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アラン・N・ショア『右脳精神療法』、河合隼雄の本など。

朝焼けも月もきれい。月はまだまだ高い位置にいる。

少し前、アラン・N・ショア『右脳精神療法ー情動関係がもたらすアタッチメントの再確立』を読んでいた。「甘え」「恥」「罪悪感」「超自我」の関連で「相互退行」について書いてあるものを読みたかったので。

精神分析での退行はバリントがいうように「新たな始まり」の契機となりうる。ショアによると「更新された臨床モデルでは、相互の再エナクトメント内の退行は「外傷性の反復」と「新たな始まり」を表し、それによって新奇性と修正情動体験の右脳の創造的処理の表現の文脈を表す」とのこと。「相互の」が大事。

ショアは右脳に情緒的な自己表象、左脳に言語的なそれ、と左右差を前提に、母親的対象の右脳(=自己)との同期によってそれらが発達することを述べている。アタッチメントの確立とトラウマの関係を脳のレベルで捉えるショアの言っていることは精神分析の一面を精神分析実践を伴わずに可能にし、その説明にエヴィデンスを与えうるのだと思う。メンタライぜーションと似てるのかなと思ったのだがわからない。よく読むと抽象的で私の実践による実感とはあまりうまく接続できずにいるが。相互退行についてはボッテラ夫妻の論考がしっくりきたのでそっちを追うか。

「甘え」については『右脳精神療法』の訳者解題とあとがきで「アタッチメント形成における子どもの情動不安の大半は「甘え」にまつわる情動の動きである。私たち日本人であれば、言葉の生まれる以前の情動的コミュニケーションの世界を「甘え」を通して明示的に捉えることができる。」が、ショアはこの文化を知らないので「情動的コミュニケーションの断裂によって生まれる心理を恥shameとして論じている。」とあるが土居健郎の本は参考文献にはあがってはいなかった。

最近、また不登校に関する話題を多く聞くようになった。臨床ではこれまでと変わらず学校に行かない子はたくさんくるがそれがメインのトピックにはならない。

そういえば、と河合隼雄の『母性社会日本の病理』 (講談社)をめくってみた。

>これらの疑問に答えられぬまま、日本の多くのインテリは親子関係のことは、たかだか「家庭欄」のことで「文化欄」で論じられることではないとたかをくくっている。その実、外での高尚な理論と裏腹に、内で「女・子ども」と真に対話し対決することを避けて通っている。ここには、軍部との対決を避けて文化を論じていた、昭和の初期の青白いインテリの姿を連想させるものがある。そのような態度に対して、登校拒否の子どもたちは文化・教育の危機に対する警鐘を──無意識ではあるが──身をもって打ち鳴らしているのである。彼らを単なる脱落者として見ることなく、警鐘を鳴らす者としての意味を取りあげ、教育ということを、広く文化、社会、宗教などの問題と照らしあわせ、再検討することの必要性が痛感される。「敵」はアメリカ大陸などにいるのではなく、われわれ母性文化の本城である「家」の中にはいりこんできているのである。

河合隼雄は

>母なるものの力は、「包含する」力であり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこむ。これに対して、父なるものは「切る」力をもっている。

としてグレートマザーの威力を語ったうえで父なるものの不在を語るが、この理解は学校にいかない子どもとその子がいる家庭の全体の根底にある問題、つまり社会の問題に押し返すべき問題と読むべきで、よって不登校の説明には特にならないと私は思うし、学校にいかないということをどこまで象徴的に強調するかは考えどころだろう。

ということで今日もそれぞれ色々協力しつつがんばりましょう。

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地震、できることの方を

青森、北海道、岩手などの地震、津波も心配で昨晩はずっとニュースを見てしまった。途中から音声は消してしまった。この寒さの中避難したり、火の用心で火を使わなかったりしたらますます心細いのではないだろうか。まずは守られた居場所があることの重要性を痛感する。被害が大きくなりませんように。

東京の空は少し雲が多いが、今朝もきれいなピンクに染められつつある。熱いお茶と熱海来宮神社の「わか葉」をいただいた。あとりんご。あたたかい、おいしい、とても大切で恵まれていると思う。

無視できない問題が多いが、その問題に一緒に取り組める人は少ない。瀬尾夏美さんや富永京子さんのような地道な運動の仕方を教えてくれるモデルはいるし私も以前はNPOで社会運動的なことをやっていたが、ボランティアや地域の人など協力してくれる人が増えれば増えるほど難しさは増した。団体はウェルカムであることが大事であり、というか個人に対してもそれは当然そうで乳幼児観察のトレーニングを受けているときにこのウェルカムかそうでないかはひとつの指標になっていた。その場にいる相手を見えていないかのようにできる人は実際にいるわけで、物理的に一緒にいてもそれは場を共にしているとは言えないので何かを一緒にすることは難しい。特定の相手にだけ、などの言いぶんも聞こえるが相手が誰であってもそういうのはどうなんだ、ということだよ、という話は結構ある。臨床家にもそういう人はいるが、臨床の仕事で出会う分には全てがアセスメントで、患者の環境をマネージメントするために自分がそういう人とでもどういうふうにやっていくかを考える必要があるだけなので、それはそれとして関わっていくが、間に守らねばならない人がいるときにそういう態度を取られることは非常に困ることではある。小さな子供のセラピーをしていると親御さんとも関わるわけだが子供を間に包み込むようにおいてあげられるかどうかは臨床家ひとりでできることではなく、親機能と協力することが絶対に必要。もちろん機能が落ちているから相談にきている場合の方が多く、一時的にこちらがその代わりをすることがほとんどだが、それだって自分の責任において相手の機能を預かっているという点で強力なわけで、それを「ない」とアセスメントすることはできないし、ましてはあるのにないように振る舞うことなんてできない。どれだけの人の心が無視されていることか、と思うからこそできることを考える。

今、災害や宗教やいろんなことで孤立している人たちが表面上のウェルカムに惑わされず、暖かで安心できる居場所と出会えますよに。そういうのはお金がかからないことがまず大事なので行政が最初の窓口として確実に機能してくれたらどれだけ安心だろう。もちろん行政で窓口を担当してくれる人が孤立しないように協力して一緒に取り組んでくれる人が絶対必要。こういうことが難しいのなんてわかりきったことだができる方向で考えることが出発点だからやっぱりその方向で、と思う。

こうして日本にも朝がきたけど本当に不安な夜を過ごした人たちに継続的に関心を持ち続けていけたらと思う。

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アンドレ・グリーン「Sexuality in non-neurotic structures」や鈴木智美『こころの探索過程―罪悪感の精神分析』

6時ちょっと前の東の空がとてもきれい。少しずつ紺とピンクが濃くなっていく。寒いので朝の支度はちゃっちゃと終えた。関西の友人がくれた紅茶のパンも食べた。新宿区でオフィスを構えていてもデパ地下には詳しくない。東京楽しい、と買ってきてくれたかわいくていい香りのするパン。美味しかった。

隙間時間に自分の勉強のために翻訳をするのが習慣になっている。外向けにするためには読みやすさやわかりやすさを考えて日本語にしていく必要があるが自分にわかればいいのでどんどん訳せる、というわけではなく、難解なものは難解なので結局それなりに時間がかかる。それでも同じ著者の文章を読み続けると言い回しや語り口に慣れてくるので難解でもそんなに気にならない。身近な人の話はある程度聞き流していても理解できるのと同じ。かな。かも。


French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目、André GreenのContemporary Psychoanalytic Practiceの第6章、The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだと書いた。昨日はCHAPTER 7 Sexuality in non-neurotic structures: Past and presentを読んだ。ここでグリーンは自分の論文”Has sexuality anything to do with psychoanalysis?” (Green, 1995)を引いているが、両方読むと理解が深まると思う。グリーンの問題意識は以下から始まる。

「現代精神分析は、前性器的あるいはナルシス的といった異なるタイプの葛藤における防衛の一般化にしばしば遭遇する。分析の領域は、修正された枠組みにおいてこの方法を用いることに基づき、「精神分析的psychoanalytical」と呼びうる対面での関係を含むまでに拡張されてきた。私たちのセクシュアリティ概念は変化した。これらの構造において、セクシュアリティが神経症におけるそれよりも重要性が低いというのは正確ではないが、それが果たす役割が異なると言うことはできる。実際、私たちはセクシュアリティが本当は何であるのかを見なければならない。」

そしてフロイトの有名な症例「狼男」(ー「ある幼児期神経症の病歴より」)を転回点として展開した神経症でも精神病でもない境界例の患者にみられる前性器的固着、あるいは否定的なエディプス・コンプレックスに関連する固着というセクシュアリティをお勉強的に記述する。

と書いていると時間がないので書かないけどこの章はそのあとに要約された臨床事例が複数あってセクシュアリティの意味や精神分析において否定、あるいは排除されつつあるセクシュアリティに再び関心を取り戻す必要性が十分に伝わってくる論考だった。

グリーンのこの論文もそうだけど、臨床事例はヴィネットとして書きたい。日本精神分析協会訓練分析家の鈴木智美先生の『こころの探索過程―罪悪感の精神分析』(金剛出版)はその点とても参考になるし、内容も鈴木先生の語り口そのままに平易で静かで受け取りやすく学びやすい。鈴木先生はグリーンの本も訳されていたり、その翻訳のお仕事からなんとなくフランス語の文献が多いのかと思いきや私が身近な日本の臨床家の論文も多数参照されていて、鈴木先生の文章も日本語ならではの表現が多く、他の精神分析家の先生たちとは異なる実践家の本だなととても良い印象を受けた。マネージメントの章は医師にはもちろん心理師(士)にとっても当たり前に大切にしていきたい(でもなかなかなされていない)ことが多くのヴィネットと共に書かれていてとてもいいなと思った。初回面接のグループの皆さんとも共有させていただこう。

いいお天気。東京は日中、ぽかぽからしい。今週もがんばりましょう。

文献:Green, A. (1995) Has Sexuality Anything To Do With Psychoanalysis?. International Journal of Psychoanalysis 76:871-883

アブストラクトはこんな感じ。

アンナ・フロイトセンターのSigmund Freud birthday lectureのために用意された論文。 精神分析におけるセクシュアリティの意味と重要性をめぐる誤解を明確にし、検討する機会として。グリーンは、過去10年にわたってきた行ってきた観察からはじめる。ひとつは、通常の臨床提示においてセクシュアリティが直接的に語られることが減少しているように見えるということであり、もう一つは、セクシュアリティが周縁化され、専門的論文に限定される傾向があるように見えることである。こうした傾向を問い、理解しようとするにあたり、著者は、フロイトがセクシュアリティを、心的発達、精神分析理論、ならびに臨床実践の中心に据えていたことを想起する。著者によれば、対象関係、前性器的的固着、境界性の病理、そして子どもの発達観察に基づく理論や技法に対する、現代的かつ流行的な関心は、精神分析理論および実践におけるセクシュアリティの意味と重要性を曖昧にしてしまっている。フロイトのセクシュアリティ概念に関する簡潔な回顧とその再評価は、性器的セクシュアリティおよびエディプス・コンプレックスを、その中心的な位置へと回復させることを目指すものである。著者にとって、今日のセクシュアリティは、フロイトのセクシュアリティとは同じではない。

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会議室、「ロード・ジム」

今日の朝焼けもとてもきれい。最近、俳句を作るのを全然また忘れていた。いかん。紅葉の移り変わりもたくさん写真に撮ったし、西新宿のイルミネーションもそこそこ撮ったのに言葉にしていない。写真がもつ情報量もすごいが、17音がもつ言葉の広がりは別の凄さがある。というかそういう俳句を作れるようになりたい。今日は一日ミーティングだから会議室俳句でも降りてこないものだろうか。定点からひたすら机や椅子や人を観察していればなにかしらくるか。こないか。この空だと今日はきっといいお天気。そんな日に会議室につめこまれるなんて楽しくないけど普段オンラインでしか会えない人たちと会えるのは嬉しい。直接会って話すって本当に大事。

この前、アンドレ・グリーンが引用した船乗りでもあったコンラッドの「ロード・ジム」を読み直していたがやっぱりすごく面白い。冒頭の人物描写からしてすでに面白い。グリーンが恥shameの説明で引用した部分もすごく良くて、このお話の本質的な部分だと思うが、まずは終始こういう感じで言葉が展開されていく世界にドクドクする。人の心ってどんな状態でも、外からはものすごく静かでも、ものすごい活動量だから、その複雑さと活力が言葉になっているのをみると私の心もドクドクしはじめる。

グリーンはContemporary Psychoanalytic Practiceのchapter6.The enigma of guilt and the mystery of shamefr

「そしてさらに重要なことに、彼の恥の本質と意味は何なのか、という問いである。人間と蝶を同じ無関心さで見ようとするその昆虫学者は、次のように結論づける」

と書いてからコンラッドを引用する。この前の部分でも引用されているがこっちだけ取り出しておく。私が読んだのは柴田元幸訳の「ロード・ジム」(河出文庫)。

『そして、人はいつも目を閉じてはいられませんから、いずれ本当の厄介がやって来ます!心の痛みが!世界の痛みが。そうです、我が友よ、夢が叶わないと知るのはよいことではありません。人には強さが足りないから、賢さが足りないからです。[…]人は生まれて、海に落ちるように夢の中に落ちます。[…]為すべきは、破壊的なものに身を任せることです。水の中で両手両足を動かして、深い深い海に下から支えてもらうんです。』(Conrad, 1900

なんとなんと、ではありませんか、この書き方。私は「恥」概念と「よそ者」とフロイトの「寄るべなさ」と土居健郎の「甘え」を連続させて考えているところなので、そんなときにグリーンの論文で「ロード・ジム」にまた会えたことはとっても嬉しいのだ。ここから形にできるほどに頑張れるかは私次第。がんばれ、私。あまり信用ならない自分をこうやって鼓舞しながらなんとか日曜日も過ごそう。会議室で(悲しい)。

いい一日になりますように。

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青と黒の本とか。

朝焼けはいいねえ。ピンクが少しずつ広い空に溶け込んで東の空は薄くなっていく。

今週も終わる。ものすごいスピードで日々が過ぎていく。そんなときは夏目漱石を読むといい。今と過去と未来が緩やかにおおらかに書かれているから。もちろん全ての作品がそうではないけれど。

先日、土居健郎の選集で「甘え」理論の展開(うろ覚えなのでカッコつけない)を読んでいた。私がこの本で気に入っているのは土居健郎が漱石を引用する部分。そもそも私が土居健郎を知ったのは実家にあった青と黒の本『漱石の心的世界』だった。土居が夏目漱石に書いたものを読んだ加賀乙彦の勧めで国文学の雑誌に連載したものを加筆修正した一冊だ。私はあれを読んで病跡学や国文学をやりたいとか思っていたがそうはならなかった。でも土居と同じ仕事にはついた。学問ってこういうこと(説明省く)。

青と黒の、というのは本が入っている箱のことで中の本はグラシン紙に包まれていた。黒か茶色の本。昔はそうやって色で呼ぶことが多かった気がする。赤い本とか。ちなみに私が大好きだった本は「黒いチューリップ」。単に色が好きなのかもしれない。デュマも知らなかったし何も知らず何度も読んでいてはじめて行った海外であるサンディエゴの州立大学の図書館でも探した。そのまま今調べてもthe black tulipでそのままの英語なのに見つからなかった。私は当時どんな言葉で検索をかけていたのか。もう30年以上前の話だけどあの図書館、検索ができた気がする、そういえば。それともコンピューターでの検索ではなかったから調べ方が十分ではなかったのかもしれぬ。覚えていない。

土居健郎もカリフォルニアの図書館で夏目漱石の全集と出会った。もちろん日本ですでに読んだものも多くあっただろうが、土居の人生に大きく関わる精神分析の訓練のために渡った米国でこれぞ我が事と思える作品を読んだときの感激はものすごいものがあっただろう。この本はとっても面白いので皆様も是非に。フロイトもそうだけど土居も引用がうまいので漱石を読んでいなくても面白いと思うし、漱石を読みたくなるとも思う。

なぜ私はこんなことを書いているのか。頭にあったのは全然別のことだったのに途中動いたのがいけなかった。土曜の朝はなんかいつもの朝と違って特別な気がする。いい1日になればいいな。みんなも。とりあえずいいお天気だといいですね。

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寒く眠い朝

今朝もとてもいい夜明けが見られた。それにしても寒い。寒いと急に眠気がくる。今、とても眠い。

フロイトの戦争という観点から色々見ていた。フロイトミュージアムのアーカイブには息子マルティンとフロイトの書簡、というか主にマルティンが第一次世界大戦に従軍中にフロイトに送った手紙のことが書いてあった。マルティンは父フロイトとの思い出を本にもしているが、とても素直な印象を受ける。全然フロイトの権威に染まっていないというか。

フロイトバッシングに関する論文や記事も読んだが、部分的な否定はできても全体的に無効とするわけにもいかない難しさがあるし、バッシングする側にもフロイトの仕事に対する敬意を感じた。フロイトはとんでもエセ科学野郎だぜ、みたいなことを言いつつ、でも天才ではあるぜ、という感じだったり、いうこととやること違いますよね、という批判だったり、まあ、そうはいっても現代からみるとフロイトの貢献はこういうところにあるのでは、という中立的な立場だったり色々ある。私はバッシングも盲信もしたくないな。フロイトはもう死んじゃってるけど対話は残されたもので残された人たちとしかできないけど、自分の人生を面白くしてくれているこの学問が好きではある。

でも今はただただ眠い。半分眠りながらでかける準備をしていた。とても寒いけど空がきれいなのは素敵。風邪ひかないようにがんばりましょー。

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臨床心理士資格、レヴィン序文

今朝、とても見たかったいかにもよあけという空を見た。昨晩は月を見たくて、空を見上げたらまず星がとても明るいのに驚いた。すっかり冬の空だった。

日本臨床心理士資格認定協会から書類が届いた。「臨床心理士」資格更新のための書類を作らねば。これまで参加してきた研修や学会の領収証などは別にしておいたのにそれが見当たらない。困った。臨床心理士資格をとって25年。5年ごとに更新して、毎回こうなるからきちんとしておいたはずなのに。

さてContemporary Psychoanalytic Practice by Andre Green French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Seriesの一冊目、グリーン自身がウリバリとの対話の中で選出した論文集。英語版への序文は The series editorでThe Freudian Matrix of ​André Green序文”Why Green?”もよかったHoward B. Levine。

その序文、Limit cases, transformation, and the ordeal of the session: André Green’s extension of Freudian theoryの一部訳を置いておく。

>>介入は「風通しのよい(ventilated)」ものでなければならず、つまり、ドグマ的でも、強制的でも、過度に「確か」でもなく、潜在的でありうる意味の移行領域を巧みに支え、拡張し、さらには創り出そうとするものであるべきである。グリーン(1996)はこれを「自己組織化の認識論…、分析をオートポエティックな(autopoetic)過程として、組織化−脱組織化−再組織化の連鎖として捉えること」を要すると述べている。多くの患者にとって、まだ感じられておらず、まだまとまった意味が存在しうるという見通しそのものが、理解不能、混沌、そして空虚(空白blanc)な抑うつや境界例状態の寄るべなさと絶望から離れる進歩的な一歩である(本巻第5章)。

