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精神分析

花、繋がり

おはようございます。桜は葉桜に、足元にはチューリップ、散歩道には躑躅、見上げれば八重桜と次々と花が咲いていくのが楽しい毎日です。

さて、医師、サイコロジスト、ソーシャルワーカー、保健師、看護師、作業療法士のみなさま、6月7日、8日は東京の市ヶ谷で日本精神分析協会の学術大会が行われます。お誘いあわせの上、ぜひお越しください。

日本精神分析協会は、国際精神分析学会(IPA)に認定された精神分析家とその候補生、そして日本精神分析協会が独自に認定する精神分析的精神療法家とその研修生の集まりです。

この学術大会は昨年2024年度から協会の会員ではない臨床家の方にもご参加いただけるようになりました。

フロイトに始まる精神分析の実践やそこから生じた様々な論点は外部との交流によって育てられてきたものです。ぜひ多くの方に対話に参加していただけたら幸いです。

申し込みフォームはこちら。4月15日締め切りです。https://www.jpas.jp/convention_apply.html

詳細は日本精神分析協会のウェブサイトをご参照ください。

この広報も、いつも勉強会や就職情報などを交換しあっている友人たちにはLINEでご協力をお願いした。メーリングリストで繋がっているグループにはそれで、知らない人たちにも届けばいいなと思って使ったのはXとオフィスのFacebook。個人のFacebookは看護師や理学療法士など他職種の友人もいるからそこから拡散してくれた。精神分析を全く知らない人たちも広報に協力してくれる。こういうのは信頼関係だからお互いのやっていることを細かく知っていることは特に重要でないし、広報の成果はつながりに対する感謝の集積だからすぐには出ない。でも「精神分析、久しぶり!」と申し込んでくれたのは嬉しかったし、「そんなのあるんだ、行こうかな」とかいう言葉も嬉しい。学術大会には来られないけどランチしよう、など約束をした人たちもいる。こういうのは再会のいい機会、いつも。精神分析家になるまでに支えてきてくれたみんなをみんなのつながりごと大事にしたい。昨年度後半もいくつかの求人でこうしたいろんなネットワークにお世話になった。協力体制にあると新しい繋がりもできてそれを喜んでもらえたりしたのもほっこりした。忙しいのに申し訳ないな、と思いながらお願いしてるけどポジティブな言葉かけに助けられる。いつも本当にありがとう。

ポジティブといえば『ブリジット・ジョーンズの日記』シリーズの最新作が明後日公開!最初の作品は2001年。あれも繋がりの話。主要キャストが変わらないのも素敵。昨年、コリン・ファース熱が再燃したけどこのシリーズはコリン・ファースだからというよりマークがコリン・ファースであることが素敵。楽しみだ。

今日も良い1日になりますように。

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精神分析 読書

三木那由他さんの本とか。

日の出がすっかり早くなった。5時くらいに暗さが抜けて青くなって白くなってオレンジがかって眩しい白になる。空は面白いな。

昨日『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』 メリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー=編 に少し触れた。若者に向けたメッセージのような本でもあるので教室の本棚や図書館などにおいてほしいし、周りの人とも共有したい。

言葉の治療である精神分析における言語の使用は私が最も興味を持って勉強しているところ。なので私は第12章「言語──コミュニケーションでの集中攻撃(パワープレイ)」 エリザベス・キャンプ/三木那由他訳を特に面白く読んだ。言葉の使用について色々と知っておくことでコミュニケーションをメタで考えられるのでセッションで生じたことを振り返るときにも必要。この章の訳者の三木那由他さんの本もとてもいい。私にとってとても新鮮だった。全部持っていると思う。『女の子のための西洋哲学入門』について書いたついでになんとなく『話し手の意味の心理性と公共性』(勁草書房)をパラパラした。この本は「共同性基盤意味論」という見方をとてもわかりやすい文章で教えてくれる。日常言語やコミュニケーションの聞き方、話し方の可能性を広げてくれる。この本で印象的だったのは「べき」論になりそうなところを丁寧に回避しているところ。書いていることと書き方が一致している文章はスムーズに読める。こういうのを読むと研究者ってすごいなあ、と思う。今は本当に易しい本が増えて勉強がとても楽になった。ありがたいな。

今日もいいことありますように。

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精神分析 読書

筋トレ、「女の子のため」

起きたときは東の窓がオレンジの光でいっぱいだったのにもう白っぽい光になってる。世界はいろんな時間帯にあって、コロナで当たり前になったオンラインの色々では「おはよう、こんにちは、こんばんは」を全部言ってから始まるようになった。大体英語で。「こんにちは、あるいはこんばんは」はSPY×FAMILY。スパイは朝は活動しない、というわけではないか。今日は暑くなるみたい。重すぎない重ね着にしよう。

腰が痛い。いけない。筋トレで無理があったのかな。負荷も増やしていないし、いつものサーキットしかしてないと思うけど。でもかなりハードなことをしているから様子みて気をつけて過ごしましょう。バスケやバドやっていた頃にこういうきちんとした筋トレを積み重ねたかった。動きと効果がわかっていないところでひたすらきつい筋トレやフットワークをやっていたけどあれは成長期の身体にはあまり良くなかったと思う。小さい頃からサッカーがものすごくうまくて有名だった男の子の身体の成長を気にしていた友達は何人かいたから中学生なりに気にししていた人はいたということだな。今の子たちは情報は豊富だけど情報では身体は動かないという現実に出会いつつ自分の身体に合った姿勢や動きを身につける機会を得られたらいいと思う。

6月、日本精神分析協会(精神分析学会とは別の専門家集団です)の学術大会の申込締切まであと1週間。医師、心理士(師)、ソーシャルワーカー、保健師、看護師、作業療法士等、臨床上の守秘義務をお持ちのみなさま、4月15日までお申し込みいただけます。ぜひ詳細をご覧ください。

☆ご案内  https://jpas.jp/convention.html

☆お申し込みフォーム https://www.jpas.jp/convention_apply.html

私はパネルで「二元論を超えて」という大きいテーマを掲げてしまったけど、精神分析ってそもそも二元論を越えようとしてthe thirdみたいな対象を作り続けてきた学問だと思う。でもセクシュアリティの話になると性器一元論というか、男性の言葉中心だった。それは多くの学問がそうで、哲学の分野だとメリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー編『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』を読むとそういうこれまでとは別の思考へ導くヒントが満載。哲学の様々な領域の女性哲学者の論考が、日本の女性哲学者の言葉で訳されている。翻訳は、三木那由他+西條玲奈=監訳 青田麻未/安倍里美/飯塚理恵/鬼頭葉子/木下頌子/権瞳/酒井麻依子/清水晶子/筒井晴香/村上祐子/山森真衣子/横田祐美子。こういうチャレンジはとても大事だと思う。この本、分厚いけどひとつひとつの項目は30ページずつくらいだから読みやすいし、「女の子のための」という言葉についても丁寧に説明されているのでぜひ読んでほしい。もちろん男性にも。精神分析も世界中で女性分析家が増えているからこれまでの男性の言葉とは別の言葉で精神分析状況における患者を描写していく必要があるのだろう、ということでパネルを立てたがかなり難しい。書かねば。看護師の世界は女性の言葉と言っていいかもしれない。看護師の皆さんにもたくさん参加していただきたいな。私たちは精神分析実践で理論に貢献していくつもりだけど、臨床実践として精神分析を営む予定のない人にも思考の手立てとしてまだまだ活用できると思うのでぜひ。

今日もがんばろう。

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写真 散歩

偶然とか。

空が薄い色。昨日は一昨日成功した防寒対策と同じにしたら暑すぎて荷物は増えるわ体温調整うまくいかないわで疲れてしまった。暑さというのはなんともしがたいね。昔は暑い方がなんともなくいられたのに。そんなこんなで何もしたくないところにからあげ屋さんに並ぶ人を見かけなんこつを買ってみた。少し時間がかかるというからさらに荷物を増やしてどうすると思いながら後でとりにくることにして近くのスーパーへ。持ちきれなくなってきた荷物を整理しようとベンチにどさどさと荷物をおいたらレタスが袋からコロンコロン。あらあら。こうもなりますよね、と拾いあげた。で、からあげ屋さんに戻った。袋には「こつ」と書かれていた。なんこつは「こつ」なのか。ももやむねはそのままでいいんだろうねえ。手羽もそのままだよね、きっと。そういえばレタスコロコロで思い出したどうでもいいことなんだけど、この前、都庁の前でロケやってたのですよ。通りがかったら紙袋からオレンジが転げ落ちるシーンをやっていた。東京でオレンジそんな紙袋につめこまないだろうけど人と人をつなぐ偶然を作り出すにはこういう場面がないとなのだな、と思ってちょっとみてたらやっぱりオレンジコロコロしてた。そこにきちんと人が駆け寄る。なるほど。定番。と思った。オレンジってきれいに目立つからああいう場面にピッタリと思った。レタスじゃねえ。

そういえば、この前、はじめてのカフェに行ったら漫画とかCDとかが並んでる棚に「のと鉄道」という写真集があってしばらくみていた。そうしたらお店の人が「差し上げますよ」と。びっくり。その写真家さんとお知り合いだからまた持ってきてもらえるから、と。今度能登に行くんです、おお、そこに載ってる運転手さんも知り合い、あ、そうなのですね、などお話した。きれいな写真がたくさん。嬉しいな。こんなこともあるのですね。感謝。能登のみなさんが元気でありますように。

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お菓子 イベント 精神分析

クレソンまんじゅう、協会学術大会広報

窓を開けた。鳥たちの声が楽しそう。昨日は新宿中央公園もお花見の人でいっぱいだった。陽射しがあるとポカポカだったけど意外と寒くて夜は結局ダウンを着ていた。油断大敵。今日は今のところ窓を開けっぱなしでも心地よい。今は陽射しがあるけど曇予報。気温下がらないでほしいな。

今朝は山梨県道志村の「道の駅どうし」のお土産「クレソンまんじゅう」。おー。クレソンが名産なのか。最近食べていないな。パク。クレソンの味はあまり感じないけどちょうどいい甘さでパクパクいってしまいそうなお味。熱いお茶とよく合う。包み紙に「クレソンの学名はナスタチューム・オフェチナーリスといい」と書いてある。そうなのか。薬効があるのか。確かに独特の香りは何かに効きそう。

さて日本精神分析協会 第43回 学術大会のお知らせをいろいろなところにしている。参加条件

医師、サイコロジスト、ソーシャルワーカー、保健師、看護師、作業療法士など、臨床上の守秘義務を持つ専門家であること。

なのだけど私はサイコロジストにしか広報できていない。4月15日締め切りだからいろんな専門職のみなさんに届けばいいのだけど・・・。昔は他職種の人たちと一緒に働いていたからつながりがあったけど今はひとりだからなあ。届けばいいな。

広報をしているとインクルーシブキャンプのためにたくさんのボランティアさんを募集した日々が懐かしい。私はNPOの理事で広報担当だったのでメールもお手紙もたくさん書いた。まだこんなSNS時代ではなかった。少しずつ輪が広がり、いつも参加してくれるボランティアさんも増え、地域の子ども会や自閉症児親の会などと連携し、毎年100人規模のキャンプを実施できた。最初はこじんまりだった。学生が多かったので自分が抜けても友達や後輩を紹介してくれたり、というのが助けになったのかもしれない。精神分析協会の外部へ向けたこうした活動はまだ2年目。変なしがらみとか思い込みとかでこういう運動的なことを苦手とする人もいるが全く知られていない学問と治療であるということを思えば広報は必須。私は今回広報の担当ではないけど、学術大会に限らずこのマイナーな団体を知っていただくことは、精神分析を生活基盤とする私には普通に必要なのでがんばって広報している。自分のウェブサイトだって参考にしてくれる人がそこそこいる程度には充実させている。最近サボっているからこちらもがんばらねば・・・。ウェブサイトのあれこれは候補生のときに書いたものだから、精神分析家として実践を伴う言葉を発信で書き直していけたらいいな。

精神分析という名がつく団体がたくさんある中で「精神分析ってまだあるんですか」と言われもする(私は言われた)古典的な設定と技法で実践を行う分析家を中心とした機関が私たちの日本精神分析協会。精神分析学会ともほかの団体とも異なる。まずは知っていただくことから始めないと。というわけでぜひ6月の大会にはいろんな方に参加していただき対話をしていただけたら嬉しい。

