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俳句

「初」を並べる。

そろそろ日の出の時間、まだ外は暗いけど。手元に『風と雲のことば辞典』がある。今の空を表すことばはどれがいいだろう。昨日はどんな風が吹いていたっけ。昼間は風もなくとってもきれいな青い空が広がっていたのは覚えているのだけど。「何処吹く風」ということばもこの時点にのっている。歳時記からこの辞典と重なりそうなことばを探してみよう。あいの風、青嵐、青東風、青田風、総索引の最初のページに出てくるこれら、みんな夏。新年の歳時記を見ると初東風、初凪、初霞、「天文」に分類されるものはみんな載っているかもしれない。今年も15日が過ぎた。あっという間に日常が、とかいっていないでもっと新年気分を味わえばよかった、と昨日歳時記を見ながら思った。なんでも「初」をつけておけば新年の季語になるのではと思いながら、そういえば私、今年、全然「初なんとか」って言っていない気がすると思った。「初夢」すら言っていない気がする。頭の中で「初夢どんなだったっけな」と思ったのは覚えている。初詣はいった。「行った」の方のいった、ということは「言って」もいる。このブログだって「初日記」とか題名つければよかったし、階段をえっさほいさと登って辿り着いた首里城からの「初景色」だって言えた。正月はハイキングにいった。「初富士」は私は身近ではないが「初淺間」なら身近だし、「初ハイキング」とか言っておくのもありだった。「初笑い」はあのときか、このときか。あゆ美さんのカレンダーの表紙をめくって一月の素敵なイラストを見たときだって「初暦」な気分だった。「初鏡」はいつだったか。「初稽古」は筋トレに使えばよかった。「初電話」は今はあまり使わないけど「初メール」とか「初LINE」とかならいえた。もう15日だけどまだ15日。今年は夏が長いとか言っていても過ぎてみたらあっという間に夏気分を忘れた。歳時記を見る限りまだ新年の句でいける。今夜締切のオンライン句会の題も新年の季語がいくつかあがった。なんとなくの移り変わりを楽しむのが季節なのだからやはり旬のものと過ごしながらそれを楽しみたい。

初芝居その楽屋訪ふ女たち 高浜虚子

初夢の大きな顔が虚子に似る 阿波野青畝

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俳句 短詩 言葉 読書

恩田侑布子『星を見る人 日本語、どん底からの反転』を読んだ。

朝焼けがはじまる。東の空が赤くなってきた。西の空はまだ夜気分。久しぶりに長い時間、読書をした。大体30分ごとに乗り換つつ移動時間を全て同じ本に費やした。読んでいたのは恩田侑布子 『星を見る人 日本語、どん底からの反転』(春秋社)である。恩田侑布子は樸(あらき)俳句会の代表を務める俳人だ。評論でも第23回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞するなど多分俳句の世界を超えて有名な人なのだと思う。私は精神分析以外の世界の誰がどうというのをよく知らないが恩田侑布子の名前は恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)で知っていた。2021年刊行なのでコロナ禍、句友たちとオンラインで話しているときに話題になったのかもしれない。大高郁子さんがイラストを描いた久保田万太郎の小冊子も我が家にあるはず。句友たちと浅草へ吟行に出かけた頃に入手したものだったと思う。あれはお正月だった、たしか。記憶がコロナ前かコロナ禍かコロナ以降くらいの雑な分類になっていていろんなことが断片的。とても楽しかったのに。

さて『久保田万太郎俳句集』の解説でも居場所定まらぬまま明治、大正、昭和に幅広いジャンルの言葉を送り出した万太郎の俳句に特別な日本語で賛辞を捧げた恩田侑布子だが、最新の評論『星を見る人 日本語、どん底からの反転』でも筆捌きが見事。休日にのんびり好きな本を読めるなんて至福、と思いながら手に取ったのに最初から結構な緊張感があり、これは至福というよりなんというか、読めること自体は幸福だが、たしかに憂うべき現代の言葉の状況、そしてそれに加担しているに違いない自分の鈍感さ、適当さを思うと呑気な気分でもいられなかった。しかし、読み進めると著者の内に積み重ねられた言葉の自由自在さにだんだん気持ちが明るくなっていった。石牟礼道子を「みっちん」と呼び、その突き抜けた言語感覚に賛辞を送り、草間彌生の芸術を皮膜とその深さの二面性から捉え、荒川洋治の詩集に溢れる言葉の隠喩性を正確な引用で示す。そしてその後はやはり久保田万太郎、そして飯田蛇笏、三橋敏雄、大牧広、黒田杏子などなどと続く。緩急自在、剛柔自在の文章はこうやって時間をかけて味わうに限る。まだ途中なので楽しみに次の余暇を待とう。

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精神分析

能登、輪島塗職人さんの番組を見た。

朝ドラを見た。空が明るい。今年はまだ凍えるような寒さを体験していない。昨晩、NHKスペシャルで輪島の輪島塗職人さんたちのことを追っていて地震で壊れた窓にはめていた板が落ちるシーンがあった。大きい音にも落ち着いて外に出てその板が寒さを凌いでくれたことに感謝していた。その人は10年前にパートナーを癌で亡くしておりお手紙を書くように一方通行のLINEを妻に送り続けていた。昨年、輪島の手前、羽咋、加賀、小松、金沢へ行った。加賀市美術館で輪島塗の作品をたくさんみてそれらが分業だと知った。昨晩の番組でもそれが紹介されていた。木地師・下地師・研ぎ師・上塗り師・呂色師・蒔絵師・沈金師などなどいろんな職人さんの中の数人の方々が関わり合いながら被災後の生活を送る様子をカメラは捉えていた。地震のあとの水害、被災後ようやく場所を借り職人として仕事ができたことに感謝する人、水害前に癌になり亡くなられた人、その方が基礎を作った作品はいろんな職人の人たちの手によって完成した。とても美しかった。ひとつの器が出来上がるまでのどの工程も見事だった。こんなことが同じ手でできるんだな。技術は人が受け継ぐのにその人たちがたくさんいなくなってしまった。それでも生きることを続けている方々に涙が止まらなかった。地震から1年、水害からだってまだ4ヶ月経たない。そんななかこんな高度な技術の作品が人から人に渡りながら出来上がる。そのスピード感にも驚いた。自分達の手で道具を救い出し、洗い、場所を作り、作品に取り掛かるまでの準備をする以前に自分が生きていることが危機にさらされるなか、絶望しそうだという言葉を本当に静かに呟きながらぎりぎりのところで堪える人たち。どうか健康であってほしい。どうかもうなんの被害も出ないでほしい。寒い寒い冬を少しでも暖かい気持ちで過ごしてほしい。私は「能登半島の地震と豪雨の記録と表現のプラットフォーム note records」に毎月寄付をしているのだが、昨晩の番組を見ながら記録し伝えていくことの重要性を実感した。今日もどうぞご無事で。いい1日になりますように。

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精神分析

スケジュール、ニュートラル

カーテンをちろっと開けたらまだ暗かった。二度寝しようかと思ったけど起きた。きっとあとでうとうとするだろうから。この1週間締切のあるものは全てしあげた。いつも締切当日になるのに一日前とか二日前にできた。おしゃべりしたりちょっとどこかへ出かけたりする時間がほしくて集中した。本当はもっとスケジュールをきちんと立てて取り組むべきとわかってる。私の場合「隙間時間にやる、以上」で、隙間時間の半分はすぐに誘惑に負けて関係ない本読んだりしてしまう。「隙間時間の前半半分はやる」とか「隙間時間は作業(課題読書含む)と読書交互にやる」とか実情に合わせたスケジューリングでは意味がないしねえ。うーん。こんなこと書いている間にスケジュール帳作ればいいのよね。裏紙で作ったかわいいメモ帳を時々もらうのだけどそれに書いてみよう。次にやるべきことはなにか、というところから確認せねば。若い頃は「ダメだなあ、私は」と続いたと思うがそんなこと思ったところで、といい加減学んだので「自分に必要なら普通にやれば」と冷静な私が怠ける私に言い放つ自己内システムができている。がんばれー、と呑気な私が応援もしてくれる。がんばろう。

久しぶりに「ニュートラル」という言葉を自分で使ってみて「おお、久しぶり」と思った。中立性については岡野憲一郎先生が一冊(もっとかもしれないが)本を書いている。『中立性と現実』という本。フロイト自身は使っていない言葉だったと思うが「平等にただよう注意」や「禁欲原則」と関連している。岡野先生の本は2002年に出て序文は小此木啓吾先生が書いている。私が中立性という言葉にお久しぶり感を覚えるのは小此木先生がフロイトとフェレンツィを比較しながらよくお話しされていたフロイト的態度の一部がそれだったからだろう。『精神分析療法の道』参照。1919年かな。 フロイト技法論集に入っている1915年の『転移性恋愛についての観察(精神分析技法に関するさらなる勧めⅢ)』も参照。中立性というのは揺らぎをどうにかしないといけない局面があるから求められるわけだが、私は自分がなぜその言葉を使ったのかを考えながらこれがないと患者に自分の言葉以前に情緒を押し付けることになるからなあと普通のことを改めて思った。治療者自身の感覚は逆転移として大事とは思うが、逆転移というのはもっと細やかに語られるものであって、と思うわけだ。アンドレ・グリーン(A.green)の言葉にstructuring emptiness=構造化する空虚という言葉があるが中身によって容器が容器たりうるというのは本当にそうで、精神分析を精神分析たらしめるのは精神分析家の態度であって、だから訓練が必要、とフロイトはじめ精神分析家たちはしつこく書いているわけだな。こうやって自分で何か言っては何かを確認する日々。今日も確認と発見をしたい。

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精神分析、本

子どもの場合、IRED、オグデン“What Alive Means”

東京の日の出は6時51分。少しずつ早くなる。日の出の前から空は明るくなる。薄明。太陽の力ってすごい。気温は10度を下まわることが増えた。雪国の人たちの知恵が私にはないし、東京の交通機関にもそれはないと思う。なので雪は降らないで春になってほしい。でも子どもたちが喜ぶか。子どもだけのSNSがあったら雪国の子たちも雪をたまにしか見ない子も雪を見たことのない子もどんなことを書くのかな。大人とは全然違うこと書きそう。大人がいつもいっているであろうことを書く場合もあるだろうけど。子どもの心理療法もやってると大人とは全く違うプロセスを観察することになるというか、大人より細かくプロセスを振り返ることを一緒にやっているように感じる。物語が作れる、とかではなくて「あのときは多分」という感じで不確実ながら反復していた何かに対して仮説をたてるのが大人より普通になされやすい。あとしたくないことをしたくないということの罪悪感とか普通に本音を出せるようになる。大人は治療者に会う前からすでにいろんなところで自分を少しずつ失いながらくるからゆっくりゆっくり何度も同じところをぐるぐるしながらそんな自分にもそれをどうにかしてくれない相手にも苛立ったり不平不満を募らせたりしながらで、で、そんな気持ちになるとますます窮屈になって、と相手の反応を自分で思った以上に参照してしまうのかもね。だから言葉から論理的に導かれることを照らし返すだけでも「指摘された!」といやあな気持ちになってしまったりする。指摘されるって自分で気づいていることでも意外なことでも嫌なものなんだよね。というか論理的なことって腹が立つものだよね。私は何よりも論理的であることが大切だと思っているけれど。これは大人もだけど自分のことを気楽に振り返れるようになると論理性は増す。回りくどいことしなくても大丈夫ってなるからじゃないかなと思ってるけど。

国際精神分析学会(IPA)でInter-Regional Encyclopedic Dictionary (IRED) という辞書を作っていて、いろんな国の翻訳チームがそれぞれの国の言葉に翻訳をしている。それぞれ自分の仕事で忙しくしながらこういう作業もしているからすごく大変でようやく校正段階。一年ぶりくらいに見直したけど中身はすごく勉強になる。難しいけど。こういうのが世界中の言語になるってすごいことだと思う。もちろん無償でやってるけど世界中の精神分析家の考えが幅広く引用されているのも魅力。なので校正がんばりましょう。今週中、ってあと1日か・・・。

昨日はその翻訳しながら年末に出たオグデン(T.H. Ogden)の最新刊“What Alive Means Psychoanalytic Explorations”をちょこちょこ読んでしまった。表題論文はウィニコットの可能性空間を「移行対象と移行現象」の論文でいつも通りの細やかさで検討したもの。そのうえで臨床素材を用いて分析の枠組みを変更することの意味を探る論文。明確な考えが書いてあるわけではないけれど枠組みの変更というのは精神分析のプロセスの結果として生じるのでそんな意識的なものではないんだよね。ウィニコットが使うnegativeという言葉も検討されていたけど最近身近なA.グリーンとの比較とかはなかった。参考文献に挙げられてはいたけど別の文脈でだった気がする。ウィニコットを再検討するなら欲動論を持ちこんだほうが曖昧で感覚的な議論から抜け出す道が見えそうな気がするのだけどオグデンはそれはやらない。グリーンはする。それにしてもウィニコットが言っていることは検討しがいがある。オグデンがずーっとそのクリエイティブリーディングをしているのもわかるというかそうせざるを得ない相手だよねえ、ウィニコット。今日も読む時間作ろう。その前にどうにか仕上げたい。その前に寒さをどうにかしたい。体調管理しつつがんばりしょう。

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メリハリ

まだ暗い。洋梨がようやく柔らかくなった。瑞々しくてとってもおいしい。

今日締切の仕事を昨晩の帰り道になんとか送信した。休みの間はPCを持ち歩きたくなくてここ何回かの長期休みは実際に持ち歩かなかった。休み前にやるべきことを終わらせるつもりでそういう決意をしたわけだが持ち歩かなくなった今もそれが達成できているわけではない。おととしの大晦日は奄美大島のホテルでiphoneに一生懸命打ち込み締切ギリギリで応募書類を出した。東京に戻りPCで内容を確認したら誤字脱字が数箇所見つかり老眼の怖さを改めて知った。もちろんただの不注意もあるだろう。ひとしきり反省したつもりの先日もPCは持っていかなかった。iphoneでも仕事しなかった。応募書類は旅に出る前日に出した。今週中にやらねばならない課題たちはそのまま放置した。旅先で気になってどうせiphoneでやってしまうだろう、と思っていたがのんびりしすぎて忘れていた。暖かい土地で食べ歩き遊び食べ飲み寝るを繰り返したおかげで十分チャージされたせいか帰ってきてからすぐに取り組めた。メリ!ハリ!だな。思いのほか時間がかかったが残るはあとひとつ。今日明日の隙間時間に仕上げねば。私はAI以前にいろんなソフトを効率的に使うことができないのでなんでも印刷して手書きで確認してそれをまたデータとして戻すということをしているが印刷したものを探すまでにすごく時間がかかったりもする。非常に厄介。自分が。がしかし、今年はわりとがんばっている。まだ10日だが。成果物をみたり、周りと比較したりすればそうでもないのかもしれないが比較は禁物。筋トレにおいても私の自己肯定感は高い。「さっきよりうまい」と自分で言って笑われている。筋トレはメンテナンス以上の目的がないのでやっていること自体を自分で褒められる分野だ。今だったら冬を越そうとしているだけでえらい。そんな感じ。苦しむ自分に「がんばれ」と励ましながらきついメニューをしたりする。私の身体でも私のコントロール下にあるわけではない。なんとかがんばってー、と他人にするように励ます。今日も仕事も勉強もがんばってー。みんなもいい1日を。

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散歩 読書

沖縄。岸政彦『はじめての沖縄』。散歩。

今朝は「高尾ポテト」。京王線橋本で買ってくれたそう。これは何度もいただいている。今回は3種類。今朝はメープル。しっとりスイートポテト。美味しい。冬にはこういうポクッとしたお菓子を熱いお茶といただくのが素敵。

沖縄都市モノレール ゆいレールのD-51が歌うテーマソング「おきなわ」をかけながら岸政彦『はじめての沖縄』を久々に手に取った。謝辞には先日亡くなった打越正行の名前もある。私がはじめて沖縄へ行った頃、まだゆいレールは通っていなかった。打越正行も生きていた。昨年11月には「ひめゆり学徒隊」の生存者である与那覇百子さんが九十六歳で亡くなった。2019年焼失した首里城正殿は2026年秋に再建される。沖縄戦から今年で80年。私は久々に沖縄へ行った。

