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再会

西側の窓を開けた。鳥の声が直接入ってきた。窓の外で溜まり込んでいたような風も。気持ちいい。書き出すと眠気がくる。コーヒーを淹れた。詩を書く友達の手作りパウンドケーキも切ってきた。ラジオからは多分テクノ。昔テクノを勉強しにドイツに行った教え子がいたがなぜドイツだったのか。小さな頃から大変な想いをしていた。テクノにはまってからがすごかった。今思えばあまり年齢も変わらなかった。いつも穏やかに微笑みながらそばにいて少しだけ面白いことをたまにいう人だった。今もその人の話をたまにすることがある。どうしてるんだろうね、とその人を思い出す私たちはなんとなく笑ってしまう。そういう人だった。

隙間時間に出かけた。本当によく笑った。出会ってから30年。連絡をとるとき少しドキドキしたんだ、というとすぐに共感してもらえた。やりとりを続けてきた友だちもいるが卒業以来はじめて会う人もいた。会えばすぐにわかる程度に見かけも変わっていないことに安堵して笑い、震災やコロナだけでなく様々な出来事をそれぞれが生き延びてきたことをみんなでねぎらいあった。小さな大学で毎日のように顔を合わせていた日々を卒業したあと、それぞれが過ごしてきた日々を聞きながらふと交わされるやりとりが当時と変わらずそれにもびっくりしあった。外からみたらだいぶ変わったに違いないけどね、と笑いつつ。入学後間もなく同じ時間、同じ車内でそんなことが起きていたのか、とはじめて知ったのもすごく可笑しかった。私は長生きしそうとか言われながら同窓会幹事にさせられたわりになんの仕事もしてこなかったけどみんなのおかげで今回とてもいい形で再会を果たせた。とりあえずというかなによりもみんな生きていてよかった、という一方で身近で亡くなった人の話をしたりもした。そういう体験が増えてくる年齢でもある。廃部寸前の弱小バドミントン部が数年後優勝を果たすチームになっていたのにも驚いた。私が部長のときは相手チームが私たちに向けるやや見下したイメージ通りのかわいいユニフォームで、しかしそこそこ粘る、が楽しむための戦略だった。強豪相手に意外と粘るから悔しくて泣いてた人もいた。イメージで人を馬鹿にしちゃいけないね、というメッセージは伝わる人には伝わったんじゃないか。

優しくたくましいみんなの日々が今日も豊かでありますように。それぞれの毎日が大切にされる社会でありますように。今朝はNHK俳句、斉藤志歩さん。鑑賞がよすぎて毎回感動しちゃう。楽しみ!

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 お菓子

余裕のなさとか

缶がガラガラと大量に落とされる音を聞いて目が覚めた。多分大量のレモンサワーの缶がプラスチックの箱の中に投げ込まれたのだろう。ベランダから覗こうかと思ったが外に出られる格好ではなかったのでやめた。でもまあ起こされたついでにと着替えて裸足で靴を履き外へ出た。風が弱い。もう少し吹いてくれていいのに。通りにはすでに誰もいなかった。箱の中は予想通りレモンサワーの缶で底は見えなくなっていたがいつもみたいに溢れんばかりではなかった。スーパーの3円のビニール袋を傾けて発泡酒とビールテイスト飲料の缶をガラガラと箱に落とした。レモンサワーが見えなくなった。ビニール袋に一本がくっついて落ちてくれないので手で剥がして置いた。ほとんど乗らない私のマウンテンバイクもどきにかけた傘がまだ少し濡れている気がしてわかりづらい平面のボタンを押し込んでサドルに立てかけた。薄い日陰ができた。まだ光が弱い。今日も曇り空だろうか。キッチンに戻ると一本だけ缶が置いてあった。捨て忘れた。朝そこに立った時に「これも捨てなくちゃ」と思ったのにな。

さて今日は教えてもらたチーズケーキのお店に寄りたいのだけど移動時間を考えると余裕がなさそうだ。うーん。でもキャロットケーキが届く予定もある、そういえば。以前散歩コースに美味しいキャロットケーキを出してくれるお店があった。人気のある店だったが遠くへ移転してしまった。移転先は結構田舎で車がないといけない。相変わらず地元の人に愛されているらしく売切の毎日らしい。よかった。キャロットケーキは見た目もとってもかわいい。見かけると思わず寄っていってしまう。こんがりした茶色にクリームチーズの白。この前も外から覗いたパン屋さんにキャロットケーキを見かけて思わず寄っていってしまった。そこのは断面が正方形ですごくきれいな地層みたいだった。惚れ惚れした。でもかなり大きい。一人分のカットみたいなんだけど。うーん。なんかもったいないから誰かといるときにしようと泣く泣く諦めた。その日から通りかかるたびに「今日はあるかな」とガラスの向こうを探してしまう。あると嬉しくなる。ないと「これからかな」「もう売り切れちゃったのかな」と思う。そしてチャンスがある日に限って余裕がないか忘れてしまうかする。美味しいものがそこかしこにあるからな。

あら。大きな声がして赤ちゃんが泣き出した。大丈夫かしら。この辺、また赤ちゃんが生まれてたんだ。しばらく聞こえてなかったんだけど。赤ちゃんの泣き声もどんどん変わる。保育園の子どもたちも元気かな。土曜保育はいつもと違うおもちゃで遊べるかもしれないね。みんな色々あるだろうけど元気に育つんだよ。

昨日、不買運動について一瞬考えた。人物と作品は関係ないと私は思っているがそう思えない関係があることも知っている。作品によって名を成した人に心も体も弄ばれ仕事もままならず収入も減った人がその人がいろんな種類のパートナーに囲まれて平然と次の作品に向かっていることを知ったらまた日常の行為とかけ離れたよくみれば軽薄なだけの作品(と関連した諸々)に金が入って相手を利用する資源や機会を増やすのかと不買運動に乗り出すことは十分にある。ただ、サークル的関係は解体しない方向で動くから運動と呼べるほどの大きな動きにはならないだろうし多くの女もそこに巻き込まれているわけだからシスターフッドなんてまるで感じられずまた絶望と孤独に陥るだけけかもしれない。それでも「声をあげる」としたらそれは決して黙らない相手に「こんな状態でもまだ生きてるよ」ということを知らせたいからかもしれない。でもそれだって軽薄に知性を活用して人を騙しながら誰かと嘘っぽい幸福な関係を築いている人は自分がしたことまで知的に面白がって距離をとれてしまうのですでに切り捨てられている可能性が高いかもしれない。毎日、高橋ユキさんのツイートでいろんな事件を知るのだけどああいう犯罪とこういう搾取って量と程度以外でどうわけていくわけ、とそこに連続性を見出しながらもそれが法的に罪ではなければ罪ではないという事実に戦う気力すらなくなることだってある。罪悪感を感じない人でも法的に「罪」というレッテルを貼られたら罪人になるわけだけどそれはレッテルでしかないし反転可能な場合もあるから難しい。むしろ法的には被害者とされる人の方が孤独で小さな抵抗を試みるたびに罪悪感に苦しんでいたりもする。都合よく使われ言葉を限定され身体は発散の場所にされ我慢は労われるどころか言葉にしなかったことを「どこに書いてあるんですか」と責められたり。「傷つく」という言葉を簡単に考えたりいろんな側面から検証しないとと検証もせず言っているだけの人はこういう目にあったことがない幸運の持ち主かもしれない。そんな余裕ないことっていっぱいあるんだけど。仕事をしないと生活が維持できないから怒りや気持ち悪さや理不尽に学ぶしかないとどうにかこうにか切り替えようとしてもすごく時間も気力も奪われてどうにもできない体験ってしたことある人って多いと思うんだけどだからといって他人は他人。そういうときだけ割り切れる。誰だって自分のことが一番大事で気持ちよくいたいものね。意味とか価値とか考える余裕もなくそういう目に遭い、それでも生きているという事実に応じていくしかない状態で自分のことも誰のことも殺めず生きていくためにはどうしたらいいのだろうと苦しい夜を過ごす人たちはどうすればいいのでしょうね。言葉で追い詰め身体を傷つける人に限って「そうしないためには」とか他人事のように言ったり書いたりしはじめるからせめてそういうときはすかさず「あのときのあれはなんだったんだろう」と呟くくらいはしておくとかね。不買運動も小さな抵抗。小さな抵抗は小さな祈り。届かずとも自分が生きていくために、と思えばいいのかしらね。

今朝はローゼンハイムのバウムクーヘンと紅茶でした。外はいつの間にか日差しでいっぱい。難しいことだらけだけど今日も一日、なんとかかんとか。

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お菓子 精神分析、本

Netflix、フロイト読書会、お菓子

早朝からNetflix三昧してしまった。「その女、ジルバ」とか「クィア・アイ」とか。「クイア・アイ」相変わらずいいわ。この上品なハイテンションも好きだしみんなすごくよく相手の話を聞くしいうべきことをはっきりいうところも好き。ポジティブになるって一人じゃできないもんね。大事にされて真剣に考えてもらえることは時にうざいし拒否したい気持ちの方が大きくなることもしばしばだけど変わらなければという人には欠かせない関わりになる。クィア・アイはそれぞれの専門性を生かしたチームでやってるのもすごくいい。変化のためにはいろんな方向からの支えを準備していくことが大切になる。前もってではなくて同時進行で。前もっては難しい。何が起きるかは誰にもわからないから。でもパターンというのはあるから積み重ねられてきた歴史は大切。だから勉強も必要なのね。友達も大切。積み重ねといえば何年も続けているフロイト読書会、フロイト全集を最初から読んできて主要論文は2巡目、3巡目になるわけだけどみんなの読み方がすごく変わってきた気がする。こうなるとみなさん優秀だから私は教わることの方が増える。「それは精神分析でなくても理解可能」という範囲での対人関係的な読み方ではなくなってきて、自分の枠組みを壊して広げた感じ。強烈なわからなさの中で持ちこたえてるとこういうことが自然に生じる。多分みんなはまだ「わからないわからないわからない」の中にいるような気持ちでいると思うけど。わからないはそりゃそうでしょう。わかるというのがどんな状態なのかと聞かれたらわからないでしょ。だからわかるわからないの軸はとりあえずなくしてその場にとどまることでいいんじゃないかな。人間関係だってひどい人はいっぱいいるけど心ある人もいっぱいいるから判断は速すぎない方がいいかもね。違和感は大切にした方がいいけど。

今朝は相変わらず長野のお土産の「栗のガトーショコラ」でした。なめらかな生地で小さくてきれいで美味しかった!

今日も雨?今はくもり。このまま降らないといいね。傘持ち歩くとなくしちゃうもの(そういう人多いでしょ?)。それでは今日もご無理なく。余裕なくすと悪循環始まっちゃうからいろんなこと受け止めつつも真に受けすぎず距離取りすぎずゆらりゆらりやれたらいいかもね。わからないけどね。

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精神分析、本

早朝『ヒステリー研究』を読んでいた

深夜と明け方の間くらいからスズメが鳴いていた。夏至を過ぎても日の出はまだ早い。「日が短くなったなあ」と感じる日は本当にいつの間にか訪れる。毎日毎日空の変化を感じていたとしても。なつかれくさかるる、あやめはなさく、はんげしょうず・・・と唱えていたとしても。あ、薬の飲み忘れに気づいた。何か唱えるって大事かもしれない。

空から少し暗い色が抜けてきたのをみてフロイト『ヒステリー研究』を読んでいた。新しくした遠近両用のメガネが合わず本を読むのに一苦労、ということで前のメガネを使っている。またメガネ屋さんにいくのに時間作るの辛いな。さてフロイトとブロイアーの共著でありながらその対立点が明確になった『ヒステリー研究』。岩波版だと『フロイト全集2』。1は失語症論。3は心理学草稿。4、5は『夢解釈』。『夢解釈』を精神分析の始まりとすることが多いけどそのエッセンスはその前夜に全て、といえるくらい出揃っている、と思えるほどその後も長く検討が続けられる論点が提示されている。フロイトとブロイアーは二人とも臨床医であったがヒステリーに性的要因を見出すフロイトにブロイアーはつきあいきれなかったようだ。というより実際にアンナ・Oの治療をしていたのはブロイアーであって、強烈に性的な感情を向けてくる患者といたらそこで生じる混乱や衝動に対処することにいっぱいいっぱいになってしまい理論的考察をする余裕などないというのが臨床的リアリティであるようには思う。ましてやそれを性的なものとして捉えるのはかなり勇気が必要なのではないだろうか。今、精神分析を実践する私たちだって性的なものに対する態度は様々な否認と抵抗と共にありその捉え方や表現に決まったものがあるわけではない。性的なものは言葉にすればするほど混乱を生じさせるようなところがあるし。ということを学ばせてくれる本でもあるのだ、これは。精神分析における「重層決定」「情動」という言葉の登場もこの本の理論的部分と言われている。もちろんこれらの言葉自体は他の分野でもすでに使われていた。今読んでいるフランス精神分析の本は「情動」に関する考察でまるごと一冊という感じだし何年経っても謎なのに重要という概念は結構あるものだ。

もうこんな時間。準備準備。今日は再び雨が降りそう?こっちはまだ降っていません。少し涼しいのは助かりますね。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

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夏至、衣更、コンポ

朝の風が涼しい。夏至ですね。太陽は一番高いところへ。今日から昼間が少しずつ短くなっていく。体感とは違うけどその事実を知っていると毎年この日がとても寂しい。私の場合、朝の仕事、昼の仕事、夜の仕事があるわけではないけれど「日が長くなりましたね」「夏至ですね」と天候のお話をするのは朝とか昼間にくる人たち。「よく降りますね」ももしかしたらそうかもしれない。夜ってあまりお天気の話しなくないですか?「昨日の雨は大変だった」とか少し前の話をすることはあっても。そんなことないかしら。

衣更、「ころもがえ、ころもがへ」と読むけどこれは初夏の季語ですね。私はここ何年も衣更は少しずつ少しずつ。5月が特にそうだと思うのだけどまだ厚手の上着を来たくなったり半袖でも大丈夫そうな日があったりする。半袖を着て上着を羽織ろうかな、くらいの日に夏服が入っているタンスからその日着る服と似たような数枚をもってきてさすがにもうこれは着ないかなという厚手の冬服をそのスペースに置く。その繰り返しをしているうちにいつの間にかその季節仕様の服がそばにくる仕組み。ずっとしまわれっぱなしの服もあるけどね。つい同じのばかり着ちゃうから。

コロナ禍でオンラインの仕事ができるようにその初期に一気に整えた。その後も少しずつ仕事と生活のバランスを考えながら部屋を変えているが先日、西側の大きな窓に向いたこの大きなテーブルはここでなくてもいいのではないか、と急に力仕事をはじめた。うちの場合、動かさねばならないのはほとんど本なのでいろんなところに本を積み上げ直し部屋のほぼ真ん中にどーんと机を置いてみた。景色が全く変わった。大きな本棚にスペースも見つけた。懐かしい写真たてと写真も。どうしてもっと早くこうしなかったのかしら。でももし最初がこうだったら数年経ってこの前までそうだった場所に移動して「どうしてもっと」とか言っていたかもしれないものね。

三段ボックスの組み立てに苦戦しているときにたいして使っていなかったコンポ(という言い方自体懐かしい)でラジオを聞いていた。東京に来てから結構長くテレビもなかったしずっとラジオ生活だった。よい。音楽のサブスクもやめた。コンポのそばに積んであったCDやたくさんのカセットやMD、これら全部この小さなコンポで聞けるのだから、と場所を変えた大きなテーブルにコンポを置きラジオを聞きCDを聞きはじめた。今日はなぜかずっと一枚だけそばに置いておいたSonny Rollins、Way out west。1957年製作、発表。私が買ったのは1991年。

CDの取り出し口の小さなボタンを押して英語教材を取り出しソニー・ロリンズを入れた。すぐにあの音が聞こえてくることを期待していた。CD ReadingがTrack1とかに変わるのを待った。あれ?表示が変わらない。NO DISCとでた。えー、入れたばかりですよ、ともう一度取り出し口のボタンを押して一度取り出してもう一度入れてみた。CD Reading、でまたNO DISC。なんでやねん。でもこういう動作自体なんか慣れてるわ、と思って数回やったあと電源を落とし、またつけた。小さく何かが回転するような音が聞こえた。CD Reading→CD1。やったー。入れ直す、電源を落とす、ってこういう機器の危機に対する基本動作だよね、と思った。

昨晩は仕事後も会議があったから今日の資料を作る余裕がなかったのにまたどうでもいいことを書いてしまった。資料作りの方を日課にすべきかしら。でもきっと無理。こういう頭空っぽにして手作業する時間が必要なの。ああ。間に合うかな。がんばろう。夏至だよ、一年に数回しか言わないから言っておこう。今日は昨日より涼しい風が入ってくるけど夏至です。みなさんもどうぞお元気でお過ごしくださいね。

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お菓子 精神分析、本

お菓子、Webちくま、メタ

今週は信州のお土産で朝を過ごしています。昨日のはnoteに載せてしまったけど「ヌーベル梅林堂」の「くるみやまびこ」ハーフ。アンガディーネ(伸ばすって知らなかった)みたいなお菓子でとても美味しいのだけどウェブサイト見てびっくり!7年間保存できる「くるみやまびこロングライフ」バージョンもある。信州だから登山用の非常食にもと。すごい。私の想像ではロングライフバージョンは少し乾いた味がしてる。それにしても「7年」というのはどういう基準から算定されたのかしら。すごい。今日はお土産さんのSHINSHU BLACK TEA COOKIE & CREAM 信州 紅茶のミルククリームサンドクッキー。これ美味しい。ザクザクした生地と紅茶のクリーム。なんだか懐かしい味がする。

いちいち動きを止めるような衝動が生じるけどそこそこのスピードで進まなくてはいけない。みんな他人を利用しながら生きているということに痛みを感じつつ自分がそうしている仕方を確認しつつ。とどまるには自分をメタで見ていくしかない。

本が助けになる人にはWebちくまのこんな連載もいいと思う。堀越英美さん(@fmfm_nknk)の新連載「あなたの悩み、世界文学でお答えします。」。面白かった。

https://www.webchikuma.jp/articles/-/3127

私はジェインみたいになれない、「強火と弱火を自在に操る」なんて、という人もいるでしょう。というか大抵の人はそうでしょう。でもその物語を読んでいるときは少なからず主人公に同一化するわけで実際にそうなれるかどうかよりもひとときでも違う自分になれる自分を発見することの方が大事なのかも。だって「私にはできない」でも「私なんてどうせ」という言葉でも相手になってみようとした結果の言葉でしょう。相手の立場になってみる方法なのね、読書は。最初から拒否的になることだって生じるでしょうけどそれはそれ。自分の気持ちが自分の想定とは異なる方向に動く予感を感じるだけで苦しくなる場合だってある。それもそれ。そういう心の状態にひどく傷つけられる場合もあるけどそういう心は傷つくことをしたくないのだから心を動かせる側がメタを目指したほうがいい。弱者だから傷つく、苦しむ、という場合もあるけれど強者(大抵変化を嫌う人)の脆弱さの投影を引き受けている側面も大きいと思う。だから憎みつつもそれに覆われてしまわないことが大切なのでしょう、ジェインのように。でもこれはやはり文学でのお話。それはそれはひどい結末のお話も「単なるお話」と思うこともできるね。物語に入ってみて出てきてなにかを思うとき、それは入る前よりも自分を客観視できる状態なんじゃないかな。すぐにそうできなくなってしまうかもしれないけど。実際の人間と関わるっていうのは大変だ。でも人がいる限り、人でいる限りしかたないからプチメタ大事かもね。ヘビメタみたい。また言葉遊びに入ってしまうからこの辺にしとこう。プチコントロール。明日は夏至。寂しいな。とはいえ暑さに気をつけて過ごしましょう。

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さくらんぼ、風、鳥

山形からさくらんぼが届いた。二つに仕切られた箱にぎっしり。ツヤツヤ。キラキラ。さくらんぼは「桜桃の実」という季語でもある。「きごさい歳時記」によると「セイヨウミザクラは、明治以降日本へ導入された後、主に山形県で海外品種をもとに育種が行われ、日本の代表品種である「佐藤錦」や「紅秀峰」等の品種が作出された。」とのこと。その山形県からやってきたさくらんぼ♫音符みたい。かわいい。まずは「常温で」と教えてもらった。たしかに!冷やしたあととは全然違う甘味。そうね、果物って冷やさないで食べるときのそのままの味が格別だよね、忘れとったわ。保存の場合、カルピス漬けにして凍らせるのも美味しいと聞いたのだけど保存するまでもなくあっという間になくなってしまいそう。でも大切にいただきたいし。でも1秒でも新鮮なうちにいただきたいし。ああ、美味しいものを美味しくいただくにはいろんな葛藤があるのね。

さっき南側のベランダにでたら風がとても涼しかった。東の空がピンクがかってマーブル状になっていてとてもきれい。部屋に入ったらまたむっとした空気。全部窓開けてるのにさっきの涼しい風はどこ?今は西の窓からすごく静かに涼しい風が入ってくる。もうちょっと気づかれるように入ってきてもいいんだよ。目隠しで中途半端に開けているブラインドがカタカタいうけどそれも季節の音だから大丈夫。気にせず吹いて、でも強すぎず。なんて人間はわがままなのかしら。いう通りにしてもらえないって知ってるからいろんなこと言えてしまう。言う通り思った通りにしてもらえないから嫌になって何も言わなくなってしまう人もいるけどそれは人間同士のお話。人間って難しいというより時折めんどくさい。自然と暮らすことも本来はとても大変なことで次世代、またその次の世代とすごく先を見越して共存の道を探る必要があるのでしょうね。今元気に鳴いている鳥たちもそこに森があるって証拠だもの。空はなくならない?鳥が飛ばない空ってある?南極にも北極にも鳥はいるのね(調べた。大体渡り鳥だって。)ペンギンも鳥だよね。面白いよね、ペンギンって。ずーっとみていられる、というか生き物ってみてて飽きない。だからこの仕事してるのかな。

昨日はじめてお喋りした人たちのことを思い出してフフッてなった。ペンギンから思い出したのかな。自分の自由連想を追うのも難しいわね。

最近、フランス語再び、という気持ちが高まってきているけどその前に英語をどうにかせんとね。その前にさくらんぼ♫

Il faut de tout pour faire un monde.