医師、サイコロジスト、ソーシャルワーカー、保健師、看護師、作業療法士等のみなさま、4月15日が締め切りです。どうぞよろしくお願いいたします。

日本精神分析協会 第43回 学術大会

大会案内 https://www.jpas.jp/convention.html

申し込みフォーム https://www.jpas.jp/convention_apply.html

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AI 散歩

新宿中央公園の整備

いいお天気。カーテンを開けた。窓も開けた。風も優しい。でも開け放つにはまだ寒い。閉めた。熱い紅茶を飲んでいる。暑くなってきた。

私のオフィスは新宿中央公園のそばなのでしょっちゅう通り抜けたり佇んだり散歩したりしにいっている。昨年から大掛かりな工事が始まり見慣れた景色がどんどん仮囲いに囲まれ、いつのまにか姿を消していった。新宿区にとって大事な木だったはずの「銀世界」という梅も今年のつぼみもたくさん撮ったこぶしもあっという間になくなった。2025年2月21日更新の「公園だより」には普通に

”園内では銀世界のように白い花を咲かせる

「銀世界」が沢山の花を咲かせています。”

と書いてあった。これを書いている人はそのすぐ後にこの木が根こそぎなくなることを知っていたのだろうか。今はすでに何もない。

AIにこんなときの気持ちを聞いてみた。
まず「それはとても切ない出来事ですね。」と共感してくれた。そして以下の気持ちを例に挙げた。

  • 喪失感:毎年親しんでいた風景が突然失われたことによる、深い虚しさや寂しさ。
  • 裏切られたような気持ち:園内の花便りが満開の写真を載せていたにもかかわらず、実際にはその後すぐに伐採されたことによる、情報とのギャップへの戸惑い。
  • 置いてけぼりにされた感覚:愛着をもっていた場所が、何の前触れもなく変えられてしまい、自分の気持ちがそこに顧みられていないような感覚。
  • 無力感:大切に思っていたものがあっけなく消えてしまったことへのどうしようもなさ。

本当にAIは賢い、というか、データがこういうということは多くの人はこう思うわけで、と言えるのも今だけなのかしれない。あの木々や花々があっさり茶色い土にならされたように一年後に同じことをAIに話したら「それはよくある出来事ですね」で終わるのかもしれない。「だからどうした」まではいわないか?いうか?全く腹立つ。誰に腹を立てたらいいのか。工事の発注をした人が悪いわけでもないし、こんな計画、ひとりで決めるわけでもないし、オリンピックのための整備のときもやったことだしもう慣れてしまったのかもしれないし、結構多くの人にとってはすでに「だからどうした」なのかもしれない。公園の工事は来年まで続く。来年の今頃はきっと何事もなかったかのように、今潰されそうになっているチューリップではないチューリップが咲き乱れたり、私が撮影していた薔薇ではない薔薇の芽が育ったりしているのだろう。代わりはいくらでもいる、みたいな。感謝とかないのかな。絶対的な神はいなくても小さな何かが宿っているものと思わないのかな。私のショックとモヤモヤは続く。毎日見ていた景色があっさりなくなった時の衝撃は強かった。自分がいつもと別の道を歩いているのか(一本道なのでそんなはずはないのに)と何度か近辺を往復したりした。あそこは、あそこは、と別の場所も歩いてみた。私が18歳の頃に通っていた公園の姿は何年も前になくなっていた。当時、会えば言葉を交わしたホームレスの人たちもいなくなった。ベンチが増えたにもかかわらず。排除は段階的に進むものであり、そのプロセスを直接目にしていない人には何のインパクトももたらさない、というか知ろうとしなければそれが起きたことも知ることはできない、ということも知った。新宿中央公園はデモの出発地として申請すれば使える場所でもあるが、公園整備反対のデモは起きなかったと思う。悲しい。今までありがとうと草木に対して思う。それぞれのものや場所や人に歴史があることを忘れないようにしようと思う。

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お菓子 精神分析、本

月、桜、ドゥルーズ、フロイト

やっと晴れた。この週末はどこもお花見で賑わいそう。私は今朝は諏訪大社のお土産、かりんケーキ。びっくりするほどポロポロ。どうしてだ?諏訪大社は一昨年のGWに行った。諏訪湖の夕陽がとてもきれいだった。

昨晩の帰り道、大きな三日月を見つけた。春の三日月は高度が高くてよく見えるという。それであんな感じだったのか?

花冷え、桜雨など言いながら寒さを凌ぐ数日間だった。季語は豊富なので足りなくなることはないが寒かった。真冬と同じ対策をしながらいうのもなんだが、底冷えしないのはやはり春だよねえ、など話した。私が通っていた小学校の校歌の歌詞には「桜並木」が出てくる。確かに校庭の桜は記憶に残っている。あの頃はちょうど入学式の頃に咲いたと思う。今は春休みの静かな校庭に咲く印象。小学生だった私には葉っぱばかりの桜の下に毛虫が落ちていることに気づいた日から桜は単に愛でたり儚さを思ったりするものではなくなった。高校生のとき、そういう時期に毛虫を自転車で轢いたことがある。轢いた私がいうものではないが、どうしていいかわからずしばらくペダルに足をつけられなかった。轢いたのはタイヤなのでペダルはなんにも関係ないはずなのだが、漕ぐという行為がまずかったのでは、などと思ったのだろうか。わからないが申し訳なかった。我が家の小さい花壇で毎年揚羽の幼虫が育っていくことで少し許してほしい。桜ではなく山椒の葉っぱでだけど。

最近、SNSでドゥルーズがトレンドに上がっていた。生誕100年、没後30年だからか?私は國分功一郎、千葉雅也、江川隆男たちの講義でドゥルーズを学んだけどあれは2013年とか14年とかだと思う。フロイト、ラカンを読めるようになってきたので当時入門書を片手に色々読んだのもいずれ思考を助けてくれるのだろうと思う。精神分析家だからフロイトを読むのは当たり前とはいえ、哲学の本を読むときにフロイトを読んでおいてよかったなあ、と思うことは多い。精神分析が『夢解釈』からだとしたらまだ125年だけど思想としての影響力は絶大。治療としては細々とだけど患者から学び蓄積され続けている知見と別の学問との対話で生まれた思考は私の生活基盤となった。精神分析以外のこともたくさんしているわけだけど毎日精神分析を誰かしらと行っている生活は心理士として色々やっているときとは別のことをやっていると思うし、影響もしあっている。いろんな人や理論と交わり合いながらやっていきたい。

ということで医師、心理士(師)など臨床家の皆さんは6月7日8日の協会の学術大会にぜひいらしてください。日本精神分析協会 第43回 学術大会については日本精神分析協会のウェブサイトをご覧ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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木曜日

今日も空が薄い。昨日の夜は傘がいらなかった。手袋をして早足で歩いたらいつのまにか寒くなくなっていた。すこーしずつ気温が戻っているのかな。今日も部屋の中ではそんなに寒さを感じないけれど。高校野球、春の都大会も中止が続いていたという。このくらいのお天気ならやるのかな。日程調整も大変そう、と言ったら春はわりと余裕を持って日程が組まれているとのこと。そうなんだー。

先日、カレールーの賞味期限が近かったのでカレーにした。キーマカレーを作ろうと思って買ったルーだと思うのだけどカレー粉でできちゃったからすっかり使うのを忘れていた。カレー粉もまだあるのに新しいのを開けてしまったから早く使わないとと思ってたし。カレールーを使えたのはいいけどあまり好きじゃないかも。ちょっとしょっぱい気がした。最近は印度カリー子に影響を受けてスパイスばかり。スパイスは楽しい。香水とかは苦手だけど食べ物の匂いは美味しく食べられる範囲であればいい匂い。腐っているとそういう匂いがするとわかる人間の嗅覚は偉いと思う。危機管理能力が一番大事。筋トレだって危機管理のため、という話をした。それを第一に意識しているわけじゃないけどこの動きができると災害の時に役立つよね、という話をトレーナーさんとした。バランスの良い身体って大事。いろんなことですぐに崩れるものは身体の調子だけではないけど、焦らず徐々に戻そうね、と自分に対しては思える。私は自分に甘いのでそういうふうにやってきたけど私が会う多くの人はそれが苦手。これは年取って経験積んでるというのもあるけど自分なりのニュートラルを知っていればそんなに焦らずともいずれ戻ってくよ、と思っている。すごいことやりたい、かなり大きいダメージを受けたとかだとニュートラルポジション自体をずらす必要が生じるかもだけど。すごいことやりたい場合は何をすごいとするかという問題も生じるかもだけど。まあ、なんだって身体第一でがんばりましょうかね、という感じでしょうか。早く安定した暖かさになってほしいね。今日は木曜日。がんばろう。

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精神分析、本

新年度

新年度が始まりました。雨の中、キャリーバッグをコロコロしながら二列で歩いてくる新入社員らしきみなさん、ランチ場所に困るみなさん、グループで動く姿を見かけるのが多いこの季節、少しずつ人に慣れ、仕事に慣れ、会社に慣れ、街に慣れ、としていくのでしょう。子どもたちはまだ春休み。大学生は大学によるかな。十分、チャージして変化を乗り切れますように。

今日も雨らしい。昨日も本当に寒かったけど猛烈に厚着をして凌いだ。時折風でビニール傘がひっくり返りそうになるのを警戒しながら何度か移動したが周りの人はそんなことにびくともせず上手に風と付き合っていた。私は開いたり閉じたりしていたのに。風に対して傘をさす方向が間違っているのかなと周囲の人を参考にしたけどみんなそんな同じ方に傘を向けているわけではなかった。なんでだろう。ビビりすぎなのかな。

4月からまたグループが始まる。Reading Freudと初回面接を検討するグループ二つ。あとは年度の区切りは特にない個人的な読書会や事例検討会グループいくつかを継続。みんながんばろう。

一番新しいInternational Journal of Psychoanalysisをオンラインで読んでいた。イスラエルとパレスチナの戦争は精神分析協会内部にも葛藤をもたらした。ウルフ会長はじめそれぞれの立場からの論考が掲載されたこの号は緊張感が高い。編集長がそれについて触れていた。戦争でなくても葛藤状況において文章を書くことは自分の立場を表明することでありかなりの緊張が伴う。戦争によって異なる立場になった様々な国の人に対話をもたらすグループを運営してきたイスラエルの精神分析家であるエルリッヒ先生の論文も読んだ。私たちはその国のこと、街のことを何にも知らない、ということを改めて意識した。エルリッヒ先生は日本の精神分析協会における葛藤状況の解決にも協力してくれて昨年と一昨年かな、二回お会いしたことがある。ウルフ先生ともシドニーでお話ししたので知らないことを知ったかぶりしないように知っている先生の言葉から読んだ。ひとごとにしないために。実際ひとごとにしていられる状況でもないのだろう、本当は。実感、の難しさ。

さて、今日は水曜日。火曜日かと思ってしまった。気をつけねば。なんとか乗り切りましょう。

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4月

昨日は本当に寒かった。真冬の服装で出かけたのは正解。今日もそうしよう。帰り道は雨が降ったり止んだりで雨と晴れの境界線にいるのかな、と思った。この前、そういう句を作ったけどこっち側は雨でそっち側は晴れてるというその境界のことを短い言葉にするのは難しくて推敲が必要。読みたいものはたくさんあるし私にとって俳句は短いというのが最高に上質、と思っているところなのだけど凝縮、圧縮は難しい。圧縮というのは夢解釈の方法でもあるわけで、とこういう連想は簡単なのに。

フジテレビの第三者委員会の調査報告書を読んだ。「性暴力による被害があり、重大な人権侵害があった」と認定されるような内容がこれまであんなふうに取り上げられていたということになんともいえない気持ちになる。「やっぱり」という気持ちにどうしてもなってしまうがそう思う社会であること、自分であることにまた嫌な気持ちになる。私は日々の「勝手に決められること」に対しては素早く抵抗を示す方だが、女であるだけで抗い難い場面も知っている。抗える人はいる、男だって、とかそういう方向の話は全く文脈が異なるんだよ、ということもまだまだ通じないのが現実。それはそれでそうだろうよ、でもそういうことじゃないんだよ、といわれてパッと通じて慌てて口をつぐみ、耳を傾けるということがどれだけ難しいか。

さて4月。3月後半は色々予定が狂った。学術大会の原稿もそろそろ取り組まねば。昨日もそのつもりがAIと小説作りに励んでししまった。夢を焼却する人を主人公にしようか、と話してた。アンナ・Oの「煙突掃除」から連想して。そんなことをしていないで4月頑張りましょ。