風通しのよい解釈(ventilated interpretation)という概念は、フロイト(1937)の「構成(Constructions)」論文と、ウィニコット(1971)のスクイグルゲームの論理に基づいた技法の拡張である。それは、患者の語りspeechが破壊的分裂や意味あるつながりの形成不全によってどれほど断片化しているかを取り扱う。

レヴィンはこうやってスッキリまとめているけど、この本はスッキリするまでのプロセスが、フロイト、ビオン、ウィニコットの精読を通じて書いてある。そのプロセスを追うのはとても大変だけどそれがなかったらこんなこと(上記)書かれても面白さがわからないものね。精神分析の面白さはそりゃ苦痛を伴うけど中に入らないことにはどうしてもわからない、というか大体のものはそうだろう。

きれいな光。いいことあるといいな。みんな元気で。

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鳥、初台、ペレルバーグ

パソコンの画面が昨日からアメリカシロペリカン。自分でなにも設定していないからいろんな画像がでてくる。ペリカンを最初に見た人はきっとすごく驚いたと思う。口開けたらあんななんて。今、画像見たら私がイメージしていたより袋の部分は口開けてもすっきりしているのね。もっとがばーって感じかと思っていた。イメージの中でびっくりしていただけね、私は。舌が小さいらしいのだけどその小さな舌の筋肉であののど袋をコントロールするらしい。すごい。長い首もぐるって後ろに回せて背中に乗せて休めるしすごくうまく設計されている。動物の身体ってすごい。

まだ空が夜。カラスはもう鳴いている。昨晩は月をみることができなかった。

この前、オフィスの反対側のほうの初台、ふどう通りのほうを歩いていたら製麺所から麺をもって出てくる人に何人か会った。富士そばの工場(?)がオフィスのほうにあるのだけど、初台は麺が得意なのだろうか。蕎麦屋もラーメン屋もそれなりにある。私は2軒の蕎麦屋にしか入ったことがない。それも最近。どちらも町の蕎麦屋という風情で気にいっている。ふどう通りは新宿のお隣とは思えないほどローカルな雰囲気があって好き。初台のお隣の幡ヶ谷まで歩くこともある。幡ヶ谷の商店街はとても賑やかでおいしいものもたくさん。さて、トコトコと初台に戻りましょう(脳内散歩していた)。麺屋さんは紀州屋製麺さん。良い感じの貼り紙に値段が書いてあった。安い。地元の人っぽい人たちが立て続けに買っていったのを目にすると私もという気分になる。いろんな麺を食べ比べてみるのも楽しそう。

それにしても乾燥がすごい。冬だ。皮膚の小さな小さな傷が十分痛い。新宿でロクシタンを通りかかったらクリスマスギフト用のハンドクリーム4本セットがあった。街はすっかりクリスマス。ハロウィンから一か月が過ぎ、西新宿なんてほんとすっかりクリスマス。店頭で香りを試させてもらった。私は特別な香りより普通のシアが一番好きだな、と思いながらプレゼントを検討した。香りは好き嫌いが顕著だから好みを知っている人、もしくは好きでない香りのものも気持ちよくさばける人でないと難易度高いかも。

先日、読書会でThe Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの第7章(邦訳だと第6章)Time and the après-coupを読んだと書いた。そこで引用されていた英国精神分析協会の訓練分析家、Rosine Jozef Perelbergのウェブサイトをみていた。ペレルバーグは2023年に精神分析と社会人類学の創造的対話構築による時間性・セクシュアリティ・反ユダヤ主義への取り組みに対してシガニー賞を授与されている。ダナとペレルバーグの共通点は精神分析の古典を網羅的に精読しつつものすごい知識と現代的な視点でそれらを外に開く努力と知力にものすごく秀でた精神分析家であるということかな。

ダナのaprès-coup論文でペレルバーグが引用されるのは彼女がシガニー賞を受賞した理由からも明らかだと思う。ペレルバーグのウェブサイトにKey Conceptsのページがあるがその一番上にAprès-coup, Descriptive and Après-coup, Dynamicの説明がある。いつも通りざっと訳しておく。大変簡潔にまとまっていて文献の紹介もあるので自分で勉強しやすいと思う。ダナの本のaprès-coupの訳は「アプレ・クー」だが翻訳の工夫と苦労が滲み出る訳書。「アプレ・クー」を含むいくつかの訳語については訳者の説明が丁寧になされている。私としては意地でもダナのいうaprès-coupを単なる「事後性」とは異なるものとしてカタカナではなく日本語に変換したいがどうしたらいいものか、ということでペレルバーグの訳には一応定訳である「事後性」を用いた。ペレルバーグのように事後性の前に説明をつけるのがいいと思う。ダナの場合だったら「遂行的事後性」「創発的事後性」とか?ベルクソンを思い浮かべながらそんなことを考えた。

>事後性(Après-coup)――記述的事後性と力動的事後性


infant(乳児)とは過去の赤ん坊のことであり、個人の発達の中で観察可能な存在である。
一方フロイトによれば、infantile(乳児的なるもの)とは、大人の内部にいる子どもであり、構成(construction)の過程を通じてのみ到達することができるものである。
乳児は観察の対象となりうるが、乳児的なるものは、事後性(après-coup)の過程の中で分析家によって再構成されるものである。
この主題は、ペレルバーグの最初の精神分析論文(1991年、ブエノスアイレスでのIPA大会にてチェザーレ・サチェルドーティ賞受賞)の中心でもあった。
その研究は、2008年刊行の著書 『Time, Space and Phantasy』 へと結実した。
ペレルバーグは 『The Controversial Discussions and Après-Coup』(2006, 2008)の中で、次の区別を提案している。記述的事後性(descriptive après-coup)セッションの今‐ここにおける、事後的理解を指す。力動的事後性(dynamic après-coup)
フロイトのメタサイコロジーに深く埋め込まれた概念であり、反復強迫、性(sexuality)、時間性(temporality)、そして転移といった概念のネットワークを含意している。

訳おしまい。毎日少しずつ興味のある分野の文献を読んでは訳している。英語ができるわけじゃないけど日本語でもわからないし複数の言語を行き来させているうちにわかってくるから。なんでも地道に。今日も地道に。空が明るくなってきた。夜明けですね。良い一日になりますように。

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shameとか。

空のピンクがあっというまに白っぽいグレーにとけてしまった。暖房を消し忘れた不安に苛まれる季節になったのでさっさとでかける準備をして暖房を消してちゃっちゃっと色々やる。私の場合、不安で戻ってきたら本当についていた、ということがあるので本当にいけない。寒いといろんな行動が怪しくなるので気をつけねば。

昨晩は、アンドレ・グリーンの関連でJean Guillaumin(1923-2017)とBernard Brusset(1938-)のことを調べたり動画を見たりしていたら眠ってしまった。ふたりともSPPのメンバー。グリーンはThe enigma of guilt and the mystery of shameで羞恥心に関する7つの説明をしているが、そこに登場するのがこの二人。ついでだからそのなかの3つをご紹介。こんな感じ。いつも通り正確には原文をご参照あれ。

1.羞恥心shameという情動について書かれた文献は非常に少ない。文献の中で挙げるべきものとしては、とりわけ思春期における羞恥に焦点を当てたジャン・ギヨマン(1973)とベルナール・ブリュセ(1993)の研究がある。

2.最も示唆に富んだ描写は文学や芸術作品に見られる(読者には、私が以前に行ったAjaxとオイディプスに関する研究〔Green, 1982a〕を参照されたい)。私の見解では、羞恥を最も強く表現しているのは、ブランカッチ礼拝堂にあるマザッチョのフレスコ画――『楽園追放(アダムとイブの追放)』――である。そこでは、誘惑の場面における最初の男と女の美しさ、誇りを帯びた表情、威厳に満ちた態度と、神の怒りにさらされた後の彼らの姿とが対照的に描かれている。アダムは両手で顔を隠している。彼は泣いているのかもしれない。しかし確かなことは、彼が他者に見られることから身を縮め、かつて享受していたすべてのものを失ったことに耐えられず、苦痛に満ちた羞恥の感情に押しつぶされているということである。一方イブは、苦悶によって顔がゆがみ、エロティックな感情を呼び起こしうる身体の部位――胸部と陰部――を腕で隠しており、そこから彼女の罪責感を推し量ることができる。しかし、聖書が示唆しているように、ここで優勢なのは羞恥の感情であり、それが消しがたい痛みを引き起こす。なお、性器を覆う葉は後の時代に付け加えられたものである。

3.私は羞恥の発達的総合を提示することはできないし、それを特定の発達段階と結びつけることもできない。ただ一つ断言できるのは、羞恥には自己愛的な起源があるということである。すなわち、身体的起源への初期投資、コントロール喪失の役割、そして何より、羞恥にさらされた個人は無力であり、他者の容赦なき嘲笑や軽蔑の前にさらされる標的のように脆弱であり、いかなる防衛手段も奪われていると感じる、という確信である。羞恥とは、敗北を認めること、弱さの露呈、外見と尊厳の喪失であり、ときには自らの内的世界が人々にさらけ出されたかのような印象をもたらすことすらある。羞恥の起源にある主要な要素を同定しなければならないが――羞恥の限界は前意識を超えるものではないとしても――それによって思考へアクセス可能な概念化を試みることができるだろう。

とか。

1に関しては英語版で注記があって「このコメントはフランス語圏特有の視点を反映している。なぜなら、1970年代・80年代のコフートの研究をはじめとして、この主題に関する英語圏の広範な文献が存在するからである。PEP-Web をざっと検索しただけでも、タイトルに shame を含む論文は 360 本以上あり、その大半は 1980 年以降に書かれている。」とある。

これは北米の関係論の文脈で土居健郎の「甘え」が注目されたことと関係あると思う。甘えは恥と罪悪感を伴うだろうから。超自我概念の起源も追っていたけど色々重なり合ってくるなあ。12月は年末からの休みを省くから3週間と心得よ、と自分に言い聞かせている。今日は火曜日。がんばりましょー。

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12月

最近、朝のんびりしすぎている。早起きだからどんなにのんびりしても仕事には間に合うのだけど。一時期は朝7時からスーパーヴィジョン入れてもらっていた日もあったけど、あれは申し訳なかったねえ。起きてればいいって話でもないものね、生活は。スーパーヴィジョンを受けないと訓練にならないとはいえ日時を合わせるというのがなんだかんだ一番苦労したところかも。こちらがどうにかして合わせないことには仕方ないし、そのための蓄えも必要だし。蓄えとかいうと冬っていう感じがする。今日はとてもポカポカになるらしいけど。朝はそれなりに寒い。各地の熊は冬眠してくれるだろうか。街中にも熊が出てくるようになったのってカラスとか鳥類の影響ってないのかな。ただゴミ漁って安全なところで食べているだけなのにそれがエサの移動を担っていることになってしまうとか。そんなこと言ったら地を這う虫とか移動するものは全てそれを担う可能性があるけど、温暖化が魚の移動する水域(?)を変えたように人の移動だって大きく変わってきただろうし、長い時間かけてこうなっているのだろうからもはや原因の特定は難しいのだろう。それでもそういう歴史を含めたあらゆる仮説を立てていかないことには改善策も見つからないだろうし、本当にどうしたらいいものか。

昨日は久しぶりにまとまった時間が取れたので11月末締切のものを一気に書いた。うとうとしている時間も相当長く、何度目覚めても開かれた本の内容がずっと同じだった。夢が代わりに読んでくれてたらよかったのに。今日から12月。12月末締切のものは一気に書ける類のものではないし、ちょっと情緒的に書きたい。隙間時間に少しずつ書いていこう。

今週もがんばりましょう。

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筋トレ、Dana読書会

今年も終わりか。いや、終わるのは11月。あと1ヶ月ある、ということで今日はがんばらねば、と思っている、がいつもより無駄にのんびりしている。夜明けの空がきれい、とカーテンの向こうを眺めながら美味しい柿とりんごを食べたり、高橋ユキさんがリポストしていた望月衣塑子筋トレ動画を見たりそれに影響を受けてNHK俳句を見ながら腕立てしてあったまったりしていたら外はだいぶ強い朝日が広がってきた。

筋トレは冷え症と加齢に伴う筋力低下防止のためにやっているけど初台デッドリフター(トレーナーさんの言葉)としてわりといい感じになってきたと思う。体幹が強くなって身体が左右対称に使えるようになった、というかいろんな筋肉の場所とどこが使えていなくてどこで補っていてどういう不調や負傷に繋がっているかが身体で理解できるようになった気がする。少しずつだけど。いろんな事例も聞かせてもらったりいろんな情報交換をするなかでやっぱり筋トレは大事、ばかり言っている。短時間でも困難な状態に耐えながら集中していると雑念とお付き合いする余裕もなくなるし、小さい目標も作れるし、継続するえば着実に成果が出たりもするからいいことが多い。

数ヶ月に1回、女性精神分析家たちで女性の精神分析家の本を読んでいる。昨晩はThe Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-BreenのChapter7 Time and the après-coupを読んだ。最近、翻訳が出たのでそちらに助けられながら。日本語でも難解で英語と行き来させることで考えを巡らせ、みんなと話し合うことで言語化をがんばった。良い聞き手は良い仲間。

精神分析の仕事 セクシュアリティ,時間,精神分析のこころ』 ダナ・バークステッド-ブリーン 著/松木邦裕,富田悠生監訳(金剛出版,2025)

Bulimia and anorexia nervosa in the transference以外の全訳(訳はないが詳細な紹介はある)。

Danaが敬愛するアンドレ・グリーンの影響を私もだいぶくらっているのでそちらも苦しみつつ楽しもう。学問とは大変なものですな。その前に土居健郎について、ではなくて土居健郎の「甘え」について何か書けたら書こう。その前に、と思い出せば色々やるべきことがあるがやりながら優先順位考えよう。まだ忘れているものもあるだろうから。それにしても果物だけでは朝ごはんに足りない。読みたい本もたくさん。欲を満たすのはほどほどにきれいな空に元気出して良い日曜日にしよう。みんないいことあリマスように。(もうすぐメリークリスマスだからかこんな変換になったぞ)

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ネオン、火災、作業

朝の空のピンクがきれい。雲がたなびいている。それぞれがまとうピンクもきれい。

西新宿でShinjuku Neon Walkが始まった。夜はさぞ賑やかだろう、と昼間の明かりのついていない電飾の間を紅葉を眺めながら歩いた。どのビルも大小様々なクリスマスツリーが並び、設営の段階から見てきたものも多いが、ああいうのって本当にあっという間に立つからびっくりする。作業する人たちすごい。そういえば香港のマンションの火災の被害がひどい。工事関係者が逮捕されたり原因の解明はこれからなのだろうけど住人の方たちはもちろん作業する人たちにも様々な影響が出るだろう。予測可能な事態を回避できなかったというのは本当に辛い。人の命が当たり前に最優先される社会を作るって人である私たちには難しいのだろうか。一人でも多くの人が助かりますように。

今日は11月29日。11月末が締切だと思っていたものが12月末と知って安心してこの1ヶ月、そのための作業をほとんどしなかった。一年以上前に書いた書評の校正はすぐやって出した、というか締切の設定が来たら即戻さないとダメだった。心理療法フォーラムの討論原稿の校正は素早く丁寧でこちらは気持ちよくできた。年末までに原稿書かねば、と思っていたら、11月末締切のものをひとつ見つけてしまった。やっぱりあったんだ、とびっくり。どうしましょう、と思って何度確認しても今日は29日だし、11月は30日までしかない。はて。さて。

アンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practice chapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameを訳したものがshame以降がなくなってしまった。コピペではなく切り取ってペーストしようとしていたのを別の作業で忘れてしまって切り取られたまま消えたに違いない。これまで何度もやっている失敗。そんなにきちんとした訳ではないとはいえ結構苦労したのになあ。グループのみんなにも共有したかったし。フロイトを精読するアンドレ・グリーンは「心理学草案」にもしばしば言及し、引用するし、精神分析の未来についても実践的に考えているから読むべし、と思っているのだけど伝える側になってきた私がこれではなあ。色々注意していても不注意を注意するには限界がある。とりあえずやれるかどうか手を動かしてみよう。

今朝食べた立派な柿を素敵に描写したかったが締切認識間違いに気づいてから元気がない。柿は美味しくいただいた。いいことありますように。みんなにも。

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道案内、フロイト

この空の色は何ていうのだろう。少し水分が多いのかも。青というには少し違う。きれい。葡萄が美味しい。レッドスチューベンとシャインマスカットを少しずつ。豪華。

この前、オフィスに向かって都庁の前を紅葉を楽しみながら歩いていたら背中のリュックを揺らしながらダッシュで追い越していった人がいた。渡るってことですね、と携帯で話しながら走り去ったその人を、大変そうだな、と見送った。かと思ったら、正面からダッシュで戻ってきた。なにやらすごく大変そうだと思ってちょっと手で制して「どこか探されていますか」と声をかけた。すると東京国際ビルと。うん?どこだそれ、と手のひらのGoogleマップを見せてもらうと見えない。そうだ、老眼鏡、と慌ててメガネを出して見せてもらった。うん?見えるがわからない。そういえば私はGoogleマップを使いこなせないのだった。いや、でも緑が多い。そこを指さして、左側に広がる実際の緑も指さして「この緑が新宿中央公園だから」というと「逆に来てしまったってことですね」と私より全然飲み込みが早い。「ヒルトンがあそこなんですけど、あの波波した」などいっていると「上に白いのが立っているところですね」と波波の形状よりその人は上を見ていた。そうそう、多分その辺、というとその人はすでに走り出す体勢になってお礼を言っており私は慌てて「お気をつけて」と送り出した。グッドラックー、と思いつつ、自分の案内があまりに心もとなく落ち込みながらオフィスに帰り、新宿国際ビルを調べるとヒルトン併設と書いてあった。えー、ヒルトンって併設された建物なんだ、と知った。10代から遊んできた西新宿のビルには親しみがあるぜと思っていた私が傲慢だった。何十年前の話だよ。学生時代、無料で遊べる場所として通っていた西新宿。当時は都庁も誰でも入ってくつろげる雰囲気があった。新宿中央公園のホームレスの人たちにも色々教えてもらった。そのあとの嫌がらせのような街づくりには呆れた。それにしてもあの人、夜ドラ「ひらやすみ」のなっちゃんみたいだったな。何かの面接だったのかな。結果オーライだったならいいな。オフィス周りで道を聞かれることは多いけどそういえば毎回怪しいな、私の説明。あとから「あれ?今伝えたのであってたっけ」と確認して胸を撫でおろすこともしばしば。お世話になってきた西新宿。精進せねば。

来年のReading Freud(第4土曜夜)と初回面接の事例検討グループ(日曜午前)のメンバーを数人募集する予定です。精神分析基礎講座(対象関係論勉強会)を修了している方でご興味のある方は私のオフィスのウェブサイトからお申込みください。初回面接の事例検討グループは臨床現場で初回面接の事例をお持ちの方でご自身の言葉で考えられるようになりたい方に。Reading Freudは基礎セミナーを終えてなおフロイトに関心のある方で難解さとわからなさにとどまれる方におすすめです。

