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俳句 読書

旬を味わいたいな、と思って草間時彦『食べもの俳句館』(角川選書)を開いた。

「六月は梅雨。関東地方の梅雨入りは六月九日ごろという。」と読み始めて、あ、もう7月、と少し先のページに移動する。この本は1月から順番にページが割かれているのだ。

冷奴、鮒ずし、朝餉、冷酒などなど上段に並べられている季語を眺めるだけで美味しい食卓が見える。

鮒ずしの季語はとても懐かしい。もう何年が過ぎたのか。まだ何も知らなかった。知ればご一緒するには気が引けていただであろう大きな俳句結社のみなさんとの鮨屋での句会。友人が連れて行ってくれた。どなたの句か忘れてしまったが鮒ずしと雨を取り合わせた一句をいただいた。似たような湿度と匂いを感じてとてもお似合いの素材だと思った。まだ句会のルールも何も知らなかった頃。とてもとても懐かしい。

さて7月(p136〜)には16個もの季語が並ぶ。

6月は?とページを戻すと泥鰌鍋、莫迦貝、新生姜(この二つはセット。一杯屋下物莫迦貝と新生姜 石塚友二)など7個。

7月のエッセイはこう始まる。「立葵の赤い花は下から咲き昇って行く。花が天辺に達したら梅雨明けだというのは、昔からの言い伝えである。」なんて素敵なんだろう。6月を読み直す。

「六月は梅雨。」ふむ。そうだね。7月の方が断然好きそうだ、作者は。

冷奴隣に灯先んじて 石田波郷

もいい。しかし、

朝餉すみし汗やお位牌光りをり 渡辺水巴

が気になった。

「戦争前の東京の中流の家庭の姿をよく見せてくれる一句である。」とこの朝餉の場面を描写する時彦。水巴は「黒胡麻はお気に召さない」そうだ。

ここで水巴のことを調べ出してしまい、とりあえずメモのようなTweetを残して仕事へ行った。

わたなべすいは。1882(明治15)年、東京都台東区に生まれ、1946(昭和21)年、強制疎開で移った藤沢市鵠村で没。父は近代画家の渡辺省亭。妹のつゆは水巴と同じく俳人である。

内藤鳴雪に師事後、復活した『ホトトギス』雑詠欄で虚子に見出された。主観の尊重を説く「主観句に就いて」という拝論も発表しており、虚子には「無情のものを有情にみる」と評された。

同時代の俳人としては村上鬼城、飯田蛇笏、前田普羅、原石鼎が輩出、大正の興隆期だった。水巴は1916(大正5)年に俳誌『曲水』を創刊・主宰、俳人以外の職業につかず、生涯それを貫いた俳人だった。

という。それぞれの俳人がそれぞれの時代を生き、食べ、俳句を作り、生活をする。

冷酒の氷ぐらりとまはりけり 飴山 實

水飯のごろごろあたる箸の先 星野立子

ルンペンに土用鰻香風まかせ 平畑静塔

などなど。

食べ物の句は美味しそうでなければいけない、と言われる。

それは見栄えや味だけではない。音、香り、感触、空模様、全てがその時々の食べ物を作っている。

もうこんな時間だ。明日は明日の朝餉あり。ありかなしかも人それぞれか。まずはどうぞ良い夢を。

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読書

忘却と疲労

ブラインドの傾きを変えると部屋が少し明るくなった。でもほんの少しだけ。今日も雨。のっぺりした薄いグレーの空が遠くの方まで広がっている。色々なところで色々な音を雨がたてる。降りこんでくる感じではないので窓を開けたままにする。

この一年以上、移動範囲、行動範囲をごく限られたものにするという不自由に驚くべき順応力で、それぞれが「我慢」をし、新しいウィルスに、というか事態に対応してきた。

保育や介助、介護が必要な世界では物理的な距離を取ることはそれ自体が相手の生死に関わる。それでも見えざる力による行動制限のなかそれらを行うことはこれまでごく自然にされてきた「ケア」に対しても躊躇や再考を促した。赤ちゃんを抱っこしないことなどありえない保育園を巡回している私も保育士の皆さんとさまざまなことを話した。身体に関われなければなにもできないという苛立ちや焦燥感は、ニードとニーズの境界を明らかにした側面もあるかもしれない。ここで今、自分ができることはなにか、関わらねば死んでしまうとしたらなにをどうやって?関わらないでなにかを成しうるならどうすれば?

触れたそばから拭き取られ消毒を求められる日常は、私たちの生活の一部をひどくのっぺりしたものに変えた気がする。今朝の空みたいに。「しかたない」という言葉が理由になる日常で、どうにか、少しでもできることをともがくのはひどく疲れる。しかしそれをしないとコロナにかからずとも生活が危うくなるかもしれない。どうすれば、どうすれば、と頭を働かせようとすればするほどぶち当たる無力感。もうどうしようもないのでは、という疑念が確信に変わっていくのを感じつつもそれを止めるにはあまりにも希望が足りない。あまりに自由が足りない。だんだん頭がぼんやりしてくる。オンラインで笑いあって画面を閉じたあと、また空虚と出会い無表情の自分と出会う。まるで生きるか死ぬかの二択を常に突きつけられているロボットみたい、と感じることもあるかもしれない。でも私たちにはこころがある。といったところで「こころ」って?と思うなら感覚でもいい。とにもかくにも私たちはひとりひとりみんな違う。感じるのは自由なはずだ、と自分で自分に言い聞かせる・・・

人間にあってAIにないもの、世阿弥において無主風から有主風を生み出すもの、それは忘却と疲労だと能楽師の安田登さんはおっしゃっていた。記憶については私もこの一年で数冊の本を買った。多方面からの知見が続々と積み重ねられている領域だ。しかし、なるほど疲労か。人間を人間たらしめているもののひとつにそれがあるとしたら、私たちは見えざる力による制限に疲れ、ぼんやりと曖昧な状態にあることでカッコつきの「正解」に向かって突き進むことを回避できているのかもしれない。