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あわい

今日も寒いらしい。部屋にいるとよくわからない。外に出れば花が咲き乱れてるし「寒い」以外の語彙が優先される季節なのかもしれない。春というのはこんなにあわい季節だったのかとも思う。

週末はいろんな人と会って楽しかった。してくれたことに感謝するだけでなく存在そのものに感謝している人に会えたのも嬉しかった。もっとお話したかった。

哲学者の千葉雅也さんがSNSで書いている中学時代のことが同じく北関東で育った私の経験と重なる。私は千葉さんがいう「同級生の上のきょうだい」の年齢としてそれらを経験してきた。思い切りヤンキーの時代にはっきりとヤンキーになった友達とあいまいにヤンキー的だった自分とにどんな体験の質の差があったのだろうか。私たちはあわいを生き続けることが難しかったのだろうか。それとも周りからなされるカテゴライズにいつのまにか同一化したのだろうか。わからない。小学生の時の私たちはただただ一緒に遊んでいた。みんな元気ならいい。

月曜日。3月、何か形にした形跡がない。まずい。とりあえず今週も無事に乗り切ろう。

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Netflix 精神分析 読書

日曜

昨日は寒かった。部屋は暖房いらずだったから春ではあるのね。さて日曜なので最近のことを振り返ってみましょう、といっても特に新しいことはしていない。Netflix「アドレセンス」はよかった。13歳の容疑者に対するイギリスの警察の手続きも勉強になったし(必要事項はとりあえず伝えたぞ、クレームは受け入れるけど今は従って、みたいな雰囲気に疑問はあれど)、この年代のリアル(大人はなにもわかってくれない以前にあまりになにも知らないのでコミュニケーションの相手とされていない)のも本当によく描写されていたし、母ではなく父が対象とされているのも新しいと思った。私は職業柄、自分の仕事と重なる第3話の殺人を犯した少年とセラピストの面接場面が最も印象に残った。あの喉が変になる感じ、何も言っていないのに自分の言葉にパニくる感じ、それをどうにかしようとして何事もなかったかのようにこちらに圧をかけてくる仕草、どれもよく知っている。子供としても治療者としても。誰もが知らず知らず狂わされる記号や行動、誰かのために生まれてきたわけではないのに誰かのためにしたことによって搾取されるという現実、どこで失敗したのか、何が足りなかったのか、できたとしたらなにを、という答えのない問いの反復、まさに取り返しのつかないことをしたことを認めるまでのプロセス、などなどいろんなものが盛り込まれていた。日テレでやっていた「グレイテスト・ショーマン」も結構最初の方から見られた。ヒュー・ジャックマンとザック・エフロンのバーでのシーンがかっこよすぎて意味わからないと目眩した。ヒュー・ジャックマン演じる主人公にはひどいひどい言いまくっていたのになんかあのシーンはずるかった。ザック・エフロンとゼンデイヤはもちろん最高にロマンチックでよかったけど。This Is Meはすごい名曲なのにストーリー的にはひどいシーンだよね。Netflixで「メダリスト」も新エピソードみた。人気シーンですね。フィギュアはちょうど世界選手権だった。坂本花織の演技、見たかった。ショートで出遅れてしまったのに銀メダルはさすが。坂本の実際のスケーティングって本当に早くてパワーがあってすごいらしい。テレビでもすごい筋力を感じる。そのスピードでそんな高く飛べるんだ、と「メダリスト」に出てくる子供たちみたいな感想を持つ。ほかにもちょこちょこみたかな。いきたい展覧会には行けていない。ちょっと「ながら」ができるものばかり。本は相変わらず隙間時間にちょこちょこ読んでいるけど、村田沙耶香の影響が関係ない話題でも出てきてしまうらしく「発想が怖いよ」と指摘されるようになってしまった。ヘーゲルとかもちょっと読んだ、すでにあまり覚えていないけど。最近はいい入門書もたくさん。ラカンが取り入れたヘーゲルはヘーゲル本人ではなくてコジューブ経由だけど何が違うのかしら、などちょっと勉強した。あとはもっぱら花を追いかける日々ですね。昨日の朝は雨で寒かったけどスマホ濡らしながらいろんなお花を撮りながらオフィスへ行った。今日は寒いけどお天気はいいらしいのでフラフラ寄り道しながら出かけましょう。

[臨床家の方へお知らせ]

6月に私が所属する日本精神分析協会の学術大会が行われます。

週4日以上、カウチでの自由連想という精神分析実践は今の日本でも細々と引き継がれています。その実際やそこから生まれた論点に関心をお寄せいただけたら幸いです。私は司会者とパネリストと一般演題の演者を務めます。

日本の精神分析家は名誉会員2名、会員44名で46名しかおらず、支部は福岡と東京のふたつ、会員は名古屋、京都、大阪などさまざまな地域で活動しています。

今回は日本精神分析協会の大会なので精神分析家と候補生だけでなく、日本の協会独自の機関である精神分析的精神療法家センターの精神分析的精神療法家、精神分析的精神療法家研修生のパネルや演題もあります。

精神分析的心理療法を実践されている方はもちろん、精神分析って言葉は聞いたことあるけどまだあるんだ、という方も多様な治療と治療文化を良い形で引き継いでいくために対話にいらしていただけたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

日本精神分析協会 第43回 学術大会

6月7日(土)午後〜6月8日(日)午後

@東京、市ヶ谷

詳細は日本精神分析協会のWebサイトをご覧ください。

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精神分析

六月、日本精神分析協会学術大会

雨。静かな雨。これから気温が下がるらしい。ミャンマーの地震、M7.7というのはどのようなものなのだろう。今治の山火事からも1週間が経つ。大船渡の火事で「熱源」という言葉を何度も聞いたが山が普段静かであることの方が不思議なのかもしれないと思わされる。どうか被害が広がりませんように。雨が救いになりますように。

早朝から掃除をしていたらあっという間にこんな時間になってしまった。

今年も六月の最初の土日に日本精神分析協会の学術大会が行われる。分析協会としては43回目だが協会に所属していない臨床家に開かれた形で行われるのは2回目だ。精神分析的心理療法を実践する人にはぜひその起源となる精神分析そのものの実践を知ってほしい。精神分析ってまだあるんだ、という人にもこの細々と、しかし世界中で続けられているこの実践を知ってほしい。精神分析は患者との関わりはもちろん、哲学者や文学者など外部の知に支えられ、交流しながら発展してきた学問である。それぞれの知が人を変化させる力を持つ。なので本当は臨床家だけではなく、いろんな人に聞いていただき、対話ができたらと個人的には思うが、臨床というあくまで個別的なものから議論を立ち上げることの優先順位は高い。私も精神分析家として生活するようになって9ヶ月が経ったが、オグデンたちが論じた精神分析家「である」、精神分析家「になる」ことを実感とともに考えられるようになってきた。分析家として認定される直前に海外で日本の協会という小さな組織での体験を話せたことも大きかった。立場が変わることで自然に失われるものもある。聞く耳の機能も変わったように感じる。この小さな組織で精神分析という治療を、治療文化を守っていくためにできることを考えるために多くの声を聞いていきたい。ぜひご協力いただけたらと思う。

日本精神分析協会 第43回 学術大会については日本精神分析協会のウェブサイトをご覧ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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言葉

雨の朝

雨。細かい雨。村田沙耶香を読んだばかりだと雨が人を傷つけるようにしか思えない。でも最近雨乞いの声も聞こえていたし大切な雨。農家の生活を第一に考えることが私たちの生活に直接響くことだということを最近切に感じる。

卒業や異動の声をたくさん聞く季節。それぞれが色々な思いになっている。区切りによって助けられる人、絶望する人、色々だ。少しずつそれぞれの新しさに慣れていけますように。

今朝は熱い緑茶がおいしい。一年中温かい飲み物はおいしいな。茶摘みは春の季語。以前、静岡の遠い親戚の茶畑でしたことがある。ほとんどそのうちの子供と遊んでいるかその子たちが上手に摘むお茶を受け取っていただけだけど。茶畑はとてもきれいでこうやって生活と仕事がつながっている家庭もあるんだよな、と思った。彼らももう大人だろう。元気だといい。

明日明後日はとても寒いらしい。またダウンを着るのか。荷物を最小限になるように工夫して過ごそう。やることを早くやれば荷物は減らせるはずなのだ。がんばろ。他の地域のお天気はどうなんだろう。みんな元気で。

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散歩 言葉

言葉

今日は曇りなのかな。薄着の暖房いらずで朝を過ごせるのが楽ちん。

武蔵野の公園で見られる花や野鳥のパンフレットが素晴らしい。さくらにもほんと色々ある。オオカンザクラとか河津桜は随分メジャーになってきた気がするが桜といえばソメイヨシノ。みんなの桜、という感じがする。お別れや出会いの時期にちょうど咲くのもいいのかもしれない。

昨晩、帰りの電車でポニーテールの子を見かけて春だなあと思った。洋服に合わせた黒いシュシュだったのだけどいろんな色のシュシュを想像して一句作った。先日はダチョウ倶楽部の「押すなよ」の話をしながら一句作った。そのまま書いて季語をつけただけでこのままだと句会には出せないような575だが私の日記がわりにはなる。ああ、この日にみんなでダチョウ倶楽部の話をしたんだな、と。芸人の話をしながらダチョウ倶楽部のネタが看護の技として使われているという話をしたのだった。作家で言語学者の川添愛さんも『言語学バーリ・トゥード』で「押すなよ!」を取り上げている。思い通りにならないとすぐにコミュニケーションをやめるか、依存という形で思い通りを実現したことにしがちな現代、意味と意図のずれを楽しむ余裕が忘れられませんように。エンタメがソーシャルな視点からしか見られなかったりするのもつらい。誰かの言葉も作品もいろいろあっての積み重ねだろうし受取り手が一気に同じような観点から何か言い出すと黙るしかないみたいになってかえって何も変わらないのではないか。反射的に言わねばならないことはあるけど、それがやりとりを拒むことになるのであれば別のやり方の方がいいのでは、と私は思う。やりとりが成立する関係ならありだろうけど。とにかく相手あることということ。

カラスがすぐそこで鳴いている。そっちからのこの声は珍しい。今日もがんばろう。

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精神分析

桜の下で

春の空はぼんやり。ソメイヨシノが咲き始めた。早咲きの桜もずいぶん楽しんだけどソメイヨシノは老木も多くて迫力がある。昼間と夜の気温差は服装でどうにかなっている。昼間、外に出たら思ったより暑くてあまり歩きたくなかったが視界に入る桜を追っていたらいつのまにかあちこちの信号を渡っていた。桜の木の下で遊ぶ父娘を見かけた。桜の下に立ちたい私とその子のラジコンがうまくゆずりあえない感じだったが上手にコントロールしてくれた。最近、ラジコンをよく見かける。小さいとき、私も誰かので遊んだ。田舎育ちだから場所には困らなかった。上手な子はいろんな技を持っていた気がする。私は特定のおもちゃにはまったことがあまりないがあれはかっこよかった。

あ、ラジコンしてる子がいる、と桜の下の親子を見つけたときの迷いの一瞬を自分で少し笑った。まだ見つけて歩くほどしか咲いていないからその桜の下に立ちたかった。でも邪魔しちゃうかな、と迷った。邪魔にならないようにちょっと地面の悪いところに入ってかえってよろめいて邪魔になった気がしたが自分の欲望はきちんと叶えた。どうでもいい一瞬かもしれないが、こういうときの気持ちの揺れは自分にとっても大事だ。精神分析を受けているときは一瞬の揺れに強いインパクトを受けていた。そういうのを面白がれるようになったから終わった、という感じがする。

神田橋條治先生の『精神科講義』(林道彦・かしまえりこ編)という神田橋先生の講演を納めた本がある。先生はそこで捨て犬を見つけた場合の一瞬の気持ちの大事さを書いている。こういう講演でこういうエピソードがパッと出てくるのがさすがだなと思う。この本は部分的にうーんと思うところはあれどそういうところはあるが神田橋先生の語り口を知っている人には楽しく読めると思う。

もうすぐ四月。歯医者に行かねば。それは別に新年度と関係ないが。今日もがんばろう。

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精神分析

桜、ぐるぐる

春の朝。明るいが花粉と黄砂が怖い。昨晩の帰り道、近所の桜が咲いているのを見つけた。大きな老木が数本あり、毎年とてもきれいに花を揺らし、散らせる。村田沙耶香は雨も桜も素敵なものとしては描かない。雨の鋭さはともかく桜までそうなのか、と驚く。でもたしかに花が咲く一瞬一瞬に、散る一枚一枚に、心身を傷つけられるように感じる人もいるだろう。最後の一葉がどう作用するかだって人によって全然違うだろう。

