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短詩 読書

『アンソロジスト』、時実新子『小説新子』を読むなど。

時実新子という川柳作家がいる。現代川柳の暮田真名さんが早稲田大学大学院で研究しようとしている対象だ。ということを以前伺った。

紀伊国屋書店で待ち合わせをした。お目当ての『アンソロジストvol.4』(田畑書店)を見つけた。川柳の本が増えている気がした。暮田真名『ふりょの星』は相変わらず平積み。表紙の吉田戦車の絵はやはり最高にかわいい。吉田戦車の川柳とか面白そうだ。『走れ!みかんのかわ』(河出書房新社)とか組み合わせ可笑しいでしょう。彼は音程はどのくらい意識しているだろうか。暮田さんは今号の『アンソロジスト』「スケザネ図書室」に「音程で川柳をつくる」という短文を寄せている。暮田さんが教える仕事が増えるにあたり「でっちあげていかなければ」とでっちあげた「作句のルール」のひとつだ。でっちあげというわりに超真面目に実践が紹介されているのが暮田さんらしいズレだと思う。超音痴の私にはやはり難しそうと不安になったがここで挙げられている方言がそうであるようにイントネーションというのは音痴のもつ特性とは少し別のところにあるような気がするからなんとかなるだろう。五七五に五七五を意識せずに言葉を入れ空席の数にはまる言葉が聞こえてくるのを待つようにすればいいらしいっすよ、先輩、という感じですね。

この『アンソロジスト』を指にはさみ(薄いのだ)平積みを眺めているとどーんと目に入ってきたのが『小説新子』(小学館)。そう、最初に書いて忘れていたわけではないよ、川柳界の与謝野晶子と言われた情念の女。この方、第一句集も『新子』。自分をどどーんと出してくる。ペンネームではあるけれど。

いやあ、すごかった。見も知らぬ家へ嫁へ行く『嫁ぐ』で幕を開ける新子の半生。暮田さんは新子をどうやって扱うのだろう。この人でっちあげ要素ゼロではありませんか。あまりにストレート。結婚の約束までしてくれた初恋の人を追い返した母。親には親なりの理由がある。

河口月光 十七歳は死に易し

読み始めてまもなく最初に登場する川柳だ。つまりこれは新子が十七歳で嫁いでからのお話である。

この続きは今度書こう。同時代のいろんな女が思い浮かんできてしまったのでキリがなさそうだ。女の言葉というものがあるかどうかは知らないが言葉から意味を外してなお残る情念みたいなものがあるとしたらそれをどう表現しよう。

なんてことを意識的に考える時間は今日もないがこう書いておけば突然どこかで何か思いつくかもね。花粉が辛いけどまたね。元気で。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 読書

知識

早朝から國分功一郎さんたちのUTCP公開セミナーをみていた。2月18日(土)午後に行われた柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店)の合評会の映像のアーカイブ。1:28:55あたりから本編、というのが面白い。動く國分さんがいるのに何も聞こえないし何か始まる気配がないから私のパソコンがおかしいのかと思った。会場には柄谷行人ご本人がいらしていたとのこと。いいねえ。そのあとご本人からのフィードバックもいただけたのよね、きっと。私はまだ読んでないけどDの到来か。こういう話だけ聞いていると面白いような気がしてしまうけど知識も教養も足りなすぎるからまずはとりあえず読むだな。いつもそうだ。

言語論の講義を受けて発表もした。話題にでた三木那由他『言葉の展望台』(講談社)を再読しようと思ったが読みやすいそっちはいつでも読む気になるだろうからモチベーションが落ちないうちに途中までしか読んでいなかった『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』を開いた。あ、話題に出たのは『会話を哲学する コミュニケーションとマヌピュレーション』(光文社)のほうか。昨年刊行された『実践 力動フォーミュレーション——事例から学ぶ連想テキスト法』(岩崎学術出版社)の刊行記念に監修者の妙木浩之先生が寄せた文章にもこの本は登場する。

コミュニケーションは断たれてしまったら何も生じない。それは未来にとっては危険なことだ。いくら本を読んだところで知識を身につけたところで実際のあり方をずっと問い続けて自らも実践していくことがなければ言ってるだけの人たちと変わらない。言ってるだけであっても言えてるだけマシかもよとも思うが。文章を書くその人がどんな人であろうと読んだり聞いたりすれば助かる人も多いだろうからそれはそれで一つのコミュニケーションのあり方なのだろう。そういう乖離を見せつけられる距離で絶望を繰り返しさらにコミュニケーションを断たれたとしても(ひどいことは大抵最後までひどい)知識は知識だ。とても冷めた気持ちで言葉を物質として淡々と取り込む工夫も必要だ。三木さんの本を読むとなおさらそんな気持ちになる。動けないという意味で時間が止まる。思考が停止する。それでも時計は動き続けひどい人はひどいまま今日も元気だろう。冷めた気持ちで淡々と。いずれ使えるように素直に取り込んでいこう、それが誰から発せられたものであっても、正しいと言われる知識であれば。

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俳句 読書

『スティーブ&ボニー』、3月11日、春の雨

寝不足。眠い。色々思い出したり考えたりしていると陰鬱な気分になってくる。さっき安東量子『スティーブ&ボニー』(晶文社)から引用したツイートをした。私はつながるための言葉を戦いの言葉に変換され言葉を交わすことに絶望したことがある。やっぱり、とどこかでわかっていたはずなのに希望を持ってしまったことにも重ねて絶望した。安東さんは絶望しながらも動き続ける。それをたやすく希望の証左とはいえないだろう。ただ福島で生きてきた人、福島を生きる人にとって絶望したからといって切り離すなんて何を?という感じではないだろうか。そんなことできないから絶望しながらでもこうやって生きてるんだよということではないのか。この本はアメリカで開かれた原子力に関する会議に招待された安東さんの孤軍奮闘日記でもあり様々な交流の物語でもある。そこでの講演内容を知れるのも貴重だし、それに対する聴衆の反応と安東さんの想いを知れるのはもっと貴重だ。あと1ヶ月でまた3月11日がやってくる。何度も何度も記憶を戻し、あれはなんだったんだろうと問い続ける。せめて誤解に基づく非難を回避する努力なら続けていけるのではないだろうか、こういう研究と現場を行き来する実践家の本を読むことで、と改めて思った。

空が明るくなってきた。今日の東京は「冷たい雨。今日との気温差に注意。」なの?昨晩、電車の液晶テレビ(っていうの?)でそんな予報を見た。まだ天気予報は変わっていないだろうか。「春の雨」という季語みたいに明るく暖かなイメージの雨ならいいけれどきっと違う。だって寒い。

ちとやすめ張子の虎も春の雨 夏目漱石

そうそう。今週も「ちとやすめ」と言い合いながら過ごしましょうか。リラックスするのはとても難しいことだけど力の抜けた柔らかな言葉をかけあうこと自体がそんな一瞬をくれると思うからまず言葉だけでもかな。どうぞ今日もご安全に。

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読書

BB弾、「お前はもう死んでいる」、安東量子『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)

自分を規定しない場所から発せられる言葉はその人の公的な活動しか知らない人にはとても自由で魅力的に聞こえるけどその人の愚痴とか色々聞かされて知っている人には「またそのパターンかよ、つまらねーな」となったりもする。実際、本人もつまらないことには自覚的で相当な後ろめたさを抱えていたりするが(裏話は誰にでもある)優れた編集力だか嘘つき力で面白くないおもしろ黒歴史としてそれを披露することでとんとんにしている。

安全な場所から遊んでもらいたい相手の方へ当たらないようにBB弾を放つみたいなことも年を重ねるごとに上手になる。実際に当ててしまった相手のことは「お前はもう死んでいる」と心の中で葬り去る。俺だって傷つけたくなどない!だから殺しちゃう?思うだけなら自由だ。そうだそうだ。これだっていずれ俺だけのプチブラ歴史として披露されるのだろう。なんの立場でもない俺俺立場は責任取らなくていいから地獄は相手が担うのだ。

BB弾は私が小6か中1のときにすごく流行った気がする。単にその年代が使いたくなる代物だったのかもしれないが。バカをしがちな友人が実際に人に当てて指導されたりしていたがそいつの環境を考えればやりたくもなるよなと思わずにはいられなかった。私もバカでダメな厄介者だったから共感しただけかもしれない。「お前はもう死んでいる」も流行った。いまだにケンシロウの言葉だ以外のことを知らない。友人は父親の後継にはなれなかった。なりたかったのかなりたくなかったのかは知らない。本人にそんなことを考える余裕があったかどうかも知らない。BB弾は世界に対するなんらかの抵抗だったとは思う。

思春期をとっくに過ぎても規定されることを嫌い何者でもない俺でいるという選択もしやすい時代になった、という言い方は嘘っぽいがとりあえずそうだとして真面目でも不真面目でもいられるなんにでもなれる俺で生きていくのも自由。ただどんなあり方も誰かに地獄を味あわせる免罪符にはならない。どこかで私たちは変更を迫られる。

黒歴史か、都合のいい言葉だ。トラウマのせいで進まない時間を過ごす人を葬り去り自分だけ時を進めてそんなことはおきなかったといいたい人にとっては。

友人は「まじめにふまじめ」だった。これはゾロリのこと。以前勤めていた小児発達クリニックの子どもたちにも大人気だった。高校生になって偶然再会したときすっかり背が伸びて誰だかわからなかった。何かを話したが内容は覚えていない。今は何者かになったのだろうか。リアリティを持って語るために自分をある立場に定める。私もいまだその途中だが今日も地獄側から考える。写真は地獄というより鬼。歌舞伎町の鬼王神社の狛犬。すごくいいと思った。節分のときも「福はうち、鬼はうち」っていうんだって。

あ、あとリアリティといえば『海を撃つ 福島・広島・ベラルーシにて』(電子あり、みすず書房)の著者、安東量子が昨年末に出した新刊『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)がとても良かった。アメリカを異文化と書きたくなったがフクシマはどうだろう。広島は?長崎は?著者は広島出身で福島で被災した。

「原発事故がおきて社会は大混乱に陥った。なかでも困ったのは、あらゆる関係のなかで意見が対立したことだった。生活の隅々にまで入り込んだ放射線のリスクをめぐって、家族でも、ご近所でも、職場でも、人と人とのコミュニケーションが存在する場面という場面で、意思疎通が難しくなり、しばしば修復不可能なほどにいがみ合うことになった。地元の野菜を食べるか食べないか、子供を外で遊ばせるか遊ばせないか、洗濯物を外に干すか干さないか、そんなあたりまえのことについて言い争う羽目になる日常の暮らしにくさは、経験してみないとわからないかもしれない。」ー3章より引用

著者は2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故のあと、地元で住民のみなさんと地道に放射線量を測定し、福島県内でダイアログ・対話活動をしてきた。事故後の大混乱の中、人間関係の修復という最も重要で困難、しかし不可欠な目的にとってその実践の積み重ねは大きな役割を果たしてきたのだろうと想像する。

その著者がいう。

「意見が違うことはしかたない。まずそれを受け入れた上で、なにかひとつでもいいから共有できるものを探すこと」

「内容はなんだっていい。その人が大切に思っているものをなにかひとつ、些細なものでもかまわないから、ひとつだけでも分かち合うことができれば、意見は対立したままであったとしても、関係をつなぐことはできる。」

この本は、核開発拠点のひとつだったアメリカのハンフォード・サイトで行われた原子力会議に招かれた著者の冒険譚のような一冊だ。著者のコミュニケーション哲学の実践を知れば知るほどその困難な現実に胸が苦しくなるが残るのは絶望だけではない。私は泣き笑いしながら読んだ。そして私たちが大きな組織に向けて細々と続けている運動のことも思い浮かべた。励まされた。あとがきに山本貴光さんに大変お世話になったと書かれていたが、推薦文はその山本さん。

「原子力を語ると、どうして話が通じなくなるのか。それでも分かりあえるとき、何が起きているのか。これは、そんな絶望と奇跡をめぐる旅の記録である」

まさに。読めば実感されるこの文章。多くの人にお勧めしたい。

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読書

『分解する』(リディア・デイヴィス著、岸本佐知子訳)を読んだり。

外はまだ暗い。昨晩も西の空にきれいな月が出ていたみたい。毎日空を眺めているのに昨夜はなんだかぼんやりしたまま家に着いてしまったみたい。『ほとんど記憶のない女』(リディア・デイヴィス著、岸本佐知子訳、白水Uブックス)を思い浮かべる。昨日の朝も記憶のことを書きながら同じ本を思い浮かべていた。意識せずとも家に帰れるだけの記憶をいちいちありがたがって過ごしてはいないがいざそれが薄れてきたら毎日家にたどり着くたびに安堵したりするのだろうか。はじめて一人で学校から家に帰ってきたのはいつだろう。自分のことは覚えていない。ひどく寒い日は家が近くなると涙がでた。

学校が終わる時間になってそろそろあの辺かなと思いながら窓の外を何度もみる。まだかな。時間はなかなか経たない。少しずつ心配になる。大丈夫かしら。迎えにいこうか。でも今日はひとりで帰るのを楽しみに出ていったのだから。紅茶がすっかり冷めてしまった。いつもならそのまま飲んでしまうのに熱いのを入れ直す。また手をつけないまま冷ましてしまうだろう。落ち着こう落ち着こうと思いながらまた窓の外をみる。きた!胸をなでおろす。たまたま窓の外をみたら見つけたという感じで手をふると誇らしそうな恥ずかしそうな笑顔で小さな手を振り返し走り出す。あっという間に後ろ姿も小さくなる。玄関を開けて出迎えたいがそれも我慢。チャイムがなった。おかえり、よくひとりで帰ってこられたね。すごいすごい!

過去の記憶を頭の中で繰り返しているうちに電車を乗り過ごすこともある。昨日は移動の多い日だったがそんなことはなかった。立ち寄った本屋には短詩の素敵な本たちがたくさんあった。あまり時間がなかったので表紙だけ楽しく眺めながらざっと積まれている本を見渡す。あ、右手が届く範囲にリディア・デイヴィス『分解する』が立てかけられていた。すぐにレジへ。絶対に買う本というのは私は多くないが彼女のだけは読む。彼女の短編集はいろんな長さの短編が集められていて1ページにおさまる詩のような短編がとても好きだ。どの話にも小さな衝撃を感じるのは今回も同じだった。冒頭からまだ遠くない記憶が痛みとともに蘇った。それでも彼女が忍び込ませている第三者的な視点に冷静さを保ちつつ読み進めた。重たいけどそこに沈みこむのではなくドライさを維持しながら一定のリズムを感じる体験、彼女の作品を優先的に読むのはその感触に支えられているからかもしれない。

思い出したくないことほど思い出してしまう毎日に今日がこうして積み上がっていく。何をなしえることがなくても日々はそうやってすぎていく。空虚という言葉でそれをうめたとしてもそんなのはただの言葉に過ぎない、と切り捨てることなく沈みこむことで観察者としての自分にも気づく。今日も。今日も。とりあえず今日を。

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読書

金沢とか書物とか

金沢の和菓子だー、と他人の写真をみて羨ましがっている。美味しいお饅頭をいただきながら。熱いお茶でポカポカ。このまま身体が冷めませんように。薄手のダウンも脱いだり着たり。

金沢にはじめて行ったのはまだ新幹線が通っていないとき。調べたら2015年開通だからその前。まだフランス語を習っていて先生に金沢をどれだけ歩き回りいかにその価値があるかを少ない語彙で熱く語ったので2014年かも。精神分析の訓練にはいるので時間もお金も作らなくちゃでやめたんだ、フランス語。訓練終わったらまたやりたいと思っていたけど今はボクシングの方がやりたい。ケイコ(映画)のせいだな。

金沢は本当に天国みたいなところだった。と書いて金沢にはじめて行ったのはもっとずーっと前じゃん、と気づいた。20代の頃だ。福光屋さんの前で「ここなんだろ」と覗いていたら中に入れてくれていろんな段階のお酒を試させてくれたんだ。数年前に行ったときはすっかりきれいでおしゃれなお店になっていた。古き良き時代じゃった。と感じたのはその部分だけで何度行っても金沢は和菓子とごはんと美術と哲学と自然の宝庫だよ。また行きたい。

金沢といえば昨年『世界を変えた書物』(著/山本貴光 編/橋本麻里) という素敵な図録がでた。2012年金沢から始まり各地を巡り2022年金沢に戻り閉幕した展覧会『「世界を変えた書物」展』に合わせて出版された書物だ。内容については前にも書いた気がするのでためし読みもできる小学館サイトでぜひチェックを。自然科学分野を中心に、今となっては偉人のみなさんたちの「初版本」をたくさん見ることができる。まさに金沢という地にぴったりの知の集積と連環。文字は山本さんの解説しか読めないけど(原典はラテン語とかだもの)解説を読むと「へーそうなんだ!」とワクワクしながら眺められる。こういうのをこんなぎゅっとコンパクトに解説したり、こういう本を編集できてしまう知性もどうかしてるのではというくらいすごい。

私は今日も眠くてしかたない。寒さでシャキッとすることもなく色々巻き付けて縮こまるのみ。春よーとおき春よ♪待ってるから早くきて。今日も暖かくして過ごしましょうね。

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精神分析 読書

風鈴、『ケチる貴方』、吝嗇

伊万里で買ってきた風鈴がチリンチリンいっている。早朝に暖房をつけると最初は強風が満遍なく部屋を暖めようとするので風向きによってはうるさいくらい鳴る。これ以上ないスピードで部屋に暖まってほしい私はヌックミーと電気膝掛けにくるまりながら時折伊万里焼の小さな舌が同じく伊万里焼のお椀の下でピロピロしながらリンリンするのを聞いている。夜、佐賀城跡できいた風鈴の音がとてもきれいだった。ひとしきり風鈴にまつわる思い出を語り合い翌日には買っていた。まさか風鈴を連れて帰ることになろうとは。出会いとはわからないものだ。

少し温まってきた。もう少ししたら白湯をいれよう。まだおなかの調子が悪いからコーヒーはやめておこう。先日体調をひどく崩し伊万里でお店の人に教えてもらったイベントへいくことができなかった。定期的に開いている友達との会もキャンセルせざるをえなかった。楽しみにしていた予定がふたつもキャンセルになってヌックミーと電気膝掛けに埋もれながらぼんやり寝たり起きたりした。電気膝掛けを「強」にしていたのでその部分だけ熱くて何度かつけたり消したりした。もっと「弱」方向にすればよかったのだけど調子が悪かったせいかなぜか「切」にしていた。というかこの電気膝掛け、すごく熱くなる部分とそうでない部分があってそのすごく熱くなる部分がやばいのだ。というか大丈夫かな、これ。寒さをどうにかするために必死に巻きつけたり雑に暑かったせいでそうなってしまったのかしら。

昨晩から今朝にかけて『ケチる貴方』(講談社)を読んだ。石田夏穂さんという作家が書いている。なぜ急に読んだのか昨日の今日なのに忘れてしまったがそのときは「読まねばならない本」だと思ったのだ。いざ読み始めたらなんだこれは。私がこれまで体験してきた冷えと寒さに対するすべてが文字化されていた。寒さゆえに冬の到来に怯え春を心待ちにする今、無意識が読むべき本と出会わせてくれたのだろう。この主人公の不機嫌さにも非常に共感する。たとえ別の季節があったとしてもこんな冷えと寒さに苛まれる季節が一年のうち数ヶ月あればこうもなるさ。私もあらゆる温活を試したがこの主人公がえらいのは実行しつづけるところだ。私よりずっと切実に寒さと向き合っている。えらい。というか実際ものすごく切実なのだ。辛い。切ない。

“「寒い」と訴えることには何か他の訴えにはない甘えの響きがある。「お腹がすいた」「眠い」「出掛けたい」は素直に言えたが「寒い」だけは自分が主張することじゃないように感じた。”

ー『ケチる貴方』の最初の方から引用。Kindleなのでページ数がわからない。

これだ。「寒い。死んじゃう。」と毎日のようにいう私は甘えている。小説になるかどうかの違いはここにあるのだろう。極端にスイッチが切り替わってしまう「間」がない世界。それは実は生死に関わるのだ。どうかこの人に口先だけじゃない「ケア」を。自分が求めていたものに気づいてしまう痛みに対してもどうか、と願うのはここまで切実に生きられない私でもそうなんだ。

“私は生来の倹約家、否、吝嗇家なのだ。”

りんしょく、と読むんだよね、と先日のReading Freudでも確認した。『フロイト全集4』(岩波書店)はまるごと『夢解釈』の一冊で5巻へと続く。先日読んだのは「第5章 夢の素材と夢の源泉(B)」。フロイトとの治療設定、つまり時間とお金を巡ってみられた夢として解釈されたある女性の事例(261頁)に「吝嗇」という言葉が出てきて前にも出てきたのにみんな読み方を忘れていたのだ。『ケチる貴方』ではきちんとふりがながふってあった。

だいぶ温まってきた。立ち上がるときに感じるあの冷気を想像するだけで辛いが白湯をのめばまた電気膝掛けのスイッチを切りたくなる。切らずに「弱」の方へという練習も必要かもだが熱々で毎度火傷しながら飲んでいるようなときは一気にポカポカするのだ。すぐに寒い寒いとまたスイッチを入れ直すことになるのだけど。イロイロウマクイカナイね。今週も始まってしまいましたね。どうぞご無事でご安全に。