岸政彦はこの本の序章で、沖縄の人びとと内地の人びとの「区別」は実在すると明確にし、

境界線の「こちら側」にはっきりと立ち、境界線の向こう側を眺め、境界線とともに立ち、境界線について考えたい

と書いた。沖縄の人たちは親しみやすくよく喋る、と言っていいほど私は多くの人と出会っていないが今回もそんな印象を受けた。そして境界線も感じた。一方、私が知識で勝手に引いてきた境界線は今回私が移動した範囲では感じなかった。ゆいレールが変えたものもあるだろう。前回は沖縄の人に助けてもらいその人に憧れた。

私は何か書き物をしなくてはならないとき、いつもより念入りに散歩をする。そうしたいと思っているが、いつのまにかいつも通りぼんやりキョロキョロした散歩になる。思索にふけることもなく鳥の声がした枯れ木の前に立ち止まる。濡れ落ち葉は慎重に踏み、粉々になる大きな葉っぱは避けて歩く。そうこうしているうちに原稿のことはどこかへ行ってしまう。そして締切ギリギリになんとか書く。それでも拙くともそれができるのはこういう散歩のおかげだと思っている。何かを手放してみてもそれは要素として蠢き続けている。それがいつのまにか曖昧な形をなし何とか書き言葉になってくれる。そんなイメージ。そこには身体の動きが必要なんだと思う、私には。沖縄のことはまだ書けない。書く必要もないのだがこんなブログにさえ書けない。散歩が全然足りない。また行きたい。

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精神分析、本

シャルリ・エブド襲撃事件、『跳ね返りとトラウマ そばにいるあなたも無傷ではない』

一昨日雨が降って尖っていた空気が変化した。松過ぎ、小正月、女正月、と新年の歳時記はまだ使える。歳時記は春、夏、秋、冬、新年の分類だ。立春は2月3日。先日梅の木を観察しにいった。もう目覚めている様子だった。蝋梅がそろそろ咲くだろう。あのいい香りにまた会える。会えたらいい。枯れ木には小鳥たちが賑やかで冬も楽しそう。

昨晩、ニュースでシャルリ・エブド襲撃事件から10年とやっていた。当日の現場の様子や犠牲者を追悼する式典の映像が流れていた。

2022年『跳ね返りとトラウマ そばにいるあなたも無傷ではない』カミーユ・エマニュエル 著/吉田良子 訳(柏書房)という本がでた。被害者の近親者である著者が体験した「リコシェ」、これが「跳ね返り」という意味だ。

著者カミーユ・エマニュエルの夫リュズは『シャルリ・エブド』の風刺画家だった。わずか数分の差で襲撃を免れたが現場を目撃しPTSDを発症。その夫の苦しみをそばでともにし、パリにもいることができなくなり、著者はどんどん追い詰められていく。「普通に」考えれば彼女の苦しみは想像に余りあるが「被害者」として「認定」されることは当たり前ではなかった。著者は心理療法家に言われた「跳ね返り」という言葉をキーに自分の体験を綴っていく。いわばたたかいの記録である。柏書房のウェブマガジンに精神科医である阿部又一郎が書いた書評がとてもいいのでそちらもぜひ。阿部又一郎はセルジュ・ティスロンの『レジリエンス : こころの回復とはなにか』の訳者でもあり、臨床家、特に精神分析臨床に関心のある方はそちらもお勧めしたい。

痛みは痛みとして苦しみは苦しみとしてそれが何であるかは専門家は追求すべきかもしれないがそうでなければそれらがそのまま受け止められ「普通に」必要なことがなされる毎日でありますように。

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精神分析 読書

高橋澪子 『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』を読み返した。

空がまた曇り始めた。さっき西の窓が朝焼けでいっぱいに染まったのに。雨も少し降っているらしい。昨日の帰りは雨風が強く傘を持っていかれそうになる瞬間もあった。一番近いスーパーに寄るといつもよりずっと空いていた。何日ぶりの雨だろう。降ってくれたのはよかった。

昨日、高橋澪子 『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』 (講談社学術文庫、2016.9)をなんとなく読み返していた。

この本は「古典的実験心理学を中心とする十九世紀ドイツの心理学に的を絞り」「今日のいわゆる”科学的”心理学を支えている方法論と認識論の歴史的な成立過程を明らかにする」「”心理学のための”心理学史」である。原本は20年間の研究成果を収めた1996年の博士論文を中心に編纂され1999年に刊行された『心の科学史ー西洋心理学の源流と実験心理学の誕生』である。

どういう時代の本かというと心理学専攻の人にはこの脚注が役立つかもしれない。

「宗教による”いやし”と心理学による”いやし”の関係について河合隼雄氏がユング派臨床心理学者としての長年の経験に裏打ちされた著書を相次いで発表しておられることは、この問題に対する有力な手がかりの一つが専門界によっても既に準備されつつあることを示していて心強い」

1999年は私が大学院を卒業した年であり、著者が「あとがきーレクイエム」で感謝を捧げる何人もの師とのやりとりを自分にも重ねた。私はちょうど国内での心理学史の本が出始めた頃の学生だったと思うが高橋澪子の研究は著者の博学と独自の史観に貫かれており、学生時代に出会えていたらお世話になった東洋先生や柏木恵子先生ともっといろいろなお話ができたかもしれない。

この本は精神分析が心理学にどのように位置付けられていったかにも少し触れておりボーリング(Boring, E. G.)の『実験心理学史』では随所で好意的な論評が加えられていると書いてあった。また『実験心理学史』第二版の最終章には「力動心理学」も登場するそうだ。読んでみたいなと思って少し調べたら初版をインターネットアーカイブのサイトで見ることができた。落丁や書き込みもあるが目次だけでも興味深い。

A History Of Experimental Psychology. by: Boring, Edwin G. Publication date: 1929. Topics: RMSC. Collection: digitallibraryindia; JaiGyan.

ともあれ、高橋澪子のこの本は心理学の初期からどんどん遠くなっていく今もこれからもずっと読まれてほしい。エクスターナルな立場が中心の心理学史研究だけでなく、インターナルな心理学史の必要性に著者ははこだわる。なぜか。

「昨今の科学史研究の動向もまったく知らないわけではない筆者が、あえてインターナルな問題意識に固執しつづけたのは、ひとえに「心理学」という学問が背負っている(おそらくは人間の知の構造そのものから来ているに相違ない)宿命的な”心の両面性”という固有問題のためである。だが、このことは、心理学史に対するエクスターナルな視点からの研究が不必要であるというようなことまで、決して意味するものではない。」

これはそのまま学問とは何かという問いにつながっている。ともあれ心理学の名著である。1998年2月10日の日付で書かれた「あとがきーレクイエム」だけでも読んでほしい。学問を志す人、特に心理学を志す人なら本文を読まねばという気持ちにさせられる、というよりひきこまれるのではないだろうか。著者が様々な師からかけられた「学問はすべて”あこがれ”ではないでしょうか」「にせ物になるなよ」という言葉も胸に響く。臨床も学問の上に成り立っていること、そしてその学問とは、という問いを追い続けることもまた仕事だ。がんばろう。

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映画

ブラック・バードをみたり。

朝焼けがとてもきれい。ちょっと痣みたい。冬晴れという季語に少しマイナス面が漂うのと同じ、というのはNHK俳句で堀田季何さんがそんな話をしてたから。しかし寒いですね。

昨日のことを思い返しても驚くほど何かが進んだ形跡がない。ずっと取り組んでいたつもりが。いや思い出した。Apple TVが昨日まで無料ということを全然知らなくて慌ててタロン・エジャトンがでてる『ブラック・バード』をみてしまったからだ。タロンのバキバキな身体と繊細な表情の変化もすばらしかったがポール・ウォルター・ハウザーの演技が!ずっと緊張感あってすごかった。これが実話ベースというのも驚き。FBIはこんなこともするのか。

にしてもお昼過ぎまでは結構がんばっていたつもりが私は何をがんばっていたのだろう。次の次にやるべきことの準備をした形跡しかない。まあいい。とりあえずなかなか進まない今の作業をやる。そうだ、事務作業に時間がかかったんだった…。たいした作業じゃないのにためたからね。はあ。今週はがんばりましょ。

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精神分析、本

おしゃべり、翻訳、精神分析の未来。

1月になって本格的に寒い。なのに昨日は汗をかいた。待ち合わせに向かっていたらなんと電車がストップ。慌てて違う路線まで移動して15分遅れで着。新年のご挨拶やらをして美味しそうなメニューから選んでおしゃべり。古き良き時代を知る人として世代の異なる心理職の輪を広げることができてよかった。こういう柔らかく穏やかなおしゃべりの場は人を豊かにする。それにしても私はすっかり一番上の世代になってきた。そして心理職として、精神分析を志したものとして本当に恵まれた時代を生きてきたんだなと思った。もちろんその時代を暗黒と感じる人もいるだろうけど。今年もいろんな人と気楽な機会を作っていきたい。ゆっくりしたあとには電車も無事復旧。事例検討会にも時間通り参加できた。介入の仕方についていろんな意見が出たが私は転移解釈を口にすることは最大限控える。それよりとどまることを必要に思う。継続で会っていれば色々なことが起き色々な気持ちになるのが当たり前だろう。その色々をお互いに体験していくこと自体が効果といえば効果につながっていく。ウィニコットのスクイグルが効果的なのはそれが何に見えようと構わないくらいの緩い線のあっさりしたやりとりが積み重ねられるからだろう。それが部分だろうと全体だろうと構わないわけである。実際そんなのはどっちだってありうるのだから。フランスのラカン派ではないIPAの精神分析家アンドレ・グリーンの文献を訳していたら明け方が近くなっていた。すごく時間がかかってしまった。引用されているフロイトの文章は私も以前メモしておいたところだった。全体の訳ができるにつれてグリーンのこの書き方はフロイトの書き方を真似たりずらしたりしているのかもしれないなと思った。1997年の論文だったと思うが

フロイトの1919年の論考「精神分析療法の道」の

「また、私たちの治療法を大衆を相手に適用するにあたって、分析という純金から直接暗示という銅をたっぷり使った合金を作る必要が生じる公算は大きいでしょう。また、そのときには、戦争神経症の治療の場合のように、催眠による影響が再び用いられもしましょう。しかしながら、たとえこの精神療法が大衆のために形作られ、どのような要素によって組み立てられようとも、その最も効果的で重要な構成部分は確実に、厳密で不偏不党である精神分析から借りてこられたものであり続けるでしょう。」

という箇所はグリーンが精神分析の危機と限界を書いているところと重なる、というかグリーンはこの論文の別の箇所を引用しており当然問題意識の重なりがあってのことだろう。私もいろんな学問と実践を経由して精神分析家になったが常にこれまでの多様な経験を生かしながら精神分析が広く届けられるように考えないといけないのは今年も変わらない。未来を考えるためには希望を持たないと。またおしゃべりの場を設けよう。助けてもらいながらやろう。窓の外に光が溢れ始めている。明日はようやく少し雨マークが出ている。暖かい飲み物と一緒にがんばろう。

(ここは日々のよしなしごとを書き連ねる場なので精神分析にご興味ある方は私のオフィスのウェブサイトをごらんください。)

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精神分析

ハイキングとか。

ハイキングへ行った。週一回の筋トレの成果か、あるいは疲れに鈍くなっているのか帰宅した後もずっと課題に集中できた。でも全然進まなかった。アンドレ・グリーンの本を英語で読んでいたのだけどフランス語で読むよりマシとはいえ、グリーンがどんな立場で何を言いたいかがあまり掴めないのもあり、あと単純に英語が読みにくい、あるいは私の英語力がないせいで時間をかけたわりに成果が見られない。困った。それでも三分の一くらいはできたかなあ。はあ。

今朝はどの果物を食べようかな。年末から果物が豊富。嬉しい。ハイキング後のビールが美味しいように朝の乾きには果物が美味しい。最近、志田未来主演の「下山メシ」というドラマを見た。「孤独のグルメ」と同じで、言葉ではなく表情で演技し、心の声をそれに当てる形式のドラマ。志田未来の大きな瞳とちょっとおどおどした感じと健康そうな食べっぷりがとてもかわいくてなんだかずっと見てしまった。登場する山々も有名なところばかりで下山メシの美味しさもとても共感したが行ったことのある店はなかった。あそこかぁ、とわかる店はあったので今度ハイキングするときは行ってみたい。

外でいろんな音がする。もう今日から通常営業という人も多いだろう。私は月曜日から。それまでに仕上げねばならないことがたくさんで辛い、とかいいながら知らない土地の味のお雑煮作ろうかな、とかも同時に思っている。そんなものだ。自分から辛い苦しいにはまりこまないように楽しいことを考えつつ地道にやりましょう。

それにしても雨が降らない。乾燥がひどい。インフルもコロナもその他も色々流行っているから気をつけて過ごしましょう。

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Netflix イベント 趣味

お正月、水族館、コミュニケーション

鳥が鋭く鳴いている。元気かな。今日もいいお天気?昨日、2日もいいお天気だった。元日は初詣に行った神社で初日の出をみた。本来なら地平線や水平線にみる1月1日の太陽のことなのだろう。なので少し昇ってしまった太陽だったけどみんなで歓声をあげるほどきれいだった。空に馴染むまでみんなの顔が赤く照らされていた。朝の太陽はみんなよけないのね。元日も陽射しが強くて前にいたカップルはストールで遮っていた。私もずっとキャップをかぶっていた。

おせちも分けていただいた。紅白かまぼこ、伊達巻、昆布巻き、田作り、手綱こんにゃく、里芋、きんぴら。紅白なますと黒豆は今年はいただかず。みんな食べたいもの、作りたいものだけでいいのだ。おやつにはレトルトのぜんざいと薄いお餅をもらっていたのでそれを。お休み中はなんでも特別特別と思ってクラフトビールも色々試した。親戚の子がまだ小さかった頃、私たちが遊びにいくと「特別」と言って好きなもの三昧していたことを思い出す。親から何か言われるのを見越しているのね。親たちは「特別?」と笑っていた。特別な日をいっぱい作ってあげたいし自分にも作りたい。そのために地道に習慣を続けていく。

習慣には趣味も含まれているがライブや演劇は普段はなかなかいけないので主に配信。美術館とかはちょっともったいないなと思いつつ自分の時間に合わせて動けるから行く。配信はみたいのがたまっている。タロン・エジャトン主演のApple TV+のリミテッドシリーズも見たいが入っていない。Netflixでやってくれないよね、だからリミテッドなんだよね。限界は大事。有限性あってこその趣味。休みだって終わるから楽しいんだ。でも、となる。「グッド・ドクター6」もU-NEXTでやっているがこちらはNetflixでやるのだろうか。優先順位大事。

私は水族館が好きで先日も行ってきた。特にこだわりがあるわけではないのだが各地の水族館にはその土地にしかいない魚がいるので面白い。イルカはどこにでもいるがイルカショーとなるとだいぶ違う。イルカの学習能力については昨日少しベイトソンの学習理論で触れたが(触れたか?後で確認)体重とかも違うからそれぞれやりやすい技も変わってくるよね、など思いながら訓練士さんとのコミュニケーションを見守ることが多い。聴覚や視覚の違いとかも気になる。ショー自体よりショーの前のリハーサルとかショーが終わった後のイルカの様子をじーっと観察することが多い。聞いたり調べたりすればいいのだが答えが知りたいわけでもない。しかし、なんとなくじーっと見てると係員さんの方から声をかけてくれることもある。先日はタツノオトシゴが元気いっぱいのお魚(名前を忘れてしまった)に餌を取られてしまうのをどうなることかと見守っていたら係員さんが動きがゆっくりのタツノオトシゴのことを教えてくれた。元気いっぱいのお魚のこともちょっと困った顔をしながら愛おしそうに話してくれた。この水槽の子たちをみんな大切に思っているのね、と思いながら聞いていた。餌を取られてしまうとしてもいろんな種類のが一緒にいた方がいいのかしらね、とまたベイトソンのことを思い出す。