「疲れた」、この言葉がこれだけたやすく共有できた日々などあっただろうか。すぐに励まされたりなにかいわれることなく「ねー」と疲れた声を出しあえる基盤をこの事態はもたらした。「消毒疲れ」といっても説明なく通じるようになった。「疲れた」、力なく、ダラダラと、無力と疲労を表現すること。私たちはそうやってこれまで積み重ねてきた記憶が新しい情報や枠組みに乗っ取られることから自分を守ってきたのかもしれない。新しい情報は進化において定着してきた記憶よりも忘却されやすくはないだろうか。今日の稽古も疲れた。もう途中から師匠の言葉が入ってこなくなってしまった、でも身体は動く。自分には染み付いた記憶がある、と。

それぞれのペースでそれぞれの日常を。取り返すというよりは少し別の仕方でぼんやりと過去に浸りながら。変えられてしまうのではなく急がず少しずつ変わっていく自分を感じられたら。多分、この期間、それぞれがなんとかやってきたという事実が支えてくれる。そうだったらいいなと思う。

ちなみに安田登さんの新刊『見えないものを探す旅ー旅と能と古典』もおすすめです。試し読みはこちら

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精神分析 精神分析、本 読書

友人が好きな歴史小説を教えてくれた。早速Kindleで買って読み始めた。本に限ったことではないが、その世界全体を見渡そうにもそれは海を眺めるようなもので「ここからみた景色が好き」と連れて行ってくれる友人はありがたい。ありがとう。

一方、ただ海を眺めるときの様々な情緒の揺れや混じり合いは独特でほかの行為では得難く時折とてもそれを欲する。

歴史小説にあまり馴染みがないせいか、まずは登場人物の関係図が頭に出来上がるまでに時間がかかってしまった。まぁこれも歴史小説に限ったことではないが、私の場合。

時代ものと言えばいいのだろうか、私は藤沢周平を敬愛しておりいつも手元に置いている作品がある。以前、ここかどこかでそれについて書いた気がする。

同じ土地に生きていてもそれぞれの日常がある。それはごく当たり前のことだ。

藤沢周平の作品でもモチーフ自体が斬新だったり、いつも何か新しいことが起きるわけではない。どれもこれも小さなまちで寝起きしている男女の日常が描かれているだけ、といわれればそんな気もする。しかし、彼らは生きている。激情を、諦めを、嫉妬を、殺意を、愛しさを。

海が海でしかないように言葉にしてしまえばそれはそれでしかないのかもしれない。それでもそれは「それぞれ」のものでこころ模様ほど多様で複雑なものはない。

藤沢周平の流麗な文章は、めくれたりとじたりする「それぞれ」のこころのひだを私に体験させ沁み渡らせる。

歴史も海も人も全体をみわたそうとすれば途方に暮れる。

精神分析を体験している人はその途方もなさに唖然としたことがあるだろう。自分のこころなのにあまりに・・。

精神分析は、毎日のようにカウチで自由連想をすることを基本原則とした。だから今日、せめて明日、刻々と色合いを変える自分のこころの「今ここ」の描写を、ひとりでは難しいからふたりで、と考えた。

途方もない自分のこころの全体性あるいは潜在性を信じ、自分自身に丁寧に関わることでこんな困難よりは少しはましな生き方をしたい、そう願う人は少数かもしれない。なぜならその営み自体もまた困難を伴うから。

藤沢周平は、自分のこころの動きに押し潰されそうになりながら小さな理解と小さな諦念のもと悲しみと清々しさと共に小さな一歩を踏み出す「普通の」人たちを生き生きと描き出す。

傷つきや困難を伴わない関係性などおそらくないのだろう。

海を見たい。いずれいつかの週末に。少し足を伸ばせばいける場所にあるのだから。

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精神分析、本 読書

『ウィトゲンシュタインの愛人』を読み始めた

デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦訳、国書刊行会、2020)を読んでいる。隙間時間にパラパラしているのでなかなか進まないけれどとっても好きな書き方でワクワクする。

Kindleの不便なところ、あ、これ早く読みたくてあまり得意でないKindleで買ってしまったのだ。そうそうKindleの不便なところ、1、マルジナリアに書き込みできないこと。2、紙の本とページが対応していないところ。

デバイスや設定によってページ数も変わっちゃうし。大きい字にできるのは老眼にはありがたいけど。

でもこの本はKindleでよかったかも、私には。

主人公の語りはさながら自由連想。夢を語るように自由に景色を行き来する。この世界はこの主人公だけのものだ。今のところ圧倒的に孤独な。身体の変化だけがかろうじて時間に一貫性を与えているようだけどそれもずいぶんぼやけてきたらしい。豊かな知識で一見饒舌な語りだがとてもとても乾いている。何が燃えても彼女には風景の一部だ。しかし時折情動に突き動かされたかのような様子も見せる。一体、この話はどこへ進んでいくのか。進むのを拒むように揺れ動く景色。

こういう書き方が私はとても好きだ。好きな接続詞がいくつも出てくる。あぁ、この書き方がとても好きだ、と読み始めてすぐに思った。そしてKindleでよかったと思った。

もしかして、と思って、ちょっと先走って検索してしまった。やっぱり、と嬉しくなった。好きな接続詞がたくさん使われている。こういうときKindleって便利だ。どんな単語も検索ができる。

もちろん翻訳だから元の単語はわからないけど、木原善彦さんの翻訳は山本貴光さんと豊崎由美さんがとてもいいといっていたからとても信頼できる。信頼の連鎖。

本の読み方は色々あるが、山本貴光さんが『文体の科学』か『マルジナリアでつかまえて』で私と同じような、いやもっとずっとマニアックな方法で本を全方向から楽しんでいるのを知ってとても共感した。無論あちらはプロの文筆家でありプロのゲーム作家なのでその緻密な方法には驚くばかりだ。

山本さんは吉川浩満さんと「哲学の劇場」という動画も配信していてそこでも本の読み方について話していた。

ちなみにこの『文体の科学』もすぐにほしくてKindleで買ってしまったけど山本さんの本は紙の本で買うべきだった。わかっていたはずなのに欲望に勝てなかった。せっかく載せてくれている資料がKindleだと全然楽しくないことを学んだからいいけど。失敗から学ぶことばかりだ。

