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精神分析

おやすみ

前に誰かがSNSで「寝る」だか「おやすみ」だかいってからしばらく起きている人のことをSNSあるあるとして書いていた。

「おやすみ」背後から声をかけられた。PCに向かったまま中途半端に首を回して「おやすみー」と応える。きちんと振り向いたときにはもう気配だけ。寝室のドアが閉まるのが聞こえた。

いつもの分かれ道にきた。「おやすみなさい、また明日ね」手を振ってわかれる。お互い振り返りはしないが(多分向こうも振り返っていないが)反対方向へ薄くなっていく気配を感じながら歩く。「ただいま」一人暮らしでも小さな声で。

オンラインでの「おやすみ」は「あなたとは今日はこの辺で」という区切りだと思うので一緒に住んでいない人と夜に別れるときに直接いう「おやすみ」とあまり変わらないはず。なのでその人がそのあと起きていようと何をしていようと構わないわけだけだが、SNSではそれがさっきまでと同じ画面で見えているからなんとなく違和感があるのかもしれない。この見えているけど切断されている時間というのを私は以前より余韻として感じる。共にいる三次元空間で相手の存在が遠のいていく感じは背後を感じさせ身体性を伴うが、二次元だと、どうなんだろう。そのうち考えてまた書くかもしれないけどマッチ売りの少女感覚かな、声は聞こえない、姿も見えないけどあちら側で生きている人を遠くから眺めるように視覚から描き出すイメージ。自分が手元を照らしている間は。マッチ売りの少女だと少し寂しすぎるかもしれないがそんな気持ちの人もいるかもしれない。

「おやすみ」を交わし、お互いを背後に感じながら離れていく二人。「おやすみ」のあとも画面を見たままもう今日は交流をしない相手が別の誰かと小さな交流をしたりしているのを眺めている一人。それもどちらかのさらなる切断によって見えなくなったり一瞬で消える。なんにしてもそれ自体が二人の関係をすぐに変えるわけではない。どんな二人であってもずっとそばにずっと一緒にいることはできない。誰もが体験する離れていく(離れている)時間は、それまでの生活で誰かと空間を共にするという体験をどのくらいどのようにしてきたかによって異なるだろう。

私は安心したい。せめて眠る前くらい。眠れない夜を過ごすのは嫌だ。悪夢を見たとしてもそれはそんな直前の出来事のせいとは思わないけど一つ一つの行為はそれまでと連続性がある以上不安は夢に侵入してくるだろう。

何時間経っても「ママ、ママ」と泣き続ける子ども、親が拍子抜けするくらいあっさり手を振って部屋の奥へ駆けていく子ども、保育園の仕事ではさまざまな分離を目にする。私はどんな体験をしてきたのだろう。そしてそれは今どのように反復されているのだろう(ある程度わかってきたように思うが)。できるだけこころの空間を広げていきたい。どんな情緒にも反射的に動かされるのではなくできるだけ時間をかければ回復できる程度に抱え、丁寧に言葉にしていきたい。相手を想う気持ちを形にしていきたい。そこが二次元であっても三次元であっても余韻をうむのはそんな想いなのだろう。

外をけたたましくサイレンを鳴らしながら消防車が通り過ぎた。こんな朝早くに。何もありませんように。無事に「おはよう」を交わせますように。また今夜「おやすみ」といえますように。

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読書

はじめまして

今日はなにやら楽しそうな名前の保育園に行く。これまで担当していた人が遠くのご実家にお帰りになるので私が引き継ぐことになった。はじめまして。

先週の「はじめまして」もとてもスムーズだった。この仕事ももう長いのでどこへいくのもわりと気楽でどんな対応であったとしてもそうそう驚かない。いや、驚くけど「ほー、こういうこともあるのか!」と自分の知らない世界に自分のやり方で適応しようとがんばることをしない。馴染みはあるが知らない街を散策する。実際そうだし、気持ち的にもそんな感じではじめましての場へ向かう。こんなところにこんな建物が、全然知らなかった、ということばかりだ、日常は。

その園はとてもウェルカムな雰囲気で迎えてくれた。商店街のはずれ、ちょうど傘を閉じられるアーケードの端っこの方にある小さな保育園で何度か通り過ぎたけど時間ちょうどにたどりついた。その日は雨で少し寒かった。

私が担当する園は注意をしていても見過ごしてしまうような小さな園が多く、よくこの間取りで工夫して保育してるな(基準って・・・と思わざるをえない)と感心する。もちろん感心されている場合ではなくて自治体は乳幼児が育つ環境について真剣に対策を練るべきであろう。保育というのは大変だ。大変なのは保育士だけではない。月齢によって離乳食の内容も変わる0歳児の食事と他の年齢の子供たちの食事をひとりで作る栄養士の仕事ぶりにも頭が下がる。特に用事はないが「○○さん」と言っては振り向かせ何かを言ってもらいニコニコと帰っていく子供たちに対応しながらプラスチックのお皿を少量かつ多彩なおかずで着々と埋め、サランラップをかける。アレルギーを持つ子供たちの食事も特別な注意を必要とする。小さな園はひとりで全てをやっているので保育士との連携や園長の援助も絶対必要。誰かが孤立したら保育の流れが滞る。ただでさえ子供の動きは統制不可能だ。思った通りに動いてなんかくれない。言葉はそんなにたよりにならない。物理的にも仕事の内容的にもこれだけ近い関係だったら保育士の間にも色々あるだろう。それでもそれは二の次だ。やるべきことをやるためには協力せざるをえない。本来家庭だってそのはずだ。

「こんにちは」と何度もやってきては逃げるように去っていく。だいぶおしゃべりが達者になってきた2歳児だ。全身ではにかむような姿がとてもかわいい。私も同じようなトーンで「こんにちは」と返し続ける。私は観察をして助言をする立場なので能動的に関わることはほとんどしない。だから距離や時間の変化を肌で感じられる。たまには定点でじっとしている大人に近寄っては離れ離れては近寄りを繰り返しながら自分のペースで距離を調整していくことも悪くないだろう。大人も子供も忙しすぎる。

村田沙耶香『信仰』(文藝春秋)を読んだ。主に海外からの依頼で書かれたいくつかの短編とエッセイが収録されている。相変わらずなのに凄まじかった。「現実」と「信仰」。言葉が作る境界など曖昧なものだ。読めば「正しさ」がぐらつく。私はどこか気持ち良くなっていて実は誰かをひどく傷つけていることに気づいてもいないのではないか。自分に対する疑わしさはかつて大人に対して持った疑わしさかもしれない。

「何度も嘔吐を繰り返し、考え続け、自分を裁き続けることができますように。」p117

村田沙耶香は子供の頃、「個性」という言葉に感じた薄気味悪さとそれに傷ついた体験を忘れない。なのに繰り返す何かを彼女は罪として裁き続けながらこういう文章を送り出し続けている。凄まじいことではないだろうか。私はこれを愛情と感じるし、子育てにおける激情と近いように感じる。私は彼女の文章を読むと救われる。そこがどんなに血の流れる場所であっても、私たちがいかに愚かでも、私は動物的な部分をケアされたように感じる。世界を肯定するように、という言葉も浮かんだが肯定という言葉が何かとても上から目線のような気がした。私は私の好きなようにしたい。だから好きな人にもそうしてほしい。でもそれは噛み合わない。私のしてほしくないことがその人のしたいことだったりすることがほとんどなのだ。私たちはあまりに違う。こんな小さな、時折小動物のようにもみえる子どもたちが世界と出会う仕方も様々だろう。見るものが違う。感じることが違う。食べるものは同じでも消化の仕方が違う。お昼寝だって暗くするほど興奮する子もいる。ほしいものは大抵手に入らないかもしれないし、手に入れたものはほしかったものではないかもしれない。

私はすでに大人になってしまった。相変わらず自分の気持ちよさにかまけては苦しむ大人に。人なんて変わらない。毎日思う。それでも動きをとめない。感じること、考えることをやめない。罪と知って選択したものだってある。それでも。

いまだに「はじめまして」があるのは幸運かもしれない。「滅びるまで続ける」というセリフがこの本にあった気がする。はじまりに遡ることは難しくとも滅びるまでの距離と時間を子供の頃よりは定点観測できるようになったと思いたい。今日も今日を続けながら。小さな罪深き存在として。

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精神分析

非対称の関係

マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か。#Me tooに加われない男たち』(集英社新書)で著者の杉田俊介は以下のようなことを書いている。

男性がquestioningな男性として自分を「反省する意識としての自分」と「反省される対象としての自分」に分裂させ、二重化するだけでは普遍的な「人間」にはなれない。なぜならその一つ高次化した視点もやはり何らかの男性性に汚染=侵食されているからだ。そこには「観察の観察」「観察者の観測」のジレンマ(無限のメタ化/無限後退のジレンマ)がつきまとう。そこでそうではなく、男性と女性の間の非対称性と敵対性からはじめること、それを思考や行為が立ち還るべき根源とすること、つまり異なる他者の眼差しに貫かれながら、男性が男性問題を問い直していくことが必要なのではないか、と。

「男らしさ」「本物の男になる」みたいな発想ではなく、ということだろう。そうだそうだ、と私は思う。「らしさ」とか「本物の」という言葉ほど疑うべきものはない。

この本は男性にとってのまっとうさについて考えるための本なので非対称性は女性との間にあるが、精神分析では分析家と被分析者の非対称性がまさにこれである。精神分析の場合、それは親と乳児の非対称性としても語られる。この本でいう「男性」=分析家、親として考えてみる。分析家になるには訓練分析を受ける必要がある。その目的を簡単にいうとしたら、訓練によって、他者(内なる自己とも重なる)とその歴史のいいところ悪いところの全てをこころの内外に住まわせながらもそれにのみこまれることなくともに生き、自分としても他人としても自分のことを考え、他人のことは他人のこととして考えられるようになるためだろう。それは常にbeではなくbecomeの問題である以上「らしさ」や「本物の」という言葉はここでも適用しにくい。

治療者が正解を持っているわけではない、大体正解なんてあるのかしら、いい悪いの問題ではない、それって誰が決めるのかな、「みんな」がそうなのはわかった、だからなに?あなたは?というのは私の口癖だが精神分析の口真似でもあるかもしれない。

他者の眼差しに貫かれ続け、問われ続ける関係の中にいつづけること、被害的になり攻撃的になり敵対しながら、逃げない手応えのある相手として約束通りの時間にいつもそこにいつづける分析家を十分に使いながら自分を問い直し、その欲望に複数の形で開かれていくこと。複数のというのは、正解や本物のない世界において常に揺らぎながらということ。苦しくて辛くて耐え難いこともたくさんある。むしろそんなことばかりだ。精神分析は「幸福」も想定していない。結果として想定するとしたら「今よりましな苦しみや不幸」だろう。自分をたやすく外に開かず、目の前の相手とともに考え続け言葉にしていくことは自分に対する配慮でもあり誰かを愛するための準備でもある、と私は思う。ダメさも愚かさもひっくるめて愛していくとはどういうことか、なかなかの苦闘だけれどともにいるってそういうことではないか、と私は思う。

杉田俊介はいう。

「かつてリブの田中美津は「わかってもらおうと思うは乞食の心」と言いました(もちろんこの言葉がはらむ「乞食」に対する歴史拘束的な差別性も書き換えられるべきでしょう)。ボクたちのつらさを女性たちにも理解してほしい、男だってつらいんだ、という期待は捨て去りましょう。それは「女性からの承認待ち」であり、卑しく惨めな心です。「強く」「男らしく」ある必要はありません。ただ、まっとうな人間であろう。被害者意識の泥沼に落ちることなく、加害や暴力に居直ることもなく、自分(たち)の自由を公的な言葉にしていこう。その限りで、女性の同意ではなくむしろ異論を。対話ではなく論争を。友愛ではなく敵対を待ち望みましょう。それらを待ち望みながら、当面は、男たちのことは男たちが考えていくしかないのです――いつの日か、対等な「人間」同士でさわやかに語り合い、愛し合える日が来るまでは。」

そうだそうだ、と私は思う。男女というより非対称の関係において。「いつの日か」がいつになるかわからないけど瞬間としてならそのプロセスで何度も訪れているであろう愛し合えている瞬間を信頼して考え続け、問われ続け、いつの日かを待ち続ける、今日も。

今日は日曜日。東京は曇のち晴れ(雨も?)の予報。小さな願いが叶わなくても寂しさに心押しつぶされそうでもそれだけで今日が終わってしまうことはないだろう。それぞれの1日をせめて無事に。

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精神分析

短い・長い

コーヒー。頭痛が少しはまし。身体が温まった。ストールをグルグル反対側に回してはずした。週末か。週末って金曜日からのことをいうの?土日は週末でしょ?一週間は7日しかないのによくわからないとは何事。というかわからなくても不便がないからこんな歳になっても曖昧なのです。曖昧でいいことっていっぱいある。正解なんてないことだらけだ。

とはいえ、と「私はあなたにとって都合のいいものとして扱われたくない、私にもこころがある。」ということを書きはじめたが「とはいえ」というのは違うか、と消した(が、結局残っている)。意識はしていないが好きな接続詞(あるいはそれ的なもの)というのがある。自分にとって使い勝手がいいとすぐ使ってしまう、と思ったが使い方を間違っていたら使い勝手もなにも、である。まぁ、こうやって毎朝家事やらなにやらの合間にダラダラとだが一気に書かれるこんな短文においては曖昧でも問題なし。

短文ってどのくらいのことをいうのだろう、と思って以前調べたような気がするがもう覚えていない。調べてさえいないかもしれない。私が毎朝書いているこの文章は短文だと思う。少なくとも長文ではない。短いと長いの間は?中短文、中長文、中間文とは言わないからスペクトラムか。スペクトラムなものは曖昧さによっていつの間にかそのどちらかになるのだろう。『へんしんトンネル』(あきやまただし作・絵)を思い浮かべた。この前保育園で子どもが「よんでー」という意味のなにかを言いながら持ってきて膝に座ったので読んであげたばかりだ。要求の言葉はまだでも絵本を十分に楽しめていた。そうだ、短文って?このブログの編集画面には文字数が出ないので他にコピペして調べてみた。いくつかの記事で見る限り大体1200字平均か。そうか、1200字程度の体感がこれか。無理なくなんとなく独りよがりに曖昧を許容しながら思いを巡らせるウォーミングアップ的文章量。

「私はあなたにとって都合のいいものとして扱われたくない、私にもこころがある。」

当たり前だな。書くまでもない。非対称の関係であっても、というより非対称の関係であればあるほど前提が異なるのだから相手を尊重し、私はこんな感じなんだけどあなたはどんな感じか教えてもらえるかしらという態度が必要だと思う。

昨年からTL上で話題になっていた男性性に関する本を読むようになった。男性が著者のそれらは私が男女という非対称な関係をどう感じているかを意識させてくれた。著者たちだってそれをずっと意識して生きてきたわけではないだろう。むしろ意識してこなかったからこそ逡巡の末に書きはじめたのだろう。どこか後ろめたさを残しつつ、自分の生きてきた歴史のみならず自分が生まれる前から組み込まれている歴史に対する態度を模索するようにさらなる「誤解」が生じることを警戒しながら異質なものと共にあることをあらかさまな目的とはしないような書き方が印象的だった。当たり前と感じるか配慮と感じるか当たり前の配慮と感じるかなど色々受け取り方はあると思う。私は個人的には多くの男性は自分が持つ力にあまりにも無自覚だと思うことが多いが、無自覚であることに対して女性である私も自分が組み込まれてきた短くも(個人史)長い(人類史)歴史のなかでどういう態度をとってきたか内省する必要があると感じている。

共にあること、それが自然になされているのは胎児のときだけかもしれない。そのときですら「そうせざるを得ない」という感覚は生じているかもしれない。誰かと一緒にいる以上、避けられない傷つきと痛みに対してどのような態度をとっていくか。時代と歴史という観点をどのくらい自分の中に維持することができるか。書いているうちにそんなことを考えた。

短い。長い。文章は歴史と違ってそこに区切りを入れることができる。こんなダラダラな文章も手を止めればあっさり終わる。私は「〜しつづける」ことにそんなに価値も置いていない。それはそうせざるを得ないものとして無意識には常にあると考えるから。

今日もふつうに心揺さぶられたりふと冷静になったり色々あるだろう。行きつ戻りつの毎日を。

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精神分析

これまでもこれからも

これまでもずっとそうだったじゃん、とふと思う。

変な時間に起きて変な格好でうとうとしていら左腕が圧迫されて手が動くなった。数年前に橈骨神経麻痺になった時みたいに。今回はしばらくしたらバキバキながら動くようになった。

以前から身体がこわばりやすく、こんなときにこうしてタイプするのはほとんどリハビリだ。

今日は曇りときどき晴れらしい、東京。少しずつ梅雨に向かっているのだろうか。

人なんて変わらない。これまで何度呟いてきたことか。精神分析を何年受けても誰かが思うようにはその人は変わらない。その人自身は確かに変わるけれどそれが誰かにとっても変化とは限らない。

どうして変わる、いや、変わってくれると思ったのだろう。「きちんとする」って言われたから?「きちんとって何を?」って聞いたらまるで想像したのと違う言葉が返ってきただろう。だって、これまでもそうだったじゃん。自分のしたいようにしたいんだよ。全然変わりたいなんて思ってないんだよ。隠したいとすら思っていないと思うよ。したいようにしたいっていうのはそれをみてて、認めてってことなんだから。わかってたはずじゃん。

本当にそうだ。私はよくわかっていたはずだ。

痛みをそのまま伝えられる距離にいられるのは特別な立場の人だけだ、とひたすら痛みに耐えているとまるで人体実験だなとちょっと可笑しくなる。自分の情緒に振り回されながら強い衝動に突然涙をこぼしたりしながらそれを観察している。体験は共有されず適当な言葉でつなぎとめられていることを知っているけどそれでいいんだ、仕方ないんだ、と思いこむ。すごく悲しくて辛いけどもはや怒りも出てこない。相手との関係を諦めているというより自分の愚かさに諦めている。交流していないのだから一人相撲だけど。強い気持ちに打ちのめされながらもそこに入りきれていない自分に可笑しくなる。私がこんな気持ちになる権利なんてないんだ、と自分を責めるような言葉が出てくる。すると、いや、権利はある、と戒める私が出てくる。言葉を正確に使え、と。大きなお世話だ、と思うがそうだなとも思う。いろんな現実をききすぎたせいかドラマ的に感情を展開することさえツッコミが入る。権利はあるが人を傷つけるリスクが高いということだよね、と私は応える。一人相撲だけど。もう冷静になっている。さっきのドラマチックな感情は一体どこへ、と思うがまたすぐに出会うだろう。現実は変わっていないのだから。何も交流していないのだから。

交流しないのは怖いからだ、と知っている。その結果を考えれば怖い。でも少し先のことを考えればトライする価値も必要もあるのかもしれない。

悶々とした朝だ。なのにコーヒーも入れてチョコも食べた。いつもの朝だ。過剰になるな、ぞんざいになるなとこれまでの自分に戒められる。

これまでもそうだったんだ。これからもそうかはわからない。全ては暫定的で流動的だ。

遅くまで週末の仕事のやりとりをしていた仲間たちも寝不足だろう。毎日いろんなことが起こる。これまでの積み重ねでもうどうにもならなそうなことでも誰かが声をあげている以上無視もできない。自分の声より他人の声に対しての方が遥かに真摯になれてしまっている気がするがごまかしだなと思う。人体実験のようにではなく、衝動のまま、自分に対する観察やツッコミなど入れないまま突っ走れたらその瞬間は生きている実感を持てそうだ。でももう子供ではない。さっきまでの痛みはもうない。過剰にならない。ぞんざいにもならない。大丈夫。いつも言い聞かせるように。