『精神の生態学へ(下)』(岩波文庫)「クジラ目と他の哺乳動物のコミュニケーションの問題点」は討議の記録なのだがベイトソンの言葉に同意する形でレイ博士がニューヨーク水族館でのシロイルカの観察について話す場面がある。彼はそこでイルカが水槽の中で退屈しないようにする工夫として次のようにいう。気に入った箇所なのでメモをしておいた。

「イルカをいじるというのではなくて。干渉されるのは嫌いますからね。そうではなくて、たとえば、違った動物を連れてきて同居させてみるとか、ちょっとした気の利いたことをわれわれがやってみせるとか、そうすれば、連中ももっと反応してくるようになると思うんです。今のままだと、檻の中のサルと同じで、高度な知能と営みを持ちながら、鈍い動物として暮らすよう強いられてしまうことになる。」

「ちょっとした気の利いたとをわれわれがやってみせる」。これ非常に大事。なにが気が利いているかは観察ありきだが。「違った動物を連れてきて同居させてみる」というのはタツノオトシゴと元気いっぱいのお魚を同居させることと似ているかもしれない。別にそれでタツノオトシゴの動きが早くなって確実に食事にありつける、とかそういう目的のためではなくて。うーん。今赤ちゃんのこととか戦時中のこととか色々思い浮かんでこういう説明はそれこそコンテクストが共有されていないと議論になりにくいんだよなあ、と頭の中で頭を抱えた。

今日もいい日でありますように。

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精神分析

学習

元日、夜、家に帰るとたくさんの郵便物が届いていた。世の中は休みのはずではなかったか。元日に届くのは年賀状の束だけではなかったか。みなさん、本当にお疲れ様です。年内に出してしまわねば、出してしまいたい、いろんな理由があると思う。ゆっくりできる日があることを祈る。

休みの間、一日乗車券のようなものを使ったが今はなんでもQRコードなのか。最初から改札で引っかかってしまい駅員さんに「反応しないです」と言いにいったら「それと一緒に入れました?」と私のもう一方の手にあるパスケースに入ったPASMOをチロリ。おお。「はい」というと「そっちが反応しています」とさっと手を出し私も慌ててPASMOを渡し処理してもらっている間「ほんとすいません」みたいなことを2、3回いってしまった。それくらいクールだった。「そっちが反応しています」という言い方には痺れた。パッと私のもう片方の手に視線を走らせ、私の使った言葉にきちんと対応している。こういうのがわかりやすさだよな、と思った。こっちも駅員さんの注意の向け方につられるから何を言われているかすぐわかる。「え、なんでだろ」みたいな感じで私に差し出された方の乗車券だけに注意を向けていたら解決は遅れる。駅員さんたちは私みたいな人に慣れているというのはあるだろうけどね。この人もPASMOやらSuicaやらと重ねてピッてしたんだろうなあってすでにたくさん学習しているのだろう。

問題の立て方を誤ると学習はうまくいかないということについてはベイトソンを参照できる。コンテクストの切り取りについてもだ。斎藤環の『イルカと否定神学』(医学書院)を読んでいてベイトソンの学習概念に改めて興味を持った。学生の時に統合失調症の理解にダブル・バインド理論があることを知り少し勉強したが当時の私には難しすぎた。今は少し理解が進んでいるのでベイトソンの学習概念がコミュニケーションについて考える際に非常に示唆的なのは理解できる。簡単ではないが。

ベイトソンは『精神の生態学へ(下)』「クジラ目と他の哺乳動物のコミュニケーションの問題点」で動物の間を飛び交っているシグナルの量についてこう述べている箇所も私は好きだ。

「それを「コミュニケーションから退いている」と評することはできても、その退きは、たとえば家族の場で、統合失調症の患者がまったく自分を閉ざし、その閉ざしの事実を中心として家族関係が展開していく場合と、基本的に変わらないものでしょう。動かずにいるという事実の周りを他のメンバーが動いていく。何もしないことで、何もしないという事実が強く伝わるわけです。」

まさに。ただそこにいることの意味、というのは身体をもっていることと切り離せない。この辺が今年のテーマだろうな。

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精神分析

2025年元旦

あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ここはなんとなく習慣になっているので今年も頭を使わないで手が勝手に動く範囲のことをツラツラ書いていくと思います。そのうちぱったり書かなくなることもあるかもしれません。この30年くらいの間に複数のブログをネット上に放置しています。理由は自分でもわかりませんがプロバイダを変えたりパスワードを忘れたままその存在自体を忘れてしまったりしたのだと思います。だからここも頭を使うことが増えて余裕がなくなったり書く以外のことが充実したり単に忘れたりどんなときに終わるのかわかりませんが私のオフィスのウェブサイトの方は引き続きチェックしていただきたく存じます。多くの方が精神分析に関心を向けてくださったら嬉しいのです。知的にではなく新しい体験への好奇心として。

今年はどんな一年になるのでしょう。災害に対して迅速に支援が入り、心が即時随時守られる世界が当たり前になりますように。

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精神分析

大晦日

テレビに西田敏行がでている。クドカン作品での演技が大好き。郡山市生まれ。震災後の活動もすごかった。能登半島地震から明日で一年。復旧が進まない現地のアンケート結果が悲しい。一番大変なときに少しの見通しをもらうよりも少しの期待が破られることのほうが多かったら希望をもてないのは当然だろう。絶望しないことで精一杯かもしれない。引き続き多くの具体的な支援が入りますように。

今年は本当に年末を感じられない。今日は大晦日か。初詣の準備とか新年っぽいものもたくさんみかけてるのに。新年早々に会う予定の人とは夢ですでに会ってしまった。年賀状は書いた。早く出さなきゃと思いつつよけいなことを書いたり持ち歩くのを忘れたりしてして遅くなった。

楽しみにしていたオグデン(Thomas H. Ogden)の最新刊
“What Alive Means
Psychoanalytic Explorations”を早速読んでしまいノルマ本が読み終わらない。まずい。オグデンの英語は比較的読みやすいから難しいのが後回しになる。来年、明日からがんばろう。

今日はどんな1日になるかなあ。のんびり構えておこう。

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短詩

短歌とか。

真っ暗。最近、Kindleにいれておいた短歌を突然読んだ。歩きながら読むのにちょうどよかった。しかし俳句をやっていると短歌はとても長く感じた。そして複雑だった。

瀬戸夏子
現代歌人シリーズ10
かわいい海とかわいくない海 end.

瀬戸夏子は伝統ある早稲田大学短歌会出身。フェミニズムの観点からインパクトのある批評を書く人でもある。

雪もない宇宙のいない血のいない場所でよいにおいにてやすらかに死ね

緯度を引く気持ちで宝石をたべて悲しむ人々を裏切るように所以を知らせる

アメリカのたましい、林檎、カーテンコールは地獄の手前

おお。。。となる。語彙がものすごい。現代短歌は穂村弘以降と言われる。瀬戸夏子はそれをさらに外へ開いている。私が一番好きな歌人は平岡直子だが瀬戸夏子のスピード感も捨てがたい。

私はあまり料理の写真を撮ったりしないのだが先日行ったクラフトビールの並びがきれいで写真をとっていいか聞いたらお店の人が「今日ノーメイクなんだけどいいですか」というので冗談かと思ったら違ったらしく一緒に撮った。そういうことではなかったのだけど面白かった。

頭の中はあれやこれやで忙しい気がするがのんびり過ごしている。のんびりのんびり。休みの間にやることやりなさいね。はい。はあ。

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精神分析

Reading Freudなど。

当時が過ぎて日の入りは1分単位で遅くなるけど日の出はほぼ変わらない。

今年最後のReading Freudはウルフマンの有名な夢を読み終えた後の「若干の議論」からのスタートだった。第一次世界大戦の影響も考えながらいろんなことを話し合った。とにかく精神分析は隠喩的言語を中心に据えてきたこと、欲動論発であること、セクシュアリティにおける両性性は自明だが、身体性を絡めた途端フロイトの記述が曖昧になること、などなど。精神分析の言語が全て隠喩だとは思わない、あるいは隠喩として捉えた場合、言葉と言葉の「あいだ」の程度によって違いがある、それは病理によってだったり、などなど。今こうしてすごい速さでメモっているがフロイトの頭の中についていくには遅すぎる。

とにかく年内のオフィスでの仕事は終えたので持ち歩きでできる仕事をやらねば。とはいえ年末年始楽しみつつ。仕事がなく「生活」をする方が大変、という人もいると思うが生活の手も休められる時間がもてますように。それぞれのペースが守られますように。

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読書

福島、東北、能登

三日月が細く鋭く遠くなった。早朝の地震、小刻みの揺れが大きくなっていくのかじっとしながら待った。大きな揺れにはならなかった。東京の私のところは。震源地は福島県沖で石巻は震度4。震度に関わらず地震はまだずっと怖いだろうか。不安だろうか。それぞれに異なる感覚が大切にされますように。

1996年、『東北学へ1 もうひとつの東北から』(作品社)が出版された。その後、文庫化され一番新しいのは2023年に出た『東北学へ/忘れられた東北』だろうか。見ている目が変われば景色は変わる。柳田以降を生きるわたしたちとして赤坂憲雄は丹念な野辺歩きをして書物にしたためた。まだあの大きな地震が起きていなかった。

今年元旦の能登半島地震の後、能登の高校生が能登の里山里海とともに生きる人たちに「聞き書き」をした記録は能登半島復興支援冊子『ノトアリテ』にまとめられた。増刷予定と聞くがクラファンも中止されまだ目処がたっていないらしい。伝承事業の記憶はこのサイトで読むことができる。

東日本大震災以降、岩手県陸前高田市に拠点を移し、対話の場づくりなどをおこなってきた瀬尾夏美は震災後の7年の言葉の断片を『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(晶文社)に集めた。

「生活をするということは

思い出したり考えたりすることと、

共存しにくいものかもしれません。

生活をする手を止めて、そこから抜け出して

書き留める時間を持たないと、

それらは成立しづらい。」

そう思う。私のオフィスにくる人たちは皆そういう時間を求めていたことにきてから気づく。生活をする手を少し止める。自分のための時間をもつことが誰かの時間を思うことにつながる。そういう実感を多くの人がもてますように。

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読書

『詩と散策』を読んだり。

今朝も三日月。私は何かをみると本の一場面を思い出すことが多い。最近は月を見ると韓国の小説を思い出すようになった。実際、韓国で月を見たかどうかは覚えていない。

読まねばならない本を半分くらい読んだ。少しノってきたかもしれない。どうして最初あんなに読みにくかったのだろう、と思うくらい普通に読めた。それでもほんの少しの隙間時間には別の本を手に取るか音楽を聞く。短いエッセイが最適。한정원(ハン・ジョンウォン)のエッセイ集『詩と散策』橋本智保訳/書肆侃侃房とか。オクタビオ・パスの「ぼくに見えるものと言うことの間に」の引用で幕を開けるこの本の最初のエッセイは「宇宙よりもっと大きな」。

「私が冬を愛する理由は百個ほどあるのだが、」

という始まりがすでに愛おしい。冬を愛せない私には到底持つことのできない感性で綴られる言葉はぬくぬくと守られた場所でなら私だって同一化できる。ここで引用される詩人はフェルナンド・ペソアだ。異名者たちと共に生きたペソアの宇宙は今私たちが思い描く宇宙より少し大きい。

私にはすでに寒すぎる冬でも「以前はもっと寒かったよね」と思うのも本当。実際、どうなっているのだろう、と検索したらNHKのネットニュースで「全国の平均気温は11月末時点で平年と比べて1.64度高く、年間では統計を開始した1898年以降、過去126年で最も高くなる見込みです。」と書いてあった。やっぱりそうなのか。青森で実感した温暖化が及ぼす変化への恐れが蘇ってくる。何ができるだろうか。

昨晩、そんなことを考えていてツイートもした。様々な本の断片を思い出すのはこんなときでもある。青木玉の『小石川の家』のことは先月も書いた

それでもとりあえず今日も一日。がんばろう。

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Netflix 映画

黒人女性の映画など。

今朝も三日月がきれい。空の色が薄くなってもほっそり輝いている。さっき食べたキウイもキラキラしてた。贈り物でいただいたいいキウイ。ちょうどよい柔かさと酸味と甘味でとても美味しかった。

先日『6888郵便大隊』(The Six Triple Eight)を見たと書いた。黒人女性の映画で実話ベースのものだとKKKの支部長と黒人女性活動家の対立と対話を描いた『ベスト・オブ・エネミーズ 〜価値ある闘い〜』(The Best of Enemies)、女性としてはじめて大統領に立候補した『シャーリー・チザム』(SHIRLEY)なども比較的最近見た。 どちらも嘘みたいな本当のお話で先駆者たちのパワーがすごい。こんな差別が当たり前のようにあることが嘘だと思いたいが本当に本当の話なのが辛い。『ベスト・オブ・エネミーズ 〜価値ある闘い〜』のラストがほぼ『フィールド・オブ・ドリームス』(Field of Dreams)なのは可笑しかったが感動した。『フィールド・オブ・ドリームス』(Field of Dreams)も公開された当時は何も思わなかったが見直すとすごく速い展開の映画でびっくりした覚えがある。「カーネーション」とか「虎に翼」とかの朝ドラでも感じたここにこれだけのものを詰め込めるのかという驚き。多くの観客にわかるようにそれを作れるのが本当にすごい。NTLiveの『ベスト・オブ・エネミーズ』はまた別の話だがこの舞台はものすごく好評だったらしいのでそれも見たい。こちらは共和党と民主党の討論バトル。対話も討論も生産的にいきたいものだ。

最近、筋トレのおかげで代謝が上がったのか動くと暖かくなるのが早まった気がする。以前は1時間のヨガで周りが汗だくのなか最後の方になってようやくポカポカするような状態だった。猛烈に厚着をしているせいかもしれないが。インフルエンザもコロナも流行っている。気をつけて過ごしましょう。

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Netflix 音楽

SPY×FAMILY、クリスマスソングなど

南の空の三日月がきれい。今日も晴れかな。傘いらずは助かるけど乾燥がひどいのは辛い。

子どもたちにサンタが来るのは今日ですか。今日じゃなくても期待に対して応答があるのは大切なことね。いいことあるといいね。

先日、配信で「劇場版 SPY×FAMILY CODE: White」を見た。いつもの感じで面白かったし映画ならではの盛り込み方だったけどお話はいつもの方が面白いかな。原作とかアニメを見ていない人がどれだけ楽しめるかは不明。親や出自の秘密を子どもは知らない、みたいな設定は多いけど、SPY×FAMILY(自動変換で出るんだね)は親子であるということ自体が嘘だしそれぞれが(犬まで)秘密を持っている設定が面白い。そして誰もその秘密を悪用しない。特にいいことをしようとかも思っていない、というか誰かを守るという大きな使命感なり自然な信念は持っているけど普通じゃない家族が普通っぽさを維持しているのが面白い。

最近、いろんなクリスマスソングを聞いてたのだけどエイミー・マンのOne More Drifter in the Snow、サマラ・ジョイのA JOYFUL HOLIDAY、ノラ・ジョーンズのI Dream Of Christmasあたりがしっとりしていていい。マライア・キャリー、アリアナ・グランデ、ジェニファー・ハドソンのコラボとかもよかったけどクリスマスソングもジャズが好きだな。

エイミー・マンは映画『17歳のカルテ』の原作『思春期病棟の少女たち』の舞台版で音楽を担当していたのだけどコロナ禍で上演されなかった。でもそのためのアルバム『Queens of the Summer Hotel』は素晴らしい。お話を知っている人にはとても響くと思う。あれもいい映画だったねえ。

最近、映像のことばかり書いて大好きな本のことを自然に書くみたいなモードにならないのだけどベルクソンのせい。ベルクソンばかり読んでいるから理解が断片的で印象を書くこともできない。精神分析は時間と記憶を問題にしていかねばならないと思っているから読んでいるのだけど壮大だね、ベルクソンの発想は。でもどっかに閉じてしまわない、というか、むしろそうしないための議論だから明るいのはいい、くらいの印象しか持てていない。他に読まなければいけない本があるのだけどノルマの方はどうも面白くないのが困る。勉強にはなるのだけど疑問も多い。しかしいいかげん読まねば。

