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短詩 言葉 読書

「柔らかな舞台」のこと&追記

色々大変なのは変わらないけど昨晩はひどかった。寒すぎた。今朝は無事にご自身の畑(でいいのかな)で採れたというキウイもいただけたしなんとかいけそう。

忘れないように、という話を書いたけど忘れないようにしなくても忘れられない部分が人を苦しめる。フラッシュバックとは異なってもトラウマに関する病名がつかなくても苦しいものは苦しい。動けなくもなる。思考できない部分にものすごく消耗する。どうしても目にしてしまう状況で小さく積み重なっていく新たな傷つきとこれまでを切り離すには助けがいるが言葉にすることも難しいだろう。とりあえず一緒にいてもらうことが一番安全だったりする。

先日、東京都現代美術館へオランダの現代美術を代表するウェンデリン・ファン・オルデンボルフのアジア初となる(と書いてあったと思う)個展『柔らかな舞台』へいった。
植民地とフェミニズムがメインテーマだと思うが、よくある「対話」におさめない複数の共同作業の交差や重なり合いのなかで問いかけるような映像と配置がとてもよかった。写真が好きな私は「撮影」という手法自体に興味があるのでチェックしたい作家になった。映像作品を全部見るのに時間がたりずどれも中途半端になったがそのためにウェルカムバック券というのも用意されていて一応いただいてきた。期日中にまた行けるといいな。

いつも以上に頭が働かないなあ。みんなはどうかな。ため息つきつつ休みつつなんとかやれたらいいですね。ブアイブアイ(身内で「バイバイ」をいうときこう言っていた時期がある)。

ー数時間後の追記ー

メモなんだけどウェンデリン・ファン・オルデンボルフの作品を見ながら映画批評家の三浦哲哉さんの『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を思い出した。この本の問いは

「映像が動く。ただそれだけのこと(傍点)にただならぬ感動を覚えるまなざしがあるとすれば、それは具体的にどのようなものか」

というものだ。アンドレ・バザンによるリアリズムの定式化を検討するところから始まるこの本は映画の「直接的な力」を「リアル」という言葉ではなく「自動性automaticité,automatisme」の概念によって定義しなおそうとする。ちなみに本書の『映画とは何か』という書名はバザンがその遺書の題名として掲げた問いだそうだ。

まだ実家にいた頃、父の書斎には夥しい数の「β」がありたくさんの映画を見たがあまり記憶にない。フランス現代思想の講義(主にドゥルーズ)にも色々と出たがこちらもあまり記憶にない。よって私はフランス映画にもフランス現代思想にも詳しくないのだがこの本がそういう人にとっても興味深く読める理由は先述した問いに力があるからだと思う。2014年刊行のパラパラした記憶しかなかったこの本を映画でもないこの個展で想起し再び手に取るとは思わなかった。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの展示では最初壁にかかったイヤホンをとってから進む。入り口からどちらの方向へいっても構わないがおそらく大体の人は時計回りに、しかも入ってすぐに聞こえてくる対話に注意を向けるだろう。そしてなんとなく椅子に座り彼らの話を聞き始めるだろう。まるで外側から参加するように。そこから反対側をみると別の映像が流れている。しかもそちらは音声が聞こえない。そちらへ周りイヤホンジャックを挿せばいいのかと気づくまでに時間がかかった。字幕で内容に気を取られたのと別の画面に伴う音声で音を補えてしまっていたせいだろう。というのは私の場合で、この展覧会はおそらくはじまりから体験の仕方はかなり多様になるだろうし、そういう風に構成されているように感じた。内容に注意がいく人もいれば、映像のなかで起きていることに目が向く人もいるだろう。私は映像のなかのカメラマンにも折り重なる眼差しを意識したし、どこからどんな風に見えるのかどんな風に聞こえるのかを試してみたりもした。自分の動きによって同じものが別のものに見えてくるのは映像作品の配置だけではない。田舎の水族館のような構成だと思ったのは雨が降っていたせいもあるかもしれない。自分のまなざしが揺れる。変わる。そのうちに委ねている。

そうそう、この展覧館のチラシをパッとみたときに言葉の意味を壊すというようなことが書いてあった気がしたのだがそれは暮田真名さんが展開している川柳のようだなと思った。暮田さんは以前『文學界』に「川柳は人の話を聞かない」という文章を寄せている。私は川柳のことも暮田さんの以外はよく知らないのだけど映像に対してはこういうちょっとトンがった態度はとりにくいように感じている。映像は背景と奥行きが勝手に仕事をしてくれてしまう感じがするし、常に何かが後回しになったりどこかへ忘れ去られたりしてでもはっきりと目に入れているものもあるので複数の対話を背中に聞きながら話しているような状態に近い、という点で今回の映像のなかの、そしてそれを体験する私の状態と近い気がする。

特に何を書きたいとかでもなく思い出したことを書き連ねてしまったらなんか長くなってきてしまったのでこの辺で。ぶあいぶあい。

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短詩 趣味

短詩とか編みメーションとか。

眠い、寒い、しか言わなくなる季節がやってきました。そして今日締切のこれらもどうしましょう。というか(といって目を逸らしちゃだめ)「寒い」だけがこの季節特有ですね(逸れた)。「眠い」は俳句の季語で考えれば春ですものね。「春なのに」があれば「冬なのに」もあると。お別れも季節問わずありますし。中島みゆきの曲のことです。「春なのにーお別れですーかー♪」なんか♪マーク書くとご機嫌な曲みたいだけど多分まだ東京が遠かった頃の切ない歌です。