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夢とか快とか

寝たり起きたりしているうちに朝になった。寝苦しかった。除湿もつけていたしちょうどいい感じだったのに。難しい文献を読んで頭がおかしくなっているのかもしれない。今日も暑そう。昨日は特別なお弁当を食べた。塩気に弱い私には少ししょっぱかったけどすごく美味しかった。塩分も大事ですね。そういえばかわいいオリーブオイルとバルサミコ酢もらったんだ。バッグから出しておかねば。いつも持ち歩いてしまうから。バッグ開けるたびに「あ、出すの忘れた」となる。マイドレッシングセットとして持ち歩くならまだしもね。

こんなことしてないで色々片付けないとなあ。ウィーンにも行きたい。フロイトがいたBerggasse 19へ。義務を思い出したら願望で打ち消してしまった。快原理。でも本当に叶わぬ夢にしないようにしたい。

フロイトは「夢はひとつの願望充足である」とその機能を位置付けた。これは「快楽」と結びつけられるかもしれないが、フロイトによる「快」はとりわけ無意識においての「快」は前意識や意識にとっては必ずしも快ではない。フロイトの「快」や「一次過程」(eine andere Lokalität)の彼岸については『快原理の彼岸』とラカンによる発展を追う必要があるが夢がどこからどこへどうやって何をしようとしているのかを考えることは面白い。夢が不在の表象を代理するものとして(ラカンだったら来るべき表象とかいうんだっけ?)なにかしらのスプリットされた主体部分を呼び寄せるものだとしたらウィニコットが「夢を見られない」ことを主訴として精神分析を求めたのはその切迫した不安、あるいは切迫することができない不安に突き動かされてのものだったのかもしれない、など思ったりした。

うーん。そんなこと言っていないで出かける前にお片付けをしましょう。今朝はコーヒー&チヨコレイト。夜はビールが飲みたいな。そんな季節の朝ですよ。どうぞみなさんもご無理なく。

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線、差異、チーズ

光が強い!でもまだ朝の光。昨日バス停に向かうとき、強い光とビルやマンションと道路沿いの木々が作り出す暗さというか黒さに強く夏を感じた。建物の間から見上げる海みたいな空は真っ白な雲が数えられる形で浮いてた。こんな綺麗な色の海はあまり見たことがないのにそう思った。道路沿いの植え込みには濃い紫の紫陽花が咲いていた。知らなかった。

いろんな人の話を聞きながら語られている土地を想像し、景色や場面を想像し、それぞれの体験に近づこうとする。どんな感じなのか聞きながら。似顔絵を描いてもらうように。彼らが描写しようとしているものとそれを聞きながら私が描写しているものは異なるだろう。警察官だったらその正確さを要求するだろうが私の仕事は正確さよりどこから線が始まり、どこが強調されるかということを大切にしているように思う。夢を聞く場合も同じだ。断片が部分に、部分が全体に、そしてまた断片に、その動きを繰り返しているうちに見えてくる別の景色こそ「あ、それ、そんな感じ」となることが多い。差異を作り出すことができたらそれは本当に大切な一歩となるように思う。私たちはずれや差異を掻き消す方向を目指しがちだから。

今も頭の中に最近読んだいくつかの戯曲のことが頭にあるがそれについては昨日も今日も書く気がしない。ここでは手が止まってしまうようなこと、手を止める必要があることは書かない。だから大抵似たようなことばかり書くことになるけどこの繰り返しの中で自分が感じる差異に日々助けられているような気もしないでもない、今書きながら思っただけだが。読んだ戯曲には結構考えさせられているのだろう。だから簡単に書けないんだ、きっと。

インスタでブーラッタチーズを果物と豪快に合わせている写真を見た。なんだろうブーラッタチーズって。絶対美味しいに違いないけど楽しそうな名前だね。ブーラッタ♪ブーラッタ♪ってズンチャッチャのリズムでいける。あーいいな。トマト、蜂蜜、生ハム、メロン、あとは美味しいオリーブオイルとかで食べるんでしょ、きっと。素敵素敵。

昔、渋谷のスペイン坂でね、と思い出を書きたくなったけど積まれるばかりの本や資料が目に入っちゃったからやめとく。はあ。暑さに負けずに過ごしましょうね。朝の強い光はだいぶ空全体に馴染んで見かけは穏やかなお天気です、東京。どうぞお元気でお過ごしください。

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邪悪道

規則的に鳴く鳥を脳内で真似る。毎日いろんなニュースがあるなあ、と脳内でため息をつく。Netflixで「ミニオンズ」をみた。最高にキュートじゃないか。悪の側があんなだったら能天気でいられるのに。最近善人面した悪人が多すぎるのではないか。むしろそっちが主流なのか。私はすぐに「邪悪」認定されるから善人ヅラしていないらしい。よかった。このままいきたい。「私が邪悪だっていうんですか」と聞かれた。めんどくさいのでとりあえず否定した。そう言われると「そうかもね」と思ってしまうけどめんどくさいからそういうのやめようよ、と思う。「悪いのは自分じゃない、お前が邪悪だ」と悪を押し付けたい人の単純な反転。あなたの周りはそんな単純な善悪でできているんですか。そう思い込んでるからいつもしんどいんじゃないんですか。薄くて浅い関係で毒にも薬にもならないちょっと気の利いたことを呟くのは大得意だものね。単純な「いいね!」をもらいすぎたのかしら。そういう関係は「いいね!」、傷つかなくて。でもそれはそうではない関係で誰かを弄んだり見下したり貶めたりしていい理由にはならないんだよ。そういうことは本からは学べないから知らなかったかもしれないけど。自分の思ってもみなかったことを問われるとイラッとした態度で一生懸命積み重ねてきた本の知識で説明を繰り返すか怪訝そうに首を少し傾けて小さなため息をついて圧をかけて黙らせる。「何その態度、子供?」なんて言おうものならもっとめんどくさくなるので「お勉強」と思ってきちんと耳を傾ける。世間ではそういう人が善人、賢人扱いされて本気度の少ないベタベタダラダラしたサークル的世界で気持ちよさを追求しているのだから、そういう世の中に慣れていかなければ、それが「大人」になるということ、というわけでは全くない。うんざりするが「はいはい、邪悪なのは私ですね。その通りです」ということで正しく邪悪道で精進していきたいものだ。

noteにメモったが、と昨日読んだ戯曲のことを書こうと思ったけどそのエネルギーがない。脳の働きが鈍い。すでに疲れているがなんとかやろう。

note:

日本劇作家協会 戯曲デジタルアーカイブ

青空文庫>91日本文学>912戯曲

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鳥、涙、アセスメント

今日は鳥たちが早くからとっても賑やか。いろんな声に耳を傾けているとあっという間に時間が経ってしまう。鳥たちがこうやって毎朝鳴き続けてくれることで気持ちが少し明るくなる。身体の実際の痛みは癒えても謝らないとまずいという気持ちにさせられるほどの言葉の攻撃で受けたダメージには蝕まれ続けている。眠れないまま朝を迎えてしまった人にも彼らの声が届きますように。

SNSで見かけるお店やお花がきれいな場所に行きたいな。早朝散歩を復活させてもいいかもしれない。大学2年生の時だったか、夏に1ヶ月サンディエゴのSDSUに滞在した。朝5時だったか、毎朝みんなでランニングをした。海でもよく遊んだ。全身真っ黒になってしまい先生にこの地域の皮膚癌の発症率データと共に怒られた。最初は食べられなかったカフェテリアの甘いお菓子もいつの間にか食べられるようになった。だだっ広い道路をでっかいスーパーに向かって歩いていると車の中から差別用語を叫ばれた。

鳥たちがどこかへいってしまった。あ、鳩の声はする。くぐもった声で一定時間鳴いてまた黙る。なぜか目がしみて痛い。涙が出る。悲しいのかもしれない。

目の前の人が急に黙る。それまで低い声で落ちついてしゃべっていたのに。一言だしてはつまる。涙が溢れてくる。泣いていたのか。一度涙が溢れてしまうと止まらない。じっと一緒にいる。自分ではどうにもできなくて、とやってくる人たちの緊張の糸が切れる瞬間はいつも突然訪れる。「大変でしたね」という言葉に堰を切ったように泣き出すこともあるが大抵は意外な瞬間に。ずっとひとりでやってきたのか、こんな感情を秘めたまま。そうせざるをえなかったわけには歴史を伴う事情があるのだろう。あるいはそれまでの歴史を断ち切られるような出来事が。まだわからない。本人だってそうだろう。それでも心は動いた。その動きをどう捉えるかがアセスメントのもっとも重要なところだろう。もぐらたたきのもぐらのようにどの出来事に対しても同じように衝動が強まるのか、突然海に投げ出されたかのように自分の涙に溺れそうになるのか、驟雨のように泣き泣き止めば雨など降らなかったかのような、でもさっきまでより明らかにしっとりした連続性をもったストーリーを紡ぐのか。

いつもより広く開けた西側の窓から冷たい風が入ってくる。さっきまでは感じなかったのに。カラスが数羽、大きな声を出し合っている。心はまだ動くだろうか。時折不安になる。

シャワーを浴びて散歩に出て一度帰ってきても仕事に間に合う。まだそんな時間だ。梅雨の晴れ間でもなく曇り空だが雨の降っていない空はこの時期貴重だ。人気のない住宅街でまだ眠っている人をそこかしこに感じながら昨晩と同じように咲いているであろう花々に顔を寄せる。あ、脳内で散歩してしまった。そういうことではない。今日も実在の概念を広めにとっていこう。なんとなくそう思った。

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ゾロ目を待つように。

444だ、と32、33、34と時計が進むのを待った。44444!よし!時計のゾロ目まちはいつから?見逃したってまたいずれくるのに?そうだよ。生きてる限りゾロ目と会うチャンスは失われないのにいつだって見逃すから待つんだよ。

ベケットが死んだのは1989年、1999年だったらややゾロ目。死ぬのをあと10年待っていてくれたら。ややゾロ目のために?ありえない。でも子供のときの私たちのゾロ目待ちにかける情熱は結構なものではなかったか。

1999年は松木邦裕、藤山直樹、十川幸司が精神分析のオフィスを開業した年だ。私は大学院を修了した年だ。なんとかまだ生きてるな、みんな。

突然、友をなくすような体験を何回かしたことがある。理由がなんであれ「どうして」と問い続けることになる突然の喪失の最たるものが死だ。親密でいる間は知らなくてもいいことだって知ってしまえていたのに。どうして、と絶望に打ちひしがれながらでもどこかで理由づけができていたのに。

ああ、ハーブティーで身体が熱い。窓を開けているが風が入ってこない。と書いたら少しだけ風を感じた。意識が風を捉えたのか。多分違う。風を呼び続けその到来を待ち続けなくとも事足りるほどの風はこの土地には吹いている。多分。

幼い頃、雨乞いをする姿を何かの漫画でみた。日照りが作物の、ひいては人の死ももたらすことは容易に理解できた。怖かった。でも子どもの世界では人々に限界が近づく頃に嘘みたいに雨が降った。みんなが空を見上げ手のひらに雨を感じ泣きながら感謝を捧げる、奇跡への。そんな描写だった。『ゲゲゲの鬼太郎』にも「ひでり神」が出てくる。なかなかなダメキャラでキュートなのでチェックされたし。ゲゲゲはなんでカタカナなのかなあ。意味より音、外来感を表しているのか。ひでり神は中国の神話からきてるからどちらかという漢字由来でその漢字が難しいからひらがな+漢字なのかもしれない。

なんでも神の怒りとしてそれを鎮めるためにいろんな工夫をするのもありだがそれはもう奇跡を待つしかない場合ではないか。言葉で通じるうちは声をあげ続けてもいいかもしれない。なんの仕打ちかと考える以前に起きたことをそのまま描写する仕方で。人間界で絶望を与える相手を変えることは奇跡でも起きなければ難しいかもしれないがなんにしたってそんな人と同じ世界を生き延びなければならないのであれば外在化は最小限にしてただ事実を身近な場所で、と思ったりする。見たくないものは見ない、問われたくない問いは悪い問いと認定しそれ以上考えない、あらゆる「正当防衛」に味方してくれる問いを立てられない(決まった問いしか立てられない)相手とだけ一緒にいる、そういう狭さというか基本的に相手を見下した神様的態度は神にもどうにもできないだろうから「あなたからしたらそういう描写になるだろうけど私からしたら」ということを事実と共に淡々と繰り返しなんとなく応答を待つ。問う形にしないのはそういう人からは応答はないと知っているから。応答を待つのはそれとは別の偶然を知っているから、かもしれない。

鳥たちが一気にざわめきだした。次のゾロ目はいつ。6時を回ったらそれはしばらくやってこない。今日も一日なんとかかんとか。

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効果、違和感、『まちがえる脳』

スズメ、カラス、きっとほかにも色々と。おはよー。今朝はハーブティー。ジャンキーなスナックの背で胃がもたれている。目の前に「チョコレート効果CACAO72%」があるけど一体どんな効果が?ほう。カカオポリフェノールがたくさん入っていると。ポリフェノールって何に効果があるんだっけ。ほう。抗酸化作用。この前おなかがすきすぎてなんとなく身体に良さそうというか悪くはなさそうと思って買ったのだけどなんとなく謳い文句で買っているものって多いと思う。普段のお菓子はやたら吟味した挙句いつもと同じものを買ったりするけど。大体チョコならすぐにおなかぺこぺこをおさめてくれるのではと思って買うのにこれ低GIでもある。ということは血糖値をあげたい時には不向きでは。でも一枚食べるだけでも落ち着いたから結局は情報より少しの行動の効果という気がする。今は目の前にあっても食べる気がしないなあ。おなかが気持ち悪い。おなかは気持ちではないからこの言い方は変か。でも言いますよね。違和感というのは気持ちだものね。おなかは気持ちと直接繋がってる感じがする。特に子供の場合。私は小さい頃からおなかいたくなりがちな子供だったけど大人になってもずっとそうだと当時みたいな切なさはほとんど感じない。おなかと気持ちというのは脳と(身体と)心のことでもあると思うけど。櫻井芳雄『まちがえる脳』(2023,岩波書店)は面白かった。「ニューロンの発火」がキーワード。心を脳に属しつつも脳をメタ制御するものと捉えることで互いの可能性を残しておく描写。脳がまちがえるというよりはこちらの意識が追いつかない部分をこちらが間違いとか間違えとか言っているという感じかもしれない。「失敗」とかいうときも結構近いものを感じるなあ。そしてこれからもずっと追いつかないわけでしょ、自分のことなのに。精神分析で「自我」があまりに多種多様な役割を与えられてしまったのはこういうわけか、と思ったりした。なんだか水分が足りないなあ。以前よく通った個人営業のタイ料理屋さんでスイカがデザートだった。小さく切ってあるのに赤と緑と黒の点々。スイカは見た目も本当に可愛い。スイカマニアの友人が鳥取のスイカが一番美味しかったっていってた。名前を忘れてしまったけど。最近フルーツ不足かも。かも、というのは多分そんなことないからなんだけど今不足しているとそんな気持ちになってしまう。あ、もうこんな時間だ。色々やらねば。なんとかやっていきましょう、きついけど。辛いけど。まだ火曜日だけど。

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傘、移動、言葉

雨雨雨。まだ傘を直しにいけていない。姿形が同じビニール傘であってもそれぞれ誰かのもの。シールを貼った私のビニール傘と同じところに入れておくね、と見た目では誰のかわからない透明なビニール傘を傘立てを区切る正方形に一緒にさした。ちょっとしたことなんだ、区別するということは。

カプセルホテルって意外なところにあって意外と高いのね。時期にもよるみたいだけど。ひと区間を移動しながら移動にまつわる話から経済観念の話になってその人らしさみたいなことで笑いあった。同じ職業で同じくらいの稼ぎがあっても移動手段や泊まる場所の選択はそれぞれ。遠方からやってきた人と一緒に移動できる日々がまた訪れたからこんな雑談ができた。

実際に遠い目をしながら聞き流したり大抵の人が遠い目になった話を聞いて驚いたりもした。ものはいいようだなあ、と呆れつつ感心もした。言葉はいろんなことができてしまうから面白くもあるけど大変だなあと思う。他人事ではないが。

「大変でしたね」の一言でいろんなことが通じて笑い合った。言わずともわかる、むしろ言葉にしないほうが終わらせられる。残された時間を費やすべきところに費やしたいという大仰なことを考えているわけではない。自分のやりたいようにしたい人がどんな防衛を使い、どういう攻撃性に突き動かされているかがそれなりにわかる場合はやるべきことだけやるというドライなモードに切り替えるというだけ。ただそうすることにも労力がいるので言葉少なに労い合える関係があるというのはありがたいことだ。

UPするの忘れてうとうとしてしまった。眠たい月曜日。がんばろう。

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『新ハムレット』@PARCO劇場

劇場の前で流れている映像に池田成志がうつって思わず飛び上がって喜んでしまった。携帯やPC上でその画像は何度もみていたのに。映像だったから?多分違う。そのすぐあとに本物と会えるという嬉しさからだろう。長年ファンだと言い続けてきて毎回観劇のために感激感涙してきたがあまりに久しぶりでこんな反応をしてしまうほど好きだったとは自分にびっくりだ。