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俳句 読書

句友とか『青春と読書』とか。

「花の郷 バター」

美味しそうなお名前。美味しいです。町田の社会福祉法人花の郷さんのクッキーをいただきました。

おー、句友の句がNHK俳句に!加藤シゲアキが好きな句と言っている。句も人も素敵な友がたくさんです。大好きな千野千佳さんも北斗賞の佳作に入ったし。みんないつもすごい。千佳さんの三句は昨日『月刊 俳句界 2月号』で読んだ。特別だけど普通、でもやっぱりなんだか特別、今回もそんな景色が爽やかでした。

そして私たちの俳句の先生、堀本裕樹先生が毎月連載されていた「才人と俳人 俳句交換句ッ記」は最終回。ゲストはやはり又吉直樹。やっぱりとてもよかった。載っているのは集英社のPR誌『青春と読書』です。

そしてこの2月号には山本貴光さんが今野真二『「鬱屈」の時代を読む』(試し読みあり、集英社新書)の書評を書いておられます。前にゲンロンカフェでお二人の対談をみましたけど日本語の言語学についてとても楽しくおしゃべりしててホヘーすげーと思いながら楽しみました。ということで読み始めたらこりゃまたすごい。言葉を丁寧に探索していくのが言語学なわけだけどこの本は言葉にならない、あるいはまだ言葉としての形も持っていないものがどう言葉になっていくのかという言語化のプロセスを本当に豊富な文献の引用を通じて緻密に記述、描写してくれています。普段やりがちな雑な言葉の使用(例えば「レッテル」貼り)に対する反省も促される一冊になりそうです(まだ途中)。

ちなみに今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行のときは山本貴光さんと往復書簡を交わされていました。それはこちらで読めます。

今日も色々(雑かな)あるでしょう。鬱屈した「気持ち・感情」はなかなか言葉にならないかもしれないけれど言葉を大切に人を大切につまりは自分を大切になんとか過ごしましょう。

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読書

本棚、お布団

2年ほど前から冊子になった白水社のPR誌『白水社の本棚』が届いていた。机の上に置いてあったが昨日は気づかなかった。PCの前に座らなかったということだ。2023年冬号から藤原編集室の「本棚の中の骸骨」という連載が始まった。大変楽しみ。Web版と連動しているのかな。「一生読んでいたい」本、が初回。読みたい本ばかり増えるけどこの中の何冊を私はこれから手に取るだろう。本棚を眺めてばかりだから書名は知っていても中身を知らない本ばかり。私はあと何年続くかもわからない限られた「一生」のなかでフロイトだけは読み続けていくと思うけどそれ以外にも本棚で生きているものたちとそういう出会いがあったらいいな。

重田園江の連載も始まった。『ミシェル・フーコー ─近代を裏から読む』を面白く読んだ。今回は「インド映画の破壊力」ということで『RRR』の政治性について。みてないけどそうなのか。インドの歴史は知るたびにほんとになんとも言えない気持ちになる。どの国の歴史も知れば知るほどそうなのだろうけど。牛久大仏が文章に出てきた。

今朝は早朝からざっと家事をしてまたお布団で温まっていた。部屋が温まるまで、と思っていたが案の定長居した。といってもまだ5時台だ。洗面所が寒いから洗濯物を干すのも顔を洗うのも苦痛だけど寒い寒いと騒ぎながら電気ストーブで凌ぎつつ完了。洗濯機を発明してくれたのは本当にありがたいことだわ。手洗いとか冬なんてほんと無理。溜め込んでいたに違いない。

コーヒーを淹れたらまたPCから離れてしまった。部屋はポカポカになってきた。寒い寒い書いたけど今日って特別寒い感じしないのだけどどうなるのかしら。部屋が暖かいからそう思うだけかな。ニュースだけみてビビってるけど。天気予報チェックして出かけないとですね。なんにしても暖かくして過ごしましょ。

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俳句 読書

コーヒー、銀杏、俳句

腰が痛い。指も痺れる。でもこれは危機は脱したな。別の危機はあれど私にできることがあるとすれば最小限のことをするということのみ。よけいなことをしない、誰かを巻き込まない、とにかくシンプルに、というのがモットーだけど相手あることは私だけそう言っててもしかたないし先に何が起きるかは誰にもわからないので受け身でいる。

美味しいコーヒーを入れてもらった。「美味しいコーヒー淹れてあげる」と言われたからコツを色々聞いてみた。「落ち着いて淹れる」みたいなシンプルな言い方だったが確かにコーヒーを驚かせてはいけないというのは聞いたことがある。最初に聞いたときは「コーヒーが驚くのかよ」と思ったけれどゆっくり静かに少しずつ起こしてあげるように淹れるんだってそのときは教わった。今朝も言い方は違うけど似たような感じだった。「落ち着いて」というのは私には難しいからこだわりのコーヒーは淹れてもらうに限る。味はよくわからないけれど美味しいということはわかる。美味しかった。

銀杏の雄雌両方の実をもらった。銀杏は雌株しか実を結ばないようだが実自体には雄雌両方いて、雄は二面、雌は三面なんだって。おばさんたちなんでも知ってる。初対面でも子供に色々教えるみたいに教えてくれる。私も大人になれば色々物知りになるのかと思っていたけど全然違った。でも知らないことばかりでもこうして教えてもらえばいいのだからおばさんになっても無理することもないということは知った。母が歴史に詳しくてそれも「私も大人になれば」とまたまた単純に思っていたがそんなことも全然なかった。当たり前だ。今は小学生とかが教えてくれたりする。勉強している世代の頼もしさ。おばさんたちのは経験知だからくっついてくるエピソードも生活とシームレスで面白い。

昨日は仕事の合間に「稲畑汀子俳句集成読書会 わたしの汀子俳句」というオンラインの読書会に出た。『稲畑汀子俳句集成』(朔出版)は1万2千円!でも5400句近く入っていて昨年5月の発売からすでに3刷。きれいな装丁の「栞」つきで大好きな 宇多喜代子や大輪靖宏、長谷川櫂、星野椿が寄稿。読書会に出たおかげで捲り方がわかった。

読書会のホストは汀子の息子さんの稲畑廣太郎(『ホトトギス』主宰)、ゲストは佐藤文香(翻車魚、鏡)、堀田季何(『楽園』主宰、『短歌』同人)村越敦(澤)、山口亜希子(編集者、書肆アルス)、今橋眞理子(ホトトギス)。テーマは「音」。汀子との距離の違いが生む読みの違いに触れられていたのも面白く、みなさんの対話でひとつひとつの句が瑞々しく生き返るようだったし、俳句界の重鎮というイメージの汀子の姿もまた一人の人として愛しげに語られていてこういうモーニングワークはとてもいいなと思った。

新宿中央公園の脇の道の梅も咲き始めたし春ですね。寒いですけどね。暖かくしてお過ごしください。こちらは汀子の5歳下池田澄子の句。音も文字も楽しくないですか?

また春が来たことは来た鰐の顎 池田澄子

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読書

甘味とか痛みとか

今朝は「九州由来菓子 なんばん往来」をいただきました。カップに収まっている様子からなんとなく薄紙に包まれているのかと思っていたら薄いパイ生地でさらに美味しかった。砂糖が日本にやってきたのはいつだろう。うちにあるのは三温糖と白砂糖とごろりとした黒砂糖かな。料理に砂糖はほぼ使わないから全然減らないけど一番魅力的なのは黒砂糖。もうどなたからいただいたかも忘れてしまった。砕くのが大変で飛び散るのも怖いからガリガリこすりとるようにしたり手間なんだけどあの甘味を知っているとね。喫茶店の剥き出しの角砂糖と小さなトングみたいなのもセットで素敵。昔よく行っていたカフェには可愛い包み紙に入った角砂糖があってそれも大のお気に入りだった。当時はひとつくらいいれてたのかも。ぽちゃんと。だって溶ける様子を知っている。小さな女の子がそれをきれいに並べてバンザイしてたこともあった。美しい秩序。味わい方も色々。

今日マチ子『いちご戦争』(河出書房新社)を読んだことがありますか。手のひらを少しはみ出るくらいの小さめの本。いちごを抱えて眠る女の子が表紙の白い絵本。あ、カーツーンという言葉が作者にはちょうどいいみたい。甘くて痛くて切なくて悲しくて残酷でファンタジーは決してファンタジーで終わらない。甘くてきれいなお菓子を食べながら心を抉るようなおしゃべりを繰り広げる女の子たちが語り継いでいるのはもうそこにはいない人たちの痛みかもしれない。

私が会ってきた、今も会い続けているたくさんの少女たち、それぞれの戦い、それぞれの戦い方、どんなに戦ってもたとえ勝利をおさめても最後は大人たちに絡め取られるかもしれないという子供の現実。エーリヒ・ケストナー『ふたりのロッテ』を思い出す。何度も何度も読んだ二人の戦い。あれこそシスターフッドの源流か。子供としての権利を使い子供ゆえに分断され奪われた権利を取り戻す。ひとりではどうにもならなかったけど二人なら変えられるかもしれない。ひとりのときは気づかなかった大人の汚さも知るけれど。ケストナーの生育史を考えればこの物語に直接描かれてはいない分断は生死に関わる。一方、大人の世話がなければ生死に関わる子供の世界は常に戦いを必要としているともいえる。彼らが権利のための戦いを続けられるように受けてたてる大人になっているのだろうか、私は。はぁ。ついため息が。ごめん、がんばる。『ふたりのロッテ』みんなに贈りたい。図書館でみてみてね。

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読書

なめらかな社会

鈴木健『なめらかな社会とその敵 ─PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論 』(ちくま学芸文庫)の文庫版が昨年10月に出たのでなんとなく読んでいる。幅広い。第一部は生物学。第二部は貨幣システム(経済学)、第三部は投票システム(民主主義)、第四部は計算と知性、第五部は法と軍事。これをなめらかに統合していくという壮大かつ具体的な試みの様子。そのためには世界をみる仕方を変えていく必要がある。どうやったら複雑なものを簡単に単純化しないで複雑なまま世界をみていけるだろうか。そのために個人ががんばるのではなくて技術のアップデートをできないか、という「希望の書」(と書いてある)のはずなんだけどまずこれをがんばって読む必要があるわけですね。

ただ、なんとなく読めてしまうのは平易な言葉で書かれているというのもあるけど冒頭のエピソードにこころ掴まれたからかもしれない。著者は14歳の時、西ドイツの日本人学校に通っていて修学旅行で東ドイツへ入ったことがあるそうだ。ベルリンの壁を越えて。そこで2週間前に東ドイツからこの壁を乗り越えようとして失敗し犠牲になった人の名前が刻まれた記念碑を目にする。その5か月後、ベルリンの壁は崩壊した。

この理不尽たるや。犠牲になった人々にだけではなくそれを見せられる側にとっても。著者は人間がこのような境界にまつわる原体験を忘れることを知っている。それが強烈であればあるほどそうかもしれない。だからこそそれを単純化せず考え続けるための方法を模索し具体的な提案を行う。

私はひたすら人間同士のことに巻き込まれて生きている状態なので内容を追うことはできても(多分)本当そうだなと納得はできても今はこのような実装の手順を現実的に感じることができない。そんな自分を変えないと世界なんて変わらないということかもしれないが今私こっちで必死だからそっちでやって、みたいな気持ちにもなる。なんかどっかで個人の努力を求められている気がしてしまうのだろう。著者はむしろできることをできる範囲でやるとしたらこんな感じもありなのでは、ということを書いているような気もするが内容の理解とそれによって感じたり考えたりすることはまた別ということか。でも実際勉強になる、まだ途中だけど。こういう本が2013年に出ていたのだねえ。今回はそれからの社会の変化を踏まえて再考された論点も「なめらかな社会への断章 2013-2022」として付け加えられている。

本については出版社のサイトと鈴木健さんが書いた記事「なめらかな社会」とオルタナティブな未来への実験:鈴木 健(特集「THE WORLD IN 2023」)をご参考までに。

それにしても人間中心主義を逃れることってできるのか?人間なのに、ってところに戻ってしまう。人間のいない水準でものを考えることを可能にするのが技術なのかもしれないけど。科学技術は着実に発展しているわけで、なのに戦争はこんな身近で起きてて社会の分断だって止まらない。ということを言い出したくなるのはこの本が今の私にすぐに役立ってくれない!と思っているからかもしれない。何か役立てようと思えば何だって役立つがそれだったら何読んでも同じだろうしね。自分が言ってほしいことだけ取り入れたいってことになるものね。でも戦争中だって人は本を読んできたでしょう。きっと読みもしない本を大切に持ち歩いたりだってしたでしょう?他人からみたらどうでもいいことかもしれないけどそれは他人だからそうでしょう。それかもう他人事にしちゃいたいからだよね。そういうことができないかしたくない人は足掻くしもがく。悪あがきかもしれないけど私は自分から「悪」はつけない。いい悪いの話じゃないと思うし。こういう人間が300年後(だったか)を想像し実装を試みる人間の本を読むこと自体、なめらかな社会志向かもね。楽天的というか能天気かもしれないけど。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 読書

マアム、「心配」、上野千鶴子

とても大きくて甘い苺を食べて調子に乗って苺のカントリーマーム、違うマアムか、いざ書くとなるとわからなくなるものね、書いてみてあれ?と気づくものでもあるけど、こうやって。そのね、カントリーマアムをですよ、あれ温めると美味しいでしょう、だから電子レンジにインしてチンしたわけです。ちょっと背中向けて冷蔵庫開けたらPPPってなって振り向いたらすごい煙。警報器がならなくてよかった。カントリーマアム一枚で朝っぱらから何やってんだ。煙追い出すために窓開けたからせっかく暖まったお部屋もまた冷えちゃったしもう苺の色もなくなったマアムをちょこっと齧ってみたけどだめだ。焦げすぎて食べ物ではなくなってる・・・というブルーな早朝でした。空はまだブルーではないですね。うすーい水色。それにしてもあんなお焦げになってしまっても甘い匂いだけはする。マアムの甘味、力ある。

このブログはうそほんと話の集積だってここでよく書いてるけど意外な友人がこれを読んでくれていたらしくしかも心配までしてくれた。全部ほんとの話だと思ったみたい。別のところでも書いたけどここは私が小さな頃から見たり聞いたり読んだり体験したりしてきたもので臨床上のリアリティと結びついてある程度パターンになっているものを素材に指が動くままに書いている。それがどんなささやかなものであったとしてもなんらかの体験に基づかない文章なんて書けないとはいえ吟味が必要なことはこんなサラサラ書けない。実際の体験ってものすごい複雑で、しかも具体的な相手がいる場合は言語も相当不自由になる。精神分析では自由連想と名付けられたものがいかに困難かということを体験するわけだけどそれと同じ。書きものでも指が動かなくなる。年末年始の休みの間はまるで書けなかった。仕事で構造化されている日常から離れたことでパターンが見出せなくなってしまったみたいだった。その分、知らない土地で新しい体験もたくさんできたからそういうことを重ねていくうちにいずれそれらもここで書けるような形に変化していくんじゃないかな。フロイトは「欲動と欲動の運命」のなかで精神分析が科学であるということをいうために体験と抽象概念の関係を冒頭で述べているのだけど、それはフロイトがいわゆる4大症例を体験した後だからこそのこと。それはそれとして、たとえここで書くことが全て今の私に起きていることだとしても心配しないで大丈夫。というか「心配」って力のある言葉だと思う。早速この言葉をめぐるキッツイエピソードも思い出すけど加工できないくらい生々しいので書き言葉にできない。みんなが「心配」って言葉を使うときはどんなときだろう。この言葉はとても興味深い言葉なのでまたいずれ。書きながら自分の状態を観察しているとも何度か書いたけど、今こうして思い出すとキッツイエピソードに対して「あれはなんだったんだろう」という問いが生まれて少し距離ができる。ごろんと転がしておくしかなかったナマモノが思考の対象になってくる感じ。昨日も書いたかもだけど言葉にすればいいってものでは全然ないのだけど言葉にしたときのこういう動きには十分な注意を向けることが大切だと思う。

あ、時間が経ってしまった。インスタにも載せたけど今『上野千鶴子がもっと文学を社会学する』(朝日新聞出版)を読んでいて読み耽ってしまっのだ。私は上野千鶴子の書くことには違和感も多いけどその違和感がどこどこのこの部分って特定できるくらいはっきりした文章だと思うからもやもやもしない。それでも言葉にするとなると曖昧になってしまう。そういうのの明確化に付き合ってくれる先生みたい。そういう意味でも強い。対話を拒む書き手もいるものね。今朝は何気に力とは、強さとは、ということも考えつつ書いていた。カントリーマアムの甘い香りが残っていたところから。言葉にしてるのってほんと一部。今日も少しずつ何かしらやりましょう。

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俳句 読書

1月7日小寒

太陽の運行をもとに一年を24等分したのが二十四節気。まずは一年を立春、立夏、立秋、立冬で4等分。それを今度は6等分。春は立春に始まり雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、夏は立夏に始まり小満、芒種(かっこいい)、夏至、小暑、大暑、秋は立秋から処暑、白露(きれいだよね)、秋分、寒露、霜降、冬はまず立冬、そして小雪、大雪、冬至、小寒、で大寒まで。

ちなみに今は1月7日。睦月、二十四節気でいくと小寒。それをさらに3つに分ける七十二候だと芹乃栄。せりすなわちさかう。あらあら七草粥の日?前にいただいた茅乃舎の炊き込みご飯の素の賞味期限がやばかったから慌てて作ったというか混ぜ込んで炊いたチキンライスをいただいてしまったよ。美味でしたからよしとしませう。チキンライスも炊き込みご飯に入るんだねえ。出汁を売るってすごい発想なのではないか?はじめて茅乃舎を知ってだしの試食?試飲?をさせてもらった時にはなんか変な気持ちだったけど美味しかった。今の時期は寒いから温かいだし汁だけでも幸せよね。暖かく暖かく。

ちなみに毎年宇多喜代子さん監修の「俳句の日めくりカレンダー」をもらっているのだけど今日1月7日はね、みんな大好き池田澄子さんの一句。2021年年末に出た『本当は逢いたし』(日本経済新聞出版)は私の周りにも愛し愛されている人の多い池田澄子さんの豊かさに包まれる句集エッセイだった。1936年生まれの澄子さん、宇多喜代子さんはその一つ年上。戦争を知っている世代のこのお二人の女性たちの声は俳句でも散文でもとても魅力的。

松の内どこでマスクをはずすのか 池田澄子

また書いてしまった。今年こそは俳句をがんばらねば(毎年言ってる)。

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精神分析 読書

学会とか自分語りとか

2023年1月4日から6日までContaining Diversity, Bridging Difference is the theme of the 4th Asia-Pacific Conference, which comes to Delhiだった。インド・・・。行こうと思っていた学会だけど私は日本にいても体調が悪いのに特に悪い胃腸のせいで学会どころではないかも、海の向こうで友達の世話になるわけにもいかぬ、と思っていかなかった。11月にインドの精神分析家とお話ししたばかりだったから頭にはあったのだけどその時に参加費が高すぎるという話が出たのが残っていたのかオンラインで参加できるのに申し込みを忘れておった。スーパーヴァイザーと話しててはじめて気づいた。そして気づいた今、学会は終わっていた。友達からの現地の動画とかみて感激したりしていたくせに。あとで友達の発表は様子教えてもらおう。なんだかすいません。がんばれない以前の問題が色々あるな。組織でやっている学問だからコミットしていかないとね。

今朝はキウイを食べた。柔らかくて甘い。安かったのにね。嬉しい。キウイ畑っていうのかな。夏にたくさんの子供たちを連れてキャンプに行っていた頃にキャンプ場の隣にあった。毎年夏の終わりに開催してたのだけどたくさん実がなっていたと思う。でも収穫って10月とか?でしょ?本当になってたのかな。これ何がなる畑?キウイだよ。とかいう会話をしてたくさんのキウイがなる景色を思い浮かべたのがその後実際に見たキウイ畑と重なって事実みたいになってるのかな。記憶ってそういうものよね。重なり合いながら変化していく。話を聞いていてもそういうものなんだなあって思う。いろんな人のいろんな話をずーっと継続的に聞いていると出来事としては同じ描写でも体験の仕方が全く異なるのはもちろんのこと、患者さん自身「今はじめて思った」とか逆に「話したら全然違う気がしてきた」とか自分の体験の仕方が変わることに気づいたりする。私はフロイトがいうようにsimply listenということでただ聞いてるだけなんだけど患者さんのその感じはとても伝わってくるものがある。内容じゃないんだよね。だから話せばいい、話させればいいというものではなくて基本的には患者さんの世界を邪魔しないように一緒にいることが大切なんだと思うよ、当たり前のことだけど。見たことも聞いたことも想像もしたこともないような出来事について語られることもあればありきたりすぎてどこにも書かれないような出来事もあるけどそれを体験している彼らの全体が大切。私は小説どころか色々書けないけど自分を保つために創作はしていて小説家っていうのは自分の中で話し聞くが両方できるんだからすごい!と思う。金原ひとみの『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(2020,集英社)をクリスマスに再読していたんだけどやっぱりすごかった。エッセイなんだけど自分語りとは全く違う。あれはあれで小説読んでるみたいだった。自分語りといえば昨年一番面白かったのが町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』(NHK出版新書)。作家の自分語りって独り言みたいな自分語りと全然違うから読者の自由を奪わないというかものすごく対話的なんだと思う。寂しがりなぼくを、傷つきやすいわたしをそうとは言わずに知って、愛して、みたいな厄介な方向のナルシシズムを全く感じない。ロックだった。パンクだった。めちゃくちゃ面白かった。町田康のアルバムを聞きながら読んだ。記憶の話に戻るけど彼らみたいな作家の記憶って普通の人と全然違う気がしない?脳が違う感じ。記憶と言語は精神分析も専門的に関わるところだからもっと真面目に書けよ、と自分でも思うけどとりあえずここは雑文だから。私のナルシシズムは特に満たされないのだけど創作とセットだとそこそこいいみたい。才能なくてもそれでお金もらわないから気軽に書いてる。この仕事、見えないところでもいっぱい書くのだけどそれもエネルギー使う。ああ。やらねば。で、記憶ね。記憶について考えるといつも私の頭に浮かぶのは日渡早紀『ぼくの地球を守って』。今チェックしたらKindleでも読めるのね。あれは最高だよ。みんなも読んで。ここで試し読みできるって。