昨日は歌人の絹川柊佳さんがネットプリントで出されていた短歌6首を何度も声に出して読みました。恋することと死ぬことみたいなお互いに内包し合う分かち難い感覚の配分が絶妙でした。高校生や大学生にご親戚がいる方はぜひ絹川さんの歌集『短歌になりたい』(短歌研究社)を贈ってあげてください。その時期ならではのモヤモヤや不安や痛みが幅広い素材と共にどこかあっけらかんと歌われています。毎日死にたいと言いながらなんだかんだ生きている大人の私たちにもよいかもしれません。

絹川さんのことを教えてくれたのは、今年8月に心理士(師)対象のイベント講師にいらしてくださった川柳人の暮田真名さんです。同期でおられるのだったか、絹川さんの才能に驚嘆したとおっしゃって勧めてくださいました。

暮田真名さんはますますご活躍の場を広げておられるようでお話ししていると親のような気持ちになる世代の私もなんだか嬉しいです。先日は絹川さんのネットプリントと一緒に、暮田さんと俳人の斎藤志歩さん、歌人の榊原紘さんの短詩集団による「砕氷船」も入手してきました。斉藤志歩さんの第一句集『水と茶』(左右社)が刊行されたので「斉藤さんおめでとう号」でした。ほんと才能もすごいけど楽しいみなさんで短詩の未来は明るそうです。

編みメーション作家のやたみほさんの作品と共に写真を載せておきます。やたさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展が11月いっぱい神保町にある子供の本専門店ブックハウスカフェで開催されていたのですがそれについてはもう書きましたっけ。忘れてしまいましたが小さなスペースにとっても緻密でかわいい世界が広がっていてうわぁとなりました。松本さんのきれいな小鳥さんをお引き取りにあがらねば。オフィスにお迎えするのです。ブックハウスカフェはカフェもゆったりしているので絵本好きの方には特にお勧めです。

はあ、それにしても寒いですねえ。東京はこれから晴れるみたいです。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

絹川柊佳,「砕氷船」,やたみほ
イロキリエ作家,松本奈緒美
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短詩 精神分析、本

複雑なものとして

ゴロゴロしながらあれこれ複雑な気持ちになりつつ、こういうのもだいぶ慣れたなと思う。それにしてもこういうのってしょうがないとはいえ一体なんなんだろうね、というようなことばかり考えているうちにあっという間に時間が過ぎた。1時間前に考えていたことはもうすでに形を変えている。「ちょっと待てよ」の繰り返しでそうなる。

机に向かってSNSをみたら笑ってしまった。私は知らないが私の知っている人がそれなりに親しいであろう人が私が一番気にしていることを書いていた。

あははと乾いたような笑いとくすくすくすぐったいような笑いの両方。自分に対する自分の態度だっていろんなものが混ざってる。人間は複雑だ。

高橋澪子『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)を読みながら「フロイトの精神分析学までが」「フロイトに先駆けて」「フロイトの<リビドー概念>にさえも相通じる」という言葉に「フロイト警戒されてるなあ」と思った。フロイトは1939年に死んだのでまだ100年も経っていない。とかいったら第二次世界大戦からだってそうということ。

先日、ゆにここカルチャースクールが開催した「短詩トークショー『船コーン 砕氷船(ユニコーンが乗っています)』」のお題が「つの」で短詩集団砕氷船の歌人・榊原紘さん、俳人・斉藤志歩さん、柳人・暮田真名さんがそれぞれ短歌、俳句、川柳を作ったのだが斉藤さん(すっかりファンになってしまった)の俳句に化石がでてきた。新宿紀伊國屋書店の地下にも化石のお店あるよね、という話もされていた。

「一万年ですよ」

と化石を眺めながらその人がいった。そうか、想像もつかない。この100年のことだってこんななのに。子供たちが恐竜とか大好きなわけだよ。あと自閉症の子どもが原初的な、など色々話し出したらキリがない。

精神分析はフロイトの時代よりもさらに原初的なこころについての探究を深め、精神病理に対する理解と対応について貢献してきたが、世間的な関心はいまだフロイトにある。

「要するに、フロイトの結婚は彼に安全な避難場所をもたらしたのである。彼はマルタの個性を抹殺し、彼女を自分の外的要望すべてを叶える女性に仕上げた。彼女はフロイトの大勢の子供達の母親であり、有能な家庭管理者であり、決して不平を言わない配偶者であった。」

ルイス・ブレーガー『フロイト視野の暗転』(里文出版)133ページからの引用である。原書名はFREUD Darkness in the Midst of VIsion.書名通りこれまでの伝記とは異なり引用した部分だけでもわかるようにフロイトのダメなところをたくさん明らかにしてくれる本で大変参考になる。それはそうだ。が、しかし、と思う。

「決して不平を言わない配偶者であった」ってあなた、、、と思ってしまった。確かにフロイト一家には家政婦(というのかな)もいたし、様々な人がフロイトや家庭生活について語り継いでいる。何よりフロイト自身がフリースをはじめいろんな人に対し自分の気持ちを吐露するので推測の糸口はたくさん用意されてきた。

それにしてもだよ、と私は思わなくもない。臨床だけではない、研究だけではない、その両方を経験したうえで書いている、というのであれば(本書の「背景と資料」を参照)こういう直線的でゴシップ的な書き方はどうなんだろう。これでは私たちが普段他人の家庭に対して持ち込む勝手なイメージと変わらないではないか(「私たち」とか一緒にしないでという話かもしれない)。

人はもっと複雑で、だから関係は当然複雑で、家庭なんてその複雑さが蠢きまくっている場所なのではないのか。勝手なこといってんな、とこの類の文章についてはいつも思う。それを誰が書いているかなんて関係なくそう思うのだけどどうなのかな。「決して不平を言わない」人だったかどうかはともかく、それが夫であるフロイトに対してはね、ということであったとしても、これだけ長く暮らしていたら色々あるに決まってるじゃん、と思うのは私が「抑圧」の概念を理解していないからか。この時代の厳しさをわかっていないからか。そうかもしれないがそうでもないだろう。戦争はまだ起きているし、家父長的な意識はいまだ蔓延している。私はそういう世界で言葉を使いながら生活をしている。