ということで私はほぼ毎日なんらかの事情でフロイトを読むわけだが、最近はアンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practiceのchapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだことでいつのまにか超自我の起源について考え始め、フロイトが晩年、いろんなところで書いている超自我についての記述を読んでいた。超自我は罪悪感と恥の起源でもある。ここ数日、ここにメモした分もそうだけど昨日はフロイト全集22所収の『モーセという男と一神教』における記述を読んでいた。フロイト最晩年のもうこの時期になると教科書に書いてあることの確認という感じでサクッとまとめられている。この論文は最晩年のものと言われているけど1934年には大体書き上がっていたらしい(その後、大幅に修正)と編注に書いてあった。どちらにしても癌とナチスに脅かされる日々に書かれたものだ。晩年のフロイトの日々は『フロイト最後の日記 1929〜1939』から窺い知ることができる。膨大な量の論文の濃密さに比べると日記はメモ程度のあっさりしたものだが、残虐な歴史に巻き込まれた一個人の記録としても非常に重要だろう。

さて『モーセという男と一神教』に書かれている「超自我」概念は三つ目の論文「モーセ、彼の民、一神教(第2部)」の欲動断念の項目のところにあっさり書かれている。この段階ではフロイトは患者のことというより社会のことを書いているが、書き方は変わらない。


>>自我のなかに、観察し禁止するかたちで自我の残余の部分に対抗するひとつの審級が現れてくる。われわれは、この新しい審級を超自我と名づけよう。この審級が成立してしまうと、自我は、エスによって要求された欲動満足の行動に移る前に、外的世界の危険ばかりでなく超自我の異議申し立てをも顧慮しなければならなくなり、欲動満足をあきらめる契機はますます多くなってしまう。しかしながら、外的世界の理由に基づく欲動断念がただひたすら不快であるのに対して、内在的理由に基づく、超自我への服従に基づく欲動断念は、別の経済論的効果を示す。この欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我にひとつの快の獲得を、言うなれば代替満足をも招来する。自我は自分が高められたと感じ、まるで価値高い仕事を達成したかのように、欲動断念を誇るようになる。このような快の獲得の機制は理解されるだろう。超自我は、人生の初期に個人の行動を監視していた両親(および教育者)の後継者であり、代理人であって、両親(および教育者)の機能をほとんど変わることなく受け継いでいる。超自我は、自我を持続的に支配下に置き、自我に圧力を加え続ける。自我は、ちょうど幼年時代と同じように、この主権者の愛情を得るか失うかに気を遣い、主権者に認められれば、それを解放と感じ、満足感を味わう。主権者に非難されれば、良心の呵責を感じる。自我が超自我に欲動断念という犠牲を供えるときは、自我はその報酬として超自我にもっと深く愛されるのを期待しているわけだ。超自我の愛を受けるに値するとの意識を、自我は誇らしく感じる。権威がまだ超自我として内在化されていなかつた時期までは、欲動要求出現と愛情喪失の切迫は直結していた。両親への愛ゆえに欲動断念がなされたとき、安心と満足の感情が起こったといってもよい。権威そのものが自我の一部と化したのち、このかなり快適な感情は、初めて独特にナルシシズム的な誇りという性質を帯びるようになった。

引用ここまで。やはりナルシシズムにつながる。他者を自我に取り込まざるを得ない私たちの宿命。誰かに育ててもらわないと、でもその誰かから離れないと生きていけない私たち。そりゃ、色々大変だ。だから緻密に考えていく必要がある。語られていない言葉たちに丁寧に関わっていく必要がある。

今日は気温が高くなるみたい。良い一日になりますように。

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グリーン論文で引用されるフロイトとか。

早朝、うっすらピンクがかったきれいな空を見られた。ほろほろとした雲がたくさん浮かんでいた。これからお天気下り坂とのこと。

サランラップが途中でちぎれてしまい悪戦苦闘していたのをそのままにしておいたせいで今朝も時間をとられた。菜箸もたくさん使ってしまった。菜箸も計量スプーンも長い年月の間に増えていったが大体使う種類も数も決まっているのに今朝はいろんな手順を間違った、というか手際を考えていなかった。テレビを見たりフロイトを読んだりしながらなのがいけなかった。一気にざっと作業しないとどんどん余計なことをしだして時間がなくなる。習慣づいてきたはずだったのにまだまだだな。果物がたくさん届いて冷蔵庫が豊かなのも調子を狂わせたのかもしれない。が、嬉しいから調子狂うほうを許容していきたい。

昨日は『新・精神分析入門講義』第三一講 心的パーソナリティの分割を読んだ。その辺につながる
French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series、Contemporary Psychoanalytic Practice by Andre Green、chapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameの記述はこの辺。適当だがメモとして訳をおいておく。フロイトが罪悪感をいちづけるためにせねばならぬと思っていたことは以下、とアンドレ・グリーンはいう。

a. 罪悪感を、ある審級(agency)にひもづけること

b. それをエロティシズムを超える構造の中に挿入すること

c. それが生じる病理に関係した役割を果たしうることを認め、親のイマーゴ(エディプスコンプレックス)との関係によって解明される人類学的枠組みに配置すること

これらを行ったのち、フロイトは(間違いなく死の欲動概念の帰結として)理論に 超自我(superego を導入した。当初、超自我と自我理想は明確に区別されていなかった。この理想中心的な含みは理論に影響を与え、密接な関係がもたらす影響を超えてその射程を広げた。両親の批判的影響は、彼ら自身の両親の理想や倫理的価値の痕跡を帯びている。この含意はその後、さらに広い文脈に組み込まれた。実際、フロイト最晩年の欲動理論に見られる対立項の先鋭化、すなわち、生と愛loveの欲動 、そして死と破壊の欲動という対立は、心的装置の内部で生じる変容の範囲を大きく拡げた。それ以前は、個体がさらされていたのは、欲動の組織化と自我とのあいだに生じる内的葛藤だけであった(というのも、自我がリビドーによって投資されているというだけでは、自我の特性すべてを十分に記述したことにはならないためである)。しかし今や、二つの心的過程が導入された。すなわち、互いに大きく異なる 欲動関連の葛藤 と、複数の自我同士の関係から生じる自我間の葛藤である。後者はしばしば、世代間で価値が伝達される場面や、個人が自らの性(sex)に応じて結ぶ関係において現れ、それらがどのように両性性(bisexuality)に影響するかに関係している(Freud, 1923b)。欲動関連の葛藤は、抑圧を通じて解決を求める一方で、世代差に由来する葛藤は、抑圧の部分的、一時的な停止を伴う同一化の選択から生じる。これらの宙吊りが、葛藤を異なる光のもとに置き、異なる退行的解決を提供する。あらゆる欲動は、部分欲動(部分対象に結びつく)から性器性欲genitalityへと進むその過程において、その起源によって刻印され続けると言える。一方、エディプス段階へと向かう同一化は、全体性のイメージへ近づくことで大きく変容する。死の欲動の導入は、罪悪感の理論に対しては間接的な影響しか持たない。フロイト晩年の欲動理論の妥当性を評価しようとするつもりはないが、彼が 破壊性(destructiveness)にますます大きな役割を与えるようになっていったということだけは指摘できる。

こうしてフロイトは、多くの疑問を宙づりにしたままではあるが、しかし本質的な答えを与える一つの解決に到達した。この過程の最も明確な定義は、『新・精神分析入門講義』第三一講 心的パーソナリティの分割に見いだされる。

以上、引用のところの訳おしまい。ここで引用されるフロイトの記述も簡潔でいいが、そのあとに引用される「文化の中の居心地悪さ」(1930)は罪悪感、超自我の起源を考えるなら超重要文献。宗教、というか文化に対するフロイトの考え方を示す論文だが、そのなかでそれらについて細やかな議論が展開されている。超自我には隠しようがない、みたいな表現が何回か出てくるのも面白い。

ということで今日、木曜日もがんばりましょう。夜は雨かあ。必要だけど傘が面倒ね。忘れないようにしなくては。

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フロイト『続・精神分析入門講義』とか。

薄い色の空。洗面所の暖房をつけたらわりとすぐに温まった。寒いけどまだそういう気温。ありがたい。もう少し寒くなると温まる前に色々終えられてしまう。短時間でも寒いのはつらい。オフィスの部屋は暖房いらずの日々が続いている。大規模改修工事中なのが色々とつらいが、工事の見守り担当(と私が思っている人)の方ともお話したりしてだいぶ作業工程がわかるようになった。あと音の種類になれた。部屋にいながらいろんな音を経験した。これ以上新しい音がすることはなさそう。交渉して大きな音を減らせるわけではないのだけど知っているのと知らないのとでは気分が違う。オフィスを守るためにはビル自体の安全が第一だからこういう期間にもみなで協力して耐えていく必要があるのだろう。工事の人たちも毎日毎日本当に大変。

先日みた万葉植物と万葉集についても書きたいがすごく曖昧にしか覚えていないことが多いからパンフレットとかみないと書けない。万葉歌碑がある散歩道でいえば群馬県高崎市の高崎自然歩道「石碑之路」がとても好きなのだけど今もいろんな人に歩かれているだろうか。先日は大きな公園の中の万葉植物園にいった。花々と歌碑の組み合わせ。これまでもいくつかの公園で万葉植物を集めた空間に入り込んだことがあるけどどの季節もわりとわびしくて、それが好き。万葉集の歌とあっているし。

お勉強メモも少ししておこう。French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目、Contemporary Psychoanalytic Practice by Andre Greenのchapter6.The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだあと、そこで引用されているフロイト論文も読んでいた。アンドレ・グリーンのこの論文はそのまま訳せば「罪悪感の謎と恥の神秘」ってとこかしら、ということでまず罪悪感に関する、つまり超自我と同一化に関する『続・精神分析入門講義 第三一講 心的パーソナリティの分割』( Chapter XXXI of the New Introductory Lectures, “The dissection of the psychical personality”)を読んだ。ここは『自我とエス』に書かれている部分だからなじみやすい。

私はどの論文も講義もフロイトの書き始め方が好き。この第三一講はこう。

「皆さん、人間であれ物であれ、皆さんご自身のかかわっておられる研究分野にとって、出発点というもののもつ重要な意義については、皆さんもよくご存じのことと思います。精神分析に関しましても、例にもれずやはりそうでした。精神分析が症状研究、すなわち、心のなかに存在している、自我からもっとも遠いものの研究から始まったということは、のちにたどられた発展ないしのちに見出された受容にとって、どうでもいいことではありませんでした。症状は、抑圧されたものに由来しており、いわば抑圧されたものの代弁者として自我に対峙していると言えるわけですが、この抑圧されたものは、自我にとっての外国、内なる外国にほかなりません。それはちょうど、自我にとって現実が—耳慣れない言い方で恐縮ですー外なる外国であるのと同じです。道は、症状を出発点として、無意識的なもの、欲動生活、そして性へと進んでいったのですが、ここまで来たところで、精神分析は、世間からごもっともな抗議を受けるはめになってしまいました。人間はたんなる性的な存在なのではなく、もっと高貴にして高尚な心の動きももっているはずだ、というわけです。この抗議には、こう付け加えてやるのがよかったかもしれません。人間は、この高尚な心の動きを意識しすぎると、舞い上がってしまい、根も葉もない馬鹿げたことを考えついたり、目の前の厳然たる事実を無視してよいと思ってしまうことが、しばしばあるのです、と。」

フロイトの胆力を感じますね。この論文は1914年の「ナルシシズムの導入にむけて」から展開されている自我理想に関する議論でもある。Reading Freudで「心理学草案」を読み終えたから残りの数回は私が論文を選んで単なる講義型式ではなくこれまで通り対話形式でフロイトを読む意義を感じられたらいいかな、と思っている。その前にあれもこれもと色々あるけど色々あることを忘れないようにせねば。

これ以上寒くなりませんように。なるって知ってるけどなりませんように。良い一日になりますように。

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休日

今日は久しぶりに雨かしら、みたいな空。週末は紅葉を満喫。朝、久しぶりに地元のカフェに行ったら見慣れない店員さんがいた。とてもいい声の人で地元ならではのおしゃべりをした。開店してずいぶん長くなってきたことをご本人が数えながら驚いていた。私よりずっと若いのに一部の情報が私より古くて面白かった。え、そこからアップデートされてないの、というより、え、私その店がそうだったこと知らないんだけど、開店当時から利用しているのに、など。彼らはお客さん同士ではなく、仕入れの関係とか仕事上の付き合いだからそういうことはありうるけど。

昨日は近いけどあまり行かないお寺にも寄った。紅葉が見事。こんなにきれいだって知らなかったかも、と思いつつ観光の外国の人たちよりゆっくりゆっくり歩いた。空を見上げていたら鳥たちが大きなV字を作って連なって飛んでいった。あまりに大きくてびっくり。ほかの人はは誰も気づいていないみたいだった。この時期は地面に菊は咲いているけどどうしても目線が上に向きがちになるな、とかわいい小さい菊を眺めていたら花の名前が薄く彫ってある立札を見つけた。こんなのあったんだ、と同じようにしか見えない菊にもいろんな名前があることを知った。その小さな立札を頼りに春になったら咲くであろういろんな花たちの枯れ姿も楽しんだ。

今日は火曜日。色々間違えないように。先日、みんなにもらったヒントから言いたいことを展開させておかないと間に合わない仕事もある。がんばろう。いいことあリますように。

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アメチャウ文化祭に行ったり。

薄い色の空。ほんのりピンク。今日も晴れそうかな。

昨日は2つ、事例検討会をしたあとに神保町ブックハウスカフェに向かった。友人の編みメーション作家やたみほさんの『アメチャウ国の王さまとひみつのカフェ』(瑞雲舎)出版記念「アメチャウ文化祭」に行ってきた。ブックハウスカフェはとっても素敵な本屋さん&カフェ。案内してくださるみなさんから柔らかく優しい。奥にやたちゃんが。絵本にサインを書いていてとても喜ばれていた。お母さんと一緒の小さい子やいろんな年齢のカップルやおひとりのみなさんやいろんな方がいて、これまでの今回のアメチャウ国のかわいいキャラクターの実物やこれまでのやたみほ作品や王さまになれちゃう顔はめパネルプチ占いオーナーもあったり本当に文化祭っぽい幸せな空間だった。本当におめでとうございます。いろんなこども図書館に置いてもらえたらいいな。石川県小松市の空とこども絵本館にも。とっても素敵な絵本館だったなあ。「編みメーション」は2007年に商標登録されたけど伝統芸能みたいに受け継がれていってほしい丁寧で温もりのある仕事。絵本で広く知ってもらえたらいいな。

今年は今までなかった症状が色々と出て「ただの風邪」的な感じで病名がつくほどではないのだけど「なんか変」程度の異常を色々と感じている。病院に行けば薬はできるけど「これでちょっと様子見て」と言われるくらいの。症状以前に体質とか加齢によるものとか言われるものですね。そりゃこの年齢になれば色々出るよな、と思いつつ、不快だったり苦痛だったりするのは嫌でそういうのを感じると「これなに」とその状態をもっときちんと感じようとする時間が訪れるようになった。ちょこちょこ様子見のための薬を使いつつ、なんかできることないかな、とカフェインを控えたりするけど、このくらいだと活動量を減らすことなく普通に生活できてしまうので1日が始まれば意識の外に置いておけるわけだ。元々胃腸が弱いとか冷え性で体温調節がうまくいかないとかさらに加齢によるあれこれとかでやや疲れやすいかも、と思っても昨日もせっかくお茶の水にいるからと湯島で行きたかった店を探してまたもやGoogleマップを使いこなせず歩きに歩いたりしていたわけだし。無事に見つかったけどなんとおやすみ。ガーンだったけど、湯島図書館ってここなんだ、かなり古いな、と思ったり順天堂でかいな、と思ったり、行ってみたいお店も見つけたり、行列を見つけて、あ、おのお店の名前聞いたことある、と思ったり。そういえば、先日、朝に通りかかったときに行列ができていたお店に昨日の夕方通りかかったら並んでいなくて行ってみたらかわいいパン屋さんだった。すごくおしゃれな作りでコーヒーもチェーン店より安くてパン作りに使う粉がいっぱい置いてあって日中はパン作りが目の前で展開されるらしい。みんなパンがいっぱいある時間を狙っていくから行列になるのかしらね。昔、近所にあったパン屋さんも開店した当初はおしゃべりしながら好きなパンをのんびり食べられたけど、行列ができる店になってしまってからはその時間帯のパンは食べられなくなってしまった。夕方、残り少なくなったパンを買いに立ち寄ることはあったけど(フォカッチャがすごく好きだった)パン屋さん自体が移転してしまった。このパン屋さんにまつわる個人的エピソードは色々あるなあ。小さな商店街に大きな影響を与えてくれたパン屋さんだった、なんて地元の人じゃないとわからないだろうけど、そういうのがいいんだよな、と思う。

昨日の内輪の事例検討会もすごくよかった。そこでの学びも書きたいが出かける。どうぞよい一日をお過ごしください。

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精神分析

夢、性、精神分析

忘れないうちにiphoneに夢をメモ。メモだと結局思い出せないのよね、と思いつつ。しかも朝は目が見えにくく打ち間違えていることにも気づいているが忘れる前にとりあえず痕跡を残す。夢の中で私の家はここでもなく、これまで暮らしてきた家でもないし、景色も知っているような知らないような景色だが、この前もこの道歩いた、とか、この人たち、この前の人たちだ、と感じるのは面白い。夢の中で「アニメみたい」とか「これ夢だし」と感じるのも面白い。フロイト『心理学草案』を読んだことで『夢解釈(夢判断)』に対する理解が深まり、夢の重要性を改めて実感している。フロイトが精読され、精神分析の「知」が消費ではない形で実践とともに探索されつづけますように。セクシュアリティを最重視する学問であることを精神分析家自身が忘れることがありませんように。Reading Freudで「心理学草案」を読み終え、解題を読みながらみんなで話しているときに私が最近なくなった歴史ある慶応心理臨床セミナーに皆勤で楽しみながら出席しつづけ、講師の先生の何人かにスーパーヴィジョンでお世話になったり、お部屋を借りたりもしたのに、精神分析を別物としてナチュラルに考えていた理由がなんとなくわかった。そこでは精神分析が性の学問であること、その生々しさ、そこに関わるためにどれだけのことが必要かが語られていなかった。私は実家にいる頃からフロイトをなんとなく読んでいたし、それを受けるために人に関わる仕事を色々しながら稼いできて、結局は自分が精神分析家になるための訓練に入り、これが性の学問であり、実践であることを実感して精神分析家になった。セクシュアリティが行為としてのセックスに限定されて思い浮かべられるような状況は全く豊かではない。自分たちを生み出し、突き動かす欲動として性を実感し、人が戦争を起こす存在であり、自分もその「人」であることを恐れながら自分という他者をどうしようもない自分として生きていくのを肯定するのがこの実践ではないか。自分の中に他者性を認めることからして苦闘である、ということを体験のレベルで実感すると本当にそれを誰かとやるのか、という悩み続けることになるが悩まないのは本当にどうかと思う。

コロナ禍でNetflixに入ってしまってから配信の世界に割く時間がすごく増えた。今朝も早朝から「ホームランド」をみてしまった。クレア・デインズなのか。今、ロミオとジュリエットもやっているのではないか。あれはびっくりしたなあ、楽しかった。あれからシェークスピアに入った人も多いのでは、と思う。

どこで何にひっかかるかは大抵予測と違ったりするけどそういうのを運命と呼んで愛し続けるのもやっぱ違ったと手放すのもなんでも自由ではある。でも判断は急いでするものではないと思う。時間をかけることが思考と言葉には必要。今日は日曜日。いい一日でありますように。