もうこんな時間か。朝ちょっと余裕があるととめどなく書いてしまいそう。今日もなんとか過ごしましょう。

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精神分析 言葉 読書

ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。

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うそもほんとも。 精神分析 読書

ダラダラと

休みの間、ここで書き散らかしているようなことさえほとんど書けなかった。なんとなく朝ここを開くことが習慣になってしまったので書いてはいた。それに毎日のそういう状態を観察するための場にもなっていたので「あー、こんな風になっちゃうんだ」と知り、辛かった。ここを時間をかける場所にはしていないので時間をかけて吟味することが必要な事柄は何も書いていない。なので中身はえらく薄っぺらいうそほんと話の集積だ。でもここ数日どうしても吟味が必要なことしか浮かんでこず手が自然に動かなかった。だいぶ慣れて感じなくなっていたしびれや痛みも感じることが増えた。ルーティンが崩れるとこうなるのだろうか。抽象化ができず具象的にしか考えられなくなると身体化が生じ行動のほうに拍車がかかりそうになるのか。それは避けたい。そういうときにひとつ有効なのがものがたることなのだと思う。ただ、圧をかけられて黙らされた経験のある人にはそれはもっとも困難な方法だろう。法のもとなら安全だろうか。そんなことはまったくない。一度持ち込んだらものすごい時間とエネルギーを割くことになるしプライバシーを失う覚悟も必要になるかもしれない。精神分析の場なら安全か。そんなこともまったくない。沈黙やプライバシーが守られるという点では安全だろう。でもどこにいても脅かされ続けてきた当事者のこころはそんな簡単にそこを安全だと思うことはできない。自分語りや自分見せが上手な人たちが相手の場合なんて毎日が地獄だろう。もちろん傷つける側の相手にそんな「つもり」はない。お馴染みのありかただ。さらにまいってしまうのは自分たちを被害者だといいながら力を振りかざされる場合か。取り巻きとべたっといろんなものを与えあいながら持ちつ持たれつの関係を作り信じがたい軽薄さを高度な知性か巧みな話術でくるみながら「承認欲求」(普段使わない言葉だけど)を維持し自分より立場の弱い人に「自分が被害者だ、悪いのはおまえだ」と陰で圧をかける。こういう差別や排除のスキルも「コミュ力」に含まれる時代だろうか。

以前、佐藤優が沖縄に向けられた差別について

「差別が構造化されている場合、差別者は自らが差別者であるというのを自覚しない。それどころか、差別を指摘されると自らがいわれのない攻撃をされた被害者であると勘違いする。」

と書いていた。この記事はまだオンラインで読める。まさにこのループだがこの記事にある「微力ではあるが、無力ではない抵抗」という言葉は誰かに「だからがんばろう」というためではなく心にとめておきたい。語ることをあきらめないために。

先日、辻村深月『かがみの孤城』を映画でみた。原作はポプラ社から2017年にでている。学校にいけない中学生たちがかがみの向こうで出会い限られた時間である目的を果たそうとするおはなし。おしゃべりはするようになった。でも実はなにもいっていない。一緒にいられる時間には限りがある。中学生という設定がいい。

「いってなかったんだけど」「いうつもりなかったんだけど」

語るには時間と場所が必要だった。そしてまずはただきいてくれる相手が。この人になら話せるという相手が。小さな子どもも親とみにきていた。どんなことを思っただろう。そんな簡単に言葉にならないか。いい映画だった。

「対話」。流行語かのようにそれだけ取り出されて使うような言葉になった。ものがたることと同時に当たり前になされてほしい一番のこと。

「微力ではあるが、無力ではない抵抗」

可能だろうか。不安だし怖い。そもそも圧をかけられ対話を拒まれたのにそれでもと声を上げ続ける空虚に耐えられるだろうか。その間にも続くそのつもりなき攻撃に耐え続けることはできるだろうか。小説や映画のように「大丈夫」と言ってくれる大人はもういない。自分たちがいう側になった。「全然大丈夫じゃなさそうだね」と私がいい彼らがうなずくことは多い。まずそこからか。全然大丈夫じゃない。だからしかたなく、というのでもいいのかもしれない。だってそうでもしなきゃ、という局面はいずれくるだろう。そのときまでダラダラと小さな抵抗を。自分の気持ちをなかったことにしない、映画ではそんなメッセージも強調されていたように思う。そういう意味では親の判断を必要としなくなった今のほうが自由だろう。なかったことにしない。なかったことにされることがどれだけ暴力的なことかが前よりは理解できているように思うから。

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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

語り、消費など

疲労困憊、おなか痛いとか思いながら美味しいりんごを食べたり美味しいかりんと万頭を食べたりいただきものに美味しい美味しい言っている。深刻で呑気。死にたいけど生きてる。みんなそうでしょ、とは言わないけど両立する状態って色々ある。

たとえば、するならそれ相応のリスクを負う、絶対に隠し通さなくてはいけない、そう思っていたのは自分だけで相手は都合のいいところだけ切り取って絶対的に味方でいてくれる相手(いろんな心地よさの維持によって可能となっている関係)に伝えてたと知ってビックリすることがある。マジかよ、と頭を掻きむしる事態に現実的な対応を考えつつ、ああ、またいつものガキくさい感じで(言葉遣い)最新の知見で防衛しながら不満と怒りを出して「えーひどーい」とか言ってもらってるのだろう、ごはんとか食べながら、と呆れ果てる、みたいな。恐ろしく深刻なことを「ビックリ」とか「マジかよ」と表現できるとしたら絶対にこんなことあってはならないと思いつつもアイツならやるだろうと思っていたかもしれない。だったらどうしてそんな相手と~、とひたすら「あれはなんだったんだろう」的な問いの中に居続けるか、戦いの文脈に変えて白黒つけるか、現実的な対処も色々あると思う。なんにしても「好きでやってる」「気持ちいいからやってる」と言われる事態でもある。被害者に対してさえそう言う人はいるのだから。実際脳科学の知見はそんなようなことになってるんじゃなかったっけとかね。でもね、という場合に精神分析の理論は役に立つけど複雑だから書かない。書けない。そうでなくても脳科学的にそうであったとしても身体の状態とか生活状況的に持ちうる時間とか色々違うので個人の話に今それ持ち出すのやめてもらえないかな、と思ったりはする。

女性が女性の話を聞く話、それについて書かれた本については何度か書いた。彼らが自分のことを自嘲気味に描きつつそれを乗り越える書き方をしているときいろいろ感じることがある。決して笑えない苦しい話を笑ってしまうこと、笑いながら話すことは日常的に皆やることだと思うがそれを「消費」する男性のことを思い浮かべてまたうんざりする。『キングコング・セオリー』(柏書房)とかに対してもそうだったよね、とか。ただ私の仕事は言葉にできない人たちがとりあえず語りの場を求めてきたところにあるから「共感」との関連でいずれ。高木光太郎『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』(中公新書)とかカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから――証言することと正義について』(みすず書房)とかも参照してあれこれ書いたメモが発掘できれば。

ところで、最新号の『POSSE vol.52(特集:奨学金を帳消しに! 立ち上がる借金世代)』は充実してそう。最近『仁義なき戦い』、潜伏キリシタン、貧困と自殺とかのことを話したりするなかで小島庸平『サラ金の歴史』(中公新書)を読み返しているせいもあるか。途中までしか読んでいなかったかも。これいつ出たんだろう。あ、昨年か。教育の問題と金融の問題は異なるだろうけど。人間相手という場合も色々だねえ。AIのことも含めて考えざるをえないけど昨日も書いた「性的モノ化」について考えておくと応用が効く気がする。

ああ、あと開業場面はそのお金を払える人たちが来る場所だからっていうのはまあそうなんだけど、そうでない人も来ることがあるとかそれもそうなんだけどそういう話ではなくて、ものすごい貧困を生きてきた人や貧困との関連で病気になったり様々な症状を抱え社会的にもとても難しいことになって通ってくる方もおられるわけで。お金と心の関係とかその資源の利用とかってものすごく複雑だから表面的には語れない。なんだってそのはずだけど。いろんな方々のことを思い出しますね。

オンラインの仕事が始まる時間。はあ。心身というより身体が辛いなあ。頭はこんなこと書ける程度には機能できるか。相互作用の力を信じてるからきっと大丈夫。痛い辛いしんどい色々言いながらなんとかしましょう。

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うそもほんとも。 読書

物語化、『分析フェミニズム基本論文集』、年越の祓

起きてるだけで何もしていないままこんな時間かあ。吉祥寺に住む友達からもらったクッキーがめちゃくちゃ美味しい。住みたい街何位かな。絶対上位だよね。学生時代に家庭訪問したりしたなあ。今だったらもう少しできることあるのかな。いやむしろやらない方がいいことがわかるという感じかな。

お風呂ははいった。ぽっかぽか。今日も柚子入れればよかった。大量にいただいたからね。冬枯れに果実は明るくていい。

いつの間にか他人の時間と場所を自分のもののように扱っている(設計パターン)。いつもそう。女の身体に対してもそう(モノ化)。徹底した受身性で安心させて忍び寄る(反転可能な状態にしておくこと)。同じことをしているのに罪にはならない(与え続けることの成果)。悪意は自分ではなく相手に(サブリミナル効果)。少しだけ罪悪感を感じることはできる(心の機能の査定)が耐えられないからテンションをあげて相手ある相手(ここもポイント)を巻き込んで寄生や依存も相手のものとしてどこもかしこも自分のものに(誇張)。利益が絡むと王様は裸とかハラスメントとか言えない(ここで止めるなら物語化はある程度成功しているが行動するには弱い)。

さて『分析フェミニズム基本論文集』(慶應義塾大学出版会)「4性的モノ化」(ティモ・ユッテン、木下頌子訳)ではヌスバウムの「道具扱い説」より「意味の押しつけ説」を採用すべきとあった。それによって「実際の道具扱いが生じていないときであっても女性が被りうる特別な害と不正ーすなわち、自律性と平等な社会的立場を損なうことーの存在を明らかにする」ことができるから。この本はまだ比較的新しい(そのこと自体がようやっとという感じなのかな)概念の整理と主要トピックを知るのにとてもいい。実感を持って読むことができる。

鳥たちがすごい。あ、遠ざかった。

昨日は散歩がてら年越の祓をしてきた。茅の輪という草で編まれた大きい輪っかを左、右、左と回って拝殿にGO。なにやらくるくる回っているわたしたちをみて小さな子たちが「これやりたい!」とついてきた。サンタさんはもうきたかな。今日も楽しいといいね。メリークリスマス☆

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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

身じろぎ

お寺の鐘が鳴っている。なんだかちょっと掠れたような。ちょっと頼りないような。

昨日書いた心と法の具体例みたいな案件が上がっていて驚いた。それにしてもSNSは、という感じはする。「名誉毀損」の重みって、とも思う。例えば慰謝料請求とかの場合、関係のプロセスで相手と直接コミュニケートできない状態だからと本人に請求するのではなく会社にとかしてしまったら逆に名誉毀損で訴えられる場合があるわけでしょう。どっちにしてもお金以外の解決は見込めないし。法って本当にうまくできてると思う。心の問題として考えるととても残酷とも思う。

「権力をいかに見定めるかによって女が被害者にも、加害者にも、抵抗者にも、抑圧者にもなりうることを示してみせた」

もろさわようこ『新編 おんなの戦後史』(ちくま文庫)の解説で斎藤真理子が書いている言葉だ。本当に女の位置ってこういうことなんだと思う。この本の刊行イベントでの話も興味深く関連の本も読んだ。今年はジェンダーに関する本をたくさん読んだ気がする。内容はあまり覚えていないが多く読むとさっき読んで納得していたあの説にはこういう背景とか反論があるのかとか知れるからそんな偏った取り入れにはならずにすんでいるのではないかと思う。きちんと後から使えるように読めばよかったと今は思うが、日々の幸福と苦悩をまずはじっと自分の中にとどめるための無意識的努力だったと思う。表現するならSNSなどではなく直接相手にと思っても自分自身の抑圧と相手からのさまざまな水準の圧力で言葉にできないという体験も多くした。いまだに「身じろぎできない」体験をするんだと自分でも驚くほどダメージも受けた。「身じろぎ」という言葉も斎藤真理子が取り上げたもろさわようこの言葉だ。「相手あること」については「あれはなんだったんだろう」という題名で書いた文章で何度か触れたと思う。あれはなんだったんだろうという問いは自分のこととなればたとえ事実を周知したとしてもなんの答えも得られない。

「みんなはどうしているのか」仕事でもよく聞く言葉だ。でも二者関係を第三者に開くことは問い自体を別のものに変えてしまうだろう。みんなではなくあなたであり私だ。もうそこに相手はいなくても「相手あること」なのであり引き受けるのは私でありあなただ。あまりに苦しいけど迫害的にならずそのせいで攻撃的にもならず耐える必要がある。構造の問題がすでにあるのは明確でも「名誉毀損」という法的判断は両者に同様に適用されるのが現状であることを思えば「賢く」動く必要がある。それについて考える自由は奪われていないのだから。

「行動」ではなく「言葉」で、というのは精神分析の基本だが言葉にしたら行動化への衝迫に駆り立てられるのもまたよくあることだ。どこまでとどまれるだろう。そして再び「身じろぎ」から始めることはできるだろうか。

今日も一日。実際にはもういない「相手」が残した問いに沈みながらであったとしても。

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読書

『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』のことなど

乾燥がすごいですね。今朝の散歩道は雨にしっとり濡れたすごく濃い色の落ち葉が敷き詰められていてきれいでしたけど。加湿器を出さないと、と毎日思うのにまだ出していません。喉がやられてしまう前に今日こそださねば。すぐに出せる場所にあるのにどうして小さい怠惰を積み重ねてしまうのかしら、人間って。じゃないか、私ですね。

先日、山本文緒『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』を読みました。「闘病記ではなくて逃病記だなあ」と著者は書いておられるけどこちらが「どうか逃げ切って」と願うような同一化を生じさせる記述はなかったように思います。

「逃げても逃げても、やがて追いつかれることを知ってはいるけれど、自分から病の中に入っていこうとは決して思わない。 」

本当にそうでした。自分の感触を観察し続けるだけでなくそれをこんなに感情の振れ幅の少ない文章におさめられることに作家の凄みを感じます。

同年代の友だちも読んだといっていました。私たちも自分の死に際してやっておくべきことを意識する年齢になりました。コロナはそれに拍車をかけました。私の場合はシンプルで持ち物もいらない仕事ですしプライベートもシンプルなのでそんなにすべきことがあるわけではなく出会いを大切にすることくらいですけどそれすら難しく打ちのめされたりしますね、生きてると。

「私も頭が割れそうなくらい悲しいのにアマゾンの領収書を印刷した。それが生きるということ。

人間って…。どうしてこんなになっちゃうのか、どうしてこんなことができちゃうのか、悲しくて切なくて苦しくて死にたい時には死ねないのに願ってもないのに死んでしまったりする。自分ではわからない自分ばかり。

この日記の最後の日の文章はとくにこのご夫妻をご存知の方にはものすごいいたわりなのだろうなあと感じながら泣きました。

人間って、と思いながら自分を人体実験の被験者のように観察を続けていると複数の自分を感じます。「いずれ死ぬのだから」だから?身体が動かなくなったら地道にしてきた準備も形にできないでしょう。では急ぐか。それも躊躇します。「今日死んだらどうするの?」それだったら苦しみもそこまでともう何もしなくてよくて楽かもしれません。が、死については誰も何もしりえません。

山本文緒さんは宣告された余命よりも長く生きました。日々を書きつけることが彼女の生をどのくらい膨らましたかわかりません。でもそのいたわりの深さは身近な人や読者を守るのでしょう。眠っては起きる。眠っても起きる。その繰り返しを今日も、たぶん明日も私たちが続けられるように。

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精神分析 読書

脳世界

今朝は山梨の信玄餅で有名なお店「桔梗屋」のお菓子色々をもらったのでそこから黒蜜カステラをいただきました。ちょうどよい甘さで美味しかった。空のピンクもとてもきれいでした。

以前、必死に頑張ってきたことを褒めてほしい(だけの)人のことを書きました。(だけの)とあえてつけるのは「まさかとは思うけど本当にそうだったんだ」という絶望に近い驚きを相手にもたらすからです。その人は相手が別の気持ちや考えをもった別の人であるということを頭ではよくわかっています。でも内面に興味を持つ、親密になる、ということがどういうことか実はよくわからない。その人は自分の脳世界だけで生きているといってもいいかもしれません。以前「AIっぽい」と書いたのもそういう感じの人のことです。嫌なやつとかでは全然ないのです。AIと同じように人を惹きつける力を持っていることも多いです。私は非常に魅力を感じているので色々読んじゃいますね。そう、彼らも表面的に関わる分にはとっても魅力的でとっても素敵だったりするのだけど親密さを求めるととたんに理解に苦しむことが増えるので特定の関係性を持つ相手のみ相当なアンビバレンスに陥ることが多いです。当人はそういうのが実感としてわからないので面倒なこと厄介なことはうざい重たいしんどいで回避、排除の方向へ行動しがちです。自分の情緒を自由に感じるためのキャパが少ないのでしょうがないので苦しいのはお互い様なのだけどこの苦しさも共有できないので相当なすれ違いが生じます。回避、排除は自分が引きこもったり相手のせいにしたりちょうどよく心配やら賞賛やらしてくれる人を相手役に変えたり行動としては様々な形をとります。相手の気持ちを想像するとかは本当に本当に困難であることを相手の方は思い知り「ああやっぱりそれ(だけの)人だったんだ」と絶望し、魅力を知っているだけに自分のその認識に自分が追いつけない事態になります。今の時代、その人が知性が高くメディアを用いた自己開示が上手な人となるとなおさら外側と目の前のその人のギャップは文字情報として残るのでこちらの情緒的な乖離をもたらします。知りたくもないことが突然目に飛び込んでくるような時代です。もちろん自己開示を上手にするのはかなり大変でそういう意味でも一生懸命を超えて必死さを感じてそうやって愛してもらってきた。できるだけ卑小感を感じないように。だからその部分に少しでも異物が混入するのを感じると怒り(Narcissistic rage by Heinz Kohut)が生じてしまう、というのは専門的にみればわかるのでそういう自分に苦しんでおられる方が精神分析的な治療を求めることはよくあります。ただ変容ということを考えるとそのナルシシズムが傷つく怒りを通過しないわけにいかないので治療状況でも同じようなことが生じたときにお互いがどう持ち堪えるかは重たい課題になります。

村田沙耶香『となりの脳世界』は私も人のそういう部分をとても苦しく感じていた昨年の終わりに出た本ですごく助けられました。年末は年末で「来年とかいらないし」という方もいるでしょうし年末とか関係なく「今日もまた生きたまま起きてしまった」といつもの絶望に苦しんでいる方もおられるでしょう。そういうときにこういう本と出会ってほしいなと思います。私は辛くて辛くて仕方ないときに出たばかりのこの本と本屋さんでたまたま出会うことができました。みなさんの苦しくて死にたい毎日にも少しでも幸運な偶然があったらいいなと思います。ちなみにこの本は文庫ですし、短いエッセイを集めたものなので読む負担も少ないと思います。

「隣の人はどんな世界に住んでいるのだろう。同じ車両の中にいるのに、きっと違う光景を見ているのだろうなあ、といつも想像してしまいます」

「誰かの脳世界を覗くのは、一番身近なトリップだと思います。ちょっと隣の脳まで旅をするような気持ちで、読んでいただけたら」

と村田沙耶香さんは「まえがき」で書いています。年末年始のお休みはまだコロナも心配ですし、外に行かずともこんなショートトリップもいいかもしれないですね。村田さんの書いてくれた脳世界へ。