観たのはPARCO劇場開場50周年記念シリーズ『新ハムレット~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~ 』作:太宰治(新潮文庫刊『新ハムレット』より)上演台本・演出:五戸真理枝。最高の席で久しぶりの観劇。そして池田成志。五戸真理枝さんは句友。真理枝さん演出の舞台は二度目。シンプルで想像力を掻き立てられる舞台だった。出演は木村達成、島崎遥香、加藤諒、駒井健介、池田成志、松下由樹、平田満。私は勝手に池田成志が主演だと思い込んでいたが主演は木村達成。私ははじめて知ったが有名な人らしい。止まっていても動いていてもすごい見栄えの良さ!ものすごい長台詞を絶妙にこなし、ラップもうまい!衣装の着こなしもすごかった。これ太宰のハムレットでもシェイクスピアのハムレットでもどっちでもピッタリではないか。偶然隣り合わせた句友は早速ファンになった様子。わかる。が、私は成志。こんなに長く演劇を続けてくれていてありがとう、という気持ち。自由自在な面白さと不気味さにまた会えて嬉しい。原作を読もう読もうと思っているうちに当日になってしまった。新潮文庫の本は劇場ではすでに売り切れと聞いた。そりゃ買いたくなりますよね。ということで帰宅してすぐに検索。青空文庫のがKindleで0円で読めるようになっていた。ありがたい。原作に本当に忠実だったんだなあ。驚いた。心に残った台詞の数々を改めて文字で読むとまた別の、いや別というより舞台と重なり合ってよりシャープさと深みを感じた。上演台本、演出の五戸真理枝さんのお仕事は昨年、オフィスそばの新国立劇場でやっているのを知り当日券でみた『貴婦人の来訪』が私にとっての最初。演劇のお仕事をしているのは知っていたがすごかった。このあと真理枝さんは第30回読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞された。斬新な脚本と舞台作り素晴らしかった。達者な役者たちが繰り広げるこの不思議な世界に多くの人が足を運ぶ機会をもてますように。

台詞というか太宰の引用をしたいが時間がない。今日は一日雨かな。結構降っている感じの音だ。移動めんどくさいな。でも行かねば。準備準備。どうぞみなさんも出かける方は足元にお気をつけて。

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対談、仕事、読書

朝から成田悠輔×羽生善治の対談をみた。with連載「成田悠輔と愛すべき非生産性の世界」。羽生さんは本当に面白いなあ。文化をこうやって語れたらとてもいいなあ。精神分析文化も魅力的に語りたいなあ。ほんと苦しいけど「楽しい」と言えると思うし。自分のこと全然知らないという発見はすごい体験だと思うもの。でもまあ私は自分の仕事はほとんど好きだし自分ができない仕事の話も好きだからなんでも楽しいとか大雑把なことしかいえないか。集団へのコンサルテーションとかも楽しいもの。はじめての場所も知らない人との仕事も緊張はするけど楽しい。先日はもうすごく長く関わっている保育園に行ったけど当時はすごく小規模ですごく近しい関係だった先生たちはもうベテランで今はたくさん先生がいる大きな保育園に成長した。ずっと続けているから知らない先生からも「あみさん」と呼ばれているし、そのなかで親しくなって集団でのコンサルテーションが終わったあとに個別でもっとざっくばらんにアイデアを出し合ったり愚痴ったりする時間は苦しいことを話しているのに楽しくみんなで元気になる感じがする。保育は生活そのものだから生々しく気持ちは揺さぶられやすい。それでも相手に細やかに注意をはらい続ける必要がある。その分工夫の余地も多い仕事だ。子供たちの遊ぶ能力は素晴らしいのでそれに助けられながら彼らに余裕を持って関われるように時間や空間の使い方を工夫する。そういう共同作業がとても楽しい。精神分析が一番楽しいのはhere&nowだからだろうなあ。まだ起きてないことを考えてもしかたないし、過去を過去として掘り返しても何も起きない。それに今と過去の自分はそんなに変わらないだろうしこれからもそんなに変わらない。でも今ここでの自分を誰かを鏡としてみておくことはそれまでもそうだったはずのことの見方を変えるしこれからに対して勝手に絶望する根拠を揺さぶると思う。揺さぶられるというのはその余地があるからでしょう。それが負担でコミュニケーションをたつことで自分の世界を維持しようとするのも普通だけどいつも同じような人といたって少なからず揺さぶりは起こるしそこにどれだけの価値をおけるかで精神分析体験に対する態度は変わると思う。週末は精神分析のことばかり、でもないな。すごく楽しみな予定もある。その予定を楽しみにがんばれていた部分もあるのに過ぎてしまったらどうしたらいいのかしら。「たのしかった!」という思いを支えにまたがんばれたらいいな、とまだ過ぎてもいないのにその後を想像してしまった。めっちゃ最悪な気分になるかもしれないじゃんね、という想定をゼロに設定しているわけだけどこれまでの体験からそれは多分ほぼない。もしそうだったとしても「それだけではない」というのがほぼ全てのことにいえるわけだしね。誰にもどこにも出されてこなかったものを聞いたり発見したりする仕事を毎日毎日続けてる。ひそやかに出されて再びひそやかにしまわれるものたち。コンテンツとして消費されないことを大切にする世界にいると気持ちよくコンテンツを生み出すためにいろんな言い訳と排除を繰り返している人たちのことも考えざるをえない。それらは要素としては同時に存在するものだから。というわけで今日も不快。今日も楽しい。どっちもの時間を過ごすのだろう。みんなはどうかな。色々あるけどなんとか過ごしましょう。

ちなみに昨日電車で読んでいたのはカレル・チャペック『いろいろな人たち チャペック・エッセイ集』(平凡社)でした。ユーモアと優しさを感じてほっこりしながら読みました。面白い視点もいっぱい。エッセイ集だから拾い読みできるし移動にもピッタリでした。

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雨、傘、6月

ぼんやり雨の音を聞いているとどんどん時間が過ぎていく。なぜか今日を月曜日のように思ってしまう。昨日からそうだ。月曜日にやり残したことでもあったのだろうか。きっとあるのだろう。何も思い出せないが。

トレーナーを着て眠ったら少し汗ばんだ。明日投句〆切のオンライン句会の兼題の一つは「寝冷」。朝3時くらいに目覚めて汗を感じたのですぐに作った。そして二度寝した。

今こうしている右腕と左腕の間に又吉直樹『人間』の宣伝の紙うちわがある。紙うちわとは言わないか。言うのか?骨がない。ただの厚紙に指をいれる穴が空いているだけ。仰いでみた。親指で穴を軽く抑え残りの4本で反対側を軽く抑えてパタパタ。穴である必要はあるのだろう。気持ちいい。

骨といえば私の傘は骨が多く丈夫。誕生日にもらった。この前も「素敵な傘!蛇の目傘みたい」とお褒めいただいた。本当にかわいいのだ。若いときに台風か何か雨風でビニール傘がやられたついでに指まで傘を開ける金属部分に引っかかって皮がでろんって剥がれて血がいっぱい出た。あれ以来雨風の強い日に傘をさすのが怖い。先日の台風のとき、雨雲レーダーで雨が弱まる時間を狙って移動した。この傘ならちょっと何かあってもいけるのでは、と思い一緒に出てみた。最初の数分は雨も風もなかった。しかし間も無くして雨は弱いが突風がきた。何度か突風をやり過ごした。しまった、と思ったときには遅かった。でもちょうどそこは三角地帯のお地蔵さんが立っているところで傘がベロンと裏返るのを防ぐために押し付けておける壁があった。数秒だろう。突風が傘の丸い内側を突き破るみたいにぐいぐい押した。私は結構な力で開かれっぱなしの傘を壁に押し続けた。ちょっとした戦いが終わると傘の左側の骨が歪んでいた。でもよく持ち堪えてくれた。その翌日もさしたけど一緒にいた人に「台風で傘が歪んじゃって」と話したら歪んだ骨を覗き込んで「全然気づかなかった」と言ってくれた。傘屋さんの傘なので直してもらえる。直しにいいこうね。

毎日毎日モヤモヤする出来事が起きるがひとつひとつにウダウダ言っている暇はない。絶対になかったことになどするつもりのないことに対して「〇〇も××も△△もてめえの食い物じゃねーよ」という言葉も吐いた。文字で。なんかえらく独りよがりだなと思ったことに対しては直接対処した。そうこうしながらどんどん日々が過ぎていく。3月も4月も5月も本当にどうなるんだと思いつつ期限は数日ずつ過ぎててもなんとか色々終わらせた。6月も忙しさに変わりはないけど慌てなくてはいけないものはない、というか苦手な仕事がない。それが一番助かる。

雨だ。移動も多い。気をつけて過ごそう。みなさんも。

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呉明益著『複眼人』を読んでいる。

あれ?鳥の声がしない、と思ったらいつも通りしていた。さっきこの時間には珍しく鳩が随分近くでポッポいったので遠くの音に鈍感になっていたらしい。

今朝のお菓子はリンツのリンドールチョコ(赤)といちごバウムクーヘン(ホワイトチョコ)。どちらも小さくとも美味しい甘さいっぱいでおなかいっぱい。PUKKAのthree gingerというお気に入りのノンカフェインハーブティーをたっぷりマグで一緒に。今日は水分たっぷりとらないといけなそうなお天気ですね。

また早朝から呉明益著『複眼人』を読んでいました。精神分析家ビオンの「複眼視」を思い浮かべタイトルだけで買ってしまったのだけど著者の呉明益は台湾を代表する作家だそうで同世代。1971年生まれ。買ってよかった。久しぶりにスケールの大きい物語に入り込んだ気分。アトレという少年とアリスという女性を中心に幾人もの視点が入れ替わり立ち替わり同じ時間に起きた出来事を映し出す。心情よりも景色を。アトレが生まれた島の諺や言い伝えは美しく巧妙に口減らしを表現する。昨日、この本の紹介をしようとしたが諺や言い伝えを思い出せず身も蓋もない言い方でこの島の慣習を説明してしまった。口承伝承に完全に失敗したが外側からみれば「それは単に」と言いたくなるようなことなのだ。でもそこに生まれそこで生きる人たちにとってそんな剥き出しの表現では深い悲しみや苦しみに持ち堪えることはできないのだろう。最初からとても切なかったが物語は人の力の及ばない自然の大きな動きに絡めとられ喪失を生きるための言語以前の言葉を探すことを促す。もうだいぶ後半だがまだ途中だ。読み進めよう。

毎晩疲れ切って眠るときの記憶がないが朝を迎えればそれなりに回復している。睡眠の力。みんなは眠れただろうか。これから寝る人もいるからもしれない。今日も無事に過ぎますように。わからないことはわからないままに。思ったことは思ったままに。

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雨の朝、フランス語の本、國分さん河合隼雄学芸賞。

降り続く雨。もうすでに少し空が明るい気がする。朝のお菓子を食べるにしてもまだ早すぎる。このPCの向こうは西向きのそこそこ大きな窓がある。雨が降り込まないように少しだけ開けてみる。シャーっと車が雨の中を滑るように向こうへいく音が聞こえる。鳥たちの声も聞こえるがまだ寝ぐらである森の方だ。ピピピと、と書きたいが本当は私の耳にはp音は聞こえていない。鳥たちの囀りを表現することは難しい。そうそうこのPCの向こうというかこの大きな長方形の机のPCの後ろ、西向きの窓との間の隙間に積まれた本の一番上は「お風呂で読むフランス語 会話フレーズ」。もう何年も使っていない。お風呂で読んだことあったっけ。少し埃を被っているが開いてみよう。もう表紙のカバーはどこかへいってしまった。おお、開くなりかわいらしいカラーイラスト。パリジェンヌ式会話術か。だから女の子(子ではないが)ばかりなのか。20歳の時、ケンブリッジの語学学校に6週間通った。14歳のフランス人の女の子と仲良くなった、というか最初はいじられていた。ペーパーテストならそこそこできてしまう日本人のひとりだった私は会話クラスなのに一番上の段階の真ん中のクラスに入ってしまい、なんでこんな英語ペラペラの人たちに留学が必要なんだ・・・というような環境で伝わらないわりに明るいチグハグな日本人だった。同じくらいの背丈のインドネシアの女の子と仲良しでtwinsと呼ばれていた。あれ?sつく?sつけると双子の複数になる?まあ、夢まで英語で見るようになった頃に帰ってきてしまったうえにサボりにサボり30年近く経つのだから日本で身につけたものだってほとんど覚えていない。その後、國分功一郎、千葉雅也に現代思想の門前どころかフランス語入門のきっかけまでもらい、武蔵小山へ通った。その頃に買ったのだろう『お風呂で読むフランス語』。フランス語もすっかり忘れたが超初心者から初心者になったくらいのフランス語で彼女と会話したかった。今思えば彼女も思春期の不安定さがあったのかもしれない。異様なテンションで見えない教室からでも私の名前を呼んではゲラゲラ笑った。あ、西側の空も明るくなってきた。鳥たちも近くなってきた。雨は相変わらず屋根をたたきいろんな音を立てている。当時のクラスの様子が思い浮かんだが彼女は最年少で授業中は静かだった気がする。頭の良さは明らかですぐに一番上の上のクラスへ移動してしまった。クラスが変わったのに私が通りかかればあの大きな声で私の名前を呼び戻って顔を見せるとゲラゲラ笑った。毎晩のようにみんなで遊んでいたが彼女と夜に出かけたことはない。まだ若かったからホームステイだったのかもしれない。私は彼女がかわいかった。拙い英語でいじり返すと少し静かになった。細くて背が高く、挨拶だけはフランス語でほっぺをくっつけあった。私もまだ20歳だったが当時は今より頼り甲斐があったらしく若い(実は同じ年とか年上だったのかもしれないが)女子たちに懐かれた。彼女には懐かれたのかなんなのかよくわからないし私が帰国するときにはもう彼女はいなかったように思う。いつの間にか私を呼ぶ大きな声は聞こえなくなったから。本の一番後ろを見たら2011年6月初版発行。私のは2011年12月発行の第2刷。売れてたから買ったのね、きっと。まさに2011年。國分さんと千葉さんの講義を受け始めた年だ。昨日、國分功一郎さんが河合隼雄学芸賞をとったというツイートをしていた。たまたま画面を見ていたのもあって秒で反応したがすぐに消されてしまった。引用を忘れてしまったらしい。授賞作はもちろん『スピノザ ——読む人の肖像』(岩波書店)。國分さんのご苦労がこうして報われたことはとても喜ばしい。河合隼雄という名前がつくだけでさらに身近に感じるし。サントリー学芸賞の方はなんだか大変そうな話題も見かけたしいろんな賞にいろんなことがあるのだろうけど國分さんの受賞はいつも嬉しい。この本に関しては私もかなり苦労したのでこっちまで報われた。賞を取らなくても読んでよかったと思える一冊ではあったが。苦労ついでにこの文庫の元になった國分さんの博士論文を書籍化した2011年1月発行の『スピノザの方法』まで読めてしまったのだから一貫したものを持っている國分さんの力はすごい。読んだだけでわかっていないが以前よりは読めた感じがしたのだからすごい。うーん、まだお菓子を食べるには早いな。雑誌Penが谷川俊太郎特集を組んでいたので買った。子供の頃からずっと読んでいる詩人の言葉にまたも励まされた。あ、そうだ、資料作るの忘れてた。今日はまだ間に合う。昨晩は疲れ切っていつの間にか眠ってしまったがこうしてダラダラ書けるくらいには回復したらしい。すぐに眠くなりそうだけど。洗濯もしよう。あの子は今もフランスにいるのだろうか。出身がフランスなだけで当時から別の国にいた可能性だってなくはないだろうけどどこへいようと元気でいてくれますように。本当にかわいかった。ありがとね。伝われ〜。

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精神分析

大和市お菓子、言葉以前、文庫数冊

今朝も早速いろんな鳴き声がしていますよ。おはようございます。今朝のお菓子は南林間への散歩土産、老舗和菓子屋「喜泉」の「泉の森」。イラストもそのままで素敵。「泉」って単体として見るものではないから「〜の泉」とでも書いてない限り通り過ぎているけど意識してみよう。私の知っているイズミさん(苗字の人もなまえの人も)は元気かな。

昨日は同じ和菓子屋さんの「やまと太鼓」をいただきました。黄身あんと栗だっけな。しっとり美味しかった。今日の「泉の森」もしっとり。森は水分たっぷりだものねえ。梅雨だし。とっぷりと水に浸されるような気持ちになりますね。お、今改めてパッケージみたら「大和市の郊外に市民の水の源として知られております「泉の森」公園があります」ですって。そういえばこのお菓子をもらったとき「泉の森っていう公園があって」と聞いた気がする。忘れてました。パッケージといえばまたこの「泉の森」なんだけど硬めのアルミの型に入っていて同じ素材で作った蓋がかぶさってた。なんか「懐かしい!」ってなった。しっとりしたお菓子を守るための素朴な工夫なんだと思うけどふわってかぶせるだけの役目なのに作りは固くしっかりでなんだかいいなあと思いました。

まだ言葉を話す前の子どもたちとお散歩してるとバギーの中からいろんなものを指さす。「葉っぱだねえ」といえば「ぱ」とそれらしき音を出す。和菓子屋さんのショーケースを見つければきれいな色や形に見入ってはこちらを振り向く。「きれいね」「おいしそうね」というと「うんうん」と言わんばかりに首を縦にふってまたお菓子に見入るのを繰り返す。この愛しさ。北山先生が「共視」という言葉で表現した視線の交差。言葉以前と言葉の間。

言葉を喋るようになっても子供と大人の世界はだいぶ違う。村田沙耶香『丸の内魔法少女ミラクリーナ』がいつの間にか文庫になっていた。この表題作がまさにその世界の違いとそれらの世界を同時に、でもスプリットした形でしか生きられない少女大人の友情を描いていて展開には驚いたけどスカッとした。子供時代に何かを成し遂げて誰に褒められなくてもなんだか「やったぜ」と自分だけ鼻の穴がちょっと膨らんでしまうようなあの感じ。

あと読んでいるのはカーソン・マッカラーズの『マッカラーズ短篇集』(ちくま文庫)。『心は孤独な狩人』っていう小説が有名な作家なんだけどこれがもうね、すごいの。胸が締め付けられる。今回の短編は翻訳が私はあまり好きじゃないかも。まだ途中だけど。

椰月美智子『明日の食卓』も。「母親」が描かれるときそこには父親の不在や暴力も同時に描かれるわけだけどそれを維持する母親の「当たり前の狂気」みたいなものがここには描かれていると思う。

あと角田光代、穂村弘の『異性』(河出文庫)も。これはさらっと読める往復書簡的な本。いっそ対談本の方が面白かったのではとか思わなくもない。一時期、角田光代作品にはまっていたから新奇性をあまり感じないのかも。穂村弘も安定感あるし。安定感あるお二人の本という感じかな。

なんとなくお菓子紹介と本紹介になりましたね、今日は。明日は「ヤマトン緑茶ゴーフレット」をいただきましょう。お茶は好きなお茶ベスト3(ランキングしたことないけど)に入るであろうルピシアの「白桃烏龍 極品」。美味しい水分をとりつつ今日もなんとかやりましょう。夜は雨なの?嫌だなー。いってらっしゃい。いってきます。

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俳句 精神分析、本

句友、一生(という時間)

暗い時間に呟きをコピペして長文にして呟きの方を消した。ここではただ指任せで書いている。空の明るさだけで起きてしまうとまだ早すぎる。トモコスガさんが「オランダの夜10時過ぎが明るすぎ」と写真を載せていた。さっきまでの東京の空と似たような色。でもないか。こっちはなんか黄色がかってる気がする。

週末、句会でたくさんの人と会って楽しかった。みんなは3年ぶりといっていたけど私は句会自体にほとんど出られていないのでもっとぶりかもしれない。新井素子さんがいらした句会ぶり。あの日と同じ服を着ていたことに会場で気づいた。同じ季節だったのだろう。コロナのおかげでと書くのは間違いかもしれないがコロナ禍ゆえに声だけの交流が始まった句友もオンラインのみで交流していた句友もいて「ここでははじめまして」と笑い合った。会えると思っていなかった遠くに住む句友も前日の激しい雨にも負けず現地入りしていてとても嬉しかった。夏の着物でいらした方たちの生地や帯にも見入ってしまった。とても素敵だった。私も自分でちゃっちゃと着付けできれば仕事あと急いで行かねばであっても着物に着替えて行きたいけどそんな日がくるとは思えない。

昨日は同じメンバーで2年目を迎えたスモールグループでの事例検討会でこちらも毎回のことだがとても勉強になった。一応私は指導する側だけど指導というよりファシリテーター役。役割としても学びが大きい。初回面接を検討する月一2時間半の会だが今回も妙木浩之先生の『初回面接入門』(岩崎学術出版社)にすでに書かれていることを実感して笑い合った。笑えるのは何回も読んだはずなのに何もわかっていなかったということに気づくからだ。臨床的な実感は本の中にあるようでない、でもある、ということなのだろう。

そんな日がくるとは思えない、というので思い出した。昨晩スーパーに寄ると私の前に店を出た人が1リットルパックのぶどうジュースとストローを持っているのが見えた。私が一生やらないであろうことをこの人はこれからするのだなあと思った。あの手持ちの雰囲気からしてこのあとおうちで紙パックからストローで直接飲むんでしょ。150mlくらいだったら私もグラスで飲む機会もあるかもしれないがぶどうジュース1リットル、紙パックからストローで、はないなぁ。多分、きっと一生ないな、と思った。誰かはしていても私は一生しないであろうことなんて数えきれない。することよりもしないことの方が多いに決まってる。なのに「一生ないな」と思う対象がこれかよ、という感じもあるが日常の発見というのはそういうものでしょ?いちいち正確に本を読むことからはじめなくても(そんな読書家なのにそれ、みたいなのもあるから)豊かな日常はそこかしこにある。臨床も同じ。

さっきから激しく鳴いている君は誰なのだ?ヨシキリ?昨日はムクドリが二羽茂みにいた。この時期のムクドリはやたら茂みにいるのだけど低いところのほうが美味しいものが多いのかしら。そこにウグイスみたいな鳥もやってきたんだけどホーホケキョって鳴かなかった。あなたはどなた?なめらかな羽に見えた。

友達が主に怒りに共感するメールをくれた。女の辛さを共有できる女友達がいるのはありがたい。彼女とも会いたい。幸いなことに私はコロナで失った人はいなかった。途轍もない苦しみは知ったし人はいつ死ぬかわからないという実感は強くしたけど。今日もいろんな人と会い、話す。主に聞くほうだけど。試行錯誤を続けよう。なんとか持ち堪えよう。「もちこたえる」か。昨晩の大河は悲しかった。おっと、ネットで拾えた歴史の資料を読んでしまった。こういうところが慌てて失敗する原因を作ってるって流石にこの歳になればわかってる。でも治らないな。どうにかなると思ってるからだろうな。ダメね。そんなこんなであっという間に時間が経ってしまう。いや、辛く苦しいときは時間なんてあっという間に経ってほしいかもしれない。そうなるとそれは無理なんだ。辛いね。でもなんとかやろう。そうはしたくない、そうはなりたくない、という気持ちに素直にやっていけたらいいように思う。

今朝のお菓子は以前働いていた神奈川県大和市のおみやげでした!