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精神分析、本

男性性研究の本を買いに行ったら忍者のことも学べた。

NHK WORLD-JAPAN On DemandでNINJA TRUTH Episode

を見ていた、というか流していた。早朝からKUSARIGAMAとか聞いて何をしているのだ、私は。

昨日本屋へ寄ったときに東大出版会のPR誌『UP20226月号があったのでいただいてきた。表紙に「忍者」という文字を見つけた。金沢に忍者寺(妙立寺)というのがあって私はその仕掛けだらけのお寺が大好き。忍者大好き。それにしても忍者学というものがあるのか。と「忍者学への招待」という連載を読んでみた。今回は3回目「忍者の火器・火術」について。ふーん。忍者学というのは学際領域なんだな。これを書いた荒木利芳さんは三重大学の水圏生物利用学というのがご専門らしい。??…なんだそれは。三重大学のHPによると「水圏に棲息する魚介類を対象とし,それらの生産する有用物質の抽出解析並びに未利用資源の開発を行うとともに,遺伝子操作を用いた魚類の品種改良や微生物による生合成のための原理と技術を研究する。また,化学物質と生体の相互作用を分子レベルで解明し,その作用機序を細胞から生体レベルで明らかにするための技術やシステム生物学に関する教育研究を行う。」という学問領域らしい。世の中にはいろんな研究があるのだなぁ。それにしても「水圏に棲息しない魚介類」というのもいるのかな。「すいけん」とうつとやっぱり「酔拳」と出てきた。あまりテレビをみる子供ではなかったがたまにみる「酔拳」はべらぼうに面白かった。

忍者といえば伊賀、伊賀といえば?そう、三重。三重大学はすごい。三重大学国際忍者研究センターというのを持っている。本も出している。その出版記念シンポジウムの内容も多岐に渡りなんだか面白かった。もう素早く動けないのでそういう人にも使える忍術を教えてほしいしアナログ忍者ゲームもやってみたい。にしてもこういうのみると勉強って大事。物理学も生物学もわかってないと忍術なんて編み出せないじゃん、ということも楽しく学んだ。しかも冒頭に載せたのは英語なので忍者を通じて世界と繋がることができますね。

昨日、本屋へ寄ったのはレイウィン・コンネルの『マスキュリニティーズ 男性性の社会科学』(伊藤公雄訳、新曜社)を買うため。高い本だが男性性研究は今の時代追っておくべきだろう、私の仕事では特に。この本も「第一章 男性性の科学」の冒頭はフロイトの引用だ。著者は「ジェンダーに関する私たちの日常的な知は、理解し、説明し、判断すべき相反する主張にさらされているのである。」という。それはそこに複数の実践があることを暗示しており、その実践を支えている理論的根拠は何か、ということに目を向ける必要があろう、ということで著者は広がりを見せる男性性研究における知を紹介していく。まだ途中だがとても丁寧な本だと思う。

そういえば忍者学の皆さん、男性ばかりではなかったかな。忍者にはくのいちがいるけど。「万川集海」にも登場しているって書いてあったよ。精神分析の世界も男性社会ですね。IPAの会長は二代続けて女性なので少しずつ変わってきていると思うけど。私は男女の違いをとても感じながら生きているけれど精神分析における両性性に関する議論は転移状況において私たちが性別を超えて被分析者にとっての重要人物になっていくことを考えればもっと臨床と理論を掛け合わせたところで深めていけるもののように思う。そのためにもこの本は活躍してくれそうだ。

あーあ。このドアをひっくり返したらあの人がいる場所に行けたらいいのに。忍術が戦いのためじゃなく使われるような世の中にいつかなるかしら。願いましょうか、今日も。

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精神分析

夢現

目覚ましをかけなくても起きられるようになってからもう何年も経つ。老化だと笑われてからももうだいぶ経つ。最近は考えごとの中身が具体的なので眠れない夜は振り回されている自分がちょっと可笑しい。

やたら具体的な夢の途中でパッと目が覚めた。若い頃、どうしてあんなに不機嫌な寝起きだったのか。起きてなんとかキッチンのイスにたどり着くなりテーブルに突っ伏し寝ていたなんてこともしばしばだ。現代の機械だってウォーミングアップが必要なのに今の私は最初から熱いお湯が出るシャワーみたいだ。といったところでなんのありがたみも自分に感じない。寝た方がいいに決まってる。夢で作業をした方がいいに決まってる。

朝4時くらいにはブラインドの外はもう白くなりはじめる。マットを敷いた床でゴロゴロしながら空を眺め起き始めた鳥たちの声を聞きバキバキになった身体を重たく感じながら空想にふける。今日も少し寒い。

昨日見た夢。あれはなんだったのだろう。正確には昨日の朝を迎える前に見た夢。精神分析において夢は転移状況であり、とてもパーソナルなものなのだ。誰にでも話すものではない。精神分析状況で密やかに大切に扱われるそれは話すことでようやくこころに棲みつくことができるのだろう。

そのおかげで夢から覚めてすぐに家事ができる私でも微睡んだ部分を維持できる。だから何かをしながら空想することができる。覚醒しているのに夢現の身体のまま、私は多分ずっと私以上のことを感じている。きっとそれが今夜の夢を構成し、過去の夢を再構成するのだろう。ひとりでみた夢もすでに誰かとの出来事だ。私はそこを生きた覚えがないが夢では普通にそこで生活していた。

昨日の夢のそこは古いアパートだった。見たことも住んだこともない部屋の中がドアの隙間から少しだけ見えるアパート。分析で話せば夢の中の誰かが私にとっての誰でそこでの出来事が私にとってなんであったのかに自然と注意が向く。共有するとはそういうことだ。最近の私の考えごとがいくら具体的でも夢はそんなこととは関係なく知らない出来事を平然とみせてくる。私、そこで何やってたんだろ、あれは誰だったんだろう、それは夢で実際に見えたもの(矛盾)とは違う、というのが考える前提となっているのも興味深い。恋人が父親のようだったり兄弟姉妹が我が子だったりする。夢には様々な置き換えがある。

と書きながらも昨日見て、昨日話した夢のことを思い浮かべている。書かないけど。パーソナルなものだから。

朝はコーヒーを飲みながらチョコばかり食べてる。甘さ控えめ、厳選素材とあってもチョコはチョコ。この美味しさも歯磨きで流してしまうのにどうして食べるのだろう、と思ったけど変な問いだなとすぐに自分で引き取る。書いては消す、見ては忘れる、出会っては別れる、生まれては死ぬ、そういうものなんだろう。ただ、食べている間は、こうして書いている間は、夢を見ている間は、あなたといる間は、今こうして生きている間は私の存在は比較的確かで、誰かを感じながら考えたり心揺らしたりできる自分がいることに少し安心できるのだ。

今日も少し現実よりに夢見がちな時間を過ごそう。ひそやかに夢をそこそこに現実を。

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精神分析、本

悩める朝に

明るい。朝はとりあえずカーテンを開ける、というのは大切なことですね。内側がどうであれ外側くらい大切にしないと。

この前、ゲンロンカフェでやっていた安田登さんと山本貴光さんの「心を楽にする古典講義──『古典を読んだら、悩みが消えた。』刊行記念」イベントをアーカイブで見た。

昨年夏には安田登×玉川奈々福×山本貴光「見えないものの見つけ方」イベントにもいった。それは『見えないものを探す旅 旅と能と古典』刊行記念イベントだった。

安田登さんはとてもたくさん本を書いているんだな。今回の『古典を読んだら、悩みが消えた。』もとてもユニーク。今ちょっとエネルギーがないので書きたいことも書けないけど出版社のページをぜひチェックしてみて。と言いたいのだけど目次が載っていないのが残念。

「自分より強くてイヤなやつがいるなら」「自分の気持ちをうまく言葉にできないなら」「自分は陰キャだと思うなら」「コミュニケーションで失敗しがちなら」などなど私たちがよく悩む事柄に対して古事記、和歌、平家物語、能、おくの細道、論語を解釈しながら応えるという超難易度高い人生相談を安田さんは誰にでも読める形で実現してくれました、というかわいい表紙(中の漫画もかわいい)のすごい本。読んでいるうちになんか昔見たことあるあれ、聞いたことあるあれって本当はこういうことだったんだ、とか思っているうちに悩みにも別の意味が与えられて「まあこれでいいのかな」と思えると思います。お悩みがなくても私は夢の話とかすごく面白かった。能は特に興味深いなと感じます。ゲンロンのイベントで「みんな必ず寝るけど必ず起きるでしょ」(超雑な抜粋です、アーカイブでチェック)というようなことを安田さんが話していたのだけどこれ本当にそうで、この流れで話されたこともよかった。本では能は“「残念」を昇華する芸能”と書かれていてフロイトのいう個人的な無意識の産物とは違うよ、というようなことが書かれています。今は精神分析は個人のこころを集団的なものとして扱う視点があるので安田さんの書いてあることは本当にそうだなぁと思うのでした。

なんだか文章がバラバラしてしまうな、今朝は。いつものことか。私が悩んでいることもこの本にあるから読み直すことにしよう。

そうだ、昨年のイベントでは能の「忘却と疲労」のお話がとても印象的でブログにも書いた。コロナ禍だったけど現地で見られてラッキーだった。少人数で間近で見られた安田さんと玉川奈々福さんのおくの細道の実演は迫力とユーモアがあったし、一緒に声に出して読むのも新鮮だったし(今回のイベントでもやってたね)、山本さんがお天気のせいか何かで電車が止まっちゃって遅れちゃったことが起きたのもおくの細道の世界と相俟って面白かった。

朝から楽しかったことを思い出せたことに安心した、今。こころを集団として、全部私だけど全部私だけではない部分で構成されていると考える。変化しつづけていると考える。いろんなことは「変わらない」と感じられることの方がずっと多くて「もういやだ」ということばかりかもしれないけどこころを集団的かつ力動的なものと捉えれば綻びや虫喰いを見つけたときこそ変化のチャンスかもしれない。とはいえあまり思い切らずにいこう。行動化っていうのはあまりよくない、私たちにとっては。

ふー。なんとか今日も過ごしましょうね。東京は気温もちょうどよさそうです。

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仕事 精神分析

迷路

薄く窓を開けた。コーヒーも失敗せずに入れた。雨は静かに降ってるみたい。どこかに打ちつけるような音はしないけどまっすぐの通りを走り去る車の音が雨を引きずっている。

今日は新しい出会いがある。これまでいくつの保育園を回ってきたのだろう。何年もの間、一年に20園ほどを巡回してきた。主に0歳から2歳の子供たちをたくさんみてきた。今年は巡回の仕事を半分ほどにしたので担当する園を組み替えていただく必要があり、何年も一緒に仕事をしてきた保育園との別れもあったし、今日ははじめての保育園へいく。どこの園を担当するかは新年度にならないとわからないためお別れなどもできないが「来年も先生かはわからないんですよね」というのが毎年、年度内最後の巡回の日の決まり文句なので「そうなんですよ。また担当になったらよろしくお願いします」と互いを労って別れる。保育士にも異動がある。出会いと別れは当たり前なのでさっぱりしている。ただ、同じ区内で長く巡回を続けているとこっちの園でお別れした保育士と別の園でバッタリなんてこともあって偶然も楽しい。全て同じ区内の保育園なのでこれだけ何年も回っていれば土地勘も身につきそうなものだが、その駅自体は頻繁に利用していても知らない道の多いこと。こんなところにこんなものが、というのは昨日オフィスのそばを散歩したときもそうだった。

人もそうだよね、と急に思う。人なんて迷路みたいなもんだ、とかとりあえず思い浮かんだ言葉を書いてみるが、書いてみるとそんな気がしてくる。戸惑いながら「好きだ」という以外になんの確信ももてないまま一緒にいるようになった。だからいつでも時々迷子になる。見慣れた景色が見えて安心したかと思えば突然の事故で思考停止することもある。恋ほど理由なきものも先行きの見えぬものもない。精神分析バカの私はなんでも反復強迫だと思っているが、そんな言葉で説明する気にもならない色とりどりの情緒が、激しい衝動が、そこには溢れていることも臨床経験で実感している。

どうして、ばかり問う。自分にも相手にも、心の中で。こんなにくっついているのに、「なに?」と聞いてくれてるのに、言葉にすることができない。「なんで今?」「なんでわざわざ」「どうして私が嫌がると知ってるのに?」「どうしていつも」などなど。見て見ぬふりが増えていく。不安で眠れない夜を経験しても理由をいうことができない。恋は少なからず人を狂わせる。暴走したい気持ちに苦しむこともある。どうしてこんな苦しいのに。どうしてこんなに好きなのに。いや、好きだからだ。愛情は必ず憎しみとセットである、とフロイトだってウィニコットだっていってる。むしろ憎しみが生じない愛情関係をそれということができるだろうか、と思ったところで苦しいものは苦しい。不安や疑惑に苛まれるのも辛い。それを溶かすように、包み込むように安心させてくれる瞬間もたくさん知っているのに。

同じ傘の下でそっと指を触れ合わせながら「やまないね」と空を見上げる。このままやまなければいいのに、とさっきよりほんの少しだけそばに寄る。そばにいたい。あなたを知りたい。そんな気持ちがいずれなんらかの形で終わることもどこかで知っているが今だけでも、と願う。人なんて迷路みたい、というか人生が迷路ってことか。

東京は雨。さっきより屋根を打つ音が増えている。色も素材も形も全て異なる屋根を雨が打つ。鳥たちの鳴き声もいつもと違う。何を伝えているのだろう。好きな人の気持ちだってわからないのにあなたたちのことをわかるはずもないか。また、バカみたいだ、と苦笑する。恋は少なからず人をバカにする。抱えてくれる腕や胸や言葉を必要とする。どんな拙くても、どんなわかりにくくても自分の言葉でいってほしい。それがどんな言葉だとしても何かの真似っこのような言葉より目に見える物よりあなたがどんな感じでいるのかをいってほしい。

人を想うのは難しい。シンプルなことほど難しい。それでも今日もシンプルに考える。見えるもの、感じたことをたやすく複雑なものに変形しないように自分の限界がいくら近くてもそれを大切にする。先のことはわからない、なんていうことはどこの誰にとっても同じこと。あなたが大切だ。それでももっとも確からしいこの気持ちを胸に、今日も。

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俳句

珈琲分布地図

早朝からせっせと仕事。どうして今やっておけばいいのに、という時間はダラダラ過ごしちゃうのかしらね、とあんまり気にしていない感じで書けるのは締切を一日過ぎた作業を終えられたから。ダメですね。

とても高い声で鋭く鳴く鳥がいるのだけど毎朝聞いてるのにその鳥の名前を知らない。鳥の名といっても個別の関係ではないから呼ぶ機会もないのだけど「あの子は一体誰かしら」とは思う。

毎朝、スーパーでお得大容量みたいな感じで売ってるドリップパックのコーヒーを淹れるのだけど今日も失敗してしまいました・・。安物のせいかお湯を注ぐと肩というか腕みたいにカップに引っ掛ける部分が片方ちゃぽんと落ちちゃって粉がブワーっとカップ内に広がるという惨事、惨事というほどではないけどコーヒーの粉って細かいからちょっと面倒。ということで毎回両側を注意深く押さえながらそっと淹れることを心がけてる。不器用さがこういう失敗に拍車をかけてるから注意深く。もう子供の頃からなんだから大丈夫。ならどうしてさっき失敗したのー。どうしてかしら。そっと両側を押さえてゆっくりお湯を注いで「よし、できたー」と思って手を離したときに指に引っ掛かってしまったのかもしれない。なんか余計なことを考えた気もする。トポン、プワーッ。見慣れた景色。もはや「あ」とか「あー」とか声を上げることもせず「またやってしまったけど大丈夫」と心で呟きながら棚から茶漉しをだし、別のカップにコーヒーの液体(って書くのもなんか変だけど)のみを移しかえる。よし。茶漉しと最初のカップに残ったコーヒーの粉はやっぱり細かすぎるのでしっかり乾くのを待ってから捨てましょうね。乾くと匂い消しにもなりますしね、ということでサク山チョコ次郎(お菓子)と一緒にいただいております。

新涼の壁に珈琲分布地図 岩崎照子

1980年、牧羊社から出版された句集『二つのドイツ』から。

確かに珈琲専門店に行くと地図が貼ってある。私はそんなに味にこだわりがないので「酸味が強くないのがいいです」くらいをお伝えしてお店の人に教えてもらっておすすめを買うときもある。でもコロンビアがちょうどいい感じというのは覚えたからそれを買う時もある。

あぁ、コーヒーの生産国のこと。大学時代の友人がホンジュラスで働いていた。ホンジュラスの教え子たちの労働のことも聞いた気がする。今こうして思い出したのだからきっと大変な状況を聞いたのだろうと思う。水を出すとかそういうところから一緒にやっていたように思う。彼女の明るくのんびりした口調とかわいい笑顔と子供たちとの楽しいエピソードしか思い出せないせいかその深刻さは教科書的知識で後付けするように思い出さねば、という感じになっている。

珈琲分布地図は労働の場所の地図でもある。爽やかな夏の朝に鳥の声を聞き分けようとしコーヒーを失敗しながらも入れ直す。今ちょうど月刊「母の友」2022年7月号の特集「涼しく楽しく!夏をのりきる」の表紙を見た。とても素敵。みんなでスイカを食べている。平和にも幸せにも色々あるだろう。「〜だから不幸」と決めつけることはできないように思うし、戦火の中、心で守る小さな平和は紛れもなくそうなのだろう。でも季節をいちいち楽しみながら他愛もないことを他愛なく繰り返せることは決して当たり前ではないんだな。すぐに忘れてしまう考えるべき問題を少し思い出せてよかった。

Tちゃん、元気かな。帰国しておうちに遊びにいっていろんなおしゃべりをして以来会っていないかもしれない。どこかで小学校の先生をしていると思うのだけどまた外国で似たような仕事をすると聞いた気もする。

みんなそれぞれの場所でどうか元気で。

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精神分析

限りあること

また後出しジャンケンさんが上から目線でなにかいってる。夜中にも投影先を探し続けていたらしき方々のRTのせいで追ってもないのに目に入ってきた。当事者である彼らもまたこれをみるのだろうか。

特定の親子とか男女を「こういう人たちって大抵こう」みたいに語れるほどあなたはその関係を生きてきたのだろうかと言いたくなる。そこがどれだけ複雑で知れば知るほど外からは何もいうことができない世界か少なからず体験しておられると思うのだけど、と言いたくなる。体験していないとしても研究者としてはそういうことをとても弁えておられるようだからその知性と言語能力でかっこ付きでもいいから「想像力」を作り出してみては、ご自身の中に、と言いたくなる。安全な場所からの暴力については前にも書いた。

今も私たちと同じように大きな葛藤を抱えながら生きているペアにどんな課題があるとしても彼らも私たちも生きていかなければいけない。大勢の人に刃物をちらつかせるように言葉を使われては二人の間でなら考え直せたかもしれないものも別の何かにすり替わってしまうだろう。いつ代弁をお願いしたっけ。もちろん彼らにそんな「つもりはない」のだろう。「会えばいい人」なのだろう。

投影と行動化、自分で自分を抱えることができず素朴に素直に吐き出された言葉を「そのつもりなく」利用してしまうこと、私たちがよくやることだ。「あなたが言えないなら私が言ってあげる」と吐かれる言葉は大抵その人が言いたいことではないだろうか、と外からみれば思う。

あいつのせいでこうなった、と声を震わせ叫ぶように話す人と共にいる。これまでそれが当たり前だと思っていた。でもこう話してみればそうじゃなかった。子供の頃からあいつらのせいで自分は自分らしく生きることができなかった。なのにどうしてあいつらじゃなく自分がこんなところに時間とお金をかけなければいけないんだ、変わる必要があるのはあいつらだろう。