どうぞ良い1日を。

ちなみに来週はオフィスはお休みになります。お問い合わせへのお返事は1月6日以降になります。このブログはただのメモみたいなものだから精神分析、あるいは心理療法については私のオフィスのウェブサイトをご参照ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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Netflix

『6888郵便大隊』を見た。

朝焼けの赤が薄くなった。リビングが暖まってきた。夜は同じように暖房をつけていても寒く感じるのに朝はあまり感じない。洗面所とか行かねばならないところが寒いのは辛いけど電気ストーブにしている。

Netflixで配信がはじまったアメリカの映画『6888郵便大隊』(The Six Triple Eight)をみた。タイラー・ペリー監督、脚本の史実ベースのお話。第二次世界大戦中、米国には有色人種の女性だけの陸軍部隊があったそうだ。移動もある戦地への手紙、戦地からの手紙、届けることが困難で溜まりに溜まったそれらを届ける任務を命じられた彼女たちに降りかかるのは任務内容を遂行することの困難以前に女性であり黒人、有色人種であるというどうにもならないことに対する差別である。話の流れはわかりやすく終盤の展開は史実をより希望のあるものに変えていると思われるが当時から何かが変わったとは言いがたい差別には常に希望が必要なので大事なことだと思う。見どころは主演のケリー・ワシントン。ほぼケリー・ワシントンのための、というかそこから目が離せないほどカッコよく素敵だった。権力による管理ではなく最低限の人権を感じられる場をマネージメントしつつ責任を引き受け強いリーダーシップを発揮するキャプテン、最高。

この前、イルミネーションを見に行ったんだけど、ということも書こうかと思ったけどやることやろう。寒いけどなんとかうごこー。

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精神分析、本

セミナーなど

朝焼けがまだ少し残ってる。今朝もとても静かできれいだった。

昨日は朝から夕方までセミナーだった。仕事の予定がずれたので参加できた。長時間のセミナーに出るのは久しぶり。臨床心理士を更新するのであれば臨床心理士会の研修会にも出ねばならないがそっちはノルマとしてだから辛い。オンラインだと画面を消してはいけないからもっと辛いけど他県にいって受ける余裕はない。2、3月の日曜は少し時間ができるのでそこで受けられる講座を探さねば。あーめんどくさい。昨日のセミナーはウィニコットの治療相談面接についてだったので楽しみにしていた。以前から読んでいる『新版 子どもの治療相談面接』(岩崎学術出版社)だったがきちんと読むのは2年ぶりくらいかも。色々忘れる私がなぜ2年ぶりかもと思うかといえば2年前にウィニコットフォーラムに登壇したときにその準備で参照したから。まだまだ読み方が浅いというかもっと文化的、社会的な事象に開かれていないと浅くなるな、と思った。臨床と理論を接地させることはできつつあるがまだまだ経験不足。うー。どうしたらよいのだ。まあ続けるしかない。

インスタでフォローしているパン屋さんやごはん屋さんやお菓子屋さんがすっかりクリスマスでどれもこれもとてもかわいくて美味しそう。ということで私もコンビニで買ったクリスマスのお菓子をいただいた。紅茶と。我が家の飲み物がずいぶん減ってきた。いつのまにまに。今また言葉遊びが脳内で始まってしまった。そんなことをしている場合ではない。いくぞ。がんばろう。

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精神分析

日曜朝

乾燥がすごい。朝焼けはきれい。

『シカゴ7裁判』を見ていた。ひどいな、この判事。ひどいひどすぎる。すごくムカつく。NHK俳句をみよう。奥坂まやさんが出ている。お久しぶり。生まれてはじめて連れていってもらった句会でご一緒した。こんなすごい俳人だと知ったのはその何年もあと、自分も俳句をはじめてから。厳しくもあたたかいという言葉がぴったりの素敵な大先輩という印象だった。しかし、俳人たちは色々なことを当たり前のように言葉で説明するがこういうことができるから逆に説明句はダメだと言われるのだろうねえ。

若い頃からの友達といろんな話をした。20年、30年と付き合いが伸びていくが話すことはそんなに変わらない。お互いの仕事のこととかはなんとなくしか知らない。つながりからまた新しいつながりが生まれを繰り返して若い世代との出会いもあり本当にいろんな人生があるしこれからもどこまで続くかわからないけれどこれからも色々ある人生があるはず。またみんなで集まれるようになってよかった。

富永京子さんのポッドキャストをききながら書いている。富永さんの言葉はとても聞きやすい。スピードもいい。ものすごい情報量の咀嚼、取り入れの仕方はそれぞれだけどアウトプットの仕方に影響するよねえ、当然。紹介されていた本も読んでみよう。

今日は一日セミナー。すごい資料がきた。やっぱりすごいなあ、と思いながら目を通していた。寝不足が辛いががんばりましょう。

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お菓子 仕事

冬至、乳幼児

冬至の朝です。いよいよ本格的な冬が来る気配が昨晩した。温暖化は着実に進んでいるのにこういう季節の変わり目は毎年きちんとその通りにやってくる気がしている。ということでベッドに帰りたい。が帰らない。仕事仕事。今朝は大月土産の「煎餅屋のクッキー 甲州味噌&胡麻」。栄月製菓さんのお菓子。こういうのは絶対おいしい。そしてやっぱりおいしい。甘じょっぱい。カフェインとりすぎかもと思って緑茶ではなく暖かいハーブティと。優しい甘味。冬はいろんな味に敏感になる気がする。寒いから摂取するもの皆ありがたいという面もある。そしてまたカーテンの向こうをのぞく。朝焼け。きれい。カーテンは日が出てからあける。この部屋は晴れた日は冬でもポカポカ。暖房いらずになる。今日も晴れらしい。

今日は保育園にも行かねば。楽しい仕事だけど小さい子たちと直接関わる仕事ではないからちょっと寂しい。彼らと遊ぶのはとても楽しい。こちらから積極的に関わる立場ではないのだけどじっと座っているだけでも彼らは絵本を持ってちょこちょこ寄ってきて当たり前のように膝に座ったり少ない語彙で驚くほど豊かに色々紹介してくれたりする。もちろんこちらが補いながら聞いているわけだけどこちらが適切なことをいったときの大きなウンウンとか何かしっくりこないことをいったときのちょっと止まる感じとかそしてスルーする感じとかもすごくかわいい。大人はそういう彼らに対してがんばらねばならない。

スパイク・リーの『ファイブ・ブラッズ』でベトナム戦争を生き延びた黒人退役軍人とその息子が出てくる。この父息子関係も非常に複雑で、と今思い出したのは私がさっき思い浮かべた子供たちはまだ言葉がではじめた頃の1歳児とかで、その年代の親子を描いた映画ってあまりないのでは、と思ったから、かもしれない。あとベトナム戦争の話とちょこちょこ出会っているから。ガザでは本当に小さい子たちの映像もたくさん出てきてこの状況でその笑顔で遊ぶのかと驚くこともある。もちろんたくさんの遺体の映像も見た。隠しようもない現実。その現実には本当にたくさんの乳幼児がこの世界を生き延びようと本当に豊かに活動をしている。彼らの心が少しでも守られますように。いいものをたくさん取り入れる機会を得られますように。

どうぞ良い1日を。

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映画 音楽

映画とかドラマとか。

冬の朝の空がきれい。特別。りんごをむこう。

映画に行きたくてしかたないが時間がない。映画情報は山崎まどかさん、三浦哲哉さん、北村紗衣さんから得ることが多い。山崎まどかさんは本の紹介もおしゃれで好き。

昨日はこのプレイリストを聞いていて、Bikini Killの“Rebel Girl”→The Linda Lindasのそれ→『モキシー 〜私たちのムーブメント〜』を思い返した。学園ものというのは違うかもしれないがわかりやすく勢いのある映画だった。調べたら2021年。分かりやすいというのはステレオタイプという批判につながるところもあるのかもしれないが実際はびこりつづけるステレオタイプな言動が差別を固定しつづけているわけだから様々なそれを見せ、さらにそれが嫌なんだと声をあげ結託していくことが女子には特に必要なのである。主人公の恋人がまっとうなのもいい。女子にも元女子にも見てほしい。多分同じ時期に見ていたFor Girlsと言いたい映画は『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』『エノーラ・ホームズの事件簿』か。エノーラは抜群にかわいく元気で賢い。モキシーもエノーラは父不在、母との関係密。ハーフ・オブ・イットの主人公は母不在、父不器用。これらのドラマや映画に登場する主人公は主体性がありその結果として知らない人たちとのつながりをうむ。関係の描き方は色々だが主人公というのは必要なんだな、とか思う、こう書いていると。私の仕事では主体性を問題とする人たちが主人公だが、それはつながりという点では非常に難しさを抱えていることが多いので2時間くらいのドラマにまとめることはできない。何かをまとめるには軸が必要であるという意味で主体性のある主人公が必要だが、私の仕事はまとめることを求めない他者と時間が必要。お金もかかってしまうけど。

なにか映画が見たいなあ、と元に戻る。この前、なんとなく見た『キングスマン』がすごくよかったから仲間と共に戦う映画たちを思い出したのかもしれない。カップルとかよりグループの方が面白いと思うんだな。シャーリーズ・セロンの『オールド・ガード』なんて主人公たち不死身という設定である意味主体性のもとである有限性を奪われた状態なのがすごくて切ないのだがああいうスケールで考えることも大事。私はシャーリーズ・セロンの顔があまり思い出せないのだけど彼女の映画が好き。思い出そうとするとキャリー=アン・モスが出てきてしまう。『スノーホワイト』の女王もシャーリズ・セロンか?今予告をふと思い出した。あれはNetflixで見られるのかな。チェックしてみよう。

だいぶ明るくなってきた。明日は冬至。短い昼を意識して大事に過ごそう。どうぞ良い1日を。

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精神分析

お金大事。

暗い。今週は寒くて寒くて隙間時間にがんばってでかけようという気にもならずずっと難しい本を読んではウトウトしていた。私は驚異の速さで眠りに落ちる脳なのだけど寝ている自分に気づいて自分がびっくりすることがある。もともとは冬眠する動物だったのではないか。稼がなくても今くらいの生活ができるのであれば2月はお休みにしたい。一番寒いから。そう、お金があることがまずは大事なのだ。国は能登に対して逆のことしかしていないと思う。天皇、皇后が3回目の被災地訪問ということで、今回豪雨被災者をお見舞い、と書いてあり、地震と豪雨は分けて対応されていることになるほどと思った。これらが一緒くたにされることはおそらく支援にとって良くないと思っていたから実際にそういう対応をみてどうしたら同じ場所だが別々のものとしてどちらにも支援を続けていくことができるのだろうと考えた。なによりも生活の保障、そしてそれはお金が最も確実なわけでそれが潤沢にないと一度心が折れたと感じた人たちが立ち上がるには相当の無理がいる。表面的に回復したところで何も変わっていなかったりするという理解をする必要がある。というのはうつやひきこもりの患者さんと多く会ってきたからなおさら思う。なんらかの状態で仕事をしていなかった期間が長いと仕事につくことが困難な場合がある。大体の子どもがお金のことを考えずに学校へ行くことができるのは親がそれを保証しているからだ。もちろんそうでない場合もある(そしてそれは政策としてどうにかせねばならない)。私が夜逃げという言葉を知る以前に友達家族が急にいなくなったことがある。もの静かだが勉強も運動もできる子でよく遊んだ。それでも私は何も知らなかった。本当に突然の別れだった。それだけにその子は忘れることのできない友人の一人になった。その子だって自分の身に降りかかることを知らなかったかもしれない。大人は一応なんらかの仕事につくことが普通とされている。お金を稼ぐことを仕事とするならお金がないから仕事をしようというモチベーションでエネルギーのない状態から立ち上がることは相当難易度が高い。私は「実家が太い」とかそういう言い方が嫌いだが、そういう人は働かなくても、と患者さんたちに思う人もいるが経済的な貧しさとか裕福さでいえば裕福な方が安心して休めるしその分、未来のことも考えやすくなる。もちろんそうでない場合もある、なんて当たり前のことも一応もう一度書いておくけど(そういう時代であることが辛い)。基盤がないと動きにくくなるという発想は病気や被災に対しては常に必要だろう。私は職場復帰のリハを直接は行っていないがそれと並行してカウンセリングに来られる方や、不登校の子どもたちも見ていると社会に出るということはどんなことか、もしそれが必要なら何が必要なのか、など色々考えさせらるが結局は「環境」について細かく考えることが行動の指針となるのではないかと思っている。まだ空が暗いがそろそろかな。土曜日は冬至。寒さはこのくらいまでが限界、とか私が思ったところでもっと寒い日々がやってくる。寒さ対策、乾燥対策しっかりして乗り切りましょうね。

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精神分析、本 趣味

「光る君へ」、人それぞれ、メモ

暗い。もうすぐ冬至。この年末感のなさはなんだろう。年末らしきものには色々触れているというのに。先週末あたりから「良いお年を」ということが増えた。今年は知っている範囲でも亡くなった人が多かった気がする。突然と感じつつもはやそんなに遠くに感じない死である。できるだけ息災に暮らしたい。NHK大河ドラマ『光る君へ』でまひろが周明に「息災だったのね」という場面は良かった。長い年月を生き延びたことこそ貴重だ。そんなにきちんと見ていたわけではなかったが刀伊の入寇も最終回も素晴らしかった。倫子が孤独なままでとてもかわいそうだったが彼女の人生はこれからも長く続くと史実が示している。外に出ていい女子がいることさえ知らなかった倫子は戦を知らない公卿たち同様、外をどう評価していいかわからなかっただろう。夫や母親の期待通りに娘たちを入内させたとはいえ娘たちを早くに亡くした。彰子と堅子が二人でいる場面もよかった。ドラマ内で二人は異母姉妹で彰子が道長に「藤式部の娘ゆえ」というような場面があったが、そこにいるあなたの父の娘でもあるがな、と思いながら見た。倫子と道長の娘である彰子だってものすごくしっかり成長したわけでそこには片思いをやめられない道長くんの影響もないとはいえない。一応最高権力者だったわけだし。断片的にしか見ていなくても清少納言「枕草子」大好きな私にはたまらなくいいと思った場面がたくさんあった。キャスティングも最高だった。私の思い描く定子様だった。それにしても戦のない世といっても戦の芽を育んだ世ともいうこともできるわけで何事も自分は無関係というわけにはいかないのだな。辛い。

自分も無関係でいられない事柄は多いので毎日「うーん」と頭を抱える事柄も多いが切り替えはせざるをえないのでする。人はそれぞれ考えて考えて考えたうえで、という場合の時間や質が全く異なるので、その人としては考えに考えを重ねた上での決断なんだろうなあ、と思う一方で、どうして放っておけるものまで放っておかないのかなあ、と思うこともある。私も個人で開業しているため、いろいろなことは自分で管理する側である。なので、他人の状態や情緒に共感したような感じで無意識的欲望を叶えようとする行為は理解できる。しかし、他人の領域は管理できないという当たり前のことを忘れずに動くならば方法として一番無難なのは時間をかけることだと思っている。だから精神分析なんて超地道なことに時間とお金をかける意味を見出しているともいえる。一方、最初に書いたようにそれぞれ時間感覚は異なるので当人が十分に時間をかけた、といえばそれもまたそうなのである。だからといってそういった人に従う必要もないが正当な理由を持って異議申し立てをするかどうかもまた吟味が必要。自分はそこにそんなにエネルギーを割きたかったのか、と。人はそれぞれ囚われるところが違うので同じ目的ではじめたものに対する態度も時折点検する必要がある。簡単なのは全く関係ない友人に「なんでそんなことやってるの?」と問われることかもしれない。中にいるといること自体でなんかやっているような気分になってしまってその目的を忘れてしまうこともある。精神分析のように目的があるかのように振る舞うことに徹底的に抵抗する(私の立場ではそう)あり方を模索する私でも「なんで」と改めて問われて「あれ?なんでだっけ」と立ち止まることだって少なくない。相手が変わることを期待するとか相手を変えることなどできないのにできるかのように振る舞うとか、そういうことが生じる場所に自分は本当にいたいのか?いつのまにか自分もそういうことやる人になっているのではないのか?それにしてもこうして思い浮かべる友よ。きっとあなたたちならあっさり問いかけてくれるだろう、という相手がいることは幸せである。