ばかりだ、と二回使った。

早朝から家事を済ませ、こうして短時間書く作業はとても楽しい。この時間に読めばよかった、と今気づいたけど。

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『新プロパガンダ論』

ゲンロン叢書008『新プロパガンダ論』について早朝から呟いていた。2018年4月から2020年9月にかけて、辻田真佐憲さんと西田亮介さんのお二人がゲンロンカフェで行った5回の対談が書籍化されたのがこちら。この間に何が起きたかを私たちは共有しているだろう。ウィルスによって。

辻田さんの「辻」は本当はしんにょうに1点なんだけど2点しか出ないからすいません。本当は1点のしんにょうの「つじ」さんです。

ところで、私は対談がそのまま掲載されているような本は、対談形式が多い著者以外のはあまり好きではないが、この本は書籍化に伴い大幅に加筆修正がされたという。というか大抵の場合、そうだと思うけどそうでないものもあり、雑誌ならともかく書籍だとなんだかなとなる。

内容についてはすでに呟いてしまったので書かないけど、書籍の一部はネット上で読めるので関心のある方はチェックを。私はとても関心があったのでゲンロン友の会に入っていると選べる本の中からこれを選んだ。表紙もカラフルでポップ(ポップの意味を本当はよくわかっていないけど)で置いておくだけでもかわいい。

でも置いておくだけにしないで読んだ。辻田さんは朝ドラ「エール」の時代考証(?)的つぶやきが好きでみていたのだけど、近現代史の研究者なんですね。西田さんは公共政策の社会学がご専門だそう。

この本、「プロパガンダ」というやや古い、しかもネガティブなイメージを伴う言葉を巡って二人が語り合っているわけだが、「新」と書名につくだけあって、この言葉がこの数年で生じた出来事を眺めるときのちょうどよいフレームになってくれる。

というより、お二人、とくに辻田さんがこの言葉の使い方がとても上手なのだ(西田さんはあえて使っていない)。議論を狭めるためではなく、広げるためにこの用語を使い、結果的にこの用語自体がもつイメージに曖昧さを与えることに成功している。少なくとも私はこの用語ってこうやって役に立ってくれるんだ、という感触を得た。

知ったり、学んだりすることが何かに気をつけることばかりにつながりがちな気がする昨今、情報を自分の自由な思考のために使えるようになりたい。

プロパガンダ、要するに情報戦略だが、それがどのように人のこころに入り込み、行動変容を促してきたか。精神分析的臨床の世界でも患者やクライエントと治療者がオンラインで出会うようになった。それだけではない。セミナーなどのオンライン化で彼らをオンラインにのせることになった。私たちは彼らをどのように表現していくのか。

私は、特に臨床家が対談をそのまま書籍化することが好きではない。これらは同じ問題意識から生じている感覚だと思う。話し言葉と書き言葉は違う。ともにいる場で話される言葉と身体が別々のところで話される言葉も違う。

コロナ禍の「利用」も言い方を変えれば悪いことばかりではないだろう。経験から学ぶ、という点ではたしかにものすごく気持ちを揺さぶられ、思考を促される体験だった。そこにどういう形を与えていくか、それをなんらかの合理化のもとに情報戦略として利用するか、空気感で忖度を迫るものたちに対して冷静に思考を維持できるか、どれも人のこころをどれだけ普通に慮ることができるかという話かもしれない。

辻田さんの冷静で率直な語り口は、西田さんがいうとおり「優しい」と思った。西田さんの政策に関する話は非常に勉強になった。よい対談だった。

そして以前『ゲンロン』に掲載された「国威発揚年表2018-2020」も加筆されていた。この対談が行われた期間は加筆せざるを得ない数年であり、それは今も続いている。今回「プロパガンダ」という用語がそのイメージに反していろんな世界を見せてくれたように、情報を単なる情報として受け取った結果、ダメージを受け、思考停止に陥るのではなく、情報が単なる情報である可能性を踏まえ、あれこれ考えることを意識するにはとてもタイムリーな本だと思う。

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『往復書簡 言葉の兆し』

「言葉は浮くものです」と古井由吉は佐伯一麦への手紙に書いた。日付は2011年7月18日とある。

東日本大震災後まもなく2011年4月18日からはじまったお二人の往復書簡。

「それにしても「創造的復興」とか「絶望の後の希望」とか、「防災でなくて減災」だの、これはもう絶望の深みも知らぬ、軽石にひとしい。」

「生きるために忘れるということはある。しかしこれは、忘れられずにいることに劣らず、抱えこみであり、苦しみです。風化とはまるで違います。」

古井由吉は空襲を体験し戦後を生々しく肌に感じながら書き続けた作家だった。

ラカンが示したように、作家は精神分析が明らかにするまでもなく、事の本質を知っている。古井由吉の言葉には怒りが滲む。

あれから10年。私は何も変わっていない。ただ歳をとった。多くのものを失った。

私ひとりを抱えられない言葉で私は誰かのこころと何ができるのだろう。軽石のような言葉に傷つき浮かんでこなくなった言葉とどうやったら出会えるのだろう。

あれから10年。その事実の重さをそれぞれの小さな肩に感じながら生きる人たちを支えるのはなにか。私には想像もつかない。それがあることをただ願うばかり。そしてせめて私が軽々しく人の尊厳に踏み込まないように。

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精神分析、本 読書

ヒトの言葉

毛布みたいなロングスカートと静電気とともに帰る。

見出しだけでウンザリするようなニュースを読むべきかどうか迷って結局読まないまま電車を待つ。

静かな空。東京の空は暗くない。

こうしてなんとなく言葉を書きながら川添愛さんの『ヒトの言葉 機械の言葉』をぼんやり思い出す。

言葉がもつ曖昧さを処理する私たちの無意識。AIには困難なこと。私たちは「ヒト」だよね?