心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)で「フロイトは警戒されている」と思ったと書いたが、こっちの方がずっと学問的だ。ヴントの『民族心理学』とフロイトの『夢判断』の出版年が同じであるという“偶然の一致”に対する慎重な姿勢は私たちがフロイトを読むときにも忘れてはならないものだろう。

安易に結びつける。安易に解釈する。「女だから」とかも同じ類だろう。自分ひとりにできることのわずかさを物事を安易に単純化することで否認するようなことはしてはいけないというか、いけなくはないかもしれないけど誰かを傷つけるし分断や差別を招くのではないか、と私は思っている。

少なくとも精神分析に関していえば、現代の精神分析はビオンの「記憶なく欲望なく理解なく」が頻繁に引用される状況にあるわけでフロイトを知るということはそのテクストを精読し続けることであってそういうことではないのでは、と私は思う。

他愛もない一言に涙が溢れた。

誰にも言ってないことを話した。話してから誰にもいえてなかったことに気づいた。

人には無意識がある。無意識という表現があれなら誰にも触れられない領域がある。ましてやコントロールなど。

泣き喚き大暴れする日もあれば穏やかに共に時間を過ごす日もある。そんな日々は共存する。寂しさも孤独も喜びも体験する。人のこころは意外といろんなものに耐えうるらしい。耐え難く辛いとしても。

別れを決断する人たちとも多く会ってきた。彼らがそれを決めたときの表情や言葉。共通する静けさを思い出す。

フロイトとマルタは別れなかった。離婚という意味では。単純ではない繋がりとそれに対して持ち込まれた切断とそこから生じたさらなる繋がりとなどもはや「色々ある」「複雑だ」という以外に描写しようのない関係がそこにはあっただろう。外からは決してみえないものが。

私はいろんなことを複雑なものとして考え続け、躊躇いながら言葉にしていくことを続けていけるだろうか。たった一言に心揺さぶられてしまうのに。すぐにもういいやと思ってしまうのに。わからない。でもとりあえず、いつもとりあえずだ。

今日の百年後、一万年後のことはまるでわからないけれど何かは繋がっていってしまうのだろうからあまりおかしな部分(?)を残さないようにできることをやりましょうか。それぞれの1日をどうぞご無事で。

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精神分析、本

言える機会

空はグレーと水色のあいだ。グレーと水色なんてただでさえ間の色なのにさらに。間ってどこまでいってもあるのね。

コーヒーが熱い。冷房も入れたばかりだけど飲んだらすぐに汗になりそうな季節はもう過ぎたみたい。虫の声が朝の静けさを守ってる。蝉の声が世界をのっぺりと平板にしていくのとは違う。言葉にできないけどなんか違う。

この前、暮田さんとフェミニストの言葉について少し触れた時に竹村和子の『愛について』は精神分析の知識がないと難しくてとおっしゃっていた。そうなんだよね。でもあそこで想定されている精神分析の「目的」は大分古典的かつ一般的なフロイトに対するイメージであって誤解を招くと思う。私の場合、精神分析の本として読まないせいかそこを「わからない」とはならないかな。精神分析がこうやって捉えられがちなのはわかるけど違うよ、とは思うけど。でも著者はこの主張をするための補助線として精神分析をこう理解して使っているのかと仮固定の場と捉えて読む。

最近ますます複数のことを同時にできなくなっている。例えば今ならNetflix流しながらこうしているんだけど感覚が以前と大分異なる。注意の配分が自然にできなくなっている感じで指の動きとかにもたまに意識的になる必要があるくらい。次にやるべきこともルーティンなのに抜けている感じで時間感覚も鈍くなっているみたいだし。ほんと軽い認知症なのではと思うことが増えた。ただ記憶力は元々相当悪いし、注意力も子供の頃から注意されてばかりだからようやく自分の状態を正確に認識しつつあるだけかもしれないわね。あまり嬉しくないけど自分を知るってそういうことかもね(これ以上みたくないみたいから適当に終わらせようとしている気もするわね)。

あー。さっき書いた本の読み方もこういう適当に割り切ってしまうところが出ているのかもねえ。前提が正しくないのだからそこをどう読むかはもっと正確であるべきなのかもしれないけど。うーん。でもどこに時間をかけるかと言ったら精神分析そのものだからフロイトはもちろん主要な古典を精緻に読むことで暮田さんとのちょっとしたおしゃべりの時に「あれはちょっと違うの」と言えたみたいな関係を持つことが大切かもしれない。言えたのは嬉しかったな。そもそも読めなくても触れてないとその本の話が自然に出てくることはなかったから。

この前もね、とまたとめどなく書いてしまいそうだけどやめとこ。この日記ともいえない朝のこれはなんていうのかしら。もう90日続いてるって通知がきた。衰えゆく認知機能に対する無意識的抵抗かもしれない?「これをやっている今は朝だぞ」ってことを染み込ませているのかしら。そんなこといってないで仕事へいく準備をしましょう。余った時間は精神分析の文献を読みましょう。読みます。はい。

今日は東京は雨が少し降るみたい。少しであってほしいな。

週の真ん中、休みが遠く感じるかもだけどご無理なさらず。無理しなくてもいい環境づくりもしていきましょうかね、少しずつ。

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短詩 読書

暮田真名さんと川柳WSをした。

数年ぶりに最初の職場の先輩と会えた。コロナ禍で仕事がオンラインに切り替わる中、もう一人の先輩にzoomの使い方を教えるついでにおしゃべりして以来かな。LINEではたまにやりとりしてたけど。先輩たちの子供たちもおもしろかわいかったな、あの時。ちっちゃなときから知っているけど先輩たちが母親になってもずっと私の知っている彼らなままであることにいつもちょっと驚く。そして昨日もいつものままだった。飛びつくように再会を喜ぶ私にも普通にのんびり喜んでくれて日影茶屋の水ようかんをくれた。