この空の下にはたくさんのこどもたち@新宿中央公園

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Netflix 精神分析

スタンプ、筋肉、フロイト

今日もいいお天気っぽい空。スッキリきれい。朝起きたら、昨晩、紙切れや手帳にスタンプやシールを貼ったり、絵描いたりして遊んでいた名残がテーブルに広がっていた。ウトウトしながら何かやろうとしていたのは覚えているけどどんな感じで眠ったのか覚えていない。その作業中にあれどこやったっけ、と以前もらったコジコジの日付スタンプを探しはじめ、今朝も色々ひっくり返しながらずっと探していたが見当たらず。あー、これ、ここにあったんだ、と別のものは色々見つかった。コジコジどこだろう。日常的に使っておくべきだった。

Netflixでイクサガミ第一章を見終わった。今村翔吾原作、岡田准一が主演・プロデューサー・アクションプランナーを担う実写版、アクションシーンばかりなのが筋トレを信頼している私には大変楽しく、武術も習いたくなっている。早乙女太一の殺陣は劇団☆新感線で最初に見たのだと思うけど、本当にしなやかできれい。何見ても物語より身体の動きを見るようになってしまった。昔からその傾向があるから演劇が一番好きなんだと思うのだけど身体表現って本当にすごい。朝ドラばけばけの脚本も本当によくできていて、島根の小泉八雲記念館も大好きだし、お話自体もいいのだけど、高石あかりはじめ、表情とか姿勢とか筋肉の動きから伝わってくる何かを受け取っている感じ。お話に関してはモノでも人でも家族でも「それは誰の」問題があって、それは自分で決めるものだし、変化していくもので、その変化をその人がどう体験しているかを観察し思いを寄せていくというのが思いやりでそれがとっても素敵に描かれているよね、と毎回なんでもなさそうなシーンに涙ぐみながらみている。明日はべらぼうか。NHKはドラマは本当にいい仕事してくれてる。ニュースもがんばってほしい。

さてさて、Reading Freudは『フロイト全集3』(岩波書店)の「心理学草案」をそろそろ読み終える。こんなにきちんと読んでいる人たちはそんなに多くないと思うので、みんな今後のフロイトを読むときに生かしてほしい。そしてアンドレ・グリーンとかを読みながら、彼らが立ち戻るこの草案を「あー、あのことかも」と共有しながら楽しんでほしい。わかるわからない、正しい間違ってるを越えて思考の種を育てていこう。

で、岩波版のp103は「付録A 一八九六年一月一日付のヴィルヘルム・フリース宛のフロイト書簡からの抜粋」なのだけどこんなふうに始まる。

[…]君の偏頭痛論によって僕は、自分のφψω理論の全てを全面的に改変することになるかもしれない考えに行きつきました。理論の全面的改変を今は企てることができませんが。でも示唆することはしてみたいと思います。

フロイトは草案のことをファイプサイオメガ理論とよんでいた。ギリシャ文字の読み方はみんな同じだと思う。

こうやってせっかく私たちがわからないなりに苦労して追ってきた思考を「やっぱり違った」とばかりに手放そうと新たな想定を提示しはじめる。が、すぐに「(君がこのわけのわからない話を理解できるかわかりません)」と括弧つきで書いている。「君」はもちろんフリース。自己分析の相手役。だったらわけわかるように話してくれよ、と思うかもしれないが、これはフロイトの自己分析の一部であり、自由連想と思えば、まあ、こんなものだろう、自由連想というのは、と思わなくもない。自由連想って本当に「自分でも何いってるかわからない」「なんで今こんなこと思ったのか」とかいうことがたくさん生じる運動だから。筋トレだって動くことではじめて知る自分の筋肉の動きばかりなわけだからなんだってそれはそうなんだろうと思う。

ただ、このあとにフロイトが書くニューロンが相互に作用する三種類の方法、1、相互に量を転移する、2、相互に質を転移する、3、一定の規則に従って相互に興奮させるよう作用する。は記述はシンプルだけど、ここまで読んできたなかで考えると重要だと思う。量と質問題。

そういえばこの前フロイトのナルシシズム論文を読んでいて、self-regardが「自己感情」と訳されていることになんで?となった。self-regardは文脈によってポジティブにもネガティブにも使われるらしいが立木康介さんは「自己感情」と訳した。なんでだろ。人文版ではどうなっているのか。自己感情という日本語を使うことがないせいかぴんと来ないが、どう訳すのが適切だろう。

毎日フロイトに割く時間が多いけどこれも仕事。そういうお仕事。日本の精神分析は本当にこれからどうなっていってしまうのか、と考える仕方が以前とは変わってきてるなと感じるけど、その答えが出ているわけでも考えが進んでいるわけでもない。勉強と実践の繰り返し。今日もがんばろう。

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イクサガミ、現代美術、グリーン論文

今朝の朝焼けもきれいだった。そしてイクサガミを見終わってしまう。染谷将太、大河ドラマ「べらぼう」でも最高だが、これもとてもいいな。とても独特で上品な佇まい。清原果耶の美しさを際立たせるキャラ設定もさすが。私の周りは清原ファンが多い。そしてでっかい男たちがたくさんで迫力ある。伊藤英明と阿部寛、こういうのをやばいという。怖いがみてしまう。オペラシティができた頃、今、オフィスがある初台に住んでいたのだけど、オペラシティのなかにはまだ公衆電話がたくさんあって、そこで阿部寛と隣り合ったことがある。むこうはドラマのロケだったようだが、大きいので私の目には入らず、あとから一緒にいた家族に教えられた。そして山田孝之。「グラスハート」もそうだが出演時間関係なく、というかもうこの人は一瞬でてくるだけのほうがインパクトあるのでは、と思わせる存在感。Netflixは豪華キャストを短時間で惜しみなく使う財力があるのだな、きっと。

昨日Giuseppe Civitareseの『The Hour of Birth: Psychoanalysis of the Sublime and Contemporary Art』のメモを書いたが、そこにでてくる絵や作品のリストが試し読みでみられた。本の表紙はAlfred Kubin, Die Stunde der Geburt [The Hour of Birth], Leopold Museum, Vienna。アニッシュ・カプーアは金沢でみた作家ではないか?いろんな作品がみたいなあ。

そして先日読んだと書いたFrench Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目であるアンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practiceを読んでいると書いたが(書いたか?)最初に読んだThe enigma of guilt and the mystery of shameはグリーンにしては珍しくフロイト精読の跡がわかりやすく追えた。答えを出さない書き方がグリーン流とはいえ、皮肉とか脱線とか書き方が自由すぎて難解なのがいつも。この論文はテーマは難解だが書き方に苦労させられることはなかった気がする。この論文でもフロイトのナルシシズム論文が引用されているが、短い論文なのに影響力大きい。私もこの論文に触発されて発表も続けているからよくわかるけど。コンラッドの「ロード・ジム」が引用されれいるのもいい。

今日も一日晴れるみたい。うれしい。どうぞよい一日を。

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チヴィタレーゼの本のメモとか。

いけない。早朝からテレビ三昧してしまった。ので、時間がない。メモだけしておくと昨晩流れてきたGiuseppe Civitareseの新刊(だと思う)『The Hour of Birth: Psychoanalysis of the Sublime and Contemporary Art』が面白そう。チヴィタレーゼはイタリアの精神分析家。日本語だと『もうひとつの精神分析入門: こころというフィールドとの出会い』が訳されている。アントニオ・フェッロとの共著だと思う。

今回、流れてきた本でチヴィタレーゼは、精神分析理論と美学を編み上げるための概念的ツールを読者に提供する、とのことで、フロイトの昇華Sublimation概念を崇高the sublimeの体験(主体が生まれる瞬間の原光景)として記述しようとしているらしい。「崇高の美学とは、主体と対象が徐々に分化していくことで思考の空間が形成される、内的プロセスの反映である」とのこと。

「心はどのようにして生まれるのか?なぜ美は生命にとって必要と考えられるのか?「単に」美しいと感じる経験と、「崇高」と呼ばれる美的経験とはどのように異なるのか?」と問いを考えるために取り上げられる崇高の体験のformとして色々な現代アートが参照されているらしい。有名人ばかりだけどweiが誰だかわからない。Zhang Weiかも。(Liu. Weiだった)。ルイーズ・ブルジョワも取り上げられているらしい?読みたいが洋書やはり高い。関連して、ではないけど、これ書いている間にそういえばあの論文読まないと、と思いついたのが以下。書名だけメモしておいたけどなんで読まねばと思ったのかはまたもや忘れた。

Civitarese, G. (2010). The intimate room: Theory and technique of the analytic field. (P. Slotkin, Trans.). Routledge/Taylor & Francis Group.

Birksted-Breen, D. (2009) ‘Reverberation Time’, Dreaming and the Capacity to Dream. International Journal of Psychoanalysis 90:35-51

いいお天気っぽい空。暖かくして過ごしましょう。

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散歩 読書

刀剣、公園、日本

東京の日の出は6時21分。すっきりと寒そうな空。宇宙飛行士の油井亀美也さんがあげてくれた宇宙の日の出の動画がとてもきれいだった。11月初旬、新潟の彌彦神社の宝物殿でみた刀たちを思い出した。きれいだった。丁寧に説明をしてもらいながら様々な日本刀をみたのが山形県上山市の蟹仙洞だと思うが、今年8月に閉館してしまったらしい。なんと・・・。これまで出会ってきた人たちのなかに刀剣好きな人はわりといていろんな話を聞かせてもらった。私も好きだが、ほとんどオタクのみなさんの語りには驚いてばかりだった。推しの話をするときの輝きや力強さはいまやアセスメントの指標のひとつだ。2017年、初台の物件で開業することを決めたとき、刀剣博物館が近いのが楽しみでいっぱい通うぞ、と思ったのに9月、ちょうど私がオフィスで仕事をはじめたときに両国に移転してしまった。貼り紙をみてガーンとなった。墨田区はSCとか幼稚園巡回で身近だから気楽にいけるけれど近所とは全然違う。オペラシティアートギャラリーだって近くなくても行っただろうけど毎日仕事をする場所の近くにある特別感。手ぶらでいけるし。

それにしても冬らしくなってきた。紅葉がとてもきれいで公園で読書とかしたいなとか思うけどとどまるには私には寒い。西新宿はベンチが多くて新宿中央公園のベンチでのんびりしている人をたくさんみかける。新宿白糸の滝と名付けられたミシシッピアカミミガメたちがいる水辺と新宿駅方面へ続く西新宿の高層ビルがみえるきれいなベンチでくつろぐ人たちをみるのは楽しい。公園全体の整備が進んで、なんか辛いなあ、と思いながらみていた工事中の景色が順々に新しくなっていく。私が毎年親しんで楽しんで開花を待っていた花たちはただの道になった。上を見上げれば高い木々の紅葉と鳥の声は前のままで誰を気にすることなく大きなため息をつける場所もあるけれど。アメリカデイゴは花の時期が長いらしく、いついってもまだ咲いている、という印象がある。

昨晩はずっとエアコンをつけていた。加湿器もつけた。加湿するとぬくぬくさが増す気がする。辛いニュースをぬくぬくしながらみていられるのは幸せな環境かもしれないが背筋が凍るような事態が進行していそうで怖い。辻田真佐憲の『「あの戦争」は何だったのか 』(講談社現代新書 2780)に靖国神社の遊就館が

「今日においても実質的に″日本を代表する戦争博物館″としての役割を果たしているといっていい」

と書いてあってそうなのか!と驚いた。外国人観光客も多く訪れているらしい。偏ったことばかりが書いてあるのではないか、という疑いはこれを読めば薄まるが、「負の歴史」を因果関係ではなく単なる事実として記憶に残る記録として展示していく公的な機関の必要性は強まるばかりではないか。そういうものが作られないための準備ばかりされているような気がしないでもないが。私は辻田さんの本は挑発的な部分を誤読してしまったらどうしようと思いながら読むのだけどこれも大変勉強になった。言いっぱなし、使われっぱなしの言葉や出来事をどう未来につながるものに育てて形にしていくか、ということを考えないといけないのだろう。「反省」って言葉とか。

アンドレ・グリーンの罪と恥に関する論文を読んだので、それについて書こうと思ったのに日本に思いをはせてしまった。罪と恥も土居健郎の「甘え」の文脈で考えているから結局日本に住む日本人として色々考えるのは当然だが。

いいお天気でうれしい。暖かくして温かい飲み物と一緒に過ごしましょう。

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仕事

いろいろ

寒い。空がグレー。東京の天気予報は晴れ時々くもり。寒いのは嫌だ。乾燥もつらい。冬だ冬だ。

それにしても毎日ニュースが怖い。高市内閣はトランプが自分と会った直後に中国に対してみせた態度から全く学ぶことをせず、というか、これまで日本の首相たちがぎりぎりのところで曖昧にしてきたものを戦略とも思っていなかったのか、ある立場についてしまえば自分の言葉が引き起こす結果について推測しなければならないのは仕事の一部だとは思っていないのか、子供の頃の夢を語るかのように他国への侵入的な発言をして時間もお金も優先的に動かさなければならないところからずらされていくのは一体なんなのか。怖い。

心理職でも自分がその専門として学問を語るならその歴史を作ってきた人たちに対してなんの敬意も感じられないシッタカブッタ言葉を吐くべきではない、ということを当たり前だと感じられない専門家もいるけど、そういう人に助けられている人もいるので同じ土俵に立つのではなく、それを反面教師として粛々と自分のできること、やるべきことをやり、やるべきではないことはやらず、ということをしていったほうがいいのだろうな、といろんな人の愚痴やらなにやらをききながら思う。みんな似たようなことはしているものだし、と思えるとすればまだそれぞれの現場で自分たちの居場所を耕してきた人たちが生き残っているからだろうけど。上の世代のせいにするのは簡単だが、自分がいる場所は自分が作ってきたようなことをいうのはあまりにあんまりだと思う。なんていうのかな、こういうの。幼稚ともいえるし失礼ともいえるし考えなしともいえるし万能的ともいえるしなんていえばいいのだろう。

よかれと思ったことがある日反転するなんて戦後まもなくじゃなくても起こるわけだ。朝ドラ「あんぱん」で「ひっくりかえらない正義」が追い求められ、「ばけばけ」で「物乞いだよ!冬がきたら、死ぬ」という言葉で限界と尊厳が示されたが、今の日本はそのぎりぎりのところさえ簡単に踏み越えられるかのようにふるまう人たちが政治を握っている。そんななか目の前の評価に流されるように生きている人たちが多いのだろうか。積み重ねもせず、自分の付け焼刃に近い勉強と狭い経験で大きな声でなにかいえば通じる社会なのだろうか。毎日こつこつ、風邪をひいたりけがをしたりしないように小さく気を付けながら生活や仕事を維持することのなかに小さな喜びや幸福を見出してきた人たちが力を落とさないように支えていく社会であれば少なくとも安全は保たれるだろうに。これからのことを考えるのであれば自分の思いや考えを主張するより自分とは違う相手の話を聞くところか始めないとなのにそういう場を設定してもそこをぶち壊すことでしか自分を表現できない場合もあり、ある程度それは傾聴すべきだが、それだと自分自身の居場所はどんどんなくなっていってしまうよ、というしかない場合もある。わかってほしい、ばかりで社会は成り立たないなんて当たり前で、わかってくれないから怒っています、もっと怒らせたら攻めこみます、なんて普通にだめではないか。言葉も思考する能力も備えているはずなのにそれを使わない、あるいは自分仕様で使うのは意地悪ではないか、とかいろいろ考えてしまうが、今日も無事にがんばりましょう。

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仕事

東京デフリンピックをみたり。

東京は今日も晴れるらしいけど昨日みたいな明るさを感じさせる夜明けではない、とか書いていると一気に空がピンクがかってきたりするけどどうかな。

昨日は11月15日からはじまった東京2025デフリンピック(TOKYO 2025 DEAFLYMPICS)のバスケットボールをYouTubeで少しみた。私は中学がバスケ部で膝を痛めて高校は写真部で大学は弱小バド部(負担がすくない)だったのでその辺の領域は関心が向きやすいが、今回はカメラの向け方が気になった。バスケのコートの両側がみえる真ん中からではなくて一方の側の斜め上からの定点で撮っていて、ずっと遠いままだった。中学生のとき、大会で大きな体育館でやったときに自分のチームと関係しない試合を体育館の上の方からぼんやりみていたときの感覚を思い出した。現場にいれば移動できるし、映像だって今だったらもっと普通に工夫ができそうなものだけどなにか難しさがあるのかな、と色々考えてしまった。

あとYouTubeの説明のところに

「デフアスリートは審判の笛やブザーの音がきこえない・きこえにくいため、本大会ではバスケットゴールの支柱及びテーブルオフィシャル席の前面にLEDランプを設置し、音に合わせて点灯させることで、視覚的に知らせる情報保障を行います。こうした点も通常の大会とは異なる特徴として、ぜひご注目ください。」

とあったので注目したかったのだけどそれもいまいちわかりにくかった。いろんな工夫を知れるといいのだけど。先週末からオフィスのある西新宿には手話で話している外国の人たちもたくさんいて、彼らが困ったときに私はなにができるのか、と考えていた。デフバスケのウェブサイトやいろんな記事でなるほどなあと少しわかったけど、デフリンピックの中継はまず聾者の人が見てわかりやすく、つまり音声に頼らず、かつ音声や字幕がないと困る視覚障害の人にもわかりやすく、などまず障害のある方にむけた画面作りが必要だなと思った。療育の視点をもつ心理職はそういう部分にも関わると思うから一緒に仕事していけたらいいな。ボランティアではなく。今回、試合会場でも全部無料で観戦できるわけだけど無料じゃないと入らないという判断だったのかな。実際はそうじゃなかったわけだから今後の運営から変わってくるのかもしれない。もちろん無料でみられて、ボランティア含め運営の人や選手の謝礼や報酬にしっかりつながる財源が十分にあって、めんどうな手続きなしに使用できているなら悪くないかもしれないけど。

専門職がこういうところでも仕事を得られたらいいな、と思う一方、心理職のみなさんがもう少し普通の感覚でアドバイスできるようになれたらいいなと思う。別に療育とかしたことがなくても日常から学べることはたくさんあって、経験を抽象化していくことが専門職なだけだから、論理的に考えれば今はこれを最優先すべきでは、というアイデアをもちよっていけたらいいと思う。保育士や幼稚園の先生とはこれがしやすい。現場を具体的に共有しているとそこですぐに試せるというのもあるし、その後の経過も共有できるから修正もきくというのもある。私が若い頃は、ひきこもりや家庭内暴力の事例がたくさんあって(今もそうだろうけど)そういうときに最初に必要なのは、これこれこういう状況で、資源がこれだから今こちらができるのはこれなんだけど、という提案だった。もちろんすぐにはなされないことがたくさんあるけどそういう個別の事情に対応していくために個別の面接は必要なわけだから、実際に関わるところから練り上げていきたいものですね、理論も。みんなで持ち寄ってきて成立してきたものもすでにたくさんあるのだし。

今週もがんばりましょう。乾燥対策もして風邪ひかないようにしましょう。インフルエンザで学級閉鎖もでていますしね。ではでは。

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映画

漫画、映画

空が一気に明るくなった。今日はとてもいいお天気なのね、とすぐわかる空。朝焼けは一瞬だけど今はピンクがこっちの空まで広がってきれい。

読みたい漫画が溜まっているが電子書籍で読むのは苦手だし、漫画喫茶に行って読みたい漫画が読めなかったら嫌だ。かといって買うのも、ということでアニメになっているものはアニメでみてしまう。あんなに紙の漫画に埋もれて貸し借りも当たり前だったのに。どちらにしても時間はどんどん過ぎていく。

そういえば先日三宅唱監督・脚本映画『旅と日々』をみた。『ケイコ 目を澄ませて』も『夜明けのすべて』も良かったけど今回のが一番好きかも。つげ義春の原作もすごく好きだけどそこから明るさを取り出したような作品だった。シム・ウンギョンと堤真一の不器用さがかわいくて面白くてとてもとても素敵だった。『ケイコ』も書いているシーンから始まった気がするけど、『旅と日々』の冒頭の書くシーンがめちゃくちゃ良かった。ものすごくたくさん文字を書いていた思春期の、ノートにシャーペンを置いて書き始めるときの言葉にならない感触を思い出して最初からひきこまれた。河合優実は舞台や映画で見ると健康さが際立つというか、つげ義春の漫画の暗さがしっくりくるかと思いきやそうでもなかったのが意外で面白かった。岩松了の舞台とも絶対合うだろうと思っていたが、あれもそうでもなくてそれも面白かった。漏れ出すエネルギーがどうしても健康的な印象。河合優実とカップル(でもないのか)役だった髙田万作は逆につげ義春の原作より暗くて薄い感じでしっくりきた。生きている人間ってどうしても生き生きしてしまうところがあるから、って当たり前だけど、だから漫画読みたい、というのはある。

それにしても昨日遅買ったのに朝早きしすぎた。起きてしまうから起きただけだけど今が眠い。今日はやること進むかなあ。いいお天気だからお散歩しながらがんばりましょう。

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俳句 精神分析

空がきれい。まだ凍空って感じでもない。今日は結社誌と小さなオンライン句会の投句締切。私がはじめた小さな句会なのだけどいつのまにか人が増えていろんな句が集まる。結社誌より気楽に出せるから面白い句も多い。毎朝、空を見て、つくおきして、と俳句になりそうなものはたくさんあるが切り取り方が難しい。でもとりあえず締切までにはださねば。

昨日、土居健郎の本を読んでいて一冊目は眠くなるばかりだったけど二冊目は吹き出してしまうところもあって楽しく読めた。土居健郎は再読になるけど何も覚えていないものだね、相変わらず。しかし、この書き方ははっきりしてて対話調で楽しい。

朝ドラばけばけを見ながらおトキちゃんは人の尊厳がどう維持されるかをよくわかっているんだなと思う。昨日の最後の場面、すごく良かったな。色々書きたいけど時間がない。細々とやることいっぱい。あー、明るい空。良い1日を。

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精神分析

時間の無駄?