心底ウンザリする言葉には本来言葉がもつ力がない。何を言っても無駄だ、そんな言葉ばかり浮かんでくる。

そんなとき私はヒトだよね、と確認したくなる。

これ以上は、と感じるときAIのようになれたらと思うけど何も感じなくなるのは嫌だ。

人間の言葉はもっと難しくて複雑なはずで私たちはそれとともに生きていけるはず。

これ以上は、と思いつつ日常の一切はまだまだ言葉になっていないことに希望を。

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読書

「この道」

新宿西口駅から都庁のほうを改めて写真にしてみると未来都市っぽいです。

2020年のままの記載があるのも。

過去が本当に過去になるなんてありうるのでしょうか。

昨年2月、敬愛する作家、古井由吉が亡くなりました。

彼の言葉を引用します。

生きているということもまた、死の観念におさおさ劣らず、思いこなしきれぬもののようだ。生きていることは、生まれてきた、やがて死ぬという、前後へのひろがりを現在の内に抱えこんでいる。このひろがりはともすれば生と死との境を、生まれる以前へ、死んだ以降へ、本人は知らずに、超えて出る。

古井由吉『この道』からの引用です。

先日、帰宅してテレビをつけたらエヴァンゲリオンをやっていました。

もう20年以上が経つのですね。

当時は結構熱狂して全て見ていました。

今回、14年間、眠り続けたシンジが目にした廃墟、

昨日、新宿西口駅から都庁の方へ歩きながらその場面を思い出していました。

ここは未来都市のようで廃墟、あるいは墓場だ。

そんなことを考えながら都庁に大きく張り出された2020年のオリンピックの広告を眺めながら通り過ぎました。

都庁は淀橋浄水場が破壊された跡地です。

そして古井由吉の言葉。

「とにかく、死はその事もさることながら、その言葉その観念が、生きている者にはこなしきれない。死を思うと言うけれど、それは末期のことであり、まだ生の内である」

過去の定義の難しさは死のそれと同じであるように思います。

瓦礫、廃墟、墓場という言葉は被災地へも心を向かわせました。

もうすぐ10年、以前もここで取り上げた小松理虔さんの文章をゲンロンβで読みました。「当事者から共時者へ(9)」。多くの人と共有したい記事でした。

Facebookに載せましたが今日、辛夷の蕾が膨らんでいるのをみました。花も何輪か咲いていました。

過去がなんであれ、死がなんであれ、今年も真っ白な花が咲く場面に出会えました。

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老眼鏡

今年は美味しい柿にたくさん出会えているけど美味しい林檎になかなか出会えません。どうしてかしら。

老眼鏡をはじめて使ったのは何年前だったでしょうか。ずっと目がよかったので見えなくなるという体験には戸惑いました。そして老眼鏡の効果に驚きました。でもその効果もまた薄れてきてしまってまた度数をあげなければという感じです。

老眼になってから本当に資料や本を読むのが億劫になってしまいました。画面上で拡大したとしても、画面の文字はそれはそれでこうやって見にくいのですよね。慣れないとでしょうけど。

若いうちにもっと読んでおけばよかった、と思うときもありますが、読んだからどうだったか、と考えるとなにかがそんなに変わったわけでもないような気もするのでこうやって生じている老いに身を委ねながら日々の不便を感じ、道具の便利さに感謝し、人の助けに気付きながらやっていけたらいいのかな、と思っています。

今朝の柿も当たりです!朝焼けもきれいだったし、よい一日になりますように。

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『哲学の先生と人生の話をしよう』

『哲学の先生と人生の話をしよう』國分功一郎著、初版は2013年、朝日新聞出版社。文庫版も今年でたが、初版本は表紙のイラストが素敵。シュッと知的な感じのイラストは國分さんに似ていなくもないけど國分さんは目を細めて優しく笑う。

「明快」といえば國分さん、と私は思っている。これは「わかりやすい」という意味ではなく、はっきりと話すということ。この本での応答ぶりも明快。痛快でさえある。

それにしても初版2013年には驚いた。私たちの子育て支援のNPO「しゃり」の研修会に國分さんをお呼びしたのはそれより前だ。でも震災より後だったはず。時が過ぎるのは早い。

私は以前より哲学が好きで、仕事帰りに朝日カルチャーセンターで彼の講義をうけていた。それは大変刺激的で、紹介された本を読み、ある種の切迫感のもと國分さんに「今こそ誰にでも哲学が必要だ」みたいなことをメールに書いて講師をお願いしたら快諾してくださった。

当時、私たちが学童保育所を開いていた千葉の北国分(これもきたこくぶんって読むよ)の教会で行われた講義はユクスキュルの環世界の話からだったと記憶している。

そのあとの懇親会も若者たちから人生の先輩方まで多くの方が参加してくれて盛り上がった。貴重な機会をくださった國分さんには感謝している。なんだか平和だった。

國分さんの明快さは親しみやすさと繋がっている。「モテる」人のような「敷居の低さ」はないが(『哲学の先生と人生の話をしよう』参照)、スッキリした明るさがある。

これは「話をしよう」というわりに「相談」の本だが、國分さんの応答に曖昧さはない。率直。実によく相談内容(書き言葉)を読み取ってくれる。書かれていない細部こそ重要だという姿勢は精神分析臨床の姿勢と重なる。解説で千葉雅也氏もそう書いている。それゆえ相談者は拒否されたと感じることはないだろう。

ぜひ本で確認していただきたい。

國分さんは高速で歯切れのよい語りをされるが「ちょっと待てよ」という感じで立ち止まることも多い(印象)。当然聞き手もつられて立ち止まる。そしてまた動き出す。直線的ではない思考に揺さぶられるのは遊園地感覚で楽しい。

この本は読書案内としてもとても優れている。誰々はこういった、という言葉が自然に出てくるまでにかなりの「勉強」が必要なのはいうまでもない。聞き上手、読み取り上手の先生は引用も上手いのが特徴だ。

國分さんが語学学習に関する相談にこたえるときに引用した関口存男のことばは何度聞いても面白い。

「世間が面白くない時は勉強に限る。失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ」関口存男『新版 関口・ドイツ語講座』上中下、三修社、2005年

相談はするのも応じるのも難しい。相談ってそもそもなに、とか考えだすとキリがない。まぁでも「話をする」ことはわりと日常で必要だからそこからはじめようか。と言う感じでこの書名にしたのかな。

とてもいいと思う。おすすめです。

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『百人一首ノート』

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今一度の 逢ふこともがな 和泉式部

もしなにかこころに思うことがあるとき、今日マチ子さんの『百人一首ノート』はよいかもしれません。百人のトップ歌人たちの言葉はそれだけでも十分にパワーがありますが、この本は現代を生きる私たちに寄り添った解釈を美しいカラーの絵で見せてくれます。