8月14日は14時から16時まで川柳作家の暮田真名さんをお招きしてワークショップを行った。紀伊國屋の詩歌コーナーがある2階で待ち合わせをした。もちろん暮田さんの『ふりょの星』もある階。左右社から4、5、6月と3ヶ月連続で刊行された川柳本も相変わらず平積みされていた。こんなおしゃれな本たちが川柳の本であるとどのくらいの人が知っているのだろうか(知ってほしい)。

暮田真名『ふりょの星』平岡直子『『Ladies and』なかはられいこ『くちびるにウエハース』(いずれも左右社)

生まれてはじめて川柳と向き合う参加者のみなさんにとってサラリーマン川柳とは異なる川柳というものがこんな形で存在することがすでに驚きだったらしい。先輩は最初の感想で「それだけでもすごい収穫」といってくれた。これまでそうとしか思っていなかったものに別の世界があったという意外性との出会いに素直に感動する人なのだ、昔から。

サラリーマン川柳で名を馳せた人とかいるのかな、そういえば。あれは笑って流せる感じが「川柳」という言葉が持つ流れて消えていくイメージと響きあうことで世に広まったのかもしれないね。共有すべきはそれぞれの事情ではなく会社員で配偶者がいてこういうことを言っても崩れない程度の関係性をもった主に男性というなんとなくの前提。それを「川柳」という言葉のイメージ通り聞き流してきたのが私たち。それに対して「穿ち」「おかしみ」「軽み」に主観性と詩的要素が加わったその歴史の流れのなかで川柳観を育まれつつ実作しているのが暮田さんたち。(『はじめまして現代川柳』参照)。歴史認識のあるものとないものが同じ名前を持ってしまったこと、そして大抵の場合、歴史認識のないものの方が市井の人には広まりやすいことは現代川柳が詩性を兼ね備えたものとして読まれる機会を減らしたかも知れない。また、ちびまる子ちゃんの「友蔵こころの俳句」、それをもじった「〇〇こころの短歌」など「思い」発の言葉を定型に投げ込むことに馴染みがある私たちにとって「思い」ではなく「言葉」から書く(これも『はじめまして現代川柳』を参照)現代川柳の存在は遠かったのかもしれない。だから暮田さんがサラ川には登場しない私やあなたや彼らたちいろんなみんなの存在を思い出させたnoteの記事「#01 川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」も話題になったのだろう。先輩が「収穫」といったのももちろんこの視点の(再)獲得のことだと思う。

ワークショップでは『はじめまして現代川柳』の編著者小池正博さんの川柳を用いた穴埋めでいかに私たちが最初に浮かんだ言葉から離れられないか(全然それで構わないわけでもある)を知り、その広告が持つ意図をいかに台無しにするかという穴埋めではなかなか台無しにするのは難しい(意味の変更はできるが)ことを知り、生まれてはじめて川柳を作る時間ではわけわからないまま文字を組み合わせる自分と出会う体験をさせてもらった。やや混乱しながらも普段から逆転移としてそういった感触がどこから生じるのかにも注意が向いているみなさんなのでその言語化も興味深かった。こういうのをどう体験するかは当然自由で、正解のない世界に戸惑いを感じてもそのまんまでいいし、やりたくなければやらなくてもなんでもいい(与えられても拒否してもいいとは思いにくいかも知れないが拒否はいつでもしていい)。ただそのような感触も体験しないことには生じない。

私が多くの情報が流れるTLで暮田さんの講座名「あなたが誰でも構わない川柳入門」という言葉に目を止めたのも無理がない。一人の人に複数的なあり方を認め、その力動によって立ち現れる現象を言葉にしていく精神分析とそれが響きあったのだろう。それを単なるイメージで終わらせるのではなく、まだアカデミアの領域にはないとはいえ、そのサークルの中だけでなく積極的に外に作品を送り出している実作者から歴史認識とともに川柳を学び、体験できたことは貴重だった。

参加者のみなさんはそれぞれ初対面だったが別れがたく暮田さんを交えお茶をして帰った。よく笑いよく喋った。なんかいいことをした気分になった。暮田さん、松岡さん、参加者のみなさんのおかげ。どうもありがとうございました。

早朝に日影茶屋の水ようかんをいただいた。最高だった。逗子にも遊びにいくからね。また一緒に美術館とか海とかいこう。先輩ありがとー。

ちなみにおしゃれでかわいい暮田さんの写真はTwitterに載せました。

今週もあっついですよね、きっと。無事に過ごしましょうね。

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短詩 精神分析 読書

Z世代のうたい手たち

空が赤みがかって水色とピンクが混じり合う時間。今朝もまだ風が強い。昨日、新宿の上空に次々現れる飛行機を見上げながら見送った。いつの間にか月が大きく出ていた。近くの森でアブラゼミが鳴いている。ミンミンゼミが鳴き始める頃には出かけよう。

キャロル・キングの優しい歌声を流しながら先日読んだ『ユリイカ』2022年8月号

<今様のうたい手>
何万回でも光る遠吠え! 初谷むい
川柳のように 暮田真名

を思い出していた。オフィスに置いてきてしまったので見直せないが同世代の二人の文章にはしみじみ思うところがあった。1990年代後半、2000年手前に生まれた子供たちだった彼らは短歌と川柳の世界で早くも輝き始めている、と書きたいところだが彼らにそんな陳腐な言葉は似合わない。