強い憤りに圧倒される。そうかもしれない。そうなのだろう。でもここにきたのはあなたでそう思ってしまう自分自身を変えたいといったのもあなたなんだ。いい悪いの話ではない。正解や間違いがあるわけでもない。確かに「あいつら」があなたにしてきたことはひどい、ひどすぎる。でも今、あなたがこれまでとは違う感じでそんなに怒っているのは「あいつら」を変えることはできないと実感したからではないか。それが何よりも辛いのではないか。悔しいだろう。苦しいだろう。だから今こうしてこれまでに感じたことのない憤りをあなたは感じていて私に対してもそれを向けている。

絶望と憤りを繰り返すうちに「もういい」という言葉が出てくる。順番でいけば彼らが先に死ぬだろう。私は死ぬまであいつらへのこの怒りに囚われていくのだろうか。そんなのはごめんだ。なんであいつらのために私がこんな辛い想いをして時間を割かなければいけないんだ。もういい。

そしてまた怒り出す。おさめようとしてはぶり返す暴力的なまでの衝動がかろうじて行動化しない形で私に向かって吐き出される。幼い頃からこれまでの体験がいくつもいくつもその時の実感を伴って私相手に繰り広げられる。二人でいるとき以外は決して体験できない激しい情緒に突き動かれその背後に広がる無力と空虚にものみこまれる。これはあなたの問題だ、ではない。これは今や私たちの問題だ。二人の問題だ。ようやく私たちは「あいつら」から自分たちを取り戻す。

これまで誰かと体験を共にしたことなんてなかった。暴力を振るわれずに言葉を吐き続けることなんてしたことがなかった。それが当たり前だと思っていた。だから私はこんな大人になってもまだどう話していいかわからない。私は子どもに戻ったような彼らの言葉を聞き続ける。あの饒舌はもうない。辿々しく曖昧にしか言葉を使えない、それでも以前よりはずっと安心した様子で話す彼らを観察しつづけ、ときどきなにかを伝える。

激しい痛みを体験している人を前にまずすべきは沈黙だ。彼らの言葉を聞き彼らをがんじがらめにしている糸の様子を調べるように論理的に言葉を使う。断ち切りたい関係ばかりではないだろう。断ち切れない関係ばかりでもあるだろう。関わることで生じる新たな傷に対しても注意を向ける。反復は常に生じる。そこで共にいる。それは外側から何かをいうことではない。自分も生身の人間として多くのものを引き受けていく。傷や痛みと関わるというのはそういうことだと私は思う。それができないのなら言葉ではなく物理的な援助やそれが有効に活用されるようにマネージメントを行うべきだろう。

それぞれに事情がある。状況はそれぞれだ。あなたのことを知りもしない人の言葉に振り回されずにいこう。時間と労力を割くべき対象ではない。あなたの時間も私の時間も限られている。共にいる時間はもっと限られている、物理的な意味では。共にいられるうちにできることをしていこう。「人から見たら」「みんなは」と言いたくなるだろうけど言ったところで、だ。

私もだいぶ白髪が増えた。苦労してるからだよ、と気遣ってくれる人もいるけど単にとしをとった。時間に限りがあることをだいぶはっきり認識できるようになった。今更だけど。だからこそなおさら地道に、と思う、今日も。

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読書

詩集『ひのひかりがあるだけで』さわださちこ

最近の家電はなんでも音楽だな、と洗濯が終わった音を聞いた。「最近の」とかいっているが最初にそう思ったのはもう随分前のはず。月日が流れるのは早い。

昨年春、友人が編み物で作った作品を届けにきてくれた。私たちが卒業した大学に講師として勤めながら作品を作り続ける彼女と昔話をするなかでさっちゃんが自然豊かな土地へ引っ越したと聞いて驚いた。彼女たちは以前二人で詩集を出していた。その詩集は賞を取って授賞式のときの二人が写ったポストカードを私も持っている。詩集もいただいた。『ねこたちの夜』という詩集だ。

毛糸で編まれた薄い紺色の夜に大きな三日月の下、影を作ってたたずむ猫の表紙がとてもかわいらしく、掌サイズのそれを開けばさっちゃんが願う通り” 今の自分が本当にかきたいことを、子どもにもわかるやさしい言葉で”書いた言葉がたっぷりの余白に優しく配置されていた。詩集は余白が多いのがいい。そういえば山本貴光さんの『マルジナリアでつかまえて2 世界でひとつの本になるの巻』(本の雑誌社)に詩集は出てきただろうか。詩集の余白は余白という文字な気がするのでそこに書き込むとしたら上書きになってしまう、など一瞬思った。

「ああ 今日も

きみに おはようが言えた

そのことが こんなにもうれしい」

ー「こまる」より抜粋 『ひのひかりがあるだけで』さわださちこ

さっちゃんの10年ぶり2冊目の詩集からの引用だ。昨日、帰宅したらポストに入っていた。ありがとう。さっちゃんの字、変わらない。

やっぱり表紙は猫。今回はやぎ公さんというさっちゃんが惚れ込んだという画家さんが描いている。

「ねこで よかったね

なんにも しんぱいしないで」

ー「ねこは」より抜粋

クッションにすっぽりとおさまりなんの心配もなさそうな顔で眠る猫が本当にシンプルな線だけで描かれている。さっちゃんの猫でよかったね、こんな素敵な詩集にも登場してるよ。

ウクライナの猫たちが浮かんだ。先日、瓦礫となった街を紹介する記者が放送中に猫を見つけ戦争が始まって以来はじめて笑ったというようなことを話していた。

さっちゃんの優しい視線を思い出す。さっちゃんはいつも微笑んでいた気がする。のんびりとはっきりとしたことをいうイメージ。きっと今もそうだ。私の友達はマイペースでのんびりとしている人が多くてこうして作品を作る友達は特にそうだ。

「だれにも おそわることなく できたこと

そして やすみなく つづけてきたこと

すーはー すーはー

すって はいて すって はいて」

ー「いき」より抜粋

さっちゃんは「子どもにもわかる言葉で」というのをいつも心がけている。この場合の「わかる」は知的な理解という意味ではないだろう。あなたの生はいつも肯定されている、それが伝わりますように、というさっちゃんの願いだ。私はそう思っている。

<詩集>

ひのひかりがあるだけで』さわださちこ 詩・やぎ公 画

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読書

蜃気楼という真実ー村田沙耶香『生命式』

村田沙耶香『生命式』(河出文庫)は私にとって名言集だ。

「あそこってさ、誰も、着ぐるみの中の人の話しないじゃん。皆が少しずつ嘘をついてるだろ。だから、あそこは夢の国なんだよ。世界もそれと同じじゃない?みんながちょっとずつ嘘をついてるから、この蜃気楼が成り立ってる。だから綺麗なんだよ。一種のまやかしだから」

本当にそうだと思う。とかいってみるが、この台詞が吐かれる世界はぜひ本で体験してほしい。自分では絶対に想像ができない出来事がそこでは繰り広げられている。

これも全くそうだと思うので引用する。

「だって、正常は発狂の一種でしょう?この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います。」

この時代、セックスは受精と呼ばれている。花粉のような私たちはただ数を増やすために受精する。死んだ人の生命を美味しくいただきながらときどき涙したりして。

「本能なんてこの世にはないんだ。倫理だってない。変容し続けている世界から与えられた、偽りの感覚なんだ。」

わかったような、正しそうな怒りの言葉もそこが狂気の世界なら儚いものだ。偽り?正常?それが何?村田沙耶香の小説の登場人物はそれぞれの快楽に恐ろしく素直で本当に恐ろしくも可笑しい。その快楽がその人のものかいつの間にか押し付けられたものかなんてどうでもいい。それはもうそうでしかないものとしてそれぞれに生きられていて私たちは内臓になったりたんぽぽになったり「自分」とか「本当」とかそんなものは問われない世界に迷い込んで混乱し発狂する。

私は気持ちが混乱して辛いとき村田沙耶香の小説を読むと安心する。なぜならそこは自分では到底辿り着くことのできない狂気の世界だからだ。混乱を感じるうちはまだ辛いかもしれないが発狂し快楽を快楽と言わずただ体験しながら生きる。そんな恐ろしい世界はまだ私には遠いのではないだろうか。いずれ一気に近づくのかもしれないが…。これら短編を読み終わるごとに「戻ってきた」という感覚をもてることが多分私を安心させるのだろう。

さあ、今日もまだここまでは狂っていないであろう社会で仕事をしよう。人と会おう。笑ったりサボったり眠ったりしよう。それがいずれ全てまやかしだと言われても。

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眠れない夜を

人の嫌がることをしない、というのは難しい。誰かを喜ばせることが別の誰かを嫌がらせることもある。相手が何を不快と感じているか知っていてもどうしても自分の快を欲してしまうのも子供のままの部分だろう。子どもがいたり介護が必要な家族がいたりすればいつの間にかその性質が変わるかというとそうでもない。人はそんな簡単には変わらない。ただやらざるを得ないことが増えれば時間もないので守られる必要がある方が優先されるのは当然のことだ。

もちろん「人はそんな簡単に変わらない、子どものままの部分がある」ということが非対称な関係で生じる侵入や搾取の理由になどなるはずはない。私は家族的な関係を仕事にしているので思い浮かべているのは大体親密な関係だ。親密な関係に巧妙に偽装された搾取的な関係もあるが家族的な関係になればそれはすぐに暴かれることが多い。生活を共にすることの力は大きい。気持ちいいところだけで付き合えない違いだらけの人間たちが空間と時間を共にしていく。日々葛藤し否認し行動化しながらもなぜかそれを維持していこうとするこの生き物らしさ。それはやはり子どもという存在に向けられた本能のように思う。相変わらず寂しがりで構ってもらいたがりの大人の中の子どもに対しても。誰かを大切に想うこと、特定の誰かを愛すること、それは自分の一部を相手に開き委ねることだ。誰にでもはできない。直感的に選択される関係のなかで私たちはどれだけ相手を大切にできるだろう。多くの失望と絶望によってその選択は間違っていたとようやく気づいたとしても一度委ねてしまったという事実を取り消すことはできない。うんざりして苦しくて泣きながら皮膚をかきむしっても食べては吐いてを繰り返しても無理は無理だ。自分に同化してしまった異物はモノではなかったのだから。

取り消せずに上書きされ深くなった傷に絆創膏を貼るように。今はまだそんなものでは到底足りないとしても。いずれ瘡蓋に、何度もかき壊したとしてもいつの間にかそれが剥がれ落ちてくれますように。そしてまた自分の愛する能力を信頼できますように。願う。それを使うことができる関係を今度こそ選択できますように。願うことさえ勇気がいることだとしても。未来の存在へと向かう私が大人になりたがる私が子どもへ向かう私がそこに生きていますように。眠れない夜をただただ願い続けることで明日へ。

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郵便局

大急ぎで資料を仕上げた。今日は絶対に郵便局に行かねばならない。それにしても暑い。鳥は元気そう。元気かどうかわからないけど空を飛べてよく届く声で鳴けるくらいの状態ではあるらしい。あ、いっぱい鳴き出した。いっぱいというのは鳥の数ね。一匹がピーピーピーピー(私だとこんな単純な音にしかしてあげられないの残念だけどみんな知ってることだもんね)たくさん鳴いているのってあまり聞かないかな、そういえば。

郵便局へは1通が速達。毎月提出しているものなのに速達料金があっているのか不安だからみてほしいけど午後までいく時間がないから自分でー速達ーって書いてポストに入れるか・・。これ何年もやってるんだけどこんなこといってられるのって通り道だけでもいくつかの郵便局があるからかも。そうでなければいくら大事な書類だからって毎月決まって払っている料金くらい覚えて自分でさっさとやるはずだから。田舎だとすごく近い距離でも車でいくよね、と助手席からの景色が思い浮かんだ。郵便局は進行方向左手にあった。そこまでに信号はない。一軒一軒全て思い出せる程度の近さだ。それを横切る小道にはそれぞれ小学校の時の友達の家がある。誰が住んでいるかはもうわからないけれど。助手席の私は車が止まるとパッとドアを開けて小走りにポストへ何かを入れるか、郵便局の中のいつもの郵便局員さんに何かをお願いして走って母が待つ車へ戻る。今思えば急ぐ理由は特になかったと思うのだが母は何かと早く済ませたい人なのだろう。何かと急かされていた気がする。私も何がなくともすぐ走ってしまう落ち着きのない子供だったのでそういうペアだっただけかもしれない。のっぽさんのようなおじさんがひとりでやっていた「ストア」はそのおじさんの苗字で呼んでいた。「Iさんのところでこれ買ってきて」とか。Iさんの店は信号のある交差点にあったけどいつの間にかコンビニに変わった。郵便局の向いには檻があって何かを自営しているおうちだった。そこのアヒルと少し遊んでから帰るのがいつもだったがそれももう40年近く前の話だ。郵便局は数年前に移転した。周りが変わりゆくなか、いつまでも私が小さな頃のまま佇むようにそこにあった小さな小さな郵便局はバージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』のようだった。

今日はどちらにしても郵便局に行かねばならない。大阪の古本屋さんから届いた本が「上」だったのだ。私がお願いしたのは下巻だったのだけど。「上」は「ゆうメール」で送り返してと言われたのだけど「ゆうメール」って中がわかるように一部封筒開けておいたり透明にしたりしないといけないみたいで本だからちょっと開けるとかも嫌だし一応濡れたりしないように送ってきてくれたままビニールにはいれるけど郵便局で中身が確認できればいいみたいだからそうしようと思って。これだけなら急ぐ必要はないから午後にのんびりいけばいいか。その時間は暑くなりそうね。

と朝から友達に話すような他愛もないことを書いているが理由は特に考えない。朝の短時間をこうするのが日課になってしまった。私が他愛のないひとり喋りをしているうちに鳥たちはもう遠くに出かけていってしまったようだ。一羽の鳴き声しか聞こえない。いってらっしゃい。私もいくよ。今日もきっと色々あってそれぞれがいろんな感じ方をしていろんな思い出と触れ合ったりいろんな未来を思い描いたりするだろう。いろんなことは今日で終わるわけではないはずだからなんとか過ごしてみよう。

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読書

清水晶子著『フェミニズムってなんですか』をざっと読んだ。

清水晶子著『フェミニズムってなんですか?』(文春新書)の「はじめに」にこう書いてある。

”この本は「フェミニズムとは何であるのか」に対してひとつの正解を提示することを目指してはいません。そのかわりにこの本が目指すのは、社会や文化の様々な局面において、女性たちの生の可能性を広げるためにフェミニズムは何を考え、何を主張し、何をしてきたか、何をしているのか、その一端を振りかえり、紹介することです。”

そして「何かをしたい、何かをしなくちゃ」と感じたときに「やってみる」を駆動する燃料になれたら、と著者は書く。

最初にフェミニズムの基本は①その対象は社会/文化/制度であること②おかしいことはおかしいということ③「あらゆる女性たちのもの」であることが確認され、フェミニズムの歴史における四つの波が簡潔に説明される。フェミニズムを著者がするように”「女性の生の可能性の拡大」を求める思想や営み”と位置付ければそれは日常生活のあらゆる局面で生じているものだろう。そのためこんなコンパクトな本にも関わらず社会/文化/制度それぞれの観点からのトピックが取り上げられ、今まさに議論されるべき事柄が提示されている。同時に、3人の女性との対談が挟まれ、それらが持つ個別性、具体性がある種の柔らかさをこの本に与えているように思う。「おかしいことはおかしいということ」の逡巡は女性が置かれてきた状況や歴史だけでなく、人間誰もが持つ傷つきやすさとの関連で考えることも大切だろう。それらは外に向けて表現される前にまずは安心できる場所で表現される必要がある。声を上げることで同じ傷つきが繰り返されそもそもの自分の欲望や願いを見失うようなことは避けたい。

私は今、臨床心理士の資格認定協会に対する要望書を提出するために署名活動をしているが発起人は皆女性である。精神分析家候補生の会の三役もしているがそれも皆女性である。どちらもたまたまである。

そんなに悪い時代ではないのかもしれない。こんなたまたまが生じるなら、とも思うが現状をみればそんな希望は楽観的なのかもしれない。もちろんこういう小さな希望が小さな抵抗を支えるに違いないと私は思っている。戦う女性たちの傷つきをみて、ものいえず傷つき続ける女性たちをみて、その両方の部分を持つ個人として私もやはり傷つきながらあり方を模索する。揺れ動きつつも考えるのを諦めないためには様々な支えが準備される必要があるだろう。こういう本もその一つにはなると思う。それぞれが個別の体験を大切にしてもらえる場所や相手を得られることを願い、自分にできることを探す。

ため息も多い毎日だ。しかも今朝の東京は雨でなんだか憂鬱だがため息をつきながら「憂鬱だ」といいながら過ごしていればそうではない瞬間も訪れるだろう。ずーっと同じことを言い続けたりやり続けたりすることも案外難しいものだ。

今日も無理は無理としつつも諦めずなんとか、と思う。

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言葉は難儀

昨晩、スーパーで安くなっていたスイカを買った。美味しい。むくみにも効くらしい。夏じゃのう、秋の季語だけど。わかりづらいから夏でもOKな季語にしてほしい。もちろん先生によっては全然OK.俳句の世界も大変じゃのう。

ものすごい詩歌とか文章とか書けて溢れんばかりの知識を自由自在に使いこなす人たちがたくさんいて彼らの話を聞いたり作品をみるととても感動したり感心したりする。

そして私は作品は作品だと思っている。そうでないと悲しくなってしまうことが多いから言い聞かせるようにそう思う。どうしてこんな詩歌を作れる人がこんな言葉遣いでこんな露悪的に、とかどうして外向けにはこんな優しく楽しい先生がこんな反射的に他人の言葉をひっくり返しに、とか。憧れの作家とかとプライベートで知り合いになる機会が少ないのは幸運なことかもしれない。幻滅したくない。といっても今は憧れの作家がいない。いやいる。朝吹真理子さんとか村田沙耶香さんとかか。彼女たちには幻滅しなさそうだけど、とかなってしまうのがファンの悪い癖だ。私は彼らのことを何も知らないではないか。理想化で繋いでる希望なんていくらでもあるから悲しいし切ないのだ。

私が「あーあ」と残念に思ってしまう彼らは言葉を追求して言葉で仕事をしていくうちに目の前の相手が自分の作品には登場しえない部分を持つ他人だということを忘れてしまったのかもしれない。自分の広大な世界に引きこもって「自信」に支えられたナルシシズムでその世界観とやらを守っているのかもしれない。もし私が彼らの家族や恋人で「どうして」と感じてしまったら絶対言ってしまう。「そんなにたくさんのことを知っていてそんなにたくさんの人の気持ちがかけるのにどうして目の前の私のことは知ろうともしないのかな」と。それすら言葉で言い返されて「今のそれを言ってるんだよ」とさらにいうかもしれないし悲しくて暴れ出したくなる気持ちをドアとかにぶつけて一人でやけ食いとかするかもしれない。

言葉は難しい。

先日もはじめて読んだ作家の本がとてもよくてついその人のことを調べてしまった。そうしたら過去の論争というか素人からみれば「言葉の世界の人はなんでもかんでも言葉にしないといけないから大変だな」とポカンとするようなことが書かれていて作品に対する感動が少し冷めてしまった。いろんなことをいう人たちがいるが私は作品は作品だと思う。もし私の身近な人が作家デビューしたとしたらその作品を全て読むだろうし買うだろうし書いていること自体を尊敬すると思うがその作品に対する評価は読者としてするだろう。こういうことを想像しながら好きな作品を作り出した人のことも考え続けてしまうのはすでにほとんど(恋)みたいなもんだが(恋というのはそもそも最初からカッコ付きみたいなものかも)出会いを一気に理想化してしまう心性をどうにかしたい。「あー無理」と爽やかに距離をとれるようになりたい。私の経験上、多くに人にとってそれは難儀だ。

