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精神分析、本

言える機会

空はグレーと水色のあいだ。グレーと水色なんてただでさえ間の色なのにさらに。間ってどこまでいってもあるのね。

コーヒーが熱い。冷房も入れたばかりだけど飲んだらすぐに汗になりそうな季節はもう過ぎたみたい。虫の声が朝の静けさを守ってる。蝉の声が世界をのっぺりと平板にしていくのとは違う。言葉にできないけどなんか違う。

この前、暮田さんとフェミニストの言葉について少し触れた時に竹村和子の『愛について』は精神分析の知識がないと難しくてとおっしゃっていた。そうなんだよね。でもあそこで想定されている精神分析の「目的」は大分古典的かつ一般的なフロイトに対するイメージであって誤解を招くと思う。私の場合、精神分析の本として読まないせいかそこを「わからない」とはならないかな。精神分析がこうやって捉えられがちなのはわかるけど違うよ、とは思うけど。でも著者はこの主張をするための補助線として精神分析をこう理解して使っているのかと仮固定の場と捉えて読む。

最近ますます複数のことを同時にできなくなっている。例えば今ならNetflix流しながらこうしているんだけど感覚が以前と大分異なる。注意の配分が自然にできなくなっている感じで指の動きとかにもたまに意識的になる必要があるくらい。次にやるべきこともルーティンなのに抜けている感じで時間感覚も鈍くなっているみたいだし。ほんと軽い認知症なのではと思うことが増えた。ただ記憶力は元々相当悪いし、注意力も子供の頃から注意されてばかりだからようやく自分の状態を正確に認識しつつあるだけかもしれないわね。あまり嬉しくないけど自分を知るってそういうことかもね(これ以上みたくないみたいから適当に終わらせようとしている気もするわね)。

あー。さっき書いた本の読み方もこういう適当に割り切ってしまうところが出ているのかもねえ。前提が正しくないのだからそこをどう読むかはもっと正確であるべきなのかもしれないけど。うーん。でもどこに時間をかけるかと言ったら精神分析そのものだからフロイトはもちろん主要な古典を精緻に読むことで暮田さんとのちょっとしたおしゃべりの時に「あれはちょっと違うの」と言えたみたいな関係を持つことが大切かもしれない。言えたのは嬉しかったな。そもそも読めなくても触れてないとその本の話が自然に出てくることはなかったから。

この前もね、とまたとめどなく書いてしまいそうだけどやめとこ。この日記ともいえない朝のこれはなんていうのかしら。もう90日続いてるって通知がきた。衰えゆく認知機能に対する無意識的抵抗かもしれない?「これをやっている今は朝だぞ」ってことを染み込ませているのかしら。そんなこといってないで仕事へいく準備をしましょう。余った時間は精神分析の文献を読みましょう。読みます。はい。

今日は東京は雨が少し降るみたい。少しであってほしいな。

週の真ん中、休みが遠く感じるかもだけどご無理なさらず。無理しなくてもいい環境づくりもしていきましょうかね、少しずつ。

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俳句 読書 趣味

暮田真名さんと川柳WSをした。

数年ぶりに最初の職場の先輩と会えた。コロナ禍で仕事がオンラインに切り替わる中、もう一人の先輩にzoomの使い方を教えるついでにおしゃべりして以来かな。LINEではたまにやりとりしてたけど。先輩たちの子供たちもおもしろかわいかったな、あの時。ちっちゃなときから知っているけど先輩たちが母親になってもずっと私の知っている彼らなままであることにいつもちょっと驚く。そして昨日もいつものままだった。飛びつくように再会を喜ぶ私にも普通にのんびり喜んでくれて日影茶屋の水ようかんをくれた。

8月14日は14時から16時まで川柳作家の暮田真名さんをお招きしてワークショップを行った。紀伊國屋の詩歌コーナーがある2階で待ち合わせをした。もちろん暮田さんの『ふりょの星』もある階。左右社から4、5、6月と3ヶ月連続で刊行された川柳本も相変わらず平積みされていた。こんなおしゃれな本たちが川柳の本であるとどのくらいの人が知っているのだろうか(知ってほしい)。