朝焼け。乾燥がひどくていろんなところがピキピキ切れ始めたけど空はいつもゆったり。ノンカフェインの紅茶が熱くて口の中を火傷してしまった。身体を気遣っているのかいないのか自分でもよくわからない。昨日の夕方、肩が急に上がらなくなった。ぎっくり肩!と思ったけどそんな言葉があるのか知らない。この年齢の肩には荷物が重すぎたか。前日からいつもとリュックの持ち方変えたりしていたのも前兆だったかも。そのときはなんとなくやっていただけだけど。かなり痛いけど動かなくなる前に動かし続けている。これは多分動かし続けた方がいいやつ、な気がする。

いろんな仕事にお勤めの人の話を聞いているし、聞いてきたが、それぞれの会社や機関や部署で時間の流れが全然違う。学校もそうだね。チームやグループで何かをする場合、話し合いが当然必要になるから本当に様々な困りごとが出てくる。それは不満だったり怒りだったり身体症状だったりで現れることが多いけど、一度巻き込まれてしまうとなかなか抜け出せないことが多いから辛い。

自分がやりやすい人と自分がやりたいようにやりたいなら話し合いなんてしないでそう言えばいいのにね、のけものっぽい扱いしたり、まるで見えていない、聞こえていないかのように扱ったり、結局、自分と「合わない」人の話なんて聞く気なんてないんだから時間の無駄でしょう、と思えればいいが、すごく我慢することが当たり前になっている人も多く、まず相手より自分を責めてしまう。だって責められるようなこと言われたりされたりするから。他にやり方いくらでもありませんか、と思ったところで、相手にとってはそれ以外ないし、いろんなことはその人にとって必要な「形式」あるいは「手続き」なので、協力する気がないじゃん、時間の無駄では、と感じる方が去り際、距離の取り方を見極める必要がある。全体を去るのではなくて、その部分的な関わりから逃れるスキルが必要。残ったり続けたりすることになんらかのメリットを感じる場合は優先順位が必要になるけど、長い目で見てもそれが本当にメリットかどうか、心を健やかに保つという観点から見たらどうか、とか色々考えた方がいいし相談した方がいい。

誰かが欲しいものは自分も欲しいものだと勘違いしてしまう関係性も多いけど、私の臨床経験上「そうなりたいんですか」「そうしたいのですか」「それが欲しいのですか」と訊いて「そうです」と確信を持って言える人はあまりいない。むしろ逆に「なりたくありません」「いや別に」「いや全然」と即答する人が多い。困ってるのだから当たり前だが。それでも求める。

人間は不思議で面白い。いつもどこか一部を他人に乗っ取られている状態なんだと思う、もちろん私も。精神分析はそれを実感させてくれるので正しさも信頼も常に揺らぐし、不安からは全然逃れられないし、それこそ時間の無駄と思う人もいるかもしれない。でもそれも長い時間をかけての気づきで、そういう揺らぎの時間こそ大事だったと知るのは随分立ってから。最初は結構変化に対してポジティブな場合も多い。最初は分析に対する期待も理想化もあるし、いつもと異なる設定で何かをすると自分の潜在的な可能性に少し気付けるからいいのだと思う。

同時に、それは同一化によって自分を保つ方法かもしれない。精神分析の設定や解釈はインパクトが強いからそのインパクトに耐えるには分析家の機能を取り入れてしまうのが手軽。それはすぐに自分の無意識と齟齬を起こすだろうけど。結局、身体も、心も自分にとって健やかであることが一番大事。健やかとはなにか、ということも考えないとだけど。難しいけど無理せずいきたいですね。いいことありますように(そういえば酉の市行けばよかった!)。

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散歩 精神分析

余裕

珍しくのっぺりした曇り空。鳥たちは元気そう。東京のどこもかしこも紅葉してきていつもの道も鮮やか。大きな柿の木は小さな柿をたくさん実らせてたくさんの鳥の声が聞こえてくるし(姿は飛び立つときしか見えない)、薔薇が一本だけ柵を飛び越えて咲いているのも素敵。もうちょっと寒いのだけど歩いていればすぐ温まる季節だからできるだけ歩いてる。目的なく歩いていたら行きたかったチーズケーキ屋さんが入っているビルが三角定規の形だと気づいて驚いた。秋は空を見上げることが多いからいつもと違う景色に気づく。朝早くてまたもや買うことはできなかったけど。と、私は呑気に散歩できる東京にいるけど秋田とか岩手とかクマが生活圏に出ているところは今までみたいに景色を楽しんだりできないのかも。本当に学校とかも心配ですよね。コロナがようやく落ち着いたかと思ったら別の脅威が、と何も気にせず何も考えず過ごせる時間がどんどん奪われていったら人間関係にもじわじわ影響が出てくるに決まってる。みんなにとってどうにもならないことだってわかっていても誰のせいでもないと思うことは私たちには難しい。自分を責めたり他人のせいにしたりどこかに常に原因を求める。ただただ状況を追いながら自分の状態を丁寧に観察することの重要性なんてまず実際的な余裕をくれという話になって贅沢品みたいな扱いになる。自分の心は物質的な何かとは関係なく働く可能性をたくさん秘めていていつでもどこでも触れていいはずのものだけど実際はそうはいかない。わたしたちは自分で自分を自分が他人をがんじがらめにすることでどんどん世界を狭くする。そうやって自分の心を守っている。動かせば動かすほど広げれば広げるほど辛いことが増えることもまた確かだから。本当に難しい。でも希望を、常に希望を、そして信頼を。いろいろ怖くて色々不安で、そういう毎日にほっこりする瞬間や口元が綻ぶ一瞬を。良い1日になりますように。

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テレビ 精神分析 音楽

細やかさ。

東の空がきれい。まだうちの南側の大きな窓に光は届いていないけれど。今日は1日晴れるのかな。晴れたらいいね、とあえて言いたくなるのはドリカムが流れていたからかも。

高校のときの文化祭のテーマソング(?)がドリカムと米米クラブだった。壮大さが新しかった気がする、どちらも。今はスピード感のある曲が多い。普通に踊れる子供も多くなったし、というか、恥ずかしさを感じる領域が変わったというのもあるのかも。SNSは監視社会の手段みたいになっているけど推しを生き生きと語る場所でもある。さらけだしたり晒されたり地獄にも天国にも近い。

朝ドラ「ばけばけ」、言葉をなくすシーンが多すぎてとても辛いがとても面白い。「生きてるー」っていう感じがどんな感じかそれぞれの登場人物がいろんな形で見せてくれる。高石あかりは本当になんでもできる。ひとつひとつの表情が見逃せない。それぞれの心の動きが細やかに伝わるように描かれているから見ている方も揺さぶられるわけで、他人のケースを聞くときもこういう細やかさが必要よね、と思う。これまで大きな場所でも小さな場所でもたくさんのケースを聞いてもらってきたけど、私は比較的、場に恵まれてきたと思う。なんでここでその質問に、その話題に時間を費やさねばならないだろう、と思うことはあってもある程度は自分の返答で場を戻すこともできるし、失敗しながら場慣れする機会をたくさん与えてきてもらったし、自分から求めてもきた。臨床は自分のやっていること以上に他人の臨床から学ぶことが多い、というより、精神分析なら精神分析ってなんなんだ、という懐疑をもちつつ、それがやっていることを確かめているようなところがあるので、自分の言葉で内側に入っていく練習がたくさん必要。外からなら、後からなら、色々言える、けど私は自分の体験と結びついていないことはあまり言いたくないし言える気もしない。

来年も6月の協会の学術大会で発表したいことはあるけど、かなり難しいテーマだな、と思って症例をどう使うかを考え始めるとまとまらない。消費するようなことはしたくないから。事例検討会以外では症例は素材として使用させていただくわけだから全てにおいて加工はするとはいえやっぱり昨今の他人にばかり厳しいあれこれを含めた受け取られ方を考えるにこちらもあれこれ考えざるを得ない。人はそんなに正しくない、というか少なくとも自分の正しさなんてめちゃめちゃ偏っているものではないか、だから目の前の人と一緒にそこを逃れる作業をしているのではないか、なんからの自由のために、と私は思うので注力すべき場所を間違いたくないなと思う。細やかに関われる範囲を少しずつ増やすべく今日もがんばりましょう。

光がいっぱいになってきた。晴れたらいいね。晴れみたいだよ。

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哲学 精神分析 読書

生ーのー形式、とか。

空がグレー。昨日はお昼に急に雨が強くなった。「やむかなあ」と窓の外を見ながら出先で用事を済ませて、ちょうど出る頃には止んだので嬉しくて少し遠回りしてオフィスに戻った。

さて、急な右傾化について相談してもらったことでこれまでに色々読んできたものと今の関心事が繋がった部分がある。「急」はおそらく「急」でないが、パンデミックみたいな事態も起こりうるから、いや、これも私たちにとってはじめての事態だっただけで、ある側面からみたら反復なのかもしれないし、何かがプツッときれるときが「急」を作り出すのだろう。『私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック』はパンデミック以前のコロナ下でいち早く反応したしたジョルジョ・アガンペンの発言集(でいいのかな)。物議を醸したこの本を噂にのることなく読むには導き手が必要で、私はそれを岡田温司の『増補 アガンペン読解』(平凡社ライブラリー)に求めた。岡田がまとめているように

「所有」に代わる「使用」のパラダイム、「貧しさ」のもつ存在論的な意義、「宗教」としての資本主義への批判、生命間の線引きやヒエラルキー化への抵抗、風景の脱我有化

などを長年主張しつづけてきた老齢の哲学者がパンデミック下で素早く声を上げる必要があったのはなぜか。何かがプツッときれる危機を感じたからではないか。アガンペンの「生ーのー形式」は「非自体的」「非人称的」な思考の共同の形式であり、分割機能を働かなくさせる無為の戦略と結びついており、従属する生ではないという、などと書いているとキリがないのだが、この「無為」についての岡田の本で一章割かれているのでもう一度きちんと読んでみる。潜勢力の存在としての人間、その「遊戯」というのは、精神分析治療において私たちが持っている必要のある観点だと思った次第。

最近、朝のんびりしすぎて結局慌てる。世知辛い。暖かくして過ごしましょう。

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仕事 精神分析 読書

水族館、回帰

今日は晴れではなかったのか。空が薄暗い。昨日は雨ではあったけど傘をさすほどではない時間もたくさんあった。雨は必要だけど傘を持ったりなくしたりするから少し嫌。

週末は小さな水族館に行った。しゃがんで水槽をみていたら「こっちいるよ」とつたないかわいい声が聞こえて振り向くと小さな女の子がしっかり私の目をみて話しかけている。お父さんも何もみていないかのようにそばにいた。一生懸命話しかけてくれるので「いるね、いろんなお魚いるね」というと「いろんなおさかな」と今度は私は言葉の真似をした。言葉を覚えはじめる時期の子供とのやりとりは本当に楽しい。新しいなにかを教えて、といわんばかりに限られた言葉と指さしと目力で私を惹きつける。

最近、身近な人が急に右傾化したという相談を受けることが増えた。これはどの援助職にも同じ変化らしく、福祉の方から何かいい書籍はないかと相談を受けた。個人の右傾化は突然に見えるかもしれないが一般的にはもうかなり前から言われていたことだと思う。なのに私はそれらがまとまった書籍を数冊しか思い浮かべられない。大体記事で読んでいるし、右傾化そのものを書名にしたもの以外はどれもこれも関係している気がするし、でもそれが相談に対してどのくらい役立つかは自分で咀嚼してみるしかない。

最近だと中島岳志『縄文 革命とナショナリズム』 (太田出版)が紹介しやすいかなと思ったけどこれも右傾化そのものを話題にはしていない。終章で論じられる参政党など右派政党が志向する「縄文ナショナリズム」がどう生まれたかという話題は共有しやすいかもしれない。戦後日本の精神史を縄文時代が担ったであろうプリミティブなスピチュリアリズムとナショナリズムに見出す本、という紹介ではわかりにくいだろうなあ。どういえばいいのあろう。試し読みとかあるかな。探してみよう。

水族館で出会ったあの子はどんな社会を生きていくことになるのかな。プリミティブなものに回帰するのであればあの好奇心に回帰したい。

晴れてきた。今週もがんばりましょう。

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俳句 精神分析

関わり色々。

瞬間を捉えた句か。NHK俳句を見ていた。岸本先生、スラッと長い。今日は朝の順番が色々違う。日曜日だから。初回面接の事例検討グループはあるけど。

古賀先生が紹介してくれたJ.ミルトンの方法もそうだけど精神分析でもクライン派という学派の人たちはアクセスすべきものが明確。アセスメントだけでなくて、技法として、ここに注意を向けてアクセスしていけばトラウマでも精神病でも発達障害でも良い方向への変化は起きる、ということを多くの症例を通して知見を積み重ね続けているから読み物としてはクライン派の方は説得力があってわかりやすい。心の中のぐちゃぐちゃや大混乱を抱える治療者の心の機能をコンテインするというけど、コンテイナーがきちんと整理された引き出しみたいな感じがする。刺激の処理が早いイメージ。心が何かと出会う瞬間の蠢きやざわめきを表す用語や仮説をいっぱい持っているからこそ。

一方、学校の先生や保育士さんにコンサルテーションするときはそういう瞬間よりは生活の中に行動や状態として現れているものを個別の言葉で記述しなおすところから。大抵は似たような価値観に基づく同じような語彙でまとめられてしまっているから。そういうときは心の動きの細かいことは言葉にせず、その心がどういう環境の中で生活しているか、その心を荒らしたり悲しませたり安心させたりする環境はどういうものかに注意を向けて、実際に起きているパターンを共有しつつ、関わる側が行動しやすい形を提示していくことをしている。いろんな人がたくさん目の前にいる状況で何か一つの方向を提示して、かつそれを一旦は受け入れてもらわなければいけないのが教育だから、集団を大雑把に把握することから始めないとだし、本当に大変だと思う。精神分析も組織を把握する視点は持っているけど、学校に関わるときは学校を取り巻く状況や仕組みを先に把握した方がいいと個人的な経験では思う。保育園だって公立でも民間の会社が運営しているところでも独自の反復しやすい問題があって、そこで働く人たちはそれがいつのまにか当たり前になって、おかしいと思う人は自分が変な感じになっていって、それをどうにかするには染まるか辞めるかみたいになる、みたいなことはよく起きていて、この数日間、数週間をどう耐えるか、みたいなところに注力する場合も、今あなたはこういう環境の中にいるらしい、ということを示しながら、そこでの反復と困りごとを結びつけて、子供側に原因を押し付けない視点を提示しながら担当職員や管理職に働きかけたりするわけだけど管理職も「上の人」とのあれこれで相当大変なことになっていたしする。そうなってくるともう政治の世界なので、やっぱり政治家選び大事だよな、とかなるけど、とりあえず現場は常に緊急の問題があるので、どうしても耐えることをどうがんばるか、みたいな方向の話になりがちかな。辛い。私が若い頃は学校の風土に関する研究とかが一時流行った気がするけどあれはSC導入の初期だったからかな。うーん。

眠くなってきたけど行かねば。東京は雨。どこいっても咳する人が増えている感じがする。学級閉鎖も起きているし。暖かくして過ごしましょう。

笹本晃 ラボラトリー
@東京都現代美術館
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お菓子 精神分析 読書

お菓子、鳥、「精神分析を導入する」

今日の空は少し雲が多い。予報では晴れ間もあるみたいだけど。昨晩の月もきれいだった。月ってあっというまに欠けていく。それをみてふと来年のカレンダーのことも考えた。霜田あゆ美さんのカレンダーが来年も出るといいのだけど。

今朝は群馬のぐんまちゃんのコーヒーと新潟の駅ビルで買った安田牛乳のレーズンチョコサンド。あと近所のスーパーの柿をいただいた。レーズンチョコサンドは見ると買ってしまう。今は大抵個包装のがあっていろんなお菓子を試すことができてとてもいいのだけどこれは3個入りしかなかったから身近なところで分けて食べた。お土産はまた別の美味しそうなものがたくさんあったからそっちを色々。みんな選ぶものが違うから面白いなと思う。

あ、オナガが鳴いている。この前、細い道をオナガの声がすごいな、と思いながら歩いていたら目の前にたくさん飛び交っていてびっくり。小さな森のおうちみたいな庭の木にたくさん。写真を撮ったけど鳥って本当に撮るのが難しい。動きが早いし、撮っても木に埋もれちゃって見えない。電線に止まっているのはシルエットみたいになら取れるけど天気と時間によるなあ。新宿中央公園の高い木々を飛び回るのはよくみているけどあんなにそばであんなにたくさんみたのはじめてできれいではあったけど怖くもあった。