もうすごく遠いことのような気がするが先月の学会で「ネガティヴ」は「かつてそこにあったはずのもの」と捉えるのはどうだろうと思った、とメモした(ツイートした)。精神分析は空間より時間を問題にしてもいいと思う。頻度とかではなくて、とも。そしてベルクソンを読んでいたが、というかベルクソンを読んでしまったがためにその感触は強くなっている。要するに引っ張られている。勉強が足りないうちはただただ取り入れているので仕方ないがこの勉強は興味深くも結構大変なのでこうやって死んでいくのか、と思いながらやっている。

これはいつ何を見たり読んだり聞いたりして思ったのか忘れたがアンドレ・グリーンの「ネガティブ」とウィニコットの「偽りの自己」が示す非―存在は関連して考えることができるのではないかということもメモした。ウィニコットは「自己」という言葉をあえて曖昧に、中間的に、つまり「逆転移」のように「私たちに従属させて使うことのできる用語」ではないものとして使う。(cf.Winnicott,1960) ウィニコットのこうした努力は見習いたいが彼は何かを説明する仕方が周りくどいというよりただくどい部分があり、曖昧さより明確な主張を感じることも多い。強烈な存在感を示す人が語る非ー存在は儚さにかける気がする、とか大きなお世話だが『子供の治療相談面接』の序文を再読してそう思った次第である。だから彼にはスクイグルが合っていたともいえるやもしれぬ。

さてさて今日も一日寒そうだ。身体大事に過ごしましょう。

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読書

猪熊葉子『ものいうウサギとヒキガエル 評伝 ビアトリクス・ポターとケニス・グレアム』

空がピンクと水色。遠くまで届くくらいに太陽が上った。今朝は先日亡くなった猪熊葉子先生の『ものいうウサギとヒキガエル 評伝 ビアトリクス・ポターとケニス・グレアム』を読んでいた。『たのしい川べ』(The Wind in the Willows、1908年)の作者であるケニス・グレアムのあり方は特に興味深い。猪熊先生がこの評伝を書いたのは1992年。私たちはどちらかというとポターの話を講義で聞いていたと思う。もしここに書いてあるようなグレアムのことを聞いたら忘れることなどできないから。

「彼はこの美しい町をこころゆくまでさまよい歩いて夢想にふけった。そのうえ、この町を流れる川は彼を催眠状態におとしいれた。「人生の象徴であり、永続性のしるしでもある」川は、「速度と機械化からの最後の逃避場」でもあった」

グレアムの時代にすでに「速度と機械化」は生活を侵食していた。もちろんそうしているのも人間だが現代のAIに脅かされる感覚と近いだろう。グレアムほどの感性の持ち主ならそれがどれだけ恐ろしかったことか。いや、恐ろしいという言葉は適当ではないかもしれない。幼い時に母を亡くし、それ以前から酒浸りだった父親に祖母の元へ送られた彼ら兄弟の幼少時は情緒的な温かさには欠けたものだったがグレアムが『たのしい川べ』はこの頃の幸せな記憶と関係している。

「私が四歳から七歳までに使った頭脳の部分は決して変化することはないでしょう。ここに帰ってくるとすべてのことが思いだされます。その後のことはほとんど覚えていません」

とグレアムはいう。

猪熊先生はパシュラールの『空想の詩学』を参照し、大人の世界に入っていけないグレアムたちのことを書いている。

グレアムの記憶がないのはその後の彼の生活を思えば「思い出したくなどないだろう」という気がしてくる。しかしそれも勝手な推測に過ぎない。彼ら兄弟の子供時代の生活を翻弄した父親が死んだ頃からグレアムは創作活動は豊かになる。猪熊先生はこれを単純に束縛からの解放とはみなさない。グレアムが密かに願ったかもしれない父との同一化、つまり社会の拘束を離脱することの試み、しかしハックルベリー・フィンのようには父の死を表現できないグレアムの葛藤、というような観点から彼の作品を理解していく。これもグレアムのほんの一部、猪熊先生のご著書のほんの一部に過ぎないが、産業革命後のイギリス児童文学、そしてその著者たちの生き方は現代の私たちにおける広い意味での創作について考えるヒントをくれる。

すっかり遅くなったのに書いてしまった。ではまた。

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お菓子 イベント 俳句 散歩

満月、俳句、「昭和のくらし博物館」@大田区

朝焼け。緑茶。熱湯のままいれてしまった。あれだけあったお菓子が底をつきそう。今年も美味しいお菓子をたくさん食べた。そういえば昨日いただいた素敵な焼き菓子があるのだった。緑茶にしてしまった。ガーン。明日、コーヒーでいただこう。

昨日も月がピッカピカだった。今年最後の満月だときいて夜ベランダに出たら空のずっと上の方で星と星の間に黄色い月が輝いていた。オリオン座もくっきり。冬の空だ。寒い寒いとすぐに部屋に戻った。

深夜締切のネット句会、今回もギリギリ。推敲せず。次回こそしっかり推敲!と思って数年が過ぎた。今回のお題の一つは鍋料理。平井照敏の『新歳時記』をパラパラしていたら狸汁、鯨汁(鯨鍋)、河豚汁(ふぐ鍋、ちり鍋)、葱鮪(鮪鍋)などがあった。冬は汁物だな、やはり。私は「牡丹鍋」で一句作った。ジビエの話をしたばかりだからちょっと創作で実体験じゃないけど。自分の鍋エピソードを思い出そうとしたのだけどエノキが好きとか白菜が溶けるとか具を譲り合うとかおじやにするとか食べすぎるとかは思い浮かぶけどエピソードがなかなか浮かんでこない。ネットで「鍋 思い出」で検索したら違う国の人たちと囲んだ鍋の話とかうちは鍋といったらこれ、みたいな話が載っていた。私は家族以外と鍋を囲んだことってそんなにないかも。いや、そんなことないか。はっきり映像として思い出せないんだよなあ。鍋は簡単だから冬はよくやるわけでこの冬はそういう場面に意識的でありたいわん。

もう年末。年賀状、買ってこないと。普段一番会うのは精神分析協会の人たちだけど年賀状のやりとりってしたことないかも。やりとりする枚数も減ってきたけど年賀状でしかやりとりしていない人もいるからあちらからこなくなる限りは出しましょうかね、と思っている。いつからか喪中ハガキも多くなった。中山美穂と同世代の私たちはみぽりんの死を悲しむと同時にお風呂気をつけねば、特にお酒飲んだときは、と話している。数年前と比べたら本当に死が身近になった。仕事はまだまだしたいなあ。

先日、東急線多摩川線下丸子駅前の大田区民プラザへ行った。デザインフェスタのローカル版といった感じの展示販売イベントに出している友人に会いに行った。みなさん、すごかった。売れたらいいなあ。私がもっとお金持ちだったらなあ。それにしてもこの施設は本当駅前なのもいいし、すごく使い勝手がいい施設だと思った。その日もいろんな催しが開かれていて老若男女いろんな人がいた。せっかくなので大田区の別の施設にも寄ろうと「昭和のくらし博物館」にも行った。こんな小道の普通のお家っぽい所に博物館なんてびっくり。昭和26年に経った公庫住宅初期のお家が当時の暮らしを体験できるように開放されている。見たこともない家電もあったが昭和生まれの私はまだ懐かしめるものがたくさんあった。スペインからのお客さんも来ていて昭和のおもちゃコーナーのところで一緒になった。駒とか竹馬とかを一緒にやった。スペインにも駒と似た遊びがあるとのこと。私も彼も紐を巻くのが下手で回せなかったがニコニコした。ホッピングもやった。懐かしい。すごく久々。庭に出るためにお借りしたサンダルで2、3回できた。自分の靴ならできるかもしれない、と嬉しかった。「子供の頃は簡単にできたのにねえ」と職員さんがニコニコと見守ってくれた。私は子供の頃からできなかったが「軽かったですしねえ」とか言ってしまった。全ての部屋が楽しかったが長居したのは2階の子供部屋。姉妹とお兄ちゃんの3人のお部屋で長女の学校の先生との連絡帳や姉妹で遊んだというお人形とその着せ替えなどもかわいく懐かしく戦中、戦後の子どもたちは私にとってまだそんな遠くないなと思った。その時代を生きた人のお家へ遊びにいった感じで楽しかった。お庭には夏みかんとか柿の木もあって眺めていたら鶯がきて、そのあとまた鶯がきて、つがいかしら、すばしっこいね、など知らない人と話したりのんびりした。少し歩いていると小さな商店街があり、もちつきのお知らせなどが貼ってあった。神社もそろそろそんな雰囲気。私たちいろんな初詣の準備に出会ってきたね、と話しながら大田区の保存樹林や神社の本殿の裏側、全然目立たないところにある立派な彫刻を眺めたりした。上を見ても下を見ても銀杏が金色に輝いていてそれがメインだったかな。ちょっとの時間でもだいぶ豊かに遊べる。昨日は3つの事例検討会があったけどどれもすごく勉強になったし今週もがんばろう。

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精神分析 舞台

劇団普通『病室』を見たり。

空は真っ暗。昨日の月もきれいだった。だからきっと今日も晴れ。

先日、劇団普通の『病室』を見た。劇団名もいい。ナイロン100℃は昔「劇団健康」という劇団だった。「劇団不健康」という劇団は多分ない。「劇団普通」はなんかイマっぽい。普通、ありふれた、平凡な、などの言葉はかなりそうではない自分を権力から守るための言葉になった。人はそういう言葉に救われる面がある。精神分析ではそういう言葉は大抵なにかをごまかすための言葉となる。「みんなそう」と言われて「みんなって誰」と問われるときの使い方が近い。でもこの劇団の旗揚げは2013年。「普通」が普通に使われていた頃だろう。『病室』だが2019年初演、2021年再演を経ての今回、これまでも好評だったからこその再演だろう。作演の石黒麻衣さんにとっても特別な思い入れのある作品だという。すごいな、と思った。私は俳優の野間口徹さんのツイートを見ていかねばと思い、いった。アフタートークも聞きたかったが今回は難しかった。野間口さんは私にとっては舞台役者なんだけど、というか私が舞台役者だと思っていた人は今やみんなドラマで重要な役をやっているわけだけど、好きな舞台役者の言葉は力がある。実際、いってよかった。自由席の劇を見るのも久しぶりだ。三鷹市芸術文化センター星のホールは好きな劇場だったがもうどのくらいぶりだろう。ホールから近い三鷹八幡大神社のお祭りに行って以来か。それだっていつのことだか。コロナ以前に演劇に行く時間はなくなっていたが、絶対に行きたい舞台というのはがんばってとっていた。最高に楽しみにしていたKERAの『桜の園』が全公演中止になったのが2020年4月。その舞台は今キャストを変えて公演中。今回は抽選で全て外れてしまった。それで演劇熱をどうにかせねばと思っていたわけでもないが行けばまた色々見たくなるものだ。中島らもが生きていた頃にもきた。死んでもう20年になる。中島らもとわかぎえふが立ち上げた「リリパットアーミー」の舞台を思い浮かべているがあれが星のホールだったような気がする。三鷹自体は大学時代に自閉症の人たちと活動するボランティアやバイトでしょっちゅうきていたし、太宰治ゆかりの場所として今も訪れるので身近だが演劇を見まくっていた日々はだいぶ遠くなった。劇場も随分減ったような気がする。青山円形劇場が閉じてからだってもう10年近く経つ。新宿コマ劇場の地下にあったシアターアプルが閉じたのは2008年。よく通った劇場だった。コマ劇場も誰かにチケットをもらってコロッケの講演を見にいったことがある。それはともかく「劇団普通」の『病室』。茨城弁で繰り広げられる病室での日常、そこでの会話が非常にリアル。会話自体がリアルというより、会話の一番微妙で気になったり積み重なって重みをましていく部分をよくここまで言語化し、この矛盾する情緒を演じられる役者が揃っていることに感動。はじまりのほうで「うん?」となって「これ、脚本になってるってことだよね」と当たり前のことを脳内で確認した。間とかテンポとか方言がもつ独特のリズムとか、こういう状況で生じがちなあれこれとかその背景で生じがちなこととか、あ、ここで笑えてしまった、ここでこんな気持ちになるとは、とかいう自分の感覚が本当に普通だった。同時に、嘘っぽいやりとりもいかに普通かということも感じた。自分なんて曖昧なものは出来事に委ねている方が楽しいが大抵は何かに囚われているわけで病室のような相手を気遣う状況では自分の変なパターンがでがちだと思う。それは自分では気づけない類のパターンでそれに対する相手の反応もまたよく分かるしそれを受けてのあちらのパターンも、とどこを見ても自分のこととして痛かったり苦しかったりする。一方で、三者以上の人がいる場でのコミュニケーションはズレを意外な方に導くものも生じるし、関係を積み重なることで知る一番身近な人の気持ちもある。予定調和を日常に感じるのであればそれは結構大変なことだ。「いつもこう」吐き捨てたくなる日常も苦しい。ただ、自分に変化を求めることこそが最も苦しいことであるのはこの仕事をしていると本当にそうと思わざるを得ない。自分より他人である相手に変わることを求めるか、事実ではなく印象で被害的になることで対話を拒むか、自分を普通として相手を普通じゃないとすることでよしとするか、自分が変わるくらいだったら現状維持の方がマシ、ということもある。「それ本当にそう思ってる?」と現状に問いを投げるのが精神分析の仕事の一つでもあるのでそういうことを必要と感じない人には本当に必要ない技法なんだと思う。こういう技法があるだけで腹が立つ人もいそう、というか知らないのにやたら色々言われることもあるけど、こんな技法知らない人の方がずっとずっと多いことを私は知っているので気にしてもらえることは貴重だろう。大体の人は「良かれと思って」やることの方が「なんで自分こんなことしてるんだろう」という問いに先立つし、良かれと思ってやっていることで状況が良くなるのであればそれはいいことだ。精神分析はあまり良かれと思って提供するものではなく、大変だけど、というのが前提。精神分析は目的のないわからない状態に居続けることに価値を置いているから欲しいものは出てこないけど、本当は欲しくないのに欲しいと言ってしまう自分とか嘘っぽいことはきちんと嘘っぽいと分かるようになるのでできるだけ正直に相手のことを考えていきたいなと思う人にはとてもいいと思う。これは決して「いい人」になるための学問でも治療法でもないし、治療者が時間と場所以外の何かを提供したくなるのであればそれは別の治療法でも十分できることだと思うしそういう安全は大事だと思う。SNS的正しさが振りかざされる時代にはそういう方面からのケアは絶対に必要だ。一方、精神分析はSNS的邪悪さを自分の中に見出しつつどう生きたいかを模索する治療なのでまた別。毎日精神分析のことしか考えていないので何に触れてもこういうことばかり考えているが、「病室」でみたリアルには感銘を受けた。無力さは双方にありその出し方の複雑さも誰にでもある。それらを簡単に言葉にせず感じ続けることができるかどうか、そしてそれは大抵はできないがその現実を踏まえてもなお別の自分を引き出せるかどうか、そうしたくなる相手を持てるかどうか。迎合的になるのも陰で悪口言うのも大抵の人にとって正しそうなあり方を主張するのも簡単だがそれに時間をさき結局ため息をついているならなんかほかにと思ったり、いやいやこういう時間にこそ意味があると思ったり色々なんだとにかく、日常は。病室は。だらだら書いているうちに朝焼けが始まった。部屋はすっかり暖かい。今日はグループ三つ。がんばろう。

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お菓子 精神分析

神戸のお菓子、習慣化

今日も良いお天気になりそう。夜の雲が引いていっている。最近、毎晩、月がくっきりきれいだって知っていました?今朝はみかんをのんびり食べてぼんやりしていたらいつもより遅くなってしまった。先日会った神戸の友人からもらったクリスマスのクッキーをいただくためにコーヒーを入れてようやくPCの前に座った。嬉しいなあ、地元の洋菓子屋さん。おお、これベリーのジャムが入ってる!こんな小さいのに丁寧なお仕事!甘すぎず美味しい。お花みたいな模様に雪みたいな粉砂糖がすこーしかかってる。そういえば富士山の冠雪が今年は遅かったですよね。11月初めに名古屋へ行ったとき、新幹線の中から富士山を見てびっくりした。すっかり雪景色を想像していたから。実際は私が新幹線に乗る二日前とかに例年より一ヶ月以上遅い冠雪が発表されていたのだけどそうは見えなかった。