彼らはその時代のその年齢らしい悩みを抱えながら生活する中で偶然出会ったものに素直に反応し自分の好きなことをやっていたら早くもその才能を見出されただけという感じで自然体であると同時に短歌にできること、川柳にできることをしっかり発信している職人であるようにみえる。愛想もあまりない感じなのになんだかかわいい。自分のあり方を模索し苦しそうな様子も見せるのに今回のような散文で見せるバランス感覚はこの世代独自のものと感じる。AI時代の彼らは人間そのものと塗れなくても寂しさや苦しさを癒す方法を知っているからだろうか。若い患者たちの世界にもそれを感じる。もちろん私の主観に過ぎないが、彼らの作品や文章はエネルギーはあるのにこちらを巻き込んでくる感じがない。私は見かけがいくらカッコよかったり素敵であったとしても人目を気にしすぎではと感じてしまうと冷めてしまう。自分がそういうのをめんどくさいと思っているから上手に受け取ることができないのだろう。器が小さい。一方、Z世代と呼ばれるらしい彼らは自分がどう見られるかよりも自分がいる世界のことを気にしていて、そことどう折り合いをつけたらいいのかナルシシズムと格闘するのではなく小さな無理を重ねては解消し少しずつ進む形で自分を大切にしているように感じる。今回掲載された散文は文体も雰囲気もだいぶ異なるが、壊しては出会う、生きてるってその繰り返しだ、ということを二人とも書いているように思った。その循環によって過剰な表現(=死に急ぐ可能性)は遠ざけられているのだと感じた。

イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは主体が空想できるようになり、生き残った対象を「使用」できるようになるプロセスをこんな風に表現した。

‘Hullo object!’ ‘I destroyed you.’ ‘I love you.’ ‘You have value for me because of your survival of my destruction of you.’ ‘While I am loving you I am all the time destroying you in (unconscious) fantasy.’ 

ーWinnicott, D. W. (1971)

6. The Use of an Object and Relating through Identifications. Playing and Reality 17:86-94

邦訳は『改訳 遊ぶことと現実』(岩崎学術出版社)「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」である。

「こんにちは、対象!」「私はあなたを破壊した。」「私はあなたを愛している。」「あなたは私の破壊を生き残ったから、私にとって価値があるんだ。」「私はあなたを愛しているあいだ、ずっとあなたを(無意識的)空想のなかで破壊している」と。

若い世代に自分たちの世代が負わせてしまったものを感じる。でもそれを生き抜く彼らのバランス感覚を頼もしくカッコいいとも感じる。あなたたちのために、なんて今更いうことはできない。ただ彼らの世代が「自分自分」とがんばらなくても大丈夫なようにできるだけ広く注意をはらいたい。早くもトップランナーになりつつある彼らはきっとそれに協力してくれるだろう。

「また会ったね」としぶとい自分に笑ってしまいながら卑屈にならずにいこう。といっても難しいから卑屈になっても壊れても回復しながらいこう。そういう力は強度の差はあるかもしれないが誰にでも備わっているはずだから。いいお天気。とりあえずカーテンを少しだけ開けるところから。

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短詩

言葉イベント

明日はこれ→https://aminooffice.wordpress.com/2022/06/30/【東京公認心理師協会地域交流イベント

誰かが何かを教えるわけではなく同じ職種の方々との交流の時間を持つ。テーマがあった方がよかろうというか、東京公認心理師協会の地域交流イベントはテーマ設定を求められているので「言葉」とざっくりしたものにした。元々は暮田真名さんを呼びたいというところから始まったが外部講師を呼ぶための謝礼も出してもらえないし、あくまで内側でというような感じだったので暮田さんをお呼びするのは私個人ですることにした。地域のNPOを長くやっていた私からしたら謝礼云々はともかく、外部に自然に開かれておけない状態自体、すでに交流を閉ざしていると考える。

関わりたい時に関わりたい部分だけに関わることを私たちは避けがたくしているわけだけどそこに意識的でないことが様々な傷つきを生じさせている気がする。今ではSNSがそれを巧みにできるツールだということは自分自身の体験を振り返れば大抵の人は思い当たるだろう。私は大いに思い当たるので使用の仕方には意識的な方だと思う。ただ、自分では気をつけても気をつけても難しいので使わないのが無難とも思っている。みる方としても随分気持ちに負荷がかかるのでなおさら自分がそれをしてしまっていないかを考える。

さて、今回は対面。協会の地域交流イベントに応募してみようと思ったのは私がSNSで公認心理師でポエトリーアーティストの松岡宮さんの活動を知り、オフィス見学をさせていただいたところからだった。私はプライベートプラクティスをメインの仕事にしているのでもはや時間がとれなくなってしまったが、松岡さんは私が昔から好んでやってきた活動を大田区の一軒家でやっていらして、しかもそこでご自身のCDや詩集も作られているとお聞きした。1時間ほど楽しくおしゃべりをして別れた。数週間後には松岡さんが私のオフィスに来てくれた。そこで協会から地域交流のパンフレットが来ていたと見せてもらった。私はまだそのお知らせの封を開けていなかったのだけどすぐに応募を決めた。松岡さんはオフィスで高次脳機能障害の方々のピアサポートを地道に行っている。このような場所を持つ人自体今は減っているし、行政との関わりを個人オフィスが維持しているのも貴重なことだ。このような活動はモデルになってくれるし根付かせていくことを彼女も望んでいたし、それを応援したかった。

それは単に以前の活動の代わりというわけではなく、現在も私は発達臨床の仕事を請け負う杉並区の社団法人に登録し行政から保育園巡回の仕事を委託されて行っている。なので私自身の職場環境を考える上でも重要だと感じた。行政の仕事でもっとも重要なのは予算を得ることだがその分野で経験を積んだ専門職で構成されている団体にお金を出すことの意義は年々認めてもらいにくくなっている。資格を持っていれば誰でも、ということでより安い給与で別の形式での雇用も始まった。非常勤の掛け持ちで生活をしている人の多い東京の心理職の職場は飽和状態なゆえ求人があるだけありがたいと感じる人だっている。それだけで生活はできないにも関わらず。この悪循環は心理職全体の問題だと思うが、杉並区の場合は新しい区長に期待したい。お役所を通すと何事にも時間がかかるが文句だけいってても仕方ない。