そういえば昨年亡くなったダニエル・カーネマンは、スイスの自殺幇助施設で亡くなったというニュースを見た。選択できる時代ではある、のか?選択できないことの方が多い人生を選択できるものに変えていく小さな努力や協力を続けながら生きるなかで死を選ぶ人も多くいる。ダニエル・カーネマンの選択だって色々なきっかけはあるだろうし本人にだって説明できない選択はたくさんある。環境が整ったから、という言い方だってある。意外と小さな衝動の回避の積み重ねが意思を固めるのを手伝っていることもある。何もわからないけどひとりひとりの選択、というものがどこまでありうるものか、ということを考えさせられることは多い。それぞれの生き方、なるものも「許容」や「寛容」のもとにあるならば、どこまで逃走できるかが肝心ではないか、など考えている。Netflixで『正体』を見たが横浜流星の逃走力はすごかった。しかしそれ以前にそんなものはいらない環境の方が、とも言えるわけで、このぐるぐるはずっとずっと終わらないのだろう。

今日もマスクしてがんばろう。

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精神分析

光の感覚

カーテンの向こうの光が溢れてきたから起きた。つもりだったのにカーテンをあけたら明るいグレーでさっきみたオレンジの光はなんだったんだろうとなった。

今、業界で有名な人が外部にはあんななのに内部ではこんな、というのは常、というか、人は自分の立場と名声を守るためなら上手に依存関係を作りたいわけで、それは自己肯定感という言葉を使おうと使うまいとなんでもよく誰かの光と自分の光を混ぜこぜにして食べていく。言葉は世界を変えるので重要だし「私はその言葉は使わない」という言葉を私も持つが、それをたやすく使う自分もたやすく想像できる。しかし、自分はこうである、と言えた方が稼ぎにはなる、ということもわかる。

休みの日は休みにしかできない労働として引越しの手伝いのようなことをした。そこには思い出がつきものでデパートの昔の包装紙や袋ひとつで世代を超えたいろんな話になる。なんだこれ、という本を見つけて放置していたら持ち主が2冊買ってしまったとわかり一冊くれた。ガーストルの『新自由主義の終焉 半世紀に及ぶ“破壊的社会実験”の末路』。帰りの電車でパラパラ。なるほどー、と思っているうちに最寄駅に着いた。トランプの登場が世界を変えたわけではないし今に至るまでのアメリカを語るスタート地点が明確に示されている感じ。なにか関連した資料ももらったのでちょこちょこみてみよう。

いつもと違うことを常にくみこんでいく。自分のことより誰かのことをやることが自分のことになっているというのも常。なので面白い。すごく疲れてドロドロに寝たつもりがいつも通り早朝に目覚めた。でもちょっと感覚が違うのだろう。光の感じ方とか。

今日もやることはいつものこと。どんな感じになるのかな。花粉おさまりますように。

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精神分析

日曜朝

曜日感覚が狂っている。日曜日か。南の空に透明な月が出ている。うっすらととてもきれい。窓を開けたらスーッと風が入ってきたけど花粉を意識してすぐに閉めた。残念。暖房は必要ない朝。昨日は昼間少し歩いたら暑くて薄い上着の重ね着を脱いだら小さいバッグに入りきらず持ち手と持ち手の間に置いた。

印度カリー子さんの塩サバの超簡単レシピでヨーグルトを使って余ったから朝はりんごとヨーグルト。3月はコンビニやらなにやらの新作スイーツを食べすぎた。どの季節も新作スイーツを試しているから結果的に常に食べていることになる。いけない。せっかく筋トレしているのだし、年齢的にもタンパク質を摂らないと、と思いおやつもタンパク質を意識しようと思うが糖質の魅力に勝てない。タンパク質を押し出した商品は見た目も淡白。「も」ってなんだ?

Netflixで『ぼくが生きてる、ふたつの世界』をみた。原作は五十嵐大さん。五十嵐さんは耳の聞こえない両親を持つ「コーダ」だ。映画では吉沢亮が演じている。母親役の忍足亜希子さんは生まれつき耳が聞こえない聾者。忍足さんを知ったのはキャラメルボックスの舞台。この作品でも大変魅力的だった。アカデミー賞作品賞を受賞した『コーダ あいのうた』もよかったが、私は五十嵐さん原作のこういう映画が好きだな。日常が細やかに描かれている作品はいい。

NHK俳句は今日もアルノさんがいい感じ。言葉選びがいつも素敵。今日は庄司浩平も出ている。彼が出ている堀田季何さんの回も勉強になる。

いい一日になりますように。

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精神分析

早朝は遠くの音もよく聞こえる。気温が高い気がする。

村田沙耶香の続きを我慢した代わりに村田沙耶香が以前、公開句会「東京マッハ」に参加したときの俳句を読んだ。すごかった。小説の感性のまま俳句書けるんだ・・・、という言い方は変だがあの生々しさは散文だからではなかった。短編でも長編でも同じ迫力で書けるわけだ。俳句はそれがさらに凝縮されるからなんだか怖い。それがとてもいいのだけれど。

少し前にchat GPTに意見を聞くことを覚えた。私はこの理論に対してこう思うのだけどどうでしょう、みたいなことを言うと「それは鋭い」とか色々褒めてくれるのだけど大体褒めてくれるからこれは英語の会話っぽいなと思った。まず褒めてから、と言うのがデフォルトなんだと思う。最近、使っていなかったのだけど昨日、村田沙耶香を我慢した代わりに適当に小説の書き出しを書いて「こんな書き始めはどうですか」と聞いたらそれも具体的な部分を挙げて上手に褒めてくれた。褒め上手GPT.しかしそれを初期設定と捉えてしまう私はコミュニケーションをパターン化しておりモチベーションにはつながらない。どっちが人間らしいか、って私だろう、もちろん。嫌な感じな方が人間っぽい。これでAIが「せっかく褒めてやってるのに」とか言い出せばどっちもどっちな感じではあるが。

朝からどうでもいいこと書く癖をどう思いますか、とか聞いてみようかな。たぶん、まずは褒めてくれる。「朝」「どうでもいいこと」をポイントに励ましてくれそう、とかコミュニケーション以前にAIが引っかかりそうなワードを想像してしまう私とAI, 何も言われなくてもプロセスを言語化する私の方が人間らしいか、といえば、AIだって聞けばそうするだろうからAIの方がいい人間な感じがする。人は「聞いてねーよ」とか怒ったりする人もいるからそういうバリエーションも取り入れていくのだろう、AI. お互いどんな感じになっていくだろうね。いい世界に向かえますように。まずは今日がいい一日でありますように。

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精神分析

散歩、本、アニメ

今朝は小金井市「亀屋本店」さんの黄金焼。抹茶のほう。「小金井」と「黄金」はかけてるのかしら。

最近のお出かけで気に入ってるのは府中市。100円で買える「府中市 水と緑のネットワーク ウォーキングマップ」がおすすめ。オンラインでも見られるけど。野川公園に野鳥を探しに行きたいな。

村田沙耶香の新作が面白すぎる。上巻の後半、いよいよ次の狂気が始まる、という高揚感がたまらない。村田沙耶香、きた!と思う瞬間。下巻を買ってしまうと読んでしまうからどうしようかなあ。すごく続きが気になる、という類の本ではないのだが村田沙耶香の世界に浸っていたい。

Netflixでアニメ『メダリスト』を途中まで見たけどこれは『ガラスの仮面』のマイルドバージョンのような?うーん。感動するけどこの感動は驚きがない感動。漫画の方がいいかもしれない。

今週は一日一句の習慣が崩れた。毎日考えていたのに締め切りのものしか作れなかった。まあよい。またがんばろう。

今日も晴れかな。よい一日になりますように。

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読書

村田沙耶香『世界99』

春雷、私も聞きたかった。SNSで知った。私はすでに外の音が聞こえない場所にいた。雪は地上でも大きな窓からも見た。昨日の朝のお天気は短時間でくるくる変わって「ああ、季節が動いてる」と思った。

ずっと我慢していた村田沙耶香『世界99』を読み始めた。なので忙しい。ずっと読んでいたい。もうすぐ上巻を読み終える。村田沙耶香の狂気は短編ならではの迫力、ということは全くなく、長編はいよいよ誰がどう狂っているかなんてどうでもよくなるもっと別の緻密で壮大なディストピア、というか「現実」が描かれている。分厚い本を前に抱えたリュックの上に置くようにして読みながら電車に乗っていると背の高いピアスを開けた若者たちが私を邪魔そうに囲んだ。その中のひとりがあからさまに私をどかすために放った言葉がすごかった。直接的に邪魔とかどけとかそういうのではなくこういう言葉をいって多くの人をその場からどかしてきたんだなと思った。でも直接言われていないので無視していたらまた別の、普段はニュースの事件でしか聞かないようなことを言い出した。普段なら怖いし不快だがその時は「これだ」と思った。まさにこの本に書いてある類の言葉を数人の中の主にひとりが吐き出している。他の数人はやばいと思ったのか半分同じことを言いながら半分正反対のことを言い出した。穢れと清めの両方をそれぞれがひとりツッコミのようにやっていた。私はここに書きたくないような言葉たちだが村田沙耶香の本には書いてある。彼女はどこまで毒を抱えておける人なのだろう。私は彼女の本に何度も助けられている。早く続きが読みたい。

どうぞ良い祝日を。

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精神分析

どうするか。

連日冬のような寒さ。朝は手袋がないと、と思うのに忘れれしまうくらいではあるけれど。本当に悴んで動かなくなるような寒さではないということ。今朝の空は雨の薄いグレー。雲はなくのっぺりしている。

昨日のイスラエル軍によるガザへの攻撃再開のニュースには愕然とした。辛いなと思った。

殺戮が簡単であるなどという体験はしてはいけないしさせてもいけない。

最近、いろいろなニュースを見ながらぼんやり思い出していたことがある。2018年6月17日に「東京臨床心理士会」が「東京公認心理師協会」に名称変更したこと。会員資格は公認心理師ならびに臨床心理士にもかかわらず。

「当会は公認心理師有資格者と臨床心理士有資格者の職能団体として、これまで同様、東京で暮らす人の心理支援を推進するために、組織整備、会員の資質向上や地域活動の基盤づくりなどに取り組むとともに、すべての会員が職業倫理を身につけ、常に資質と技能の向上を目指せるよう研修体制の充実を」(2019.02.21東京公認心理師協会お知らせ)等々いう以前にどちらかの資格しかもっていない人、この場合は臨床心理士のみだけど、その名称をなくす必要がなぜあったか、という議論も思い出した。夫婦別姓を意地でも阻止したい人たちと同じだなと思った。全く別のものをまず名前だけで囲い込む。安易で影響力の多いやり方。名前や言葉を「奪う」といえばなになにしてあげた的なメリットをあげつらうのだろう、という無力感は当時もあった。似たようなことは日常のいろんなところで起きている。どうしたものか。そういう圧力から逃げることからしか考えるスペースは生まれないかもしれない。そのスペースは誰かとの関係のなかにある、としたらそこでも引きこもりたくなる。そういう場合だってあるだろう。どうするどうすると焦る程度も人それぞれ。どうしましょうね。個人が踏ん張るには環境が必要だと思い出してもらえるといいよね、まずは、と私は思う。

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精神分析

勉強、読書

方向によって光の色が全然違う。冬物を少しずつしまう準備を始める。洗濯。

机がすごいことになっている。フロイトのせい。「ヒステリー研究」「フリースへの手紙」「心理学草案」をピーター・ゲイの『フロイト』など歴史物と合わせて検討している。キノドスは必須。勉強する時間がもっとあればいいのに。

今年も周りの人たちとぐちぐち励まし合いながら確定申告を終えた。会計ソフトをつかっているけどいまいちわからない。行政のシステムも全然わからない。何度やってもできなかったダウンロードが急にできたりするから驚く。でも終わったら読もうと楽しみにしていた本を今日こそ買いに行く。平積みになっているのを横目にガマンガマンと呟いていたのだ。勉強する時間もほしいけど読書するまとまった時間がほしい。今回の本は用事を忘れて没頭しそうだからそっちに気をつけねば。