気候が変わっていくことは世界のあらゆる変化に繋がっていることは実感している。そこで私がずっとテーマにしている習慣とは何か、習慣化とは、ということを考えていたわけだが次から次へ難しい事柄が出てきて考えが全く進んでいない。國分功一郎さんの「中動態の世界」を読んだりイベントに行ったりしてからですかね。もう何年経つのかしら。精神分析って習慣化をどう考えるかで技法が変わってくると思うのですよ。組織化、構造化をどう考えるかという。脱構築は治療としての精神分析では言わないけど脱錯覚とか「脱」の方に行く以前に、再構築とか「再」の方にいく以前にさ、と。反復による習慣化があるだろう、と。精神分析に時間とお金をかけることはそれぞれの習慣形成とそこからの変化をためし続ける、ジャンプし続けることで、それは相当に贅沢なものなのだけどそういうことにお金と時間をかけるモチベーションを持てる時代ではない。週2回は来られても週4回となると、と躊躇する人は多い。金額でいえば、私の場合は、週2回と週4回は1週間で4000円違う。一ヶ月で1万6千違う。この差も大きい。贅沢だと思う。なので私もガンバラねばな。今週はいいものにたくさん出会ったし。皆さんもどうぞ良い1日を。

(この「贅沢」は國分さんのいう「贅沢」)

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散歩

新宿駅からオフィスまで(地下道)

暗い。iphoneの天気予報では今日は曇り。寒そう。昨日は風が冷たかった。フードをかぶって早足で歩いて新宿駅へ向かった。新宿駅南口ならまっすぐ行けば着くが寒さに耐えきれずワシントンホテルから地下道へ入った。この時期は地下道に人が増える。雨の日もそうだ。患者さんも慣れてくると新宿駅から歩いてくる方が多いようなので一応、地下道の説明をしておこうかな。オフィスの最寄りの駅は京王新線新宿駅から一駅の初台駅なのだけどルミネ地下一階そばの京王新線新宿駅の改札には入らず大江戸線を右手にみながら新宿南口地下街「KEIOMALL ANNEX」を進む。朝は都庁へ向かう人でいっぱいだ。いろんな展覧会のポスターが貼ってあるのがいい。KEIOMALLを過ぎてもそのまままっすぐ行くとすぐに「ワンデーストリート」地下通路に入る。新宿にはいくつか地下道があるのでこちらのマップをご参考に。「ワンデーストリート」に入ったらあとはまっすぐ行くだけ。地下道自体はまっすぐではなくくねくねしているところがあるので少し心配になるかもしれないが突き当たりまで行けば右手に都庁、左手にワシントンホテルがある。オフィスへはワシントンホテル側に出て甲州街道を初台方面に数分。新宿パークタワーに寄りたい人は新宿駅からシャトルバスも出ている。20分ごとだっけな。パークタワーにはリビングデザインセンターOZONEとザ・コンランショップが入っている。開業した頃は雑貨もいろいろあってよくいったが今は大きめの家具ばかりであまり楽しく無くなってしまった。カフェもなくなってしまったし。あまり行ったことなかったけど。情報センターでいろいろな雑誌を見るのは楽しい。コロナで随分変わった気がする。今年はついに大きなクリスマスツリーがなくなって光る球体がツリー状に積み上げられいろんな色にライトアップされる形になった。これはこれで夜みるときれいだけど諸々簡易になっていく印象。私は雑多な感じが好きなんだけどなあ。まあ、私のためにある建物ではないから仕方ない。面白そうなイベントは増えたけど多くの人の会社帰りに合わせた時間帯だったりするからその時間こそ忙しい私は行けない。この前なんて縁日の準備してて何やら楽しそうだった。こうやって設営するんだ、と大変興味深かった。エレベーターが多いからやりやすいんだろうな、とか思ったりした。私のオフィスもエレベーター2台あればいいのに、と思う時間帯もあるけど、誰も乗っていない時間も多そうだからなあ。点検があるとエレベーター使えないからその日の予定をずらさなくてはいけないこともあり、必要なこととはいえ、今年はその回数が多かった気がする。全館停電にしての点検とか。耐震構造自慢のきれいなオフィスビルなんだけどね。この時期は朝の日差しが部屋にきれいに差し込んで外からドアを開けるとキラキラしていて素敵。暖かいし。夏から秋にかけて開業したからこんなふうに日差しが入るって知らなかった。植物にはあまりよくない環境だけどカーテンを開けると明治神宮の森が遠くに広がっている。参道のそばだからね。今は森が秋色でとてもきれい。私は鳥好きだけど一時期鳩がベランダにいついてしまって困ったことがあった。面接中、すぐそばでポッポポッポ言われると鳥の言葉がわからないから辛い。どうして欲しいのかしら。あの頃、どうやって別の場所へ行ってもらったのだったか忘れてしまったけど今はたまに手すりを歩いて横切るくらい。すぐそばに餌をまいてくれる場所もあるしね。奄美大島の鳥たちは元気かなあ。今日はまだ東京の鳥の声が聞こえない。夢で面接で患者さんがしようとしていることについて考えていたみたいでそのまま起きてしまったからそれをメモしておこうと早起きしたのだけどオフィスへの行き方ブログになってしまった。別の場所に書きましょ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

ウィニコット理論、無形性、抽象性

暗い。早い時間から暖房をつけていたから部屋が暖かくて幸せ。今朝はコーヒーを飲もうかな。バームクーヘンがあるから。淹れた。バームクーヘン美味しい。1日があっという間に終わってしまう。やるべきことも進んでいないがあまり焦りもない。無意識まかせ。その中身について考えていないわけではないからアウトプットは一気にできるかなあ、と思う。できたらいい。

少し前にアンドレ・グリーンを読んでいてウィニコット理論をトラウマ理論として読めることに気づいたのでその線で考えていた。少し前といってももう三ヶ月くらい前かも。昨日、おすすめした埼玉県立近代美術館でやっている木下佳通代展で思い出したといってもいい。発表しようと思っていたにもかかわらず忘れていた。昨日の始業前はイマニュエル・ウィルキンスをじっくり聞きながらインタビューを読むのに時間を費やしてしまった。それをしていたことを忘れないようにツイートしておこう。Twitterはメモにちょうどいい。昨日は打越正行さんの「ヤンキーと地元」がトレンド入りしていていろんな人のツイートをたくさん見た。本を読むだけでもその魅力はすごくわかるけど実際にお話ししてみたかった人だったし、お会いしようと思えばできただろうからなおさら悲しい。学生さんたち、打越さんに教えてもらえて本当によかったと思う。生きるのに大切なことをきっとたくさん見せてもらえたのだろう。羨ましい。イマニュエル・ウィルキンスは聞き始めたら「やっぱりいいなあ」と思ってインタビューを読み始めたら「あ、これブログでこの前引用したやつだ」となり再読した。柳樂さんの記事に登場する黒人のミュージシャンたちはどの人も黒人の歴史とか経験とか教育とかについてものすごく深く考えていて語彙も豊富なので誰のインタビューだったか忘れてしまうことがある。サンファとかジョン・バティステとかはそれにもまして独特の魅力があるからあまり忘れないのだけど。あと女性ミュージシャンはまた個別の経験が独特なので覚えていられる。とかいってまた忘れるかもだけど。無形性と抽象性、あと偶然性を大切にするイマニュエルと木下佳通代の作品は私の中で重なる。木下佳通代はほとんど情緒を見せないでものの認識と存在の表現形態を模索した人のように思ったからそこから音楽が聞こえてくるかんじはしないけどどこか拙い感じとか緊張感がとんがっていない感じとかはこういう表現はあまりよくないが当時、抽象画を書いていた女性たちに共通するもののような気がした。つまり男性社会との関係で自分を表現するときにどこか似たような力が発揮されるのではないかと私は思うということ。このテーマも発表材料ではあるので忘れないようにせねば。

Twitterのみならずここもメモ書きの場にしているな。バックアップの取り方がよくわからないし、ここは無料だからいつ消えちゃうかわからないけど短期記憶の場として使っていこう。どうぞ良い1日を。

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イベント 読書

打越正行の本、『没後30年 木下佳通代』展をぜひ。

まだ真っ暗。昨日はネット句会の締切日だった。深夜締切とはいえ私は夜が忙しいので夕方までになんとか出した。今回はとても特別で大切にしたい回だったのにいつも通り駄句しかできなかった。思い入れでは俳句は作れない。それでも押し付けがましくならないように気をつけながら伝わりますようにと思って作った。お題のひとつは兎。冬の季語だ。この季語は私たちにとって特別なものになる。兎という季語を思い浮かべるたびに思い出すだろう、次々押された兎スタンプを。

社会学者の打越正行さんが亡くなった。驚いた。『ヤンキーと地元――解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(筑摩書房、2019年)はものすごく面白い本で、社会学は今本当に豊かな人材が揃っていてこれからが本当に楽しみな学問だな、と羨ましく思っていた。鶴川のクリニックで働いていたから和光大学は身近で授業にもぐりたいな、といつも思っていた。イベントもいつもチェックしていた。全然行けなかったけど。人は誰でもいつか死ぬが今年も多くの死をあまりに突然だと感じた。同時にこの歳になればいつまでもつのだろうという命も身近だ。誰にもわからないことだから予測などしたくない。それでも突然は嫌だ。

平均寿命まで生きられるとしてもたいして長い時間が残されているわけではない。なのにどうして、と思うことは多い。不信感に覆われている人は相手を決めつけるか相手が何を言っても信用しないか、相手がいてもいなくても自分が見たいものしか見ない状態になっていることに気づかない。よく見れば、というか普通に見えるところだけ見れば実はこんなに支えてくれていた相手だってもうそんなに長くないだろうに、死ぬかもしれないのに、実は支えてもらっているなんていう選択肢はないので、ないの?本当に?ないとしたらどう思うのだろう。いなくなってよかった、とかまさか思わないよね、と思うけど思う分には自由でもある。せめて私はそこだけはまともでいたい。誰かは私のために生きているわけではないし、私を貶める誰かがいたとしてもそうではない誰かもいる。そしてどんなに自分が危機に陥ったとしても自分の責任をまず第一に考える。それは自分のせいだ、と嘆いたり、根拠のない罪悪感に苛まれることではない。現実をシンプルに、ミニマムに使用して正確な手続きを踏む。それが責任だと私は思う。人は見たいものしか見ないからこそミニマムに、共有できる事実だけを使って物事を描写し、主観を排除する努力は自分自身でしていく必要がある。これは主観である、という認識がまずは必要だが。いつのまにか「みんなもそう思ってるよね」みたいな感じで物事が進むのはいただけない。

平日の昼間に北浦和へ出かけた。新宿からならそう遠くない。北浦和駅ロータリーから緑豊かな方へ進めばすぐに着く埼玉県立近代美術館館でやっている『没後30年 木下佳通代』展 をどうしても見に行きたかった。ウィニコットに依拠して存在beingについて考え続けているのでそれを共有できる思考を求めていた。すごくよかった。若くして亡くなった木下佳通代(1939-1994)生前最後の作品は描き始めに見えた。彼女の中ではすでに形になっていたのであろう。美しい青だった。展覧会は絵の変遷に合わせて3章に分けられていた。大阪中之島美術館からの巡回展だが、以前、同志社大学の図書館に飾られて、その後修復がなされたという大きな作品は東京には来ていなかった。大阪中之島美術館で開催されたときのものを読むと、他にもいくつかの作品は東京には来ていないかもしれない。おそらく紹介文は同じものが使われいて、文章にはあるのに作品がない、というのもあった。私が見つけられなかったのかもしれないが、誰もいない場所でキョロキョロ探したけどなかったのだから多分ない。でも自信ない。学芸員さんに聞けばよかった。同志社大学の図書館の作品は映像で紹介はされていた。横長の大変大きな作品で、二人目の夫の奥田善巳と開いたアトリエへの発注だったらしく、奥田の作品も反対側の壁に飾られた。この作品、図書館の改修工事に伴い、一時行方不明になっているようなのだが、あんな大きな作品、誰がどこに置いていたのだろう。日本の精神分析の創始者である古澤平作の遺品管理の話と近いものを感じるが、とにかく見つかって、残って、また見ることができる形になってよかった。しかし、こんないい展覧会なのに今回も独り占めだったぞ。私にはいいが、作品は見られて語られてこそ残る。

打越正行『ヤンキーと地元――解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』

埼玉県立近代美術館『没後30年 木下佳通代』展

を皆様ぜひ。

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精神分析

和菓子、ジョン・バティステに学ぶ初回面接

まだ暗いけど東の空に雲がたなびいている。今朝は両口屋是清の秋の棹菓子「ささらがた 柿」。熱いお茶と。冬の朝に小さい和菓子は合いますね。

12月ももう10日になってしまいました。書評を引き受けてしまった本を読まねば。あまり読まずに書く能力はないから精読しましょう。読まずに書ける人は本というものがどんなものかということをいろんな水準でわかっているのでできるわけだけど私はただ読むのが好きというだけで読書という行為や本というものに関してはあまりなにも考えていないのでそういうことできないのよね。面接場面で人はこういうときにこうなりがちというのは経験も積み重ねてきてるし理論化も試みて学会発表してるし教える立場だから人よりはわかる。ひとつあげれば「人ってなりたくない人と同じことをする」ということ。悪口を言ったり信頼していない相手のことを語りながら自分も同じことしている。この前の初回面接の検討会でそういうことも話した。そして初回面接では一回で「ここで」「自分が」提供できるものを見立てとともに提示する必要があるあるのである程度のスピードがいるという話もした。それはどうすればいいんですか、という類のものではない。

柳樂光隆さんがジョン・バティステへのインタビューでこんな言葉を拾っている。

「ベートーヴェンを筆頭に多くの偉大な作曲家たちが、実は瞬時(spontenous)に作曲をしていたことに初めて気づいたんだ。彼らはいわば即興演奏家。現代のジャズ・ミュージシャンと一緒で、彼らはその場で音楽を生み出していた。でも、それを「即興」と呼ぶのはちょっと違う気がして……。だって即興なら誰でもできるけど、彼らは学んだことや経験のすべてをその瞬間の作曲(spontaneous composition)に込めていた。もしベートーヴェンが今の時代に音楽を演奏したら、毎回同じ演奏にはならなかったと思う。彼も音楽も演奏するたびに進化しただろう」

と。

「学んだことや経験のすべてをその瞬間の作曲(spontaneous composition)に込め」る。初回面接で言葉を使うってこういうことだと私は思う。

あと相手の変化だけでなく自分もその相手となら変化していけると感じられるかどうかも大事。信頼や希望をもてないところに変化は訪れない。が、たいていの人は自分は変わりたくない、変わる必要があるのは向こうだ、という発想なので色々難しいわけだ。何に時間を割くべきかはこういうことを考えながら言葉にしていくものでもある。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

日曜日

暗い。冬だ。昨晩は風が強かった。イルミネーションがかろうじてあったかいけど。しかしこの部屋のエアコンはやっぱり壊れていると思う。困った。週末は休みという感じが全くなかったが隙間時間にがんばって遊んだ。夜のミーティングが終わってぐったり、する間もなく久しぶりの友人からメッセージが届いた。飛び起きた。危ない、また机で寝るところだったぜ、とやりとり。一気に元気が出た。単純なものだ。いろんなものを生活の中に配置しておくことが大事。こうやって偶然助けられることもたくさん。そして調子に乗ってNetflix映画『あの年のクリスマス』をみた。楽しかった。かわいかった。泣いた。『ラブ・アクチュアリー』のリチャード・カーティスが原作。自分が監督した映画を面白く使ってて笑った。『ラブ・アクチュアリー』、今映画館でやっているらしい。大好きな映画。観たいなあ。最近、10年遅れで『キングスマン』をみて大好きなコリン・ファースへの熱がまた高まってしまった。ああ。コリン・ファースが出ているもの全部見たい。日本でも話題になったものしかみていないけど大好き。『キングスマン』での高級スーツ姿はもう何かのお手本。マナーが人を作るのね。学んだ。