私たちは映画や小説みたいにわかりやすい「悪」がいる世界に生きていないから愛と憎しみというアンビバレンスに常に引き裂かれるような痛みを感じています。ナルシシズムはその痛みにどっぷりと沈みそこから立ち上がるのではないあり方のひとつです。人と思われていたらモノだったみたいな驚きと絶望を親密さを求める相手にはもたらしがちですが、どれもこれもその人の全体を覆うものではないのもほんとのことでしょう。そうでなければ、私たちがお互いに「そうではない」部分を想定できなければまたあの体験をするのかと怖くてコミュニケーションできなくなってしまうでしょう。

「夫婦や家族のように近い関係ならなおのこと、これからもたくさん、深く、傷つけ合うのです。自分が他人を、家族を傷つける人間だという事実から逃げずに、受け入れましょう。」

紫原明子『大人だって、泣いたらいいよ~紫原さんのお悩み相談室~』152頁からの引用です。

「後ろ指で死ぬわけじゃないし、それもまた一興ですよ。」

これは32頁。「離婚と恋愛編」のなかのひとつ。ちなみにさっきのは「近いから厄介な家族編」のひとつでした。

専門家ではない人の言葉の明るさと力強さは半端ないですね。私たちって患者さんといるときでさえいい人ぶったりしがちだけど紫原さんみたいに自分の感覚と経験を信じて正直であることが自分にも相手にも誠実であることだとはっきりと打ち出していくことはとても大切だと思います。

と私はなんとなくきれいめな感じで書いている気がしないでもないですがどれもこれも簡単ではないですよね。それでも今日も世知辛い現実となんとかやっていきましょうか。朝upし忘れたので歩きながらなんとなく閉じます。またここでお目にかかりましょう。

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なんとなく本のこと。大原千晴『名画の食卓を読み解く』TOLTA『新しい手洗いのために』

三浦哲哉『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を手にとったついでにそのそばに並べてあった大原千晴『名画の食卓を読み解く』(2012、大修館書店)も取り出しておいた。著者は「食文化ヒストリアン、骨董銀器商」ということで2016年まで南青山に『英国骨董おおはら』というお店を構えていたらしい。銀食器の魅力的なこと!この本をなぜ買ったのかは例のごとく覚えていないが表紙よくないですか?「1 一五世紀 フランス王族の宴」の扉絵「ベリー公のいとも華麗なる時祷書(1月)」(ランブール兄弟、1413-1489ごろ)とのこと。この本はまずここに描かれた食卓を読み解くところから始まる。この絵って羊皮紙に描かれてるんだって。前に山本貴光さんが八木健治『羊皮紙のすべて』(青土社)を紹介していらいてそれ以来注意が向くようになってしまった。

さて、この本、16世紀中期フランドル農民、英国中世修道士、紀元前4世紀末古代エトルリア、16世紀フェラーラ候家などなど21に及ぶ様々な時代、様々な国の食文化の歴史を通じて語られる内容の幅広さに驚く。それこそいろんな食事が並べられた食卓みたい。各章の扉絵をどう読み解くかも含めてとても興味深いな、と改めてパラパラ。

今だったら「3 食卓で手を洗う」とかから読んでもいいかも。もうすっかり当たり前になったこの習慣、と書きたいところだけど食卓では手を洗わないよね。「欧州貴族の宴席では、中世以来一七世紀中頃まで、多少儀式的な色彩を帯びながらも、これが当然のこととして行われてきました」とのこと。そしてこの章の扉絵は「バイユーのタペストリー」の一部分。ここでみられます。ひえー、全長70メートル。絵巻物みたいにしてしまってあったのかな。わからないけどウィキペディアによると「バイユーのタペストリー(仏: Tapisserie de Bayeux)は、1066年のノルマンディー公ギョーム2世(後のウィリアム征服王)によるイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)の物語を、亜麻で作った薄布(リネン)に刺繍によって描いた刺繍画」とのこと。すごすぎる。この本では「ウィリアム征服王と異父弟バイヨー司教オドのテーブルで手拭きの布を手に、水の入った容器を捧げ持つ家臣」の部分が取り上げられています。このながーいタペストリーからこの部分を取り出したのもすごい。本文にはタペストリーの説明はないのだけど料理を指先でつまんで食べていたこの時代、この役職は非常に重要で花形だったそう。ウィンブルドンで女子の優勝選手に手渡されるのも銀の水盤!そしてこの習慣がどこから生まれたか。そこにはやはりキリスト教徒の関連があるのですね。なにげなく行うようになった日々の習慣も歴史を遡れば「やりなさいって言われたから」という類のものではないということかもね。

となるとTOLTA『新しい手洗いのために』(2021、素粒社)も思い出す。TOLTAは世田谷文化学館でやっている「月に吠えよ、萩原朔太郎展」でもとても面白い試みをしていましたよ。

なんとなく本のことを書いてしまった。

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「柔らかな舞台」のこと&追記

色々大変なのは変わらないけど昨晩はひどかった。寒すぎた。今朝は無事にご自身の畑(でいいのかな)で採れたというキウイもいただけたしなんとかいけそう。

忘れないように、という話を書いたけど忘れないようにしなくても忘れられない部分が人を苦しめる。フラッシュバックとは異なってもトラウマに関する病名がつかなくても苦しいものは苦しい。動けなくもなる。思考できない部分にものすごく消耗する。どうしても目にしてしまう状況で小さく積み重なっていく新たな傷つきとこれまでを切り離すには助けがいるが言葉にすることも難しいだろう。とりあえず一緒にいてもらうことが一番安全だったりする。

先日、東京都現代美術館へオランダの現代美術を代表するウェンデリン・ファン・オルデンボルフのアジア初となる(と書いてあったと思う)個展『柔らかな舞台』へいった。
植民地とフェミニズムがメインテーマだと思うが、よくある「対話」におさめない複数の共同作業の交差や重なり合いのなかで問いかけるような映像と配置がとてもよかった。写真が好きな私は「撮影」という手法自体に興味があるのでチェックしたい作家になった。映像作品を全部見るのに時間がたりずどれも中途半端になったがそのためにウェルカムバック券というのも用意されていて一応いただいてきた。期日中にまた行けるといいな。

いつも以上に頭が働かないなあ。みんなはどうかな。ため息つきつつ休みつつなんとかやれたらいいですね。ブアイブアイ(身内で「バイバイ」をいうときこう言っていた時期がある)。

ー数時間後の追記ー

メモなんだけどウェンデリン・ファン・オルデンボルフの作品を見ながら映画批評家の三浦哲哉さんの『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を思い出した。この本の問いは

「映像が動く。ただそれだけのこと(傍点)にただならぬ感動を覚えるまなざしがあるとすれば、それは具体的にどのようなものか」

というものだ。アンドレ・バザンによるリアリズムの定式化を検討するところから始まるこの本は映画の「直接的な力」を「リアル」という言葉ではなく「自動性automaticité,automatisme」の概念によって定義しなおそうとする。ちなみに本書の『映画とは何か』という書名はバザンがその遺書の題名として掲げた問いだそうだ。

まだ実家にいた頃、父の書斎には夥しい数の「β」がありたくさんの映画を見たがあまり記憶にない。フランス現代思想の講義(主にドゥルーズ)にも色々と出たがこちらもあまり記憶にない。よって私はフランス映画にもフランス現代思想にも詳しくないのだがこの本がそういう人にとっても興味深く読める理由は先述した問いに力があるからだと思う。2014年刊行のパラパラした記憶しかなかったこの本を映画でもないこの個展で想起し再び手に取るとは思わなかった。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの展示では最初壁にかかったイヤホンをとってから進む。入り口からどちらの方向へいっても構わないがおそらく大体の人は時計回りに、しかも入ってすぐに聞こえてくる対話に注意を向けるだろう。そしてなんとなく椅子に座り彼らの話を聞き始めるだろう。まるで外側から参加するように。そこから反対側をみると別の映像が流れている。しかもそちらは音声が聞こえない。そちらへ周りイヤホンジャックを挿せばいいのかと気づくまでに時間がかかった。字幕で内容に気を取られたのと別の画面に伴う音声で音を補えてしまっていたせいだろう。というのは私の場合で、この展覧会はおそらくはじまりから体験の仕方はかなり多様になるだろうし、そういう風に構成されているように感じた。内容に注意がいく人もいれば、映像のなかで起きていることに目が向く人もいるだろう。私は映像のなかのカメラマンにも折り重なる眼差しを意識したし、どこからどんな風に見えるのかどんな風に聞こえるのかを試してみたりもした。自分の動きによって同じものが別のものに見えてくるのは映像作品の配置だけではない。田舎の水族館のような構成だと思ったのは雨が降っていたせいもあるかもしれない。自分のまなざしが揺れる。変わる。そのうちに委ねている。

そうそう、この展覧館のチラシをパッとみたときに言葉の意味を壊すというようなことが書いてあった気がしたのだがそれは暮田真名さんが展開している川柳のようだなと思った。暮田さんは以前『文學界』に「川柳は人の話を聞かない」という文章を寄せている。私は川柳のことも暮田さんの以外はよく知らないのだけど映像に対してはこういうちょっとトンがった態度はとりにくいように感じている。映像は背景と奥行きが勝手に仕事をしてくれてしまう感じがするし、常に何かが後回しになったりどこかへ忘れ去られたりしてでもはっきりと目に入れているものもあるので複数の対話を背中に聞きながら話しているような状態に近い、という点で今回の映像のなかの、そしてそれを体験する私の状態と近い気がする。

特に何を書きたいとかでもなく思い出したことを書き連ねてしまったらなんか長くなってきてしまったのでこの辺で。ぶあいぶあい。

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入口に立つ

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)を読んでいた。本屋でロシアとウクライナという文字を見つければとりあえず手に取る。そんな年になった。たとえばリュドミラ・ウリツカヤ著 、前田和泉訳『緑の天幕』(新潮社)、そういえばあの本もこの本も始まりには「それん」崩壊があった。子供の体験と大人の体験の仕方は異なる。私の最初の「世界的ニュースの記憶」はなんだろう。覚えていない。

奈倉有里さんは文学研究者であり翻訳家だそうだ。この本は著者と新しい言語との出会いの描写から始まる。好奇心と喜びに溢れたコンパクトでスピード感ある記述は子どもの遊びを見守っているようで最初から楽しい。ソ連崩壊は世界的大ニュースだった。世界は少しずつ変わり私たちの生活はその影響を受ける。それは子どもたちにとっても同じことだ。人間と世界、最近はそこにAIを含まないわけにいかないが、それらについて書かれた大人たちの本に知的好奇心は揺さぶられてもこういう楽しさや切なさはない。冷蔵庫が三種の神器と呼ばれていたのは私の親が子供の頃だと思うが子供にはそこが世界への入口となったりする。タンスの引き出し、押入れの中、子供が世界と出会う場所は生活にある。今自分が現実の他者と生きている場所から喜びとともに世界と出会う、著者はその達人だ。人の話を聴くのが大好き、本を読み出したら夢中になってスープを火にかけていたのを忘れる。「人と人を分断する」言葉ではなく「つなぐ」言葉を、と願う著者の短いエピソード、長くてもそう長くはないエピソードの数々に忘れていた感覚を呼び起こされる。その感覚で世界を見直す。一色に見えていたそこはそれだけではなかったかもしれない。苦しみがちな毎日をなんとか生きる私たちだけど向かうのは出口だけではないのだろう。子供の頃だったら開けたくなったかもしれない扉、入ってみたくなったかもしれない暗闇、一緒にならいけると思えたかもしれないあそこ。もうすっかり勇気もやる気も乏しくなってきた気がする。それでもそんな入り口の前にいつの間にか再び立たされるだろう。いろんなことは繰り返される。それぞれのしかたでなんとか今日も。

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11月5日朝

できるだけ長く布団の中にいるようにしている。今日は冬眠していなくても大丈夫そうな気温っぽいけどできるだけのんびりと。起きてしまうとろくなことを考えないから。また生きたまま今日がきてしまったと泣き始める人もいるでしょう。そんな簡単じゃないよね。

レベッカ・ソルニットの『私のいない部屋』を久しぶりにパラパラしていた。「いつか追い出されてしまうのではないか」私たちが持ち続ける不安のひとつだと思う。「居場所」という言葉と関連づけられることも多いだろう。私はここにいていいのだろうか。受け入れてもらえるのだろうか。不安はそこにいるための努力を引き起こす。我慢や無理、それらに耐えられなくなっての行動化などなど。努力など、と私は思う。本当はそんなことしなくてもいいのに。色々ありながらやっていくのが普通なんだから。でも現実は違う。

友人が冬支度のような素敵なケーキを送ってくれた。アップルパイとチーズケーキ。彼女は井の頭線沿いに小さなお店を構えていた。とても素敵なお店で素材もお皿も自分で契約した生産者や作り手たちとこだわり抜く派手さのないこじんまりと居心地のよい店だった。順調にやっていけるかと思っていたがそのうちに特定の男性が現れるようになったという。私はなぜかその時期の彼女に会っておらず県外に移転し再び頒布形式でケーキを売るようになったあとに聞いた。彼女からではなかったかもしれない。ほぼ密室になる狭さの店は居心地のよい空間ではなくなってしまったらしかった。彼女は店を閉じた。

あれからもう20年以上経つ。彼女から年に3、4回届く小さな箱を開けると丁寧に梱包されたケーキの上にほぼ正方形の小さな便箋2枚、時には3枚が置かれている。そこにはいつもケーキのことと一緒に近況が綴られている。今回もそうだった。彼女が住む土地では森の葉っぱが黄色く輝いているそうだ。でもそろそろそれも終わりとのこと。水のきれいな山里に移住したあとの彼女にも色々あった。もちろんとても素敵なことも。色々ある。生活ってそういうもの、と割り切ることは難しいけど長く続けていればなにかしら変化は起きる。今日は彼女に素敵なことが起きますように。もちろんみんなにも。良い一日を。

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メモのようなというかメモ

場がどこであれ性に関することで悩む女性の言葉が軽く扱われたり利用されたり消費されたりしないためにはどうしたらいいのだろうと考えていた。発信するのは自由だから。身内でもなんでもない立場でもできる見守りはあると思っているけれども。

など呟いたりしつつ家事をしつつ仕事を後回しにしていた。今からやらざるを得ない。それにしても構造上の問題ってどうしていけばいいのだろう。個人に対してもどうにもできないことが多いのに。

うん。引き続きいろんな人と具体的なことを話しながら考えていこう。ここからはとりあえず積み上がったものを戻さないと作業ができないのでそれに関するメモ。あとから消したりつけたしたりするかも。今のところここが毎日くるスペースになっているのでここなら忘れないかなと思って。

まず國分功一郎『スピノザ ー読む人の肖像』(岩波新書)はきちんと読むのはあと。國分さんが始めた新しいプラットフォーム<國分功一郎の哲学研究室>には登録済み。「哲学の映像」と「映像の哲学」を定期配信。最初の配信は新刊とも連動して<読む>ことについて柄谷行人『マルクスその可能性の中心』の解説第一回。國分さんは言行一致の人だと思っているので信頼してお金をかけられる。

ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』も途中だけど精神科医である訳者の《訳者ノート》が本当に優れた導入になっている。「反ユダヤ主義」という短い論考(154頁から)は憎悪のルーツが端的に語られていて印象的。サリヴァンは一貫していてすごいなと思う。

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)も昨年末に出たばかりの本だ。私は古田徹也さんの本のファンだけど帯に書かれた一見わかりやすいテーマがもつ複雑さがどんどん提示されるので正直読むのは大変。普段自分が適当に言葉を使っているからかもしれないけど相手の言葉を大切にしたいし自分の言葉も大切にしてほしいから読むんだ。

「言葉は、文化のなかに根を張り、生活のなかで用いられることで、はじめて意味をもつ。言葉について考えることは、それが息づく生活について考えることでもある。」(37ページ)

本当にそう思う。古田さんのはもう一冊、最近でた本がとても良いのだけどこれは積んでいない。リュックの中かも。娘さんの子育てからの気づきがとても新鮮でそこから広がる懐疑論の世界が広大すぎて、という感じの本なんだけど肝心の題名が思い出せない。心に携わる私たちには必携と思ったよ。でもこれもまだ途中。

益尾知佐子『中国の行動原理 国内潮流が決める国際関係』(中公新書)は中国の精神分析のスタディグループの方と交流する機会があってちょうど習近平のことも話題になっていたので買ってみた。私何も知らないんだなということを確認した。リーダーとは、という描写ひとつとっても全く違うではないか。まあ少ない知識からでもそれは導けるけれど細かいことを知るとポカンとするくらい違う。うーん。しかしまだこれも途中。

まだ積まれているけど諦めよう。お、そうそう、今顔を傾けて目に入った平尾昌宏『日本語からの哲学』は本当に面白い。書き方も内容も。平尾さんの本はどれも簡単にこっちを引き込んでくれるから助かる。

こうダラダラ書いている分にはいくらでもかけるけど苦手な仕事をせねば。みなさん明日はおやすみかしら。良い一日になりますように。

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女が女の話を聞く

ひらりさ『沼で溺れてみたけれど』(講談社)をほぼ読み終えた。Kindleで半額セールをやっていると著者のツイートで知り、かわいい表紙も「ああこういうことが書いてあるんだろうな」というわかりやすい書名も魅力的だったので買った。女が女の話を聞いて書く「沼」は男か金か親か最近だったら推しが関わりの中心となる。そこまではわかる。読んでみようと思うのはその中身が絶対に想像できない個別性に満ちていると知っているから。インベカヲリ★『私の顔は誰も知らない』(人々舎)はまた趣の異なる女が女の語りを聞く本だったけど、そこもそういうものに溢れていた。マスキュリニティというよりある種ASD的な頑なさや本人が一般的と思っている正確さに追い詰められ、こころも言葉も隠す方へ向かう女性たちは多いと思う。追い詰める側にしてみたらそんなつもりはないだろう。それで成功してきたのだからそれが「普通」なのだろう。

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喫茶店

いいお天気だけど寒いね。洗濯物は出しっぱなしはだめですか。いいよね。でもいれていこうかな。臆病者だな。だってもう結構乾いてるから万が一何かあったら(雨風以外にも。鳥とか虫とか?)残念だし。

今日はみなさんどんな感じかな。元気に過ごせそうかしら。わからないよね、先のことは。まあ「元気」=「ひどくまいってはいない。」「それなりに動ける」くらいな感じでいるのだけど。

今日もスーパーで買ってきた「うまいコーヒー」を飲んだ。byドトール。私ずっと「いつものコーヒー」って呼んでたんだけど違った。

喫茶店でバイトしてた頃「いつもの」と言われたら「ブラック」、「ブラック」と言われたら「ブレンドコーヒー」だった。アメリカンが「いつもの」って人もいるだろうけどこの「いつもの」がもつ力は当時は強かったわね。今はどうなのかしら。

喫茶店バイトしていた人にもそうでない人にもおすすめなのは「僕のマリ」さんの『常識のない喫茶店』。著者のお名前も興味深いけどおしゃれな表紙もいろんな気持ちになりながらがんばってバイトしている中身もいい。最後まで読むともっといい。切ないけど。私はめっちゃわかると思いながら楽しんだし「色々理不尽だけどがんばろうね」という気持ちになった。口が悪いバイトをブラックバイトとは言わないけどなかなかにブラックなこともしているものよ、喫茶店バイトというのは。だってかなりひどいこと言われたりされたりもするんだもん。仲間内で少しはこっそり言い合えないとほんとまいっちゃう。私は当時から意地悪に対して冷めきちだったので新人いじめをされても無視してた。当時そんな言葉遣いしなかったけど今私が高校生であんなことされたら心の中で「は?知らねーし」とかいうかも。いわないか。それよりもやっぱり後から仲間内でいうと思うな。もちろんブラックなことだけではなくお客さんからもらった楽しくて嬉しい記憶で遊んだりもしていますよ(いましたよ)、この本も私も。表紙のカラフルさからもわかると思うけど。この本、「こだま」さん推薦だしとてもいいですよ。作家の皆さんのお名前とわかるように括弧付きにしてしまった、お二人とも。みなさん、それでも書く、というのが本当にすごいと思う。

ああ、柏原芳恵を口ずさんでしまう。今日は紅茶をいただきましょうか。晴れとはいえ身体は冷やさないように過ごしましょう。

よい1日を。

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共感

常に眠い。眠気をごまかすために何かをしているような生活。昨晩も起きていなければと思ってなんとか作業していたのにいつの間にか眠ってしまっていた。断続的に寝たり起きたりを繰り返しているうちに朝になった。虫が規則正しく鳴いているのを聞きながら眠り、途中雨の音に目覚めた。ズキーン、ジワーっと続く頭痛も自分だけのものではないみたい。世界との境界が曖昧。

こうしている間にも何度かウトウトした。

自分の「ダメさ」について語る人は多い。じーっと聞いているとそれがいつのまにか別の誰かの「ダメさ」についての語りになっていることがある。これを「人のせいにして」というのはたやすいが自分と他者の境界の曖昧さとして聞くことも可能だろう。

私はここで「配慮」とか「ケア」とかいう言葉を使うとき自分が相当の疑わしさを持ってそれらを使用していることを意識する。昨年は「ケア」という言葉がやたらと飛び交っていたように感じたがそれも私の狭いTLでのことかもしれない。

マイケル・スロート『ケアの倫理と共感』も昨年出版された。ギリガンやノディングズが立ち上げたケアの倫理を規範倫理学の立場から精緻化する本書は私が普段どちらかというと退けている「共感」を鍵概念としている。