あと厄介だなと思うことがひとつ。もし私の家族が作家デビュー(ほぼありえないからちょっと笑いながら書いているのだけど)したら彼らが作家になったあとの喧嘩とか「ものを書く人がそういう言葉使うんだ。相手のこととか考えないとものとか書けないのかと思ってた」とか嫌味なことをいうに違いない、だってここでサラサラとこんなセリフを書けてしまうのだから。

とにもかくにも言葉は難しい。でも、大体の人は今日も誰かと言葉を使って色々するのだろう。難儀やなあ、と使えない関西弁みたいな言葉が出てくる。まあ、やりとりは継続する限り修正もやり直しも可能な場合が多いので色々すれ違ってものんびり構えていきましょうかね。

今日もじわじわ暑くなってきた。なにはともあれ身体は大事。どうぞお気をつけて。

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読書

佐藤亜紀著『喜べ、幸いなる魂よ』(角川書店)を読んだ。

佐藤亜紀著『喜べ、幸いなる魂よ(角川書店)を読んだ。

読み始めてすぐなんだか雰囲気が違うと感じた。それほど多くの物語を読んでいるわけではないので自分が何と比較してそう思ったのかはわからない。そこには歓待を当たり前のものとする人たちがいた。親が死にある家族に引き取られた主人公、といったときに思い浮かぶような言葉はこの家族にはない。同じ年頃の双子の姉弟ともありがちな葛藤も生じない。歓待というほど大袈裟なものでもない。他者を違和感なく受け入れるその態度こそ違和感と感じる人もいるかもしれない。主人公はごく「普通」の人間だ。私たちは彼の行動や思いに対してなんら違和感を抱くことはないだろう。思春期になりそれぞれの距離は少しずつ変わりはじめる。彼は世界の全ては探究の対象である好奇心旺盛な双子の姉に恋をし、彼女は生殖と繁殖の終わりなき反復を見つめながら実験としてのセックスに彼を誘う。方法と結果を記録するようにセックスを試みる彼女が時折身体が感じたままに吐く息を愛おしく感じる彼はすでに彼女の全体を愛している。大体の場合はこうなるという推測通り彼女は妊娠する。全ての事態に対して落ち着いてみえる彼女と大体の人はこうなるであろう彼の心の揺れは対照的だ。彼と我が子とではなく女性信徒たちと共同生活を営む彼女と彼女との生活を望みつつ様々な欲望に揉まれる彼の生きる俗世間を断絶する塀は名前と顔を忘れない門番のおかげで限定的に行き来可能だ。それぞれのモノローグは彼らがそれぞれのスケールで実直に論理的に人を想うことができる人間であることを明らかにしており胸をうつ。誰もがもつナルシシズムの蠢きに彼らが囚われないのはその愛する力故だろう。彼は彼女のあり方に苦悩しつつも彼女が跳ね返せるほどの侵入しか試みずその世界を尊重する。彼女は彼の想いを十分に認識しつつも女性であることで自由に表現できなかった類稀な知性を弟の名を借りて現状を変える形にしていく。十分に理解し愛しながらも直接的には応えず自分の欲望を自己でもあり彼でもある他者への未来に投資する彼女とそれを抑制的に見守る彼が織りなす関係は緻密で美しい。切ないが周りがどんどん死ぬなかで生き残り離れていても共にいられる時間が続くのがせめてものなにかという気がする。二人の子どもは早くに彼がひきとり彼女が親であることを知るのはだいぶ大きくなってからだ。子どもはそうとは知らず積み重ねてきた出来事もそうと知る場面自体も彼ら二人が親としても十分に生きてきたことを示すものだった。

どちらかの性に生まれた私たちが自分も相手も今も未来も過去も大切にしながら生きていくということはどういうことなのか、こういうことなのかもしれない、とこの本を読んでじんわり感じた。

知識は当然大事で勉強はしたほうがいいに決まってる。でもそれはあくまで人との間で生活を営むときに必要だからではないだろうか。彼らが歳をとりそっとお互いに触れるときそこには性を超えた交わりがある。共にありつづけるための模索とその価値を教えてもらった。そう感じられた本だった。

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精神分析

ずっと学級委員だった。ひどく荒れた小学校で。なんの役割も果たしたことはないと思う。隣のクラスの体育教師はいつでも私のクラスに駆け込む準備ができているようだった。彼がくると私たちは喜んだ。細身で優しくサングラスの似合う先生だった。なぜ教室で彫刻刀が飛び交うのか。私も怪我をしたことがある。そんなクラスだった。私はたまたま自分に当たったそれにブチ切れて投げた男子をボコボコにしたかどうかは忘れたが即座に立ち向かったのは覚えている。それが私たちの刺激ー行動パターンだった。ほとんど動物だった。なので、というわけではないが出来事の詳細は覚えていない。ただのパターンだった。4年生のときの担任はやめてしまった。私たちに耐えかねたらしいことはなんとなく聞いたように思う。数年後、大人たちから「あの先生にもね」と聞いたときは不思議な気持ちになった。理由など考えたことがあっただろうか。あったとしてもそれがなんだろう、と今もぼんやりするところがある。休み時間になれば校庭に出てサッカーをした。年に数回しか降らない雪の日の雪合戦では石を混ぜるヤツがいた。私たちは仲がよかった。暴力を受けている子を助けに向かったことも何度かある。暴力をふるっている子も友達だった。どうしてここにこんなというような短いカーブのような階段を登り短い言葉をいって彼らを連れ帰った。こう書きながら思うのは私はいまだにこれらに対してあまり考えることができないということだ。そしてそれをする気にもならないということだ。ドラマで見るようなことはどんなひどいことであっても意外と現実で起きている。近隣の高校はある学園ドラマのモデルになった。ひどく荒れていたからだ。今となれば幾人かの友人は相当暴力的な家庭にあったことも知っている。そんな日々は淡い恋心や親友との三角関係や大人の事情による突然の別れなどにも彩られていた。「夜逃げ」という言葉もあとから知った。今になっても私はそれらが事実以上のなにかだとは思わない。意味づけを拒否しているのだろうか。専門家としてだったら「ひどく暴力的な環境で育って」とか一言にするのだろうか。するだろう。まずはそう位置づけてそこからその出来事が今のその人にとってなんだったのかを考えていく。その繰り返しをするなかでその出来事が別の姿をみせてくる。それを今は知っている。私の仕事でならするだろう。絵画のようだ。同じ画面である景色は前景に、ある景色は背景として塗りつぶされたり上書きされる。そこは実は層になっている。精神分析は重層決定という考え方をするということはすでに書いた。でも仕事を離れた私は過去の出来事に対して何かをしようとは思わない。それはそれだった。今日だってそんな出来事の集積として昨日へと変わっていく。いろんなことがだからなにというわけではない。だからといって大切でないわけではない。むしろだからこそ大切だ。意味を与えるのは誰か。それを必要としているのは誰か。もしするならその人を断片化するのではない方向へ。

今日は土曜日。ようやくお休みという人もいるだろう。なんだか暑くなりそうだ。窓辺でこうしているとじわりと気温が上がるのを感じる。彼らはどんな1日をどこで誰と過ごすのだろう。まだ生きていてほしいし元気でいてほしい。

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精神分析

風も雨もあなたも。

強風にブラインドが揺れ、向こうの部屋のドアが軋んだ音を立てバタンとしまった。こんな早朝に。ギィという音がしたときにきちんと閉めればよかった。洗濯機は何事もなかったかのようにリズミカルに回っているらしい。水が回転する様子を思い浮かべられるのはこの音がそれと知っているから。もし知らなかったらこれをなんの音だと思うのだろう。

風の音はなにかと重なって聞こえてくる。ブラインドを持ち上げ、鳥の声と混じり、時折鋭く空気を切り、草木を揺らす。全て違うのに「風だ」と感じる。私の故郷は空っ風で有名だが(辛かった!)そういう季節の風というのもある。触れながら動きながら音をさせてはそちらを振り向かせそうしたときにはもういない。人を正気にもびくつかせも怪我させたりもする。もちろん彼ら(風)にそんなつもりはない。

また雨が降り出した。昨晩は随分激しく降り始めたなと思いながら布団に潜りこんだがこれは夏の雨だ。空から真っ直ぐ静かに大量の水が落ちてくる。音が強まっていく。窓を閉めようか。風はやんでいる。「風邪は病んでいる」と自動変換されたがそれはそうだろうと思う。

私が空を見上げると「鳥?」と聞かれた。私は頷く。一緒にいるときに急に空を見上げる理由なんてそんなにはない。たしかに音のする方へ素早く目を向けたつもりだったがもう去ったのか、私の目が見つけられなかったのかその姿を捉えることはできなかった。

「なに?」と聞かれて「ん?なにもいってないよ。」という。「何か聞こえた?」と笑うときもあれば「私、何かいった?」というときもある。自分のことがもっとも疑わしい、と昨日書いた。

無意識は私になにをさせるかわからない。精神分析を受けはじめて数年はそれと出会うたび愕然としたり悲しくなったり自分に失望したり失望させる相手に怒ったりした。今は大体のことは自分のコントロールの外にあるけど、大抵のことはなんとかなるように無意識が構造化されている、お互いの言葉の曖昧さによって、と考えるようになった。なのでこころにかなり負担を強いられていると感じても「これを私の無意識はどう扱うのだろう」と無意識的な好奇心と意識的な不安を感じつつじっとその場で持ち堪え、委ねるようになった。何かを変えようとするのではなく自分のこころの動きや考えが何かを組み立てようとしては壊しまた組み立てようとするのをじっと追うようになった。精神分析は無意識を想定し重層決定という考えを導入した。何かあってもいずれ回復する、不幸をありきたりの不幸に、というのを物足りなく思うかもしれないがそこそこにほどほどに曖昧さを残しておくことが異物や他者を受け入れる場所を作る。ナルシシズムをナルシシズムと気付かされるときの耐え難い痛みを回避して引きこもり、似たような相手と自分の世界を構築するのも悪くはないかもしれないが客観的にみれば苦労は多い。無意識に身を委ねるというのは他者との関係に身を委ねることでもある。他者にではなく、他者との関係に自分を開いておくことであって依存とは異なる。

それにしても外はいつの間にか土砂降りだ。今日は移動が多いので少しは弱まってほしいな。と思ったら雨の音が弱まって鳥の声がまた聞こえはじめた。このまま止んでほしいなあ。人はすぐに欲張りになる。

今日も誰もよんでないのに振り返ったり、なにもいっていないつもりだったのに誰かに問い返されたりするのだろうか。きっとするだろう。こころに場所がある限り風も雨もあなたの存在もそれぞれの仕方で私を通り抜けて何かを想起させ愛しさや切なさや独り言のような呟きを生むだろう。

おはよう、と空へ向かう。東京は雨だけどみんなの場所はどうだろう。それぞれに良い一日でありますように。

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精神分析

きつくしんどい毎日

大きな息を吐いて目の前の人が力を抜いた。こんなふうに感じるのは自分だけなのではないか、こんなこと考えるなんて頭がおかしいのではないか、私たちは日々自分自身を疑っている。

その人は胸を撫で下ろしまたいくつか大きな息を吐いたあとさっきより柔らかくゆったりした口調で話し始める。場の空気が変わる。キュッと目をつりあげて少し前のめりに力の入った姿勢で不貞腐れたような口元で一気に語るその人と私の間にあったはずの物理的な距離がまた見えてくる。後退りしたくなる圧力は今は感じない。この出来事の間、私の見た目はほとんど動いていなかっただろう。頭とこころとは裏腹に。

押しとどめたりなだめたり何か言いたくなるときは私がその人を異物として体験しているときだ。その人自身がほとんど発狂しそうになりながらなんとか引き剥がそうと断片的に投げ込んでくる自分のなかの異物を私はまず感覚で受け止めるしかない。すぐに形にできたらこんなふうにはならないのだから。意識的に思っていることと無意識が言わせることがぶつかり合って言い間違えたりつっかえたりしながら混乱気味に吐き出されつつある前言語的なそれは流血と感じられるときもあれば爆撃と感じられるときもある。なんだこれは、とただただ晒されているときがほとんどだが。

その人は私に十分にその異物感を感じさせている。こんなふうに感じているのか、と圧倒されつつも私はじっとしている。若い頃はただただ圧倒され何も考えられないまま身動きが取れなくなっていた。今はそうなっていることを感じることができる。どうにもならないまま時間がくることもある。人間の力ではどうにもできない部分を扱うとき時間はお互いを守ってくれる。ひとまずデタッチする。関係も長くなればこうもなるが時間がそれを区切ってくれることにも慣れている。

きつくしんどい毎日だ。と言い切ってみる。会いたい人に会いたい時に会えない。いつだって片思いのような寂しさを感じる。最初は小さな痛みかもしれない。ちょっと呟いていくつかいいねをもらえれば落ち着いたかもしれない。日々さまざまな刺激に晒されるうちに私たちのこころは時折暴走するようになる。世界が疑わしく、自分は最も疑わしい。こんなはずじゃなかった。どうして自分だけ。全て忘れたくて激しい運動を始めるかもしれない。一瞬だけ優しい人なら誰にでも身体を預けるかもしれない。空っぽさに耐えられずコンビニで手当たり次第買い込み食べ続け吐き続けるかもしれない。人は暴走する。自分が自分を最も信じられない。きつくしんどい毎日だ。

それでも、というのもいつものことだ。どこかで気づいているはずの狂気は暴走を始めたら自分ではどうにもできないだろう。私たちは自分ではどうにもできないものを内側に抱えながら生きている。だから安心して眠れる場所を話せる場所を何もせず一緒にいてくれる人を求める。解決を急がない。結果は何もしなくてもいずれ誰にでも等しくやってくる。それがいつになるかわからないから治療では有限性を持ち込む。日常でも「今日」という時間をなんとか生き延びるために「昨日」と「今日」を切断してくれる睡眠が大切だ。よく眠れただろうか。今日は今日の自分にとりあえず出会う。それがこれまでの積み重ねであったとしても私たちは次々アップデートされるわけでもないし、古くなったからといって交換できるわけでもない。こんな自分で今日もとりあえず。いいことも少しはありますように、なくても嘆かないでいられますように。

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精神分析

こだわり

明るい。ブラインドの向こう、水色と薄いオレンジがグラデーションのようになっている。きれい。

私はいろんなことにあまりこだわりがない。さすがに最近は言われないが見かけに関しては「もっときちんと」的なことはよくいわれていた。相手の見かけも周りが色々いえばそのようにも見えるという程度に目に入ってくるが特に何も思わない。きれい、かっこいいなどは思うが合コンで男子も女子も相手の見かけを値踏みするのには驚いた。でも付き合う相手はそれに基づいてもいなかったしあれはなんだったんだろう、でもあった。水準の異なるテーマだがルッキズムなどの差別や暴力について私は自分の体験からは語らない。自分の体験を名付けるためにではなく、それが私にとってなんであったのか、どんな感じであったのかを語ることは非常に重要であると考えるので精神分析を必要とした部分は大いにあると思うが。

音楽も演劇も絵画もいろんなイベントもなんでも好きだし行けば楽しむし、音楽と演劇に関してはかなりの量に触れて相当影響を受けたつもりだが今それを具体名を持って語ることができない。B’zならかろうじてできるか。友人や家族が自分だけの「ベスト10」をカセットテープに集めていたようなことを私はしたことがないし、熱い語りを楽しみはするが内容よりも語る相手が好きだから楽しいというほうが大きいように思う。演劇は人生においてかなりこだわりを持って相当の時間とお金を費やしてきた。生の舞台のインパクトは舞台ごとに異なるので同じ公演を何回かみにいくこともあった。演劇は私にとって好きな店に食べに行くようなものだ。お店の人と話すような身近さに舞台の人たちもいる。ただ数年前からみにいく時間がほとんど取れなくなってしまった。そうなると例のごとく具体名を持って語れなくなってしまう。まあいい。私は評論家でもなんでもない。あの世界にいけばあんな感じを得られる。それを知っているだけで十分だ。

私の周りにはいろんなことにこだわりの強い人がそれなりにいる。私は彼らが好きなので彼らの話を聞くのが好きだ。彼らはこだわりがあるからその世界のことも広く詳しく知っていて評価の基準をしっかり持っていて私の感覚的な好き嫌いとは全く違うと感じる。そしてこれもだから何というわけでもない。

「正しさ」というものがなんだとしても、私が色々忘れてしまって「大好き」と感じるものをぼんやりとしか伝えることができないとしても私は私と全く異なる人と愛しあえるだろうし、別れたとしてもそれらが異なるからではないだろう。「こだわり」が憎しみや差別に近づいていくとき、そこが関係に変化をもたらすきっかけにはなるかもしれない。一見それが「正しい」もので、たとえSNSでどんな支持を集めていたとしても自分がそれにどう関わるか、私の好きな人たちはそれにどう関わるかということに私は注意がむく。

知らない人や世界に対して自分の体験や知識や感触はそれ以上のものではない。それが相手を得たときにどう語られるか。その語り方には私はこだわる。これだけ時間をかけてこれだけの出来事をここで共にしていても常に驚きがある、精神分析はそういう世界で、そこで生じないはずがない憎しみをお互いがどう生きるかにその後の展開はかかっている。私はあまりいろんなことにこだわりはないが、それらの表現の仕方にはこだわっている、そういえば。

“Sentimentality is useless for parents, as it contains a denial of hate, and sentimentality in a mother is no good at all from the infant’s point of view.”