もちろん描き方は百人百様なはずです。普遍的なこころの動きを体験する仕方は人それぞれですから。ただ、二次元の世界に自分を重ね合わせて新たな自分を立ち上がらせることも日々私たちはやっています。和歌と絵柄を静かに見つめることで今の自分のこころに少し異なる色合いを見つけたり、その痛みやなにかが誰にでも普遍的に訪れるものであることを知って少しだけ安心したりするかもしれません。

古と今を行き来しながら、出会いと別れ、そしてそのプロセスを少しずつ受け入れながら歩んでいけたらと思います。シェア

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漫画

最近は漫画の貸し借りってするのかな。

昔は漫画喫茶ってなかったですよね。ありました?たくさん漫画が置いてある喫茶店はありましたよね。ゲーム台がテーブルだったり。あとは床屋さんにも漫画がたくさんあった。なんだかいろんなところで読み耽っていた覚えがあります。

大学時代によく利用したユースホステルにもありましたねえ、そういえば。そうそう、旅先にはよくありますね、漫画。宿の共有財産。

専門書だとすぐ眠くなるのに漫画は読み終わるまで寝られない、連載ともなるともう大変、というわけで夜更かししているわけではないのですが、私が読んでいた漫画っていまややや古典なのでは、と思ったりします。というか、今も語り継がれているものは覚えていられるけど、きっと忘れてしまっているのもたくさんあるのですよね。その場ではきっといろんな気持ちをもらったのでしょうけど。

また古くて安い宿で再会できたらいいな。「あー、懐かしい!」と。

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限界

海外の本、特に、その国が、その国の人たちが経験してきた傷つきの歴史について知ることは意義深い。ときには目を背けて本を閉じたくなり、それでもそれを読むこと自体が何かの供養になるのではと思い、それでもやはりひたすらに胸をえぐられる思いに耐えきれないと感じる。

一方で、私はその国のことを何も知らない。こんな簡単にまるで自分が同じ体験をしたかのような振る舞いをしてよいものか、私の体験は私の体験でしかなく、それと重ね合わせて何かを理解したかのような仕草をしてもよいものだろうか、と考えあぐねることも多い。

物事を近くから、遠くから、斜めから、上から、下から、鏡を通じて、あるいは音声だけで、あるいは・・とできる限り多様な仕方で見られたらいいのかもしれない。でもそれほどの余裕を私たちは大抵持っていない。

だからこそ限界を知ること、そのうえで語ること、それが大切なのではないか、そんなことをよく考える。とても難しいことだけれど。

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精神分析 読書

適応と適当

早朝が一番色々捗ります。今日は土曜日ですね。一日中雨かしら。

昨日は色々書いたまま眠ってしまい、内容は昨日仕様だったので消してしまいました。ほんと、画面からって消すのも消えるのも簡単。

でもたとえ私が文章を消したところで私の考えだからまた何かの形で出てくるでしょうし、たとえ私が姿を消したところで私が消えてしまうわけでもないので、何度でもやり直せますね。

でも現実に姿を消したとしたらどうでしょう。社会学者の中森さんの『失踪の社会学』を以前ご紹介しましたが、失踪とかで姿を消されたら辛いな。と、今、私が失踪される方であることを大前提として書いてしまいましたが、こういうのは注意が必要かもですね。「誰にでもありうること」、病気でも障害でも喪失でもなんでも。いや、なんでもはないか。

精神分析はその人のあり方全体を大切にしますが、それだってその人だけのこと、私たちだけのこと、誰にだって起きること、社会全体のこと、全てに関わることであって、単なる密室的なにかではありません。営まれる場はふたりだけのプライベート空間ですが。

精神分析では「適応」を特に目指さなくても治療の副産物として、いや違うな、「適応」というよりは、その人がその人らしさをある程度保ったまま、その場に適当に、ほどよくいられることができるようになります。それは精神分析が、固有のものを大切にすることのなかに社会を大切にすることを含みこんでいるからだと私は思っています。

静かな朝です。朝の暖かい飲み物がしっくりくる季節になりました。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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遺稿

今年2月、クルーズ船での感染が騒がれ出した頃、敬愛する作家、古井由吉が亡くなった。その後、『新潮』に遺稿が載せられた。

多くの本屋がコロナを理由に休業するなか、オフィスのそばの本屋はいつも通り開いていた。『新潮』自体、よく売れていて手に入りにくいと聞いていたが、本屋が開いていると思わなかった人も多かったのだろう。私はいつもより暗いひっそりした通路を行き、エスカレーターを歩いて上り、いつも通りの明るさの本屋へ向かった。この本屋のことは大体知り尽くしている。『新潮』があるはずの棚へ真っ直ぐに向かうと一冊だけそれはあった。私はすぐにそれをレジに持っていった。いつもなら時間が許す限り長居していろんな本を見るが、この日は違った。

古井由吉はおじいちゃんだからもうすぐ死んじゃう、と思っていたにも関わらず、いざ亡くなってみると親戚でもなんでもないのにそれなりに衝撃を受けた。悲しかった。

「杳子」を読んだときの衝撃は忘れられない。女を描くならこう描きたい、と思った。薄暗いのは陽の光のせいだ。まるで病床にいるかのような女を男は観察しつづける。その視線もまた仄暗い。

コロナをめぐる状況は2月とは変わった。日々の景色も変わった。マスクをしない顔と会えるのは画面の中だけ、といったら大袈裟だが人は距離を取るようになった。

古井由吉は亡くなった。彼だったら今の状況をなんというだろう。

私はまだこの遺稿を読めていない。こころの距離がとれていないから。

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精神分析 読書

モモ

ミヒャエル・エンデの『モモ』が、最近また取り上げられていましたね。『モモ』は私にとってとても大切な作品で、好きな本を聞かれるといつも「モモ」と答えていました。もう少し大きくなると、同じくエンデの「鏡のなかの鏡」と答えていました。

映画も観に行きましたが、私が描いていたモモとはだいぶ違う、と思った記憶があります。本を読みながらはっきりしたイメージを持っていたわけではなかったのに不思議です。

赤ちゃんが泣きわめくとき、私たちはその子が何をほしがっているのか見定めようとします。0歳児に慣れている方は「おなかすいたね」「おむつかえよっか」「眠くなっちゃった」など声がけをしながらニコニコと抱っこをする余裕がありますが(もちろんこころで泣いて、というのはあっても)、はじめての子どもを持つお母さんや0歳児の担当ははじめて、という保育士さんは、赤ちゃんの切迫した泣き声に含まれる不安や不快や苦痛を自分のもののように感じてしまうことがとても多いです。この子はどうしてほしいのだろう、これでもない、あれでもない、もうどうしたらいいのだろう、もうやだ、と本当に辛く悲しくなってしまうときがあります。