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読書

お茶、九段下、本

今朝は久順銘茶のティーバッグのシリーズからオレンジのパッケージの桂花美人茶。これ金木犀の香りがついてるのね、ほんのりと。お茶ごとにパッケージの色が違うのだけどどれもとてもきれいで置いておくだけで楽しいし美味しいから好き。

九段下のファミレスへ行ったら「武道館でイベントがあるから90分制で」と言われた。どっちにしてもそんなに長時間いないから大丈夫なんだけど武道館でイベントがない日は時間制限もないのかな。店内には外国の人がたくさんいた。なんのイベントだったのかしら。コロナとは関係なく長らくいってないなあ、武道館。最後に行ったのはいつだろう。aikoのライブかな。違うかな。人が集まれるようになってよかったですね。千鳥ヶ淵の緑がとてもきれいでした。

早朝から窓を全開にしているのだけど風がそんなに入ってこない。穏やか。

最近読んでいた本がそばにあるのだけどバラバラだな。

斎藤志歩『水と茶』(左右社)は句集。斉藤さんの句は情念を感じなくていい。あくまで軽やかにしかし丁寧に面白く日常を切り取る。

五十嵐大『聴こえない母に訊きにいく』(柏書房)は生活史ともいえるかなあ。聴こえない親を持つ、聴こえる子ども、コーダ(CODA)である著者が母からゆっくりと聴き取りをしながらその歴史を知ろうとするプロセス。そこに歴然と存在する差別。先日判決がでた優生保護法について具体的に実感を持って知るためにも多くの人に大切に読まれてほしい。

永田希『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)。読書ってどんな行為なんだろう、ということに関心がある人にお勧め。取り上げられている作品もいい。

又吉直樹『月と散文』(KADOKAWA)。10年ぶりのエッセイ集とのこと。常に仮人格と対話しては声を出さないじっとりしたちょっと意地悪な笑いを生み出す書き方は梅雨の読書にピッタリ。

風が入ってきた。洗濯物は外に干した。ノースリーブだとまだ寒い。はあ。がんばらねば。がんばろう。

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精神分析 読書

『言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 ❨中央公論新社❩を読んだ。

二度寝、三度寝。コーヒー飲んでくしゃみがふたつ。雨はまだまだ降っている。どうしましょう。被害が広がりませんように。きっとこのあと何事もなかったかのように晴れるのでしょう。残酷。

言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 著❨中央公論新社❩を読んだ。精神分析における言葉の活用はいつも興味の中心なので言語学に関する本はそれなりに読んでいると思うが難しいのが多いから全然こなせていない。その点、この本は書き方も多分優れていて(私には優劣はわからない)引っかかりなく入ってきた。内容とは関係ないけど私はこの本を発達心理学の本だと思っていた。もちろん今井むつみさんはそれがご専門ということだし、言語は習得のプロセスと切り離せないわけだから発達心理学は常にその背景にあるわけだが、大学が発達心理学専攻で発達心理学の勉強が楽しくていまだに保育園でも仕事をしている私は「今は記号接地問題とかいう概念も扱うんだ。発達心理学もどんどん進化してるんだなあ」と思って嬉しく楽しく読んでいたのだ。なぜそんな発達心理学寄りの気持ちだったかといえば秋田喜美さんを秋田喜代美さんと間違っていたから。私は卒論で幼児に『赤ずきん』を読み聞かせてその感想を聞き取り分析するということをしたのだが参考文献のひとつが読書の心理学を研究されていた秋田喜代美さんの論文だった。今でもきちんと研究しておけばよかったなあと思うほど先行研究も現場(保育園)での調査も楽しかった。そんな誤解のもと『言語の本質』を読んでいて秋田さんはすっかり言語学の人になったのかと思いこみ、発達心理学の広がりに勝手にワクワクしていたわけだ。それはともかく毎日いろんな人の言葉を継続的に聞いているにも関わらず、というかその体験が増えれば増えるほどその人の言葉の習得や私が相手の言葉をキャッチする仕方などへの関心は深まるばかり。「そういう意味で使ってたのか」と聞き手だけでなく話し手自身が驚いてしまうような言葉の使い方使われ方も多いので話を聞く、聞いてもらう、というのは本を読むこととはまるで異なる体験ではある。生きている人を相手にするのだから当たり前だが。だからこそこういう専門的な本を読むことは大切。相手の言葉を大切にするためには忍耐と工夫と内省が必要。そのための支え。なんかすでにすごく売れているらしいのでみんなの基盤にもなってくれるかな。内容について全然書いてないけど「とりあえず読んでみて」というお勧めができてしまう本です。

はあ。雨やまないねえ。すでに被害がでている地域にこれ以上の被害が出ませんように。このあともたくさんのサポートを受け取れますように。どうぞお気をつけて。私たちも気をつけましょう。

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コミュニケーション 短詩

除湿、イベント、コロナ禍

湿気がすごい。除湿を除湿のためだけにつけたがやっぱりちょっと寒くなってすぐに消した。この部屋のエアコンは冷房除湿と衣類除湿とただの除湿がある。もう15年くらい使っているエアコン。リモコンに「エアコン」と書いてあることをさっきはじめて意識した。「あれ?これなんのリモコン?」ってなってしまう人がいるからかな。いないか。「温度」とか「除湿」とかいかにもエアコンらしい文字も書いてあるわけだしね。

昨年8月、東京公認心理師協会の地域活動に応募して松岡宮さんと心理士(師)向けのイベントを行なった。人数が少なかったおかげで本音をゆっくり話せる充実した時間になった。本音かどうかは本人が話してみてから「あー今日はなんか本音を話してしまった気がする」くらいな感じで認識されるものだろうからわからないけどそれがどのくらい建前っぽくないかはこの仕事を長くやっていれば人よりはわかると思っている。今年も松岡さんがお誘い待ってますとメールをくれた。毎日をなんとかやり過ごしている状態だったので自分からなにか企画するという行為自体忘れていた。やるなら夏休みだからそうしたらそろそろ企画出さねばじゃないか。

とまで書いていろいろ家事してきた。ハーブティーもいれてきた。雨の匂いも嫌いじゃないけどいっぱい降ってるとそれどころじゃないしね。

誘われればあっさりやる気が出て「コロナ禍を振り返る」にしようと返信。8月6日(日)10時からの予定。企画書書いたからそれが通れば今年も東京公認心理師協会のイベントになるし、通らなくても私たちのオフィスが主催するイベントということでやればいい。お互い個人で開業しているからそういうところが楽。

コロナ禍はすでに遠いだろうか。マスクをしている人はまだまだ多い。私もしている時間が長い。それでももうこの三年間はすでに遠い感じがしないだろうか。コロナ禍初期、これが過ぎた後のことをここに書いた気がするがこんなに長い期間になるとは思ってもいなかった。私はこの間、人間の本当にいやらしい部分に触れたようなこともあったがこのネット社会ではむしろそういう人がプチインフルエンサーとして信頼を損なわずに生きていけることも知った。理不尽な現実をいろんな書物の言葉を借りて説明できる人は理不尽なことをいくらしても「現実はそういうものだ」といえる強さがある。心身の搾取をしても事件化されなければさせたほうが悪いくらいの勢いで黙らせておしまい。それが現実、現実は理不尽なんですって。実際に身体に触れるような関係での振る舞いは外からは見えないけど外向けの言い方書き方振る舞い方が上手だとなんとでもなる世界があるらしい。コロナゆえの理不尽な出来事も多かった。東京に住んでいること自体が問題にされたことがこれまであっただろうか。昨年の松岡さんとのイベントでは「地域」という境界がいかに恣意的かとピキッとしたという話もした。今年もいろんな実体験を共有できたらと思う。

昨年はその一週間後に川柳作家の暮田真名さんをお迎えしたイベントも行なった。これも参加者に大好評。川柳のおもしろさは教える形式ではなく対面でまずは作ってみるところからなのだろうと思った。その後も暮田さんと親しく話すなかで昨年のイベントは楽しかったなぁ、と言ってくれたのでまたやろうかね、ということになった。日程はこれから。今回はやはり仲良しの蒼海俳句会の千野千佳さんもご一緒にみんなで駄弁ろうかということになっている。先日も伝えること、教えること、売ることにおける美意識というような話をしたのでそんな感じで。

楽しいイベントを楽しく過ごすために着々とやるべきことをこなしていかねば。毎日そう思いながら何も進んでいない。まずい。美味しいものを食べてもこの不味さはどうにもならないけどこれは理不尽でもなんでもない種類のものだから苦しまずにやりましょう。今日は足元気をつけてお過ごしくださいね。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

ペンは剣よりも、焦点を少しずつ、学ぶ

まさにペンは剣よりも強し。別の意味で。暴力よりも暴力的とでもいうのかな。昨日は比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技術であることも学びました。身体を傷つけられずに学べるなら不快さと痛みを引き起こす暴力性はある程度必要ってことかもしれないですね。相手の心も体も弄んで傷つけるような人の表現はそう捉えることは難しいですけど。そうされた人はそういう人の表現に触れるたびに何時間も何日間も苦痛をただ耐える時間を過ごさねばならなかったりするから。いっそのこと、と考える人だっているのはそういう人が黙ることはほとんどないからかもしれません。千葉雅也さんが先日フィルタリングのために「物理的に瞬時に目を閉じる」とツイートしていました。私もやっています。(ミュートしているのに)またか、と思いつつ反射的に目を閉じる、薄く開けて焦点をぼやかしながら画面を閉じるバツ印を探す、また目を閉じる、落ち着くまでその状態に身を委ねる。ペンは剣よりも強し。なのでしょうか。

あっという間に1時間、2時間が過ぎた。まるで何事もなかったかのように家事をし、おしゃべりをしているのは生体防御反応だ。こんな状態になってから長くなってきた。突然の刺激に晒され衝撃を受け続けるなか「まただ」とその衝撃を予測しながら目を開け続けることをするようになった。一方でできるだけ距離をとるようにミュートをした。それでもこのネット社会、軽薄な言葉ほど軽々しく網の目をすり抜けるように現れることがある。瞬間的に目を閉じる。じっと嵐に耐える。そのまま眠ってしまうこともある。生体はうまくできている。生き残るために、適応するために何をするかといえばそこから学ぼうとする。暴露療法のような方法をとりはじめた。恐々目を開ける。焦点を本当に少しずつ合わせながら見てみる。最初は全部は見られない。それでも少し目を開ける時間が増えたことをモチベーションに変える・・みたいな。なんなんでしょう、この努力は。この時間は。と思うでしょう。でも学びは残る。比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技技術なんだなぁ。これが「賢人」の技術かぁ。スプリットされたこころで思考停止のままでいられる技術。自らの被害感と不快感を癒してくれる人は大切よね。遠くへ追いやったそれは今まで通りポイ捨てしてきた対象に処理してもらえばいいのだから。そういうのもテクノロジー。ペンは剣よりも強しをチャットなんちゃらにいれたらこんなお話もできるのかしら。そういうデータならいくらでもあるだろうから。

早い時間にメロンを食べてしまったから寂しい。勝手に一日締め切りを延ばしてしまったものを朝のうちにやらねば。世界には辛いことがたくさん。「癒す」という言葉に対する不快感ってなんなのかしら。今日も学びましょう、と軽々しく言いづらいのはさっき書いたみたいに強い痛みを想定できるから。精神分析もそういう痛みを想定している。本とかでは学べない「知」に向けて友達や家族に支えられてやっていけたらいいけれど。今日も理不尽さにのみこまれつつ生き残る方向でいけたらいいけれど。とりあえずとりあえず、ですね。気のきいたこと何も言えないけどどうぞご無事でお過ごしください。

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お菓子

おしゃべり、おやつ、小豆島

まだ雨が残ってる。と書いてメールの返信をしていないことを思い出した。した。

今日も長いな。資料もサクッと作らねば。

隙間時間をめいっぱい使うため走った。私に合わせてこっちまできてもらった。おしゃべりは楽しい。成城石井のモーモーチャーチャーがおやつ。おいしいよ。ずっとモーモーチャーチーだと思っていた。成城石井のしょっぱい系だと「カレーおせんべい」と「オリーブオリーブあられ」とか「まめごろう」もおすすめ。「まめごろう」は甘いか。

小豆島のマルキン醤油記念館を思い出した。なんでだろと思ったけどオリーブ繋がりか。小豆島は本当にオリーブの島だった。そしてオリーブオイルが本当に美味しい。高いから島では楽しんだけどお土産は提携しているイタリア産のを買ってきてしまった。お醤油も有名なんだよね。マルキン醤油のミニサイズもお土産にしたなあ。工場見学みたいな感じで楽しかった。「二十四の瞳映画村」からどこへ行ったときだったかどこかへ行ったとき渡し舟で行った。電話をしたら年配の男性が舟でお迎えにきてくれた。タクシーみたい。私は田舎育ちだからタクシーは拾うものではなくて呼ぶものなのでそう思った。今もあるのかな。おじいさん、元気かな。もうかなり前だけど17年以内ではある。クリニックにお土産を持っていったから。あそこは開業してそのくらい。あ、でも、と今クリニック内のスタッフがやめたり入ってきたりを思い出して、あの人がいたということは、と記憶が蘇ってきた。でもわからないや。何年に何県へ行ったという紙をチェック。香川は2007年。一回じゃないはずだけど書いてないな。2007年、お醤油をあげたあの人はそこにもういたかなあ。まあ、そんなわけで小さな船でどんぶらこどんぶらこ、よりは早かったけど海なし県育ちだと水辺の交通に馴染みがないからワクワクした。小豆島は地域によって表情が全然違って小道もすごく面白い。歩きでも自転車でも練り歩いた(練り回った?)。一番印象的だったバス停がある、とそのバス停を思い出したけどあれ鹿児島だったかも、と思って記憶をひっこめた。旅の記憶をもっと正確にもっておけたらいいのに。

おしゃべりして感じたことを書こうと思ったのにオリーブから小豆島へ飛んでしまった。まあいいか。本を売る仕方、教えるということ、「美意識」という言葉が心に残った。

時間切れだー。週の真ん中、なんとか乗り切りましょう。

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精神分析

更新、吟のカカオ、コミュニケート

もうひとつのブログ「精神分析という遊び」にオフィスのウェブサイトを更新したことをUPした。ややこしや、かな。ややこしやってご存知かしら。野村萬斎の「まちがいの狂言」。昔薪能のチケットに当選して行ったことがあるのだけど能より狂言に射抜かれてしまった。よくわからずとも面白がれるものなのかよくわからないから面白いのかわからないけど「にほんごであそぼ」で取り上げられるくらいだから前言語と言語の間の遊びであるよね、きっと。精神分析と同じね。

まだ降っていますね。今日は昼間だけでいいからやんでほしいな。ちょっと特別なことがあるから。

今朝もCafe du Jardin。今朝は福生の地酒使用「吟のカカオ」。大吟醸酒が使われてるって。大丈夫かしら。仕事になるかしら。すごくしっとり。すごく濃厚。すごく美味しい。めちゃめちゃ濃いブラウニーって感じ。袋から出す時にしっとりすぎて少し手についたけど全部引き出すしたら薄いフィルムでそっと保護されていた。このお店は「金のカカオ」というお菓子が有名ならしいからそれの日本酒バージョンなのね。それにしても名前で遊んでるわね。面白い。そういえば昨日のアメリカン・カステラの袋にきちんと「福生基地前通り」って書いてあった。基地に対しては思うところあるけどそこで暮らす人たちのこともそこそこ知っている。この仕事を長くしていると本当に色々な暮らしを知ることになるので自分の体験に基づくもの以外は言及を控えることになる。私がファシリテーターをしている初回面接を検討する小グループでも「誰にもいえないこと」「言いにくいこと」がどういう風に現れるか頻繁に話題になる。聞けば聞くほど聞けないことが出てきたりその場では言葉にできて安心した風になってもそこを出た途端「言わなければよかった」「言うべきではなかった」という声が湧き上がってきたりする場合だってある。精神分析的治療は抑圧、否認されていた意味の意識化のために言葉を使うのではない。臨床現場にいれば言葉がさらなる混乱を導く場面に圧倒される体験は必ず訪れる。なのでその暴力性を認識せざるをえない。ごく一般的な本の一言にいつまでも苦しめられたりする場合だってある。「場合だってある」というのが大切。精神分析は言葉そのものを手段とする治療であるために常にその力と使用については特に議論がなされている領域だろう。イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは晩年「交流しないこと」の価値を見出した。その論文が載っている彼の二冊目の論文集The Maturational Processes and the Facilitating Environment(1965)は昨年『成熟過程と促進的環境』という新訳かつ全訳がでた。この論文の題は「コミュニケートすることとコミュニケートしないこと:いくつかの対極の研究へ」(1963)と訳されている。以前の翻訳では「交流することと交流しないこと」と訳されていたが確かにこの言葉が持つ安易な方向性には注意が必要なのかもしれない。訳者の意図を知っているわけではないが。どこかに書いてあったかな。