「真正な共感や成熟した共感においては、共感する側の人間は、自分が相手とは異なる人間である、という感覚を維持しているのである」

「真正」という言葉にもいつもややげんなりしてしまうのだがこれも私が「共感」という言葉に示す態度と似ている。

たしかに自分と相手とは異なる人間である。それは紛れもない事実だ。でも私たちはわりとたやすく誰かに乗っ取られながら生きているのでは?と私は思う。だから差異がうやむやにされ共感は支配と紙一重となりやすいのでは?と。

むしろその状態が自分にとって危機であるという自分の声に耳を傾けられたときがその状態が他者にも生じているのではないかと想像する契機となるのでは?それを共感と呼ぶならそれはそうかもしれないなどと思う。

また契機はあくまで契機でありそれが活用されるかどうかはまた別の話である。そこで立ち止まり周りに他者がいることに気づけるか、そしてその他者が自分とはまるで異なる状況にあったとしてもこの誰かに乗っ取られている状態にあるという点では同じだというところから出発できるか、もしできないとしたらなにがそれを妨げるのか、そのようなことを考えるうえでスロートの「共感に基づくケアの倫理」は多くの示唆を与えてくれそうである。難しいので読んだり積んだり(じゃないや。電子版だから。)していてまだ途中。

カラスが鳴いているなあ。元気ってことかな。私はお煎餅も食べたよ。ちょっとしけってた。なんで「湿気てる」じゃないのかな。多分このまま検索すればわかるのだろうけど前にも検索したことあるような気がするしなのにこうして忘れているわけだしまあいっか。実は今は「しっけてる」が標準ですよ、とか書いてあったらちょっと凹むかもだし。

なにはともあれ台風に警戒しつつそれぞれの日曜日をお過ごしくださいませ。

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『自由に生きるための知性とは何かーリベラルアーツで未来をひらく』(立命館大学教養教育センター編、晶文社)を読み始めた。

深夜から始まる工事がまだ続いている。金属音も色々だなあ、と改めて思わされる。お疲れ様です。

小分けになったかわいいパッケージのこだわりコーヒーをもらったのに今日もたくさん入っている名もなきお得用コーヒーをいれてしまった。「しまった」と書いてしまったが実は私はコーヒーの味がよくわからない。なので割となにを飲んでも美味しがる。なので素敵なものは観賞用となっていく。でもダメ。香りが飛んでしまうというではないか。そっちの方がもったいないよ。そうだね、今夜か明日の朝いただきましょう。

相手がいなくても私たちは日々こうして対話的なことをしている。「痛っ!なんでここにこんなものが!」とかいう独り言だってそうだ。相手がある。いる。

ここ数日私が勝手に対話をテーマとした本と分類したものを読んでいた。

イ・ラン/いがらしみきお『何卒よろしくお願いいたします』(訳 甘栗舎、タバブックス)はコロナ禍であるという事情以前に、離れた国に暮らす二人の手紙による対話だった。

ドミニク・チェン『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』(新潮文庫)は育ちゆく娘の環世界との対話といえるだろうか。

本は自分や他者とのたくさんの対話の痕跡だと思う。何度読んでも面白い本は文字にはならないたくさんの対話がその背景にあって読むたびにそれらを発見させられるからかも。

一方、対話が本になるときそこには他者による編集作業が加わり生の素材は客観的に削ぎ落とされより伝わりやすいように加工される。文化祭の教室をめぐるように最初は目的があっても歩くだけで別の世界と出会うような体験をしたいときに編書というのは便利だ。

先日「学生や生徒が学びたいことを自らデザインできる学生提案型ゼミナール」を立ち上げるための副読本がでた。立命館大学教養教育センターの企画だ。今回、「みらいゼミ」と呼ばれるそのゼミナールを学生たちが立ち上げる手助けとして企画された25人の専門家による対話と議論が一冊の本として外へ開かれた。

自由に生きるための知性とは何かーリベラルアーツで未来をひらく』(立命館大学教養教育センター編、晶文社)

自由に学び、自由に考え、自由に生きる、書いてしまえば当たり前のことがなんと難しいことか。その困難に対して多彩な分野から様々な視点を提供してくれるこの本の構成、内容は立命館大学のWebサイトでも晶文社のWebサイトでも確認できる。

私が尊敬する文化人類学の専門家、小川さやかさんは脳神経内科の医師である美馬達哉さんと「なぜ人はあいまいさを嫌うのか――コントロールしたい欲望を解き放つ」というテーマで対話している。小川さんの著書で知ったタンザニアの人たちの生活にここでも学べる。「偶然であることの豊かさ」「他者のままならなさを認めるからこそ、私のままならなさも認めることができる」。分野の異なる二人の専門家の対話は著書とはまた異なる響きをもってそれらがなぜ大切かということを教えてくれる。

社会運動論の専門家である富永京子さんの登場も嬉しい。メディア論、メディア技術史専門の飯田豊さんと「わたしの“モヤモヤ”大解剖――わがまま論・つながり論を切り口に」というテーマで対談されている。先日書いたが「つながり」の本はやはり多そうだ。そして「つながり」という言葉の使われ方もポジティブなものから両義的なものまで様々とのこと。メディア研究というのは自分の持っている知識やイメージの狭さを自覚させてくれるありがたいものなんだな。

富永さんは著書『みんなの「わがまま」入門』(左右社)の中で「まずは自分に暗黙の内に強く影響を与えている人と離れてみよう、そのために、これまでと違う大人と出会える場所に行ってみよう」と提案していた。そしてその具体的な方法としてまず「大学に行ってみよう」と書いていた。さっきは文化祭と書いたが、今回のこの本はオープンキャンパスに出向くような本ということもできるかもしれない。ちなみに富永さんのクラスには高校生が見学に来ることもあるとのこと。

本書に戻っていえばこのお二人の対談では「つながり」「あつまり」「しがらみ」という言葉が並べられて検討されていたのもよかった。

トークセッションではQ&Aのほかに、これらを読んでもっと考えてみたい読者のために「もっと考えてみよう」という欄があり、ヒントが箇条書きで書いてある。こういうのも学びの場っぽい。

立命館大学はこの本には登場しない先生にも魅力的な専門家がたくさんいる。豊かだ。そういう大学がこういう本を出してくれたからには特に若い方々に広く届けばいいと思う。

「自由に生きるための知性とはなにか」。壮大な問いのようにみえるが本を開けばわかるようにその入口はひとつではない。興味関心の赴くままにとりあえず出向いてみよう、そうすればなんらかの発見が待っている。そんなことを若い世代とも共有できたらいいな、など思いながら読んでいる。

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ドミニク・チェン『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』を読み始めた。

冒頭から泣いてしまった。まだ読み始めたばかりだ。

ドミニク・チェン『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』(新潮文庫)

先日、下北沢の本屋で対話の本として目に止まった一冊である。ブックカバーがすでに誰かとの対話が丁寧になされた様子を示していた。普通の文庫より小さく感じた。そっと手にとり冒頭を読んで泣きそうになった。一度閉じて本を置いた。やはり買った。2020年1月にでた単行本の文庫化とのこと。ドミニク・チェンの本や活動は『ゲンロン』で見たり読んだりしている程度には知っていた。Nukabotとの丁寧な関わりが印象に残っていた。

娘の誕生をこんな風に観察しその体験をこんな風に記述できるのは著者自身が「表現とは何か」を追い続けてきた人だからかもしれない。最初からひきこまれるその来歴は娘の成長を観察しながら辿りなおされた著者の歴史の一部のようである。著者は「日本に生まれながら、台湾とベトナムにも家族を持ち、フランス人として教育を受ける中で、いつも自分の居場所に違和感をも抱きながら、複数の「領土」をせわしなく出たり入ったりしてきた」という。著者が冒頭に参照するのは哲学者のドゥルーズだ。ポリグロット(多言語話者)となりさらにゲーム言語と出会い「領土」の拡張の悦楽を知った著者は吃音という身体的な「バグ」にも生命的な次元における創造性を見出し、娘の「心のなかでは確かに反響している」であろう言葉にならない言葉を待つ。

少年から青年へと成長するなかで哲学やその教師と出会い、「言葉でしか記述できない事象」だけではなく「言葉の網からこぼれ落ちる事象もまた、世界に満ち溢れている」という実感を得た著者の表現行為の広がりとそれに対する内省と考察、そして再び戻る娘の環世界での対話。著者は娘の姿を眺めていると「もう自分では忘れてしまっていたこどもの頃の「世界の学び方」を再び生き直している思いがする」と書く。

「共に在る」ことへ向かって学問的知見と共にシンプルかつ丁寧に紡がれる体験と思考は私の身体にも優しく馴染みよく感じる。このあとも静かに慌てず読み進めようと思う。

さてやや慌てねばならない時間になってきた。「わかりあえなさ」に乱れる想いは多くあれど子どもの環世界を想像しつつ他者の来歴に耳をすますこと。それは私の仕事でもある。

今日もそれぞれの一日が無事にはじまりますように。

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読書

短編

傘のいらない雨だったのが帰る頃には結構降ってきた。本屋さんに寄ってから帰ると人と別れ細長い本屋の自動ドアを入って真っ直ぐ歩いた。話題の文庫が置いてある棚をぐるっと回った。小川洋子『ことり』(朝日文庫)がまだ平積みされていた。通じないことの切なさ悲しさに溢れたストーリーだった。

今、またこの本についてばーっと書いたがあまりに陳腐な言葉の羅列のように思えて消した。私はあまりに人間的、だ。「小父さん」のように鳥のさえずりに静かに寄り添える人間ではない。この物語の最後にこちらが悲しくなってきてしまう人が出てくるのだが私の言葉はそっちのあまりに人間的な人の方に近いのかもしれない。

長編を読む時間がないので短編を買った。雨上がりの紫陽花みたいな可愛くてきれいな表紙の文庫本が目に入った。新井素子さんが編んでる!これにしようとすぐ決めた。

コロナ前、ほとんど出られない句会に出たとき新井素子さんがご夫妻でいらしてくれた。とっても嬉しくて飲み会の席ではお隣でお話もできたし一緒に写真も撮ってもらった。句会では下の名前で呼び合っているので新井さんも「素子さん」。「素子さん」と呼びながらお話ができる日がくるとは。素子さんは気さくで明るくて超ユーモアがあって、とまた陳腐な言葉しか出てこないがどこに触れても楽しい遊びにしてくれるような懐の深い人だった。もっと好きになった。

購入したのは新井素子編『ショートショートドロップス』(角川文庫)、星新一感があってすでに良い。というか執筆陣の豪華さよ。私は新井さんが「まえがき」で書いているように「あとがき」から読むタイプなのだが「あとがき」を読みはじめて「あ、これは読んでからだな」と思った。そして本来のはじまりの地である「まえがき」に戻ると新井さんはやはり面白いのだった。数えきれないほどのぬいぐるみとお話ししながら生活しているっておっしゃっていたし対話調の文章に素子さんとの楽しいおしゃべりを思い返した。

この短編集は確かに「ドロップス」のよう。だから表紙もこれなのね。そういえばさっきこの表紙って、と思ってカバーをペロッとめくってみたら「カバーイラスト三好愛」って書いてあった。私、この人の絵が大好き。今出ている『怪談未満』(柏書房)もほしくて、昨日別の本屋さんでちょっと立ち読んだばかり。まずはこっちが我が家に来てくれました。私が買ったのだけど。

短編なので短いものをさらに短く、しかも足りない語彙で説明するのは野暮なので一言で書くけど短編は余韻も短くていいですね。グッときてもパッと次へ。敬愛する村田沙耶香さんの短編は相変わらずファンタジック(と思っちゃう)でピュアな筆致で淡々と書かれていたけど読み終わって素に戻ると得体の知れない恐ろしさにゾワっとした。村田作品にいつも感じる余韻。ふー。

短編しか読む余裕がないとかいいながら短編を何冊も読んでたら時間あるんじゃんという話だが隙間時間ならそれなりにあるの。でもパッと切り替える必要があるの。そういう人には短編はお勧め。この新井素子編『ショートショートドロップス』(角川文庫)もぜひ候補に。

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短歌とか孤独とか。

台所の小さな窓を少し滑らせる。開けた隙間から風が入ってくるか手を寄せてみる。スーッと気持ちの良い風が入ってくることを期待しては裏切られるというまでがデフォルトなので今日も本当はそんなに残念じゃなかった。東京も少し雨が降っているかと思ったら降っていないみたい。わからないけど。昨日も降っていないと思って家を出たら腕にポツリと大きな雨粒が当たった。京都、大阪ほどは降っていないのはたしか。どうか皆さんご無事でと思う。

すでに起きてからしばらくたつ。少し眠いのだから寝ていればいいのだけどあっという間に30分以上経ってしまった。そしてこうして机に向かう。そのまま公にするには憚れることばかり考えていた気もするが冷蔵庫のゴールデンキウイをいつ食べようか、ゴールデンカムイと似てるなとかも思ったりしていた。

少し前に俵万智の『サラダ記念日』が話題になっていた。きちんと読んでいない私でもその名前はよく知っている。なんで話題になっていたんだっけと思って調べたら節目の年だったのか。『サラダ記念日』から35年。私はまだ小6か中1か。もう少し大きくなっていたらハマったかもしれないな。当時は詩集ばかり読んでいた。そして谷川俊太郎は『二十億光年の孤独』から70年。『言葉の還る場所で―谷川俊太郎・俵万智対談集―』というのが出ているのか。谷川俊太郎は小さいときからちょこちょこ読み続けてきている。大岡信との対談本もよかった。これも良さそう。

そうだ、これを書く前、森英恵が亡くなったというニュースをみてこの前インタビューを読んだばかりだったなと思った。96歳。違う。あれは桂由美だ。90歳。軍国少女だったという。その時代を生きた人というかどんな時代を生きた人かということはどの人に対しても持つべき視点。

俵万智と谷川俊太郎、生きてきた時代が異なる二人だが詩人も歌人も時空の飛び越え方がすごくて私たちにいろんな時代のいろいろを感じさせてくれる。二十億光年の孤独なんてどんだけと思うが、孤独とくればなんとなく納得もいく。誰もが知っている孤独。動物も知っているのでしょう?分離の契機を持つ存在はみんな。

私は俵万智の良い読者ではないが初恋について考えているときに出会った本をたいそう気にいっている。ツルゲーネフの『初恋』にはまっていたことも思い出した。

あなたと読む恋の歌百首』(文春文庫)。野田秀樹の帯のインパクトもあった。解説も面白い。何首あるんだろう、番号振ってないんだ、と最初の一覧をみていたが百首って題名にある。うーん。もうどれもこれも恥ずかしくなるくらいあからさまだったりある意味分かりやすかったりしてたやすくときめいてしまうわりにすぐおなかいっぱいになったりもする。俵万智の解説を読むと落ち着く。消化を助けてもらえる。ひとりひとりの歌人が生きた時代や状況に思いを馳せ、自分の体験とも重ね合わせながら読み解かれるそれぞれの歌は私からは近いものも遠いものもあるがわからないものはない。孤独、不安、嫉妬、恋はめんどくさい気持ちをたくさん連れてくる。そして歌にするとこんなにストレートになってしまうのも恋なんだろう。逆に言葉を失うことだって多い。なんだか馬鹿になってしまうのが恋だ。

秋深き網走の旅つづけゐむ夫の孤独を妬めり我は 宮英子

俵万智同様、私も網走を訪ね、かつての刑務所などを見学したことがある。網走刑務所は開拓の歴史にも重要な位置を占める。全国を旅してきたが網走はおすすめしたい土地のかなり上位だ。ここにも孤独がある。この歌の「夫」は歌人の宮柊二、歌人夫婦だ。この孤独は妬みの対象となる孤独であり、妬みとともに体験される孤独とは異なる。ひとりでいること、それがいかに難しいことか、それはたとえ秋の網走を旅したところで同じかもしれないがそれでもそうできていること自体がいろんな妬ましさを連れてくる。

暦の上では秋。網走は涼しいだろうか。過酷な冬に向かうそれはそんなに気持ちよくはないものだろうか。どこで生きるのも生きるって大変だ。いろんな気持ちに彩られてそれらが混じって真っ黒な気持ちになったりもするけれど今日もなんとかはじめよう。

さあ6時。準備準備。

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短詩 読書

暮田真名さんと川柳WSをした。

数年ぶりに最初の職場の先輩と会えた。コロナ禍で仕事がオンラインに切り替わる中、もう一人の先輩にzoomの使い方を教えるついでにおしゃべりして以来かな。LINEではたまにやりとりしてたけど。先輩たちの子供たちもおもしろかわいかったな、あの時。ちっちゃなときから知っているけど先輩たちが母親になってもずっと私の知っている彼らなままであることにいつもちょっと驚く。そして昨日もいつものままだった。飛びつくように再会を喜ぶ私にも普通にのんびり喜んでくれて日影茶屋の水ようかんをくれた。

8月14日は14時から16時まで川柳作家の暮田真名さんをお招きしてワークショップを行った。紀伊國屋の詩歌コーナーがある2階で待ち合わせをした。もちろん暮田さんの『ふりょの星』もある階。左右社から4、5、6月と3ヶ月連続で刊行された川柳本も相変わらず平積みされていた。こんなおしゃれな本たちが川柳の本であるとどのくらいの人が知っているのだろうか(知ってほしい)。

暮田真名『ふりょの星』平岡直子『『Ladies and』なかはられいこ『くちびるにウエハース』(いずれも左右社)

生まれてはじめて川柳と向き合う参加者のみなさんにとってサラリーマン川柳とは異なる川柳というものがこんな形で存在することがすでに驚きだったらしい。先輩は最初の感想で「それだけでもすごい収穫」といってくれた。これまでそうとしか思っていなかったものに別の世界があったという意外性との出会いに素直に感動する人なのだ、昔から。

サラリーマン川柳で名を馳せた人とかいるのかな、そういえば。あれは笑って流せる感じが「川柳」という言葉が持つ流れて消えていくイメージと響きあうことで世に広まったのかもしれないね。共有すべきはそれぞれの事情ではなく会社員で配偶者がいてこういうことを言っても崩れない程度の関係性をもった主に男性というなんとなくの前提。それを「川柳」という言葉のイメージ通り聞き流してきたのが私たち。それに対して「穿ち」「おかしみ」「軽み」に主観性と詩的要素が加わったその歴史の流れのなかで川柳観を育まれつつ実作しているのが暮田さんたち。(『はじめまして現代川柳』参照)。歴史認識のあるものとないものが同じ名前を持ってしまったこと、そして大抵の場合、歴史認識のないものの方が市井の人には広まりやすいことは現代川柳が詩性を兼ね備えたものとして読まれる機会を減らしたかも知れない。また、ちびまる子ちゃんの「友蔵こころの俳句」、それをもじった「〇〇こころの短歌」など「思い」発の言葉を定型に投げ込むことに馴染みがある私たちにとって「思い」ではなく「言葉」から書く(これも『はじめまして現代川柳』を参照)現代川柳の存在は遠かったのかもしれない。だから暮田さんがサラ川には登場しない私やあなたや彼らたちいろんなみんなの存在を思い出させたnoteの記事「#01 川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」も話題になったのだろう。先輩が「収穫」といったのももちろんこの視点の(再)獲得のことだと思う。

ワークショップでは『はじめまして現代川柳』の編著者小池正博さんの川柳を用いた穴埋めでいかに私たちが最初に浮かんだ言葉から離れられないか(全然それで構わないわけでもある)を知り、その広告が持つ意図をいかに台無しにするかという穴埋めではなかなか台無しにするのは難しい(意味の変更はできるが)ことを知り、生まれてはじめて川柳を作る時間ではわけわからないまま文字を組み合わせる自分と出会う体験をさせてもらった。やや混乱しながらも普段から逆転移としてそういった感触がどこから生じるのかにも注意が向いているみなさんなのでその言語化も興味深かった。こういうのをどう体験するかは当然自由で、正解のない世界に戸惑いを感じてもそのまんまでいいし、やりたくなければやらなくてもなんでもいい(与えられても拒否してもいいとは思いにくいかも知れないが拒否はいつでもしていい)。ただそのような感触も体験しないことには生じない。

私が多くの情報が流れるTLで暮田さんの講座名「あなたが誰でも構わない川柳入門」という言葉に目を止めたのも無理がない。一人の人に複数的なあり方を認め、その力動によって立ち現れる現象を言葉にしていく精神分析とそれが響きあったのだろう。それを単なるイメージで終わらせるのではなく、まだアカデミアの領域にはないとはいえ、そのサークルの中だけでなく積極的に外に作品を送り出している実作者から歴史認識とともに川柳を学び、体験できたことは貴重だった。

参加者のみなさんはそれぞれ初対面だったが別れがたく暮田さんを交えお茶をして帰った。よく笑いよく喋った。なんかいいことをした気分になった。暮田さん、松岡さん、参加者のみなさんのおかげ。どうもありがとうございました。

早朝に日影茶屋の水ようかんをいただいた。最高だった。逗子にも遊びにいくからね。また一緒に美術館とか海とかいこう。先輩ありがとー。

ちなみにおしゃれでかわいい暮田さんの写真はTwitterに載せました。

今週もあっついですよね、きっと。無事に過ごしましょうね。

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短詩 精神分析 読書

Z世代のうたい手たち

空が赤みがかって水色とピンクが混じり合う時間。今朝もまだ風が強い。昨日、新宿の上空に次々現れる飛行機を見上げながら見送った。いつの間にか月が大きく出ていた。近くの森でアブラゼミが鳴いている。ミンミンゼミが鳴き始める頃には出かけよう。

キャロル・キングの優しい歌声を流しながら先日読んだ『ユリイカ』2022年8月号

<今様のうたい手>
何万回でも光る遠吠え! 初谷むい
川柳のように 暮田真名

を思い出していた。オフィスに置いてきてしまったので見直せないが同世代の二人の文章にはしみじみ思うところがあった。1990年代後半、2000年手前に生まれた子供たちだった彼らは短歌と川柳の世界で早くも輝き始めている、と書きたいところだが彼らにそんな陳腐な言葉は似合わない。

彼らはその時代のその年齢らしい悩みを抱えながら生活する中で偶然出会ったものに素直に反応し自分の好きなことをやっていたら早くもその才能を見出されただけという感じで自然体であると同時に短歌にできること、川柳にできることをしっかり発信している職人であるようにみえる。愛想もあまりない感じなのになんだかかわいい。自分のあり方を模索し苦しそうな様子も見せるのに今回のような散文で見せるバランス感覚はこの世代独自のものと感じる。AI時代の彼らは人間そのものと塗れなくても寂しさや苦しさを癒す方法を知っているからだろうか。若い患者たちの世界にもそれを感じる。もちろん私の主観に過ぎないが、彼らの作品や文章はエネルギーはあるのにこちらを巻き込んでくる感じがない。私は見かけがいくらカッコよかったり素敵であったとしても人目を気にしすぎではと感じてしまうと冷めてしまう。自分がそういうのをめんどくさいと思っているから上手に受け取ることができないのだろう。器が小さい。一方、Z世代と呼ばれるらしい彼らは自分がどう見られるかよりも自分がいる世界のことを気にしていて、そことどう折り合いをつけたらいいのかナルシシズムと格闘するのではなく小さな無理を重ねては解消し少しずつ進む形で自分を大切にしているように感じる。今回掲載された散文は文体も雰囲気もだいぶ異なるが、壊しては出会う、生きてるってその繰り返しだ、ということを二人とも書いているように思った。その循環によって過剰な表現(=死に急ぐ可能性)は遠ざけられているのだと感じた。

イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは主体が空想できるようになり、生き残った対象を「使用」できるようになるプロセスをこんな風に表現した。

‘Hullo object!’ ‘I destroyed you.’ ‘I love you.’ ‘You have value for me because of your survival of my destruction of you.’ ‘While I am loving you I am all the time destroying you in (unconscious) fantasy.’ 