今日はあまり時間がないからこのくらいにしておこう。切り上げることを学ぶのだ。お菓子も食べないと。みんなにもいいことありますように。

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精神分析、本

吉野ヶ里、女が読む女の本

空の色が薄い。昨晩は少し雨が降った。雨の予報じゃなかったよね、と話しながらiphoneで天気予報を見るとその時間帯だけ小さな雨マークが雲の上についていた。朝はついていなかったようなので何時間かごとに修正されるのかもしれない。今も少し雨が降っていそうな色の空だけど降っていないみたい。昔の人は空を見るだけでいろんなことが分かったのだろうなあ。尊敬する。佐賀の吉野ヶ里遺跡で緊急地震速報が大きな音で響き渡った時のことを思い出す。「昔の人」「自然」というキーワードで脳が勝手に検索をかけたのだろう。客はほとんどおらずのんびりしていたら突然大きな音がしたのでそこにいた人たちとなんだなんだとなったけど誰も地震を感じずにみんなで笑い合った。彼らも現代人なので彼らだから予知できるはずはないのだが、当時の服装をイメージしたものを着ていたから「この人たちにも予知は難しいのか」と思った。当たり前じゃ。吉野ヶ里は着くまでの道のりが楽しかったな。この電車に乗った、と話したら地元の人にもびっくりされたり。そのくらいローカル線ということ。こっちはよくわからないままやっていることがその土地の人からすると「そういう観光客珍しいよ」みたいなことは結構あってそういわれたこっちが「え、そうなんですか」とびっくりすることも多い。こっちはそれが当たり前なのかと思っているからね。話してみるもんだ。出会ってみるもんだ。

女の精神分析家が書いたものを女の精神分析家たちで読む会をしているがあえてそういう形式でコミュニティを作ることは大切だと思う。特にそれまで家父長的と言われ続けてきた領域においては内側の人が行動していくことをしない限り変化は起きない。外側にたてば家父長制に対して冷笑的で「そうはいっても女もね」とか「そういうものでしょ、誰だって自分が大事なんだから」とか言えるかもしれないが、一つの治療法を持つ文化がそういうことを言っている場合ではないので緩やかにやっていけたらいいと思う。そういえば吉野ヶ里で笑いあったみなさん、全部女性だった。役割分担はそれはそれとして大事。

今日はグループ3つ。全てやることが違う。年末年始の休みに向けてがんばろう。

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映画 音楽

中山美穂、アナ雪2

冬の朝の空の色がとても好き。今日もきれいだった。

中山美穂が死んだ。若い頃、カラオケで中山美穂の曲ばかり歌っていた。というか筒美京平と松本隆コンビの曲をよく歌っていた時代。中山美穂のデビュー曲もこの二人の曲だった。竹内まりやの曲もよかった。一昨日、音楽番組で「世界中の誰よりきっと」がカバーされていてその時も「この曲はミポリンがいいよね」と話したばかりだった。きれいな人だった。

昨晩、途中から『アナと雪の女王2』をみた。私はあまりディズニーに興味がないので2の存在もぼんやりとしか知らなかったがとっても面白かった。秋の話ではないか、というのにも驚いたが水の記憶があんな風に取り込まれているのにはもっとびっくりした。スピリチュアルが悪いとは思わないがホメオパシーを連想させるとなると問題はないだろうか。アメリカで再び流行っていたりするのか?よくわからないがディズニーが、という感じではあった。映画としては大変面白く、映像が本当にきれいだった。「水の記憶」は一時本当によく聞いた。本を渡されりもした。そうやって広がり具合を肌で感じられたのはよかったが信仰が持つ強固さは誰にでもあるのかもしれないが結構特殊な心的機能なのではないかという気もした。中山美穂の50/50の冒頭はディズニーな感じがある。これは小室哲哉。

今日もがんばろー。

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精神分析 読書

よあけ、猪熊葉子先生、noto records

朝焼け。絵本みたい。ユリー・シュルヴィッツ 作・画 / 瀬田 貞二 訳の『よあけ』は子どもたちにプレゼントしたい一冊。絵本といえば11月19日に猪熊葉子先生が亡くなられた。私がいた頃の白百合女子大学は錚々たる先生方がいらして、児童文化学科発達心理学専攻には東洋先生、柏木恵子先生、そして児童文化学科児童文学専攻には猪熊葉子先生がいた。神宮輝夫先生もまだお元気だった。猪熊先生の存在は強烈で今でも同窓会で話題にのぼる。昨年、ウィニコットを読みながら突然、猪熊先生の『ものいうウサギとヒキガエル 評伝ビアトリクス・ポターとケニス・グレアム』(偕成社)を思い出してツイートしたが、大学院を卒業して25年経つのにこうして思考に登場してくれるほど先生の授業は面白かった。ちなみに、先の評伝にあるヒキガエルは髪をなでつけるのか、とグレアムを非難したポターの話はうさぎはものをいうのか、という話として私の中に残っている。私の中ではビアトリクス・ポターといえば猪熊先生で、イギリスに憧れ、実際に行けたのは猪熊先生と仲良くしていた英語の先生のおかげ。ファンタジーといえば猪熊先生。猪熊先生の母は歌人の葛原妙子だが、大学のときに母のことを聞いた覚えがない。1999年の退官されたときの最終講義は本になっているが、そこでは触れられているという。上皇后美智子様とのことは話されていた。私が大学院を卒業した年だが、行けばよかった、最終講義。修論を出して浮かれていかなかったに違いない。私は卒論はグリム童話を題材にしたけど、修論は全然違うことをやった。当時の先生方は児童文学・文化、発達心理学を自由に行き来する環境そのものだったし、とても恵まれていたのだからファンタジーを題材に心理学研究すればよかった。幼児期の言語における擬人化について、とか。先生、ありがとうございました。

北米西部、カリフォルニア州北部で大きな地震とのこと。日本への津波の被害の心配がないのはわかったが、現地はどうなっているのだろう。サンフランシスコの方だという。被害が大きくならなければいいが。瀬尾夏美さんが能登の状況をずっと発信しつづけてくれているがあれから一年、これ以上の負担がのしかかることのありませんように。瀬尾さんたちの“能登半島の地震と豪雨の記録と表現のプラットフォーム「noto records」”も応援していきたい。こういう活動にたくさん助成金が出ればいいのに。

昨日は国際精神分析学会 International Psychoanalytical Association 日本精神分析協会 Japan Psychoanalytic Society 日本精神分析学会 Japan Psychoanalytical Associationの英語ので混乱しながら文章を書いていた。私が所属する分析協会だけがPsychoanalytic。所属しているのだから普段から意識していればいいのだがなかなか。さて今日も一日。光がきれい。今日も暖かいといいな。良い日でありますように。

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精神分析、本

12月5日朝

まだ空が真っ暗。ぬくぬくしたままパソコンで作業がしたくてモコモコ動いていたがやっとちょっとしっくりくる姿勢を見つけた。ちょっと考えればもっと早く辿り着いたのではないかという姿勢だが偶然辿り着くのであればそれはそれでいいのだ。全身がぬくぬく。もう動きたくない。

信頼、尊敬する人にお仕事のお願いをしたのだけど、お願いの仕方を間違ったなと思った。お願いした時点ではその内容が曖昧すぎた。自分で作業するうちにやっていただきたいことがだいぶ明確になってきた。気づいてしまえばなんでこんなことわからなかったのだろう、と思うが、そのなんで、に対しても今は仮説がたつ。お願いしてからこれがわかるまでたった二日。イレギュラーな用事でバタバタしたにも関わらず隙間時間をうまく使えたのも大きい。余裕がない方が時間をしっかり使う意識が高まるのかもしれない。今朝はいつも以上に早起きしたから一瞬たりともぬくぬくを手放さないことに無駄な時間を使ってしまったが。今日は木曜日。連日、読まなくてはならないものが多いがすでに読んだことのあるものも含まれるのでちょっと気を抜いている。そして別の本を読んでしまう。

自分が選んだ本なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、本棚から適当に引っ張り出した本こそまさに今読みたかったもの、ということが多い。昨晩、読んでいたのはアイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』。若くして亡くなったアメリカの政治哲学者。序文を読んで、著者は精神分析の引用をする人なのかと思ったが索引をざっと見る限りフロイトをはじめとした代表的な精神分析家の引用はない。おそらく序文を書いたマーサ・C・ヌスバウムは生前の著者との対話から著者の理論的背景を知っているのだろう。もちろん精神分析が主なものとは思わないが教養として使用していたのではないだろうか、という印象を受けつつ読んでいた。そしてさっき気づいたのだがこの本の終盤337ページに私は線を引いたらしい。今気づけば付箋も貼ってある。いつ読んだのだろう。全く覚えていない。私は買ったら一応パラパラだけはするのでそのまま積んでおくことはしない、とはいえ、こんなにきちんと線を引くほどしっかり読んだ覚えはない。まあ、記憶していなくても何かの積み重ねにはなっているだろうし、思考を助けてくれてもいるだろうからいいけどその手の知力がまるでないのは本当に残念なことだと思う。今日もがんばろう。

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精神分析

韓国、『何卒よろしくお願いいたします』

朝焼けがきれい。なのだが、韓国が大変なことになっている。どうしてこんなことが起きているのか。こんなに身近な国のことなのに日本のメディアを追っても全然わからない。韓国の人にも何が何だかという間に起きたことなのかもしれないが本当にいったいなんなんだ。わからないときは注視して推移を見守るしかないが変な空想が現場の現実を超えないように気をつけるのは自分自身だ。

韓国のイ・ランと『ぼのぼの』のいがらしみきおがコロナ禍に交わした往復書簡『何卒よろしくお願いいたします』(2022,タバブックス)は二人が自分と相手の情緒を細やかに掴み丁寧に言葉を交わしあう優しい本だ。往復書簡を終えた後の2022年、辛い生い立ちとともに「今すぐ死なないのであれば生きていくしかない」としながらもつながりに希望を馳せるイ・ランへの返信にいがらしみきおが書いていた。


「我々はなぜ、この世界を好きではないまま生きていかなければならないのか。きっと好きではないけど、生きていたいと思わせるものがあるからかもしれない。それはなんなのかと言えば、目をあければなにかが見えるし、聞こうと思わなくてもなにか聞こえるし、なにか口に入れるとうまいとかまずいとか味がし、匂いを嗅いでもいい匂いとかなつかしいとか感じるし、なにかに触るとその感触があって、」

人間のインターフェイスを面白く思えるいがらしみきおの具体的な書き方が優しい。今はとても苦しいけれどきっとどうにかなるよ、とこんなふうに伝えてくれる人が政治家だったらいい。生きる希望を失いそうなときに誰にでもわかる言葉で一緒にいてくれる人がいい。なんでも知ってなんでも管理することなどできるはずがないのに統制しようとする心の動きなどもっとも衰えていい機能だろう。良い方向へ事態が向いますように。一度経験した脅威はその後の自由を確実に奪うだろう。それでも何度でもそれを求められますように。

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お菓子 精神分析

朝焼け、カステラ、こなれた英語

いつもの毎日が始まると一日一日があっという間。今日も朝焼けがきれい。いつも素敵な朝ごはん画像を載せてくれる人も同じ時刻にそう言っていた。空は広いからいつも誰かしらと共にできる。「みんな空の下」という絢香の曲がありましたね。絢香は空の曲が多いね。三日月とか。にじいろとか。多いわけではないのか。

今朝はまた、というかまだ名古屋のお土産。学会には私も行ったのに名古屋のお菓子が大渋滞。賞味期限の早いものからのんびりいただいて本日辿り着きましたのは八事の菓宗庵さんの「名古屋コーチン卵カステラ」。緑茶を淹れました。白い和紙で包んである。丁寧できれい。きれいな黄色。さっぱりした甘さ。カットしてある一本ってありがたい。自分で切るよりきれいなままお皿に出せるし。これは名古屋の方にいただいたのでした。地元の人のお土産ってさらに嬉しい。美味しかった。

昨日は深夜に英語の文章の書き直しをしていた。自動翻訳だのみだけど結局それを直さなくてはいけなくなる。正確さだって危ういのにこなれた表現となるとなにがなにやら。人々が「こなれた英語」というのを眺めてみた。うむ。読みやすさと繋がってはいるのだろうけど「こなれた英語」の基本のパターンみたいのがあるのか?これを使えたらこなれてる、みたいのはたくさん見つかるけど。それ以前に内容をもっと丁寧に書くべき。いつも大慌てで一気に書いてしまってそんな自分に慣れてしまっているのは良くない。アドバイスをいただいて、ああこんなにきちんと読んでくれる人がいるんだなあ、と思って反省した。毎年、新年の抱負で俳句で推敲をきちんとすると言っているがそれも何年もできていない。俳句でもいつも丁寧に選評をいただいているのに失礼ですよね。来年こそ、ではなくて今日からがんばるぞ。すぐに取りかかれないものはどんどん後回しにしがち。隙間時間に本ばかり読んでないで手を動かすぞ。この時間にもこんなこと書いてないでやりましょ。どうぞ良い一日を。

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イベント 精神分析 趣味

ミーティング、昇華、思春期

昨日はいつも以上に動かなかった。移動先で午前も午後もミーティング。やっとお昼だー、めんどくさいけど外へ出ねば、と動こうとしたら「たくさんあるから食べない?」と美味しいパンをもらえた。コーヒーもフリー。なんかいつもみんなありがとう、という気持ち。腰が固まっちゃうと大変だから少しは動いたけど夕方まで地上に降りなかった。ミーティングでは関西、九州のみんなと直接会えていろんなお話を聞いたり考えたり話したりした。振り向いたり乗り出したりヒソヒソしたり遠くに手を振ったりオンラインでは失われる動きや奥行きを実感して話せるってとっても素敵。以前は当たり前だったこと。コロナによって奪われた時間。でも直接会えることをこんなに大切だと知ったのもコロナがあったからともいえる。「おかげ」とは絶対に言えない。ウィルス自体にはなんの罪もないけれど。そういうわけで口はいっぱい動かした。耳もいっぱい使った。いろんな気持ちにもなった。揺さぶられるほどではなかったけど。もはや自分の反応を予測するよりも反応が起きてから「ああ、またこうなってる」という感じでコントロールできるものとも思ってないから気楽。それにしてもみんな色々ある。ありすぎる。ありすぎるそれらをいちいち人に言ったりしない。言う相手だって自然と選ぶ。それが普通だってことを何度も思い出す。言う相手がいるのはいいことだ。そういう相手がいるから特定の相手が必要であることの意味もわかる。同世代とは介護、自分の身体の不調など「そういう年だよね」としみじみすることも増えた。協力しあってやってこうね、楽しもうね、そんな言葉を言い合うことも増えた。難しい状況をいかに楽しむかのスキルもいいかげん高くなってきた、はず。精神分析で自分に時間もお金もかけて散々向き合ってきたつもりだけど向き合うことの重要性とそれによって得られた変化を忘れるような困難や余裕のなさもたまに生じる。そういうときに必要なのは孤立していないこと、というより無理をしていないこと。もはやここまで、というかのように自分を諦め、逆にどこまでいけるのかと自分を委ねたあのものすごく大変な時期を思い出せばスピードは落とせる。余裕はできる。誰かがそばにいてくれると感じられる。自分に軸ができてくる。ルイーズ・ブルジョワの「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」の「地獄」は10年間の精神分析のことでもあるのでは、と自分の体験と重ねて思う。精神分析における「昇華」は研究の難しい概念だと思うけど森美術館も展覧会で繰り返し流されていたビデオでブルジョワが何度もsubulimation と言っていた。2002年、晩年のブルジョワが描いた絵と文章でできた絵本のような作品のお話。

“I feel that if we are able to sublimate, in any way we do, that we should feel thankful. I cannot talk about any other profession, but the artist is blessed with this power.”