たとえばおかずひとつでも、あれもだめ、これもだめと大きな声で泣き、小さな手でお皿を払いのけようとし、これまた関わる人は大慌てで「これ?」「こっち?」と彼らの本当のニードを必死に探ろうとします。でももう全部だめ、何をやってもだめ、させてもらえるのは抱っこだけ、と抱っこして泣きやむのを待って、落ち着いたらもう一度お座りをさせて、小さなスプーンであげてみたらぱく、ぱくぱくってなったりして、こちらがほっとするとあちらもにっこりしたりして・・。

私たちはなにがほしいのか、どうなりたいのか、なんて本当ははっきりしないのかもしれません。そのときの体調やそれが差し出されるタイミングやなにかいろんな感覚的なものが混じりあって、パッと決められるときもあれば、これかな、あれかな、とやりながら「これかもな」と一番自分のイメージにしっくりくるものを選択するときもあるのでしょう。そしてそれはあとから変わることもあるのでしょう。

モモは受け身で、静かな子どもです。人の話を聞くのが上手です。話したくてウズウズしても、怖くてしかたないときでも性急に言葉を発することを控えることができる子です。そう学びました。

眠って、夢をみて、目覚めたら、やるべきことが自然に定まるような、なんとなく言葉の形になるような、まるで精神分析プロセスのようなプロセスを踏んで、モモは強くなっていきます。

もしかしたら、私はそんな時間が大切で、精神分析家を目指しているのかなぁ、と思いました。私が思い描いているそれと「精神分析」のイメージが違うかもしれないから(違ってもいいのだろうけど勝手に変えることはできないから)、私はどうしたいのかな、ということを長い時間をかけて、眠り、夢をみて、目覚め、言葉にして・・というトレーニングを繰り返しているのかもしれません。

今日の言葉は、明日は少し違う形を描くかもしれません。時間をかけて、二人で、大切にしたいなにかと出会っていけたらいいなと思います。

それでは今日もおやすみなさい。

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雲の絵

今日の空、すごかったですねえ。入道雲がすごすぎてアニメみたい!と思ったのですが間違いでした。こんな景色が本当にあるからあんなアニメもできるわけですね。

歩いていても、電車に乗っていても、何層もの雲が湧き上がるように青空を占めていて、太陽の光がつくるグラデーションがきれいで、いちいち目が離せなくなってしまいました。

雨が降るっていうから傘を持ち歩いていたのですが降られませんでした。降ったのかしら、雨。

「のはらうた」のくどうなおこさんだったらどんな詩を書くでしょう。かぜみつるくんが「でかい くもだぜ」とかいって通り抜けるのをやめて眠っちゃったり、きりかぶさくぞうさんが「きょうは くもも 「どっこいしょ」 をしている」とかいったりするのでしょうか。

ご存知ですか、「のはらうた」。とっても素敵な装丁の小さな詩集です。それを眺めているだけでもいと楽し、ですが、自然の声を聞きたくなったときに開いてみるといいかもしれません。

夜になっても雲は、昼間の形のまま、背景の空より少しだけ薄いグレーになって、街を包みこんでいます。

画像は昼間の新宿駅です。まるで絵みたいじゃありませんか。

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俳句 読書

花火

今日も暑かったですね。夜の風もなんとなくまとわりつく感じになってきました。月は良い感じに雲隠れにし、でした。夏の月って雲の向こうでもなんとなくすっきりと明るく感じませんか。

以前、お世話になっている先生に「書く」練習として沢木耕太郎を「読む」ことを勧められてとりあえず『一瞬の夏』を読みました。内容はうろ覚えですが、最初に神田でビールを呑んで、新宿でウィスキーを呑んで、1杯目のビールだけが汗を引かせてくれた、というような記述があるのです。この話って結構暑苦しいお話だと思うのですが、その前振りとしてかっこいいなぁと思いました。

ビールの一杯目ってほんとそういう感じですよね、という話ではないのですが、夏ですねえ。今年はビアガーデンとかどうするのでしょう。

今年は十勝の勝毎花火大会は中止らしいです。帯広の藤丸百貨店屋上でビールを呑みながら見たことがあります。ああいう夏がまたきてくれますよね、と誰に聞いたらいいかわからないけど、きてくれるといいですね。でも私には北海道は寒くて、その日も途中でリタイアしてガラスの内側で音と本物が放つ光をみていましたけど。東京の夏はエアコンで喉がやられてしまうし、一体どこがちょうどよいのか・・困ったものです。

今年は小さく線香花火もいいかもしれないですね。

手花火を命継ぐごと燃やすなり 石田波郷

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読書

ポッカリ

というわけで(前のつぶやきとつながっています)8月です。

今日は夜の予定を間違ってしまいぽっかり時間ができました。ポッカリ月がでましたら、舟を浮かべて出掛けませう、は中原中也でしょうか。彼が生まれた山口県湯田温泉、いつでもいつまでものんびりお散歩していたくなる大変よいところです。お目当てだった居酒屋さんが満席で、お知り合いのお店を紹介してくださって、なぜか駄菓子も持たせてくれて、うかがったお店も暖かく迎えてくださって地元ならではの雰囲気を堪能したことを覚えています。今年はそんな旅もお預けでしょうか。行かれる方は楽しめますように。観光客を待っていてくださる地元のみなさんもどうぞお元気で、と願います。

本当に今年は辛いことが多いですね。もちろん毎年そういうことはたくさんあるのですが、新型コロナはこれまでと違う形で私たちの生活を変えつつある気がします。

ようやく梅雨があけたので「そうだ、暑中お見舞い書こう!」と思い立ち、さっき架空の宛先に暑中見舞いを書いてみました。8月はこんな夏だからこそちょこっと想像書簡のようなもの、あるいは夏の宿題シリーズ的なもの、あるいはこれまで通り?まぁ、気ままに書きたいときになんか書こうと思います。

