精神分析は誤解されている、と思うことは確かにある。大学院とかで精神分析について勉強した臨床家に対してだってそう感じることがある。それはそれをそれとして体験していないからだ、ということもできるかもしれない。だって体験してなければどんな風にでも語れるから。
小さい頃は月に兎が住んでいた。大きくなったらなりたいものになれるはずだった。いつか王子様が、が歌だなんて知らなかった。
体験してないものを体験として語ることはできない。それはそうとして、誤解されるのはだからなのか?私はそれはフロイトのせいだと思う、クラインのせいだと思う、ラカンのせいだと、ウィニコットのせいだと 、ビオンのせいだと思う。日本だったら古澤平作のせいかも、土居健郎のせいかも、小此木啓吾のせいかもしれない。つまり多分、それは精神分析がそもそもこころなんてものをガチで相手にしはじめたところから始まっている。誤解するこころ、錯覚するこころ、自分を欺くこころ、みたくないものは本当に見えなくなるこころ、それは必ず二者の現象として現れる。ひとりだったら現れないかもしれないけどひとりという状態こそ不可能中の不可能。私たちは他者から逃れることはできない。
精神分析の書物は確かに高度に知的だけれど、精神分析臨床は「頭ではわかってた」とか「知っていたはずなのに」と愕然とすることばかり。しかもそれは一度ではなくて同じことに対して何度も何度も起きたりする。このプロセスは辛くて苦しい。自分が見てきたもの、聞いてきたもの、信じてきたもの、それって一体なんだったんだろう、と思う瞬間もたくさん訪れる。いっぱい泣いたり怒ったりして、疲れて眠って、起きてはまた泣いたり怒ったりして、また眠って、というような日々を繰り返すうちに時々打ちひしがれていない自分を発見する。あれ?と昨日より少しだけ自由で呑気な自分を発見する。
精神分析家はこの作業がその人にとってどれだけの苦闘か、一足早く体験している。だからこそ毎日のように同じ時間、同じ場所にいる。それが患者のニードだと気づいてる。その先に訪れるものを希望と呼んでひたすらそばにいる。お互いに大変な困難だけどこういうことでしかどうにもできないこころを想定したのが精神分析だ。誤解もされるわけだ、と私は思う。
机上にも本の中にもないもの、ボルヘスがいうようにそれはそれとしか言いようのないもの、それを二人で発見していくプロセスがこれ、私はそう思って訓練している。それすら誤解かもしれないけれどそれは誰にもわからないというのがいつもの答え。そんな風に思う。