日本精神分析協会候補生の会のニュースレターがようやく完成しそう。私は駄文量産はできるのだが細かいパソコン操作が苦手なのでここをいじるとこっちも崩れるみたいな事態にすぐにうんざりしてしまう。それでもなんとかなりそう。まだなってないけど。見通しが立っただけでも安心。今朝も早くから仕事だ。合間の予定を楽しみになんとかしよう。みんなにもこれがあるから少しがんばれるみたいなことがあるといいな。蝕まれながら取り戻す、毎日そんな感じだよね。そうでもないかな。とりあえずそれぞれの始め方で今日も一日。

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精神分析

使う、間違う、ほどよくする

なんで築山殿までと言ったら妻だからと即答された。そうなのかな。女の使われ方って奥が深い。今も変わっていないのだろうけど。貸していた僕のマリさんの『常識のない喫茶店』(柏書房)が返ってきた。装丁のかわいさ以上に素敵な本だった。こういう本を書くのは大変だろう。静かに見守ってくれる人があってこそ。

今年度に入っていくつめの間違いだか今日もスケジュール管理を間違ってしまった。そういえばもう何年も使っていないアドレスの方にメールが届いていた。不思議だ。今のアドレスでやりとりしていたはずの人から。不思議だ。とか言っていないで返信しましょう。相当不思議だけどなくはないなという理由も思い浮かぶ。面白い。そのプロバイダの別のサービスを利用しているからサービス自体は残していたけど転送されてこなかった懐かしいメールとかもあるのかな。今回は転送されてきてよかった。

カーテンをシャッと開ける音が聞こえた。外ではずーっと雨の音。部屋の中が本当にちょうどいい気温で気持ちよく眠れた。ゴロゴロしながら雨の音をずっと聞いていたけど少し窓を開けた。少し寒くてすぐに閉めた。短い睡眠時間が日常になってしまったけど仕事が減るわけではない。食べる機会は増えるけど。今日は福生の洋菓子屋さん「カフェ・ドゥ・ジャルダン」のお菓子をいただきます。まずはアメリカンカステラから。なぜこのお店の名前で?福生には基地があるからかな。星条旗モチーフの透明なかわいい袋に収まったカステラ。おお。ふわふわ。ざらめが結構ざらめで甘味と食感のいいアクセントになっている。ポロポロさせながらオレンジアールグレイと一緒にいただきました。毎日お菓子天国。いろんな土地のお菓子をいただくのは楽しいですね。

人と一緒に本屋さんにいくのも楽しい。前に暮田真名さんと本屋さんで本を眺めながら読まされた本のことを聞いた。興味深かった。本にまつわる思い出って今はあまり本を読まないという人にもあると思うんだよね。学校があるから。私は学校にまともにいくようになったのは大人になってからだけどスクールカウンセラーとかで現場を知ると学校ってある程度の強制力がある場としては大事だなと思うようになった。ウィニコットのgood enoughと同じでなかなか難しいけど。年度始めに教科書が配られると国語と道徳の本だけはすぐに全部読んだ。今はこんな人のも載せちゃうんだとか余計な情報が邪魔するときもあるけど当時は著者名とか全く気にせずとにかく読んでいた。内容はほとんど覚えていないけどなんだったんだろう、あれは。

今日は新しい施設へ。時間とか間違ってないかすごく心配。何度も確認してメモとったのにそのメモが間違っていた、ほんと自分アテにならない、ということが覚えていられるすごく狭い範囲でも数回。まあ中身がんばりましょう。新しいところはまず知るところから。色々教えていただきながらやりましょう。その前に足元に気をつけましょう。また一週間、なんとかやっていきましょう。「しょう」が多くなるときはなんかちょっと疲れているときかも。とりあえず一歩一歩。

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精神分析

gift、カフェ、林芙美子記念館

“gift for you”とシンプルに書かれた小さな紙袋にウキウキ。マカダミアナッツのクッキーとアーモンドあられが入っていましたー。もう少ししたらコーヒーか紅茶を淹れよう。我が家は今紅茶も豊富。コーヒーの味はよっぽど特徴がなければあまり違いがわからないのだけど紅茶は全然違うからあれこれ楽しい。もう何ヶ月前になるのか早朝から作業をしていたカフェが突然休みになりいつの間にか閉店した。最初はコロナが出ちゃったのかな、大変だなと思っていたのだけど結局理由はわからないまま何もなくなってしまった。そしてそこには何事もなかったかのようにチェーンのカフェが入った。老若男女が集うカフェだったけど今は若者ばかり。いろんなことが起きるカフェで迷惑だなと思うこともあったけどお店の人たちも自由だったしいかにも地域のカフェって感じだったのにな。飲み物も頼まず電源だけ使っている若者は誰にも何も言われずやりたいことをやっていたな。何ってドライヤー使って友達の髪をセットしてた。流石に不衛生だし非常識だろ、と離れた席から眺めた。あ、でもこれコロナ前。コロナで非常識はマスクを外すことみたいな感じになっちゃったしなんだかな。時が経つのは早い、というかなんだかな。

先日、サクッと林芙美子記念館へ行ってきた。オフィスは初台だから大江戸線中井駅は近い。まずお庭が素敵で感動した。芙美子は竹が好きだったそうで玄関へ続く道は竹がたくさんすっと空へ伸びてサワサワとザワザワの間くらいの音を立てていた。低く飛ぶようになった飛行機がうるさかったのが残念。芙美子が生きている頃はもっとたくさんの竹がお庭にあったんだって。ボランティアガイドさんが色々教えてくださった。四方竹というのも教えてもらった。これ断面が四角いの。外から触ってもちょっと違いがわかる。この竹は秋が旬なんだって。つまり秋に生えてくるってことだよね。とらないとすぐ大きくなって食べられなくなっちゃうものね。今はスーパーでも売ってるみたい。筍は毎年小動物みたいなままの採れたてをいただくしそんなに大量に食べるものでもないから食べ物としてはそんなに魅力を感じたことないけど植物としてはとても好き。竹林の間を通るときに感じる風に特別感。いい。ところで竹って木?「植物」というのは木も草も花もみんな含む上位の界?分類がわからないけど木と草の間みたいな植物だよね、竹は。

林芙美子が死ぬまでの十年間だっけな、早すぎる晩年を過ごしたこの家は本当におしゃれ。芙美子自身が建築を熱心に勉強して様々なこだわりを形にした実際に風通しがとてもいい(ここもこだわったみたい)作りで玄関と書斎が特に素敵だった。あと冷蔵庫が電気でびっくり。自分の生活しやすさに合わせた家を自らの手でデザインして合理的でおしゃれに仕上げた芙美子すごい。友達が中井に住んでいる頃にお泊まりしてその翌日に行ったことがあったけどその時もこんなに「うわあ、おしゃれ」って思ったっけ。宮大工に建ててもらったとのことで木の選び方も見せ方も工夫を感じたなあ。すごく素敵だった。当時も音がうるさいという理由で仕事部屋(書斎)は奥の静かな方にしたみたい(逆に客間が一番うるさいところっていってた気がする)だけど今こんな近い空を飛行機が飛んでいる中にいたらなんていうかな、芙美子さん。飛行機か・・・。女の従軍作家として戦争のあらゆる側面(主に金か)に巻き込まれたであろう芙美子にとっては飛行機の音はただうるさいだけではないかもしれない。『放浪記』が売れて印税ではじめてパリへ行ったときは飛行機ではなくシベリア鉄道だった。森まゆみが『女三人のシベリア鉄道』という本で芙美子のあとを追っている。森まゆみはこの前鴎外記念館で流されていた映像にも出てきてた、そういえば。ふみこつながりでいえば昨年、芙美子と同じ1903年生まれの金子文子「何が私をこうさせたか」を全文収録し、さらに調書、獄中歌集も収めた本を読んだ。「何が私をこうさせたか」に林芙美子が書評を寄せているそうだがそれも探せばどこかで読めるのかもしれない。1931年、読売新聞らしい。

お、そろそろNHK俳句の時間だ。見るだけテレビ体操の後。紅茶を淹れよう。芙美子が朝はここで冷酒を飲んだというお部屋も素敵だった。私も窓を開けたまま飲もう、紅茶を。みなさんも普通に水分補給してバテないようにお過ごしくださいね。

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精神分析

搾取、嘘、みんな同じ空の下

さて搾取する人が嘘を吐き続ける場を与える社会で生きていく術を模索する一日が今日も始まりました。ずるいよね。そういう人がケアとか格差とか哲学とか内省モードちらつかせつつ上手に語る。言ってることとやってることまるで違うのに拡散されるのは表面だから大丈夫、バレない。軽薄に「サイコー」といってくれるオトモダチやパートナーはたくさんいる。そんな社会で今日も生きていく。格差なんて広がるばかり。ハラスメントも差別も終わるはずない。

家庭をかえりみなかった父親みたいになりたくない、と家庭をかえりみず嘘を吐き続ける。というか父親になっていないので嘘はついていない。いっておけばいい世界で生き残れるほどの知識を身につけてきた。人の心と体を弄び実際の傷をつけても責任を取らなくていい理由を説明してくれる知識だっていくらでも引き出せる。それらを惜しみなく披露することで家庭の外側に同質集団を作る努力も欠かさない。今やいつでも書いていい場も得た。自分と似たような人が集うプラットフォームでは「賢人」扱いしてもらえる。これまでしてきたこと?10年くらいしたら昔自分「も」こんなことをしてしまった、と誰かの黒歴史にのっかって吐露する材料になるんじゃないかな。そしたらいつもと同じ人がいいねをくれるでしょ。相手にとって時効なんてない?そんなことはどうでもいい。もう自分の世界にはいないのだから。わかってくれる人がわかってくれればいい。俺は俺を面白がってくれる人のために書く、喋る、そういう場を与えてくれる人がいなくなったとしてもTwitterのスペースだってyou tubeだって使いこなしている。しんどいしんどい言いながら一生懸命やってきたんだからある程度のことは仕方なくない?それに自分は嘘をついているつもりなどないし、傷つけた覚えもない。数年後に謝るかもしれないけどいまのところそんな覚えはない。自分だっていろんな人に場を与えてきたし寂しい女たちには家族よりも時間を割いて優しくしてきた。気に入ればついていくし二人になればすぐに触ったりもしたけど面倒なことにならなかった。面倒なことになるのは相手が悪いか運が悪いかやり方がまずいんだよ。馬鹿はちょっと圧かけて黙らせればいいし使えなくなっても最後に褒めとけばいいんだよ、女なんて。やってることなんて言ったり書いたりしなきゃいいんだから。

みたいな人いっぱいいる。生々しい情緒が動かされそうになれば知識で逃げる。あるいは素早く被害者になりすまし脅すように圧をかけ黙らせる。そういう人と同じ空の下で今日も生きていくのです。そういう人にならないようにしながら。不快さと痛みにどうしようもなくなりながら。苦しいですね。孤独ですね。辛いですね。これも現実だから仕方ない。でも別の現実もあるからそっちも忘れないようにしないと。なんでもかんでも連続したものとして考える必要なんかない。あったことはあったこと。なかったことはなかったこと。そういうシンプルな事実に常に立ち戻る。爆発するならほぼ絶対に変わらない相手に対してだけでなくそういう人に場を与えている社会にも。そっちも変わらない可能性高いけど人の数が多ければ誰かしら味方はいるかもしれないから。こんな負担負わなくても生きられる社会じゃないなんて嫌だけど見て見ぬ振りしてきれいごと振りまく人なるのも嫌じゃないですか。そんなにたくさん本を読んでそんなにたくさんの知識があるのにやってることはこれですか。なんのための読書?なんのための勉強?自分にとって不快な自分から遠く離れるためだけの?多分そうなんだと思う。

今日もいいお天気。昨日くらいがちょうどいいけど暑くなっていくのかなあ。体調崩さないでいきたいですね。私はユウカメロンをいただきます。

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メロン、フロイト、ティナ

ユウカメロンというのを送ってもらった。漢字だと優香みたい。柔らかくて包丁が気持ちよく入った。メロンはだいたいそうだっけ。久しぶりに食べたわん。メロンは晩夏の季語。

新婚のすべて未知数メロン切る  品川鈴子

本当ね。相手のことも自分のこともわからないのにましてやこれから起きることなんて。

昨晩はフロイト読書会だった。みんな疲れていた。私も帰宅するまでは疲れていたけどバタバタと家のことしたりしていたら回復したので元気に参加。でもアドバイザーとしてはいまいちだったな、自分。『ヒステリー研究』を読んでいるのだけど臨床での言葉の使用について考えてしまってそれこそ言葉の使用を間違った。修正したけどぼんやりしていたのかも。元気になったつもりだったんだけどな。

最近、フロイディアン・スリップなのか、間違いが多すぎる。昨日も「これであっていますか」と確認のメールがきた。あってない・・・。これまで一度も間違えたことのない慣れ親しんだ数字を8は9へ、2は3へ、とひとつずつずらしていた。やばいだろー、と思いつつエレベーターにのってオフィスへ向かった。部屋番号あってるよね、と確認して鍵を入れる。前にエレベーターには誰ものっていなかったのに下の階に止まってしまったことがあり何も考えずに降りた私はそのまま下の階の同じ位置にある部屋のドアの鍵穴に鍵を挿したのだ。あかない!すごく焦った。当たり前じゃ。まあ、これは最近というより開業して間もなくの話。今思えば自分でエレベーターの階のボタンを押し間違えていたのだろう。というか今までそう思っていなかった、というか何も考えていなかった。やばい。

昨晩ぼんやりしたのはフロイトの書いていることがみんなの質問などで『心理学草案』から繋がってきて「この人なんでこんなこと考えることができたの」ということに驚いて深く追うようにしてしまい「平等に漂う注意」を維持できなかった。興奮量の移動という観点から考えるとヒステリーと強迫神経症の分類はシンプル。その量から質的なものを生み出すいうかその量に関与する質的なものとは何か、フロイトは観察を続ける。その著作を読めばわかるようにフロイトの観察は「マジかよ」というくらい細かくこれはこれこれこうでそれはこれこれこうなのでこういうふうに違っているわけで、だったらこっちはどうかというと、とどこまでも違いを観察しながら自分の言っていることの正当性を高めていく。そこまで人間の目でみられたらあんなことも書けちゃうのかもしれないけどそれ普通の人間じゃないっすよ、教授、みたいな感じでついていかないとポカンとしてしまうこともある。なんかフロイトを「教授」っていうのって坂本龍一を呼んでいるような感覚になる。

ティナ・ターナーが死んだ。私にとっては坂本龍一が死んだ時よりずっとショックだった。高校の時からかな、ずっとその歌声に心地よく圧倒されてきた。沈むな、リズムにのれ、踊れと言われているような写真ばかり流れてきた。かっこいい人だった。今日もティナを聞きながら普通に過ごそう。みんな死んでいく。だからちゃんととかだからもっととかは不自然だと思う。みんな死んでいくのだから事実と現実に基づく。音やリズムに自然にノル。思い浮かんだら言葉にする。過去を捨てない。ロックってなかったことにしないための音楽でしょ。ごまかさないためのリズムでしょ。ということでそれぞれそれぞれ。

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自己開示、正当防衛、ライフハック

まだ暗い時間から長文を書いた。公にはしないものを。何歳になっても傷つきや後悔を公に自己開示する形でしか体験しようとしない人がいる。したほうがいいとかでは全くない。本当に悲しんだり、本当に後悔したり、「本当に〜」とつくものは公に語れないことの方がずっと多い。そういう部分に誰かを介入させたとたん嘘っぽくなる。逆にそうなってしまうくらいに言葉にできない体験をしてきたのかもしれないという仮説もたつ。SNSが自分の言いたいことだけを垂れ流し見せたい自分を上手に見せられる人たちの活躍の場になり何回でも人をうちのめすことができる場になった。「そんなつもりはなかった」「自分のこと言われてると思ったんですか」といくらでもごまかしの言葉を使う。そういうのも「正当防衛」というらしいが散々嘘をつきながら人の心と体を弄び実際の傷をつけておいて自分が責められそうになるとこっちが「正当防衛」のためにそんなこと言ってるだけだ、みたいなまるで嘘つき呼ばわり。その人を知っている人に話しても「クズだな。すげえな。」で終わり。そりゃそうだ。利害関係は大事だ。「見て、聞いて」を叶えてほしかった相手は大抵の場合もういない。その不在を体験できず承認を求める。なかったことにできるならなんだってする。誰を傷つけても構わない。まだまだ傷ついている子供なんだ。かわいそうだからとそばにいるうちにいつの間にか性愛が入りこみ都合よく大人になったり子供になったりする。私たちは愚かだ。自分の立場が弱くなると被害を主張し、事実を持ち出せば「後悔してます」と怒り含みの言葉で人を黙らせコミュニケーションを回避する。それでも驚くべき軽薄さを維持したまま自分の失敗は失敗のまま女や男や「仲間」を利用し続けることをやめられない。本当に厄介だなと思うのは軽薄で言葉巧みな人は表面的な人気を得やすいのであまり上手に言葉にできない人がいつも見下され黙らされてばかりなこと。それこそ「クズだな。すげえな。ひでえな。」と思ってしまう。自分の傷つきや症状は主張するくせにその人たちほど上手に立ち回れない傷や症状や「障害」といわれる状態を抱えている人たちに対してはものすごく差別的で排他的だったりするのでうんざりすることもある。そういう人の一部にライフハックという言葉をよく使う人がいた。なんの共感性もなく彼らを見下し私を見下すので「それもライフハックなのだろう」と言ったらプチ切れされた。人を怒らせること、それを自分に照らし返されることへの恐れも深刻だ。心理療法過程ではこんなような心の状態は必然的に現れる。実は誰にでもある心の状態だから。ただそれを行動にしてしまうのはとてもまずいことだろう。本来はこういうことは公に垂れ流すことで自分を含む誰かの傷を広げるものではない。なので秘密を守ってもらえる場所が必要になる。話し合いができる関係を築きつつ言葉にしていくこと。その関係を作るのも言葉だからその時点で痛みは避けられないし専門家だからといって無条件に信頼できるはずもない。普通よりは知識とスキルと経験がありその仕事に関する倫理規定に基づいて仕事をしているということを信頼してもらうほかない。世界はひどいことで溢れてる。戦争だって起きている。それでもなぜか生き残っている。不思議だよね。何がなくともそういうことになっているのであればなんとか今日も一日過ごせそうだろうか。今日もいいお天気みたい。私は昨日から池澤夏樹『また会う日まで』(朝日新聞出版)を読み始めた。親が送ってくれた。読んでいる途中から止まらないと言っていた。持ち歩くには分厚いがたしかに読み始めると気になってしまう。持っていこうかな。それぞれなんとかやっていけますように。またね。

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思春期、トレーニング、レイ・アナリスト問題

いいお天気。洗濯物をベランダへ。風ひとつない。全然揺れない。光がいっぱい。昨日の保育園の帰り道、区の先生と色々話す合間にいちいち「寒い寒い」といいあった。向かいの家の屋根はまだ濡れて光ってる。コーヒー飲むと暑い。と書いたのは何度目だろう。今朝も足柄の洋菓子屋さんのお菓子。フルーツパウンド。コーヒーにぴったり。足柄に住んでいた子と一緒に合格発表を見にいったなあ。若いときはそういう部分の親代わりみたいなこと結構していた。このときもそんなやりにくいことを私がやるのかと思ったけど結果が残念だったからこそ一緒にいられてよかった。長い付き合いの子だったけどあんなふうに感謝されたのははじめてだったな。今はオフィスやクリニックで思春期の子供たちが大きくなっていく時間を共にしている。大人になってから会う人とはまるで異なるインパクトを持つ彼らの言語や身ぶりに圧倒されたり笑いあったりこういう豊かさをみんな持っているはずなのだろう、本来は。ないものはないし見えていないものをあるはずと想定することは安易にはできないが密な作業を継続的にしていくことで出会う言葉や気持ちはそれまでと全く異なるものだったりする。「これこれこうするとこういうことが起きますよ」という意味ではこういうことが起きるのが精神分析的治療なのだけどこれは他人からみたわかりやすい「良さ」には繋がっていない場合も多いのでなかなか難しいところ。適応はよくなることがほとんどだけど適応は目的ではない。自分の不快さにとどまることを誰かと共にいながらその共にいてくれる誰かに侵襲されながらそれを反復に組み込んでその誰かをもそこに巻き込みながら共にそれを体験しその中で二人とも生き残る。結構な作業なのでトレーニングは必須だ。共倒れするわけにはいかない。そう、精神分析のトレーニングのことを調べていた。今回はラカンがSPP(パリ精神分析協会)の分裂によりラガーシュ一派としてSFP(フランス精神分析協会)の訓練分析家になりセミネールをはじめるまでのところをIPA(国際精神分析協会)の様子と関連させて調べていたが、精神分析のトレーニングはこうやって常に物議を醸すものなので結局いつも何度も調べ直すことになる。それは私自身のアイデンティティと関わるのだから必然的にそうなる。

1910年に設立されたIPAに所属する分析家が増えるにつれて制度化は求められ国際規格の訓練の義務化が動き出した。1925年バート=ホンブルクBad Homburgでのコングレスでのことだ。IPAの歴史はIPAのウェブサイト、HISTORY OF THE IPAで読める。現在はEitingon, French and Uruguayanの3つのmodelがIPAのトレーニングの基盤をなす。ちなみにこれは地理的な区分ではない。この前史、つまり1925年バート=ホンブルク以前のトレーニングを巡る状況とバート=ホンブルグ以降、Eitingonが主導したトレーニング委員会(International Training Board (のちのITC)が成した仕事をレイ・アナリストの問題と絡めて論じたSchröter, M. (2002) Max Eitingon and the Struggle to Establish an International Standard for Psychoanalytic Training (1925-1929). が非常に参考になった(IPAジャーナル83:875-893)。こんな感じ↓で動き出したらしい。

A new chapter in the history of psychoanalytic training began in 1925 at the Homburg Congress with a ‘Preliminary discussion of the question of analytical training’, convened by Eitingon. This led to the Congress decision that all the branch societies should elect a training committee and that the committees should combine to form an ‘International Training Commission’, to act as the ‘central organ’ of the IPA for all questions relating to psychoanalytic instruction (Int. J. Psycho-Anal., 1926, p. 141).