今夜の月は穏やかです。これからグンと暑くなるでしょうから大雨の被害に遭われた地域の方の体調も心配です。どうぞご無事で、ご安全に。

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精神分析 読書

誤配

東浩紀は『哲学の誤配』のなかで、フロイトにこだわる理由を問われ、フロイトとユングの比較をしたうえで、フロイトは個人主義者なので、「人間一人ひとりはバラバラだけど、各自がバラバラの状態で出力したデータを集積すると、データのうえでは集合的無意識が立ち現れる」という東さんの考えとしっくりくる、と答えていました。

 それはそうと、この「誤配」という概念は大変有効で、精神分析のように明確な目的を持たず、特定の問題を焦点化するでもなく、二者でいるのに自分のことばかり語り、沈黙し、感じ、それをまた言葉にしていく作業を連日続けていくというのはまさに誤配をつくり出す作業なのではないか、というようなことを研究会で話しました。

 倉橋由美子的だな、とも私は思っていました。

 ほかにも色々話しましたが、やはり「誤配」概念の射程は広く、精神分析の可能性を示すための補助線になるように感じました。東さんはこの本のなかで誤配は意図的に作り出すのは不可能なので、誤配が起こりやすい状況を作りだせないか、と考えているともいっています。

 精神分析は「先のことは誰にもわからない」という現実を無責任にではなく素朴に言い続けているようなところがあります。「いい悪いではなくて」とか「今ここのことを話している」という言葉も先のことはわからないという現実とつながっているように私は思っています。

 精神分析は、他の人からみたらなんの意味があるかわからない、無駄な時間なのでは、と思われるかもしれません。実際、精神分析を受けたり、実践したりしている側にもそういう思いは生じます。でも「で、だから?」というのが精神分析なように思います。答え、目的、意味って?自分で無駄という言葉を使うなり「無駄って?」と自分に問い直すようなことが起き続けているという感じでしょうか。

 この前、「三度目の殺人」という映画を観ました。ぼんやりとみていたので詳細もぼんやりですが、「それって誰が決めるの?」というような言葉を広瀬すずさんがいっていました。線引きに対して疑義を呈するというのは是枝作品に一貫した態度のような気がします。そうでもありませんか?

 私たちはそんな確かな存在ではないので、というか、私はそう思っているので、いろんなことを感じて考えていつも揺れ動いて、なんだか大変だなぁ、ということが多いです。一方でよく笑ったりくだらないこといったり、ちょっとしたことで今日はいい日だったなぁ、とか思うことも多いです。「だから何?」みたいなことを書いているのもそんなわけです。

 明日はどんな一日になるのでしょう。ウィルスも災害も気になるし、それどころじゃない、むしろ目の前のこの人の気持ちの方が気になる、という場合もあるでしょうし、特に何も気にならない人もいるでしょうし、色々ですね。かなり確かなのは明日から八月ということですね(びっくり)。とりあえず睡眠は大切なのでみなさんもよく眠れますように。

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精神分析 読書

密、親密、秘密

6月に社会学の本を読んだよ、ということで気鋭の若手社会学者、中森弘樹さんの『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』を取り上げました。

この本、コロナ関係の本かと思ってしまいませんか?題名だけみると。でも違うのです。出版は2017年ですから。そのくらいコロナは親密性と責任について考えることを余儀なくしたウィルス、というかもはや出来事となったと思いませんか。

そして、コロナ関連の本が続々。本というか雑誌?みなさん、仕事が早くてすごいです。危機のときの情報の取り入れ方は人それぞれだと思いますが、私はネットニュースやSNSで流れてくる情報をぼんやり眺めながら、そのなかでも信頼している書き手が参照している元の資料や文献をみて、でもよくわからないから関連のもみて、とかやりながら自分の仕事をどうしていくかを考えています。終わりがない作業ですねえ、こういうのは。開業だと最後は自分で決めるしかないけれど。

研究者のみなさんはすでに視点が定まっているから「この視点でこの出来事を見た場合」という感じで書けているわけでしょうか。これが臨床との違いかなぁ。でもこういう雑誌を読むときもどの論考も大抵「今の時点で」というような言葉は入っているわけだから変わりゆくものとして取り込むことが大切なのかもしれませんね。

あ、「こういう雑誌」というのは2020年8月に出た『現代思想』のこと。今号は、パンデミックを生活の場から思考する、ということで「コロナと暮らし」という特集を組んでいます。目次は青土社さんのHPをご覧くださいね。

冒頭に挙げた中森さんの本、やはりコロナにも通ずるテーマですよね。親密性と責任。ここでは、【家族と「密」】という分類(分類、やや雑ではないか?と思わなくもないけどスピーディーな作業には必要かもしれない)で『「密」への要求に抗して』という論考を書かれています。

 まず、「コロナ離婚」という言説、あるいは社会現象を「ステイホーム」がもたらす親密圏への過負荷に対する私たちの不安感を示唆するもの、として捉えるところから始まるこの論考。

ワイドショー的な言葉の使い方はこうやって言い換えてもらうと急に自分のこととして考えられる言葉になるような気がします。これぞ専門家の役目かもしれません。

「密を避ける」、で「ステイホーム」、といってもそもそも「家族」って形式としては「密」ですよね、でもそこは前提だから議論は避けて通りますか、だとしたらそれはなぜでしょう、みたいな疑問を中森さんはきちんとしたデータをもとに書いておられて、「それを自明の前提として受け入れるとき、その背景にはどのような規範が存在しているのだろうか」という「問い」に変換していきます。

「そんなの当たり前じゃない?」というのは昨日書いたような「あっちがあるじゃない」というのとたいして変わらないような気がします。前提を顧みること、「前提が、現状に対してとりうる選択肢を狭めている」可能性を考えること、中森さんがここでしているのはそういうことかと思います。

「家族を特別視する背後にあるもの」を検討するために援用されるのは山田昌弘(2017)。私にとっては久しぶり。あとは読んでいただくのがいいと思うので詳しくは書きませんが、確かにコロナ禍のコミュニケーションのなかで、それぞれが前提としている「家族らしさ」ってあるんだなぁ、と思ったのは本当。そしてその前提から要求が生じ、いつの間にか大切にしたかったものはなんだったっけ、となることも確かにあると感じます。