Through Paediatrics to Psycho-Analysis. Chapter XV. Hate in the Countertransference [1947]

D.W.Winnicott

否認と排除のセットを使わないではいられない人間関係に今日も苦しむ人がたくさんいる。私もそうだろう。愛するためにしているつもりの努力が憎しみに変わる場合だってあるだろう。名付けてしまえばそれはそれでしかないかもしれないが動きのある部分にはきっと希望もある。簡単にいえば「決めつけない」ということか。今日もとりあえず動きはじめよう。動ける範囲で動き続けてればいつの間にか別の景色に気づく。そんな感じで。

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精神分析

思う、願う、祈る

朝なにかを書くということは眠れない夜のことを書くということだ。

と思ってSNSをみたら「眠れない」という呟きがあった。すでに活動を始めている友人の呟きもあった。昼夜を問わずSNSで反応しあえる時代、私が信頼する言葉の紡ぎ手たちはほとんど呟かない、夜は特に。心落ち着かず彼らの言葉を探しにでても少し前の言葉をもう一度目にするだけだったりする。でもだから安心したりする。簡単に上書き、とはいわないか、軽い言葉が量だけの重みでその言葉を下へ下へと追いやっていく様子をみたくない朝もある。

鳥の声が鋭い。今日は特に。寺の森から起き出した彼らはしばらくこの辺りの空を数羽ずつで巡回してからどこかへいくのだ。時折カラスの大きな声も混ざる。鳥や動物たちと同じように自然と調和して眠ったり起きたりしていると思うと少しまともな気持ちになる。

相手との関係で「無理」」や「我慢」が生じると、と書きたくなるときは別の言葉を探せなくなっている可能性があるんだった、と数日前に自分が書いたことによって立ち止まる。書いておくもんだ。ありきたりの空想しかできないときは鬱々する前に眠ってしまったほうがいい。布団にくるまって目を閉じてひどい頭痛のなか「このまま死んだりして」「これ毎回思うけど意外と死なない」などぼんやり感じているうちに眠りに落ちた。浮腫みで足が痛むが今朝も無事に起きて椅子に座ってぼんやりしていた。そのうちまた少し眠気がきた。ウトウトしながら昨晩囚われていた空想にいまだ囚われつつもそこから少し離れた場所で何かをしている私たちをぼんやりみつめているのを感じた。夢でも現実でもなくこういうまどろみによってなんとなく生かされているんだな、とそこに身を委ねながら感じた。分裂するのではなく自分がいくつかの奥行きを同時に体験するような定位置にいる自分と浮遊する自分の両方を感じた。そのうちまた少し眠ってしまった。起きたときはまだ数分しか経っていなかった。

眠りは時間も空間も拡張する。夢はその証拠としてみられるのかもしれない。

相手との関係において行き詰まったときはとりあえずそこにとどまる。窮屈で身動きの取れない場所に身を委ねる。もともと出会いだって偶然だった。「あなたしかいない」「あなたがなによりも」といわれるような関係でも終わってしまえばそうではなかった、ということは経験済みだろう。あの時は死にたいほど辛かったのに今思い出すとすでにその理不尽さえちょっと可笑しい、ということも積み重ねてきたと思う。もう若くない。ある程度定位置を見出してもいる。苦痛を外に投げるのではなくじっと感じ続けているとこれまでとは別の形が自然と生じることも増えてきた。大切にする、慈しむというとき目の前のものや相手だけではなくその背景に広がっている景色に対してもそうしていきたいと思うようになった。そこにどんな矛盾があろうともみたくないものはみないという方法では大切にできないんだと知った。あえて目を凝らさなくても耳をすまさなくても鳥の声のように私に届くものたちをせめて。いつまで「無理」なくそう思えるのかは誰にもわからないことだけど囚われては気づくちょっとした新しさをあなたやあの出来事との出会いのおかげだと思えるとき、私たちはまだなんとかなるんだ、と私は思う。願う。祈る、今日も。

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精神分析

嘘とか隠し事とか

ジンジャーとハニー、と書きながら生姜と蜂蜜と書いた方がしっくりくる気がするなどと思いこうして書き直してみた。いい香り、最高の組み合わせ、今朝のお茶はこれなのだ。

昨晩もたやすく心乱されてしまった。昨日だったかもっと前だったか「優しい人だからといって嘘をつくのが許されるわけではない」というのをもっと個人的な感情に引きつけて書いたような文章を読んだ。(他の文章を読む限り)この知的で優しそうな人はとても優しいパートナーに嘘をつかれてしまったんだな、と思った。そのまんまだが。静かな言葉でもSNSに書かざるをえないくらい揺さぶられてしまったのかな、など勝手なことを思った。というか「許す」って書いてあったかな。許す許さないの話になってしまうとまた難しい。神視点という言葉が思い浮かんだ。

神でもなんでもない私は嘘をつかれたらとても悲しい。そんなもんバレないようについてほしい。というか嘘って本当にバレてしまう、親密な関係では。本当に不思議なことだと思う。嘘つく方はむしろバレたいから嘘ついているんだろうな、何か知らせたいんだろうな、と思ったりもする。私たちは親密になると嘘とまでいわなくても「あぁ言いたくないんだな」「なんか隠してるんだな」と感じる瞬間をたくさん経験する。「空気を読む」というのはよく言ったもんだが親密になるまでに積み上げてきた「いつも」との微かな違いに対する注意は場の空気が変わる瞬間に対するそれよりも能動的で情緒を伴う観察の積み重ねでできていると思う。なのでそれを受身的に気付かされるとき「やっぱり」とどこかで思いながらも軽くか深くか失望する。どうしてそんなことをする必要が?

果たして私がその出来事に対してどの程度ものがいえるだろうか、ということを考えながら「いえないな」と思って布団に入った。身体もこころも部分利用できない。それを扱う方はそうできているような気がしたとしてもされる方にとってはそれは全体的な体験でしかない。もしそれを部分的な体験に押し込めようとするならそれは大層無理な否認を必要とする。どちらにも誰にでもそれぞれの事情があり、それを全部知ることはどんな関係においても難しい。理解しようとしたところで自分にはあまりに的外れな推測のもと相手は行動しているのかもしれない。どっちにしたって苦しいのだ。私は否認している自分を意識しつつせめて行動化せず考える時間を引き伸ばす方を選んだ。夢がどうにかしてくれることを期待して。

以前『スパイの妻』という映画をみた。妻のこともいずれ暴きたい国家機密のことも守り抜きたい男に対して妻は自分にとって何が大切なのかをまっすぐに訴えていく。そばにいられることが嬉しい、一緒に何かを守れることが嬉しい、どんな危機においても不安よりもその喜びに笑顔が溢れてしまう蒼井優の演技がとてもよかった。もちろんそれは夫が十分にその想いに応えているからこそだが、隠し事が持つ力を存分に見せつける映画でもあったと思う。

今日は空が明るい。気温も上がるようだ。誰にもいえないことを胸にすでに多くの人が様々な朝を迎えていることだろう。昨晩はよく眠れただろうか。これから眠る人もいるのだろうか。今日は月曜日。多少はリセットのきっかけになるだろうか。今週もなんとか過ごそう、と打ったら「凄そう」とでた。「凄そう」だったら「なにかと凄そう」とかだな、などどうでもいいことを考えた。大丈夫。こんなことを考えられるのならば。大丈夫。ひとつひとつやっていこう。

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精神分析

最悪の状況とは

「最悪の状況を想定しておく。そうすればダメージが少ないから。」

という言葉をいろんな患者さんから聞いてきた。頭ではわかるが人の気持ちってそうやってコントロールできるものなのかな、とそのたびに思ってきたし、言ってきた。

想定通りにいかないから色々苦しいんじゃん、と。もちろん仕事で「じゃん」とは言わない。時々言ってるか。

ところが私は最近これについて考えることが増えた。

私も少しは世の中のことがわかってきたというか、精神分析を体験したことで人が(=自分が)いかに変わらないかということに対して抵抗しなくなってきた。「とりあえず」とか「ほどほどに」とか「どうにかこうにか」とか曖昧かつ暫定的な表現が多いのもそのせいだ。まあ、そんなもんだよ、と思うのだ。少なくとも意識的に変わろうと思って変われる部分は少なそうなのだ、私たちは。もちろんCBTのように見える部分に正確に緻密に関わってもらえれば行動面での変化はあるだろうし、それは意識の変化と連動しているだろう。それでもより引いたところから見ると人はそんなに変わらない。そしてそれは多くの場合「別にそのままでもいいんじゃないの?」ということでもある。精神分析は「別にそのままでもいいんじゃないの?」というところに対して「全然よくない。いつもいつも同じようなこと繰り返して同じような苦しみを味わうのはもう耐えられない!」という人が求めるものなのだろう。

私はといえばそんなことを意識できていたわけではないが(なんなんだ)若いときから自分には精神分析が必要なんだと思っていた。なぜだかよくわからない。よっぽど自分を持て余していたに違いない。フロイトを文庫で読んではいたが今となればその内容など何も理解していなかったし、当時からそんなことは知っていた。それでも社会人になって精神分析家に会うために一生懸命働いた。そのくらい切実だった。なにが、と言われてもわからない。ただこんな自分のまま生きるって大変だ、どうにかせねば、とそれまでの積み重ねで強く思うようになっていたのだと思う。

「最悪の状況を想定しておく。そうすればダメージが少ないから。」

彼らはこれをすることにほとんど失敗していた。だからこそ私は「それはコントロールできることではないからさ」などと思いもしていたわけである。彼らのいう「最悪の状況」は個別的で具体的でとても複雑だ。「死ぬよりマシ」とか「死」=「最悪の状況」でもない(「死」は誰にでも訪れる「結果」ではあるが)。彼らにとって「死」はとても身近で「死んだ方がマシ」と叫び暴れ出したい気持ちをなんとか抑えながらどうにかこうにか日々をやり過ごしているというのが実情だ。つまり「結果」へと急いでしまわないために彼らは工夫をしているのだ。でも長年かけて繰り返され変わらない方向へと結び目がガチガチになっているような状況に対して自分たちはあまりに無力なまま囚われている。そこに働きかけたところでこれからも変わることはないだろう。彼らはそれを意識的にはよくわかっている。なのにそれまでと同じようなダメージを受け続ける。人は変わらないのだ。変わらないのか?本当にそうだろうか。

私は彼らとの作業や精神分析体験から人が変わらない方向へ向かっていること、変化がとても痛みを伴うことを学んだ。人は変わらない。いや、そうではない。正確には相手を変えることはできないということだろう。だからときに人は暴力的になる。支配的になる。実際に暴力を振るわなくても相手を説き伏せようとしたり、自分の主張を受け入れてくれるまで追い縋ったりする。それでも相手を変えることはできない。意見に同意させることはできるだろうし、表面的に従わせることはできたとしても。

相手を変えることはできない。だったら「このままでいいんじゃないの?」どころか「このまましかありえないんじゃないの?」とも思うかもしれない。暴力的な状況の場合、暴力を受ける側はそういう無力感で身動きがとれなくなる。しかし、私たちは最初からこうだっただろうか。変わらない、なんてむしろありえただろうか。

ずっとこうだった、いつもこうだった、そういえばあのときは、何歳くらいまでは、誰々が何何をしてから、あのことがあってから、あぁ思い出した、あのとき私は、と自分と自分を取り巻く状況は変化しつづけ、そのプロセスにいまだあるというのが私たちの現状ではないだろうか。

私が想定する「最悪の状況」は自分がものを感じたり考えなくなったりする状況だ。彼らが失敗してしまうのは「最悪の状況」をこれまで通り彼らを絶望させる状況が再び起こることと想定するからだと私は思う。それを想定して「またか」「やっぱりか」と思えるという意味では「ダメージは少ない」かもしれない。でもそれは「これまでと同じように大きなダメージをまた受けた」といいかえることもできるのだ。その痛みは累積してこれまで以上に変化のチャンスとなりうるゆるい結び目を探すのが困難な状態に陥るかもしれない。彼らはもう少し自分のことを心配した方がいいと私は思う。そのために「あなたはどうしたいの」という問いを頻繁に発する。これ以上自分の持ち物を奪われる必要が?そんな理不尽を誰がなんの権利で?あるいはあなた自身がそうしているのはどうして?そう問い続ける場があってもいいはずだ。これ以上奪われるのならば、私自身がそっちの方へ進もうとするならば、私は自分を守るためにこの関係を終わりにする、これ以上のダメージは受けたくもないし、受ける理由などどこにもないはずだ、そう考える場があってもいいはずだ。そしてそれは一人ではできない。短時間であっても、すでに巻き込まれているその場から離れる必要がまずはある。

私たちは「人は変わらない」ではなく「相手を変えることはできない」ということを実感する場を持ちにくいのだろう。一人でそれを実感することはできないし、時間的にも余裕のない時代だ。一方、変わってほしい人に変わってくれることを期待してしまうのはどの時代でも人の常だろう。頭ではわかっていても相手に期待しつづける、その繰り返しがいつもある。もちろん相手が自分との関係において変わる必要性を感じる場合もあるだろう。それは悪くないことのように思える。ただその場合も別の苦しみは生じるだろう。「私がわがままをいっているだけではないのか。会わせてくれているだけではないのか」などなど。人は変わってほしいと願いつつ自分の影響がそこに及んでいる可能性に猛烈なアンビバレントを経験する生き物でもあるのだ。本当に難しくやっかいで自分のことを「めんどくさい」といいたくもなる。むしろそう思えることが大事だろう。そういうアンビバレントに葛藤しながら持ち堪えるキャパシティのないこころは自らの攻撃性と連動して行動化しやすいから。なかでもあまりに反射的に自分の体験したくない痛みを相手に体験させる行為を暴力というのだろう。

生きていくのは苦しい。だからこそ自分を心配しケアすることが大切になる。こんな身体で、刻々と進む限られた時間で、あなたはどうしたい?そう問い続けてくれる相手をまずは実在する他者に、いずれそれをこころに住まわせることができるように。自分が自分を失うこと、それを危機だと感じられますように。あなたも私も。

今日もどうにかこうにかかもしれないけど良い一日でありますように。

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端正な気分

オグデンが引いた印象深い文章を私も引用しようかと思ったけどそんな端正な気分ではないのでやめた。端正な気分ってなんだろう。

コロナ以降、はじめて遠出したのは奈良、奈良は4,5回目だろうか。歴史に詳しいわけではないが行けば魅了されるばかり。母はとりわけ興福寺の五重塔に魅了され長時間佇み見上げていた。2010年に奈良の居酒屋で誕生の知らせを聞いたあの子はもう6年生だ。無事に生まれてくるかどうかわからないなか私は春鹿を出す店にいたわけだが何度も何度も確認していたガラケーにメッセージが届くなり号泣した。3歳まではとてもゆっくりした発達ぶりだったが、今や思春期の猛烈なエネルギーを携え、しかしそれを持て余す必要のない恵まれた環境で伸び伸びとやっているようにみえる。本人は全くそんなこと思っていないのかもしれないが・・・。奈良の大和西大寺のデパート、なんだっけ、近鉄百貨店だ(調べた)、最終日はとても寒くてもうそんないろいろ行かなくてもいいかということで近鉄で奈良の一刀彫やらなにやらをみたりのんびり過ごした。お昼はどこも混んでいた。時間は十分にあったので美味しい皿焼きそば(だったか?)を食べたいという母と中華料理屋に並んだ。相当なベテランらしき声のよく通る細身の店員さんの客さばきが軽妙で、ずっとみてても飽きないね、すごいね、と母と感嘆しながらみていた。全方位に明るい関心を向け豊かで簡潔な言葉で常連も観光客も十分にもてなしつつ素早く移動を促す熟練の技。これも奈良の技か。

前置きが長くなってしまった。そこの中華料理屋でテイクアウト用に売っていたほうじ茶を母が買ってくれてそれを飲んでいるということを書きたかっただけなのだが。今朝は寒くはなく家事をしている分には半袖で十分だが温かい飲み物はホッとする。美味しい。鳥たちも起き出して時々鋭い声が聞こえてくる。

そういえば東京の中華料理屋にも行ったばかりだ。もう10年以上前にその店のことは聞いていた。途中で「ああここがあの店か」と気づいた。当時イメージしていた空間とまるで異なるそこは魅力がつまった細い路地の一軒家で異国情緒とともにどれもこれも丁度良い味付けの料理を楽しんだ。店員さんはイメージ通りだったかもしれない。小さなポシェットを斜めがけして客の声になんの愛想もなく素早く応対していく様子も次々に開けられるビール瓶がガシャンガシャンとポリバケツに投げ込まれていく景色も新米らしき女性店員が何度も何度も真剣に伝票を確認しては困った表情を見せるのも完全に興奮を持て余し大声でしか話せなくなってしまった右側の若者たちと友人のセックスレス問題に対して静かに仮説を語りあう左側の若者たちとの対比も彼らと比べると随分年をとっている私たちの会話も全て色合いが違って楽しい時間だった。

今もまだコロナ禍といえると思うがあっという間に人波は戻ってきた。生き生きした世界の猥雑さが人を生かしてもいる。

端正な気分という変な言葉を最初に書いた。言葉を切り取ることをしなくてよかった。どんな猥雑な言葉も切り取れば単なる品も味気もない断片にみえたりもする。どんな含蓄のある言葉もそこを生きない限りただのかっこいい鎧だったりする。それらひっくるめて「端正」と感じているのだろう、私は。短く縮めれば縮めるほどすっきりとする世界は今朝の私のこころにはなかったらしい。

今日もこころ動くままに。無意識に委ね、今の風を感じ鳥や車や大切な人の声を聞き力を抜いてなんとなくはじめることにしようかな。なにかしらがんばれたらと思う。

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記憶

音楽が聴こえてきてそっちの方を見上げた。古い集合住宅の多分あのオレンジの光の部屋あたりから知らないJ-POPが聞こえてきた。昔のアイドルっぽい歌い方だけど最近の曲かもしれない。今夜は窓を開けていると気持ちいいのだろう。外はだいぶ気温が下がってきたけれどいい夜だ。

ということを思った昨晩の帰り道。こう感じたことを今書き留めておきたい。私はきっと忘れてしまうから。

でも書き留めなかった。忘れるのは常。子供の頃からどんな好きな曲の歌詞もぼんやりとしか覚えることができなかった。合唱コンクールくらい練習を重ねればかろうじて覚えることができたけど本番では「地声が大きい」ときれいな声を出せていないことを指摘された。歌も下手だし、自分の声もどうにかならないかなと新宿御苑のビルにヴォイストレーニングに通ったこともある。宇多田ヒカルがデビューした頃だったのだろう。automaticを歌った。仲良しと通ったのでどうしても笑いが止まらなくなってしまう瞬間があり不真面目な私のちょっと変わった声に対する効果はなかったが先生がとても素敵で楽しい時間だった。

覚えているもんだ、こういう出来事は。結構繰り返し話したことのあるエピソードだからかもしれない。「推し」(今でいえば)とはじめて話したときもした気がする。声だけだったからなおさら。

私はあなたのこころにいるのだろうか。私はいつも心配になる。これだけ時を重ねても安心できないのはどうしてだろう。足りないのはなんだろう。時間だろうか。言葉だろうか。経験だろうか。わからない。精神分析のように毎日のように会っていても私たちはお互いにそんな気持ちを体験する。目の前の人が心ここにあらずであることがはっきりと感じられることもある。どうしてだろう。

少し前に「僕のマリ」というちょっと変わった名前の著者の『常識のない喫茶店』(柏書房)という本を読んだ。とても目をひくかわいらしいイラストと美しい彩色の本だ。この喫茶店では店員が特徴のある客にあだ名をつけている。なかにはなかなかひどいのもあるが高校時代、喫茶店バイトに明け暮れていた私は当時を思い出してたくさん笑った。彼らが客と体験した出来事と情緒がそのあだ名だけで想像できる。非対称の関係において理不尽さを感じたときそれをどうにか丸めておける言葉は必要だ。

私はあなたのこころにいるのだろうか。その人との関係における私にあだ名をつけてみた。悲しくなった。いくらでも悪く言えてしまう。苦笑いだ。なら関係にあだ名をつけるとしたら?

難しい。友達、恋人、兄弟、家族、客と店員、患者と治療者など個別性を欠いた表現になってしまう。精神分析家と被分析者という言い方は「精神分析」というものに対する関係を表しているからまた別物な気がする。そこでは「私」と「あなた」は普通の感じでは分かれていない。

私とあなた。私たちは一体何者なのだろう。同じ時間を同じ場所で過ごし互いの記憶を共有し笑いあう。意見が違って「もういい」と言われると悲しくなって「もういいって言わないで」と怒り謝られる。そんな他愛もないやりとりの積み重ねはお互いのこころに二人の場所を作るプロセスになっているのだろうか。共にいるときはそこが巣となり、離れればそこには何もなかったように、ということができてしまうのがこころだ。私は時々とても不安になる。あなたやあの人はどうかわからないが彼らだってそうだろう。

記憶力の悪さは不便だ。でもたとえ覚えていても、愛しさを抱え形にするこころを持てなくなったらそれは死んでいるのと変わらない気がする。覚えておく類の記憶ではなく身体に染み込んで生き続ける記憶。それらに支えられ苦しめられ毎日を過ごしている。

今日はどんな1日になるのだろう。見えるもの、感じるものに振り返ったりニコニコしたり不快になったり言葉にしたりいろんなことが起きていろんなことをするのだろう。

Remind yourself today that you matter!

PEANUTSのアカウントが言ってた。

大事。Remind yourself today that you matter!