ただこのこのPreliminary discussion予備討論やcentral organ中央機関の設立がいつ、誰によって構想されたかは明確ではないとのこと。草案から今に至るまでさまざまな経緯があるわけでラカンはフランスでその影響をうけたわけだ。

ちなみにレイ・アナリスト問題というのは常に重要で以前から何度か「素人分析の問題」が収められた『フロイト全集19』の月報で國分功一郎さんが書かれた文章を紹介してきた。今はブログでは読めなくなっているようだが昨年出版された十川幸司 、藤山直樹 編著『精神分析のゆくえ 臨床知と人文知の閾』(金剛出版)の第1章でより詳しく國分さんの考えを知ることができる。この本は精神分析家の藤山直樹先生と十川幸司先生が主宰する小寺記念精神分析研究財団の学際的ワークショップ「精神分析の知のリンクに向けて」を書籍化したもので第二回「『素人分析の問題』をめぐって」は第1章「素人分析の問題」で論じられているのでぜひ。

今日はイレギュラーな用事がある日。まだ少し風がひんやりだけど暑くなるかな。気温差に対応できないけど体調崩さないようにしたいですね。週の真ん中。なんとかなんとか一歩ずつ。

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精神分析

雨、お菓子、ラカン

鳥ってまとまって鳴いたと思ったらすぐに遠くにいってしまう。南側の大きな窓から外をみたら向かいの家の屋根が濡れていた。窓を少し開けたら薄く濡れた屋根に水滴が跳ねているのが見えた。少しだけ降っているのね。この時期は雨は降るものと思っておいた方がいいね。梅雨がくる。

私は群馬育ちで伊香保温泉とかグリーン牧場とか(これは私の中ではセット。今だったらここに原美術館ARCが加わる)身近なんだけど温泉といえば温泉饅頭。伊香保だったら清芳亭の湯の花饅頭。うちはこれ一択でした。饅頭屋さんにも色々あって、と落語みたいな話をしたくなるのだけどとりあえず今は神奈川県足柄郡の温泉土産クッキーをいただいています。あと同じく足柄土産レーズンサンド。レーズンサンドというものがございます。これもいろんな土地のいろんな店がありまして、と落語的雑談がしたいのだけどあとで誰かとしませう。

週末は久しぶりにフランス精神分析に触れた。立木康介さんにいただいた『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』(講談社選書メチエ)は最近読んだけど。あれもラカンの基本的な概念がわかりやすく取り上げられているのだけどフランスの精神分析家の論文を読むにはもっと基盤を勉強しないとダメだなと思ってちょっとずつまたラカンを読み始めた。私の持っている岩波書店のセミネール(これとか)はきれいなまま時を過ごしてきてるから途中のページでもパタンって開くくらいに読み込みたいですね、死ぬまでには。『精神分析の四基本概念』上・下は文庫で読めます。「四基本概念」って言い方、少し変だと思うのだけどそんなことない?

セミナーでも確認があったけどラカン派精神分析は診断カテゴリーを神経症、精神病、倒錯の3つに分けていて、神経症と精神病の違いは雑にいえば了解可能か不可能か、抑圧か排除か(本当になかったことにできてしまうのかどうか、対象がいるかいないか、備給の話、つまりナルシシズムとか転移の話)、空想か妄想か(外的現実の認識と象徴化の話)など。全部フロイトが基盤。ラカンの鏡像段階は有名だけどラカンは自我を鏡像的なもの、つまり想像的なものと捉えていてその起源を他者というかイメージにおいている。この時点で「現実」から引き離される。言葉が重要なのはその不在を埋めようとするから。言葉がいつも嘘っぽいのはそのせいというか現実に直接触れる言葉というものはないからなんだよね、みたいな理解でいいのだろうか。とにもかくにも同じ用語を使っていてもそれが意味するところ、しないところが異なるので勉強しないとなあと思った。でも以前よりもラカンを読むのはずっと楽でそれはフロイトをたくさん読んできたからだと思うんだな。とりあえずフロイトに戻らないことにはというのがラカンだもんね。今回はアンドレ・グリーンのウィニコットへのオマージュ論文だったからどうしてもウィニコットを読むということ自体も振り返らざるをえなかったな。フロイトを読むのとウィニコットを読むのはまるで違う。ウィニコットも「鏡」の役割を重視して有名な論文もあるけどラカンとは違うこと言ってるし大雑把に「にてるーおなじー」となりがちな私は気をつけないと色々見落とす。子供と遊ぶときはいいんだけどね。子供のざっくり把握能力ってすごいから。大人になるってなんだかね。でも言葉にばかり緻密で読み方とか書き方とか教えているにも関わらず全く幼児的な大人もいるから言葉だけの問題では全くないね。それにしても大雑把な把握は俳句とかに生かすべきだわ、と今思った。俳句は不在を言葉で埋めようとしない文芸だと思いませんか。精神分析も本来そうだと思うのだけど不在を実感するためにどうしても言葉が必要になってくるから難しいんだよね、きっと。俳句も難しいけど俳句でごはん食べてないからなあ。気楽だ。

今日は事務的な失敗で時間割かれないようにしないと。いつもやるべきことをやる前の準備段階で失敗や間違いをおかしてスタート地点に立つ頃には1日が終わってることが多いから。いつもこれでは本当に困るけど老眼も進んでるし明らかに認知能力が落ちてきているのを感じるからせめて丁寧にやりましょう。もう「そういうことあるよね」とかいうレベルではないもの。まあ色々大変だけど今日もなんとかとりあえず1日を。

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ホクホク、句会色々、孤心

今朝は新しいお菓子がやってきた。温泉のクッキーとかカステラとか。嬉しいな。

句会でホクホクして一日を終えようとしたらまた自分の間違いに気づいてしまいすぐにメール。はあ。本当にね。よくやってきてるな、こんなんで。どうにかなるといいのだけど。

こんなんでもなんとかなってきてるのは助けが多いから。いつも個人にも環境に助けられている。カラスが鳴いてる。どうしたのかな。どうもしなくても鳴くか。カメラオフのzoom句会でかわいい声が聞こえてマイクマークに赤い斜線が入る。「寝たはずの子が起きちゃって」「ちょっと子どもが」と小さい子どもがいると親は大変だ。最初からカメラオフにしておくのはいい設定だと思う。昨日は知っている子どもの声が聞こえた。もうすぐお誕生日だね。また遊ぼう。一緒に絵本も読もう。コロナ以前に私が立ち上げた句会は投句と選評だけ書き込みあう会。管理は持ち回りの当番制。その後「談話室」でやりとりすることもあるけど基本的には選評で対話している感じ。「夏雲システム」というオンライン句会のためのシステムを使わせていただいているがシステムのおかげで俳句を続けられている人も多いのではないだろうか。開発、運営を一人で担ってくださっている野良古さんには本当に感謝感謝である。私たちの小さな句会にも結社の枠をこえてひとり、またひとりと人が増えてきた。コロナ前は月1回対面で集まっていた句会はオンラインに切り替えて主宰不在のまま継続してきた。私は一度抜けさせてもらったけど再開。この句会はまだオンラインだけど吟行の企画が増えてきた。参加はできないけど吟行先と句会場所を聞くだけでも楽しい。私が出ている句会はやさしいというか普通に思いやりのある人ばかりで穏やかで言葉を大切にするホクホクした時間を過ごせるから新しい方もすぐになじめると思う。俳句は「座の文学」と呼ばれるけど大岡信が『うたげと孤心』(岩波文庫)で書いたように孤心を生きるものでもある。大岡信はこう書いた。

“それらの詩人たちとは、柿本人麻呂、菅原道真、紀貫之、藤原俊成・定家、松尾芭蕉、与謝蕪村、岡倉天心、正岡子規、夏目漱石、窪田空穂、高浜虚子、萩原朔太郎その他である。これらの詩人たちは、私の考えでは一人残らず「うたげ」の中で「孤心」を生き、 「孤心」の中で一人「うたげ」を主宰し演じることに長じていた詩人たちにほかならなかった。(中略)

 この人たちも皆、悩み多き自己分裂の生を生きたのだと思うことによって、私は少なからず励まされてきたと思っている。”

借り物の言葉ばかりで支持をあつめている人は孤心ではなく孤独だけどそれもずーっと続ければ虚構にはみえず無事に孤独を防衛できたりする。ある人が書いた言葉がそれを引用したある嘘つきな人の言葉として賞賛されているのをみたことがある。虚構のための搾取、と変に納得したけど悲しかった。「孤心」を生きるというのは自分の有限性を生きることでもある。精神分析は自分の言葉で話したい、と自分自身と向き合おうとする。それを自分自身に求める人は多くないが誰かの言葉や身体を食い物にしないための一つの方法ではある。

さあ、お菓子。食べるならこっち。もうだいぶ明るい。新しい一週間をどうにかこうにか始めましょう。

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テレビ、マクドゥーガル、軽薄さ

朝早くからテレビをつけてみた。大体の人が寝ているような時間に静かにであっても会話をしている姿をみてるとなんか奇妙な感じがする。みんなが寝ている時間ならひとりになれるから、と眠らない人たちもいるわけだから本来コミュニケーションの時間ではないのでしょうね。早朝だと普段は聞こえない電車の音も聞こえる。私はオンラインのセミナーも苦手でコロナ禍ではそういう勉強サボりまくりだったわけだけど関係があるんだと思う。自然を感じながら何かすることが子供の頃からずっと当たり前なんだと思う。授業中もずーっと外を見てたし。夜遅い読書会でみんながすごく疲れているのをみると自然でいいなあと思う。もう長い付き合いだからそういうのを取り繕う人もいないし変に興奮しないためにはフロイトを読むくらいがちょうどいいね、夜は。興奮そのものについて論理的に考えられる学問だしね。昨晩はこれもずっとやってるフェミニズムやセクシュアリティに関する本を読む会でジョイス・マクドゥーガルのTHE MANY FACES OF EROSを少人数で読んだ。関西の人と始めた会でこれはコロナ前からオンライン。今回はセクシュアリティに関する主訴を持つ患者をたくさんみてきたマクドゥーガルが珍しく事例を出さずにneosexualityという考えを提案する短めの章だった。この精神分析家が何を考えてこの本を書いていたのかがだいぶわかってきたかもしれない。臨床現場で出会うセクシュアリティの多様なあり方と現れ方を精神分析が得意とする「倒錯」という言葉を再考しながら記述する仕方はそんなに論理的ではなかったけどあまりの多様さに圧倒されながら臨床をしていたらこういう風にしか書けないかもしれない。色々話し合ったあとはそれぞれのみものをとってきてあれこれおしゃべりした。いろんな内緒話もできるし議論に載せる前の本音も色々話し合える大切な時間。みんな忙しいから2ヶ月に1回とかだけど。家では家での時間も大切だしね。リビングからつけぱなっしのテレビの音が聞こえる。NHK短歌かな。このあとテレビ体操があってそのあとNHK俳句。いつも見るのを忘れがちだけど今日は大丈夫そう。朝のうちにひとつ資料作っておかねば。こちらはなかなか気が重いけどはじめたものはやらねばな。軽薄さって責任をとる気がない、あるいはとれないことの表現だと思っているけどそういうのをひとつのエンタメのように楽しめる立場の人は気楽でいいなと思ってしまう。そのせいで蔑ろにされる性や生活があることなんて想像しなくていいんだもの。軽薄さがナルシシズムに基づく敵意の防衛でその空虚さはこちらが感じることになっているような関係性の場合、なかったことにされる、いなかったことにされる体験をたくさんすることになるのでこっちもおかしくなってきていつの間にかこっち「が」おかしいみたいになるから痛みに持ち堪えながらできるだけ正確に観察できたらいいね。マクドゥーガルを見習お。テレビ体操がはじまった。いつもみているうちに終わってしまうやつ。姿勢と呼吸がしっかり意識されているきれいな動きに見とれながらピアノの音にのってると終わっちゃうのよね。そんなこんなでも健康に気をつけて過ごしましょうね。どうぞよい日曜日を。

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テレビ、セルジュ・ティスロン『家族の秘密』

鳥たち元気。少しずつ明るくなってきた。さっき間近で高い声で鳥が鳴いて去っていった。

昨晩、ごはんを食べながらNHKの「スイッチインタビュー」と「超多様性トークショーなれそめ」を見た。二週連続みた。テレビは地震が起きたらつけるし日曜朝のNHK俳句をたまにみたりはするがほとんどみなくなった。近所の居酒屋がコロナ禍ではじめたテイクアウトを美味しくいただきつつ画面の中の会話を聞いていた。会話によって引き出されるゲストの体験や想いに笑ったり涙ぐんだりした。エンターテイメントだな、テレビ。人に歴史あり。カップルに、家族に歴史あり。

昨日から隙間時間はセルジュ・ティスロン『家族の秘密』(白水社)を読んでいる。訳者は精神科医の阿部又一郎さん。カミーユ・エマニュエル著『跳ね返りとトラウマーーそばにいるあなたも無傷ではない』(吉田良子訳)の校正に関わり柏書房のnoteで書評も書いていたのを読んだばかりだ。この『家族の秘密』もトラウマに関する本と言っていいだろう。精神科医であり精神分析家でもあるティスロンが家族の秘密を主にフランス精神分析にけるトラウマ理論とごく基本的な精神分析概念をシンプルに用いながら一般向けの概説書として仕上げた一冊らしく読みやすい。日本語版序文もティスロンによるもので2016年の日本・フランス合作の深田晃司監督の映画『淵に立つ』を取り上げ「秘密という牢獄」を家族という単位で描写した場合の一例を書いているがこれだけで重たい。精神分析は父、母、子供という三角関係を根源的な形とした秘密と傷に関わる学問であり治療法だ。秘密と思っていたのは実は身内だけですでに周知であり拡散されているような現代において秘密を「真理」ではなく「コミュニケーション」と対立するものとしてそのメカニズムを再考することはたしかに今まさに求められていることなのかもしれず「トラウマ」という言葉を安易に用いないことにも繋がるかもしれない、などとと思いながら読んでいる。

今日も色々大変だ。隙間時間に読むべき本はこれではないが届いたから読んでしまった。まずはやるべきことを、と毎日思いながら思うだけで日々が過ぎる。大変だなあ。自分のせいだけど。

今朝はなんだか寒い。気温がそんなに低いわけではなさそうだけど極度に寒がりな私は暑い日以外はほとんど寒さを感じているような気がする。この前も友達の中で一番厚着だったし。本当に三者三様の服装で体感温度の個人差が面白かった。ああ、窓の向こうのグレーの空をみながら梅雨も近いということに気づいてしまった。憂鬱。まあ、とりあえず今日を。みなさんもどうぞご無事で。お身体にお気をつけて。

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アナログ、グリーン、ウィニコット

なにがなにやらはらへりへりはら。いやお腹空いてないけど。AIとかなんとかいう前にPCだってこうやってひたすらフォーマットに書き込むくらいしかできないのにこれからやってけるのかな。直接人と関わる仕事ばかりしてきたのもそれしかできないからだね。はあ。調子良く原稿を集めたまでは良かったけど編集作業で切り貼りするだけで肩が凝りました。

昨日書いたAndré Greenの論文、ざっと読んだ。私の英語力のせいで全く別の意味にとったりしていないとしたらとても良い論文だった。まあ多少間違って理解していたとしても全体的にいい論文だった。私が日々格闘しているわからなさにとどまるためのヒントを与えてくれた。

論文はこれ。“The Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D. W. Winnicott”

やっぱりウィニコットが絡んでいると安心するのかな。基盤って大事だな。

アナログ人間の私には本当にそうだな!と思う文章もあった。まぁ、アナログの意味違うけどやはりフロイトのこの辺も追わねば。

“However, Freud had the courage to write, ‘Without metapsychological speculation and theorizing—I had almost said “phantasying”—we shall not get another step forward’ (1937a, p. 225). We cannot accept that our theories are fantasies. The best solution would be to accept that they are not the expression of scientific truth but an approximation to it, its analogue. Then there is no harm in constructing a myth of origins, provided we know that it can only be a myth.”

精神分析の世界では多分世界を離散的なものと捉えている分析家と連続性ありきで捉えている分析家の両方がいると思う。私は離散的なものとして捉えているしフロイト、ウィニコット、グリーンもそうなんじゃないかと思っている。時間についてどのような認識を持つかで治療者のありようは変わってくると思うのでその辺の議論ができたらいいな。

精神分析の目的は結局はこれ、とグリーンが書いているわけではないけどウィニコットを引用してこう書いている。

“Perhaps analysis only aims at the patient’s capacity to be alone (in the presence of the analyst), but in a solitude peopled by play (Winnicott, 1958).”

The capacity to be alone (WINNICOTT, D. W. 1958,1965)の引用ですね。邦訳は『完訳 成熟過程と促進的環境 情緒発達理論の研究』(岩崎学術出版社)の「第一部 発達に関する論文」の「2.一人でいられる能力」。

そういえば週末までにもう一本読まないとなのでは。がーん。もう週末じゃないか。どうしよう。とりあえず今日の分をやらねば。もー。

お寺の鐘がボーンってなった。

持っておきたいウィニコットの本
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精神分析の論文を読んでいる。

週末に向けてせっせと英語の論文を読まないとなのに読み始めると寝てしまう。面白くないわけではなくて英語だから。最近、老眼が進んで楽に読めないのに加えて英語を読むスピードはものすごく遅くなった。サボッテタカラナ。あー、珈琲飲むと暑いー。

読んでいるのはフランスの精神分析家アンドレ・グリーン。エピグラフはW.ブレイクとボルヘスの虎。これら本当にたくさん引用されるんだねえ。昨年はアメリカの精神分析家オグデンが詩を読むこと、あるいは詩のように読むことをどうしてそんなに大切にするのかに興味があったからアメリカ詩、イギリス詩を結構読んだけどブレイクのTigerはどの本にも出てきてた。朗読も結構きいた。イギリスの精神分析家ブリトンは『信念と想像:精神分析のこころの探究』でブレイクを引用しつつ結構紙面を割いていたと思うからそれも再読したいね。新装版も出たしね、と思って今調べたら2016年だった。あったあった。2章割いてる。

13 ミルトンの破壊的自己愛者,あるいはブレイクの本当の自己?
14 ウィリアム・ブレイクと知的自己愛

というかグリーンに戻らねば。読んでいるのは精神分析状況での患者の変化よりも分析家の変化の方に着目した論文。

the way that the patient enacts it and makes the analyst experience it. For, all things considered, there is change only to the extent that the analyst is able to understand such change and to report it.