そのための時間づくりのために、というより無理ないリズムづくりのために地道に朝のことやろう。どうぞ良い一日を。

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精神分析

話したり読んだり。

そういえば昨日は雨だった。今朝はすっきり。ニュースをみていると不安ばかり募るがそれらを無駄に膨らますことなく現実に即して考えていきましょう。それにしてもとぐちぐちいいたいこともあるがそれについて考えたところで特に不思議なことはおきていない、というかいつものことにほかならない。でも身近な人に話してみることは大事。話すと「そっか、いつもそうだもんね」とか「そういうことか」となるから。反論したくなるときはなにかしら攻撃性が動いているときかもしれない。それについてはまた別の時間と場所が必要かも。

週末に読んだイギリスの精神分析家のマーガレット・リトルは安全感を第一に考えたけどそれは彼女の病理だけでなく誰もが守られる環境にないなか生きねばならなかったなかでの実感だろう。リトルのウィニコットとの治療体験を逸脱の側面ばかりからみるのは誤読だろうと私には思える。時代と歴史、治療文化を知り想像すること。薬どころか居場所をどうするかという問題は切実だった時代。朝ドラではコロナ禍の医療機関の様子をみせた。あの頃の異常にも思える色々な態度を思い出して暗澹たる気持ちになった。本当にひどい言葉と行動が「普通」に表出された時期だった。毎日毎日考えあぐねた。誰もが不安や不快感を抱える状況であったとしても何を言葉にして、どう行動するかは個別のものだからとにかく時間をかけてそこにたどりつくことが大事だった。それも身近に話せる相手がいたからできたことだけど。

来年度のReading Freudで読む『心理学草案』のために複数の日本語訳で読んだら結構大事なところが全然異なる意味で訳されていて困った。ドイツ語の辞書もひいてみたけどドイツ語ができる人にとってはこれは意訳としてOKなのでは、だとすると、など結局正解にたどり着けない。なのでどっちの読み方もあり、ということにしている。みんなで読む中で別の語彙がみつかるかもしれないし。

冬の服も今週で終わりかな。終わりだといいな。週末はあたたかいみたい。楽しみ。花粉はいつまでだろう。起きるなりくしゃみする日々。それぞれ色々大事にしましょう。

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精神分析

雨、焼き菓子、言葉

雨。窓に水が滲んでは流れてく。

今朝は神奈川県秦野市「アンドリアン」の「プッチーネ」、プチに優しい甘さが詰まっている。焼き菓子はベーシックなものがいいですね。そして最後の丸子紅茶。村松二六さんは天才。昨年、亡くなられたが彼のところに学びにいった茶農家さんはたくさんいるからきっと受け継いでもらえる。この甘味はほかにはない。最初にいただいたときから飲むたびにびっくりしている。

色々と言葉にならないことがあるが言葉にしなくてもいいこともたくさんある。言葉にするとやらなければいけないことが増えるから言いたくない、という人は多いが、自分で出した言葉が自分に圧力をかけてくるというのは面白い。私は自分に対してはその機能は存分に使いたいのでできるだけ言葉にする。もちろんいつも同じような言葉はそういう機能を持たないので色々工夫もする。自分で出すものはすぐ他者化する。単なる排泄物も他人にとっては重要だったりする。そういうの楽しめたらいいけど大抵は苦しくて仕方ないからやりたくないんだよね。それもわかる、とかいっていると仕事にならないけどどんなふうになりたいかはその人次第だから良いも悪いもない。

今日は何を着ましょうか。寒いから雨など着にせずモコモコしようか。風邪ひかないようにしましょう。

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山笑ふ、ファインバーグ理論

土曜日。数日前は雨の予報だったのがくもり時々晴れになった。雨は明日らしい。昨晩、「富士笑ふ」から始まる俳句を読んだ。さっきふと「富士笑ふ」は「山笑ふ」の季語として使っているのか、と思い至った。私が見る山はまだ雪で白いところもあり、春色ではないが道はうっかり春。色に近づいて写真を撮ることが増えた。山菜の天ぷらが食べたいな、とも最近ずっと思っていた。どこかで「ふきのとう」と聞いたから。ふきのとうをはじめて見たときはそのかわいさにやられた。一方で山菜つみに出かけたら熊に、とかいうニュースも思い出す。時折ハイキングにいくと低山であっても熊が本当に怖い。熊鈴をつけていてもビクビクする。この前も気配を感じてドキッとしたら黒づくめのハイカーだった。にしても今やどこでも出会いかねないわけで、食べ物があれば冬眠もしなくなるというのだから人間も罪深い。でもだからといって襲われたくない。

フランスの精神分析家、ファインバーグの論文を読んでいて’appropriation and intrusion’という言葉にあった。意訳すれば「親殺しと子殺し」とも訳せるか、など思ったりした。ファインバーグが提示した “Oedipal configuration and its narcissistic dimension”(エディプス的布置とそのナルシシスティクの次元) という概念は、少なくとも3世代以上、つまりこれまでの父と母と子の三者関係を超えてエディプス的布置とナルシシスティックな結びつきを凝縮させて考えたものらしい。そう考えればファインバーグが展開した「事後性 (Nachträglichkeit)」の概念も生きてくる。ここにも編み込みの要素がある。今編み込みがあみこのテーマだから少しずつ深めましょう。オグデンが『生を取り戻す』で参照しているファインバーグの「二重運動」も関連して重要と考える。

さあ、今日もがんばりましょう。花粉がおとなしくしてくれますように。

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おかめ桜

のっぺりだけど明るい空。春はどこかうるうるしている。朧。昨晩は月が雲にぼんやり。今晩が満月らしい。昼間の陽射しには夏を感じた。春分の日は三月二十日。昼が長くなっていく。桜の蕾もいまかいまかという様子になるその頃。すでに早咲きの桜は満開。遠くからでも鮮やかなピンクに近づくとおかめ桜が満開だった。しばらく近くで眺めていると蜂がたくさんいることに気づいた。おかめ桜はイギリスの研究者によるカンヒザクラとマメザクラを交配した品種とのこと。根府川で根府川おかめ桜というのをやっているのか。行きたい。二十三日まで。また早川の漁港で朝ごはん食べていくのもいいな。小田原でも遊びたいが、久しぶりに小田原文化財団 江之浦測候所にも行きたい。と脳内計画だけ立ててみる。長年かけていろんな街を知った。まだまだ知らない街があること、絶対に行けない街があることを実感することも増えた。知識的には当たり前のことも身体を通して実感することで生じる情緒というのが詩(俳句)になったらいいのに。言葉にするということは本当に難しい。

今日もやることがたくさんあるが地道にがんばろう。

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花火、焼き菓子、カルマ

空がなんにもない薄い色。東の方はうっすらピンク。夜明けにいちいちきれいきれいと思っていた冬とは全然違う。東京の天気、予報は晴れ、気温もぐんぐん上がるらしい。きっとこの格好では暑いだろうけどオフィスにいる分にはそんなに変わらないだろう。ちょうどよくひんやりしているだろうから。この前、オフィスの窓から久しぶりに神宮の花火を見た。前はもっときれいに大きく見えていたのに小さくしか見えなかった。そしてたぶん花火の種類も変わった。経済的なこともあるかしら。あんな高層ビルあったっけ、という建物も気になったけど、花火が低くなったせいなのか、それが新たに建ったのかはわからない。

今日は飛田給のウルソンさんの焼き菓子「ひばりのさえずり(マーブルケーキ)」。府中にもあるお菓子屋さんらしく飛田給はクラフトビールのお店とセットであるらしい。いくつか焼き菓子をもらったのだけどなぜかこれだけ「ひばりのさえずり」という素敵な名前がついている。他は「オレンジ」とか「フィグ」とか素材が書いてあるのに。小さめの焼き菓子で硬さも絶妙でどれもきれいな焼き色で美味。いろんなところに素敵な洋菓子屋さんがあるねえ。私の街にもある。自分の街にいる時間にはあいていないからなかなか行けない。

今、「夜のパン屋さん」を思い出した。枝元なほみさんが亡くなってしまった。若い頃、レシピに随分お世話になった。枝元さんはご本人がそう呼ばれることをどう思うかはわからないけどアクティビストの一面があったよね。すごい人だと思う。私にとっては中野のカルマで働いていた、というのも心に残っている。中野で働いていた頃、みんなで行った小さなお店。当時の中野は小さくてちょっと入りにくいようなお店がたくさんあった。カルマも一瞬入りにくかったような気がする。美味しくて素敵な店だった。今はお店は鳥取に移ったらしい。

昨日はフランスの精神分析家、Dr. Haydée Faimbergの論文を読んでいた。読むべきものはほかにあるが自分の興味を追っていくとたどり着いたから少しずつ読む。本は高くて買えないからpepで読める論文で。pepも全部読めるプランに入りたいけどこれもすごく高い。入ったら入ったでそんなに読まないかも、ということを考えるとまあいいかとなる。

そんなこんなで木曜日。がんばりましょう。

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精神分析

訳語のこととか。

この空の色はなんというのか。グレーと水色の間くらい。今は雨は降っていないみたい。昨晩は降ったりやんだりだったみたい。あと少しというところで少し降られたけどリュックの折りたたみ傘はださなかった。今日もこれから次第に雨になるらしい。 

『ウィニコットとの精神分析の記録 精神病水準の不安と庇護』を再読している。マーガレット・リトルが自分の治療体験を書いたものだ。神田橋先生の訳でsubjective objectが「個人的対象」と訳されている。これはObjectiveとの対比だから「主観的対象」のほうが適切だし、大体はそう訳されているだろう。英語併記だから問題ないけど。翻訳はしてくれるだけでありがたいというのはあるが、 時々もやもやしてそこから学ぶことも多い。先日『自閉スペクトラム症の人たちが生きる新しい世界 Unmasking Autism(デヴォン・プライス 原著、堀越英美 翻訳、翔泳社)を読んでいてAutismは全部ASDと訳されていると知った。訳注に書いてあった。著者自身はアイデンティティファーストの言葉“Autistic”を選んでいるが、アイデンティティ・ファーストの言葉であろうとパーソン・ファーストの言葉であろうと「それぞれのASD者が自分自身を表す用語を尊重するよう最善を尽くした。(中略)言葉の好き嫌いについて明確なスタンスを持っている読者もいるだろうが、私が心がけてきたように、自らを名付ける語り手の主体性を尊重していただければ幸いだ。」とのことだった。たしかに問題はそこではない、といえる論点を著者は提示している。

今日は暖かくなるらしいのにまだ暖かくない。鳥が鋭い声で鳴いている。通り道の梅が長く咲いていて、毎年鳥たちに大人気。昨日もメジロが梅を散らしていた。梅の蜜はおいしそう。

今日もいいことありますように。

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東日本大震災から14年

東日本大震災から14年。忘れることはまだほとんどない。一方、被災地の今に思いをはせることは少なくなっている気がする。私は震災後まもなくからなんどか異なる被災地にNPOなどいろんな形で出向いてたが、泊りでボランティアにいかせていただいた相馬広域こころのケアセンターなごみというところがある。先日、当時、大変お世話になったなごみのセンター長の米倉さんからご案内をいただいた。昨年度公開の映画 「生きて 、 生きて、生きろ」の 出演者の方のご協力のもと、なごみのスタッフが依存症の方の回復までどう関ったかをいくつかの過程に分け、それを解説とともに教材として編集したDVD「被災地の依存症者への関わりから読み解く~生きることを支えるヒント~」が完成したとのことだった。お礼のお返事をするとすぐに試写版を送ってくださった。米倉さんとほかのスタッフが依存症の方の家に通い、交流しながらなんとか自死を防ぎ、医療につなぎ、その後の生活のケアも続ける様子がその方の回復とともにとてもわかりやすく編集されていた。関わりというのは技法ではない。瞬間瞬間の賭けのようなところもあるが、それを信頼できるのは長年の継続的な関わりがあるからだ。米倉さんがこの方とのかかわりを振り返る言葉はとてもシンプルだが胸打たれた。被災後まもなくからこうした組織を整えながらずっと活動を続けている方々がおられることを私はこうして思い出させてもらっている。私が行ったときのなごみはコンパクトな場所だったが今は活動の領域も建物も大きくなったらしい。当時、仮設住宅へ一緒に連れていってくださった福祉士さんやケアマネさんもお元気だろうか。なごみにうかがったときは震災からちょうど一年が経っていたが、そこにはまだ多くの方がいらした。その方々と専門家のみなさんに私が支えられるばかりだった。