そうだ、学会で学んだことを紹介しようと思ったのだった。精神分析学会の臨床ケースセミナーという枠で、私たちのグループは「精神分析を実践する」という題でIPA基準の精神分析実践を素材に話しあった。講師は日本精神分析協会の訓練分析家でもある古賀靖彦先生。「精神分析を導入する」ということで、S.フロイト、N.コルタート、J.ミルトンのアセスメント技法を紹介してくださった。ミルトンは古賀先生がイギリスで訓練をしていたときのアセスメントのスーパーヴァイザーだったそうだ。その方法は「現代精神分析基礎講座 第5巻 治療論と疾病論」(2001,金剛出版)の「第1講アセスメント」に詳細に書いてあるのでぜひチェックしてみてほしい。具体的で興味深い。セミナーで古賀先生が複数の方法を提示してくれたように、アセスメントの方法に正解があるわけではなく「アセッサーの性格や嗜好、精神分析の準拠枠(学派)、置かれている臨床状況(文脈)など」によってそれらは異なる。これは私がオフィスでやっている初回面接を検討するグループでも毎回話されている。いろんな現場のいろんな事例を聞くことはだから大切なのだ。学会のときは、私がカウンセリング→精神分析的心理療法(週1回)→精神分析的心理療法(週2回)→精神分析(週4回、カウチ使用、自由連想)と移行した事例を素材に話し合った。「導入」については「実践」の前提としての講義で、実践全体はやはりアセスメントに基づいていることも確認でき、大変勉強になった。私の初回面接グループにも役立てていこう。

自分の記憶がおかしいときとか感情が揺さぶられるときに私の海馬が、とか私の扁桃体が、とか脳の働きを感じようとすることがある。脳の方から考えると自分は入れ物でしかない感じが強まるのでこの入れ物としての身体をどうしましょうと思ったりする。筋トレメンテナンスしかしていないけどしているだけいいか、と感じるのが私の脳でもある。村田沙耶香の「となりの脳世界」というエッセイは村田沙耶香の体験だけで面白すぎるのだけど、私の仕事もいろんな人の脳世界にちょこっとお邪魔するものだからそうやって協力してお互いにいろんな自分への経路を作れたらいいな。

良い一日になりますように。

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お菓子 精神分析 精神分析、本

大福、脱錯覚、「甘え」

朝焼けがきれいだった。今日はすっきり晴れるのかも。あんまり寒くないし。昨晩はとてもきれいに月が見えた。立待月。月は名前がついてなくてもいつもきれいだけどね。

昨日は下曽我駅前の松栄堂さんのお土産があってすごく遅い時間だったのにいただいてしまった。今日中って言われたし。開運勝餅大福と五郎力餅。三郎って読んでいたら五郎だった。包装の折り目のせいだけじゃなくて「五」の下の線が太くて上にかかってたから。ここのお菓子、甘すぎなくて本当に美味しかった。私も昔行ったことがあるらしいのだけど曽我梅林に行ったことは覚えているのだけどなあ。ハイキングに行くと大抵その町の和菓子屋さんがあるので1つ2つ買ってその場でいただいたりする。お茶を出してくれるところも多い。どこからきたの、とかいわれながら登ってきた山の話やその町の話をする。梅まつりがあれば屋台で買ってしまうだろうし記憶がないけどまたここのいただきたい。大福も美味しかった。開運しますように。

イスラエルのヒズボラ空爆、ガザに対してもそうだけど合意ってなんだろう、合意に違反っていえば攻撃が正当化される世界ってなんだろう。NY市長選でトランプとの対立姿勢が明確な民主党左派マムダニ市長が誕生したが、すごいエリートなのね。インド系移民であるとかムスリムであるとかを押し出すのではない方法で、つまり多様性を打ち出すのではない方法で格差拡大に対する政策を打ち出したのが勝因とも聞く。物価の高さはNYに住んでいる知人から聞いて驚いていたけどどうなるのか。私はアメリカンドリームが信じられていた時代の子供だと思うけどそんなもの本当にあったのか。なんでも時間をかけて現状となるとはいえ、アメリカがその脱錯覚に耐えるつもりがあればトランプ大統領を選ばないだろうし(現在の支持率が低いとはいえ)、働け働けでもなく取り締まり強化でもなく庶民が「普通に」暮らすために「普通の」ことをする(お金の流れを止めないとか)のってなんて難しいのだろう。ガザのことを考えているのに常にアメリカが背後にいるのが当たり前って思考を私がしているのもどうなんだよ、と思うが、

昨日は土居健郎の「甘え」概念に立ち返ってみた。相互退行の文脈で。たとえば、子どもが親に甘えるだけでなく、親が子どもに甘えるという一方向ではない依存、相互依存において投影しあう状況は自我境界を曖昧にする方向性で、それを退行と考え、記述すること。これもナルシシズムの文脈だけど。安易にナルシシズムを肯定するのではなく、しかし欲動の次元において作動する心的構造を探求しつづけること。脱錯覚できる心はどう成立するのか、しないのかとか考えるときにかなり射程の広い「甘え」概念はどう使えるのかな、とか。臨床的には「甘え」は瞬間的な一致の現れだと思うけど、とか。日本の精神分析家としては土居健郎を知っている世代の分析家が生きている間に対話できたらいいのだけど学べば学ぶほど大変な概念だと思う。

いいお天気。どうぞ良い1日を。

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散歩 精神分析

新潟県弥彦村、エルリッヒ論文、村田沙耶香

東京。暗い。今朝は寒くない?暖房はつけるけど。夏の間、冷蔵庫に入れておいたフィナンシェを熱いお茶といただこう。柿もある。あっという間に秋になり、明日11月7日(金)は立冬。なんでも冷蔵庫に入れていた季節がようやく終わったのになんて慌ただしい。週末、新潟で時間があるなかで紅葉を楽しめたのはよかった。新潟駅も朱鷺メッセ周辺も赤に黄色に美しかったが、弥彦公園もみじ谷が素晴らしかった。まだ一分とか案内されていたが十分!十分きれいだった!弥彦山に登る予定の人と一緒に行ったのだけどあいにくの雨で一緒に弥彦神社やもみじ谷を散策。紅葉山もいろんな色に色づいていたから晴れていたらさぞ鮮やかだったでしょう。弥彦駅に着いたときは大雨でお店の軒下で雨宿りしたり、小さなお菓子屋さん分水堂菓子舗でパンダ焼き(人気!)を食べたり、そのお向かいのおもてなし広場で足湯で温まっているうちに小雨になり出発。彌彦神社までの道歩きも楽しい。弥彦神社では菊まつり開催中。いろんな菊があるねえ、と菊まつりに出会うといつも思う。大きな神社で鹿園もあって、良いニワトリたちもいっぱいいた!こんな豪華な並びは珍しいのではないか、と思った。彌彦神社を出てまた散歩しながら弥彦公園もみじ谷へ。とてもきれい。夜はライトアップもするとのこと。山の方へ伸びる道を見つけて行ってみたら湯神社に続く鳥居が続いていた。こんなところに異世界への入り口が、という雰囲気。細い道をどんどん行ってみたが10分くらい歩いても先が見えず、ふたたび登りにさしかかった。そのあと、弥彦ブリューイングに行ってから帰りたかったから霰も降ってきたので引き返した。あとから地図を見るともう少しで到着だったらしい。湯神社って面白い名前、と思ったけど弥彦温泉発祥の地なんだって。弥彦ブリューイングも無事にやっていてお店の人たちといろんなお話をして楽しかった。これはこれで色々書きたいがまたどこかで。帰り道は小雨だったけど寒かったー。これからこういう季節が来るのだなあ、と怯えた。寒いの本当に辛い。でも新潟はいいところだったな。東京から遠くないし。新潟市なら精神分析で開業してもやっていけるかもしれない、というか私は日本全国を巡りながらそこで精神分析で食べていけるかということは必ず考える。「最初はここのクリニックで雇っていただけないかな」とか奄美大島でも思った。奄美大島はね、住んでいる人やコロナ禍で移住してきた方とお話をした限り、コミュニティの繋がりの効果がすごそう。そこに精神分析的理解を活かすことはもちろんできるだろうけどね。

テレビをつけた。今日の東京は気温より寒いらしい。昨晩、月を楽しみにオフィスを出たら何も見えなかった。今日は見えるかな。

昨日、Erlich, S. (2025) Is psychoanalysis relevant to the Israeli–Palestinian conflict?. International Journal of Psychoanalysis 106:165-173をめぐる、エルリッヒとマイケル・パーソンズのやりとりについてちょっと書いた。

エルリッヒ先生は1937年生まれの88歳。ドイツ生まれのユダヤ人で幼いときに「水晶の夜」も体験し、ドイツを出てイスラエルで育ったという。この論文の中にもKristallnacht、1948 Arab–Israeli War、Yom Kippur War、Palestinian rocket attacks on Israelの体験について触れている。つまり当事者として、かつ精神分析家として書いている。今回のやりとりによって、エルリッヒが強調したいところが明確になったのはよかった。以前この論文を読んだときには気づかなかったことや外的現実をどう捉えるかという昔からある議論の再考を促された。イスラエルという国の歴史を学んではいるけど、立場が違えば書き方も変わる。私はどう書いたらいいか全くわからないのでとりあえず身近なところで話すことからしてるけど。

IPAの精神分析家になってよかったと思うのは精神分析を世界中の他の国と共有するものとしてリアルに考えらるからで分断とか特権とか権力とかいう言葉をたやすく使いたくない状況に身を置けるから、精神分析の限界についてずっと意識的でいられるから、かもしれない。

昨日、村田沙耶香『世界99』が第78回野間文芸賞を受賞したとのこと。そりゃそうでしょう!とこの文芸賞についてよく知らないけど思った。あれはすごかった。朝ドラ「ばけばけ」も人間のぞくっとさせるところを描いているが、村田沙耶香が書く人間は酷すぎて、でも知っている世界すぎてもうなんと形容していいかわからない。うわあ、うわあ、ということの連続をなんでもないような筆致で書く村田沙耶香が恐ろしくて大好き。おめでとうございます。

なんだか寒くなってきた。厚着しよう。どうぞ良い1日を。

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仕事 精神分析 精神分析、本

デイサービス見学、エルリッヒ➖パーソンズ論文

気持ちいい空気。今日も厚着してるけど寒さは週末ほどではない。新潟は寒かった。

昨日は学生の頃にはじめた障害児との仕事からの広がりで知り合った人たちと会ってきた。最初はとてもこじんまりと始まった地域密着型デイサービスの利用者さんが増え、私が伺った時間も小さなお部屋の大きな机は満席。様々な介護度の方が看護師さんに盛り上げられながらかわいいどんぐりの葉っぱを折り紙で作っていらした。よく言われていることではあるが何か作業をしているということ自体が本当に大事と実感するとのこと。そうだろうなあ。自分の老いだって視野に入ってきた今、昔こういうところに伺ったときとは違うものを感じた。それにしてもこの大変な仕事を生活の糧にしていくのは本当に大変で、行政の枠組みでやらねばならないこと、必要だからやってあげたいこと(現場にとってはこちらこそやらねばならないことだが)など優先順位って本当にそれでいいのかということもあるし、何をやるにも人が必要で、そのためにはその人たちの生活を守る人件費が必要だがお金のことが何よりも難しい。そして居場所だけではない(ひいてはすべて居場所のためだが)関わりのためには知識も実践も必要だが若い力が育って盛り上げてくれるような未来がみえている領域ともいいがたい。なくてはならない仕事なのに。昨日は幼稚園教諭で作業療法士の友人も一緒で、みんな若い頃からの知り合いなのでそれぞれの近況報告をしつついろんな話をした。難しいことだらけだが面白い話としてもそれを語ることもできるのはお互いを知っている気楽さゆえ。当時、まだ生まれていなかった子たちの今の年齢にまず驚く、というのを毎回やっている気がするが、その分私たちも老いた、ということも当然セット。昨日伺った場所は土曜日は「こどもの居場所」と「みんなの食堂」という地域の子供たちが気軽にやってこられる事業もやっている。子供から老人まで当たり前のように一緒にいられるようになるにはそういう経験が必要だと思う。私たちはどれも自分が通る道なのになぜか分けてしか考えられないときもある。私たちは重度の障害児と関わってきたのでとても具体的なこととして彼らのことも話すが、そういえばそういう場は少ないような気がする。専門家としてではなく生活に当たり前にいる人たちのことを考える時間と場所。専門家として働いて生活を維持しているわけだから有意義に連動させていきたいな。具体的に話せば話すほど個別の事情が複雑に絡み合っていることがわかるのでなんともいえないとみんなで頭を抱えることのほうが多いがそういうことが必要だと思う。それにしてもみなさんパワフルだった。「もうこれで最後かな」というのをきいて「ここまでこれだけのことをやってこられたのにまだやりたいことがおありなのですね!」と驚くことも会うたびにやっている。ほんとすごい。人生の先輩方をみれば私もまだまだ残りの年数を気にせず色々やれるかもという気もするがフロイトの精読しているうちに人生終わりそう、と思うこともしばしばなので私の時間というものを考えていかねばならない。予測通りにいかないという前提ありきだしどこで終わっても道半ばだろうけど。

昨晩はおすすめの論文ででてきたParsons, M. (2025) Israel–Palestine and the Internal World. International Journal of Psychoanalysis 106:854-855を読んだ。

これはErlich, S. (2025) Is psychoanalysis relevant to the Israeli–Palestinian conflict?. International Journal of Psychoanalysis 106:165-173に異論を唱えるマイケル・パーソンズの論文。

あー、エルリッヒ先生のこの論文、私も読んだよー、なんともいえない、本当に難しい気持ちになったよね、と思いながら読んだが、これはこれでどうなんだ、その精神分析的理解はエルリッヒ先生と十分共有できているところなのでは、と思い、うーんとなっていたら、エルリッヒがパーソンズに応答したものも同じ巻に載っていた。

Erlich, S. (2025) Response to Parsons: Correspondence Concerning the Psychoanalytic Controversies Section on the Israel–Palestine Conflict (Issue 1, 2025). International Journal of Psychoanalysis 106:856-857

うむ。パーソンズの受け取り方の失敗であることもわかるが、こういう対話って本当に難しく、論点が拡散してしまいがちだからエルリッヒの最初の論文に立ち戻りつつ考えることが誠実であると思う。イスラエル出身の精神分析家として、イスラエルの歴史を生きてきた当事者として語ることの痛みを抱えつつ、依頼に応えて書いてくれたものだし。これを最初に読んだとき、言葉を失うような感覚と精神分析のなせること、なしてきたことへの複雑な思いが押し寄せてきた。エルリッヒ先生についてはシガニー賞のウェブサイトを載せておこう。前のページはTAKEO DOIだね。

今日も色々な話をしながら過ごすのだな。みんなはどんな一日。がんばろう。

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散歩 精神分析

新潟で、学会で

朝焼けがきれい。連休は新潟を満喫した。信濃川沿いをたくさん歩き、大きな橋をいくつか往復し、たくさん写真を撮った。いつもと違うことを感じたり考えたりしたかというとそうでもないし、新潟の方言もそんなに違いを感じなかったし、群馬出身で新潟はスキーとかで身近なせいか、親しみやすい街だった。植物園や弥彦山の方にも行った。激しい雨に降られた時間もあったが、ずっと雨予報だったわりに傘が必要ない時間も多かったし陽射しを楽しめる時間もあった。幸運でした。

精神分析学会は私はあまりコミットしていないが教える側として若い方の話は聞く。でも学問としての精神分析に自分が何を期待しているかと、学会に何を期待しているかは全く別物だと思うので、それぞれがじっくり自分の仕事や生活を考える機会があればいいと思う。私は学問としても実践としても精神分析を実際に使用する立場としてそういう時間と空間を守っていきたいと思う。

今回、私は人は人をそんなに簡単に信頼しないというか、素朴に信頼という言葉を使うことはできないんだ、という話もしたが、同じ病理を持っていてもあまりに違うひとりひとりとの関係を辿るときに素朴な信念は同じような物語を導きやすいように思うので細やかな使用を心がけたいと思う。

今日は若い頃から自閉症児の親の会とのつながりでご一緒してきた人生の大ベテランの方に会いにいく。地域に根ざした事業を着実に展開されてきたエネルギーはものすごいものがある。久しぶりだりだなあ。限られた時間だけど色々お話をうかがってこよう。

今日は火曜日。連休後は曜日の確認が必要。一日だけ短い1週間がんばりましょう。

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散歩 精神分析

歩いた。

夜明けまでまだ時間がある。いつもよりずっと早く眠りについたので何回目覚めても夜明けが遠い。おなかがすいた。

昨日は3万歩も歩いてた。学会初日は土地勘がないから行きはバスを使ったけど帰りは歩いてみたら意外と近かった。なので昨日は朝イチの司会担当だったけどのんびり歩いていった。信濃川が日本海に流れ出るあたり、佐渡汽船ターミナルのほうまで川に浮かぶ船を新鮮な気持ちで眺めながら歩いた。まだ少しだけ時間があったので朱鷺メッセ31階の展望台に向かったらエレベーターが全然来ない。私が先頭だったので私ボタン押したよね、と心配になってもう一度押してみたりしたがライトもついてるし大丈夫、でもこない、後ろにのびてきた列にドギマギしていながら待っていたらようやく来た。360度みられる仕様ではなかったが朝は雨ではなかったので思ったより遠くまでみえた。海はいいね。ひろーい、と思いながらもさっきのエレベーターがくる遅さを心配してすぐに戻った。ちょうどのぼってきた人たちがいてすぐにのれた。で、会場に駆け込み発表者の方とご挨拶して無事にお役目を終えた。いろんな人の意見をきくのは面白い。

それからはずっと歩いていたわけだが、ちょっと道を変えたり、向かう方角が逆になったり、同じ方角でも反対側の道路を歩いたりするだけで景色が変わる。本当に変わる。朝昼夜でも全然変わる。お天気が変わるだけでもびっくりするくらい変わる。画家が何枚も何枚も同じ場所を描く理由がわかる気がする、とかいってそんな理由ではないかもしれないが、画家の目にはわたしが感じるよりずっと微細な違いがみえているわけだからすごく違う景色がみえるのだろうねえ。それを絵にしてくれたのを私たちはみているから美術館とかは楽しいのだね。それにしてもアパホテルはどこいっても本当にいい場所に建ってるなと思う。ランドマークにしやすい。

新潟のいいところをたくさん知れたのでいろいろ書きたいけどいいか。今日もお仕事終えたら歩こう。雨っぽいけど。

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俳句 散歩 精神分析

新潟の朝

新潟の朝、だが空はまだ夜中。昨日、ホテルの窓からみえた無機質なビルは暗闇に溶けてしまったみたいで形がみえない。たいていはひとつふたつ電気がついている部屋があるし非常口とかなんらかの明かりはあるからここまで真っ暗は珍しい。雨は降っているのだろうか。昨日は予報と反して晴れ間もでたがひどく降ったりもした。