その点、松岡さんや私のように自分でオフィスをもち仕事をしているとフットワークは軽い。今回もほとんどノリでやっている。「あそぼー。」「いいよー。」という感じで。こういうのが大事だと私は思う。

今後、心理職が外に自然に開かれるために、という目標を掲げなくてもなんとなく繋がっておくことは災害時などにも役に立つ。そのためにまずは自分たちの文脈と相手の文脈がどう異なるかを意識化するために自分の発話、相手の受容と反応という繰り返しを辿ることからはじめてみるつもりだ。「はじめまして」なので素材があった方がやりやすいだろうということで3つの素材を考えた。タスクではないのでやらねばというものでもない。当日の変更も可能だ。一応松岡さんと話したことを私のメモとして書いておく。

素材は①それぞれの職場環境 ②女性性、男性性を語る言葉 ③川柳句集『ふりょの星』暮田真名(左右社)より「OD寿司」である。

文脈が異なるといえばすでに職場環境からしてそうだ。先述したように自分の仕事は働く場所によって大きく規定される。私たちが自己紹介をするときに自分の職場環境をどう表現するか、受け手はそれをどういう場所として受け取るか、自己紹介は通常は一方通行の発話だが録音したものを(余裕があればテキストにして)辿り直し、どの部分で何をどのように受け取ったかについて話し合う。みんな同じようで異なる前提のもとそれを解釈していると思うので小さな違いを楽しめたらいいと思う。

さらにせっかく中立性をあり方の基本とする心理職が集まるので分断の解消を目指す言葉がさらなる分断をうむ事態について話しあってみる。最近の事件で心理職全般への信頼度は下がっているかもしれないがそういう大雑把な括り方をされたくないなとも常々思うし、世間という受け取り手の特徴についても同時に考えられるだろう。

そして最後にそこまで丁寧にお互いの前提や文脈を確認してきた時間から言葉の意味を解体する時間にジャンプしたい。そのための素材が14日にワークショップを開いていただく川柳作家暮田真名さんの川柳句集『ふりょの星』に収められた現時点での暮田さんの代表連作「OD寿司」だ。

フロイトは圧縮と置き換えを夢解釈の技法とした。暮田さんの川柳は置き換えの機能を存分に発揮し、意味と言葉の繋がりはゆるゆるだ。一方、断言するような文体は、文法は間違っていないが自分の文脈仕様に単語の意味を変えて使うロボットの言葉を聞いているようでなんとなく説得されてしまう。煙に巻かれるのは楽しい。そこまで立ち上げてきた「共有」の空気を一度かき消しその遊びをすることで一緒に笑ったり考え込んだり意味ではなく体験の協働をする。

そしてお茶とお菓子をいただきながらこれらの体験を振り返る。そんな流れだ。7日に参加してくださった人にはぜひ14日もきていただきたいがお盆の時期で今年は帰省をするからいけない、残念、また絶対やって、という人が多く、一方でコロナ自粛をする人も重なった。当日はコロナ対策は十分にするが人数が少ないのは最大の対策だろうとも思う。なので少人数での開催もいいものだと思っているがいろんな人に暮田マジックともいえる言葉遊びを伝えたい気持ちもある。

一応ご案内はこちら。ご案内には有資格者限定と書いてしまったが、資格のあるなしに関わらずなんらかのケアを行っている方々はお気軽にお申し込みを。いろんな人の言葉との出会いを楽しみに。お楽しみに。

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精神分析、本

わからないから

8月14日のイベントにお招きする川柳作家の暮田真名さん、言葉といえば私的にはこの人たちである飯間浩明さん、川添愛さん、山本貴光さんの鼎談を目当てに『ユリイカ』2022年8月号(青土社)を買った。最初に読んだのは鈴木涼美「ギャル的批判能力は時代おくれなのか」、あと山本ぽてと「語尾とうしろめたさ」。お目当てから先に読むとは限らないのさ。この二人のも注目していたけれど。

鈴木涼美さんが「一億総ライター的なSNS社会」と書いている。確かに。でもSNSにいるのはほんの一部の人たちでもある。実際、私の周りはSNSのアカウントを持っていてもほとんど使っていないし、臨床心理士資格認定協会に対する働きかけを行う(返事はまだない)時にもそれを思い知らされた。今再び話題になっている宗教や宗教二世のこともSNSによってこれだけ公にされる時代になったことは驚きだが、臨床で地道にそれらと関わってきた身としてはそこで公にされることの意味や影響については日々考えさせられる。報道されることもそれはその人のあるいはその出来事の一面である可能性については当たり前と思っている。事件は一人では起こせないのだ。そして自分がそこにどのような形で関わっているか、いないかなは誰にもわからないのだ。もしかしたら自分のつぶやいた一言がなんらかの影響を与えていたらとか考えたらきりなく物事は繋がっていくがそれはあり得ないことでは決してないだろう。

社会運動の研究家の富永京子さんがSNSでのたやすい共感についてツイートしていたが確かにSNSにはなにも知らないのに口調だけみたら(SNSは視覚的だね)親しい間柄みたいなのもたくさんある。

千歳烏山の小さなアパートに住んでいた頃、夜男性の声で電話があった。寝ぼけていた私は誰だっけと思いながら知っている人と思って適当に返事をしていた。相手がそういう口調だったから。そのうちに相手が適当なお世辞を言って「ごめんね」と電話を切った。あれはなんだったんだろう。SNSで生じていることもそんなに変わらないだろう。そういうことがもっと簡単に、人から見える場で行われるところはだいぶ違うけど。