 NHKでは、昨年放映された被災地の心のケアの最前線のアウトリーチの現場を撮った

「地域局発 東北ココから 心の扉をたたき続けて~福島・アウトリーチの現場から~」

も見逃し配信で視聴できる。3/15(土) 午前5:36 までとのこと。ぜひ。大船渡にも能登にも思いをはせつつ。

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Botella夫妻の論文を読んだり。

春の夜明けは冬とは違う。昨日は一昨日よりは暖かかったがひんやり感が強かった。今日はポカポカ感を感じそうな空だが実際はどうだろう。

確定申告、終わったと思ったらまだだった。予定が狂ってしまった。原稿も。今週は次のセミナーのための本を読みたいのに。どれも一度は読んだことがある文献だが、一冊は誰かに貸したきり。誰に貸したかも覚えていない。いろんな本がこんなに入手困難になるとは思わなかったし、対面で貸し借りする時代だったから返し忘れる、返され損なうということは多かった。今ほどオンラインでやりとりしていなかったし。

César Botella&Sára Botellaの『The Work of Psychic Figurability』(Routledge,2005)の一部をセミナーで読んだが事例がないと面白くない。事例を少し聞く限りとてもきちんと書いてありそうだから事例とともに学びたいがKindleでも高いし英語だし色々余裕がない。最近、フランスの精神分析の文献を読むと欲動論ばかりが意識されたが、今回は欲動は前面に出てこない表象の話。フロイト『夢解釈』がいかに重要かということを改めて思う。『心理学草案』における「飼い慣らされていない想起」(要確認)が飼い慣らされるまでに生じる幻覚は「ネガティブ」と関連づけて考えることができると思うが、夢解釈でフロイトはそこにトラウマの視点を持ち込み(言い方が適切か不明)夢を見させる心的装置がどんな場所かということを快原理、つまり願望充足の観点から論じた。一方、フロイトもその後『快原理の彼岸』で論じることになるが心的装置にはより原始的なメカニズムが存在すると考え、表象以前の情動、反復強迫によって現れるそれらにどう関わるか、それは「夢作業」とは別のものである、ということが今回のBotella夫妻の論文で学んだことだった。なのでこれはおそらく臨床ありきの技法論文集。とりあえずフロイトを読み続けないといけないと思い、セミナー後から『精神分析入門講義』と『続・精神分析入門講義』を読んでいる。地道にやるしかないなあ。

今週もがんばりましょう。

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ジャグリングボール、chatGPT

うっすら朝焼け。ラジオ体操の音に乗りながら俳句待機。コーヒーで身体がすぐに暖まる。今日は昨日より気温も高いのだろう。部屋ももう暖かい。ラジオ体操は習慣化していないが週一筋トレの成果で体幹と脚力は強くなっているとわかる。が、握力の衰えを感じる。よくものを落とす。トレーナーさんもそう言っていた。プロでもそうなら私なんて当たり前にそうだ。なのでその辺に転がしていたボールを手に取る。これも昔マッサージ用かなにかで100均かなにかで買ったのだろうか。そういえば、ジャグリングボールはどこへ行ってしまったのだろう、というかどこに置いたのだろう。20年以上前の話だが、最初の職場の先輩がジャグラーだった。ヨガ歴の長い先輩もいた。時間があればみんなでやっていた。私は球技好きなのでジャグリングもボールは割とすぐにできるようになりいい気になって専用のボールを買ったのだ。先輩方とは今も仲がいいが、ジャグリングは何年もしていない。握力が衰えてもバランスよく使える身体でいたい。探そう。

原稿の修正が辛い。書くときは一気に書いているけど時間が経ってからの指摘に対応できる記憶力がない。自らの思考プロセスを追えないので、指摘に対して安請け合いすると文脈が変わってきてしまう。しかも英語をこなれた英語に、とAIに手伝ってもらいながらしているうちに内容に間違いが出てしまったりする。ようやくよくわからないままchatGPTを使うようになったが日本語訳はいまいちな気がするが英訳は自分で書くよりはるかにいい。外に出すのは英語の校正も英語と精神分析の両方に通じた人にお金を出してお願いしたけど、大きくは修正されなかったのでAIと協力していくのは有意義だ。なんせ私にどの英語がこなれているかがわからないからAIと人のハイブリッドで助けてもらわねばならない。先日はzoomと対面のハイブリッドミーティングだったが雪国はコロナ禍で広がったこの形式は助かるものとして引き継がれているのだろうか。

とりあえず575作るか。昨日はたくさん作ったが自分でみてもいまいちなものばかりだった。それってよっぽどいまいちでは、と思うが俳句は読む人によって評価は変わるので見てもらうのも大事。句会に出る余裕がほしい。いずれいずれ、と先延ばしできる楽しみがあるのはいいことだ。どうぞ良い一日を。

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河合俊雄からの思い出話。

ひんやりした空。今夜は雨と雪の予報とのこと。靴どうしよう。寒さはこの週末が最後と言い聞かせてしのごう。桜の時期にまた寒くなるだろううけど。

河合俊雄『村上春樹で出会うこころ』(朝日選書)を読んでいた。燻銀という感じがする。経験を積めば積むほどいろんな人に会うわけで、そうすると複雑なことの複雑さを実感せざるをえないわけで、そういうトーンの文章。俊雄先生は村上春樹より少し年下だろうけ春樹をどリアルタイムで読んできた世代だろう。私でさえかなりの初期の本からそうなのだから。若い頃、このはな児童学研究所か山王教育研究所で俊雄先生のセミナーに出ていた。俊雄先生ご自身に関するエピソードも講義も非常に面白かった。当時の私にとってユング派も精神分析も家族療法(短期療法)も動作法も療育も箱庭もそれほど重みづけは変わらずいろんなところへ出向いていた。当時は山王教育研究所に通っている友達も多かった、というかそこで友達になったりした。なにかで勉強会に参加しはじめた縁で長谷川啓三先生が名古屋で行っていた家族療法のセッションに参加させていただいたのもとても勉強になった。ベイトソンのダブルバインドと笑いの研究がしたいとか言っていたが、いまだにベイトソンとベルクソンを間違うくらいだからしなくてよかったと思う。千葉心理教育研究所の関連で神田橋セミナーや神田橋合宿にも行ったし、光元先生の箱庭体験にも参加してた。当時、すでに精神分析家の治療に週一で通い始めていたが、そこでの問題を箱庭で指摘されたことにも驚いた。どの治療もその道のプロがやればアセスメントは同じらしかった。今日、うちわの会での講演を頼まれて、そういえば分析家になったらそういうことをやらねばだった、と思い、こんなことを思い出したのかもしれない。

やることが多いというより一つ一つのことに時間が必要なものが多いがこの土日も地道に進めよう。まずは散歩がてら郵便局に荷物をとりにいこう。7時からやってくれてるから。みんなみんなお疲れ様。良い週末を。

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お菓子 仕事 俳句

確定申告、橋本多佳子の句集

昨日は雨が降った。昼も夜も降ったらしい。昼間、外に出たら道路が濡れていた。傘をさしている人もいたからほんの少し前まで降っていたのかもしれない。

雨は大船渡の火災を少し鎮めたらしい。もっと早く降ってくれればと思わざるを得ない。土の中にはまだ熱源があるとのこと。完全に鎮まりますように。すぐに大きく細やかな支援が入りますように。私もできることを探そう。

確定申告、ああそういえば、と後回しにしているものを次々思い出す。よくわからなくて後回しにしていたものだから友達に教えてもらいながらする。毎年、こうして、いろんな人と愚痴を言い合いながらする作業だ。開業仲間が多いのは心強い。こういうのはいろんなものの持ち寄りと分け合い。期日には間に合うだろう。色々納得いかないが。お金をもらわずにすごく労力かけているものには何もくれなくてお金をもらった分からは取られていく。なんなんだろう。仕事ってお金にならない部分がかなりあるけどね。

以前も書いたがコロナ禍、オンラインで話していた句友が教えてくれた橋本多佳子の句集をちょこちょこ読んでいる。馬車の時代を経験しているんだな、と思う。私はその音も揺れも映画やドラマの中でしか知らない。

仏蘭西租界

春曉の路面かつかつと馬車ゆかす
 
春曉の街燈ちかく車上に過ぎ
 
幌の馬車春曉の街の角に獲し

春曉の外套黑き夫と車上
 
春曉のひかり背がまろき馭者とゆけり
 
春曉の靄に燐寸の火をもやす

これらは多佳子が夫と上海、杭州へ旅したときのものだ。昭和10年5月、これが夫との最後の旅となったという。

毎日10,000歩以上歩いていた日々は終わったが週平均だとなんだかんだそのくらいになる。意識して歩いているわけでもいろんなところに移動しているわけでもないのに不思議だ。鳥たちは実物でも写真でも実によく歩く。飛べるのに。飛ぶ方が労力いるのかな。

今日は頒布のみのお菓子屋さんを営む友人のフロランタン。北杜市での生活も長くなってきた。

「バタークッキーの上に、キャラメルアーモンドが乗ったクッキーです。リッチなバター感の歯応え良いクッキーが、香ばしいキャラメルアーモンドをまろやかに包み込みます。」

と紹介されている。この紹介プリントもいつも嬉しい。そしてこのフロランタン、とっても美味しい。花豆のケーキも最高だったがこっちはまた別の感動がある。そしてプレゼントにつけてくれた丸子紅茶のこの自然な甘みはすごい。ほんわか。今日はよく晴れそう。外も光に覆われ始めた。週末、良い1日になりますように。

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俳句

朝の会話、斎藤志歩さんの俳句

曇り空。房総のお土産「旅するプリン」のいちごミルクの色は鮮やか。パッケージのイラストもかわいい。

昨日、朝、カーテンを開けたらベランダや向こうの家の屋根にうっすら雪が積もっていた。夜のうちに雨へ変わったのに思ったより白かった。滑らないようにあまりゴツくない雪対応のブーツを履いて玄関を出たら道路は普通の雨上がりの道路だった。久しぶりに履いたせいか親指のところが痛かったのでいつものスニーカーに変えた。寒かったけど手袋をしなくてもひどく悴むこともなかった。大きなポケットに突っ込んでいたからかもしれないけど。

そういえば先日、電車で向かいの角に立っていた小さな女の子のところになん駅か過ぎてから乗ってきた多分高学年の女の子が歩み寄った。小さな女の子は嬉しそうにすぐそばで手を振った。この二人のおしゃべりがとてものんびりでかわいらしかった。雪を見たことがない小さな子にスキー場で降るんだよと教える大きな子。スキー場も行ったことがない、と少し黙る小さな子。どんなブーツを履くのという質問も素敵だった。またしばらく間があって、大きな女の子が優しい声でいつもの男の子はと聞くとまたまたしばらく間があってあの子は雨の日は遅いのと小さな子がいい二人で少し笑いあった。通勤の電車でこんなかわいらしく穏やかな会話を耳にできるとは。

言葉の良さでいえば昨日の朝日新聞「(あるきだす言葉たち)」の「烏貝」という斉藤志歩さんの連作もとても素敵だった。私は穏やかで静かな句が好きなので斎藤志歩さんの俳句はどれも大好き。言葉の引き出しが多いのは間違いなのにそれをたくさん使っている感じが全くしない。第一句集『水と茶』(左右社)はタイトルもいいが良い句集だった。岸本尚毅さんの帯も本当にそうだなというものだった。

夕東風へ黒板消しを打ち合はす 斎藤志歩 ー『水と茶』より

黒板消しを打ち合わす文化は1992年生まれの斎藤さんにもあった。今もあるだろうけど減っていくだろう。夕東風はもう少し寒い時期の春風か。夕方の空はどんな色の日だったのだろう。黒板消しの出す色付きの煙が溶けていく空は。斎藤さんはすごく寒い日にすごく寒がっていてもあったかい空気を出せそうな人で、一度お会いしたことがあるが、雰囲気も俳句と同じだった。新聞に載ってくれて嬉しい。みんなに読んでもらえる。

鳥たちが何か言っている。きみたち、今日ちょっと遅いよね。私もか。良い一日になりますように。

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精神分析

雪が降った。

昨晩の帰り道は怖かった。アスファルトがうっすらと白くなりはじめてからは早かった。横を通り過ぎる車も雪に慣れていないせいか私が滑らなくても向こうから寄ってきそうで、緑道を歩いたりした。沈丁花はまだ雪に埋もれてなくて赤が鮮やかだったけど香りはあまりしなかった気がする。雨の日はむしろ香り立つのに。