第71回日本精神分析学会にきている。昨日、朝早い新感線で東京をでた。昨日の東京は朝から暖かくて薄手のダウンを羽織って出てしまって失敗したか、と思ったが新潟駅に着いたら寒くて、一度向かったバス停から慌てて建物に退散。ストールまでまいてしまいました。バスがでる時間に戻るとさっきは2、3人しかいなかったバス停に長蛇の列。がーん、と思ったが乗れた。登山に行くときに登山口に向かうバスに長蛇の列ができることが多いのがバスって結構な数の人を乗せてくれるんだなあ、と思っていたので今回も乗りはぐれることはないだろうと、そばの人が乗れるかどうか何度も心配しているのを聞きながら吞気に構えていたら乗れた。ありがたい。しかし厚着をしてしまったのはここでは失敗。途中、混雑した車内で「あつい・・・」とつぶやく声が聞こえて心の中で強くうなずいた。人は知らない相手にもこうして応答しているものですね。SNSなんてまるで長い付き合いかのような応答が多いけど、日常のみえない応答癖が可視化された世界なのかもしれないですね。わからないけれど。

今回は依頼された仕事のみで当日にバタバタ準備するようなこともなく、と思ったけどなんでもパスワード、なんでもカード時代に適応できていないことが可視化され(可視化って言葉を使いたくなっている)、進行形で困っているけどどうにかはなるので困り感は少ない。がっかり感は強い。

とはいえ、次の締切まで少し余裕がある(はず)ので移動時間は仕事もせず景色と音楽を満喫した。車窓から移り変わる天気と山や田んぼを眺めつつ、オアシスのLIve’25 Tour Official Setlistを聴き、お隣の方が長岡で降りてからはノリノリだった。時間も空間も余裕があるって本当に大事。ハンドクリームとか化粧水に時間をかけてはいいことをしている気分になった。自分を意識していたわるのは病気のときだけに必要なわけじゃない。いたわり方を知らないといざというときにできないのだから大事。

先日、第71回角川俳句賞を受賞した句友の千野千佳さんの受賞作「愛嬌」50句が載っている『角川俳句』を買うついでに紀伊国屋書店に長居して至福だった。千佳さんは新潟県出身だからせっかくだから千佳さんの故郷で買うぞ、と思っていたのだった。

匙いれてドリア浅しや漱石忌

アイロンをンと押しつける年の暮れ

とか取り合わせにも千佳さんの豊かな生活と俳句大好きな感じがみえる。生活をほんのり明るくほんわか面白く切り取る千佳ぢから。

団扇の子はうばうに風送りけり

虫売にこどもたやすく近づきぬ

これらも誰もが知っているはずの生命力を改めて描写する包容力を感じる。私は結構千佳さんの句で泣いてしまうことがあるのだけど、力の抜けた言葉ってこんなにたくさんあるんだ、ってなんだか励まされる。精神分析は言葉が仕事道具だけどこういう普遍的な言葉を使うにはあまりにも意味に囚われている世界だと感じる。フロイトはそこから言葉をつまみだすことをやってくれたはずなんだけど、それがいかに困難な試みであるかも示した。だからいろんなことが必要なんだと。人間社会は難しい。その人にとって支えとなるような言葉を一緒に生み出しておおらかに生活していきたい。

紀伊国屋では普段いかないような棚とか新潟が特集されているコーナーも二度見して戻ったりした。新潟はやっぱりお酒。酒造巡りもしてみたい。そういえば来年の手帳があるな、と思ってみていたら新潟県人の手帳みたいなのがあって面白かった。同じ建物にLoftが入っていたのでそこものんびり巡った。すごく久しぶり。そこにも手帳がたくさんあった。長年、手帳を使ってきて全然使いこなせていないことがわかったので、 あまり考えずに適度な値段の気に入ったのを買ってそれに私が合わせていこうと思ったのが昨年。今年もそういう感じで買ってみたけどホテルに戻って改めてみたら文字が薄い?私の目のせい?と思ったけどやっぱり薄いと思う。薄いほうがかえってよくみようとするから見間違えない、とか私の場合はあるかもしれないが、大事なところを際立たせるのに蛍光ペンとかいらない感じはする。インクがなくなって文字が薄くなったとかならちょっと面白い(問題ではあるが)と一瞬思ったけどこんな均一に薄くすることはできないからこれがおしゃれだったりするということかもしれない。なんでも拡大しないといけなくなった私も逆方向の刺激を入れていく必要があるのだろう、きっと、とさっきまた開いてみたが今日もやっぱり薄かった。あれは夢だったのではないか、という期待も少しあった。

そんなこんなで荷物を増やしていたら肩と腰がきつくなってきたのでホテルに荷物を置きにいこう、とカラスの群れみたいなのを見上げながら歩いていたら突然すごい雨が降ってきてびっくり。さっきまで太陽もちらほらでていたのに。あと5分待ってくれればよかったのに一瞬でかなり濡れた。すごく大きな雷も鳴って、ビニール傘も一回ひっくり返ったけど元通りにできた。大変だったけど一日中雨と思っていたから降らない時間に歩けたのはよかったのかな。少し眠ってからまた外にでたらまた強い雨。ホテルから一番近いお店に駆け込んだ。弱雨になったので一番近いコンビニの場所を店員さんに聞いて向かった。店員さんが説明してくれているときになにかで笑いあったのだけどなんだったか。人って本当に小さなことで顔見合わせて笑ったりしているもんだ。よきことだ。外に出たら、駅が意外と近いことに気づいたのでちょっと寒かったけど教えてもらったとは別のコンビニ(新潟は都会)を通り過ぎ駅へ向かった。おなかまわりがでるショート丈の服を着ている人たちが寒い寒いといっていた。関西の言葉のように聞こえた。駅ビルには期待通りかわいいものやおいしそうなものがあって自分用とお土産用の新潟お菓子を買った。角打ちもあってたくさんの人が新潟のお酒を楽しんでいるようだった。角打ちいいよねえ。大好き。イギリスのパブみたいなもんだね。

学会ではIPA基準の精神分析の事例を用いてその導入のところから話し合った。最初にコンパクトな講義をしてくださったのは教会のほうの会長でもある古賀先生。「アセスメントのスーパーヴァイザー」という言葉でイギリスの精神分析の訓練ではアセスメントのみのSVも枠組みとしてあるのかあ、ととてもいいなと思った。私もそういうSVを提供しているけれど、そう契約してやっているわけではないな。初回面接グループはアセスメントに特化しているから今後のグループのためにも大変勉強になる時間だった。いろんな人の意見はいろんな人の言葉でもあるのでそれぞれの言葉で私の言葉を受け取ってもらえてよかった。コミュニケーションはズレから生じるはずだから。参加者のみなさんもなにかいいものを持って帰ってくださっていたら、と願う。

今日も朝だけお仕事。新潟のおいしいお米を食べてがんばりるれろ。東京はどんな感じだろう。離れるとすぐわからなくなる。いつものみんなも元気で過ごしてほしい。良い一日を。

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精神分析 精神分析、本

十一月。

11月。空がきれい。アラームがなくても夜明け前に起きてしまう年齢になって早何年?低血圧で朝が辛くていつもぐったりしていた時代が嘘のよう。あの頃、日本の社会はどんな感じだったかしら。まだ海外にも気楽に夢を持てていた時代。さて、洗濯物を干した。生活大事。でも連休は半分仕事。世知辛い。

昨日はハロウィン。あまり外にいなかったせいか仮装した人は見なかったけど渋谷方面のバスは15時台で終わりという張り紙は見た。今年の渋谷はどうだったのかな。私は仮装ってあまりやったことない。文化祭くらいかも。あれは仮装とは言わないのか。衣装?ハロウィンで雨だから雨っぽい仮装とかなるとカエルとか河童とか雨粒とか?普通、雨に合わせないか。河童の仮装したって傘さすだろうしね。昔、ドリッピーって英語教材があったのだけどあれは「家出のドリッピー」が正式なのね。シドニー・シェルダン作。すごく豪華な声優陣だった。河童といえば遠野だけど数年前に2度目の遠野に行ったとき、自転車でいろんなところ散策したら熊が出たという町内放送(?)が流れてすごく怖かった。町の名前もわからないからどこに出たのかわからないし、出てもおかしくない場所が多いし、とりあえず急いで自転車借りた観光案内所みたいなところに大急ぎで戻った。当時は電動自転車も当たり前ではなかったからママチャリでこわいこわいいいながら。今はもっと頻繁にああいう放送が流れているのだろうか。心配だ。農水省が効果的な対策をとってくれるといいですね。本当に怖い。いろんな要因の積み重ねで長い時間かけて今の状況があることを思えばそんなにすぐに解決はしないのかもしれないけど。でも何もやらなかったら被害が広がるばかりで多分もっと手出しできなくなる。カウンセリングでも「様子を見て」という言葉があまりいい印象を与えないのは無力なまま時間が過ぎていくことは耐え難いから。でも実際様子を見ないことには、というのもある。ウィニコットが子供にとって母親の不在が外傷となるには時間的要因が関係していると書いているけど、これも単に時間だけの話ではないとは思う。

書き物の準備のために読んでいたこれらは大変面白かったのでメモ。

Botella, César & Botella, Sára. The Work of Psychic Figurability: Mental States without Representation. London & New York: Routledge with the Institute of Psychoanalysis, London/The New Library of Psychoanalysis, 2004. 心の形象化機能について。

Ogden.What Alive Means5 Giving back what the patient brings On Winnicott’s “Mirror-role of mother and family in child development”これについては何度か書いた。『遊ぶことと現実』第9章「子どもの発達における母親と家族の鏡ー役割」のcreative reading

あとAndre Green at the Squiggle Foundation (The Winnicott Studies Monograph Series)”On Thirdness”。グリーンのロンドンでの講演。イギリス対象関係論とフランス精神分析の差異の話も面白い。

お、鳥が鳴き始めた。私も早く出るか。風邪ひかないように過ごしましょう。

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精神分析

ワンピ、英語

かぼちゃ色のワンピースをまえうしろ逆に着ていた。鏡がある世界でよかった。朝から人参とピーマンをたくさん千切りして疲れた。カラフルな朝。空は白に近いグレー?雨予報か。嫌だな。ショート丈の長靴で行こうかな。

今日がリミットの投稿論文。やる気が出るのを待っていたけどやる気は出ず、でも隙間時間を使って後半まできた。でもさすがにここからだと間に合わないかも。日本語で書いたものを英語にすると自分が言いたいことが変わってしまってそれをなおすと全体がなんかおかしくなって、と慣れていないと本当に大変。でも前にお世話になっている先生に自分の日本語を自動翻訳で英語にしてみるとどんな日本語が通じるかわかると教えてもらったので、日本語で何か書くときもそれは意識している。大抵時間がなくてバーって書いてしまってるから英語にしたらひどい文章かも。悲しい。

もうこんな時間。今日はここまで。良い一日を。

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精神分析 言葉

ばたばた

薄い色の空がいつのまにか光でいっぱい。このWordpressのサイトのセキュリティの警告みたいのを対処の仕方がわからなくて放置してしまっていたのだけどchatGPTに聞きながらできた。すごい。やってみれば簡単だったのだけど説明のサイトをみても用語がわからないからそこまで遡って「それってなに」と聞けるのはいいね。私の周りは使いこなしているらしいけど私はいまいちその存在を忘れてしまう。ああ、それにしても朝から時間とられた。明日までにやらねばならないことがある、というときにこういうことを始めてしまうのが人間というもの。はあ。コーン茶で一息。

小さいとき、実家のすぐそばはトウモロコシ畑で自分の背よりずっと高いふさふさのなかを犬と一緒にくぐりぬけて遊んだ。トウモロコシが交易ルートのひろがりとともにその遺伝子を世界中に広げたのはずっと昔。やっぱりコロンブスが絡む。そしてもちろんダーウィンもトウモロコシの適応能力(?)について天才ならではの議論を展開している。近所のトウモロコシ畑がアメリカの広い大地にたくさんあると知ったのは社会の時間。地図帳か資料集みたいのか、後ろのほうにのっている穀物などの国別生産量のグラフをみるのが好きだった。親戚の子がペンで触れるとその国名の音声が国家とともに流れる本が大好きで一緒にいろんな国をポチポチした。コロンブスやダーウィンだったら熊の行動の変化をどう描写するのだろう。トレーナーさんともお互い山好きなので熊の話をよくするが、アラスカの生活を流しているYouTubeを教えてもらった。みてみたら家を建てるところからでびっくり。その土地で暮らすということは、と考えさせられた。とにかく遡ることは大事だ。トウモロコシだってアメリカで暮らすには、とトウモロコシが考えたわけではないけど、人間がトウモロコシの能力に驚かされながら積み上げてきた知見にもとづいて栽培されてきたわけだし。

人間同士の絆みたいな言葉もいいが、なんで人間がつながる必要があったかとかを視覚とか聴覚とか感覚モダリティの発生から考えるとか、精神分析やってるとそういうこと考える。特定の時間、ほぼ聴覚に刺激を集約させてそこでなにが処理されたり積み残されたり言葉になったり記憶を作ったりしているのか、それは目にはみえないけどイメージはできなくはない。知覚や記憶に関する知見の積み重ねだっていまや膨大だろう。バタバタしながらバタバタとしたことを書いているけど。どうぞ良い一日を。

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テレビ 精神分析 言葉 音楽

表情とか言葉とか。

朝の空。昨日の気温はよかった!夜は少し寒かったけど大きく息を吐いて、吐き切ったら自然に吸う、というトレーニングでやっていることを適当に使ったら駅に着く頃には暖かくなっていた。今日のお天気はどうなるのかな。光はすっきりときれいだけど。

朝ドラばけばけ、楽しい。本当にひどい時代だな、と思うのはどの時代に対してもだが、そこで生き生きと生活している人たちをみると安心する。私は笑顔が一番、みたいなことはよく笑う人に対してしか思わないけど(笑顔で!とか要求するもんでもない)、表情がくるくる変わるのは素敵なことだと思う(淡々と表情変えないのも好きだけど)。おトキちゃんが「すいません」と言ってばかりだと悲しいけど表情の豊かさを叱られて育つ子を思い浮かべると気持ちが全て顔に出ているおトキちゃんによかったね、と思ってしまう。すごく過酷ですごく辛いことはあるに違いないけど、それを表現できる方法があるって、そういうものを育てていくって大切だと思う。

なので相手が子供でも大人でも治療者が患者の言葉がどういう風に使われているかに注意を払うことはとても大事。言葉は現実をそのまま表してはくれないけど、私たちは辞書の役割を果たしているわけではないというか、そういうことは辞書のほうが確かな仕事をしてくれるので、私たちは言語が現実をどう切り取って、その認識がその人独自の体験の中でどのようになされてきたかに注意を向ける。認識って常に事後的なもの、そして言葉はその中で独自の機能を備え、語彙も意味づけされていくいく、という認識。ややこしや?特に精神分析では言葉が切断や去勢の作用をもつことを重要視するし、言葉が距離を生むんだという認識は共有していると思う。その質をどう考えるかだね。ややこしや?

♪毎日難儀なことばかり♪とハンバートハンバートが朝ドラ主題歌で歌っている。本当そう。でも今日も歩こう。生活しよう。♪落ち込まないで諦めないで♪

いいお天気になりますように。良い一日を。

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怖かったりのんきだったり。

朝焼けはまだ。東の空も暗い。早朝の家事を終えて少しぼんやりしていたら少し冷えてきた。暖房をつけた。旅に出ると早朝は散歩に出かける。西は日の出が遅いことを実感する。季節によって太陽がのぼったり沈んだりする方角が変わるから一概にはいえないけれど、佐賀に行ったときだったか、早朝まっくらななか散歩にでてしばらく歩いて宿に戻るまでずっと暗くてびっくりしたことがある。それにしてもこれだけ熊に襲われる事件が相次ぐと早朝気楽に外に出ることも難しくなるだろう。低山ハイキングも毎回びくびくしているが用心するなら行くなということになりそうで怖い。青森で温暖化怖い、となって、山に行っては林業の衰退によって放置される森林を目の当たりにし、東京にいたって本当にどうしたらいいんだ、ってなるのに熊とそばに住んでいる人たちに対してなにができるのだろう。お金のない国になりつつある日本(ということは格差が広がりつつある社会ということ)で弱っている人、困っている人たちが優先されるということは起こりうるのか。いまだかつて起きたことはあるのか、といえば部分的には起きているだろう。東京都の子育て支援は手厚い、という場合にその手厚さがなにを示すかは検討が必要なように。手厚い部分は残しつつ、それが広く長く生活に良い影響を与えていくにはどういうシステムが必要なんだろう。まずは排他的ではない政治家を選ぶところからだろうか。毎日、ニュースをみれば憂鬱になるし、かといって無邪気に知らなったともいえない。見たくないものが増える社会でも発見されるのを待っているなにかを探し出していかないとだが。うーん。

いろいろ考えるとあれ食べたどこ行った空がきれい仕事大変とかいっていることものんきすぎるのか、とか思えてくるが、そんなはずはない。自分の生活を自分なりに営むことをやめてはいけない。

今朝は札幌市のほんまさんの「寒月」というどら焼きをいただいた。友達が成城石井で買ってきてくれた。熱いままのお湯でいれてしまった新茶と一緒に。いつも誰かと会うたびにお菓子交換みたいなことをしている。そういうことやめたくない。コロナ禍みたいな制限も嫌だし、用心のしかたもわからないまま制限されるのもするのもつらい。旅行もやめない。人間界を長い目でみれば移動は必要。暴力的ではない行為で経済的にも豊かな国になるにはまず暴力的、排他的な思考をやめること、と思うが、自分のことだけ考えてもそういう気持ちが蠢かないといえば全然うそになるので理性を働かせるためにも人と会っていきたいと思う。すぐに悪意にとられる世界にまきこまれたくない。言葉じゃなくても伝わる良い部分を大事にすることかな。言葉にするからどんどん大変になっていくのかな。うーん。とりあえず今日もなんとかやろう。

先日みたM&OPlaysプロデュース、岩松了作・演出『私を探さないで』の舞台のことを書くつもりだったのにひとことも演劇に触れない文章を書いてしまった。岩松作品と河合優実は絶対相性がいいと思ってとって、誰が出演するかもよくわかっていなかったがシャープな勝地涼と気怠いキョンキョンがすごくよかった。ああ、だめなまま、足りないまま、時折、思い出したくもない昔に心揺さぶられたりしながら生きていきたい、とこういう舞台をみると思う。難解といわれる岩松作品だが、私はそこは全然気になっておらず、いわれてみれば毎回確かにそうなのだろうと思うが、なんでもかんでもわかろうとするから難しいのかもよ、と思ったりする。ビオンを難しい、わからない、と言い続けることとも似ているかもな。

どうぞ良い一日を。

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予報、グループ、逆転移

朝焼けがきれい。久しぶりに見られた。先週は晴れ予報がいつのまにか雨予報に変わりお布団干したのにという方もいたらしい。辛いよねえ。私は怖いからお布団は自分がいるときしか干さない。もちろん失敗済みだから。予報ってこれだけ毎日積み重ねられていることなのに難しいのね。昨日のお昼も関東で地震もあった。午前中の初回面接グループを終えて、みなさん送り出してすぐ。ドンってきたからびっくりした。お花をいけた細いガラスの花瓶は動じていなかったけど長く伸びた観葉植物がゆらゆらしていた。地震も予測が難しい。熊だってなんだってそう。わからないことの方がずっとずっと多いのに人の心を決めつける人が多いのはなぜかしら。これだけの数いたら単にひとりひとり違うというよりみんな変わっていく。日々違う、相手によっても体調によっても状況によっても。