中森さんはご著書でも「親密」をキーワードにされていましたが、ここでも家族にとどまらない親密な他者との関係について、まずは「親密圏」とはという概念から教えてくれます。これも昨日書いた「広場」の概念を考えることと私には重なってきます。

とサラサラ書いていたらなんかすごく長くなってきてしまいました。読みにくいですね。もしご興味のある方は、まずは本屋さんでちょっと見てみてください。他の方の論考も興味深いです。

中森さんのこの論考、最後はジンメルの「ある程度の相互の隠蔽」を引用し、「ステイホーム」においては、「秘密」「奥行き」、すなわち「距離」あってこそ生じるものの確保という課題が想定されるため、「「密」への要求に抗する新たな規範を構築してゆく必要がある」と結ばれています。

ここは土居健郎の「隠れん坊」とか「秘密」の概念と重ねて考えるところです、私の専門としては。

そういえばジンメルも「人間関係論」のテキストに出てくるなぁ。有名な社会学者です。

「人間関係」は本当に幅広くて複雑で難しいこともたくさんですが、目の前の誰か(とかSNS上の文字とか)のキャッチーな言葉に自分のことを当てはめたり、当てはめられたりしてしまう前に、「なんでこんな不安なのかなあ」とかまずは自分のこころの奥行きを使ってみてもよいかもしれません。本来であれば、そこは秘密の場所だと思うので。

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読書

「マルジナリアでつかまえて』

楽しみにしていた本が届きました。

予約していたからサイン本です。細字ボールペンで丁寧に描いてくれています。嬉しいです。

学生時代、友人に極細ペンできれいに平行線を描くコツを教えてもらったことを思い出しました。新宿の「世界堂」に連れていってくれたのもその子でした。はじめての「世界堂」はインパクト大でした。下手絵しか書けないけど画材が好きです。

さて、マルジナリアとは「余白の書き込み」のことだそうです。

山本貴光さんの『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』

題名だけでいろんなことを連想しませんか。そして題名を打ち間違えたらまた新たな発見がありました。間違いや失敗って大切です。

透明のきれいなビニール袋から取り出してパラパラっとしたらウワッとなって、一度閉じて、表紙を眺め、二度目はもっとそっと開きました。この本、嬉しい。最初のページからしばらく続くカラー写真。豪華。すごく楽しい。きっと本好きな方には共有していただけるような気がします。

本当は今夜読みたいけど余裕がないのが残念です。作業に疲れたらこの写真たちで休憩してから作業に戻ろうと思います。そして作業が終わったらつかまえにいこう。

いろんなニュースに気持ちがあっちこっち行きますが、本はいつも静かにそばで待っていてくれるから、まずは目の前のことをやりましょうかね。

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読書

『銀河の片隅で科学夜話』

『銀河の片隅で科学夜話』、どんなお話を想像するでしょう。全卓樹(ぜん・たくじゅ)さんの本です。副題というのかな。とっても素敵な表紙には「物理学者が語る、すばらしく不思議で美しいこの世界の小さな驚異」とも書いてあります。この表紙についても素敵エピソードがあったそうで、それは全氏が勤務されている高知工科大学のHPで読むことができます。

本をめくった時の裏表紙というのかしら。そこに載せられた絵もこれから出会うお話への期待を高めてくれます。この本は、天空編、原子編、数理社会編、倫理編、生命編と全22夜の語りがおさめられているのですが、各編冒頭に引用される吉田一穂の詩(ですよね?)は魅惑的な世界の入り口にぴったりです。

これまで高度に専門的な内容をこんなに美しく、門外漢にも自然に通じるように書いてくれた科学の本があったでしょうか。というほど数を読んでいませんが、子どもの頃は子ども向けの図鑑や絵本とたくさん出会えました。でもこの本は大人になった今だからこそ染み入るお話のような気がします。バタバタとすぎる日常でふと見上げる夜空のこと、人類が出会ってしまった原子のこと、案外単純な計算で示しうるこころのこと、人間という存在が進もうとしている未来のこと、倫理のこと、人間を相対化する生き物たちのこと、一話ずつ読むつもりが一気に読んでしまいました。

人間なんてちっぽけな存在、という言葉を誰が言い始めたのかわかりませんが、きっとそれって誰もがふと感じる瞬間があるから生まれた言葉のような気がします。自分の知らない世界の存在を実感するとき、そしてそれに美しさを感じるとき、私たちはなおさらそんなふうに感じるのかもしれません。

素敵な本と巡り逢えました。今夜もどこかで降り出した雨の音をききながら未知の世界を想う科学者がいるのでしょう。たくさんの被災地にも静かな夜が訪れますように。

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俳句 読書

成長

坂の上の小さなおうちだった保育園はいまや駅前に第一、第二と園舎を持つ認可保育園になった。あの頃赤ちゃんだった子たちはもう小学生だ。長い間成長を見守っていると大きくなったその子たちに当時の面影を見ることがある。

毎月どこかしらの保育園を巡回する。4、5歳になると年に数回しかこない相手のことも覚えている。「また会ったねー」と寄ってくるスピードも雰囲気もそれまでとあまり変わらない。

万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男 

少し前にここでとりあげた句だ。その日、保育園にいくともうすっかりおしゃべりでやりとりするようになった子どもたちが「またきたー」と寄ってきた。そして口々に「歯が抜けたんだよ」と口をいーっと横にひらく。最初に生えたであろう下の前歯が抜けている。なんともいえずかわいい笑顔はこの時期だけのものだ。「永久歯」が生えてくる。

永久歯とはに抜け落つ麦の秋  桑原三郎

この歳になると目に見える変化もないので特に成長は喜ばれないが再会を喜び合うことは相変わらずある。喪失は子どもの頃よりもずっと日常になる。

ところで、女が歳を重ねることをリアルに書いたのは藤沢周平だと思うがどうだろう。今、私の手元には「夜消える」が二冊ある。何故だかわからない。第一刷が1994年。多分一度読んで、読んだことさえ忘れてまた買ってしまったのだ。古い方の一冊にはもうカバーもかかっていない。別の小説を探していたら本棚に並ぶ二冊を見つけた。並べたことすら忘れてしまっている。そもそも今これを書き始めようとしたときに私はこのことを書こうとしたのだ、そういえば。