。わざわざ考えなくてもそのなかに身を置いて日々を過ごしているのだけど。

 フロイトは「終わりのある分析と終わりのない分析」(1937,『フロイト技法論集』所収)において、彼の患者、ウルフマンに対して分析の期限設定を設けたことについて再考している。フロイトは患者から学び続けるという点でも天才だと思う。そのなかでフロイトは「そもそも分析にそのような(自然な)終わりがもたらされる可能性はあるのだろうか」と自問する。そして「分析家と患者が精神分析セッションのために会うのを止めたときに、その分析は終わりである」と一応の答えを出し、「終わっていない分析」と「不完全な分析」を区別する。同時にフロイトは、分析の「終わり」について「分析が続行されたとしてもそれ以上の変化が期待できないほどの広汎にわたる影響を、分析家が患者に対して与えたかどうか」という観点からそれが起こりうる可能性についても検討する。

 フロイトは「できるだけ早い対処」を願っていた初期の患者に対して、主に訓練分析として分析にきていた後年の患者はとは「治療の短縮」は問題にならなかったという。なぜなら彼らの治療の目的は「彼らのなかにある病気の可能性を根本的に枯渇させ、彼らの人格の深く進行する変容をもたらす」ことだったからである。さらに、分析作業によってなされるのは欲動を「飼い馴らすこと」であり「量的要因の優位に終止符を打つ」ことであると言えるかもしれない、と書いた。

 この論文は私に、フロイトに対するフェレンツィのあり方について書きたくなる気持ちも生じさせる。それはまさにフェレンツィが描き出した大人と子どもの構造的な違いとそこで生じる混乱という観点からなのだが、それについてはまた別の機会に書いてみたい。その準備としてひとつ書いておくとしたら、フェレンツィは、分析家が自分の「間違いや失敗」から十分に学んでいること、そして「自分の人格の弱点」を克服していることに分析の終わりはかかっているとして、暗に、というかほぼ明確に自分の分析家であるフロイトの責任を問うた。フロイトも愛弟子フェレンツィの名前を出しつつ、それに応えるようにこの論文を書いた。つまりこれは、精神分析家の資格認定に関する問答でもある。

 さて、フロイトはこの論文の後半、「分析はほとんど、あらかじめ満足のいかない結果となることが確信できる、あの「不可能な」職業の中の第三のもののように見える」と精神分析を教育と政治と並べる。ビオンは精神分析を「思わしくない仕事に最善を尽くすこと」といったが、もとより精神分析は「ありきたりの不幸」(フロイト)を視線の先におくことから出発した。それから長い思索の時間を経てフロイトは欲動を「飼い慣らすこと」にその目的に据えた。私はそこにフロイトの有限性に対する基本的な態度を見てとるし、ウィニコットの理論構築の基盤にも同様のものを感じる。

 欲動を「飼い慣らすこと」。。体験的にはわかる気もするが、精神分析体験は決してそれだけではないという実感もある。それについての考えを促してくれる良書(今のところ最強の一冊かも)が2019年に出版された。十川幸司著『フロイディアン・ステップ』がそれである。

 療育の現場では「スモールステップ」という言葉をよく使うが、私は「ベイビーステップ」という言葉をよく使う。こころの変容は決められた枠組みのなかで小さなステップを患者と分析家がともに踏み続ける時間の記憶の集積だ。それは有限に違いないけれど、いつかたどり着くかどうかさえわからないどこかのなにかへ向けられていることを思えばそれを無限にしておくことも可能だろう。

 全く違うことを書くつもりだったのだけど、千葉雅也氏の言葉から思い浮かんだことを書いてみたらこんな風になった。書くことは不思議の連続だな。

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精神分析

『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』

社会学者の岸政彦さんの著作にであったおかげで社会学の本を読むようになった。研究会で社会学にもいくつかの分類があると教わった。今回はいつも読んでいる領域とは少し違う社会学の本を読んでみた。

『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』中森弘樹(2017,慶應義塾大学出版会)は失踪という事態?出来事?あり方?を通じて、私たちが当然のように大切なものとする「親密な関係」に私たちを繋ぎ止めるものを浮かびあがらせる丁寧な研究の書である。

著者は最初に「死ぬことと消えることはいかなる点で異なるのだろうか」という問いを掲げ、失踪が自殺を代替しうるか、だとしたら失踪に含まれる意味とは、そこにおける他者とは、責任とは、倫理とはということに考えを巡らしていく。第6章 失踪者のライフストーリーでは、<失踪>経験者のライフストーリーが2例取り上げられる。つまり今は失踪していない人たちの言葉を聞くことができる。「自殺中に電話をしてきた友人」という表現なども興味深い。失踪が生と死の中間にあるとシンプルにいうこともできるかもしれない。失踪に至るまで、あるいは失踪中、失踪後という物語を作るとき、そこには親、配偶者、家族、友人、周囲、世間といった他者との関係が自然に立ち現れてくる。

この数ヶ月、コロナが可視化した「他者」や「関係」に対する人の態度は以前からその人に潜在していたあり方だろう。この本は今読むとなおさら逃れようのない他者を感じる。その他者とともに、あるいは別々に(逃れようがないとしても)、どう生きていくのか、そのプロセスに失踪、あるいはそれに近い出来事が生じるとしたら、そのあり方とはいかなるものか、これらの問いに対する社会学者の語りは他者との間にこころを見出そうとする私のような臨床家の語りとは重なるが異なる。だからこそ読んでよかった。臨床家がともすると陥りがちな二者関係の押し付けについて考えるための補助線をもらったと思う。

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精神分析、本

価値判断について少し

『武器としての「資本論」』白井聡著(2020)を読んでいて、そういえば、と思って小此木啓吾や土居健郎の本をパラパラとしてみた。

日本の精神分析家はマルクス主義と精神分析との関連をどう考えているのかな、と知りたくなったから。

というより、今回、新型コロナの影響を受ける臨床心理士の実情を垣間見てやっぱり経済と人権は切り離せない、と大きくいわずとも、お金と人間関係って切り離せない(金の切れ目云々とか)と考えていたら白井氏の本と出会ったわけです。

白井聡氏といえば『永続敗戦論』がとっても面白く、何度かルミネの本屋で立ち読みし、結局買って読んだ。そしてその本屋はコロナと関係ないが、今はもうないのだな。

それはともかく、最近の日本の精神分析家の本でいえば妙木浩之が『心理経済学のすすめ』(1999,新書館)でそれについて触れている。

そういえば、お金=排便→肛門愛やがてエディプスという流れは今、フロイト読書会のグループで読んでいるラットマンのところと重なるから、そっちもそのうち更新しよう。

オフィスのHPに『ある錯覚の未来』について書いたときにも触れたけど土居健郎は「宗教とイデオロギーの間」(『精神療法と精神分析』所収)という論考の中で、精神分析における「価値判断」の問題を棚上げできるかどうかについて論じている。

土居はフロイトが知らず知らずのうちにマルキシズムと同じ過失に陥っていたようだと述べる。そして土居は精神分析家の価値判断について「分析者個人の価値判断は間接的に治療者患者の関係に影響を及ぼすのであるから、分析者の科学至上主義が患者をもその信念に引き込もうとする可能性を、十分考えねばならぬのである。」と書いた。でも面白いのはここからで、というところで時間なのでまた。

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