ーWinnicott, D. W. (1971)

6. The Use of an Object and Relating through Identifications. Playing and Reality 17:86-94

邦訳は『改訳 遊ぶことと現実』(岩崎学術出版社)「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」である。

「こんにちは、対象!」「私はあなたを破壊した。」「私はあなたを愛している。」「あなたは私の破壊を生き残ったから、私にとって価値があるんだ。」「私はあなたを愛しているあいだ、ずっとあなたを(無意識的)空想のなかで破壊している」と。

若い世代に自分たちの世代が負わせてしまったものを感じる。でもそれを生き抜く彼らのバランス感覚を頼もしくカッコいいとも感じる。あなたたちのために、なんて今更いうことはできない。ただ彼らの世代が「自分自分」とがんばらなくても大丈夫なようにできるだけ広く注意をはらいたい。早くもトップランナーになりつつある彼らはきっとそれに協力してくれるだろう。

「また会ったね」としぶとい自分に笑ってしまいながら卑屈にならずにいこう。といっても難しいから卑屈になっても壊れても回復しながらいこう。そういう力は強度の差はあるかもしれないが誰にでも備わっているはずだから。いいお天気。とりあえずカーテンを少しだけ開けるところから。

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短詩 読書

はじめまして川柳

来月8月14日(日)午後、暮田真名さんをお迎えしてワークショップをおこないます。暮田さんにはすでにたくさんのキャッチーな修飾語がついていて、私もあえていろんな言葉で暮田さんを紹介してきました。でも多分どれもあっていてどれもちょっと違う感じがするのです。一番シンプルにいえば「暮田真名さんは20代で、川柳を書く人です」となるでしょうか。

暮田さんのこれまでとこれからについてはご本人がnoteにシンプルにまとめておられるのでそちらをご覧いただくのが一番いいかもしれないです。

暮田真名の活動と制作物、やってみたいお仕事

以前に書きましたが私が暮田さんを知ったのは俳句仲間の友人のお宅で彼女と1歳になる娘さんと楽しすぎる時間を過ごした帰りの電車でした。流し見していたSNSでふと「あなたが誰でもかまわない川柳入門」という文字が目に留まりました。「あなたが誰でもかまわない」って今思うと攻めた言葉とでもいうのでしょうか。とても今っぽいともいえる。それこそSNS的な。でもそのときの私は俳句の話をいっぱいしたあとだったせいかその何も求められていない感じに惹かれ俳句だって入門だけしてぼんやりしているのについ申し込んでしまったのです。知らない世界に飛び込むときの私はいつもそんな感じだなと思います。

時間的にアーカイブで視聴するしかなかったのですが暮田さんの導入を素晴らしいと思いました。今思えばそこにも結構とんがった感じの話が混ざっていたように思うのです。でもそんなことを思ったのも暮田さんがまだ若い方だと思ったのも後からでした。もちろんお顔も見えているわけなのでその若さを認識はしていましたし、とてもパーソナルな自己紹介でもあったのですが、そんなことはどうでもいいというか「あなたが誰でもかまわない」というのは受講する側である私が持つものでもあったようなのです。

だから暮田さんをどう修飾しようとどれもあっているようでどれもちょっと違う感じがしてしまう。そして多分それは川柳の特徴でもあり、普通に考えれば人ってそういうものでしょう、ということでもあるかもしれない。私は暮田さんの講義を聞いて、川柳ってどこに出かけなくても何も持っていなくてもぼんやり寝転がって天井を眺めたままでもできてしまうことを知りました。また、川柳って好き嫌いの対象にはなっても良い悪いという評価の対象にはなり得ない性質を持っているらしいということも学びました。

暮田さんが4月に出された『ふりょの星』も書名からしてそれが何とは同定しにくいですものね。アイデンティティってなんでしょう。暮田さんを通じて幸せな「はじめまして」を川柳にしたもののまたぼんやりしていますが、その魅力を少しずつ感じられるようになっている気はします。

例えば昨日あげた左右社から4月5月6月と3ヶ月連続で出版された3冊の川柳句集もそうですし、暮田さんが講座の中で入門書として紹介してくれた小池正博編書『はじめまして現代川柳』なんて装幀も内容も最高の入門書だと思います。俳句にも様々な入門書やガイドブックがありますが私にはどれも少しずつ過剰に思えてしまう。一方『はじめまして現代川柳』は昭和の歌番組(「ザ・ベストテン」とか)のように説明は最小限、作品重視という感じの作りで息抜きしながら学べてしまいます。そういえば「あなたが誰でもかまわない」って昭和の歌謡曲っぽくないですか。私はそこに惹かれてしまったのかもしれない、時代的に。

もう行かなくては。また別の本のことも思い浮かんだからそのことも合わせて明日書くかな。とりあえず今日も暑そう。どうぞお気をつけて。

ちなみに「あなたが誰でもかまわない川柳入門」第二期はこちら。暮田さんの「授業概要」読み応えありますよ。

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読書

はじめまして

今日はなにやら楽しそうな名前の保育園に行く。これまで担当していた人が遠くのご実家にお帰りになるので私が引き継ぐことになった。はじめまして。

先週の「はじめまして」もとてもスムーズだった。この仕事ももう長いのでどこへいくのもわりと気楽でどんな対応であったとしてもそうそう驚かない。いや、驚くけど「ほー、こういうこともあるのか!」と自分の知らない世界に自分のやり方で適応しようとがんばることをしない。馴染みはあるが知らない街を散策する。実際そうだし、気持ち的にもそんな感じではじめましての場へ向かう。こんなところにこんな建物が、全然知らなかった、ということばかりだ、日常は。

その園はとてもウェルカムな雰囲気で迎えてくれた。商店街のはずれ、ちょうど傘を閉じられるアーケードの端っこの方にある小さな保育園で何度か通り過ぎたけど時間ちょうどにたどりついた。その日は雨で少し寒かった。

私が担当する園は注意をしていても見過ごしてしまうような小さな園が多く、よくこの間取りで工夫して保育してるな(基準って・・・と思わざるをえない)と感心する。もちろん感心されている場合ではなくて自治体は乳幼児が育つ環境について真剣に対策を練るべきであろう。保育というのは大変だ。大変なのは保育士だけではない。月齢によって離乳食の内容も変わる0歳児の食事と他の年齢の子供たちの食事をひとりで作る栄養士の仕事ぶりにも頭が下がる。特に用事はないが「○○さん」と言っては振り向かせ何かを言ってもらいニコニコと帰っていく子供たちに対応しながらプラスチックのお皿を少量かつ多彩なおかずで着々と埋め、サランラップをかける。アレルギーを持つ子供たちの食事も特別な注意を必要とする。小さな園はひとりで全てをやっているので保育士との連携や園長の援助も絶対必要。誰かが孤立したら保育の流れが滞る。ただでさえ子供の動きは統制不可能だ。思った通りに動いてなんかくれない。言葉はそんなにたよりにならない。物理的にも仕事の内容的にもこれだけ近い関係だったら保育士の間にも色々あるだろう。それでもそれは二の次だ。やるべきことをやるためには協力せざるをえない。本来家庭だってそのはずだ。

「こんにちは」と何度もやってきては逃げるように去っていく。だいぶおしゃべりが達者になってきた2歳児だ。全身ではにかむような姿がとてもかわいい。私も同じようなトーンで「こんにちは」と返し続ける。私は観察をして助言をする立場なので能動的に関わることはほとんどしない。だから距離や時間の変化を肌で感じられる。たまには定点でじっとしている大人に近寄っては離れ離れては近寄りを繰り返しながら自分のペースで距離を調整していくことも悪くないだろう。大人も子供も忙しすぎる。

村田沙耶香『信仰』(文藝春秋)を読んだ。主に海外からの依頼で書かれたいくつかの短編とエッセイが収録されている。相変わらずなのに凄まじかった。「現実」と「信仰」。言葉が作る境界など曖昧なものだ。読めば「正しさ」がぐらつく。私はどこか気持ち良くなっていて実は誰かをひどく傷つけていることに気づいてもいないのではないか。自分に対する疑わしさはかつて大人に対して持った疑わしさかもしれない。

「何度も嘔吐を繰り返し、考え続け、自分を裁き続けることができますように。」p117

村田沙耶香は子供の頃、「個性」という言葉に感じた薄気味悪さとそれに傷ついた体験を忘れない。なのに繰り返す何かを彼女は罪として裁き続けながらこういう文章を送り出し続けている。凄まじいことではないだろうか。私はこれを愛情と感じるし、子育てにおける激情と近いように感じる。私は彼女の文章を読むと救われる。そこがどんなに血の流れる場所であっても、私たちがいかに愚かでも、私は動物的な部分をケアされたように感じる。世界を肯定するように、という言葉も浮かんだが肯定という言葉が何かとても上から目線のような気がした。私は私の好きなようにしたい。だから好きな人にもそうしてほしい。でもそれは噛み合わない。私のしてほしくないことがその人のしたいことだったりすることがほとんどなのだ。私たちはあまりに違う。こんな小さな、時折小動物のようにもみえる子どもたちが世界と出会う仕方も様々だろう。見るものが違う。感じることが違う。食べるものは同じでも消化の仕方が違う。お昼寝だって暗くするほど興奮する子もいる。ほしいものは大抵手に入らないかもしれないし、手に入れたものはほしかったものではないかもしれない。

私はすでに大人になってしまった。相変わらず自分の気持ちよさにかまけては苦しむ大人に。人なんて変わらない。毎日思う。それでも動きをとめない。感じること、考えることをやめない。罪と知って選択したものだってある。それでも。

いまだに「はじめまして」があるのは幸運かもしれない。「滅びるまで続ける」というセリフがこの本にあった気がする。はじまりに遡ることは難しくとも滅びるまでの距離と時間を子供の頃よりは定点観測できるようになったと思いたい。今日も今日を続けながら。小さな罪深き存在として。

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詩集『ひのひかりがあるだけで』さわださちこ

最近の家電はなんでも音楽だな、と洗濯が終わった音を聞いた。「最近の」とかいっているが最初にそう思ったのはもう随分前のはず。月日が流れるのは早い。

昨年春、友人が編み物で作った作品を届けにきてくれた。私たちが卒業した大学に講師として勤めながら作品を作り続ける彼女と昔話をするなかでさっちゃんが自然豊かな土地へ引っ越したと聞いて驚いた。彼女たちは以前二人で詩集を出していた。その詩集は賞を取って授賞式のときの二人が写ったポストカードを私も持っている。詩集もいただいた。『ねこたちの夜』という詩集だ。

毛糸で編まれた薄い紺色の夜に大きな三日月の下、影を作ってたたずむ猫の表紙がとてもかわいらしく、掌サイズのそれを開けばさっちゃんが願う通り” 今の自分が本当にかきたいことを、子どもにもわかるやさしい言葉で”書いた言葉がたっぷりの余白に優しく配置されていた。詩集は余白が多いのがいい。そういえば山本貴光さんの『マルジナリアでつかまえて2 世界でひとつの本になるの巻』(本の雑誌社)に詩集は出てきただろうか。詩集の余白は余白という文字な気がするのでそこに書き込むとしたら上書きになってしまう、など一瞬思った。

「ああ 今日も

きみに おはようが言えた

そのことが こんなにもうれしい」

ー「こまる」より抜粋 『ひのひかりがあるだけで』さわださちこ

さっちゃんの10年ぶり2冊目の詩集からの引用だ。昨日、帰宅したらポストに入っていた。ありがとう。さっちゃんの字、変わらない。

やっぱり表紙は猫。今回はやぎ公さんというさっちゃんが惚れ込んだという画家さんが描いている。

「ねこで よかったね

なんにも しんぱいしないで」

ー「ねこは」より抜粋

クッションにすっぽりとおさまりなんの心配もなさそうな顔で眠る猫が本当にシンプルな線だけで描かれている。さっちゃんの猫でよかったね、こんな素敵な詩集にも登場してるよ。

ウクライナの猫たちが浮かんだ。先日、瓦礫となった街を紹介する記者が放送中に猫を見つけ戦争が始まって以来はじめて笑ったというようなことを話していた。

さっちゃんの優しい視線を思い出す。さっちゃんはいつも微笑んでいた気がする。のんびりとはっきりとしたことをいうイメージ。きっと今もそうだ。私の友達はマイペースでのんびりとしている人が多くてこうして作品を作る友達は特にそうだ。

「だれにも おそわることなく できたこと

そして やすみなく つづけてきたこと

すーはー すーはー

すって はいて すって はいて」

ー「いき」より抜粋

さっちゃんは「子どもにもわかる言葉で」というのをいつも心がけている。この場合の「わかる」は知的な理解という意味ではないだろう。あなたの生はいつも肯定されている、それが伝わりますように、というさっちゃんの願いだ。私はそう思っている。

<詩集>

ひのひかりがあるだけで』さわださちこ 詩・やぎ公 画

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蜃気楼という真実ー村田沙耶香『生命式』

村田沙耶香『生命式』(河出文庫)は私にとって名言集だ。

「あそこってさ、誰も、着ぐるみの中の人の話しないじゃん。皆が少しずつ嘘をついてるだろ。だから、あそこは夢の国なんだよ。世界もそれと同じじゃない?みんながちょっとずつ嘘をついてるから、この蜃気楼が成り立ってる。だから綺麗なんだよ。一種のまやかしだから」

本当にそうだと思う。とかいってみるが、この台詞が吐かれる世界はぜひ本で体験してほしい。自分では絶対に想像ができない出来事がそこでは繰り広げられている。

これも全くそうだと思うので引用する。

「だって、正常は発狂の一種でしょう?この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います。」

この時代、セックスは受精と呼ばれている。花粉のような私たちはただ数を増やすために受精する。死んだ人の生命を美味しくいただきながらときどき涙したりして。

「本能なんてこの世にはないんだ。倫理だってない。変容し続けている世界から与えられた、偽りの感覚なんだ。」

わかったような、正しそうな怒りの言葉もそこが狂気の世界なら儚いものだ。偽り?正常?それが何?村田沙耶香の小説の登場人物はそれぞれの快楽に恐ろしく素直で本当に恐ろしくも可笑しい。その快楽がその人のものかいつの間にか押し付けられたものかなんてどうでもいい。それはもうそうでしかないものとしてそれぞれに生きられていて私たちは内臓になったりたんぽぽになったり「自分」とか「本当」とかそんなものは問われない世界に迷い込んで混乱し発狂する。

私は気持ちが混乱して辛いとき村田沙耶香の小説を読むと安心する。なぜならそこは自分では到底辿り着くことのできない狂気の世界だからだ。混乱を感じるうちはまだ辛いかもしれないが発狂し快楽を快楽と言わずただ体験しながら生きる。そんな恐ろしい世界はまだ私には遠いのではないだろうか。いずれ一気に近づくのかもしれないが…。これら短編を読み終わるごとに「戻ってきた」という感覚をもてることが多分私を安心させるのだろう。

さあ、今日もまだここまでは狂っていないであろう社会で仕事をしよう。人と会おう。笑ったりサボったり眠ったりしよう。それがいずれ全てまやかしだと言われても。

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清水晶子著『フェミニズムってなんですか』をざっと読んだ。

清水晶子著『フェミニズムってなんですか?』(文春新書)の「はじめに」にこう書いてある。

”この本は「フェミニズムとは何であるのか」に対してひとつの正解を提示することを目指してはいません。そのかわりにこの本が目指すのは、社会や文化の様々な局面において、女性たちの生の可能性を広げるためにフェミニズムは何を考え、何を主張し、何をしてきたか、何をしているのか、その一端を振りかえり、紹介することです。”

そして「何かをしたい、何かをしなくちゃ」と感じたときに「やってみる」を駆動する燃料になれたら、と著者は書く。

最初にフェミニズムの基本は①その対象は社会/文化/制度であること②おかしいことはおかしいということ③「あらゆる女性たちのもの」であることが確認され、フェミニズムの歴史における四つの波が簡潔に説明される。フェミニズムを著者がするように”「女性の生の可能性の拡大」を求める思想や営み”と位置付ければそれは日常生活のあらゆる局面で生じているものだろう。そのためこんなコンパクトな本にも関わらず社会/文化/制度それぞれの観点からのトピックが取り上げられ、今まさに議論されるべき事柄が提示されている。同時に、3人の女性との対談が挟まれ、それらが持つ個別性、具体性がある種の柔らかさをこの本に与えているように思う。「おかしいことはおかしいということ」の逡巡は女性が置かれてきた状況や歴史だけでなく、人間誰もが持つ傷つきやすさとの関連で考えることも大切だろう。それらは外に向けて表現される前にまずは安心できる場所で表現される必要がある。声を上げることで同じ傷つきが繰り返されそもそもの自分の欲望や願いを見失うようなことは避けたい。

私は今、臨床心理士の資格認定協会に対する要望書を提出するために署名活動をしているが発起人は皆女性である。精神分析家候補生の会の三役もしているがそれも皆女性である。どちらもたまたまである。

そんなに悪い時代ではないのかもしれない。こんなたまたまが生じるなら、とも思うが現状をみればそんな希望は楽観的なのかもしれない。もちろんこういう小さな希望が小さな抵抗を支えるに違いないと私は思っている。戦う女性たちの傷つきをみて、ものいえず傷つき続ける女性たちをみて、その両方の部分を持つ個人として私もやはり傷つきながらあり方を模索する。揺れ動きつつも考えるのを諦めないためには様々な支えが準備される必要があるだろう。こういう本もその一つにはなると思う。それぞれが個別の体験を大切にしてもらえる場所や相手を得られることを願い、自分にできることを探す。

ため息も多い毎日だ。しかも今朝の東京は雨でなんだか憂鬱だがため息をつきながら「憂鬱だ」といいながら過ごしていればそうではない瞬間も訪れるだろう。ずーっと同じことを言い続けたりやり続けたりすることも案外難しいものだ。