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好きな本を読むように。

大人の身体をした人が学問的にはレベルが高いのであろう言葉を武器に正義の味方をやったり、正義の味方をやらないときは少し子どもがえりして別の似たような大人に甘えたりというのは夫婦関係を描くときにもおなじみの構図と思う。外ではこうで家ではこう、子どもの前ではこうで二人になるとこうとか。子どもがいると役割を使い分けてる余裕はないかもだけど。良いも悪いもきれいも汚いもごった混ぜの世界に生きている子ども(すごいと思う)を育てる大人の役割を降りられる時間は少ない。だから「子どもが眠ってから」となる。

SNSはそういう表裏も内外もないから全部見えてる。もちろん見えてる部分における全部ということ。当たり前すぎるけど。開けっぴろげなごっこ遊び。夜眠る必要のない人や眠ることができない人の夜の会話は見えない場所でされるそれとは随分違う感じ。実際の空間がなければいつでも演じらえる「ケア」して「ケア」される立場。それらを断片的に演じる必要は誰にでもあったほうがいいのかもしれない。ちょうどよくお互いを満たすものとして。「本当は違うんだ」というのはいつでもできるし。好きな役割を演じ、囚われている役割を降りられる場所として。

私はSNS上で密かに好きな人がいて、というかその人の言葉が好き。いつも追っているわけではないのだけど心穏やかじゃないときには探しにいく。私は反射的にも戦略的にもハートマークをたやすくポンっとしたりしない方だと思ってるけど、その人は反射的かもしれないたくさんのそれらからも繊細に何かを感じ取って、というか天気や食べ物やそばの人の会話や生活のすべてに静かに関わりながら感じたことを素朴に品よく言葉にしていて、「吐き出す」こととの違いを教えてくれる。私のような見知らぬ相手にも馴染む刺激的なのに消化できる言葉の数々。個人的には知らない人だからずっと理想化していられるわけだけど交際したり結婚したりするわけでもないから好きな本を読むように贅沢で大切なものとしてそっと胸にしまう。

毎日実際に身体を伴って私に向かって話される言葉はものすごく多様でこちらのこころをフルに動かそうとする(あるいは決して動かさないようにする)インパクトを持っていて言葉の使用について考える余裕はその場ではあまりないのだけど、好きなその人の言葉に感じるナルシシズムの傷つきをある程度ワークスルーしたあとの静けさは患者との間でもふわっと訪れることがある。そのときに彼らが使う言葉も素朴で中立的で胸をうつ。私たちが侵入しあう形ではなく触れあえた感覚を持つ貴重な一瞬。

きっと今日も辛いことがある。それでも素朴に自分が見ているものと丁寧に関わりたい。言葉にするならこうして文章にしよう。そうだ、メールも書かねば、、、ああ、こうして現実に引き戻されて1日を始めるのですね。今日もなんとかやっていきましょ。

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願うばかりの今日を。

もういない人のことを思って泣いた。私はその人のことをほとんど知らないのに。こんなに助けられていたんだということを泣きながら感じた。自分で選んだとはいえ、人が人を想うということが誰にでも当たり前にあるのならば私がこんな気持ちになることをあの人はどう感じるのだろう、いや、私はそう想うことで自分が暴走することを防いでいるだけかもしれない。誰にもいえない気持ちをどう抱えていけばいいかわからない。これだけ訓練を受けているのに。違う。精神分析こそがその理由だろう。以前とはまるで異なる揺れ幅で心が動く。どうにもできないんだと知っている。否認はできない。それでもどうにかやっていく。今日も生きたまま起きたのなら生きる。なにも感じない身体ならよかったのに、と思うなりそれが不可能であると知る。同時に部分的に様々な形で自分が死んでいること、死んでいくことも事実だと知る。

辛い。あの頃はこんなには感じなかった。感じたいわけじゃない。身体がそうなってしまった。生きるなら今はこの身体しかない。今なら、今あの人が生きていたらまずはメールをしたりするのだろうか。当時は電話とFAXだった。薄れていく文字を追いかけるようにコピーをとった。どうしても会いに行かねば。若かった私はその人に何を賭けたのか。

お会いしたいです。今なら相談したいことがたくさんあります。

あの日も困っていることを話したけれど。当時の私には切迫した事柄だったと思うけれど。今となってはそれがとてもつかみどころのないものだったように感じる。自分の愚かしさを知り、またよく知りもしない誰かに自分の一部を懸けてしまったことで苦しんでいる。私は変わっていないのかもしれない。

とても会いたいです。どうして気づいたときにはもう失っているのだろう。なんでいつもその繰り返しなんだろう。

その人を思って涙が溢れてきたときにすでに感じてた。大丈夫、と。とても辛い、こんな風に感じる身体なんかいらないと思いつつ。身動きが取れなくなり狭まる視界がつけっぱなしだった画面をぼんやり捉えた。その人の名前があった。もういないのに。知らない人がその人の言葉をSNSで引用していた。一気に涙が溢れてきた。口走るようにいろんな言葉が私の中を駆け巡った、その人へ向かって。そうしながら「ああ、大丈夫だ」とも感じた。誰かを想うことは苦しい。とてもとても耐え難く。でも心が動くと感じる身体があるから思い出せた、その人を。誰かを想うことが時間を超えてその人と再び出会わせてくれた。

罪深きこと、あまりに愚かなこと、事実は積み重なるばかりで忘れられても消えることはない。辛いのは私だけど私じゃない。申し訳なさにすべてを投げ出したくなったとしてもそれは償いでもなんでもない。とりあえず今日を。とりあえず。いつもそればかりだけど。とりあえず、願うばかりの今日を。

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我慢と無理2

(つづき)

なのでそういう状況で「無理しないで」「我慢は体に悪いよ」とかいえるはずがない。さっき書いたようにそういう状況になるまでに言葉の意味はとてもパターン化されたものに変わってしまっているかもしれない。ただただそれ以上の負担がその人にかからないように静かに注意をはらい続けること、できるのはそのくらいかもしれない。そもそも変わりたくもない相手にアドバイスめいたことをいうのも大きなお世話である可能性が高いように今まさに行動しようとしている相手になにかを言いたくなるとしたらそれは当事者の途轍もない不安を自分の不安のように感じてしまうからかもしれず、それを黙って抱えておくことの難しさは誰にとっても当然ではある。なので仕方ないともいえる。ただ、それをする生物にとって一大事である脱皮の邪魔をしないのと同じという気はする。ちょっと手伝ってあげることはあっても本人が自分でやったと思える範囲でしか手はださないものだろう。

私は無理や我慢を関係を変化させようとするときに不可避に生じてしまうものと捉える。そのときにお互いが「こういうときはそういうものだよね」とお互いの無理や我慢自体に無理や我慢がないかを思いやれたら素敵なことだと思う。

この言い方は変だと思わないだろうか。私が思うに終わりのない入れ子構造を作る言葉は日常語としてとても便利だがその分個別性、具体性に欠ける。「ご無理なさいませんように」というとき私たちは相手のどんな無理を想定しているのだろうか。臨床でこれらの言葉を使うときは相当の具体的エピソードを伴うので社交辞令的な意味は乏しい。親密な間柄の人に対してもそうかもしれない。

まただ。この人が無理をしているときは返事のタイミングがコンマ何秒遅れる。無理をさせないように考えて言ったつもりの言葉だったけどやっぱり同じことが起きるんだな。相当我慢を重ねたつもりだったけど。「無理なんかしてない」という言葉を信頼できない方が悪いのか。我慢とかいってこの人を思い通りにしたいだけなのか。もうダメかもしれない。こういうことを考え出すと決まって頭痛がひどくなる。きっとこの気持ちをそのまま伝えてもまたコンマ数秒遅れの返事がかくるだけだ。「いつもあなたはそうなんだよ」と伝えたとしてもその行動を抑制するだけでまた別の「いつもの」が始まるだけだ。こんなお互いに我慢と無理を重ねることになんの意味があるのだろう、と一方が思ったとする。そしてもう一方は、なんだかまた不機嫌になってるみたい。また何かしてしまったのだろうか。あの人がいう「無理」ってなんなんだろう。いつもひどく我慢させてしまっているみたいで申し訳ない。我慢と無理はお互い様だっていってたのにそれをしたらしたで悲しませたり怒らせたりしてしまうのはなんでだろう、と思ったかもしれない。

入れ子は入れ子。どこまでいっても似たような構図だけが生じてくる。ならどうしよう。この苦しい状態を抱えていてもいいことはない。自分も相手も辛くなるだけだ。離れるしかないのか。頭痛はひどくなるばかり。とりあえず眠ろう、とベッドに入っても布団をかぶってもぐるぐるぐるぐる同じことを考え続ける。

さて、本当にどうしようか。ふと冷静になる。そうか、別の言葉があるんだ。

毎日毎日同じ道を歩き続けていると「あれ?」と思うことがないだろうか。こんなところにこんなものあったっけと。精神分析でもそれは生じる。もう本当に無理だ、何も変わらない、これまでの苦しみはなんだったんだ、と追い詰められて追い詰められて何かが弾ける。「あれ?」もう無理だ、とこれまでも何度も思ってきた。今回こそ限界だ、そのはずだった。なのにどこか呑気ではないか。絶望している自分でいながらどっかそれを演技的に感じもする。そんなはずはない。私は本当に死にたいほど絶望している。なのにこれまでとは明らかに違う。そこは暗闇だけではない。

景色が変わったことに気づくのは必ずしもいいことばかりではない。これまでも散々見えていなかったという事実に驚愕してきた。どんなに泣いてどんなに苦しくても見えていなかったものが見えるならまだいいだろう。間に合ったのだから。見ようとしたときにはもうそれは存在しなかったということだってあった。

そうか、別の言葉がある。ぐるぐるが止まる。我慢と無理という言葉ではないんだ。今私たちはそれに囚われすぎてる。数えきれない言葉の世界を生きながらそんなのはおかしいだろう。まだ間に合う。少し時間をおこう。まずは別の言葉があることを思い出そう。いつのまにか頭痛が少しおさまっている。少し眠くなった。夢を見る。全く話せないはずの外国語で話している夢を。

多分私たちは「まだ間に合う」とどこかで思っている。それはかなりの程度「希望」とよんでもいいように思う。なのに同じことを繰り返しては我慢だ無理だなどの言葉で事態を説明しようとする。どうしてだろう。きっとそれは機会を作り出すためだ。入れ子の言葉に私たちが縛られながら生活している理由があるとしたらそれは言葉を常に互いのものにしておくことでその呪縛に気づくためではないだろうか。十分に浸され、体験しないとそこがどこでそれが何かはわからない。抜け出すために囚われるのだ。もちろん時間は刻々と過ぎ、あったものはなくなったり別の何かになっていく。それだって仕方ないのだ。誰にも止めることはできない。どうにかしたい。あなたが大切だ。立ち戻るのはひとりの想い。何度でもそこから始められたらいつかきっと間に合うはず。そう信じながら言葉を探す。

たとえいっときでも言葉を離れてよい夢を。

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我慢と無理1

我慢と無理について考えていてそれは全然努力すべきことではなくて単にすべきことではないとも思うけどどうしても生じてしまうものなんだと思う。たとえばこちらが我慢や無理をしていることに気づいてほしくて何かアクションを起こした(そのまま伝えるとかでも)としてもあちらがそれに応えるには我慢や無理がいるとなったりもする。コミュニケーションに我慢や無理は生じてしまうと考えておいた方がいいのだろう。

ただそれで体調を崩したり、辛い状況に囚われてしまう場合はどうしようか。話し合いとか対話でどうにかできる事柄もあるだろうけれど心身が参ってしまうような事柄になると話し合いや対話はすればするほど失望や絶望につながることも多い。二者関係や状況が綻びをみせていればそれは当然そうなのだ、そこで定点から客観的に物事を見ることを期待された第三者の存在が望まれ相談事業はそうやって成立していると思うのだけど、私はもっとミクロに自分で考えられる範囲のことをダラダラ考える。こういう仕事をしているからこそ。相談相手や場所がずっとそばにいるわけではない。私たちは基本的にひとりだ。

親密な関係における無理や我慢について考える。暴力のように明らかにやってはいけないことに対しては無理や我慢はしてはいけない。自分だけが相手に対して寛容でいられる、自分ならどうにかできると思ったとしてもだ。その思いが間違いとは思わない。でもそもそもそれを「寛容」とは言わない。ときに同じ構図の言葉を暴力をふるう側も口にする。変化に対する強い抵抗は言葉の意味もどんどん変えていき、第三者の言葉はすでに機能しないかもしれない。そんな状況を抜け出そうとするときにする「無理」や「我慢」は私が考えられる範囲で考えようとしている無理や我慢とスペクトラム上にはあるかもしれないが、むしろ様々な心の機能が破綻しかけたところでどうにか動き出そうとするときに襲ってくる強い痛みに対して持ち堪えるためのものであり、戦火を逃れるためにせざるをえないような切迫したものである。

(とりあえずここまで)

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『小鳥たち』を読んだ。

他愛もないやりとりのあと、読んだばかりの本をパラパラしながら突然涙ぐむ。泣きたい気持ちは突然始まったものではないとわかっているけれどこみあげてくるものを感じ両方の目に少し力を入れて抑えようとした。

7時か7時半に開くカフェで仕事をすることが多い。連休中、ここもそこもとても空いていて「今年はみんな東京から出たのか」と数日前の誰かの言葉を思い出した。

小川洋子『ことり』を読んで思ったことはすでに書いた。暮田真名『ふりょの星』を探しているときにきれいな表紙の本を見つけた。『小鳥たち』、スペインの作家の本らしい。

私は鳥が好きだ。好きだ好きだ、とあえていう必要などないくらい身近で、毎朝「おはよー」と声に出さずに最初に挨拶をするのは鳥たちだ。

『小鳥たち』、手にとってパラパラすると短篇集のようで(表紙にもそう書いてあったのにみていなかった)表題作を読んでみた。ああ、この感じ、懐かしい重み。子どもの頃は「親に叱られる」が真っ先にあるようで好奇心があっという間にそれを忘れさせた。そこに不安や恐怖があったとしても見ずにはいられないなにか、思わず出してしまう声、常にこころと仕草が近くて、ごちゃまぜの気持ちが身体をいろんな状態にして、自分でもその状態を掴めているのにコントロールはできなかった。それは今も同じか。突然涙ぐんでしまうのをどうにもできないように。

親や保育士が子どもたちに「落ち着いて!」と声をかけたくなるのもわからなくはない。子どもだけの体験で言えばどうしようもなくこころと身体が連動してしまうだけなのだけど。

表題作「小鳥たち」は子どもの目線で書かれた短篇で、他の短篇には子どもが出てこない大人だけの話もあるが、その世界はすでに子どもの心にあるもので、位置付けるとしたら児童文学であるように思った。

大人の薄汚さや性愛の世界は最初から子どもの世界をとり囲んでいる。子どもが大抵の場合セックスから生まれているという事実以前に精神分析には「原光景」という考えがあり、臨床をしているとそれを否定することはもはや難しい。もちろん大人の世界に晒されすぎないように守るのも大人の役割だが、子どもの好奇心はどうして今それを忘れたのか不思議なほど強力で直感的にさまざまなことを知ってしまう。

「子どもってのは目ざといねえ。」

ー表題作「小鳥たち」より

著者は子どもの観察眼を維持したまま豊かな言葉と淡々とした筆致で情景を描き、誰かと生活すれば出会わざるを得ない現実、その現実と出会うときの衝撃、それに伴い一気に湧き上がるさまざまな気持ちを描く。

短篇ならではの多彩な事情(登場人物が背負う「家」の事情など)と出来事に心があちこちに揺さぶられ読後感はやや重たいが、子どもの頃の感覚と気持ちと仕草の連動を思い出させる上質な一冊だった。

誰かを想う。そんなとき感情が溢れる場所を求めるのは当然のことだ。今日も人ゆえの小さな苦しみとともに。

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変わってない

ずっと囚われているわけではない。でもほぼずっと、何をしていてもずっと注意をそらせないことがある。それを囚われているというんだよ、と誰かが笑う。

再会は20年ぶりだという。なんらかの形で言葉を交わし続けてきたので驚いた。「全然変わってない」と言いつつも今の私を褒めてくれる優しい人たちをありがたく思う。

でも多分本当にずっと考えているわけではない。というか考える仕方が色々で自分でも持て余す。人と離れ音と離れぼんやりしだすと頭痛がひどくなる。一体私は何を考えているのか。これからどうしていくつもりなのか。これは身体化だと気づきながらも仕方ないとしていくか。正常と異常はスペクトラムだとしても、いい悪いの問題ではないとしても。

相手との関係を考える、という場合も色々だ。自分の不快さをどうにかすることを最優先にする人もいれば、私がこう感じることを伝えたらあの人はどう思うのだろう、と二者関係で考える場合もある。さらに私たちがこういうやりとりをするということが彼らにどう影響するだろうか、とさらに広く考えざるを得ないこともある。ともかくも相手あることは仮の答えを出すにもその相手がいないと難しい。物理的にではなく心理的に。心理的にいるということは物理的にもなんらかの形で「在」は示されているものだと思うが。私たちが会わない間も言葉を交わし続けたように。

もしひとりで考えなくてはいけないとしたらそこに相手はいないと思った方がいいかもしれない。無理して何かアイデアを生み出そうとするよりそこにいない相手との関係を再考すべきかもしれない。

コミュニケーションがいかに複雑で、それをしないことも含めてその意味を考えていくことが必要なのは仕事では当たり前というかそれせずにこの仕事はできない。なのにどうしてこんなに難しいのだろう。毎日そんなことしかしていないのに上達する類のものではないのはたしかみたい。たしかに私は「全然変わってない」のだ。

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架空のこと

「とりあえず眠ろう」と眠ったはいいがすぐに起きてしまった。

大切な人が雨の中立ち尽くしている。傘もささずに。探しに出た彼女はすぐに気づく。相手もそれを待っていたかのように彼女をみる。彼女はある種の衝動と「またか」という気持ちを抑えその人を手招きする。いつのまにか二人はエスカレーターに乗っている。前にいるその人の服がびっしょりで触れてどうにかしたい気がするがそれをしたときに流れ落ちる水の重さが気になって触れずにいる。

火葬場でカラカラの骨を拾う、子どもと。此岸から彼岸への橋渡しは二人でやるものだという。人間の身体のほとんどは水分だ。玄関脇の暗がり、もう弾まないバスケットボールのことを思い出した。

あれは暴力でした、と周りの人には話す。でも私にはそれだけではなかった。私に力があることを教えてくれた。甘く優しい時間もたくさん過ごした。役割をくれた。今でもちょうどよく満たされたい、自分を忘れてほしくない人たちが私を求めてメッセージを送ってくる。直接会ったこともない人たちが私を求めてくれる。だからあの人を絶対に悪くはいわない。あれは暴力でした、と話すけれど、周りには。

私も夢を見た。久しぶりにvividに。

これからも心身に大きな不具合が生じない限りたくさんの患者さんの夢や欲望と過ごす生活をしていくんだな。代わりに夢を見たり代わりに言葉にしたりして。もちろんその逆も。

The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.