人には決して他人にはわからない、自分にもわからない領域がある。勝手に悔やまれたり悲しまれたり「共感」されることに激しい怒りを喚起されることもある。わかろうとすること自体が結構暴力的なのだ。土居健郎が「わかる」ことにこだわり、藤山直樹は土居が序文を書いた著書で事例によってその侵入性を示した。『精神分析という営み ー生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)の最初の症例がまさにそうだ。人は簡単ではない。わかること、わかられることに一面的な価値を与えることはできない。だからなにというわけではない。ただそうなんだと思いながら、その人自身にも触れられないこころの領域を想定してそれを尊重したい、そうしながらそばにいたいな、そうするしかないもんね、わからないから、と私は思うのだ。

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汗と涙と結膜下出血

結膜下出血と汗と涙について書こうと思ったのに、とか恨めしそうなことを書いてから約24時間。定点観測の番組があった。たまに見るそれが好きだったけど今もあるのかな。そこではある時間にはいろんな人が入れ替わり立ち替わり現れてある時間にはだーれもいなくてただ噴水だけが動いていたりしていつのまにかまたその縁に誰か座ってまたいなくなってというような変化があった。ここでの私はとっても単調。いるかいないかくらいの変化しかないかも。これを撮ってみたとして2日分くらいを見てもらったあと、何も言わずその中の5分とか10分とかを切り取って3日目として流したとしても何も気づかれないと思う。

土曜日、右目のはじに血溜まりが見えて驚いた。すぐに「またか」となった。またか、といってもあの人が候補生としてはじめてミーティングにきたとき以来だから数年ぶりか。はじめましてだったその人は医者だけど眼科医ではないから怖がらせてはいけないと思って前もって伝えた。だから覚えている。結膜下出血。「けつまくか」ときちんと打たずに音だけで「けつまっか」と打つと目の状態に近い感じに変換される。数日間かかるが放っておけばいつの間にか血は白目かどこかに吸収されていくのだが赤い目ってそれなりにインパクトがある。本人である私はトイレとかにいって鏡でも見ない限りは忘れている(何かの病気なわけではないとわかっているからというのもある)。昨日もトイレに立って鏡で思い出して席に戻って「目が赤いでしょ」と言ってみたものの「結膜下出血」というのを忘れてしまいとりあえず説明だけした。その人はそういうものがあることを知っていたようでこうやって説明しなくてはいけないのは大変だねというようなことを言ってくれた。そうなの。ありがとう。でもかかりつけ眼科医がいつもの豪快な笑顔と大きな声で心配いらないと説明をしてくれたのを思い出しながら言葉だけ繰り返せばいいだけでもある。安心とともに慣れてこられたのは幸運。もしこれに痛みが伴っていたらきっと慣れるのにはすごく時間がかかるだろう。慣れないってことだってありうる。

数年前、保育園の子が私の目を覗き込んで「金魚さんがいるね」とニコニコとした。時々しか訪問しない私に駆け寄ってくるタイプではないがはにかんだような笑顔でやってきてほかの子より長時間そばにいる子だった。これから先、また何回かこうなるかもしれないけどそのたびにきっと私はその子の笑顔と言葉に支えられる。昨日かけてもらった言葉を思い出す。

そうだ、昨日の朝はその前の数日間と比較すると少し気温が低くて汗ばむ感じがなかったように思ったのだ。そして歌謡曲を聞きながらコーヒーを飲んでいたので「珈琲は涙色」とか「涙味珈琲」とか思いうかべてコーヒーと涙はつくづく取り合わせが悪いななど思ったのだった。でも暮田真名さんの川柳「OD寿司」にある「良い寿司は関節がよく曲がるんだ」とかいわれると「そうなんだ」と納得せざるを得ない。取り合わせの問題ではないらしい。(参照「好書好日 暮田真名さんインタビュー」)

汗は生理現象、涙は心性に触発された身体現象。それらも目の中の血溜まりも私にはどうにもできない私の内側から染み出して張りついてくる。どれもポトンと落ちるなら拭き取ることができるかもしれない。目の中の金魚は再び内側に吸収されるのを待つしかない。言葉ってすごい。どうしようもないものやことにイメージを与え、時間的な見通しを与え、扱える形にしてくれる。いろんなことは一人ではどうにもできない。今ここで汗や涙や血の流れととともに体験する時間が誰かとの過去によってなんらかの未来へと継がれていく。語り継ぐなら痛みや焦りや恐れだけではなくそのときそこに共にいてくれた人のことも。そんなことを思った。

今日は月曜日。昨日と同じくらいの気温なら耐えられるかな。台風の地域のみなさんもどうぞご安全に。

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短詩 読書

はじめまして川柳

来月8月14日(日)午後、暮田真名さんをお迎えしてワークショップをおこないます。暮田さんにはすでにたくさんのキャッチーな修飾語がついていて、私もあえていろんな言葉で暮田さんを紹介してきました。でも多分どれもあっていてどれもちょっと違う感じがするのです。一番シンプルにいえば「暮田真名さんは20代で、川柳を書く人です」となるでしょうか。

暮田さんのこれまでとこれからについてはご本人がnoteにシンプルにまとめておられるのでそちらをご覧いただくのが一番いいかもしれないです。

暮田真名の活動と制作物、やってみたいお仕事

以前に書きましたが私が暮田さんを知ったのは俳句仲間の友人のお宅で彼女と1歳になる娘さんと楽しすぎる時間を過ごした帰りの電車でした。流し見していたSNSでふと「あなたが誰でもかまわない川柳入門」という文字が目に留まりました。「あなたが誰でもかまわない」って今思うと攻めた言葉とでもいうのでしょうか。とても今っぽいともいえる。それこそSNS的な。でもそのときの私は俳句の話をいっぱいしたあとだったせいかその何も求められていない感じに惹かれ俳句だって入門だけしてぼんやりしているのについ申し込んでしまったのです。知らない世界に飛び込むときの私はいつもそんな感じだなと思います。