今日も無理は無理としつつも諦めずなんとか、と思う。

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佐藤亜紀著『喜べ、幸いなる魂よ』(角川書店)を読んだ。

佐藤亜紀著『喜べ、幸いなる魂よ(角川書店)を読んだ。

読み始めてすぐなんだか雰囲気が違うと感じた。それほど多くの物語を読んでいるわけではないので自分が何と比較してそう思ったのかはわからない。そこには歓待を当たり前のものとする人たちがいた。親が死にある家族に引き取られた主人公、といったときに思い浮かぶような言葉はこの家族にはない。同じ年頃の双子の姉弟ともありがちな葛藤も生じない。歓待というほど大袈裟なものでもない。他者を違和感なく受け入れるその態度こそ違和感と感じる人もいるかもしれない。主人公はごく「普通」の人間だ。私たちは彼の行動や思いに対してなんら違和感を抱くことはないだろう。思春期になりそれぞれの距離は少しずつ変わりはじめる。彼は世界の全ては探究の対象である好奇心旺盛な双子の姉に恋をし、彼女は生殖と繁殖の終わりなき反復を見つめながら実験としてのセックスに彼を誘う。方法と結果を記録するようにセックスを試みる彼女が時折身体が感じたままに吐く息を愛おしく感じる彼はすでに彼女の全体を愛している。大体の場合はこうなるという推測通り彼女は妊娠する。全ての事態に対して落ち着いてみえる彼女と大体の人はこうなるであろう彼の心の揺れは対照的だ。彼と我が子とではなく女性信徒たちと共同生活を営む彼女と彼女との生活を望みつつ様々な欲望に揉まれる彼の生きる俗世間を断絶する塀は名前と顔を忘れない門番のおかげで限定的に行き来可能だ。それぞれのモノローグは彼らがそれぞれのスケールで実直に論理的に人を想うことができる人間であることを明らかにしており胸をうつ。誰もがもつナルシシズムの蠢きに彼らが囚われないのはその愛する力故だろう。彼は彼女のあり方に苦悩しつつも彼女が跳ね返せるほどの侵入しか試みずその世界を尊重する。彼女は彼の想いを十分に認識しつつも女性であることで自由に表現できなかった類稀な知性を弟の名を借りて現状を変える形にしていく。十分に理解し愛しながらも直接的には応えず自分の欲望を自己でもあり彼でもある他者への未来に投資する彼女とそれを抑制的に見守る彼が織りなす関係は緻密で美しい。切ないが周りがどんどん死ぬなかで生き残り離れていても共にいられる時間が続くのがせめてものなにかという気がする。二人の子どもは早くに彼がひきとり彼女が親であることを知るのはだいぶ大きくなってからだ。子どもはそうとは知らず積み重ねてきた出来事もそうと知る場面自体も彼ら二人が親としても十分に生きてきたことを示すものだった。

どちらかの性に生まれた私たちが自分も相手も今も未来も過去も大切にしながら生きていくということはどういうことなのか、こういうことなのかもしれない、とこの本を読んでじんわり感じた。

知識は当然大事で勉強はしたほうがいいに決まってる。でもそれはあくまで人との間で生活を営むときに必要だからではないだろうか。彼らが歳をとりそっとお互いに触れるときそこには性を超えた交わりがある。共にありつづけるための模索とその価値を教えてもらった。そう感じられた本だった。

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言葉とセクシュアリティ

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ、と昨日書いた。

図書館という設定の豊かさを改めて知った。桜庭一樹の小説で図書館最上階に住む女の子の話、なんだっけ、思い出そうとすることは全て思い出せないといういつもの現象。その子はすっごく頭が良くてというのは覚えている。あの設定も素晴らしいなと思ったしほかにも図書館が登場する小説は多い。檻でもなく鳥たちを窓の外に本の内に息づかせ、どんな人でも利用できるマージナルな場所。

この本ではここが主人公と外界の中間領域となる。彼だけがその言葉を理解する兄との場所ではなく、鳥たちとの交わりえない交流でもなく。もうこのあたりから私は切なくてどうしようもなくなった。多くの患者さんを重ねてしまったからだ。

言葉が通じると感じられる場所。「通じる」とはなにか。

「それはごくありふれた事務的な連絡事項にすぎないのだとよく分かっていながら、小父さんはなぜか、自分だけの大事なお守りを無遠慮な他人にべたべた触られたような気持に陥った。」—小川洋子『ことり』

想いは空想は生み言葉を暗号化する。セクシュアリティの機能だろう。身を隠すようにささやかな生活に「じっと」身を浸してきた彼はもはや本を閉じたら消えるような世界にはいない。著者は極めて耽美に鳥から人間の声に耳を澄まし始める主人公の様子を描き出すが、一瞬のセクシュアルな混乱や相手はこれを夢だと知っているという現実もさりげなく織り交ぜる。

「一粒だから、今でも夢のように美味しいと思えるんです。」–小川洋子『ことり』

言葉とセクシュアリティ、精神分析が取り組んできたもののすべてだろう。切なさも絶望もささやかな喜びも自由を求める衝動も私たちは患者との間で体験する。

セクシュアルな感覚は人を少なからず病的にする。言葉は暗号になったり精神安定剤になったりする。簡単に絶望しODしたりもする。確実な言葉などどこにもない。のみこんでも吐き出しても不安は尽きない。

時を重ね身体を合わせ言葉を交わし続けるなかで言葉の質がふと変わる時がある。この本の主人公は長く継続的な関係を築いたのは兄のみだった。彼のセクシュアリティは幻滅を体験するプロセスにはいるほど機能していなかったのかもしれない。継続的な関係ではお互いがお互いを想う限りにおいてセクシュアリティと言葉は錯覚と幻滅を繰り返しそのあり方を変えていく。それはふたりのプロセスでありもはや切り分けることはできない。

たとえば一方が急に謝った。するともう一方はそれに被せるスピードで「なんで」といった。今誰と対話してた?私はあなたのその部分だけを切り離して考えるなんてできない。それが「世間」からみてどうであったとしても。

分析家がスーパーヴァイザーや文献との対話を「今ここ」に持ち込むことを患者は嫌う(ことがある)。外側の第三者が私たちの何を知っているのか。私たちはそれぞれの関係を築いている。

一人の、あるいは第三者のモノマネのような言葉はセクシュアリティが引き起こす危機とは別の困難を生じさせる。それはこの本を読めばわかる。

言葉を紡ぎ二人が繋がり次へ繋がっていく。セクシュアリティのもつ豊かさと困難を毎日そうとは知らず生きている。そんなことを考えたので書いておく。

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読書

神田桂一『台湾対抗文化紀行』を読んだ。

台湾対抗文化紀行』神田桂一 著、2021年、晶文社

まず目に留まるのは黄色くておっきい帯。表紙の三分の二。つい黄色くてといってしまったが下の三分の一は黄色くなかった。鮮やかな写真。おいしそう。楽しそう。向かって左の方の眼鏡もおしゃれ。台湾はいいよね!撮影は川島小鳥さん。大好き。文中にはご本人も登場。

そしてそのデカ帯を外すとなんとまたレトロでおしゃれな装丁。そのままブックカバーとかファイルとかジップロックみたいな袋にして売り出してほしい。相馬章宏さん(コンコルド)のお仕事。とても素敵。

さらにこれも外してみます。おー。台湾の国旗の色でしょうか。鮮やかな赤というか朱色?台湾はその穏やかなイメージの背後にアイデンティティの問題を抱えているのですよね、そういえば、となります。

ごちゃごちゃ感とすっきり感、レトロとモダン、まさにカルチャーとは、そして人の集まる場所というのは雑多。多様とかいうよりしっくりくる気がする。ただ、この感触も第七章において少し再考を迫られる(お楽しみに)。

普段、学術書を読むことが多いのでこういう本の読書はほんとに贅沢!だけど学術書よりずっと安い。もちろん台湾にいくよりも。台湾料理を台湾ビールと一緒にいただくくらいのお値段。1700円+税なり。

台湾には一度行ったことがある。もう何年になるだろう。ガイドブックにあるような観光地をまわっただけだがとにかくよく歩いた。普段から住んでいる人のように歩いた。コンビニにいき、袋がいるかどうか聞かれた時だけ「不要」と台湾語を使った。郵便局でちびまるこちゃんの切手(だったか)を買い、若者の街ではB級グルメ(なのか)の買い方がわからない私に列の少し離れたところに並んでいた若い女性が身振り手振りで教えてくれたり。タピオカミルクティーは私には甘すぎたが、言葉の通じないお店の人とのやりとりは楽しかった。バスの運転手さんは上手なウインクで送り出してくれた。夜市は暗くて(当たり前だ)雑多で楽しかった。

この『台湾対抗文化紀行』はとてもパーソナルなもので私のような台湾の観光地にとりあえずいってみよう、という人向けではない。著者もいまやたくさんある紀行文に載っているようなことはそちらで、と書いている。私は対抗文化、カウンターカルチャーというものをよくわかっていないが、それも特に問題ない。いい感じに力の抜けた著者に同一化し、その好奇心と、出会い任せの動きになんとなくついていくだけでただの観光客には知りえない場所へ連れて行ってもらえる。どちらかというと取材に同行させていただく感じだろうか。

音楽と政治の関係もライブハウスで語られるようにナチュラルに聞き取られる。日本には友好的で親しみやすい台湾も政治的には難しい立ち位置にある。思えばとても政治的なものである(だった)音楽にもそれは影響しているという。

著者が台湾アイデンティティなるものがあるならそれを明らかにと友人のdodoさんから話をきく第三章は、朴沙羅さんの『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)を思い出した。もちろんここではアイデンティティについて聞くという明確な目的があるので個人史を聞くのとはまるで違うが、人に歴史あり、というか人は歴史から逃れられない。

「台湾の自由は、抑圧あっての自由なのよ」とdodoさん。著者ならずともドキッとする。著者の様々な語りを聞きたい気持ちは止まらず別の友達はこう応えた。

「現状維持というのは選択肢としてはないなと思った」「台湾人は生活に対するすべてのものが政治だから。」

日本の自分のアイデンティティが自ずと照らし返される。

台湾、といっても私は台北しか行ったことがないので台湾の街という「生態系」について聞き取りがされている章(四章)も興味深かった。ずっと変わらないでいて、なんていう言葉はしっくり来ないであろう街、台湾。台湾の<下北沢世代>という本屋さんにも行ってみたい。そして『秋刀魚』を「ああ、これがあの」と実際に手に取りたい。「台湾人から観た日本」(中国人側からも)、「日本人から観た台湾」、著者は複数の視点の中でぶれない台湾人を発見しつつより本質をと知りたがる。著者は割とすぐに眠くなってしまうらしく、待ち合わせに遅れた友人を待っている間に自分が眠ってしまったりする、カフェで。真面目に偶然か必然かと自らの行為を夢想する姿もゆるくてちょうどいい。

メインカルチャーありきのカウンターカルチャー、メインとマイナーの有機的なぶつかり合いは境界の曖昧な日本のカルチャー内部ではもはや起きづらいとしても日本と台湾との行き来においては可能かもしれない、それが著者にとっての台湾の魅力なのかもしれない。

第七章、著者の中国語の先生も務めた田中佑典さんの語りが興味深い。

「日本は「衣食住」に対して台湾は「衣食住と”行”」があるんです。」

移動、交通とは「変化」の意味、と田中さんはいう。

「まず何か口から出まかせでやって」という始まり方が「アジア的」というならそれはとっても魅力的。日本だってアジアなはず。

それにしても各章最後の著者雑感は切実なはずの相互理解への希望が素朴に、しかもやはりどこか眠そうに綴られていて心地よい。

「あとがきにかえて」は「就職しないで生きるには」である。私は題名が気になってしまって最初に読んでしまったが、最初から読めばなるほどである。そしてこれからはモラトリアム期間は<waiting room>って呼びましょうか、という気にもなった。

パラレルワールドで体験した自由、みなさんもその追体験を美味しいアジアンスイーツとともに。週末贅沢読書のススメ、のつもり。

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読書

斎藤環著『コロナ・アンビバレンスの憂鬱 ー健やかにひきこもるために』を読んだ。

コロナ禍によって依頼ではなく自発的に書くようになったという斉藤環先生の文章を集めた単行本。斎藤環著『コロナ・アンビバレンスの憂鬱 ー健やかにひきこもるために』2021年、晶文社。これらは主にブログサービスnote、つまりウェブ上で発表されたものだという。という、というか私も読んでいた。いくつかかなり話題になった文章もあり流れてきたものは読んでいた。

著者がいうようにnoteはどんどん書けてしまう場所だった。私はやめてしまったけど。運営の問題とか見聞きしていたせい。詳細がわからないので積極的に何かを言うほどでもないが、共謀することになってしまうのは嫌だな、という消極的な姿勢から。コロナ禍における「自粛警察」のこともこの本に書いてあるけど、ああいうのも迎合と共謀という感じがする。自分からいつのまにかなにかにまきこまれにいってた、なんてことは嫌だな、私は。途中で引き返すにももう色々コントロールが効かなくなってたりするかもしれないし、言い訳してその場にい続けることしか考えられなくなってしまうかもしれないし、適切に振舞える自信がない。だから違和感を持ったならとりあえずその違和感のほうに合わせた行動をとったほうがこれまでの経験から失敗が少ないように思う。具体的には、地道に情報を集めたり、自分で納得できていないのにすぐに動いたりしないように気を付けるとか。事柄にもよるけど。

何はともあれ紙媒体はいいですね。気ままに指や目を止めることができる。抑制がきく。

普段は医師として「当事者」と協力する著者だってコロナ禍では当事者だった。誰もそこから逃れられた人なんていない。実感を伴う第三者的ではない文章は共感を呼ぶ。一方、そこから哲学的な思索や議論が発展しなかったことは著者には不満として残ったらしい。しかし、わけのわからない事態に対して一定の方向性を持った言葉を与え、思考を巡らせるのはあまり早急ではない方が、とも思う。ここでも私は消極的なのかもしれない。なんだこれは、わけがわからないぞ、という混乱の中で狂わないこと、とりあえずそこにとどまるために今までの言葉で思考すること、まずはそれが安全、肝要な気がする。もちろん著者も何か新しい発見や変化をこの状況に見出そうとしているわけではない。むしろ著者が注目したのは私たちが普段当たり前なものとして、考えるどころか問題として取りあげたこともない事柄だった。ずっとそこにあったはずなのに可視化されていなかった事柄。

わたしたちは混乱すると躁的になったり退行したりしてそれぞれ様々な仕方で変化に対応しようとする。不安なのだ、とにかく。著者は医師なので診療の形式など実践面で何をいかに変更するのかしないのか、ということも考えざるをえなかった。私もそうだが、お互いが当事者である状況でどのように治療を続けていくのかについて考えるために必要なのはまずは正確な情報だ。しかしこれが今回はいまだに難しい状況にある。新型であり変異もする。なんという無力。とはいえ、人間にとってはそのような対象の方がずっと多いわけで、私たちにできることはごくわずかであることもみんなどこかではわかっている。今回の事態は特にそれを強く認識させた。この本は実践もかかれており実用的(198頁からの「穏やかにひきこもるために」など)だ。

一方で私は、「生き延びようね」という言葉が冗談ではなく交わされ、それが力をもったことも忘れないでおきたいと思った。私たちは無力だが、でもできるなら、とお互いに対して願うこと、それはどんな状態でもできると知った。

この本の内容にもっと触れたいけれど、あまりに多岐にわたるテーマをせっかく寄せ集めてもらったこと自体が貴重。ということで「まあ、読んでみて」となる。まず目次

どんな本だって「読むべき」とは思わないが、「社会的ひきこもり」に対する世間の理解を大きく変えた著者の思考が助けにならないはずはない。私たちはこんな形で突然生じたできるだけひきこもってという要請に対してどうしたらいいかわからなかった。

また、コロナがそのあり方を変えつつも、私たちが当初より混乱せずに事態に対応できているように見えたとしてもこの本で取り上げられていることはアクチュアルな話題であり、こう可視化されたからにはコロナを抜きにしてもアクチュアルであり続けるだろう。きっと可視化を待っている問題はまだまだある。でもわたしたちは危機と出会うまでそれとも出会うことはできない。だからいまだに続く不安と不自由に慣れることなく、不安だ、不自由だ、と感じ続け、根源的な問いを対話において考え続けると同時に、実用的な方法を身につけていくことは、著者がいうように「未来予測」にはなり得なくとも、マニック、あるいは万能的に傷つけ合うのではなく、地道に支え合う手立てとなってくれるだろう。

著者は、一対一の対面でも、オンラインのイベントでも、不特定多数に向けたメディアでも、変わりゆく情報に対応しつつ、幅広い話題や出来事において、特に差別や偏見が生じる場所に素早く言及することで、私たちがそれを思考することを促す。引用されるエッセイ、文学、アニメ、ニュースなども多岐にわたり、興味のある領域からはいればいつのまにか別の領域へいっていたという学び方もできる。

私が一臨床家としてこれらのことを考え続け、実際に手立てを練るなかで感じていたのは、事態に対応するときはそれまで変化しなかったことで守られてきたもの、可視化されなかったものに対する目配せも欠かせないということである。想いや願いが相手との関係に置かれるとき、それは大小問わず変化への誘因となる。だからたとえ不可避であったとしても、それが孕む暴力性を意識したい。それは臨床家としての私のこの2年間の実感でもあったし、それまでの実感がさらに強まったものでもあったように思う。

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読書

『読書会の教室ー本がつなげる新たな出会い 参加・開催・運営の方法』を読んだ。

バタバタとした毎日、隙間時間に本を読む。ここの下書きにも何冊分かの感想が断片のまま放っておかれている。

長い間、専門書の講読会には参加してきた。先生方から教えていただいたことをたよりに今や自分でフロイトとウィニコットの読書会を主催するようになった。もうそういう年齢だ。

本は一人で読むのもみんなで読むのも黙読も音読もそれぞれに楽しくて好きだ。昨年は京大の坂田さんや専修大の澤さん、昔からの臨床仲間、さらにそのお仲間と一緒に吉川さんの『理不尽な進化』の読書会や短期力動療法の読書会(ロールプレイ)もした。

「読書会」というものを定義づけようとしたこともない。そこに一定の方法があるのかどうかも知らない。それでも特に困っていなかった。

ところが2021年12月に晶文社から『読書会の教室ー本がつなげる新たな出会い 参加・開催・運営の方法』という本がでた。著者の竹田信弥さんと田中佳祐さんはすでに『街灯りとしての本屋』(雷鳥社)という本をだされていて素敵なWebサイトでその内容を知ることもできた。「街灯りとしての本屋」、美しい修飾。

もうすぐ2年か、緊急事態宣言がでたとき、私のオフィス近くのビルは数段暗くなった。昼間というのに人気のない薄暗い通路を抜け、エスカレーターを上るといつも通り明るい場所があった。それが本屋だった。新宿の高層ビルでさえこういう体験をする。街灯りとして、といわれればこれまで目をとめ足を止めてきた様々な街の本屋さんがほの暗い私の記憶に浮かび上がってくる。

読書会は二人からはじめられる、とこの本にも書いてあった。確かにここ数年、本当にたくさんの読書会情報と出会うようになった。いい機会だ。私ももう主催する立場なのだから自分がしていることがどんなものかくらい知っておかねば、と思ったわけでもないが、見知らぬ人々さえ集うその場所で何が行われているかを知るにはちょうどよさそうな本だった。しかも装幀が気が利いている。まじめ好きなあなたにもかわいい好きのあなたにもしっくりくる2パターンをカバーの取り外しだけで体験できる。

さらにこの本は昨年末出版とあって、コロナ禍においてオンライン読書会の経験も積み重ねてこられた著者たち、そして彼らがインタビューをしておられる読書会やイベントを主催する側のみなさんの具体的なお話をうかがえるのも実用的だ。

目次をみれば、読書会初心者にもこれから読書会を主催してみたい人にもやさしい本であることがすぐわかる。はじめての遠足のように読書会も楽しもうというわけだ(たぶん)。

先述した主催者側として登場するのは、読書会に関心のある方ならSNS上でもおなじみの猫町倶楽部の山本多津也さん、京都出町柳のコミュニティスペースGACCOHで活動するみなさん、そして八戸ブックセンターの方々である。私が注目したのは三つ目、青森県の市営の書店である八戸ブックセンターの活動である。

幸運なことに本屋に恵まれた新宿で仕事をしている私でも、時折思い出すのは子供時代に通った本屋だ。地方出身かつ全国を旅してきた身として地方の本屋の魅力もそれなりに知っているつもりである。子供のころから本屋さんにはお世話になってきた。旅先でも必ず立ち寄る。活字がどんどん電子化されていくであろうこれからも私たちの居場所としていつまでもそこにあってほしい。そんな本屋さんはたくさんある。

八戸ブックセンターにはまだ行ったことがないが、市営の書店がみんなの居場所として様々な工夫をこらしている様子は明るい未来を覗き込むようで眩しい。地域の本屋さんも運営に携わってくれているという。公共と民間の架け橋としての強みを活用していく、という話は確かにとてもいい話だ。

お金もなく居場所もないが時間はある、書店がある、本がある、そこが居場所になっていく、書店にはそういう体験のための幾重もの空間が潜在している。まして八戸といえば、というか青森には寺山修司がいる。

「書を捨てよ町へ出よう」

声に出さずにつぶやいて本をそっと棚に戻し書店をでたい。

さてここは西新宿、手元にあるのは『読書会の教室』。主催者インタビューのあとには「紙上の読書会」も開催されている。この本にあるように読書会には様々な形があるとはいえ、その実際をのぞかせてもらえると読書会初心者としては安心感が増す。

本自体にもそういう機能がある。人と直接向かい合うのではなく、その間に本が置かれるとき、その本はライナスの毛布となってくれるのだ。人と人をつなぐ、現在と過去をつなぐ、世界と異界をつなぐ、移行対象としての本、移行現象としての読書、その共有としての読書会、そういえば私の分野の人にはわかりやすいかもしれない(そんなことないかもしれない)。