これ大事。

あ、読み耽ってしまった。このペースで読まねば。

今朝はバターシュガーじゃない、「シュガーバターの木」のたっぷりショコラサンド「横綱」。このパサパサ感はコーヒーとよくあうけどなぜに「横綱」って名前にしたのかね。私さっき「紙面を割く」って書くのも「ページを割く」の方がいいかと思いながらもそのまま書いちゃったけどそんな感じ?

今日はすごく鳥の声が澄んでて響く。空がスッキリきれいだから?今日もすごい光。暑くなりそう。毎日「マジでふざけんな」と思うことに囚われつつどう行動していくかを模索しているのは相変わらずだけどやることはやっていかないとね。もうすぐ家賃の請求もくるし。なぜか引き落としじゃないから毎月毎月無事に払えることに感謝できるのは良いこと。がんばって論文読もう。精神分析実践ありきという態度を私は維持したいし。あるものはある、起きたことは起きた、ないものはない、なかったことにすんな(マジでふざけんな案件はこうしてちょこちょこ入り込んでくる)、「不在」という表現には期待が込められているといったのはグリーンだったと思う。グリーンはネガティブという表現を使う。そういえば十川先生の『思想』での連載はどうなったんだっけ。あれこそネガティブの話でグリーンとも関連づいてるわけだよね、と今思い出した。とりあえず取りかかりましょう。今日も暑さにバテない工夫してえっちらおっちらやりますかね。はあ、すでにバテている感じね、これだと。みなさんもどうぞお大事に。

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ムクドリ、にせもの、来し方

南側の大きな窓をスーッと開けたら涼しい風がスーッと入ってきた。よく滑る窓なので早朝は少し気をつけて開ける。今日はすごくすごく暑くなると聞いたからその前の風を感じておきたかった。コーヒーを飲むと暑くなるのはどの季節も同じだけど窓を開けっぱなしにできるのはいいね。

この前駅へ向かってたら大きな犬のいる家の植木から黒い鳥が飛び出してきた。オレンジ色の足と嘴。ムクドリ。鶴川から帰るときによくみるやつ。まずその声に驚きそっちを見上げたときの数に驚きそれらが飛び立つときの真っ黒ぶりに驚くやつ。駅前の大きな木をねぐらにしている彼らは夕方になるとその辺りにどんどんどんどん集まってきて何かいっている。多分みんな毎日のようにこの光景を見ているのだけどつい見上げちゃうくらいのインパクトがある。自然に対しては気づかないことはあっても飽きることはない。朝、小さな木から飛び出してきたムクドリのオレンジの部分は目をひいた。だからムクドリだとわかった。でも夕方駅前に集結する彼らのことは真っ黒っていってしまう。そうにしか見えてなかった。

昨日、鶴見俊輔を読んでいると書いたが『不定形の思想』もいいけどと『旅と移動 鶴見俊輔コレクション3』(河出文庫)に途中で変えた。島崎藤村を読んでいたはずなのに。この中に「キラーニーの湖──アイルランド」という題の文章があってそれが好き。トマス・ムーア(Thomas Moore 1779-1852)作詞の庭の千草」(原題はThe Last Rose of Summer)の思い出とこの曲のまがいもの性について。時間がないから引用だけしておく。日本国内旅するだけでもいろんなまがいものやにせものと出会うが鶴見俊輔が「忘れたくない」という想いはよくわかる気がする。

「トマス・ムーア原作、明治日本人翻案の「庭の千草」もそのひとつである。それらは、今は洗いだされたアイルランド文化の古型から見て、にせものだろう。

にせものをこえて、別のアイルランドへの道を見出せるのは、いつの日か。だが私は、にせものによってそだてられたものを忘れたくない。」

自らの来し方を振り返り、と書いて「来し方」って言い方はなんか膨らみがあっていいなと思った。ライルが『心の概念』の最初の方で「外的」「内的」という対比は比喩であるといっていたと思う。あの本は心の病理を描写することの難しさを教えてくれる。古田徹也さんのウィトゲンシュタインの本や日常言語学に関する本はここ数年、読みやすいものがたくさん出てるからそれらと一緒にライルを読むのもいいかもしれない。あの本は分厚いから挫折している人も多いみたいだし英語で読んだ方がわかりやすいという人もいたけどそれは英語で正確に読める人のお話。

さてまだ今朝やっておくべきことが終わってないのだった。がんばろー。暑さに気をつけて過ごしましょうね。

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藤村のいろはがるた、鶴見俊輔

まだ暗いうちから島崎藤村を読んでいた。つもりだったがいつのまにか鶴見俊輔を読んでいた。いつのまにか川の名前が変わっていたみたいな感じで無意識に流されるままに本を読んでいることがあるが私にとってこの二人は「かるた」つながりだからそこで自然とそうなったのだろう。

このブログはwordpressで書いている、といっても仕組みがよくわからないまま書き込んでいるが、もっと早い時間にこうして書こうとPCに入っているwordpressのアプリ(PCでもアプリっていうのか)を立ち上げたら立ち上がらない。Expired nonce.って出てきてしまう。なのでしばらく放っておいた。なんで今こうして書けるようになったのだっけ。なんか適当になにかしたらnew postという選択肢が出てきたからそれを選んだらこの画面が立ち上がった。また同じことが起きたときに困るが困るのは自分だからまあいいかとなる。雑文ブログは雑談みたいなものなので残しておく必要も特にない。

というわけで島崎藤村、鶴見俊輔を読みながら感じていたことをもう思い出せない。すぐにどこかへ流されていってしまう。

島崎藤村が『夜明け前』の冒頭で描いた木曽福島の関所の隣の高瀬家(こちらは『家』の舞台)で藤村のあれこれについてご親族の方から教えていただいたことはすでに書いた。そこで藤村のいろはがるたを知ったのだ。この内容が力が抜けていてとても面白かった。藤村記念館で販売していたから買えばよかったのだが案内してくださった高瀬家の方の特に強い思いいれがあるわけでもないよく知らないのだけどこんなのもあったみたいみたいな語りがいい感じでまあいいかと思わせたのかもしれない。買おうと思えばどこかで手に入るだろうというのもあったかもしれない。

なんだか眠くなってきてしまった。外はすっかり明るい。今日は晴れなの?なんだか暑くなりそうな光。

藤村のいろはがるたは馬籠のところどころで小さな街灯にデザインされていた。絵は岡本一平。岡本太郎のお父さん。鶴見俊輔はこのかるたを高く評価した。鶴見俊輔は「かるた」という論考で「概念」という言葉をきらい、その底にある「折り重なっている絵札」としてそれを描き出した。昨年、鶴見俊輔生誕100年ということでいろんな本が出たので興味のある方は「かるた」のはいっている本を読んでみてね。私が数時間前に再読していたのは『不定形の思想』(河出文庫)。奈良美智の装画が目を惹く文庫です。2022年は島崎藤村生誕150年でもあったね。

頭がぼんやり。眠気がきたり去ったりしてる。今日もなんとかやりましょー。

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誰かといながらひとりでいること

よく降りますね。ちょうど小降りになったときやちょうどの止み間に外にいられることもあってそんなに傘使っている感じがないのだけど今日はきちんとさすことになるのかな。保育園の子どもたちもお散歩行けないね。私が巡回する園は園庭がないところが多いからお散歩行けないと結構狭い場所にずっといることになって大変。雨に限らずコロナ禍も本当に大変だった。

長友夫妻に4人目のお子さんが誕生されたのですね。すごい。子供がいる人といない人のリアリティというのはまるで違う。どっちがどうとか、どっちだからどう、ということではなく子供がいるとかいないか、誰かと一緒に暮らしているかどうかはその人を理解するときの変数として大切。時間の使い方ひとつとってもそう。家に誰がいたとしても自分のしたいようにしているようにみえる人もいるけどそれだってその誰かがいるかいないかで気持ちのありようは全く異なる。妻に平然と嘘ついている人でも家にいてもほとんどオンラインの世界にいる人でも「家には妻がいるから」とかいう場合もあるでしょ。そういうときに「え、全然関わってないじゃん。堂々と嘘ついてんじゃん」「そんな負担なら離婚すればいいじゃん」と思うかもしれない。でもそんな単純なものではない、誰かと実際に一緒にいるということは。物理的に離れることでの負担軽減は本当に大事だけど。他人の生活には平気で侵入してひどいことしたりする人でも自分の時間を脅かされることには耐えがたくて、でもナルシシズムを満たしてくれる対象は常に必要だからせっせと社交していつもしんどいしんどいいっている人もいるでしょう。「嫌われたくない」と言いながら疲れ切ってしまう場合もある。スプリットという防衛機制できれいに葛藤をなかったことにする場合もあるけどその負担は相手が負うことになる。その人が楽なら、とみるか、「あなたは楽だろけどそれでまいっている人がいる」とみるか、これも関係によって同じ事態に対してであっても言うことは変わる。人間は一人では生きていけないので現実の人間との間には色々起きてしまう。そういうのが現実。痛み分けとかいっても痛みにも色々あるし。ウィニコットの「ふたりでいながらひとりでいること」の困難。誰かといることで生じる圧に対してどういう態度をとっているかを考えだすとまた「人間って」「私って」となるけど考えざるをえない。辛いことですね。

そしてついに木曽路のお菓子が尽きてしまいました。辛いことです。でもまたお菓子をいただきました。嬉しい。毎日「やっちまった」が多くて自分に嫌気がさすけど助けられる。色々めげつつもめげすぎない程度にチャージしつつがんばれたらいいですね。それでは足元やお身体にお気をつけたてお過ごしください。

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仕事 俳句

ミーティング、「ブラック・サバス」、俳句

雨の音がしなくなった。耳をすます。やっぱりしない。あ、するかな。鳥がさっきピチューピチューピチューって高い声で鳴いてたけどみんなも早起き。

昨日はとても重要なミーティングがあった。ここまでくるのに一年かかった。が、まだ続く。代表者のひとりとして動いていることは最後まで丁寧に。女3人でやってるけど結構楽しい。住んでいる地域もバラバラだからリアルで会ったこともなく小さな子供たちを抱えながらのミーティングも毎回さくさくせざるをえない。でもこの仕事だからお互いのことを手早く知ることに慣れているのかもしれない。この一年でお互いに色々あったこともなんとなく知りつつなんとなく近況報告しつつ。もちろん親密になるというのとはまた別だし「運動」の先頭に共に立つというのは緊張感も伴うものだけど違いを丁寧に補い合うこと自体楽しい。考えや見方が違うからこそ共にやる意味がある。そうか、私たちは「違う」ということに慣れているのがいいのかもしれないな。この仕事は「いろんな人がいる」と実感しつづける仕事だから。障害や病気を持つ人たちと長く関わってきているから何か考えるときにその人たちの生活が常に頭にある。違和感のあるものと共に生きざるを得ない人たちの話をたくさん聞いているとこっちも「なんでそこそんな簡単に根拠なく進めちゃうわけ」みたいなことに敏感になる。臨床は患者さんやクライエントと協力してやるものだから。「ケア」という言葉は当てはまらないように感じるな。お互いにハードだよね、思いもかけないことがたくさん起きるから。本当はそんなことは日々起きてるんだけど人間の処理能力ってすごいから大体のことはパターンに組み込めて違和感少なくできてしまう。密になるとそこが崩れる。だからハード。でもそこに転機も面白さもあるんだと思う。私は今回東京に住みいろんな意味で恵まれている立場だからこそやっておいた方がいいだろうと彼らと協力体制を組んだけどすごく勉強にもなっている。かなりの程度「普通」に生活できている人がやっておいた方がいいだろうということはたくさんあるし育てる仕事をしている責任もあるからいってることとやってることの差異を少なくしていきたい。

その大事なミーティングの前に大急ぎで俳句を作り速達で投函した。ネット句会の締切にも間に合った。いつもギリギリだけど俳句はいい、短くて。15日締切の分も作らねば。明日か。

さっきニュースで見たんだけどイギリスでヘビメタバレエ「ブラック・サバス」の公演があるんだって。オジー・オズボーンもOKしたと。見たい。日本でもやってくれないかな。私の青春時代を支えてくれたミュージシャンたちはもうかなりの歳だ。私だって残された時間の方を意識するわけだ。

今日は私がマネージしている臨床家のみなさんとのグループ。グループでの作業はそれまでの自分の見え方や感じ方を揺さぶるけれど正解があるわけでもないからせめて自分がいってることやってることの確認をしておきたいね、常に戻れるポイントを作っておくことは責任ある作業には必須だと思うし。私も勉強しよう。そして鳥や花もみにいこう。新宿中央公園とか明治神宮がお散歩範囲のオフィスでよかった。昨日私の写真を見て「似てる!」と送ってくれた動画に「私のは明治神宮」と返したらそこも明治神宮だった。似てるどころか同じではないか!とびっくりした。森で見上げる空の形はすごい。森が作る空の形というのかな。明治神宮はお花はあまりないけど蛇イチゴの小さな実がなっててかわいい。それも昨日俳句にした。

はあ、昨日はまたもや句友たちが賞をとったり嬉しいニュースもあったしよかったなあ。がんばっている人たちがきちんと評価されるってそのがんばりを知っている周りの人にも幸せをもたらすね。本人がすっごく喜んでるのも楽しい気持ちになるし。昨晩はたくさんの「おめでとう」「嬉しい」が流れてきた。もちろん私も送った。前に小さな句会を長く維持していくには駄句を出す人も必要なのではという話になった。私は駄句出し係みたいな感じだけど存在意義は十分感じる。評価にこだわるほど真剣にコミットしていないことはよくないのかもしれないけれどいろんな人が同じことしてるのって面白い。いろんな句に触れているとたまにいい句もできちゃうしね。なんでもやり続けてみるもんだ、変な無理をしない範囲で。無理自体はどうしても生じてしまうのだけどそれが過剰じゃないことが大事だよね。

ということで今日も無理なく良い一日をお過ごしください。

明治神宮
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宇都宮土産とかいつものお菓子とか

深夜にも早朝にも原稿が届いた。みんな仕事しすぎでは。でも素敵な文章をありがとうございます。あああ。ここからがまだ長いけどもう5月も13日か。困った。が、とりあえず今日を。大切な会議もあるし。なんとか無事に終わってほしい。

さて今朝は宇都宮のお土産「とちおとめバウム」。ちっこいまるたみたいなバウムクーヘンがしっかりチョコに包まれていて中にはとちおとめのクリーム。10こ入りでホワイトチョコとスウィートチョコ5個ずつ。とっても美味しいの。私も栃木へいったらこれをみんなに買ってこよう。うちには餃子も買おう。ホワイトチョコ自体をあまり好きじゃない人からホワイトチョコ味の方は追加でもらったのでいっぱいあったんだけどすぐになくなっちゃうね。なんのための個舗装かってね。バウムクーヘンはホールだと賞味期限までに食べきれないから買えないなあ、とか思ってたけどそんなことない気がしてきた。でも最近はどこも個包装があるか。近江八幡のクラブハリエで焼き立てバームクーヘン食べたなあ。近江八幡ってすごくいいところで、と宇都宮から心が離れてしまった。いけない。宇都宮からきたお菓子をいただいのだから。

群馬県民にとって宇都宮は身近なんだけど最後に行ったのはいつかな。友達のうちへ行ったり後輩の結婚式へ行ったり普通に遊びに行ったりしたけど。私が行ったときって駅前の広場にいくつも餃子屋さんが出ていてみんな並んだりしてたけど今もそういうのやってるのかな。私は量を食べられないから普通にお店で食べたけど昔池袋のナンジャタウンで餃子の食べ比べができてそこのは何度か行った。今もやってるのかな。いろんなことが昔になっていくねえ。早く記憶から消えてほしいことほど薄まりもしないでずっと苦しかったりするのにね。食べ物のお土産とか「消えもの」って言い方するけど大事な発想だと思う。

おみやげをくれた人が宇都宮に行く前に餃子像を見るのが楽しみといっててそんなのあるのか!と調べたらすごく笑ってしまった。「言わないで!聞きたいけど、でも言わないで!」というから画像を見せることも説明することもしないでひとりでウケてたんだけど送られてきた写真を見るとそれはそれでまた全然印象が違った。いろんなこと思いつく人がいるもんだ。私も会いたい、餃子像。

こんな毎日お菓子ばかり食べてたら肌が荒れてきてしまった。ローソンとセブンイレブンのお菓子はもうほとんど試してしまった。セブンイレブンのあんみつは定番としてずっとあってほしいな。ファミマはあまり行かないけど宇治抹茶のティラミスは甘い甘い言いながらふわふわとしっとりが美味しくて全部食べちゃったな。ローソンは最近だとさくさくバターパイサンドとあんバターサンドが美味しかった。あ、肌荒れしてるのにまたお菓子のことばかり思い浮かべてしまった。

あ!投句締切、今夜の分だけじゃないことを今思い出してしまった。15日までのが二つもある。しかもひとつは必着。もう間に合わないではないか。欠詠だけはしないようにというのが目標だったのに。明日なら直接持っていけるからそうするかなあ。東京ってこういうことができてしまうからすごい。とかいってないでまずは俳句を作らねば。鳥たちよ、俳句になっておくれ。

鳥雲に隠岐の駄菓子のなつかしき 加藤楸邨

これは春の句だけど鳥とお菓子でこんな句作れちゃうのすごい。私は毎日こんなたくさんのお菓子や景色と出会っているのにダメダメだな。こんな駄文ではなく素敵に切り取って残していけたらいいのにね。

今日の暦生活はみつ豆だ!きれい。キラキラしてる。夏は透き通るお菓子を楽しむのもいいですね。お菓子好きじゃない人も別のものやことに支えられて一日なんとかやれますように。良い週末を。

草いちご
宇都宮土産
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読書

寝不足、鳥、魚

寝不足、というと普通はあまり寝てなくて眠い、きつい、辛いというところまで含むのだと思うのだけど私の場合の寝不足は単なる記録のようになっている。眠れないとかでもないし。朝から夜遅くまで仕事していれば疲れはするけど仕事自体にリズムがあるから楽なんだろうね。そのあとにさらにミーティングや読書会があるとさすがにぐったりだけどミーティングは相手にもよる。そりゃそうか。体力とか雑談力とかもう少し生かした方が健康に良さそう。雑談力は単に相手に無理させている可能性もあるからともかく体力に関しては時間ができたら友人の卓球部(なのかな)に入りたいな。

今週は愛鳥週間ということでいろんな鳥のグッズとか画像に出会えて楽しい。もう名前忘れちゃったけどとてもきれいな色の鳥のイラストをあげている人がいて私もこういう鳥に会いたいな、どこにいるんだろう、と思っていたら「私もよくみます」「可愛いですよね」みたいなコメントがついていてその鳥は私が知らないだけで意外とメジャーらしいということがわかったりする。毎日鳥と動物と花とお菓子ばかりチェックしているけどそういう時間は素敵な時間だから睡眠と同じくらいの効果があると思う。この前さかなクンの本『一魚一会』を読んだけど素人でもこうやって時間を忘れてしまうのだからあれだけおさかな大好きのさかなクンがああなるのはごく自然だよなあ。とてもいい本だった。学びとか愛とかって殊更そんな言葉使わなくても伝わるんだな。優しい世界はそう感じることができる人あってこそでその人たちの使う言葉がそういう感受性を育ててくれるのかも。前に竹芝のイベントと和歌山のとれとれ市場のイベントでさかなクンをみたことがある。どちらも偶然だったけどめちゃくちゃ説明がうまくてすごく魅力的だった。和歌山にいたさかなクンはその少し前まで東京で仕事をしていたらしくその移動の速さに驚くツイートがたくさんあるのをあとから見た。大変だ。でも本当に貴重なお仕事をしてくれてるんだなあ。すごい。