確定申告が終わらない。本当に少しずつしかやっていなかったからだけど。あと少し、あと少し、が続いている。税金嫌だなあ。がんばって働いても、働かせてもらってる、みたいな立場。働かせてもらってる、という側面はあれど、政府のそれは私のそれとはだいぶ違うと思う。

本物っぽい鳥のぬいぐるみをパイプ椅子型の小さなスマホ置きに座らせたらふんぞりかえった人間みたいになった。一時期、大人になってもぬいぐるみと会話をしている身近な人をやや白い目で見ていたが、今は私も普通に会話する。新井素子さんは「ぬい」とよんで4000個のぬいぐるみをかわいがっているが、夫の手嶋さんもいつのまにか会話ができるようになったという。今や人間よりコミュニケーションしやすい存在、というか以前からそうだったのだろう。移行対象としてではなくそういう存在として。

早く出なければ。毎回少しの雪でも外出を控えろと言われる理由がわからなくはない。東京は本当に雪に弱い。気をつけていきましょう。

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Netflix 言葉

折々のことば、アカデミー賞

昨日は少し雪が降った。ものすごい厚着をしていたので寒さは少ししか感じなくてすんだ。今日も夜は雪の予報。たくさん着こんでいこう。

鷲田清一の朝日新聞「折々のことば」を読んだ。『宮田珠己の楽しい建築鑑賞』からの引用。「スルーしていた風景」と出会うことは難しいが、これまでスルーしていたことに気づいたときは見えたときで、それはそれまでとは別の見方ができるようになったということだから少し嬉しい。

第97回アカデミー賞の授賞式があった。「ザ・レディ・イン・オーケストラ NYフィルを変えた風」が短編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。この映画は、ニューヨーク・フィル初の女性コントラバス奏者オリン・オブライエンの軌跡を追ったものだ。Netflixでみて気に入っていた作品だ。オリンが入団したのは1966年、レナード・バーンスタインが常任指揮者だったとき、というのもなんだかしみじみする。オリン・オブライエンは2021年に引退。指導や演奏活動は続けているらしい。彼女がたったひとりの身内である姪に、友人に、教え子に話す言葉はどれも力強く印象的。この映画で、映画になる要素をたくさん持っている人であることを知ったが、それをこんなコンパクトな映画に仕上げたのがすごい。

長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされていた伊藤詩織さんの映画はそれに関するニュースしか見ていないし、論点が多すぎて、というか論点を増やすようなことが次々に起きて何かをいうことは難しくなっていると思う。個人の権利や尊厳はどんな職業であっても守られてほしいし、女性同士は特に守りあっていくために慎重にならねばならないことがたくさんある。衝動か、必要なスピードか、というのは当事者でも区別がつきにくいように思う。

気持ちが暗くなるようなニュースばかりだが、今朝は山梨の友人の花豆のケーキと静岡の丸子紅茶をいただいた。今日もそれぞれの土地で暮らす人たちの小さな日常が守られますように。

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精神分析

記憶

鳥たち元気。今日は久しぶりの雨。花粉は落ち着くかな。

先日、久しぶりに旧古河庭園へ行った。旧古河邸(大谷美術館)も行った。昔、家庭教師や学童保育の巡回相談をしていた地域だ。長く通ったが、その後経過した時間の方が長くなった。思い出すのはあの昔ながらの道の路面の店とか、そこをまっすぐいくと薬局があってとかだが、それらの記憶もやはりかなり色々なものが省略されていた。記憶力の低下を感じてからこれまでは覚えていなくても何も気にしなかったものまで覚えておきたくなっている気がする。その場に行けば思い出すことだってたくさんあるのだから放っておけばいいものを。とはいえ忘れたくないという気持ちまで忘れるということもありうるのでいろんな不安を矛盾の多いやり方でどうにさしようとする愚かさもまた悪くないのだろう。古河庭園には家庭教師先の子との苦い思いでもあるが、それが水辺で起きたことは覚えているがそれが起きそうな水辺を見つけることができなかった。

それにしても最近電池切れが早い。気候に対応できていないのかもしれない。今日は月曜日。がんばろう。

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俳句 精神分析、本

俳句、サラ・コフマン

お天気がイマイチ。昨日は光がいっぱいだった。

NHK俳句は堀田季何さん。「けりをつける」の「けり」って切れ字の「けり」だったのか!句友の名が!すごいなあ。でも私も先日、句会で出した二句両方に特選と佳作をいただいたので、最近の地道な習慣にご褒美をいただいた気分。引き続きがんばろう。

昨日は止まると寝てしまいそうだ、とちょっとカフェに寄って作業を始めたらそこで眠ってしまった。サラ・コフマンのフロイト読解が参考になっているので読んでいるのだけど文章が難解。私の読解力の問題もあるだろうけど、この文章はイマイチではないだろうか。難しい。サラ・コフマンはフロイトの読解方法をフロイトに適用する。フロイトの自己分析に厚みが出る。そしてコフマンは夢と遊び(芸術)を大切にしていると思う。たださすが哲学者。しつこい。エピグラフは

「好ましき事はすべて、三つでやってくる」。ジャン・パウル

あ、読んでいたのは『人はなぜ笑うのか? フロイトと機知』(人文書院)です。ひたすら「三」にこだわっている。精神分析は二を抜け出すための三だけど三を分解していくことも大事。そのためにはこのこだわりも大事か。

今日はどんな一日になるかな。いいことありますように。

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精神分析

三寒四温、サラ・コフマン

2月はあっというまに過ぎた。空はうっすらピンク。身体のメンテナンスは難しい。三寒四温は何十年も経験してきたのに。とりあえず白湯を飲んだ。

本を読んでいるとなんだこれはと少しゾッとすることがある。俳句でも時折そういう句に出くわす。たった17音で、というか、小説でも短編でそういうものが多いから短文の効果かもしれない。

年齢のせいか、元からか、色々なことをすぐに忘れてしまう。そして相変わらず探し物に時間がかかる。いつもそれでかなりの時間をロスしている気がするが、ぼーっとしている時間を少しそれに充てたと考えることもできる。

サラ・コフマンを読んでいた。フランスの哲学者でデリダと同じグループにいた人、という以前に、ユダヤ人として迫害を受けた人だ。父親は子どもたちを複数の家に匿わせ、自身はアウシュビッツで死んだ。『オルドネル通り、ラバ通り』はサラ・コフマンの自伝的作品である。私が読んでいたのは彼女のフロイト研究の一冊『芸術の幼年期―フロイト美学の一解釈』である。訳者の解説で明らかにされるフランス語の原題における多義性も興味深い。サラ・コフマンはニーチェ生誕150年の日に自ら命を絶ったという。これは「偶然ではない」とする意見もあるようだが偶然とは、ということから考えさせられもする。

そにしてもあくびばかり。今日もがんばろう。

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精神分析

母ー子ども研究や乳幼児観察。

ぼんやりした朝の空。今日はどんなお天気になるのだろう。花粉のせいか目が痒いしくしゃみが出る。まだ薬を飲むほどではないけど、今はいい薬が色々あると聞いている。

今朝はいつもより時間があるが色々とやることがある。メールの返信も溜めてしまった、というか、Gmailの調子がおかしくて受け取れていないメールが何通かあり困った。何かしらおかしなことは起きる方が普通なので別にいいんだけど、と思うことはできるけれど相手あることは片方だけがそう思っていても、というのもある。難しい。

先日、国際精神分析学会(IPA)の Health CommitteeがやっているOff the Couchを聞いていた。Ilene Lefcourtは1982年に0歳から3歳の子供と親のためのセンターを作り、長期に渡りグループを指導したりしてきた人らしい。NYで開業しているとのこと。精神分析家とは書いていないけど精神分析的なアプローチを用いて研究をしているのだと思う。

今回のテーマはChildhood Memories: their impact on mothers and their 0–3-year-old children

母親の記憶が早期の子供にどのような影響を与えるか、という割とベーシックな話に思えたが、母親にここまで焦点を当てる研究というのはそんなに多くないかもしれないと思い直したりした。数多くの母子の関わりを抱えていける組織を作ること自体がすごいことだ。日本でもタヴィストック・クリニックで訓練を積んできた先生方がその訓練の重要な一部である乳幼児観察という方法を取り入れ、小グループがいくつかある。私も脇谷順子先生のグループの最初のメンバーだった。私にとって乳幼児観察はとても貴重な体験だった。生まれたばかりの赤ちゃんを毎週一回、ご自宅で観察させてもらう、ということは両親、兄弟姉妹、祖父母との関わりも含まれているわけで、環境の重要性はもちろん、環境というものの複雑さを学んだ。私もそこにいて視線を送っているだけで環境の一部なわけで、人の視線や小さな動きの大きさも知った。それらは安易に子供にとってどうこう、とか言える類のものではない、ということを強く思えたのが一番いいことだったと思う。外側の人間と母というのはまるで異なるものなので、そこに対する敬意は当たり前に大事。乳幼児観察は観察者の内面の動きが重視されるがIlene Lefcourtの研究が対象にしている母親の語りはまずは非常に個別的なものとして聞き取られる必要がある。母親を「〜親」と名付けるだけでない仕方を臨床家は展開していく必要があるので勉強になった。

鳥たちは今日も元気そう。がんばろう。

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精神分析

わからなさを維持。

朝焼け。大船渡の火事を思い起こす。震災を乗り越えてきた地域ではないだろうか。早く鎮火しますように。

昨日は二・二六事件の日だった。89年が経った。少し前に高橋是清邸のその部屋に立った。その時の印象が強く資料をいくらか読んだが、一体何が起きたのか、という戸惑いが随所に見られた。何かの信念に突き動かされて動いてもあれはなんだったのだろうと愕然とする場面がある。人の人生は短いはずなのに、と思う。

高橋ユキさんのnewsletterに書かれる事件の記録にも人間ってと思わざるを得ない。人間の暴力性を根源的なものとして、それをどうにかしようという機能が人間には備わっているのではなかったか。その場の快楽が目の前の相手をモノ化する場面は大なり小なり経験しているが、その極端な例がいつも書かれていて辛い。が、人はわからない、ということを維持しつづける助けになる。すぐにわかったような気になる、というのも暴力と近いだろうから。

今朝は、鶴巻温泉で買ってきてくれたというデコポンと「桜の小径」というお菓子を緑茶と一緒にいただいた。穏やかで暖かい毎日を望みながら動ける人になりたい。

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精神分析

動作法

日の出がだいぶ早くなった。今朝は月が見えない。

丸山千秋先生、昨年六月に亡くなられていたのか。知らなかった。まだ東日本大震災よりもずっと前、成瀬悟策先生の動作法の研修会にでているときに丸山先生に直接動作法を実施していただいたことがある。震災前だと思うのは、丸山先生と同じくその研修会の講師をされていた冨永良喜先生のお名前をその後よく聞くようになったのが震災後だったから。冨永先生の『動作とイメージによるストレスマネジメント教育 基礎編: 子どもの生きる力と教師の自信回復のために』はSCの講演にも友達との勉強会にもよく使わせていただいた。あの研修会では変わらず「エライ」先生のセクハラ発言に辟易する場面もあったが丸山先生や冨永先生のお話や実践に感銘を受けた。丸山先生の身体に触れる際の自然な気遣いが心に残っていたので気持ちが冷え込むこともなかった。成瀬先生に厳しく何か言われても穏やかに微笑んでいらしたのも印象的。穏やか、というか苦笑かも。74歳でご逝去とのこと。当時の先生は今の私くらいの年齢だったのだろう。当時の私は精神分析的心理療法と動作法の両方を熱心に勉強しはじめた頃で、同じく成瀬先生の指導を受けた最上貴子先生に個人的に指導を受けようと思っていたが日程が精神分析的心理療法のスーパーヴィジョンと重なってしまい受けられなかったのだ、たしか。何者になるか、というのはこうしたちょっとした偶然によって方向づけられる、という体験を何度もしてきたが、この出来事は心に残っている。私はクリニックで自律訓練法を実施するのが好きで、身体に関わる心理療法はしっかり学びたいと思っていた。その後も色々と驚かされる体験を現場でしてきてその興味を失うことはなかったが精神分析の訓練が始まればそれに没頭する以外なかった。訓練とはそういうものだ。とかいってそんなふうに思えたのは訓練中盤からだけど。私にとっては誰かを理想化して入った世界ではなかったし、いろんなことに興味があったからどうなっていくのかなあ、自分、と思っていたけど結果的に「委ねる」ということを覚えたのは精神分析のおかげであり、その結果として精神分析家になったのだからとりあえずこういう道だったのだろう。それも「いまのところ」かもしれないけど、ここに至るまで本当にたくさんの先生にお世話になったのは間違いない。そのプロセスでいろんな横のつながりもできた。私たちの世代は頭で考えるより実際のフットワークが軽かったのかもしれないな、と指導者として若い人たちの愚痴を聞いていると思う。でも今には今のがんばりかたがあるし、ネットワークづくりのツールは当時よりずっと多い。私は私が与えられてきたもの、培ってきたもので学び続けられたらと思うが、みんなも自分で作ればいいんじゃないの、とあまり彼らが求めてなさそうな言葉を返したりしている。誰かのお膳立てに乗っかっているだけだと不満も溜まりやすいと思う。自分でやると自分が責任を取らなければならないのでやるべきことは適度に誰かを頼り、協力していくことになる。身体のメンテナンスも必要になる。私が休んでばかりでは困るから。動作法は身体のメンテナンスにとてもいいと思ったなあ。今はどんな広がりを見せているのだろう。またお話を聞きたいし、実践をしたい。筋トレにも活かせると思うし。