この本の最後では本読みのプロたちの対話をきくことができる。登場するのは本と読書の楽しみを伝える名人でもあるのでもう聞いてるだけで満足、と思うかもしれないが、この本は読者を読書会の主催者側に誘う本でもある。憧れをこえて「読書会しよー」と誰かを誘ってみたくなったらこの「教室」での学びはさらに確かなものになるかもしれない。読者に優しい本なのでまずはこの本を使って誰かとやってみてもいいかもしれない。二人でも読書会。その懐は深い。

そして著者のおふたりの丁寧なお仕事ぶりは目次や語り口だけでなく付録にも現れている。巻末の「必携・読書会ノート──コピーして活用しよう」はまだどうしていいかわからない私たち初心者の最初の一歩を助けてくれそうだ。

本の話は楽しい。安心してそれができる場所があればもっと楽しい。相手のなにを知らずとも自然と伝えたくなるそれ、それを伝えることでおのずと発見されるそれ、どれもこれもその場その場で零れ落ちていくものだとしてもそれはそれ。

いずれどこかの読書会で。

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『日本の戦死塚 増補版 首塚・胴塚・千人塚』室井康成著を読んだ。

日本の戦死塚 増補版 首塚・胴塚・千人塚室井康成著を読んだ。これは2015年に刊行された『首塚・胴塚・千人塚 : 日本人は敗者とどう向きあってきたのか 』の増補・改訂版ということで、今回はありがたいことに文庫、といっても私が入手したのはkindle版なので528頁もあるというその厚み、重みを私は感じられていない。実際が何ページであっても常に平面にしか感じられないのがKindleの残念なところだ。だけど内容はずしんと響いた。

「敗者」という単語は文庫版の書名からは消えてしまったが、文庫版ウェブサイトの紹介文にあるように、本書は、”「敗者」の声なき声を記憶にとどめようとする日本人の心意が刻みこまれている” 戦死塚の伝承を誰もが知る歴史的な戦争を素材に時代順に紹介し、戦死者、特に「敗者」がどのような霊的処遇のもと記憶化されてきたのかを示し考察を加えた本である。

著者の「趣味」によって見いだされた戦死塚が柳田国男を祖とする日本の民俗学の膨大な資料のもと検討しなおされ、大河ドラマ以外の歴史(それすら怪しい)をよく知らない私のような読者にもその厚みに関わらず一気に読めてしまう書物として編まれたことに驚くしありがたい。

この本は、まず読み物として面白い。もちろん扱われているのは戦いであり、死、それも戦死、自決、処刑であり、その結果としての首塚であったりする。しかし、著者に導かれその戦死塚の伝承の変遷を知るにつれ、また、だれもが知る歴史上の戦いで命を落とした「敗者」に対する霊的処遇のあり方が、近代にかけて、死んでなお「勝者」と「敗者」を分けようとするしかたに変化していくことを知るにつれ、現代を生きる自分自身がちらつき、心がざわめく。

そして自分たちがいかに自分の声や想いを託す場所を、私の専門領域でいえば投影先を必要としているかも自覚する。本書でのそれは戦死塚という対象を伴った語りであり、それはいずれ伝承となり、時にはその「敗者」の、時にはその土地の人たちの声と共鳴しながら後の時代まで響いたり、怨霊譚になったり、神格として崇められたりという変遷の末、消えていったりした。語り継がれなくなる、塚そのものがなくなる、ということだって実際に起こる。首塚があり「忌地」として恐れられていたその土地が、今や何も経緯を知らない市外の人に買い取られ、アパートが建設されたという話も載っていた。

目に見えないものは本当にそこにはないのかという問いはいつだって必要だ。だけど私たちは自身の考えと矛盾したり、信念が脅かされるくらいなら今目の前にみえるものだけ見ていたい、という心性ももつ。

「勝者」「敗者」というのも、括弧つき以外ありえないだろう。それはその戦争において、という条件つきである。にもかかわらず、もし「戦争を知らない子供たち」である私たちが、著者が言うように「男/女、成人/未成年、親族/他人、健常者/障碍者、国民/外国人、正規/非正規など」「属性を峻別していく苛烈さ」から逃れようとしないとしたら、、、ということも考えさせられた。

著者は歴史的真贋ではなく伝承を重視したという。敗者の声はどう奪われ、どう記憶されてきたか。「その声なき声に耳をそばだてること」、それは私たちひとりひとりに潜む「勝者」と「敗者」の対話をも導くかもしれない。私たちは自分を「敗者」だと言いながら誰かに対して「勝者」であろうとすることもしばしばだ。果たして私たちは何者として何を伝承していくのだろう。

文庫版に加えられた「補章 彼我の分明──戦死者埋葬譚の「近代」」の結びの言葉もこの本の重みを増しているようだった。歴史から学ぶ、単に事実からではなく。反射的に反応するのではなく。

本書はその試みを手助けしてくれる一冊だと思う。

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『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』清田隆之(桃山商事)著を読んで

自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと

長い。書名が。しかしそのままの本だ。「一般男性」が括弧つきである理由は「はじめに」を読めばわかる。読み終えると「男らしさ」にも括弧をつけたくなるかもしれない。

著者の清田さんは「桃山商事」という恋バナ収集ユニットの代表だそうだ。主に女性たちの話をたくさんきいてこられた。

こんな記事もありました。ユニーク。)

そのなかで著者は、彼女たちが発する「男の考えていることがよくわからない」という声に賛同し、この本ではその男性たちが「何を感じ、どんなことを考えながら生きているのか、その声にじっくり耳を傾け」る作業を行っている。もちろん、著者が聞いた女性たちの「男の考えていることがよくわからない」という声は、特定の男性を思い浮かべるところに端を発していると思われ、本書に登場する男性たちもその彼女たちの特定の相手ではない。しかもたった10人の男性たちが「男の考えていること」を代表できるはずもない。自身でインタビュアーも務めた著者も当然そこに「それぞれの人生」という固有性を見出す。しかし同時に「驚くほど似通った価値観やメンタリティが浮かび上がってくる瞬間」も多く体験したという。

読者が本書を読んでそれを体験するかどうかはわからないが、私は読んでいてそれぞれの語りごとに思い出す顔があった。このインタビューは、著者の細心の注意によって加工されている。私たちの仕事における多くの症例報告がそうであるように、そのような加工は素材の生々しさを剥ぎ取り、第三者に伝わりやすい形にそれを変形する効果がある。つまり、こうして抽象度をあげることでより多くの人がそこに自らの体験を投影しやすくなる。私が自分の知っている顔をどの話に対しても思い出したように。本書の表紙のイラストにもそのような意図があるのだろう。三十三間堂で自分に似た顔を探せてしまうのも私たちのそういう性質ゆえだ。

とはいえ、このインタビューは「男性たちの正直な気持ちを知ることを目的とするため、質問や相づち、個人的な価値判断などは一切入れず、それぞれ「語りおろし」という形でありのままを伝えられたら」という考えのもとになされたと書かれてもいる。誰もが知るようにありのままという言葉は厄介だ。このありのままにも著者自身が即座に括弧をつける。言葉は語られてしまえば独り歩きする。「ありのまま」にはあっというまに色がつく。ある人にとっては我が事のようであり、ある人にとっては普遍的な事柄として、あるいはある人にとっては、、、と。

昨年『ヘルシンキ 生活の練習』(筑摩書房)という大変軽妙で悩ましく、しかし他者と社会の中で生きる希望をくれる本(必読!)をだされた社会学者の朴沙羅さんの『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)という本がある。私も仲間に勧められて読んだ。朴沙羅さんの父親は在日コリアンの二世で、母親は日本人だ。父は10人兄弟の末っ子、つまり朴さんには在日一世の9人の伯父さんと伯母さんがおられる。この本は、その「面白い」伯父さん、伯母さんの生活史を聞き取り考察を加えたもので、在日コリアンの人の歴史を知る上でも必読だと思うが、聞き手と語り手の呼吸や語り口、その場の空気が伝わってくるかのような生き生きとした書き方がとても魅力的で、「声」で語ること、それを聞くことを大事にしたい、と改めて思わせてくれる本だった。

一方、この『自慢話でも武勇伝でもない~』は先述したように、一切介入をしないという方法をとっている。そのため、文章がさらさらと流れ「読み」やすく、ひとりひとりの語りが発生する土地の違いのようなものを感じることはできるが、あまりによどみなく、彼らがそれぞれ異なる形で体験したであろう様々な情緒に直接的に心揺さぶられることはなかった。これは著者が「プライバシーの保護の観点から」彼らの語りを加工したせいではないだろう。20年近く、非常に多くの人の語りを聞いてきた著者には相当の具体例の積み重ねがあり、それはこれらの加工によって抽象化されたとしてもそのリアリティを失うことはないだろう。だったら、もしかしたらこのよどみなさこそが、著者が出会ってきた女性たちがいう「男の考えていることはわからない」ということと関係しているのだろうか。わからないが、私には形式の作用というか効果が大きい気がした。

著者は、10人の男性のインタビューの後に得た印象をそれぞれの語りの後に記している。その短い文章が挟まれることで、私たち読者は今読んだばかりの男性の語りに個別具体的な印象を見出すことができる。

著者は、この男性たちの語りはこうだが語られた側からしたらそれは別の語りになるかもしれない、という可能性を常に考慮に入れている。「おわりにー「感情の言語化」と「弱さの開示」の先にあるもの」で、著者は自分が「多数派という枠組みの中で守られ、様々な優遇や恩恵を知らぬ間に享受してきた“マジョリティ男性”だった」ことに気づくまでの著者自身のプロセスを書いている。そして「男の考えていることがよくわからない」と言う女性たちがいう「男」とは「この社会のマジョリティとして生きてきた男性たちではないか」と言う。

著者自身の言葉は少ない本書だが、男性に対しても女性に対しても一貫して流れているのは、これらを読む女性たちのこころの動きに対する配慮に加え、たとえ“マジョリティ”であったとしてもそこに潜むそうではない部分、いわばその人だけが持つ感じ方や考え方、あるいは体験に侵入しないようにという配慮のように感じた。私にはこの配慮が、介入を控えるという形式を採用したことと通じているように思えた。

もう少し具体的に書いておく。もし、彼らの語りがいかにも特定の相手に向けた形で対話の形で記述されたとしたら、著者が危惧するようになんらかのトラウマに触れる可能性は強まるだろう。特に、性が軽んじられたり、暴力的な関係においてはそれらが身体に与えるインパクトに比して言葉は貧困でパターン的になりがちだ。女性たちの「わからない」という言葉が傷つきの体験を伴う場合、その体験の再現にさえなるかもしれない。しかし、本書では彼らの語りを聞く相手の存在を意識しないですむため、読者は自分のペースや距離感でその語りに接近することができ、受身的に内容だけを取り込みながら読み進めることもできる。つまり、話されている内容が陰影や情緒で膨らむには読み手の能動性を発動させる必要があり、読みながら急激に自分の体験を近づけてしまうような、自動的に何かが生じてしまう危険性は遠ざけられる。少なくとも男性同士の対話として記述されるよりは、と思った。

私は、最初、それぞれの語りに対して「これって男性に特有のものなのかな」などと思いながら読んでいたが、身体性の関わる描写が増えるにつれ、違いはたしかに存在するし、お互いの想像力と対話が欠かせないことも改めて感じた。

著者の言葉は、内省的でシンプルで中立的で柔らかい。私が感じたように、読者がするかもしれない負担が減っているとしたら、直接彼らの話をきいた著者のこころがたくさんの作業をしてくれたおかげかもしれない。ただ聞く、というのはなかなかできることではない。

さて、題名に戻るが、もし、男性の話が「自慢話」や「武勇伝」に聞こえるとしたらそれは固有の事情以前に歴史も関係していることも意識できたらと思う。朴沙羅さんの本でもそれを学んだ。そしてもし「生きづらさ」を感じるとしたら、その歴史に対してあまりに受身的に巻き込まれているせいかもしれない、とも考えてみたい。

「らしさ」というのは曖昧なものだ。それをめぐってあれこれするよりも目の前の相手や状況に対する自分のあり方に少し注意をむけてみるのもいいかもしれない。自分が何者であるかはすでに内からも外からも規定されているかもしれないが、結局はなにかひとつの分類におさめられるものでもないだろう。そして自分のことをこうして静かに聞いてくれる誰かに話す機会を持つことの重要性も思う。たとえそこに多くの間違いがあったとしてもそれはたやすく個人の問題に還元できることではない。小さな声で届く範囲でなされること、それがより広い視座をもたらしてくれる可能性はこうして実際にあるのだから。

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習慣

本を読みながら歩いてくる小学生がいる。片時も目を離せないかのように、もうすっかりその世界に入っているかのように、すれ違ったことにさえ気づかずに(多分)そのままの姿勢で歩いていく。

うまく避けるものだな、あるいはこちらが避けているのか、人間の視野は広いんだか狭いんだかわからないからな、など思いながら私も歩き続ける。

大きなリュックを前に抱えて指で小さくトン、トンとしながらiPhoneを見ている人がいる。それは最近の私。iPhoneに入れたKindleで本を読んでいるのだ。そんな習慣なかったのに。いちいち老眼鏡を出すのもめんどくさいから歩きながら読むなんてことしなかったのに。不思議だ。なぜか。

ひとつはそうでもしないとなかなか本を読む時間がないということ。ただこれは私がなんでもかんでも読みたくなるからであって、むしろ早く読んでおしまいなさい、という本を落ち着いて読むべき、と毎日自分に注意しているけれどなかなかいうことを聞かない。

もうひとつはiPhoneを新しくして容量が増えたのでたくさん本を入れておけるようになったということ、本来メインで使おうと思っていたKindle paperwhiteよりも動作が早いということ、索引に載っていない自分的キーワードで検索したいときが多い私にとっては大変便利であるということ、そのままツイートもできるし(私のツイートは大体メモ置き場)何よりiPhoneの画面は小さくて(文字も大きめ設定)1ページに収まる文章が少ないということ。「もうひとつ」と書いたのに一気に書いてしまった。

あ、なぜ1ページに収まる文章が少ないとよいかというと英語で読むときは構文がわかりやすいし、没頭しすぎて轢かれたりぶつかったりすることもなく適度に外に注意を向けていられるから(もちろん意識的に注意もしている)。

デメリットについては以前すでに書いた。マルジナリアを使えないことと段落番号をどんどん振っていく作業がしにくいこと。

まあ、こんなことを書いている場合でもないのだが、今夜は数年前から続けているオンラインのフロイト読書会のアドバイザーをつとめる日でPC前に待機していたので、習慣って変わるんだな、と思い、もちろん他にもさまざまな要因が絡みあってのことだとは思うが、これからも変わるであろう習慣の記録として(というのは今思いついたことだけれど)なんとなくピン留め的に書いてみた。

参照

『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(2020、山本貴光、本の雑誌社)

https://www.webdoku.jp/kanko/page/4860114450.html

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中吊り、立花隆、ノスタルジー、そして偶然性

「週刊文春」が2021年8月26日発売号を最後に中吊り広告を終了するという。

たまたまだが、先日読書会にきてくださった(オンライン)『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』著者の吉川浩満さんが「私の読書日記」という連載を担当している号である。さすが(?)「偶然性」をおす吉川さん。

ちなみに吉川さんが連載に参加したのが2020年8月27日号だという。これもTwitterで知った。そして執筆陣のひとりに立花隆の名前がある。ご存知のように立花隆氏は2021年4月30日に亡くなった。多分「週刊文春」の中吊りが終了することも知らずに。いや、知っていたのかもしれない。わからない。彼もデジタルを使いこなしていたのだろうか。私の記憶(イメージにすぎないかも)ではいつも紙媒体を手に外にいるか、積まれた本のなかでやはり紙媒体をもっている姿しか思い浮かばないのだが。

そういえばこの立花隆追悼のムック本(っていうのかな)にも吉川さんは書いているという。これもTwitter情報。

今回、「私の読書日記」は「ペンギン、恋愛、偶然性」ということで数冊の本がとりあげられている。紹介されている本は吉川さんのツイートをチェックすればわかる。私からもおすすめしたい本がとりあげられている。

私は「週刊文春」を読んでいないのでそこになにが書いてあるかはわからないけれど、紹介された本の訳者の方のツイートなどをみると「こういうことかなぁ」と推測できたりする。というように、やはり時代はデジタルなのだ。自分の目で確かめなくても誰かが断片を呟き、書き手、売り手、ファンたちがそれをすぐに拡散し、画面をみれば1分もかからずそれらを目にすることになる。そういう時代だ。

いや、そういう時代なのか?

大体私は読んでいない。どうして断片から想像してわかったような気になっているのか。まったく違うことが書いてある可能性だって十分あるではないか。でもなぜか本屋に走るような衝動も生じない。読もうと思えば「週刊文春」は電子版をはじめたらしいし(中吊り広告にかかった費用がかなり浮くらしいし)。いや、電子版も読まなそうだ。私の好奇心はデジタルの情報である程度満たされてしまった。食べ物の絵を見て空腹を満たすのとはわけが違う。断片であっても複数の人間が呟いていれば紙媒体の情報とそれほど変わらないだろう、内容だけを掴むのであればの話なら全部を見る必要はないのかもしれない。

中吊り広告はどうか。

両手で吊革につかまって中吊りを見上げている姿を目にしたことがある。当時は話したこともなかったけれど今はお世話になっている先生と偶然同じ車両に乗っていたのだ。先生は力の抜けた様子でぼんやり中吊りを見上げていて少し子どもみたいだった。この日を境に私の先生に対するイメージは刷新!、というほど大げさなことではないが、なんだか中吊りのテンションってこういう感じがする。実際、いろんな話をするようになった今は中吊り以前のイメージは私の投影にすぎなかったとわかる。

また、私はあの見上げる形式の広告が満員電車での小競り合いの数パーセントを減らす役割を果たしていると主張したこともある。私は背が低いので電車内で痛い目にあいやすい。そんなとき近くの人が中吊りに魅入ってくれているとほっとしたものだ(まだ過去ではないが最近満員電車に乗っていない)。

中吊りには独特の魅力がある。TwitterなどSNSはわりと正確な引用がされていることが多いが(発信元が書き手、売り手、ファンの場合)、中吊りにあるのは「見出し」ばかり。毎号異なる出来事についての見出しが躍っている、はずなのに毎号同じテンションを感じるのも面白いところだ。写真の大きさの違いや並べ方も戦闘的で興味深く、序列を知らせつつも勝敗の決まらぬ世界がそこにはある気がして読者の投影を気楽に引き受けてくれる。私の場合は、それをみても駅の売店や本屋に駆け込もうとはならないがちょっとのぞいてみたいな、という好奇心を維持させる効力がある。誰もが見出ししか知らないのに「見た見た」とお昼のおしゃべりがもりあがったことだってある。要するに情報の重みづけがとても効果的にされているのだろう、今思えば。

うん。やはり業界トップクラスのこの最後の中吊り広告はみておかねばならない。デジタルでではなく、本物を、つまり電車の中で。しかしコロナか(禍)。

立花隆は亡くなり、中吊り広告も終わる。だからなに、というわけではないが、若者に「昭和?」ときかれて「そう」と答える私はそんなにすぐには新しいものには馴染めない。変化を感じるたびにノスタルジックになる。それにしても「昭和?」って聞き方もどうかと思うが。同じく昭和生まれの仲間は取入れ上手で古いものとも新しいものとも上手に付き合っているけれど、私は紙媒体が好きだ。

3.11から間も無くして佐々木中さんの講義に出たことがある。彼は書物の価値を真剣に語っていた。もちろん彼の『夜戦と永遠』におけるルジャンドルを引用した議論はもっと複雑なものだけれど、確かに震災からまもなくの5月、私が石巻で目にしたのは横倒しになった家と水溜りに散らばった年賀状だった。映画「つぐない」において引き裂かれた二人を繋いだのは手紙であり、二人を引き裂いた罪悪感に苦しむ主人公が生きるためにしたのも書き続けること(=読まれ続けること)だった。

話が逸れた。中吊りにはお世話になったんだな、とこう書いてみて思う。出来事はできるだけ正確に伝えてほしい。それはどの媒体に対しても同じことだ。しかし、中吊りは中途半端で大雑把な情報を派手な形で切り取ることで大衆である私たちの注意を引きつけた。だからこそ私たちはそこに含まれるある種の嘘っぽさを前提にそれと触れることができた。中途半端な優しさより嘘とわかる優しさのほうがこちらを戸惑わせないこともある。これは恋愛の話でもあるかもしれない。

吉川さんが取り上げた本『南極探検とペンギン』。こちらはぜひお勧めしたい。ロイド・スペンサー・デイヴィス著, 夏目大翻訳、原題はA Polar Affair: Antarctica’s Forgotten Hero and the Secret Love Lives of Penguins。ペンギン’s affair相当びっくりな本で、生と性を語るのは精神分析以上に南極とペンギンなのかもしれない、と思わされたりもした。

こちらはツイッターと違って推して知るべし、ではない断片からは描けない世界が広がっていた。本来は全ての出来事がそうに違いない。「偶然性」に身を委ねること、おそらくペンギンだって恋愛だってそうなのだろう。