あー、こうやってサラサラ書けるのはいいねー。仕事のことは言葉にならないことばかりだし考えあぐねるにも考えること自体が難しかったりする。言葉にならないところで何か考え続けている感じ。特殊な注意状態。こうやって書いているときも特に何も考えていないけど極めて意識的でこれは精神分析でいう自由連想ではないんだな。自由連想は全然自由じゃないもの。「思い浮かんだことを全て話す」というのはこういうのとは違う。フロイトの教示の仕方がまずいとしたらどういうふうにここで患者にやってもらう作業を伝えたらいいのかなあ。

洗濯物できた。今日も長いぞ。がんばろー。

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精神分析

地震、漫画、お菓子

早朝の地震、大丈夫でしたか。千葉での地震、続きますね。早朝だと無理やり起こされたみたいになるしお疲れの人もおられるかもしれないですね。どうかお大事になさってください。

最近、SNSで同じ漫画が何度も流れてくるのだけど、最近ではないのかもしれないけど、出てくる部分だけ見るにストーリーの枠組みは三角関係とか浮気とか単純で普遍的なのだけどそれぞれの登場人物の視点ごとのバージョンがあるのね。あの漫画を提供している会社の縛りなのかな、そういう形式をとるって。想像力とかむしろいらないみたいな世界?人が二人以上いたらそりゃそれぞれは色々思うわけだけどその思いってお互いに影響されてぐちゃっとしてすぐにありがちなストーリーから外れるよね、実際は。ストーリーに閉じ込めるためには先に文字情報を与えてしまった方がいいのかもしれないけどどうやって読まれてほしいのかなあといつも思ってたんだ。

人が二人以上いたらぐちゃっとするのよ、どうしても。だから精神分析は転移逆転移を重要視するの。何かをこうすれば理解できるなんて方法はない。人はそんな簡単じゃない。でも想像力の欠如によって愛と憎しみが全く混同して捉えられてしまうとしたら「普通」と言われるものについて何かで学べるといいかもしれない。良質な文学を読むのもいいかもしれない。高橋ユキさんの本とかノンフィクションもとてもいいがあのぐちゃっとした行き場のない想いに囚われる現実と触れるのは困難もあるかもしれない。普通に思いやりのある人がそばにいつづけてくれる人が一番いいかもしれないけど「普通って何」ということばかりにこだわってしまったらそこからも学べない。難しいね、人間は。

さて、今朝のお菓子は中津川の老舗「すや」の「木曽路」。しっかりした生地に硬めの餡がぎっしり。桧笠モチーフなのね。妻籠宿や馬籠宿でも売ってたし被っている人もいた。私たちもその場しのぎの帽子を買ったけど桧笠を被ってもよかったかもしれない。

GW明けにどこかいくといろんなところのお菓子が集結してて楽しい。昨日は忙しくてとりあえず一番上に置いてあった箱のものをいただいたのだけどうさぎ!これ大好き。鳥取県米子市の定番土産「因幡の白うさぎ」。とっても美味しいし可愛いし好き。前にも書いたけど、ちょっとうさぎの耳が微妙よね。でもこれだけ白餡?黄身餡?をしっかりつめるにはふわっとしたうさぎじゃない方がいいもんね。しっかりした個包装に守られているし今回も美味しゅうございました。ありがとう。私も今度お茶会するから美味しいお菓子集めておこう。

またお菓子のこと書いちゃったよ。毎日色々あるけどせめて自然災害が起きませんように。みんなが無事でありますように。本当に願うしかないことばかりだけどやれることやろう。他人に巻き込まれながら自分を立ち上げていく、その中でやれることを見出していく、という作業を一緒に、私の場合は。

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スイカ、珈琲、馬籠宿

まずはスイカをパクッ。美味しい。水分!食べると感じるね、足りなさを。朝はカフェイン、昼は水、夕方は色々、夜はアルコール、どれも少量ずつ、みたいな感じだから健康的な水分の摂り方ではないのよね。お水をいっぱい飲んだ方がいいっていうでしょ。2リットルとか。ちょっとずつ頑張ろうと思っても今度はお腹壊したりしちゃうし保育園みたいにお茶を飲む時間とか管理してもらわらないとダメなのかしらね。でも自分だってそういうことやってきてもらって育ってきたわけでしょう。小さいときから逸脱気味だからみんなと同じにできなかったのかしらね。とかいってももうどう考えても残りの人生の方が少ないのだから改善よりも維持ね。これをやった方がいいとわかっちゃいるが私にできるのはこのくらいってことで。仕事も全然はかどらないし色々ダメダメだけどやれてるっちゃやれてるから無理なく生きましょう、ってなるね、結局。

さあ、コーヒーを飲みましょう。スイカとコーヒーって食べ合わせ?飲み合わせ?が悪いんでしょ。少し時間おけばの少しが数分ではただでさえ消化の悪い私の身体には意味がないのだろうけど一応別々に食べたり飲んだり。消化のこと考えなくても味的にも合わないもんね。合うなあ、って思う人もいるのかもしれないけど。今朝のコーヒーはちょっと特別。飯能の「OH!!!~発酵、健康、食の魔法!!!~」で買った天覧山珈琲、ビターブレンド。「!」の多い名前だけど広くてのんびり発酵食品食べたり買えたりする道の駅のような施設です。地ビールも飲める。発酵ものということで「ご飯がススム」コロッケもあります。ご一緒にどーぞー。天覧山ハイキングコースはこの施設の横を入っていく感じ。施設自体もかわいいお花に囲まれていて楽しいよ。お菓子は木曽福島の芳香堂で買ったそば饅頭。そばと栗が郷土自慢ね、信濃、木曽は。そば饅頭は素朴な味でおいしい。

こんな呑気に実況してるけど昨晩も何もしないまま朝になってしまった。今から仕事始まるまでにやらなくては。もう随分光が強いけど鳥の声があんまり聞こえない気がする。もうどこかへ行ってしまったの?早いね。今日のお天気は?昨日と同じようなお天気になるみたい。まだ少し肌寒いですよね。

中津川の馬籠宿は水車で発電して街灯をつけたりしてるところもあるのだけどその大きな水車の横に小さくておしゃれな珈琲屋さんがあったの。恵那に向かうバスまで時間があったから寄ってみた。暑い日だったけど私は店内でカプチーノ。店内はカウンターとテーブル席で8人くらい座れたかな。ちょうどコーヒータイムだったのかあっという間に狭い店内が並ぶ人でいっぱいに。外国の人も多かったなあ、今回の旅。何回か道を聞かれたけど私がお会いしたのはフランス語を話す人たちだった。

渋くてかっこいいお二人がやっているその珈琲屋さん、並んでいる人に氷が作れなくなってしまったと伝えていた。それを聞いてその後に並んでいた人も一気にいなくなって店内は再び静か。暖かいのもおいしいよー、と小さな声で呟いていると暖かいのを求めているお客さんは無事にお持ち帰り。いい香りがいっぱいの店内、小さなドアから店員さんのひとりがしっかりしたカゴを手に出てきた。店のガラスのドアを出て坂道を駆け上がっていく。凄すぎる。ここ多分馬籠で一番急な坂道だよ。私より年上に見えたけどすごく軽やか。これ一気に上まで行けちゃうのかなと目で追っているとあっという間に見えなくなった。すごい。すると今度はどうやって降りてくるのかを想像してしまう。絶対走って降りてくるに違いないけど氷はどこで手に入れるのかしら。氷屋さんあったかな。この宿場町なら使われる氷の量もすごいだろうからきっとあるんだよね。でも多分そばのカフェから借りるんだと思うな、など話しながら待っているとその人の姿が見えた。こっちが興奮した。おもたそうなカゴを右手に顔を少しだけ歪めて駆け降りてくる。戻ってきた。こっちが感動した。あまり息があがってない。すごい。こういう土地で働くには体力と繋がりが大事なのね、と感心。また商いについて考えさせられたよ。

さあ、私も商いをがんばらねば。とりあえず昨日やるはずだったことを・・・。馬籠宿のみなさんはGWが終わってのんびりした宿場の日常に戻ってるのかな。そういう時期にもまた行きたいな。次の休みまで遠いなあ。とりあえずがんばろうね。またね。

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散歩

神代植物公園

神代植物公園に行きたい。5月いっぱいバラフェスタをやっているそう。先月行ったときはまだ緑の方が多かったバラ園があの見事な色と香りに満たされていると思うとうっとり。宮殿のお庭みたいなバラ園なのだ。

私が通っていた白百合女子大学も森の美しい大学だった。最寄駅が京王線仙川駅、住所は調布市仙川緑ヶ丘にありお隣のつつじヶ丘駅は身近だった。不登校の子どもの家庭教師にも通っていた。先日久しぶりに降りたつつじヶ丘はすっかり便利な街になっていてびっくりした。私の大好きなスーパーオオゼキが駅前に!なんと羨ましい。神代植物公園にはつつじヶ丘駅からも調布駅からもバスでいける。中央線なら三鷹や吉祥寺からバスで。両親が東京にきたときにみんなで行ったのがはじめてだったか。今は身近な場所も当時は全て目新しかった。

昨年秋に行った時は映画のセットのように落ち葉がふわふわに敷き詰められていて小さな子どもが埋もれながらもたくましくそれらを空へまき散らしていた。そのときは調布からバスで行き深大寺へ先に寄った。蕎麦屋「湧水」で少し呑んで深大寺を散策して句碑を写真に撮り、山側というのかな、土の道を通り深大寺門から入った。雑木林を抜けると景色が開けた。お城が現れたかのようにものすごい数のバラが咲く庭が広がり、その向こうに大きな温室があった。そばによるとものすごい香り。芳しいとはこのこと。

次に行ったのは今年の春だ。つつじが満開だった。新緑の美しさにも目を奪われた。遠くから「なんだあの木は!」と思って近づくとどの木かわからなくなってしまうような森を散策もした。そのときはつつじヶ丘駅からバスで直接神代植物公園へ向かい正門から入った。名前の札を立ててくれている木々や花々が多いのは植物園の素敵なところだけど私は無知すぎるので全ての木々に書いておいてほしいくらいだけどいいかげんパンパスグラスは覚えたし今回は「ハンカチの木」が満開だったのでそれも覚えた。バラ園はどうなっているのだろうと思って向かったらあの場所には緑が広がっているだけだった。あれ?たしかにまだバラの季節ではないので当たり前なのだがあの景色を勝手に心の中に広げていたので少しびっくりしてしまった。その代わり、藤が満開でバラが美しい季節には気づかなかったよく整備された藤棚の通路は陽射しを受けてキラキラしていた。藤棚のそばにはふじ園があり、藤にもいろんな種類があることを知った。

あのとき少し咲き始めていたバラが今は満開なのか。行きたい。紫陽花も咲き始めているだろう。花や木々の名前を調べる時間が増えた。佐久間一行ファンに佐久間さんが出ている「道草さんぽ」というNHKの番組を教わりテキストも買った。先生役の多田多恵子さんがとても素敵で散歩をするときにますますキョロキョロするようになってしまった。牧野富太郎の本も実家にあったから子どもの頃から眺めていた。主にスケッチを。「月刊MOE6月号」は牧野富太郎特集ということで久しぶりに買った。牧野植物園のクリアファイルもついていた。旅に出れば植物園にもいくし山道も歩く。もう少し彼らについて詳しくなったら水や鳥や動物や土地の歴史をもっと知ることができるかもしれない。先日歩いた木曽路はドブ川がたくさん流れていた。ドブ川と呼ぶには水がきれいだったが何よりその水量に驚いた。多分水の流れに合わせて建てられた家の玄関の高さなども「どうして?」と思うことが多かった。これも宿題。

とても苦しくてどうしようもないときはとりあえず自然を意識できる場所へ出向く。いろんな驚きをくれるから。一瞬であっても辛い記憶を別のものに置き換える。鬱っぽくて活字を読むことができないときもただ佇めるし鳥の声がうなだれ沈みがちな姿勢を少し上向きにしてくれる。注意を空に向けてくれるから。

今日もじっと引きこもっていたい人も身近な自然に少し助けてもらえますように。何も考えず委ねるなら人よりそっちの方がいい、というときもあるでしょう。

みなさん、どうぞご無事で。良いこともありますように。

ハンカチノキ

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精神分析、本

國分功一郎さんゲストのイベントへ行った。

今日も雨。昨晩帰宅する時間には小雨だったけどまた本格的に降っていそう。寒いし。寒さをもっと強く意識してしまう前に早朝から諸々済ませた。

7日(日)夜は「グリーフと哲学の夜 傷は癒えるのか、癒されるのか、癒すのか 」という國分功一郎さんゲストのイベントへ行ってきた。國分功一郎weekひと区切り。主催は「グリ哲2023プロジェクト」ということで袰岩奈々さん、森幸子さんを中心に普段から何か一緒に活動されているグループの企画という印象だったけど詳細はわからない。東北、関西、九州からこのためにいらした方々もあって同窓会的雰囲気もあった。お隣は関西の読書会グループの皆さんだったらしく國分さんの本はこれよりこれがいいなどなどとても盛り上がっていらした。みんなすごく楽しみにしていたみたい。もちろん私も。場所は国分寺のカフェスロー。昨年、川柳の暮田真名さんたちのイベントをしたカフェかと思っていたら違った。あちらは反対側の出口の胡桃堂。中央線は三鷹までしか馴染みがないからたまにいくと駅の中からキョロキョロしっぱなし。胡桃堂にいくのも迷ったけど駅の反対側のカフェスローにいくのも迷った。1、2分は結構自信満々に迷った。でもここを渡ったら変わるはずの町名が変わらない。迷うのもいつものことだから「こっちのはず」という予測ではなく「迷うはず」という予測に基づいてすぐ引き返した。予測モデルの話が今回ありました。熊谷晋一郎の当事者研究を参照したお話が多かったからね。さて、19時開演、18時半開場の予定が18時開場に早まったにも関わらず18時半少し前に無事に到着したときにはすでにたくさんの人がワイワイガヤガヤ。手作りイベント感があってよかった。私より年上の皆さんが多かったように見えた。質問もその場で紙に書いて集める形式だったけどたくさん出ていたし、國分さんが答えるというよりは考えこむ國分さんと一緒にみんな考えこんでまた書くみたいな感じもよかった。記憶と感情の話をするときに國分さんはフロイトの快原理を引用していた。國分さんと千葉雅也さんは精神分析理論を十分に咀嚼している哲学者なので聞きやすいし考えやすいのだけど哲学者はここでこうやってこれを持ち出すのかとかは新鮮だった。傷と痛みについて考え言葉にすること自体にどうしても攻撃性が含まれやすいことに國分さんがとても自覚的で慎重だったのも印象的だった。「サリエンシー」を導入の用語としながらそれの使えなさ、使用の難しさについて開かれていくプロセスも興味深かった。ちなみに熊谷晋一郎さんはもう「サリエンシー」という言葉は使っておらずどんどん考えも言葉も進化させているとのこと。お二人の『責任の生成 中動態と当事者研究』(新曜社)は必読でこうして痛みを伴いながら考えることをさせてくれる本だった。言葉にできない重苦しいような息苦しいような感覚が自然に大切にされる双方向的で対話的な時間は貴重。帰り道、そばを歩いていた人たちの会話が聞こえてきたがそれぞれに國分さんを通じてじっと考えさせられた様子で共感した。とても久しぶりに國分さんとお話できたしなんだか安心した。

さてさて今朝も木曽路の和菓子が甘さ控えめでおいしいです。熱いお茶と一緒に。みなさんも体調崩さないようにお気をつけてお過ごしください。

国分寺駅南口

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「実験」

時折強い風の音がする。嫌だな。雨がひどくならなければいいけど。

これが全部実験だったら嫌だな。実際そうだったのかもしれない。人体実験。向こうはこちらを使い、こちらはそれにのった。契約書のない契約。新しい環境に適応するためにがんばっているのを支えられたらと思った。居場所を失っているように見えた。使ってもらえる時間を作るために着々と仕事をした。自分の疲れは会えば自然とひっこんだ。「がんばれがんばれ」と大きな背中を小さくポンポンとした夏のことも覚えている。どうなってしまうんだろう、と感じながら、それまで経験したことのない不安と喜びと不気味さを感じながら。結局、実験にはならなかった。人をコントロールなどできないのだから当たり前だ。実験だと思えば少しは楽になるのかなと思っただけ。なるはずなかった。責任をとる必要のない肉体関係が想定されているらしいことを気づいていたけどまさか本当にそんな、というのはきれいごとで、そのまさかのこの人に人のこころなんてあるのだろうかと疑い、いつも不安を打ち消しながら過ごした。これは実験なんだから。最初から契約なんてないのだから。言葉なんて通じないのだから。自分を人間だと思うから苦しい。犬みたいに扱われたので「犬みたい」というと「似たようなもんだ」と言われた。上手に飼い主を愛せないとすぐ次のペットがほしくなっちゃう飼い主と一緒にいるためにはどうしたらいいのか。目的がすでに不毛すぎるが狂い始めたこころはそれに気づけない。言葉で主張したら悪意にとられる。理解が遅くても意地悪と思われる。怖い。ご機嫌でいてもらうために無理を重ねた。でも無理だった。もっとお手軽に利用できる幼くて依存的な相手ができたことにはすぐに気づいた。「○○パートナーです!」の「!」の軽薄さ。うんざりしつつも愛したが何も指摘されたくなかったその人はこちらをコントロールするために言葉を使い始めた。嘘をつかずに隠し事を続けているのだから後ろめたかったのだろう。言葉で言いくるめるのは得意技だ。地道にかけられてきた圧力の正体を見た気がした。やはりハラスメントやDVの構図を持っている人だった。それでも、それでも、と思ってしまう。ここで追い縋ってはならない。とりあえず逃げないと。相当なダメージに機能しにくくなっているこころを感じながらこれまでの言動と出来事を記録した。その人の親兄弟、今の家族に対する態度の幼稚さも裏付けとなった。それでも人間は愚かだ。傷が深くなって回復が遅れるだけなのにそんな人のことを考え続けることで時間を無駄にしてしまう。「実験」とかいって。愚かだ。

ああ、湧き上がる猛烈な怒りをこの風みたいに一気に振りかざせる形にできたらいいのに。怒りを言葉に置き換えられてもそれは鬱の始まり。深まるばかりの悲しみに動けなくなる。いつまでこんな地獄が続くのだろう。

などということをブコウスキーや川井俊夫さんみたいな荒々しさで書けたらいいのに。

雨はやまないらしい。窓を打つ音が聞こえる。風がないと雨音は静かだ鳥が一気に近づいてきて離れた。鋭い鳴き声。

GWは國分功一郎weekと書いたがひとまず今日でひと段落。インスタに何冊か読んだ本をあげた。読むべき本が溜まっている。私が國分さんを知りその運動と思考を追うきっかけとなった東京都小平市の都道328号線建設計画の是非を問う住民投票。あれから10年となるのに合わせ、今日の午後、小平では玉川上水周辺の環境保全を考えるシンポジウム「小平の玉川上水の自然が危ない」が行われるという。市民団体「みどりのつながり市民会議」共同代表で市議でもある水口和恵さんが「住民投票十周年に改めて328号線計画を考える」、麻布大いのちの博物館名誉学芸員の高槻成紀さんが「小平の自然の豊かさと道路による分断の影響」と題して講演すると東京新聞に書いてあった。ここに名前は上がっていないが國分さんも少しお話をされるという。後日配信もされるらしいのでそちらもチェックしたい。

いつも通り眠れないまま朝を迎えてしまった人もいるかもしれない。起き上がれないなら起きたままでという人もいるかもしれない。それでも、それでも、とやっていくのかな、今日も。とりあえず委ねてみようか、というか疲れ切ってそれしかできないかもしれない。どうか今日もご無事で。先のことはわからない。ただそれだけを忘れずに。