昨日の初回面接グループもとても勉強になった。事例で具体的に初回面接を検討したあと、30分間、今日事例から学んだことを話し合うのだけど、今回話題になったのは中立性。初回なのになぜそれが保たれないときがあるかという話はしょっちゅうしているのだけど、今回は私がMichel Neyrautの逆転移の概念を紹介したりした。ミシェル・ネイローでいいのかな、読み方。どこかで誰かがYouTubeとかで引用しているだろうからその発音を後で確認しよう。Société psychanalytique de Paris(SPP)の会員らしい。ネイローは「逆転移が転移に先行する」として、分析家が社会的・性的・思想的あらゆる属性を超越した絶対的他者ではありえない、といった。そしてそれでもそうであるふりをしなければならない、と。前者は当たり前といえば当たり前。後者は単なる役割としてという意味ではないだろう。ネイローは『Le transfert』(1974)以来一貫して「精神分析的思考pensée psychanalytiqueそのものが抵抗である」と言っているらしい。と同時に「要求としての逆転移(contre-transfert comme demande)」ということも。応答ではないということだろう。


多分この辺について詳しく書いてあるのがNeyraut, M. (1988) Les destins du transfert: problèmes méthodologiques. Revue française de psychanalyse 52:815-828だと目星をつけているのだが。Le transfert : étude psychanalytiqueもに読みたい。 

週末、何も書き物が進まなかった。もうだめだー。仕方ない。おとりあえず良い1日にしよう。

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ジェラート、一次過程

空がしっとり。雲もない。今日はどんな雨なのかな。花壇に植えたお花や野菜が発芽しはじめた。かわいい、と呑気に眺めていないで間引きしなくては。毎日なんらかのお花の写真を撮っているけど自分で育てる過程も写真に収めながら育てよう。それにしても植物のことも調べ出すとキリがなくどんどん時間が経ってしまう。

昨日、北海道の中標津町、ジェラートシレトコのジェラートをもらった。遅い夕飯を食べたら動けなくなってしまったのでひとつ食べてしまった。エネルギーが残っていると色々やるべきことをできるけど残っていないと食べる気力しかない。美味しかった!箱に入っていた商品の紹介の紙をなんとなく眺めていたら「食べる前にほんの10分間お部屋の中に置いておいて」と書いてあって危なかったーと思った。私はこういうのはどれどれと食べながら読むことが多いので、硬いままいただくところだった。でも昨日の私に10分は長く、ヒーターのそばに置いて最速で柔らかくしてネリネリして食べた。中標津かあ。知床と根室は行ったことがあるけど中標津はないかも。通ったかもしれないけど覚えていない。酪農が盛んということでジェラート。きれいな景色なんだろうなあ。行ってみたい。美味しかった。ジェラートはアイスより罪悪感少ないけど、そのあと変な格好で寝てしまったのは失敗。疲れてるといつもしないことをしていつもと違うスペース作り出してそこで寝てしまったりする。なにやってるんだろう、と眠い頭で思ったりもしながら。すぐそこのベッドに行けばいいだけなのに。ジェラートをとりにいく気力があったのならそれくらいすればよいのにね。まあ、夢見る状態に近づくと人は変なことしてしまうものだね。一次過程に向かう状態。

Reading Freudで『心理学草案』を精読している。これはわかるとかわからないとかいうものではなく、単にヒステリーの真的過程を解明するためのものでもなく、フロイトの自己分析のプロセスで書かれたものであり、概念になる以前の原初的な言葉が生じるまでのニューロンの運動を体験してみよう、という論文だな、など話しながら読んでいる。つまりフロイトも一次過程の心に浸されつつなんとか言葉と思考でそんな自分を宙吊りにしながら書くみたいなことをしていたのではないかと。『夢解釈』だってそういう位置を取れないと書けないと思う。そしてそれはかなり病的な状態になる、ということでもあると同時に、精神分析過程ではどうしようもなく生じてしまうので、設定がそれを助長すると同時に、設定がそれを抱えていくということをする。フロイトの自己分析には限界はあれど、こういうのを読むとひとりでふたりの役割を十分にやっている気がする。そしてそれはそのまま精神分析家の役割ってただ他者として存在することではないわけで、とか色々照らし返されるものがある。フロイトがヒステリー患者から受けた衝撃をその心的過程をなんとか形にするという使命に変えたのは、自分の一次過程に十分に浸されたからなのだと思う。そこをを生き延びるにはこういう困難な知的作業を同時にする必要があったのではないか。昨晩は、第三部、正常なニューロンの過程について書かれたところをみんなで読んだが、不快、注意、表象、指標、欲望、思考など私たちでも知っている概念を言葉の意味を固定化する以前の動かせる状態で読んでいかないと私たちが知っている範囲(めっちゃ狭い)でしかこれらを捉えられなくなる。それだとフロイトを読むことはできないので、かなり夢見に近い状態で読んでいかないとかもね、など話した。面白かった。その前の事例検討も非常に面白かった。いろんな実践から学びつつ古典も読んでいく。今日もそんな1日になる。疲れ知らずなら余力で書き物もできるだろうけどどうなることやら。昨晩の自分の状態を思い返すに無理そうな気がするがなんとかしましょう。

鳥たちが鳴きながら素早く通り過ぎていった。雨、あまり降りませんように。

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精神分析 言葉

話す、離す、引き伸ばす

今日も空が薄い。また雨かな。今降っていないみたいだけど。昨日はこれから晴れてくるのかなと明るくなりつつある空を見ながら用事を済ませて出てきたときには雨が降っていた。iphoneで天気予報を確認したら予報から晴れマークが消えて雨マークになっていた。銀行に振り込みに先に行けばよかった、と思ったが、東京は歩いて銀行に行けるからいいよなあ、と思ったり、でも実家にいるときはどんな近くても車だったな。

根室で震度5弱。寒い地域の夜中の地震。続いて起きることがありませんように。自然災害に対してはこう祈るしかないが、人に対しては祈るしかないような事態はできるだけ起きない方がいい。熊のことだってそう。政治なんてもっとそうなはず。でも一番論理的であることが難しいのも一番祈りが届かないのも私たち人間なのかもしれない。論破とかいったところで物言わせなくしてるだけでしょう。それは論理的であることとは違うと思う。

人が人を裁く、ということについてももっと考えていかないと危ないと思う。絶対に声を上げなくてはいけないことはたしかにある。その場合、できるだけ声を上げる人を孤立させてはいけないわけだけど、絶対に声を上げなくてはいけないことほど言葉にしにくいことだったりするから難しい。その人がその人の言葉で語れるようにまずできることは時間と場所の確保だろうとは思うけど。SNSでまるでそれがすべて正しいかのような情報がたくさん流れてくるが、それは個別に向けたものではないのでどんな著名人がいったことだとしても自分のことだと思ってはいけない。そういう情報を心の栄養にできている場合はいいが、心に圧力がかかっているときは情報を情報として自分から引き離すことが難しくなっていることが多いからインプットでどうにかしようとするとかえって混乱することもある。カウンセリングで患者さんたちはいろんな本や検索したことの話をしてくれるけど、自分がなんでその本を手に取ったか、どうしてそれを検索したか、とかの話にその人のニーズが現れているように思うので、守られた場所でそれについてはなされることの意義は計り知れない。その場合も理由が大事なわけではなくてあれこれ話すこと自体で自分の中の「そうしたい自分」みたいなのを離れたところから見てみるとちょっと違う景色が見えるかもね、くらいだけど。欲望のお話。「話す」は「離す」であると北山修はじめ、心に関わる人はよくいうが、そのためには実際の時間と場所を準備することも大事だし、まずは遅延という時間を取り戻すことが大事だと思う。誰かに責任を問うということは自分が誰かを裁く権利とどう関わるかということでもあるので、とにかく時間の効果に意識的でありたい。誤りだろうが断片だろうがものすごいスピードで発信され、拡散される時代に正義などなさそうなものだが、自分は間違っていない、という信念のもとそういうことは平然となされ、それを受ける側がどうなろうと当然の報いくらいに思われたりする恐ろしい時代。できるだけ時間を引き延ばし、ゆっくり話される言葉を私は大事にしたい。衝動性の背景にもそれは流れていると思える場合に。

先日、マイナンバーカードの更新が必要で手続きして取りに行ったけど同じ書類内で「個人番号カード」と「マイナンバーカード」の両方が自由に使われているのだけど、これわかりにくい人いないのかな。同じでしょ、同じだよね?と思ってしまった。早くも生活の当たり前みたいになったマイナンバーカードだけど私は全然慣れていない。手続きも私より明らかに高齢と思われる方が担当してくれたけど流れ作業というか、言われるがままにやってれば交付はされるのだけどこんなに考えないで進められる作業で個人情報が管理されているんんだな、と思い、途中、自分のほうのスピードを落としてみた。結果はマイナンバーの交付がされるというだけで何も変わらないのだけど、担当の方もきちんと名乗ってはじめてくれたわけだし、私は私の個人情報を大事にしたいのでお願いしますという気持ちをこめた、というのは後付けだが、このスピードは良くない気がする、というときは自分の方を緩めるというのは悪くないと思う。時間引き伸ばし作戦。相手をイライラさせたり次の人を待たせたりというのもあると思うけど、ロサンゼルスのスーパーでは後ろに列ができてもレジの人はおしゃべりをしていたし(それがいいと思っているわけではなく)、実家のほうの郵便局では顔見れば今日何しにきたかをわかってもらえたし(わかってもらうことが大事なわけではなく)、遅延させることで思考のスペースを取り戻すって感じか。

こんなことを書いていないで書くべきものを書かなくてはいけない。こちらは締切までに書けそうにないが遅延したら次の機会は一年後。出せなかったら出せなかったで仕方ないけどあと6日。粘れるかなあ。今週末は休みがないからまとまった時間も取れないがまとまった時間があると遊びに行きたくなってしまうから活かすこともできない。とりあえずそれぞれがんばりましょう。雨、少し降ってる、東京。このくらいで強くなりませんように。

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お菓子 テレビ

地震、政治、焼きまんじゅう

双葉町と浪江町で震度3。朝のバタバタで気づかなかった。2011年、東日本大震災で被災地へいかなかったら福島の町はこんな身近ではなかった。余震が続くなかの被災地訪問だったが、被災したみなさんの揺れに対する反応にとても切なくなった。うまく眠れないという悩みを抱えて受診する人が多いようにリラックスすることはただでさえ難しい。震災は震度が一番大きかった時間で終わるわけではなくむしろそこから始まる。それはその後のものすごい長い時間に影響してくる。能登のように地震で生き残り、大雨で亡くなった人もいる。亡くなられた方はもちろん、さっきまでいた人を目の前から、腕の中から失う体験は、これからの時間だけでなく、今ここの時間、それぞれが生きてきた時間にも遡って影響を与える。影響の中身は様々に違いないが、地震がトリガーとなって前景化する記憶はそれがなかったら出会わなかったものかもしれない。トラウマやPTSDという言葉を使う以前にそれぞれの体験を現場からのものとして忘れずにいたい。被災地の地名を見るたび、聞くたびに私に駆け巡る景色も言葉をなくすものだった。一緒に支援に入れてくださったみなさんの健康も祈る。

今朝の東京も寒い。カーテンを開けなくても薄いグレーの空とわかる。一応開けて確認したけどやっぱり思ったとおりの空色だった。

高市内閣に対する若い世代の支持率が高いそうだが、身近な若者たちの様子からもそれは感じる。わかりやすく自分とは関係ないと思わせてくれるからかもしれない。震災もそうだが、私たちの多くは当事者になる以前に当事者意識を持つことはしない。どうにかしてくれる「感じ」というのにお任せして、何かやってくれる「イメージ」で自分の不安を防衛する。それが一般的だろう。だから曖昧な「感じ」や「イメージ」が本来何であるかを探る行為(勉強)が必要だし、政治は自分たちを代表しているだけで、自分が気に入らないものや人を排除してくれる機関ではない。人は自分の理解を思い込みと思いたくないし、何か大きなものがそれに賛同してくれる「気がする」という感触を得られればなおさらそれを変えようとしない。すぐには変わらない困難に対しては時間をすすめるのを早めることは逆効果だが、大胆に何かを打ち出すやり方の方が魅力的に見えるということもあるのだろう。異なる他者と生きざるを得ない人間の知恵は、他者との間においても自分だけの時間を確保できる心から生じると思うが、「自分だけ」が他者の排除と結びついていたらそれはかえって囚われている状態で自分をなくしている状態だろう。ナルシシズムがあたかも自分の思い通りの世界を構築しているようでその内実が空虚であるように。

今朝なh、群馬の名物焼きまんじゅうの味をマフィンとして焼き上げたMOO-FACTORYの「焼きまんじゅうマフィン」。

”マフィン生地には群馬県中之条町の「こうじや徳茂醸造鋪」より仕入れた、麹から作った甘酒を仕込むこだわり。味付けには前橋市朝日町の焼きまんじゅう老舗「たなかや」の秘伝の味噌ダレが使われています。 ”

とのこと。ウェブサイトはこちら。焼きまんじゅうといえば「たなかや」というイメージはたしかにあるが「たなかやよりこっち」という店をおすすめしてくる前橋市民もいてローカルフードならではのこだわりを感じられて面白い。ほかほかを味噌だれの香りで味わうとても素朴な焼きまんじゅうだが、こうやって形を変えて受け継がれていく強さをもっていたんだな。郷土の力。

それにしても寒い。やらねばならないことばかりなのに本当にどうしたものか。とりあえず取り組もう。良い一日でありますように。

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精神分析

「想起」、相手あってこそ

夜明け前の空の青。静か。

精神分析における言葉と時間の関係を考えるにはベルクソンが必須だと思って平井靖史さんの本を中心に色々勉強しているわけだが、精神分析だけでも相当の勉強が必要なので時間が全く足りない。引用できるほど理解できるとは思っていないのであくまで精神分析が展開してきた時間概念を精緻化、あるいは展開するために読む。平井さんの本は難解ではあるが、本当に丁寧に書かれているので何度も読んでいるとだいぶわかった気がしてくる。

たとえば、フロイトの「想起」について考えるときに、平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(青土社)を読んでいると、ベルクソンの『物質と記憶』を引用して書かれている部分に興味を惹かれたりする。なかでも考えさせられた部分を脚注だけど引用すると

「通常は、「夢見る」こと自体が、生を司る欲求や意志の緩みに起因するわけだが、想起の場合は、逆説的なことに「夢見ることを欲求する(vouloir rêver)」(MM87[115])ことが必要だとされる」

とか。なんとなくわかった気分になるでしょう。こんなふうにわかった気は直感を得るためであればわりと大事だけど間違った理解は学問のためによくないのでフロイトやウィニコットの引用はできるけど、ベルクソンの引用には怖気付く。なんにしてもその直感を使うなら精神分析理論の方をかなり正確に理解しておく必要があるな、と思いながら取り組んできた。私はもともと実践志向だが、理論なき実践はないと。はいえ、私の頭では実践なしで理論の理解はできなかった。フロイトの著書に早くから出会ってはいたが、どちらかというそれまで慣れ親しんできた文学的な興味で読んでいたし、いざ、こういう実践の中に身を置くとすごく特殊なことをものすごいスピードで思考しながら書いていたんだなと思う。その思いつきの様子が大体書簡にも書かれているのも面白い。相手あってこそ。

相手あってこそ、という気付き、誰にも頼らずひとりでやってきたつもりが全然そうではなかった、という気づきは大事だが、誰にも頼れない環境がある子供がいるのもまた事実で、というか、本当に事実なんだよ、ということを知ってほしいと思うことがよくある。頼りたくても、というより、頼らなくては生きていけない中をぎりぎりで生き残ってきた子供たちがいる。それでも生きられたのだからいいじゃん、と軽々しい言葉を投げかけられながら生きてきた子もいる。もちろん養育者を守る福祉制度(親への支援、保育士の待遇、研修)の不足など社会施策の問題もあるし、子供単体でも母子ユニットでも父母子の三角形でもそれだけで生きられるはずもない。なのに、という現実を考え込んでしまうことは多い。多分、普通に困っている人が優先される政治はこれからもずっと遠い。「普通」が変わっていくから。すでに変わっているから。とにかく無事で、と願うより、安心して送り出し当たり前のようにまた会える毎日がいい。どうぞ良い一日を。

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精神分析 読書 音楽

ピアノ、音、冬

第19回ショパン国際ピアノコンクールで桑原志織さんが4位に入賞した。素晴らしい演奏だった。コンクール直後のインタビューも知的で落ち着いていてとても素敵だった。ピアノが弾けるだけでもすごいのにズゴイひとの音は全然違う、と言っていた子がいた。本当にそう思う。小さい頃からいいものに触れられたらいいね。

一方、プロの音楽家を目指している子と一緒にその子がコンクールで賞をとったときの演奏を見返していたとき、途中でその子がにわかに落ち着かなくなり「このあと!うわっ、聞かないで!はずかしい!」とか言いだした。私にはどの音がその子にとっての失敗だったのか全くわからなかった。プロになる子はやっぱりすごいのじゃな、と思った。

桑原さんはコンクールを通過点としつつやれることはすべてやれたとおっしゃっていたがこの子みたいな瞬間もあったのだろう。プロの耳の細やかさを私は一生体験できないけど耳と同じくらい繊細な指との協応から奏でられるその演奏に心振るわすことはできる。魔法だな。音楽って素敵だ。YouTubeで無料で聴けるなんてさらに。良き時代かも、そこは。

今日は雨。雨の音はみんな子供の頃から聞き分けてきたと思う。雨自体の音ではないだろうけど。風、屋根、土、アスファルト、傘、いろんな素材を介して聞こえてくる雨。詩人や俳人も音楽家と同じように良き耳を持つ人たちだと思う。

「氷点下になると、川の流れは白い氷の下に閉じ込められる。凍る瞬間も揺れ動いたため、川面の模様や同心円状に広がった波紋が透けて見えるところもある。表面は厚い氷に覆われていても、川底では変わらず水が流れ、魚が泳いでいるはずだ。どれだけ硬いのか確かめたくて、私は足元の石ころを拾い、氷の上に投げてみる。石は鈍い音をさせて跳ね、そばに落ちる。歩いてもよさそうなのに、なかなか足を踏み出せない。」

ハン・ジョンウォン『詩と散策』 시와 산책(橋本智保訳)の「寒い季節の始まりを信じてみよう」の一節だ。まだ冬ではないが冬を感じると読みたくなるエッセイ。たくさんの詩人の詩が引用されている。

こうやって能動的に音を発生させて拾うことも私たちはよくやっていると思う。最初は自分の動きに呼応して偶然聞こえてきた音を拾う。次は意識して立ててみたのを拾う。そして「ならこれは?」と少し力を弱めたり強めたり位置を変えたり。一つの音との出会いが次を広げていく。自由連想みたい。精神分析の言葉もこうやって聞かれていく。単に内容ではない。

昨日は寒くてすでに平均以上の厚着をしているのに置きっぱなしの上着をさらにかぶっていた。カーディガンにもなる膝掛けみたいなやつ。きれいに四角に畳めるのにきちんと洋服にもなるのすごい。寒くてなにもしたくない病がすでに始まっているが、ひたひたと近づいてくる冬の支度を楽しくできるように工夫できたらいいな。とりあえず今日を温かく過ごしましょう。