時間的にアーカイブで視聴するしかなかったのですが暮田さんの導入を素晴らしいと思いました。今思えばそこにも結構とんがった感じの話が混ざっていたように思うのです。でもそんなことを思ったのも暮田さんがまだ若い方だと思ったのも後からでした。もちろんお顔も見えているわけなのでその若さを認識はしていましたし、とてもパーソナルな自己紹介でもあったのですが、そんなことはどうでもいいというか「あなたが誰でもかまわない」というのは受講する側である私が持つものでもあったようなのです。

だから暮田さんをどう修飾しようとどれもあっているようでどれもちょっと違う感じがしてしまう。そして多分それは川柳の特徴でもあり、普通に考えれば人ってそういうものでしょう、ということでもあるかもしれない。私は暮田さんの講義を聞いて、川柳ってどこに出かけなくても何も持っていなくてもぼんやり寝転がって天井を眺めたままでもできてしまうことを知りました。また、川柳って好き嫌いの対象にはなっても良い悪いという評価の対象にはなり得ない性質を持っているらしいということも学びました。

暮田さんが4月に出された『ふりょの星』も書名からしてそれが何とは同定しにくいですものね。アイデンティティってなんでしょう。暮田さんを通じて幸せな「はじめまして」を川柳にしたもののまたぼんやりしていますが、その魅力を少しずつ感じられるようになっている気はします。

例えば昨日あげた左右社から4月5月6月と3ヶ月連続で出版された3冊の川柳句集もそうですし、暮田さんが講座の中で入門書として紹介してくれた小池正博編書『はじめまして現代川柳』なんて装幀も内容も最高の入門書だと思います。俳句にも様々な入門書やガイドブックがありますが私にはどれも少しずつ過剰に思えてしまう。一方『はじめまして現代川柳』は昭和の歌番組(「ザ・ベストテン」とか)のように説明は最小限、作品重視という感じの作りで息抜きしながら学べてしまいます。そういえば「あなたが誰でもかまわない」って昭和の歌謡曲っぽくないですか。私はそこに惹かれてしまったのかもしれない、時代的に。

もう行かなくては。また別の本のことも思い浮かんだからそのことも合わせて明日書くかな。とりあえず今日も暑そう。どうぞお気をつけて。

ちなみに「あなたが誰でもかまわない川柳入門」第二期はこちら。暮田さんの「授業概要」読み応えありますよ。

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俳句 短詩

誰川

依存というのは応える人がいるから成立する。それを「依存」に変えるのは受け手であり、自由度を狭めていくのは両者。

身内に誘われ句会にでたとき斜め前に座っていた人の句がいちいち素敵でファンになった。その後仲良くなってこの前ももうすぐ1歳になる子と遊びつつたくさん話をした。

コロナ以前に私が立ち上げた小さなネット句会の「談話室」でその人が俳人津川絵理子さんのファンなんだと書いていて、そーなんだ!と思って私も句集を買ってみた。私は結社には入っているが結社誌と毎月のこのネット句会で締め切り直前に句を作るだけなので全く上達しない。仲間たちの情熱になんだか申し訳なく感じることもあるが彼らとおしゃべりするのは楽しいし、この句が好き!と感じるのにはなんの努力もいらない。好きな句はたくさんある。曖昧にしか記憶できなくても特に問題ない。

それにしても鳥たちが元気。おはよー。お互い早起きだね。

とても楽しいおしゃべりを終えて仕事に戻る電車でぼんやりSNSを眺めていると「あなたが誰でもかまわない川柳入門」という文字を見つけた。「あなたが誰でもかまわない」というので申し込んでみた。こういうノリは久しぶりだ。

私はまぁもろもろなんだっていいのではないか、ある程度のルールを守って楽しくやれれば、と思っているので俳句界に限らず人間関係の「濃さ」を感じる場所は排他的なものを感じてしまうことがある。まだ若い人たちが他人に「才能」を見出したり見出されたりしていろんな感じになっているのを見るとなおさら大変そうだなぁとなる。それだけで食べているわけでもないのにそんな使命感やマッチョ感は必要なのか、いやそういうのが好きなのか。というか使命感とマッチョ感(という言葉はないか)を一緒にしてはだめか。とにかく過剰さを感じることがある。言葉が本当に豊かな人たちの集団なので過剰なのは言葉だけなのかもしれないが。その人とも「そういうのは私はいいかな」と話した帰り道だった。こういうのは肌感覚というか生き方というか個人的な好みのようなものにすぎないが判断や選択には影響を及ぼす。

私の好きなその人の句は何かや誰かに依存的な感じがしない。使命感も義務感もなんかアツいものがない。ただポンッと場面や景色が置かれているだけ。シンプルでわかりやすく受け手に特に何も求めてない。賞をとったりもするわけだからそのあり方で十分人のこころをつかむのだろう。

「あなたが誰でもかまわない川柳入門」、川柳のことも講師のことも何も知らなかったが俳句を相対化してみたかったのかもしれない。相対化できるほど知らないので違和感を少し明らかにしたかったのかもしれない。

講師は暮田真名さん、後から知ったのだがZ世代のトップランナーと言われている柳人だ。Z世代というもの自体よくわかっていなかったし、時間的にアーカイブで受講するしかなかったのだが、導入ですでに「この人すごいな」と思った。私の好きなその人と似た雰囲気を感じた。

ということで仕事をせねば、だからまたいずれ。

暮田さんの講義の課題提出率の高さにスタッフの方も驚いていたが、あの講義ならそうだろう、と思う。本当にこちらが誰でも構わないのだ。何も求められていないのだ。ここには逆説がある。

が、またいずれ。良い連休でありますように。