暮田真名『ふりょの星』平岡直子『『Ladies and』なかはられいこ『くちびるにウエハース』(いずれも左右社)

生まれてはじめて川柳と向き合う参加者のみなさんにとってサラリーマン川柳とは異なる川柳というものがこんな形で存在することがすでに驚きだったらしい。先輩は最初の感想で「それだけでもすごい収穫」といってくれた。これまでそうとしか思っていなかったものに別の世界があったという意外性との出会いに素直に感動する人なのだ、昔から。

サラリーマン川柳で名を馳せた人とかいるのかな、そういえば。あれは笑って流せる感じが「川柳」という言葉が持つ流れて消えていくイメージと響きあうことで世に広まったのかもしれないね。共有すべきはそれぞれの事情ではなく会社員で配偶者がいてこういうことを言っても崩れない程度の関係性をもった主に男性というなんとなくの前提。それを「川柳」という言葉のイメージ通り聞き流してきたのが私たち。それに対して「穿ち」「おかしみ」「軽み」に主観性と詩的要素が加わったその歴史の流れのなかで川柳観を育まれつつ実作しているのが暮田さんたち。(『はじめまして現代川柳』参照)。歴史認識のあるものとないものが同じ名前を持ってしまったこと、そして大抵の場合、歴史認識のないものの方が市井の人には広まりやすいことは現代川柳が詩性を兼ね備えたものとして読まれる機会を減らしたかも知れない。また、ちびまる子ちゃんの「友蔵こころの俳句」、それをもじった「〇〇こころの短歌」など「思い」発の言葉を定型に投げ込むことに馴染みがある私たちにとって「思い」ではなく「言葉」から書く(これも『はじめまして現代川柳』を参照)現代川柳の存在は遠かったのかもしれない。だから暮田さんがサラ川には登場しない私やあなたや彼らたちいろんなみんなの存在を思い出させたnoteの記事「#01 川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」も話題になったのだろう。先輩が「収穫」といったのももちろんこの視点の(再)獲得のことだと思う。

ワークショップでは『はじめまして現代川柳』の編著者小池正博さんの川柳を用いた穴埋めでいかに私たちが最初に浮かんだ言葉から離れられないか(全然それで構わないわけでもある)を知り、その広告が持つ意図をいかに台無しにするかという穴埋めではなかなか台無しにするのは難しい(意味の変更はできるが)ことを知り、生まれてはじめて川柳を作る時間ではわけわからないまま文字を組み合わせる自分と出会う体験をさせてもらった。やや混乱しながらも普段から逆転移としてそういった感触がどこから生じるのかにも注意が向いているみなさんなのでその言語化も興味深かった。こういうのをどう体験するかは当然自由で、正解のない世界に戸惑いを感じてもそのまんまでいいし、やりたくなければやらなくてもなんでもいい(与えられても拒否してもいいとは思いにくいかも知れないが拒否はいつでもしていい)。ただそのような感触も体験しないことには生じない。

私が多くの情報が流れるTLで暮田さんの講座名「あなたが誰でも構わない川柳入門」という言葉に目を止めたのも無理がない。一人の人に複数的なあり方を認め、その力動によって立ち現れる現象を言葉にしていく精神分析とそれが響きあったのだろう。それを単なるイメージで終わらせるのではなく、まだアカデミアの領域にはないとはいえ、そのサークルの中だけでなく積極的に外に作品を送り出している実作者から歴史認識とともに川柳を学び、体験できたことは貴重だった。

参加者のみなさんはそれぞれ初対面だったが別れがたく暮田さんを交えお茶をして帰った。よく笑いよく喋った。なんかいいことをした気分になった。暮田さん、松岡さん、参加者のみなさんのおかげ。どうもありがとうございました。

早朝に日影茶屋の水ようかんをいただいた。最高だった。逗子にも遊びにいくからね。また一緒に美術館とか海とかいこう。先輩ありがとー。

ちなみにおしゃれでかわいい暮田さんの写真はTwitterに載せました。

今週もあっついですよね、きっと。無事に過ごしましょうね。