ーStopping by Woods on a Snowy Evening

BY ROBERT FROST

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とりあえず

さて、ここで何が起きているかだ。

と何かを描写しては考える。例えばこの前の記事では個別の臨床例については加工どころか触れることをしていない。理論的な説明を加えるならロナルド・ブリトン『信念と想像:精神分析のこころの探究』(松木邦裕監訳、古賀靖彦訳、金剛出版)のどうこうなどということはできるが、治療状況を思い出しつつも取り上げているのは治療状況外でありがちなことなのでそこからぼんやり考えていることを下書きのように書いては「ちょっと待てよ」と考え直すことを繰り返している。

「いい悪いの話はしていない」「正解かどうか、どうすべきかという話はしていない」。ほぼ私の口癖だ。そんなの誰が決めるのでしょう、と自分に対しても思う。

精神分析は他者の場所(物理的にも心理的にも心的にも)で自分のことをあれこれ思いついたままに話すのだが思いついたまま話せるようにはかなり時間がかかる。それは永遠に不可能かもしれない。が、それは実は達成すべき事柄ではない。ただ、それが困難であると実感するプロセスを繰り返しているうちにいつの間にかできるようになったりもする。なんなんだよ、と思うかもしれないが、無意識を信頼するには努力より大切なものがある。それは曖昧さをそのままにしておくことだ、と私は思う。

一方が謝った。他方はそれが文脈にそぐわないと瞬間的に察知した。なのですぐに介入した。「なんで」と。別にその人が相手と話しながら別の誰かや何かとの体験に基づいた反応をすることになんら問題はない。むしろ何かしら内省的になっているのは好ましいことではないか、それを目の前の相手がそれを無視されていると感じるとしたらそれはまだ二者関係におけるなんらかの問題をワークスルーできていないということではないか。

なんて中途半端な理論的理解を当てはめることは日常生活でだってしては行けない。シンプルに起きていることを追う。

「謝る」という行為について。これもまた文脈によって全く異なる意味を持ってしまう。「別に謝ってほしくていっているわけではない」と返したくなるとき、「謝る」という行為はあったことをなかったことにする、あるいは起きていることを誤って認識している、とその人には認識されているかもしれない。そして謝った本人はそういう反応をされて「え、なんで?」となるかもしれない。すぐに介入したのはそれ以上その行為に関する何かを続けてほしくないと反射的に思ったのかもしれない、なぜならいつもそうやって謝るから、など。もっと具体的な状況が分かればこの行為が持つ多様な意味を知ることができるだろう。確実なのは行為の言葉は文脈なしで理解することは不可能だということ。

第三者として受け取る時でも相手との関係性によってその意味は異なる。いつもの友人からの相談だったら大体文脈がわかるから起きていることは理解しやすいし、友人が私に何を求めているかも大体わかる。このときも必要なのは曖昧さだ。判断なんか求められていない。

精神分析を体験してから以前には考えられなかったような仕方で自分の気持ちを振り返るようになった。このプロセスこそ曖昧さに耐える訓練だった。持ち堪える、生き延びる、という表現も随分しっくりくるようになった。

「耐え難い」と感じる状況では何かを誰かのせいにすることは日常生活のライフハックかもしれない。私にとってそれはあまり楽になるものではないので自分の気持ちの変化にじっととどまる。親密な関係においてはなおさらそうだ。SNSを投影先にしたりもしない。平面ではなく三次元の場所で生じた出来事のみを信頼する。どんな親密な関係でも相手が何を考えているかはわからないし、相手だってそんなのは常に流動的で暫定的だろう。だからこそなおさらその場に共にいるときの感覚を貴重に思うし、そこで生じた気持ちに関心を向け、それがどう変化していくかを見守ることに価値を見出す。相手をなじったり、もう相手が謝るしかないというようなことを言い募りたいときもあるがことをさらに複雑にするようなことはせずにじっと感じ続ける。変数を増やすことは一時凌ぎにはなるだろうけど結局相手を変えて同じことを繰り返すだけだと理論的にだけでなく経験で実感している。よって判断を保留し、変数も増やさない。ただ身を浸し心と身体を馴染ませる。

睡眠をとるということも時間の引き延ばしという観点からとても重要だ。夢を見るかもしれないから。自分の感覚や感情にじっととどまろうとしても相当揺さぶられているとそれは単なる我慢になってしまうので無理になるようなことはせず眠る。無意識がどうにかしてくれるだろうと身体を投げ出す。とても残念な未来を描くこともあるけどそのときはそのとき。とりあえず眠ろう。

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言葉とセクシュアリティ

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ、と昨日書いた。

図書館という設定の豊かさを改めて知った。桜庭一樹の小説で図書館最上階に住む女の子の話、なんだっけ、思い出そうとすることは全て思い出せないといういつもの現象。その子はすっごく頭が良くてというのは覚えている。あの設定も素晴らしいなと思ったしほかにも図書館が登場する小説は多い。檻でもなく鳥たちを窓の外に本の内に息づかせ、どんな人でも利用できるマージナルな場所。

この本ではここが主人公と外界の中間領域となる。彼だけがその言葉を理解する兄との場所ではなく、鳥たちとの交わりえない交流でもなく。もうこのあたりから私は切なくてどうしようもなくなった。多くの患者さんを重ねてしまったからだ。

言葉が通じると感じられる場所。「通じる」とはなにか。

「それはごくありふれた事務的な連絡事項にすぎないのだとよく分かっていながら、小父さんはなぜか、自分だけの大事なお守りを無遠慮な他人にべたべた触られたような気持に陥った。」—小川洋子『ことり』

想いは空想は生み言葉を暗号化する。セクシュアリティの機能だろう。身を隠すようにささやかな生活に「じっと」身を浸してきた彼はもはや本を閉じたら消えるような世界にはいない。著者は極めて耽美に鳥から人間の声に耳を澄まし始める主人公の様子を描き出すが、一瞬のセクシュアルな混乱や相手はこれを夢だと知っているという現実もさりげなく織り交ぜる。

「一粒だから、今でも夢のように美味しいと思えるんです。」–小川洋子『ことり』

言葉とセクシュアリティ、精神分析が取り組んできたもののすべてだろう。切なさも絶望もささやかな喜びも自由を求める衝動も私たちは患者との間で体験する。

セクシュアルな感覚は人を少なからず病的にする。言葉は暗号になったり精神安定剤になったりする。簡単に絶望しODしたりもする。確実な言葉などどこにもない。のみこんでも吐き出しても不安は尽きない。

時を重ね身体を合わせ言葉を交わし続けるなかで言葉の質がふと変わる時がある。この本の主人公は長く継続的な関係を築いたのは兄のみだった。彼のセクシュアリティは幻滅を体験するプロセスにはいるほど機能していなかったのかもしれない。継続的な関係ではお互いがお互いを想う限りにおいてセクシュアリティと言葉は錯覚と幻滅を繰り返しそのあり方を変えていく。それはふたりのプロセスでありもはや切り分けることはできない。

たとえば一方が急に謝った。するともう一方はそれに被せるスピードで「なんで」といった。今誰と対話してた?私はあなたのその部分だけを切り離して考えるなんてできない。それが「世間」からみてどうであったとしても。

分析家がスーパーヴァイザーや文献との対話を「今ここ」に持ち込むことを患者は嫌う(ことがある)。外側の第三者が私たちの何を知っているのか。私たちはそれぞれの関係を築いている。

一人の、あるいは第三者のモノマネのような言葉はセクシュアリティが引き起こす危機とは別の困難を生じさせる。それはこの本を読めばわかる。

言葉を紡ぎ二人が繋がり次へ繋がっていく。セクシュアリティのもつ豊かさと困難を毎日そうとは知らず生きている。そんなことを考えたので書いておく。

小川洋子『ことり』を読んだ。

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ。本屋で平積みされており、装幀、装画に目が留まった。新刊かと思ったら結構前の本だった。小川洋子の本は随分たくさん読んだような気がしていたが少し調べてみたら私が読んだのはすでに初期と言われているかもしれない作品たちだった。

静かな筆致は相変わらずで少しずつ登場人物の世界へ入っていくことができる。世間と正反対の穏やかさに開かれた空間、関わらないことで保たれる静けさ、関わろうとすれば漣立つこころ。ここから先へ行かなければ、これ以上話をしなければ、と意識的にコントロールしているわけではない。父や母、環境を憎んでいるわけでも社会化を拒んでいるわけでもない。ただ動物としての感覚が衰えていない。美しい音、色、パターンを愛し、常に元通りにできるものを持ち歩き、指示には受身的に従うこと、そうすれば人間に壊されることはない、と無意識が知っている。とても限られた生活圏内で、人に通じる言葉を持たなければ、と。

一方、私たちは願ったり欲望したりして今の自分になったわけではない。たまたまそうなった。言葉でほしいものが買えた。それは喜びだろうか、そうはできない人がそばにいるとして。好きな人と言葉を交わすことができた。これは偶然だろうか。興奮は少しずつ暗雲を連れてくる。僕だけが彼と言葉を交わしあえた。だけど彼はもういない。きっと彼女はこう思うだろう。空想が広がる。感じたことのない喜びが静かに躍動する。彼がそうなればなるほど「世間」である読者の私は苦しくなる。はじめて自然と僕の職場へ彼女を連れてくることができた。でも僕がいつもいる場所のドアだけは開けなかった。侵襲に怯え、関係を避けるなかいまや中年だ。年齢差など意識できるほど同年代と馴染んできたわけではない。両親を早くに亡くした。「世間」とはできるだけ距離をとってきた。それでも関わりたい人ができてしまった。関わってしまった。子供の頃から自分たちを知る人だけが警告してくれる。でも自分たちはただ静かに生きてきただけだ。鳥たちと会話をしながら。

事件が起きる。私の予想を裏切らない事件が。世間の反応も事件の結果も私の予想を裏切らなかった。一方、私は少しずつ気づいていた。彼が単にautisticな人ではないことに。それどころか思ったよりずっと情緒的で相手を多面的な全体としてみていることに。彼が出来事のなかで変わってきた面はあるだろう。でも私が決めつけていたところもあるのだ。人は分類も予測もできない。ラストへとつながる出来事の描写は見事。通じる通じないにかかわらず私たちは歌う、あるいはその歌声が届くのを待つ。死までの日常を痛みとともに生きる。何が起きるかわからない毎日をそれぞれの羽根で。

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精神分析

馴染む

依存についてずっと考えているのはどの病理にもその問題があるから。依存に関しては一般的な意味で使っているけれど、ナルシシズムに関しては一般的な意味でいうそれと精神分析でいうナルシシズムは異なるので私はあくまで後者の意味で使う。

臨床家としては治療の文脈でそれについて考えるのは仕事だから当たり前で、患者さんがナルシシズムの傷つきと出会うことも必然なのでその段階での治療状況はとても苦しいものになる。

プライベートで付き合う人に専門的な視点を向けてしまうと辛いことが多いので苦しくなる仮説がたったとしても言語化はしない。実際に深刻な問題が生じそうだったり、大切なその人がひどく傷つきそうだったり、誰かを傷つけそうな場合に指摘すればいいことだから。もちろんプライベートで客観的に相手を見ることはできないし、仮説を確かめる過程を治療状況以外では踏まないのでただの勘違いの可能性もある。でも今はこちらがみたくなくてもいろんなことがみえやすくなってしまっているので「あーあやっぱり」とか「また自分から構われにいってる」と思ってしまうことも多い。こちらが確かめなくても行動がみえてしまえばそれだけ確からしさは増す。

特にナルシシズムの傷つきを安全な距離感での依存関係によって回避している関係性は外からは見えやすいのに当事者はそこに安らぎを感じているから外からどう思われるかは否認しやすい。たいして知らない人と気楽に公然とやりとりできる現在、その関係を「安全」とは私は思わないが、当人たちのナルシシズムの傷つきの回避ということだけを考えれば当人たちにとっては「安全」で手放しがたい環境だろう。

ナルシシズムの病理は、親密な関係において葛藤し言葉を探し相手の問題と自分の問題を区別できないまま傷つき傷つけそうするなかで少しずつわかりあえない部分をもつ二人であることを認識しもしお互いを思いあうプロセス、そしてそれが維持できないのであれば自分をそれ以上傷つけないほうを選択する、という時間もかかるし苦しみの多いプロセスを過ごすことを難しくする。自分は本当の意味では愚かではないということを証明してくれる自分のことをあまり知らない相手と都合のよい距離を保つ。それは相手を自分のために部分的に使用しているということなのでは、という疑いは否認する。

精神分析はさっき書いたプロセスに価値をおくが、現代はそうではない。ナルシシズムの時代だと思う。私はそのプロセスに価値を見出すのでその内側にいるが多くの人にとってそうではないのはそれを回避するシステムがこれだけ整えばそりゃそうだろうと思う。だから私は精神分析治療以外でそれを重要だと言い続けるよりも相手の在り方に馴染んでいくことが必要なのだろうと考えるようになった。諦めるのではなく。かつてはナルシシズムの病理とみなされたものもそれが病理として現れる場所は減り、むしろそのありかたがマジョリティになりつつあるというのは現実だろう。そして行き過ぎたものだけがあっというまにネット上で拡散されネット上で「いいね」を送りあったくらいの関係(といえるのかは不明だが)のペアや集団における分断のシステムにおいてあれこれするのだろう。個人的には恐ろしいなと思うので私はナルシシズムの病理としてそれらを考え続けるけれど治療の文脈以外ではそうは言わない。言わないけど、大切な人が傷ついたりお互いに傷つけあったりというのは嫌だ。私は実際に触れ合える親密な関係のなかであれこれ繰り返していくことを大切にしたい。辛いこともたくさんだけど喜びもあることはすでに知っている。もしもう無理だな、と思ってもひとりではない。誰かを部分的に利用して孤独を癒そうとせずきちんと悲しんでからまた立ち上がりたいと思う。

いつもその作品で私を「ふつう」に戻してくれる友が悩んでいた。LINEで作品に関する短いやりとりを交わすなかでふと漏らされた弱音に少し驚き驚いたことだけ伝えた。そのまま手の届く距離にあった本を開いたら友が応募して落選したばかりの賞に冠せられた人についての文章が載っていた。評価などは気しない、これがおれの道、というようなことをその人は言っていた、と書いてあった。少し笑って「だそうです」と友に送った。明るい一言が返ってきた。

お互いもう大人だ。孤独をSNSのような場所に投げたりするタイプでもない。自分を立て直すすべは自分で持っている。互いに対してそういう信頼がある。だから短時間での少ないやりとりは少し笑いを含んでいる。きっと大丈夫。また眠れない日もすぐに来るかもしれない。でも多分また大丈夫。そういう小さな回復を繰り返せる自分たちを信頼して助け合ってやっていくのだろう、これからも。

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俳句 短詩

誰川

依存というのは応える人がいるから成立する。それを「依存」に変えるのは受け手であり、自由度を狭めていくのは両者。

身内に誘われ句会にでたとき斜め前に座っていた人の句がいちいち素敵でファンになった。その後仲良くなってこの前ももうすぐ1歳になる子と遊びつつたくさん話をした。

コロナ以前に私が立ち上げた小さなネット句会の「談話室」でその人が俳人津川絵理子さんのファンなんだと書いていて、そーなんだ!と思って私も句集を買ってみた。私は結社には入っているが結社誌と毎月のこのネット句会で締め切り直前に句を作るだけなので全く上達しない。仲間たちの情熱になんだか申し訳なく感じることもあるが彼らとおしゃべりするのは楽しいし、この句が好き!と感じるのにはなんの努力もいらない。好きな句はたくさんある。曖昧にしか記憶できなくても特に問題ない。

それにしても鳥たちが元気。おはよー。お互い早起きだね。

とても楽しいおしゃべりを終えて仕事に戻る電車でぼんやりSNSを眺めていると「あなたが誰でもかまわない川柳入門」という文字を見つけた。「あなたが誰でもかまわない」というので申し込んでみた。こういうノリは久しぶりだ。

私はまぁもろもろなんだっていいのではないか、ある程度のルールを守って楽しくやれれば、と思っているので俳句界に限らず人間関係の「濃さ」を感じる場所は排他的なものを感じてしまうことがある。まだ若い人たちが他人に「才能」を見出したり見出されたりしていろんな感じになっているのを見るとなおさら大変そうだなぁとなる。それだけで食べているわけでもないのにそんな使命感やマッチョ感は必要なのか、いやそういうのが好きなのか。というか使命感とマッチョ感(という言葉はないか)を一緒にしてはだめか。とにかく過剰さを感じることがある。言葉が本当に豊かな人たちの集団なので過剰なのは言葉だけなのかもしれないが。その人とも「そういうのは私はいいかな」と話した帰り道だった。こういうのは肌感覚というか生き方というか個人的な好みのようなものにすぎないが判断や選択には影響を及ぼす。

私の好きなその人の句は何かや誰かに依存的な感じがしない。使命感も義務感もなんかアツいものがない。ただポンッと場面や景色が置かれているだけ。シンプルでわかりやすく受け手に特に何も求めてない。賞をとったりもするわけだからそのあり方で十分人のこころをつかむのだろう。

「あなたが誰でもかまわない川柳入門」、川柳のことも講師のことも何も知らなかったが俳句を相対化してみたかったのかもしれない。相対化できるほど知らないので違和感を少し明らかにしたかったのかもしれない。

講師は暮田真名さん、後から知ったのだがZ世代のトップランナーと言われている柳人だ。Z世代というもの自体よくわかっていなかったし、時間的にアーカイブで受講するしかなかったのだが、導入ですでに「この人すごいな」と思った。私の好きなその人と似た雰囲気を感じた。

ということで仕事をせねば、だからまたいずれ。

暮田さんの講義の課題提出率の高さにスタッフの方も驚いていたが、あの講義ならそうだろう、と思う。本当にこちらが誰でも構わないのだ。何も求められていないのだ。ここには逆説がある。

が、またいずれ。良い連休でありますように。

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安全な暴力

安全な場所から振るう暴力、について考えていた。らしい。今日も下書きの上書き。下書きを一気に消して、理論的なことも考えずに印象だけまた書いておく。下書きの上書きを繰り返して学会発表とかに備えて頭使っとこう。すぐぼんやりウトウトしてしまうから。特に最近の頭痛と眠気。全部お天気のせいかしら。

安全な場所から暴力を振るう人の典型として政治家がすぐに思い浮かぶかもしれない。私はSNSにおける言葉の暴力のことを考えていたような気がする。精神分析的心理療法のような生々しいコミュニケーションにおいて顕わになる攻撃性とは全く異質のものが蔓延するSNS空間。抜き差しならない緊張感のもとでは不可能であろう饒舌さと退行した言葉の使用を私は暴力的と感じたのだろう。投影先を広げればそれに対する反応も多様になると同時に単純な分断も招く。それぞれ見たいものを見て反射的に反応することが制限なくできてしまうのだから当たり前だ。

果たして最初に自分のなかで小さな声をあげたそれは本当にこんな形で公にされることを望んでいたのだろうか。知識や経験は武装のためにあるのだろうか。正しさの押しつけなど糞食らえだと思っていたのではなかったか。苦労して身につけてきた防衛手段は安心して徒党を組み相手を見下したり、相手に変化を促すためのものだったのだろうか。自分は自分の言葉を使っただけで周りが勝手についてきただけということもできるが、もしそうだとしたらひどく冷たい話だなと思う。「嫌なら♡をしなければいい」「そのときにそういってくれればよかった」というのも安全な場所からの暴力のひとつかもしれない。そこまで「正しい」ことを知っていて相手に賢くなることを公の場で求められるのに弱い立場の人が陥りがちな状況に対しては無知ですか、と反射的に言いたくなるが当然口をつぐむ。継続した話し合いの場が持てないところで投げるような言葉ではない。もちろん私もそれを暴力とした場合、加害者の位置にたつこともある。だから意識的でありたい。なので書いているのだろう、こうして。ただその場合もSNS状況と臨床状況は全く異質であるので同じ基準では全く考えない。そしてもし身近な男性との間で女性蔑視を感じたときに突然フロイトを責めたりもしない。その想いが、その言葉がどこで誰に対して生まれたものかを大切にしたい。それぞれの事情やそれぞれのあり方を平べったいスクリーンに羅列できるわけはない。言葉は本当にやっかいだ。SNSと臨床状況が大きく異なるのは言葉の使用であり、SNS上では想像力を駆使して相手の言葉を理解しようという契機がそもそも奪われている。投げられた言葉をカテゴリー化してゲームでまた敵がでてきたときみたいに自分もパターン化した言葉と態度で撃ち抜いたり殴ったりする。それではいつまでも「それはそのままあなた自身のことではありませんか」という応酬になりそうで不毛だ。お互い傷つけあうようなやりとりはしないほうがよくないか?「普通に」考えれば。

相手に対して言葉を選んでいく余地を持つこと、それは普通の思いやりだと思う。今日も現実の人と言葉を交わしたり黙ったりする。

穏やかな1日でありますように。

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浮遊

父と息子の物語として語られる精神分析、文学の世界を見ると現代は母と娘の物語の時代らしい。

私はなにかを誰かと誰かの物語にするのが好きではない。でも自分も「これは父と息子の物語であると同時に、母と息子との物語でもある」といったりする。いいながら「ふーん」と自分に冷めた目を向けなくもない。

誰かと誰かがいたら誰かがいたりいなかったりするだろうし、現在の精神分析が焦点をあてるとしたらこの「不在」のほうだろうし「出来事」のほうだろう。

私たちは親のない子供と出会うし、親になったその子供とも出会う。親と子供というカテゴリーは適切だろうか。

もうここにはいない誰かとの時間はそこにいたかもしれない誰かの時間でもあって物語れているようにみえたその人との出来事はたやすく別の出来事にとってかわられるようなものだった。