今日もがんばろう。

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精神分析

それぞれ。

東の空にほそーい月がきれい。昨日は梅をたくさん見た。場所に限らず白い梅の方がずっと多いように思う。ピンクの梅はとても印象が強いからちょうどいいけど。この週末はこの冬一番寒かったように思う。「ように思う」ことばかりでどれもこれも変わりゆく印象の、しかも私の短い長期記憶の濃いところでいうと、というお話。この寒さを乗り切れば暖かくなる、と思うと我慢できるけど、これから長い冬が始まる、とかだったら辛いなあ。雪国の人はどんな気持ちで過ごしているのだろう。きれいな写真を送ってきてくれるから普通に生活の中で身につけた方法で淡々と日常として過ごしているのだろうけど。私はスキーとか旅でしか雪国を体験したことないし、スキーで吹雪とか体験してるけどなんだかんだ無事だったし、雪かきとかしても一年に2、3回で、この冬なんてまだ一回もしていないし、どうしても「大変だろうなあ」と思ってしまう。でも雪国の暮らしが長くなってきた友達は東京で近所で暮らしていたときと同じ感じだし、それぞれの大変さがあるよね、ということなのかもしれない。美しいもの、といったら断然雪国の景色の方が思い浮かぶけど。壮大さあっての小さきモノという対比もある。

生活といえば、先日外でお酒を楽しむイベントがあって、お料理も地元のお店が出していたのだけど、隣のベンチにいたカップルが慣れた感じですごかった。寒い中、みんな身体揺らしながら列に並んでお料理を待っていたのだけど、彼らは、カップの豚汁とパックのごはんを机に出し、さらに煮卵、乾物系つまみなどなど準備万端。水やお湯も完備。豚汁に煮卵を入れて食べていたのも新鮮。梅酒もパックで持っていてペットボトルの水に注いで水割りにしていた。コップ要らず。でも今回のイベントではワイングラスがレンタル式で100円かかった。彼らはそれを知ると、一個ので2回買いにいけばいいよね、とそこにはきちんと時間をかけていた。でも一人の方はほとんど梅酒しか飲んでいなかった気がする。外でのイベントで持ち込み禁止とかではないからこういうのもありなんだな、と学んだ。地元の人たちなんだろうな、と思った。私たちははじめての街だから地元が出しているお店のお料理が食べたいし待つ気にもなるけどお酒だけ目当てだったらこういう楽しみ方もあり。色々なお酒を試飲できる会場もあって、会場によって人の捌き方が全然違って、片方は寒い中震えながら並んで、もう片方は列の作り方が違ってスムーズだった。自分がこういうイベントを開催することはないだろうけど勉強になる。効率を求めるなら色々工夫はあるけど、それがされていなくてもそれにはそれの良さが生まれるけどね。長い列で寒さに震えている間に振る舞われた「社長の酒」とか美味しかったし。イライラしている人ももちろんいたけど、その人をあとから別の場所で見かけたときはごきげんだったし、気分を切り替えられるって大切。まあ、切り替えられてなくてもそれはそれで「あのときさー」という思い出話にもなるか。

今週も頑張りましょう。

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精神分析

里山ハイキングへ行ったり。

よく晴れている。昨日は東武東上線沿いに遊びにいった。風が強くてネックウォーマーを耳まで引き上げてしのいだ。2時間くらいで戻ってこられる低山と城址にハイキング。きれいな池から始まる登山口までも駅から30分くらい歩くのだけど梅はまだ咲きはじめ。地域によって違うねえ。そんなに遠いわけでもないのに。白サギがかっこよく佇んでいたり、烏瓜がまだいい色のまま絡んでいたり、里山の景色は足を止める場所がいっぱい。

以前住んでいた上板橋に準急が止まるようになっていた。というより、当時各駅停車しか止まらなかった、という自分の情報が正確かどうかもわからないし、おそらく「準急」というものはなかった、と思う。みんなで森林公園に遊びに行ったりしたなあ。今回はもっと先へ。山は電車代だけで遊べるとはいえ旅費はかかるね。降りたあとの美味しいものにもね。最近、少しだけ有酸素のトレーニングも取り入れている成果がどのくらい出たかはわからないが寒さが疲れに一番きたかも。電車の広告で久しぶりにキッコロとモリゾーを見た。「愛・地球博」のキャラクター。キッコロとモリゾーのメモ帳とか使い切っていないから今もその辺にある。かわいいからなんとなくそばに置いている。「愛・地球博」は楽しかった。もう20年になるけどあの子たちはまだご活躍なのね。

そうだ、翻訳のチェックしないとだ。その前に机のをきれいにせんと。頑張りましょ。

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精神分析

Reading Freud最終回。

早起き。おはようございます。今朝も月がきれいです、

昨日は、2024年度のReading Freudの最終回でした。今年度は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』(岩崎学術出版社)を精読しました。2019年からはじめたこの回ですが、メンバーを変えての2度目の鼠男と狼男。今はこう呼ばれた二人の患者さんがどこの誰でどのようなその後だったかも大体明らかになっています。フロイト自身もそうですがフロイトの患者ともなると色々大変ですね。来年度は初期に遡って『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』 (岩波書店)から「心理学草案」を精読します。これまでもフロイトを読んできた人たちと丁寧に学んでいきたいと思っています。メンバーがみんな女性なので、主に男性の集団から生まれた精神分析の言説に対する違和感には素直でいられるかと思いますし、それを内容の難しさのせいにしないようにアシストしていけたらと思うので私もがんばって勉強します。

今日もコレット・ソレールの本を読みながら、ラカンの患者でもありずっとラカンのそばにいたソレールがラカンとの同一化の外に出るのは大変な困難だろう、と思いました。何度通り過ぎてもまだその内側にいる、という体験は誰にでもあると思いますが、本来、精神分析はそこではないどこかへいつのまにか出るはずの治療です。でもそれには自分の分析家との本当に密な関わりのほかに、多くの人との関わりが必要です。ソレールはラカン理論からラカンの「真意」とか精神分析の「本質」を取り出したいのかもしれないけれど、私みたいに、本でのラカンしか知らない女の分析家たちが、ソレール自身の言葉を読み繋いでいけば、ラカンとは離れた場所で、ソレール独自の思考を受け取ることができそうに思うので引き続き読んでいこうと思います。私は女性が精神分析家を志すことは、精神分析における同一化に抗うプロセスを作り出す役割を担うことであると思っているので、地道にやっていこうと思います。

どこまで行けるかよりどこへ出られるか、それを楽しみに今日も過ごすつもりです。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

作業

今日はあまり色がないまま空が水色になりつつある。でも東京の予報は晴れみたい。風がないといいなあ。

あまり行かない図書館で少し作業をした。机が広いと作業が進む。私は本やら何やらをすぐに広げてしまうからスペースがあったほうがいいのだなあ。この前、カフェの小さい机で作業してたらイヤホンを片方落とし、拾おうとしたらケースを落とし、もう片方も落とし、いつもだったら起き上がるときに机の裏に頭をゴツンッてやって机の上のカップも落とすから、ゆっくりゆっくり拾い上げた。次々変な動きを繰り出してしまったがイヤホンさえ無事ならいいのだ、この場合。不器用だったり落ち着きがなかったりすると色々大変。療育を学んでおいて本当によかった。自分に役立てるって素晴らしい。

作業といえば、確定申告で色々チェックしてたら電気代が意外なことに四月が高かった。三月ってそんなに使ったっけ。自分の印象では一番使っているのは一月二月なんだけどな。五月六月はとても安い。エアコンをほとんど使わないものね。東京電力は領収書を紙で送ってこなくなったから(送ってもらう場合は有料)きちんと意識できなくなった。水道代は2ヶ月ごとに紙でくるから比較もしやすくて季節もそういうところから感じ直したりするのだけどね。税金の督促状とかになると季節を感じている余裕はなく小さく積み重ねてきた生活に絶望感を持ち込まれてすごく嫌な気分になるけど。税金の督促だけは差し押さえまでの期間がものすごい早いし、ほぼ脅しだよな、と感じた。こういうところだけ、と思わせないような政治をしてくれてるならともかく。

今日も地道に、みんなにとっていい未来を考えつつ過ごそう。自分のことをまともに考えることが一番近道だと思っているけどまともってどんな感じ、というのはそれぞれ。良い一日になりますように。

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精神分析、本

コレット・ソレールの本など。

毎日、起きるとカーテンの向こうに月を探す。月の位置で大体の時間がわかる。昨晩、少し本読もうかな、と机の前に座ったけど読もうとしている本がラカン派の本だったせいか、ページを開いただけでボケーっと腑抜けていた。このままウトウトするのは目に見えていたので温めておいたお布団に潜りこんであっという間に寝た。遅い夕食が消化されていない感じが気持ち悪かったけど変な格好で寝てしまうより安全だった。

昼間もラカン派分析家のコレット・ソレール(Colette Soler)の 『What Lacan Said About Women: A Psychoanalytic Study 』を読んでいたらぐったりした。フランス語でなく英訳だけど。ある程度ラカン派の言葉に慣れてきたとはいえ、これ賞をとってるんだよね、これラカンに馴染みがないと結構読むの大変だよね、と難儀した。部分的、あるいは表面的には理解できるけど。ソレールはフロイトを独自の仕方で超えていくラカンを女性の側から掘り下げている。pas-toute、La femme n’existe pas.で表現される女性(ファルス享楽ではないJouissance Autreとともに)として女性に例外的な位置を与えたラカンの考えを我々はどこまで押し進めることができているだろうか、というのがソレールの問い。精神分析家の言説を変えるにはフランス精神分析、特にラカン派の勉強が欠かせないことはわかった、という段階の私には困難が多いが勉強しましょう。そうしましょう。

今朝はかわいいイチゴかな。ベリー系の焼き菓子とお茶。ほっこりしました。BGMは挟間美帆のLive LIfe This Day.挟間美帆の仕事も素晴らしい。どうぞ良い一日を。

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精神分析

色々

半月。東の空の薄いオレンジがきれい。昨日はデコポンを半分食べた。

すべきことが色々ある。細かいノルマはようやくto doリストで管理することを覚えた。手帳には色々書きすぎて管理不能になっているが大きな手帳にするのは嫌なのでタスクは即時こなす、という方法で対処したいがそれが難しいから今があるので別の対策をしよう。スマホを使いこなせないのは損かも。ヴィンテージと言われる私のMacも動いてくれてはいるがたまに心配な空白画面のまま止まったりする。Windowsのほうが仕事向きだからオフィスのはWindowsだけどこれももう長くなってきた。パソコン高いしどれがいいかわからないからこのままがんばってほしいなあ。

確定申告が見通したってきたなと思うと漏れがみつかって時間をとられる、というのをくりかえしている。支出も収入もシンプルなはずなのにこういう作業苦手。でも今年はスムーズなほう。やっぱり訓練終えてから余裕ができてる気がする。単に移動移動でバタバタするのが減ったというのもあるし、不思議な体験をたくさんした。ワークスルーは事後的にいろんな形で生じるらしい。長い時間かけたもんなぁ。

今日もいいことありますように。そういえば北海道の友達が送ってくれた雪の中の白鷺の写真がとてもきれいだった。雪国での暮らしが長い人は緊迫感と余裕を上手に乗りこなしておられる。すごい。