とブルジョワはいう。父を諦め(おそらく母のイメージも変わっている)地獄から帰ってきて作品作りを再開し、その後も長く生き、作品を送り出し続けたブルジョワの感謝は特定の対象ではなく生きることのそのものに向けられているのだろう。週末、東京にきていた友人にルイーズ・ブルジョワ展を勧めたら行っていたからまたおしゃべりしたい。

昨日はイギリスの精神分析家のMargot WaddellのOn Adolescenceを少し読んだ。Waddell先生の”Inside Lives – Psychoanalysis and the Growth of the Personality”をなんと借りっぱなしだった。週末にお会いした先生に。昨日、家に帰って友達に頼まれた本を探しているときに見つけた。がーん。お借りしてから2年くらい経っているかもしれない。割と頻繁にお会いしているのに忘れていた・・・。それでWaddell先生のことを思い出したのでもっと新しい文献をチェックしたのでした。思春期臨床は私にとって大切な領域。小学生低学年の子や幼児さんと絵描いたりドールハウス使ったりするセラピーも好きだけど思春期の子供は私も通ったはずなのに全く忘れていた強度で大切なことを伝えてくれる。大人になることって連続しているようで全然していないんだよね。今日もがんばろう。

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音楽

ジョン・バティステを聞きながら。

起き上がってカーテンをちょっと開けて東の空をのぞく。朝焼け。きれい。と確認してベッドをでる。お湯を沸かして沸くまでにもらったみかんを一個食べる。バタバタ準備しているうちに熱湯が白湯になった。

今朝もFür Elise – Batiste” from Jon Batiste’s album Beethoven Blues (Batiste Piano Series, Vol. 1).

ジョン・バティステの「エリーゼのために」を最初に聞いたときはあれ?となった。先行シングル(って今もいうのかな)だったのでアルバムを聞く前に何度も聞いた。一番最初に聞いたときはちょうどiphoneかSpotifyかなにかがおかしくて同じところで何度もフリーズしてそういう曲なのかと思ってそれはそれでなんだなんだとなったんだけどそうではなかった。すぐに何かの故障だと思わなかったのはジョン・バティステなら何が出てきてもおかしくないような気がしたから。ピアノを習っていた人は「エリーゼのために」は馴染みがあると思う。私は発表会で失敗した曲としてよく覚えている。盛り上がりがはじまるところで間違えた。私はピアノの才能がほぼないのでそれは誤作動というより通常運転だったのか自分でも間抜けなくらいうん?これ?あれ?違う?これか?と指を置き直して弾き直した。今ならもう少し焦ると思う。そんなことを思い出しながらこの曲はこんなにも多彩な音や景色を秘めていたのか、とジョン・バティステのピアノに浸った。昨年は交響曲を作りカーネギー・ホールにたつまでのドキュメンタリー「ジョン・バティステ: アメリカン・シンフォニー」も放映された。作家である妻スレイカ・ジャワドとの治療の日々を音楽とともに追うもので胸が苦しくなったが音楽の力の大きさもだからこそ確認できた。そしてその前の『World Music Radio』、その前の『We Are』、その前の・・・と遡れるわけだがジャズにとどまらず、ワールド・ミュージックの概念も変えていくようないくつもの要素を散りばめながら新しいものが古くなる前に別の新しい音を世に送り出すジョン・バティステはすごいと思う。

今日もグッドミュージック&グッドディでいきましょ。

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読書

冬がきたり『黒人理性批判』を読み始めたり。

お茶と羊羹でのんびりした。早朝が終わりつつある。部屋の気温もまだ低いはずなのにやっぱりまだ大丈夫。でもやっぱり寒いと身体が確実に変化を起こす。きちんとメンテナンスしないと。してもしても何か起こる年齢かもしれないけど対症療法でいけるならそれはありがたいことだし。

昨日、また本屋さんへ寄ったらAchille Mbembe(アシル・ムベンベ)の『黒人理性批判』が出ていた。宇野邦一訳で講談社選書メチエから。あまりパラパラできなかった。最初から視線を固定してきちんと読まないといけない本だった。待っていた本でもあったのでオフィスに戻りながら電子書籍で購入。少し安い。フランス語は英訳を介さずに訳されている本がいい。やっぱり言葉へのこだわりが違うし言葉が持つ歴史などそこにこめられているものを知っている人の翻訳はそれだけで勉強になる。著者のアシル・ムベンベはカメルーン生まれ、パリで学び、アメリカでも教え、アフリカに戻って活躍する哲学者・歴史学者・政治学者。一文一文の積み重ね方がすごい。ハイライトでいっぱいになってしまいそうだから途中でハイライトするのをやめた。ゆっくり読もうと思う。

みかんとキウイをもらったので早速みかんを一ついただいた。すっきりした甘さ。冬だねえ。冬は本当に辛いけど食べ物は本当に美味しい、というか食事のときに幸せを感じる瞬間が増える。しみるなあ、と。にしても今朝はなんだかバタバタなのでとりあえず行こう。どうぞ良い一日を。

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映画 精神分析 音楽

北村紗衣連載、『8 Mile』、『女の子のための西洋哲学入門』、NewJeans

朝焼けが始まる。細い月も東の空に。今朝は河口湖の金多留満(きんだるま)の富士山羊羹。京柚子味。包み紙では金多留満は「多」に濁点がついている。洋菓子みたいな包みなんだけど出てくるのは富士山。京柚子味は透明な黄緑。さっぱりな甘さで美味しい。あ、でも結構甘いかも。でも美味しい。なんといってもきれい。河口湖の定番土産。湖は囲いという感じでいい。琵琶湖くらい広くなってしまうと海みたいだけど遠くても先が見えるってなんか安心するのかもしれない。昔、バド部の合宿で行ったのは河口湖だったか、山中湖だったか。あの時みんなでもっと観光も楽しめばよかった。ひたすら練習をしていた。といってもサボり好きの(ゆえの)弱小チームだったからみんなでワイワイしにいっていた感じだけど。それでもひどい筋肉痛でフラフラになるくらいには練習した。その後、バド部はすごく強くなってしまったそうだ。あの頃の私たちはなんだったんだろう。隣のチアがマドンナの曲で準備運動をしているのに合わせて踊りながら打ったりゲラゲラ笑ってばかりでひたすら呑気だった。ある試合で私が相手のエースになかなか点をあげなかったら(といってもひたすら拾うだけのミス待ちで時間がかかるだけで着々と点は取られていた)相手チームが泣き出して(最初はこちらを笑ってたのに)かわいいユニフォームの女子大を舐めているな、同じ女子なのに、と思ったこともあった。弱小だからせめてユニフォームはかわいくしたのにそういうのがムカつくみたいな感じなのかしら。今はあんなの着られないから(シンプルな白のミニスカートタイプってだけだったけどね)着ておいてよかった。今またこの歳で筋トレはじめて数十年ぶりにひどい筋肉痛を経験しているけど今週は関節痛。痛みは増えるものだ。減らし方も学んできたが関節痛の対処はよくわからないから様子見。身体がなんとか健康を保ってくれますように、いうのが一番の願い。

前にも書いたけど『8 Mile』が公開された頃、私はアメリカが身近だった。ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドのエスカレーターから大きなエミネムのポスターが見えた。『8 Mile』のエミネムはなんか弱々しくてどこか上品で私は大好きだった。その映画をフェミストで批評家の北村紗衣さんの連載「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」が取り上げていた。さすが、プロは違う。

「デトロイトの自動車工場ってかつては全米をリードする、エネルギッシュなところだったはずですよね。それがいまや、隠れてこっそりセックスするようなしょぼい場所になっている……みたいな。」

たしかに。唸った。デトロイトといえば自動車工場だった、そういえば。当時の私は白人、黒人という軸は持っていたけど(自分もアジア人として差別されたからわかりやすかったのか?)、当時のアメリカの状況を政治的、歴史的、地理的な文脈(ほぼ全てではないか)で考えたことがなかったし、アレックスのことこんな風に考えたことはなかった。ラビットの母親のことは色々思ったがそれは女として、というより母親としてであって、というか母親は女でもあるという視点がどこか欠けていたと思う。精神分析が持つ父権性や母性を別の言葉で記述できないかという格闘をこうして内側ですることがなければずっと何も思わなかったか、口先だけだったかもしれない、と思うと恐ろしい。男たちの世界の当たり前を何も感じずに素敵素敵と言い続けることすらしたかもしれない。誰々にもいいところが、とか、そこじゃないだろう的な表現をしていたかもしれない。ということは当時、このような記事を読んでもあまりピンとこなかった可能性があるということだ。今、読めてよかった。

昨日、アガンベンを勉強しながら「なんか結局男の本ばかり読んでるよな」と思った。分析家仲間とは女が女の分析家の本を読む、ということを続けてるけど。お昼に本屋に寄ると『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』が並んでいた。メリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー編、三木那由他+西條玲奈監訳、青田麻未/安倍里美/飯塚理恵/鬼頭葉子/木下頌子/権瞳/酒井麻依子/清水晶子/筒井晴香/村上祐子/山森真衣子/横田祐美子、共訳の本。「女の子かあ」と思って捲るとすでにそこに抵抗を覚える人に向けた言葉が書いてあった。あえてこういう本を出していく必要があるんだな、まだまだまだまだ。しかし、こういうのだって女の心身をものあつかいするような男の本と並んでいたりそういう人が書評書いたりおすすめしたりするわけで「変わらないよね、世界」とまた失望する。しかしこういう本が翻訳されること自体に希望を持つ必要もある。自分のことは棚上げしないと仕事にならない、というのは実際あるけど重大な問題であるという認識が足りないことに変わりはない。まあ、私もそうだった、という話でもない。色々難しいものだ。自分はどうありたいのか、何を大切に生きていきたいのか、そういうことをずっと考えていくのが日常をかろうじて守るのだろう。

今朝もジョン・バティステの『Beethoven Blues』を聴いている。Be Who You Are で共演したNewJeansが大変そうだ。世界に認められた若者も守れないとしたらこれからどうするつもりなのだ。昨日はイマニュエル・ウィルキンスの口承音楽について読んで考えていたが当たり前の自由を必死に守るための音楽だけではなく、もちろんそこに潜在する自由こそがインパクトを持つとしても、若い世代がひたすら自分のために伸び伸びと発する音楽も早く聞こえる日がきますように。

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イベント 精神分析 音楽

イマニュエル・ウィルキンス、vessel、托卵

空がすっきりした青になってきた。今朝は栗のお菓子と熱いお茶。あったかい。昨晩からアルト・サックス奏者、Immanuel Wilkins(イマニュエル・ウィルキンス)の前作『The 7th Hand』を聴いている。「Lighthouse」という曲に毎回ひっかかる。気に入っている。

今回も柳樂光隆さんのインタビューを読んでから聴いているのだけど今回の記事はイマニュエル・ウィルキンスの

「僕は「vessel」(器)、もしくは何かをアーカイブし、伝えるチャンネルとしての「body」(体、塊、物体)という概念に対する強いこだわりがある」

の言葉から奴隷貿易によってアメリカに渡った黒人がどのようにその文化を継承してきたかなど広い視野へ導いてくれるものとなっている。

精神分析ではビオンの「コンテイナー」を使うことが多いけれど「vessel」という言葉もより身体と近くていいなと思ったりもした。ビオンが見ていた臨床素材が違いすぎるので「コンテイナー」は意識して使わないようにしている。あまりに簡単に使われるようになってしまったものはできるだけ使わないで敬意を保ちたい。

先日、上野の「鳥」展で知ったことをあれこれ披露しようとするたびにすでに忘れていることの多さと記憶の曖昧さに気づく。知ってはいたが何度も気づく。例えば「鳥って方言があるんだって」「へえ」「・・・・」と私が面白いと感じた鳥に関する知見を紹介できない。托卵とメスによる性別コントロールについてはそこそこできたが、托卵のことは知っている人が多いのね「鳥」展にはちょうど鳥が別の鳥の卵を捨てる瞬間の写真もあった。これヒナの段階でする場合もあるみたい。鳥には鳥の進化があって、うわあ、人間と同じ、と思うこともあるけど、人間がこれではまずいだろう、と思い直すことも多い。なんのために言葉を持ってなんのために思考できるようになったかといえば鳥たちみたいに生きられないからなわけでしょう?違う?持っているものの有限性が異なるのに都合のいいとこだけモデルにするのも違うでしょ、と思う。まあ、色々自分にだけ都合良すぎだろ、と思うことが多いからそんなことを思うのだな。それぞれがつたなくてもなんでも自分の言葉で自分の中の矛盾を抱えていけますように。

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精神分析

勉強とかやってみるとか。

昨日は帰ってくるまではそんなに寒くなかった。もう寝ようかな、というくらいにとても寒くなってきた。雨の音も強くなっていた。少し勉強しておかないと、と机の前に座ったが眠くなるばかり。いつのまにか突っ伏して寝ていた。いけない、と思ってまた寝た。再び起きたら結構な時間。寒いのがいけないんだとベッドへ。起きたら洗濯物ができあがっていた。朝はそんなに寒く感じないのが不思議。バタバタ動くからかしら。旅に出ると早朝散歩に出るけど朝だと寒くても大丈夫。最近は冬は南に行くから楽なだけかもしれない。

昨日、勉強しようと思っていたのは、またラットマン(鼠男)とウルフマン(狼男)の関連。せっかく精読しているので深めておきたい。特に、フロイトにおける強迫神経症の病理を攻撃性、つまり肛門性愛の観点から辿ること。ラットマンではもっぱら能動的に記述された肛門性愛はウルフマンでは受動的なものになる。フロイトは肛門に器官として受動的な役割を与えているけど排泄やそれと混同される出産は必ずしもそうでもないだろう。なのでこれはきっと肛門性愛以外でも説明ができるのだが、たとえば「眼差し」という線で考えていっても結局他者の身体を必要とすることは変わらないので別の身体図式で考えることもできるが肛門でもいい、というかむしろわかりやすいし、臨床経験がそうであるならその線で考えるのが妥当だろう。そもそもサディズムとマゾヒズムがたやすく反転するように能動と受動の区別は曖昧だ、などなど。クラインのいう攻撃性もそのあとに確認する。

カウチでの自由連想という特殊な設定を体験する人は少ないが、そこで語られることの豊穣さには目を見張るものがある。それは意味内容の話ではなくて言葉を発すること自体のインパクトから生じる心の動きの複雑さだ。お金も時間もかかるが、いつ死ぬかわからないならなおさら自分に投資することで他者に貢献するという選択も悪くない、と自分の体験から思う。もちろん優先順位は自分にしか決められない。私は10年前の自分のまま生きていくこともできただろうが、今を知っているとあのまま生きていくのはキツかったな、と思う。精神分析家になりたい、とコンサルテーションに訪れる方はいるけど、資格にこだわって結局精神分析から遠ざかる人も見てきているし、精神分析は心理学でも医学でもないので自分の専門性は放っておいて自分の限られた人生のためにまずは投資してみればいいのに、と思ったりする。何度も書くけどお金と時間はかかってしまう。しかし投資というのは目に見えないものにしていることが多いし、精神分析家になりたいならその道は通るしかないけど、その欲望が行動を邪魔するならそれはとりあえずおいておいて自分が何をしたいのか考える場として使うほうが役立つかもしれない。「受けたい分析家がいない」というのも聞くけど「この人がいいよー」という類のものではないし、今の自分と遠いところに行きたいなら、自分で選択したら何かいいことがあるという錯覚こそ遠回りになると思う。どっちにしても一度関係が始まれば幻滅は常に生じるし、こっちじゃなくてあっち、というのはそういうときこそ思うわけだけどその事態をどう超えていくかだろう。我慢する、とかではなく。私が思うに、自分が相手を知っている、ということはないし、自分が自分を知っている、ということもない。どれだけ異質なものに出会っていけるかが臨床の仕事でもあるので、それを生業としている私にはそういうこだわりはなかった。組織には疑いを向けていたから組織に入っていない人に、と通ったこともあったけど結局その体験を通じてIPAという組織に入ったわけだし。何が起きるかなんて誰と会ったとしても何かは起きるし専門家という枠を信頼できるかどうかでしかない。そこから導かれる自分の無意識自体は変わらないと思う。そう思えるのも随分経ってからになるから全然信じられないと思うし、意識の領域であれこれやっているうちは大変だろうけど。信頼性の薄い世界だね。でも今周りに信頼できる世界なんてあるかしら、とも思う。自分が自分を生きるためにはこれこれこうして、というのはなくて、どれもこれもやってみないことには、という話か。今日もがんばりましょ。