物語の数を増やすより出来事のなかにかき消された声を探す。意味ではなくまなざしを。固定するのではなく浮遊するがままに。 

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下書き上書き

パンチのある言葉で笑いをとってしまうと後悔する。別に笑わせたかったわけではないから。

とこれ、いつかの下書き。今となっては何があってそんなことを思ったのかはわからない。そして今私は何かを書こうと思ってここにきたのだが今度はそっちを忘れてしまった。まあいっか。

私の仕事は「とりあえず」を作り出すことだな、ということもいつかの下書きに書いた。すごくたまってるんだ、ここの下書き。でも多分何日か何十日かたったら自然に消える設定のはずだからこうして下書きを上書き。なにをやってるんだか。

でも毎日ってそういうものかもしれないよ、とも思う。想起と忘却。痕跡を触発するものが現れるまでそれは形をとらないかもしれない。とる必要がないのかもしれない。その場合の主語が誰だかはわからないけれど。

誰かを好きになった。失いたくないと思った。そんなとき私たちの言葉は変わる。たとえその気持ちを隠していたとしても気持ちの強さが言葉を揺らす。いつのまにか機械みたいになってパターン的に思考や言葉を生み出していた心が動く。

またか、めんどくさい、もう二度と、あんなことは、でも、もし、とありきたりの言葉の組合せが変わるわけではない。痕跡というのはもっと違う、傷のようなものだ。手術痕のように手当されたあとのものではなく、それよりずっと以前のもはやたどることのできない記憶の彼方の。

気持ちが言葉を求める。相手の応答を求める。正答ではなく。傷がいまさら治りたがっているわけでもなかろうに。もう二度と隠すことのできない傷になるかもしれないというのに。

なにをやってるんだか。

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公園へ行った

埼京線に乗って大きな公園へ行った。今月2回目の埼京線。この前遊びに行ったばかりの友人が住む駅を通り過ぎたのでLINEした。その友人も時々行く公園だそうで今度ちびさんを連れて一緒に行こう、などやりとりした。

土地勘がないのでどっち口のバス乗り場かもわからず駅員さんに聞いた。駅員さんに「多分東口だけど運転手さんに聞いて」と言われて少しおかしかった。運転手さんに聞けるくらいまで行ければ多分大丈夫、行き先はわかってるんだ。さて、教えてもらったほうの階段を降りるとスタバはあるのに妙に殺風景で目の前のバス停に気づくのに時間がかかった。それにしてもスタバはどこにでもあるな。うちの実家の方にはないけど、多分。

ぼんやりバスを待っているといつのまにか後ろに数人並んでいた。最後尾で友人がニコニコしていた。手を振って先頭から後ろへいくとすっかり大きくなった息子さんが恥ずかしそうにしていた。彼が保育園の頃、とてもたくさん遊んでとても楽しかったというと友人も「すっごくたくさん遊んでくれてすっごく楽しそうだったんだよ」と笑った。私たちはあの日、大きな声とさまざまな表情で遊ぶ彼に大層驚いたのだ。そんな姿は親にとってもはじめてだったという。だから多分お互いいまだ記憶が鮮明で声も少し大きめになった。彼もそれを覚えているかのように私たちの言葉に何度も頷きはにかむように微笑んだ。変わらない、この印象。いい子だ。

バスを降りたら目の前かと思ったらそこはただの道路だった(大抵の場合そうなのだろう・・)。川と緑を目指せばなんとかなるだろう、と適当なことを言っていたら若い彼が携帯をみながら案内してくれた。川岸へ軽やかに駆け登る彼についていき「もうすでに疲れた」と言いながらも湿った草花が広がるのどかな景色に嬉しくなった。登り切ると目の前が一気に広がり「あそこだ」とわかる場所があった。別の友達がすでに設営をはじめていた。もう何年ぶりだかわからないが、子供たちに挨拶するなかで大体予測をつけた。まだ赤ちゃんだった女の子。生まれたとはきいていたがはじめて会う子はすでに3歳、ということは、など。いちいち「もう!?」という言葉が口をついた。

若い頃から子育て支援のNPOで何かと活動を共にしてきた。夏には20年近く、地域の子供会や自閉症児親の会と協力して大きなキャンプを開催し続けてきた。私は障害のある子どもたちの担当として参加していた。それにしても、というくらいキャンプの知識は何も身についていない。タープやテントを立て、火を起こす。私がしたのはキャンプ用の椅子を広げることくらいだが、3歳児は慣れた様子でペグを打ち込もうとしていた。まだ力が足りないがすでに形ができている・・・。かっこいい・・。私には一生身につかないことを彼らは普通にやっていくのだな。頼もしい。これからも私は安泰だ。よろしくね。

今日は保育園巡回の仕事だ。大分減らしたがこの仕事ももう長い。赤ちゃんから卒園するまで本当に多くの子どもたちを観察し、保育士さんたちと話してきた。

彼らがどんな大人になるかは想像もできない。でも信頼はできる。彼らが大人になって、いかに自分が無視をされ蔑まれなんとか生き延びてきたかを言葉にならない声で主張しなくてもすむように、彼らに時間と場所を優先的に準備していくこと、自分に対してより少しだけ優先的に。きっと今日もそれを具体的にする方法について話すことになるだろう。

今日は暑くなるそう。どうぞお大事に。

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精神分析

日記

知床の観光船、心配です。とっても寒いでしょうし。

知床には一度行きました。GWに。お願いしていたユースホステルのガイドさんがとてもよくて観光バスなどの渋滞にも巻き込まれず、知床の自然をゆったり満喫できました。スキーで移動する時期を強くお勧めされました。私はスキーは好きですが寒いのが本当に辛いので相槌をうつにとどめました。こんなのんきな思い出話ができるようにどうか無事でありますように。

今日は今年度最初のReading Freudでした。『フロイト全集4』に入っている『夢解釈』の第一章を途中まで読みました。1パラグラフずつ順番に音読し、区切りのいいところで私が解説を入れつつ議論しながら進めました。フロイトは膨大な先行研究をあっちとこっちに分けて後者の意見で自分の理論を基礎づけていく書き方だと思うのですがそれはいつもと変わらない気がしました。「いつも」とか書きましたが、私たちが昨年度読んでいたのは1905年の「あるヒステリー分析の断片」で、『夢解釈』の方が早いので「いつも」は変ですね。その頃すでにそうだった、と。

國分功一郎さんが動画で精神分析について話されているのをみました。問題意識がぶれないなあと思いました。が、しかし、転移の力をその恐ろしさを含め十分に理解していそうな國分さんにやや通俗的な説明をされてしまうのは複雑な気分になるな、毎回、と感じました。またお話できたら嬉しいなあ。

眠くてゴロゴロしていたら書類をかけませんでした。読書会は趣味なので楽しくできました。進捗もないが矛盾もない毎日、と一瞬思いましたが、矛盾がないなんてどの口が、って感じだな、と思いました。相手あることに対して葛藤を否認し自分だけ現状にのっぺりと馴染んでダラダラ過ごしているだけなのにそれを「矛盾なし」とはなにごとと。甘えと依存の問題はこういう一瞬一瞬の心持ちに現れるのかもしれません。愛すること、働くこととはよくいったものです。実際にフロイトがそう言ったかどうかはわからないそうですけれど。

とりあえず今はまともな姿勢で眠ることを心がけることにします。

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精神分析

居場所

日記なる文学に興味を持って色々読んでいる最中、作家を主たる職業にしているわけではない方々の手作り日記を購入できるイベントへ行ってきた。外でのイベントは楽しい。日記の書き手とおしゃべりしながら数冊購入。この世界には本当にいろんな人がいて、いろんな仕事、いろんな恋愛、いろんな生活がある。なにかを体験するともついつもの感想だが本当に毎回驚くほどそう思う。

それにしてもだ。人はなぜ自分のこんなことあんなことを見知らぬ人に向けて語るのか。語りたいから語る、というのがシンプルな考え方のように思うけど、だとしたらなぜ語りたいの?私だってここでこうやって書いているわけだけどみなさんの日記にあるような個人的なあれこれを書きたい衝動にかられることはほぼない(ぶちまけたいことはたまにある)。

私はよくしゃべるほうだがそれよりももっと聞くほうだと思う。仕事がそうだからというだけでなく、私のしゃべりは私ひとりからは生まれない。日記を書いたり、小説を書いたり、俳句や川柳を作ったりする人たちはたぶん自分との対話がとてもとても上手なのだ。

自分のなかに知らない人物を作り上げて、その人物に性格や生命や物語を与えていく。誰もが目にしているはずの景色や仕草をさりげなく引き寄せその存在の確かさを知らせる。寝転んでも持っていられる言葉たちを反転し分解しポンと置いてたまたまそれを目にした人を驚かせる。自分のなかの言葉が豊かで見せ方も上手ということは見方も上手なのだろう。

彼らの中には自分以外の目も耳も色々ある。もともと備わっている。もちろんそれを発見して育てるのは他者である私たちにほかならない。これは運だな。うん。どっちの運がいいとか悪いとかの話では無論ない。

私はどうだろう。同じ曜日同じ時間に同じ人の話に耳を傾け様子を観察する。様々なことを考えてはいるが、うっすらと透明人間みたいに互いを侵食しあっているから「自由連想」とかいったところで互いに不自由、という事態にいる気がする。ところで透明人間になってずっと好きな人のそばにいられたとして、それって絶対自分の首をしめるというか苦しみって増えるよね、余談だけど。

患者さんが発する言葉はみんな違う。同じ言葉をしゃべっていてもまるで違う。きっと私といるときとそうでないときでも違う。伝えようとしても伝わらなかった、一生懸命言葉にしたのに無視された、ペラペラと喋れば喋るほどむなしくなった。

私がきく言葉たちはそういう言葉。公に向けた言葉ではない。

多分日記の書き手たちもそういう言葉をもっているだろう。伝わらない言葉、伝えようのない言葉、言葉なんて意味ないじゃないかとはねつけたくなるような言葉。

それでも公にむけて書くとしたらそれは患者さんが自分だけの場所を求めて私のところへくるように、彼らの言葉がそこを居場所として求めたからかもしれない。

私は読み手として、聞き手として彼らの居場所づくりをともにしているというわけだ。なるほど。「居場所」の話なんてこれまで数えきれないほどしているが、なんとなく書き始めた言葉から導き出されるそれはいつもとは少し違う気がした。

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精神分析

大抵のことは

大抵のことはなんとかなるよ、大丈夫。とよくいう。テキトーと笑われたりしかめ面されたりする。

でも思う。

大抵のことは大抵の場合なんとかなる。なんとかしたいことがなにかにもよるけど。

と言い出すと「それ結局なんともなってなくない?」ってなるかもしれないけどこういうやりとりしてるだけでも相手の話きいて気持ち動かしてつっこみいれたりしてるわけですよ。

やりとりを誰かしらと続けるうちに時間は過ぎる。それに持ち堪えているうちに最初の問題は別の何かに変わってる。

この繰り返し。

だから大丈夫、とはいわない。でも時間の経過に身を委ねられた自分のことは信頼してもいいのでは?

いい悪いではなくて変化していくものとして今日も一日を(やり)過ごせますように。

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精神分析

地震

地震、びっくりしました。気持ちも身体も大きな変化ありませんでしょうか。

何月であっても地震がくると11年前の3月11日を思い出します。あの日の地震は神田小川町で体験しました。その日は週一回の専門学校勤務の日でした。もう何階か忘れてしまったけれど高い階にあったカウンセリングルームからエレベーターで下に降りて職員室でみんなといるときに大きな揺れがきました。その日だったか、地震の後、カウンセリングルームのドアをはじめて開けたら、掛け時計が落ちてガラスが飛び散っていました。それまでに被災地の映像をみていたにも関わらず、私は誰もいないその階で鍵を開けドアを開いたときのその光景に最もリアルな衝撃を受けた気がします。

今思うと地震直後は混乱してぼーっとしていたのかもしれません。表面上はみなさんと会話をしたりしていました。大きな揺れの最中に繋がった携帯もすぐに繋がらなくなりました。東北にご実家がある先生もおられました。いつの間にか玄関先のテレビに皆が少しずつ集まりはじめました。その黒いものが海水であると知るまでに時間がかかり、それが一気に大地を覆っていく様子を見つめていました。その日はたしか東京ドームホテルで卒業式があり、懇親会中だったか、終えたあとだったのか、両側に立ち並ぶビルが音を立てて揺れるなか無事に戻っていらした先生方が涙ながらに話すのをみてようやく我に返ったような気がします。

交通機関の復旧も目処がたちそうもないため歩いて帰りました。いつもスニーカーなのにその日はなぜかぺったんことはいえパンプスを履いていました。そして寒かった。神保町に立ち並ぶ古本屋さんの前を人の波にのまれるようにゆっくりと歩くしかなくただ寒かったけれど、途中途中の居酒屋には電気がつき、楽しそうな人の姿が見えて安心しました。新宿駅が真っ暗に封鎖されているのをみたのははじめてでしたがぼんやりと横目でみて通り過ぎただけだった気がします。少しずつ人がばらけ、電話もつながりはじめました。その間にも東北では被害がどんどん広がっていたことは間違いありません。でもやっと家に着いたときの私にはそれを想う余裕はあまりなかったような気がします。

多分こういうことを前にも書きました。地震がくるたびについ書いてしまうのだと思います。

だから後悔しないように、とは思いません。だってそんなことできない、多分。喪失の可能性に対して何をどう準備したりすればいいのか私にはわかりません。ただいずれ喪失は起こる、なんらかの形で、お互いに。その現実を否認しないことも大切でしょう。でも実際の喪失を前にしたら起きてもないことに対する注意など、とも思うのです。

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3月10日夜

お菓子が食べたい、こんな近くにコンビニがあるのに買いに行かなくてえらい、寒くて出るのがめんどくさいだけだけど。まだ夜寒いよね。毎日暖かくなったら買いにいっちゃうのかな、そう考えるとこれまで寒い辛い動きたくないばかりいわれていた(私が言っていた)冬のえらいところってそこじゃないかな。制止機能。

寒さ>お菓子。冬、私の欲望を簡単に萎えさせる強力な存在。でも早く暖かくなってほしいな。というか、コンビニいかないのはすでにお菓子があるからでしょ、春限定ピノとかも買ってしまったじゃないか(アイスじゃないか、寒いとかいってるくせに)。

などどうでもいいことをつらつら考えているうちに時間は過ぎていく。それはそれでいい。冬のいいところを見つけたし。きっと昔はもっといいところを知ってた、冬の。でもちょっと待って。私の故郷はからっ風で前髪が凍ってしまうし、肌は粉吹きになってしまうし、本当に辛かった。あれ?せっかく見つけた冬の良さはどこへ?

制止機能、自分を止めてくれる存在。本当に大事。やり続けている行動って止められないからやり続けているわけで、それを助長してくれる存在の方に親しみも信頼も感じやすいかもしれないけど、依存とか中毒の問題になってくるとそうも言っていられない。難しいです、欲望の問題は。

自分のそれが膨れあがって相手の心配も制止も振り切って暴走して気持ちよくしてくれる相手で隙間を埋めることばかり上手になってその先が虚空と知りながら痛みや恐れを別のものに変えて露悪的に振る舞って時折かすめる罪悪感や恥ずかしさもごまかすように外へ外へと向かってく、それはとっても仕方がない。

「でも」と言われるのはわかってる。私たちは一人では生きていけない、っていうんでしょ。「というか生きてないでしょ、実際」と誰かに言い返される。

最初は好きなだけだった。一方は我慢せず、一方は我慢して、そんな関係も楽しかった。大好きと言ったり言われたりすればなんとかなった。でも少しずつ言い訳が増えていくのも感じてた。そしてそして、と涙が増える。心が突然音を立てた。動けなくなってようやく少し気づき始める。このままでは、と。

辛い。いろんな生き方があるのは間違いない。全ての症状が時折救いになっていることも間違いない、かもしれない。

私たちは誰を満たしたくて誰を救いたいのだろう。そんなできもしないことをなぜ試みるのだろう。自分で実験済みなのに。自分にさえしてあげられないのに。いつも身近な人を泣かせて、苦しませて、傷つけて知らない人と出会っていく。いつか、どこかに、あの人となら、そんなことをいつまで続けるのだろう。何にだって意味はある。そうね、それもそうかもしれない。

「でもね」となる。いつだって「でもね」がつく。うるさく感じるでしょう。実際正解などないでしょう、おそらく。

「でもね」と何度も言われ、何度も跳ね返してきた私だって思う。「でもね」と。いずれ戻る場所はそのうちできていくかもしれない、一度は何もかもなくなったその土地に戻る人がいるように。例えば雨が強くて、例えば人身事故で、例えばウィルスで、うん、止めるのは人だけじゃない。できたら意図せず生じるなにかが、なにかを奪う形ではなく、時間と居場所を準備してあなたや私をひとりにしてくれますように。少しずつ孤独を知って、少しずつ素直に触れ合えますように。いつも最後は祈るように。できることがなくてもできることだから。

明日は3月11日。

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精神分析

SNS雑感

「神経症は倒錯の陰画である」といったのはフロイトだ。

現代は倒錯を空想においてのみ許すような時代ではなくなった。これまでひそやかな空間でおこなれていた主に性的なひそひそ話は単純な画像と揶揄か自嘲かわからないような短いコメントとともにSNSを流れ、これまた見たくない人にも見える形でコメントやイイネ!がつくようになった。

もちろんそれがすべてどうというわけではない。

ただ、それらの表現が時間をかけて「すべきでなかったこと」「二度とみたくないもの」あるいは「暴力を振るわれたような体験」に代わっていく可能性に対する想像力が乏しすぎるのではないか、と思うことはしばしばある。

そしてそこに一往復だとしても相互作用がある場合、それがいくら条件反射的ですぐ忘れられる類のものであれ、いやむしろそれが条件反射であればあるほど自分が「モノ」として消費されたように感じる人もいるのだ、ということに対する注意力がなさすぎではないか、と感じたりもする。

SNSは表現のプロの場所ではない。誰もが参加している日常生活の延長だ。

私が仕事柄、そのような双方の傷つきに多く触れているせいでそんなことが気になるのだろう、という人もいるかもしれない。それはそうかもしれない。だとしてもそれは「そんなこと」では全くない。

精神分析でいう分裂と否認という防衛機制によってSNS内個人も集団も守られてはいる。でも私たちは画像や書き言葉といった平面を生きているわけでも、そこで年をとっていくわけでもない。分裂や否認という防衛機制は自己を一時的に守っても基本は崩壊を防ぐためであり、ぎりぎりを保ちながら生活をする不安定さを積極的に求める人はそう多くないだろう。

条件反射的な賞賛や批判で膨れたり崩れたりしていく自分を支えるためにさらにみえない他者の評価を気にするような循環にあまりいいことがあるとは思えない。

が、私たちは繰り返す。自己や二者、三者という小さな集団に戻ってアンビバレンスを自分として体験し苦しみたくなどないから。だから自分と他者の境界をあいまいにする努力をしながら「傷つけたのは自分じゃない」と自分にも相手にも言い訳するようにいつも少し刀を外にむけながら毎日を過ごしている。気まずさや後ろめたさがそこに生じているなら未来はまだ明るいかもしれない。あるいはまず身近な人と、と思えるならまだそこはやり直せる場所かもしれない。

私たち専門家は、たとえばSNSで心身を病んでしまった人たちにそこから離れることを勧めるだろう。あるいは限定するだろう。行動の結果に責任をもてないなら体験を減らしたほうが負担も減る。

ひっそりと、どこにもださない自分をもつ重要性。秘め事としての性。それを言葉少なに謳歌する人間の部分。このSNS時代にこそその価値は強調されてもよいのではないだろうか。